今週の日曜日は世界聖餐式(World Communion Sunday)です。世界聖餐式とは、世界中のクリスチャ ン・ファミリーの中にある多様性を祝う日であり、世界中のクリスチャンが、本日、異なる時間帯(タ イムゾーン)で聖餐式を祝っています。 聖餐式、あるいは主の晩餐、またはエウカリスト(ギリシャ語で感謝祭を指す言葉)は、どのような名 称であるにせよ、私たちにとって最も神聖で特別で聖なる祝いの一つです。私たちはこの聖餐式で神の 恵みを宣言し、私たちが経験する天国での大饗宴の前触れを体験しながら、我々に対する神の愛を感じ 祝うのです。 世界聖餐式の日曜日は、1936年に米国長老教会によって制定され、当初は 世界中の聖餐式(World-Wide Communion Sunday)と呼ばれていました。この日は、私たちが食卓に集うとき、その場にいる人々だ けでなく、世界中の姉妹や兄弟たちの事を思い、祝う日なのです。この日が最初に考案された1933年当 時、世界は分裂状態にあり、アドルフ・ヒトラーの人気が高まり、ナチス・ドイツの権力が顕著になっ た年でした。そしてヨーロッパにおける第二次大戦は不可避となりつつあった年でした。この年は世界 恐慌の最悪の年でもあり、アメリカ人や世界中の人々が財政難に陥っていた年でもあります。1940年に は戦争が始まっていたにもかわらず、世界聖餐式の日曜日が米国キリスト教連盟(後に米国キリスト教 会協議会となる)によって承認されたという歴史的背景があります。世界聖餐式という特別な日は、激 動の時代に、教会をひとつにまとめ、クリスチャンを結束させる意味があったのです。 今日、主のテーブルを共に祝う事の意味は、それぞれの文化的背景や、昨今の激動する時代に関係なく 、結束という理想像を掲げる大切さを思い起こす日です。分裂しているように見える私たちも、結束と いう名のもとに、キリストの下でひとつに結束することが大切なのです。エフェソの信徒への手紙 4:4~6に書かれているように、世界聖餐式の日曜日は、「からだは一つ、御霊も一つである。あなたが たが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。」 主はひとり、信仰はひとつ、 洗礼はひとつ、神である父は1人であり、全ての神であり、神を通して全てが行われます。過去の厳しい 時代もそうでしたし、今日もそう、そして未来もそうなのです。 この特別な世界聖餐式の日曜日に、私たちは、神のテーブルは全ての人々に開かれているということを 祝いましょう。パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙の中で書いているように、「もはや、ユダヤ人も ギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって 一つだからである。」(ガラテヤの信徒への手紙3:28)。 パウロがガラテヤの信徒への手紙を書いたのは、パウロが去った後にガラテヤを訪れた宣教師たちが、 救われるためにはユダヤ教の律法の一部に従わなければならないと言っていたことに対抗するためでし た。しかし、パウロは逆の見解を持っており、これは救いに必要なことではなく、神の目には誰もが平 等なのだと伝えたのです。ユダヤ教の信者たちは、自分たちは特別な存在だと思っていたのです。思い 起こせば、パウロ自身もユダヤ人であり、改宗するまでクリスチャンを迫害しようと躍起になっていた 人でした。 (使徒言語録9:1-19) イエスとの出会いによって変わったパウロは、1世紀の間、異邦人(ユダヤ人以外の人々)に福音を伝え 、宣教の旅でローマ帝国全土を旅しました。彼は異邦人を心から愛し、全ての人は神の子であると言い 、全ての人が平等であると信じていました。先週のチルドレンズ・メッセージの中で、私の友人である ルース・イングルスルッドが語ったように、操り人形のブタとドラゴンがどちらが優れているかを巡っ て争ったとき、私たちは神の子として、みんな平等で、誰もが異なる賜物を持っているという事を思い 出す必要があります。そして、私たちは皆罪人であり、皆、神の子で、神に愛されているのです。私た ちはキリストの共同体として、「エクレシア(集まり)」、聖霊によってキリストのもとにあります。 三位一体の神の恵みは壮大で、誰もがそれを感じる事ができるのです。 はるか昔、今日と同じように教会を分裂させる問題がありました。パウロは、人々を分裂させる問題と 主の晩餐との間に関連性を見出しており、コリントの信徒への手紙11:18-22では、コリントの教会内の 分裂について述べています。コリントの信徒たちは、主の晩餐を誤って用いていることをパウロに叱責 されていたのです。当時の教会では、主の晩餐の祝い方は現在の多くの教会とは大きく異なっており、 主の晩餐は食事を皆で一緒に食べるというのが通例でした。 主や出席者全員に対する尊敬と敬意をもって行われ、全員が十分な食事を食べることができ、分かち合 うのであれば問題なかったのですが、多くの場合、裕福な人たちが早い時間帯に食事に来て、おいしい ものを食べ、ワインを飲み尽くしてしまっており、生活に困窮している人たちが仕事を終え、遅れて到 着すると、食べるものが残っていないという状態が定着しており、「平等に分かち合う」とは程遠いも のでした。 こうして教会として共に座っていなかったことが問題で、同じ教会にいながら分断があったのです。中 にはどちらの使徒に忠誠を誓うかというものもあれば、社会的、階級的な分断もありました。パウロが この箇所で触れたのには、こういった背景があったのです。 パウロは、聖餐式は私たちの罪とキリストの犠牲について冷静に自身を見つめ直す時間であると同時に 、キリストの血と体になぞらえた、パンとぶどう酒を頂きながら、キリストそのものである教会を結束 させる時であるべきだと警鐘しています。ジョン・ウェスレーは、主の晩餐を「神の聖霊の恵みを、神 の子の魂に伝える儀式である」と表現しています。 ユダヤ教の伝統でよく知られている質問(ユダヤ教の祝日の専門家であるロイ・ミスランさんなら、詳 細を知っていると思います)に、過ぎ越しの祭りのの食卓で聞かれるこんな質問があります。「なぜ今 夜は、特別なのですか?」 この質問は、私たちが世界聖餐式の日曜日に対しても大切な質問です。「 なぜ今日は他の日と違うのでしょうか?」 なぜなら、今日は、国籍、言語、宗派の垣根を越えて、私 たちがイエス・キリストのもと、結束し1つになることを再確認する日だからです。もともとの目的は 、さまざまなキリスト教のグループをまとめる事にありましたが、その考えが時代と共に発展し、38の 異なるグループの文化となりましたが、すでにこれらのグループ以上に多様化しており、クリスチャン を結束させるきっかけの日となっています。 キリスト教徒が結束に取り組むのは今に始まったことではありません。昔、ドイツのヘッセン州マール ブルクにあるマールブルク城で、マールブルク・コロキーと呼ばれる討論会が行われました。この討論 会は、1529年10月1日~4日の間、開催され、この集会や討論会は、マルティン・ルターとウルリッヒ・ ツヴィングリ、そしてドイツとスイスの改革者たちの間で起こっていた論争を解決させようとするもの でした。彼らは主の晩餐をめぐり、また主の晩餐におけるキリストの真の臨在をめぐって議論していま した(「マールブルク」ブリタニカ百科事典)。 ルターもツヴィングリも14の論点では合意が出来たのですが、15番目のエウカリストについては合意で きませんでした。二人とも、晩餐のパンは印であるという点では一致していました。しかし、ルターに とって、パンはキリストの体が、印そのものとして臨在していることを意味しており、ルターはパンは 、目に見える神の約束であり、キリストの体と血になると信じていました。今日でもそう信じている人 たちがいます。 「信じることは食べることである。」 晩餐においてキリストの体を食べ、血を飲むことは、キリスト の体と血を、自分の心の中に臨在させる事を意味していると言ったのは、ツヴィングリでした。 主の 晩餐とは、信者が互いに忠実であることのしるしであり、パンとぶどう酒は実際のキリストの体と血で はない。(ジョージ、ティモシー、改革派の神学)。これらを神の恵みの象徴であると捉える人々もいま す。 しかし、主の晩餐は私たちが管理するものではありません。ですから、神の臨在の精神により、私たち は今日、民族、伝統、性別、年齢、背景の違いを超えて、キリストもと一つに結束し、主の一つのテー ブルの周りに集うのです。すべての人が主のテーブルに歓迎される---彼らが何者であろうとも、何者で あったとしても、そして私たちが彼らをどう思っていようとも、私たちは皆、神の子なのです。神は私 たちを神の家族とし、その家族は世界中に広がっており、私たちが神から愛されたように愛の家族とな り、私たちが許されたようにお互いを許す、私たちが与えられたように、互いに与え合う関係性となる のです。 箸に関するたとえ話
