2020年3月29日「良きサマリア人が集う教会」
ヴァン・アントウェルペン・アキコ牧師 ルカの福音書10:25-37 今日の聖句はよく知られた寓話であり、異なった信仰を持つ友人や信仰のない友人にも知られている話です。エルサレムとエリコの間のどこかで、一人の男が強盗に殴られて裸にされ半死の状態にありました。 司祭、レビ人(司祭とは別の宗教人物)、サマリア人の全員がこの絶望的な状況にある男に遭遇しますが、立ち止まって死にかけている人のところに行って救うのはサマリア人だけです。 司祭、レビ人、サマリア人は全員が死にかけている男を見ましたが、司祭とレビ人は彼を見た後、向こう側を通り過ぎたと書かれています。 彼らはただ彼の周りを避けて通り過ぎるでもなく、わざわざ彼を避けるために向こう側の道を渡って行きました。 もちろん宗教的なユダヤ人にとってはこの行為には意味があるのかもしれません。ユダヤ人にとって当時、血にまみれた死んでいたり、死にかけている体に触れることは、ユダヤ人の清めに関する法律の下で絶対に禁じられていました。 神の民として彼らはこのようなもの - 汚れた何か - に触れるべきではなかったのです。 一方このサマリア人(彼らの性質上、彼らの国民的アイデンティティはユダヤ人から一種の不潔な部外者と見なされた人)がこの男に近づく人でした。 もちろんサマリア人として、彼はおそらくユダヤ人の法律の信奉者ではなかったので自分自身を汚れることを恐れることはなかったでしょう。 それでも当時この地域は完全に安全な旅行場所ではありませんでした。道路は狭くて岩が多く、急な曲がり角と崖があり、強盗にとっては絶好の場所でした。 強盗が人をだまして捕まえる方法として、けが人を使ったり、装ったりすることは珍しくありませんでした。 彼の心にユダヤの法律がなかったとしても、男を助けることはとても安全な考えではありませんでした! 聖書によるとサマリア人は哀れみによって心を動かされたため、この死にかけている男のところへ行きました。この「哀れな」気持ちは多くのことを意味します。 たとえばKJVのように他のいくつかの翻訳では、「哀れみ」という単語は実際には「切実な同情心、思いやり」という単語に置き換えられます。 これは私たちが英語で「哀れみ」と訳したギリシャ語の元の単語が、深い共感や胸の奥、腹の底から沸き起こってくる感情のように、体で体験された思いやりを指しているためです。 この「直感」はサマリア人を行動に移しました。 このサマリア人は傷に包帯をし、怪我に油とワインを注ぎ、その男を自分の動物に乗せ、旅館に連れて行き、彼の世話をし、そして彼の滞在費の支払いさえしました。 単に話を聞いたり読み飛ばしたりする場合は、これらの行動の重要性が簡単に見過ごされてしまいます。ですのでこれらの節が実際に言っていることをゆっくりと聞いてみましょう。 このサマリア人の男は自分の旅行計画を完全に変えました。 彼は自分のために準備して持って来ていたいろいろな物を、助けを必要としているこの男と共有しました。 サマリア人にとって自分の目の前で死にかけている男が必要としているものは、彼自身が必要としているどんなものよりも大きかったのです。 彼自身の計画よりも大きく、自分のために使おうとしていた必要性よりも大きかったのです。 本日の聖句の冒頭で、律法の専門家はイエスに「私の隣人は誰ですか」と尋ねます。 質問はユダヤ法の学生である法律者から来ています。 彼は宗教的人物として、隣人を愛するという点でどこまで行なわなければならないかを理解しようとしていました。彼は私たち全員がそうであるように、隣人を愛することが重要であることを知っていました。 結局のところそれはすべての戒めと律法の中で最大かつ最初のものです。 しかし彼は他のすべての律法を研究したように、隣人を愛することは厳密にはどのようなものなのかを知りたいと思いました。 それにはどこまでという上限があり、どこで止めるものなのか。 ここに律法の専門家が隣人を自分の見解で愛そうとしているのを見ることができます。 彼は「先生、私の隣人は誰ですか?」と尋ねます。 私の隣人。 物のように、何か所有されているもの。 