主をほめたたえます。 皆さんの前に立ち、イエスの御名を讃えることができ、大変うれしく思います。私はヒンズー教を信じる家庭の4女として生まれました。私が生まれたとき、誰も喜んでくれませんでした。祖父は私を殺せと言いましたが、母はそれを受け入れませんでした。祖父は私に触れることもなく、抱っこもしませんでした。しかし私が生まれてから数日後、母はサタンの攻撃を受けて私を投げ倒しました。その後、医者が私の無事を確認した時、私には何も危害が加えられてないこと、無事なことがわかりました。
サタンは今までいろいろな方法で私を殺そうと計画しました。今日、私は証をしたいと思います。神様が私の人生を根本から変えてくださいました。ひっくり返してくださいました。イエス様は私を死の恐怖と束縛から解放してくださいました。 私の人生の中で、イエス様が私を解放してくださった大切な3つの時をお話ししたいと思います。私は7歳の時、天国と地獄について疑い、恐れやストレスを感じていました。私は他の子供たちとは違いました。私のストレスと不安はとても大きかったのです。10歳の時、イエス様が私に出会ってくださいました。それまで誰もイエス様や救いのことを教えてくれなかったのですが、ある日曜日に教会か何かの礼拝の集まりに出くわしたのです。私がそこに入った時、私の恐れや不安は取り除かれ、私は解放されました。心に平安が訪れました。その瞬間から、私はクリスチャンになりましたが、そのことは家族には内緒にしました。 次に、私の信仰の旅路の中で起こった2つ目の重要な出来事についてお話したいと思います。17歳の時です。大きな蛇が私に話しかけてくる夢を見ました。その時から、私は死や暗闇に対して恐怖を抱くようになりました。私はもうすぐ死ぬんだという声が聞こえるようになりました。もうすぐ死ぬ。 その声は、「もうすぐ死ぬのなら、なぜ食べたり、勉強したりするのだ」とも私に語りかけました。私は誰に頼ればいいのかわかりませんでした。だから、一人で悩み苦しみ泣いていたのです。そんなある日、信仰の先輩の一人が私のために祈ってくださり、その瞬間からすべてが変わりました。イエス様が再び私に触れてくださったのです。 次に、私の信仰に影響を与えた3つ目の出来事についてお話したいと思います。最近、4ヶ月ほど、なぜかわかりませんが、私はまた心の平安と喜びを失っていました。すると「この地上の人生は必要ない」と言う声が聞こえ始めました。安らぎがなくなったので、自分の人生が嫌になり、死を考えるようになりました。何度も自殺を考えました。主イエスに、私の命を奪ってくださいとお願いしていました。私はこの世俗的な人生が好きではない。安らぎがありませんでした。もう死に対する恐怖もありませんでした。何もかも終わった。死んだ方がましだ。そんなことを繰り返し考えていました。自殺しろというサタンの声が聞こえました。しかし、神様は私たちの教会にいる一人の信仰者を私に遣わされました。彼は私のために祈ってくれました。その後、イエス様の御名によって、自殺の思いと頭の中に聞こえる声は、完全に消えました。 この証を書いているとき、神様は私にある気づきを与えてくださいました。イエス様は十字架で死なれ、3日後によみがえられました。神様は死の束縛を克服されたのです。死から生への3日間を通られたイエス様。私は、今日証したように、死から生へとよみがえる3つの瞬間を神様により与えられました。私の経験は詩篇18:16-17にある御言葉が生きた言葉になった証です。 16 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。17 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。 私は2年前に名古屋のペンテコステ教会で洗礼を受け、イエス様を救い主として受け入れました。そして、神戸に引っ越してきて、最近、神戸ユニオン教会の会員になりました。今日こうして主イエス・キリストの御名を証をする機会を与えてくださったロイ兄に感謝します。アーメン。
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今日は、出エジプト記3章1-6節からお話しますが、文脈上、12節まで読みます。モーセと燃える柴を見ていきますが、モーセではなく、神が誰であるか、神が何であるかということに注目していきましょう。私たちは神に似せて造られたので、不完全であっても神に見習い努力する必要があります。
私たちは、モーセが神の民を救うために神に選ばれた器であることを最初から知っています。しかし、なぜでしょうか。それは、彼が優れた演説家だからではありません。彼は自分の賜物を知っています、自分よりもっと意思疎通が上手な人がいることも知っていました。彼は自分の民(ユダヤ人)には受け入れられず、養子に入ったエジプト人にも拒絶された人間なのです。異文化で育った人達がモーセに惹かれる理由の一つは、彼が二つの文化を経験し、またがっているからでしょう。 彼は、ファラオの一族の王族に対して反抗できない衛兵を殺した犯罪者なのです。それなのに怖くないわけがない。(多分、彼が恐れを感じなかったら、神はモーセを神の器とされなかったでしょう。聖書は、主を恐れることは知恵の初めであると言っています。) いや、モーセが神に選ばれたのは、彼の欠点や能力のせいではない。神がご覧になったのは、彼の潜在能力だったのです。神が私たちを見るのは、単に私たちが誰であるか、あるいは私たちが何をしたかではなく、私たちが神において誰になりうるか、という単純な真理なのです。 ここからモーセの話を始めましょう。彼は衛兵を殺して荒野に逃げたのです。彼の転落は、地球上で最も強力な人物の一人から、少年の仕事である羊の世話をすることになります。それもたった1年だけではありません。映画「十戒」(私のお気に入り)を見ると、モーセが羊の世話をしている時間は、3時間の映画の中で、燃える柴を見るまでのたった1分程度のようです。