「私たちが神を愛することができるのは、神がまず私たちを愛してくださったからなのです。」 ヨハネの手紙第一4章19節 「愛する人たち。互いに愛し合いましょう。愛は神から出ています。ですから、愛のある人は、その行いによって、自分が神の子どもであることを明らかにし、ますます神を知るようになるのです。」 ヨハネの手紙第一4章7節 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの使徒への手紙5章5節 説教の概要: イエスからの命令 イエスが挙げた神の命令は正確かつ明確です。「長血を患う女」とのやり取りで、イエスが示した例があります。(マルコの福音書5章31~34節) イエスの愛は、行動、時間、「ドゥミナス」癒しの力、カウンセリングで現された。これこそ、行動する愛の本質なのです。 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 (マタイによる福音書22章36~40節) 1. 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 (ヨハネによる福音書13章34~35節) 2. 愛への呼びかけと、愛を怠った場合の悲惨な結果(特に、飢え、乾き、見知らぬ人、裸、病人、囚人)は、ヒツジとヤギのたとえ話でも明らかです。(マタイによる福音書25章31~46節) しかし、人生を生きていると、貧しい人、見知らぬ人、病人、囚人などの他者を愛すること、また、敵、私たちから何かを盗む人などを愛することは、簡単なことではないことに気づきます。 屈辱に反論せずに、さらに屈辱を許す事(もう一方の頬を差し出すこと)、見返りを求めずに人に何かを貸すこと、ホームレスの人を迎えること、刑務所で犯罪者と一緒にいること、これらは簡単なことではありません。 夢: ある時、私は人生を大きく変えた夢をみました。その中で、主は最後に、こう言いました。「あなたが最期に私の前に現れた時に、私がたった1つだけ質問をします。その質問は、『あなたは、私の愛を受けること(私から愛されること)を学びましたか?』」 解釈: 私は比較的新しいクリスチャンだったので、キリスト教について教えられてきたことに照らし合わせると、これはほとんど意味をなさないものでした。 伝道すること、献金を行い、教会に通うこと、罪を出来る限り起こさず、善人であることが大切だと思っていたのです。 しかし、聖書で調べてみることにしました。 「私たちが神を愛することができるのは、神がまず私たちを愛してくださったからなのです。」 ヨハネの手紙第一4章19節 「愛する人たち。互いに愛し合いましょう。愛は神から出ています。ですから、愛のある人は、その行いによって、自分が神の子どもであることを明らかにし、ますます神を知るようになるのです。」 ヨハネの手紙第一4章7節 私たちは自分の意志で愛することはできないようです。 マタイ25章の箇所でさえ、「羊」を聖なるものとするのは、善良であろうとする人間の努力ではないことが示されています。 実際、羊はこう言うだろう。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えていたり、渇いていたり、見知らぬ人であったり、衣服が必要であったり、病気であったり、牢屋にいるのを見て、あなたを助けなかったでしょうか?」 羊もヤギも、(マザー・テレサが、よく言っていたように)「変装をした」イエスを意識しているわけではありません。 彼らはただ、愛に満たされていたから愛したのです--そして、その愛は父なる神から来たものです。 神の愛を受けること: 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの使徒への手紙5章5節 育ち続ける愛は、聖霊が私たちの心に注がれることによってもたらされます。 そして、私たちは他者を愛することができるようになります(実際、神、子、そして聖霊をも愛することができるようになります)。 私の身に起こったことを話させてください。 それは、ヨハネの黙示録3章15-22節を通してでした。 「ぬるま湯 」に浸かっていることについての聖句です。 夢/訪問:ある日、私は夢を見、天国を訪ね、そこで主が私に尋ねた: 「あなたは、私の愛を受けること(私から愛されること)を学びましたか?」 祈り: ローマの使徒への手紙5章5節から祈りましょう。 「神の愛は、聖霊を通して、私たちの心に注がれています。」 聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれるのです。
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「イースターの次は?パート2: 聖霊を知る」 ヨハネによる福音書 14:15-26 (新共同訳) 神戸ユニオン教会 --- 2023年4月23日 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師4/23/2023 祈りましょう。 主よ、あなたは私たちに、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と教えておられます。(テモテへの手紙二3:16)とあります。私たちは、その御言葉を胸に抱き、あなたの語りかけを求め、あなたの言葉を理解できるよう祈ります。今朝、あなたの御言葉に耳を傾ける私たちを、聖霊の働きを通して、どうか助けてください。 あなたの御名によって祈ります、アーメン。 先週から、聖霊について話し始めました。具体的には、聖霊を受けるということについてです。先週弟子たちが、主であり救い主であるイエス・キリストが本当に死から甦ったことを理解し、信じるまでの道のりについて書かれた聖書箇所を読みましたよね。先週の話を繰り返すつもりはありませんが、要約すると、弟子たちは、復活した主イエス様を見たり触ったりすることができた時点で、ようやく主が甦られたことを信じることができましたよね。(ヨハネによる福音書20:19-29) 覚えていますか? 最終的に弟子達は甦りの主を信じることができたのですから、終わりよければ全て良しかもしれませんが、私にはまだ一つの疑問が残ります。 弟子たちはついに甦りの主を信じました。しかし、その信仰により、彼らの人生は変わったのでしょうか? 答えは...ノーです。彼らの人生はすぐには変わリませんでした。なぜなら、弟子たちは甦りの主を信じた後も、まだ鍵のかかったドアの向こうに隠れていて、イエス様から与えられた働きをするために世に出ていこうとはしなかったからです。(ヨハネによる福音書20:26) 信仰だけでは人々や教会、地域社会の生活に変革が起きないという例は、弟子たちだけに限ったことではありません。実は、私たち自身、私たちの教会も、弟子たちと同じようになっている可能性があります。 私たちはイエス様の復活を信じています。だから2週間前イースターのお祝いを盛大にしたのです。しかし、このように信じていても、祝っていても、私たちはその信仰によって変えられ、新しく生まれ変わったのでしょうか?私たちの生活が実際に変わり、私たちの信仰を通して全ての事を新しくすることができる神と、より深く、個人的な交わりを得ることができたのでしょうか?私たちは今、クリスチャンとして、またキリストに仕えるために集まった共同体として、イエス様が私たちに求めたとおりの道を歩んでいるのでしょうか? もし、これらの質問に対する答えがノーであれば、もしかしたら、最初に弟子たちが聖霊を受けとっていなかったように、私たちも聖霊を受けとっていない可能性があります。先週もいいましたが、聖霊は贈り物であり、贈り物である以上、受け取らなければいけないのです。 そして、キリストの弟子である私たちは聖霊という贈り物を受け取るよう求められています。 しかし、そうは言っても、私たちはどうやって聖霊を受け取ればいいのでしょうか?聖霊を受けることの重要性は理解できたが、具体的にどのようなことをすれば聖霊を受けることができるのだろうと疑問に思う人もいるかもしれません。 