昔々、ある男が亡くなり、天国に行き、天国の門(Pearly Gates)で聖ペテロに会いました。ペテロが、 天国に入る前に何か欲しいものはないかと、その男に尋ねると、男は地獄を見たいと言いました。そこ でペテロは、彼を惨めで飢えた人々でいっぱいの部屋に連れて行きました。その部屋の真ん中には美味 しそうな食べ物で埋め尽くされた、大きなテーブルがありました。すると、男はペテロにこう聞きます 。「なぜこれが地獄なのですか?」 すると、ペテロは、「ここにいる人々は1mの長い箸を使わないと 食べる事ができないからです。」と言いました。それを聞いた男は、「天国に行く準備が出来ました 。」と言うので、ペテロは、男をさきほどの部屋と似たような、部屋の真ん中にたくさんの食べ物で埋 め尽くされている大きなテーブルがある部屋に連れて行きました。この部屋にいる人たちも同じように 1mの長い箸を使って食事をしなければいけませんでしたが、なぜかこの部屋にいる人たちは、幸せそう で、食べ物を十分食べているようでした。そこで男は再度その理由をペテロに尋ねました。するとペテ ロは、「天国では人々はお互いに食べ物を食べさせるのです。」と言いました。 私たちはこの日曜日、世界中の人々と繋がっていることを思い出しましょう。私たちは、肉体的にも霊 的にも互いに養い合うために、資源を分かち合わなければなりません。 聖餐式を行うたびに、私たちは自分の罪、怒り、恐れ、疑い......それらすべてをキリストに捧げます。そ して、イエスは私たちにご自身の体であるパンと、血である杯を捧げ、無償の愛、恵み、赦し、救いを 与えてくださるのです。これは、私たちに与えられる最高の食事なのです。ジョン・ウェスレーは、主 の晩餐を 「神の聖霊の恵みを、神の子の魂に伝える儀式である」と表現しています。 もしも、今日聖餐式を行っている時に、コミュニティを欲しているなら、キリストがあなたを招待して いる事を覚えておいてください。希望に飢えているのであれば、キリストがいることを忘れないでくだ さい。許しを求めているのであれば、キリストがあなたを許すでしょう。神の恵みを求めているのであ れば、このパン(またはクラッカー)を食べて、杯を飲んでください。私たちを満たし、支えてくれる でしょう。神の目には私たち全員が神の子供であり、どの人も平等なのです。そして、全ての人が神に 愛されているのです。 "一つのパン、一つの体 "のサビの部分と1節を歌いましょう。 ヤン・リチャードソンによる「Table will be Wide」を 世界聖餐式の日曜日のための祝福と祝祷にします。 And the table will be wide. And the welcome will be wide. And the arms will open wide to gather us in. And our hearts will open wide to receive. そして食卓は広くなる。 そして歓迎は広くなる。 両手は私たちを集めるために大きく開かれ、 私たちの心は広く開き、受け入れる。 And we will come as children who trust there is enough. And we will come unhindered and free. And our aching will be met with bread. And our sorrow will be met with wine. そして私たちは 十分あると理解している子供としてやってくる。 何にも邪魔されることなく、自由にやってくる。 痛みはパンで癒され 悲しみはワインで取り除かれる。 And we will open our hands to the feast without shame. And we will turn toward each other without fear. And we will give up our appetite for despair. そして私たちは恥じることなく 両手を広げて祝宴に入る。 恐れることなく、互いに近づく。 そして私たちは、絶望の感情を捨て、 And we will taste and know of delight. And we will become bread for a hungering world. And we will become drink for those who thirst. And the blessed will become the blessing. And everywhere will be the feast. 私たちは喜びを味わい、感じるだろう。 そして私たちが飢えた世界のためのパンとなり、 のどが渇いた者のための飲み物となる。 祝福されたものは他社の祝福となり、 至るところが饗宴となる。 絶望のために そして私たちは味わい 喜びを知る。 そして、私たちは飢えた世界のためのパンとなる。 そして、私たちは渇く者たちの飲み物となる。 祝福された者は 祝福される者となる。そして至る所で 饗宴となる。
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24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。25 その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と、また人と戦って、勝ったからだ。」29 ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。(創世記32:24-29)
今日の聖句は格闘の話です。いろいろな事が起こり、興味深い話です。原語のヘブライ語では言葉あそび、暗示、象徴が入ってより豊かな物語となっていますが、英語で読むとそれが失われて残念です。それでもこの格闘の話は取り上げる価値があります。 この素晴らしい話には多くの教訓がありますし、また私の一番好きな旧約聖書の話の一つです。今日の説教の原稿を書く前にこの話を読み直した時、頭に浮かんだ言葉は、 祈り、格闘、夜明け、祝福でした。 そこでこれらの言葉を考えながら説教を考えました。 みなさんのうち、ほとんどの人がこのヤコブの話を知っていると思いますが、ここでもう一度要約してみましょう。 エサウとヤコブは二卵性双生児で、イサクとレベッカの間に生まれました(創世記25:21-34)。エサウが先に生まれましたが、ヤコブはエサウのかかとをつかんでまるで胎内に引き戻そうとするかのようで、自分が先に生まれようとしているようでした。ヤコブの名前の意味は「かかとをつかむ者」で、これは現在のヘブライ語でも「人を欺く」慣用句としてよく使われます。「私のかかとをつかもうとしているね」と言えば、「私をだまそうとしているね」という意味です。また別の似たような表現に「人の足を引っ張っている」というのもありますが、これも「人をだまそうとしている」という意味です。 そういうわけで、ここではヤコブを英語で「グラビ―(引っ張る人)」と呼びましょう。兄のエサウの名前は、ヘブライ語で「毛で覆われた(英語でヘアリー)」という意味のようです。ヤコブ(またはグラビ―)の肌はなめらかで、エサウ(ここではヘアリーと呼びます)の肌は毛で覆われていました。父親のイサクが年老いて目が見えなくなったとき、肌をさわれば二人の区別ができました。一人は毛深く、もう一人はなめらかだったからです。 イサクとレベッカの長子として、エサウは主の約束を受け継いでおり(創世記26:1-5)、また男子の長子として特権を持っていました。長子の権利とは、一族の長としての地位と、相続財産が他の人の二倍の取り分があることでした(申命記21:15-17)。 創世記25:29-34を読むと、ヤコブは二度も兄を欺きました。一度目は空腹のエサウにレンズ豆の煮ものを「売って」、引き換えにエサウの長子の権利をもらったときです。二度目は創世記27章でヤコブが父親のイサクをだまし、長子のエサウに与えられるはずだった父からの祝福を、ヤコブが受け取ったときです。父からの祝福を受け取れなかったエサウは腹の虫が収まらず、弟ヤコブを殺すと誓います(創世記27:41)。ヤコブはエサウを恐れて母親の生まれ故郷へ逃げました(創世記27:42-29:14)。兄や父を欺いたヤコブは、その地で叔父のラバンに欺かれます。ヤコブが7年仕えれば、ラバンは妹娘のラケルをヤコブの妻にすると約束しましたが、7年後にヤコブの妻になったのは姉娘のレアでした。ラケルを妻にするためにはヤコブはさらに7年ラバンのために働かなければなりませんでした(創世記27章)。やがて神は多くの家畜と財産でヤコブを祝福し、ヤコブは故郷に帰って兄と和解しようと決意しました。 故郷へ帰る途中、兄エサウが400人の手勢を率いてやってくると聞いたヤコブが、「非常に恐れ、不安になった」(創世記32:6-7)のは当然です。「私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています」とヤコブは言いながらも、女たちと子どもたちを自分より先に進ませました。またヤコブは人々や家畜の群れを二手に分け、一方が殺されてももう片方の群れが生きて逃げられるようにしました。20年前に自分を殺すと誓った兄との和解を求めて、ヤコブはまず自分がへりくだり、兄へ「あなた様のしもべヤコブが…」という言葉から始まる伝言を送りました。そして和解の印として、何百頭もの山羊、羊、らくだ、雌牛、雄牛、ろばをエサウへの贈り物として自分より先に送り出し、最良の結果となるよう願いました。 その後、ヤコブはヤボクの渡し場に一人残りましたが(創世記32:22-24)、それは逃亡を試みようとしたのかもしれませんし、エサウとの和解を祈りながら一人で夜を過ごしたいと思ったのかもしれません。 祈り 説教を読んだとき、私が注目したのは「祈り」という言葉です。私の人生には眠れない夜が何度かあり、そういう時は祈って過ごしました。恐れを感じたこともありました。ヤコブの感じた孤独、苦悩、恐怖ほどではありませんが、神は私の祈りを聞いてくださっているのだろうかと考えるときもありました。みなさんも孤独や恐怖や不安を感じたことがあるかもしれません。こういう時こそ祈って神に向き合うことができます。 ヤコブが一人後に残り、恐怖におびえながら祈っていた時、ある不思議な人物と出会い、格闘を始めました。創世記32:28と30では、この人物を神と呼び、ホセア12:4では御使いと呼んでいます。神か御使いか、どちらでしょうか。ヤコブが格闘した相手が普通の人間ではないのは確かです。これは人間の姿をした神でした。チャールズ・スパージョン牧師は、この不思議な人物について次のように語っています。「主イエス・キリストは、後の完全な受肉に先立って、ほかの多くの機会と同様に人間の姿をとり、このように族長ヤコブと格闘するために来られたのでしょう」。 格闘と祝福 ヤコブはその人物と夜明けまで一晩中闘い続けました。その人から祝福を受け、新しい名前をもらうまで、ヤコブはその人と格闘を続け、放しませんでした。その人は言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ」(創世記32:28-29)。 ヤコブの名前は、「神と格闘する者」という意味のイスラエルに変えられました。イスラエルはヤコブの闘いと「イスラエルの子どもたち」である民族全体の運命を反映した新しい名前です。神との格闘はヤコブのアイデンティティを変えました。ヤコブは闘い、打ち勝ち、祝福を受けましたが、腰を負傷しました。 みなさんは一晩中何かと格闘した経験がありますか。 