ガラテヤ人への手紙 5:22-23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 マルコの福音書 3:1-6 主イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々は主イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。主イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、主イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにして主イエスを殺そうかと相談し始めた。 今日は「善意」について話します。ご存知のように、日本語の言葉の概念は、英語やフランス語、ドイツ語などにうまく翻訳されないことがあります。私はしばしば、「もったいない」という言葉を説明するのが難しいと感じています。簡単に言えば、それは「無駄にするな」という意味です。しかし、「もったいない」は、もっと、つまり何か消失することで生じる人の気持ちや感覚を表しているのです。今日は、ヘブライ語の“Tov”で「良い」または「善意」という言葉に焦点を当てます。「良い・善意」という言葉、聖書で「良い」という言葉を読むとき、翻訳がうまくはまらないことがあります。なぜなら、それはそこそこ普通より良くて、それは偉大だと同じくらいの意味を持ち合わせるからです。私達は、「あなたの誠実さは普通だOkay is your Faithfulness」とか、「あなたの誠実は良いものだGood is your Faithfulness」とは歌いませんよね。そうではなく「あなたの誠実さは偉大で素晴らしいです。」です。ヘブル語的にも、文化的にも、神様との関係性においてに「良い」は適切な翻訳ではありません。なぜなら、単に「Tov」という言葉やギリシャ語の「Agathosune」という言葉を「良い」や「善意」と訳すだけでは、マタイ19章で主イエスが裕福な若者に「良き先生」と呼ばれたとき、なぜ主イエスが怒ったのかが理解できないからです。それでは意味が通じません。それは先生に対する礼儀正しい呼び方のように思えます。私を良い説教者や牧師と呼んでくれるなら、それは褒め言葉として受け取ります。しかし、主イエスやその周りの人々は、その言葉「良い」が「まあまあ普通」と「偉大」以上を意味することを知っています。それは聖なること、完全で欠点のないこと、または完璧なことを意味します。主イエスは、使徒達にすぐれた指導者として、適した言葉を身につけさせる意図がありました。主イエスは聖なるお方なのだから、主イエスを「良き先生」と呼ぶのは適切であると言うかもしれません。主イエスが主であり、救い主であることが私達に分からないのなら、「良き先生Tov Rabbi」と呼ぶことは不適切なのです。主イエスがあなたにとって主であり救い主でなければ、「キリスト」と呼ぶべきではありません。キリストは主イエスの姓ではなく、主イエスが誰であるか、どのように見られているかを認知する言葉です。それは単なる言葉ですが、主イエスは言葉にこだわり、言葉を重視しているのです。 創世記1章では、すべての創造が展開します。三位一体である神様による驚くべき啓示なのです(創世記1:26)。「われわれの似姿に人を造ろう」。すべてが創造された後、神様はそれを「良い」と呼びます。またはそれは完全で完璧です。生物学的に不思議な自己維持型の創造であり、神様はその創造を評価し、それが完璧であることをご存じです。興味深いことに、最初の人間アダムは完全な環境下に置かれ、罪を犯し、園から追放されました。 私達の主イエス・キリスト、第二のアダムは、堕落した世界に置かれ、世界を贖いました。心理学者(私の父もそうです)は、自然と育成の議論をします。両方が重要です。環境は重要ですが、私達は環境でだけで定義されるわけではありません。私達は神様からの助けと、神様に自分を明け渡して従い、聖霊の導きによって、その環境を克服することができます。神様は世界を生命維持に適した状態を整え、それを豊かに維持できるように造りました。私は駄目な説教をするかもしれません。私は平凡な日を送るかもしれません。他の人とのコミュニケーションがうまくいかないかもしれませんが、神様はゴミを造りません。神様はがらくたを造りません。 神様は世界を造り、それを良いと呼び、私達にただその被造物を大切にするように求めただけです。正直に言って、大切に被造物の世話をするという私達の任務はかなりひどい状況になっています。神様は完璧にバランスの取れた生命体を造りました。その生命体は太陽の周りを移動し、ちょうど適切な距離に位置し、完璧な傾斜を持って生命を維持しています。神様は私達を自分の似姿に造り、私達を良いと宣言しました。私の人生で、体の問題を抱えている人々に何人か出会いました。彼らは鏡を見て、神様の子であるのに(彼らはそうです)、自分を出来損ないと見ています。私自身5年前にその問題に直面しました。健康的な生活にはあまりにも体重が増えました。私は太ってしまい、アスレチックなことをするのをやめてしまいました。毎日の終わりには疲れ果てているのです。しかし、それが最も鮮明に現れたのは、私が写っている写真を見たときでした。自分の写真が嫌いでした。特に、私が楽しい時間を過ごしている写真を見ると、その写真を見て、家族や友人との良い経験を思い出す代わりに、この太った男を見て、恥ずかしく感じました。これは私の友人Jess Engleの写真で、彼の娘がたまにKUCに来ています。そんな時、私は神様に愛されていることを思い起こす必要がありました。 私が罪人であることを知っています。あなたもそうです。しかし、神様は私達を非常に愛してくださるので、その独り子である御子を送ってくださいました。私が130kgをはるかに超えていても、神様はがらくたを造っていません。 時には、私達は個人的、あるいは社会的な居場所や、気持ち、また霊的に達成したい場に身を置くために人生を変える行動をしなければなりません。そこに積極的に乗り出してくなら、我々の神様は私達に出会ってくださるのです。神様は私達が住むための完璧にバランスの取れた世界を造りました。私達はこの良い世界を台無しにしてしまったので、たくさんの悔い改めが必要です。詩編103は神様の良さを示しています。「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」今日、回復ではなく処罰に重点を置くグループがいます。もしあなたが間違いを犯したなら、もし先祖が間違いを犯したなら、彼らはあなたを告発し、沈黙させ、または亡き者にしようとします。それは罰であり、贖いや赦しの機会もありません。それは残酷なことです。 パウロがヘブル人への手紙 12:10-11で言います。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」 神様は喜んで私達を鍛えて正してくださるのです、そのような神様を礼拝できることに感謝します。神様が私達を鍛えるのは、私達の益、良いためにです。その目的は、鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるためなのです。しつけと言いながら罰を与える人々には本当に気をつけてください。鍛錬の目的は常に善であり、罰ではありません。問題は神様の善にあるのではなく、(神様が私達をしつける場合でも)私達がその善を受け入れる意思があるかどうかです。 主イエスがダマスコへの道でサウロに出会ったとき、主イエスは言いました。『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけるのは、あなたには痛い。』 主イエスは、彼の羊を傷つける人々を神様への個人的な冒涜として見ています。「なぜわたしを迫害するのか。」主イエスは、神様を傷つけるよりもそれがあなたとあなた自身の心を傷つけていることをご存じです。とげの付いた棒とは、畑仕事をする牛やロバが主人の指示に従うように訓練するための棒のことです。これは動物を守るためであると同時に、動物の役に立ちます。動物が反抗して蹴りを入れると棒にぶつかり、その痛みのために素早くにそのようなことをしないように学習するのです。 医者の所に言ったある人のことを聞いたでしょう。その人は医者に「手を伸ばして背中に回して、できるだけ手を下げると、首に痛みが走るんです。どうしたらいいのでしょう。」 医者はしばし考えて言いました。「それじゃ、それをしなければいいんじゃないですか。」 あなたにとってのとげの付いた棒は何か分かっているでしょう。その棒を蹴り上げるのを止めましょう。動物でさえ賢く学習するのに、私達人間は時に愚かでいつかうまくいくんじゃないかと、馬鹿げたことを何度も繰り返すことがあります。それは止めましょう。神様の善意を拒絶するということは、私達がとげの付いた棒を蹴っていることにほかなりません。神様を傷つけているのではなく、自らの痛みと失望を引き起こしているだけです。 詩編34:9「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」申命記30:15に似た記述があり、モーセは人々に助言します。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」 神戸ビーフステーキとマクドナルドのハッピーミール、どちらにするという簡単な選択のようです。神様の善を選ぶことは、「命と幸いを選びなさい」と言うことです。しかし、死は簡単です。あなたはまったく努力しなくても、そのまま長い坂道を滑り降り、底に落ちるだけです。生活は難しいです。そして良いことを選び続けるには努力を要します。 私達、キリスト信者は、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神様、主を愛し、隣人を自分自身のように愛することは努力するに値すると言い続ける者だと思います。それは良いことです。神様の善を求める中で、神様は私達にその善を満たしてくださいます。それは美味しい味です。「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。」 祈りましょう。 天のお父様、私達はあなたの善意の啓示に感謝します。私達に真の善意はあなただけから生じていることを分からせてください。私達の心を変え、あなたの善意を周りの世界に反映させる力を与えてください。主イエスの名において祈ります。 アーメン。
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もし80年代に育ったなら、このフレーズを覚えているでしょう。「親切心を持って、巻き戻してください。」今では時代遅れになってしまい、20代の人々、たぶん30代の人々には知らない人もいるかもしれませんが、すべてのビデオレンタル店に、この標語が掲示されていたことがありました。
もちろん、レンタルして視聴したビデオを巻き戻す必要はありませんでした。巻き戻したらお金を返してもらったり、しなかった場合に追加料金を支払ったりする必要はありませんでしたが、ビデオショップは、「親切心を持って、巻き戻してください」という標語で、人が持つ優しい心に訴えかけようとしました。 以前、この標語に関する研究結果を見る機会がありました。その研究では、標語が見やすい場所に掲示されていると、レンタルビデオを返却する際に巻き戻す人々が、標語を掲示していない店に比べて20%多いことがわかりました。 世の中には、一定数厄介な人たちがいます。電車の優先座席に座って、年配の人が乗ってきたときに眠っているふりをする人々がいます。こういった人たちが厄介者だという事は、皆さんも同じように感じていらっしゃると思います。 しかし、ほとんどの人々は、70%、80%、90%、あるいはそれ以上であるかどうかはわかりませんが、他人に対して優しくありたいと思っています。ただ、常に、親切な心を持つことを思い出してもらう必要があります。今日、ここで皆さまへのリマインダーとしてお伝えします。「皆さん、親切心・優しい心を持ってお互い接しましょう。」 Amazonがガラス入りの商品やその他の壊れやすい商品を配送するとき、「取り扱い注意」と明記して、配送します。人間同士も同じです。たまに明記されていることを忘れてしまうのですが、私たち自身も壊れやすいので、お互いに思いやりをもって接してください。 親切は、霊の結ぶ実の一部です。それは神を形作る一部です。私たちは神を威厳的で力強いと思っていますが、神の慈悲と親切な心を忘れてはいけません。そうでないと、神を怒りの支配者と見誤ってしまいます。詩篇23篇には、こう書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ…」神は愛と善良だけでなく、親切の精神を体現しているのです。 一部の人々は優しさを弱さと見なしています。特に若い男性は、弱いと見られることを恐れ、優しくなることを避けますが、宇宙にはヤハウェよりも偉大な力はありません。それでも、ヤハウェは親切で優しいのです。親切心とは相手のことを心の底から考えてあげることです。ケーキそのものではなく、ケーキのアイシング(ケーキを彩るクリームや飾り)が、ケーキを美しく際立たせるのです。 相手のことを心から思ってあげることは、愛、喜び、平和、忍耐、善良のように聖書で明確に言及されているわけではありませんが、どんな人間社会においても、相手を思って行動することは、全ての基本となります。