聖書朗読箇所
ヨハネの福音書:9章25節 すると彼は言った、「あの方が罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。 ヨハネの福音書:8章31~32節 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは、本当に私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたを自由にします」 ローマ人への手紙:12章12節 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。 ------------------------------------------------ 皆様おはようございます! 今日手伝ってくれたユース(中高生)たちに感謝をしたいと思います。今日は月の最後の日曜日で、ユースの皆が手伝ってくれる日曜日です。みんなありがとう! そして、もうお気づきかもしれませんが、今週もまたヨハネの福音書9章を読みほどきます。先週、田淵先生もこのヨハネの福音書9章に関する説教でした。私も同じ個所を数週間前に選んでいたので、このような形になりました。 お互いに同じ個所を選んでいたとは知らなかったので、もしかしたら、この箇所に着目するように仕向けられているのかもしれません。では、今週もまた新な視点でこの箇所を見てみましょう。 新約聖書の中でイエスと弟子たちが描かれているものと、今日の教会で見るものとでは違いがあると思います。私たちは様々な事を学ぼうとしていますが、どれだけの知識がないといけないのでしょうか? 救いを受けるためにはどれだけの知識がないといけませんか?洗礼を受けるには?癒されるには?どれだけ知る事が出来たら、十分だと言えるのでしょうか? では聖書を見ていきましょう。まず、ヨハネの福音書9章です。私はこの章が大好きです。盲人がイエスによって癒される。エドさんと他の皆さんによる劇もありがとうございました。楽しかったですよね。 ほとんどの方がこの章の話を知っていると思います。イエスと弟子たちがこの盲人の前に現れ、誰のせいで盲人になってしまったか、という事を知りたがる人々に対して、新たな可能性に対して目を向けるように伝えるのです。神は彼に対する癒しを良い方向に使うのです。 そして、皆さん同じように感じられているかもしれませんが、そして、私自身は絶対にこんな形で人に癒しを与えたくはないですが、イエスは自身のつばを使って泥を作るのです。先週クラウディア牧師がハムレットを見せてくれたような感じで、イエスはその泥を盲人の目に塗るのです。そして、「向こうに行って洗い流しなさい」と伝えて、彼は洗い流しに行くのです。 「癒される」だけではない、2つのステップが必要です。この盲人がイエスに彼の目に泥を塗らせる事を許す程、イエスを信じた事。イエスのほとんどの癒しについて、その対象となる人は一端の役割を担います、イエスと神がそれ以外の役割を担うように。 そして、盲人は目が見えるようになるのです!彼は家に戻ると、そこにいる全ての人が驚くのです。そして、教会の人達は「すごい!素晴らしい!」ではなく、眉をひそめながら詳細を知りたいと思うのです。 そして、彼に「本当の事を言って」と詰め寄るのです。そして、どの様にイエスが行ったのか、彼ら自身の異論を唱えて、これは真実ではない、神やイエスは罪人であると。すると盲人だった男は 「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。」 アーメン!私たちも知らない事が多いです。答えられない質問もあります。たくさん私たちを困惑させる部分もあります。 でも彼が知っていたのは「彼は盲人だったけれども、今は見える」これで十分ではないでしょうか? そして、彼はふざけていませんでした。そしてイエスが彼に会い、救世主を信じるか?と聞きます。すると、男は、「それは誰ですか?」と聞き返します。 そしてイエスは、私です。と言うのです。そして男は、「信じます」と言うのです。 私たちみんながこんな風に始める事ができれば良いですよね。教会の歴史を語り始めるのではなく、純粋に神を感じる。知っている事を理解している、そして、それを広めていく。 もしあなたが、神によって触れられて、変化し、癒されたのであれば、もうすでにあなたは知っているのです。それはとても大きな事なのです。何かをきちんと説明しなければいけないという思いにとらわれ過ぎないでください。 討論になると、決まって知っている事より、知らない事が露呈してしまいます。知らない事は、ほとんどの場合、不必要です!男はイエスによって癒されたという事実を知っていて、イエスを信じ、人の子であるイエスを、選ばれた者として信じたのです。 他の箇所で、人々がイエスのイメージをもって、たとえ話を作るところが好きです。そしてそれにイエスが付き合う部分。どこか分かりますよね。 百人隊の隊長にイエスは百人隊の様だと誰が言ったのですか?だれが盲目のバルティマイに叫ぶように言ったのですか?(そして、何を思ったのか、イエスの信者は彼に静かにするように言った!彼がその忠告を聞かなくてよかった!) 「まだその時は来ていません」とイエスが言った時、マリアは何を考えていたのでしょう?マリアは召使いに「彼の言う通りにしなさい」と言いました。少し強く言いましたが、彼女はワインを手に入れる事が出来ました。 長年出血に困っていた女性はどうでしょうか?「少しでも彼の服に触れる事が出来れば」と。こんな些細な思い、叶って欲しい願いがイエスによって叶えられるのです。彼らは、ほんの少しの知識しか持っていなくてもイエスを信じたのです。 私は、イエスは彼らの心を知っていたと思うのです。信じるという単純な事だけれども、信じる事でイエスと繋がったのです。 