聖書:
11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。 あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。 --新共同訳聖書
--新共同訳聖書 【説教】(Summary)
その賛美歌の歌詞は今から約150年ほど前に、Frederick William Faber によって書かれました。イギリスのヨークシャー生まれでロンドンに住み、働いて、そこで亡くなった英国国教会の司祭です。一方、曲は、1970年代後半に、アメリカの教会音楽家・作曲家でパイプオルガンの革命的な演奏家でもあったCalvin Hamptonによって作られました。ヴィクトリア時代にイギリスで、賛美歌のために創作された信仰的な詩と、20世紀後半のアメリカで創作され演奏された音楽の組み合わせです。 今朝のお話はイエスの癒しの物語を、皆さんがただ、「これはこのような意味です」と聞くだけのものではないことを願っています。そうではなく、私たち一人ひとりがルカ福音書のこの物語に向き合って、自分自身の場所を物語の中に見つけ、この物語の場面の雰囲気を感じ、その語りかけるところを自分のために、自分の力で探り当てるように、との招きとして考えました。皆さんが、この物語との出会いの中で、新たな驚きを見出して謙虚になり、新しくされ、変化してゆくこと、イエス様と神様とに顔を合わせて出会うように、幾度も方向転換をしていくことを願っているのです。 そして、会衆賛美の力が、この信仰的な旅を支え導いてくれることをどうか体験してください。礼拝の仲間と一緒に息を吸い、そして声として吐く。一緒に呼吸する。歌う。そのことが、私たち一人一人の個人邸な信仰の旅を、一つの信仰共同体としての経験へと整えてくれるでしょう。賛美歌の歌詞をそのようにして味わい歌うことで個々の考えや思い描く像、そして深いところにある祈りの数々に言葉と形が与えられ、一つになり、みなと分かち合えるものとなります。 そのようにできた時、会衆賛美という行為は、私たち礼拝に集まったものによる私たちのための「説教=語りかけ」となり、またそれだけでなくこの世界に対して、この世界のあらゆる命のための「語りかけ」ともなるでしょう。 この世界、神様の作られた宇宙は広く、私たちはそのすべてを掴み切ることはできません。海よりも空よりも広く大きい。そして、神様はその空や海より大きく、広い聖なる方です。その大きく、広い方の裁きとその優しさもまた限りなく大きく広いでしょう。どんな罪のある人もそのひろさ、大きさに包まれないことはないのです。そうして、全ての命は贖われ、癒やされるのです。イエスが十字架の上で示してくださったのは、そういうことなのです。 では、賛美歌の第1節を一緒に歌いましょう。 神の慈愛は広い、海の広さのように 神の裁きの優しさは、解放の自由さ以上のもの。 そこには罪人への寛大な招きがある、勿論、善い行いに生きる人にも 救い主キリストの元にこの慈愛がある。救い主が流した血に、癒しが宿る。
彼は苦しんでいます。家族のために、それどころか自分自身が生きるためにも働くこができません。彼の息は苦しくて浅く、弱々しいものです。座っていることも、ここまで来ることもきっと大変だったでしょう。ところが突然、誰かが(恐らくはこの食卓の主催者でしょう)が、彼を掴み、抱えて、食卓の主賓席にいるイエスの目の前にいるようにしたのです。その時のこの男性の気持ちを想像してみてください。いい服を着て、健康で幸せなこの食卓のすべての客の目に晒されて、ジロジロと観察される気持ちを、です。 福音書記者ルカは、この食卓の客たちについて、彼らは皆、この様子をじっと、息を殺して見つめていた、と記しています。食べるのも飲むのも後回しで、ただ固唾を飲んで、イエスがこの「挑戦」に、この「課題」に(つまり、安息日に癒しの行為=労働を敢えてするのかどうか)、どう反応するか、それを今か今かと、じっと見ていたのでした。期待と不安ではち切れそうになりながら、そして何がが起これば、すぐに賢い、批判的なコメントを言うために。 イエスは静かに、でも怒りを秘めて、行動を起こします。血の通った、懸命に病と闘いながら生きる一人の存在を、自分たちの興味関心を満たす見せ物にしている人たちに対して、この一人の生きた人間の人生を、律法の議論のネタとしか考えない人たちに対して、そして、自分たちはこの食卓を催すことで慈善をしている、ただこうして、興味本位に他者の苦しみや痛みを見ているだけと言う態度の残酷さを知らない人たちに対して。 