親切でない人々と一緒に暮らし、交流し、働き、教会に行くことは、とても辛いです。 かつて私は横浜の学校で働いたことがありましたが、そこの教師たちはお互いに対し、親切ではありませんでした。彼らは賢くて働き者であり、生徒を大事にしていたと思いますが、お互いに親切心を持って接することをしませんでした。職務内容にそういった明記がなかったのかもしれませんが、入れておくべきだと思ったほどです。誰の人生の、どんなステージにあっても、「お互い親切心を持って接する」ということは、覚えておくべきです。その学校は給料がよかったのですが、そこで働くのは辛かったので、1年間勤めて辞めました。 ある無人島で遭難した男性の話があります。数年後、通りかかった船が彼を見つけ、救助しました。船が岸に到着すると、男は言いました。「来てくれてありがとうございます。」そして尋ねました。「何年間もコーラを飲みたいのですが、コーラはありますか?」コーラを手にした後、救助者は浜辺に3つの建物を見つけ、男に尋ねました。すると男は「最初の場所は私の家です。」彼らは「いいですね。」と答えました。そして彼は2番目の建物について聞きました。すると、男は「こちらは私が神を礼拝する場所です。」彼らは「いいですね。」と返しました。最後に、3つ目の建物について聞いた時に、男は、「その場所について話したくないですが、以前通っていた教会です。一度も親切にされたことはありませんでした。」 これは冗談ですが、教会を去っていく人々は常にいます。別の教会を見つけて、そちらに行ってしまう人がいる一方で、多くの人は、単純に教会に行かなくなります。教会から人が去ってしまう理由は様々です。説教者が気に入らない、音楽が気に入らない、しかし多くの人は、親切にされないがために、自分がその教会に属している感覚が薄く、そのまま去ってしまうのです。これは牧師の責任ではなく、それは会衆の問題です。 YouTubeで効率的に企業を改善させるコンサルタントを見ていました。彼は有名な企業や組織と協力して、仕事を効果化したり、短時間でより多くのことを成し遂げるようにしたりしています。簡単に言えば、もっと多くのことを成し遂げることができれば、もっと多くのお金を稼ぐことができます。(それが私たちの目標ではないですが、効率化を図ることは悪いことではありません。)そのコンサルタントは組織をより効果的にするためのさまざまなアイデアを持っていますが、私が驚いたのは、お互いに親切で肯定的であることについて話したときでした。「人を叱咤し、人を動かすことはできます」と彼は言いました。私の場合だと、学生に勉強を促すために、一時的には叱ることが出来ますが、(学生もその叱りに慣れてくるので)その声がどんどん大きくなり、最終的にはもう叫ぶことが出来なくなります。そのコンサルタントは、「長期的には、叱り・怒りは通用しません。とても非効率な方法なのです。組織をより機能的に効率的に動かすには、思いやりが必要です。」才能の維持だけでなく、実際に物事をスムーズに、そして、きちんと行うには、お互いの思いやりが必要だと言っていました。 私が、YouTubeの影響で教会に新しい時代の風を吹き込んでいると思わないでください。イエスが山上の垂訓(マタイによる福音書7:12)で、旧約聖書の法を要約しながら言われたことです。私の聖書には旧約聖書が680ページ以上あり、ここでイエスはそれを簡潔に表現しています。私たちはこれを「黄金律」と呼びます。素晴らしいものなので、「黄金」と呼ばれています。イエスは単純かつ深遠に、「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」と言っています。大切なのでもう一度言います。「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」不思議なことに、私はTEDトークで黄金律を目にすることのほうが多いと感じます。実際、説教があったかどうかさえ覚えていません。もちろん、私たちは孔子の教えが「自分にされたくないことを他人にするな」と言っているのも知っています。それも悪くありませんが、大きな違いは、孔子は私たちの負の行動を制限するように指示しているのに対し、イエスは私たちに行動を呼びかけています。イエスは否定的なことをしないようにというのではなく、他人を肯定したり褒めたりするように呼びかけています。他人に自分のことを中傷されるのが嫌なら、他人に中傷しないようにしなさい、というのではなく、イエスは中傷しない代わりに、他人を肯定し、励まし、ケアするように私たちを呼びかけています。 人々が親切であり、お互いを励ましあうというのは、興味深いと感じます。最近、より多くの人が私に褒め言葉をくれますが、すぐに「しかし」と続きます。3週間前、言われた言葉は、「今日の説教は良かったですが、...」であったり、「EKKのために教会を時間通りに終わらせてくれてありがとう、しかし...」こういったご意見は正直かつ率直で受け止めます。ただ、本当に言いたい言葉は、褒め言葉でないことが分かります。 私自身(きっと他の方も)も「今日の説教は素晴らしかった!」と自画自賛しません。でも、褒め言葉の後にすぐ「しかし」が来るのは、本当の褒め言葉ではなく、実際には、相手への苦情や攻撃として使われることがあるからです。相手が褒め言葉で良い気分になった直後に「しかし」が来るので、より印象が悪いです。だから、何か私に対して言いたいことがある時は、褒め言葉は必要ありません、率直に問題を伝えてください。 私の説教を数週間聞いてくださっていたら、分かると思いますが、私は説教を様々な物語で終わらすことが好きです。先週は忍耐の物語があり、ある友人が夫のために絶え間なく祈る話でした。2週間前には、洞窟の中のエリヤの物語を語り、3週間前にはボンヘッファー牧師について話しました。今日は私たちの主について話したいと思います。親切は大きなことではなく、実際には小さなことですが、小さな親切の心が私たちにこの世界で生きていく意味を見出してくれるのです。 イエスがその活動を始めたとき、彼はある結婚式に招かれました。ユダヤの結婚式は音楽、食べ物、踊り、笑い、飲み物で祝われる大イベントです。それは1日だけのものではなく、時に数日続きます。結婚式のために、現代と同じように、人々はこういったイベントのために貯金をします。結婚式が上手くいくことが、幸せな結婚生活の保証ではありませんが、イエスの時代も現代と同じく、結婚式が上手くいかないと、それは不幸な結婚の前兆とみなされていました。この結婚式にはイエスの母(マリア)が深く関わっていたことが分かっています(マリアの親戚か友人である可能性)。結婚式の合間に、マリアはパーティーのワインが切れかかっていることを知ります。それはワインであり、ブドウジュースではありませんでした(何年か前に、ある説教者が15分間ほどワインは教会で許可されていないので、それはワインではなかった可能性があると説明していたことがありました)。マリアはワインが切れかかっていることをイエスに伝えます。「もうワインがなくなった。」これは世の中の問題の中で大したことではありませんが、それでもマリアはイエスに行きます。皆さんは、大きな問題だけでなく、小さな問題を抱えていたとしても、イエスのもとへ行けることを知っていますか?イエスは母親に、こう返答します。(この女性が誰であるかを覚えていますか?これはマリア、聖マリアです)「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」(イエスを何者か理解していますか? マリアも理解しています)。そして彼は続けて、「わたしの時はまだ来ていません。」と言います。それにもかかわらず、マリアは息子の大きな優しい心を知っているので、働いている人々に告げます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」イエスは礼拝用の大きな壺を満たすようにし、その後、結婚式の主催者に壺から出てきたワインを試飲してもらうように伝えました(結婚式の主催者は、ゲストに提供される全てのものを最初に試食・試飲する必要があったからです)。 水が入った壺からワインが出てきていたのです。ただのワインではなく、これまでに飲んだ中で最もおいしいワインでした。主催者はこのワインがどこから来たのかさえ知らず、働いている人たちは、その真実を隠すようにイエスから伝えられていたので、主催者には伝えられませんでした。「左手がしていることを右手に知られてはいけない」というイエスの教えは、献金だけでなく親切行為についても実践されています。「そうすれば、あなたの行動を見ている天の父が、あなたを祝福なさる」。イエスは水をワインに変える必要はなかったのですが、イエス自身が言ったように、彼がその「出番を待つ」としてしまったら、結婚式という大切な時を台無しにしてしまったかもしれません。しかし、主は親切なことを行いました。私たちにも出来るでしょうか? このワインの話は、確かに奇跡ですが、盲目の人を見えるようにしたり、らい病者を治したりするような大きな奇跡ではなかったです。しかし、主の最初の奇跡は、他者に対する親切心から行われたものでした。私たちにも同じように小さなことからでも、親切を相手に届けることはできるのではないでしょうか? 祈りましょう 聖書
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23) しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31) わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11) 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人6:9) 説教 さてキリスト者でない人は、今日のメッセージをおかしなものと感じるかもしれません。 では、曲を聴いてみましょう。これはクリスチャンの歌ではありませんが、今日お話しする忍耐について、世の中の人がどのように見ているかがわかります。(クイーンの「アイ・ウォント・イット・オール」の曲の歌詞、「全てが欲しい、全てが、今」)。 世の中がなぜそれほど不満でいっぱいなのでしょうか。「全てが欲しい、全てが、今」という歌詞は、まるで2歳の子がかんしゃくを起こしているかのようです。とはいうものの、私は待つのが苦手です。素早いサービスが好きです。90年代のパソコンのインターネット接続時のうるさい音を覚えている人も多いでしょう。(その音を再生) 誰でも待つのは好きではありません。しかしパウロは、「忍耐(寛容)」は御霊の実の一部であるとはっきりと述べています。パウロは、神に選ばれた民(私たちもそうです)、神に愛されている民について語るとき、思いやり、親切、謙遜、やさしさ、忍耐を身に着けるように求めています。忍耐(寛容)は御霊の実の中でトップ4に入り、平安の次にあります。 忍耐の反対は、いら立ちです。世の中が自分の望むように回らないときに湧き上がる我慢できない感情です。私が一番我慢できない人間は自分自身です。(マークもそうでしょう)。周りの世界に対する不満がいら立ちになります。世の中がどのように機能しているかに対する不満です。2週間前に話した「喜び」とは、周囲の人によいものをもたらす清らかな湧き水のようなものです。「いら立ち」とは、汚水やごみをまき散らす下水道のようなものです。人は自分自身に我慢できないとき、自分の心に汚いごみをまき散らします。Ⅱコリント19章で「聖霊の神殿」と呼ぶ身体を、汚してしまうのです。 私にとって一番我慢できないことは、自分の予定が時間通りに進まないときです。夜更かしをして翌朝寝坊し、あわてて出勤すると、まるですべてが赤信号になったかのように感じます。悪いのは自分だとわかっていても、世の中にいらいらしてしまいます。 いら立ち、特に長期間のいら立ちは、神を批判していることになります。自分の欲しいもの、必要なもの、願望、時間が思うようにならないとき、神が世界をうまく統制していないせいだと責め、神に「もっとちゃんとやってよ」と言っているようなものです。忍耐の実を育てていかないと、こういうことが起こります。 一方、忍耐は、神との信頼と希望に満ちた関係に根ざしています。神の時間に信を置き、自分の都合や時間ではありません。 モーセは忍耐を学ばなければなりませんでした。エジプト人の監視を殺害したことでエジプトを逃れ、砂漠で40年羊飼いをしなければなりませんでした。忍耐を学ぶのに40年は長い時間です。彼の忍耐は、燃える柴の茂みで神に出会うまで続きました。神は、モーセを「全てが欲しい、全てが、今」という気持ちから解放されました。なぜ神はそれほど長い期間待たせたのでしょうか。モーセは指導者として準備ができていなかったのでしょうか。民の側が、導いてもらう準備ができていなかったのでしょうか。私たちにはわかりません。わかるのは、神がモーセを何十年も静かな場所に身を引かせ、神の言葉や御業がわかるようモーセの耳と目を開かせたことです。 数年前、ブルース牧師が教会を去った後、牧師職の面接の機会が私には来ませんでした。私は傷つき、それがどういうことかを考えて苦しみました。長野の別荘小屋に行き、どういうことかわかるよう祈りました。神が私に言われたのは、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」というエレミヤ29:11の言葉でした。神は私のための計画を持っておられ、私は主を待ち望むことを学ばなければならないとわかりました。