炎の教会
クラウディア牧師 2020年5月31日 使徒の働き2章1~12節、43~47節 今日は聖霊降臨の主日(ペンテコスト)です!教会暦の中でも私の大好きな祝日です。見てください!教会を装飾しました。赤いロウソクは「赤い炎のような分かれた舌」で、ファンから噴き出しています。赤い風船、ウィンド・チャイム、水に浮かんだロウソク、赤いタペストリーにストール、そして、今、私が身に着けているハワイのレイもペンテコストの色です。 私はペンテコストが大好きです。なぜかと言うと、先ほど聞いて頂いた通り、マイケルを始めとするほかの19名の19の異なる言語で読んだ聖書朗読箇所をもって聖霊の力を祝う事が出来るのです。聖霊が大好きです。「激しい風」、「炎のような分かれた舌」のイメージが描かれた聖書の箇所です。そして、その日、めいめいが他国の言葉で話し始めたのです。 KUCでは、ペンテコストの礼拝の後、赤いケーキで教会の誕生を祝い、赤、オレンジ、黄色などの色のフィンガーフードを赤の風船で装飾されたギャンブリン・ホールで提供して祝います。 ですから、今年は、礼拝堂を私たちが出来る限り装飾しました。ご自宅でも皆様ぜひ赤、または炎の色(オレンジや黄色)でペンテコストを祝ってください。 私が話を続ける前に、少し時間をとって、深呼吸をしましょう。呼吸は常に無意識に行っていますが、少し時間をとって呼吸に集中してみましょう。呼吸は早すぎないですか?遅すぎないですか? 先週チャック牧師が「一時休止期間の力」について説教を行いました。少し時間をとって、ゆっくり息を吐いてください。ヘブライ語でいう「ルーアハ」の呼吸をしている状態です。意味は、神の風、息、または人生の呼吸という意味です。 目を閉じてくださっても良いです。祈りましょう。 人生の神、私たちの手、心の中に、そして身体全体に行きわたるようにルーアハで呼吸をします。聖霊よ私たちの上にいらしてください。アーメン。 キリストの十字架の死、復活を通して、弟子たちはとても怯えていたか、または困惑していた事でしょう。彼らは、次に捕まったでしょうか?それとも捕まえようとされた?実行されましたでしょうか?この日、弟子たちはみな1つのところに集まりました。 私たちが自宅にいたり、自主隔離をしているように、弟子たちも「自宅」というか、1つの場所に長い間留まっていました。Quarantine (検疫、隔離)という言葉は、イタリア語で40を意味し、Pentecost (ペンテコスト)は、ギリシャ語で50番目を意味します。(ペンテコストは過越しの祭から50日、クリスチャンにとっては復活祭から50日目となります。) パンデミック(感染拡大)の間、私は使徒の働き2章を以前とは違った見方をして読んでいます。使徒の働き2章1節では「五旬節(ペンテコスト)の日になって、みなが一つ所に集まっていた」とあります。弟子たちは自己隔離をしていたのです。 そんな中、人々はシャブオットというユダヤ教の祝祭を祝いにエルサレムにやってきました。シャブオットとは、シナイ山でのイスラエルに対する律法が与えられた事を記念する祝祭です。トーラー(律法)の祭りを見たことがある人はご存じでしょうが、人々がヘブライの聖書の巻物を持って踊り、歌い続ける賑やかなお祭りです。 そんな中、120名の人々が上の階に集まっていました。最初のクリスチャンが何か特別な事が起こるのも待っていました。何を待っているのかという事は確かではありませんでしたが、聖霊が彼らの上に現れるのを待っていました。でも聖霊がどんな姿かも知りません。そんな中、激しい風がその部屋に吹き、事は起こったのです。 風、息、霊を意味するルーアハの様に、風が吹いたのです。霊が現れたその日は奇跡の日となりました。シャブオットで法が与えられたように、ペンテコストでは霊が与えられたのです。 霊は、激しく吹く風の様に現れ、そこにいた人々の中を駆け巡り、人々の耳に優しく、時には激しく当たりました。そして、ひとりひとりの上に炎の様な分かれた舌が現れました。彼らは心で神の力を感じ、建物から外に出ました。 そして、コミュニケーションと理解の奇跡が起きるのです。一人ひとりが、それぞれの言葉でイエスキリストの福音を耳にするのです!そこにいた全ての人が理解できる言葉で福音を聞くのです。どうでしょう!これがクリスチャンの教会の誕生です。最初の教会は、文化も、人種も、経済的にもすべてにおいて多種多様な人々が神の御業の力の同じメッセージを聞くのです。 霊は弟子たちが彼らの言葉でコミュニケーションがとれるように助けました。弟子たちは様々な言葉で意思疎通を図る事ができました。最初の教会、ペンテコストパラダイムの教会は祝福と多様にとんだ教会でした。多様とは喜びと機会、驚きとクリエイティビティがある、KUCの様な教会でした。 使徒の働き2章の最後では3千人もの人々がバプテスマを受けたと書かれています。彼らが教会になり、共に礼拝をおこない、学び、共に食事をしてお互いを思いやったのです。このパンデミックの中でも私たちは互いを思いやっています。ケア・ミニストリー・チームは教会の中で必要な人達に食料品を提供しています。この時を生き抜こうとしています。大変な時ですが、KUCという私たち、私たちの教会は生き抜きます。できれば、「前よりも良くなった」これは、チャック牧師の別の説教のタイトルですが、そんな風になりたいと思っています。 どの様に転がるかという事は私たちにかかっています。 1世紀はクリスチャンの拡大にとって良い世紀でした。30年の間に教会がエフェソス、ローマ、そしてスペインに広がりました。最初の使徒たちは行く先々で教会を作りました。使徒たちはイエスキリストに献身的な人々をそれぞれの村に根付かせていくのです。ギリシャ語でloas と言われる人々です。「信徒」「人々」「神の人々」という意味です。必ず使徒たちは、心に火がついた人々を各村、町に根付かせたのです。 ペンテコストに関するウィリアム・ブレイクの詩を紹介しましょう。 その目が炎を見つけなければ 神を見る事はできないだろう その耳が炎を聞くことが出来なければ 神を聞く事はできないだろう その舌が炎をつかまえることが出来なければ 神は名前を付けられないだろう その心に炎が灯されなければ 神は愛される事はないだろう その精神に炎が灯されなければ 神は知られる事はないだろう ウィリアム・ブレイク(1757 – 1827)ペンテコストより これらは、各地に散らばった神の人々であり、福音を家から家へ、隣人から隣人へ、友人から友人へ、家族から家族へ、彼らは聖霊に魅了された信徒であり、神の人々。この炎は広がっているのです。 神学校の時に1世代前の神学者から3つの大好きな引用文を学びました(ブルックス、フォスディック、スパージョン)、そしてこの3つの引用文から何がペンテコストと今日の私たちの教会で起るのかを学ぶ事ができます。1つ目は「炎だけが炎を燃やす」、2つ目が「誰かの心に火を灯したいのであれば、自分自身も少しは燃えていないとできません」、3つ目が「燃えている心はすぐに炎の舌を見つける」 ここ数か月の緊急事態宣言やロックダウンの間、様々な人が様々な経験をしました。家にいる事で、とても孤独を感じた人達、家族と一緒に過ごした人たちもいます。何人かの友人から聞いた言葉は、この期間で成長を感じたという事でした。仕事を失った人もいたり、家から働いたり、経済的に大変な思いをしたり、常に子供たちの世話をしなければならなかったり、大変な時期でしたが、中にはこの期間は何が人生にとって大切なのかを考えさせてくれた期間と感じた人、祈りを通して神に近づき成長できたと言った人もいました。少し時間をとって神が聖霊を使って私たちに何を語りかけているのか聞いてみましょう。チャック牧師が先週説教で話したように、「一時休止の中に力」があるのです。 少し時間をとって、聖霊が私たちに何を語りかけているのか感じましょう。聖霊とは、私たちの中にある神のご臨在です。 人にとって自己隔離というのは難しかったでしょう。