イエスは彼らの無関心に対して、この男性への深い愛情で持って決然とした行動に出ます。イエスは、安息日に、水腫で苦しむこの男性に癒しを行ったのでした。そしてこれが、医療的に、肉体の痛みを取り除く「労働」であっただけではないことを、私たちは心に刻まなければなりません。この癒しは、「病人であること」が、この男性に与えた屈辱や悲しみ、神に裁かれ、罰を与えられ見捨てられて苦しむ「罪びと」なのだと言う、心に課せられた重圧から彼を解放する桃のであったからです。 彼の悲しみ、苦しみはすべて、イエスに知られ、受け入れられて癒やされました。そして、この食卓に集った人たちが犯した過ちもまた、神に見つめられ、知られて、神の記憶に留められたでしょう。ただ、神はこの過ちに、罰を与えるのではなく、神の赦しと贖いのひろさ、豊かさを示すことで応じられたのです。癒やされた人の喜びがあり、そこに聖なる驚きがあったことでしょう。そしてその聖なる喜びは、凝り固まった石の心を血の通った脈うつものへ、そして狭い了見を開かれたものへと変える力のあるものであったでしょう。
天国ほどに 地上の悲しみがそのままに感じられる場所はなく 天国ほどに 地上での過ちに寛大な裁きが行われる場所などない。 十字架で流された血は、全ての人の凡ゆる過ちに十分な贖いを秘め 私たちの主イエスの悲しみの内に、彼の食卓に集う仲間皆の喜びがある
あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばな らない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 この箇所には、安息日が、日頃重労働を科せられている人間のためにあることが語られれていますが、それと共に、重労働を担う家畜が休み、元気を回復するためだとはっきりと書かれています。そしてこの、命の保護は更に拡大されます。イスラエルの民の内に住む外国の人たち、旅人、寄留者、難民にも、そして、イスラエルの民ではない人々も保護されるのなら当然、イスラエルの民の内の孤児、夫を無くした女性たちも。日々の生活にほんの少しの支えしか(或いは支えを全く)持たない人たちのために神は安息日を定めてくださった。弱り、疲れて、それでも生活のために必死になって働く人たちを見たら、その重荷を下ろさせてあげよう。もしも、私たちが、自分は「神の民」だと思うなら、重荷をおう仲間に休息を、生きる、と言う重労働からの解放を実現するように、と神は私たちを招くのです。 だから、ただ見ているだけ、はもう通用しません。私たちの怠惰と無関心は神の慈愛への裏切りとなるでしょう。聖なる方は私たちのために行動されたのです。今度は私たちが、そのことへの感謝として行動で示すときなのです。特に、安息日には。 私たちの痛みと悲しみを感じ取り、それらを憶えて、神は応答してくださった。だから、私たちも、感謝と喜びのうちに私たちの隣人の痛みと悲しみを感じ取り、彼らを私たちの食卓の仲間に招くのです。彼らを「再び=re」「仲間とする=member」のです。この世の只中で、私たちの神が聖なる方で、その贖いに境界も際限もないことを証しするために。
神の愛は、私たちの考えで測りきれない遠大さだから そして、この永遠なる方はこの世の誰にも優って寛大なかただから もし、私たちの愛が、この方の愛に対してもう少しでも忠実でるなら 私たちはこの方をその言葉通りに受け取り信じなければ そうすれば、私たちの生き方そのものが 私たちの主イエスの善良さに対する感謝の祭りとなるでしょう
想像してみてください。この宇宙の全てとその中にある、創られた全ての存在が私たちの、この、神戸ユニオン教会の食卓に集うところを。ぶっ飛び、ですね。 そして更に想像してみてください。こんな「ぶっ飛び」な出来事が、私たちが、イエス様を中心に食卓につく時には、神様の心のうちに、いつも、常に、計画され、実行されていると言うことを。そうだとしたら、私たちの永遠なる神さまが、何にも優る驚くべき優しいハートの持ち主だと言うことをどうやって否定できるでしょうか。そして、それなら、これほどの優しさと愛に、どうやったら背を向けることができるでしょうか。物語や譬え話、詩や、時に法文(それでも歴史ドラマの一部としてですが)として示されるこのとんでもない優しさと愛に信頼して忠実である以外のことができるでしょうか。