この律法の専門家にとって隣人は生身の人間ではなく、神の戒めに従う道具として用いる対象でした。 司祭とレビ人は同じ考えを持っていたようです。 彼らは瀕死の男を見ましたが反対側に渡りました。 彼らにとってこの男は彼らの隣人ではありませんでした。 彼ら自身の人々の群れ、彼らが寺院で付き合う人々、そういう人達が彼らにとっての隣人であったのでしょう。 殴打されて横たわっていた男は、彼らにとっての隣人の一人ではありませんでした。 彼の存在は神が彼らに保つように言われていると彼らが感じていた、その清らかさと聖なるものに対する障害でした。 「私の隣人は誰ですか」という律法の専門家の質問に対するイエスの答えは、私たちの人々への愛と思いやりには決して境界や限界があるべきではないという重要なポイントを強調しています。 彼らが特定の人々やグループである必要はありません。なぜならあなたが日常生活で偶然出会う人は誰でもあなたの隣人であるからです。 イエスは律法の専門家に尋ねます、「これら3人、司祭、レビ人、サマリア人の内、あなたは誰がその男の隣人だったと思いますか?」 イエスはこれら3人全員がこの男の隣人になることができるという平等の立場を有していました。 彼ら全員がその男を目にして、どれほど苦しんでいるのかを目撃しました、そして彼ら全員に男の痛みを感じて愛で応える機会がありました。 しかしながら真に男を見たのはサマリア人だけであり、彼が隣人であることを認識し、同情と哀れみによって行動に移したのはサマリア人の彼だけでした。 「隣人は誰か」というこの質問は、私達自身がよく尋ねる質問です。 私達は隣人を愛するように求められているので、当然これを明確に定義できるカテゴリーである事を望みます。私たちは誰が隣人で、誰がそうではないかを知りたいのです。しかし実際には、私達には誰が隣人であり、誰が隣人でないかどうかを知る必要はありません。 隣人は今私たちがいるのと同じ道にいるので、外に出て探す必要はありません。 隣人は私達とともに、私達の前に、目の前に存在します。 このコロナウイルスの大流行が始まって以来、私達の日常生活は大きく変わりました。 私達は明らかに人と物理的に近い場所で過ごす時間が少なくなっていますが、物理的なつながりで失うかわり、関係の密接さを得ているようです。 テクノロジーのおかげでウイルス蔓延の危険を冒すことなく、前と同じように隣人関係を維持することができます。 たとえば私達の教会のカウンシルと牧師チームは、先週ズームによりミーテイングを行いました! テクノロジーによって隣人とより多くの時間を過ごし、隣人について学び、物理的には叶わなかった方法で隣人の生活について学ぶ機会を得ました。 今日の聖句で使われている「隣人」という言葉は、あなたの隣人を愛するという神の戒めで教えられるのと同じ「隣人」です。 ギリシャ語では国籍や信仰に関係なく、私たちが偶然出会う人々を指します。 つまり隣人を愛するということは、偶然に会った人(物理的にあるいはオンライン、もしくはテレビ上で)や、他の方法で接触する可能性のある人を愛することです。 そして私達がこれらの人々に会うとき、彼らと交流するとき、私達は彼らの隣人であることを認識します。 私達は助けるために適切な人々を探しに出かける必要はありません。サマリア人のように、私達は隣人と出会い、その痛みを見るように呼ばれているからです。私たちはサマリア人がそうであったように、隣人がいるその場所にいた人々として、自分達が持つリソースを使い助け、どのような小さな方法であっても、助けを必要としている人々に働きかけるよう神様に召されています。 サマリア人は物資を入手したり、瀕死の男を助けるためのすべを見つけるために、進む道をはずれる必要はありませんでした。 実際、彼は男の世話をするのに必要なすべてを持っているようでした。 包帯、油、ワイン、移動する動物、男を連れて行く宿への行き方、さらにはお金。 時に私達は隣人に愛を示せない理由を作り、自分を納得させることがあります。人を助けるということはとても大きなことであり、私達自身は小さくて罪深い個人であり、他の人々への愛はとても偉大で圧倒的な概念であると言い訳を作ったりします。 