誕生日おめでとう。今日は、キリストの愛を受け入れたすべての人の誕生日です。「イエスは我が主」と告白し、神がイエスを死からよみがえらせたと信じれば救われます。救われる「かもしれない」とか、救われる「可能性がある」とかではなく、着実に救われるのです。
私たちには各々誕生日がありますが、今日は私たちの主が復活された日です。ですから今日は私たちの霊的な誕生日です。 ところで、誕生日を祝うのにプレゼントをもらい、ケーキのろうそくを吹き消したりするのは何だか変だと思っていました。生まれる時、生まれる本人が大きな仕事をするわけではありません。 私の誕生時には、エブリン・バーチが1月5日に大変な仕事をやり遂げました。私の父カールは、廊下でただ待っているだけでした。 私の二人の息子の誕生時には、私も分娩室でヒッヒッフーの呼吸を力の限り行いましたが、実際に出産の大仕事を行ったのはステファニーでした。 あなたがキリストを主として、また救い主として受け入れれば救われて、新しく生まれることになるのですが、神との和解を取り持つ大きな働きをしてくださるのはイエスです。 「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(ヨハネの手紙一 5:11-12)。 何年か前に「牛乳ある?」(Got Milk?) というアメリカの有名なコマーシャルがありました。イエスを心の中に受け入れれば、「いのちを得る」(Got Life)ことができます。まだイエスを受け入れていない方は、私か教会の誰かに話をしに来てください。このすばらしい「いのち」について説明します。 今日の聖句は、マグダラのマリアと他の婦人たちが、自分たちを愛してくださり、自分たちも愛したイエスの墓に行った場面です。十字架刑の後、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモがピラトに願い出て、イエスの遺体を降ろし、埋葬する許可をピラトから得ました。その日は過越祭の準備の日だったので、アリマタヤのヨセフが所有していた近くの墓にイエスを埋葬することにしました。 婦人たちは注意深く、細かいところまで気が回るのですが、反対に男性たちはイエスの遺体(皆はイエスが死んでしまったと思っていました)にするべきことを何もしていないと思っていました。それで婦人たちはイエスの体を清める儀式をしようと、兵士が見張りをしているはずの墓へ行きました。その時、墓の入り口をふさいでいる大きな石を女性だけでは動かせないことに気がつきませんでした。(悲しみに打ちひしがれているときは、物事を論理的に考えられなくなるものですよね)。 明け方まだ暗いうちに、婦人たちは丘を上って墓に行きました。近づいてみると番兵はおらず、入り口の石は取り除けてありました。イエスは、ご自身が死から復活すると31回もはっきりと話されたり暗示されたりしていたのに、空の墓を見た婦人たちは復活されたという考えには及びませんでした。少なくとも31回はその話を聞いていたにもかかわらずです。 婦人たちが最初に思ったのは、イエスがまたひどい扱いを受けたのかもしれないということでした。ユダヤ人指導者やローマ人といった権力者がイエスの遺体を動かしたのだと思いました。「イエスを殺しただけでなく、私たちにお別れの挨拶もさせないなんてひどすぎる」と思いました。 時には人生がつらすぎると思う時期があります。人生が大変な時、恨んだり敵意を持ったりしてはいけません。アルコールに逃げてもいけません。無視したり押しやったりしてもいけません。苦悩を神にゆだねてください。神はあなたの苦しみをご存じです。聖書で最も感銘深い聖句のひとつは、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)です。私たちの主イエスは、苦悩や喪失感を知っておられます。悲しみとはどういうことかを知っておられます。 マグダラのマリアは弟子たちがいる所へ走って戻り、墓の様子を告げました。主であり師である方が墓から取り去られたと聞いて、ペトロとヨハネは丘へ走り出しました。ヨハネは元気で早く走ったので、ペトロより先に墓に到着しました。次にペトロが墓に着いて見てみると、マグダラのマリアが言ったように石が取り除かれ、イエスの遺体は無くなっていました。 聖書の物語には興味深い詳細が記されています。もしイエスがあなたの家に来られたら、行儀のよいお客になることでしょう。というのは墓の中には、イエスの頭を包んでいた覆いが、血で汚れていたはずの他の布と別に置いてあり、しかもたたまれて置かれていたからです。 ペトロとヨハネは立ち去ったようで、マリアは一人で墓の外で泣いていました。自分を苦悩から救い出してくださったのに、今は亡くなってしまった方のために泣きました。希望のすべてだった方のために泣きました。このマリアは、イエスに救われる前は売春婦だったと言われているマグダラのマリアです。イエスによって、体を売るという屈辱的な職業から抜け出すことができただけでなく、七つの悪霊も追い出してもらいました(ルカ8:26)。 ですからイエスがいなくなった今、自分はどうなってしまうのだろうと思ったのに違いありません。昔の生活に戻ってしまうのだろうか。悪霊が自分の中に再び戻って来るのだろうか。これから自分に何が起こるのだろう、と。 このマリアを、そして私たちを、割れた器に例えることができるでしょう。先週お話ししたように、私たちは何かに捕らわれて生きていますが、その不健全な締め付けから解放されなければなりません。私たちは皆、いわばどこかが壊れている存在です。 約11年前、私たちのうち何人もの人が、東北大震災後の東北へボランティアに行きました。その中で、ある女性を手伝って、海水の浸水と割れた食器でひどい状態になった家を片付ける仕事をしたことがありました。女性は地震で夫を亡くしていました。私は割れて粉々になった食器を次々に拾っていきました。その時私は日本語がそれほどうまくなかったので、女性が私に気兼ねすることなく嘆くことができたのはよかったと思います。 その人は割れた皿を一枚ずつ手に取って、じっと眺めて涙を流しました。私が十字を切ると、彼女は皿をごみ袋に入れ、次の割れた皿を拾い上げるのでした。その出来事で私は、旧約聖書の預言者エゼキエルが、谷の上いっぱいの骨を生き返らせることができるかと神に問われた時のことを思い起こしました。