注意深く、その言葉に心を傾けて聞き、その言葉に感動し、行動へと押し出されること以外にできることがあるでしょうか? 生きて行動される神様の言葉に「心が動かされる」こと、ただ動機付けられるだけではなく、本当に動かされる、押し出される。そのようにして生きる時、私たちの人生はどのように見えるのでしょうか。 それは時に、あたふたさせられ、戸惑うものかもしれません。私たちの過ちを認め、慣れ親しんだやり方を変えなければならない時があるからです。でも、そのような「変化」は私たちに新しい一日をもたらすことでしょう。驚きにみちた、新しい日々。それはちょっと怖いかも。でも私たちは、お互いに同じ「旅」をする仲間です。イエスの食卓に座る仲間としてお互いのためにここにいます。仲間=コンパニオン(companion)というのは、共に一つのパン(panis:ラテン語で、パン)を分ける(con- ラテン語)ひと、という意味です。誰でも、イエスの食卓のお客様になれるのですから、「一緒に一つのパンを分ける仲間」というのにも制限も境界線もありませんね。冒険に満ちた人生。ワクワクしますか?明日への希望が見えますか?常に新しくされ、新鮮な命を、イエスの祝宴の食卓からいただく希望です。 最後に、ご一緒に、賛美歌を1節から3節まで歌いましょう。
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祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかないわたしたちの心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたは私たちの岩、購い主です。アーメン。
今日はまず告白します。今日の説教なんですが、書き始めたのは昨日の夜10時でした。教会オフィスで働く人や翻訳チームの人たちは、私がいつもギリギリまで説教に手を加えていることを知っているので、驚かないかもしれませんが、この事に対して私自身驚きました。さすがに私はこんなに遅くまで説教を始めるのを先延ばしにしたことはないからです。 もちろん今週が忙しくなることはわかっていました。昨日は子供たちのサマーキャンプがありました。神様のおかげで、そしてボランティアのみなさん、みなさんの祈りに支えられて昨日のキャンプは無事にうまくいきました。このキャンプの準備を手伝ってくださったボランティアに支えられましたが、私自身もキャンプに向けて準備しなければいけないことがたくさんありました。さらに、この1週間の中で牧会に関する緊急事態も起こりました。 水曜日にこの緊急事態について知った時、正直なところ私がはじめに思ったことはこうでした。この緊急事態に対応するのであればキャンプの準備はどうなるのだろう?私の説教準備はどうなるんだろう?時間が足りるだろうか? 神学校で学んでいる時、将来牧会をする者ととして学ぶことの一つに、境界線を置くことの重要性があります。もちろん、ミニストリーに携わるものとして、できる限り手を差し伸べるが、明確な境界線と優先順位を持たなければ、際限ないニーズの対応に埋もれてしまう。今週のメインイベントはキャンプ。そして牧師として説教を軽んじることはできない。なのでキャンプの準備や説教の執筆を優先する必要があるのは明らかだと思いました。 そのため、緊急事態の状況が明らかになった時、私は2つの異なる優先事項の間で葛藤し、何に一番集中すべきかを決めることができず、立ち往生している自分に気がつきました。 しかしその時、聖霊様が日曜日のロイのメッセージの後に祈った祈りを思い起こさせてくれました。 聖霊を通してのリマインダーが、私に気づきを与えてくれました。私は、キャンプの準備や説教準備よりも、この緊急事態を優先させなければならない。そのことを神様が示してくださった時、今週まだやらなければならない他のすべてのことに対し私はプレッシャーを感じなくなり、心配や不安の気持ちがすーっとひいていくのを感じました。(といっても心配や不安は何度も戻ってきましたが) もちろん、この時点でまだ水曜日だったので、どこかでまだ時間がある。大丈夫と思っている自分もいました。しかし、時間はあっという間に過ぎ、気がつけばもう金曜日になっていました。予想通り、やることはたくさんありましたが、キャンプの準備はほぼ終わっていたので、それが終われば、少なくとも金曜の夜は説教準備に時間を充てれると思っていました。 