今月は聖霊、御霊について学んでいます。御霊が私たちに新しい命を与えてくれます。また御霊を通して私たちは神様がまるで私たちのベストフレンドのように身近に感じられること、神様は私達と共にいるだけでなく、私たちの中に住まわれておられること、愛された神様の子供として御霊が私たちの日々の生活を導き、私たちをキリストに似た者へと変えてくださることなどを学びました。
御霊の働きの大きなものの一つに賜物の明示があります。御霊の賜物には色々な種類がありますが、その一つに言語の壁を超えて互いが分かり合えるようになるという能力があります。 先月教会ではペンテコストをお祝いしました。弟子たちに聖霊が臨んだペンテコストではまさしく弟子たちにその能力が与えられ、互いに違う言語を話しながらもお互いをわかり合うことができたのです。 今日の聖書箇所で、パウロは御霊により与えられる賜物について話しています。神様は教会においてある人々を預言者(神の言葉を預かり、話す者)、ある人々を教師、ある人々を奇跡を行う者、いやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者に任命されました。(第一コリント12:28) 第一コリント12章の始めの方で、パウロは御霊による賜物はおのおのに、全ての人に与えられると言っています。賜物は一部の人だけに与えられる者ではありません。また、先ほど言ったように御霊の賜物には色々な種類があります。御霊はみこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくれます。(第一コリント12:5 & 12:11) 第一コリント12章は御霊の賜物についてですが、今日の聖書箇所である部分を読んでみるとパウロは御霊の賜物ではなく、キリストの体として調和しあう教会について話しています。教会の頭はキリストですが、キリストを表す体(教会)はキリストのみで存在しているのではありません。 体は、目や、耳、手、足など多くの器官からなっています。(第一コリント12:14)これらの器官は私たち一人一人を表しており(第一コリント12:27)、私たちは与えられた器官の役割を通して、共に集いキリストの体である教会を建てあげます。目は耳になることができず、手は足になることはできません。一つ一つの器官が体、教会を建てあげるには必要となるのです。 今日は皆さんと一緒に次のことを考えてみたいと思います。御霊の賜物とキリストの体としての教会はどのような関係にあるのでしょうか?なぜパウロはキリストの体である教会のことを、御霊による賜物をテーマにした章で語っているのでしょうか? コリント人への手紙で、パウロは古代ギリシャのコリントの教会が直面している問題について触れています。コリントの教会では教会生活、教会活動における問題に関して分裂が起こっていました。 異邦人が割礼を受けるべきか、偶像に捧げた肉を買うべきか、そして御霊の賜物に関して色々な意見が交わされていました。 コリント教会のコミュニティでは、異言を話すこと、預言をすることを誇るものが出てきました。異言や、預言などより明らかで大胆な御霊な現れや賜物を持つ者がより霊的に強く、そのためより良いクリスチャンだと考える者が出てきたのです。 新しく信仰を受け入れた者、教会を財政的に支えることができない者、偶像に捧げた肉を買うべきか悩み確信を持てない者、異言など明らかな御霊の賜物を持たない者、これらが霊的に「弱い」者としてレーベルを貼られ、みばえのしない、尊くない、劣っている、必要のない者と見られる(取り扱われる)ようになったのです。 コリント教会のコミュニティでは弱さが褒め称えられることはなく、弱さをそのまま受け入れたり、その価値を認めたるすることがなかったのです。 2000年たった21世紀の現在の今も、私たちは「弱さ」「弱い」という言葉が持つ否定的な意味の重荷を背負って生きています。 日本では仕事を探すとき、日本ならではの履歴書に情報を記入します。今までの職歴や学歴、持っている資格、スキル、得意なことを詳細に書き出します。けれど履歴書の中に弱さについて触れる「弱点」に関する項目はありません。 仕事のインタビューを受ける時、よく得意なこと、不得意なこと(弱点)について聞かれます。またメンターのような存在がいる場合、メンターが成長できる点についてあなたに教えてくれることもあるでしょう。しかし最近では、それらのことを話すときに「弱点」という言葉を使わず、「成長できる点」という言葉を用い、「弱い」という言葉を使うことを避けているように思います。 私たちが生きている世界や社会の中には、弱さについての思い込みがあるように思います。 弱さは矯正しなくてはならないもの。弱さは隠さなくてはならないもの。弱さは直面するのではなく、隠し、話さないもの。 