その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに行った。「私の主。私の神。」イエスは彼らに言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。―ヨハネの福音書20:19-31
キリストは復活された!キリストは蘇られた!アレルヤ!私たちはまだイースターシーズンの中にいます。イースターシーズンは、ペンテコステ(聖霊降臨)の日曜日まで50日間続きます。今年のペンテコステは6月4日です。ペンテコステは聖霊に関する教会の祭日なので、教会の祭日の中で私が一番好きな日です。ペンテコステの日曜日には、聖霊の火を表すために、火の色である赤いものを身に着けて来られることをお勧めします(火の色なので、他にも黄色、青、オレンジも良いですね)。聖霊は私たちが経験したり、時には感じるものです。私たちは聖霊を見る事はできませんが、神様の聖霊が私たちを導いてくださっていることは分かっています。 聖霊が怖がっている弟子たちを彼らが身を隠している部屋まで導いたのでしょう。弟子たちはイエスに起こったことを見て、次は自分たちが狙われるかもしれないと恐れたのです。聖書には彼らはドアに鍵をかけ、恐れていたと書かれています。 私たちは彼らに共感できますか?彼らが感じていた恐怖を。あなたは今まで何かに対して、恐怖や不安を感じた事はありますか?我々は時に信念と疑念の間で揺れ動く事があります。時には、ただ信念をもって前進し、何が起ころうとも神様は私たちと共にいてくださると信じます。しかし、時には最初に感じた恐怖にさいなまれたり、時には疑念を抱く事もあります。「時に恐怖と疑念が一緒に来ることもあります」 弟子たちは女性たちの話や、イエスがよみがえったことを疑っていました。ペテロともう1人の弟子は空になった墓を見たのです。マグダラのマリアは蘇ったキリストと話し、そのことを弟子たちに伝えました。ルカの福音書24:11によると、「ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」と書かれています。弟子たちはイエスが復活したことを信じず、恐怖で自分たちを閉じ込めてしまったのです。しかし、恐怖は全てを支配できません。ヨハネの手紙 第一4:18には「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」とあります。しかし、彼らがカギのかかったドアの後ろに隠れていた時には、その様な事を考えていたとは思えません。 ヨハネの福音書20:19-25にはこう書いてあります。「ユダヤ教のリーダーたちを恐れて、ドアに鍵をかけて弟子たちが身を隠していたとき、イエスが来て、彼らの中に立ち、「平安があなたがたにあるように」といわれた。そう言ってから、イエスはご自分の手とわき腹を彼らに見せた。弟子たちは主を見て大喜びした。」さて、十二人の1人であるトマス(デドモとも言われる)は、イエスが来られた時に、他の弟子たちと一緒にいませんでした。そこで、他の弟子たちはトマスに、「わたしたちは主を見た!」と言ったのです。しかし、トマスは彼らに対して「その手を釘の跡を見て、釘のあったところに指を入れ、そのわき腹に手をいれなければ、私は決して信じません。」と言ったのです。 信じるためにイエスの傷を見たいと言ってしまったから、トマスは永遠に「疑い深いトマス」という烙印を押されてしまったのです。この「疑い深いトマス」の話しのどこにもトマスが疑ったと書いていないことにお気づきでしょうか?例え疑っていたとしても「疑う」という言葉は出てきていないのです。実はトマスはイエスにかなり忠実だったのです。ヨハネの福音書11:16に、トマスは弟子たちに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」と勇敢に訴えています。(ラザロの死後、以前ユダヤ人がイエスに石を投げつけようとたユダヤにイエスが戻ろうと決心した時の事です) もう一つの例はヨハネの福音書14:5-7でトマスがイエスに「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と言います。そしてイエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」と答えます。 トマスはおそらくローマ帝国の外に出て福音を伝えた唯一の弟子です。トマスはまた、パルティア王朝とインドを含む広大な地域を横断したとも考えられています。トマスの働きによって、多くの人がイエスを信じるようになり、1700年代にキリスト教の宣教師がインドに到着すると、マート―マ教会と呼ばれる小さなキリスト教徒グループが繁栄していることを見つけるのです。その教会は今日まで続いています。昔、私が牧師会議でインドのチェンナイに行った時に、マート―マ教会を尋ね、トマスがインドで説教や指導をしていた可能性が高いことを学びました。今日の聖書朗読箇所を再度見てみると、トマスは弟子の中で唯一、鍵のかかったドアの部屋に隠れていないことが分かります。トマスはイエスに忠実でした。 トマスが疑念を抱いていたとしても、それが何に関係しますか?教会は疑い深い人達でいっぱいです。教会の優れた神学者たちもみんな疑い深い人達でした。マルティン・ルター自身も疑い深い人でした。信念の反対語が疑念ではありません。信念の反対は不信仰です。疑うことは信仰の一部なのです。信じられない、目に見えないイエスを探し求め、私は神学校までたどり着きました。私の疑いや疑念は私の信仰の妨げになってはいません。それどころか、私の疑いや疑問は私の信仰を養い、育ててくれました。私たちはいつでも神のところに行って、疑問を打ち明けることができます。神は耳を傾けてくださいます。トマスはおそらく私たちの多くを代弁しているのではないでしょうか。目に見えないものを信じることができますか?私たちの中には目に見えるものだけを信じて生きている人がいるかもしれません。私にとっては目に見えていても理解できないものも沢山あります。例えば、テレビがどの様になって映っているのか分からないけれども、毎日見ています。また携帯電話に向かって話す人を毎日目にしますが、声が時空を超えて移動する仕組みは理解していません。このほかにも、科学的な知識や技術的な知識、歴史的なデータをいくら集めても理解したり、信じることができないものがたくさんあります。人生の目的や意味といった深い問いに取り組むとき、和解が必要な人間関係に直面する時、人生の悲しみに直面する時、私は現在の状況が提供できるものよりも大きなものを必要とします。言葉を失うような状況や、あまりにも恐ろしい状況に陥った時、私は自分の五感で感じられる以上のものを必要とします。目に見えないものを信じ、信頼するのです。 ヨハネの福音書は、私たちのような人々、イエスの復活をこの目で見る事ができなかったけれども、復活を自分自身の人生で経験し生きているイースターの人に向けて書かれたものです。 復活されたキリストがキリスト教徒の中で働き、正義と恵みと平安という神の支配を実現させる力を信じています。そう、私は今でも疑念を抱いています。教会というキリストの組織が神の支配を実現する、あるいはすべての人に豊かな命のビジョンを提供するという任務に適しているのかどうか疑問に思う日もあります。しかし、私はイエスが示してくださる神を信頼しています。 マーティン・ルーサー・キングは「信仰とは、階段の全体像が見えない時でも、最初の一歩を踏み出すことだ。」と言いました。見えないものを信じるにはビジョンが必要です。現状を超えたものを見て、そうであるかのように行動する能力が必要です。私が教会で見るものは、決して完璧なものではありません。しかし、私の信仰は教会にあるのではなく、キリストの生涯、死、復活の中に示された神のビジョンにあるのです。私の信仰とは、イエスの生涯、死、復活の中に明らかにされた神の愛を実践することです。私にとって疑い深いトマスは、疑いをあきらめるのではなく、信仰を促すキャラクターとなっています。なぜなら、私の中で疑念と信仰はパートナーと信じるようになったからです。だから私は自分の疑念を受け入れ、疑問の中で生きているのです。トマスは今日、疑い深い人たちや、希望や夢が破壊されるのを見た私たちに語りかけるでしょう。しかし、私は復活したイエス・キリストを信じています。イエス・キリストは私たちが疑いを持っていてもいなくても、傷ついていなくても、私たちを愛し、その永遠の愛を保証してくださるのです。 