本日の聖書朗読に関連するイディッシュ民話から、本日の説教を始めてみようと思います。イディッシュ語は現在も、正統派(ユダヤ人)よって話されている言葉です。 ("イディッシュ "という言葉は、ドイツ語の "ユダヤ人 "に由来し、イディッシュ語はドイツ語の方言で、ドイツ語、ヘブライ語、アラム語、スラブ語、ロマンス語など多くの言語に由来しています。-ウィキペディアより)
今回のイディッシュ民話の解釈はこの様な感じです。 「なぜ神はアブラハムにイサクを生け贄に捧げるよう天使を遣わさなかったのか?神は、天使がそのような仕事を引き受けないことを知っていたからだ。その代わり、天使たちは『死を命じたいのならば、自分で行ってください』と言った。」 結局のところ、主の天使でさえも、アブラハムがサラと共に待ち望み、授かり、老後に祝福された待望の最愛の息子を、生贄の子羊のように屠るよう要求することができたのでしょうか? 今日の聖句にある物語は、キリスト教では 「イサクの燔祭」、ユダヤ教では 「アケダ 」と呼ばれています。アケダとはヘブライ語で「縛る」という意味なので、この物語は単に「アケダ」と呼ばれ、ユダヤ人なら誰でもイサクの「縛り」を意味することを知っているのです。ユダヤ教のシナゴーグ(ユダヤ教会)では、これはロシュ・ハシャナ(ユダヤ教の新年)の朗読のひとつでもあります。 (ロッシュ・ハシャナの歴史について詳しく知りたい方は、教会員のロイ・ミスラン氏に聞いてみてくださいね!) なぜ、私が今回この部分を選んだのかについて話したいと思います。亜季子牧師と私は、通常、レクショナリーリーディング(聖書朗読集)に従っており、この箇所は今日の4つの聖句のうちの1つでした。 (レクショナリーリーディングとは、聖書を3年周期で読むもので、多くの教派の教会で使われています。旧約聖書、詩篇、使徒言行録、新約聖書の朗読が含まれているものです。) 亜希子牧師は先週の日曜日、創世記21:8-21の聖書朗読を基に説教をしました。そして、私自身も聖霊に導かれて、本日の説教もこの箇所から始めることにしたのです。 「イサクの燔祭」の話しは「これらの事の後、神はアブラハムを試みた」(22:1)と始まります。「これらの事」には何が含まれるのでしょうか?アブラハムが行ったことのない土地に行くように命じる、神からの呼びかけ、偉大な民族の父になるというアブラハムへの神の約束、妻サラの不妊の長い年月、ハガルによるイシュマエルの誕生、そしてサラが老後に子供を授かった事を知り、「笑った」ことから、「笑い」を意味する名前を持つ少年イサクの奇跡的な誕生。アブラハムにはいろいろなことが起こり、これからも色々起こるという事でしょう。 アブラハムは不本意ではあったが、サラの強い要望により、サラの女中兼奴隷ハガルとアブラハムの長男イシュマエルを追い出します。(創世記21:18-21)アブラハムが行った行為の中でも酷い事であり、神がそれを容認されたとは、私自身は到底思えないのですが、神は次にアブラハムに、こう告げるのです。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」 (創世記22:2)。 これは神にとって奇妙な要求だと思いませんか?イサクは待望の約束の子であり、アブラハムとサラは長い間子供を待ち望んでいました。イサクはアブラハムと共に住んでいる唯一の息子ですが、神は、そのイサクを生け贄に捧げるように言われた。これは、とても衝撃的です。聖書には、子供の生け贄を非難し禁じている記述さえあるのです。(レビ記18:21、エレミヤ書7:30-34、エゼキエル書20:31を参照)愛に満ちた神とは到底信じる事ができません。しかし、神はアブラハムに試練を与えるのです。(創世記22:1)神はアブラハムの信仰と従順を試みたのだと思います。 それにしても、このイサクの生け贄の話(「イサクの燔祭」)には、理解し難い部分があります。 神がアブラハムに息子イサクを生け贄に捧げるように告げ、アブラハムが抵抗もせず、それに従うのです。どちらが正気を失っているのか分かりませんが、私は、神は本当は、燔祭を実行するつもりはなかったと信じていますが、当時のアブラハムはそれを知る由もなかったのです。 そして、この話の間、サラは何処にいるのでしょうか?この 「アケダ 」の話しには、サラは登場しません。言及すらされていないのです。アブラハムとイサクが家を共に出て行った際、サラはまだ眠っていて気づかなかったのでしょうか?サラが話しに出てこない事で、自身の子供の犠牲が間近に迫った悲劇性をさらに高めるのです。 明らかに、アブラハムは、この事をサラには相談しなかったのでしょう。相談したら、彼女が2人が家を出ていく事を承知するはずがありません。サラは詳細を知らないまでも、何かがおかしいと感じたに違いないと思います。 母親として、私は自分の子供を守るためなら命を捧げ、自分の息子を殺そうとする者がいたなら、自分の命を盾に子供を守るからです。(ただ、国のために犠牲となる戦争に息子たちを送り込む人がいるのは皮肉なことですが、この話しについては、別の説教で話そうと思います) しかし、どうしてサラは神を信じることができたのでしょうか?彼女は妊娠前にも一度、神を疑ったことがあります。今回、彼女はアブラハムが神と話しているのを耳にしたのでしょうか? 彼女は何が起こるか予感していたのでしょうか?ユダヤ教のラビである友人は、もしかしたらサラは知っていて、神の聖霊に導かれ、彼らの群れから一番良い雄羊を捕まえてきて、こっそり2人の後をつけ、雄羊が捕まっている茂みに放し、アブラハムがそれを見つけて生贄に使うように動いたのかもしれないとも言っていました。それは、この物語の中で何が起こったかについての別の解釈なのですが、この部分の聖書には、サラの発言や、サラに関する記述は一切ありません。 アブラハムが神を信頼しているように見えるのは、神がアブラハムに、アブラハムの子孫は数多くなると告げていたからでしょう。主はアブラハムを外に連れ出し、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう。」 (創世記15:5)神は、さらにアブラハムに、この様に約束するのです 「地のすべてのやからは、あなたによって祝福される。」(創世記12:3) 今、神はアブラハムが、最初にその賜物を与えてくださった神に忠実であるために、この世で最も大切なものを手放す気があるかどうかを試そうとしたのでしょう。聖書には、「三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。」(創世記22:4)とあります。 私には、父と息子が目的を持ち、互いへの愛と神への愛をもって共に歩む姿を思い浮かべることができるのです。 ここには、自分の生贄のために薪を運ぶ息子の姿があります。イサクはこれから起こることを知っていたのでしょうか?