このような考え方は私たちが生きる社会にあるだけではなく、パウロの手紙を読んでいると、教会の中にも蔓延していることがわかります。そしてそれは何千年も前の古代ギリシャにおける教会だけでなく、現在の教会が直面している問題でもあるのです。 まず初めに、弱さは良くない者という考え方に囚われているのは私だということをシェアしたいと思います。ご存知のように私はうつ病を患っています。15年以上付き合っているうつ病が自分の一部で、尊いもの、うつ病を持つありのままの自分を受け入れ。友人や教会の家族に曝け出すことができるようになるまでとても長い時間を要しました。 うつ病と付き合っていると、良い日とそうでない日があります。一日の中に良い時と、そうでない時があります。不安や、心配、人や物事を疑う心、怒り、失望等々、ネガティブな感情が渦巻いている時、そのネガティブな感情のサイクルから抜け出すには、意識的な努力、そして最も大切なことですが神様の助け、神様からいただく確信が必要になります。 本当に私はこういう「弱い」者です。時に朝ベットから出たくないことがあります。何もしたくないのです。特に10代の頃はこの事に非常に悩まされましたが、今でもストレスが溜まるとこういう風に思うことがあります。 起きていることに気後れし、押しつぶされたため、ベッドに自分の部屋に篭り、どこにも行かず、誰にも会わず、社会との関わりを持ちたくない。そんな風に思う日や、そんな風に行動してしまう時、このような弱さを持つ自分は牧師に相応しいのか、そのような疑問も湧いてきます。 このように自分の弱さを曝け出したり、分かち合う事にためらいを感じているのは私だけではないのでしょうか。教会にいると全てが順調で元気という風に見せなければならないから疲れてしまう。自分の人生に起こっていることをシェアするのは恥ずかしい。自分にはたくさん弱いところがあって、得意なことやスキルが少ないので教会で奉仕するのにためらいを感じるなどという話を私は実際聞いたことがあります。 けれど今日聖書を通して、神様の言葉を通して教会が弱さについてどのように考え、取り扱うべきか一緒に考えてみたいと思います。何故なら聖書は弱さを、社会、そして社会に生きる私たちが考えるようには考えていないからです。 パウロは弱さに対する偏見やネガティブなイメージを否定し、このように弱さについて語ります。このメッセージはコリントの教会にだけでなく、今を生きる私たちにも語られているものです。 「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」(第一コリント12:27) 弱い器官、弱いと見られるメンバーは私たち教会にとってなくてはならない存在なのです。この「かえってなくてはならない」という表現の単語は、聖書の他の箇所では「親しい」という意味で用いられています。つまり弱いと見られる器官、メンバーは教会と親しい交わりを持つことができる、持つべき関係にあるということです。 聖書は弱い器官、弱いメンバー、弱さに関してこのように伝えていますが、現実は違います。教会の中で経験することはむしろその真逆なのではないでしょうか。弱さや弱いメンバーが避けられ、押しのけられ、教会生活、教会で起こる会話や活動から離されたりしていないでしょうか? しかしパウロは、教会生活にあってこのようであってはならないと言っているのです。体(教会)の器官(メンバー)に属せない、器官(メンバー)はなく、必要とされない器官(メンバー)もいないのです。 教会は全ての人を、特に弱さと戦っている人々を、迎え入れる場所です。身体的なチャレンジを持つ人、精神的に苦しい人、霊的な戦いがある人、財政的に困っている人、世の中との関わりにおいてチャレンジがある人、これら全ての人が教会にとってなくてはならない存在です。 何故なら教会において、弱さと見なされるこれらのことは、それ以上のなにか強く、美しいものに変わることができるからです。御霊の賜物が教会を建てあげることができるように弱さもそうすることができるのです。 多くの方がご存知だと思いますが、詩人で画家の星野富弘さんという方がおられます。 彼は日本ではとてもよく知られたクリスチャンの画家です。彼は若くして事故に遭い、ほぼ全身麻痺となりました。しかし聖書を通して神様と出会い、キリストにあり慰めと希望を見出しました。 そこから彼はペンを口で持ち、字を書く訓練を始めたのです。これは彼がそのような訓練を始めて6ヶ月経ったころ、始めて書いたアルファベットです。(オンライン礼拝に画像が載っています。) 彼はさらに努力と訓練を続け、ペンを口で持つだけでなく、筆を口で持ち、絵を描けることができるようになりました。紙に詩を書き、それに合わせた絵も描くようになりました。 弱さとしてみられた彼の肉体的なハンディキャップや、不自由さは、時を経て、違う何かに変わったのです。