本日の聖書朗読箇所でトマスが信じる前にキリストの傷に触れようとする場面があります。トマスはイエスが幽霊ではなく、人間であることを確認するために、自分の目で傷を見てみたかったのです。またトマスは、イエスが経験した痛みをどういった形でも分かち合いたかったのだと思います。イエスの傷に触れる事によって、イエスの苦しみを理解したかったのです。 私の好きな作家の1人であるヘンリ・ナウエン神父が書いたものを思い出します。「誰も傷つくことから逃れることはできない。私たちは皆、肉体的、感情的、精神的、あるいは霊的のどこかが傷ついた人間なのです。」そして、ナウエン神父は、「どうしたらその傷を持って他者の為に仕えることができますか?」と尋ねます。この問いは、ナウエン神父の人生の物語から生まれ、その話しの中でナウエン神父は「wounded healers (傷を持った療法士)」という造語を作りました。 何年もの間、私は「wounded healers」の力を目の当たりにしてきました。私自身の傷や痛みが扉を閉じていたのですが、より深い喪失への恐怖から私を解き放つような経験をしたこともあります。 私たちの傷ついた心には、囚われと自由の両方が存在します。私たちの物語は私たちが誰であり、そして何者になっていくのかを教えてくれます。キリストの傷は私たちの周りにあります。キリストの傷とそれに触れたトマスを思い出す時、これらの傷が私たちの中に触れたい、触れられたい、癒したい、癒されたいという思いを呼び起こしてくださいますように。イエスのように私たちもまた「wounded healers」として召されるのですから。 この話の中で、傷ついたイエスの奥底から出てきた言葉「シャローム」「平安があなたがたにあるように」。これらの言葉は私たち自身の痛みを解放し、癒しの力を与えてくれます。 アイルランドの詩人、平和活動家、神学者でもあるパドレイグ・オ・トゥアマの祝祷にこの切なる思いを込めたものがあります。 「タスクは終了している。バラバラに行く我々信仰の最後は確実性が修正され、私たちが破れていることを知らなかった何かが修復されつつある。我々は解き放たれ、新しい形成パターンの場所に旅している、損失、希望、傷みと美しさの融合としての妄想で。」 私たちの物語、あなたの物語、イエスに従う者たちの物語が私たちの傷ついた心を示し続け、私たちが今日の世界に必要とされる「wounded healers」の助けとなりますように。私たちの傷を癒す事が、私たちを恐れから解放し、私たちが何者であるかの深い問いへと解放してくれますように。私たちが恐れのために閉じこもっている場所から解放されますように。私たちが「バラバラになって」触れ、触れられますように。私たちが疑いを持っていようがいまいが、復活されたイエス・キリストが私たちを愛してくださっているという確信をもって生きる事ができますように。 私が読んだ詩にもあるように「あなた(神)の世界を見たり感じたりするために、バラバラになって行きましょう」。イエスの復活は、すべての創造物に新しい生命を約束します。4世紀のミラノのアンブローズ司教は、「キリストの復活によって地球そのものが復活した」と説きました。 トマスの信仰が私たちの中に生きますように!「見えなくても信じる者は幸いである」主よ、私たちの心の目を開いてください。私たちはあなたを見たいと思いますし、人々や神の創造物の至るところに復活のしるしの中にあなたを見つけれますように。 キリストはよみがえった。キリストは本当によみがえったのです。 アレルヤ、アーメン。
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祈りましょう。復活の神様、女たちは悲しみのスパイスを両手に抱えて墓に向かいました。 しかし、あなたは復活の力で彼女たちを迎え入れ、墓が空であることを他の人に伝えるために彼女たちを走らせました。今朝、私たちに会い、復活したキリストに会わせてください。そうすれば、私たちも「生は死よりも強い」という福音を伝えることができます。アーメン
今日はイースターですね!ハレルヤ!キリストは復活しました! M. J.ボーグとJ. D. クロッサンは、イエスのエルサレムでの最後の一週間について本を書き、その中で「イースターがなければ、我々はイエスについて知ることも、彼の死に意味を与えることもできないだろう」と述べています。もし、そこで物語が終わってしまったら、永続的な社会も「聖金曜日」さえも存在しないことになるからです。 復活のイースターの話は、私たちの信仰の中心です。パウロがよく言っているように、「もしキリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(コリント人への手紙 第一 15:14) キリストは死の中から蘇り、生きておられます。 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書を見ると、イースターの復活の物語が少しずつ違っていることが分かります。(ヨハネの福音書20:1-18、ルカの福音書24:1-6、マタイの福音書28:1-10、マルコの福音書16:1-8) 例えば、十字架の場所に何人、どの女性がいたのか(マタイ27:55-56、マルコ15:40、ルカ23:49、ヨハネ19:25)、埋葬時にいた女性(マタイ27:61、マルコ15:47、ルカ23:55)、墓にいた女性(マタイ28:1、マルコ16:1、ルカ24:10、ヨハネ20:1)の解釈がそれぞれ違います。 女性たちは、他の人々がイエスを見捨てたとしても、そこに留まったのです。 また、イエスの十字架刑に女性の弟子たちがいたこと、新約聖書のこれら4つの福音書すべてに記されていることを思い出してください。 ある福音書では地震について、別の福音書では墓を訪れたのが2人ではなく3人だったと書かれています(教会の礼拝堂を振り返ってみてください。「信」という漢字が書かれた旗が、墓を去る女性が3人として描かれています)。2つの福音書には複数の女性と描かれており、別の福音書では1人の天使を見た(マタイとマルコ)、2人の天使を見た(ルカ)、そして、また別の福音書ではマグダラのマリアがイエスの身体が墓からなくなっていることを走って他の弟子たちに伝えています。見た人の目線によって、その出来事の異なる部分の話を覚えているのです。しかし、そのどれもが真実であったのは、死んでいたイエスが生きていたのではない、ということであり、イエス・キリストは死から蘇ったという事です。 チャールズ・スポルジョン牧師は、「私たちには永遠の命への希望があり、この世界を作るための希望があると言いました。キリストなくして希望はない。」 本日のマタイの福音書、朗読箇所では、マリアとマリアという二人の女性がイエスを探しに墓に行くのですが、彼女たちは途中で地震に遭遇します。 地震を経験した事がある人はいますか?手を挙げてください。 彼女たちがどう感じたか、推測できますよね。私は2011年3月11日の午後2時46分、東京で地震を経験しました。揺れがだんだん強くなり、私は西東京ユニオン教会の教会員2人と西東京地区のインド料理店である祝いの席に座り、遅い昼食をとっていたのですが、急いでそのレストランから飛び出しました。全員で祈りながら通りに出ると、周りには物が散乱しているのが見えました。 私たちは広い場所に行き、祈り続けました。 これは様々な危機的状況や怖い経験下でも常に自然発生的な反応であるべきで、祈るべきです。 地震は本当に恐ろしいもので、1995年に神戸にいらっしゃった方なら理解されると思います。 マリアとマリアは、イエスの墓の前にあった大きな石が転がる地震を経験し、最初は怖かったかもしれません。そのとき、白い服を着た主の天使を見ます。恐れて当然です。しかし、その後、復活した主を見たのだと理解すると、彼女たちは希望に満ち溢れるのです。 クリスチャンは希望の人です。 私たちの多くは、何らかの危機を経験したり、恐怖を感じた事があるでしょう。しかし、希望があるからこそ、私たちは前進できるのです。有名な賛美歌に「「私たちの希望は、イエスの血と義にほかならない」とあります。キリストという固い岩の上に私は立っている」 春になり、世界はコロナ禍から脱却し始めているようです。しかし、ウクライナでの戦争が気になるところです。この傷ついた世界で、私たちはどのように希望を持てばいいのでしょうか。私たちには希望が必要です。信仰が必要です。 作家のC.S.ルイスは「希望は神学の美徳の一つであると述べています。つまり、永遠の世界を見続けることは、(一部の現代人が考えるような)逃避や希望的観測ではなく、クリスチャンがなすべきことの一つであるということです。