その後サポート牧師としてここで働くことになるとは思ってもみませんでしたが、神が私のための計画を持っておられるのは知っていました。 神はみなさんそれぞれに計画を持っておられ、たとえ困難に出会うとしても、神のご計画はわざわいをもたらすものではありません。希望と未来をもたらすものです。使徒パウロは言っています。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。ですから夏が終わった後どうするつもりか尋ねられたら「わからないけれど、今日するべきことはわかっている」と私は答えるでしょう。 こう考えてみてはどうでしょう。神はすばらしいことを用意してくださっている。それは人間関係、社会的地位、職業、または神に奉仕する仕事かもしれません。その代価として神が私たちに求められるのは、時期が来るまで待つということです。それでも、待つのはいやなものです。そして主を待ち望むのは、病院の待合室でスマホの電池切れで何もすることがなく、ただひたすら順番を待つのと同じような煉獄だと勘違いする人がいます。それは忍耐ではありません。そんな風に待っていては、あなたにとっての柴の茂みが燃えた時、間に合いません。忍耐に対する考え方を変えてください。忍耐とはただ時間を潰して待っているような受け身のものではありません。神の愛と希望と喜びを体現する器としてのあなた自身を形作るための、最も生産的な時間であるべきです。 待つとは準備の期間です。パウロはダマスコの道でキリストに出会った後、すぐに説教を始めたわけではありません。ペテロと弟子たちは、使徒になる準備が整うまで3年間訓練を受けました。イエスでさえ待ちました。神殿にいた12歳のときから、自分が誰であるかを知っていました。彼は完全に神の御子でした。しかし18年間御父の定めた時機を待ちました。それは3年間の伝道のためであり、十字架上での3時間のためでした。これらは「全てを欲しがり、今すぐ欲しい」とは違います。もし、全部ほしい、今すぐほしいと思うなら、結局その人は何も手に入らないと断言できます。 アメリカで巨額の宝くじに当たった人のほとんどは、わずか数年で全てを失います。自分を蝕んでしまう富に備えていなかったからです。成功するのに必要なスキルを習得するため、待たなければならない人もいます。感情を成熟させる時間が必要な人もいます。こういった人は主において成長する必要があります。恵みにおいて成長し、慈悲において成長し、知恵において成長する必要があります。 以前、急いでケーキを焼こうとして失敗したことがあります。200度で20分焼くところを400度で10分にしました。ケーキは外側が焦げて中が生焼けでした。物事には時間がかかります。数字の計算上は正解でしたが、ケーキを焼くにはうまくいきませんでした。 他の人にとって、待つことは大事なことではありません。待つことは、主に導かれる人や計画にとって大事な事です。子どもの頃、かくれんぼで、こちらが隠れる場所を見つける前に、鬼になった子どもが探し始めることがあります。神が用意されたリーダーシップの地位にスキル面でも感情面でも準備ができていても、その人に従う人々も準備ができていなければなりません。家を整える人が誰なのか私にはわかりません。 主よ、主が私に地位を与えてくださる前に、私はスキルを向上させる必要がありますか。主よ、私は態度や行いを改善する必要がありますか。主よ、主がイスラエルの民に約束の地を用意されたように、私が入る前に私の地位を用意されますか。私に主の答えはありません。ただ待つ必要があるときには、私はひざまずいて待つことで答を得られるのだと知っています。 モーセは自分自身に取り組み、神は民のために難しい仕事をされました。神はその民を頑固で強情な民と呼びました。これは私の言葉ではなく、神の言葉です。モーセは主の力強い御手によって、民を率いて紅海の水を渡り、ヨルダン川まで民を導きました。モーセ自身はヨルダン川を越えることはできませんでしたが、自分の仕事は果たしました。 繰り返しますが忍耐とは怠惰や受け身ではありません。A型の人間だから忍耐はできないとは言えません。忍耐は受動的ではなく、主イエスのされたように神への積極的な信頼です。 私たちは1990年代に横浜に住んでいました。親しい友人のアンドレアとは子どもの幼稚園で出会いました。初めて会った時の最初の質問の一つは「クリスチャンですか?」でした。私たちはよく子どもたちを一緒に遊ばせ、家族で集まることもありました。当時私たちは横浜ユニオン教会に通っていました。現在クラウディア牧師が奉仕している教会です。アンドレアと私は毎週水曜日に女性の聖書勉強会に参加していました。KUCのWOWのようなものです。そこでは、家族、特にクリスチャンでない夫に、イエスとその愛をどのように伝えるかについてよく話し合いました。アンドレアは夫のケイシのために祈ってほしいと言いました。ケイシは1990年代の東京の一流企業に勤めるサラリーマンでした。私たちは、ケイシや他の夫がイエスに従う者となるように毎週祈りました。1999年に私たち家族はアメリカに戻り、マークと私は牧師になるべく神学校に通いました。その頃アンドレアは横浜ユニオン教会で積極的に活動していましたが、ケイシは月に1回または教会行事があるときに出席する程度でした。教会の中心メンバーは当時20人ほどのリーダーで、毎週日曜日の礼拝後に残って、持参の昼食を一緒に取り、交わりの時を持っていました。 私たちが日本を去った後、ケイシが毎月2回ほど教会に出席しているとアンドレアから聞きました。私たちが神学校で2年目を過ぎたころ、アンドレアとケイシがアメリカに戻ってアトランタに家を買い、そこの大きな教会に通い始めました。ケイシは毎週教会に出席するようになり、教会に来た人を席に案内するアッシャーの男性に声をかけられて、アッシャーのグループに入りました。グループの男性たちとコーヒーを飲んだりするうち、今度はバイブルスタディに入りました。 ある夏に私たちは彼らの家に滞在し、一緒に教会に行きました。ケイシが喜んで教会に行き、イエスを信じるのを見るのは驚きでした。ケイシは2001年に息子のクリストファー・レオと同じ日に洗礼を受けました。この信仰の旅路、神のご計画を待つ忍耐の期間は約9年でした。毎日誠実に祈り、一緒に祈ってくれる人がいることが重要です。アンドレアとケイシは日本に短期宣教旅行を始めました。そして東日本大震災が発生したとき、ボランティアの人材を日本に連れてきました。また私たちと同様にBe Oneと提携しました。ケイシはそこで通訳をし、バイブルスタディを開いてBe Oneの日本人に教えました。そしてケイシが神からの召命を受けて神学校に通い始めたと聞きました。彼は仕事やアンドレアと宣教旅行をしながら神学校に通いました。2023年12月に最後の論文を書き上げ、宣教学の学位を取得しました。彼らは東京のTEAMに5年間の契約をし、日本に滞在する人のための宣教師として活動を続けています。 神への信仰を持つ人々の人生に、神が成されることは驚くべきことです。神が今も人を動かし、働き、導き、人を送り込んでいることを賛美しましょう。私たちがイエスと共に歩むこの信仰の旅は、神のご計画を待ち、準備するための忍耐の旅です。ケイシとアンドレアの人生のように、私たちの人生にも神は計画を持っておられます。神は私たちがその計画に気づき、従うよう望んでおられます。神が私たちに送ってくださった聖霊のかぐわしい香りとともに神に従うよう、神は望んでおられます。 私たちの人生、友人の人生、KUCのクリスチャン仲間の人生における神のご計画について日々祈る中で、主の道とご計画に従う忍耐力をますます養っていきましょう。忍耐を持つことで、主が望んでおられる人間に成長できるのであり、それが御霊の実です。忍耐という御霊の実を私たちの内に育ててくださるよう、主に助けを求めましょう。 ガラテヤ人への手紙 5:22-23
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 ヨハネによる福音書 14:25-27 「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 今日は、御霊の実の一つである平和の実について話します。私の母教会であるメノナイト教会の伝統は、平和に大きな重点を置きます。銃所持への問題意識があり、メノナイト出身の警察官やメノナイトから軍に入隊する人は非常にまれです。私達は滅多に暴力的ではありませんが、時折、私達の暴力は受動的攻撃性(訳者挿入:直接、不満や怒りを相手に示さず、表面的にはやわらかい物腰で、暗に怒りや抵抗を表現して相手を攻撃すること)という形で表れます。神学校で最も頑固な教授の一人は平和に関する講義でしたが、そのアプローチはあまり平和的ではありませんでした。まるで反面教師、親が「私の言うことをしなさい、だが私の行動を真似するな。」と言っているようでした。私は、心の中に神様が私達に備えた平和を喜んで取り入れるまで、私達が周囲と平和を保つことはできないと考えています。ほとんどすべてに流れがあるように、平和は内側から外側に向かい流れているのです。だから、クリスチャンにキリストの道ではないようなこと「隣人を殴らないで」「兄弟に言い争わないで」と言う必要はないと思います。よって今朝はキリストの平和に焦点を当てたいと思います。その平和を受け入れれば、あなたの人生を平安へと変えることができるのです。それほど平和には力があり、神様を愛し、隣人を愛することができます。主は私達に平和を創出する者であることを教えただけでなく、平和な人生がどんなものかを死に至るまで私達に見せたのです。すべての必然性がそうであるように、変容は内面で起こり、外側に現れだすのです。平和、愛、喜びがあふれ出すところから、私達は御霊の実をこの世と分かち合うことができるのです。しかし、それにはまずあなたの心から始まります。 平和、またはシャローム(Shalom)、は聖書で約300〜450回言及されています、使用する翻訳により異なりますが。ルカの福音書24章では、主イエスの十字架刑の後に弟子たちが動揺して隠れている中、主イエスが現れます。主は「何をしているんだ隠れているのか。」とは言いません。主は叱責しません。代わりに、「兄弟たち、平安があなたがたにあるように」と言います。では、平和とは何でしょうか。それをどのように定義しますか。多くの人は平和を戦争でない状態か、争っていない状態と定義します。その定義によると、私があなたに向かって怒鳴っていないなら、或いはあなたに手をかけていないなら、それは平和と言えるでしょうか。私はそうは思いません。暴力の欠如は、聖書の平和やヘブル語で使われる「シャローム」の定義からはほど遠いものです。主イエスはアラム語を話していたと考えられますが、彼が弟子たちに話しかけたときにはおそらくヘブル語の「シャローム」を使ったと思われます。シャロームという言葉、皆さんの中でロイからメールを受け取ったことがある人は、彼のメールの最後に彼の名前の前にシャロームと書かれているのに気付いたことでしょう。シャロームは紛争の欠如だけではありません。シャロームは相手に充足した幸福を望み、その人がその幸福を得るために行動する意志を含みます。能登半島の人々にシャロームを提供するなら、私達はそれについて何かをしなければなりません。従って、キリストの平和を互いに享受するとき、あなたは単に「あなたを殴らないよ」または「ゴシップはしませんよ」と言っているだけでなく、その人のために最善を望み、神様によって祝福されることを願うことになります。 西洋では、握手という簡単な儀礼があります。なぜでしょうか。それは私の手に武器がないこと、ナイフや銃を持っていないことを示すためです。私はあなたにシャロームの心をもって挨拶し、あなたに害を加えない意思を表します。興味深いことに、ネイティブ・アメリカンの友情のサインは右手を上げることで、手に弓を持っていないことを見せます。私はあなたに対して暴力的な武器を持っていません。神様の私達への握手または上げられた手は、神様の御子を意味します。神様は私達にその御子を送り、その御子の最も頻繁なメッセージの一つがシャロームなのです。神様が御子をこの世に送り、そして私達が主イエスと他者との間に愛に満ちた関係で満たされるようにするためです。主イエスは私達に対して、「わたしが来たのは、羊たちが命を得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)と言っています。これがシャロームです。私達はこの関係を規則に基づく契約関係ではなく、愛に基づく誓約関係と呼びます。神様は世を愛して、御子を送り、御子を信じる者は救われ、主の平和を喜び楽しむことでしょう。 ほとんどの結婚カップルは言い争いをします。それは普通のことです。私と妻ステファニーが試行錯誤で学んだことの一つは、ベッドで明かりを消して口喧嘩をしないことです。なぜなら、ベッドは平和と安らぎ、愛の場であるべきだからです。明かりが消えると、発した言葉がどれくらい相手にダメージ与えたかを見ることができません。相手を生涯の愛する伴侶と見る代わりに、相手を敵対者と見てしまいます。それが原因で勝ちを意識し、夫婦で勝利することよりも個人的な勝利を求めてしまいます。だから明かりをつけたままにしておきましょう。 シャローム。内なるシャロームの欠如がこの世に影響を与えていると思います。私達は御霊の実の平和について見ており、主イエスは聖霊を約束した時に言います。「わたしはあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14:27)。