それとも知らなかったのか? ラビたちは何世紀にもわたってこの問いを議論してきました。彼は知っていたのでしょうか?現代の私たちには、イサクが彼の身に起ころうとしていることを知っていたのか、否か推測する事しかできません。東京で知り合ったラビから聞いた話では、キリスト教とは全く無関係ですが、ローマ帝国による処刑を何度も経験した1世紀のラビたちは、この詳細について 「イサクは自分の十字架を背負うように、生贄の薪を背負った。」と言っていたようです。 「アブラハムは燔祭の薪を取り、息子イサクの上に置いた」が、イサクを殺そうとしたとき、主の使いがアブラハムに呼びかけ、彼は 「はい、ここにおります」と言ったのです。(創世記22:11)。(「はい、ここにおります」-ヘブライ語ではhineni。アブラハムが1節で神の呼びかけに答えたのと同じ言葉です。アブラハムは神に気を配り、愛する息子にも同じように気を配っているのです。「はい、ここにおります」 このフレーズは他の聖句でも使われており、今日の閉会の賛美歌として「主よ、ここに私はいます」を歌いますが、これは実はこの箇所からの引用ではなく、イザヤ書6:8とサムエル記第一3:4に基づいています。) アブラハムが天使たちの声を聞き、「はい、ここにおります」と答えます。その答えが、言いようのない安堵と希望であったことは想像に難くないでしょう。そして、主は、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22:12)と伝えます。 幸いなことに、アブラハムはこの最も耐え難い試練に合格したのです。 「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22:12)(ところで、「恐れ」 は聖書ではしばしば 「畏怖」を意味します。「主を畏れる」というように、直訳すると「恐れ」となることが多いのですが、尊敬、畏敬、敬虔を意味することもあるのです。) 「今、私は知った」 アブラハムは神を信じ続けましたが、神を信じて従うかどうかを決める自由意志があったことを忘れてはいけません。聖書は、神はアブラハムがどう答えるかを知っているわけでも、あらかじめ決まっているわけでもないと教えているのです。神がアブラハムにこの一度きりの試練を課したのは、神がこの一人の男にすべてを賭けたからであり、神は彼が忠実であるかどうかを知る必要があったからです。(この議論は、『Getting Involved With God: Rediscovering the Old Testament』(エレン・デイヴィス著)という本で読むことが可能です。) そこで神は、愛する息子の代わりに雄羊を用意します。「それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う」(創世記22:14)ロイ・ミスラン氏が礼拝で時折吹いてくれる雄羊の角笛(ショーファー)がユダヤ教の特別な礼拝で吹かれる理由もここにあるのです。今日の聖句では、ありがたいことに、イサクの代わりに雄羊が犠牲になっています。 (この部分と8節には言葉遊びがあります。 「提供する」と訳されているヘブライ語(ra'ah)は、本来は 「見る」という意味です。つまり、最後の文章は、「主の山で、それは提供され」、または 「主の山で、彼は見られた」と訳すことができるのです。モリヤ山と神殿山との関連性を考えると、どちらの訳も神の臨在と神の摂理について真実を語っていると言えます。(『The Death and Resurrection of the Beloved Son』(ジョン・レヴェンソン著))。 キリスト教にとって、アブラハムの最愛の息子イサクの犠牲は、イエスの死と明らかに関連しています。(そのため、創世記22章はレント(四旬節)とイースター(復活祭)の時期に教会で頻繁に用いられる聖書朗読箇所のひとつであり、グッドフライデー(聖金曜日)に朗読されることもあるのです。)息子を犠牲にするアブラハムの意志は、初期のキリスト教徒にとって、彼の信仰の最も偉大な例の一つとなったのです。 「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。。。。イサクを生きかえして渡されたわけである。」(ヘブル人への手紙11:17, 19)。キリスト教解釈の歴史において、創世記22章は信仰の物語であり、イエス・キリストにおける神の自己献身の伏線として理解されているのです。アブラハムの子、ダビデの子、神の子である最愛の子の死と復活の物語なのです。 「アケダ」として知られる今日の物語は、神が私たち全員に対して要求を持っておられることを示しているのです。私たちが持っているもの全て、私たち自身の命や、私たちにとって最も大切な人の命でさえも、最終的には、最初に私たちに与えてくださったのも神です。神は実に驚くべき神なのです!今回の話しは、神が与えてくださることを保証しているものです。先週はハガルに、今週はアブラハムに、神がどのように与えてくださったかを、お聞きになりましたね。神は私たちにも様々な方法で与えてくださっているのです。人生には失望や乗り越えなければならない試練があるかもしれませんが、神は私たちと共にいてくださいます。神と共にある人生は贈り物であり、神の祝福は惜しみなく与えられるのです。アーメン。 ( 注釈: アケダは、イスラエルの現代詩の多くに登場するモチーフです。例:http://ktiva.blogspot.com/2006/11/poetry-of-akedah.html の詩を参照。)
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祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかないわたしたちの心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたは私たちの岩、購い主です。アーメン