本当にイエスの事を彼らが知っていたとは思いません。本当にイエスの全てを知っていたでしょうか?学校の討論大会で論破されない程、イエスの事を知っていたでしょうか?そうではないですね。 マタイの福音書16章でイエスがペテロにこの様に尋ねます 「それでは、あなたがたは私を誰というのか?」(15節) シモン・ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(16節) すると、イエスは「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である そうなんです。何を知っておかなければいけないかというのは、私たちは多くの事を知る必要はなく、聖霊を感じ、知っているという事が必要なのだと思います。 また、教会の人々が洗礼について彼らの考えを披露する部分が好きです。教会では、新しい信者を祈りと座学で導きます。使徒言行録10章を見てみましょう。 使徒言行録10章44~48節 ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。割礼を受けている信者で、ペテロについてきた人たちは、異邦人たちにも聖霊の賜物が注がれたのを見て、驚いた。それは、彼らが異言を語って神を賛美しているのを聞いたからである。 そこで、ペテロが言い出した、「この人たちは、わたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」こう言って、ペテロはその人々に命じて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けさせた。それから、彼らはペテロに数日の間滞在してもらった。 罪の告白は?洗礼を受ける前のクラスも無いではないですか!これらが不必要という事ではありません。でも必要以上にこういったクラスやしきたりに固執し過ぎる必要はないです。 マタイの福音書11章28~30節の詳訳聖書での描かれ方が好きです。 疲れた者、重荷を負う者は(宗教儀式によると平和をもたらさないもの)、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう(あなたの心を救いと共に回復させよう)。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 罪から救われたり、癒されたり、自分を解放する事を私たちは、イエスが期待しているよりも難しく考えすぎなのではないでしょうか?聖書の数か所で、私たちの心や精神が大切だという事を伝えているのではないでしょうか?例えば、イエスが伝えているマタイの福音書18章3節、私たちに向かって幼子の様になりなさいと言います。 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 これは福音であり、悪い知らせでもあります。どこが重要でしょうか? 福音とは私たちは救われ、癒され、罪から救い出される。そしてそれらは複雑な事ではないのです。 悪い知らせとは、あなたが教会にいて、沢山の知識を抱え込んでいる場合があるという事です。癒しを求める、祈りを捧げる時、教会の人達よりも、教会員でない人達に祈る方が楽だと私は感じています。教会員でない人の方が、心をオープンにしてくれます。教会の人達はあまりに多くの情報を持っていて、困惑しがちです。 ですから、兄弟、姉妹たちに言いたい事は、 最初にヨハネの福音書8章31~32節(NIV)でイエスは以下の様に言います 「もしわたしの言葉にとどまるなら、あなたがたは、本当に私の弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたを自由にします」 聖書から始め、パターンを見つけ、1つの聖書の箇所に固執しないことが重要です。お互いを思いやるための愛や信仰のようにパターンはとても重要です。 そして ローマ人への手紙12章2節(NIV) この世の振る舞いや習慣を真似てはいけません。そうではなくて神さまに新しい人間へと変えていただきなさい。あなた方の考え方を変えることによってです。そうすればあなた方は神さまのあなた方についての意志を知るでしょう。それは素晴らしく、喜ばしく、そして完璧なものです。 心を新たにするのには、主に2つの方法があります。1つは聖書を読むこと、そして2つ目は聖霊様にそこにあるものに目を開き、それが何を意味するかを示すように求めるのです。 ヨハネの福音書14章26節(NLT) しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 以前にも皆様にお伝えしたかと思いますが、私が初めて日本に来た時は、私は人生の中で嵐の中、別の言い方をすると「リニューアル」の期間でした。 私は当時、落ち込み、打ちひしがれ、敗北していて休息、再スタートを必要としていました。そして面白い事に、私が日本に旅立つ準備をしている際に、神は具体的に、この時期は聖書だけを読み、聞きなさい、他の本や解釈本は必要ないと言ったのです。それはとても奥深い教えであり、素晴らしい2年間でした。神が私に見せてくれたものは、それ以来35年間、貴重なものとなっています。 今では他の本や解釈本なども持っております。もちろん、それらも悪いものではありません。でも優先順位を正しくつける必要があります。そして私は常に聖霊様に確認をします。 ここで今日の皆様への課題を出したいと思います。 助けは必要ですか?あなたは「全て」「救われている」「聖別されている」と思いますか?もしそう思っていないのであれば、福音はここにあります。聖書です。そして、大学の様に4年通うなどの必要もないのです!