主イエスの死後の航跡(私達は皆、死後に航跡を残します)は、平和の霊でした。私達がこの場、部屋を出るとき、私達は何を残すのでしょうか。平和、喜び、愛の心、それとも別の何かでしょうか。ある人のそばにいて、その人と一緒にいて深い安らぎを感じたことがあるでしょうか。主イエスの平和は、弟子たちと一緒にいる間だけでなく、弟子たちにも移されたのです。「私の平和をあなたがたに与える」。主イエスが私達に平和を与えてくださるのは、私達個人だけのためではなく、私達が関わる人々に主の平和を分かち合うためでもあります。私達が部屋を出るとき、後ろに残るものは良い匂いだろうか、それとも悪臭だろうか。年を取れば取るほど、子供の頃の歌は私にとって大切に思えます。「愛とは、もしあなたがそれを与えたなら、与えたなら、与えたなら、愛とは、もしあなたがそれを与えたなら、ついにはより多くの愛を得ることになるんだよ。」平和も同じ原理です。あなたは平和を後世に残していますか。しかしながら、平和を乱す人々には注意をしてください。若い頃、私はあまり理解していませんでしたが、今では平和の精神に対して注意を払っています。平和を乱す人々と協力できますし、彼らを気遣うこともできますが、私の心や真珠(貴重な宝)を彼らに与えないように慎重になりますね。 私のお気に入りの旧約聖書の預言者の一人はエリヤです。彼の名前は文字通り「私の神様はヤハウェ」を意味します。彼は神様の素晴らしい預言者でした。今後、彼についての説教をいくつか行いたいと思っています。エリヤは王と女王に立ち向かった人物です。彼はたった一人で、バアルの450人の預言者とアシェラの400人の預言者と対峙し、ヤハウェがより強力であることを証しました。彼はまた絶望を体験し、実は孤独ではなかったが、彼は孤独感に打ちのめされていました。一度、彼は神様に自分の命を取ってほしいと願いました。神様に仕えているのは自分だけだと感じたのですが、神様は彼の他にも同じような者が多くいることを教えたのです。 乾いた小川の低地で、神様の天使が彼に言いました。「この旅の道のりはまだ長いのだから」それを想像してください。天使があなたに道があまりにも長いのだと言った時のことを。この時に神様と聖霊の贈り物を受け取らなければ、私達の人生は少なくとも幸福に暮らし、生きてゆくには過酷すぎます。その後、天使はエリヤに食事を与え、彼は神様に会うためにホレブ山を目指しました。ヒント、世の中があなたにとって重くのしかかっている時、どうか実用的なことに焦点を当ててください。シャワーを浴びること、食事をすること、部屋を片付けること、主の祈りを唱えることなどです。私は祈ることができないと感じる時がありました。言葉が見つからないと感じたとき、何度も主の祈りを唱えました。シャワーを浴びることがすべての問題を解決するわけではありません。食べ物を摂ることがすべての問題を解決するわけではありませんが、生活のリズムを維持するのに役立ち、他の人と会うときには良い匂いがします。 とにかく、エリヤは山に到達し、洞窟にたどり着きました。神様が、天使ではなく神様が彼に語りかけ、「エリヤよ、ここで何をしているのか」 おまえは平安ではないな、と尋ねました。これに対してエリヤは、自分一人ですべてをやらなければならないと不平を言いました。神様は彼に、洞窟の入口に立って待つように命じました。神様が通り過ぎるからです。洞窟の入口で、岩を砕くほど強力な大風が山に吹き付けました(驚きですね)。しかし聖書には神様は風の中にいなかったとあります。その後、地震が山を揺さぶりました(日本で地震の威力を知っていますね)。しかし聖書は再び、神様は地震の中にいなかったと言っています。地震の後、山に火があった、しかし聖書は再び、神様は火の中にいなかったと言っています。私達は世界で強力な自然界の力と対峙し、時折、力に過度に執着します。岩を砕くことができる大風、山を揺さぶる地震、山の上のすべてを消し去る火。しかし、これらの破壊的なものの中に神様がいなかったことを知る必要があります。火の後に、破壊するしかない何か、そこに変容させる何かが現れたのです。それは穏やかなささやきでした。興味深いことに、エリヤは神様がこの穏やかな風の中にいることを知って、この瞬間に外套を頭にかけました。この神様の臨在の瞬間に、エリヤは自分の目的を見つめ、平安を見出したのです。それでも厳しい旅路であり、私の旅路とあなたの旅路も難しいことは分かっています。それらは甘い糖衣で包まれてはいません。しかし、あまりにも多くのクリスチャンが風、地震、人生の火の中で神様を見ようとします。必要なのは、神様の穏やかなささやきを聞くことです。私達に平安を与える聖霊に耳を傾けることです。最初は内面で平安を得て、そしてその平安を経験すると、他の人にも伝えることができます。 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 ヨハネの福音書14:27 祈りましょう。 「フルーティな喜び」| ガラテヤ人への手紙 5:22-23 | ネヘミヤ記 8:9-12 | 神様戸ユニオン教会 | 2024年1月28日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch1/27/2024 ガラテヤ 5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です 。このようなものに反対する律法はありません。 ネヘミヤ記 8:9-12 総督であるネヘミヤと。祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人た ちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神様、主にとって聖なる 日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法の言葉を聞いたと きに、みな泣いていたからである。さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそ うを食べ、甘い酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい 。今日は、私達の主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶこと は、あなたがたの力だからだ。」レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静 まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」こうして、民はみな 帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えら れたことを理解したからである。 聖霊の実のシリーズを続ける中で、今日は一番美味しい実の一つを見ていきます。 今回の喜びは私にとって難しいものです。喜びは私にある主な実ではなく、あれば と願うばかりです。私が自分に対する罪(そう、自分に対しても罪を犯すことがあ ります)の一つは、喜びの只中においてそれを冷静に分析してしまうことです。こ うして、喜びの瞬間から取り残されたような感覚になります。これは熱い炎に冷水 をかけるようなものです。ある諺があります。「分析による麻痺」。何かを一生懸 命分析しすぎることで、自分を凍結させることです。物事を経験する代わりにそれ を凝視することで、自分自身にブレーキを掛けてします。聖書は言います、「御霊 を消してはいけません。」(テサロニケ人への手紙一 5:19)。喜びによって私達が 今生きることを必要とします。喜びは本物でなければ、それはまるでSF映画です。 偽りの喜びではならないのです。神様の働きが喜びを起こすのです。 35年前、私はロードアイランドのキリスト教のキャンプに行き、かわいい女の子 に出会い、友達になりました。彼女は大学に戻り、私は働いていました。私は電話 番号も住所も持っておらず、連絡が取れませんでした。母はそれが気に入らなかっ たようです。それはともかく、私が数か月後に家に電話をかけると、母は私にステ ファニー・デロルフという女の子について尋ねました。私は「どうやってその名前 を知っているのか」と尋ねたのです。母は彼女があなたに連絡をしようとして電話 をかけてきて、あなた達が互いに連絡が取れなかったので話し始めたと言いました 。私が母と電話で話したとき、母は「彼女はどんな人か」と尋ねたのです。私は 、「一番目立つのは彼女の喜びです。」と言ったのです。きっと自分が欠けている ものを相手に求めるのでしょう。 厳格な人々はしばしば喜びを軽視します。愛の次に、主が私達に授けた最も力強い 福音的な贈り物が喜びかもしれません、しかし私にはそれが得意ではありません。 牧師が私に言ったことがあります、「10人の喜びに満ちた人を連れてきたら、教会 は地面から生えてきます。10人の消極的で不満そうな人々が教会に集まると、8人 の不満そうな人が残り、賢明な2人は去るだろう。」これはかなり真実です。喜び は私達のキリストへの信仰において中心的なものです。私達は「もろびとこぞりて (民みな喜べ)」と歌います、「御神様の愛をば(Joyful, joyful we adore thee)」、「主の喜びは私の力(The Joy of the Lord is our strength)」。なぜでし ょうか?それは喜びは聖霊からの贈り物であり、または聖霊が私達の内で働いてい る証しなのです。 聖霊の誕生日(ペンテコステ)に、11人の弟子達はエルサレムにいて祈っていたと ころ、突然、火の舌が各自の頭上に現れました。興味深いことに、鏡の前ではなく 、他の人の頭の上でしか火の舌を見ることができなかったのです。それはまさに喜 びのようです。自分の喜びは見えませんが、他の人が喜んでいるのは本当にわかり ます。弟子達は街や外の世界に聖霊による喜びによって導き出されました。しかし 世の人々は弟子達に起こったことを理解できませんでした。それで、人々は弟子達 を酔っ払いと見なしたのです。物事を分析する時も必要です。合理的な思考や知的 な識別が必要な場合もあります。しかし喜びを犠牲にしてまで分析する必要はない のです。喜びは聖霊が与え続ける贈り物です。 ネヘミヤ記 8:10は私達に「主の喜びは私達の力です。」という真実を思い出させま す。神学への理解が私達の力になるのではありません。私達が知る聖句の量でもあ りません。そうではありません!ネヘミヤは言います、それは私達の喜びです。ネ ヘミヤはなぜこんなことを言えたのでしょうか?問題点ばかりで、イスラエルの民 は捕囚から帰還し、神殿は破壊され、城壁は崩れ、畑は荒れ果てていました。ネヘ ミヤの書は困難を克服し、リーダーシップに関するものです。良いリーダーシップ は問題に対処すること(もちろん)ですが、それ以上に人々を生きることと喜びに 導くことです。神殿よりも、城壁よりも、攻撃から解放されるよりも、ネヘミヤは 喜びにこそ真の力があることを知っています。喜びは礼拝に導き、礼拝は私達を神 様とより深い関係に導きます。神殿は略奪されるかもしれません。城壁は崩れるか もしれませんが、主を信じる者は恥をかくことはありません(詩編25:3)。私達信 者は、この喜びを深く受け入れる経験をし、それが一時的な感情ではなく、私達を 強め、聖霊が私達の内で働いている証しであることを理解するように呼びかけられ ています。 喜びは霊の実のリストの中で2番目です。天使が羊飼いたちに現れたと き、天使は彼らに「我々は大きな喜びを告げ知らせます。」と宣言しました。喜び は幸福ではありません。この喜びは外部の条件に依存していません。それはむしろ 、神様とのつながりから流れ出る超自然的なパワーです。私達がキリストにとどま り、聖霊が私達の内で働くにつれ、喜びは私達と神様との関係から自然に溢れ出る ものです。 ネヘミヤに戻ると、イスラエルの民には幸福である理由がないのです。彼らの状況 はそんなによくありませんでした。KUCの皆さん、現実を見ましょう。KUCは過去 数年間、いくつかの困難に直面してきました。異なる牧師が入れ代わり立ち代わり しました。複数の人々から、皆さん自身が直面してきた対立や困難についての話を 聞いたことがあります。時折、あなたたち自身や他者に課した挑戦もあります。私 はあなたたちが自分たちについて語った話を聞いて、怖くなりKUCに関りたくあり ませんでした。その話を聞いて悪夢を見ました。私は正直に話しています。しかし 、私がゲスト説教者としてここで説教した後、私は問題を垣間見ました(はい)。 しかし、キリストへの人々の献身の一端をも見ました。その献身を通じて喜びも見 ました。もちろん、私達は(少なくとも8月までは私も皆さんの仲間です)実践的 にも霊的にも取り組むべき課題はまだありますが、問題だけに焦点を当てるのでは なく、喜びに焦点を当てる必要があります。私は牧師と教会評議会の仕事はその喜 びを守ることであるべきだと思います。先週は短縮礼拝で、私は説教を10分間も短 くするのが嫌でした。しかし、賛美と礼拝の時間を削減するくらいなら、私は説教 を20分間短くする方がいいと思います。 なぜならそれらが必要だからです。 私達の喜びの主な源泉の一つは、イエス・キリストによる私達の救いです。詩篇 51:12には、「あなたの救いの喜びを私に戻してください」と書かれています。