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。 イースターによって、復活によって、「谷の上の骨は生き返ることができます」と私たちは自信を持って答えることができます。 私たちは皆、多かれ少なかれ壊れている所があります。壊れている箇所をじょうずに隠している人もいます。 イエスの宣教は、私たちの内部にある壊れた皿を修復することに焦点を当てたものでした。「わたしが来たのは、傷ついた心を慰めるためである」とイエスは言われました。 日本には金継ぎというすばらしい技術があります。 勤務する学校の校外学習で京都に行き、生徒と一緒に見学したことがあります。金継ぎの技は、割れた(粉々になったものでも)器の破片を元に戻すものです。東北で私がしたように割れた器を捨てたり、100円ショップで新しい器に買い替えたりするのではありません。金継ぎは、器の割れた隙間に漆を塗り金粉を蒔いて器を美しく修復する技です。割れた器が再び使えるようになるだけでなく、割れる前より美しくなります。金継ぎの実演を見せてもらいましたが、その時使用したのは何と東北大震災で割れた器でした。熟練の職人は細かい作業でその器をきれいに再生させました。 素晴らしい技術である金継ぎも、そしてまた私たちの信仰も、どんな接着剤を使ってもそのひび割れた部分を完全に隠すことはできません。ひび割れを恥ずかしいものとして隠すのをやめましょう。そうではなく、私たちを癒し、修復してくださった神に感謝しましょう。 私たちはかつて道に迷っていましたが、今は見つけていただきました。 以前は盲目でしたが、今は目が開かれました。 以前は死んでいましたが、今は生きることができます。 マグダラのマリアが、復活されたイエスを見て最初の証人になりました。イエスが生きておられると告げた最初の伝道者となりました。 イエスが生きておられるから、私は明日に向かうことができる。 イエスが生きておられるから、すべての恐れは消え去る。 私は知っている。イエスが未来を担っておられると。 イエスが生きておられるから、人生は生きるに値すると。 祈りましょう。
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今日は受難週の始まりです。「ホサナ」と「主の名で来る者は祝福される」というキリスト信者の言葉から、来週は「キリストがよみがえった!本当によみがえった」という宣言へと移っていきます。しかしその移行期間の本質を見逃していませんか。それは、オレオクッキーの中身を味わわずにクッキーだけを食べるようなものです。こうなると、主イエスが神様の御名において貧しい人々を搾取する者たちを神殿から追い出し、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と力説した真意を見落としてしまいます。主イエスは、教会は説教や音楽の家であるとは言いませんでした。むしろ、祈りによる神様との関係を基礎にして建てられた家であるべきだと言います。あなたの祈りの生活はどうですか。本当に、どうですか。私達がただ日曜礼拝に来ることだけこなしていると、主イエスの裏切り、ペテロの主イエスの否定、主イエスの教えの重要な部分を見逃してしまいます。最後の晩餐、主イエスが聖餐式を命じ、弟子たちの足を洗うという彼の謙遜な行為の真意を見落としてしまいます。最も重要なことは、十字架の意義を見落としてしまいます。十字架の真意を見落とすことは、キリスト教の本質が分からず、信仰の本質を見落とすことを意味します。 世界が王の王を殺したとき、私達は単に現状維持を望む群衆の中に自分の自らの声があることを認めざるを得ないのです。私達はメシアを切望するが、私達の欲する条件下で望んでいるのです。今週をあわただしく過ごさないでください。金曜日に、一人一人のために犠牲を奉げられたことに私達は深く思いを寄せ、それに焦点を当てた厳かな礼拝を行います。礼拝の中で、十字架で主イエスが残した最後の言葉について深く味わってみます。この週は「聖なる」という称号を持つ理由があり、それはすべてのキリスト教徒にとって大きな重要性を持っています。 主イエスのエルサレムへの最後の旅を、しばしば凱旋入城と呼びます。そこには明らかな熱狂があったでしょう。去年、プロ野球日本シリーズの開催中に、私は電車の中で阪神タイガースとオリックス・バファローズの熱狂的なファンに出くわしました。両チームが日本シリーズの勝敗を競い合って、そのファンの熱気と興奮を車内で感じとることができました。エルサレムも同じ熱気が満ちていたのか、さらにもっと白熱していたかもしれませんね。主イエスは、つい最近ラザロを死者の中からよみがえらせたばかりで、この若いラビがこれから何をするのか高まった期待の中でエルサレムに入場していくのです。 キリスト教ではこの日を「棕櫚の日曜日」または「凱旋入城:エルサレム入城の日」と呼ぶのは興味深いのです。つまり凱旋入城は、ローマ文化から来ています。そこでは、将軍が大勝利を収めると、ローマ中をパレードし、彼は神(小文字god)だと宣言します。しかし、主イエスはまだ最大の勝利を収めていません(それは金曜日に起こります)が、主イエスは自分が父と一体であることを宣言するパレードは必要ありません。彼は実にそのままが事実で、私と父は一つであること、そのことにより父が十字架上で御心を成され、私達は勝利を得たのです。 エルサレムへの途中で、主イエスは2人の弟子に、近くの村に子ロバを見つけるよう指示します。そのロバは誰も乗ったことがないにもかかわらず、主イエスのところに連れて行かれました。ゼカリヤ9:9には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなくろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」と書かれています。 3歳未満のロバに乗るのは危険とされているので、このロバが3歳ほどであることが分かっています。想像してみてください、主イエスが地上での宣教を始めたとき、3年前にこのロバはこの日のために生まれてきたのです。そのように神様は備えてくださいました。主イエスが神殿税を支払う必要があったとき、ペテロを釣りに行かせ、魚の口から2枚の銀貨を引き出しました(主イエスは神殿税を支払っており、神殿は彼の父の家でした)。