ウジヤ王が死んだ年のことである。 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかもわたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 そのとき私は主の御声を聞いた。「誰を使わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
ある日曜日、一人の女性が牧師のところにやってきて、彼が説いた説教に感謝しました。 牧師は言いました。「私に感謝するのではなく、神に感謝しなさい」と。彼女は 「まあ、そう思ったけど、それほどでもなかったわね 」と答えました。 KUCの礼拝に説教だけを聞きに来る人は少ないと思います。全ての説教が特別で心に響くとは約束できませんが、今日の礼拝のある面、例えば祈り、音楽、聖書朗読、共同体としての礼拝があなたの心に聖霊を触れさせることを願っています。 礼拝とは、神を賛美し、神を知ろうとすることです。ワーシップという言葉は文字通り 「価値を与える、価値ある仲間」という意味です。私たちは神を礼拝するため、神に価値を帰するためにここにいます。神は私たちを、神を賛美し、礼拝したいという願望をもってお創りになりました。 神についてもっと知りたいと願った有名な人物の例を挙げましょう。アン・サリヴァンはヘレン・ケラーの教師でした。ヘレン・ケラーは目が見えず、耳も聞こえませんでした。彼女の先生であるアン・サリヴァンは、彼女の手の中で言葉を綴っていました。ある日、アン・サリヴァンはヘレン・ケラーの手に、「今日は神様のことを教えてあげます 」と綴ったのです。ヘレン・ケラーはアン・サリヴァンの手の中で綴り返しました。「よかった ずっと考えていたのよ」。 誰も神について教えてくれていませんでしたが、彼女の心の中では長い間、神について考えていたのです。彼女は内心、神を礼拝したいと願っていたのです。今日ここにいる私たちの多くも、そのような思いを持って造られたのです。 9月4日に私は礼拝についての説教をしました。 見逃した方は、ウェブサイトか教会のFacebookで録画を見るか、原稿を読んでください。 今日も礼拝に関する説教をします。今月の説教のテーマは"礼拝"です。 前回の説教で礼拝の様々な側面をお話ししました。多くの場合、礼拝は神の偉大さをあらためて認識するときに体験されます。イザヤはそのような体験をしました。イザヤは礼拝を体験することによって、神の偉大さに対する認識が高まったのです。彼が経験した礼拝は、彼が神を求めたいという願望を持っていたから起こったのです。 今日の聖句はイザヤ書から見てみましょう。 イザヤは民を罪から贖うメシアの到来を予言した、聖書の中で最も有名な預言者の一人です。今回は彼のビジョンと礼拝との関係についてお話しします。 また、今日の週報でイザヤ書6章の私たちの礼拝につながる部分をハイライトしているのをご覧ください。イザヤ書は礼拝と賛美から始まりました。それは私たちが礼拝への呼びかけや、開会の賛美歌や、間の賛美歌を歌うことで行うことです。イザヤは高みにおられる主を、凄みと尊敬の念を持って見て賛美しました。そしてイザヤは自分が "失われた者 "であり、"汚れた唇 "の人間であることを語っています。彼は自分の罪を告白しているのです。 5節を見るとイザヤは自分の罪を自覚していることがわかります。私たちは自分の罪を隠したり、覆ったりして、本当に礼拝することができないのです。イザヤはこのことを知っており、私たちもこのことを知っており、神様もこのことを知っておられます。ですからこの部分は「告解の祈り」なのです。神とそのすべての威厳を見ることによって、イザヤは個人としても民の一員としても罪深い存在であることがわかりました。イザヤは、イザヤ書の最初の5章で読んだ非難したすべての邪悪な行為から距離を置くことができません。イザヤはここで神と向き合いながら、自分を正しい者の中に数えることができないこと、自分が民から切り離され、他の者の上に持ち上げられていると見ることができないことを悟ります。自分もまた、汚れた者、聖くない者、罪人であることを。 するとセラフィムの一人が(それが何かは後で説明します)イザヤのところに飛んできて、炭で彼の唇に触れて言いました、「あなたの罪は去り、あなたの罪は消された」。 これは「保証の言葉」「赦しの言葉」です。イザヤは神の声を聞き、「私はここにいる、私を遣わしてください」と神に答えます。 ベネディクション、祝祷は、神からの祝福であり、私たちを世に送り出すことです。イザヤは礼拝で主を見た後に、民に語りかけに行くように命じられたのです。イザヤは聞き、応えました。それは前740年当時のイザヤだけでなく、今日神を礼拝する私たちにとっても大きな意味を持つものです。彼は礼拝という行為を通して、自分の使命と神の愛に気づきました。 私たちも礼拝を通して神の臨在に引き込まれます。しかし私たちはそこにとどまるのではなく、イザヤが遣わされたように、世に出て行くようにと召されているのです。 とにかく、イザヤの礼拝の仕方と私たちの礼拝の仕方が(熱い炭と空飛ぶセラフィムを除いて)つながっていることがお分かりいただけたと思います。 さてセラフとは何かというと、すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれませんがお知らせします。 私は幼い頃から天使に魅了され、教会で” Holy, Holy, Holy, Lord God Almighty”という讃美歌を歌ったとき、母にセラフィムとは何かと尋ねると、母はよく知りませんでしたが、たぶん天使のことだろうと答えました。天使にはいろいろな名前があると聞いて、とても興味を持ちました。 讃美歌の2節、64ページの3行目、"cherubim and seraphim falling down before thee "を見てください。 セラフとは、神の御座を守る天使(天上人)のことで、光や純潔を連想させるものです。Wikiで調べると ヘブライ語では、"saraph "は "燃えるもの"を意味するそうです。セラフで複数形がセラフィムです。 Tienenさんの今日の聖句のイラストを見ると、とてもかわいいセラフが描かれていますね。セラフには6枚の羽があり、2枚で顔を覆います(神様の顔を直接見てはいけないからです)。残りの2枚の翼は足を覆い(これは謙遜を表しているのかもしれません)、最後の1組の翼は空を飛ぶためのものです。 セラフィムはその2枚の翼で飛びながら、神に仕える意志と能力を表現しているのです。 チャールズ・スポルジョンはセラフィムについて次のように述べています。「このように、彼らは崇拝のための4つの翼と活動するエネルギーのための2つの翼を持っており、4つは身を隠すため、2つは奉仕に集中するためです。崇敬は活力よりも大きな割合でなければならず、崇拝は活動を上回らなければなりません。