孤独を感じた人もいます。しかしイエスは孤独を感じる人に伝えます。ヨハネの福音書で、イエスがもっと長い間弟子たちと共に過ごす事を伝えた後に、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネの福音書14章16節)。と弟子たちを安心させる為に言います。そして別の場所では「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節) 聖霊は私たちの仲間であり、私たちが一緒に集う事が出来ない間も私たちひとりひとりと共にあります。私たちが教会です。 教会はパンデミックの間も閉鎖しません。私たちは常にここにいて、聖霊は私たちと共にあります。 最初の教会は様々な人々がいて、とても素晴らしく、ひとりひとりが神の聖霊に満たされていました。KUCも様々な人が集います。 聖霊は私たちと共にあり、私たちのコミュニティにいます。霊の風を吹かせて、私たちを新しい道に導いてもらいましょう!聖書には「風は思いのままに吹き」(ヨハネの福音書3章8節)とあります。 聖霊はあなたに何をしなさいと語り掛けていますか?どこに霊はあなたを吹き連れていこうとしていますか?それは全能の風?それとも心地よいそよ風? 聖霊の炎があなたに火をつけ、新しい人生を連れてきますように。バプテスマの時に感じたような新しい人生、そして、zoomでの祈りや、集まり、サンデースクールのクラスやオンライン礼拝を通して私たちの教会のコミュニティで養われますように。聖霊の炎が私たちを通して世界に変化を与えます。 緊急事態宣言がゆっくりと解除されるにあたり、外に出る時には、マスクを着用し、手を洗い、ソーシャルディスタンスを守り、聖霊を見て、耳を澄ましてください。アキコ牧師が聖霊の力を感じ、私が助けが必要なのを知っていたかのように連絡をしてくれたこと、聖霊が誰か必要な人に提供するために、あなたに食料品を買うように促すかもしれません。知らない人にも優しく接するように聖霊が仕向ける事もあるかもしれません。聖霊は探し出す必要はありません。聖霊はもうすでにいらっしゃるのです。私たちが会いにいくだけです。聖霊が何をあなたに語り掛けているのか、どこに導こうとしているのか、また新しい場所に吹き連れて行こうとしているのか、あなたの心を燃やしています。そして聖霊が私たちの教会にしてくださっていることに目を向けてください。 最後にシエナのカタリナ(1347年から1380年)からの引用をもって終わりにしたいと思います。彼女は聖霊の力を感じました。 「神が意図された通りの人になりなさい、そうすれば、あなたは世界に火を灯すでしょう」 私たちが炎の教会です! ぜひ他の人達とイエスキリストの愛を分かちあいましょう。
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今朝は、一時休止の力(パワー)についてお話をしたいと思います。
数か月前、私の娘が待つことのフラストレーション(ストレス)について、私に話しをしてきました。 彼女の夫はよりヘッドハンティングされ、より良い仕事に就く準備をしている最中でした。彼らの生活もより良くなるはずだったのですが、人生にはいつもそこに「しかし」が入ってしまいます。彼はすでに良い会社の良いポジションで働いているのですが、次のより良い仕事に移れるのではないかという期待と共にそのプロセスが予定していたより長引いているという事でした。 だから、彼らのために私に祈って欲しいという事でした。私が何かをトライするときは、まず最初に連絡をしてくれた人の話をよく聞く事にしています。そして、次に聖霊に尋ね、それ以外に私が知るべきことが無いか、全体を知る事で、よりベストの形で祈る事ができると思っています。 そして自分自身が「一時休止の間にも力がある」と言っているのに気づきました。 何?自分で言いながら、再度その言葉をかみ砕いてみました。「一時休止期間の力?」良い言葉だ! 待っている間も、人は注意深く物事を見る事が出来る人もいますし、ソワソワする人、何か物を食べてしまう人、また何か別の事で紛らわそうとする事もあります。 しかし、人は一旦立ち止まり、周りを見回し、聞く、これが潜在的な力を得る場所です。もし神様があなたの注意を引くためにわざとこの遅延を起こしているとしたら? 毎回その様に神様が仕向けているという意味ではなく、例えば、私は病気になるといつも「神様、私が何かしましたでしょうか?これって、何か神様と繋がっていないという事の結果でしょうか?」と尋ねます。 そうすれば、いつも何かが見えてきます。自分にとって不都合な事が神様とのつながりの結果かどうかは分かりません。でも、もし今現在病気を患わっているからといって、落ち込まないでください。 私の伝えたい事とは、困難な時こそ立ち止まって、耳を傾ける事が必要という事です。 一時休止。そうすることで、苦労が報われ、良い結果につながる事がよくあります。 リンジー(チャック牧師の娘)と私は、この一時休止に耳を傾ける事で何が起こるかという事について話をしています。 彼女はこの「一時休止」がすでに彼らに影響している事を話してくれました。 彼らは「休止」の間に人生の優先順位を考え、生活費、タイムマネージメント、人生のこの時期に何を得たいのか。もちろん沢山のものですが。話の中で、私たちが同意したのは、今の現状を見る事ではなく、何が今後待ち受けているか分からない、次への期待の価値という事です。 私のトップ10に入るずっと大好きな聖書の箇所に創世記40章23節~41章1節があります。 すでにこの箇所の内容をご存じの方もいらっしゃると思いますが、神様が様々な事をするためにヨセフを選ぶ箇所です。夢の中で解き明かしもします。しかし、これは、長い一時休止でした。長い道、良い事が起こるまでに彼は長い間待たなければいけませんでした。 この時点で、彼は監獄に入れられているのです。辛かった事でしょう。そして少しの希望の光を感じるのです。夢の中で見たことを監獄に入れられている仲間に伝える力を持っていたのです。ですから、王様に会いに行く前に、仲間にこう尋ねるのです。 40章14~15節 あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれてきたのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。 でも、仲間はそれを忘れるのです。ここから私が好きだけれども、イライラする箇所です 23節~41章1節 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。それから二年の後。。。。 2年間も!2年もです!私なら2週間過ぎた時点で、疑い、絶望しているでしょう。しかし、これだけの長い待ち時間があったのです。 そして、その後良くなるのです。もしこの先のお話をお忘れであれば、創世記の37章から始まる話しを読んでください。 一時休止には2種類あると思っています。能動的な場合と、受動的な場合です。 人生には一時休止というものが常に起こります。病気にかかる事もそうですし、感染拡大を防ぐため、何かが起こる事を待つ場合、または、誰かからの返信を待つ場合。そして、こういった一時休止の時の力(パワー)を手に入れるか否かもです。 一時休止の期間に、心配し、安全地帯を探すために間違った方法、場所に行くこともできます。または神様と共に座り、この状況が暗示している「何か」に耳を澄ませる事もできます。それが一時休止の力です。 では、別の聖書の箇所を見てみましょう。ルカの福音書5章15節~16節 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが話を聞きに、また、病気を治してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。 イエスご自身が一時休止する、または一時休止の中で力を見つける、天にいらっしゃる父との祈りの中で。