人生や身の回りの自然の美しさを描き、伝える素晴らしい伝道の役割を果たすようになりました。 更に作品を作り上げていく中で、展覧会をする機会なども与えられていった星野さん。彼が受けたインタビューの中で彼はこのように語っています。「心をこめて、ごまかさずに描いた絵の前では、人は長く立ちどまり、熱心に見てくれました。ふるえる一本の線のなかにも、そのときのわたしの心がのこっていて、見た人は、それをちゃんと感じてくれるのでした。」 彼が描く線は彼が持つ肉体的な障害や弱さが全て表れていることでしょう。しかしむしろそこに人々の心を捉える何かが、人生の神秘さ、力強さ、喜びが表れていたのです。 これは彼の作品の一つです。(オンライン礼拝に画像があります) ここで彼は「強いものが集まったよりも弱いものが集まった方が真実に近いような気がする」と言っています。集まること、それは教会の意義でもあります。 ギリシャで教会を「エクレシアEkklesia」と言いますが、まさに「集まる」ということを意味します。教会は全ての人が招かれ、歓迎され、集まる場所です。それだけでなくただ集まる場所ということを指してはいません。私たち一人一人が、そして弱者と見なされている人々が迎え入れられキリストの体である教会を建てあげているのが教会です。 教会は私たちが人生で経験する色々なこと全てを迎え入れるところです。あなたの中にある弱い部分、あなたの人生における弱みとなる部分を迎え入れるところです。社会があなたを弱者と言う立場や、あなたや、もしくは家族や友人の中にある弱い部分のせいで、あなたのことを拒否したり、受け入れなかったとしても教会は、そのような人々や部分を受け入れるだけでなく、キリストの体として成長していくためにかえってそれらのことをなくてはならないこととして取り扱うところです。 教会は トランスフォーメーション(大きな変化)を目撃し、証するところです。もしあなたが弱者として、もしくはあなたの弱さをオープンに分かち合うことができるのであれば、そこにおられる神様を迎え入れられることもできるでしょう。あなたの中にある弱さはもう一人で背負うものではなく、神様と神様にある教会の家族が一緒に背負うものになります。 私たちは教会として集まり、共に祈ります。弱者や弱さを排除したり、拒絶するのではなく迎え入れ、むしろ尊ぶと第一コリント12:23でパウロは話しています。この「尊ぶ」という言葉には、「投資する」というような意味も含まれています。つまり比較的に尊くない、弱いと見られている器官(人々、物事)に対し、そのままにしておくのではなく、成長するようにケアを注ぐのです。 教会として私たちは弱さに対し、より尊ぶ、大切にするという気持ちを持たなければいけません。何故なら御霊の賜物と同じように、弱さは尊ばれるときに実を結ぶからです。星野富弘さんの作品が多くの人の心を動かし、人生や自然の美しさについて証をするのと同じように、教会のコミュニティーで尊ばれ、励まされ、大切にケアされた私たちの弱さは、教会そして人々の徳を高めるものへと美しく変化、成長します。 チャック先生がご自身の弱っていく体についてオープンに私たちと分かち合ってくださることに感謝しています。チャック先生、そして神様と共に歩む時、私たちはチャック先生が通られている全ての苦しみを教会として迎えいることができます。キリストにある一つの体として、私たちは共に苦しみ、共に喜ぶのです。(第一コリント12:26)チャック先生とご家族はカリフォルニアにいますが、それでも弱っている体にも関わらずチャック先生が神様と本当に親密な関係にあるのが分かりませんか? チャック先生の証が私たち教会を神様に近づけてくださっていると思いませんか?何故なら神様がチャック先生を神様の近くに置き、彼にベストフレンドとして接し、一番賢い存在としてチャック先生を導いていること、このような状況にありながらチャック先生、ケリー先生に信仰が与えられていることそのことに私たちは神様がそこにおられることを感じずにはいられないのではないでしょうか?そこには弱さでだけでなく、神様がおられるのです。 私の願いはこうです。私たちの教会が御霊の賜物を尊ぶだけではなく、人々が抱える弱さを受け止め、迎え入れるコミュニティーであれるように。精神病、中毒、身体的障害、慢性疾患、貧困、家族関係、友人関係、職場の人間関係における問題、成績に関する悩み、自信のなさ、敗れた夢、信仰におけるつまずき、差別、これらからくる弱さや苦しみを迎え入れるコミュニティでありますように。 弱さや患難は「弱いと見られる」だけです(第一コリント12:22)。そのことをありのまま受け入れ、尊ぶ時に、変化、成長を共に分かち合うことができ、奉仕に導かれるよう整えられ、教会を建て上げられるのです。 私たちのコミュニティに持たされる弱さや苦難に必要ではないものは一つもありません。弱さ一つ一つが私たちコミュニティーにとって必要なものです。目、口、耳、肩、手、胃、足、これらの器官は全て私たち一人一人を表して、キリストの体を表しています。目には見えない小さな器官も含めてです。私たち一人一人がキリストを証します。キリストは体のあらゆるところに満ちているからです。 私たち一人一人が自分の中にある弱さを見つめ、そのことを教会コミュニティーにシェアする時、教会として私たちがそれを尊ぶことができますように。そのことを通して、私たちの弱さの中からキリストの強さが完全に現されることでしょう。全ては神様の栄光となりますように。アーメン。