しかし、聖書にはモーセが羊の世話を40年もしていたと書かれています。将来性のない仕事に40年携わるのは実に長い。しかも、その羊は自分の羊ではなく、義父の羊であったことが聖書にははっきりと書かれています。 世界中のだれよりも行き詰った男。未来に希望も見出せず将来性のない仕事についた殺人犯です。モーゼがシルクのシーツをまとい、召使いをはべらし、ファラオの家族の一員として尊敬されていた時代は過去のものです。私には友人がいます(驚きます?)。彼は普通の駐在員なのです。彼は15年ほど前、大学を卒業したてで日本に来ました。語学学校で英会話の先生として働いていました。ある女性と出会い、恋に落ち、子供が生まれ、今、彼は英会話の仕事から抜け出すことができません。彼はそれ以上の学位を持っておらないので行き詰まりを感じているのです。どうでしょう?モーセは自分の気持ちをわかっていました。私のメッセージは、神が現れることを探し続けることです。 砂漠、荒野は、私たちの人生のうわべをはぎ取ります。砂漠(自分が何者かそして何をして砂漠に辿り着いたのか)を受け入れてこそ、そこから成長することができるのです。使徒パウロは、苦しみを通して成長することがクリスチャンのDNAの一部であろうと言います。ローマ5:3-5「そればかりではなく,患難さえも喜んでいます。それは,患難が忍耐を生み出し,忍耐が練られた品性を生み出し,練られた品性が希望を生み出す。」と知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。神が私たちを成長させたいと願っておられるからこそ、私たちが困難を経験するとき、神は私たちを見ておられるだけでなく(民の痛みを見るように)、神が私たちを愛おしんでおられることを知るべきでしょう。停滞は人生の一部ですが、クリスチャン生活の一部にあってはならないことです。私が停滞しているとき、私はキリストよりも世が望むように生きていることに気づかされます。 私は実際、砂漠に行ったことはありませんが、感情的、精神的には行ったことがあり、正直言って、最悪です。12年前に日本に帰ってきたとき、妻ステファニーには職がありましたが、私には職がなかったのです。仕事を探しても、自分が適任だと思う仕事を高学歴ゆえに断られることが多くて困りました。私は落ち込んで、体重も激増してしまったのです。運動もしなくなり、喪失感もありました。だから、砂漠がどんな感じなのか、私にはわかるのです。あなたの砂漠は、私の砂漠とは違うかもしれません。でも、あきらめてはいけません。健康的なことをするのをやめないでください。御言葉を読むのをやめてはいけません。主を礼拝することをやめてはいけません。交わりを見つけることをやめてはいけません。本能的に引きこもりがちになりますが、それは健康的ではありません。 モーセは砂漠で退屈な仕事をしているときに、光を見たんですね。実は、モーセにとって、それは危険を意味していたのです。砂漠では、火は危険を意味します。水不足を除いて、荒野での三大危険は、火事、鉄砲水、肉食動物でしょう。火は、書籍『Shepherding for Dummies(誰にでもわかる羊飼い)』によると、おそらく最大の危険であるとしています。教訓その1は、危険に向かって行ってはならない。むしろ危険を避けなさい。羊はあなたに感謝するでしょう。モーセが勇気を出して調べるまで、柴はどのくらい燃えていたのでしょうか。モーセはそれを「不思議な光景」と呼びました。彼はしばらく羊飼いをしていたことを思い出してください。1日、2日、3日、1週間と燃えていたのでしょうか?この火は燃えているが、柴が焼き尽くされることはなかったのです。 出エジプト記の中で、火は4回出てきます。3章では、柴、民を導き守るために民の前に現れた火の柱、24章のモーセが神に会いに行った時の神の山での火、そして40章の最後の節で、幕屋に火の手が上がった時のことです。これらはすべて、神の栄光、神の聖さ、神の臨在を表しています。 人間の火は、自分を焼き尽くす。冬休みに野尻で、私が泊まった小屋には薪ストーブがありました。一週間の終わりに、私はストーブを掃除し、燃え尽きた薪の灰をすべて捨てました。世の中も人も、会社も、時には教会でさえも、人を焼き尽くして、灰しか残さないのです。しかし、神はそうではありません。使徒言行録2章で、弟子たちの頭上に火が現れたとき、弟子たちの頭は焼けませんでした。この山でモーセが見た柴ほど、歴史上、健全で安全な柴はなかったであろうとあえて言います。主の霊に導かれて働き、祈り、奉仕するとき、それはとても英気に満ち、神が心に灯した火に無駄や灰がないばかりか、エネルギーと情熱が増してくるのです。主イエスは言います。「わたしが来たのは、あなたがたがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」ヨハネ10:10 モーセが柴に近づくと、主の天使が彼に語りかけ、彼の名を呼んだ。「モーセ、モーセ」 イザヤ書6章で、神が「わたしは誰を遣わそうか」と尋ねると イザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言いました。モーセは、優秀な生徒のように、「ここに私がいます」と答えるのです。「成功の90%は、そこに現れることに起因する 」という言葉がありますが、一日も私のクラスを休んでいないのに、合格していない生徒が何人かいるので、それが本当かどうかはわかりません。でもとにかく モーセは必要な場所にいたのです。あなたはどうですか?物理的に?感情的に? 霊的に、神との関係性において?神があなたを呼んだとき、あなたは「ここにいます」と言えますか?それともヨナのように、街から出るために次の船を探しますか? あと2週間あれば、主の天使をお話しできるのですが、そこでこの天使について話をできるならば面白いです。