20代の頃、彼氏との悩みを事細かに話してくれる友人がいました。その頃の私は、今よりずっと経験が浅かったが、どういうわけか、実際よりもずっと聞き上手、伝え上手だと思っていました。牧会ケアやカウンセリングの勉強はまだしていなかったし、大学で心理学を学んだこともありましたが、考えてみると自信というよりは傲慢だったのかもしれません。 だから、友人が彼氏のことで心配していること、それもかなり個人的なことを話してくれたとき、私は彼女の話に熱心に耳を傾けました。 そして彼女の心の内を聞きながら、私は彼女の彼氏がどんなにひどい人なのかと考え始めました。そして、彼女の話を聞き終わると、私の意見として、彼氏はもっと違う風に振る舞わなければならないと彼女に話し始めました。 実のところ、私は彼女の彼氏がひどい彼氏のように聞こえたという事実以上に、私たちの会話についてあまり覚えていません。私は彼女に、彼女の彼氏についてどうすべきか、アドバイスやアイデア、提案をいっぱい出しました。 この 「会話 」をしてから間もなく、彼女は私に相談することが少なくなってい来ました。電話をかけてくる回数も、話をする回数も減り、私と距離を置き、以前のように深く分かち合おうとしなくなったのです。 今にして思えば、私は彼女の聞き役に徹していなかったからだとはっきりわかります。自分では聞き上手だと思っていたが、実は彼女が必要としていたような聞き方をしていなかったのです。 なぜなら彼女のためではなく、自分のために聞いていたからです。 良い聞き方はアクティブリスニングと呼ばれ、意図性が必要になります。しかし私たちの多くは、私も含めて、ほとんど自動的に話を聞いています。私たちが何も考えずに呼吸をし、何も考えずにまばたきをするように、私たちの多くもまた、あまり考えずに自然に耳に入ってくることを聞いているのです。呼吸やまばたきと同様に、私たちは聞かない日はありません。 学校でも、職場でも、家庭でも、教会でも、病院でも、友人と一緒にいるときでも、部屋で一人でいるときでも、聞くことは私たちの生活の一部であり、呼吸をするのと同じくらい自然なことです。 私たちは毎日、このように自然に、自動的に耳を傾けている: 私たちはどのように耳を傾けているのでしょうか?私たちは意図的に耳を傾けているだろうか? 教会に定期的に通っている私たちは、神様が喜んでくださることを願って毎日を過ごしています。私たちは、神様が私たちにどのように耳を傾けることを望んでおられるかを知り、神様を喜ばせる生き方、聞き方をしたいと思います。ではどのようにしたらそのことができるのでしょう? 聖書からその答えを学びましょう。 今日の聖書箇所は、私たちが神様に対して、どのように耳を傾けたら良いのかという事だけでなく、私たち人間がお互いに対してどのように耳を傾けたらよいかということに関しても神様は語ってくださいます。 アブラハムとサラは神様から召しを受けます。神様は年老いて、子供がいない二人に対して、子供を授かるだけでなく、数えきれないほどの多くの子孫を授かると告げます。二人が高齢にも関わらず、まだ自分達の子供がいないことを考えると、これはかなり大きなビジョンです。 二人は80代でした。その上、神様が多くの子孫を授かると告げた時から13年ほど待った後、神様はついに二人に男の子を授けます。子供はイサクと名づけられ、イサクは成長し、乳離れをします(創世記21:8)。イサクの乳離れを祝って、アブラハムは盛大な祝宴を開きます。 しかし喜びの祝宴にもかかわらず、サラの目と心は別の事に向けられます。イサクがイシュマエル(奴隷ハガルとの間に生まれた義理の兄)と一緒に遊んでいる姿を見た彼女は腹を立てます。 自分の息子イサクと同じようにイシュマエルも跡継ぎになるかもしれない(創世記21:10)。そんな事になってはならない。だからサラはアブラハムに、ハガルとイシュマエルの両方を追い出すように言いました。 ここで考えてみましょう。サラは何をしていたのでしょうか?彼女は本当に神様に耳を傾けていたのでしょうか? 9節を見ると、サラはイサクとイシュマエルが遊んでいる(英語訳からの表現。日本語訳はイシュマエルがイサクをからかったという記述になっている)のを「見た」とあります。サラは自分の視覚だけを頼りにし、自分の目が見たものに反応して行動を起こします。一時停止して神様に耳を傾けることはせずに。 これが人間の姿ではないでしょうか。私たち人間は皆、このように振る舞いがちです。私たちは何か気になること、衝撃的なこと、動揺するようなことを目にすると、間髪入れずに、行動を起こします。神様の声に耳を傾けることもなく、自分が見たものを頼りに、そこから行動を起こすのです。 私たちは「見る」時、それですべてを知ったと思い行動し、神様の声に耳を傾けることをしない、そういう生き物なのです。 もちろん、今日の聖書箇所を読み続ければ、神様はイサクとイシュマエルの両方に違う計画を持っておられ、それぞれの男子が成長し、どちらか一方だけでなく両方に祝福と繁栄がもたらされることがわかります。イサクを通してアブラハムの子孫が増え、そしてイシュマエルを通してまた違う一つの国民が生まれると神様は語られるのです(創世記21:12-13)。 もしサラがこの神様のご計画を聞いていたら、イサクとイシュマエルがからかい、笑いあうほど仲良く遊んでいても、そのことをそれほど脅威には感じなかったのではないでしょうか? もしサラがあの時、イサクとイシュマエルが仲良く遊んでいるのを見て、自分の恐れに反応するのではなく、神様に耳を傾けていたらどうなったのでしょうか?彼女はハガルとイシュマエルを追い出したのでしょうか?自分が見たことに反応するのではなく、神様に耳を傾けていたら、彼女は代わりにどのような行動を取ったのでしょう? 実際にはそれは起こらないわけです。ハガルとイシュマエルは居住の地を追われます。かわいそうなハガルとイシュマエル。サラは神様のご計画に耳を傾けなかった。そのように思えるでしょう? けれども、誰も義人はいないのです。サラが神に耳を傾けず苦しんだように、ハガルもまた聞こうとはしなかったのです。 何の予告もなく、ハガルは朝一番に自分の子供を手に抱え、仕えていた家から追い出されます。彼女にはわずかなパンと水の入った皮袋しか与えられず、限られた食料で荒野に放たれます。もちろん、そのわずかな食料はすぐに底をつきます。(創世記21:15)ゲームオーバーです。 自分の子供に渇きと飢え、死が迫っているのを目の当たりにし、ハガルはこれ以上見るに耐えられないと思いました。彼女は目の前の光景から、何が起こるのかを推測したのです。彼女は言います。「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない。」そこで彼女は、イシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、離れたところに座ります。(創世記21:16) そこで、彼女は声を上げて泣きました。(創世記21:16) 私たちが経験している痛みがあまりにも圧倒的で、力強いとき、私たちは立ち止まって耳を傾けることを考えることするできないことがあります。私たちが苦しんでいるとき、耳を傾けることは自然に出てくる反応ではありません。私たちは痛みがあり、苦しんでいる時は、叫び、痛みを吐き出し、恐怖や傷や痛みを和らげるような行動を起こすのが自然の反応なのです。 しかし神様は耳を傾けます。そして聞くのです。それはサラの声でもなく、ハガルの声でもなく、ハガルの小さい男の子の声だった。 イシュマエルは生きたいと泣いていたのです。 ハガルの痛みはあまりに大きく、泣き声を通して聞こえる自分の子供の痛みさえ聞こえなかったのです。私たちは、ハガルはなんてひどい母親なのだろうと心の内で裁くかもしれません。しかし、これは人間の自然な反応です。