これが、イエス様が私たちに一時休止のやり方を教えてくれているのです。 または、十戒の3つ目にあるように、主の日がありますが、正直に言うと休むという事は、私のトップ10ではありません。必要無いように感じるのです。 では次の箇所を読んでみましょう。 出エジプト記では、安息日とは、神様により聖なる日として決められ、休み、礼拝をするためにありました。神様が地球を創られたときに休まれたように。 ですから、私たちも受動的にも能動的にも一時休止をしても良いのです。そこには潜在的な価値があるのです。 詩編で私の好きな言葉にSelah (セラ)というものがあります。この言葉は少し神秘的なのですが、「一時休止」と訳されます。特に私が好きなのは、詳訳聖書でセラの意味について書いてある部分です。 一時休止して、落ち着いてそれを考える 詩編では70か所以上にこのセラがあります。例の1つは 詩編3章4節(詳訳聖書) 私は声をあげて、主に呼ばわる。 すると、聖なる山から私に答えてくださる。 セラ(一時休止して、落ち着いてそれを考える) 何十年も前、私が大学生だった時に、メンズ・リトリート(日常生活から離れ、自分を見つめ直す時間)に参加したことがあります。新しい友達ができる期待を持って参加しました。昼食時間は様々な人達と話せる時間は他の参加者をより良く知るいい機会でした。 午前中のセッションを終え、参加者と昼食を食べるため、みんな私の車に乗り込み、レストランに行こうと車のエンジンをかけますが、かかりません。私はとにかく焦り、頭を抱えましたが、そんな事をやっているうちに、みんな他の車で出かけてしまいました。昼食時間も限られていたので、仕方ありません。 そして、後ろを見ると、別のレストランがありました。とにかく昼食だけでも終わらせ、午後からのセッションに間に合わせる必要があったので、そのレストランに入りました。席に座り、聖書をテーブルの上に置きました。ウェイトレスさんがテーブルに来て、「クリスチャンの方ですか?」と聞かれました。「はい」と答えて、「隣でやっているリトリートに参加しています。」と言いました。 そうすると、彼女は、「私も昔はクリスチャンだったのよ。」と言います。 そう聞いた瞬間、周りの人、雑音、全てが消えていく感じがしました。この話を最初から最後までお話しできれば最高ですが、今日は短くしてお話します。 「神様がこうやって出会えるのを設定してくれたみたいですね。」と私は話し始めました。「そのことについて、お仕事が終わった後でもお話しませんか?」と尋ねました。彼女の話によると、以前通っていた教会でトラウマになるほど嫌な経験をして、クリスチャンでいる事は、もう無理だと思ったそうです。 この時の会話は、40年以上経った今でも明確に思い出せるほど印象深いものでした。神様が私に彼女に伝えるべき言葉を与えてくれ、彼女の反応も素晴らしいもので、彼女はまたクリスチャンとしての気持ちを復活させる事ができました。私自身も驚く出来事でした。 会話が終わった後、また車に戻ると1日が終わっていました。これは私にとって「一時休止」「待ち時間」だったのです。それを受け入れる事ができ、神様がその「待ち時間」を使ってくださったのです。 受動的でも能動的でも私の人生の中で起こった「一時休止」のもっともっといい話をたくさん持っているのですが、本日のアダルト・サンデースクール(今日の朝10時半からスタートします)でお話できればと思います。もちろん誰でも参加可能です。 そして皆さんの素晴らしいお話もお聞かせ願えればと思います。それまでは、先ほどの話しが皆様の心に残りますように。 「受動、能動」神様が与えてくださるのであれば、その一時休止を受け入れましょう。周りを見回してください。不確かな時だとしても、神様と話す時を持ち、そして耳を傾けましょう。 イエスが行ったように、神様が私たちに行っていると。 世界が私たちに「一旦休止」または「障害物」のように見えるものでも、神様にその時間を実のある時間になるように祈りましょう。私たちならできますよね。そして神様も私たちがその様にお願いする事を喜ぶはずです。 そして「能動的(自発的)な一時休止」ですが、自分自身から「一時休止」を行いますか? この件に関しては、私は忙しくいる事が美徳として育ってきているので、ワーカホリックです。ワーカホリックである事が、私が誇りを持って罪として告白できることの1つです。では、安息日の事をどうとらえる事が出来るでしょうか? 7日目だけの話をしているのではなく、このコンセプトは聖書のあらゆる箇所に書かれています。グーグル検索をしてみてください。安息日について書かれている箇所は150節以上あります。神様のトップ10に入っているのです。考えてみてください「一時休止して、落ち着いてそれを考える!」 最後に、能動的(自発的)か受動的でも最後に1節提供したいと思います。 イザヤ書40章31節 知っている方も多い箇所です。詳訳聖書ではこの様に書かれています しかし、主を待ち望む者は(神を待ち望み、探し、希望を見出すもの) 新しく力を得、 鷲(太陽に近づき)のように翼をかって上ることができる(そして上に上がり神に近づく)。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 聖書の原典をチェックして、より大きな意味をとらえましょう。イザヤが使ったヘブライ語では、「wait (待つ)」はQavahとなります。意味は、能動態で「待つ、探す、希望、期待」となります。 能動的に神を待つ。これだけに関する説教もあるのですが、今日はもう少しシンプルに、この意味とは、積極的な意味での「待ち」という事になります。例えば、子供の誕生を心待ちにしているような感じです。 ここで、今日の私の皆様への祈りです。よく聞いてください。神様に皆様のために祈ります。よく聞いて、もし同意してくださるのであれば、「アーメン」と区切り区切りで言ってください。 神様、今朝のこのメッセージにそして、私たちにくださった「一時休止」に感謝いたします。能動的、受動的な一時休止を優しく思い出させて頂きありがとうございます。それらを私たちに見せてください。能動的(自発的)な一時休止についての御言葉は明確である事を理解しています。しかし、私たちは能動的(自発的)な一時休止を十分取らない事もあります。ごめんなさい。そして、一時休止から得られる「力」を手に入れたいとも思っています。一時休止がもたらす繋がりを見せてください。 あなたが含まれている一時休止とその中で得られる本当の力が祝福されますように。その一時休止に気づかない場合があるかもしれませんが、気づかなくても、一時休止を与えてください。 ステイホームのこの期間に、季節が変わるこの期間に、この一時休止を私たち一人ひとりがどの様に最適に受け入れる事ができるか、一時休止できるかを教えてください。 イエス様の御名によってお祈りします。アーメン では10時半にアダルト・サンデースクールでお会いしましょう。Q&Aとこの説教に関するディスカッションを行います。ぜひご参加ください。 皆様に祝福がありますように。能動的にも受動的にもこの一時休止の中で力を得る事が出来ますように。 まずこれまでストーカーされたことがある人に嫌な思いを引き起こした場合は申し訳ありませんが、このメッセージがどのように私に届いたかを共有させてください。 私はここ数週間神と一緒に多くの時間を費やしてきました。それはすばらしいことです。