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ローマの信徒への手紙 8:14
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」 みなさんの中には、何年も前のNPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)のガリソン・キーラーを覚えておられる方もいるかもしれません。「レイク・ウォビゴンからのニュース」という番組でいろいろな話をしていましたが、中でも私の好きな一つはルーテル教会とリズ牧師についてのおもしろい話でした。 さて、ある晩ガリソン・キーラーは番組で、父の日の起源について話しました。それは1909年5月の日曜のある朝、ソノラ・ドッドという女性が、ワシントン州スポケーンの教会で母の日の説教を聞いた時のことでした。ソノラは母がお産で亡くなった後、自分と5人の兄弟を育ててくれた父親のことを思い、世の中の父親たちも母の日の母親たちのように注目されるべきだと思いました。ソノラは牧師に、6月の父の誕生日に父親たちを称える説教を頼み、牧師はその説教をしました。その後、父の日はゆっくりと社会に浸透していきました。母の日は1914年に公式の祝日になりましたが、父の日は遅れて1972年でした。 母の日は花屋とレストランにとって最も忙しい日です。少し前までは、母の日は電話会社も長距離電話が多いために儲かっていました。ところが父の日にはコレクトコールが多い日となりました。 実は私も1976年に交換留学生として日本に来て、埼玉県南浦和のホストファミリーで暮らした最初の1年は、両親に何回かコレクトコールをかけていました。 今日は父の日なので、(私の父については去年の父の日の説教でも話したのですが)今年も父の話をしたいと思います。 私の父、バートン・ジュノンは、1914年5月22日アリゾナ州プレスコット近くの鉱山居住地で6か月の未熟児として生まれました。双子の妹は死んで小さな靴の箱の棺に入れられました。父のための靴の箱の棺も用意されていたのですが、父の父親が懸命に祈り、まるで孵化させるかのように父のまわりを熱いれんがで囲んだおかげで、父は生き延びることができました。これが父の人生の最初の奇跡でした。 そして190.5センチまで身長が伸び、アリゾナ大学を1939年に卒業して機械工学の学位を取りました。 第二次世界大戦では軍役でヨーロッパに行き、そこでいろいろな体験をし、ヘミングウェイにも2回会いました。戦後、父と母はカリフォルニアに移り、そこで4人の子どもを育てました。父は正直で勤勉で人を助けるのが好きでした。物知りだったので、何でも詳しく説明しすぎるところがありました。時間を尋ねたとしたら、腕時計の作り方まで教えてくれたでしょう。まわりの環境や人々を大切にし、道に落ちているごみを拾ったり、街で困っている人を助けたりするような人でした。50年間、毎週献血をしました。通っていたメソジスト教会にも奉仕しました。母を愛し、アルツハイマー病の母を、自分の体力の限界まで世話をしました。 父は2005年10月14日に亡くなりましたが、父が教えてくれた教訓は私の人生を通して生きています。 その教訓のおかげで、私は聖霊に導かれ1976年に日本に交換留学し、後に夫となるトシに出会いました。その教訓に基づく祈りは神学校で私の支えとなりました。聖霊は私を再び日本に招き、神がいかに私の人生を導いてくださっているかを示しました。 本日の聖書箇所はローマの信徒への手紙8:14です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。 この14節は、英語では「for」(なぜならば)という説明の言葉から始まっていますが、これは前の13節を受けています。13節でパウロは、クリスチャンとして生きる私たちは「体の仕業を絶つ」べきである、と言っています。どういう意味でしょうか。これは、信仰を持つ者として、人生を罪とともに生きるべきではなく、罪に場を譲るべきでもなく、罪を許容するべきでもないということです。何よりも、人生から罪を取り払わねばなりません。これは自分一人の力ではできません。