イエスの足元にいるマリアが、マルタや奉仕に励む者よりも好まれたように、神聖な敬虔さを第一とし、精力的な奉仕はその後に続けなければなりません」。 神学者ジョン・カルヴァン(1509年7月10日~1564年5月27日、フランスの神学者、牧師、プロテスタントの改革期、ジュネーブの改革者)の言葉によると 「天使が飛ぶ2枚の翼は、神の戒めを用意周到に実行することにほかならない......。天使が顔を覆っている二つの翼は、天使でさえ神の輝きに耐えられないこと、そして私たちが太陽の輝きを見つめようとするのと同じように、神の輝きによって目がくらむことを端的に示している。」 この言葉を念頭に置きながら、別のセラフの絵を見てみましょう。私はTienenさんの絵の方が好きです。 今、セラフィムの話をしましたが、ケルビムも外せません。聖書にはケルビムという言葉も出てきます。 セラフィムとケルビムは本当に同じ天使天族であるという説と、少し違うという説があります。ケルビムは4枚の翼を持つことが知られていますが、セラフィムは6枚の翼を持つことが記述されています。ケルビムの主な働きは神を助けることですが、セラフィムは神を賛美するために存在します。 (https://askanydifference.com/difference-between-cherubim-and-seraphim/)。 また、セラフィムがなぜ「聖なる」と3回も繰り返したのかが気になりました。 なぜ一度だけではないのでしょう。 ヘブライ語では、強弱は繰り返しによって伝えられます。主は聖なる、と言うのは良いことです。主は聖なる、聖なる と言えば、より良いでしょう。 聖なる、聖なる、聖なる、と言うことは最高であり、神の聖性を可能な限り高く宣言しているのです。ジョン・カルヴァンは、セラフィムが「聖なる」と三回言ったのは、唯一の神の中に三つの位格があるからだと言いました。カルヴァンはこの聖句が三位一体を証明する最高の聖句だとは思いませんでしたが、それでも彼はここに三位一体の真理を見いだしたのです。 彼は、「古代の人々は、神性という一つの本質の中に三つの位格があることを証明したいときに、この箇所を引用した......」と述べています。私は、天使たちがここで三位一体の神を表現していることに疑いはないと思います。 私たちは讃美歌64番 "Holy, Holy, Holy, Lord God Almighty "の1節と4節で "三位一体の神、祝福された三位一体!"と歌っています。 私たちは礼拝するとき、神がいかに聖なる存在であり、壮大な存在であるかを考えることができます。 イザヤの心は神に仕えるために焚きつけられ、火がつきました。礼拝は私たちにもそのように作用するはずです。彼は神の清めの火に触れた心を持っていたのです。私たちの心は礼拝の時に触れられます。 イザヤは神の呼びかけに答えました。 礼拝は私たちが神の呼びかけに答えるのを助けてくれます。 ドイツの司祭で神学者のマルティン・ルター(1483年11月10日-1546年2月18日)は礼拝についてこのように言いました。「自分の家では、私の中には暖かさも元気もないが、教会で大勢の人が集まると、私の心の中に火がつき、それが道を切り開いていく。」と。 私は礼拝を心の中で燃える炎だと思いたいのです。 皆さんも自分の中にある情熱や炎、そして礼拝に対する思い、好きなスタイル、それがどのように自分を変えていくのか、などを持っているのではないでしょうか。礼拝の後、説教ディスカッションクラスにお越しください。今日は私の息子でルーテル派の牧師になる山本コーが賛美について語りますので意見を交換しましょう。オンラインまたは直接ご参加ください。 イザヤは言いました。「主よ、私を遣わしてください」。 イザヤは困難な旅をしていました。私たちも困難な旅路を歩むかもしれません。しかし、私たちはどんなに困難な旅であっても、私たちを決して見捨てない神を礼拝しています。 イザヤの体験を読むと、そこには大きな畏敬の念があることが分かります。イザヤが神殿に入ると、そこに神がおられました。今、神はどこにでもおられることを知っていますが、聖書には、二人または三人が神の名によって集まるところには、神が私たちの間におられると書いてあります。集まって神を礼拝することには、いつも何か特別なものがあります。 私たちは礼拝の中で、畏敬の念と喜びのバランスをとることに悩むかもしれません。以前、礼拝について説いたとき、私たちは朝起きたとき、神を礼拝する気になれない日があるかもしれないと言いましたが、とにかく礼拝をすることができます。 毎日、目を開けるときに、賛美と感謝の短い祈りを捧げるだけでいいのです。教会に来る気がしない日もあるかもしれません。強制はできませんが、共同体として礼拝することをお勧めします。 喜びを感じるかもしれませんし、悲しみを感じるかもしれませんし、悔い改めの必要を感じるかもしれませんし、自分を呼んでいるように感じるかもしれません。 イザヤが神の前に出たとき、彼は自分の罪の大きさを感じました。すると、セラフィムの一人が彼のもとに飛んできて、火から炭を一つ取って、それで彼の唇に触れました。この行為によって、彼の罪は取り除かれ、清められたと書かれています。礼拝は、私たちに罪を告白する動機を与えますが、それで終わりではないのです。私たちが神に従い、神に赦しを請う時、神は私たちの罪を赦してくださるということを理解する動機にもなります。そして、私たちは今日、この礼拝の場所で、恵みとあわれみの神を知り、神が私たちを赦してくださったことを喜びながら、ここを去ることができるのです。 神の恵みなしには、あなたも私もキリストのもとに来ることはなかったでしょう。聖霊は私たちを導いてくださいます。今日、あなたの心に聖霊を触れさせてください。 神の恵みはすべての人に及び、今日、私たちが共に礼拝するとき、神が私たちと共にいてくださることを知っていてください。 祈りましょう。天と地の神さま。あなたがイザヤを火の炭で清めて、世界にあなたの言葉を宣べ伝える準備をさせたように、私たちもあなたの招きを知り、熱心さと緊急性をもって自分の召命を遂行するために、私たちを整えてください。あなたの偉大さと愛を世に示してください。もしあなたを知らない人がいるならば、あなたの赦しの清めの力に触れ、イエス・キリストを人生に受け入れることができるようにしてください。 私たちがあなたを礼拝するたびに、あなたの聖霊が私たち全員を変えてくださいますように。 あなたを礼拝することが、私たちの心をあなたに向けさせ、あなたの御心を実現する方法となるように。イザヤが言った言葉、「私はここにおります。主よ、私を遣わしてください」 と言う強さと勇気を与えてください。アーメン。
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例え話の構成