「よく聞こうとするときにはもっとよく聞くことができる。」自分のためにももう一度言わせてください。耳を傾けて聞こうとするときにはもっとよく聞くことができる。 私たち全員が神との最初の出会い、そしてイエスを私たちの心に招いたときの自分の物語を持っています。最初の数人が「イエスを受け入れることを決心した」方法を読んだとき、ちょっとクレージーな感じでした。イエスは言われた、「わたしに従いなさい」。そして彼らはその通りにしました。パウロの場合、彼は光で目が見えなくなったともいえるでしょう。彼にはその瞬間がありました。彼らはすべて、言葉で説明するのは難しいかもしれない、人生を永遠に変えたような何らかの経験をしたに違いありません。 私の場合はそれほど劇的ではありませんでしたが似ています。私は教会外の非キリスト教徒の家で神に会いました。落ち込んでいて疑いを抱いていたときに神が私のところに来るという夢を見ました。私は戦いに巻き込まれました–いいえ私は殴られました。私は生徒の指導者の一人だったので学校でルールを施行しようとしていました。そしてそのことを誇りに思っていました。私を知っている人は、私が自信家とかあるいは傲慢だと言ったかもしれませんが、誰かが私の鼻を殴っただけで、肉体的にも感情的にも精神的にも動けなくなってしまいました。その夜、夢の中で神が私のところに来て、「ついてきなさい。私をあなたの父親にさせなさい」と言われました。 翌日、古い聖書を見つけて読み始め、がらんとした野外でひざまずき祈りました。どうしてそうしたのかわかりませんが、私の中で何かを満たしているようでした。 中学から高校まで通った7年間は私と神様にとって新婚旅行の時期と言えるでしょう。ティーンエイジャーの課題をたくさん抱えていましたが、そのすべてにおいて神はとてもリアルで、私に驚くべきことを行ってくださいました。 私がストーカーという言葉を使った理由はこれです。神を研究し、神についてよく知っている多くの人がいますが、時にはそれが愛のように感じられないように見えます。悪気でも不快にするつもりもありませんが、手に入れられるはずだったものを逃してしまったことはないでしょうか。私たちは皆、時々少しの揺さぶりが必要です。ストーカーは誰かについて多くのことを知っています。どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、どこの学校に行ったかとか。ソーシャルメディアアカウントを見ているかもしれませんが、その人物との親密さは欠けています。 彼らはストーカーです - 心のつながりがない情報です。 数年前、私はクリスチャンではない人に会い、私たちは話していました。彼女は言いました 「まあ、良い人でいることが肝心よね」 そうなんですか?それはどういうこと? 彼女は言いました「十戒を守ること」。 それで私は言いました、本当?それで十戒とは何ですかと私は聞きました。 彼女は言いました、「あなたが扱って欲しいと思うように他人を扱う、嘘をつかない、盗まない」。 彼女は行き詰まりました。 私は率直なアメリカ人クリスチャン議員とのこのインタビューが大好きです: http://www.cc.com/video-playlists/kw3fj0/the-opposition-with-jordan-klepper-welcome-to-the-opposition-w--jordan-klepper/tlf8t3 5:00から6:12 ほとんどの人が見逃すものを知っていますか? 最初の4つはすべて神についてであり、他の人との付き合い方ではありません。自分でテストしてみてください。 最初の4つすべてを言えましたか? それは宿題にしましょう。 今朝読んだようにここで重要なことを抽出しましょう。 申命記6:5(AMP)あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 何度も読みかえすと、少し圧倒されていると感じるかもしれません。どうしたらそれができるのでしょうか?今日私たちが黙示録2章で読んだ別の聖句は、教会は良かった、悪くなかった。 良かった、ただ彼らは一つのことを欠いていました。それは何でしたか? 4しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。 これが私のポイントです。教会はしばしば神について勉強し、学びます。しかし私たちは覚えておかなければなりません:私たちは神を愛するはずの存在です。それは困難でありえます。一緒に過ごす人たちを愛することだけでも難しいと感じる人も私たちの中にはいます。目に見えない誰かよりは間違いなく易しいはずなのに。 しかしそれが大きな戒めなのです。 私たちは神を愛する存在であるはずです。 単にファンではなく従う人、フォロワーです。キリストには多くのファンがいましたが、フォロワーはほとんどいませんでした。 あなたは信者ですか、それとも従う者ですか?サタンは信じても従いはしません。 あなたは神を愛し、従うように見えていますか、それともたくさんのことを知っているだけの人ですか? 1コリント人への手紙8:1は「我々は皆知識を持っている」ことは知っています」と言っています。しかし愛が築き上げていくのに対して知識は膨らむだけです。 そのことを感じますか?単純ですが難しい。先日私たちの共有と祈りのセッションの時に何人かに話しました。 私が大学にいたとき、ある運動を始めた有名なフットボール選手がいて、キーフレーズは「私は3番目です」でした。最初に神様、家族が2番目で、そして自分が3番目。 それである日、私の友人に言ったことがあります。「鏡に貼る小さなポスターを作ろうと思うんだけど、神は3番目(良い日には!)」 「なぜなら彼の前に働くこと、運動すること、そして多分ガールフレンドかも。」 その聞こえ方に笑いましたが同意しました。 私たちは神が一番であるようには見えませんでした、ですので鏡の小さなシールをそれぞれ作って、気に障ってそれを替えようと思えるようになるまで貼っておきました。 それはしばしば必要なことです。少し後になるまで自分たちが間違っているとは思わないことがよくあります。私がもし黙示録にあるその句が言及しているエフェソの教会のメンバーだったとしたら、私は傷つきショックを受けるでしょう、でも運が良ければ悔い改めてそれを見るでしょう。 確かにあなたは良いことをしていますが…。 でなければ見るのは簡単でしょう。 それがトリックです! 黒と白は簡単です、灰色はわかりにくいです。パウロはすでに「神の人」だったために行き詰まったのでしょう。そうだと思います。しかし彼は何が欠けているのかを見ることができませんでした。彼の知っていることが、知らなかったことを見るのを失敗させたのです、光に打たれて目が見えなくなるまでは。 あなたが恋人というよりストーカーであるなら、希望がないということですか? 決してそうではありません。神は慈悲と恵みの神ですから私たちはとても幸運で幸せです。悔い改めるのであれば、それを見るのであれば、変わります。神の恋人になることができます。間違いありません。 ですから私たちの誰もがパウロのように盲目になる必要がないことを祈っていますが、あなたにある一時があることを祈ることができます!「私たちは親しいですか?」 とあなたが神に尋ねるように。 あるいは田渕先生が最近メッセージで数回尋ねられたように「どうされていますか?」 と。 ケリーと私はたくさんの結婚修養に行ってきました。私たちはいつもとてもたくさんのことを得ます。すばらしいことです。特に私たちはいつもとてもうまくやっていると私は思っているので!常に! しかし私たちは長年、チェックのために1年に1度週末を予約してきました。私たちの関係にとって常に新鮮です。おかしいですが、時間をかけて確認すると、見逃したものを見つけることになります。 そしてここでひとつお話ししていいですか? 多分10年前にKUCに来ていたインド人夫婦についてです。私たちは友達でした、素晴らしい家族、素晴らしい結婚関係で、明らかにお互いを愛していました。彼らはいわゆるお見合い結婚でした。 何かをキープするにはそのことに働きかけないといけないですね。 ですので感情がすべてではなく心を優先させることなのです。頭と一緒に。 それで、あなたは神を愛していますか?神はそのことを知っていますか?あなたはそのことを見せますか?