まず天使ですが、ヘブル語やギリシャ語では、単にメッセンジャーという意味です。しかし、天使ミカエルやガブリエルと違って、この天使は神のために一人称で語るのです。だから、ちょっとやっかいなことになる。モーセは柴の中で神と出会ったのでしょうか、それとも主の天使と出会ったのでしょうか。答えは、単に両方です。 神はモーセに二つのことを告げます。一つは 「もうやめて、愛の名のもとに」いや、これはシュープリームズの歌です。「止まれ、ここに近づいてはならない。」モーセはまだ山を登り、火の中に入る準備ができていません。しかし、神は彼をいずれそこに連れて行くでしょう。私たちは誰一人として完成品として出発していません。私は以前の私ではありませんが、今の私は未来になる仮定的な人ではまだないのです。もし私が神に従い続けるならばの話です。神が彼に語る第二の言葉は、「あなたの履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」です。ところで「聖なる」という言葉が使われるのは、聖書の中で二度目です。聖なるとは、「特別なものとして取り分けられた」という意味です。神がモーセを分けてご自分のもとに引き寄せようとするのと同じように。 モーセのように、私たちも尊敬の念と謙遜を示さなければなりません。神様には基準があります。主イエスが話された婚礼の披露宴のたとえ話(マタイ22章)では、王様が用意した婚礼の礼服を着るのを嫌がるお客さんを、王様が結婚式に入れませんでした。この方は、あなたがおしゃべりしているボブやトムやアキヒロさんのことではなく、この方は天と地の創造主です。創造主、贖い主、支え手、保護者、そしてキリストにおいては友なのです。しかも、従者なら主に敬意を払うのは当たり前です。神を主と呼ぶなら、それは私たちが主人でなくなることです。そして、主でない者として、私たちは敬意を主に示すよう求められているのです。 阪神タイガースの野球選手とその家族がKUCに通っていたときのことを思い出します。地元のチームのスター選手だからということで、近づき難く話をしない人もいました。私は彼のことをよく知りませんが、コーヒータイムで何度か話をしました。彼は、普通の良き人物に見えました。スポーツのスターにこれほどまでに敬意を払う人がいるのなら、宇宙の創造主にはどれだけ敬意を払うべきなのでしょう。私たちが神の家に近づくとき、聖書を読むときも、礼拝のときも、祈りの生活のときも、畏敬の念を払うことなく、「食卓の肉をありがとう、さあ食べよう」という態度で神に近づく人があまりにも多い。少し前のことです。私は祈りの生活で本当に乾いた時を過ごしていました(よくあることです)。ある友人が、敬意を表すためにひざまずいて祈ってみたらと教えてくれました。それは本当に効果があります。あなたはどのように主の前にへりくだっていますか?神が臨在されるところはどこであれ、聖なる場所だからです。神が委託されるものは何であれ、聖なる仕事です。これらのことを軽んじるとき、私たちは自分自身を恥じます。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。 (マタイ23:12) 最後に、今日のところは6節で終わります。モーセが神の仕事を成し遂げるに自分は値しない、或いはできないと見る5つの理由には触れません。しかし、来週は説教をしないので、モーセは神が自分と共にいてくださるという事実を除いては、彼の反論の一つ一つが正しいということにしておきましょう。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」 (本当に考えてみてください)(ローマ8:31)。6節に戻りますと、近づいてはならない、履き物を脱ぐように言われた後、神は自分を紹介します。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とモーセに告げました。エジプトにいたユダヤ人たちはモーセを自分たちの仲間として受け入れないかもしれない。エジプト人もモーセを自分たちの仲間として受け入れないかもしれません。しかし、ここに良い知らせがあります。神は受け入れてくださるのです。もしあなたがキリストに人生を捧げたのなら、 神はあなたを受け入れ、あなたをご存知です。モーセ、あなたは家族の一員として受け入れられているのです。他の人がどう思おうが関係ありません、神様はあなたを受け入れているのです。そして、あなたも受け入れられるのです。 祈りましょう。 私は魚を食べるのが好きで寿司も大好きですが、釣りについては素人です。昔、まだ息子達が子どもの頃、野尻湖の近くにあるあすなろフィッシングセンターに行き、釣り堀で竹の釣り竿で釣りをしました。釣った魚を料理してもらっている間、私たちは温泉につかり、その後併設のレストランで味噌汁、漬物、サラダと一緒に食べることができました。本物の釣りとはいえませんが、私たちは十分楽しみました。
国際牧師会議で1990年に聖地へ行ったとき、ガリラヤ湖を訪れました。英語では「ガリラヤ海 (the Sea of Galilee)」といいますが、地図で見てもわかる通り海ではなく大きな湖です。海抜マイナス209メートルという世界一低い淡水湖で、塩湖と合わせても死海に次いで二番目に低い湖です。ガリラヤ湖はまたティベリアス湖とも呼ばれています。(ウィキペディアより)他の牧師たちと一緒にガリラヤ湖に行ってみると、漁師がバーベルやイワシや、セント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚)を捕っていました。「聖ペテロの魚」を食べてみましたがとても美味でした。 今日の聖句は漁師の話です。イエスは漁師たちを「人間を捕る」よう召しました。当時の漁師や村人たちが理解できるように、イエスはこのように漁の比喩を使われました。イエスの時代、ガリラヤ湖では漁業が盛んに行われており、カペナウムやベツサイダのような小さい村では漁業が主な職業でした。 