その答えは実にシンプルです。「聖霊を知る」。聖霊を知って、受けるです。 今日の聖書箇所は、イエス様が宗教指導者たちに引き渡され、十字架に掛けられて死ぬ前の話です。すぐにやってくる十字架の苦難のための準備をするところまで話が遡ります。今日のお話しは、キリスト・イエスの死と復活に至る受難週での出来事についてで、その週の木曜日、イエス様と弟子たちは、共に飲み食いし、最後の晩餐の時を持ちました。そこでイエス様は弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い仕えるという戒めを弟子たちに与えられました。(ヨハネによる福音書13:1-35) そして、イエス様は弟子たちに、もうすぐ弟子たちのもとを去るという衝撃的な知らせを告げます。弟子たちの心は騒ぎ始めます。(ヨハネによる福音書13:31-35&14:1)何しろ、この数年間、弟子たちがすべてを捨ててついてきた先生、つまりメシア(救世主)が去ると言っているのですから無理もありません。彼らは仕事も生活も家族さえも捨ててイエスに従ってきたのです。彼らはイエス様の中に、神しか持たない並外れた変革の力が宿っているのを見たので、イエス様がイスラエルをローマ帝国の圧政から解放し、救うのに十分すぎるほどの力を持っていることを確信していました。そのためにまだやるべきことがたくさんあるのに! そう考えると、弟子の一人であるペテロがイエス様に「主よ、どこへ行かれるのですか。」「主よ、なぜ(あなたの行くところに)今ついて行けないのですか。」と聞いたのも腑に落ちます。(ヨハネによる福音書13:36-37)なぜイエス様は弟子たちのもとを去らなければいけず、弟子たちはイエス様について行くことができなかったのでしょう?それはイエス様が、自分だけが行くことのできる場所に行き、自分だけができることをする、つまり世の中の罪のために十字架にかけられ死のうとされているからだったのです。 見捨てられると心を騒がす弟子たちに、イエス様は、自分は必ず戻ってくる、そして弟子たちをみなしごにはしない(ヨハネによる福音書13:33、14:18)、自分が去った後に神が聖霊を弟子たちに送ること(ヨハネによる福音書14:16)を約束します。 イエス様はここで聖霊をparaklētos(パラクレイトス)と呼びます。これは聖霊のアイデンティティーと役割を説明する言葉で、弁護者、助け手、慰め手、助言者、友人を意味します。 キリストの弟子たち(それは私たちのことも含まれます!)の信仰における旅路を助けることが、聖霊の主な役割の1つなのです。 しかし、聖霊が私たちを助けるとは、いったいどのようなことなのでしょうか。 聖書をもう少し読んでみましょう。 ヨハネによる福音書14章16節で、イエス様は、神が聖霊を弟子たちに遣わし、神が永遠に弟子たちと共にいてもらうよう、神にお願いすると述べています。聖霊は私たちを決して離れない神の臨在です。創造主である神を実際に私たちが見ることができなくても、また、イエス様がこの地上を歩いたのと同じ時代に私たちが生きていなくても、聖霊の助けによって神の臨在を私たちは感じる事ができます。つまり、聖霊を通して神がいつも私たちと共におられると実感できるのです。 聖霊の助けによって神の臨在を実感できる良い例の一つは平安です。私たちの人生には時として苦しみが降り掛かります。将来の見通しが立たない時、人間関係がうまくいかない時、病気や痛み、喪失感に悩まされる時など、本当につらい時期があります。しかし、そのような状況であっても、決して困難が軽減されるわけではなくても、また、全く苦しい状況に変化がないような時でも、なぜか、神からしかもたらされないような、人知を超えた平安を体験することがあります。そして、その平安は、聖霊によって神の臨在を感じることで私たちに与えられるのです。 聖霊が私たちを助けてくださるもう一つの方法は、助言者、また教師としてです。ヨハネによる福音書14章26節を見ると、聖霊は弟子たちに、すべてのことを教える、つまり、創造主である神の教えに沿った人生を送るため、イエスのすべての戒め、教え、話を思い出すのを助けると書かれています。弟子たちと共に過ごした間、イエス様は弟子たちに実に多くのことを教えられました。悔い改めること、福音を信じること、貧しい人や弱い人を助けること、権力に対して真実を語ること、人を裁かないこと、そしてすべての人を自分のように愛すること。そしてもちろん、イエス様は神の御国についても教えました。神の御国では、後にいるものが先になり、先にいるものが後になること。覚え、守るべき神の教えはたくさんあったのです。 だから、聖霊はその手助けをしてくれます。聖霊は、私たちがその時々に必要な神の教えを思い出させてくれ、イエス様が私たちに望むように行動することを思い出せないような時や場所でも、神の教えを実践することを思い出させてくれる先生です。友人や家族、職場や学校、あるいは教会で、言い争いや、対立がある時、私たちは、他人を侮辱したり裁いたりせず、代わりに愛し赦すように命じられている神の戒めを聖霊により思い出すことができます。キリストに似たものになれるように、聖霊は私たちを助け、教え、導いてくださいます。 もう少し付け加えれば、聖霊は優しく粘り強い教師であり、助言者です。ヨハネによる16章13節によると、聖霊は私たちを「導いて、真理をことごとく悟らせる」とあります。「導く」という言葉から、聖霊は私たちが真実が何かを識別し、悟ることを助けることができるのがわかります。つまり、この世の人生において何が真実で、正しいのかを明らかにし、示してくださるということです。もちろん、その逆もまた然りで、聖霊は世の中の罪、悪、不正を暴くこともできます(ヨハネによる福音書16:8)。 時々、私たちは直面している状況がどうしようもなく複雑に感じられ、何が正しいのか、間違っているのかがわからなくなることがあります。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、どう反応すればいいのか、わからなくなるのです。しかし、そのような時、私たちがただ忍耐強く、聖霊を受け入れることができれば、聖霊は私たちを真実に導き、私たちが歩むべき正しい道を示してくださいます。 聖霊はいつも私たちと共にいて、真理を解き明かし、私たちに神の心や思いを示してくださるのです。 さて、皆さんの中には、次のように思う方もおられるかもしれません。「聖霊、創造主である神、そして子であるイエス・キリストを信じさえすれば、私はクリスチャンとして万全であるはずだ。そうでしょう?結局のところ、信仰とは目に見えないことを確信することなのだから。(ヘブライ人への手紙11:1)だから聖霊を信じればいいだけで、聖霊は目に見えないのだから、それを理解しようとする必要はないのではないか?」 ただ信じればいいだけ。知る、理解する必要はない。第一コリントへの手紙8章1節にも「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」と書かれています。私たちはただ熱く、力強い信仰を持てばいいだけなのに、なぜファリサイ派の人々のように知識を詰め込み、論理的に厳格に神の戒めを守ろうとしなければいけないのでしょう?クリスチャンとして必要なのは「揺るぎない信仰」だけではないでしょうか? どう思いますか?もう少し考えてみましょう。 先週、私は聖霊を受けることについて話し、弟子たちが実際には聖霊を受けなかったのではないかという可能性について言及しました。そして今日の聖書箇所では、イエス様が、人が世が、聖霊を受けられない主な理由の一つを明かしています。それは聖霊を知らないということです。 ヨハネによる福音書14:17には、世が真理の御霊、すなわち聖霊を受けることができないのは、世がこの霊を見ようとも知ろうともしないからとあります。つまり、イエス様がここで言っているのは、本当に聖霊を受け、聖霊に導かれ、聖霊によって変えられるためには、まず聖霊について知らなければならないということです。 