そんな風に思っていた金曜の夕方、主人のドンの体調が急に悪くなりました。すぐにERに行った方が良いほどに、どんどんと彼の体調は悪化していきました。気がつけば金曜日の夜9時、説教準備にやっと取り掛かるはずだと思っていた頃、私はドンと一緒にERにいました。夫はかなり痛がっていたし、こんなに具合が悪いのを見たのは久しぶりでした。だからERに行きましたが、それと同時に、説教準備に充てれる時間もどんどん減り、金曜日の夜の時点で何も書き上がっていなかったので不安が募りました。土曜日は一日中子供キャンプがあり、キャンプが終わったら、説教を書くどころではないほど疲れ果ててしまうだろうと思ったからです。 そこで、ERの待合室の椅子に座り、ドンが痛みがある中でもできるだけ快適に座っていられているかを確認した後、私はドンに、お医者さんに呼ばれるまで説教原稿を書いてもいいかどうか尋ねました。もちろん、ドンも牧師なので、彼は完全に私のニーズを理解してくれました。痛みにもがきながらも彼は、「はい、もちろん」と言いました。それで、ERの待合室で私はノートパソコンを取り出し、説教原稿を書き始めました。 少なくとも、そうしようとしたのです。 しかし、すぐに私は様々な声が耳に入ってくることに気づきました。その声は、小さい子供が痛みに耐えかねて、絶叫する声だったり、家族が車にはねられた女性のすすり泣きであり、痛みを何とかしてほしいと医師に訴え続ける痴呆の老女の苦痛の声でした。 私はまたしても、自分の説教準備と、苦しんでいる人々のニーズの間で決断が求められていることに気づきました。私は自分のノートパソコンを閉じ、しまい、祈り始めました。周りを見渡すと、スタッフは皆忙しそうで、座って待っている人たちを助けることができないようでした。誰かがトイレに行くのを手伝ってほしそうだったり、吐き気のある人が嘔吐するための袋が必要だったり、車椅子を押すのに苦労している人がいるとき、私は手伝いに行きました。 水曜日のことと、金曜日の夜のこと。それに加え今週は他にもいくつかの出来事があり、何かが起こるたびに子供キャンプがどうなるのか、説教を準備することができるのかと不安でいっぱいになりました。 ストレスを感じました。孤独を感じました。どうなるだろうと恐れを感じました。 祈って賛美するしかない。そう思いそうしました。そしてその度に詩篇の中の神様の言葉が私の中で大きくなるのを感じました。 詩篇46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」 この神様の言葉が私の心の中で大きくなり続け、今日の私の説教タイトル(当初のタイトルから変更しました)である結論へと私を導いてくださいました。 それは神様の大きさです。神様が何よりも大きい方だということです。 私の心配事よりも、私の決めた優先順位よりも、私の計画よりも、私がこうしたい、こうすべきだと思っていることよりも、私のストレスよりも、私の恐れよりも、私の不安よりも、私の不快よりも、私のためらいや不本意よりも、他人の意見や批判よりも神様は大きい方なのだ。神様は病気よりも、緊急事態よりも、私たちの人生で出会うどんな物事よりかも大きい方なのだと。 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩篇46篇10節) 神様はこの地上に存在する何者よりも、何事よりも偉大なお方なのだ。 今日の聖書箇所の中で、ダビデは、彼の周りの誰もがそのことを信じていないように見えたときでさえ、神様が誰よりも、何よりも大きな存在であることを知っていました。他のイスラエル人たちや、サウル王にとっても、ゴリアテは周りのすべてのものよりも大きい巨人な存在でした。ゴリアテは強く、たくましく、恐ろしく、よく訓練された戦士であり、無敵に見えたからです。人々がゴリアテに対して抱いた恐れは、その時人々の中で一番ウェイトを占める大きなものだったのです。 ダビデを除いては。 ダビデは、神様がゴリアテと戦うために彼自身を遣わされたことを知っていました。そして神様がこの戦いから彼を救ってくださることも知っていました。(サムエル記第一17:37)。ダビデにとって、誰がゴリアテと戦うかということは問題ではなかったのです。ダビデにとって重要なことは、彼自身が神様の招きに答え、一歩踏み出せるかどうかだったのです。 私たちが神様に従おうとするとき、神様を愛し、隣人を愛そうとするとき、そこには試練が、誘惑が、そのことを阻もうとすることが起きます。