ク リスチャンとして、私達はキリストへの信仰を通じて受け取った恵み、赦し、そし て永遠の命という信じられないほどの贈り物を絶えず思い起こすべきでしょう。こ の認識は、現在の状況に関係なく、私達の心を喜びで満たすはずです。喜びと幸福 を混同するといけません。幸福は素晴らしいことです、誤解しないでください。幸 福は私達の状況や環境に依存しています。幸福という言葉は、ラテン語の「機会/好 機」に根ざしており、私達は幸福を富、健康、成功に結びつけます。私はこれらの ことに反対する説教をするつもりはありませんが、それらは一時的なものであり、 永遠のものではありません。喜びは私達の現在の状況に結びついていません。あな たが今現在、健康で成功していることを願っていますし、同時に幸福で喜んでおら れることでしょう。しかし、パウロは私達にすべての状況で感謝するようにと呼び かけています(1テサロニケ5:17)。 聖書で最も古い物語、ヨブの物語では、サタンが神様に言います。「あそこにいる 幸せそうなやつを見てくれ。彼は財産を持っているから、あなたが祝福したからこ そ、幸せで賛美してくれるんだよ。」 物語では、神様はサタンにヨブの生活からこ れらの祝福を奪わせることを許可します。ヨブは苦しんで、感情的にも肉体的にも 苦しみます。友人達さえもヨブは当然受けるべき苦しみだと言います。しかし、ヨ ブは神様を呪うことはありません、サタンは間違っていました。サタンはヨブの神 様との関係が彼の幸福や状況に基づいていると思っていましたが、ヨブの神様との 関係は信仰と喜びにおいて築かれていたのです。ヨブは正しい人として本当に幸福 ではありませんでしたが、喜びの人でありました。ヨブ(ヨブJobのbをyに置き換 えるとJOYになります)喜びはこの世のものに基づいていません。 幸福は私達の状 況に依存しますが、喜びによって私達は状況に対してどう対応するかを態度で示し ていきます。喜びは福音(善い知らせ)を信じる超自然の応答です。クリスチャン の中心にあるのは、喜びを知ること、あるいは個人的な救いを理解することでしょ う。そして、私達の確信はイエスを主と救い主として信じることによって救われて いることです。あえて言うなら、救いの知識に苦しむクリスチャンは、喜びにも苦 しむということです。ヤコブはこのタイプの人を二心の人と呼びます。信者が喜び の贈り物を受けとることと、祝福をいただけることとは同じことなのです。聖霊を 遠ざけないでください。主の喜びを受け入れましょう。神様の祝福を十分に受けと ってください。困難な時を経るのはつらいことです。しかし、サタンが非常に喜ぶ のは、あなたの信仰が幸福に結びついて、喜びに結びついていないときです。その とき私達はサタンにとって狙い撃ちの格好のターゲットです。しかし、もし信仰が 主の喜びに基づいているならば、サタンは私達に触れることはできません。 終わりに「喜びのチャレンジ」に挑んでみましょう。 1. 今週は毎日、iPadやスマートフォンで賛美歌や讃美歌のボリュームを上げて 聴いてみましょう。一緒に歌うことにも挑戦する。これは電車向きの活動で はありませんね。 2. あなたが知っている誰かに喜びをもたらす方法は何でしょうか? それはしば らく話していない人への手紙かもしれません。 誰かに電話して、お茶やコー ヒーに誘うことかもしれません。それは知っている誰かのために無償の行動 を起こすことかもしれません。おそらく感謝されないかもしれませんが感謝 に関係なく、喜びは聖霊があなたに働いていることを知ることなのです。 さあ、歌いましょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この ようなものに反対する律法はありません。 ヨハネの手紙第一4:7-8 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある 者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だから です。 これからの9週間、御霊の実(the fruit of the Spirit)について詳しく見ていきたいと思 います。「フルーティ・クリスチャンズ」という受けそうな呼び名をつけてもいいですね 。 「御霊の実」についてよく考えることは、根本的な問いに答えることになります。つまり 、「クリスチャンとはどのような人なのか。どんな資質を持つべきなのか。他人からどの ように思われるべきか」。目標は高いところにあります。 この問いには、使徒パウロがガラテヤ人への手紙5:22の中で答えています。救い主である 主に従うクリスチャンにとって、大切なのは知識ではなく、どのような人間であるべきか が書いてあります。 パウロが書いたのは、混乱しているガラテヤの教会に宛てた手紙でした。重要なのは教会 が主イエスへの信仰に焦点を当てることであって、規則を守ることではないとガラテヤ書 全体で説いています。それは聖霊の賜物なしにはできません。みなさんもご存じのように ガラテヤ5章に次のようにあります。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、 誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません」。ガラテヤ人への 手紙は、聖霊の光を教会にもたらすことを目指しています。(使徒の働き15章を参照のこ と) パウロは、御霊の存在と力、そして神と私たちとの関係を通じて、福音が人々を変容させ るのだと主張しています。このガラテヤ人への手紙5:22-23から、私たちはイエスの品位を 知ることができます。また、聖霊の導きによりこれらの特性を受け入れることができます 。 ではガラテヤ5章を一緒に読んでみましょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切 、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません」。 この御霊の実のリストを自分自身に当てはめてみて、どう感じますか。私は二つか三つは うまくできていると思いますが、もっとよくできるようになったらいいなと思うものもあ ります。 「忍耐って本当に書いてあるのかな。タイプミスなのでは?」と思う人もいるかもしれま せん。他の人と話し合ってみてください。このリストの中で自分に備わっていると思う特 性があれば話してください。自分はいくつかよくできていると考えるのは、厚かましいこ とではありません。自分の強みと今後の課題を知るのはよいことです。 そしてよろしければ今後身に着けたいと思う特性、挑戦しなければならない特性について も話してみてください。 でもこのことで落ち込んだりしないでください。今週、自分の強みについて神に感謝し、 弱みについて神に助けを求める時間を取ってください。例えば次のように祈ってみてはど うでしょうか。「親愛なる神よ、聖霊の助けを借りて、私の今までの人生の中で愛と善の 形を見ることができました。実りに感謝します。今後もっと(あなた自身の言葉で、例え ば信仰深くとか、柔和など)になれるよう私の成長を助けてください」。 また、文字にして紙に書いて聖書に張り、6か月後に自分の成長を確認するのもおすすめで す。勇気があれば、配偶者やクリスチャンの友人に話してみるのもよいかもしれません。 では特性について話していきましょう。まず、「御霊の実(Fruit of the Spirit)」は単数 形で書かれており、複数形ではありません。 たとえば「善良」の木から、「忍耐」や「辛抱強さ」の実がなるとは神も思われていませ ん。イエスはいばらの茂みからいちじくの実は摘めないと言われました。このように、多 くの特性があるわけではなく、実際には一つの特性です。ですから健全なクリスチャンで あるためには、すべての特性が必要です。 それでは最も重要な特性からみてみましょう。パウロはコリント人への手紙Ⅰの13章で 、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と書いています。そして、「 その中で、一番すぐれているのは愛です」と続けます。 なぜ愛が一番になるのでしょうか。それは、私たちがこの地上の肉体を離れて神の国に迎 えられた後、私たちが持っている唯一のものが愛だからです。天国に行けば、信仰はもう 必要ではありません。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させ るもの」(ヘブライ11:1)だからです。天国では神を見ることができるので、信仰は必要 なくなるのでしょう。そして希望とは、神の好意を待ち望むことです。天国にいれば、待 ち望むことなく経験するでしょう。 しかし、愛は違います。愛は私たちが今行うべきものであり、天国に行っても続けること ができる唯一のものです。御霊の実の他の特性は、すべて愛の延長であると言う人もいま す。それは正しいかもしれません。あるいは愛の泉から他の特性が流れ出てくるのかもし れません。 ギリシャ語には愛という言葉が4つあります。エロス(情熱的な愛)、ストルゲ(家族の愛 )、フィリア(友情)、アガペー(犠牲的な愛、不変の愛)です。パウロが御霊の実の愛 の定義として使っているのはアガペーの愛です。 では、アガペーとは何でしょうか。過去に多くの詩人が愛の定義を書いてきました。ここ では愛を定義するのではなく、アガペーの愛が示された話をしてみましょう。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、第二次世界大戦の戦前、戦中のナチス・ドイツで生 きた聖書学者でした。著書の『The Cost of Discipleship』と『Life Together』は、信仰 を深めたい方にお薦めの本です。 世界が憎悪と暴力に向かっていく中、彼はイギリスやアメリカに移住する機会が何度もあ ったにもかかわらず、ドイツに留まりました。 ある会議がニューヨークで開催された時、他の牧師たちは彼に会議の後ドイツに戻らない ように懇願しました。ドイツ国内のキリストの教えに反する憎悪について批判し続ける彼 は、命を狙われていたからです。しかし彼は、まるで獅子の穴に入るようにドイツに戻り ました。彼には目的があり、アガペーがあったからです。(私たちは目的とアガペーを持 っているでしょうか)。 彼はドイツで教会を導き、神学生の世話をしました。そして福音のすべてを説教し、ドイ ツがいかに悪に向かったかを明らかにしたため、ついにナチスに逮捕されました。 獄中でボンヘッファーは聖書勉強会を開き、他の囚人や看守のために祈りました。看守た ちは彼を尊敬するようになり脱獄させようとしましたが、彼は逃げませんでした。死にた いと思ってとどまったわけではありません。もし逃げれば、看守たちが罰せられるからで した。 ボンヘッファーは唯一聖霊からのみ得られるアガペーの愛を持っていました。彼はマタイ 5:43-45を生きました。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを 、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し 、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは言われました。これによってあなた がたは天において自らの父の子となるであろう」。 ドイツ降伏直前にボンヘッファーは死刑になりましたが、キリストの愛と彼のアガペーの メッセージは生き続けています。光は闇によって消されることはないからです。 ボンヘッファーのような英雄がいることは素晴らしいことですが、私たちはナチス・ドイ ツに住んでいるわけではありません。それでも私たちも困難に直面しています。 数年前、勤務先の職員室で隣の席にいた人は、私が挨拶をしても他の教師が見ているとき 以外挨拶を返しませんでした。仕事に関することを尋ねても無視されました。私が何か悪 いことをした訳ではないのですが、彼は私を好きではありませんでした。私は外国人で彼 は外国人が嫌いでした。彼は私に仕事に関する情報を伝えてくれず、私を悪く見せようと しました。非常につらい一年でした。 愛すること(エロス)はロマンチックで、仲間を愛すること(フィリア)は楽しく、家族 を愛すること(ストルゲ)は安定していますが、アガペーの愛は難しいものです。 その年の半ば、私は彼に挨拶するのをやめました。彼が挨拶しないのだから、私だって挨 拶しなくてもよいと思いました。 すると妻のステファニーが「マーク、それはまちがっている」と私に言いました。私は、 彼がしたことや言ったことをあげつらいました。そのうちに気がつきました。私はその時 キリストの道ではなく、世俗の道に生きていたのでした。 翌朝から私は職場に向かう道で、愛に満ちた人間になれるよう聖霊を通して助けてくださ いと毎日神に頼みました。そして再び彼に挨拶するようにしました。同僚が彼の悪口を言 っても、同調しませんでした。神は人間の愛ではなく、神のアガペーで私を満たしてくれ ました。彼は依然として私を嫌っていましたが、私は彼を助けることさえできました。そ して彼は翌年定年退職しました。 私はボンヘッファーのように処刑されたわけではありませんが、神が私に求められた道を 歩みました。これがアガペーの道です。アガペーの道を学ぶ成長過程でした。子ども時代 には子どもらしく考え行動しますが、大人になれば神は私に幼稚さを捨て、成人クリスチ ャンとして振る舞うように求めました。神は私たちに子どものように神を愛するように求 めておられますが、子どもじみたものではなく、おとなの信念を持つよう求めておられま す。 ヨハネの手紙第一4:7-8は、私の好きな聖句の一つです。ヨハネは「愛する者たち。私たち は互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ 、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」と言っています 。ヨハネは私たちに愛の人になるように呼びかけています。でも完璧な愛の人は私たちの うち誰もいません。 今後二か月にわたって学ぶこれらの特性は、私たちの体と似ています。ウエイトリフティ ングを考えてみましょう。今日突然ウエイトリフティングを始めれば、明日は筋肉痛にな ります。そして、もう二度とやりたくないと思うでしょう。しかしウエイトリフティング を続けるのと同じように、神があなたに呼びかけている道を歩む旅を、聖霊に導かれて続 けるなら、愛する能力が成長するでしょう。あなただけの、そして非常に美しいものに作 られることでしょう。 それが今日すぐに起こることはありませんが、今日から始めることはできます。 祈りましょう。 今日、この場で私の心にある思いを分かち合えることに感謝しています。