自分が知らない、理解できない聖霊に対して助けを求めるのと、自分が知っていて、理解している聖霊の助けを招き、それを受けるのとでは、大きな違いがあると私は思います。 最もよく知られている聖霊の力強い働きはペンテコステにもたらされました。私が思うに、聖霊が力強く働いたのは、単に弟子たちが聖霊を受けただけではなく、イエス様が聖霊について弟子たちに教えてくださったことを弟子たちが思い出し、自分たちが受ける聖霊が何であるかについて知識を持ったからだと思います。 私たちは、クリスチャンとして、また神の共同体として、聖霊について知り、理解し、聖霊の導き、助けを受ける必要があるのです。 最近、私は聖霊について思いを巡らしています。聖霊についてメッセージをしていることもありますが、WOW(水曜朝の女性グループ)でも聖霊について学んでいます。それに加えて、先週も言ったように、私の祈りは、最近、聖霊を受けることに焦点を当てています。そして今週の聖書箇所から、聖霊をよりよく受けるために、聖霊を知ることが大切であることも教えられました。 聖霊を知ることは結果として、神への信頼を深め、私の周りの人々や、それらの人々が直面する状況に聖霊が宿っていることを信頼することに繋がりました。 私たち人間は、自分たちの大切な人たちが苦しんでいるのを目の当たりにすると、向き合うのが辛くなることもあります。J 最近、私の子供の一人が(ちなみに、この話は子供の同意を得て共有しています)、友達とうまくいかないことがありました。自分の子が傷ついている姿を見るのはとても辛いことです。その時私は、何かしてあげたい、何か言ってあげたい、傷を深くしたくない、なるべく早く解決してあげなくてはと思いました。しかし、その瞬間、私は代わりに、子供が聖霊を受けることができるようにと祈りました。そして私自身が聖霊を受けることができるようにと祈りました。私は、聖霊ができることを思い出し、聖霊が私の子供に、キリスト・イエスのすべての教えの中から、この困難な状況を切り抜けるために覚えておくべきことをすべて示してくださると心の中で確信しました。私は24時間365日子供と一緒にいることはできないが、聖霊にはそれができる、そして私は聖霊が子供を真理に導いてくれると信じました。 私の子供が痛みを抱えていた問題は、不安と心配でいっぱいだった私の心には想像もつかないような方法で、解決しました。私の子供と子供の友人はお互いに率直に、思いやりを持ちながら話すことができたのです。聖霊の働きによってもたらされた解決法は、人間ができることをはるかに超えるものでした。 誤解しないでいただきたいのは、私が聖霊について完全に知って理解している、聖霊を常に意識しているというわけではないことです。皆さんと同じように、私も肉の誘惑に駆られ、人の心と思いの内に働く聖霊を信頼せずに、それ以外のことに目を向けてしまうことがあります。ついこの前の金曜日、私は子供の一人を公園に遊びに行かせましたが、私は一緒に行く予定はなかったので、大人が一緒に行く必要がある場所では遊ばないようにと、子供に明確な指示を出しました。その直後、私のママ友に会ったのですが、そのママ友が、ついさっき私の子供と会って、私が行くなと言った場所に行くと言っていたと教えてくれました。 当然、私は、子供が帰ってきた時には、子供にお説教する覚悟でいました。私は友人から聞いたことを子供に伝えました。「XXさんが、あなたが私が行くなと言ったXXに行くとあなたが言っていたと私に言ってたきたよ」と。すると、私の子供はこのように言いました。「ママの言うとおり、XXに行こうと思ったんだ。でも、行ってはいけないと言われたことを思い出したから、代わりにママが行っていいって言った公園に行ったの。そしたら、そこに悲しそうにしている友達がいたから、その子と代わりに一緒に遊んだの!」。 この事を通して、私は、私自身もっと聖霊を信頼しなければいけないという事だけでなく、聖霊は確実に子供の心と思いの内にも生きて働いているのだということを自覚しました。 人に説教したり、人を戒めたりするのは本当に簡単なことなのです。解決策を語ったり、ビジョンや方向性を示したり、あるいは人を非難したり裁いたりするのは簡単です。しかし多くの場合、人々が最も暗く困難な状況に直面している時に最も必要としているのは、解決策ではなく、困難の中にある人を優しく辛抱強く、真実、進むべき道に導いてくれる聖霊の不動の存在です。 目的地に辿り着くのではなく、聖霊に導かれて神と共に目的地に向かい、歩むことが一番大切なことなのです。 私たちは聖霊を受けることを求められていますが、そのためには聖霊を知らなければなりません。確かに聖書から聖霊について学ぶことはできます。しかしそれだけではなく、日々の生活の中で、祈りながら、聖霊を個人的に体験し、聖霊と交わらなければ聖霊について知ることはできません。聖書から学んだ聖霊の真理を信じ、聖霊が語る御言葉を心に受け止め、信仰を持ち、聖霊が導くように、行動しなければならないのです。 来週の土曜日(4月29日)、私たちの教会ではカウンセリング・ファーストエイド(CFA)のワークショップを開催します。このワークショップはJoe Ozawa博士によるものですが、彼は翌日KUCのために説教もしてくださいます。Ozawa先生のワークショップのフォーカスは、私たちが友人や家族、困っている人たちに対して、どのようにしたら思いやりのある、良い助け人の存在になれるかです。私は以前にJoe先生のワークショップに参加したことがあり、とても良い体験をしました。なぜワークショップがとてもためになったかというと、その理由のひとつは、Joe先生が直接このように言っているわけではないのですが、Joe先生が教えていることが聖霊の働きを思い起こさせたからです。聖霊を信頼し、聖霊が可能にしてくれることを信じ、友人や家族、周りの人々のために愛情深い存在になること。それがこのワークショップの核となる考え方です。 解決策を考えたり、アドバイスをしたりするのではなく、思いやりをもって耳を傾ける。そのことによって聖霊があなたが助けようとしている人々に対して、次にどうしたら良いのか、どこに行ったら良いのかを示してくださいます。聖霊が私たちと共にいて、私たちを助け、神の愛に満ちた臨在で私たちを慰め、私たちが神の働きができるよう力を与えられるように、私たちもまた、聖霊が自分たちにしてくれたように、他の人々に対し、同じように思いやりをもち、耳を傾けること必要があります。 そこで、今週の私の祈りはこうです。私たちが聖霊を知り、聖霊を理解することで、聖霊を受けることができるようになりますように。そして、聖霊を受けた私たちが、あらゆる場面で聖霊とともに歩み、神の愛と慈しみを周囲のすべての人に、あらゆる場面で分かち合うことができますように。 アーメン。 「イースターの次は?パート1: 聖霊」 ヨハネによる福音書 20:19-31 (新共同訳) 神戸ユニオン教会 --- 2023年4月16日 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師4/16/2023 祈りましょう。