自分の痛みに圧倒され、恐怖に支配されると、他人の痛みの泣き声を聞くことができなくなります。私たちの耳は聞こえなくなり、痛みに支配され、愛と恵みと憐れみを求める神様の声が聞こえなくなってしまうのです。 私にも同じような経験があります。自分が恐れや苦しみの中にある時、私は夫や娘、息子たちの泣き声を聞き逃してしまうのです。恐怖と痛みが大きすぎて、自分の心の声よりも静かに助けを求める声を聞くことができず、さらにはそのことを教えてくれる神様の声を聞くことさえできなかったこともあります。 恐怖と痛みにとらわれるあまり、声なき者、沈黙の中で苦しんでいる者、弱々しい声しか出せない者の声を聞き逃してしまう危険性があるのです. 私たちは見ても、聞けないのです。 しかし、神様は聞かれるのです。一つの声も漏らさずに。神様はハガルの男の子の声を聞きました。他の誰も聞こうとはしなかった声を。 ハガルも自分自身の痛みから、声を上げて泣きました。(創世記21:16)ハガルの声はおそらく、小さな小さなハガルの子供の叫び声よりもずっと大きかったに違いありません。しかし、私たちの声の、叫びの大きさは、私たちの神様にとっては重要ではないのです。神様は、私たちの中で最も小さく弱い者の声に耳を傾けることをまず最初に選ばれるのです。 しかし、神様がハガルの男の子の声を聞いたからといって、神様がハガルのことを責め、気にかけていなかったわけではありません。むしろ、神様はハガルに直接語りかけます。「ハガルよ、どうしたのか。」(創世記21:17)と聞くのです。 神様は、最も小さく静かな者、つまり周囲の誰にも聞かれないことによって命が脅かされている者の声を聞くことから始めます。神様にとって死んでよい命は一つもありません。最後にされている者が最初となり、最初にされている者が最後となるのです。(マタイによる福音書20:16) 恐怖やストレス、苦しみを感じているときに耳を傾けることができないからといって、神様が私たちを責めるとは限りません。それが人間の姿だからです。神様は、恐怖が私たちの耳を聞こえなくすることがあることを知っておられます。しかし、今日の聖書のお話は、私たちが恐れや傷に惑わされ、聞こえなくなってしまう時に、私たちがどうしたらよいのかを教えてくれています。神様を求める、それだけです。 ハガルはわが子の泣き声を聞き逃しました。しかし、神様は子供の声を聞き、ハガルにこのように語ります。 「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」(創世記21:17-18) 神様は、イシュマエルとイサクが一緒に遊ぶことで、2つの偉大な国の間に憎しみではなく、平和と愛が生まれることを知っていました。だからこそ、神様はこの男の子が生きる必要があること、抱きしめられ、ケアされる必要があることを知っていました。ハガルには、彼女と自分の子に死が訪れるとしか思えなかったが、神様には違うご計画がありました。 神はイシュマエルを通して国を建てられる。それが意味することは、私たちの声に耳を傾けてくださる神様によってハガルが奴隷としての立場から解放され、後に王妃とされるというハガルに対するご計画も、怯え苦しむハガルに語られたのです。神様はハガイがイシュマエルを身籠った時、彼女に生まれる子供をイシュマエルと名づけるように言います。なぜならイシュマエルという名前は、「神は聞かれる」という意味だからです。神様はハガイの声も聞いておられました。(創世記16:11) 私たちが耳を傾けようとする時、神様は、神様が聞くようには聞けない私たちが神様のヘルプを求めようとする者たちに手を差し伸べられます。神様は、神様が聞かれることを私たちが聞けるように助けてくださるのです。神様は、神様が見ておられるものを私たちが見れるように私たちを助け、そうしなければ決して思いつかなかったような前進の道を示してくださいます。 今日のお話の中では、神様はハガルの目を開き、二人のすぐ近くにある水のある井戸を見つけるようにされました。神様は、聞き、見ておられるのです。「神様は泣き声を聞かれた」という表現が、17節に2回出てきます。ヘブライ語ではElohim (神様)Shama(聞く)と言います。 聞くを意味する「Shama』というこの言葉は、英語の「聞く」という意味とは違います。私たちの「聞く」という言葉は、私たちの耳に情報が入ってきたということであり、私たちがそれに集中して、聞いたかということは別の話です。しかし「Shama」にはそれ以上の意味があります。「Shama』は、集中し、注意深く、積極的に耳を傾ける、理解し、従うという意味なのです。 耳を傾け、理解し、そして行動を起こす。 ハガルがイシュマエルが死ぬと思い、イシュマエルから隠れて立ち去ったとき、自ハガルは自分が見なければいけない事に耐えることができませんでした。彼女の痛みは大きすぎて、それが彼女を惑わし、近くの井戸さえ見つけることができなかったのです。しかし神は「Shama」、聞かれ、砂漠の中で水を飲めるようにしてくださいました。 「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。 」(創世記21:19) 私たちの神様はなんと力強いことでしょう!もちろん、神様はイシュマエルに直接水を与えることもできたでしょう。しかし、神様はその代わりに、ハガルが耳を傾けたその瞬間に、神様の継続的な救いの御業に参加する方法をハガルに示すことを選ばれたのだ。神様はハガルに、神ご自身に耳を傾け、自分の泣き声より小さすぎて聞こえない、静かな泣き声のために行動を起こすよう招かれました。 これこそが、神の聞き方、傾聴、「Shama」です。 私たち人間は、対象が神様であれ、苦しんでいる周りの人々であれ、神様のように「聞く」つまり「Shama」が必ずしも得意ではないことを認めなければなりません。どんなに努力しても、神様のように耳を傾け、愛することは人間の力ではできないのです。しかし、だからといって、苦しみに留まる人々を神様が慰めてくれるようにと神様に願い、自分は立って見ている、他の人の苦しみは神様が対処してくださるから、私たちはただただ祈っていればいいということでもないのです。 そうではなく、私たちは神様に祈り、神様と対話し、積極的に耳を傾けること、つまり「Shama」ができるように神様を求めることが求められています。神様は、私たちが苦しみの中で、自分達がほとんど理解していない問題に対して人間的な解釈とやり方で解決策を考え始めることを望んではおられません。私が友人にしたように、状況を見てすぐに問題を解決する方法を探し始めることを、神様は望んでおられないのです。神様は、私たちが耳を傾け、神様が私たちのために持っておられる愛と憐れみの故、神様のご計画が語られるのを私たちが聞くことを望んでおられるのです。 私たちの神様は、「どうしたのか?」