格闘の後、イスラエル(ヤコブ)は足をひきずって歩き、それは神との出会いを思い起こさせ、歩く際には寄りかかる杖が生涯必要となりました。へブル人への手紙11:21にはこうあります。「信仰によって、ヤコブは死ぬときに、ヨセフの息子たちをそれぞれ祝福し、また自分の杖の上に寄りかかって礼拝しました」。 ヤコブはやるべきことをやり続けましたが、いつも足を引きずって行っていました。 みなさんの「不自由な足」は何でしょうか。人生の中で格闘した名残の「痛めた足」を持っていますか。その足はつらかった時期を思い出させます。それでも神は私たちにその苦悩を乗り越えさせてくださると私たちは知っています。苦痛や傷や引きずる足は残るかもしれませんし、治るかもしれません。またはほかの人に手を差し伸べることのできる祝福に変わるかもしれません。 神はいつも私たちとともにおられ、私たちが「引きずった足」を持っているからこそ私たちを用いてくださいます。リック・ウォレン牧師はかつてこう言いました。「あなたの傷はほかの人たちが治してくれる。人生で最大のメッセージと、最も大きな働きのミニストリーは、あなたの最も傷ついた部分から生まれる」。 ひきずった足を持っていると自分が完全だと思えないかもしれませんが、不完全であるからこそ、ひきずった足に気づき、どのようにしてそれに打ち勝ったかをわかってくれる人を助けることができます。他の人たちも足を引きずり、信仰や人生の問題について格闘しているかもしれませんし、あなたの助けを必要としているかもしれません。その人たちを教会のコミュニティの光と愛に導くことができるかもしれませんし、神の赦しと愛に導くことができるかもしれません。 夜明けと祝福 朝はヤコブ(イスラエル)に光と祝福をもたらしました。夜が明けたとき、ヤコブは以前のヤコブと違っていました。新しい祝福と新しい傷を得たからです。ももの関節が打たれ、足を引きずるようになりました。朝の光とともにヤコブは新しいことを経験しました。我々クリスチャンはキリストの光に照らされています。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(Ⅰテサロニケ5:5)。闇の中の闘いは絶望的に思えますが、光は人生に希望を注いでくれます。 福音書にあるように、世の光であるイエス・キリストは人間として地上で苦悩されましたが、私たちとともにおられます。イエスは私たちを今までと違ったものに変えるため、十字架につけられました。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)。イエス・キリストを信じることによって、私たちは新しい身分と名前を与えられます。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1:27)。ヤコブは新しく生まれ変わりました。私たちもキリストによって新しく生まれ変わるのです。 さて神と格闘した翌朝、ヤコブ(イスラエル)は足を引きずり兄エサウに会いに行きましたが、兄に近づくまで7回地にひれ伏しました。そして二人は抱き合い、泣きました。エサウはヤコブからの和解の印の贈り物を拒み、自分は十分多くのものを持っているからと言いました。しかしヤコブは答えました。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」(創世記33:10)。かつて自分を殺すと誓った兄の顔に、イスラエルは「神の御顔」を見たのでした。 ところで、みなさんの人生における格闘は何ですか。人間関係、何かの中毒、怒り、赦し、恐れ、不安、うつなど、それこそ人生は闘いの場です。でもどんなに困難な状況にあっても、神は私たちがあきらめるのを望んではいません。闘いのない人生はありません。皆それぞれが闘っており、それが人生なのです。闘い、そして打ち勝つことで私たちは強くなり、人生の選択と結果につながるのです。 闘いの最中に神がそこにおられるとわかっていても、私たちは日々の生活に関わる問題と闘うことをやめないかもしれません。どのように、また何と格闘するかによって、霊的に影響し、神との関係、人との関係に影響します。 ヤコブとエサウの兄弟はついに和解しましたが、和解には危険が伴います。闘争、犠牲、傷を伴うかもしれません。しかし和解には、神への信仰と信頼が必要です。それはただ言葉だけでなく心からの真の和解でなければなりません。ヤコブがエサウに近づいた時のように、謙遜を持って和解に臨む必要があります。和解が成立すると祝福がもたらされ、「神の御顔」を見ることができます。祝福は夜明けとともにやって来ます。 祈りましょう。 私たちは人生で闘いの中にいますが、主は私たちとともにおられます。主のうちに新しい身分を与えられますように。主の恵みと憐みで祝福し助けてください。世の終わりまで主に従えるよう導いてください。アーメン 祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかないわたしたちの心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたは私たちの岩、購い主です。アーメン。
お気づきの方もそうでない方もいらっしゃるかもしれませんが、実は私、説教シリーズをやっています。 説教シリーズを通して、神様の大きさを再確認し、そしてそのことに対する私たちの応答について考えたいと思っているからです。 説教シリーズのポイントはこうです。 私たちの問題よりも、私たちの不安よりも、私たちの憂いよりも、私たちの人生におけるあらゆる心配事よりも、神様は大きい方です。神様は、私たちの傷やトラウマ、過去に私たちに起きた出来事よりも大きい方です。神様は、仕事や学校の成績、社会が私たちに課した、あるいは私たちが自分自身に課したアイデンティティよりも大きい方です。 神様は、私たちが神様のために、教会のためにすることよりもさらに大きなお方です。 私たちの人生のありとあらゆる側面において、神様ははるかに大きく、はるかに偉大な方なのです。 これらのことはクリスチャンにとって軸となる考え方であり、私たちが信仰において成長し続けたいのであれば、受け入れなければならないことです。私たちは、キャリアの選択、エネルギー、お金、時間の使い方など、人生のあらゆる面において、神様を自分自身よりも大きな存在とする必要があります。 悩みや葛藤にどう対処するか、家族、友人、隣人、同僚にどう接するか、さらには教会でどう奉仕するかにおいても、神様を私たち以上に大きな存在としなければなりません。 私たちが自分自身から一歩引いて、自分の人生や教会での出来事において、神様が自分達よりも大きな存在でいてくださるようにするとき、その結果として、私たちは成長するのです。 神様を自分の人生において、より大きくさせるとき、私たちもまた大きく成長します。 それは一体どういう意味なのでしょうか? もちろん、私は体の大きさのことを言っているのではありません!私の娘のクレアはすでに私より背が高いです!しかし私が「私たちが大きく成長する」と言う時、もちろん身長や体重の話をしているのではありません。私が意図しているのは、私たちの人生における神様の威厳、重要性です。つまり、私たちが自分の人生において神様をどれほど偉大に、どれほど大きくしているかということです。 神様がより大きな、偉大なお方であることを知り、その事実を受け入れ、自分自身が神様の子として神様に応答するとき、私たちもまた、より大きく成長することができます。それは、私たちの肉の欲望、つまり私たち自身の生活や教会生活の中で私たちが自分勝手に望んでいることよりも、私たちが大きくなるという意味です。自分の心にある頑な確信、自分の判断が正しいと思う確信、自分の人生や教会生活において正しいと信じていること、そうでないと思うことの確信を軸にするのではなく、それを超えた軸、つまり神様の軸を基準にするとき、私たちは信仰面において成長することができるのです。 神様は私たちに語りかけられます。そして、神様が私たちに語りかけることによって、神様はいつも私たちに機会を与えてくださいます。神様は私たちに語りかけ、ご自身の言葉を通して私たちにささやき、私たちにチャンスを与えてくださいます。今日の聖書の御言葉を通して、私は神様が私たちに、私たち自身が強く握りしめている裁きの思いを超え、大きく成長する機会を与えてくださっているのだと感じています。 今日の御言葉はとてもシンプルです: 「裁いてはならない!」それだけです。 シンプルですが、現実はこうです。人間は裁く生き物なのです。私たちは毎日、瞬間ごとに裁いています。裁くというよりかは判断していると言いましょうか。私たちは判断をしない日はないし、何らかの形で裁かない日はないのです。しかし、問題はこれです。他人を裁くことは互いの関係を脅かします。そしてそれが教会の中で起こると、教会としての共同体、さらには教会共同体の結束を脅かし、分裂、不和、恨み、憎しみを生んでしまうのです。 「Judge」 (判断する、裁く)の本当の意味は何でしょうか?私たちは、何が正しいか間違っているか、誰が有罪か無罪かを判断することを仕事とする、法廷の裁判官ならよく知っています。まさに「Judge」することを仕事にしている人たちのことです。しかし、そのような特別な仕事をしていない私たちにとって、日常生活で裁くとはどういうことなのでしょうか? 「Judge」(ジャッジ )という言葉について少し考えてみましょう。オックスフォードの辞書によると、「Judge」は次のように定義づけられています。「自分が持っている情報に基づいて、誰かや何かについて意見を形成すること」。「意見を形成すること。」考えてみてください。私たちは常に意見を形成しています。意見を形成し、判断、「Judge」しているのです。 例を挙げます。昨日、私がどのように意見を形成し、判断したかをシェアしますね。 まず、目が覚めてから、娘が首に痛みがあると言うので医者に行く必要があると判断しました。次男も咳が少し出ているので彼も医者に行く必要があると判断しました。また、前の晩私は寝るのが遅かったので、朝はゆっくりする必要があるとも判断しました。まず娘の医者のところに行くと、朝ゆっくりしたのでクリニックが混み合っており、 待ち時間は40~50分と言われました。順番を待っている間に時間の節約のため(なぜならまだ説教原稿を書いていなかったのです汗)、末っ子の医者のところに次は行こうと判断しました。