メッセージ - 主イエスは弟子たちに譬えの説明をする前に「聞きなさい」と言われました(18節)。私たちは注意深く耳を傾け、この教えから得られる重要なことを記録して残しておきましょう。 皆さん、おはようございます。ビッコ・ムリエルと申します。今回が初めてではありません。この前の青年会主催の礼拝で、初めて証をしました。その時はまだフィリピンにいたので、ビデオ録画からでした。直接、主が私の人生に起こしてくださったもう一つの奇跡を分かち合うために、今私はここにいます。
私は昨年11月に来日しました。日本での生活を始めてから1ヶ月で膝の痛みと腫れがひどくなってきました。痛風の痛みだと思っていたのです。フィリピンにいたときにから痛風の持病を持っていました。だから、あまり気にせず、痛み止めを飲んで痛みを軽減していました。しかし、数週間経っても痛みや腫れがいつものように引かないのです。そんな中、妻が検査を受けるように言い張りましたが、私は行きませんでした。なぜなら、フィリピンではそれほど医者に行く習慣がなかったからです。たぶんそれは、診察が常に高額で、日本のように保険が充実していないし、あるいは、フィリピンでは薬を手に入れるのがとても簡単で、自己診断して薬局に行っても強い鎮痛剤やほとんどの種類の薬を買うことができるからです。しかし、妻が検査に行くようにと言い続けたのは良いことでした。だから、行ったのです。レントゲンも撮ったし、医師は膝の水を抜き、MRIの検査をすることになりました。この時点では痛みはひどく、杖をついて歩かなければならないほどで、足を曲げたり伸ばしたりすることもできなくなりました。 MRIの結果、医師は右膝前十字靭帯が断裂していると言い、両膝は重度の変形性膝関節症と診断されました。そこで尼崎の専門医を紹介され、この医師は、手術が必要であれば手術もできると言われました。その上、今かかっている医者より英語が上手だそうです。それで、その医師のところに行ったのですが、残念ながら、その医師は手術という選択肢はもうない、ダメージはすでに大きすぎるし最初の医師が見た問題の他に、非常にひどい骨棘が見られるとのことでした。その医師は、基本的に一生この問題と付き合っていくことになるだろうと言いました。できることといえば、毎週ヒアルロン酸を注射して痛みを管理することだけだと言われました。 そこで私は注射をしたのですが、ここからが神様の素晴らしいお働きを実感できるところです。注射を打ってから1ヶ月ほどで、私は肺を患ってしまいました。これはまた別の日曜礼拝でお話します。しかし、私は5週間ほど入院しました。 そのため、何週間か注射を受けられませんでしたが、体重も28kg減りました。 退院後、注射を打っていたクリニックに行きましたが、すでに注射の予約の有効期限はすでに切れていて、注射が打てなかったのです。言葉の問題で医師と予約が取れないことで、私と妻は予約を取るのに大変苦労しました。 絶望的な気分でした。 そんな時、故郷の教会の仲間の一人が、彼女の整形外科医を勧めてくれたので、その整形外科に行くように言われました。彼女は一緒に病院までついてきてくれました。そこで私はまた同じ検査をして、先生も同じことをおっしゃいました。手術はしないし、同じ診断でした。しかし、彼はもう少し希望を持っていたのです。また注射を打ってもらいそして、3ヶ月間、毎週膝のリハビリをするように言われたのでそうしました。9月1日、3ヶ月のリハビリを終えてその先生のところに戻ると、先生は私の体調と膝の状態に驚きを隠せませんでした。そしてもうリハビリは必要ないと言われ、膝はもう大丈夫になりました。医師はまたバスケットボールをするようにとも言われました。 帰国後、最初の2人の医師の話を聞いて、自分がどれだけ絶望的な気持ちだったかを振り返らずにはいられませんでした。杖をついて歩くことになるだろうということを、すでに受け入れていました。その時、私は絶望的な気持ちになりました。そして、少なくとも4つの教会が毎週、いや毎日、私の回復のために祈ってくれていたことを思い出しました。KUCもその一つです。私たちは絶え間なく、執拗に、私たちは祈りました。神様は答えてくださいました。医者がノーと言ったとき、神様はイエスと言われました。もうまっすぐ歩くのは無理だと言われた時、神様は「走れ」とおっしゃいました。もうだめだと言われたとき神様は「信じろ、俺がついてる」と笑って言われたのです。 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。われらの岩、われらの贖い主、主よ。(詩篇19:14)アーメン。
今月の説教のテーマは「礼拝」です。そのことを念頭に祈っていると、今日の聖書箇所詩篇95章が与えられました。私が愛用するNRSV訳(英語)の聖書では、詩篇95編には「礼拝と従順への呼びかけ」という題がつけられています。詩篇95章の最初の7節は、歴史の長いキリスト教の礼拝において、今日でも私たちが続ける主を礼拝する方法が描写されています。 「さあ、主に向かって喜び歌おう。」(詩篇95:1) 「われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」(詩篇95:2) 「賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」(詩篇95:2) この詩篇は、主に向かって歌い、音楽を奏でることが、私たちが神様を賛美する方法であることを明らかにしています。詩篇95章は、私達の創造主である神様に向かって、声を上げて賛美し、喜びの声を上げようと私たちに招きの言葉を語りかけるのです。さらになぜ私たちが神様に向かって賛美をするのかを説明しています。 「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって大いなる王である。」(詩編93:3) 「主は私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。」(詩編93:7) 礼拝において私たちは、この世のあらゆる権威の上に立ち、私たち一人ひとりを、そして地上のすべての被造物を愛情をもって創造された神様を褒め称えます。礼拝を通して私たちは、神様は全能で無限の力を持つ創造主でありながら、私たちと密接で個人的な関係を築くことを選んだくださったという事実を祝うことができます!神様は私たちを神様の子供にしてくださいました。(エペソ人への手紙1:5) 神様に属し、神様の子供と名乗ることができる今、私たちは、私たちの創造主であり贖い主である主の御名を称えずにはいられません。賛美を通して私たちは、最も恵み深く、慈しみ深い、歓迎してくださる主に最高の誉れを捧げるのです。 しかし、私たちの心にある賛美の気持ちがどれほど強かったとしても、礼拝はただ歌い、音楽を奏で、最も高くおられる主の御名を掲げるだけのものではありません。礼拝の目的はそれだけではないのです。礼拝は、私たちがもっと深く、もっと個人的な意味で神様とつながるための方法です。私たちは気づいていないかもしれませんし、意識していないかもしれませんが、私たちが賛美を歌い、主の御名を掲げるとき、私たちが実際に行っていることは、謙遜を持ち自分自身を低くしているのです。 