本題に入る前に、少しお話をしたいと思い、3つの質問を用意させて頂きました。 最初の質問です。私たちの中で、何人がイエス様との関係を持っているでしょうか? イエス様との関係を持たない限り、クリスチャンと呼べないので、少なくとも皆さん関係を築いていらっしゃると思います。この場に集うということは、キリストを信じていらっしゃるということだと信じています。私たちとキリストとの関係、キリストの十字架での御業のおかげで、お父様の もとに贖われたと知るのは大切なことです。イエスのおかげで神の御目に受け入れられたからこそ、私たちはキリストの嗣業を分かち合っているのです。だからこそ、誰に従って生きるのかということが重要になってきます。旧約聖書で罪の罰を贖うために捧げられたすべての犠牲は、十字架上 のイエス様の犠牲によって、取り除かれたのです。 エペソ人への手紙1:5と2:5-6によれば、私たちキリストと共に生かされ、キリストにあって共に天上で座につかせてくださいました。だから私たちは、イエスと彼が行った御業に多くの借りがあるのです。 第二の質問です。私たちの中で、何人が父なる神との関係を持っているでしょうか? 先ほどの質問よりも少し難しくなります。しかし、私たちが父なる神に近づくことができるのは、キリストのおかげだということを忘れないでください。イエスが弟子たちに教えた祈りの中でも、まず父なる神に祈ることを教えています! 天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ 。我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。 アーメン。 これは父なる神様に直接語り掛けるためのお手本です。神を敬い、より深いレベルで神の道を知りるために。聖書とは、神がご自身の民に語りかけているものであり、私たちは神の御性質をみて、神が誰であるかを知ることができるのです。 第三の質問です。私たちの中で、何人が聖霊との関係を持っているでしょうか? 救われてすぐに聖霊を迎えたのか、それとも今後迎えるのかについては触れません。単純に自分に問いかけてみて、聖霊との関係を持っているのか考えてください。 この約束は現実のものとなっているのでしょうか?聖書を見てみましょう。 ヨハネによる福音書14:15-18 「 15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」 ヨハネによる福音書14:25-26 「 25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」 また、ヨハネによる福音書15:26と16:7-15にも私たちがどのように聖霊を約束されているかが書かれています。 これらが私たちの現実となるよう、簡単にお祈りをしたいと思います。聖霊よ、私たちは、あなたを歓迎します。あなたは、私たちを見捨ててはいません。私たちを再度、満たしてください。私たちが人格的に生まれ変わり、あなたの賜物を大切にし、人生が変えられるようにしてください。 聖霊はどのように私たちの前に現れるのでしょうか?「御霊の実と賜物」を通して、聖霊が私たちの人生において現れる2つの方法を簡単に見てみましょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-25における御霊の実 御霊の実とは、人としての性格のことを指します。私たちは、聖霊と共に過ごしてきたかどうかを、私たちの品性を通して評価することができるのです。あなたは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制心を持っていますか? 私が高校生の時、教会でサマーキャンプがあり、そこで洗礼を受けました。キャンプが終わって帰宅しパソコンの前に座っていると、父が私に対して怒ってきたことを覚えています。でも、私はいつものように反応するのではなく、私の心が平安で満たされたのです。それを見て、父は、「何かが変わった。」と言っていました。聖霊は私たちを本質的に変えることができるのです。 コリント信徒への手紙一 12:7-11 における聖霊の賜物 これらの賜物は、他者のためにあなたに与えられています。あなたは聖霊の声を聞き分けることができますか? 大学在学中、聖霊がどのような存在なのかをもっと知りたいと切に願っていた時期がありました。ある時、ミニ聖書研究会をするために、カフェで何人かの仲間と会っていました。私はその集まりを少し早めに切り上げ退室しなければいけなかったのですが、帰り際に座っているカップルのそば を通りかかる際、聖霊が私に対して「そのカップルに話しかけてほしい」と言っているのを感じました。こんなことは初めてだったので、困惑しながらも、その場を離れてしまいました。私はドアを出て、まっすぐ自分の車に向かいました。しかし、聖霊は、私がその場を去ってもまだ私に要求 してきていたのです。重苦しさが増し、何かしなければならないと思ったので、そのカフェに一緒にいた友人に電話し、そのカップルがまだそこにいるのかどうか尋ね、主に彼らと話すように促されていると説明しました。すると、友人は、「もちろん、話しかけてみて」と言ってくれたので、再度カフェに戻り、自己紹介をしました。そして、「変な話に聞こえるかもしれないけれど、主があなた方に何かを伝えて欲しいと言っているようなんです。」と話しかけました。 今日読んだヨハネによる福音書と同じ箇所、私たちに対する神の愛のメッセージで溢れていることを話しました。そのカップルと神の愛について話すことができ、彼らはご自身の息子さんのことに関してとても危惧していることを話してくれました。共に祈ることができ、今日と同じ聖霊の約束 の部分について語り、それを信じることについて話しました。 主は私たちが教会の外の教会となることを望んでおられます。主の声を聞いたことで、彼らと「約束」について話し合うことができたことに感謝します。 祈りましょう。 天の父なる神様、私たちがあなたとの関係を持つことができるように、私たちを隔てていた壁を打ち壊すために、あなたは御子を遣わしてくださいました。約束の御方であるイエスの上におられたのと同じ御霊、聖霊が私たち一人ひとりの内側に生きておられます。主の声を聞き、私たちも人生 を歩み続けることができますように。 アーメン 「福音からのリーダーシップの教訓」: 赦し、奉仕、服従、および管理責任 | ヨハネの福音書13:1-14 | 神戸ユニオン教会 | 2024年1月7日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch1/7/2024 リーダーシップに関する数え切れないほどの本やセミナーが開催されて
います。私はあなた方に動機づけのために数千ドルをもらっているわけ ではありませんが、リーダーシップについてお話しし、私を評価するた めの基準を示しましょう。これは私の最初の日曜日であり、客員説教者 ではなく、牧師チームの一員としてお話します。従い、私はリーダーシ ップをについて考えてみたいと思います。リーダーシップに必要な一貫 性、正直、誠実さ、ビジョンの設定、チームの構築という多くの素晴ら しい特性を挙げることができます。私はそれらの高い水準にふさわしい ことを願っています。しかし、リーダーシップにおける特性の一つ、赦 しについては語られていません。それが今日始めたいテーマです。 I. 赦し(マタイの福音書18:21-22): 私は聖書的人生とリーダーシップは赦しから始まると考えています。ペ テロはイエスに尋ねました(マタイ18:21-22)「主よ。兄弟が私に対し て罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。7回まででしょうか。」ペ テロは彼の質問で寛大な回答をしたので、主イエスが「すごい、ペテロ 、君はすごいなぁ。」と言うことを期待していました。その代わりに、 主イエスは「7回ではなく、77回」と彼に言います。これは必要なだけと 言う別の表現です。主イエスが言い間違えたのではありません。ルカの 福音書17章でも似たようなことを主はおっしゃいました。主イエスは赦 しを本気で考えていたのです。 有名な福音派の宣教師ビリー・グラハムの妻であるルース・グラハムに 関する話があります。彼女はビリーとの離婚を考えたことがあるか尋ね られました。彼女は「離婚はありませんわ。でも殺人はあります。」と 答えました。それから彼女は真剣に、「夫婦が互いに赦し合わない限り 、結婚はうまくいかないのです。」と言いました。教会の皆さん、私が 間違いを犯して(きっと犯すでしょう)、もし皆さんが私を赦せないの なら、またあなた方が常に私を傷つけたとき(きっと傷つけるでしょう )、私があなた方を赦すことができないならば、私達はうまくいかない でしょう。私は7月までKUCにとどまり、それから去るか、あなたが私を 解雇することになるかもしれません。そうなれば私達はお互いの時間を 無駄にするだけです。それは避けたいものです。 赦しに関しては、2つの側面があります。1つは、最初に神様からの赦し を受け入れるために自分を謙虚にすること、そして我々が過ちを犯して しまった人からも同様に赦しを求めることです。鍵はここで謝罪しなけ ればならないということです。あなたは神様との契約を破ったこと、あ るいは誰かとの関係を損ねたことにおいて、あなたが行ったことを明ら かにしなければなりません。2つ目は、あなたを傷つけた人々に対してあ なたが赦すことと、その赦しをさらに広げることをいとわないことです。 主イエスは私達に無慈悲な僕の物語を話しています。彼は喜んで赦しを 受け取りましたが、他者を赦すことができませんでした。神様は彼の赦 しを取り消されます。神様は私達に、多くのことを赦された者同士で謙 虚に生きるよう呼びかけています。今日は月の最初の日曜日で、私達は 聖餐式を行います。聖餐の目的の一部は、自分を無慈悲な僕の立場に置 くことであり、私達が神様に返済できないほどの負債があることを知り 、認めることです。そして、聖餐式に臨む際に、(私達が聖餐を受ける にふさわしいから、聖餐を拝領するのではありません)聖餐を受け取る ことで、私達は自分には多くのことが赦されていることを認めて、他者 を赦すことに心を砕いて生きていくのです。 II. 自分の限界を知る 私は自分が有能であることを望んでいます。もし私が有能でなければ、 あなたが私をチームの一員として迎え入れてくれないでしょう。しかし 、私は自分の限界を知っています。古い映画『クール・ハンド・ルーク 』には有名な言葉があります。「人は自分の限界を知らなければならな い。」です。私はこの仕事を一人でやり遂げることはできないことを知 っています。神様の助けなしには、何も成し遂げられません。主が家を 建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい(詩篇127篇)。主イエ スが神の国に入ることについて教えたとき、「金持ちが天の国に入るよ りは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。」と言いました。弟子 たちは「それでは、だれが救われるのでしょう。」(本当にだれが救わ れるの?)と尋ねました。主イエスは「人にはできないことですが、神 にはどんなことでもできます。」と言います(マタイの福音書19章)。 私の希望は教会の席を温めて、教会を維持するのではなく、教会を成長 させることです。この不可能な課題は、私達自身が神様の器として生き るならば可能なのです。私が自分の力に頼って働くと、ほとんど何もで きません。しかし、不可能なことなど神様にとってないのです。それを 私は祈っています。私は不可能なことを祈っています。私達は自分の役 割を果たす必要があります。人々を歓迎し、KUCについて人々に伝え、 教会に必要な祈りをします。パウロが言ったように種をまき、種に水を かけることかもしれませんが、教会の成長は神様がもたらすことを知っ ています。 III. 役割を果たし続ける/優先順位をつける(使徒行伝6:2): 皆さんは私がフルタイムで働いていることを知っていますね。