すると私たちが行った時間はCOVID患者のために充てがわれている時間ということがわかり、次男の咳は軽かったので、娘の順番が来るまで次男の医者のところに行く代わりに、皆で昼食を取りに行こうと判断しました。 判断「Judge」とは、自分が持っている情報に基づいて、誰かや何かについて意見を形成すること。私たちは皆日々そうしています。私たちはいつもこのように判断を下しているのです。 それ自体、判断すること自体は必ずしも悪いことではありません。例えば、今日の聖書箇所のローマ人への手紙14:5を見てみましょう。ローマ人への手紙の著者パウロはこのように言っています。「 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ人への手紙14:5) ここでパウロは、安息日などの聖日を守ることについて話しています。当時のローマの教会は、安息日を守り聖なる日とするユダヤ教の律法をよく知り、従っている人々と、キリストが来られたのだからユダヤ教の律法を厳格に守る必要はないと固く信じている人々が混在していました。 だから、パウロはこのように言ったのです。「 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。(ローマ14:5)ある人は聖日を重要な日と考え、聖日を設ける必要があると考えるが、そう考えない人もいる。人々はそれぞれ考え、判断します。自分自身の意見を形成し、判断を下しているのです。このことについてパウロはなんと言っているでしょうか? 「それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」(ローマ人への手紙14:5) パウロは、自分で考え、意見を形成し、判断すること自体は必ずしも悪いことではないとしています。しかし、今日の聖書箇所を注意深く読むと、パウロが「ダメだ」と言っているタイプの判断が明らかになっていきます。パウロがいけないと言っているのは「意見を形成し、それに基づいて判断する」のではなく、他の人、特にキリストの兄弟姉妹を自分の意見に基づいて「裁く」ことをいけないと言っているのです。(ローマ人への手紙14:3、14:4、14:10) 判断ではなく、裁く。(ギリシャ語、英語においては、「判断する」、「裁く」に関して同じ一つの単語を使っています。英語ー「Judge」ギリシャ語ー「Krino」)ギリシャ語と英語でこの聖書箇所を読むと、全て同じ言葉が使われていますが、もう少し掘り下げて、パウロが今日の聖書箇所で「裁いてはならない」と言っている意味を考えてみましょう。 パウロがここで使っている裁くを意味するギリシャ語は「Krino(クリノ)」と言います。この言葉には「判断」という意味が含まれています。しかし、「Krino(クリノ)」にはそれ以上の意味もあります。分ける、区別する、非難する、さらには罰するという意味もあるのです。単に情報を集め、意見を形成し、判断するだけでなく、その情報の正誤を分け、物事を白黒はっきりさせ、間違っていると判断したものを非難し、罰することさえも意味するのです。あることが他のことよりも好ましい、または正しいと判断する、裁くという意味もあるのです。 パウロが教会の中でしてはいけないと言っているのは、このように裁くことなのです。非難し、罰する目的を持った裁きです。 物事について意見を持ったり、自分が何を信じたいか、あるいは信じたくないかを決めたりするのはいいのです。しかし他人が何を信じるべきかを、自分が受け取った情報や自分の人生で生きてきた経験値に基づいて決めるのは、裁くことであり、いけないことなのです。 違いがわかりますか? 私たちが自分の意見や信念を形成するのと同じように、私たちは他の人たちがそうすることを許し、尊重し、互いに調和をとりながら、それぞれが神様に定められた最高の人生を生きる、他の人もそのように生きられるように自分が振る舞うことが求められています。自分の信念を押し付け、皆に同じであること、同じように考えること、同じようにすることを強要するのではなく、他の人が自分とは異なる考え方や感じ方をすることを認めることによって、その違いにも関わらず、神様の愛を土台にして教会は形成されていくのです。 なんだって?ここは教会ですよ!そんなことうまくいくわけがない!私たちは皆、同じことを信じなければならない。神様は私たちの創造主であり、イエス・キリストは御子であり、私たちの主であり救い主であり、この2つは聖霊とも1つの存在である。私たちは、罪の赦しとして与えられるキリストの体と血の力と贖い、そして聖霊によって私たち全員が新しく生まれ変わることを信じている、そうですよね? もし私たちが皆、同じ神様を信じるからこその共同体なのだとしたら、人々が異なることを信じることを許したら、私たちはどうやって一致できるのでしょうか? パウロの時代もそうだったように、教会で起こる意見や考え方の違いは、緊張や対立を生み、教会内の分裂や不和を招きます。パウロの時代の意見の対立は、食べ物や律法に関することでした。私たちの神様以外の神々に捧げられた肉を食べることが許されるのかどうか、あるいは神の聖なる安息日を厳格に敬うべきかどうかが大きな関心事だったのです。ローマの教会の人々にとって、これらのことはとても重要なことのように思えたのでしょうが、パウロに違う思いを抱えていました。パウロは、ローマのコミュニティが食べ物と、安息日の考えの違いで分裂してしまっては、これからのスペインへの宣教や、イエス・キリストの福音を世界に広めるというミッションが進まないことを危惧していたのです。ローマの教会の中で大きくなっている食べ物、律法に関する懸念や違う意見に対する裁きが、神様のローマの教会に対するご意志、ご計画が明らかになるのを阻み、教会がより大きいミッションに向けて成長することを阻んでいると感じたからです。 私たちが生きるこの時代、私たちの状況において、私たちを教会を分裂させる意見は何でしょうか?洗礼の方法でしょうか?例えば幼児洗礼を認めている宗派もあれば、認めていない宗派もあります。またある教会では聖餐式を教会員だけに限定している教会もありますが、ある教会では私たちがここで行っているように、イエス・キリストを信じる人に対しては誰でも聖餐式に預かることを奨励しています。 私たちのようなユニオン教会は、まさにパウロが言っていることを実践する教会であり、互いに裁きを下さないように努めることのできる共同体であることを私は信じています。私たちは、幼児洗礼を信じる人々を尊重すると同時に、洗礼には口頭での信仰告白が必要だと信じる人々も尊重します。もちろん、教会として、あるべき姿やあり方を決めなければならないこともあります。ですから、意見が分かれるかもしれないことに関しては、私たち神戸ユニオン教会は、すべての人に最も開かれ、すべての人を歓迎し、すべての人に最も愛情をもって、互いに裁きを下さないようなあり方や行いをするよう努めます。イエス・キリストを主であり救い主であると信じるすべての人が聖餐式に預かれるようにしているのはそのためです。 私たちはユニオン教会ですから、ここにいるほとんどの人が、多様な礼拝のあり方を尊重し、神様との関係の築き方は人によって違うということを受け入れ、そのことに賛同しこの教会に通っているのだと思います。私はユニオン教会が大好きですし、ユニオン教会が成し遂げようとしていること、キリストにあり多様性の中で一致する可能性を信じています。 しかし、正直に言えば、私たち一人一人が注意深くなければ、パウロが私たちに避けるようにと教えていること、すなわち互いに裁きを合うことを意図的に避けなければ、教会はあっという間に裁き合いの共同体になってしまいます。 私はこの教会に来て4年近くなりますが、今から言うようなことを見聞きしてきましたし、私自身そのように考えたり、言動したことがあったことも認めます。みなさんも考えてください。このようなことを聞いたり、このように考えたことはないでしょうか? 「子どもがうるさいと、礼拝の邪魔になる。親はきちんと子供を静かにするよう言い聞かせなければならない。」 「女性牧師は聖書的ではないし、女性が教会のリーダーになることには賛成できない。」 「礼拝は、人々が時間通りにその後のSunday School(聖書研究)に来れるように、時間内に終わらなければならない。」 「あの人を見てごらん。子どもたちが暴れるということは、あの人は親としてなってない。」 「この人は定期的に教会に来ないから、主に対する献身やコミットメントが低い、未熟なクリスチャンだ。」 「教会の活動はクリスチャンだけが指導すべきだ。」 「あの人は、まず私に悔い改めて謝る必要がある。なんてひどい人なんだろう。クリスチャンのくせに信じられない。」 「この人は歌がうまくないから、礼拝のリードをさせるべきではないのではないか?」 「この人はどもったり、英語を完璧に話せないから、礼拝で聖書朗読をしない方が良いのではないか?」 「この人は教会で奉仕するほど成熟していないし、忠実でもないのでは?」 「こんな人と付き合ってられないから無視しよう」 「自分の配偶者、子供、両親に対し、自分がいいと思うように、自分が正しいと信じるようにふるまってほしい。なぜそのように振る舞ってくれないのか?なぜ私の言うことを聞いてくれないのだろう?」 これらのことを口に出して言うことはないかもしれないし、少なくともこれらすべてを思ったことはないかもしれません。しかし自分の心の奥底を掘り下げてみると、少なくともこれらのいくつかのことを感じたことがあるのではないでしょうか?このように周りの人を家で、職場で、学校で、教会で、近所で裁いたことはないでしょうか? もう一度強調したいのは、ただ意見を形成し述べることと、パウロが語る互いに裁き合うことには違いがあるということです。私たちが自分の周りを見て、意見を述べたり、判断したりするのは人間として自然なことであり、それ自体に問題はないのです。しかし、自分が下す判断を他人に押し付けるとき、自分の考えや意見を大きくして他人に押し付けるとき、自分の道や考えを唯一の道、より良い道、より正しい道とするときに問題は起こります。 なぜなら私たちは自分の意見を神様よりも大きくしてしまうからです。 そして、教会、家庭でも、職場、学校、近所において私たちがそのように振る舞う時、争いや分裂が起こります。 