マタイ4:18-22、マルコ1:16-20、ルカ5:1-11にあるように、イエスが漁師たちを弟子として召されたのがこのガリラヤ湖でした。ルカの福音書では、シモン・ペテロが、自分は罪深い人間だから離れてくださいとイエスに言いましたが、イエスは彼を弟子にされました。ここでルカは召命と告白を結び付けています。自分が取るに足りない者だと告白しながらも神の呼びかけに耳を傾ける、これがキリストに従う者です。多くの人が自分は無価値で神の召命にふさわしくないと思っていますが、神は私たちを必要とされています。神は私たちに呼びかけ、私たちを愛しておられます。 今日の説教でイザヤ書とルカの福音書の聖句を選んだのは、どちらも神の呼びかけに言及しているからです。ちょうど新年は神がどのように自分に呼びかけ、導いてくださるのかを考えるよい機会です。(この聖句はまたエピファニーの第五日曜日にも読みます) ここで言う「呼びかけ (call)」とは神からのお召、つまり召命のことです。そのとき聖霊が自分に触れたように感じたり、内なる呼びかけがあったりするかもしれません。「かすかな細い声があった」(Ⅰ列王記 19:11-12)と聖書にもあります。 気が付かないふりをしても、あなたが答えるまで聖霊はいつまでも合図を送って説得しようとするかもしれません。場合によっては、あなたが神に仕える賜物を持っていると知った他の人たちを通して呼びかけがあるかもしれません。 私の場合、大学卒業後、宣教師になるようにとの呼びかけを感じました。メソジスト宣教会に応募して合格し、日本で2年間、東京の町田市にある児童養護施設(バット博士記念ホーム)で、困難な家庭の子どもや孤児と一緒に暮らしました。1980年から1982年までの2年間、そこで宣教師として働いた後、神学校でもっと学ぶようにとの呼びかけを感じました。当初は、アメリカで1年間だけ神学校に通って神学の資格を取得し、再び日本で社会福祉関係の宣教師として働く予定でした。 神学校でのルームメイトはスーザン・ライオンという盲目で重度の若年性関節リウマチ疾患のある女性で、すばらしい知性と霊的な賜物を持っていました。彼女は精神的には完全ではなかったかもしれませんが、イエス・キリストとの関係は霊的に完全でした。杖と松葉杖の両方を使って神学校のあるカリフォルニア州バークレーの丘陵地を歩くのは容易ではなかったはずですが、彼女の信仰は周りの学生の多くにインスピレーションを与えました。牧師になるという召命に、私が気づくのを助けてくれたのもスーザンでした。私にはミニストリーの才能があり、人をつなぐ才能があると彼女が言ってくれたとき、私は笑っただけでした。 その数週間後、私は体調を崩して脊椎穿刺を受け、自分の部屋で休んでいました。祈っていると、「かすかな細い声」(Ⅰ列王記19:12)が聞こえました。牧師として働くように召されたのです。それで私は専攻を神学修士課程(MDiv)(修士号取得のための3年間の研究課程)に変更し、メソジストの長く厳しい聖職授与の勉強を開始しました。私の場合、友人による「自分以外の外からの呼びかけ」と「自分の中の内なる呼びかけ」の両方があったわけですが、ほかの牧師やここにおられる皆さんにもその職業に至る呼びかけがあったと思います。イエスに従う召命は、皆それぞれ違うものです。 神学者でプロテスタントの宗教改革者、ジャン・カルヴァンは「一度選ばれ、召されたら、その後決して神を見失うことはない」(「John Calvin for Everyone」3巻24章)と言い、一般的に召命というのはイエスに従うことだと言いました。 私たちは皆、イエス・キリストの弟子として従うよう、聖霊を通して神から呼びかけられています。この召命によってあなたの人生は予期せぬ道を歩むようになるかもしれません。それゆえ受け入れがたい場合もあるでしょう。しかし召命はまた自分が神から愛されており、神から離れることはないとわかるという一面もあります。「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:39)。 それは漠然とした呼びかけかもしれませんし、具体的な呼びかけかもしれません。私たちは皆、漁師の弟子たちが呼ばれたのと同じように、イエスの弟子として呼びかけられています。当時の弟子たちは自分たちに何が待ち受けているか知りませんでした。召命を十分理解していたともいえませんでした。しかし彼らは信仰を持ってただイエスに従ったのです。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(へブル11:1)。召命とはあなたに力を与えるもの、あなたが情熱を感じるもの、そしてあなたのいる場所で必要とされるものを提供できることかもしれません。これがいわゆるあなたの天職というものです。英語の天職(vocation)という単語は、「神から召された仕事」という意味のラテン語 vocareから来ています。 神学者で39冊の著書がある長老派牧師のフレデリック・ブフナーは、天職を「あなたの深い喜びと世の中の深い渇望が出会うところ」(ブフナー著「Wishful Thinking」 )と定義しています。 私たちは様々な方面に自分を呼ぶ声を聞くかもしれませんが、祈りや聖霊の導き、または霊的なメンターや牧師の助言によって、どれが神の声であるのか見極めることができます。 時には呼び声は、今の状態のまま留まるように言うかもしれません。ルカとマタイの両福音書に同じ話が書かれていますが、それはイエスの弟子になった漁師のヤコブとヨハネの父親であるゼベダイのことです。兄弟二人がイエスについて行ったとき、ゼベダイは船に残りました。誰かが残って漁師の仕事をしなければならないと考えたのでしょう。ですから私たちもゼベダイのように、今ある仕事を続けるよう神から言われることがあるのです。 