聖書と聖霊があれば、私たちが期待したり、必要と思うもの以上の事を得る事ができます。 私たちはもう少しマリアの様になり、もう少し主張する必要があります。百人隊長のように私たちの知識を使って。 あの盲人の様に粘り強くある必要があります。もしあなたが困難にあるのであれば、叫びなさい、教会の人達があなたを黙らせる事はさせないで! カナンの女の様に主張するのです。イエスが誰かに対して背を向けるのは、この時だけではないでしょうか。確かにイエスはユダヤ人のためにこの地に来ていました。しかし、彼女も彼女の娘の助けを必要としていた。マタイの福音書15章に書かれています。 22節 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 26~28節 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。 彼女に幸あれ! イエスはここにいて、つながりを求めています。 知らない事で知っている事を台無しにしないでください! 私の好きなフレーズを再度伝えます。 知らない事で知っている事、知っている人の事を台無しにしないでください! 神に触れて欲しいと願っているのに、その宿命を説明できませんか?もしかしたら、「神様、私の友達があなたの事を知ることが出来ますように」と子供の様に祈る事が必要なだけかもしれないのに、福音を友達に伝えるのに躊躇していますか? あなたの心はいくつかの事を理解していて、傷のあるところを神に触れてもらう必要があるのかもしれません。イエスを受け入れ、あなた自身がイエスの言葉で心をリニューアルし、変化する必要があるかもしれません。 祈りましょう。 神様、私たちがあなたと、あなたのご臨在に集中できますように。 混乱して重要なポイントを見逃さないようにしてください。 少しの知識でもあなたへの信頼で強くなれますように そしてあなたの助けを必要としている人が必要な答えを得る事ができますように イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン
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神戸ユニオン教会 2020年7月19日
ヨハネによる福音書 9章 説教者: 田淵 結牧師 おはようございます。そしていかがお過ごしですか? 今日は7月19日、ということはもう今月の後半になってしまいましたし、2020年という年も半分が過ぎてしまいました。もう一つ「いかが」という質問をさせていただきますが、2020年の前半、皆さんはいかがでしたか。新型コロナ蔓延は、本当に予想外のことで、厳しく、私たちの社会に非常に恐ろしい影響を与えています。私たちは自分の身体への感染の恐れ、それに精神的な影響も受けています。この時期、コロナのニュースを聞かされるたびに、そのことについて多くの人たち、医師、評論家、経済学者、そして政治家の間での意見が食い違い、それ以上にお互いを批判しあい、時には攻撃しあっています。時にはとても厳しい、「本当ではない」「でっちあげ」「嘘だ」という言葉さえ使われています。なぜそんなことが起こっているのでしょう。誰もがこの状況を克服し、みんなが安心して幸せになりたいと思っている、私は強くそれを信じます。にもかかわらず、本当に多くの議論、論戦、つまり言葉や思いの戦いが交わされているのです。 ある国の指導的な政治家が、高名な医師のコメントを「でっちあげ」「嘘」と呼んでいるのは、興味深いというかとても怖いことです。でもこのことはその政治家の人格によってだけなされているのでしょうか。ある意味「Yes」ですが、しかしその政治家の発言をより広い文脈や背景から考えると、そこには別の理由もありそうです。 ところでみなさんは、科学と政治的信念、どちらをより信頼されますか? あるいは、科学と宗教的信仰? 教会ではすこし問題のある質問かもしれませんね。でも一般のあまり宗教的ではない社会の人々にとって答えは非常に簡単です。もちろん科学ですね。でもその人たちはなぜそんなに確信がもてるのでしょう。そしてその人たちに、科学ってどういう意味でどんな性格なのか、説明してもらえますか、と聞いてみたいのです。ここが、科学と政治、あるいは科学と宗教の不幸な関係をつくりだしたのです。私たちにとって科学がどんな意味をもつかを知っておくべきなのです。 今日ここで二時間にわたって講義をすることはできませんが(もしみなさんが構わないなら、やりましょうか?)、要点をかいつまんでいうと、科学は絶対的真理を主張することはできません。それはいろんな問題について最も蓋然性(ありえること)、可能性の高い提案を、手に入る限りの証拠に基づいて提案するものなのです。そこで示されるのは仮説による解決法で、その時点ではとても示唆に富み、有効なのですが、でも究極的なただ一つだけの答えではないのです。しばらく時間が経つと、その問題について、他のより良い考え方や理解がなされると、それは今までの指導的な見解という立場を交代することになります。新型コロナのことを考えてみると、実はまだそれについて医学界でも、わずかのことしか知られていませんので、多くの仮説的な提案がなされています。しかし、決定的で完璧なものはありません。ワクチン、治療薬、あるいはマスクをつけるかどうか、などどうでしょう? マスクについて言えば医療関係者の皆さんはそれをつけるべきだと強く言われます。それがあなた自身とあなたの周囲の人を守ることができるから、という意見は私にはとても説得力があります。でも私たちは、単純なマスク一つで、例えばアベノマスクが、私たちを完全に守ってくれないことは知っています。とすると、もし科学に完全で究極的な解決を期待する人は、科学からの回答に失望させられます。そして「でっちあげ」「嘘」という言葉を投げかけるのです。