賛美と礼拝の空間において、私たちはすべてのものを造る、創造者ではなく、私たちの周りの世界を形作る者でもないことを認識するようになります。私たちは陶器師ではなく、粘土なのです。(イザヤ書64:8) 私たちは自分の人生の著者でもなければ、人生における計画の立案者でもなければ、自分の道を導く者でもありません。私たちが神様の前に出て礼拝するとき、私たちは自分の声よりも高く、偉大で、力強い方の声を聞くことができるように、自分の声を静かにし、心を静める必要があることを認識します。 「きょう、もし御声を聞くなら、」(詩篇95:8) 私たちは御声に耳を傾けることができますようにと祈り求めます。 私たちの多くは、神様を賛美し、主に向かって歌い、いと高き方に感謝を捧げることに問題があるとは思えません。神様を賛美することは私たちの顔に微笑みをもたらし、心に喜びをもたらし、私たちを高揚感で満たし、それらを私たちは経験したいと思います! 多くの人にとって、賛美することは難しいことではないように思います。 しかし、私がよく人から聞くのは、神様が自分に話しかけていないように感じることがあるということです。つまり、神様が礼拝や生活の中で自分自身に対して沈黙されているように感じるというのです。今日の聖書箇所は、そのようなことが起こる一つの理由が示されています。つまり、私たちが神様の声を見失い、自分の人間的な声に従うようになる理由です。 それは頑なな心が原因です。 私たちの多くが、頑なな心が良いものではないことを認識していると思います。頑なな心を持つということはキリスト教において新しい考えではなく、むしろ聖書における主要なテーマの一つです。聖書の物語には、頑なな心は神の壮大な計画の達成を阻むものとして説明されています。 私たちは頑なな心が信仰において、悪いものだと認識していますが、なぜ悪いのか、頑なな心がどのようなものなのか、そして私たち自身や教会生活において、頑なな心が芽生え始めたらどうしたらよいのかについて、教会でそれほど時間をかけて話していないように思います。 私たちは、自分の心が頑なになるというのがどのような状態なのか、本当に分かっているでしょうか?頑なな心が、自分の身に起こる時、あるいは教会のコミュニティの中で起きる時、そのことを認識することができるでしょうか? そして、自分の心や周囲の人々の心が頑なになるのを見たとき、どのように正直に、愛情をもってその問題に対処し、そのような人々に接すればよいのでしょうか? 今日の聖句は、イスラエルの民が荒野で流浪の生活を送っていた時代、イスラエルの人々がどのように心を頑なにしたかという話について触れています。そのことを理解するために、出エジプト記を通して、どのように彼らの心が頑なになってしまったのかを見てみましょう。 イスラエルの民がエジプトで奴隷として激しく過酷な肉体労働を強いられていた時代、神様はモーセを召し、民を指導者であり、権力者であるパロから解放し、約束の地へ連れて行きました。しかし、特権から抜け出せないパロの頑なな心が邪魔をして、神の民を解放することがなかなかできませんでした。 当時のエジプト文化を考えてみると腑に落ちます。パロにはイスラエルの民を去らせることができない理由がありました。イスラエル人の労働力は国益に取り不可欠であり、彼らを奴隷ではなく、自由な人々として解放すれば、力の弱い指導者のように思われることを恐れ、おそらくパロはイスラエル人を引き留めようとしたのでしょう。神様がエジプトの人々にしるしと災いをもたらす度に、パロはイスラエル人を解放することを考えますが、権力を失うという恐れが彼の心を掴み、彼の心を頑なにし、彼はイスラエル人を解放することができなかったのです。 このことから、頑なな心については、私たちは次のように理解することができるでしょう。私たちの心が頑なになる時、私たちは物事を手放すことができなくなります。恐怖、心配、怒り、憎しみ、その他の感情が私たちの心を掴み、私たちの心を頑なにする時、新しいアイデアや別の考え方、他の視点を考慮することを拒否し、物事を抱え込んでしまうのです。 それだけではありません。キリスト教においては、頑なになった心は他の考え方に対して閉鎖的であるだけでなく、神様の考え方を考慮しないという大きな問題を抱えることになります。 今日の聖書箇所の8節を見ましょう。「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と書かれています。 メリバとマサは出エジプト記17章に登場する場所で、イスラエルの民が心を頑なにした結果、喧嘩や口論に陥ったという話です。エジプトでの奴隷生活から逃れたイスラエルの民は、荒野を彷徨う最中、神様が導くと約束された約束の地に向かっていました。 しかし、荒野の生活は厳しく、人々は砂漠をさまよいながら飢えと渇きに直面しました。そこでイスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から人々を救った指導者であり、そして自ら従うと決めたモーセに対して、不平を鳴らします。(出エジプト記17:2-3) モーセに従うことを選んだのはイスラエルの民自身であったにもかかわらず、恐怖と怒りが彼らを襲い、心が頑なになり始めたとき、彼らはモーセに対してこう言います。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」(出エジプト記17:3) イスラエルの民の頑なな心は、恐怖と怒りが支配し、モーセの中にも、お互いの中にも神の御姿を見ることができなくなったのです。恐怖は怒りと憎しみを生み、神様の計画に目を向けず人々が互いに助け合うべきことを見ようとも理解しようともしない頑なな心によって、モーセと人々の分裂は大きくなっていきました。 つぶやき、不平、非難が人々の間に雑草のように生え、頑な心という岩場を通してすくすくと成長していきました。 詩篇の作者は、95章の中で心が頑なになることを次のように説明しています。出エジプト記におけるイスラエルの民は、心を頑なにしただけではなく、心の迷った民となり、もはや神の道を知らないものとなったと述べています(詩篇95:10)。 心が頑なになるというのは、単に頑固であるとかそういうことではありません。クリスチャンにとって、心が頑なになるというのは、神の道を無視することであり、もっと悪いことには、完全に神の道を拒否することも含まれます。詩篇の作者は、私たちの心が頑なになるとどうなるかについてはっきりと述べています。「神の安息に入れない。」(詩篇95:11)つまり、私たちの心が頑なになると、神様が与えようとしてくださる平安や平穏も得られないということです。 聖書を通し私たちは、頑なな心は神の道を顧みず、神の御心が私たちのうちに、私たちの周りに、私たちを通して行われるのを妨げるものと理解することができます。私たちは、頑なな心を持つことにより、私たち自身だけでなく、私たちのコミュニティや私たちを取り巻く世界の調和と平和を妨げてしまうことを知らなければなりません。 