我が家では、特に子供たちの宿題の時間、このような争いが起こりやすくなります。ですので気をつけています。 学校から帰ってきた子供たちに対し、ドンか私がこう言います。「宿題をしてから遊びに行きなさい。」と。私たちがそう言うと、子供たちは「でも、ママ!でも、パパ!先に遊んでから宿題してもいい?」と聞いてきます。 そこで、私たちが気をつけないと、議論や分裂が始まるのです。私たちは、親の目線から宿題を先にやってから遊びに行けば、宿題を後回しにするよりもずっと時間ができるし、ストレスも少ない、と説明を試みます。それは理にかなっているし、そうした方がいいよ、いいに決まってると言うのです。 もしここで会話が止まってしまったら、子供たちは、私たちがベストだと思うことを押しつけられたように感じ、自分たちの欲求やニーズ、つまり自分たちの考えそのものが無視され、耳を傾けてもらえなかったように感じることでしょう。(そして、私たちはまだまだ未熟な親なので時にはそのように子供を取り扱ってしまうことが多々あります)しかし、子供とはいえ、子供たちには私たちとは異なる、けれども有効な考え方があるのです。 子供たちからすれば、長い一日の学校生活を終えた直後に、椅子に座って勉強するのは特に一番やりたくないことなのです!もちろん個人差などがありますが、そういう風に思う子供や、そういう風に思う日もあります。 実際のところ、翌日学校が始まる前に宿題が終わっていれば、いつどのように宿題をしたかは大したことではないのです。私たちのやり方も子供のやり方も、そういう意味では両方有効なやり方です。どちらがより良いとか、正しいとかそういうことではないのです。しかし私たちが親だからという理由だけで、自分たちの信念を強く持ち続け、ドンや私が親のやり方が一番だと主張したり、または子供たちが私たち親はわかっていないと主張ばかりすると緊張、対立、口論が生まれ、時には激化します。 そして家庭の中にある平和は簡単に崩れていくのです。 「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。」(ローマ人への手紙14:4) パウロはローマの教会に対しそのように言います。あなたは誰ですか?誰だと言うのですか?あなたには何が良いことで、何が悪いことかを区別する権威がありますか?何が正しくて何が間違っているのか。あなたにはそのことを判断し、裁く権威がありますか? 私たち人間にそんな権威がありますか? ありません。なぜなら私たちは神様ではないからです。私たちは神様のもの、主のものです。(ローマ人への手紙14:8)神様が私たちすべての主なのです。 私たちの中の一人が他の人の上に立つことはなく、一つの意見も、どんな考えも、どんなやり方も、他の人の意見、考え、やり方の上に立つことはありません。私たちは、異なる考えや意見を持つ人たちに歯向かったり、他人が自分の意見や、考えを尊重することを強要したりしてはいけません。 なぜなら私たちがひざまずき、従い褒めたたえる方は、ただ主のみだからです。(ローマ人への手紙14:11) 今日のメッセージどのように受け止められていますか?なかなか厳しいのではないでしょうか?今日の聖書箇所、神様が語ってくださったことは私にとっても厳しいものです。私は裁くということに関して、潔白とはほど遠いことを神様に、みなさんに告白します。家庭でも、子供たちの学校でも、この教会でも、そして近所でも、私は他人や家族、友人を裁いてきましたし、今もそうしています。今週の聖書箇所は自分がいとも簡単に裁いていることをまたしも明らかにしてくれました。 KUCファミリーの皆さん、私たちは皆裁いてしまう生き物です。しかし希望があります。私たちの神様は、「あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊か」なのです。神様は私たちを赦してくださいます。「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いること」もありません。 (詩篇103:8、10)神様は私たちを愛し、主を畏れる者、主の御言葉に耳を傾ける者を憐れんでくださるからです。 私たちは自分自身の肉の思いから下す判断や、裁きよりも大きな存在でなければなりません。私たち人間はみな裁き合い、神様と互いを傷つけてしまうのです。それが人間としての私たちの現実です。しかし、私たちが分かち合う良い知らせは、こうです。私たちの神様は私たちの裁きより大きな方であるため、私たちもまた自分自身の裁きよりも大きくなれるということです。 しかし、そのためには神様の助けと介入が必要です。 ですから、祈りましょう。 ______ (罪の告白の祈りと歌): 主よ、私たちは皆、心の中で誰かを裁いています。私たちは、その人の話し方や考え方が気に入らなかったり、それに賛同できなかったり、その人が私たちに言ったこと、したことを許せなかったりします。神様がいなければ、私たちはこのような人間にしかなれないのです。自分の裁きと他人の裁きを手放すことができないのです。 「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。」「なぜ、あなたは自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」(ローマ人への手紙14:4、10) 「God, Be Merciful To Me」(神様憐れんでください)の賛美を通して悔い改めましょう。 (詩篇103篇から神様の罪の赦しの言葉)「主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。 私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:9、10、13) 主の恵みと憐れみによって、私たちの罪は洗い流されました。私たちは新しく生まれ変わったのです。 だから今、私たちは新しく生まれ変わった自分を主の前に差し出し、感謝の贈り物を捧げましょう。私たちは清められ、赦された民なのです。私たちの応答は自分の自我を小さくし、心から神様に捧げることです。神様にとって小さすぎる捧げ物、贈り物はありません。主が私たちの捧げものを聖別してくださいますように。 説教原稿(日本語版)
主題聖句: 「そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち 、私にしたのである。』 マタイ25章40節(聖書協会共同訳) ・はじめに 主のみ名を賛美します。 クローディア先生,ご紹介ありがとうございました。 皆さま,おはようございます。 神戸ユニオン教会に再び来ることができ,ボランティア報告とメッセージをさせていただく 恵みを神様に感謝します。 佐々木美和と申します。カヨ子基金の代表としてボランティアに仕えています。 カヨ子基金のボランティア活動は,戦渦,災害,危機に直面する現場に直接赴きます。家族 もなく,福祉や制度の助けもなにもない天涯孤独の孤児に寄り添います。 本日は,抑圧された者の側に立つこと,同時にキリストの言葉に従うことについて,シリア の報告から話させていただきます。 ・新鮮な乳の流れる土地で 2023 年 2 月 6 日 4 時未明,トルコ南東部のシリア国境近くガジアンテップを震源に発生 した地震により,被災した人々が呻いています。孤児の施設を建造するために最大の被害地 アレッポを訪問しました(8月7日~8月17日)。 (シリア地方で最古の都市の内の一つで,古代にはハルペの名で知られました。) アレッポはアラビア語では「新鮮な乳」の意味の「ハラブ」と呼ばれます。 聖書に登場する「乳と蜜の流れる土地」に通じる名前です。 アレッポはダマスカスに次ぐシリア第2の都市です。 シリア全体のうち,北方(アレッポ,イドリブ,ハマとラタキア)は最も甚大な被害を受け ,56,000 人が影響を受けたとされます。影響を受けた人数は阪神淡路大震災に近く,東日 本大震災と比較すると,より大きな数字です。現人口 3 万~4 万人のうち約半数の 2 万人 が被災し,倒壊数は町の 70~80 パーセントと述べる住民もいます(2023 年 8 月 11 日 ,12 日,13 日現地聞き取り)。 シリア国第 2 の都市アレッポは 70 パーセントが破壊されました。ところが国際的な制裁 政策により救援物資は被災地に届けられませんでした。制裁は政治家にとって痛くもかゆく もなく,一番苦しんでいるのは市民だと,アレッポ市民のクリスチャンが述べました。 「カヨ子基金」(代表佐々木美和)は現地のバヘード夫人から助けてほしいと連絡を受けまし た(写真 1, 2)。(写真 1.) バヘード夫人から送られた写真。地震で崩れ落ちた夫人の友人の家。 バヘード夫妻はカヨ子基金で建てられたカヨ子チルドレンホームの子どもたちの世話をして くれていました。 バヘード夫人は,アルメニア教会(メルキト・ギリシャ典礼カトリック教会)で育ちました。典 礼言語には古代アラム語の一種である古典シリア語を用いる。映画「パッション」で,イエスや 弟子たちが話していた言語はアラム語です。 西側諸国では,「カトリック」と「ローマ・カトリック」を同じ意味で使います。前者を後の 短縮形と思っています。しかし,中東では,「カトリック」と言えば,すべてのクリスチャン を包括する言葉なのです。 ・(2)戦渦にあって地震後,現地から立ち上がる バヘード夫妻からカヨ子基金に協力の申請がありました。現地の被災地,アレッポの土地 (300m×300m)に,障がい児を含めた孤児が暮らせる家建設の青写真が「カヨ子基金」に 送られてきました(写真 8)。 戦渦,制裁,イスラエル,イスラム国,西洋諸国による〈占領〉,三重苦どころではない状 況にシリア全体が瀕しています。シリア全土は、戦争、イスラエルによるクラスター爆弾を 含む空爆、イスラム国、そして欧米諸国による占領と、そこに地震が加わりました。 (写真 26): アレッポ市内中心部のアパート。バヘード夫人の友人マルナ・テネケジアン (50)が一人息子アルバート・テネケジアン(13)とともに犠牲になった。 英語で Old City 旧市街と呼ばれる歴史的な街も被害を受けた。アレッポで生まれ育った夫人 は述べる。戦渦で奪われ続けているのは町だけじゃない,と。「歴史も奪われるの。