私は少な くとも月に3回は教会にいます。しかし、私は高校の宣教師/教師として 他の責任もあるのです。たとえ教会でフルタイムで働いていたとしても 、私はすべてをすることはできません。初期の教会では成長の痛みを経 験していました。人々は見落とされ、なおざりにされていたのです。祈 りの後、使徒達は教会に長老を指名し、そうして使徒達から御言葉の奉 仕の務めを奪わないようにしてきました。私も皆さんと同じくフルタイ ムの労働者です。私が楽しむこと、得意だと思っていることでも、その 仕事のためにできないことがあります。財政面、時間の使い方において も私達はできる範囲のことを優先せざるをえません。ですから私が教会 のために週に10~15時間働くことを約束しているところで、すべてを成 し遂げることはできないのです。 私がトレド・メノナイト教会にいたとき、最初の牧会で、非教会員から の要請が多く、時間に追われていました。この時点で私はパートタイム でした。ある時点で、教会員へのケアが見落とされていました。私は「 はい」と言ってすべての要請に応じていたので、日曜のための勉強を怠 っていました。私の牧会の指導者は私に使徒行伝6:2について話し、また 人々の口からパンを盗まないようにとも教えてくれました。私は神様が 私に課した仕事をするために「いいえ」と言う難しい返事をしなければ なりませんでした。良いことのためではなく、より良いことをするため にです。 IV. 奉仕(ヨハネの福音書13:1-14およびマルコの福音書10:45): 十字架の後、主イエスの言葉の中で最も力強いものの一つは、「仕えら れるためでなく仕えるために来た」というものです。主イエスはヨハネ 13章で実証した通り、彼が裏切られることを知っていたにもかかわらず 、彼はひざまずき、手で弟子たちの足を洗いました。ペテロは拒否しま したが、主イエスは彼に言いました。イエスが彼の足を洗わなければ、 ペテロはイエスとその王国と関係のないことになるのです。足を洗った 後、主イエスは尋ねます。「私があなたがたに何をしたのかわかります か。」 私達は認めなければなりません。子供の頃、両親がどれほど私 のことを気にかけてくれていたか全く分かりませんでした。それを知る には自分自身が親になる必要がありました。この世の中では、私達は主 イエスが私達のために何をしたかを理解することはできません。彼は続 けて言います。「あなたがたはわたしを『先生』とか『主』と呼んでい ます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。主であり 、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなた がたもまた、互いに足を洗いあわなければなりません。」 このように 主イエスが私達に示した例は一度きりの出来事ではなく、私達が世界を 見る見方です。教会に「はい、お受けします」と言う前に、私はあなた たちの牧師になるために自分を謙遜にさせることができるかと自問自答 しなければなりませんでした。私は自分の誇りを棚に上げ、神様に導か れ、あなたたちからの助言を受け入れることができるだろうか?私は単 にあなたたちの足を洗うだけでなく、それを楽しむことができるだろう か?私はまだ考えている質問があります。教会の足をどのように洗うこ とができるでしょうか?私達は自分の足だけでなく、神戸の人々の足を どのように洗うことができるでしょうか?これらの質問に私は答えがあ りません。主イエスは、もしそれを進んでする意志がないなら、私達は 祝福を逃すことになると非常にはっきりとおっしゃいます。足を洗いあ うことを行えば祝福されるだろうと。私達が祝福を望むなら、控えめな 姿勢を捨てて、積極的な行動に移さなければなりません。 主のテーブルに臨む神秘を準備する際、神様はあなたにどのようにリー ダーシップをとるように呼びかけているでしょうか。それに応じてあな たの人生を主に使うようにしましょう。 祈りましょう。 「心を差し出す」| ルカによる福音書 2:1-7 (新改訳) | 神戸ユニオン教会 | クリスマスイブキャンドルライト礼拝 | 2023年12月24日 | 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師12/24/2023 祈りましょう。私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。私たちの岩、贖い主、主よ。アーメン。
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって、クリスマスおめでとうございます!共に喜び祝いましょう!私が皆さんと喜びを分かち合っているこの瞬間、この挨拶が私からのものではないことを皆さんに知っていてほしいと思います。私はこの教会で奉仕する牧師の一人であるだけで、今晩この美しい礼拝堂に皆さんを招きお迎えしているのはイエス キリストです。この教会が今夜の皆さんのホストではないし、私自身も皆さんのホストではありません。神様がホストであり、今夜この礼拝堂、そしてオンラインの場に私たち一人ひとりを 迎え入れてくださっています。 あなたが気づいていようといまいと、神様はあなたに今夜ここに来るようにという招待状を一 枚一枚個別に送り、そしてあなたは今この場にたどり着いたのです。 ですから、私たちの主イエス・キリストの御名によって、皆さんを私の教会でも私たちの教会でもなく、神の教会、神の家に今夜お迎えできることをとても嬉しく思います。 今日はお話しから始めさせてください。 1週間ほど前、私は末っ子の幼稚園で行われたクリスマス・ページェント(クリスマス劇)に行きました。クリスマス劇当日、私は幼稚園に行き、他の保護者たちと一緒に列に並んで中に入るのを待っていました。私の隣には息子の友人の母親がおり、園の門がまだ開いていなかったので、私と彼女は少し話をし始めました。どのように話し始めたのか正確には覚えていません。しかし気づくと、私は聖書にあるクリスマスの話を彼女にしていました。彼女は聖書のクリスマスの話に馴染みがなかったので、もちろん、難しすぎたり、複雑すぎたりしないように説明しようと心がけました。KUCに定期的に来られる皆さんは、私が聖書のことになるとどれだけ長く喋るかご存知ですから、これがいかに大変だったか想像がつくのではないで しょうか?(笑) 私は彼女にクリスマスの話を話し始めました。あるところにヨセフとマリアという若いカップルがおり、二人は婚約したばかりでした。将来に控える結婚を楽しみにしていたました。しかしショックなことに、二人の間に子供ができていることがわかりました。当時、結婚前に女性の妊娠が発覚することは、タブー、論外、そしてそれは死を意味しました。 マリアは姦淫の罪で殺されてしまう!ヨセフは彼女が罰せられる前に、婚約解消を考えます。 しかし、神様から遣わされた天使が二人に、この宿った命を守り、世に迎えなければならないことを伝えます。天使は、この子供は二人にとってだけでなく、全世界の人々にとって、特別な子になるからだと言います。この子は「私たちを救って下さる神」を意味する「イエス」と名付けられ、地上のすべての人の主であり救い主であるメシアとなるために生まれるのだと二人に告げます。 マリアとヨセフは神様が天使を通して言われたことを信じ、宿った命を二人で育むことを決めます。 時間を早送りして、2023年の12月のとある日、しばらくすると息子の幼稚園の門が開いたので、私はママ友との話を中断し、幼稚園の中に入りました。席を見つけ座ると、子供たちの準備が整うまでしばらく待つようにと言われたので、私はその時間を使って、聖書のクリスマスの話に出てくる東方の博士や羊飼いたち、さらに天使たちの話を彼女にしました。 そうしているうちにクリスマス劇が始まりました。 クリスマス劇が嫌いな人がいるでしょうか?特に可愛い子供たちがその劇の役を演じているのですから尚更です。というわけで、私の目、耳、心、私のすべてが、即座にクリスマス劇の世界の中に引き込まれました。羊、羊飼い、天使、宿屋の人々、東方博士、ナレーター、そしてもちろんヨセフとマリア。 どの子たちもとても上手にセリフを覚え、それぞれの役を見事に演じきっていました。 私の子供は宿屋の一人を演じました!とてもよく頑張っていました。 その日のクリスマス劇で私が一番好きだったシーンのひとつは、宿屋の人たちとヨセフとマリアのやりとりでした。確かに、私の子供が宿屋の一人だったからという理由もあります。それでも私にとって一番このシーンが印象に残ったのは他の理由です。そのシーンでは、愛らしい子供たちの演技を通してでさえ、私たち人間の心の頑なさがよく表現されていました。そして人間の心の頑なさとは対照的に、いつも私たちのそばにいて、私たちが神様と出会うことを待ち望んでいる神様の心の優しさ、柔らかさもよく表されていました。 ヨセフとマリアはベツレヘムの町に向かいました。それは、ローマ皇帝が全世界に向けて、帝国内の市民はみな、住民登録をするために、一族の長の故郷に帰らなければならないと命じたからでした(ルカによる福音書2:1-5)。ベツレヘムに着いたばかりのヨセフとマリアは、マリアがお産を控えていることもあり、宿屋を転々としながら、自分たちが泊まれそうな場所 を探して、ゆっくりとゆっくりと町中の宿屋を転々としました。 我が家の子を含めた子供たち、その様子をかわいい、キャッチーな歌で表現していました。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 マリアとヨセフがこのように尋ねるたびに、宿屋の人々は扉を開けますが、「申し訳ありませんが今夜は満室です。」と言い、その扉を閉じます。 「申し訳ありませんが、今夜は宿は満室です。他をお探しください。」 拒まれたヨセフとマリアは、町中を歩き回り、次々と宿屋のドアをノックし続けます。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 だんだんとヨセフもマリアも声の力が弱くなっていきます。しかし、それでも彼らはなかなか泊まる場所を見つけることができません。 そして最後の宿に着くと、初めは宿屋は他の宿と同じように二人の申し出を断ります。しかしヨセフとマリアは必死に懇願します。 「お願いです、どこでもいいんです。私たちにはもうすぐ赤ちゃんが産まれます。お願いです。どこでもいいんです。」 この宿屋の人は少し考えると、ドアを少し大きく開け、二人に向かって言いました。 「わかりました、今空いているスペースは散らかっていて、あなたが必要としている状況にはふさわしくないのですが、それでもよろしければお入りください。」 マリアとヨセフは宿屋の中に通され、馬小屋へと案内されました。そして二人は、この世の救い主であり、王の王であり、不思議な助言者であり、力ある神であり、永遠の父であり、平和の君(イザヤ書9:6)である赤ん坊イエスを、汚く、雑然とした、臭う飼い葉桶の中に置きました。イエス様は始めは、両親と動物たちによってのみ、このようにしてこの世に迎え入れられ、産まれる前から拒絶された方だったのです。 「空いているスペースは散らかっていて、ふさわしくないのですが、それでもよろしければどうぞお入りください。」 これは、宿屋の人がヨセフとマリアに言った言葉です。 もしかしたら皆さんはそうでもないかもしれませんが、私にとって、自分の家が散らかってい たり、また私の人生がめちゃくちゃな、悲惨な状態にある時に一番したくないことは、誰かを招き入れ、私の散らかった家や、私の惨めで悲惨な人生をありのままにその人に見せることです。「入ってもらってもいいんだけど、散らかっているし、何か嫌なものを見つけるかもしれないけど、それでもよかったらどうぞ入って 。」と言うのはなかなか覚悟のいることです。 皆さんはどうですか?このような状況の時に、「どうぞどうぞ入って。」と言えるでしょうか。なかなか難しいのではないでしょうか。さらにこのように言うのも難しいですが、一歩進んでそのことを実際に実行するのはもっと難しいと思います。 「散らかっているのは分かっているけど、どうぞお入りください」と言うのも難しいですが、実際にドアを大きく開け、自分自身の家、人生をさらけ出し、ドアをノックしていた人を汚れて散らかっている自分の家、自分の人生の中に招き入れるのは、とても難しいことです。 そう思いませんか?でも、どうしてそんなに難しいのでしょう? それは私たちが皆人間であり、人間は批判されたり、裁かれることを恐れるからです。私たちの部屋の状態や生活の状態を見たとき、相手がどんな反応を示すかわからない。それは危険が伴うことです。愛情深く受け入れてもらえる保証はどこにもありません。相手が入ってきて、あたりを見回して、「うわ、思ったよりひどいね」と言うかもしれません。どうしてこんなことに?片付けなよ。人生変えないとダメなんじゃない?」 たしかにそのように言われる可能性はあるし、その可能性を考えると恐怖を感じるでしょう。けれどこのような可能性もあります。つまり私たちが想像もしないような反応を受ける可能性 もあるのです。 相手は優しい目で、愛情を込めてこう言ってくれるかもしれません。 「入れてくれてありがとう。きっと簡単なことじゃなかったよね。」 「でもあなたの部屋、あなたの人生がメチャクチャなんてことはどうでもいい。今夜私はあなたに会いたかった。」 