頑なになった心は人間関係を壊し、私たちを互いに敵対させ、神様が私たちの中で、また私たちの間で働かれる方法、つまり交わりと愛の絆を断ち切らせてしまいます。 だから頑なな心を持ってはいけないのです。それはいけないことです。 しかし頑なな心を持つなと言うのは簡単ですが、それを実行するのは本当に難しいことです。なぜなら頑なな心を持つことは悪いことだと知っていて、そのような心を持たないというような単純な話ではないからです。なぜなら感情が高ぶると、私たち人間は自分の心が頑なになっていることに全く気づかないこともあるからです。 数日前の夜、私はドンと話していました、そして彼がとある発言をした時、その発言はわたしを苛立たせました。私はすぐにそのイライラした感情が、怒りに変わっていくことに気づきました。もちろん、私は怒りを抑えようと、まずは自分の力、自分の意志の力で怒りを抑えようとしました。 怒るのはおかしい、優しくない、思いやりがない、ドンにはドンの考え方があり、それは私とは違うこともある、それでいいんだ、いいはずなんだと私は自分に言い聞かせました。でも、どんなに自分を怒りから遠ざけようとしても、私の怒る気持ちはスパイラルの負に陥り始めたのです。 なので、私は立ち上がって部屋を出ました。私の中では事態が悪化する前に冷静で理性的な行動を取ったつもりでしたが、今振り返ってみるときっと私のボディランゲージはまったく違う思いを物語っていたことでしょう(苦笑)。 そこで私は別の部屋に行き、座り、自分の中の怒りが改善も、悪化もせず、ただ煮詰ったのを感じていました。今週は説教担当で説教の準備があったので、原稿に戻ろうとしましたが、すぐに、いらいらしていて、神様の御言葉を取り次ぐという働きをできる精神状態にないことを悟りました。私はさらに怒り、動揺しました。私は自分の頭の中でドンを非難し始めたのです。 このような感情状態に陥らせた彼に私は腹を立てました。私が説教をしなければならないことを知っていながら、私をこんなにイライラさせ、こんなに怒らせるなんて、なんと思いやりのない人なんだろう!」そんな風に被害妄想を膨らませていきました。 その時、詩篇95章8節にある神様の言葉が心に響いてきました。 「心をかたくなにしてはならない。」 「心をかたくなにしてはならない。」 この箇所の「頑なになる」とは、単に「頑固になる、岩のようになる、動かない」という意味だけではありません。「指示に対し激しく、攻撃的に抵抗する」という意味もあります。私も神様の言葉から与えられた「心をかたくなにしてはならない」という指示に対し、その瞬間、私が怒りに身を任せ続け、強い思いを持ち続けたまま、自分は正当であると怒りを抱き続けたなら、ドンだけでなく、私自身、そして私たちの結婚生活、あるいは家族関係においても状況を不必要に悪化させることになったでしょう。 さらに神様はマタイの福音書21章24節を通し私の心に語ってくださいました。「...まず兄弟姉妹と仲直りし、それから贈り物を捧げなさい。」 私は、自分の心を頑なにさせていることにより、和解や平安を犠牲にしており、それが私とドンの関係において良いことなのか自問自答し始めたのです。 私は不機嫌で、怒ったままの、頑なな心で、神様に贈り物を捧げようとしていました。しかし神様が私に本当に必要されていたのは、私が戻ってドンと話をすることだったのです。必要だったのは、怒りのままに説教を書くことでも、怒りを否定して説教を完成させることでもなく、自分の気持ちを率直に伝え、ドンの思いを裁いたり非難せずに聞くことなのだと、私は気づきました。必要なのは、自分の痛みから来る心の傷から心を頑なにするのではなく、その傷に手放し、なぜ彼がそのようなことを言ったのか、彼を理解しようとすることだったのです。 だから私は彼のいる部屋に戻り彼と話し、そのことを神様に感謝しました。私たちが話し、お互いの話に耳を傾け、自分の感情、恐れ、傷、心配事を認識し、解決していくうちに、私の心が頑なな状態から柔らかくなっていくのを感じることができました。霧が晴れていくような感じで、次第に彼の視点も見えてきました。彼の言い分にも正当性があることを理解することができました。話せば話すほど、話を聞けば聞くほど、私たちの間に再び理解と愛が芽生え、会話の終わりには、私たちはずっと良い、ずっと幸せな気持ちになれたのです。 このようなことは結婚生活だけに起こることではありません。つい先日、私はカウンシルミーテイングで、教会のある奉仕活動の将来について、自分の考えを話していました。しかし、ある人が自分の考えと異なる考えをシェアしてくれた時、私は一瞬、その視点の違いに嫌な思いを抱き、私の心が頑なになる危険性を感じました。 なので頑なになり始めている心が完全に頑なになってしまわないよう、それを警告として受け入れると、その場で結論を押し通そうとするのではなく、もっと聞いて祈るようにと神様に導かれました。自分以外の人や考えを通して、神様がその議題において何をしておられるのかに心を開くと、神様が私の心をほぐし、他の人の声や考えに心を開くことで私の視野を広げてくださっているように感じられるようになったのです。 出エジプト記を覚えている人は、パロの心が何度も頑なになったことを知っていると思います。そのたびに、一人の人の心が頑ななために、イスラエルの民は奴隷という過酷な抑圧から逃れるチャンスを何度も失いました。しかし、よく考えてみると、パロの心は永久的に頑くなになったのではありません。何度も頑なさを解くチャンスがありました。 私たちがこの地上で生きている限り、心が頑なになることを完全に避けることは不可能でしょう。私たち人間は、本当に利己的な存在です。注意深くなければ、また自分の考えや感情をきちんと正直に見つめなければ、たとえクリスチャンであっても、自分の望みや必要を他の人よりも優先させるようになります。自分のやり方が優れている、自分が何が良くて、正しいのか、真実なのかを一番知っていると思い始め、そのような行動を取ってしまうのです。 私たちの心は頑なになり、神の道を捨て、何が正しくて何が間違っているのかを、自分自身の限られた理解から選択してしまうのです。 しかし、私たちにとって本当に良い知らせは、私たちには聖霊が与えられているということです。聖霊を通して私たちはイエス様のすべての教えを思い起こすことができるのです。(ヨハネ14:26)そして、聖霊の助けによって、私たちは自分の心が頑なになっていることに気づき、心を解き放ち、怒りを捨て、恐れを捨て、自分のこだわりにとらわれることなく、互いに和解することを選ぶよう、神の声に耳を傾け始めることができるのです。 「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」 (詩篇95:8) 聖霊は、神の思いは私たちの思いとは異なり、私たちの道は神の道とは異なることを私たちに思い起こさせてくれます。実際、神の道は私たちの道よりも高く、神の思いは私たちの思いよりも高いのです。