この街 (Old City)を見ると,いつも泣きそうになる」(写真27, 28)。 ・(3)「最も小さな者の一人」である弱くさせられた側への感 情移入(マタイ25:34-40) マタイ25章34節~40節には次のように書いてあります。 34「そうして、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地 創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。 35 あなたがたは、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者 であったときに宿を貸し、 36 裸の時に着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見 て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 38 いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せした でしょうか。 39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 40 そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すな わち、私にしたのである。』 マタイ25章40節には「そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人 にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」と書かれています。 ここで,王のたとえを話しているのはキリストです。 キリストの体、すなわちキリストが「兄弟姉妹」と呼ぶもの(※英語訳NIVでは「最も小さ い者の一人」は「最も小さい兄弟姉妹のうちの一人」)は、「最も小さい者の一人」です。 キリストは模範的なクリスチャンを兄弟姉妹だと言っているのではありません。 飢えている人、渇いている人、見知らぬ人、衣服の必要な人、病気の人、牢獄にいる人、こ れらはキリストが兄弟姉妹と呼んでいる「最も小さい者の一人」です。 イエスのたとえでは、「正しい者」は 「最も小さい者の一人」のために自分たちが反応し たのだということを覚えていません。私たちが覚えてもいない人たちの中にも、敵の中にも 、愛さなくてもいいと思わされている人たちの中にも、異端だと思われている人たちの中に も、地獄に行く人たちだと思われている人たちの中にも、キリストが 「兄弟、姉妹」と呼 んでいるキリストの隣人、友人がいるかもしれないのです。 「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にした」という「私」とは、このたと え話をしているキリストのことが指されています(マタイ25章40節)。 キリストの体、あるいは「最も小さな者の一人」である「キリスト」ご自身が呻いているの に,呻きが届いていないのなら,私たちはおなじキリストのからだに属していません。(「 私たちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、一人一人が互いに部分なのです 。」ローマ12:5) 「正しい人たち」は自分のしたことを覚えていませんでしたが、「国」を受け継ぐことがで きました。それは、彼らが「最も小さな者の一人」に反応し、行動したからである。彼らは キリストに対して反応し行動したのです。 私たちの主は、旧約聖書と新約聖書を通して、常に「最も小さな者の一人」について言及し ています。 旧約聖書のほぼすべての巻中に登場する命令で,42回以上登場する命令があります。 出エジプト22:21 「いかなる寡婦も孤児も苦しめてはならない。」 申命記10:18 「孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛してパンと衣服を与えられる方である。」 申命記24:17 「あなたは、寄留者や孤児の権利を侵してはならない。寡婦の衣服を質にとってはならな い。」 …… すなわち孤児(あるいは父なき子),寡婦(シングルマザ―),寄留者(難民)を決してな いがしろにしてはならないということです。 新約聖書においても命令があります。 「みなしごや,やもめが困っているときに世話をし,世の汚れに染まることなく自分を守る こと,これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です」(ヤコブ 1:27)。 シリアに住むバヘード夫妻自身が,被災したその身で,自ら,孤児の世話をすることを買っ て出てくださっています。 キリストのたとえ話のなかで「王」が述べたように,「最も小さな者の一人」に対して呼応 し行動した者が,「王」の「国を受け継」ぐのです。「そこで、王は答える。『よく言って おく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」(マタイ 25:40) バヘード夫妻のほかにも,マタイ25章34節が示すような,「用意されている国」を受け継 ぐようなはたらきをする,カヨ子基金の支援者がいます。彼らが「最も小さい者の一人」に していることは、キリストにしていることを意味します。 キリストは「良きサマリア人」のたとえの中で、宗教家に救われないと判断されていたサマ リア人について言及しました。キリストは異端であるサマリア人を模範として、私たちがど のように生きるべきかを示されました。サマリア人は、傷ついた人を気遣い、その人が必要 とするものまで支払ってくれた唯一の人でした。 クリスチャン以外にも,裸の時に着せ,空腹のときに食事を与える,「用意されている国」 を受け継ぐはたらきをしている「カヨ子基金」の協力者がいます。 イスラム教徒のライラさんも,自分自身がシリアに住みながら,孤児の世話を請け負ってく れました。 アレッポとダマスカスの 356km の僅差にもかかわらず,孤児の世話をなさるライラさんに 今回会えずに残念だった。今後も,カヨ子基金は現地で仕える人々と協力します。 シリアでは戦争,テロ,大地震の三重苦にのたうちまわっている人々の生きていく道は閉ざ されています。 現地シリアの全国紙『SANA』紙でインタビューを受けました(写真 30, 31)。 地元テレビ局 Suboro TV も日本からの協力に反応し,報道しました。 孤児の施設を建てるため,ご支縁をお願い申し上げたい。 写真 31: シリア公共放送(SANA)。報道は英語でも読むことができ,シリアの現状を知るこ とができる貴重な情報源のひとつです。 本日の私の簡単な報告をお聞きくださった皆様に感謝申し上げます。また、アレッポの孤児 たちのための施設建設にご協力いただける方は、寄付を募っています。アーメン。 私たちの主イエス・キリストの素晴らしい御名によってご挨拶申し上げます。 テサロニケの信徒への手紙一 5:11-13
だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。 兄弟たちよ。わた したちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒して いる人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。 2011年の8月末、初めて神戸に来たとき、私は賀川センターで宣教師として日本の教会に仕えました 。17年間西東京ユニオン教会で牧師として従事した後、東京から神戸に引っ越してきたばかりでした。 東京に住んでいたとき、私はNCCJの事務所でも働き、クリスチャン向けのニュースレターの編集者とし て、またNCCJの人権、平和、社会正義の活動の支援者として働いていました。日本国内にある別のユニ オン教会の牧師として、神戸に引っ越してきたので、当時KUCの牧師だったブルース・ブラッドバーン 牧師に連絡を取ってみました。突然KUCを尋ねたら、ブルース牧師がどう感じるか分からなかったので 、最初に電話をし、コーヒーを飲みながら喋り、打ち解け、ブルース牧師は私をKUCのコミュニティー に迎え入れてくれました。実は、その1年前に、アジア学院(ARI (Asian Rural Institute) が関西に来る こととなり、滞在する場所が必要だったので、ブルース牧師に電話をした事があったので、その時から 彼とは少し面識がありました。 当時、水曜日がちょうど休みだったので、KUCのWOW(Women on Wednesday)に参加し、素晴らしい 女性とたくさん出会う事ができました。その後、KUCの日曜日の礼拝にも参加させてもらうこともあり ました。賀川センターの礼拝は10時45分から開始するので、KUCの礼拝に9時半から参加し、礼拝の前 半だけ顔を出していました。(当時、KUCの礼拝は9時半開始でした。) 2011年9月、KUCの礼拝に参加し始めて、2度目か3度目の日曜日だったと思いますが、ホームレス・ミ ニストリーの担当者がかなり前に日本を去っていたことを知りました。小野浜公園での生活に困ってい る方々への炊き出しの新しいコーディネーターが必要だったので、私はそのことについて祈った際、そ の担当者としての役目を引き受けるようにという聖霊の後押しを感じました。担当者の役目とは、食材 を買い、ボランティアを探し、土曜日にホームレスの人たちのために昼食を作るために公園までボラン ティアを車で送るというものでした。(現在は、池田さんがホームレスの方々のための炊き出しを準備し てくれています)。2011年11月、私は当時KUCの教会員であったシェーン・ターバーさんが率いるKUC グローバル・ミニストリーのチームに加わりました。このミニストリーは後に、澤田ようこさんと新宮 ちさとさんが担当となってくださっています。 KUCでは過去に何度かミニストリー・フェアを開催したことがあり、毎回とても楽しませてもらってい ます。私はグローバル・ミッションのテーブルでパートナー・ミニストリーの紹介などをすることが多 かったと記憶しています。KUCで勤務している間に、いくつかのミニストリー立ち上げもサポートしま した。 