主よ、あなたは私たちに、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と教えておられます。(テモテへの手紙二3:16)とあります。私たちは、その御言葉を胸に抱き、あなたの語りかけを求め、あなたの言葉を理解できるよう祈ります。今朝、あなたの御言葉に耳を傾ける私たちを、聖霊の働きを通して、どうか助けてください。 あなたの御名によって祈ります、アーメン。 4月に入り、日本では新学期、会社員にとっても新しい一年がスタートしたところです。私たちは、大きすぎるランドセルを背負った子どもたちや、新卒の学生たちが真新しいスーツで電車やバスに乗る姿を目にします。そんな中、桜をはじめとする春の花々も咲き、中にはすでに散ってしまったものもあります。雨に打たれても、新しい生命の輝きは、私たちの周りの至る所で見ることができます。冬の寒さが過ぎ去り、ついに春が来ました! そしてもちろん、新しい命の誕生といえば、世界中の教会で、先週の日曜日、イースターをお祝いしたばかりです。 私たちの教会は素晴らしいイースターのお祝いをすることができました。礼拝堂は様々なところから来た人々でいっぱいになり、力強い賛美と子供たちの歌や踊り、からなる礼拝は私たちの心を満たしました。礼拝の後、私たちは食事をしながら交わり、子供たちはイースターエッグハントや工作を楽しみました。また教会員のTianenさんがイエス様をモデルにしたバッグやシールも販売してくれましたね。 私たちのイースターのお祝いが素晴らしい祝福の内に終わったことに、今ここで神様に拍手して感謝を捧げましょう。 イースターのお祝いを終えた今、効率や生産性を重視する現代社会に住む私たちの中には、「うん、イースターは最高だった。で、次は何?」と思う人がいるかもしれません。 教会生活において、イースターという素晴らしい時をお祝いした後、一体何が次にやって来るのでしょうか?そして、もしあなたがクリスマスとイースターにしか教会に来ないようであれば、そもそもなぜイースターの後にも教会に来るのかと思うかもしれません。 その答えは簡単明瞭です。しかも私はそれを説教タイトルにしました。 「イースターの次は?」 「聖霊」です。 皆さんはご存知かどうか分かりませんが、イースターは教会生活において単に1日だけのお祝いではなく、実は1つの季節なのです。イースターの季節は、イエス様が復活された復活の日曜日に始まり、イエス様の弟子たちに聖霊が降ったことを祝うペンテコステまでずっと続きます。ペンテコステ。。。そうです、弟子たちが異言で話し始め、群衆が自分の国の言葉でその異言を理解できるようになった(使徒行伝2:1-11)、奇跡の話です。覚えていますか? 画面に映された画像を見てください。これはキリスト教暦に関するものです。右上にイースターと書かれている部分がありますね。ご覧の通り、イースターは1日だけではありません。イースターの後に来るのはペンテコステ(聖霊降臨)で、聖霊の働きに目を向ける季節なのです。 しかし、キリスト教歴に従い教会生活を送ることは重要ですが、聖霊がこのように時系列的にしか働かないと思わないでほしいのです。クリスチャンが、教会が聖霊に触れ、聖霊と関わるのは、何もペンテコステの時期だけではありません。聖霊が降臨するのは年に一度だけ、もしくはクリスチャンになった時だけではありません。 そうではなく、聖霊はいつも私たちと共にあります。そしてイースターの季節には、イエス・キリストの復活を私たちが人間の力で理解するよりも、聖霊を通してより完全に、より深く理解することを助けてくれるのです。 聖霊がいなければ、イエス様の復活は、はるか昔の遠いイスラエルという場所で、私たちとは似ても似つかぬ、考えも似つかぬ、はるか昔に生きて死んだ人たちに起こった、古くて理解しがたい出来事だけで終わってしまいます。確かに私たちは、イエス様が死んで甦られたという基本的なことは理解できるかもしれません。しかしそれがどうしたのでしょうか?聖霊の導きがなければ、イエス様の復活が、今、ここで、今日、私たちにとってどのような意味をなすのか理解することはできないでしょう。 神の共同体である教会に属し、仕える私たち一人一人の信仰生活において、イエス様の復活がどのようにして、私たちにとって死んだ話ではなく、生きた話となっているのでしょうか? 今日の聖書箇所を通してそのことを考えてみましょう。 イースターの朝、誰も見ていないところで、イエス・キリストは甦られました。イエス様を愛し、イエス様に従った人々は、イエス様の死に直面し、その死が永久だと思っていました。婦人たちは、イエス様を探すためではなく、イエス様の死体の世話をするために、イエス様の墓まで来たのでした。しかし、そこに行ってみると、イエス様がいないことに気づいたのです。(ルカによる福音書23:55-24:3) なぜなら、イエス様は生き返られたからです。 その直後、イエス様は弟子たちが集まっていた家に現れました。(ヨハネによる福音書20:19) 弟子たちは、イエス様の熱心な信者でした。イエス様は彼らの先生であり、この3年間弟子たちはイエス様に従ってきました。彼らは皆、イエス様に個人的に呼びかけられ、従うことを選び、以来ほとんどすべての時間をイエス様の側で過ごしてきました。イエス様は彼らに神の言葉を教え、教えと行動を通して、自身が本当にメシアであること、つまり神の子であり、世の救い主であることを証しました。 イエス様は、癒すために、空腹を満たすために、悪霊を追い出すために、圧制者を打ち倒すために遣わされたのだと、彼らに告げました。弟子たちは、イエス様が、病、悪霊、苦しみ、圧制者、そしてこの世のあらゆる権力者を打ち負かす力を持っていると確信していたのでしょう。彼らにとってイエス様は無敵の勝利者だったのです。 イエス様が死ぬまでは。 しかし、イエス様は無敵どころか、逮捕され、裁判にかけられ、当時の宗教指導者、政治家たちにより有罪とされ、罰として、死の十字架の刑に処されました。神の御心と御業以外には何もなさらなかったイエス様、神がお喜びになった神の独り子イエスは、苦悩と痛みの中で息を引き取られたのです。 弟子たちは皆、怯えていました。 ...次はどうなるんだろう?次は自分達が殺されるのだろうか? しかし、死は終わりを意味しなかったのです。ご存知のように、イエス様は再び甦られ、死から復活されました!死を打ち破られたのです。 そして、愛する弟子たちが不安と恐怖に身を縮めているところに、戸に鍵のかかった家の中にイエス様は現れたのです。(ヨハネによる福音書20:19) あなたがこの弟子たちの一人であることを、ちょっと想像してみてください。この3日間、死んでいたイエス・キリストが突然このように現れたら、あなたはどう反応するでしょうか? 死んだと思っていた人が現れただけでなく、明らかに生きていた?そしてただ生きた姿を見せるために現れただけではなく、百人隊長の槍で刺された脇腹の傷や、十字架に固定するため釘が打たれた手の穴を見せ、死んだ体から甦ったことを証明したのです。 弟子たちの最初の反応は、当然、喜びでした!(ヨハネによる福音書19:20)もしあなたが弟子の一人だったら、きっとあなたも同じように喜ぶのではないでしょうか? しかし、今日の聖書箇所を読んでみるとどうも疑問が残ります。弟子たちは喜びながらも、イエス様の復活が自分たちにとって実際にどういう意味を持つのかを理解していないようなのです。イエス様が去った後に現れた弟子の一人トマスに対し、イエス様との再会をどのように説明したかを見てください。 トマスがに彼らが言ったことそれは、「わたしたちは主を見た」 ということだけでした。(ヨハネによる福音書20:25) それだけ?ただ、「わたしたちは主を見た」と言っただけ。 私が弟子の一人だったら、それ以上のことをトマスに言ったと思います。「トーマス、聞いて!私たちはドアに鍵をかけていたんだけど、どういうわけかイエス様を現たの!そして、イエス様は「あなたがたに平和があるように」と言われた。手と脇腹にある傷も見せてくれた。で、最後には私たちに息を吹きかけ、『聖霊を受けなさい』と言われ、人々の罪を赦す力まで与えてくれた。なんてすごいことが起きたんだろう。」くらいには言うような気がします。 でも、弟子たちはただ「主を見た」とトマスに伝えただけでした。 なんか拍子抜けしませんか? トマスがイエス様が現れたことを信じるのに苦労したのも無理はないでしょう。弟子達から情熱的な確信、イエス様が現れたことに対する興奮が感じられなかったのです。ただ、「私たちは主を見た」と。 「見た」だけ?イエス様との交わりはそんなに受動的なものだったのでしょうか。 おそらくそうでしょう。弟子たちはイエス様を十分に「見た」のですが、イエス様と話したわけでもなく、復活したイエス様の前にひれ伏したわけでもありませんでした。ただ、イエス様を「見た」だけなのです。イエス様の存在を確認したのですが、イエス様が自分たちに言ったこと、したことが理解できず、彼らはイエス様との交わりから何も受け取らず、同じように鍵のかかった部屋に閉じこもっていたのです。 ですからトマスがイエス様の甦りを信じられなかったことに私は理解を示します。私だって同じ立場に置かれれば、懐疑的になるかもしれません。