(イザヤ55:8-9) 私たちの心は、私たちが思っているよりもずっと頻繁に頑なになります。それは大なり小なり毎日私たちに起こります。それが自分に起こることを認識すること、自分のやり方を押し通す、押し通したいと思う傾向が私たち人間全ての中にあること、恐怖や怒りなどの感情が私たちを包む時、相手を差し置いてでも自分の思いを押し通さなければならないというように私たちの心は頑なになること、これらすべてを認識することが、私たちがクリスチャンとして神、そして互いとの和解を追求するための大切な一歩となるのです。 手放すことを拒み、不平不満、文句で心を満たし、非難で口をふさぐのではなく、自分のやり方が唯一の道であるという強い確信を持ってそれを押し付けるのではなく、礼拝で行うように、代わりに立ち止まり、自分の声よりも高く、大きく、力強い方の語りかける声を聞き始める時、私たちは次のような神様の声を聞くでしょう。 「手放しなさい。」 「赦しなさい。」 「聞きなさい。」 「話しに行きなさい。」 「愛を示しなさい。」 あなたは自身の人生において、確信を持っていることがありますか?あなたが理解に苦しむ視点や、どうしても受け入れられない考え、あるいは、自分と違う考えや感じ方、あるいは、自分と違う信念を持っているために、心を通わせることができない人たちがいませんか? 自分が正しいと完全に確信していることが、あなたの人生の中にないでしょうか?その確信の感覚は、本当に神様から来るものなのでしょうか?それとも、自分のやり方の方が優れていて、自分の方がよく知っていると言う、自分の頑なな心から来るものなのでしょうか?その確信は、あなたを争いや壊れた交わりの場に導くのでしょうか、それとも、あなたの家族や友人、隣人との関係を平安な関係に導いたり、あなた自身に平安をもたらすのでしょうか? あなたの信念を通し、信念から来る行動を通して、人類に対する神様の愛が実現されているでしょうか? 私たちが共に賛美し、礼拝するとき、私たちは生ける神の霊が私たちの間におられ、愛と恵みと慈しみで私たちの心を満たしてくださっているのを感じることができます。KUCファミリーの皆さん、今日、神様が御言葉を通して語られる時、「心をかたくなにしてはならない」という神様の声を聞く時、神様はあなたに何を見つめるように言われているでしょうか?怒りや恐れ、憎しみを捨て、交わりと和解を受け入れなさいと、神様はあなたの人生のどの部分を指してそのようにささやいておられるでしょうか? 牧師や説教が、その質問に答えることはできません。神様とより親密な交わりを求める中で、あなた自身がその答えを見つけるでしょう。私は皆さんと私自身のためにこのように願っています。私たちが創造主の静かな声に耳を傾け、そして私たちの中で働く聖霊を受け入れることにより、私たちが皆、心の頑なさから解き放たれることを学び、神と、そして互いと和解することができるようにと。 祈りましょう。神様、どうか私たちの頑なな心が変えられますように。心が変わることにより、私たちの行動も変わっていきますように。私たちの生活の中にもっと愛があり、教会の中に、地域社会の中に、そして世界の中に、もっと調和と平和があるようにと祈ります。主よ、私たちのうちに働きかけ、私たちの心を柔らかくし、あなたに、そしてお互いに心を開けるようにしてください。イエスの御名によって祈ります、アーメン。 先週は、証しと、たくさんの歌で素晴らしい礼拝をすることができました。今後5週目の日曜日にはPraise and Prayer 礼拝を行う事を予定しています。そこで、今度の日曜日は礼拝について説教しようと思います。
今日、あなたはなぜKUCに来たのでしょうか?様々な理由があると思います。神様を礼拝するためと言うかもしれません。私は皆様がここにいることを嬉しく思います。 ここで神を礼拝している間、皆さんが聖霊を感じている事を願っています。 いくつか考えてもらいたい質問を下記に記します
今日の礼拝の内容を見てみましょう。あなたにとって、礼拝で一番大切なことは何ですか? 歌うことでしょうか?一緒に祈ることですか?罪の告白? 確信や赦しの言葉ですか?聖書は?今日は聖餐式の日なので、聖餐式はどうでしょうか? 私たちは神様を礼拝するため、これら全ての事を必要としますが、聖餐式はかなり重要だと思います。 聖書はしばしば説教、音楽、祈り、歌、典礼の中心をなすものです。 ジョン・ウェスレーは、私たちが行うすべてのことにおいて、聖書が第一であり、何よりも大切であるとよく言っています。また、聖霊を感じる事も大切です。私と亜希子牧師は、聖句を見て、祈り、そして選ばれた聖句とテーマを中心に計画を立てて、礼拝の準備をします。賛美チームのリーダーも、毎週日曜日、歌う前に聖句を聞いて、祈りながら曲を選びます。 オルガン奏者も礼拝前に聖句を理解し、祈りながら適切なものを選ぶことができます。このように、毎回の礼拝には多くの計画と祈りが込められています。 礼拝に対する考え方は人それぞれです。好きな礼拝のスタイルが違うかもしれません。好きな音楽も違うかもしれません。 KUCでは、頻繁に伝統的な讃美歌と、現代的な賛美歌を織り交ぜて礼拝を行います。 例えば、静かで瞑想的、エネルギーに溢れた礼拝など、人によって好きな礼拝の形も違います。また、礼拝中に儀式を好む人もいれば、もっと自由でのびのびとしたスタイルを好む人もいます。KUCの礼拝は様々な形で行われ、時には伝統的な讃美歌や賛美音楽と融合した礼拝を行うこともあります。証しを礼拝中に行う事もあります。説教の方法も様々です。典礼が好きな人もいれば、そうでない人もいます。(例えば、ウィキペディアを見ると、「典礼」は文字通り古代ギリシャ語で「人々の働き」を意味することが分かります。) 聖霊はどんな形の礼拝だとしても、その働きが劣る事はありません。個々に好みがあるかもしれませんが、慣れた方式以外のものを経験する事も良いと思います。 私自身はというと、様々な方法で神を礼拝することができますし、新しい礼拝のやり方にも挑戦していきたいと思っています。私はメソジストとして育ちましたが、30年間の牧師生活の中で、あらゆる種類の礼拝に出席してきました。ペンテコステ派の礼拝、メノナイト派の礼拝、バプテスト派(亡くなった兄はアメリカン・バプテスト派の牧師でした)、ディサイプルズ・オブ・クライスト(D.O.C)(私の叔父はD.O.C.の牧師で、UCC教会で勤務していました)。UCC、ルーテル派(息子のコウはルーテル派の牧師になります)、長老派、AME、アッセンブリー・オブ・ゴッド(息子のカイは今アッセンブリー・オブ・ゴッドの教会に行っています)、ギリシャ正教(義姉はギリシャ正教)、カトリック、無宗教、その他思い出すことができないほど様々です。 私は17年間、超教派の、どんなキリスト教宗派も受け入れる西東京ユニオンで牧師を務めました。私は、さまざまな伝統(あるいは伝統のないもの)がとても興味深く、そこから学ぶことができます。 私は、サーティーワンアイスクリームのように、特定のフレーバーが好きでも、他のフレーバーを試さない人ではありません。 