私たちは自分達の日々の生活の中で神様の存在をより大きくしようとし、神様へのコミットメントを高めようとします。しかしそれと同時に、私たちが神様を追い求めること、神様にもっと従い、仕えようとすると、そのことを阻もうとする声も上がり始めます。私たちが一歩踏み出して神様に従おうとするとき、私たちはチャレンジを受け、誘惑され、試されるのです。 ダビデの兄であるエリアブがダビデに言った言葉を思い出してください。彼は怒ってダビデにこう言いました。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」 エリアブはダビデのことをどう思っていたのでしょう?「お前(ダビデ)はこの戦場にふさわしくない。お前の動機が正しくないから。この戦場は真剣勝負なのだから、羊飼いのお前には用はない。」 サウル王はどうでしょう? 「あなた(ダビデ)は、あのペリシテ人(ゴリアテ)のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」(サムエル記第一17:33) 「あなたには経験が足りない。あなたは若く、まだ訓練を受けていない。君には無理だ。」 今朝礼拝の冒頭で、あやみさんとたかよさんが歌った歌を覚えていますか。あの歌は、マタイによる福音書19章14節から歌詞を引用したものです。 「子どもたちを来させなさい。」 なぜイエス様はこのように言われたのでしょう?その理由は、その直前の聖句に書いてあります。イエス様のもとに、イエス様が手を置いて祈っていただくために、祝福し、いやし、油を注いでくださるために子供たちが連れて来られました。しかし、弟子たちは、子供たちをイエスのもとに連れてきた人たちを叱ります。(マタイによる福音書19:13) どうして弟子たちがそんなことをしたのかと疑問に思うかもしれません。しかし実際のところ、このようなことはあなたが、私たち自身が思っている以上に、よく起こっていることなのです。実際、私たち自身もこのような行動をとっています。弟子たちのように口に出して言わなくても、私たちは心の中で子供たちをイエスのもとに来させてないことがあるという意味です。 例えば、私たちは子供たちよりも大人の霊的成長と充足を第一に優先させてはいないでしょうか?もっと具体的に言えば、私たちは子供たちや、ユースのための日曜学校プログラムを、大人のための日曜学校プログラムと同じくらいの重要度で考えて祈っているでしょうか?子供やユースたちのために奉仕するボランティアが、他のミニストリーのボランティアと同じくらいいるでしょうか? 子どもたちが教会の建物の中で自分たちが歓迎されていると感じているでしょうか?礼拝堂でそのように扱われているでしょうか?それとも、子どもたちが歓迎されていないと感じるような言動をしているでしょうか?子どもたちが後ろに座り、全く動かず、騒がず、礼拝の邪魔をしない場合にのみ、礼拝堂にいることを許しているのでしょうか? 子どもたちが私たちにとって理解しがたい言動をしたとき、私たちはどう対応していますか?子どもたちとの会話や交流をそれでも続けていますか?それとも子どもたちとその親を裁きながら、子どもたちと話したり、関わることをやめてしまうのでしょうか? 今日の聖書箇所から聞こえてくるのは、まさにそのような大人の言動ばかりです。「あなたはまだ子供だから、あなたはまだ若いからあなたにはできない。」子供はまだ子供なのだ。すべてを知る必要、すべてを説明する必要はない。子供は大人に従えばいい。 ダビデが戦いに勝てるわけがないと大人が言ったように、私たちも子供たちに対し、あれもこれもできるわけがないと思ったり、言ったりしてはいないでしょうか? でも、本当にそうでしょうか?神様はそう思われているのでしょうか? いいえ違います。私たちの子供たち一人ひとりを創造された神様は、あなたや私が子供たちについてどう思うかよりも、はるかに大きなお方だからです! KUCファミリーの皆さん、私たちの教会、そしてコミュニティーの皆さん、イエス様が言われた「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。」(マタイによる福音書19:14)という言葉ををどれくらい真剣にとらえているでしょうか?私たちが教会で行っている言動は、本当に子どもたちをイエスのもとに迎え入れるためのものになっていますか?