それは、現在の世界をそのままにしておくべきという事ではありません。歴史を読めば、現世に最も尽くしたキリスト教徒は、次世代を最も考えていた者だという事が分かります。」 クリスチャンの希望とは、C.S.ルイスが言うように、逃避や希望的観測ではなく、クリスチャンであれば行うべきものなのです。 神が私たちのために用意した未来に希望持っていても、私たちの人生には苦しみや痛みを覚える時があります。 だから、苦しみの中にいる時、私たちは主を仰ぎ、力を与えてもらうだけでなく、忍耐と耐える力を与えてもらわなければいけません。もっと良い事が今後起こります! ジョーン・チティスター修道女は、著書『Scared by Struggle, Transformed by Hope(困難に怯え、希望で変貌を遂げる)』から次の言葉を引用しています。 「私たちの内に生きておられるイエスが、死んだにもかかわらず、死ななかったというのは本当です。私たちは皆、自分自身の人生においても復活を知っているのは事実です。私たちはそれぞれ、何らかの十字架刑にかけられ、そして再び蘇っているのです。その時、私たちにとって不都合だったことは結局、新しい命に蘇るための招待状だったのだと、私たちは今、理解することができます。その招待状は、もし私たちがその道を通らざるを得なかったのでなければ、決して自分の判断では通らなかったであろう道だと私たちは今、再確認するのです。人生は一本道ではありません。多くの道を歩むことで、絶望の中にあっても希望を見出すことができるのです。」 今朝、近くにいる方々と話をしてみてください。きっとそこには希望の話、新しい命の物語を見つけることができると思います。私たちの人生の墓が開かれ、生きているイエスが私たちに触れ、私たちを癒してくださる時、心が温まる物語、愛の物語を見つけることができます。 「1人だと思っていたら、友達が手を差し伸べてくれた」「落ち込んでいたら、教会のコミュニティが支えてくれた」、あるいは、「何か新しいことをしなければならないという使命感を感じ、人々が私のために祈ってくれた」。これらは希望の兆しです。これらは、イースターの現れです。 イースターが信頼に値するのは、それが起こり続けるからです。新しい命が私たちに訪れ、暗闇に光が差し込むのです。 もしかしたら、あなたはこの新しい命を経験したことがなく、何かがあなたの内なる墓の石戸を転がし、あなたの中に命を目覚めさせてくれることを願っているのかもしれません。それが今日であろうとなかろうと、忍耐と信頼をもって待ち続けてください。 人生に強制は禁物です。成長は急ぐものではありません。時に自分の中にすでに押し出されている新しい命の芽に気づくのにしばらく時間がかかることもあります。 イースターは、確かに人生が変わることですが、同時に世界が変わることでもあるのです。聖書が語るように、イースターは死が打ち破られる日なのです。復活の約束は、「死、すべての死、肉体の死だけでなく、あらゆる形の死、津波や地震による破壊という生きた死も、ウクライナの戦争も、苦しみへの恐怖も、その他あなたが抱くかもしれない恐怖も、死のために流す涙も、死の力は、もうない、なくなる」という約束なのです。 そう、イースターとは、その約束がこの世で現実となるまで、人々に理解させる事なのです。 心の墓を開いて愛を受け入れる皆さんは、イースターの人たちです。 イースターの人々は、死が自分たちを支配していないことを自覚して生きています。イースターの人々は、世の中の痛みに打ち勝つことができます。イースターの人々は、愛こそが道であることを知っているので、自分自身や他人への虐待を許しません。イースターの人々は、私たちが神様に創造された世界に住み、全ての人命を尊厳します。イースターの人々は、どこにいても苦しみを和らげ、可能な限り癒しと希望をもたらし、新しい日が約束されているから、コミュニティ(社会)を創り出すために手を差し伸べます。イースターの人々は世界中で祈り、お互いの存在を分かち合い、私たちがみんな社会の一員であることを思い出させてくれます。イースターの人々は、イエスにおける神がこの世に生きておられることの証人であり、死から掘り出される命、痛みから生まれる喜びを知ることができます。 今、あなたの心と世界の墓を開き、イエスの命を与える愛があなたに触れ、あなたを変え、私たちの世界を変えるために解き放たれましょう。私たちはイースターの人々として、復活を信じていることを他の人々に示し、証しをするために出て行こうではありませんか。 トーマス・マートンの書いたこの祈りを祈らせてください。どうかこの言葉に耳を傾け、心に刻んでください。 「主よ、神よ、私はどこへ向かっているのか見当もつきません。この先の道は見えません。どこに行き着くのか、確かなことは分かりません。また、自分自身のこともよく分かっていませんし、あなたの御心に従っていると思っても、実際になっているとは限りません。 しかし、あなたを喜ばせたいという思いは、実際にあなたを喜ばせていると信じています。そして、私がしている全てのことにその願いがあることを望みます。その願望から離れたことは決してしないようにと願っています。そして、私がそうすれば、私は何も知らないかもしれませんが、あなたは私を正しい道に導いてくださると知っています。 ですから、私は迷い、死の影にいるように見えるかもしれませんが、いつもあなたを信じます。あなたはいつも私と共におられ、私を置いて、私を1人で危険に立ち向かわせる事は決してありません。アーメン」 「悔い改めないなら滅びるパート3:あなたのために祈りました。」 ルカの福音書22:31ー34 神戸ユニオン教会 --- 2022年4月10日 説教者:ヴァンアントワペン 亜希子副牧4/10/2022 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。(詩篇19:14)あなたは私たちがこの受難節を通して罪を見つめる際に、癒し主となり、慰め、励まし、勇気を与えてくださる方です。あなたの御言葉を通して、あなたの姿を私たちに現してください。イエス様の御名により祈ります。アーメン。
教会暦のこの時期になると私はいつも驚かずにはいられません。パームサンディ(エルサレム入城の日)から始まる1週間の受難週の浮き沈みの大きさに戸惑うばかりだからです。受難週は今日礼拝の初めに祝った棕櫚の主日から始まります。ガリラヤ湖周辺での3年ほどのミニストリー(招聘した弟子達を教え、訓練する)を終えたイエス様はイスラエルの首都城壁都市のエルサレムへと入城します。しかしイエス様は光り輝く美しい馬に乗り、都市を制圧する力強い王としてエルサレムに入城することを選ばず、謙遜を持ち、ろばの子の背中に乗りエルサレムに入城されました。(ルカの福音書19:35) このように謙遜を持ちエルサレムに入城したイエス様を、弟子達、群衆は熱狂を持って迎え入れました。棕櫚の木の枝を切り、出迎えのためにそれを使い(マタイの福音書21:8&ヨハネの福音書12:13)、道に自分達の上着を敷き(ルカの福音書19:35)、イエス様が乗るろばの子でさえ、地面の土を踏まないように配慮し、イエス様を迎えたわけです。 人々はこの3年間多くの人に奇跡を起こし、癒しをもたらしたイエス様に多いなる期待を寄せていました。偉大で力強く神様に召されたユダヤ、イスラエルの王としてのイエス様をエルサレムに迎えたのです。 人々はイエス様がローマ帝国に制圧されているこのイスラエルを、軍事力を持ってその支配から解放し、イスラエルが堂々たる力強いユダの王、イスラエルの王のイエス様の政権の元で再び国力を取り戻し、国が繁栄することを望んでいました。 人々は叫びました。「ホサナ!」(今すぐ救い出してという意味、マルコの福音書11:9) 「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。」(ルカの福音書19:38) 人々はイエス様を救世主、長く待ち望まれた王と公の場で告白しました。イエス様のエルサレムの入城に合わせて人々は、イエス様に従い、ローマ帝国を打倒し、国が再びイスラエル国家として繁栄を取り戻すために必要な働きに加わる覚悟を決めていたのです。 このように始まった1週間でしたが、週の終わりにはとんでもない結末を迎えます。イエス様は裏切られ、逮捕され、祭司達、地域の支配者たちの前に連れて行かれ、自身をユダの王と宣言した罪で有罪とされ、ゴルゴダで最も罪深いものが受ける処罰、十字架の刑にかかり死にました。(ルカの福音書22:47ー23:46) この浮き沈みがわかりますか?