私が義理の両親の家で食事をして帰るとき、その料理の請求書を受け取るみたいです。 一度も乗ったことのないこのロバは、主イエスのもとに連れて行かれることになっていました。弟子たちは許可を求めるべきではなく、なぜ自分のものでもないロバを連れて行くのかと聞かれたら、「主がお入り用なのです。」と答えなさいと言われました。これは王者が話す言葉であり、主イエスが完全に主であるという本質を具体化したものです。その時代の王や主は、単に「主がお入り用なのです。」と言うことで誰にでも接近し、彼らの財産を取り上げることができました。言われた人はそれを彼らに差し上げなければなりません。通常、王の家来は王の命を受けた身なりの人で、漁師のような身なりではありません。 私は今日のお祝いのためにシュロの枝を入手することをテッドと話し合いました。彼は店でたくさんのシュロの枝を探しましたが、見つけるのに困難を要しました(テッドに感謝)。数週間前にテッドの家を訪れ、実にテッドの近所にシュロの木があるのを見つけたのです。私はテッドに、あのシュロの枝がいるよね、と言ったら、テッドは近所のフェンスを越えてそれらを切り取りました。彼は私が伝えたとおりにしたのです。所有者に何をしているのか尋ねられた場合は、「マークがお入り用なのです。」と言うように言いました。これは、所有者との会話の後のテッドの姿の写真です。正直を言うと、この話の半分だけが本当です。 しかし、100%真実なのは、神様が用意してくださるということです。 ロバについて言うと、 ほとんどの新品は中古品よりも価値があります。セカンドストリート店に行けば、ほとんど新品の服が50%から70%引きで買えます。ロバや馬は違います。オークションでは、調教されていない馬よりも、調教された乗れる馬の方がはるかに価値があります。主イエスは一日このロバに乗り調教し、元のロバよりも価値のあるロバとして返しました。 ここには霊的な真理があります。私達が神様に何かを奉げるとき、私達の時間、才能、または資源、神様はそれらの贈り物をより大きな価値で返してくださいます。主イエスはこの特定のロバを必要としていましたが、全体的に見て、神様には何も必要ありません。神様は私を必要としませんし、あなたも必要とされません。神様は自身で充足しています。しかし、神様は私達との人格的関係に、私達と一緒にいることに喜びを見出しておられます。随分前に神様は、涼しい夕方にアダムとエバと一緒に歩いたように、私達と一緒に歩むことを欲しておられるのです。「神様は私を必要としている」と言うのは真実ではないでしょう。むしろ、「神様はあなたを求めている。」と言うべきです。主はあなたを欲しており、あなたの罪を主の血で買い戻すために主自身を犠牲にしました。(イザヤ53:5)「彼は私達の背きのために刺し貫かれ私達の過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私達に平安が与えられ彼が受けた打ち傷によって私達は癒やされた。」 私達が召命を受けたとき、応答の仕方をビデオでお見せしましょう! 主イエスのエルサレム入城と、サムエル記下6章に登場するダビデ王の契約の箱を運ぶエルサレム入城の行列の相似は注目を惹きます。ダビデ王の高揚した神様への賛美は、王の品格に欠けると批判されながらも、神様の臨在に対する彼の喜びの大きさを明らかに表したのです。人生は挑戦に満ちています、だから誰もあなたの喜びを奪うことのないように。主イエスは私達に、明日の問題に心を奪われず、今日の問題に十分注意を払うようにと諭しています。だからこそ、私達は喜びの瞬間を受け入れることが大切なのです。 主イエスは弟子たちに使命を与え、一度も乗られたことのないロバを紐から解くように命じました。簡単な宣言で、「主がお入り用なのです。」と言うのです。私達はみんな何かに縛られています。健康的で良い縛りもあります。私が神様との関係、家族の世話、私の召命への忠誠心など、良いものに自分を縛っているときは、それらが滑り落ちないよう二重結びにします。しかし、この世のプライド、イメージ、余分なものに縛られるとき、私は神様にこれらのものを解いて、神様に奉げる力を与えてもらうように祈ります。知っていますか。聞いたことがありますか。私達はキリストの信者であり、従者として、縛るだけでなく解く権威と力と特権を神様の御旨に従っている限り、地上だけでなく、天でも与えられているのです(マタイ16:19)。 心から全きに神様を賛美すると、抵抗に遭うでしょう。ダビデ王は、熱狂的な賛美のために妻のミカルからの批判に直面しましたが、これは棕櫚の日曜日の主イエス信者を黙らせようとしたパリサイ派の人々と同じです。主イエスは、礼拝を黙らせようとする彼らの努力を叱責し、黙れと言ったとしても、被造物そのものが自発的に賛美を始めるので、それは何の役にも立たないと示唆しています。主イエスによれば、人々が黙っていれば、石が神様を賛美し始めると言います。私は石、無生物が話すとは思いません。もしかしたら私が間違っているかもしれません。私は、ロバが話せるとは信じませんでしたが、旧約聖書(民数記22:28)には話すロバがいます。主イエスが話している石は、エルサレムへの道に並ぶ墓石だと思います。各墓石には一節または聖句が書かれていました。主イエスは、これらの墓石が、主イエスが何者かを語ると言っているのです。墓石に書かれた言葉は、エルサレムに入城する主イエスにおいて、今まさに成就されようとしている神様の忠実さを語っているだけでなく、最悪の事態でも、眠りについた忠実な人々がよみがえり、主イエスが誰であるかを証言すると言います。死者は知っているからです!それが、金曜日に神殿の聖と俗を隔てる幕が裂かれたとき、人の手によって下から上へ裂かれたのではなく、神様が上から下へと裂かれた理由の一つでもあります。主イエスの復活の後で死者が都に入り歩きました(マタイ27:52)。もし私達が主を祝う義務と喜びを忘れても、死者は忘れていません。 民が熱狂的な喜びで主イエスを祝福する中、主イエスはエルサレムの町を見て泣かれたのです。ロバは自分の仕事が何であるかを知っており、主を背中に座らせてそれを果たしましたが、ダビデの都、神様の民は、自分たちの王を迎える準備をするという目的さえ忘れ、わずか3日で主イエスに背を向けました。そのため、主イエスは彼らの不従順の結果を見て、母鶏が雛を集めて守るように、彼らを集めたいと切望されましたが、民は別を選択したのです。彼らはバラバを選び望んだのです。願わくば、主イエスが再び来られるとき、私達はそうならないようにしたいものです。もう一度言いますが、主は私を必要としません。しかし、私を求めておられます。 祈りましょう。 何かに精通しようと思ったら、特にスポーツの分野では訓練が必要です。