また、トマスのように、「あの方(イエス様)の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ってしまうかもしれません。(ヨハネによる福音書20:25)なぜなら弟子たちの話には、生命もエネルギーもないからです。 そう、説得力に欠けたのです。 そんな弟子たちの様子を思いながら、私にはこのような疑問が思い浮かび上がりました。 私たちは、この弟子たちのようではないでしょうか?私たちの教会は、復活したキリストを前に、弟子たちと同じような反応をしていないでしょうか? 確かに、私たちはイースターを大いに喜び、祝いました。復活の日曜日、イースターサンデーに。しかし、次はどうするのでしょう?私たちは今、何をしているのでしょうか?私たちはまだ、贖いの主、死を生に変えることのできる救い主を先週の日曜日と同じ気持ちであがめているでしょうか?私たちここにいる一人ひとりが、キリスト・イエスの復活が私たちや私たちのコミュニティにとってどのような意味を持つかを知っているのでしょうか? それとも、弟子たちのように、復活を認識しながらも、それだけで終わっていないでしょうか?キリストにおける新しい命の喜びと祝福が私たちを変えているでしょうか?それとも受難日と同じような信仰生活を続けているのでしょうか? 今日の聖書箇所は、イエス様の復活がすぐに私たちの生活に根付き、私たちを変え、奮い立たせることができないいくつかの原因を示していると私は思います。その一つは、不信仰から来る恐怖です。聖句に戻りましょう。マリアが弟子たちに「わたしは主を見ました」と言っても(ヨハネによる20:18)、弟子たちは心から信じることができず、恐怖に怯えていました。素晴らしい知らせを聞いたにも関わらず、彼らの家の扉は閉ざされ(ヨハネ20:19)、自分たちの中に主を迎え入れる準備、つまり自らを主のために開放していなかったのです。 恐れ、閉ざした状態が招く結果はなんでしょうか?それは、主が来られたとしても、主の声を、主の思いを聞くことができず、受け入れることができないことです。イエス様は3度、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。(ヨハネによる福音書20:19、21、26)。しかし、何度言っても、平和が弟子たちとあったようには思えません。それどころか、まだ疑いや不信仰の中にとどまっているように思えます。 なぜでしょう?それは、恐れのため、弟子たちが聖霊を受けなかったからです。イエス様は、復活の良い知らせが弟子たちの中で本当に生きる話となるには、聖霊が彼らの中で働き、彼らを力づけ、恐怖を克服し、神への奉仕へと彼らを動かす必要があることを知っています。だから、イエス様は弟子たちに聖霊が必要なのを知り、聖霊を、彼らに息を吹きかけたのです。(ヨハネによる福音書20:22) なんと素晴らしいことでしょう。私たちの信仰の創造主であり、完成者である私たちの神は、神ご自身の内なる力、息吹を私たちと共有することをいとわないのです。私たちの神は、私たちとの親密で個人的な関係を望んでおられるので、神は私たちに聖霊を与えることを惜しまず、むしろそうすることを選ばれたのです! 聖霊は、神から私たちへの贈り物です。しかし贈り物であるがゆえに、自分でも気づかないうちに、その贈り物を受け取ってない可能性があることを考えたことがありますか?もっと悪いことに、この聖霊という贈り物を拒否している可能性さえあるのです。 私は、少なくとも今日の聖書箇所の始めの弟子たちは、この贈り物を受け取っていなかったのではないかと思います。そのため、イエス様はそのこと(聖霊が与えられているのに、受け取っていない)を弟子たちに認識させるために「聖霊を受けなさい」と具体的に言わなければならなかったのではないでしょうか?このようにイエス様が言わなければならなかったということは、その時点で彼らの心の中には、聖霊を受けるのを妨げる壁があったのではないかと思わされます。 実際に弟子たちがイエス様に言われたとおりに聖霊を受けたかどうかについては、明確な答えは得られません。今日の聖書箇所を最後まで読んでみても、弟子たちが聖霊を受けたかについては触れられていません。またイエスキリストの復活によって弟子たちが偉大な変貌を遂げた証しもありませんし、トマスに対し弟子たちがイエスの復活を熱意を持って伝えている姿も見受けられません。つまり、聖霊の降臨に通常伴う情熱、力、興奮が感じられないのです。 確かに聖霊は与えられました。しかし、弟子たちは聖霊を本当に受け取ったのでしょうか? 私たちはどうでしょうか?私たちにも聖霊は与えられました。しかし私たちは聖霊を受け入れているのでしょうか? 聖霊は一方通行ではなく、キリスト・イエスを通して神から私たち全員に与えられるものですが、他の贈り物と同じように、私たちが受け入れなければならないものでもあります。 今週、私は聖霊について考える時間を多く取り、聖霊について語られている様々な聖書箇所や聖句を読み、味わいました。聖霊の力、聖霊が誰であるかに思いをめぐらし、聖霊が今日も神の民や神の共同体を通して働かれることを認識し、心がいっぱいになりました。 それと同時に、私は、神の御心が行われるようにと祈ってきたけれど、もしかしたら聖霊を本当に理解して、その祈りをしていなかったかもしれない、と思い始めました。私は本当に聖霊を受け入れるために心を開き、聖霊を通して、愛と慈悲に満ちた神が私たちに語ってくださることを信じてきたのだろうか? その事を示された時、私は反省し、神に謝りました。神がいつも辛抱強く、私が心を開いて神様の聖霊を再び受けるのを待っていてくださっていたことに感謝しました。今週の私の祈りは、私自身、私の家族、そしてもちろんKUCの皆さんが、聖霊の注ぎを受け入れることを中心に据えたものとなりました。困難な状況、葛藤、痛みについて聞くたびに、その状況に関わっている人々が聖霊が受け入れられるように祈りました。家で賛美歌を歌いながら、聖霊を受け取ることに集中していると、ただ歌うのが楽しいから、自分が気持ちよくなるからというのではなく、神様が一緒に歌いたい歌を歌うように聖霊が導いてくれたのだと感じる、驚くべき瞬間も経験しました。 聖霊に対し自分を開放することで、私は神と一つになり、神と親密に交わることができました。そこには人知を越える平安がありました。 皆さんはどうでしょう?聖霊を受け入れるために心を開き、聖霊があなたの恐れや心配のドアを通り抜け、あなたの人生の真ん中に現れ、新しい、思いがけない方法であなたを変えてくれることを許していますか?それとも、恐怖と不信仰のために、神の声を聞くことができない密室に閉じこもっているのでしょうか? これは、私が今週自問自答したことでもあり、皆さんにもこの事を自問自答してほしいと思っています。 今日、礼拝の後、フォーラムが開かれます。主題は、教会における移行期についてです。今年、そして来年、KUC のリーダーたちの行く末、教会のビジョン、教会としてどこへ進んでいくべきなのか?これらの質問は確かに重要ですが、私たちが話し合いをし、祈りつつ見極める中で、おそらく最も重要なことは、私たちの中にある人間的な恐れや懸念を脇に置き、復活したキリストの弟子として、私たちに与えられている聖霊を受け入れることを教会全体で行う事だと思います。 私たちがキリストの体として意志決定をするために集まる時、神が語っているかもしれないと私たちが感じること、思うことと、聖霊を通して実際に神が私たちに語られておられることが違う可能性があることを覚えておかなければなりません。聖霊を受け取っていなければ、神の思いを、神の御心を知っていない可能性があります。 聖霊を受けると、神の心と意志が私たちに開かれます。聖霊を受けるとき、私たちの恐れは脇に追いやられ、ただイエスを見るだけでなく、新しい命、新しい可能性への期待、希望、熱意をもって、復活したキリストに応答することができるのです。 ですから、今日のフォーラムの時、キリストにある私たちの愛する共同体のために、私たちが話し合い、主の御心を求め、一致を願う時、私たち全員が聖霊を受けることに心を開いているように祈ります。一人や二人ではありません。牧師、教会スタッフ、カウンシルメンバー、あるいは発言力のある人たちだけが聖霊を受けるようには祈りません。 私たち全員が、私たち一人ひとりが、十字架にかけられたキリスト、死んだキリスト、そして甦り再び生きるキリストによってKUCに吹き込まれた聖霊を受け取るために、神が私たちの心を開いてくださるよう祈りましょう。 主よ、私たちの心を開いてください。KUCファミリーの一人一人の心の扉を開いて、今日、この場所で私たちに吹き込まれた聖霊を受け取ることができるようにしてください。 アーメン。 (マタイによる福音書28:1-10)