エルサレムに入城したイエス様が受け取った日曜日の誉れ、賛美は、イエス様が処刑された金曜日(受難日)には消え去っていたのです。イエス様は十字架にかかり、最も苦しみ、辱めをうける形で死にました。当時極悪人が受けるべきとされていた処刑方法でイエス様は息絶えたのです。 そしてみなさんがご存知のように、神の御子としてイエス様は何の罪もおかされませんでした。しかし人々がおかした罪のために、十字架の上で最も痛みのある方法で死ななければならなかったのです。 今日は受難節最後の日です。受難節はイースターを迎える前に、意識的に罪について考えるシーズンです。私たちの中にある、私たちの生活の中にある、そして教会生活の中にある罪を見つめる時です。ご存知のように、ここ数週間私は罪、そして悔い改めについてメッセージをしています。例えば罪を目撃した時に何も声をあげないことも罪であること、神様を呼び求めないことも罪であることなど、罪の定義に関して具体的に話をしています。 罪と聞くとその定義の広さにとまどわれる方もおられるかもしれません。ですから聖書を読む必要があります。私たちの頭の中だけでは罪というものは抽象的なコンセプトに留まってしまうため、自分には、自分の人生には、私たちの教会、自分の信仰生活には関係のないものという風に思ってしまう危険性があります。 今日の聖書箇所も罪についての私たちの理解が深まる箇所だと思います。今日お話ししたい罪は、私たちの言葉からくる確信とは対照的な私たちの信仰の弱さが起こす罪についてです。これだけ聞くとよくわからないかもしれませんので、もう一度イエス様のエルサレム入城から始まる受難週の中で起きることを一緒に見ていきましょう。 イエス様がエルサレムに入城した棕櫚の主日(パームサンディ)では、イエス様に対する賛美、誉、栄光の声が溢れていました。人々はイエス様をイスラエルの王(ヨハネ12:13)と讃え、 イエス様に救済を求めました。しかし同週の金曜日には、イエス様は十字架にかけられ、自身をユダヤの王、イスラエルの王と呼んだとして、極悪人の扱いを受け、十字架の上で処刑されたのです。 青天の霹靂とはこのような事を指すのかもしれません。なんということでしょう。イエス様に注がれた多くの栄光と誉れの言葉はどこに行ってしまったんでしょうか?つい先日の日曜日にイエス様に向けられた熱狂、サポートはどこに行ってしまったのでしょうか? 「主の御名によって来られる方に、イスラエルの王に!」(ヨハネの福音書12:13) この言葉を叫んだ人々はどこに行ったのでしょう?イエス様に起こることを目撃しながら、何も声を上げなかったのでしょうか?イエス様が辿らなければいけない運命を知りながら?自分達の主、王、救世主と告白しながら、イエス様を十字架で死なせたのでしょうか? 答えはそうです。人々はイエス様を十字架という受難から救うことをしなかったのです。むしろ人々の罪のおかげで、救うことができなかったという方が正しい言い方かもしれません。 イエス様は弟子の一人であるペテロに忠告します。誉れの言葉をかけるかわりに、ペテロは全く反対のこと、むしろとてもひどいことをすると。イエス様はペテロに、朝が来るまでに、ペテロがイエス様のことを3度公に否定すると伝えたのです。(ルカの福音書22:34) そのようにイエス様が予告をしたにもかかわらず、神の御子であるイエス様がそのように言っているにもかかわらず、ペテロは自分の信仰に確信を持っていました。ペテロは次のように言います。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカの福音書22:33) ペテロは強い覚悟を持っていました。イエス様が主であり、救世主であるという信仰のために処罰を受けること、または処刑されることも受け入れる覚悟でいたのです。強い確信を持って、イエス様を裏切ることはない、そう伝えたのです。 しかし私たちも知っている通り、イエス様が予告されたように、ペテロは次の朝が来る前に、イエス様を公の場で3度否定しました。(ルカの福音書22:54−62) 群衆はイエス様に対し熱狂し、強いサポートを表しましたが、自分達の王様であるイエス様が十字架にかけられていく過程で何もアクションを起こしませんでした。ただただ起こることを見ていただけだったのです。ペテロはイエス様のことを知らないと3度も告白しました。そしてみなさんご存知の通り、ユダはイエス様を宗教指導者に売り渡し、逮捕、処刑の道へと導きました。(ルカの福音書22:47−53) これらの人々はイエス様への愛と忠誠を口で誓っていました。しかし、その忠誠を行動では証明できなかったのです。イエス様を愛している、褒め讃える。生涯かけてイエス様について行く。そのような強い確信を言葉にしていながら、実際の人々のイエス様に対する信仰は、自分の命が危険にさらされると感じるとあっという間に弱いものにかわってしまいました。 程度の差こそあれ、私たちもイエス様を私たちの主、救世主として認めつづける強い信仰を持てない時もあります。私にはそのような経験が何度もあります。例えば近い将来について不安を覚える時、その不安を祈りの中に持っていくことをせずグーグル検索から見つけた答えで自分を安心させたりしたこともあります。 人を裁き、神様が約束する「キリストにあればその人は新しく造られたものである」(第二コリントへの手紙5:17)という言葉を無視し、そのことが可能なはずはないと思ってしまったこともあります。また哀歌の言葉「主の憐れみはつきない、それは朝ごとに新しい。」(3:22ー23)を信じられず、今自分に起きていることが改善することはなく、永遠に絶望的だなどと物事をとらえてしまうこともあります。 教会コミュニティにおいても信仰が弱くなる時があります。忙しい教会という名目の元、行事やプログラムにとらわれ、忍耐が必要とされる神様のタイミングややり方を待ち望まなくなってしまったり、恐れから物事を決断してしまう時もあります。愛、思いやり、赦し合いを実践することなく、裁きあいを実践することもあります。 これらの事は教会のコミュニティにおける信仰の薄れからくる副産物です。私たちがイエス様がどのようなお方で、どのような事をされるお方なのかを完全に信じていないからです。イエス様が困難な、死んだとも思える状況を新しく作り変えるくださること、その可能性が満ちている事をどこかで忘れてしまっているのかもしれません。そのことによって私たちはイエス様が私たちを通してどのように働いてくださるかということに確信を持てなくなってしまうのです。 今日の聖書箇所は、信仰の薄れが罪だとははっきり言っていませんが、聖書箇所を注意深く読んでみるとイエス様がそのような可能性を指摘しているのがわかります。ルカの福音書22:32で、イエス様はペテロに次のように言います。「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」「立ち直ったら」というのは、「信仰に立ち戻る」という意味で、ということはペテロが信仰に立ってない道を行ってしまうということを指しています。イエス様はペテロが、イエス様への信仰を弱め、周りの人にイエス様のことを知らないと告白してしまうと予告します。(ルカの福音書22:34) 神様の導きがない方向や、イエス様を主、救い主、助け主と認めない方向や、やり方は道からはずれ、的外れな方向へと向かいます。神様のコースからはずれることは全て罪というのです。 つまりイエス様はここで、ペテロは道を踏み外し、罪をおかすと予告しているのです。 誰でも人間であれば過去の罪、現在の罪、未来におかす罪について言及されたらそれを否定したくなったり、そのことで非難されたという思いでその言及を受け取りたくなくなることでしょう。言及するのが神様ご自身だったとしても、あなたは神の前に罪をおかした、おかしている、おかすだろうと言われるのは気持ちの良いものではありません。 何故なのでしょう?何故私たちは罪や、悔い改めに対しオープンな思いで向き合えないのでしょうか?もしかしたらそれは神様の御心を離れてしまったことからくる重い気持ち、自責の念の思いにどう対処してよいかわからないというところから、来ているのかもしれません。 罪をおかしていると言われると、もしかしたら、自分達の存在、アイデンティティそのものが否定されたように思うのかもしれません。自分が犯した罪について攻撃をうけるというよりかは、自分自身の人格が攻撃されたように思い、自責の念を取り払うことができなくなってしまう人もいるのかもしれません。 