それ以上に私のように高校で数学や理科(科学)の成績が良くなかった人たちは、科学的な考え方に批判的で皮肉っぽくみてしまうのです。 今日私がここでお話したいのは、科学はどんな問題に対しても仮説的な答えしか出せない、しかしそれが客観的な証拠に基づいているのなら、蓋然性、可能性が高く、説得力があり効果的だということです。でも完璧ではないのです。でも絶対的なものではなく、理性的な営みで、事実にのみ基づくものなのです。 このような合理的な活動を「でっちあげ」「嘘」だと主張する人たちの問題は、科学的な議論に対して反証を示すことが少なく、時には「私はそう思う」「私の知っていることからすれば」という言い方をするだけです。その姿勢はとても主観的で自己中心、偏狭な考え方で、異なった考え方、自分自身以外のことが見れなくなります。そしてそのようなことが、今日の聖書の箇所、ヨハネによる福音書9章でも起こったのです。 この章は少し長いので、今朝はその一番最初の部分と最後とを読んでいただきました。礼拝のあと、残りのところは読んでみてください。物語はとても単純で、イエスが、生まれてからずっと目の見えない物乞いの人と出会います。その人の名前は記されていません。そこで今日の私のお話のなかだけで、仮に彼をFさんと呼ぶことにしましょう。(カトリック教会の伝統ですが、それに従うと)今日は聖フェリックスの祝日ということになっていますので。そしてイエスは彼の目を開きます。それがここで起こったこと全部です。Fさんにとってまさに目が開いた経験でした。ヨハネの福音書以外の他の福音書を読むと、物語はここで終わりです。ところが、ヨハネではFさんをめぐって大きな議論が引き起こされます。興味深いことに、多くの人がFさんに何が起こったのかを目撃していました。しかし彼らの村のユダヤ人の指導者たちは、それがでっち上げの事件だと考え、Fさんを嘘つきよばわりしたのです。Fさんは自分に起こったことを訴えますが、最後には彼は自分の村(社会)から追い出されてしまいました。 なぜ人々はそのことをでっち上げだと思ったのでしょう。そこにはいくつかの理由があります。第一に、Fさんは生まれながらの目の見えない物乞いでした。そして多くの普通の人は、彼のような不遇な人は神様の恩恵にあずかれないと考えていたのです。イエスの弟子たちが彼について「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と語ります。彼の逆境は、彼か彼の両親の罪によるので、神はそんな人に憐みなど示さない、というのが彼らの宗教的な考え方だったのでしょう。第二に、イエスは多くの人たちに評判の福音の語り手となりつつありました。その人たちは「普通の」人たちからは隔てられた人たちでしたが、彼の言葉は人々にとって力強く励ましに満ちたものだったのです。そこで当時の宗教的指導者はイエスに対する妬みの気持ちを抱き、彼は「危険だ」とさえ思うようになったのです。そこでイエスが何をしても、それが神の業だということを認めようとはしませんでしたし、その結果を否定したのです。それらの理由をまとめて考えると、第三に、Fさんを取り巻いている多くの人たちは、神様に対する強い信仰をもっているのでしょうけれど、それは彼の常識、知識、経験を通してのものだったのです。彼らは、物語、言い伝え、伝承などにある、自分たちの祖先に対する神様の奇跡的な働きについては知っていましたが、それが自分たちのときに起こるとは決して考えなかったのです。確かに神様は偉大で憐み深い、でも今でも、ここでも、彼つまりFさんにではない、ということです。人々は習慣として形式として、しきたりというか習俗とでもいう言い方で信仰を保っていました。しかしこのような形の信仰は、彼らにとって「生きた信仰」だったのでしょうか。人々は神様をリアルに見ることができたのでしょうか、みんな自分自身の時代(とき)のなかでの神様のかかわりを讃えることができたのでしょうか。 イエスはユダヤ人指導者、ここではパリサイ人と呼ばれており、この人たちについては先週の礼拝でひろこさんから教えてもらいましたね、彼らにこう言いました。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 もし人々が自分たちはすべてをしっかりと目撃したと主張することができたとしても、しかし実際は、皆はFさんの目が開かれたという、本当に単純な事実を認めることはできず、Fさんにそれを否定するように迫ったのです。 もし私たちがでっち上げをしたくなければ、事実にこだわるべきですし、その出来事の現実性を追究し、背景や根拠をしっかりと考えるべきです。決して間接的であいまいな情報によって、早まった判断をしないでください。現実的な理由や証拠に基づかなければ、あなた自身が説得力のある合理的な意見を語ることはできないのです。私たちは何事についても、確かな事実に基づかなければ、それについてコメントしたり、ましてそれを「でっち上げ」ということはできないのです。そうでないと、私が自分自身を「でっち上げ」人間としてしまうことでしょう。 さて、Fさんの周囲の人たち、或いはパリサイ人たちが、本当に見えなかったものは何でしょう? 彼の目が開かれたという事件でしょうか。イエスの奇跡的な癒しの力だったのでしょうか? そうですね、それも正解に近いでしょう。しかし、イエスは人々に、そして私たちに、それらよりももっと大切なことがあることを戒めておられます。なぜ人々は、そして私たちは、イエスが彼の目を開くことができたかどうか、そんな奇跡がなぜ起こるのか、ということばかり議論しているのでしょう。そして彼の目が開かれたことを喜び、お祝いを決してしてあげないのでしょうか。彼は生まれて初めて目が見えるようになったのです。なぜ皆んな、そして私たちは彼の心の底からの喜びを分かち合おうとしないのでしょう。