プロのアスリートは誰よりも早く練習場に来て、誰よりも遅くまで練習しています。鍛錬のため、より多くの時間とより大きな努力とより厳しい規律を自分に課しています。時間と行動を律することができれば、その分野で最高とまではいわずとも、卓越した者になれると信じているからです。そして自分の専門分野で優れた技術を身につけることができます。 このように規律には自制が伴います。たいてい何をするにも自制が必要です。例えば運動すると決めたとします。減量したい、ダイエットしたい、お腹周りの三段腹をなくしたいと思ったとします。しかし実行するには自分を抑制できなければなりません。 今の世の中は「手軽に満足できる」ものにあふれています。インスタント食品、カップ麺、インスタントコーヒー、それにインスタント妻、つまりオーダーできる花嫁まであります。 「結果を待つ必要なんかない」と言う人がいます。「何かを手に入れるのに待ちたくない、自分のやり方で手に入れたい。今すぐほしいから」と言う人です。 ドライブスルーやレストランで長い間待ちたくないですよね。列に割り込む人がいたら、頭に来て復讐したくなります。そして注文を取りに来た店員に怒りの矛先を向けたりします。または運転中に自分の前に割り込んだ車がいたら、追いついてその運転手に怒りを爆発させたくなります。 親愛なるみなさん、今日は御霊の実シリーズの最終回です。アーメン。これまでにマーク牧師とサンデースクールから多くの事を学びましたか。そう願っています。 ガラテヤ5:22-23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 多くの人が、おそらくみなさんもそうかもしれませんが、一番苦労しているのがこの自制であるようです。(私も時々罪悪感があります)。様々なタイプの人、様々な国籍の人が皆自分を抑制することに苦しんでいます。あなたも、ここにいる人も、あるいはほとんどの人が自制について悩んでいるのではないでしょうか。あなたはどうですか。 今までに自制について苦しんだ経験がありますか。私たちは皆クリスチャンなので、物事がうまくいっていないと、自分の中で闘いが起こっていると感じます。自制とは何でしょうか。 自制(self-control)という言葉は、ギリシャ語のENKRATEIAから来ています。ENは内側(in)、KRATOSは力(power)という意味です。つまり力を持っている状態、自己を統制している状態です。 基本的には感情、衝動、欲求を抑えることを指しています。抑制の能力のことです。 何かがほしいと思った時に拒絶する能力です。 言っておきますが、誘惑にあうのは罪ではありません。しかし誘惑がやって来た時、拒絶できますか。 親愛なるみなさん、自分の手に負えないような誘惑がやって来た時、拒絶できますか。 自制の最良の模範は、私たちの主イエス・キリストです。 へブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。 あなたが今、どんな状況にあるのかイエスは知っておられます。あなたの苦悩をわかっておられます。あなたがもがき苦しみ、困難と誘惑にさらされているのをご存じです。だからこそ自制のことを「抵抗し、拒絶する能力」と定義しているのです。自己抑制力です。 先ほどイエスへの誘惑についてマタイ4章の聖書朗読がありました。イエスの40日40夜の断食を想像できますか。4章を見てみましょう。 マタイ4:1-2 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。 イエスは1か月半も食事を取らず、「その後で空腹を覚えられた」とあります。普通私たちは朝食を抜いたり、食事を1、2回取らなかったりすると空腹だと訴えますね。しかしここでのイエスの空腹は、「餓死しそうなほどの空腹」です。イエスには食べ物が必要で、食べ物がほしいと思っていたはずです。 そこへ悪魔がやって来て、食べ物のためにイエスの力を使うよう誘惑します。イエスの食べ物への欲求は、はかりしれないほど大きなものだったはずです。 悪魔は言います。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。 悪魔は、イエスの力でそうできることを知っていました。イエスもご存じでした。イエスはパンをほしいと思われたことでしょうが、きっぱりと拒絶されました。 すると悪魔は魅力的な提案を次々に出して、イエスを試みました。 悪魔はいつも、あなたに望ましいものを利用して誘惑します。 断食して空腹の時でも、悪魔は野菜サラダを使って私を誘惑することはありません。そうではなくて、レチョン(訳注:豚の丸焼き。フィリピンのごちそう料理)やステーキや寿司やイチゴケーキやアイスクリームなどを目の前に出されたら、それこそまさしく私にとって「誘惑」となります。 (主よ、ほんの少し、味見だけさせてください、と言うかもしれません) 繰り返しますが、悪魔はあなたが本当にほしい物を携えてやって来ます。自制や拒絶をあなたから取り払おうとします。 マタイ4章で、悪魔はイエスに力、能力、権威を使うよう誘惑します。「あなたは神の子なのだから、石をパンに変えられるだろう。空腹なのだからそうしなさい。あなたならできますよ。今すぐに」とイエスに言います。 そこでイエスはパンを食べるか、正しいことをするかの選択をします。 私たちには正しいことをするより、やりたいことをする欲求の方が強いのでしょうか。 あなたが正しい方を選択すれば、それは「義」と呼ばれます。 ゲツセマネの園は、イエスが十字架刑を受ける前に祈られた場所です。 イエスはこう祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)。 この時、イエスは人間の罪をすべて引き受ければ、天の父から引き離されると知っておられました。父なる神は罪とは相いれないからです。