それとも、私たち大人たちだけが良く、快適で、霊的に満たされることをして、子どもたちがイエス様のところに行くのを妨げてはいないでしょうか? イエス様が私たちに求めておられるように、私たちは子供たち(自分達の子供、教会に来る子供たち)に接しているでしょうか? 今そのことを真剣に考え、しばらくの間、神様があなたに何を語られておられるか求めてみてください。 もし今この瞬間、あなたが自分の子供たちや教会の子供たちに対して言ったかもしれない言葉や振る舞いが、あなたの心に重くのしかかっていることに気づいたのであれば、それを神様の前に持ってきて悔い改めましょう。「神様ごめんなさい。あなたのおっしゃるとおりに生きられるよう、子供たちに接することができるよう助けてください。子供たちがあなたのもとに来れるように、私が、私たちが子供たちがイエス様の元に行くのを決して止めないように助けてください 。」と。 罪を悔い改めるのであれば神様は恵み深く憐れみ深い方であり、あなたは赦され、新たにされ、変えられます。あなたは赦され、新しくされ、変えられるのです。子どもたちに対するイエス様の大いなる愛に同調しながら、生きることができるように、必要なものはすべて与えられます。 子供たち、私たくさん喋りすぎちゃったね。昨日は、みんなと一緒に過ごせて本当に嬉しかったよ。みんなのたくさんの笑顔をみて、みんなの笑い声が聞けたこと、みんなが走り回って友達と遊ぶのを見たり、神様を一生懸命礼拝するのを見て本当に嬉しかった。昨日、ダビデとゴリアテの物語を通して恐れについて学んだよね。覚えてる?キャンプリーダーの一人であるアンディさんが言ったことを繰り返して、今日は終わりにしたいと思います。 注射、暗闇、夜のトイレ、虫、ひとりぼっちになること、パパとママ(特に叱られそうなとき)、失敗すること、テストで悪い結果を出すこと、仲間はずれにされること、誤解されること、新しい土地での生活を恐いと思うことは当然のことだよ。 だけどあなたを造られ、愛しておられる神様は、これらすべての恐れよりもはるかに大きな方なんだよ。私たちの神様は、あなたの心配、恐れ、ストレスよりもずっと大きい方なんだよ。神様は、あなたがどこへ行こうとも、あなたとともにずっと一緒にいてくださるよ。一人じゃないよ。 だから、私たちは歌って、踊って、祈って神様ありがとうと賛美するんだよ。 祈りましょう。神様、あなたはとても大きい、偉大なお方です。どうか私たちが、あなたが思う最高の私たちになれるよう助けてください。自分達にはできません。イエスの御名によって、アーメンと祈ります。 1時間仕上げクリーニング店の話
ある人が本当にやりたい仕事に応募し、懸命に祈りました。そして運よく翌日の面接にこぎつけました。神に感謝して当日になり、面接は午後3時でした。昼食後、面接に着ていくスーツが汚れているのを見つけました。もうすぐ1時です。近くのクリーニング店に飛び込むと、出来上がりは明日になると言われました。そこで彼は少し離れた先に「1時間仕上げクリーニング店」があったのを思い出し、そのことを神に感謝しながら走って行きました。店員に「1時間後の2時にできますよね」と聞くと、「無理です。今日の夜になります」と言われました。「でもここに1時間仕上げって書いてあるじゃありませんか」と言うと、店員は「これはそういう店の名前です。1時間じゃとてもできませんよ」と答えました。さて、この話の顛末はどうなったのか。私に聞かないでください。 私たちの中に「クリスチャン」という言葉をよく使う人がいますが、それだけでは何の意味も成しません。警察署に行くからといって、警察官とは限りません。病院に行くからといって医師とは言えません。教会に行くからといって必ずしもクリスチャンとはいえません。「1時間仕上げクリーニング店」と同じように看板の名前だけになるかもしれません。 スクライブ(写本筆写者) 聖書を書き写して写本を作る人のこと。 印刷技術が普及する以前、スクライブは一日中聖書を書き写して、神の言葉に触れていました。今の時代なら学者、神学者、宗教指導者などと呼ばれるでしょう。 歴史的にユダヤの伝統では、神の掟を肯定的な掟と否定的な掟に分けていました。 すべきこと 248、すべきでないこと 365 このように、従来タナハ(ユダヤ教聖書)または旧約聖書には613の戒律があります。 十戒の一番始めにある「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト記20:3)を、イエスがいちばん重要な戒めとして選んだとしても当然だと思うでしょう。