聖霊の力が必要です。 「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:5-6)。 神の御霊は、私たちの人生からすべての悪を取り除く手助けをしたいと思っています。悪というのは、クリスチャンとしてよくない態度、反応、言葉、人への対応などを指します。神の御霊は、私たちをより良い人間にして御霊の中を歩むことができるように働いています。 従って14節の、私たちは「神の霊によって導かれる者」であるというところでパウロが言いたかったのは、買い物に行って何を買えばいいかとか、晩ごはんに何を食べればいいかといった日常における選択を導く聖霊のことではありません。実際、聖霊は人生で決断をするときに私たちを導いてくれますが、ここでパウロが言っているのはそういうことではなくて、私たちは聖なるものの方へ、つまり聖別されるよう導かれているということです。聖霊は私たちを聖別へ、聖なるものへと導いていこうとします。 聖化された恵みというのは、キリストの精神に一致する生き方をするよう、私たちを変えてくれる聖霊が働いている過程のことです。聖化された恵みによって、私たちは「クリスチャンとしての完全さ(クリスチャンとしての成熟)」に近づきます。このことを、後にメソジスト教会に発展するメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーが「神と隣人への愛に満ちた心」、また「キリストの精神を持ち、キリストが歩まれたように歩むこと」と言い表しました。ジョン・ウェスレーにとっては、クリスチャンとしての成長とは、愛に満たされることにほかならないのです。 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。 ここでパウロは「皆」という言葉を使い、信仰を持つ「すべての人」にとって真実であると述べています。神の御霊が宿る人は皆、御霊に導かれています。 また「導かれる者」という受け身の言葉に注目してください。私たちが導くのではなく、神の御霊が私たちを導いているのです。 そしてこの言葉は現在形を使っています。ということは、聖霊はいつも導いています。日々、どの瞬間にもです。日曜日だけでなく、物事がうまくいっているときだけでもありません。問題を抱えている時や病気のときでさえ聖霊は導いています。どんな状況であっても聖霊は神聖、および神性の方向へ私たちを導き続けます。 パウロは、聖霊に導かれている人のことを「神の子なのです」と言っています。自分が神の子だと知るのは、すばらしいことです。神の家族はすべて聖霊に導かれています。これは信仰を持つ人の全員を指しています。 パウロはローマ8章全体を通して、聖霊によって生きることを教えています。 ローマ8:9では、神の霊は私たちの内に宿っている神だとあります。またパウロは10節で、神の霊はあなたがたの内におられるキリストだと主張しています。キリストを死から復活させた神の力が、私たちにも働いているとパウロは断言しています。つまり聖霊は、私たちに命と力と平和を与えてくださる神です。パウロはまたローマ8:16で語っています。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、… 一緒になって証ししてくださいます」。 エフェソの信徒への手紙には、私たちは「もはや、外国人でも寄留者でもなく、… 神の家族」であると書かれています。(エフェソ2:19-22) ガラテヤの信徒への手紙4:7ではこう言っています。「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」。 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(ガラテヤ4:4-7)。 私たちは神を信じる人、神の家族、神の子です。自分自身にではなく、神に属しています。 神は、私たちとこの世を愛されています。神であり、神のひとり子であるイエスをこの世に送ってくださっただけでなく、神の愛を示すために、神は私たちの中に常に宿る聖霊を送ってくださいました。そのためパウロ、ペトロ、ヨハネが、神の御霊を持つ者は子であり相続人である、と何度も書いたのです。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(Ⅰヨハネ3:12)。 今日みなさんが、聖霊の話す言葉を聞くように祈ります。聖霊は、神のとてつもなく大きな愛を表しています。聖霊は、みなさんが神の家族であることを示してくれます。 神はあなたを愛し、友人と呼び、親しくなりたいと思っておられます。これは聖霊を通して行われます。あなたは神の子です。私も神の子です。神の子であると知り、聖霊に導かれて前進しましょう。 アーメン 聖書朗読箇所