罪イコール自分の責任、自分が悪いというようにしか見れない場合、自分の存在、人格、アイデンティティーが否定され、攻撃されたように感じ、そこにはどうすることもできない重い気持ちばかりが残ってしまうでしょう。 今日の聖書箇所の始まりでイエス様はサタンについて言及しています。イエス様は、「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」(ルカの福音書22:31)と言われます。イエス様はペテロ以外の強い力が働き、弟子達全員の信仰が揺るがすことを知っていました。 しかしイエス様はそれと同時に弟子達のこれまでの信仰の強さについても語っています。3年間の宣教の時を振り返りながらイエス様は弟子達に、「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカの福音書22:28)とも伝えています。 イエス様は過去3年における弟子達の鍛錬された信仰にも言及しているのです。弟子達の信仰の強さを認めながらも、これから起こることを隠そうとはしません。今強い信仰を持っている事は、これからもその強い信仰が続くということを意味しているわけではないからです。イエス様は弟子達の信仰が、小麦がふるいにかけられるように、揺さぶられると警告しているのです。 神様が私たちの罪の重さについて言及する時、非難罵倒、意地悪な思い、また私たちの人格、自尊心、ましては私たちの信仰の歴史を否定するのが理由で、罪の自覚を促しているわけではありません。神様は私たちが、疑いや恐れではなく、強い信仰を持っていた時、愛を実践していた時、奉仕に励んでいた時のことももちろんご存知です。 それと同時に、神様は私たちがそうではない時のことも知っています。裁いたり、恐怖に支配されてしまったり、赦せなかった時、神様を最初に呼び求めなかった時の私達のこともよく知っておられるのです。 ただそれだけの事です。私たちの人格や、私たちの信仰の歩み、私たちが神様や神の民のコミュニティーのためにやってきた奉仕が否定されたとかそういうことではないのです。罪というのは人間であれば切り離すことができないもので、罪というのは神様ではない私たちから出てきて当然のものなのです。 けれどここに良い知らせ、グッドニュースがあります。 今もなお、私たちが罪をおかしている、もしくはおかしそうになっている時でさえ、イエス様はもうすでに私たちのために祈ってくださったのです。イエス様がペテロに、彼がおかす罪について予告した時の聖書箇所を見てみましょう。 イエス様はペテロにこのように言います。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカの福音書22:32) 「イエス・キリストはきのうも、きょうも、いつまでも、同じ」(ヘブル人への手紙13:8)ということを考える時、イエス様は私たちのためにも祈ってくださったと思えるのではないでしょうか?イエス様は私たちの信仰が完全になくならないように、私たちの信仰が揺さぶられ、弱さを覚える時にすでに私たちの信仰について祈ってくださったのです。 イエス様は私たちの弱さ、私たちの罪についてすでに祈ってくださいました。 そのことを覚える時、イエス様の私たちに対する愛がいかに深いということがわかりませんか?イエス様は私たちが罪をおかすにも関わらず、私たちから神様から完全に離れる事がないように祈ってくださいます。イエス様は私たちが神様から離れる事、見放されたと感じる事が信仰において、一番最悪で、一番痛みを覚えることであることを知っておられるので、その事が私たちに起こる事を望まないのです。イエス様は私たちがいかに罪深いかを知りながら、それでも私たちを愛しておられ、憐れまれるお方だからです。 イエス様がペテロに「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」と言う時、イエス様の意図は 「あなたは愛されているよ、思われているよ。あなたが罪を犯す時のために祈ったよ。」という思いを表現しているのではないかと思うのです。 そしてその愛は私たちにも注がれています。しかもそれだけではありません!イエス様は私たちが罪に気づき、悔い改めた後のご計画もすでに備えてくださっているのです。素晴らしいと思いませんか?罪に気づき、悔い改め、神様の元に戻って来る時に、神様の御業の計画に私たちが含まれているのです。罪に気づき、罪を見つめることが信仰の道の行き止まりではないなんて、素晴らしい事ではありませんか?ルカの福音書22:32を見てみましょう。 「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 このような計画は私たちにも用意されています!神様に立ち返り、信仰において立ち直るときに、キリストにおける兄弟姉妹を力づけてあげることができるなんてなんて素晴らしいことなのでしょうか! ペテロはイエス様を3度否定します。しかしイエス様はペテロの罪だけで十字架にかかり死んだのではありません。この世の罪全て、過去の罪、現在の罪、未来におかされる罪全てのために十字架にかかり、死なれたのです。そして来週のイースターでは死なれ、甦られたイエス様のことを共にお祝いするわけです。 イエス様が甦られた後、イエス様はペテロに現れ、ほんの少し前にイエス様を公の場で3度否定したペテロに次のように3度聞きます。「あなたはわたしを愛しますか?」(ヨハネの福音書21:17)ペテロは心を痛めました。(ヨハネの福音書21:17)自分がおかした罪に対しまだ自責の念があったからかもしれません。自分の信仰における大失敗について、言及されたい人などいないでしょう? しかしイエス様がフォーカスしているのはそこではないのです。イエス様がペテロに「私を愛しますか?」と聞く時、イエス様はペテロ、そしてペテロに従う人々における神様のご計画を明らかにされているのです。 イエス様はペテロにこのように呼びかけます。「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネの福音書21:15)「わたしの羊を牧しなさい。」(ヨハネの福音書21:16)「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネの福音書21:17) イエス様はペテロからただ、「あなたを愛しています。」という言葉を聞きたいだけではないのです。その言葉が伴う責任について、イエス様は説いているのです。悔い改めは言葉に基づく行動も求められるからです。悔い改め、信仰の道に再び戻ったペテロをイエス様は送り出します。イエス様は、信仰の弱まる兄弟姉妹を力づけるというミッションをペテロに与えるのです。 イエスキリストへの信仰を貫き通すことに失敗したペテロは、再び信仰の道に立ち戻り、その後から大胆に宣教をし始めます。御言葉を宣べ伝え、教え、広めました。イエス様が十字架にかかられた時のペテロの信仰は弱いものでしたが、悔い改めた後のペテロの信仰には変貌がありました。ペテロは最後まで信仰を貫き通し、イエス様と同様、信仰のために十字架にかけられ、神様の栄光をあらわしながら死んでいったのです。 罪の元凶に私たちの信仰の弱さがあります。それが私たちを神様から離させるのです。しかし、信仰の弱さが私たちの最終目的地ではありません。悔い改め、神様の元に立ち戻り、立ち直る時、私たちには新しいミッションが与えられ、そのミッションを成し遂げるための強い信仰、そして決意も与えられるのです。 ここ数週間、受難節ということもあり、私は教会の罪について話してきました。中には罪や悔い改めという、心が重くなる話を聞きたくないと思った方もおられるかもしれません。わたしたちの教会ってそんなに罪深いの?絶望的なほど壊れているの?立ち直れないほど危機的な状況なの?希望はないの?もしかしたらそう思われているかもしれません。 もしそのような心配や不安を抱えてる方がいらっしゃるのであれば、私たちの教会の美しい遺産についてもお話ししたいと思います。イエス様が建てられたこの教会は150年の歴史があります。神戸ユニオン教会は日本にあるユニオン教会において、二番目に歴史のある教会です。世界中の様々なバックグラウンドを持った人達が、この教会に集まってきました。違いがありながらも、素晴らしく、慈しみ深い神様を共に見上げ、礼拝を守り、神様を賛美して来ました。神様は私たちの教会に偉大なるご計画を持ち、私たちの教会を用いてきて来られました。 そして私たちが教会として今悔い改める時、さらにどのような素晴らしいご計画が私たちを待ちかねているでしょうか? 