私が初めて日本に来たとき、以前に共有したことがあると思いますが、私にとっては幸せな時間ではありませんでした。私は逃げて、めちゃくちゃでした。私は神と再会して、他のすべてを修正しようとしていました。 以前はとても忙しかったのですが、自分を再起動したときに1日の最初の1時間は神と一緒に過ごすことを神に約束しました。そしてそのことは本当に私と神をまた結びつけてくれたのです。時には歌を歌うこともありますが、私をご存じであれば想像するのは本当に難しいでしょうが、神を幸せにするかもしれない、私たちをより一層近づけてくれるかもしれないと思ったので私はそうしました。 それであなたが今考えているように私が望んでいることは、「神様、私たちは大丈夫ですか? 私があなたを愛しているのをご存知ですか? そうですね、私は実際にはそれを言いませんが、あなたはご存じですか?」 うーん。 私がカウンセラーであり、あなたがより良くしたいと思っている関係にあったなら、私はいくつかのことを提案させていただきます: 1. 時間をかけて聞く 2. 時間をかけて共有する 3. 一緒に物事を行う 4. あなたのパートナーが示して欲しいと言う方法であなたの愛を示す ヨハネによる福音書10:27:わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 あなたは従っていますか?あるいは知っているだけですか、信じていますか? ヤコブの手紙2:19:あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。 次のことはどのように見えますか? 私たちはどのように見え、神への愛を示しますか? 面白いのは、教会やその他の通常のこととはほとんど関係がなく、おそらく次の2つの箇所で最もよく説明されているからです。 マタイによる福音書25章とイエスの羊と山羊の物語。「祈りを祈って」教会に行ったら、羊か良い羊になると想像する人がいると思います。しかしイエスが言われたことは少し怖いです。それは目覚めの瞬間でありえます。 イエスは私たちが他の人たちをどのように扱うかに基づいて判断されると言っています。非常に具体的に言うと、下方にいる、外れている、いわゆる「最も小さいもの」である人たちです。 私たちが他人を愛するかが重要であり、それが神が定義される方法、あるいは私たちに表すよう願われていることです。 マタイによる福音書7:21-23 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 私が奇跡や人々にもたらすことのできる祝福愛していることをご存じでしょう、でもそれ以上のことがあります。信じる以上の、勉強や知ること以上の。 今日の私たちのための私の祈りは、このメッセージに心を開くことです。神の中間報告が届くように祈っています。私はどのくらいできているでしょうか? ダビデが詩篇139:23-24で祈ったように。神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。 御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうかわたしをとこしえの道に導いてください。 さあ、実際に祈りましょう。 神よ、あなたがあなたの言葉と聖霊から私の心に植え付けられたこのメッセージに感謝します。私はそれが私のためだけでなく他の人のためであることを知っています。ですからこれを聞く人すべてが「目覚めて」、私たちがどうしているか、どのように従っているかを確認するのを切望するように祈ります。私たちの集まりの中で誰が困っているのか、私たちが見落としている可能性のある人々を見ることができるように助けてください、そして私たちの更新を促すものとして、このメッセージを用いれるように助けてください。アーメン。 もし祈りを必要とされていたら、誰か一緒に祈る人を必要とされていたら、このスクリーンにあるボタンを押してください。私か誰か他の牧師がともにお祈りします。 あるいはこのメッセージのディスカッションに加わりたいと思われれば、礼拝後のアダルトサンデースクールをZoomで行いますので、Notesのタブにリンクがあります。 AKIKO: 結婚12年の間に、口論や喧嘩した辛い日の後にいつも喜びと笑いをもたらす出来事があったよね。そう、どんな夫婦にもあるような。時に喧嘩になったり言い争ったりしたわね。
DON: ああ、私はこの話、分かったよ。「サウス・ニャーオ(猫の鳴き声)・ストーリーでしょ?」 AKIKO: そう...それよ。私達が大学生だった頃、(私達は二人とも同じ大学に通ってました)、私達二人は町の反対側にある友人の卒業パーティーに行くことになっていのです。 DON: その時点で付き合い始めの頃だったので、僕はかなりワクワクしていたのを覚えているよ。そして、私達にとって、カップルとしての最初の本当のお披露目となる機会だったのです。 AKIKO: もちろん、これはBC (クレアの前に!) 3年か4年頃の暗黒時代に戻ったよね、つまり、GPSのようなもののない時代。Googleマップなし、車のナビなし。そして、私達はどこに行くか少しも手がかりがなかったんです。私達二人ともこの場所に行ったことがなく、本当に行ったことのない地域にある町でした。 DON: それでアキコは友人に電話して道順を聞き出し書き留め、私達はパーティーに行きました。最終的に… AKIKO: ええ、私達はパーティーに行ったのです。最終的に、着いたのは着いたのですが、道中はちょっとした冒険でした。私達は車に乗り込み、私はドンに道順を書き留めた紙を手渡し、私達は運転を始めました。そして、私達が道順のリストをたどっているうちに、徐々に道順が混乱して次にどう行っていいのか分からなくなりました。 DON: 最初の数か所の道のりはいとも簡単に見えました。「この通りに行く。右に曲る」などですが、しばらくすると、多分そうだろうのような憶測となり始め、以前よりはっきりと道順が示されていませんでした。道順を書いた紙の最後の行には「角を曲がれ、サウス・ニャーオの場所に行け。」 AKIKO: 説明させてよ! 私の友人は私が聞いたことがない道路名を言うものだから、私はその英語の綴りを知らなかったの。それで、私は聞いたままのことを書き留めただけなの、それがサウス・ニャーオだったとは気が付かなかったのよ。 DON: 振り返ってみると、それは可愛いものでした。もちろん、その時には..それは超役に立つものではありませんでしたが。 AKIKO: そして、正確にいつにどこで曲がることを伝えるGPSが私達になかったので、私は目を一杯開いて各道路標識を読み、ランドマークを探し、どこで曲がるかを判断しなくてはならなかったわ。適確でよく書かれた道順とは言い難い、道順は分からないとね。適確な道順だとしても、「サウス・ニャーオ」の部分はいただけないね。 DON: 分かるでしょう、あなたが道順を書いている間、私はいつもあなたが私の超かわいい猫に気を取られたと思っていました! 彼女はとてもかわいい。 AKIKO: クスっと笑う DON: もちろん、たとえ適確な道順だとしても、正しい道のりを見つけるのは一苦労します。私達はその道順さえ与えられていなかったのを認めざるを得なかったのです。 AKIKO: もちろん、私達は最終的にパーティーに行きました。 DON: 小さな口喧嘩の後、たくさん間違った道を曲がり、そして15分の運転で済むところを、1時間以上かかったこと。 AKIKO: しかし、私達は到着しました! 私達はパーティーに着いたのですが、たぶん最後の10分間にしか間に合わなかったのです。やっちゃった…。 DON: それからまた、今度は反対に家に帰る道を探さないといけないので、私達は最初からやり直さなければならなかったね。短いはずの旅路が長くなり、楽しいパーティーをすごく短いお祝に変え、また長い旅路へと切り替え、私達は再び道路に戻ったよね。 AKIKO: ふり返ってみるとちょっと面白くおかしいですが、当時は..