町田のバットホームに住んで宣教師として働いていた1981年に、マザー・テレサにお会いする機会がありました。マザー・テレサはすべてを投げうって、シスターたちとカルカッタの路上の貧しい人々のために生涯をささげていました。これは神から示された天職といえるでしょう。多くの人が自分の今の生活を捨てて、インドでマザー・テレサと一緒に貧しい人々のために尽くしたいと言ってくるそうです。するとマザー・テレサはいつも次のように答えると言っていました。「今いる場所にとどまり、周囲の人々を愛しなさい。それは神があなたに与えた人々です。その人たちを大切にしなさい」と。 私も、何も持たずに夫と一緒にどこかの最貧国に行き、困っている人を助けて質素な暮らしをするのはどんなにいいだろうと時々考えることがあります。でも私はこの日本で宣教師として、ここにいる人たちを愛するよう神に召されています。イエスに本当に従いたいのなら、明確な呼びかけがない限り、私には今いるこの場所から離れる必要はありません。ここには多くのやるべきことがあり、奉仕の課題と可能性がたくさんあります。 一方、今いる場所から出て行って何かをするよう呼び掛けられる人もいます。聖書の中のシモン・ペテロもその一人です。彼は名前をシモンから「岩」を意味する「ペテロ」に変えるよう呼びかけがありました。岩(英語でロック)ですから彼を「ロッキー」と呼んでもいいかもしれませんよね。何といっても名前が変わったことは、シモンのアイデンティティが変わったことを象徴しています。シモンはペテロになったのです。 イエスは湖で会う前にも、一度シモン・ペテロに会っています。(マタイ8:14-15、マルコ1:29-31、ルカ4:38-39) イエスを自宅に夕食に招いたとき、シモン・ペテロの義母が病気で熱を出していたことを思い出してください。イエスが手に触れると熱は下がり、義母は感謝を込めてイエスと弟子に食事を出し、もてなしました。 今日の聖句の箇所で、イエスはシモン・ペテロに舟を出して網を下すよう言いますが、シモン・ペテロは答えます。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」。ここでイエスがシモン・ペテロに言ったことは、依頼ではなく召命でした。シモン・ペテロはイエスから今何をすべきかを聞き、そのとおりにすると網が破れそうになるほどのおびただしい数の魚が捕れ、その重さで舟が沈みそうになりました。シモン・ペテロの仲間のゼベダイの子ヤコブやヨハネもやって来て手伝いました。(ミニストリーの仕事もこのように人と協力して助け合うのがいちばんよいのです) この出来事を見たシモン・ペテロは、イエスの足元にひれ伏して言います。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」。そこでイエスはシモン・ペテロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」。彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従いました。(ルカ5:8-11) このようにシモン・ペテロが罪の告白をしたのち、イエスはシモン・ペテロとその仲間の漁師に使命を与えました。「今から後、人間を捕るようになる」と。 旧約聖書でイザヤは罪が赦された後、主の声を聞きます。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか」。イザヤは答えます。「ここに私がおります。私を遣わしてください」。そこで主は、民への使者としての使命をイザヤに与えました。このように、神は私たちの罪を赦し、神に答え、神の愛を知るようにさせてくださいます。 神への従順とは、神の呼びかけを聞いたとき、それに従うことです。シモン・ペテロはイエスの言葉に従い、実行しました。聖書の他の人々もそうしました。先月12月の説教の中で、マリアが天使に答える箇所を読みましたね。夫もいないのに子を産むなどありえないと思われましたが、マリアは神に従い、神の呼びかけに答えて神の子を産みました。 またダマスコのアナニアという弟子は、主から幻の中でサウロという名の悪評高い人物を訪問するように告げられました。(サウロは、その後名前と人生を変えて、弟子パウロになりました)。アナニアは主に呼びかけられた時、「主よ、ここにおります」と答えました。(使徒9:1-19) 罪が赦され、神の恵みが満ち溢れています。神の愛に対して私たちも「主よ、ここにおります。私を遣わせてください」と言えますように。 私たちは神の呼びかけに従うように召されています。私たちはたとえ結果が見えなくても、信じるように召されています。 私たちは弟子となり、奉仕するよう求められています。奉仕への神の呼びかけは、あらゆる場所で、あらゆる種類の人々に会うことを意味します。私たちの召命は互いに愛し合い、他の人々の必要を満たし、人々の苦しみを和らげることです。私たちの召命は、どのような形になるかわかりませんが、他の人々をキリストに導くことです。神の愛を分かち合い、伝道する方法は実にたくさんあります。イエスは私たちにご自分に従い、ご自分の道を歩むよう求めておられます。 祈りましょう。 主よ、私たちに呼びかけてください。そしてあなたのみこころにかなうよう私たちを遣わしてください。アーメン 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。主よ、今、私たちが集うこの場所において、あなたの臨在の光で私たちを満たしてください。私たちがあなたに出会うことができますように。あなたの聖なる御名において祈ります、アーメン。