(創世記21:17)と私たちに聞くことから始められる方だということを忘れないでください。そしてその後で、「恐れることはない。」と励ましてくださる神様なのです。 だから、私たちもそのように耳を傾けましょう。「どうしました?」ということから始めましょう。周りの人々が何に悩んでいるのかに耳を傾け、聞くなかで湧き上がる肉の思い、自己中心的な思いから離れ、神様が私たちの間で行っておられる驚くべき、思いがけない働きに対する語りかけを聞くことができるようになりましょう。神様に対して「しもべは聞いております」という態度でいればよいのです。イシュマエルがそうであったように、私たちの中で最も弱い者の声なき叫びは、神様が愛の働きを始めるために選ばれた場所なのです。 だから、私たちは「Shama」をしましょう。耳を傾けましょう。神様の声を共に聞きましょう。 祈りましょう。 神様、あなたが「どうしたのか?」と聞いてくださる時、私たちが正直に答えることができるように助けてください。私たちが人間的な思いや感情に囚われて聞けない時、助けてください。そうすることで、自分達が見ている物事から行動するのではなく、その代わりに、私たちが予想もしなかったような、愛に満ちた素晴らしい働きについて教えてくださるあなたの声を聞くことができますように。 イエスの聖なる素晴らしい御名によって、アーメンと祈ります。 12歳の子があなたの目の前に向かってこのセリフを言ったのを想像してみてください。どういう気 分になりますか?そしてどういう行動をしますか?その子に「くだらないこと言うんじゃないよ!」と 言うか、「どうしたの?なんでそう思うの?」と聞きますか? 私の名前はミスラン ソフィア ミカエラです。まだいろんな人に語られていない話をシェアしたい と思い、そして神様はどのように私を悪魔から救ってくれたのをお話したいと思います。
驚いたことに、日本に引っ越して1年間が経ち、小学校6年生のころが私の最も暗い時期で、12歳 の時に神様にこのセリフを言いました。日本語は全く話せないし、文化もわからないし、同じ学年 の子たちと全然仲良くできませんでした。反抗期でもあったため、結構家族と喧嘩したり、学校に 行ったりするのも精神的に疲れました。授業に追いつけないからだけでなく、誰も私のありのまま を受け入れてくれなかったからです。先生の「ペア作って」というセリフが一番怖かったです。なぜ なら、私が先生とペアになるか、3人組が仕方なく じゃんけんさせられるかの2択だったからです。「黒板消し係だよー」と言う人たちが勝手に自分 の友達だと思ってました。そして昼休み中にも、弟がたまに私がいる教室を見に来てくれる時が あったけど、いつもぼっちで正直すごく恥ずかしかったです。 家族を心配させたくなかったので、一応友達が作れないことを持ち出したけど、別に深刻な問題 というわけでもないように話していました。家族も、先生たちも、私の状況をわかっていて、サポー トを与えてくれたけど、やっぱり学校生活は何も変わらなかったです。学校生活が徐々にひどく なってきて、その繰り返しになってきて、私はどうしたらいいのかと困惑しました。そこで神様のこ とを疑いました。学校のトイレで泣きながら、「ずっと憧れていたアニメの世界にせっかくいるの に、なぜこれが起こってるの?なぜみんなに嫌われてるの?何をしても私が悪いのよ。死ぬ方が 楽じゃない?死んだら天国行くし、一緒にいられるじゃない?神様って私と一緒にいたいでしょ う?」 私が12歳のころの話です。 学校から帰る以外の楽しみはKUCに行くことでした。家にいるように感じて、みんなは挨拶をして くれたり、歓迎してくれたりしました。英語を話せるほぼ同い年の子も多くて、とても嬉しかったで す。チルドレンワーシップ、チアフルノーツ、サンデースクールがいわゆる私の最高のセラピーで した。いろんな人と会話しつつ、神様への信仰と信頼がとても深くなりました。 そして、教会で特別な子と出会い、その子が私と頑張って仲良くしてくれたり、日本語が話せない 私にも頑張って話しかけてくれたりしました。実際にあった件で、私のお母さんから「〇〇ちゃん がみかが教会行くかって聞いてるみたいよ!」と言われて、嘘をつくつもりはないけど、最高に気 分がよかったです。彼女はみんなにやさしいから、もう忘れてたかもしれないですが、「みかって 教会くるの?!」という文だけで希望を与えてくれました。私の存在を知ってくれてて、日本で初 めて私と友達になりたい子がいてくれるなんて想像もできなかったです。話を進めると、結局彼女 と同じ学校に通うことになり、同じクラスになり、さらに同じ友達のグループに入ってました。また、 彼女のように流ちょうに日本語で会話できるようになりたいと、日本語を学ぶ動機の一つになりま した。現在この翻訳を読んでくれてる日本人や日本語がペラペラな人にとってはまだ完璧じゃな いと思ってるかもしれないけど、数年間の努力と献身の結果、日本語訳を書けるようになりまし た。神様は本当に素晴らしいです。 ニュースでは、失恋、いじめ、SNSなどのせいで自殺する高校生が増えてます。私たち子どもた ちは自己中なところやたくさん迷惑をかけるかもしれないですが、ジャッジするよりかは、優しくし てあげたり、元気にやっているかどうかを知らせたりなどをしてください。特に中高生の子どもが 何を経験しているのかもわからないです。そして一番大事なのが、神様の力がその子の人生に どのようにはたらくかを知らせてくださることです。なぜなら、神様は誰も一人ぼっちにさせない し、心の中に神様がいるかいないかだけで本当に変わるからです。 結論としては、日本に住んで8年間、私の人生を救ってくれた人たちに感謝したいと思います。最 初はエディア。その特別な子があなたのことで、私に生きることに希望を与えてくれて、ありのま まを受け入れてくれてありがとう。あやみさん。私を妹のように扱ってくれてありがとう。ドミニック さん。いつもいろんなことを応援してくれたり、頼れるお兄ちゃんのようにになってくれてありがと う。アンディーさん。特に私が一人の時に話しかけてくれたり、話を聞いてくれてありがとう。けい こさんとまどかさん。神様に賛美をする楽しさをみせてくれてありがとう。まさみさん。私と弟たち を自分の子どものように扱ってくれてありがとう。クラウディア牧師。いつもおいしいクッキーを 作ってくれてありがとう。あきこ牧師。力を与えてくれる礼拝にとても助かっています。ユース。私 は成人になるかもしれないけど、最高なメンバーでいてくれてありがとう。KUCの皆さん。みんな からのおはようを本当に最高な朝にしてくれてありがとう。ラフ。日本語を教えてくれたり、小学校 の時の1分間ハッピータイムにいつも助けてくれてありがとう。ラフのおかげで小学校で生き残れ たよ。Aj。怒らず、私の話をいつも聞いてくれたり、いつも応援してくれてありがとう。お母さん。今 年大喧嘩してしまったかもしれないけど、いつもお世話になったり、家族のためにいろいろ犠牲に してくれたりありがとう。