それは疲れ果てていました。私達は、もうすぐそこに到着すると感じるんですが、事態は益々混乱し、パーティーに着いた時は、私達が本当に到着したようには感じなかったわ。それは道すがら、ちょっと立ち寄ったような感じだった。そして、この疲労困憊と面白味の組み合わせは、おそらく、何か私達の多くにとって信仰の旅路でよく経験することかもしれませんね。 DON: イースターシーズンから抜けて行き、私達はたくさんのお祝いの言葉を使いました。私達は「復活したキリスト」について話し、私達自身を「イースターピープル」と呼び、その言葉を聞くと、勝利の言葉と思うかもしれません。「復活」という言葉を「パーティータイム」とすり替えて聞いてしまいます。 AKIKO: 私達の多くにとって、「キリストは復活した。」は、「あなたは到着しました。」と言うGoogleマップのように聞こえます。 DON: しかし、私達は本当に到着していませんね。実際、福音それ自体、聖書におけるこの瞬間は、物語の途中でしかなく、終わりには程遠いのです。 AKIKO: (その通りです) 今日の聖句はルカの福音書の最後の部分で、しばしば物語の終わりのように感じますが、ルカの福音は実際にはずっと長い書の前半に過ぎません DON: はい、書の全文は「医師ルカ」(医学の教科書のような形態でこれらの本が書かれたあるので、彼を医者と呼ぶ)によって書かられており、それはイエス・キリストの人生とイエスの弟子達の行動を記載しています。 AKIKO: だから、使徒言行録は実際には「ルカの福音第2部:使徒の働き」です。 DON: 大きな予算のハリウッドの続編です:ルカII編:これは個人的なコメントです。 AKIKO: まあ、ドン。 DON: もっと続けてやれるよ! AKIKO: ええ、分かってるわよ。でもあなたの言いたいことは、この大切なイースターの復活は物語の中間点に過ぎず、終わりではないということですよね? DON: それが言いたかったのです。はい。そして、復活が起こった後、幾つかのかなり厳しい領域へと進むわけです。実際、今日の聖書箇所ではないけれど、キリストへの信仰のために使徒ステファンの処刑に関してもそうです。 AKIKO: いや~それは母の日に相応しくないわ。 DON: そうねだ、相応しくないね。正直に言うと、かなりよろしくない。しかし時が来て、話がその方向に進むのです。次の2つの物語は「使徒たちは小集団活動を維持し、そしてユダの代わりの者を投票する」で、ペンテコステへと続きます。そう..、使徒の物語はペンテコステを通ってかなり暗黒の領域へと移ります。 AKIKO: その後の教会の物語も同じね。 DON: その通り。つまり、使徒言行録の終盤の後、初期の教会にとって次に起こる主要な「出来事」は、ローマ帝国によるエルサレムの落日と初期キリスト教の撲滅で、続いて何世紀にもわたるゆっくりとした成長と迫害が続きます。正直にいうならば、復活後のパーティータイムどころではありません。 AKIKO: これは福音を通して、それ以降の人々にとって驚くほど共通のテーマなのです。キリストを目撃した多くの人々、彼の信者の多くにとって、シュロの日(パームサンデー)は、初めて偉大な勝利の瞬間であると思われたものでした。待望のメシヤ(救世主)の到来。GPSが「あなたは到着した」と言うのように、それはパーティーの始まりの合図になるはずだった。救世主は到着したので、彼らはもはや混乱した道順に従う必要はありませんでした。 DON: 旅路は終わった! だが…、ちょっと私達の小さな冒険のように、事態は少し驚くべき曲がり角を取ったのだ。物事は計画通りに進まず、弟子達が期待していた新しい時代は数日しか続かなかった。その後、暗闇は報復と共に戻ってきた。マップクエストは彼らをパーティーではなく十字架、墓場へと導いたのです。 AKIKO: マップクエストって皆、覚えてます? DON: 笑い声、多分覚えてないでしょう! それはGoogleマップが出る前の暗闇の時代に、私達に場所と方向を示すウェブサイトでした! DON: しかしその後、これらの弟子達が十字架の苦しみと墓の屈辱を通り抜けた直後、突然、どこからともなく、キリストの復活のニュースが来ます。未確認、不確実…しかし、どこか少し希望があります。あなたが不慣れな通りをナビゲートしようとしているときのように、どこにいるのか、どこに行く必要があるかを分かり始めている感じがすると、とりあえず希望に満ちた気分になります。しかし、あなたにはまだ確信がないような。 AKIKO: 今日読んだ聖書箇所の弟子達の立ち場でしょう。そして、突如..主がそこにいました。主イエスは彼らと一緒にそこにおられ、全てが再び軌道に乗ったようです。 DON: そして、主イエスは、私が彼女の指示に疑問を持ったとき、特定の誰か (*アキコ*を見て*) が言ったことをかなり正確に言います。主は「見よ、もう一度道順を見なさい。これが常に私達が行くはずだった方向です。十字架、墓、これらは間違って曲がったわけではありません。あなたは長いパーティーへ行くのに短時間のドライブを期待していました。だがそれは私があなたを連れて行く所に到達する方法ではないのです。」 AKIKO: そう、私達はその部分を過ぎたので、次の行動は福音、良いニュースを広めることです! イエスが戻ってきた今、そのことを使徒が実行するために呼び出されたのです。救世主が戻って来られたので、国々に悔い改めと赦しを宣べ伝えよ! DON: もう一度それらの「方向」を見てみましょう。それは本当に言われたのですか? AKIKO: 実際…。いいえ。イエスは弟子達にそうするように言いませんでした。それは消極的な声で「悔い改めと赦しは宣言される。(宣言済み) 弟子達はその宣言に参加するように命じられたが、それを宣言する人ではありません。」 DON: まあ、彼らがそれを宣言したかどうかにかかわらず、ここは彼らが輝く瞬間です。これは、彼らが対外的にキリストの復活の福音を宣べ伝える力を与えられた箇所です。さあ今や、伝道する時が来た! AKIKO: ふーん、ちょっと聖書を詳しく見ると、主イエスが実際に弟子達に「エルサレムの都に留まっていなさい。」とおっしゃっています。 DON: ふむ、復活した主イエスに出会い、それで、待つとは? それはおかしいじゃないですか。まるで間違って角を曲がったように聞こえる。 AKIKO: でもそのように言われていますよね?「いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」ほらそこに、白と黒で記載されてあります。(古い聖書のお持ちの方は赤と白でしょう)私達は、御言葉を広めること、キリストについて人々に伝える仕事、世界に出て行き伝道し、聖職につくことに多々意欲的になりすぎて、非常に重要な最初のステップを見過ごしているのです。 DON: 私達はとてもワクワクして、立ち止まることをすぐに忘れてしまうのです。待つこと。道のりを見ること。そして、それらを見るだけでなく、理解すること。それ自体、意味をなさないかもしれないので、それらを理解するために助けを得ることです。 AKIKO: 使徒達は皆、聖書と預言書を知っていました。彼らはヘブライ語の聖書を熟知していました。ところが主イエスが聖書を理解するために彼らの心を開くまで、彼らはまだ聖書を理解できていませんでした。使徒たちが聖書を使い世界で神の業をさらに述べ伝える前に、彼らには、聖書を解釈し、理解するのを助けるためにイエスが必要でした。 DON: あなたは世界で最高の道順を持っていても、誰かがナビゲートしてくれないなら、どこにも到着できません。 AKIKO: そして、たとえ一旦、道のりが理解できても、時には待たなければなりません。あなたがいと高き所から力を着せられるまで待ちます。あなたが力と権威、そしてあなたが求められていることを行う能力(多分、供給源)を与えられるまで待ちます。そして、この力は私達の全能の神からしか来ません。 