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 (マルコによる福音書16:1-8) 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 (ルカによる福音書24:1-12) そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。 (ヨハネによる福音書20:1-18) 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 祈りましょう。いのちの神よ、週の初めの日、婦人たちは悲しみとともに香辛料を手にして墓に向かいました。あなたは復活し、婦人たちの前に姿を現されました。そして婦人たちは、墓が空っぽだったと人々に伝えに走りました。今日この礼拝に、また後の交わりの時間にも、あなたに出会えますように。復活したキリストを私たちに現わしてください。私たちもまた、他の人たちに福音を伝えることができるようにしてください。アーメン 最初のイースターの日の朝、「キリストは復活された」「イエスは生きておられる」といううわさがエルサレムの町に広まりました。このうわさは真実を伝えていました。イエスは死からよみがえられたのです。その日の朝早くイエスの墓を訪れた女性たちが、復活を最初に目撃しました。当時の1世紀のユダヤ社会では、女性の証言は法廷でも信憑性がないものとみなされていました。しかし各福音書では、最初に空っぽの墓を発見し、復活したイエスに会ったのは女性だったと書かれています。 またイエスの復活についての最初の記述は、福音書ではなくパウロの手紙でした。仮に福音書が書かれなかったとしても、復活についての証言はその手紙の中にありました。 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、……」(Ⅰコリント15:3-7) それぞれの福音書を比べると、細かい記述に関しては相違があるものの、核となるメッセージは同じです。すなわち、日曜日の朝早くイエスの墓が空っぽだとわかったこと、そして復活されたイエスが何人もの弟子の前に現れたことです。 今日の聖書箇所であるマルコの福音書に目を通していると、「石は既にわきへ転がしてあった」「墓を出て逃げ去った」「震え上がり、正気を失っていた」という言葉に私は目を奪われました。みなさんも今日の聖書箇所の中で、どの言葉が自分に強く語りかけてくるか考えながら読んでみてください。これも聖書の読み方の一つです。祈りながら聖句を読み、ある言葉が自分の意識の中に飛び込んできたら、その聖句を心の奥深く浸み込ませてみてください。 イエスは私たちの罪、疑念、恐れのために死なれました。そして墓からよみがえり、私たちを罪から解き放ち、勝利しました。イエスの私たちに対する愛は無限だと、イエスは私たちに知ってほしいのです。私たちはイエスによって生まれ変わっており、以前と違う自分に変えられています。 数年前に私はベネディクト会修道女のジョアン・チティスターに出会ったことがありますが、彼女は著書「Scared by Struggle, Transformed by Hope」の中で次のように書いています。 「私たちの中に生きているイエスは死にましたが、実は死にませんでした。自分自身のいのちもまたよみがえったことを私たちはよく承知しています。私たち一人ひとりが何らかの形で十字架につけられ、再びよみがえりました。その新しいいのちへ復活する招きが、私たちに都合の悪いことだったと、今になって思います。その招きは、もし強制されたのでなければ自分では決して選ばない道でした。……人生は一本道ではありません。多くの道があり、その中の道を歩いていくことで、絶望の中にあっても希望を見出すことができます」。 今、皆さんの周囲に座っている人に尋ねてみれば、絶望した話もあれば希望を見いだせた話もあるはずです。私たちの人生の墓が開き、生きておられるイエスが私たちに触れ、癒してくださった時、回復の物語や愛の物語が始まります。イースターは続いていきます。新しいいのちがもたらされ、闇に光が射します。夜明け前の暗闇は、明るい光に包まれます。 皆さんの中には、この新しいいのちを体験しておらず、自分の中の奥深くにある墓をふさいでいる石を転がしてほしい、そして新しいいのちに目覚めてみたいと思っている人がいるかもしれません。今日それが起こるかどうかわかりませんが、忍耐と信頼を持って待ってください。成長するのには時間がかかるものです。時には自分の中にすでに芽生えているかもしれないのに、まだ気づくことができないだけかもしれません。 イースターとは生まれ変わったいのちのことであり、人生が変わることですが、世界が変わることでもあります。死が打ち負かされた日がイースターの日です。復活の約束とは、死がもはや無いという約束です。肉体的な死を意味するだけでなく、あらゆる形の死、世界の破壊であれ、自分自身の中にある恐怖であれ、あらゆる死の力がなくなるという約束です。イースターとは、世界で復活の約束が実現する時まで、人生を復活の約束で満たすことです。 自分の中にある石を転がし、心の墓を開いて愛を受け入れた人は皆「イースターの民」です。復活の民です。ハレルヤ。 イースターの民は、もはや死に支配されません。イースターの民は世の中の苦しみに立ち向かい、打ち負かされません。イースターの民はどこにいても苦しみをやわらげ、癒しと希望をもたらします。イースターの民は新しい日々が来ると知っているので、コミュニティを作るため働きかけます。イースターの民はイエスがこの世に生きておられることの証人であり、人生が死から掘り起こされ、喜びが痛みから生み出されることを知っています。 私たちは復活の民です。愛が復活にいたる道だと知っています。 さあ、あなたの人生から石を転がして、心の墓を開いてください。心を開いて、イエスの愛があなたに触れ、あなたを変えることができるようにしてください。そして私たちは世の中を変えます。復活を信じているからです。前進し、心のイースターで復活を祝いましょう。 ハレルヤ。キリストはよみがえられました。アーメン 本日は棕櫚の主日です。ティミーというもうすぐ4歳になる小さな男の子の可愛くて面白いお話があります。ティミーは棕櫚の主日に病気になり、教会に行かずお母さんと家で過ごしていました。父親が棕櫚の枝を教会から持ち帰り、その少年は興味津々で、「どうしてその棕櫚の枝を持っているの?お父さん」と父親に尋ねたのです。「ほら、イエス様が町に来たとき、みんな棕櫚の枝を振って、彼を賛美したでしょう。だから今日は、皆は棕櫚の枝をもらったんだ。」 小さな男の子はこう答えました。「そんなのないよ!僕が教会に行かなかった日にイエス様が来たなんて!」