想像してみてください。イエスは遠い過去からずっと天の父と一緒におられたのに、ここで御父から離されるというのです。イエスは心の中の葛藤を制御しなければなりませんでした。 その後、イエスは拷問と十字架刑を受けるのを自分にお許しになりました。イエスはあなたの代わりに死なれました。教会の兄弟姉妹のみなさん、よく聞いてください。イエスは私たちの代わりに死なれたのです。 イエスは正しいことをされました。自制の完璧な模範でした。 イエスの自制はまだあります。 イエスは拷問と十字架刑に際して、天からの援軍を呼ぶこともできたのに、そうはされませんでした。御使いに、ご自分を迫害している人々を滅ぼす権限をお与えになりませんでした。 マタイ26:53 (イエスは言われました)「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」。 イエスはここで、自分を捕らえようとする人々が来ているのに、自分を守る必要はないとペテロに言っています。 ところで、1軍団は何人の兵士で構成されているか知っていますか。ローマ帝国の1軍団はおよそ6千人でした。ですからイエスが言われた12軍団は、計算すると6,000人×12=72,000人となります。イエスがペテロに言われた御使いの数は、7万2千人です。 旧約聖書では、列王記第二19:35で一人の御使いが18万5千人のアッシリアの兵士を打ち殺したとあります。 再び計算すると、72,000人の御使い×185,000人≒130億人となります。もしあの時イエスが御使いに助けを求めていたなら、およそ130億人の人が御使いに打ち殺されていたでしょう。ただ、当時の世界人口はわずか推計3億人程度でした。 イエスが御使いに助けを呼ぶのをやめていなければ、イエスに自制心がなければ、どうなっていたでしょう。あなたも私も私の家族も今ここに存在していないでしょう。世界中が消え去ってしまったことでしょう。 現代に置き換えたとしても、やはり世界は消え去ることになります。現在の世界人口は約80億人なのですから、御使いの軍団に消し去られてしまいます。 Ⅱペテロ2:21-24 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、イエスには世界中に権威を持つ権利がありました。しかし、そうなさいませんでした。なぜでしょうか。 イエスは、あなたを、私を、あなたの家族を、あなたの愛するすべての人をご覧になりました。あなたの友人を、あなたが昨日かっとなって怒った近所の人を、そして世の中をご覧になりました。 もしイエスが死ななければ、あなたはどこにいるでしょうか。あなたの両親は、子どもはどこにいるのでしょう。 御霊の実は自制です。 みなさん、欲望と誘惑が襲ってきたとき、抑制し、拒絶し、食い止めるよう私たちは求められています。では、自制が必要なのはどういう時でしょうか。 1. 人間関係で自制が必要 誰かに腹立たしい思いをさせられた時、相手を攻撃したくなったことがありますか。ある教会員を怒鳴りかけた牧師がいました。私たちは自分を抑えなければなりません。我慢できないときは100まで数えてください。でも羊を数えてはいけませんよ。眠ってしまいますからね。 2.金銭面で自制が必要 必要以上に浪費していませんか。貯蓄に回すはずの金銭を使ってしまっていませんか。ちょっと見るだけのつもりでショッピングモールに行って、結局家族全員の買い物をしたりしていませんか。 3. 健康を維持するのに自制が必要 スケジュールを守りましょう。運動の習慣をつけましょう。継続には強い意志が必要です。適切な食事にも自制が必要です。サラダを食べたいという誘惑は来ないでしょうが、ケーキやステーキには心を惹かれます。それを拒絶する自制を持ってください。今日は食べないぞ、と。 4. 霊的に健全な身体の保持に自制が必要 運動や健康的な食生活を規則正しく実践するのは難しいことです。同じように、祈りやデボーションの時間を日々の生活の中に規律をもってスケジュールに組み込むのも難しいことです。神との関係性をより深めるためには、決意と規律と自制が必要です。 5. 罪を避けるために自制が必要 ガラテヤ書の御霊の実の前の節に、実と対比する事柄が書かれています。肉のわざとあります。 ガラテヤ5:19-21 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。 あなたはこのうちの一つや二つは経験があり、もうおしまいだ、自分は天国に行けないと思うかもしれません。しかし大切なのは最後の21節です。「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」という箇所です。 もしあなたが継続的にそれを行い、罪があなたの生き方となっているなら、文字通り神の国を相続できません。しかしイエスに罪の赦しを求めたのなら、それらの罪はすべて取り除かれています。あなたは義とされています。 私たちはみな、誘惑されやすい弱い分野を持っています。悪魔はその弱い部分を突いてきます。 Ⅰコリント10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。 みなさん、神は、耐えられない誘惑にあわないよう、いつもあなたに逃げ道を用意してくださるでしょう。罪に陥らないようにする選択肢は常に存在します。 イエスにすべてを引き渡し、あらゆる重荷をゆだねれば、平安が訪れます。主よ、私の人生を支配してください。みこころにゆだねます。 わたしの願いではなく、みこころがなりますように。 おしまいに、次の聖句を読みます。ここに本質があります。 マタイ7:15-20 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。 誰がイエスに従う人か、どうやって見分けますか。 その人の実を見てください。御霊の実を結んでいますか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持っていますか。 翻って、自分はどうですか。だいたいは持っているけど、持っていないものもある、というところでしょうか。もっと成長するよう私の内側で神が助けてくださっています。 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、御霊の実の成長を望むなら、実の種を植え、大きくしてくれるようイエスに頼んでください。実を成長させてくれるのはイエスです。 あなたが受けたどんな傷も、どんな痛みも手放して、イエスに自分を預けてください。自分を頼らず、イエスに頼ってください。 祈りましょう。 メッセージ:
90年代に横浜に住んでいた頃、私たちはYUC(現在はクラウディア牧師が奉仕している場所)に通っていました。当時、第二次世界大戦で破壊された古い教会の焼け残った跡地があり、礼拝後に子供たちが遊ぶ場所でした。がれきがあるので、少し危ないのですが、私が子供だったら、遊びたい衝動にかられる場所でした。 私たちはテッドさんのような管理者がいなかったため、ある日、その場所で教会の清掃をしていました。 私は木材と燃えるものを集め、それを燃やすように言われました。しかし、木材に火がつかないのです。そこで私はガソリンをかけ、火をつけました。すると、燃えるだけではなく、爆発して、火と点火で勢いを持った気化したガソリンが、私の腰から下に当たり、文字通り、比喩表現ではなく、私の足に火がつきました。 私の足はII度の火傷と病院で診断されました。その後、私は火傷の専門医を訪れ、3日ごとにバンドエイドを剥がして薬を塗り直さなければなりませんでした。 毎回、あおむけに寝ると、おそらく50代後半くらいの看護師さんが、こう言います。「この処置は痛いと思いますが、3数えてください」と私は数え始めます。時に彼女は2まで待ち、ある時は3まで待ちますが、彼女は滑らかに、一気に古いバンドエイドを剥がしてくれます。本当に痛くて、目から涙がこぼれ落ちたこともありました。 ある日、その看護師さんが忙しかったので、看護学校を卒業したばかりの若い優しい看護師さんが代わりに来てくれました。私はいつものように横になると、彼女は「痛いと思うので、優しく処置させて頂きます」と言ってくださいました。そして、彼女はゆっくりと、私の足のバンドエイドを引き裂いていきました。これは、本当に痛かったです。そして、私が処置台の上で泣いていると、いつもの年配の看護師が入ってきて、「何をしているの?」と言い、バンドエイドを一気に剥がしました。 なぜこの話をしたかと言うと、その年配看護師さんの毅然とした姿勢とケアが世界で一番優しいものだったからです。 傷ついた人々の世界では、私たちは人々を丁寧にケアする巧みな手が必要です。カウンセリングは私が持っている才能ではありません。ですから、他者にケアを求められた時は、私自身は、いつも率直に物事を言う自分ではなく、この若い看護師のように、物事をゆっくり進めるように努めてしまいます。 私たちはヨハネの福音書1:14からイエスが恵みと真実に満ちていることを知っています。恵みと真実に満ちていて、とても重要な箇所です。私たちは、よくどちらか一方に偏ってしまいます。あまりにも正直に、率直に伝えすぎ、結果として人々を信仰から遠ざけてしまうことがあります。 信仰に熱心であった、ある友人がいましたが、彼は夜中にトレドのバーが点在する場所に出かけ、人々に悔い改めて罪を犯すことから離れるように説得していました。もちろん失笑されました。彼は人々に真実を伝えていると言いましたが、恵みも慈悲も社交スキルもありませんでした。私は他の人々も知っていますが、何でもかんでも許容し、それが許容されたと言いますが、実際にはそうではありませんでした。そして、私たちは恵みと真実の中で、どちらか一方に感情的に落ちる傾向があり、誰もが完璧にバランスを取れているわけではありません。ですから、私は誰かと話す前に、祈ります。「神様、あなたの恵みと真実に満ちた存在となるように助けて下さい。」 その友人には、賑やかなバーではなく、静かなバーに入り、飲み物を買って座り、誰かとじっくり話す事をおススメしました。私の知る限りでは、彼は一度もそれを実行していませんし、誰かをキリストに導くことはなく、逆に彼自身のやり方を貫いたことで、人々を神様から遠ざけていたと記憶しています。 イエスは罪人や取税人と会い、話しましたが、彼らに話しかけなかったのです。これはファリサイ派がイエスに対し、問い詰めたことの1つです。イエスの兄弟であるヤコブは言います(ヤコブ3:13-16)、「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい」 私たちの知恵を示すのは、キリストとの関係によってもたらされた理解からくる柔和な行いです。これはこの時代の知恵ではなく、神様のメッセージ(ロゴス)につながった知恵です。 映画『モンタナの風に抱かれて』にはロバート・レッドフォードが主演しました。けがをしたり傷ついた馬と共に仕事をする実在の男性をモデルに描かれた作品です。実在するこの男性は、次のように述べています... 冷静に自身の軸を保つこと(私たちにとっては、それが霊に留まること、または古参者が言うように、「祈り続けること」です)。それには時間がかかることを理解してください。愛情を持って境界を設定します。馬が自身の意思で、ここに来るまで待ちます。 今から私たちが見るシーンは、馬が恐怖で逃げ出した状況です。主演のレッドフォードは馬を信じながら、馬が自分のところに戻ってくるのを待ちます。まるでルカの福音書15章にある、父親が浪費家の息子が帰ってくるのを待っていたように。 そのシーンを見てみましょう。 ヨハネの福音書21章では、イエスが初期の教会の岩(土台)となるペテロを助けます。私たちは、イエスが逮捕されたとき、ペテロは近くにいましたが、その後、イエスを1度でも、2度でもなく、3度も「イエスを知らない」と言いました。イエスはペテロに質問をします。 「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか?」とイエスは尋ねます。ペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えます。イエスは言います、「わたしの小羊を養いなさい。」まず、私たちはイエスがペテロに対して、友人としてではなく、正式にアプローチしていることが分かります。それは、彼を「ヨハネの子シモン」と呼ぶことでも示されています。 次に、小羊は小さくて弱い存在です。母羊が小羊を拒絶する際(それが起こることもあります)と、羊飼いには二つの選択肢があります:小羊をそのまま死なせるか、羊乳を搾って小羊に飲ませるかです。