礼拝の中で、ミッション・パートナーの方々の話を聞く機会を設けたりもしました。グローバル・ミッ ション・ミニストリーはその中でも私がとても大切にしてきたものです。今日のフェアで、グローバル ・ミッションのテーブルや、他のミニストリーのテーブルを色々と見てもらい、聖霊がどの場所にあな たを導いているか感じてください。今日のフェアで学んだ事や、知った事を他の方に情報共有して頂け るかもしれませんね。こうやって教会で家族としてネットワークを作り、繋がりを作っていくのです。 そして、ここにいらっしゃる皆様にお願いしたいのは、全てのミニストリーのために祈って頂きたいと 思います。 周りを見渡して頂くと、教会で奉仕をしている方々がたくさんいらっしゃいます。今日、各ミニストリ ーのテーブルを担当してくださる方、参加してくださる方々、全ての方に感謝の意を伝えたいと思いま す。 今日の聖句にあるように、私たちは「あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓 戒している人々を重んじ…」とあります。ローマ人への手紙12:10 にも互いに尊重し合いなさいという 聖句があります。「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」ローマ人への 手紙12:10 私たちは愛をもって仕えるのです。(わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合い なさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。ヨハネの福音書 13:34) 「すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し…ペテロの手紙一 2:17」 テサロニケの信徒への手 紙一 5:15には、「お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい」とあります。 本日の聖句箇所である、テサロニケの信徒への手紙一 5:11には、「だから、あなたがたは、今してい るように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」とあります。とても重要なので、再度申し上げま す。「だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」 互いに 慰め合うというのはキリスト教徒であれば、一人一人が持つべき義務です。 また、キリストを基とし て、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に 応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。(エペソ人への手紙4:15-16) 私たちはキリストを信じる者として、互いに協力し、愛をもって互いを高め合おうと努力しています。 テサロニケの信徒への手紙の背景を、少しお話ししたいと思います。パウロがテサロニケの教会にこの 手紙を書いた時、テサロニケの教会はおそらく誕生してから1年ほどしか経っていませんでした。教会員 のほとんどは異邦人で、かつては異教徒だった人たちが、今はキリストの信者となっている。そして、 このテサロニケの教会は様々な文化で構成されていたのです。 ユダヤ人と異邦人が共に礼拝し、交わっ ていましたし、裕福な人とそうでない人が同じ教会で礼拝をしていました。元奴隷の中には、指導者と して教会を助けていた人もいたようです。あらゆる面で多様性がある教会だった事が分っています。私 たちのKUCもまた、それぞれの教会員が持つ背景、文化、国籍、神学理論など、かなり多様ですが、キ リストを信じる者として、毎週日曜日に礼拝に集まり、共にミニストリーに取り組んでいます。 本日のミニストリー・フェアでは、ミニストリー活動に焦点をあて、テサロニケの信徒に宛てたパウロ の手紙のように、私たちはお互いを尊重することを再確認し、それぞれの働きにもっと関われる事が何 かを考えるべきです。「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、 ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリ ストのからだを建てさせ…」(エペソ人への手紙4:11-12) パウロが言いたかったのは、教会での奉仕は重要だということです。パウロはその仕事を「骨が折れる 労働」と表現しており、テサロニケの信徒への手紙一 1:3で自身の労働を表現する時と同じ言葉で表現を しています。指導者たちが行う労働は肉体的にも精神的にも負担がかかる仕事です。しかし、彼らは教 会のために続けるよう勧められています。 私たちは互いを尊重し、愛し合い、高め合い、自分たちのミニストリーを築き上げるように求められて います。思いやり、祈り、教え、学び、与え、愛する事によって私たちにできる事はたくさんあります 。 最後に、1888年に生まれ、キリスト教の牧師であり、伝道師、活動家として知られ、日本社会に多くの 功績を残した賀川豊彦氏の記念碑について話をしたいと思います。賀川氏についてもっと知りたい方は 、三宮にある賀川センター内のミュージアムを訪れてみてください。または、グーグルで彼の名前を検 索するのも良いでしょう。賀川センターから、ほど近い道路沿いにある巨大な柱についてお伝えしたい と思います。 国道2号線を下っていくと左手に見えてくる場所にあり、新神戸駅に向かう道と須磨に向 かうトンネルの横を過ぎてすぐの場所にあります。その場を訪れると、4本の柱があり、そのうち1本の 柱が頂点に届いていません。その柱の意味とは、教会の中で力の弱い人たちや、より多くのケアが必要 な人たちを、私たちがどのように支援できるか、という事を表現しているのです。私たちは、能力に関 係なくお互いを尊重し、励まし合いながら奉仕をし続けるのです。 KUCには重い荷物を持つ人もいれば、軽い荷物を持つ人もいます。どういった形であっても、私たちは みんな何らかの形でミニストリーに関わる事ができ、互いに高め合い、KUCの中だけにとどまらず、自 分たちの社会や世界で、何かを必要とする人たちをサポートすることができるのです。 それでは、Dr. 佐々木美和さんから、人を支援することについてのメッセージを頂きましょう。アーメン 祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかないわたしたちの心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたは私たちの岩、購い主です。アーメン。
私は歌がすごく上手なわけではありませんが、歌うのが好きです。今日のメッセージを準備し、今日の聖書箇所を祈りつつ、何度も読んでいると「Be Still for the Presence of the Lord」という曲が頭に浮かんだので、今週はこの曲をよく歌っていました。この曲を知ってる方も、そうでない方も一緒に歌いませんか? “Be Still for the Presence of the Lord. The Holy One is here. Come bow before Him now. With reverence and fear. In Him no sin is sound. We stand on holy ground. Be still for the presence of the Lord, the Holy One is here.” 「主の臨在のために静まれ。聖なる方がここにおられる。今、主の御前にひれ伏しなさい。敬虔と恐れを持って。この方には罪はない。私たちは聖なる地に立っている。主の臨在のために静まれ、聖なる方はここにおられる。」 もう一度、歌詞に注意して歌ってみましょう。 この歌詞は今日の聖書箇所をよく表していると思いませんか?羊飼いであるモーセが山で神様と出会う時、神様はモーセに止まり、静まれと言うのです。モーセが神様の臨在に気づき近づこうとする時、神様はこう言われます。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト記3:4-5) 「主の臨在のために静まれ。聖なる方がここにおられる。今、主の前にひれ伏しなさい。敬虔と恐れを持って。この方には罪はない。私たちは聖なる地に立っている。主の臨在のために静まれ、聖なる方はここにおられる。」 木曜日、私は経理の美佐子さんと小野ジャンヌさん(テッドさんが不在の間、教会堂の掃除を手伝ってくれています)と一緒に、その日の仕事が終わった後、共に礼拝堂に入りました。私たちはそれぞれ思う場所に座り、数秒だけだったかもしれませんがただ静寂の中に身を任せました。 誰が何を言ったか正確には覚えていませんが、結論として、この礼拝堂にいることは本当に特別なことだということを全員が感じました。言葉にするのは難しいですが、私たちは皆、礼拝堂にいる間、そこに何か聖なるもの、荘厳なもの、自分たちよりも偉大で大きなものを存在するのを感じていました。その時、私は神様がモーセに言ったこの言葉を思い出しました。「あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト記3:5) 「あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト記3:5) みなさんご心配なく。今日私はみなさんに、くつを脱げと言うつもりはありません。私が今日みなさんと一緒に考えたいことは、くつを脱いで主の臨在に気づくということだけではなく、主の臨在に気づいた後のことを一緒に考えたいと思っているのです。みなさんに聞きたいと思います。 みなさんは、ご自身が神様の御前に、臨在にいることを悟ったとき、どのように反応していますか?どのような行動を取っていますか? まずは今日の聖書箇所から、モーセがどのように主の臨在に反応したかを見てみましょう。モーセは、しゅうとイテロに与えられた仕事を日々こなしていました。彼はいつものように羊を飼い、追い、羊の面倒をみていました。しかしある日、モーセは羊の群れではなく、山の中の柴を見たのです。よく見てみると、なぜか柴は燃えているのに、焼き尽いていないのです。