あなたは最高です!そして最後にお父さん。私は完璧な娘になれなくて ごめんなさい。敏感で迷惑しかかけない子だ。それでも私が生まれる前からプリンセスのように 扱ってくれてありがとう。やっと自分の人生を打ち解ける勇気を出せるようになったときも、いつも 話を聞いてくれたり、応援してくれてありがとう。この世界のすべてに見合う価値があるよ。 神様は私の人生にこんな素晴らしい人を与えてくれました。もし私が小学校6年生の時に神様は (私が懇願したように)私の命を奪ったのであれば、私がずっと祈っていた「アニメの世界」を実際 体験できなかったし、みんなに感謝の気持ちを言えなかったと思います。つまり、私はまだこの世 に生きる目的があります。それは、日が良くても悪くても、神様の愛と優しさをいろんな人に伝え ることです。神様は不思議でタイミングの良い時間に助けてくれます。私は一生神様に感謝して います。 私はあと何週間か後にはもう出国しますが、神様が私の人生と将来のために用意してくれている 道をとても楽しみにしています。聞いてくださってありがとうございます。これは私の語られていな い話です。 ”主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。主は私を緑の野に伏させ憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる。たとえ死の陰の谷を歩むとも私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。私を苦しめる者の前で、あなたは私に食卓を整えられる。私の頭に油を注ぎ、私の杯を満たされる。命あるかぎり、恵みと慈しみが私を追う。私は主の家に住もう、日の続くかぎり。”
詩篇23編は、多くの方々に読まれています。特に其々の人生の危機に直面した時に読まれ、私たちは独りではないことを想起させてくれます。詩篇23篇は葬儀や記念会などでしばしば読まれます。この親しまれた箇所には、羊飼いのように、鞭と杖によって私たちを崖っぷちから守ってくださる神様の姿が描かれています。全能なる神様は、両利き手なのですね。杖は羊たちを一つの正しい方向に向かって進ませる為に用いられるもので、鞭は、羊たちの命を脅かすものから守る為に用いられるものです。 この箇所から思い起こされるのは、私の亡くなった父と叔父です。二人とも微生物研究者であり獣医でした。亡くなった私の従兄も獣医でした。私が子どもの頃、家族親戚は私が果たして動物たちに興味があるかどうかをテストしましたが、その頃は関心がありませんでした。私が11歳位でしたか、ある夏休み、従兄の動物病院を手伝って、朝夕、預かり犬を散歩に連れて行くのが夏休み中の日課でした。ある日の夕方、メスのコリーを連れて散歩というよりジョギングしていました。コリーの多くがそうであるように、とてもおとなしくフレンドリーなメスのコリーでした。コリーと一緒に走っている最中に、突然、三匹の黒い獰猛な犬たちが、ある家から飛び出てきて私たちに吠え始めました。それらは鎖を着けていませんでした。獣医の従兄は、私に、何があっても、他の犬から攻撃されても、絶対に預かり犬は守らなければならない、といつも言っていましたので、私は、コリーを守らなければならないと、咄嗟に思いました。メスのコリーは怯えていました。 私は、無我夢中で取れる限りの小石を地面から拾っては獰猛な犬達に向かって投げ続けました。私も吠える犬達が怖かったですが、怯えるコリーと一緒に逃げきる事はできないだろうと思いました。当時新しかった住宅地にまだ道が舗装がされていなかった為、小石がたくさんあったことは不幸中の幸いで、小石を投げ続けている間に、いくつか獰猛な犬達に当たったので、三匹の犬は一匹ずつ後退りし始めました。石を投げながら、私もコリーと走って逃げ切ることができました。とても怖い経験ではあったものの、コリーと自分自身を守ることが出来ました。これは、子どもの頃の私が経験した、初めての「羊飼い」体験です。 詩篇23編は、ダビデ王によって書かれたと記されています。ダビデ王は、若い頃、羊飼い少年として羊達を守り、また巨人のゴリアテを倒した事が旧約聖書に書かれています。ダビデは王になり、民を導く立場になりましたが、神様こそが全ての人々を様々な危険から守ってくださる真の羊飼いであると考えて、神様を賛美したのでしょう。それは一匹ではなく数え切れないほど多くの羊を、大きな危険から守る羊飼いです。もしも一人の人に、誰か、あるいは何か小さい生き物や命を守る力や勇気を与えるとすればその根源は何でしょうか?そのような勇気は、その人が本当に誰か、あるいは何かを愛することができる時に与えられるものでしょう。私たちが、何かを本当に愛する時は、恐怖を乗り越える事ができるでしょう。 ヨハネ第一の手紙4章18節には、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」とある通りです。もしも私たちが本当に神様の愛を知り理解できるなら、もしも本当に神様のわたしたちへの愛を信頼することができるならば、私たちの恐れは減って行くことでしょう。 詩篇23篇には、「たとえ死の陰の谷を歩むとも私は災いを恐れない。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰める。」と書かれています。 この箇所から思い起こされる出来事があります。私は若い頃に神戸に住んでいた事があります。今は、関西学院の一部になりましたが、聖和大学でキリスト教教育を学日ました。学生時代は、まだ体も軽かったので、毎週日曜の朝は三宮の北野坂を走り上がって教会学校、聖歌隊練習と礼拝に参加し、月曜から金曜は岡田山を登って大学へ通い、土曜日は、御影の鴨子ヶ原にあったフレンドシップハウスの英語クラスと礼拝へ参加していたので、1週間毎日坂を登っていました。当時、西垣一二先生が聖和で牧会学や牧会心理学を教えておられ、それに感銘を受けて、臨床牧会のトレーニングを淀川キリスト教病院や京都バプテスト病院で受けさせていただきました。もう35年以上前です。最初に京都バプテスト病院で当時チャプレンであった岡部先生の指導の元、研修を受けさせていただいた時、新生児が出産時に亡くなってしまいました。すぐに解剖の手術がなされ、私は見学させていただくことになりました。岡部先生は、「小さな命の最後まで寄り添ってみなさい」と仰いました。その時に持たれた葬儀で、神戸のパルモア病院の三宅廉医師の言葉が引用されたのです。赤ん坊は、母の胎から生まれる際に、産道という「死の影の谷」を通ってこの世に誕生する、という内容のお話でした。 私たち人間は、この世界に生命を与えられて生まれる際に、産道という暗く狭い「死の影」を通らなければならない事を改めて認識いたしました。