興味深いことに、その小羊は成長すると、群れの中の他の羊よりも羊飼いに最も忠実になります。それは、漁師でさえ知っている常識でした。 イエスは再びヨハネの子シモンに言います。「私を愛していますか?」再び、ペテロはは「はい、私はあなたを愛しています」と答えます。ここで、イエスはペテロに二つ目の使命を与えます。「わたしの羊を飼いなさい。」これは普通です。羊は(小羊と違って)自分自身で食べることができます。彼らが必要とするのは通常の命令であり、羊自身は基本的に自分のことを自分でします。 イエスは3回目に再度尋ねます。(そして私たちはペテロが3回イエスのことを「知らない」と言ったように、イエスがペテロに3回質問したことは重要です)「ヨハネの子シモン、私を愛していますか?」私たちは、イエスがペテロがこの関係にコミットするように、優しくですが毅然とペテロに尋ねたことで、ペテロの心が傷ついたことを知っています。ペテロは言います、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています。」 イエスはペテロが彼を愛していることを知っていましたが、ペテロがどれだけイエスを愛しているか、自覚していない事を知っていました。そのため、イエスはペテロに心の鏡が見えるようにしていたのです。イエスからの最後の命令は、「私の羊を養いなさい」でした。 1回目、2回目までは理解できますが、3回目は理解できません。羊はすでに自分自身で餌を食べることが出来ます。しかし、イエスは、人生のトラウマや困難のために、通常のことをする能力を失った者もいることを知っています。そういった人々は霊的なエネルギーを必要としていますが、トラウマや困難のためにそれができなくなっています。そのため、イエスはペテロに子供だけや、通常の人をケアするようにと呼びかけるのではなく、弱い者や困っている人たちをケアするようにと呼びかけています。彼らは、親切かつ真実の愛の手を通して、また健康に戻れるように導かれる必要性があります。 あなたが傷ついた羊の1人であるような気がするならば、それを自分の中だけに留めておかないでください。できれば、あなたを祈ってサポートしてくれる、しっかりした人に伝えてください。霊的に成熟した人々からサポートを受けるだけでなく、イエスにも告げ、彼があなたをケアするために彼の愛の御手であなたの心に触れさせてください。なぜなら、イエスは私たちに言います。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙虚な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」 祈りましょう。 ガラテヤ人への手紙 5:22-23
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 ダニエル書6: 16-23 役人たちは王のもとに来て言った。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」それで王は命令を下し、ダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれることになって引き出された。王は彼に言った。「お前がいつも拝んでいる神様がお前を救ってくださるように。」一つの石が洞窟の入り口に置かれ、王は自分の印と貴族たちの印で封をし、ダニエルに対する処置に変更がないようにした。王は宮殿に帰ったが、その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし、夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った。洞窟に近づくと、王は不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけた。「ダニエル、ダニエル、生ける神様の僕よ、お前がいつも拝んでいる神様は、獅子からお前を救い出す力があったか。」ダニエルは王に答えた。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じた。ダニエルは引き出されたが、その身に何の害も受けていなかった。神様を信頼していたからである。 東京で最も有名な集合場所、ハチ公前に犬の像があります。その物語は誰もが知っています。主人が亡くなった後も、最初は列車のスタッフや通勤客にハチ公は追い払われたにも関わらず、毎晩主人が帰ってくるのを待ち続けた忠犬の話です。その記事が新聞に載り、人々はハチ公に親切にするようになりました。彼は忠犬ハチ公です。 アルゼンチンにも亡くなった20歳の主人を失ったドイツ・シェパードであるキャプテンという名の犬についての物語があります。犬は若い主人が埋葬された墓地に連れて行かれ、犬が嘆き悲しむのを皆が聞いたとされています。その夜、家族は犬を連れて帰りましたが、犬が餌を食べていないことに気づきました。彼らは犬を探しましたが、犬を見つけることができません。数日後、彼らは息子の墓地に戻るとキャプテンがそこにいたのです。彼らは犬を家に連れ戻しましたが、犬が外に出るとすぐに20マイル先の墓地まで走り、2018年に亡くなるまでそこにとどまりました。知っておいてほしいのは、私は動物愛護者です。私は動物の物語を読むのが好きで、かわいいペットのYouTube動画を見るといつも笑顔になります。動物に対し残酷に叱るのを目のあたりにすると、私は実に怒りさえ覚えます。 私達は今日、単に個人としてではなく、神様に対する忠実という共通の断ち切れない糸で結ばれた共同体として集い、神様に従い、何度も何度も私達に示してくださった天の父の忠実さに倣おうとします。神様は旧約聖書を通して時には不誠実な人々にも忠実でした。 人々、私達が「イエスを十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶ中で、私達の罪を背負いながら主イエスは十字架に至っても忠実でした。主イエスは天使の軍団を呼び出して自分を救うことができましたが、主は死に至っても忠実でした。私達が持っている忠実の心は、神様が私達に現わした神様のまことの反映に過ぎません。