しかしイエスはそれを選びませんでした。 シェマ これはヘブライ語で「聞け」という意味です。 「イエスは答えられた。『第一の戒めはこれです。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」』」(マルコ12:29-30)。 イエスはこの「シェマ」の戒めを申命記から引用しています。 「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4-5)。 この「シェマ」は当時から現在に至るまで、ユダヤ人の最も重要な精神的概念であり文書です。ユダヤ人にとっての祈りの中核です。ユダヤ人の子どもはみなこのシェマを学び、最初に覚える箇所です。 A.心を尽くして主を愛しなさい ここでイエスが言われる心とは、感情の中心にあるものです。感じることの中心であり、願望の中心です。感情的な部分です。配偶者に「心を尽くして愛している」と言う時、内蔵機能としての心臓で愛しているわけではなく、感覚や願望や感情によって愛しているのです。すべての情熱を注いで神を愛せといいます。みなさん、人生で神を第一に置きましょう。神なしでは生きていけないほどに。 B.いのちを尽くして主を愛しなさい これは意志であり選択です。いのちを尽くして決断します。これはすべきことをするというエネルギーです。 C.知性を尽くして主を愛しなさい イエスが旧約聖書のシェマから引用した箇所と、マルコの福音書で言われた言葉を比較してみましょう。 旧約聖書 シェマ(申命記6:4-5) 「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。 新約聖書(マルコ12:29-30) 「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」』。 なぜイエスは「知性」(mind)という言葉を付け加えたのでしょうか。 それは私たちの知性が見過ごされないためです。 説教や講義を聞いたとき、最初に体のどの部分に伝わりますか。それは耳です。 「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)とあるからです。 それから脳、つまり知性に伝わります。「私を知って愛しなさい」「もし私を知らないなら、どうして私を愛せようか」と神は言われます。神の言葉を知性で吸収してください。それから心の中に浸み込ませてください。これこそ神が言われたことです。 「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである―主のことば―。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中(minds)に置き、彼らの心(hearts)にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:33)。 頭は心とつながっていなければなりません。つまり、神について頭で学び、得たものはすべて心の中に置き、それを情熱、願望、感情に変えて表現してください。 知性で神を讃える 次に大切なのは、神から授けられた頭脳で神を讃えることです。もし数学や科学の難解な方程式を解き、複雑な計算ができる頭脳を持っているのなら、その才能を通して神を愛し、讃美してください。もしビジネスに長けている頭脳を持っているなら、そのビジネスを通して神を愛し、讃美してください。設計や建築に秀でているなら、そのスキルを通して神を愛し、讃美してください。アーメン。作家、詩人、歌手など神から与えられた才能が何であれ、神を崇拝し、栄光を讃えてください。全知性を尽くして神を愛してください。神はあなたの頭脳を作られ、そこに神ご自身の誉れと栄光を表されました。アーメン。 D.力を尽くして主を愛しなさい 力は動くための肉体的能力です。神を愛するのにその力を使うのです。神がくださった力を使うのです。これは、知性(mind)によって知っていることと、魂またはいのち(soul)で決断したことと、心の中で情熱的でいること(heart)を維持し、継続する(strength) 能力です。 二つで一つ 「どれが一番たいせつな戒めか」という一つの質問に対して、興味深いことにイエスは二つの答えを出しています。質問はひとつですが、イエスの答えは、第一の戒めと第二の戒めのふたつありました。 