ヨハネ福音書9章におけるもっとも中心的な議論は「神の業がこの人に現れる」(3節)こと、他の翻訳では、「神はその人に何がおできになるのかを示された」(GWT) ということなのでしょう。 そう、神様はその日、彼に働かれたのです。そしてイエスは人々に、私たちに、非常に単純な事実、神様はいつも私たちを守ってくださる、別の言い方をすれば、神様は私たちを愛しておられる、ということを示したのです。でもこのとても基本的な事実を私たち、そして多くの人は見失い、気づかずにいるのです。 イエスの弟子たちでさえFさんの以前の厳しい境遇は罪のせいだと思っていましたし、そのような発想は私たちが、私たちと違っている人、いや私たちでさえ犯しがちないろんな差別的な思いを持ってしまう傾向のなかに深く根付いているのです。神様がイエスの福音を通じて、今、ここで、あなたに対してどんなことをして下っているかが見えるでしょうか? 祈りましょう。 神様 どうぞ、私たちの目を開き、今ここで 私たち、および私のためにあなたが関わってくださることを見ることができますように。あなたはいつも私たちを愛してくださいます。そのことを私たちは見過ごしてしまいます。しかし、どのようにして私たちが他の人を愛し、受け入れることができるかを教えてください。 私たちの共同体の近くに、また遠くにおられ、特にこの時、コロナの蔓延や自然の災害、経済的な状態などの困難な時を過ごしている人々に勇気を与えてください。その中におられる隣人を愛することを教えてください。私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン マタイによる福音書 9章 14-17節
その時、ヨハネの弟子達がイエスのところに来て、「私達とファリサイ派の人々はよく断食するのに、なぜ、あなたの弟子達は断食しないのですか」と言った。15すると、イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客はどうして悲しんだりできるだろうか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その時、彼らは断食することになる。16誰も、真新しい布切れで、古い服に継ぎを当てたりはしない。その継ぎ切れが服を引き裂き、破れはもっとひどくなるからだ。17また、誰も、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋も駄目になる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」 皆さんは何か趣味がおありですか? 私の趣味は野菜作りです。写真をお見せします。住宅街で家庭菜園をしている家は少ないのですが、時々近所の方が見にきて、家庭菜園を始めたがうまく育たないとの相談を受けます。場所が六甲山の山なので、土地は山土です。栄養もなく、地面を掘ると石や岩などゴロゴロしています。全く、野菜作りには向いていません。私達は落ち葉を集め、腐葉土を作り、石ころを取り除き、大きな木の根を掘り起こし、2年間かかってやっと、山土を畑の土に入れ替えることができました。野菜には野菜に合う土に入れ替えなければ、何も育たないことを身を以て経験しました。今日の聖句は、この体験に似ています。山土を入れ替えなければ、野菜は育たないと言う事です。 ヨハネの弟子達の質問は「なぜ、断食をしないのですか」― 何故、律法を守らないのですかと尋ねました。ユダヤ人達は宗教的善行としての「断食」の習慣を持っていましたが(ルカ18 :9~13)が、彼らの断食は往々にして偽善的なものであり、その行為を人々に自慢して見せるためのものでした。しかしヨハネの弟子達の断食はそれとは異なり、自分達の師であるヨハネにならった禁欲的な断食だったと思われます。「私達とパリサイ人は」とあるのは、ヨハネの弟子達とパリサイ人の共通点は「断食」していたことでは一致していますが、両者は特別に仲がよかったわけではありません。いずれにしても、彼らはイエスの弟子達が自分達と同様に断食しないのを単に理解できなかったです。その質問に対して、主イエスは、花婿、新しい布切れ、新しいぶどう酒、新しい皮袋などに触れ、断食と何の関係があるのでしょう。皆さんは、この回答に納得しますか。まるで道を尋ねた人に、どんなに苦労して野菜に合う土に入れ替えをしたか説明をするようなものです。なんだか、話が噛み合っていないですよね。 それではなぜ、主イエスはまわりくどいたとえ話をされるようになったのでしょうか。 それは、ある状況が起点となっています。皆さん、その背景となる状況を見てみましょう。 今までのパリサイ人や律法学者の律法主義は、施し、祈り、断食、人に見せつける、偽善的で外面的なパフォーマンス信仰(23:5-7,25、27、29、33)、律法の重要なことをおろそかにし、人の教えを律法にしていました。(マタイ15:3、6)何度も主イエスが聞いて悟りなさいと教えても、イエスの福音は律法主義に異を唱えるためにパリサイ人はそれを聞いて腹を立てたのです。(マタイ15:12)反対勢力のパリサイ人達はイエスの命を狙っていました。「パリサイ人達は出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マタイ12:14)そのことを知って、主イエスは預言者イザヤを通して語られた神の救いが成就するために、パリサイ人達に捕まってはならなかったのです。 神の救いのご計画の時がまだ来ていない、神のカイロス、定めた時に至っていないので、その手前で反対勢力に捕まってはなりません。ですから、彼らにつけ込むすきを与えてはならなかったのです。彼らが上げ足を取る格好の機会を与えてはなりません。