人間の誕生は当たり前ではなく、神様の守りの中でなし得ること、そして、この最初の大きなチャレンジを経て生まれてきた私たち人間は、その人生で様々な苦難を乗り越える力がすでに与えられているのだという事を学ばされたのです。 皆さんも、人生の道のりの中で、長く、光が見えない暗いトンネルの中を歩くような経験をされるかもしれません。その暗いトンネルのような道のりの中で、前に進めない時もあるかもしれません。 けれども、もしも誰かがあなたの手を持って下さったらどうでしょうか?勇気や慰めを感じられるかもしれません。皆さんが、恐怖や孤独を感じられるような時に、誰かがあなたの隣で一緒に歩いて下さっている事を想像してみてください。あなたは独りではありません。神様は、私たち一人ひとりと常に共に歩んでくださり、聖霊なる神様は、不思議な、奇跡のような形で働かれます。 私の属するカナダ合同教会では、“私たちは独りではない”という題の新しい信仰信条が1968年に作られました。この機会にご紹介したいと思います。これはカナダ合同教会の信仰告白です。 ”私達は独りではなく、神の世界の中に生きています。私達は天地を創造し、今も創造されている方、人を和解させ、新しく創り変えるため肉となった御言葉、即ちイエスにあって来られた方、そして聖霊によって私たちや他人の内に働く神を信じます。私達はその神を信頼します。私達は神の御臨在を祝うため、創造世界を慈しんで生きるため、他人を愛し、他人に仕えるため、義を求め、悪に抵抗するため、十字架にかかり、甦られ、私たちの裁き、私たちの望みとなられたイエスを宣べ伝えるため、そのための教会であるように招かれています。生きている時も、死ぬ時も、また死後の命を生きる時も、神が共にいて下さいます。私達は独りではありません。神に感謝。” イエス・キリストは真の羊飼い。一人一人、辛抱強くケアされ、戻るべき道へと導かれ、危険から守り、分け隔てや差別をせずに全ての人々を愛され、一匹でも迷っている者があれば探しに出かけれれます。 ヨハネ福音書10章10節では、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と書かれています。 羊飼いの中には、羊を飼うのはただの役割とか、何か利点があるとか、いろいろな動悸もあるかもしれません。けれども羊飼いなるキリストは、羊である私たちを無条件で愛してくださるのです。羊である私たちにできることは、ただ、聞いて、学ぶことです。そして、キリストに従って行く中で、私たちも、より弱い羊たちを守ってように成長できるかもしれません。 なぜ、羊飼いであるイエス・キリストに従うのでしょうか? それは、私たちがいつの日か良い羊飼いそのものになる為ではなく、むしろ失敗をして行く中で、私たちは完璧には羊飼いには慣れない、ということに気づくことが大事なのかもしれません。私たちは実のところ、どんなに頑張っても羊飼いであるキリストのようにはなれません。けれども、そこから神様の愛をより深く感謝できる謙った者へと変わっていきます。 ローマの信徒に手紙5章20節でパウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」と書いております。この聖書の言にあるように、神様の愛、キリストの救いと聖霊の導きを知ることにより、私たちの人生はより豊かなものになっていきます。神に感謝! 先週はペンテコステでした。KUCでは、音楽、たくさんのキャンドル、子供たちの参加、9つの言語による使徒2章の聖書朗読、聖霊の炎を表す赤、オレンジ、黄色、あるいは青の服を着て、素晴らしいお祝いが行われました。 今日はペンテコステ後の最初の日曜日で、三位一体の日曜日とも呼ばれています。 私は以前から三位一体の日曜日に何を説教しようかと考えていましたが、今日の説教を考えるのは大変でした。クリスマス、イースター、ペンテコステなど、教会の祝日の多くは、聖書の中で起こった出来事に対して行われます。しかし、三位一体の日曜日は違います。 三位一体は 教義であり、私たちが持っている一連の信念だからです。私たちは三位一体をどのように説明したらよいのでしょうか?三位一体を説明するのは簡単ではありません。そのため、私たちは三位一体を信仰の謎と呼んでいます。確かにミステリーですが、シャーロック・ホームズの殺人事件のように、映画や本の最後にホームズ刑事が解決するようなミステリーではありません。 しかし、神は私たちに啓示されるのですが、説明しにくい方法で啓示されるという部分がミステリーなのです。 何世紀もの間、信者は三位一体の神について説明しようと試みてきました。例えば、西暦354年から430年にかけて生きた聖アウグスティヌスの話を紹介します。 ある日、彼が海辺を歩きながら三位一体の教義について考えていると、神の声が聞こえた。「海辺にある大きな貝殻を一つ拾いなさい」と。そこで、彼はそれを拾った。そして、神の声が「さあ、貝殻の中に海を注ぎなさい」と言った。彼は、「主よ、私にはできません 」と答えると、その声は「もちろん、できません」と答えた。「それと同じように、あなたの小さく有限な心が、永遠で無限な三位一体の神の神秘を持ち、理解することができるでしょうか?」と続けたのです。 三位一体は、確かに私たちクリスチャンが完全に把握することはできないけれども、固く信じているものでもあります。 もう一つの例を挙げましょう。 エピスコパル司祭のロバート・ファーラー・カポンは、その著書の中で、人間が神を表現しようとするとき、それはバレリーナを表現しようとするカキの集団のようなものだと述べています。私たちは、自分たちを超えたものを理解する能力を持っていないのです。 卵の殻、黄身、白身の3つの部分、H20(水、氷、蒸気)、聖パトリックが三位一体について話すのに好んだ、3枚の葉を持つシャムロックなど、人々は三位一体を説明するのにたくさんの例えを用いてきました。 この3つの例えの共通の問題点は、数学にとらわれすぎていることです。 3は1ではないし、1は1は3になりません。数学的には間違いです。でも、ある人が言っていたように、これが正しい説明の仕方なんです: 1 + 1 + 1 = 1. 神は1つであるが、神は3つの異なる人格を持っている。 それが三位一体であり、3つが1つになったものです。 神は1つの神的実体であるが、3つの異なる人格からできているものである。 自分自身を見てみると、私たちは1人の人間ですが、2つの異なる物質からできているのです - 心と体です(「物質」=「身体」という意味です)。 あるいは、肉体と魂とも言えます。 神は三位一体の各人格の一つの神聖な物質なのです。 それぞれの部分は1/3ではありませんが、三位一体の各人格、1人1人は完全な形をしています。 三位一体を考える際、数学に固執してしまうのは、得策ではありません。三位一体の神、つまり、三人で一人、一人で三人分、人類を神の命と業に引き込むのです。 