今日、棕櫚の日曜日は、主イエスのエルサレムへの入城を「ホサナ」と言ってお祝いします。今日、KUCの子供達と青年達は、棕櫚の枝を振って行進し、私がKUCに来て以来毎年歌う、このにぎやかな賛美「Hosanna in the Highest 」を歌いました。 棕櫚の日曜日は受難の日曜日とも呼ばれます。パッション(受難)とはラテン語の「passio」に由来し、本来は「苦しみに耐える」という意味で、主イエスは私達すべてのために苦しみに耐えてくださったのです。キリストの受難については、映画「キリストの受難」で聞いたことがあると思います。 また、ドイツのオーバーランメルガウという村では、10年に1度、有名な受難劇が行われます。(独語ではOberammergauer Passionsspiele)この受難劇をご存知でしょうか? 私の両親は40年以上前、ヨーロッパに旅行に行った時に見たそうです。ドイツの受難劇は10年に1度行われ、第1回目は1634年に始まりました。第42回受難劇は、2020年にコロナのために延期された後、2022年5月14日から10月2日まで開催されました。それは 5時間の公演です。次の受難劇は2030年に行われます。 (興味のある方は「ドイツの受難劇」でググるともっと詳しことが分ります。1970年代のブロードウェイミュージカル(ロックオペラ)で、Andrew Lloyd WeberとTim Riceが音楽を担当した「Jesus Christ Superstar」という福音と受難を描いたものがあり、高校時代に見たことがあります。映画も同じタイトルの「ジーザス・クライスト・スーパースター」で制作されました。) 今日、棕櫚/受難の日曜日は、四旬節の最後の日曜日であり、イースター(復活祭)の前の日曜日でもあります。これから始まる聖週間は、聖木曜日(洗足木曜日)、聖金曜日へと移ります。 4月7日午後8時30分より、聖堂でZoomによる聖金曜日の礼拝が行われます。私達は聖金曜日を忘れることはできません。神学校時代に日本の神学者である小山晃佑先生の授業で、「聖金曜日のない復活祭はありえない」と言われたことがあります。小山先生によると、教会では復活祭のお祝いや喜びのあまり、復活祭が聖金曜日を覆い隠してしまい、なきものにしてしまうことがよくあるそうです。しかし主イエスの苦しみと復活の深さを本当に知るためには、両方を知る必要があるとおっしゃっています。前向きなことばかりに目を向けがちですが、受難を忘れてはいけません。苦難の部分を聞くのが嫌で、復活祭へと話を飛ばしたいと思う人が時々います。 アン・ラモットの著書『Plan B: Further Thoughts on Faith』では、「聖金曜日、十字架刑を受け入れるのにふさわしい人格を持ち合わせていないので、復活の話まで飛びたいわ。」と書いています。 時には、十字架刑の前まで飛ばして読んで、受難を回避したくなりますが、私達はまずカルバリーでの主イエスが通った苦しみと死に向き合わなければなりません。それから主イエスの喜びの復活際を祝わなければなりません。 私達は、この聖週間(受難週)の間、主イエスと一緒にエルサレムへ向かう旅をします。ヨハネ12:9-11では、ラザロを死からよみがえらせた主イエスの周りに群衆が集まり、主イエスを信じ、翌日エルサレムで過越祭*のために集まっていた群衆が、主イエスを歓迎してエルサレムに入る様子が書かれています。 マタイ21:1-11、マルコ11:1-11、ルカ19:28-44、ヨハネ12:12-19では、オリーブ山から降りてきた主イエスがエルサレムに入ると、群衆はロバに乗っている道に上着を敷いて手を振り、棕櫚の枝を置いて主イエスを歓迎しました。 (※過越祭、ペサハとも呼ばれる。聖書に登場するイスラエルの民がエジプトの奴隷から脱出した物語を祝う、ユダヤ教の主要な祝日である。「イスラエルでは、過越祭は「種入れぬパンの祭り」の7日間の祝日であり、初日と最終日は法定休日として、また休日食、特別祈祷、禁酒を伴う聖日として祝われる。」(Wiki)今年の過越祭は2023年4月5日(水)の夕方~4月13日(木)の夕方です。詳しい情報は、KUCメンバーのRoy Mislangにお尋ねください)。 ちなみに、私は25年前、世界中の牧師が集まる国際牧師会議でエルサレムを訪れ、実際にオリーブ山に行く機会に恵まれました。主イエスがエルサレムに入られたかもしれない道も歩きました。救い主が行かれたかもしれない場所に行くのは素晴らしいことです! 主イエスの時代はどうだったのだろうと思いながら歩きました。私も当時のその場にいて、どんな感じだったのか体験したかったです。 さて、私達は今までとは違うことをしようと思います。ガイド付き聖句瞑想をするために、少しリラックスしていただきたいのです。目を閉じて、想像力を働かせてください。 主イエスの時代に戻って、大勢の人がいるところを想像してみてください。 想像の中で、群衆が「ホサナ!ホサナ!ホサナ!」と叫んでいるのを聞いてください。 彼らは、勝利の象徴である棕櫚の枝を空高く振っています。過越の祭りのためにエルサレムに集まった祝祭的な巡礼者達の色鮮やかな服装が見えていると想像してください。その日の群衆の中には、世界中から来た宗教的な巡礼者達がいました。人々は、ロバに乗ってやってくる一人の男を一目見ようと、あなたに押し寄せてきます。彼の前に人々は棕櫚の枝や上着を置いています。 ベタニアからエルサレムへ向かう道沿いに集まってくる人々の興奮を想像してください。埃の匂いや、ロバの匂いも感じることができるかもしれません!エジプトで奴隷だったユダヤ人先祖が解放されたことを覚えて、8日間の壮大な過越祭りのために、周辺地域から人々が集まっていたのです。 興奮した空気が流れ、誰かがあなたに棕櫚の枝を手渡します。あなたは棕櫚の枝を振り始め、「ホサナ!」と叫びながら棕櫚の枝を振り始める。あなたは、他の枝を振っている人達の間から、イエスを垣間見ようとします。 他の人達も「ダビデの子にホサナ!」と叫んでいるのが聞こえます。ダビデの子にホサナ!」「主の名によって来る者は幸いである!最高のホサナ!」。主イエスはあなたの目を見つめます。彼はあなたを見て、微笑みます。彼があなたを見ているとき、あなたは彼の愛を感じたでしょう。彼は道の終わりまでロバに乗ります。あなたはできる限りついていきますが、たくさんの人がいて、とても混雑しています。最後に、主イエスは群衆のほとんどを通り過ぎ、あなたは主イエスがロバから降りるのを見ました。 あなたが主イエスを見ると、彼はあなたを見ます。主イエスはあなたのところへ歩いて行かれます。あなたは、自分を救ってくれるよう主イエスに頼みます。あなたは多くの悩みを打ち明け、多くのものから救われたいと願っています。彼はあなたの手に触れました。彼は何か言っている。彼の言葉に耳を傾けてください。 あなたの目を開いてください。もっと時間があれば、あるいはリトリートの場であれば、自分の経験や、主イエスがあなたを見てくれたときに感じたことを日記に書くでしょう。時には聖句の中に身を置くことは、聖霊の導きによって聖書を読み、御言葉を体験する方法の一つです。 先週、亜希子牧師はラザロの物語について説教をしました。そこで名前の大切さについて触れたいと思います。ラザロとは、名前であり、苗字でもあります。ヘブライ語のEl+āzārに由来し、「神が助けてくださった 」という意味です。つまり神がラザロを助け、ラザロが主イエスによって死からよみがえることは、すでに預言されていたようです。 イエス(「イェシュア」とも言う)という名前は、「彼が救う、救い主 」という意味です。マタイによる福音書1:21では、天使がヨセフに「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と指示したことから、このイエスの名の意味合いを知ることができます。数年後、エルサレムで人々が 「ホサナ!」と叫び、ホサナとは、「私達を救ってください 。」という意味です。 人々は、ローマ帝国の圧制から自分達を救ってくれる救世主、つまりメシアの救世主、王の救世主を求めていたのです。彼らは、主イエスがローマ帝国の圧政から救ってくれる、貧困や経済的不平等から救ってくれる、不幸から救ってくれる、病気から救ってくれる、多くのことから救ってくれると思っていたのかもしれません。彼らはあらゆる面から救われたいと願っていました。イエスが人々を癒したという話を聞いたことがあるはずです。またイエスがラザロを死からよみがえらせたという話も聞いたことがあるはずです。彼らは興奮し、期待に満ちていました。彼らは希望に満ちていたのです。 主イエスは、エルサレムに乗り込んだとき、預言を成就していたのです。ロバを借りて、それに乗って都に入られた。