気分転換に他のスタイルを試してみるのは良いことです。私は牧師時代、ハワイで弟子伝道テストを受け、その後、東京でも様々な教会やユダヤ教の礼拝堂にまで行き、神を礼拝する方法などを体験しに行きました。他の礼拝の仕方を試してみたり、他の人がどのように礼拝しているかを理解することは、私たち自身の霊的成長を助けるものなのです。 私たちは、家の中でも、外の美しい自然の中でも、礼拝をすることができます。 私たちはどこでも神を礼拝することができます。どこででも祈ることができるのと同じように。神を一人で礼拝することだって出来るのです。しかし、私たちはコミュニティの中で神様を礼拝するように勧められています。詩篇 133:1 「見よ、兄弟たちが1つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」 あなたがたはキリストのからだであって(コリント人への手紙112:27)、一人ではありません。キリストの体が私たちを取り囲み、私たちを励まし、私たちのために祈ってくれているというこの安心感は、私たちが信仰の旅路でもがき、つまずくときに必要なものです。私たちは礼拝の中で、祈りによって互いに支え合い、共に神を賛美します。 私たちの賛美の歌には、"Let us "や "We "などの複数形の代名詞が使われています(Let us worship the Lord, We come to worship you, Let us worship the King, Let us shout..." Let us adore..." (共に神を礼拝しましょう、共に礼拝を行いましょう、我々の王を礼拝し、共に叫びましょう等)。これらの歌は、私たちが一緒に礼拝することを奨励しているのです。 この2年間は、コロナ禍のために日曜礼拝の方向転換を余儀なくされ、zoomを通して様々な方法で礼拝をすることを学びました。私たちは、人々があらゆる方法で、そのために尽力してくれたことに感謝しています。 しかし、共に集い祈るという事には何か意味があるのです。ここ2年間はその機会を逃した事を認識していますし、今また対面礼拝に戻れた事を嬉しく思っています。様々な理由でまだオンラインでの礼拝を選ぶ人もいますが、それでも、集まれる人々がここに集い礼拝できることを嬉しく思います。 使徒言行録や使徒書簡を見ると、初代教会は(たとえクリスチャンが迫害されていたとしても)礼拝のために特定の場所に集まる事に忠実であったことがわかります。旧約聖書全体と福音書を通して、人々が共に集い礼拝を行う姿が描かれています。キリスト教の会衆礼拝の最も有名な例は、使徒言行録2:42にある「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」という箇所です。まさに私たちが、ここで、聖餐式でパンを裂き、共に歌い、祈ることと同じなのです。 イザヤ(イザヤ書6)が主の前に出てきたとき、彼が主に対してどのような感情を抱いていたのかは明白でした。彼は、高きにおられる主を、凄みと尊敬の念をもって見たのです。イザヤは神の存在の凄さを体現し、神の権威を認め、神への服従の誓いを新たにしたのです。 これらはすべて、同様に礼拝が担う意味でもあります。 パジャマのまま朝食を食べ、コーヒーを飲みながら「教会の礼拝を見る」方が便利なのに、なぜ集まるのでしょう? コロナ禍で外出制限が出ていた時は、そうやって礼拝するしか選択肢はありませんでした。今、私たちは外出し、ここに集っていますが、一部の人々は慎重に行動する必要があり、物理的に集う事が不可能な方々もいらっしゃいます。 しかし、ライブ配信のおかげで、家と教会を繋ぐツールが出来た事を神様に感謝しましょう。 私たちは、主から命じられているように、(オンラインでも、可能であれば対面でも)礼拝に集う方法を見つけています。ヘブル人への手紙10:25に「共に集まることをやめてはならない」とあります。テモテへの手紙第一4:13に「聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」と書かれています。 神は私たちに礼拝をするように命じ、また、それを期待しています。 礼拝は神様に対する応答です。礼拝は、神様を第一に考えることです。礼拝は、神様を祝福し、喜ばせるものです。礼拝は、私たちを励まし、気分を高揚させます。 礼拝は、神様への従順さを表します。 礼拝は、私たちが霊的に成長するのを助けます。 礼拝は、私たちを神様に近づけるものです。もしかしたら、私たちが神様を礼拝する理由を、もっと思いつくかも知れません。 私たちは皆、神様を礼拝することに参加しなければなりません。礼拝は受動的なものではなく、能動的なものであり、礼拝を通して聖霊が私たちの中で働くのを助けるものです。アーメン! 礼拝とは形を変えていくものでもあります。心からあふれ出す礼拝は、形が変わります。礼拝は私たち自身を変えます。礼拝の間、私たちは心をキリストに向けます。それは私たちを変化させるのです。私たちは礼拝の中でイエスに引き寄せられます。キリストに従う者として、私たちはよりイエス・キリストのようになろうと努力するのです。 ある牧師は、「礼拝は私たちの霊的生活の炉である」と言いました。 私はペンテコステが好きな人間なので、神様の聖霊を火と考えることがあります。(使徒言行録2)神の火は内側に燃えていて、私たちは礼拝を通してそれを外に出すのです。 私たちは礼拝をしながら、主イエス・キリストに対する情熱を感じるのです。ペンテコステも使徒言行録の中で書かれているのは、三千人が主を信じ、互いの言語を理解し、共に礼拝を捧げた特別な礼拝でした!(使徒言行録2) 人々は礼拝を通してキリストに引き寄せられるのです。私たちは礼拝によって鼓舞され、それがイエス・キリストについて他の人々に伝えに行く助けとなるのだと私は信じています。 伝道は礼拝の実りなのです。伝道とは礼拝堂や家の外でも礼拝が続けられ、神様の愛を他の人々に伝えるために、神様から遣わされることなのです。 礼拝と伝道について考えるとき、この聖句を思い出します。「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。その裾は神殿に満ち。。。万軍の主である王を、この目で見たのだから。私は『誰を遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」(イザヤ書6:1、5、8)。 パウロはコリント人の教会に、もし信者でない者が入ってきたら、「その人は皆の者によって罪を示されます。みなにさばかれ、心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう」(コリント人への手紙第一14:24-25)。 初期キリスト教徒は伝道し、伝道は彼らの礼拝から始まったのです。彼らの礼拝は神のご臨在と力が発揮されることを示していました。