罪があるということは、私たちの教会コミュニティの中に存在している善や、素晴らしいことを否定するという意味ではありません。私たちがどんなに完全であろうとしても、どんなに努力をしたとしても、罪というのは入り込んできます。私たちの教会は、信仰の弱さから罪を犯し、裁きや、不信感を持ち、互いを責め合い、信仰における大切なことをないがしろにしてきたことにより、良い実を結ぶ事ができなくなりました。イエス様にあれば全ての事が可能であるとしながら、罪と罪の解決においてイエス様に十分頼ってこなかったのです。 私たちの教会は主、救い主であるイエス様に祈られた教会であることを忘れてはいけません。イエス様は、困難な時、私たちの信仰が弱くなり、罪深い性質が私たちの教会を支配しようとする時、私たちが罪をおかす時、私たちが弱い時に共にいてくださるお方です。 罪に気づき、罪を認めるという簡単ではないタスクに向き合い、神様の栄光にあずかることができなかった理由を正直に、オープンに探って行く時、悔い改めを選ぶ時、神様がすでに私たちのために素晴らしいご計画をご用意してくださっていることを知るでしょう。神様はその概要を明らかにしてくださることでしょう。私たちがどのようにお互いを助け合い、サポートすることができるかという美しいミッションの内容を教えてくださるでしょう。 それはなんて素晴らしいことなのでしょう?悔い改めるということは簡単なことではありません。特に、個人レベルではなく、それを教会全体でしようとするならば尚更のことです。しかし悔い改めの先にあるものは希望です。神様が私たちコミュニティ、私たちの世界のために用意してくださったミッションについて更に知る事ができる機会です。 私たちの教会はイエス様ご自身が祈ってくださった教会です。そのことにより、私たちの教会はより強い信仰、強い希望を持ち、お互いを力づけながら進んでいくことができるでしょう。 私たちが先頭にたって、悔い改め、贖い、甦りの道を教会として進む時、それを見て他の教会や他の人々もそうすることを励まされたらそれはなんと素晴らしいことなのでしょう。 そのような明るい未来とビジョンを一緒に描きませんか?悔い改め、振り返りという難しいことに取り組んだ先にあるものを一緒に見つめようではありませんか?イエス様が私たちの教会のために、教会にある罪のために祈ってくださったように、私たちも互いのために、互いの罪のために祈ろうではありませんか? 神様が約束する未来に向かって、イエス様に従いながら、神様のご計画に従っていきましょう。 アーメン。 祈りましょう。主よ、受難節を歩む私たちが、あなたと私たちを隔てるもの、罪について見つめる時に、さらにあなたに繋がっていくことができますように。主イエスキリストの御名により祈ります。アーメン。
自分にとって当たり前のことを他の人がしないという経験をしたことがありますか?私にはよく起こります。例えば子供達が宿題をし忘れたりとか、サインや印鑑が必要な書類を渡し忘れるとか、そういうことです。 もしくはドンがうっかりして靴下を床に放置したままにするとか。(私も同じことをするので、人のことは言えませんが、なぜだか自分の配偶者や家族がそのようなことをすると気になりますよね。) このようなことが起こる時私は子供達やドンに次のように言います。「え、何で?どうしてしないの!?」すると「あ、そうだった、忘れてた!」というような返信がかえってきます。 自分達が当たり前だと思っていることを他の人がしていない時、私たちは簡単にそのことに気づきます。しかし自分達が当たり前だと思っていることをし忘れている時、わたしたちはなかなかそのことに気づきません。それは信仰生活においても同じです。 ここで5年ほど前のことを少しみなさんにお話ししたいと思います。当時私はアメリカの神学校で勉強をしていました。詳しいことは覚えていませんが、神学校を卒業した後の将来のプランについて友人に相談していたと思います。それに関する悩みや、心配、懸念を吐露し、友人は辛抱強く、親身になって私の話を聞いてくれていました。そしてその友人が一言このように言いました。 「神様はこれに関してどのようにおっしゃってるの?」 私ははっとしました。そしてその後すぐにとても恥ずかしくなりました。 何故だかわかりますか? 私は神様にこの件に関する懸念を持って行っていなかったのです。私がせわしなくしていた事と言えば、それは悩みや憂いを神様以外の人に吐き出していたということ。その事によって私は私の人生において一番大切な方、神様を無視していたのです。 この体験は今でも私にとってよい教訓になっています。私はこの教訓を毎日思い出す必要があります。何故なら、私は何かあればまずは神様の元に行くという、クリスチャンそして牧師として当たり前のことを忘れたり、しないという誘惑にかられる生き物だからです。 そして頭では神様の元に一番に、いつも行くべき事をわかっていながらも、それを行動に移すことに困難を覚えたりすることもあります。そして教会のリーダーとして私は神様の元に行く事を自分自身が実践するだけでなく、教会全体がそうなれるよう導く責任を感じています。 先月カウンシルでオンラインのリトリートの時間を持ちました。教会のビジョンや将来の計画について話し合いました。もちろんとても大きなトピックなので、そこにいた全員が1日で結論を出したり、具体的な計画について決められるとは思っていませんでした。ディスカッションや意見を交わしていく中で、カウンシルメンバーの一人が「ここで立ち止まって、もっと話していく前に、祈りませんか?」と言いました。 その瞬間は私にとって、私が先ほど話した5年前の出来事を再び思い出すような瞬間でした。「神様はこれについてどう思われているのだろう?」 私は5年前と同様はっとさせられました。もちろんカウンシルメンバーの一人が「祈りましょう」と言った事に対してショックを受けたのではありません。私は牧師である立場の自分が、全ての教会のビジネスにおいて霊的な成長を養う役目を与えられている自分が、そのことを思わなかったこと、祈りを提案することをしなかったことにショックを受け、そのことを恥ずかしく思ったのです。その瞬間、そのカウンシルメンバーが私にとっての牧師だったといっても過言ではないでしょう。 ショックと恥ずかしさと同時に、わたしはその人が祈りを提案してくれたことを、その事を通して神様が私に語ってくださった事を本当に感謝しました。そこで私たちはディスカッションを辞め、賛美をし共に祈りました。その後、私はこの事について更に自分だけで考え、祈り求めました。私はクリスチャンとして、教会のリーダーとしてどのように歩んできていただろうかと。 懸念事項を神様の元に持っていき、祈るというクリスチャンとして当たり前のことを、何故私は提案しなかったのだろうか?その疑問を祈りの中に持っていった時に、一つのある感情が私の頭をよぎりました。それは恐れです。 祈ろうと提案しなかったのは、私の中に恐れがあったからでした。時間がないからと却下されたらとか、たくさん話さなければいけない議題がある、話の腰を折ってはいけないなどの思いが私の頭をさえぎり、私は恐れたのです。 2週間前に説教をした時みなさんに伝えましたが、私は人に、特にグループという状況下で物事をはっきり言うのが苦手なのです。 そのような気づきが祈りの中で与えられていった時、またしてもはっとさせられました。私は人間の思いや、人間の欲望に惑わされていたことを。その状況にあり、神様のご意志やご計画を第一にしていなかったことを。もしわたしがこれを言ったらみんなにどう思われるか?もしあんな提案をしたらみんなどのように感じるだろうか?そのような思いの方がウェイトを占めていたのです。 そのことに気付かされた私は悔い改めました。神様ごめんなさいと祈りました。そしてみなさんにも今ここで、教会リーダーとして、みなさんの牧師としてそのような在り方であったことを悔い改めたいと思います。 恐らく私の予想が間違っていなければ、皆さんもこのような状況に直面した事があると思います。誰しもあえて、神様に祈らないというようなことはしないのではないかと思います。私たちは知識として、祈りの重要性について知っているはずです。私を含め多くの方が日々祈られているとも思います。礼拝の中で祈り、教会関連のミーティングやクラスの前後で祈り、食事の前や、寝る前にお祈りしています。しかし、わたしが今日みなさんと考えたいことは、表面的なレベルのお祈りを超えた、深いレベルでのお祈りをしているかということです。 私たちは誰に対してお祈りをしているのか?具体的な物事や、具体的なニーズ、具体的なトラブルを具体的に神様に話してお祈りしているでしょうか?