しかし、この物語には非常に重要な部分があります。これは、ゼカリヤ書9:9にある聖書の預言がそのまま成就したからです。「娘シオンよ、大いに喜べ! 娘エルサレムよ、喜べ叫べ。見よ、あなたの王があなたの所へ来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である。ロバに乗って。」 (「シオンの娘」とは、イスラエルのことです。神の預言者ゼカリヤがこの言葉を語ったのは、紀元前520年、66年前にエルサレムがバビロニアによって滅ぼされた時代である。ゼカリヤは、メシアが来て、エルサレムがメシアの栄光で満たされる日について語りました)。 弟子達は、母ロバと子ロバの2頭を連れてきていたのが興味深いです。母親が子ロバを置き去りにされても心配しないように、落ち着いて乗れるようにしたのかもしれません。あるいは、両方のロバが必要だったのかもしれません。もしかしたら、主イエスはエルサレムに入るときとエルサレムから出るときに、両方のロバに乗ったのかもしれません。その子ロバが何歳だったかは、それまで一度も乗ったことがなかったということ以外はわかっていません。また所有者はロバを弟子達に譲ることに反対はしませんでした。ゼカリヤ書9:9の預言を知っていたのか、あるいは主イエスを知っていたのか。主イエスには多くの友人がいました。もしかしたら、彼はイエスによって何らかの形で救われ、イエスがメシアであることを知っていたかもしれません。しかし所有者はすでに弟子達がロバを引き取りに来ることを期待していたのかもしれません。馬が戦争に使われるのに対し、ロバは平和の象徴であること、ロバは賢者と考えられていたこと(民数記22:21-38のバラムのロバ参照)、ロバはエルサレムのすべてのユダヤ人がゼカリヤの預言から理解していた政治的象徴であること、などの理由から、主イエスがロバに乗っていたことは重要でした。 主イエスに「ホサナ」と叫んだ人々は、主イエスが強力な王のようになり、ローマ帝国の占領者を追い出してユダヤ人を救い、ユダヤ人の独立を回復することを期待していたのです。 当時のユダヤ人庶民には、ローマ帝国の占領者を好まない理由がいくつかありました。ローマ人と癒着していた裕福なユダヤ人は、庶民に死ぬほど税金を課していました。高い税金を払うために、貧しい人々は土地を売って日雇い労働者にならざるを得ません。だから主イエスはしばしば、土地を持たない労働者のたとえ話をされ、彼らは共感したのです。当時のユダヤ・パレスチナの労働者の多くは、日雇い労働者として暮らし、ローマ帝国の支配者を好ましく思っていませんでした。 しかし、占領しているローマ帝国軍に抗議し、暴力行為で反抗した「熱心党」と呼ばれるユダヤ人達がいました。熱心党は、軍の王としてイエスが自分達を救うためにやってきて、ローマ帝国に対して暴動を起こすように導いてくれることを期待していたのでしょう。しかしそれは決して主イエスの計画ではありませんでした。 主イエスは人々を救うために来られましたが、彼らが期待していたような方法ではありませんでした。 主イエスの救いは暴力ではなく平和であり、強制ではなく招きによるものでした。私達は皆、自分を救ってくれる救い主を必要としています。主エスは私達を罪から救ってくださり、今日もなお私達を救ってくださっています。主イエスは私達の王であり、私達の主であり、救い主であり、私達に平和と救いをもたらし、私達を罪から救うためにこの世界に入られたことを、あなたが鏡を見るときに思い出してください。 私達も、当時の人達と同じことを望んでいるのではないでしょうか。私達は「ホサナ!」と叫ぶとき、主イエスに私達の心に平和を、私達の世界に平和をもたらしてくださいと願います。私達は、主イエスに傷や痛みを癒していただきたいと願います。私達は、主イエスがご自分の支配を永遠に確立してくださることを望んでいます。 救いを必要とする人々、ホサナの人々として、私達は主イエスに自分を救っていただくだけでなく、他の人々をも救うことができるように助けていただくのです。私達は多くの方法で人々を救うことができます。親切、優しさ、忍耐を示すこと、お互いを思いやること、資源を共有すること、寛大になること、新しいクリスチャンを指導すること、聖書を読むこと、祈ること、主イエスについて人々に伝えることを通してキリストの愛を示すことができます。 たとえ私達が救われたとしても、私達自身と私達の世界に苦しみは存在します。ドイツの神学者ユルゲン・モルトマンは、『十字架にかけられた神』を書きました。 十字架にかけられた神は、キリスト教の希望の土台となる十字架を確立しました。十字架にかけられた神は、神と人類の究極の連帯を示す行いです。1943年7月、17歳だったモルトマンは、4万人以上の市民が犠牲になった故郷ハンブルクの連合軍による爆撃を目撃し、生き延びることができたことで、世界は一変しました。 彼は「この世で神はどこにいるのだろう?この世界の苦しみや痛みの中に、神はどこにいるのだろう?」と感じたのです。 モルトマンは後に、キリストの十字架と神の苦しみ、そして強制収容所での罪のない市民やユダヤ人の苦しみを結びつけることができました。主イエスは人間であり、神が具現化された方です。私達に対する神の愛を示すために主は苦しみ、そして神そのものが私達とともに居てくださるのです。 おそらく、神の弱さを私達に示すためでもあるのです。C.S.ルイスは、「愛するということは、傷つきやすいということだ。何でも愛せば、あなたの心は確実に傷つき、壊れるかもしれない。」と言いました。神の愛はとても強く、一人息子が苦しむ姿を見て、神様は心が折れそうになったかもしれません。また、今日、私達が苦しんでいるのを見て心を痛めておられるのです。神は私達を決して見捨てません。 主イエスの十字架は私達の人生の真ん中に立っています。私達の前にある問題は、私達がその十字架に忠実であるかということです。神は十字架の上で両手を広げ、神の愛で全世界を抱かれました。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」を覚えておきましょう。 主イエスにとって十字架は、痛みや苦しみにさらされることを意味していました。十字架は彼の弱さだったのです。ですから「自分の十字架を背負う」ということは、自分の弱さを認めるということなのです。マタイ16:24(ルカ9:23)には、「それからイエスは弟子達に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うならば、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。」主イエスは、私達が自分の苦しみだけでなく、他の人の苦しみも背負うという意味で、私達が主イエスのようになることを命じられました。しかしそれは自分自身に死んで、彼に従って喜んで生きるという意志から始まるのです。 ルカ14:27 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、私の弟子になることはできません。」。ガラテヤ2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」 今日、棕櫚の日曜日、私達は主イエスがエルサレムの町に入ったことを思い出します。この聖週間の間、私達は、主イエスが人生の最後の日々を過ごしたことを思い出します。友人達に裏切られ、否定され、不当に裁かれ、苦しみ、死にました。主イエスの死は、世界を永遠に変えました。今週、私達が立ち止まる時間を持ち、十字架を背負い、十字架に忠実になってイエスに従うことができるように、神様が助けてくださいますように。 恵み深い神様、この聖週間を旅する私達に、キリストに従うこと、そして、私達の人生そのものをキリストに捧げる恵みを与えてください。 |
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May 2024
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