神学と芸術の接点を専門とするデューク神学院のジェレミー・ベギー牧師とケンブリッジの講師による三位一体に関する別の説明を紹介します。 Cを歌うと、その音は部屋全体を包み込み、部屋がその音で満たされます。そこにEとGを加えても、それぞれの音は、それぞれ部屋を埋め、1つの音が別の音を邪魔することもありません。そして、それらが一緒に形成する和音は、単音よりもずっと素敵なのです。 聖書には、父なる神と愛する子であるイエスと聖霊についての節がたくさんあります。 聖書は、神は父/創造主であり(エペソ4:6、ヨハネの手紙1 3:1)、神は子/言葉であり(ヨハネ1:1、14、ヨハネの手紙1 5:20、ヨハネ3:16、コロサイ1:15)、神は聖霊(コリント信徒への手紙1 2:10、エペソ4:30)であることを明らかにしています。 聖書を読むと、父、子、聖霊はすべて同じであるが、すべて別の存在であることに気づきます。彼らは互いに独立して存在しているのではなく、共に働いているのです。三位一体の各人格は、神の実体を完璧に作り上げています。父は神である。イエスは神である。聖霊は神である。3つの位格でありながら、1つの神を成しています。 これが12世紀に作られた「三位一体の盾」または「Scutum Fidei」(ラテン語で「信仰の盾」の意)である。 Wiki (https://en.wikipedia.org/wiki/Shield_of_the_Trinity) それぞれを繋ぐ絆は双方向に関与しています。つまり、この図から12の事を読み取る事ができます。
この図の真ん中に神様が臨在しています。神は絶えず私たちを神自身との関係へと誘っているのです。 三位一体について、また三位一体の神との関係について考えていたとき、アンドレイ・ルブレフの三位一体のイメージがずっと頭に浮かんでいました。 コロラド州のルター派の牧師、作家、公共神学者であるナディア・ボルツ=ウェーバー師は、このイメージをこう表現しています。 「この画像の3人の人物は、祭壇のテーブルに座る天使として描かれています。同じ顔をしているのですが、姿勢や服装が異なり、まるで同じ人物を3つの異なる形で見ているようです。 しかし、これらの人物の関係性にこそ、説得力があるのです。 父は息子を見つめ、肉となった言葉を指し示し、キリストは父を見つめつつも霊を指し示し、霊はその輪を広げて鑑賞者を迎え入れる。 三位一体のアイコンにおける聖霊と父の間には、テーブルの上のオープンスペースがあり、この絵を見ている人は、聖餐式の際に神格と交わることになるのです。 ここには、私たちが歓迎される神の輪のイメージが描かれています。 父は子を送り、子は聖霊を送り、聖霊は私たちを、このテーブルに迎えてくれるのです。」 人によっては(私ではありませんが)、神は長い髭を生やした老人であり、息子はもっと若く、父は子より前に存在していると考えるかもしれませんが、そうではありません。 御子はずっと存在していたのです。御子はには常にこの関係があったのです。イエスは父から永遠に生まれたのです。 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」 (創世記1:1-2)とあります。また、創世記には、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。 」という部分があります。 (英語では)「our 」と 「us 」が使われていることに注目してください。(創世記1:26-31)神は初めから共同体でだったのです。神の三位一体の性質は、神が神の自己と交わることを保証しています。はじめに創造主、ことば、霊(父、子、聖霊)すべてが創造をもたらしたのです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった...」(ヨハネ1:1-3)。 ですから、たとえばパウロは、コリントの信徒への第二の手紙の冒頭で、「わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」(1:21-22)と念押しし、同じ手紙を、「主イエスキリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりとがあなた方とともにあります」(13:14)と結んでいます。これは三位一体です。 三位一体を本当に説明する方法は、頭で考えるのではなく、経験、つまり私たち自身の神との体験から始めることだと思います。私たちにとって、神がどのような存在であるかを説明できるでしょうか?神が私たちの生活の中でどのように働き、いつ、どこで、どのように神の存在を感じたことがあるでしょうか。 おそらく、人生のさまざまな時期に、さまざまな方法で神を体験してきたのではないでしょうか。ある人は、神様が裁判官のように、自分の汚点を暴く人だと思っている人もいます。 あるいは、詩篇23篇にあるように、神は良き羊飼いのように、私たちを守り、食べさせ、迷ったときには見つけ出してくださる存在だったでしょうか?または、突然、神は旋風となってあなたのもとにやってきて、あなたを新しい方向へ吹き飛ばすことがありましたか?それとも、神様は、私たちを翼の庇護の中に隠してくれる雌鳥や鷲のように、ある日突然やって来るのでしょうか? 数え上げればきりがないほど、たくさんの例が挙げられます。教師であり、助け手であり、助言者であり、永遠の父であり、平和の王子であり、弁護者であり、慰め手であり、偉大な私である。神は愛である。私たちはさまざまな方法で神を体験することができますが、神を体験するためには、頭だけでなく、心を使う必要があるかもしれません。神は、私たちを神自身との関係へと絶えず誘っています。神は、私たちが望むなら、昔も今も、そしてこれからも、常に私たちのために、私たちとの関係の中にいてくださるのです。 聖霊は、私たちのすべての人間関係をつなぐ愛です。三位一体の神は愛です。私たちは、三位一体の神との関係の中にいます。 私たちにできることは、神様に自分を開くこと、つまり、神様の聖霊に私たちの上に来ていただくことです。神は愛である。イエス様は私たちに、「心を尽くし、思いを尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛せ」という戒めを与えてくださいました。そして、「隣人を自分のように愛する」ことです。 (マルコの福音書12:29-31) 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、皆さんと共にありますように。(コリント人への手紙2 13-14)。アーメン。 |
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May 2024
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