それとも一般的な感謝や、賛美、お祈りだけに留まっているのでしょうか? 今日の聖書箇所で預言者イザヤを通して伝えられる神様の言葉は、今のような疑問に対し、神様が神の民に語っておられるものです。 「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。」(イザヤ書43:22) そうです、神の民は預言者イザヤの時代にも、彼らが直面している具体的な状況・労苦に対し、神様を呼び求めなかったのです。 紀元前6世紀、イスラエルの南ユダ王国が当時勢力を伸ばし、権力を増していたバビロン王朝に軍事的に捕らわれ、政権を握られました。国と人々を制圧したバビロンは、イスラエルの民をバビロンへ捕囚の民として連れ去り、バビロン内の人口が不足している場所に強制移住を強いたり、王朝の建築計画の労働力として使いました。 自国の安定した環境から、外国語、異文化、異教の外国の地に強制移住させられたイスラエルの人々はその中で生活の基盤を整えなければなりませんでした。仕事をし、お金を稼ぎ、家族、コミュニティを養っていかなければならなかったのです。 それはどれほど大変なことだったでしょう?今ウクライナで起きていることがまさにそのようなことです。家を国を追われたウクライナの人々は、難民として新しい、異国の地で暮らしていかなければならないのです。 そのような過酷な状況の中で、神の民が、神の民として当たり前の、当然のことをしたとみなさんは思われるかもしれません。神の民として心を一つに合わせ、神様を呼び求める。異国の地で強制労働を強いられながら、困難な生活を送る状況に対し、心の底から神様に助けを求める。そのように神の民がしたのだろうと思いませんか? しかし今日の説教箇所によれば、神の民はそのようにしなかったのです。神の民は神様を呼び求めなかったのです。(イザヤ書43:22) それだけでなく、神様と良好な関係を保つためにしていた当然のことさえも、労苦とみなし、そのことを怠りはじめたのです。 「あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。」(イザヤ書43:23) 「あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。」(イザヤ43:24) 遠い昔、イスラエルの民は神様から罪の不義の赦しを受けるために、動物のいけにえを捧げるよう命じられました。(レビ記1)また最上の香料を使い、聖なるそそぎの油を作り、それを神様を礼拝する場所や物にそそぐように、そのことのよって、それらを聖別するように命じられたのです。(出エジプト記30:23−29) 今日の聖書箇所に出てくる全焼のいけにえや、ささげもの、聖なるそそぎ油のための菖蒲は神の民が神様との親しい関係に留まるのに使われていたものです。これらを用い、不義が赦され、清められる。注ぎ油を使い場所や器具を聖別することで、神様を迎え入れる場所を作る。これらのことは、神の民にとって、神様との関係を保つために必要な基本的なことだったのです。 イスラエルの民は神様を呼び求めなかっただけでなく、神様と正直な生きた関係にあるために必要な基本的なことをすることを怠りました。しかし、イスラエルの民が追いやられていた状況を思えば、私たちの中に同情の気持ちも湧くかもしれません。異国の地に強制移住、そこで強制労働を強いられる。日々の生活を生き延びるのに精一杯。いけにえや、ささげもの、聖なるそそぎ油や、それに必要な香料を買う十分なお金もなかったのかもしれません。 神様をあがめるのに相応しい等級のものを買い求めれないのであれば、もう意味はあるのだろうか?そんな風に思っていたのかもしれません。 しかし、神様は民が厳しい状況に置かれていることを知っていました。 「わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。」(イザヤ書43:23) 神様はこのようにして、捕囚として生きる民に、最上のささげものや、香料を求めているわけではないことを民に説明します。乳香など高く、異国の地から取り寄せなければいけないものを求め、民に苦労させたことはないと語ります。神様は献金が減ったことを問題視しているのではないのです。 そうではなく、神様は民が神様との関係を保つのに最低限必要な、当たり前のことをすることを怠っていることを問題視して、イザヤを通し民に語られたのです。 神様を呼び求めず祈らない。 今日の聖書箇所で神様は、捕囚の民として生きるイスラエル人に対し、掟の中で重要とされる隣人を愛することを求めているわけでもありません。また偶像礼拝をしていることを責め立てているわけでもありません。 そんなことよりも、もっと基本的な、根本的な、神様のもとに来ないことを問題としているのです。神様と繋がり、繋がり続けるのに最低限必要なこと、神様に赦しを請うこと、不義を拭い去ってもらうこと、その中で賛美といけにえ、捧げ物を神様に捧げること、それらを怠ったことを神様は指摘します。 「イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。(イザヤ書43:22) と神様が民に呼びかける時、神様は神様と関係を築き、保とうとしなかった民に不満を漏らしているのです。 そしてその他に神様が言ったこと、それは、 民が神様のために労苦をしなかったことが神様の労苦につながったということ。 「あなたの罪で、わたし(神様)に労苦をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。」(イザヤ書43:24) わたしのところに来るのをやめ、わたしの名前を呼ぶこともやめた。わたしとあなたを隔てる、罪の自覚をしたり、告白し赦しを請うこともしない。捕囚として生きるという辛い時にありながら、あなたがたが持てるわたしとの特別な関係をあがめたり、聖別したりしようともしない。生きた関係を保つのに基本的ないけにえや、捧げ物もしないからだ。むしろそのことを労苦と感じ、わたしとの関係を保つための基本最低限の努めを怠った。 「ヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。」(イザヤ書43:22) 神様の悲しみがこの言葉を通して伝わらないでしょうか? 私たちは罪を思う時、大罪をよく考えてしまうのではないでしょうか?姦淫、盗み、暴力、ハラスメント。7つの大罪という言葉もありますね。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。 しかし、神様は大きな罪のように一見思えない、神様との関係を保つのに必要な、基本的な当たり前のことを怠った時、それを罪と呼ぶのです。神様を呼び求めないこと、それは罪なのです。 そしてそれは神様に労苦をおわせ、神様を煩わせるほどの罪なのです。 多くの人が経験したことがあるのではないでしょうか?神様と関係を築くことを怠ると私たちには煩いが増し、疲れが増すという経験を。これが行きすぎると燃え尽き症候群に発展する可能性もあります。しかし、神様も私たちが神様を呼び求めずに、リーチアウトしないとわたしたちと同じように煩いを、疲れを覚えられるのです。 今日みなさんの前で告白したいことがあります。私がこの教会に仕えるようになってから、わたしはみなさんに、神様を呼び求めることがいかに重要かをきちんと伝えることができていなかったのではないかと思っています。パンデミックが起こり、戦争が起こる今、世には罪が溢れています。2週間前に教会に存在する罪についても話しました。これらの罪に対し、必要な大切なことを私はきちんと伝えたり、教えてこなかったような気がするのです。それは私自身がそれらのことを大切にしていなかったからではと思うようになりました。 2週間ほど前、わたしは自分の中にある弱さ、つまり物事をはっきりと言うことが苦手ということをみなさんにお話ししたと思います。そのために、教会の中で罪を見た時も、声を上げて喚起を促すということをしてこなかったわけです。その弱さを自覚し、悔い改めに導かれてから、神様は優しく、しかしはっきりと更にいろいろなことを見せてくださるようになりました。 私は当たり前のことを怠っていたのです。神様に対し、困難な時にあって真剣に、全てを注ぎ出して、全力で神様を呼び求めていなかったのです。自分がそうでなかったために、私もみなさんに対し、神様を呼び求めることを声を大にして伝えてこなかったのではないかと思い始めました。 