ですから反対勢力が反論したり、理解できにくい、福音の核心を隠すたとえ話をしなければなりませんでした。 面白いことに当時の弟子達は主イエスに何故たとえ話で話すのですか、と尋ねたのです。私達の心を代弁するかのようです。主イエスの答えは「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」(マタイ13:13)です。つまり、主イエスの話を聞いているが、その話の奥にある意味を悟っていないからだと言われます。主イエスのたとえ話のその奥に見なければならない事、聞かなければならない事が隠されているのです。ですから、彼らそして私達は、主の御心をたとえ話から悟ることが必要だと話されたのです。それでは、このたとえ話に何が隠されているのか一つ一つ見ていきましょう。 1番目のたとえ話、イエスはバプテスマのヨハネの弟子達やパリサイ人のしている断食について、ここで何ら非難することはしていません。断食とは悔い改め、悲しみを表わすためにするものであり、喜びにあふれる婚礼の宴会の席において、「花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか」と主イエスは答えています。当時の結婚の習慣は、「花婿に付き添う友だち」(弟子達)と言われる親しい友人達は、この時だけは花婿(イエス)、花嫁とともに大喜びで楽しく婚礼を祝うのです。祝賀の時である、喪に服したような悲しい顔をしていられないと言うことです。 バプテスマのヨハネ自身、ヨハネ3:29で、主イエスを花婿にたとえ、自分を花婿の友人にたとえているので、ヨハネの弟子達にもこの話は理解できたことでしょう。ここまでは、当時のユダヤの日常生活の話で、聞いている者達に分かりやすい事だったと思います。 しかし、花婿が取り去られる日が来ると、その時には弟子達は断食をすると言います。その日とは、神の定めた時、カイロス、明らかに十字架刑のことを指し、この世から主イエスが取り去られるその時のことです。このことはまだ弟子達にも隠されていました。 しかし、今は主イエスと一緒にいることを喜ぶ時であり、主イエスの言葉に耳を傾け福音のもたらす喜び、感動を味わう時です。断食の時ではないのです。 この話をした後、主イエスは2つのたとえ話をします。 2番目のたとえ話は、真新しい布切れで古い衣の継ぎをすると、継ぎきれの衣を破って、破れがもっとひどくなる、と言うお話です。私は恐らくこの布の伸縮性の違いを家庭科で学んだことを思い出します。つまり、古い布は度々の洗濯で、伸縮性を失い、新しい布は洗濯することにより縮んでしまいます。新しい布は縮まり、古い布を引っ張り破けてしまうと言うことです。主イエスが洗濯する際の布の伸縮性に洞察が行き届いていることに驚きです。これは女性の家庭内の家事における知恵であり常識です。ユダヤ人女子にあるある感で受け入れられたでしょう。 3番目のたとえ話は、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさいと言うことです。仕込んだばかりの若いぶどう酒はどんどん発酵して膨張します。この膨張の率に即して、皮袋も弾力性があり、発酵に耐える皮袋でなければなりません。古い皮袋は既に膨らんでしまって、弾力性はありません、そこに発酵するぶどう酒を入れると、はち切れて敗れてしまいます。 この3つのたとえ話から、主イエスは、私は花婿であり、真新しい布、新しいぶどう酒、新しい皮袋が必要であると言われています。当時の日常生活に基づいた、常識的な話です。単なる子供にでもわかる常識的な話の中に、弟子達及び現代の私達へのメッセージは一体なんでしょう。これらのたとえ話の奥に隠された、見なければならない事、聞かなければならない事、主の御心を悟ることが必要となります。 「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをしない」というはこの世の常識です。初めに、古い布切れが何を意味しているのかを考えなくてはなりません。また、2000年前の当時の状況に思いをはせてみましょう。パリサイ人の律法主義、権威主義の中に、主イエスの福音がこの世の中に入ってきたことは、「真新しい布切れで古い衣に継ぎ当てをする」ような異質、違和感があり、パリサイ人や宗教指導者達にとって非常識なことなのです。実は、彼らにとって、イエスの福音がその非常識、混乱、分断をもたらしているということです。この世の古い律法主義の衣に「真新しい布切れ」であるイエスの御国の福音を継ぎ当てするようなことができないのです。全く新しい福音なのです。つまり、イエスの言う「御国の福音」は、今までにある律法主義の延長線上にはない教えであることを仰っているのです。 新しいぶどう酒を古い皮袋に注ぎ込むとすれば、古い皮袋は「引き裂かれ」ます。それが当時の人々の常識です。そうなると、皆さんは新しいぶどう酒がなんであるか想像できますよね。新しいぶどう酒は、イエスのもたらした新しい福音です。主イエスが言わんとしていることは、福音を古い皮袋という律法主義と権威主義の中に入れることは、非現実的であり、両方とも駄目になると言います。しかし、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」といいます。新しい皮袋は、聖霊によって悔い改めた新しい信仰、主に信頼することです。 今までのパリサイ人や律法学者の律法主義は、偽善的なパフォーマンス信仰となり、本来の律法の重要なことをおろそかにし、人の教えを律法にしていました。ヨハネの弟子達がいみじくも問題にした断食は、あくまでも宗教指導者の宗教パフォーマンスとして形骸化していました。それらは古い布切れであり、古い皮袋であると言うのです。それらは、新しい福音と何の関係もないことを意味しているのです。 