ガラテヤ人への手紙 5:25 もし私たちが御霊によって生きているのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 ローマ人への手紙 15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望にあふれさせてくださいますように。 ―――― 祈りましょう。息を吸って、吐く。神の聖霊「ルーハー」を取り入れるように吸って、そして神の精神を他の人達に共有しているのをイメージしながら息を吐きましょう。 KUCの説教者の今月のテーマは「聖霊と共に歩む」です。そして、それが今日の説教のタイトルでもあります。 どうやって皆さまは聖霊と共に歩いていると理解していますか? 御霊はあなたの中を流れています。信仰の一歩を進んだ時、自分では感じなくとも、聖霊の中を歩いています。御霊と共に歩む、御霊の中を歩く、聖霊の横を歩く。それぞれの意味はどういう事でしょうか?全ては信仰をもって聖霊に満たされた人生を歩むことです。 では、個人的な経験をスモール・グループに共有する、聖霊に満たされた人生とは何かメールでお互いに語り合うとはどういった事でしょうか? 私たちが新しい命を与えられたのは聖霊の働きによるものであるというパウロの考えはイエスと完全に一致しています。「御霊によって歩む」とは、御霊によって日々の行動を行う事を意味します。朝起きてから夜寝るまで、人生の隅々まで御霊の力によって生きる事です。しかし、私たちはどうやって「御霊によって歩む」のでしょうか? 聖霊は私たちを新しい方向に導き、後押ししてくれたり、手を引いてくださったりします。セレンディピティ、偶然の一致、または私たちの直感は、多くの場合、聖霊が導いてくださる神の出来事です。聖霊は私たちを変化させたり、刺激したり、新しい命を与えたりする可能性を秘め、あらゆる瞬間、毎日私たちの中に生き、息を吹き込んでいます。繊細であったり、それほど繊細でない場合もあったり。土曜日のサーモン・ラボで、日曜日には説教とプレイヤー・クラスで聖霊についてよく話をしています。まだまだお伝えしたいことがありますので、まだご参加頂いていない方は是非ご参加ください。 したがって、「御霊によって歩む」ことは神の御心に従うという願望を私たちの心の中に生み出すことで、聖霊が私たちを可能にするものです。これは先週の礼拝で読まれたエゼキエル書36:26-27で神が行うと神が言っていたことです。覚えていらっしゃいますか?田淵先生は先週の説教の「Dem Bons」でエゼキエルと乾いた骨についてとても優雅に美しく歌ってくださいました。楽しい歌なので、礼拝前の子供たちのひとときの際に子供たちにも教えました。 (Dem Bones https://www.youtube.com/watch?v=f5FxRGhUv30) エゼキエルが説教した後、神の霊が谷を吹き飛ばし、骨がつながり、この奇跡的な経験はエゼキエルにユダヤ人コミュニティの回復への希望を与えました。田淵先生の説教を先週見逃した方は、ぜひご覧になってください。彼の歌はとても上手です。私たちの教会のウェブサイトの良さは、過去の礼拝まで全て見ることができる事ですね。 エゼキエル36:26-27の言葉に戻ります。26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。 したがって「御霊によって歩む」時、私たちはエゼキエルのこの預言が満ちるのを体験するのです。聖霊は私たちが神の道を歩むのを助けてくださいます。「御霊によって歩む」とは愛のある行動という基本的に1つの行動を刺します。ガラテヤ人への手紙5:22-23を見てみましょう。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」御霊の実で最初に言及されるのは「愛」です。なぜ愛なのでしょうか? 再度エゼキエルを見てみましょう。「27わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」律法はイエスによって果たされます。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」次に同列で重要な事を伝えます。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令はほかにありません。(マルコの福音書12:30-31) 愛とは御霊の実を結び、御霊に導かれ、御霊によって歩む人の生き方です。 したがって隣人を愛することと、御霊に導かれること(または御霊によって歩むこと)は、ほぼ同義です。 聖霊は私たちに愛する事を教えてくれます。私たちの戒めはこうです「私があなたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」イエスは何度も何度も繰り返します。 