祈り、全力で神様を呼び求める代わりに、私は恐れに身を任し、時には他の人が言うことや思うことを優先し、親しい個人的な神様との交わりを築き、保ち続けることの重要性を自分にも、教会コミュニティにも最優先させなかったのです。 心配事、懸念、それを神様に持っていき、心を注ぎ出す代わりに、自分の中にある恐れと向き合わなかったため、神様を呼び求めなかったのです。恐れを神様の前に出し、神様を呼び求めなかったので、教会コミュニティの中に罪を見た時に、神様からいただく強い確信を持ち、それは違う、それはおかしいと強い声をあげることができなかったのです。 わたしは神様からの一押しを確信するまで、熱心に祈り続けて、神様を呼び求めていなかったのでしょう。だから必要な時に大胆さを持ち行動できなかったのです。恐れに負けていたのです。 そのことを神様が見せてくださり、悔い改めに導かれた時、私は刷新を経験しました。 全ての恐れ、心配事、不安、その他の辛い思いや感情を神様のもとに持っていっていないことを示された私は、正直に神様の前で告白しました。祈りました。「神様、こんな私でごめんなさい。すみません。」自分の中にある全てのことを、祈り、礼拝、聖書朗読や研究を通して、正直に注ぎ出しました。神様との関係を築き直すのに必要な当たり前のこれらのことを、繰り返しました。それを通してより神様と、みなさんの前に正直な自分を持ってくることができるようになりました。 神様を呼び求めれば呼び求めるほど、必要なものが与えられました。大胆さ、勇気、辛抱、自制、愛、赦し、そして希望、感謝。 コロナパンデミックはある意味、今の時代における出エジプト、つまり奴隷化している状態から抜け出る時にあるような気がしています。コロナによりいろいろな制約が課され、たくさんの当たり前がとられていきました。このような時にあってわたしたちは神様を今まで以上に呼び求めなければいけません。このような時にあってわたしたちは神様の臨在を生きた関係として受け取り、神様の言葉を生きる水として飲み続けなければいけません。祈りを通して神様との関係を構築し続け、そこから生まれる強さや大胆さをもって、困難に立ち向かっていかなければなりません。 私たちは今神様にあるコミュニティとしてそのようにしているでしょうか?神様を呼び求め、祈り、礼拝、聖書朗読、聖書研究を通して神様と親しい関係を構築しているでしょうか? 教会でおこる一つ一つのことに対し、神様を呼び求めて、神様と関係を構築しているでしょうか?礼拝を大切にし、聖別し、今の自分を注ぎ出し、自分を捧げ、神様に喜ばれる贈り物をしているでしょうか?聖書を定期的に読み、勉強し、私たちの口から出る言葉がイエスキリストの教えを反映する、恵み、慈しみ、思いやりの言葉となっているでしょうか?私たちの行動が神様と親しく繋がった人々としての行動であるでしょうか? これらの疑問をみなさんに投げかける時、まずみなさんに伝えたいことは、わたしはクリスチャンとして、教会リーダーの一人として、神様が私に求めておられることを十分にしてこなかったことを告白します。神様を常に第一に呼び求めなかったこと、そしてそのために教会コミュニティに神様を常に第一にすることを強く伝えなかったことを告白し、悔い改めます。それをするかわりに、私は他の人が何を言うか、何を思うかに恐れを覚え、自分の言葉や行動に対し神様を完全に呼び求めませんでした。 粘り強く祈り続け、礼拝において全ての自分を注ぎ出さなかったため、神様からくる大胆さを受け取っていませんでした。クリスチャン、ましてや教会リーダーとして基本的で当たり前な、これらのことを最優先していなかったため、常に神様を呼び求めること、礼拝を大切にすること、聖書朗読や聖書研究に勤しむことを声を大にして言わなかったのだと思います。 神様にはもうそれらのことは告白したので、今日はみなさんの前でそのことを告白し、みなさんから赦しと慈しみを請いたいと思います。そして祈り続け、悔い改めを続ける中で私がさらに神様に近づき、神様が私に近づいてくださった中から得た大胆さと、強い確信を持ち、私は今日このことを声を大にして伝えたいと思います。 教会として私たちは基本的なところに戻らなければいけません。祈り、礼拝、聖書朗読、聖書研究を最優先するということです。恐れやそれ以外の神様から来ない思いや感情で教会を導くことをやめなければいけません。人間的な思いからくる労苦から解放され、新たな、より親しい神様との関係の構築に努めねばなりません。 教会に奉仕してくださる方達のなかで疲れや煩いを覚えておられる方もおられます。教会の中に蔓延る、平和や、和解、愛に至らない議論、不信感、不一致があることも知っています。私もそのことを人間的に思えば疲れを覚えます。 だから人間の思いに目を向けるのではなく、共に神様をもう一度共に呼び求めましょう。わたしたちは疲れていると神様の前に告白しましょう。祈り、礼拝の中で私たちの思いを注ぎ出しましょう。自分達を裸にし、恐れやその他の思いを全て神様様に明け渡しましょう。 この受難節、残りも少なくなりましたが、教会における全てのことにおいて、教会に属する全ての人が、神様を最初に呼び求めることを最優先にすることを呼びかけたいと思います。教会として決断をする時、ビジョンを掲げて行く時、言葉を発する時、アイディアを分かち合う時、何をするにしても、神様のもとに祈りを持っていき、神様との関係を構築する。これが最重要課題です。 今私たちリーダーが抱えているチャレンジの一つに、蔓延防止が取り下げられた今、教会の対面礼拝や集まりに対するガイドラインをどのように改訂したらよいのかという議題があります。蔓延防止が取り下げられた今、ガイドラインの制約をゆるくし、子供と親を教会に再び迎えるという考えがある一方、安全面での懸念について話していることも確かです。 コロナになり、牧師チーム、カウンシルの教会リーダーたちは困難を覚えています。ガイドラインの制定もそうですし、オンライン礼拝への切り替え、対面・オンラインハイブリッド礼拝への切り替え、Zoomクラスへの切り替え、牧会ケアのニーズの変化や高まりなど、考えたり、決めなければいけないことは山積みです。そのようにやらなければいけないことが増えれば、やはり誘惑も増えます。教会のビジネスをこなすことを優先して、基本的な祈りや礼拝、聖書朗読や聖書研究をして培う神様との親しい交わりを疎かにしていってしまう危険性です。 みなさんに私たちの教会リーダーたちのために祈っていただきたいと思います。私たちがいつも神様を呼び求めていけるように。このメッセージの主要テーマですが、私たちは本当に当たり前のことを疎かにしてしまいがちな者なのです。そして教会リーダーたちがいつも神様を呼び求めていけることを祈ると同時に、この呼びかけがみなさんお一人お一人に対するものであるということも覚えていただければと思います。神様はあなたと親しく交わり、関係を築かれることを望んでおり、あなたが考えていること、思っていること全てを聞き、あなたと全てのことにおいて関わりを持ちたいと思っておられます。それがどんなに暗く、闇にみちた、大変なことであったとしても。 怒ったら、神様を呼び求めなさい。落胆したら、神様を呼び求めなさい。傷付いたら、神様を呼び求めなさい。不正や不義をみたら、神様を呼び求めなさい。全てのことを神様に持っていき、神様を呼び求め、祈り、礼拝、聖書朗読、聖書研究を大切にし、神様との関係を第一優先にしなさい。そうすればそれらの事に対する行動を取る時に、自分の中、もしくは私たちのコミュニティの中にある罪に向き合う際に必要な大胆さや確信が与えられるでしょう。 わたしたちが神様を呼び求め、罪に向き合い、神様がオファーする正直で愛にあふれた関係からほど遠く離れてしまったことに気づく時、今日の聖書箇所の後の1節、イザヤ書43:25に目を向けてみてください。神様は私たちの罪を覚える事をせず、また私たちを迎え入れてくださるのです。 神様を呼び求め、神様との親しい関係を取り戻す時、神様が全ての神の民に約束した言葉を聞くことができるでしょう。その言葉は2000年以上前にバビロン捕囚に囚われたイスラエルの民に対する言葉でもあり、今困難な道を歩んでいる私たちの教会に対する言葉でもあります。 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。」(イザヤ書43:19) 主よあなたを呼び求めます。主よ、私たちを憐れんでください。 アーメン。 |
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May 2024
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