今、礼拝堂を見渡すと、何か物足りないような気がしませんか?そうです。大きくて綺麗なクリスマスツリーがありませんね。先月毎週、火を灯したアドベントリースの色とりどりのロウソクもありません。ポインセチアも、イブの日に子どもたちが並べたキリスト降誕のシーンを現す彫刻たちも、もうありません。 それは、お正月にNetflixでこんまりの番組をみて、断捨離を決意して礼拝堂を片付けたわけではありません。そうではなく、クリスマスシーズンが終わったからなのです。そうです、クリスマスシーズンです。 クリスマスというと、12月24日のクリスマス・イブと25日のクリスマス当日に重きを置きがちです。しかし、実はキリスト教の暦では、クリスマスはこの2日を指すだけではなく、12日間にわたる1つの季節のことを指します。クリスマスは、クリスマスの日に始まり、エピファニーと呼ばれる次の季節の始まりまで続くのです。では、キリスト教暦の表を一緒に見てみましょう。 左上 にあるクリスマスという部分、この季節にはイエス様の誕生を祝います。イエス様は神の受肉を受け、つまり神でありながら人間性をとり、人間の両親から生まれ、人間としての生活を経験されるためにこの世に来られました。 そして私たちは今、クリスマスの右隣にあるエピファニー(公現祭)の季節にいます。エピファニーの季節は、今日の聖書朗読で読んだように、占星術の学者達が赤ん坊のイエス様を訪ねる話から始まります。 皆さんの座って右側の壁に掛かっているバナーを見てください。真ん中のものです。この美しい黄色いバナーは、昔、教会員の一人が作ったもので、エピファニーの季節に読まれる今日の聖書朗読の内容を描いたものです。 エピファニーという言葉ですが、その意味を知らない方のために説明すると、「それまで隠されていたものが突然明らかになること、それまで見えなかった真理に明るくはっきりとした光が射すこと」を意味します。今日の聖書箇所、つまり占星術の学者達が幼子のイエス様とその家族を訪ねる物語がなぜエピファニーと呼ばれる理由は、占星術の学者達がイエス様に出会うまでの旅路を通して、それまで見えなかった真理を悟るからなのです。 占星術の学者達が真理を悟るのに鍵となったことがいくつかあります。その一つは星です。イスラエルから離れた東方の遠くに住んでいた占星術の学者達は、空に、普通の星とは何か違う星を見つけます。占星術の学者というのは私たちにとって聞きなれない言葉ですが、彼らは地上で起こっていることを理解するために星について勉強する人たちでした。いつもとは違う星を見つけた占星術の学者達は「ユダヤ人の王がお生まれになった」(マタイによる福音書2:2)ことを悟ったのです。 クリスマスの物語に出てくる羊飼い達には、天使が訪れイエス様の誕生のことが明らかにされました。しかし占星術の学者達の場合は、天使ではなく、星を通して、真の王、イエス様が生まれたという事実が彼らに明らかにされたのです。 この物語の中で起こるもう一つの悟り(エピファニー)は、占星術の学者達と幼子イエスとの出会いから見てとれます。イスラエルから遠く離れた東方の外国からやってきた学者達は、星を追いかける長い旅の末に、イエス様に出会います。そして何が起こったでしょう?もう一度バナーを見てください。なんと書いてあるでしょうか? They fell down and worshipped him. 彼ら(占星術の学者達)はひれ伏して幼子を拝んだ。(マタイによる福音書2:11) 彼らは幼子の王、人間の肉体を持つ神の子を目の前にし、悟りました。イエス様はユダヤ人の王であるだけでなく、自分達の主、救世主であり、ひれ伏し拝むのに値する方であるということを。 私は、今話したこの二つの悟り(エピファニー)を思うだけで、私たちの神様がいかに優しく、私たち一人一人を考えてくださる方だということを考えずにはいられません。神様は占星術の学者達が、理解できる方法でご自身の存在を明らかにされました。彼らはイスラエルの人々の信仰についてはあまり知らなかったかもしれませんが、星についてはよく知っていました。ですから、星を通して、その存在を示されたのです。星の行方を見失った時も、最後に幼子のイエス様がいる場所まで彼らを導いたのは星だったのです。(マタイによる福音書2:9-10) ご存知のように、神様はあらゆることを通して働き、私たちが神様をよりよく知り、神様との関係をより深く築けるように、私たちの人生にある人を送り、ある出来事を経験させてくださいます。 占星術の学者を神様の元へと近づけたのは星でした。私にとっては、私の牧師先生が星で、先生は私が求道中の時も、信仰を受け入れた後も、キリストのような愛と配慮を私に示し、私は神様との関係を深めることができました。私の牧師先生を通して、私は神様の姿を容易に想像することができました。神様は聞き上手で、優しく、受容的で、愛に満ちた方に違いない。そして、その先生が星のように私を導いてくださったおかげで、私は神様についてもっと知りたいと思うようになったのです。 クリスチャンになってからの最初の数年間のことを、とてもよく覚えています。それは信仰を持ってから、占星術の学者達が見た星のように、私自身、そして私の人生が輝き出したからです。クリスチャンになってから、私は本当に変わりました。神様との個人的なつながりをもち、神様から受ける温もりや愛を通して、私は本当に救われたのです。神様の存在を身近に感じ、神様からしかこない光を浴び、私は自分自身が内から輝くのを感じました。私は愛されていると感じました。私は完全であると感じました。私は平安を感じていました。 そのような状態がクリスチャンになってからずっと続いていると告白できればと思います。私のクリスチャン生活はずっと順調で、常に神様との愛と平和の中にあったと言いえたらと思います。しかし、私は完璧なクリスチャンではなく、信仰における停滞期を経験したこともあります。その時は神様との距離が遠く感じられ、初めて信仰を持った時に経験した神様との親密さを失ったように感じた時期もありました。 信仰が停滞したと言っても、もちろん信仰が消えてしまったわけではありません。しかし、神様が何も明らかにしてくださらない、啓示がない、悟りがない、エピファニーがないように感じ、神様と私の間の対話、絆が冷え、静かになってしまった時期があったのです。 