「互いに愛し合いなさい、互いに愛し合いなさい、互いに愛し合いなさい。」 Homeboy Industries I L.A. はギャング介入プログラムであり、チャック牧師のお気に入りの本の1冊にグレゴリー・ボイル 神父の「Tattoos of the Heart The Power of Boundless Compassion」があります。神父グレゴリーはこう言います「ギャングは条件付きの愛の砦です。1つの間違った行動で自分が外にいることに気づくのです。」Homeboy Industries は無条件の愛のコミュニティを目指しています。Homeboy industries で働いていた者たちは、昼休みや休日に、ここを訪問してくれることがよくあります。Homeboy industries に以前いた元ギャングの1人は、ここに立ち寄って、神父にこう言いました。「ここに立ち寄って、修正しにきました。」神父グレゴリーが「何の修正?」と聞くと「愛」と彼は言ったのです。 私の両親は他人に愛を示し、困っている人に食べ物や服を与え、見知らぬ人にも親切に接し、異なる信仰、人種の人々を尊重し、神の創造物を大切に愛することを教えてくれました。 神は聖霊によって満たされている私たちの中にある愛を共有することを望んでおられます。 神は私たちをとても愛しておられると私は心から信じており、神は私たちが御霊によって歩むこと、御霊によって導かれる事、御霊の実を結ぶことを望んでおられます! 地球が形成されたときに聖霊はここにあり、その同じ聖霊がペンテコステの時に主からの命の息吹を受けてそれを伝える信者の体に入りました。私たちは2週間前のペンテコステの日曜日に教会で使徒言行録を読みました。 使徒言行録は聖霊の福音であると私は信じています。新約聖書の最初の4つの書で私たちは神がイエス・キリストを通してなさったことについての良い知らせを学びます。そして使徒言行録では神が聖霊によってなさった福音を学びます。強い風と火を弟子たちの頭上に送り、心の中で燃やし弟子たちが使命をもって世界に出ていき、世界の歴史を変えたのです。 私たちはその使命を受け継いでいかなければいけません。聖霊は教会に力を与え、世界の変化、神の愛を分かち合う主体となります。聖霊はすでに私たち一人ひとりのところに送られ、私たちを導き、共に歩み、慰め、未来に導いてくれます。神戸にKUCが創設されてから150年になりますが、聖霊によって導かれ、さらなる次の150年間も聖霊によって導かれることを楽しみにしています。 神に代わって行動するために、聖霊を体に取り込み、聖霊に鼓舞されてください。神の霊が私たちに流れ込む時、私たちがお互いを思いやる時、話し合う時、イエスキリストを主として受け入れ新しい人生を手にする時、それを感じる事が出来るはずです。 私たちの主であり、救い主であるイエスを受け入れた時、私たちは聖霊も受け入れます。神の霊はいつでもすべての信者の中にあります。大地を揺るがすような「感情」や「思い」を経験する必要はありません。ジャンプしたり叫んだり、泣いたり、床を転がったりする必要もありません。一部の人はそういった事を感じたりするかもしれませんが、それは彼らの聖霊の感じ方です。異語で話す人もいれば、そうでない人もいます。聖霊があなたを満たすように祈り、あなたの聖霊の体験が他の人の経験と同じではないかもしれないことを知っておいてください。聖霊を通して私たちは神との新しい関係を築きます。 私たちの中の聖霊の役割は、キリストの言葉を思い出させることであり、キリストから信者に宿るように送られたものです。聖霊は私たちの中に宿り、私たちの不要な部分を一掃し、聖霊が心を満たす事を可能としている人々に力を与えます。時として世界は住むのに困難な場所でもあります。神の霊が私たちの中に働いてくれることで私たちはバランスを保ち、信仰の上に人生を形成することができます。御霊を通して、私たちは主へのより大きな信頼を築き、人間の知恵、強さ、または私たち自身の能力に依存し過ぎない事を学びます。 御霊と歩むための5つのステップ 私が考える「御霊によって歩む」5つの方法を説明します。
ガラテヤ人への手紙5:25の聖句で締めくくりたいと思います。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」私たちが正しいと思っている事を行いましょう。それを終えたら、振り返って、全ての聖徒たちと共に「私ではなく、私の中にあるキリストの霊です」と言いましょう。 |
日本語の説教日本語の説教原稿はこちらにあります. Archives
May 2024
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