信者ではない人々は彼らの礼拝を通してキリストに引き寄せられ、その結果、礼拝に参加した人々は他の人にキリストのこと伝えたくなったのです。心からの礼拝をする人々は、全世界の人々に心からの礼拝をするように呼びかけました。私たちは礼拝によって神に引き寄せられ、礼拝が私たちを奮い立たせ、証人として他の人々をキリストに引き寄せることになります。 なぜなら、礼拝が私たちを鼓舞するからです。神の御前が私たちの心の中で燃え上がり、それを広めたいと願うようになるのです。 イザヤは、礼拝中の主を見た後に、民のもとへ行きその事を話そうと決心するのです。イザヤはそれを実行したのです。礼拝によって、彼は自分の人生の召命を悟ることができたのです。私たちは礼拝を通して神のご臨在に魅了され、世に送り出されるのです。 作家のジョセフ・トカッチは礼拝についてこのように言っています。「礼拝は生き方である。私たちは自分の体と心を生きたいけにえとして捧げます(ローマ人への手紙12:1-2)。私たちは福音を伝えるときに神を礼拝します(ローマ人への手紙15:16)。私たちは、金銭的な供え物を捧げる時に神を礼拝します(ピリピ人への手紙4:18)。私たちは、他の人々を助ける時、神を礼拝します(ヘブル人への手紙 13:16)。私たちは、神様が私たちの時間と忠誠心をかけるに値する方であると言います。私たちは、神様の栄光と、私たちの一員となられた神様の謙遜を賛美します。私たちは彼の義と憐れみを賛美します。私たちは彼のありのままの姿を賛美します。 これこそ、私たちが創造された目的であり、神の賛美を伝えるためなのです。私たちを創造してくださった方、私たちを救うために死んでよみがえり、永遠の命を与えてくださった方、そして今、私たちが彼に近づけるようにしてくださる方を賛美することは、正しいことなのです。私たちはこの方に忠誠を誓い、愛を捧げるべきなのです。(https://www.gci.org/articles/responding-to-god-with-worship/) 礼拝とは、神様がどのような方であるかに対する応答です。私は神を賛美します。神に感謝し、神の御業に応えて神を賛美しますが、私は神が誰であるか、ただ神が神であるために神を礼拝するのです。 礼拝は神様と交わることができる場所であれば、どこでも行うことができます。教会の中でも外でも。 聖餐式も同じで、パンとぶどうジュースを飲むだけでなく、礼拝外でも行うことが出来るのです。 最後に、アイルランドの、ある牧師が書いた詩を紹介します。 下の詩に出てくるEucharist とはCommunion(聖餐式)という意味です。Eucharistとはギリシャ語のEucharista(感謝)という意味で、Eucharistは「盛大な感謝」という意味も持っています。キリスト教礼拝の中心的な考えでもあります。 詩の中に出て来るEucharist は、牧師が神の愛を出会う人達と笑顔で、耳を傾け、赦すことにより共有している姿を描いています。 The Eucharist By Fr. Voight – Irish Chaplaincy He was old, tired, and sweaty, pushing his homemade cart down the alley, stopping now and then to poke around in somebody’s garbage, I wanted to tell him about EUCHARIST But the look in his eyes, the despair on his face, the hopelessness of somebody else’s life in his cart, Told me to forget it. So I smiled, said “Hi – and gave him EUCHARIST. She lived alone, her husband dead, her family gone, and she talked at you, not to you, words, endless words, spewed out. So I listened – and I gave her EUCHARIST. Downtown is nice, Lights change from red lo green, and back again, Flashing blues, pinks and oranges. I gulped them in, Said, “Thank you Father,” – and made them EUCHARIST. I laughed at myself, and told myself, You, with all your sin, and all your selfishness, I forgive you, I accept you, I love you.’ It’s nice and so necessary to give yourself EUCHARIST. My Father’ When will we learn – you cannot talk EUCHARIST You cannot philosophize about it – YOU DO IT. You don’t dogmatize EUCHARIST. Sometimes you laugh it, sometimes you cry it, often you sing it. Sometimes it’s wild peace, then crying hurt, often humiliating, never deserved. You see EUCHARIST in another’s eyes, give it in another’s hand held tight, squeeze it in an embrace. You pause EUCHARIST in the middle of a busy day, speak it in another’s ear, listen to it from a person who wants to talk. For EUCHARIST is as simple as being on time and as profound as sympathy I give you my supper, I give you my sustenance, I give you my life, I give you me, I give you EUCHARIST. (https://www.irishchaplaincy.org.uk/9479) |
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May 2024
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