このクリスマスの夜、イエス・キリストが私たち皆のために生まれてきてくださったことを心から信じる者として、確信を持って言えるのは、私たちの主であり救い主のイエス様はいつもこのように、裁きではなく、愛の言葉をかけてくださる神様ということです。 「あなたの家も、あなたの人生も、めちゃくちゃでも構わない。私はあなたに会いたいから。どうか、あなたの人生に私を入れてください。」 あなたが心の扉を開けるつもりであるなら、批判や裁きを恐れていながらも、あなたがリスクを冒して心の扉を開き、イエス様を迎え入れようとする限り、イエス様はいつもあなたに言ってくださいます。 「あなたの家も、あなたの人生も、めちゃくちゃで構わない。私はあなたに会いたいから。どうか、あなたの人生に私を入れてください。」 神様は決してあなたと関係を築き、深めることを諦めず、いつもあなたの心のドアを叩いています。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 神様は、あなたの散らかった部屋と散らかった人生に神ご自身が入って、留まることを望んでおられます。その思いが絶えることはありません。もちろん、私たちは自分の目で神様の 存在を確認できるわけでもないし、人の声、街の声など、他の音を聞くのと同じように神様の声をはっきりと聞くことができるわけでもありません。 しかし、あなたが心の扉を開く時、神様は私たちに直接語りかけ、こう言ってくださいます。優しく、温かみのある声でこのようにささやいてくださいます。 「入れてください。私はあなたを愛しているよ。何があっても。私はあなたを愛しているよ。」 クリスマスの物語を聞くのが初めてであろうと、100万回目であろうと、神様は今夜も、いつも同じことを私とあなたたちに語ってくださいます。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。あなたにどうしても会いたいから♪」 この呼びかけに私たちはどのように応答したら良いのでしょう?どう答えればいいのでしょう?あなたの心のドアをノックする神様の声に、私たちはどう答えればいいのでしょう? 私自身は、次に聖歌隊が歌う賛美歌「In the Mid-Bleak Winter」(木枯らし寒く吹きすさび)の4節にその答えを見つけました。その歌詞はこうです。 主に何をさしあげられるだろう わたしのように貧しいものは。 もしもわたしが羊飼いなら 子羊を持っていくのに。 もしもわたしが賢者(東方の博士)なら、 その才知を役立てるのに。 今はわたしにできることをさしあげよう わたしの心をさしあげよう。 聖歌隊が歌うとき、私は皆さんに、美しいメロディーに混じり合う声の響きを味わうだけでなく、歌詞の言葉そのものを味わっていただきたいと願っています。神様の静かな、ささやくような招きに心の目と耳を開き、自分の心の扉を開くが準備ができているか是非思いを馳せてみてください。 「クリスマスの本当の意味」| ルカによる福音書 2:8-20 (新改訳) | 神戸ユニオン教会クリスマスイブ礼拝 | 2023年12月24日 | 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師12/24/2023 祈りましょう。神様、今朝、私たちがクリスマスの本当の意味を理解できるように
助けてください。イエスの御名によって、アーメンと祈ります。 今日のメッセージの準備をしながら、私はクリスマスの良い知らせとは一体何なの だろうと考えていました。今朝読んだお話しの中にはこうあります。夜、夜番で野 宿しながら、羊の世話をしていた羊飼いたちに主の御使いが現れ、こう言います。 「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビ デの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キ リストです。」(ルカによる福音書2:10-11) 亜希子、今更何を言ってるの?教会で育った子供たちですら、なぜクリスマスが私 たちにとって良い知らせなのかを知っているでしょう。昨晩、私が私の子供たちに 、「なぜクリスマスが大きな喜びの良い知らせなのか?」と尋ねたとき、子供たち も御使いが羊飼いに告げたことと同じことを言いました。私たちの主であり、すべ ての人のため、民全体の救い主であるイエス・キリストが、クリスマスの日にお生 まれになりました。その通りです。 しかし、私の疑問は、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生が、 具体的に私たちにとって、どのような良い知らせなのかということです。私たちは 本当に知っているのでしょうか?説明できるのでしょうか?クリスマスの本当の意 味を。 今日のメッセージの原稿を書く時、私は我が家のクリスマスツリーが飾られた部屋 の一角に座っていました。朝早い時間で、まだ暗かったので部屋の電気をつけたほ うがよかったにもかかわらず、私は部屋の電気を消したままでいました。なぜなら 真っ暗な部屋の中で、ツリーの美しさに魅了されていたからです。今日の説教原稿 を完成させるために手と頭を動かし続けるべきだったにもかかわらず、私は手を止 めました。していることを止め、我が家に飾られたクリスマスツリーを見つめまし た。 我が家のクリスマスツリーは、礼拝堂にあるクリスマスツリーほど大きくもないし 、豪華でもありません。我が家のクリスマスツリーは部屋の大部分を占拠するので もなく、隅に置かれています。クリスマスツリーが置かれている部屋は、しばしば 人々が滞在したり、私たち家族が、友人や教会の人と神様と共に過ごすために歌を 歌ったり、祈ったりする場所です。もちろん部屋の電気を消したままで、部屋が暗 かったので、クリスマスツリーの美しいディテールは見ることができませんでした 。しかしそれでも、クリスマスツリーを見て、私はその美しさに心を奪われました 。ツリーに飾られた白と金色のライトが点いたり消えたりしています。ライトがつ くと、ツリーに飾られたそれぞれのオーナメントの形や色がクリスマスツリーの美 しさを引き立てているのがわかりました。 「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビ デの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キ リストです。」(ルカによる福音書2:10-11) 御使いからこの事を聞いた羊飼いたちは、おそらくこれが自分たちにとって、いっ たい何を意味するのか最初は理解できなかったでしょう。なぜ、この知らせがすべ ての人々に喜びなのか?そして、なぜこの知らせが羊飼いたち自身に届けられたの か?羊飼いではなく、もっと力のある人、もっと有名な人、あるいはこの知らせを 受け取り、お礼に多くの素晴らしいお返しを送ることができる人にこの知らせが届 かなかったのだろうか? その昔、羊の世話は多くがやりたがらない、低俗な仕事のひとつと考えられていま した。羊飼いは羊の血や糞に定期的に触れており、そうすることで汚れていると考 みなされていたからです。彼らは汚れた、触れられるべきではない存在とみなされ ていました。だから彼らは社会から疎外されていたのです。 闇が刻々と深まる夜、救い主である赤ん坊イエスの誕生の知らせは、まずこの羊飼 いたちに伝えられました。 それを聞いた羊飼いたちは、自分たちの働きを止めます。動かしていた手や足を止 めました。すると突然、大勢の天の軍勢が天使に加わり、共に神を賛美して言うの を見ました。 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々 にあるように。」(ルカによる福音書2:14) 羊飼いたちの目は、御使いと天の軍勢に釘付けになりました。羊飼いたちは、自分 達の目の前に、何か特別で、美しく、荘厳なものを見たのです。羊飼いたちは目撃 した美しさは、私が魅了されたクリスマスツリーの美しさの1000倍、いやそれ以上 だったに違いありません。羊飼いたちは、御使いと天の軍勢に出会ったですから。 私はただ自分の家にあるクリスマスツリーを眺めていただけです。でも、そんなこ とは関係ないのです。羊飼いたちと私、比べてみてどちらがより畏敬の念を抱いた かというのが問題ではないからです。 重要なのは、羊飼いたちと私は、動かしていた手と足を止め、次に何をすべきかを 常に考えることをやめ、神様が目の前に差し出す美しさを見つめたということです 。 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生の知らせのどこがそんなに 喜びあふれる良い知らせなのでしょう?結局、羊飼いたちの生活は厳しいままです 。羊飼いたちは、まだ汚れた者として多くの人々に敬遠されたままでした。報酬も 低いままです。御使いと、天の軍勢から知らされ、イエスキリストに会いに行きま したが、羊飼いたちの生活はガラリとは変わりませんでした。彼らは負担の大きい 仕事にまた戻っていったのです。 私は自分が生きる世の中を見つめる時、そこに暗闇を見ます。今年もまた新たな戦 争、紛争が始まりました。財政的に苦労している人はたくさんいます。賃金は変わ らないのに、生活費はどんどん高くなる一方です。いろいろな病気が流行り、多く の人が病気にかかりました。人々は忙しく、ただ生活するのに必死です。子供たち は聞き手を必要としています。大人たちも、他の人間との繋がりに飢えています。 しかし、私たちは皆忙しくし、手と足を動かし、なかなか心を休めることもありま せん。 では、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生の知らせを受けても 、物事が何も変わっていないように見えるとしたら、何がそんなに喜び溢れること なのでしょうか?本当にこれは良い知らせなのでしょうか? そんなことを考えながら、私は立ち上がって我が家のクリスマスツリーのある部屋 の明かりをつけました。羊飼いたちも立ち上がり、互いに言い合いました。 「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て 来よう。」(ルカによる福音書2:15) 明るい部屋のクリスマスツリーも、暗い部屋のクリスマスツリーと同じくらい美し いものです。ツリー自体は何も変わっていません。別にオーナメントを増やしたわ けでもありません。しかし、部屋の明かりをつける時、それぞれのオーナメントや ツリーのディテールがより良く見えるという意味で、ツリーはより美しくなったと 言えます。それぞれのオーナメントが独自の色と形の美しさを発揮し、点灯してい るクリスマス・イルミネーションの周りで輝いていました。 明かりのついた部屋に佇むクリスマスツリーの美しさに、パソコンの上で忙しく動 く私の手が止まりました。私は深呼吸をして、目の前に映る美しさを見つめました 。 羊飼いたちは、それまでしていたことを止めました。救い主が生まれたという知ら せを聞いた彼らは、ベツレヘムの町へ出かけ、「布の帯に包まれ、飼い葉桶に寝か されている子ども」(ルカによる福音書2:12) を見つけます。私たち全ての民を救う ために生まれてきた赤ん坊のイエスに会いに行ったのです。 羊飼いたちは、自分達に課された働きを止めている間、美しい瞬間を体験し続けま す。赤ん坊のイエスに会いに行き、そこでイエスの両親に出会います。羊飼いたち は、御使いから聞いたことをイエスの両親に話します。天の軍勢も現れ、共に神様 を賛美していたことを。(ルカによる福音書2:13-14) 羊飼いがそう言った時、そこ にいたすべての人が驚きました。(ルカによる福音書2:18)畏敬の念を抱きました 。羊飼いが見た美しさを分かち合うことで、クリスマスの物語はさらに生き生きと 輝き出しました。 クリスマスの本当の意味はこうです。私たちが生きるこの世界は完全ではありませ ん。病んでいます。私たちの生活や世界には目を背けたくなるほど、辛く厳しいこ とがあります。しかし、私たちの神様には、忙しく手や足を動かし、心配で頭や心 を埋める私たちを止める力があります。なぜなら神様が造り出すものには、この世 を超えた美しさと荘厳さがあるからです。忙しく日々働く、私たちの人生の喧騒の 中で、私たちの足を止めことのできる神様。私たちは立ち止まり、この暗闇の世界 でもまだ輝きを放つ神様が造り出した美しさを見つめるよう招かれています。 多くの人にとって、クリスマスの後も忙しい日々が続くと思います。これから年末 に向かっていきます。皆さんの人生は厳しい大変なままかもしれません。しかし、 クリスマスの物語は私たちにこう語りかけ、励ましてくれると私は思います。今し ていることを止めて、立ち止まってみて。人間が造ることのできない、この世を超 えた神様が造り出す美しさと威厳をこの暗く沈む世の中、人生の中で見つけましょ う。神様はそういう風に私たちに語られておられるのではないでしょうか?あなた が発見した美と威厳の背後には造り手の神様がおられます。それはクリスマスツリ ーから、今日のお話しから、子供たちの笑顔から、自然の美しさから、そしてもっ と多くのことから見つけることができます。私たちの主であり、救い主である方が お生まれになり、私たちの世界を明るく照らすからです。 祈りましょう。 |
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May 2024
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