DON: 道順は左折すると言うかもしれませんが、交差点に着くまで待つことを知らないと、誰かの家に車で突っ込むことになります! AKIKO: 私達の旅路で他の家に車を突っ込まなかったことは良かったです! しかし、復活後の世界でイースターピープルであるということは、ほんの短いパーティーに出られて、助けとなるGPSなしで、自分の裏道をナビゲートしているようなものです。 DON: はい! 私達は高速道路を利用できません。私達は慎重に道順を調べ、多くの赤信号で停止し、間違って曲り、二回戻り、サウス・ニャーオ、口論し、誤解し、車を道の片側に寄せ、事態を把握し、もう少し待ち、そして最終的に私達はそこに着くのです。 AKIKO: そして、それは感情的にもイライラする旅路になるでしょう。弟子達にとってどんな状況だったか考えてみてください、キリストの喪失を悲しんで、混乱し、主の復活の知らせに感動し、そして主は創造主の神と共にいるために、彼らを残していくと聞くのです。 DON: キリストが約束された来たるべきものは、ここで更に重要です。少し後の使徒言行録1章49節では、約束についてもう少し詳しく説明し、そこで彼は「いと高き所から力を着せられる」について話しています。主は聖霊による洗礼について語っておられます。 AKIKO: 主は3週間後に祝われるペンテコステについて話しているのです。 DON: これは、新しい時代に大きく曲がる角であります。 AKIKO: しかし、彼らはそれが起こるのをそこで待たなければならなかった。 DON: それがキリストの証人になることです。弟子達は地上で、主と一緒に宣教活動をして時間を過ごしていました。しかし、彼らはこの時点まで証人として呼ばれることはありませんでした。今までは、彼らは従者として呼ばれました。 AKIKO: 彼らは復活を待たなければならなかった。そして、彼らは個人的にそれを経験するのを待ち、それが彼らのアイデンティティの一部になるようにしなければなりませんでした。ほら、聖句は彼らに「目撃する」とは言わず、彼らが「証人である」と言います。これは必ずしも能動詞でも、動詞でもありません。それは説明する形容詞で、存在の状態を表しています。それは、彼らがキリストと一緒に旅に出て、学び、見極め、観察している状態を意味します。それは、彼らが印刷された道順に従っていることを意味し、時には赤信号で停止しますが、常に神の約束が、私達が見ることができるものよりもはるかに大きな何かに根ざしていることを知っているからです。 DON: 神とのこの旅、それはスタートとストップの繰り返しの動きです。集まりそして出かける、いつも同じことをしているわけではありません。私達は常に伝道、説教、教え、宣言或いはそのようなことをしているわけではありません。私達は手を差し伸べ、また集まります。私達は神を賛美し、共に祈ります。私達のクリスチャンの生活で証人であり礼拝することは、信仰の旅路の一部として同時に行われます。 AKIKO: 贖いと赦しがすべての国に宣べ伝えられるために、私達に求められるのは、静まり、忍耐強い識別力を持って、神の御心と御言葉に耳を傾けることです。私達に求められるのは、ナビゲートすることであり、イースターのメッセージが重大な召命から始まらないことを知りながら、私達の進む方向を見極めることです。イースターのメッセージは、家に帰って待つと言う命令から始まります。主を待つこと。そして神があなたを呼ぶ場所があなたの家となります。 DON: これは本当に、私達自身よりも神の判断を信頼し、自分で世界を変えようとするのではなく、神の力にゆだねるという意味ですよね。 AKIKO: これが、復活したキリストの働きによって、私達がイースターピープルであることを意味します。私達はそれを所有するのではなく、構築する者としてではなく、キリストの贖いの業を担うものとして外に出ていくのです。 DON: 復活したキリストの証人として世の中に出て行くことは忍耐の行為です。それは鍛練を積むことです。私達はキリストと共に復活した喜びに満ちた人々です。私達は贖い主が生きておられるのを知っています! しかしながら私達はまだ旅路の終わりにいないことを知る必要があります。もうすぐそこに着くと心をかき立てすぎると、早く曲がって道を見失うかもしれない。さらに悪いことに、私達は誰かの家の中に突っ込んでいくことになります! AKIKO: だから、今日出かける時、キリストの言葉を人生の旅の「地図探求の方向」として、私達は忍耐強くあることを覚えましょう。ナビゲートの助けを求め、自分で全てを理解しようとしないでください。思いがけない曲がり角、不慣れな標識、見知らぬ光景、時には..私達は正しい道を行くかどうか分かりません。時々、私達は立ち止まってしばらく置いておくように言われることがあります。時には、神の贖いの業を証しする忍耐強い人々として世に送り出されることもあります。 DON: 私達はキリストにおいて、与えられた希望を持っています。私達は、忍耐強い場合、自ら引き起こした感情に基づいて行動する前に少し待つ、すると、いと高き所から力を着せられるという約束を持っています。私達は聖霊の洗礼を受けるでしょう。 AKIKO: 神は、私達に待て、耳を傾け、正しい方向を見極め、神だけが与える恵み、慈悲、愛をもって私達の道を進むように呼びかけています。 DON: これが歴史の上でも、また今日においても、私達に神の啓示が与えられるやり方です。アドベント(降臨)の前の寒い冬に、神の約束は赤子の王であった。その子の誕生は私達をクリスマス・ピープルにしました。 AKIKO: 十字架の予兆において、神の約束は新しい命であり、復活する者であり、それが私達をイースターピープルにしました。 DON: そして、復活したキリストの弟子として、神の約束は、いと高き上から力を着せられ、御霊の洗礼を受け、私達はペンテコステ・ピープルになります。 AKIKO: この旅路において、常に神の民は待っています。クリスマスを待ち、復活を待ち、御霊の降臨を待っています。私達は待つことによってキリストの証人になります。神が行きなさいと言うまで待つのです。 DON: 神の愛は私達と共にあり、召命を実行するまで、聞き従い、見極めながら待つことになります。その行いは、時間や場所が変わると異なって見えるかもしれません。それは私達が左または右に曲がることを求められるかもしれません、それはしばらくの間停止するように注意を向けられるかもしれませんが、私達を導く方向は常に同じです: 愛が初めにあり、愛が優先します。 AKIKO: 今日、私達はパンデミックを通して私達の道を待っています。私達の家で待っています。日常生活が再開されるのを待っています。私達の教会にとって、このイースターシーズンの「新しい生活」が静かな忍耐の一つであることを意味するかもしれません。新しい礼拝、つながり、祈り、聖書の学びの方法が現れ、神が私達の前で未来像及び計画、それはこの新しい異なる世界で神の教会の意味を更に明らかにするまで私達は待ち続けるでしょう。 DON: 他の人にとっては、待つ時間が終息となる方もいます。一部の人々は、全く新しい違った方法で、別の場所でその新しい命への証人となるために呼び出されるでしょう。 AKIKO: クリスチャンとしての旅路は続きます。主を待ち望み、そして復活の証人になるという呼びかけに結束して良い時と悪い時及び苦しみと喜びを通して常に変化しているのです。 BOTH: アーメン おはようございます。今日も私はいつもの御挨拶でお話をはじめます。「いかがですか?」「いかがお過ごしですか」「お家でどうされていますか」