数年前、私が出席した教会に、重度の病気を抱えた女性がいました。彼女はほとんど腕や足を動かすことができず、常に車椅子に座っていました。それでも、毎週日曜日と水曜日の祈りの集まりに、彼女の夫と彼女は忠実に教会に来ていました。晴れていようが雨であろうが、彼女はそこにいました。それは、教会の全ての人々に、彼女のキリストと教会への献身を証しするものでした。 忠実さは、神様との関係の核心にある美徳です。それは私達が喜んで神様に従順でありたいという意思に直結しています。私は2匹の忠犬の話をしましたね。忠犬達の心の痛みにもかかわらず、この忠実な仲間は主人への献身を守り続けました。犬達の物語は、忠誠心の持つ奥深さと力を考えさせられます。 聖書には、人々が神様に忠実であったという記述が数え切れないほどあります。裏切り者や不誠実な人々の話も聖書には公正にバランスよく記載されています。神様の力によってエジプトから救い出され、紅海を渡った直後(その凄さを想像できるだろうか)、イスラエルの民は金の子牛の偶像を造って拝んだのです。心変わりだったでは済まされない行為です。私達は摩擦のない簡単な進路を行く水のようです。神様どうか、私達の移り気をお赦しください。 これは言うまでもありませんが、信仰の深い基盤なくして忠実な心を堅持することはできません(当たり前のように聞こえますが、それは真実です)。信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信することです。なぜなら、信仰がなければ忠実ではありえないのです。あなたはアガペの愛と希望なしに忠実であることはできません。ほとんどの朝、私は祈りの結びの言葉としてこれらの三つのこと(信仰、希望、愛をこの世に)を求めます。なぜなら、私がこれらの三つを持っていれば、忠実さが続くと知っているからです。 神様に忠実な人の例はたくさんありますが、ダニエルに匹敵する人はほとんどいないでしょう。ネブカデネザル王の治世に、友人たちシャドラク、メシャク、およびアベデネゴとともにバビロンに捕らえられた若者でした。異国の地であったにもかかわらず、ダニエルは神様に献身し続け、食事の規則のような小さなことから祈りのような大きなことまで、信仰において妥協をしませんでした。忠実な心は、しばしば信仰の小さな行為の積み重ねに現れます。ダニエルの忠実さが最もよく表れた物語の一つは、ダニエル書6章にあります。ダニエルはバビロニア政府において権力の座に上り詰めていたため、人々の間に嫉妬と恨みが生じていました。これらの人々はダニエルに対する陰謀を企て、ダレイオス王(新しい王)を説得して、王以外の神様や人に30日間祈ることを禁じる法律に署名させたのです(王はしばしばナルシストである)。違反者はライオンの穴に投げ込まれ、食べられるまで留置されます。結果を予期しながら、ダニエルは神様に忠実であり、毎日三回祈りを続けました。彼が常に行っていたように窓をエルサレムの方向に開けて隠し立てはしませんでした。ダニエルに嫉妬深い男たちはダニエルが主を礼拝するのをやめないことを知っていてそれを当てにしていました。多くの者は、「30日たったらまた祈り始める」と言うかもしれませんが、ダニエルにとって祈り、信仰は生きており、一ヶ月間息を止めることと同様です。それは彼にはできませんでした。彼は簡単に捕まり、王に報告されました。王は彼を有能で、より重要なことに忠実な男として知っていたので、王はダニエルを救いたかったのです。王の手は、自分自身が署名した法律によって縛られました(自分が合意したことには注意してください)。ダニエルへの罰は、ライオンの穴に投げ込まれ飢えたライオンに食べられることでした。翌朝、王はライオンの穴に駆けつけ、叫びました。「ダニエル、生きているか?」 ダニエルは答えました。「王様がとこしえまでも生き永らえられますように。神様が天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」 死に直面しても神様への揺るぎない信仰を貫いたダニエルは、結末がどうなろうと主を信頼することの力強い模範となりました。 人々は言うかもしれません。「職場で食事の前に祈ると、人々が私を奇妙と思うかもしれません。」。いいえ! 「私がキリスト教徒であると人々に伝えたら、彼らはどう思うだろうか?」いいえ! 「何かが間違っていて、それが私の信仰に反していると言うと、家族や友人は私についてどう考えるだろうか?」 これらは、何年も私が人々から聞いてきた本当の話です。信仰は簡単ではありません。ダニエルに聞いてください。ゲツセマネの園で「手からこの杯を取り除いてください」と祈っていた私達の主イエスに尋ねてください。そして父に祈りました。「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」 それを忠実と呼びます。ダニエルの物語は、私達自身の人生において忠実であり続けるよう私達を励まし、たとえそれがどんなに悲惨に見える状況であっても、神様が私達とともにいてくださることを信じるようにと促しています。ダニエルの忠実は、彼自身の命を救っただけでなく、神様の力と忠実さの証しとなり、最終的に神様の御名に栄光をもたらしました。 忠実であることの本当の意味は何でしょうか。それは単に恩義や義務を果たすということなのか、それとももっと深く、重要なものを含んでいるのでしょうか。忠実であることの核心は、キリストに対する私達の信仰、希望、愛の強さの証しです。それは、私達の神様に対する揺るぎない確信を、生き生きと表現したものなのです。 主の聖餐に着くとき、私達はそれを祝います。神様への忠実のしるしとしてパンと杯をいただくとき、私達は神様が忠実であったことを公言します。ある時、主イエスは父親から息子を癒してほしいと頼まれました。主イエスは彼に信じたかどうかを尋ねた。父親は、「私は信じているが、私の不信仰を助けてください。」と答えました。私達が食卓に着く時、「主よ、私はあなたを信じます、あなたは私が忠実であるように助けてくださいます。」と言うのです。 祈りましょう。 |
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May 2024
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