このようなことは、クリスチャン生活を通して何度か経験しましたが、そのことを考えるとき、いつも最初に思い浮かぶのは、結婚して間もない頃、ドンと東京に住んでいた時のことです。ドンと私はミシガン州にある大学を卒業後、宣教師として東京に移り、ドンは英語と聖書を教えるためにキリスト教の高校に赴任しました。当時、私には明確な目標があり、人生で何を手に入れたいか、はっきりとした考えを持っていました。 それは人生における安定でした。 私が望んでいたのは、着実で明確な人生を歩むということ。夫婦としての生活を定着させ、そこから家族を増やしていく。妻として、私の役割はドンが教師として、また宣教師としてのキャリアで成功できるようにサポートすることだと固く信じていました。そうすれば、安定した生活を送ることができ、いつか子供を持つこともできるだろうと考えていたのです。 当時、ドンが勤めていた学校の上司は、ドンが大学院で教育学の学位を取得することが、将来の安定を確保するための最善の方法だと助言してくれました。そこで、彼のアドバイスに従って、ドンは大学院に通い始めるようになりました。 仕事をしながら、家族を養いながら、学校に通ったことのある人ならわかると思いますが、仕事と勉強、そして家族の世話を同時にするのは簡単なことではありません。でも、ドンは学校でも、職場でも、家庭でも努力していました。私も彼を支えるために一生懸命働きました。私たち2人は、勤勉だったといえるでしょう。 神様のおかげで、その努力が報われました。ドンは無事に、教育学の修士号を取得したのです。「これで私たちの生活は安泰だ!」と私は思いました。 私は、その当時住んでいた東京の街が、住んでいた家が私たちの住処であり、私たちが根を下ろす場所であると思いました。私たちは素晴らしい教会を見つけ、そこで教会の家族と心を通わす関係を築くことができました。友人、コミュニティ、安泰、安全と安心を手に入れたのです。 しかし、私の期待と希望とは裏腹に、私たちの努力と綿密な計画とは裏腹に、私たちの生活は全く安定しないものとなってしまいました。何故なら大学院の学位を取得してもドンの仕事は安定せず、東京に残って根を下ろすどころか、アメリカに戻って代わりに神学校に通うことになったのです。 その時、今まで立ててきた計画が崩れていくのを実感しました。そしてその瞬間、私は悟りました。それは私にとってのエピファニーの瞬間でした。それはこのような状況に陥った時に本来なら感じるであろう人間的な恐怖やパニックとは違っていました。 私は実感しました。納得することさえできたのです。私が築き上げ、計画してきた未来は、神様が意図したものではなかったのです。今までコツコツと叩いていた扉が閉まったままだったのは、私の努力が足りなかったからでも、信仰心が足りなかったからでもなく、そもそも私が叩くべき扉ではなかったということを。その瞬間、私の心には穏やかな安心感だけが残りました。 私は自分が正しいと思う方法で物事を実現するために、できる限りのことをしましたが、どんなに頑張っても、神様の計画にはないものを実現することはできませんでした。なぜなら、私がどんなに頑張ったとしても、私とドンの人生を司っているのは神様だからです。 ヘロデ王にも計画がありました。彼の計画は、できる限り長く王としての権力を維持することでした。そのために、自分の権力と地位を守るために、彼は思いつく限りのことをしました。占星術の学者達からユダヤ人の王となる子供が生まれたことを知ると、この生まれたばかりの王がどこにいるのかを教えてくれそうな人をすべて集め、祭司長や律法学者達をすべて呼び集めました。(マタイによる福音書2:4) そして、この生まれたばかりの王(幼子イエス)は、預言によればベツレヘムにいるに違いないと祭司長、律法学者から聞くと、ヘロデ王は占星術学者達にそこへ行き、王(幼子イエス)を探し出し、居所を見つけて自身に知らせるようにと言いました。(マタイによる福音書2:8)ヘロデ王は、占星術学者達が望むように、自分も王(幼子イエス)を拝みたいと言いましたが、実際のところ彼の本当の計画はイエスを殺すことであり、それによって自分の権力と将来の計画を安定させることを目的としていました。 時は過ぎ、占星術学者達が自分のところに戻ってこないことに気づくと、ヘロデ王はイエスが自分の治世の安定と安全を脅かすことがないように、その地域にいるイエスと同じくらいの年齢の子供たちをすべて殺すように命じたのです。(マタイによる福音書2:16) 恐ろしい悪王ですよね。それに比べて、占星術学者達はヘロデ王とは全く違うと思われるかもしれません。彼らは星を見て、星の行方を忠実にたどってイエス様を見つけ、イエス様を拝んだのですから。ヘロデ王と違って、彼らは自分たちにとってイエス様が誰なのかを理解していました。イエス様こそが真の主であり、王であることを知っていたからこそ、ヘロデ王に贈り物を捧げず、贈り物をイエス様の前に出て、イエス様を拝むまで取っておいたのです。 しかし、イエス様がどのような方かを知っていても、彼らはイエス様に会うために具体的にどこへ行けばいいのかを知りませんでした。そこでヘロデ王が人間の力と努力と精進を尽くして、自分のやり方で、自分のタイミングで物事を実現しようとしたように、占星術学者達もまた人間の知恵に頼り、イエス様を見つけようとしたのです。 権力を持つ者が真理を知っているに違いないと考えた占星術学者達は、あらゆる世俗的な権力と権威の座にあるヘロデ王のところに行き、イエス様がどこにおられるか彼に尋ねたのです。 ヘロデ王が自分たちと同じようにイエスの居所をほとんど知らないことに気づいたとき、ヘロデ王から自分の代わりにイエスを探すように命じられた時、占星術学者達に啓示・悟り・エピファニーの瞬間が訪れました。そして、彼らがヘロデ王の前から出て行くとき、彼らは再び星を見つけます。東方で見た星が先立って進み、彼らをイエス様のところに導いたのです。