ところで皆さんのお宅にはマスクがご家族分、十分にありますか。しばらく私は、近所の薬局ではまったく見つけられませんでしたし、待ち遠しいアベノマスクもまだ届いてはいません。しかしちょっと近くに買い物にでると、ほとんどみなさんがマスクをしておられ、いったいそれらをどこで買われているのかなと思わされもしています。 そんなとき、ニューヨークの私の娘が何箱かのマスクを送ってくれました。彼女とその連れ合いは、もう家から出ることなどできないので、マスクなんか使わないというjことのようです。いずれにしても、日本に住む私たちはまさに自宅に軟禁されているような状態ですね。「ゴールデンウィーク」、日本ではいつもなら外に出て、温かい日の光と新鮮な空気を思う存分楽しむ季節ですが、今年は政府もそれぞれの府県も「おうちにいましょう」週間ということになってしまいました。 昔読んだC.ルイスのナルニア国物語の『ライオンと魔女』のなかの、クリスマスの来ない冬、という感じが分かるような気もします。私たちの今をそれに当てはめて言うと、もうイースターの日曜日は過ぎているのに、まだレント(受難節)の時をすごしているよう感じ、とでもいうのでしょうか。 いいえ、それは間違いです、私たちはイースターの祝福を、今、この時にも見失ってはいけないのです。 イースターの日からずっと、私たちは神戸ユニオン教会の牧師チームのメンバーから、たくさんのイースターメッセージを聞いてきました。そしてクローディア牧師は、私たちがい――スターピープルだということを教えてくださいました。そこで私もきょう、私たちがイースターピープルであるということを別の面から考えてみたいと思います。 みなさんは、なぜ私たちが毎週日曜日に礼拝をしているのか、考えたことがありますか? 月曜日でもなく、木曜日でもなく、イスラム教のように金曜日、あるいはユダヤ教のように土曜日でもないのです。創世記1章の天地創造物語によると、神様は世界を6日間で創造され、7日目に休まれました。これに従ってユダヤ教では一週間のうちの7日目、土曜日がお休みです。クリスチャンはこの聖書の習慣に従って土曜日を安息日とはしなのでしょうか? なぜ日曜日なのでしょう。それはイエスの復活の日だからです。イエスは金曜日に十字架につけられ殺されました。そしてそれから三日目に死からよみがえられたのです。復活こそキリスト教信仰の核心で鍵となるものです。それはイスラム教やユダヤ教が決して受け入れない独自のものなのです。ですから一年を通して、それがどのようなときであっても毎週日曜日に私たちはイエスの復活を祝います。 このように、教会はイースターの日にだけイエスの復活を語るのではなく、日曜日ごとによみがえりの主を礼拝するのです。どうぞイースターは一年一度だけの特別のものとしてだけではなく、いつもの、毎週のイベントだということを覚えていてください。私たちはそのことをすぐに忘れてしまうのです。 福音書の物語を読んでいくと、イエスの弟子たちも私たちと同じように、自分たちが何者なのかをすぐに忘れてしまいがちでした。今日の聖書の箇所では、ティベリアス湖、つまりガリラヤ湖での小舟での出来事でした。 私は聖地旅行をしたことがありませんが、昨年ひろ子さんが行かれましたので、それがどんなところなのか聞いてみて下さい。 そこでは急に突風がてボートで沖に出ている船乗りや漁師たちに襲い掛かるということがあると言われています。イエスとその弟子たちもまた突然の気象の変化にまきこまれました。弟子たちは非常なパニックに陥りました。でもペトロやアンドレはもともとガリラヤ湖の漁師であり、そんなときにどうすればいいかを知っていたはずなのにと思いますが、それぐらいすさまじい突風だったのでしょうか。 でもそのときイエスは安らかに眠っていたのです。祖に気づいて弟子たちはイエスに叫びました、「主よ助けてください、おぼれそうです。」。そこでイエスは「信仰の薄い者たちよ。なぜ怖がるのか」と応えられ、嵐を静められたのです。 弟子たちはそのときまでずっとイエスに従い、一番近くでその言葉、福音の教えを聞き続けてきていまいた。そして一番大事なときにその教えに従うことができなかったのです、「信仰の薄い者たち!」 彼らはイエスと一緒でした、でもそれが誰で何者かということが分かっていなかったのです。 その同じことが、イエスの死から復活までの間に起こりました。さっき申し上げたように、イエスは曜日に殺され日曜日に復活しました。時々私たちは使徒信条のなかでもこのように告白をしています。: 「(主イエス・キリストは)、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、 三日目に死にのうちよりよみがえり、」 この三日間の間に、少なくとも、あるいはイエスが捕らえられたときから、弟子たちは何をしていたのでしょう、どこにいたのでしょうか。ヨハネ福音書によると、それはクローディア牧師がイースターの礼拝で語られたことですが、彼らは「ユダヤ人を恐れて、…家の戸に鍵をかけて」隠れていたのです(20章19節)。 彼らはその間、不安と恐れのうちに、あるいはイエスを失ったショックのなかで、これからどうすればよいのかもわからずに過ごしていたのです。そこによみがえったイエスが現れますが、あの信じないと言ったトマスが示しているように弟子たちは何がおこっているのかを信じることができず、イエスが彼らに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られたのです。 十字架の死を迎えるかなり前に、イエスは何度も「エルサレムに行って、長老、祭司長、率法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16章21節)と弟子たちに教えておられました。 しかし彼らは主から聞いたそのことを完全に忘れててしまっていました。彼らが苦しみ、悩み、大きな喪失感のなかに陥ってしまったとしてもイエスは、次のこと、彼らのこれからに目を向けるようにと教えられていたのですが、そのことを弟子達が、そして今私たちも見過ごそうとしているのです。 イースターピープルは、キリストの言葉に深く根差している希望を持って生きるのです。そして世界のはじめから私たちとともにある神の言葉の真実性への自信や確信を失うことはないのです。 しかし福音書の物語のなかには、わずかですがイエスへの信仰を持ち続けた人がいます。その一人がマグダラのマリアで、十字架の死の時、またイエスの埋葬にも立ち会っています。そして三日目に彼女は墓に出かけ、そこがからっぽなのを見つけます。それどころかイエスご自身と出会い、「私は主を見ました」(ヨハネ20章18節)という、すばらしいGood News の最初のメッセンジャーとなったのです。 私たちはこのコロナウィルスが蔓延するこの数週間、今日の礼拝までのうちで、どこでみなさんがイエスと出会われたのでしょうか、と問いかけたいと思います。ドミニック・木村さんの証も伺いました。どうぞみなさんも3分ぐらいの、イエスとの出会いについての短いビデオメッセージを送、牧師あてに送ってくださいませんか。お待ちしています。 このとき、私たちは日々の生活が嵐にさらされているような思いを持たされます。決して同じボートに乗っているのではないですが、しかし同じ嵐のなかにいます。でも私たちは孤立してはいません。よみがえりのキリストが共におられ、決して私たちから離れてはいかれません。 祈りましょう 憐み深い主よ、この日曜日を感謝します。私たちはあなたにお会いすることができ、私たちの次にむかっての歩みを踏み出すために。あなたからの語り掛けを聞くことができました。励ましと希望の言葉を聞くことができました。 どうぞいつもともにいてくださり、私たちを災いから守り、私たちのためにお祈りください。それによって、私たちもこの信仰によってつながるコミュニティのお互いのために祈ることができます。 この感謝と祈りとを、よみがえりの主、イエスキリストのみ名によっておささげをいたします。 アーメン |
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May 2024
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