(出エジプト記3:1-2) モーセには、しゅうとから与えられた仕事に集中し、羊の世話に専念するという選択肢もあったでしょう。しかし、その瞬間、彼はこう自分に言います。 「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」(出エジプト記3:3) モーセは自分のいる場所から離れ、燃える柴に何が起こっているかを見るために、その時いる場所を横切り始めます。 モーセはよく見ました。(出エジプト記3:2) そして今いるところを離れ、さらに何が起きているのかを見に行こうとしたのです。(出エジプト記3:4) それから何が起こったでしょう? 出エジプト記3:4にこうあります。「主は彼(モーセ)が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。 主は、モーセが主の臨在に気づき、よく見て、立ち止まり、さらに近くで見るために横切られるのをご覧になりました。主は、モーセがこれらのことをすべてした後で、モーセの注意が主の臨在に集中するのをご覧になった後で、初めてモーセの名を呼びます。「モーセ、モーセ」。 モーセは立ち止まり、見て、そしてさらによく見ようとしたのです。だから主は彼に語りかけたのです。 時々、私は教会の中で人々がこのように言うのを聞きます。そして時として私自身そのように考えていることも認めます。「神様からの声が聞こえない。」「神様が何を考えておられるのかよくわからない。」と。今日の聖書箇所を思う時、私はこう思います。神様の声が聞こえないのは、私たちが神様のために立ち止まっていないからではないのか?と。私たちは、神様が私たちの人生で何をしておられるのかをちらっとは見ているかもしれません。しかし、モーセのように今していることを完全にやめ、神様に目を向けていなかった可能性はないでしょうか? 例えば、いつもの日常から離れ、日曜の礼拝をしに来ることを習慣化しているでしょうか?(なぜなら礼拝は主の臨在に注意を向けやすいように、何の邪魔も入らないようにデザインされているものだからです。)主は実際に私たちと共におられたのに、私たちは主の聖なる臨在の中に立っていることに気づくよう目を向けていなかったということはないでしょうか? 私たちは主の臨在のために立ち止まる、静まる、そうなることができるように時間、スケジュールを聖別しているでしょうか? そうしなければ、私たちはいとも簡単に自分自身を神様よりも大きな存在に見立ててしまう危険にさらされているのです。 私たちの神様は恵み深く、慈しみ深い神様であり、すべての方を主の臨在に招かれます。神様の聖なる地は、常にすべての人に対し開かれています。しかし、もしあなたが神様に目を向けないなら、もしあなたが、あの燃える柴の方を見るという選択をしないなら、神様の声を聞くことはないかもしれません。 モーセは主の臨在に招かれた時、正しい態度、行動を取りました。モーセはもっとよく見て、神様の声に従ったのです。すると彼が想像していたことをはるかに超える神様の声を耳にします。それはモーセがイスラエルの自由とイスラエル人の救出という偉大なる神様の計画に用いられるという話でした。 モーセが主の御前に出ると、神様はモーセにこう言われます。わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3:7, 9 &10) 神様はモーセに、エジプトでイスラエルの民が直面している苦難、つまり奴隷制度から来る抑圧について語られます。そして神様は、ご自身の壮大な計画を実行に移すため、イスラエルの民をすべての苦しみから解放する人物としてモーセを選びます。 モーセはそれまでしていたことを止め、耳を傾け、神様の方を見ました。モーセは神様の前にいることを優先し、神様が自分に何を期待されておられるかを聞くまでは、自分の中で神様を他の何よりも大きな存在にしていました。 神様の自分に対する、イスラエルの民に対するご計画を聞くまでは。 神様の偉大な計画に自分も加えられているどころか、その中心人物として用いられる、そう悟った瞬間、モーセの不安は突然、神様の臨在よりも大きくなりました。 私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」(出エジプト記3:11)「私は特別な人間ではない。むしろ私は罪人だ。犯罪者だ。私がエジプトを出たのは、エジプト人を殺したことが人々に知られたからだ。私は何者でもない。神様、私はあなたが思っているような人間ではありません。」モーセはそのように思ったかもしれません。 モーセの不安はますます大きくなり、もしエジプトに送られたら、何をすべきか、何を言うべきかについての彼の恐れは、目の前にいる神様よりもさらに大きくなっていきます。 「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」(出エジプト記3:13) 神様は個人的にモーセに会いに来ました。モーセも最初は神様に応答しました。しかし目の前にチャレンジが置かれると、モーセは神様ではなく、うまくいかない可能性ばかりを考え始めるのです。 恐れを抱くこと、自分の悩み、憂い、不安、自信のなさを目の前におられる神様よりも大きくすることは、自覚の有無にかかわらず、私たち人間誰もがやってしまうことです。 神様は私たちの悩み、憂い、不安、自信のなさ、自我よりももっと大きな存在です。それは前回の説教でもお話しした通りです。しかし、私たちは自分たちの人生や教会生活において、神様が自分たちの中でもっと大きな存在でなることをゆるし、歓迎しているでしょうか?むしろそうではなく、自分自身の問題、他人の悪いところ、心配事、自分のやりたいこと、自分のやりたくないことにベクトルを持っていないでしょうか? 「私はいつも一人ぼっち。誰も私に話しかけてくれないし、私は誰にも大切にされていない。」「あの人は私にひどいことをした、あの人の方から謝らなければならない。」「私の家族の問題は、根が深すぎて決して解決しない。」「私はあの時こうすべきだった。そうしていれば、私が、家族がこんなに苦しむことはなかったかもしれない。」 私たちは、神様に開けてもらいたい特定のドアを、特定の方法で開けてほしいと心の底で願います。神様が、私たちが行きたくないところに行きなさい、したくないことをしなさいと言う時、私たちは神様に従いたくはないのです。 これが人間の真の姿です。 今、少し時間をとって、胸に手を当て、静まってみてください。そして静寂の中で、自分自身に問いかけてみてください: あなたがしがみついているもの、あなたの頭や心の中であなたが大きくしていること、大きくしているもの、神様の存在よりも大きくしていることは何ですか? もしかしたら、それは自分のキャリアの選択かもしれません。または将来の進路かもしれません。家族や人間関係に関する問題、経済的な決断、あるいは教会生活における不満や悩みかもしれません。あなたが主の臨在を感じるとき、その臨在の中で十分に主と時間を過ごしていますか?それとも、少し時間を過ごした後で、自分が考えたいこと、思い巡らしたいこと、したいことを優先しているのですか? モーセが自分の中にある恐怖の大きさに心を奪われていたとき、神様がモーセにどのように応じられたかを見てみましょう。モーセに対する神様の答えはとてもシンプルなものでした。 「わたしはあなたとともにいる。」(出エジプト記3:12)そして、「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3:14)神様はそのように応えられます。 わたしはわたしである。 モーセが自身の恐れを大きくする中で、神様が言わなければならなかった唯一のこと、それは神様は十分であるということでした。恐れや心配、問題は私たちを圧倒し、神様が描かれるように自分達が変えられる、用いられることを恐れさせます。しかし、神様は、今日も明日も、そして私たちの人生のすべての日において、神様でいてくださるだけで、十分なのです。 それが答えです。私たちの恐れ、心配、失望、問題、自信のなさがどんなに大きくても、神様はもっと大きい方なのです。 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ書55:8、9&11) 神様の思いと道は、私たちの思いと道よりも高い。神様はより偉大であり、神様はより高い方なのです。私たちの恐れや頭の中の声がどんなに大きく感じたとしても、神様がさらに大きく、高い方であることが真実なのです。 このことを知り、信じる時、あなたは神様にどう応えますか?自分のしたいこと、言いたいこと、自分に望むこと、自分が心配していること、自分の欲望、自分の恐れ、自分の不安、自分の視点を、神様よりも大きく、高く、偉大なものとして扱うのですか? それとも、神様の聖なる臨在の静けさの中で、あなたの名前をささやく神様に、ひれ伏し、神様に自分を委ねるのですか? 祈りましょう。 「Be Still for the Presence of the Lord 」第3節。 Be Still, For The Power Of The Lord Is Moving In This Place. He Comes To Cleanse And Heal, To Minister His Grace No Work Too Hard For Him, In Faith Receive From Him Be Still, For The Power Of The Lord Is Moving In This Place. 「主の力のために静まれ、 主の力がこの場所で働いている。主は清め、癒すために来られる、 主の恵みを伝えるために。主にとって困難な仕事はない。信仰をもって、主から受けよ。主の力は この場所で働いている。」 主よ、今一度、あなたに臨在の中にいられるよう、立ち止まらせてください。あなたの声を聞けるよう、助けてください。あなたの導きを知る時、あなたにひれ伏し、あなたにゆだねることができますように。アーメン。 |
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May 2024
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