その対極として、主イエスは、新しい福音は、心の内面に強調を置き、即ち、神が中心軸の信仰である新しい布、新しいぶどう酒であることを言います。パリサイ人達の偽善的な律法文化、伝統的な儀式の延長上に、これから主イエスが成就しようとする救い、新しい福音が置かれるはずがないのです。両者が相いれるわけがありません。 主イエスは、目前に迫る十字架、全人類の罪の贖いのために血を流し、死を迎える、そして3日目に復活することにより救いを完成させ、来るべきペンテコステの聖霊によって私達の心に直接働きかけてくださる新しい信仰の時代が来ることを隠しておられます。 その時には何もかも、受け皿が新しくならなければなりません。新しい福音のために新しい信仰を準備する必要があるという、これが、たとえ話に秘められた主イエスのメッセージではないでしょうか。 それでは、このメッセージは、現在の私達に何を語るのでしょう。 私達も自分の信仰、霊的成長、回心において、今一体なにが新しくなっているのか、日々見極める必要があるでしょう。このコロナのために自粛生活に入り、KUCの多くの方々がオンラインで礼拝に参加し、サンデースクールにも参加されました。ある者は自分の中で新たに聖霊に示された信仰があるかもしれません。新たに主と更に深い聖霊の交わりがあったかもしれません。聖書をもっと知りたい、神様のことをもっと理解したいという聖霊の働きがあったかもしれません。ある者は新たに信仰が芽生えたかもしれません。新たな主への想いを新しい布、新しい皮袋に入れてください。新しく示された信仰や霊的な成長を、今までの古い生活、古い自分と一緒に同居させていたら、両方とも駄目になると主イエスは警告されているのです。 それはどういう事でしょう。私達人間には自分達の弱点、悪い癖、誘惑、耽溺に対面して、それらを克服するのは難しいのです。自分の過去である古い自分に、なんらかの聖書的な教えを少し取り入れて、生まれ変わったように振る舞う事には無理があります。なぜなら、私たちより敵は巨大で強敵で、しかもずる賢いです。敵の持つ最強の武器は誘惑です。だから誘惑を武器として使うのです。私たちはその名、悪魔を知っています。それゆえ、イエスが主の祈りで「わたしたちを誘惑に負けないように、悪魔から救い出してください」と祈るように教えたのです。古い自分と信仰に生きたい自分とのどっちつかずの生活をしていると、この強敵である悪魔に隙を与えることになります。たとえ、あなたは自分自身を許せないかもしれません、過去の失敗や劣等感を引きずっているかもしれません、肉体的に、精神的に痛みを感じているかもしれません、孤立して寂しいかもしれません、それでも、私達は、神様が私達を救い出し、その出口を与えてくれる事を一緒に祈りましょう。 そすして、新しい信仰に立って、主イエスに従って行きましょう。 すると、もう一度言います。主イエスは、古い布に新しい布を継ぎはぎすると、両方とも敗れてしまうと言います。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるとはち切れてぶどう酒が流れて両方とも駄目になると言います。そうではなく、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。今日、あなたが新しい信仰、霊的成長を感じたならば、新しい布、新しい皮袋、新しい生活に踏み出してください。最初に話した様に、山で野菜を作るには、新しい土に入れ替えなければなりません。コリントの信徒への手紙二5章 17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 そうすれば、私達は更に霊的に強く成長し、主イエス・キリストにお いて更に実を結び、役に立つ者となるという大きなビジョンへの第一歩になるのです。(ペテロ第2、1:8) 最後に、ラインホールド・ニーバーの祈りで終えたいと思います。 神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我々に与えてください。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えてください。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えてください。1日を大切に生き、その時を楽しみ、患難も平安への道として受け入れることができますように。 アーメン マタイ書20章1-16節
天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 まずぶどう畑のたとえ話について話し合う羊の漫画から始めましょう。「この寓話は私を悩ませます! その最初の男は完全にだまされている」 2匹目の羊は、「まあ、イエスが呼んだすべての人々について考えれば、私たちは後のほうに来たと思いませんか?」 最初の羊は言いました。「私はこのたとえが大好きです」 このたとえ話をよりよく理解できるように、背景を少しお話しします。 昔のユダヤ人の伝統では、神は特に金持ちを祝福されたと考えられていたので、彼らは金持ちでした。 彼らの考え方では、もし裕福な人が救いを受けることができなければ、貧しい人はどのようにして希望を持つことができるでしょうか? マタイ19:23でイエスは答えられました、 23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。 27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 弟子たちはそれからイエスに、誰が救われるのでしょうかと尋ねました。 金持ちが救われないかもしれないのは公平でしたか? 