(マタイによる福音書2:9) 占星術学者達は決して、自分達の知恵に頼る必要はなかったのです。ただ、神の光を探し、その光に従って平和の王であるイエス様のもとへ行くだけでよかったのです。星が進み、イエス様のいる場所の上に止まると、占星術学者達は、家の中に入り、幼子のイエス様に出会います。彼らはひざまづき、自分たちの力でたどり着いた王ではなく、神様の導きにより出会った王、イエスを拝みました。(マタイによる福音書2:10-11) 私たちはヘロデ王のように神様が私たちの人生に計画されたことを積極的に、意図的に拒否することはないかもしれません。しかし、私たちが自分の知識や意志に頼り、神様の知恵にまず委ねることを忘れる時、最初に占星術の学者達がしたように、いとも簡単に間違った王の宮廷に入ることになるのです。 私がうつ病であることは多くの方が知っていると思います。良くも悪くも、うつ病は常に私の一部であるため、これまでにも何度かこのことについてお話ししてきました。神様の助けによって、私は自分のうつ病を受け入れてきました。なぜなら、神様が私のうつ病を使って、私や私の周りの人々に神様のすばらしさを証してくださっているのが分かったからです。しかし、ここ数カ月、その鬱が悪化し始め、私はストレスを抱えていました。 そこで、初めて精神科医に診てもらったところ、その精神科医は「うつ病は必ずしも苦しみ続けるものではなく、治療が可能な病気だ」と教えてくれたのです。そして私の予想をくつがえし...彼が正しいことを知りました。治療を受けた私は霧が晴れ、私の人生から失われていたエネルギー、喜び、感謝、喜びを取り戻したのです。 長い間、私はうつ病である自分をそのまま受け入れることで、思いやりのある神の善意と愛が証される思い、耐えてきました。しかし今振り返ってみると、私が実際に行っていたのは自分の意志だけに頼り、昔悟ったこと(エピファニー)が今も変わらないと頑なに信じ、真実を示す星を見失っていたのです。 うつ病を抱える自分自身を受け入れることを学ぶことは、うつ病を発症した当時必要なことでしたが、自分自身を受け入れ、受け入れてきた数年後は違う悟り(エピファニー)を受け入れる必要があったのです。時がたち、うつ病を抱える私はいつの間にか、心のどこかで自分の神様への信仰がとても強いので、医療行為による助けは必要ないという思いを抱き始めていました。そしてそのことを証したいがために、私自身のプライドのために私は目の前にある助けを拒否していたということを。 そこで私はそのプライドを手放しました。そして、今この瞬間、自分が置かれている状況において、神様がどのように私を助けたいと願っておられるのかに耳を傾けました、周りを見渡しました。すると次のことが明らかになりました。神様、家族、親しい人たちだけを頼りにして鬱に向き合うのではなく、神様は専門家に、医者に会うように私を導いてくださったのです。 私よりもうつ病に関してずっと多くのことを知っている専門家に頼ること、私よりも道がクリアに見える人に頼ること、私が思いつかない解決策を提示できる人に頼ることは、神様が私に与えてくれた贈り物なのだと私は気づきました。それは新たなエピファニー(悟り)の瞬間でした。 どうでしょう、あなたは神様と個人的に出会い、全能の創造主と親密につながることができる悟り・エピファニーの瞬間を経験するために、何を手放す必要があるのでしょうか?自分自身が強く握っている計画、考え、信念、過去の経験、何かを手放す必要がないでしょうか? 新年を迎え、皆さんの中にはすでに新年の抱負や今年の目標を立てた方もいらっしゃるのでしょう。そして、その目標を達成するための具体的なステップが何かを考え始めたり、実際に必要なステップを踏み出した方もいらっしゃるでしょう。しかし、そのような目標を掲げたとしても、神様から与えられるエピファニー(啓示、悟り)を見失ってはなりません。2000年前に占星術の学者達を導いた星の光は、今日も私たちの人生を照らしているのです。 私たちは時々、自分達のために照らされているその星を見逃してしまい、自分の意志に基づいた考えや計画、自分の欲求や欲望で心がいっぱいになり、道に迷ってしまうことがあります。自分の道を進むことで、箴言9章10節にある「主を畏れることは知恵の初め」という教えを見逃してしまうのです。 私たちは自分の人生の著者でも編集者でもありません。神様がその役割を担われておられるのです。 私たちは神様の前にひざまずき、ひれ伏し、自分の知識や信念を手放し、私たちを愛される全能の神様が照らす明るく輝く星に目を向ける訓練をする必要があります。 KUCファミリーの皆さん、神様が明らかにされる啓示・悟り・エピファニーの瞬間を見逃してはいけません。それは誰にでも与えられるものです。時に長く困難な人生の旅路を、神様と共に歩むための導きの星は、誰にでも与えられているのです。自分の判断はさておき、心を開き、耳を傾け、創造主の意志を求め続ける精神でその星の導きに従うなら、私たちは神様が意図されるあるべき場所に辿り着くことができるでしょう。 祈りましょう。 親愛なる主よ、私たちの生活、そして教会生活の中で、あなたを恐れず、あなたを信頼せず、あなたに寄りかからず、代わりに権力者や偶像など、あなたではないものに信頼を置いているのであれば、そのことを私たちが分かる形で明らかにしてください。愛と慈しみに満ちた神様、私たちがあなたを招き入れず、あなたを優先せずに、自分達の知識や信念に頼っているところをすべて明らかにしてください。私たちがあなたのもとに戻り、あなたの道に再び従うことができるように導いてくださいますよう、星の光を輝かせてください。 アーメン。 |
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May 2024
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