私達は隣人に提供するだけの十分なものがないと考え、隣人を愛する、助ける事を選びません。 しかし、私は聖書のこの句が自分自身の内側を見るよう招いていると信じています。 自分自身を深く見つめ、近づいてみてください。ほんの小さな方法であっても誰かを助けるのに必要なものを私達は有していると私は信じています。 それは少し勇気を払って、あなたがたまたま今日頭に浮かんだ誰かに電話をかけ、何かが必要かどうか尋ねることかもしれません。 食料品店に出かけるとき高齢の隣人のためにいくつか日常品を余計に買ってあげることかもしれません。 もしくは隣人への愛は与えることだけではなく、隣人のために何かを諦める、犠牲にすることかもしれません。自分達の快適性、計画、日常生活のルーティンやスケジュールを、他者の安全のために諦めたり、変更したりすることかもしれません。必要な物資が本当に必要な人のところに届くように貯め買いを減らしてみたり、公共交通機関をどうしても使わらなければいけない人のためや、一定の時間しか買い物に行けない人達が安全な距離を保つことができるために、もし自分達のスケジュールを変更することが可能であるのならば、そのようにしたりすることかもしれません。自分達の楽しみを、高齢者や持病を持つ人々などコロナウィルスにかかるリスクがより高い人のために諦めたり、やり方を変えることなのかもしれません。 時には隣人が必要とするものを持っていないことに気付く場合もあります。 その場合はサマリア人のように尋ねることができます。 彼は自分の宿屋を持っていなかったので自分が思うように助けることはできませんでした。 他の人々の助けを必要としました。 ですから彼は単純に尋ねました。 彼は周りの人々に助けを求めました。 今週教会でたまたまフェイスマスクの必要性を知りました。 残念ながら私には持ち合わせが無く、他の牧師に尋ねたところクラウディア先生が余分に持っていました。それだけではなくマスクが無く困っている人のために教会の会員の一人がマスクを縫ってくれました。 これは教会の美しさのたった一つの例です。 私たちには創造力を持って協力していれば、目の前にいる困っている人々に気づき、その人々の元に行って助けることができる才能や能力、リソースが神様から与えられています。 ですからこのコロナウイルスによって隣人と会う方法が変わったいう現実を通し、この人生の一期間に私達に与えられた隣人に気を配ることをお勧めします。 もし学校の閉鎖により、より多くの時間を子供達と過ごすのだとしたら、あなたにとって隣人は子供達かもしれません。 確かに今のところそれが私のケースです! 私たちの隣人は、管理人や清掃者、店の販売員、あるいは私達が行く場所を運営し、掃除、消毒するために働いている人々かもしれません。 あるいはこのコロナウイルスの蔓延により、生活の大事なものや、健康を失い、苦しんでいる人の話を聞くことにより、必要なアクションを取ることが隣人愛に繋がるのかもしれません。 病気であっても健康であっても、敵、友人、家族、裕福な重役達、小売業者、人種、国の違いを超えて誰もが私達の隣人となり得ます。そして彼らを愛するために、私達にとってそうすることは難しくあっても、その人達の命を助けて守るために、物理的な距離を取ることが今私達ができる隣人としての愛のある行動となるのではないでしょうか。 友人の皆さん、隣人と呼ばれる人々に心の目を向けましょう。彼らは私達の身近に、そして日々の生活の中を過ごす中で、私達の目の前に存在します。彼らが必要とするものが目の前の明るみに出され、気づかれることを隣人達はじっと待っているのです。 そしてその隣人のニーズに気づいたら、道の反対側に行かないでください。ニーズを道から取り上げ、教会に持って行って一緒に共有しましょう。 不確実で困難なこの時代にあって、サマリア人の教会となり、隣人を大切にし、愛情を持ちケアできるように私たち自身を捧げましょう。 神様が私達と共におられますように。アーメン。
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