一生懸命働いた人は、そうしなかった人たちと一緒に救われるというのが公平だったでしょうか。 公平性について言えば、私は個人的な例を共有したいと思います。成長している私の子供は、「それは公平ではありません!」と言うでしょう。 より大きなケーキを手に入れたことであっても、より多くの雑用をしなければならなかったことであっても。 あるいはどちらがより長くテレビを見たか。 私の息子達は6歳離れているので、小さい頃、年上のカイは年下のコウよりも家事が多かったのですが、カイは多くの家事をしなければならないと不平を言いました。 「弟は年上で体の大きなあなたよりも多くのことができないから」、と辛抱強く(あるいは辛抱強くなかったかも)説明しました。 私の子供たちと彼らの仕事のさまざまな能力についての話とは異なり、このたとえは仕事の質が何であったか、誰が良い仕事をしたか、またはしなかったかを私たちに教えるものではありません。 雇われた時間に関係なく、彼ら全員が同じ賃金を支払われたことを私たちに知らせるだけです。私たちは大人として、公平であるかどうかに苦しんでいます。 同じ経験があるのに、誰かがあなたよりも良い職についているのであれば公平ではありません。 一部の人々が他の人々よりも多くのお金を持っているのは不公平です。 肌の色、人種、民族が異なる人々にとって、人生は公平ではありませんでした。 日本では、何世代にもわたってここに住んでいて投票すらできない韓国人と他のアジア人にとって、人生は公平であったでしょうか。 周りを見渡せば、世界の不公平の実例を見つけることができるでしょう。このマタイ20:1-16にあるたとえの伝統的な意味は、人生のどの時点でもクリスチャンになることができ、天国で平等な待遇を受けるということです。 しかし、たとえ話には複数の意味があります。 話をもう一度見てみましょう。 収穫の時期でした。 地主は自分のブドウ畑で働く労働者を雇うために町の広場に行きました。 ブドウ畑の所有者は、終日、労働者を仕事に呼び寄せるために出かけます。所有者は労働者を必要としていなかったかもしれませんが、労働者は仕事を必要としていました。 労働者を得る必要性というよりも、働かなければならない労働者の要求にむしろ応えていたと言えるでしょう。 マタイ25章とこのたとえを一緒に見ると、貧しい人、貧しい人、空腹な人のためにどのようにイエスが来られたのかがわかります。 聖書には、イエスが社会から見放された人々を助け、神が貧しい人、未亡人、そして抑圧された人に好意を表される話がたくさんあります。 おそらく地主は、長時間働くことができない人々(高齢者と障害者)、あるいは拒絶された人々(社会や社会の周辺で差別された人々)を雇うことに決めたのかもしれません。 私たちには推測しかできません。 私たちがこのたとえ話から知っていることは、日没時に労働者すべてが賃金を受け取るために並んでいて、同じ額が支払われていたことです。 11時間働いた人は、1時間しか働いていなかった人と同じように支払われました。 これは長時間働いていた労働者をかなり怒らせました。 しかし地主は答えました、「私の寛大さを恨むのか? 私が自分の所有物で自分の好きなようにするのは許されていないのか?」 それは単に公平ということではありません。 それは恵みです。 私たちは神の恵みが私たちの通常の公平さの基準を満たしていないことを真剣に受け止めなければなりません。 ですから地主がそれらの他の人々を助けたいと考え、寛大でありたいならば、それは彼の選択でした。 神の方法は私たちのやり方ではありません。 それは理不尽に見えるかもしれません。 実際理不尽です。 神は世界をひっくり返されます。 後で働くように頼まれたそれらの何人かは障害を持つ人たちで長く働くことができなかったかもしれません。 日本にいる障害を持つ人々は、社会においてしばしば差別をされています。 日本ではおよそ20人に1人が何らかの障害、あるいは神経的や精神的な障害を抱えています。 日本の社会において人目につかない人々です。 1888年生まれの香川豊彦牧師は、社会の周辺の人々を助けるよう呼びかけられたと感じました。 彼は貧しい人々にはあまりに少ない権利しかないことを公平とは信じていませんでした。 彼は神から神戸のスラム街の貧しい人々の中に住むように求められたと感じました。 香川は不公平な社会のなかで、周辺の人々を助け、神様の子どもとして扱いました。 神は人々を招き続けるほどに恵み深い方です。 それが神の道です。 ブドウ畑の所有者である神は、ますます多くの人々を彼のブドウ畑の労働に参加するように誘いに来られています。別の羊の漫画があります。 公正であるかどうかについては、まだ気がかりかもしれません。 しかし神の恵みは何が公平かということに基づいているのではありません。もし神が公正なことを厳密に行っておられたなら、救いは私たちの手の届かないところにあります。神のための労苦は祝福です。 あなたが他の人よりも現場で長く働いているなら、祝福と恵みは仕事そのものにあります。私たちの誰も神の恵みに値しません。 恵みは自由に与えられます。 私たちはその恵みを他の人にもたらすことで神のパートナーになることができます。どうすればよいですか?私たちは神のぶどう園で奉仕するよう招かれています。 主のように私たちは寛大で愛情深くなるように招かれます。 私たちの主は働く者として来られ、ぶどう畑のその実に、私たちのために砕かれる体と注がれる血の、主の聖なる労働に私たちを招かれています。 私たちは主のぶどう畑に歓迎されています。私たち全員が。アーメン。 |
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May 2024
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