「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』。これらよりも重要な命令は、ほかにありません」(マルコ12:13)。 第一の戒めと同じく、第二の戒めも一番重要な戒めです。第一と第二は切り離すことはできません。それで、イエスは第一と第二の二つを答えました。これは二つで一つのものだからです。 黄金律(ゴールデンルール) 自分が人からこういう風に愛されたいと思う同じやり方で隣人を愛するようイエスは教えています。このことはマタイ7:2とルカ6:31の黄金律にあります。 「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい」。 この黄金律はクリスチャンとして生きるために適切な信条かもしれませんが、少しずれてしまうと、よいどころか悪い状況に陥る可能性があります。本当の意味からはずれると、人間関係にひびが入ります。例を挙げてみましょう。 例 疲れていたので私は妻に足を揉んでほしいと思いました。ということは黄金律で言うと、誰かが疲れていたら私はその人を横にならせて無料で足を揉むのでしょうか。(私はそうしたいと思いますけど)。また人から話しかけてほしければ、いつも誰かに話しかけるということでしょうか。でもそんなに話しかけてばかりいる時間は取れません。こういうことが起こると、自分がしたことに報いを求め、人が報いてくれないと不満に思うようになります。 このように、黄金律の真の意味から逸脱すると、自分が人から扱われたいと思う方法で、人を扱うことになります。つまり自分の視点で人に要求するようになります。これは、人は皆同じものを必要とし、同じものを要求しているという前提に立っていますが、それは間違いです。実際には、人はみなそれぞれ違います。皆それぞれ異なるものを必要とし、異なるものを要求しています。どのように人から接してほしいか皆違う意見、違う好みを持っています。でも同じ人間ですから、似たものを持っている場合もあります。 白金律(プラチナルール) 「人がしてほしいことをしてあげる」 つまり、身近な人がどのようにしてほしいかよく知っていなければなりません。 愛する人たちに対して、自分が何を望むかで関係を測るのではなく、その人たちが何を考えているか、何が必要かを見つけて必要なことを満たしてあげるのです。 黄金律と白金律の重要性とは何か 自分自身から目を離し、他の人に目を向けることです。 「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい」(ピリピ2:4)。 「私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです」(ローマ15:2)。 「だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい」(Ⅰコリント10:24)。 共感
友人が配偶者を失ったら、自分の身に起こったように考える。 隣人が何を必要としているのかを見つけ、自分が必要としているかのように考える。 すべての律法は、「いちばん重要な戒め」で全うされる (補足) 「律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです」(ガラテヤ5:14)。 十戒の要約 第一から第四の掟は、「主を愛すること」。 第五から第十までの掟は、「隣人を愛すること」。 神を愛することと隣人を愛することは、宗教的な行為よりもずっと重要だとそのスクライブ(律法学者)は気が付きました。スクライブは神学者で宗教の専門家です。彼が神殿で行っているいけにえ、宗教儀式、供え物の行為より、神と隣人を愛する方が大事だと知りました。 アガペーの愛 ここでいう愛は、いわゆる「アガペーの愛」です。このアガペーは旧約聖書の中ではほとんど見られません。アガペーの愛を知らしめたのはイエスだからです。 アガペーの愛は神の無条件の愛です。アガペーは、見返りを期待することなく、相手に何かをすることです。 なぜ神はアガペーの愛で私たちを愛してくださるか知っていますか。なぜなら私たちには見返りとして神に差し出す物は何もないからです。まったく何もありません。もし神がアガペーの方法で私たちを愛してくださるのでなければ、私たちは決して愛されることはないでしょう。もし神の愛が世俗の愛と同じであったら、ひとり子イエスを世に送り、私たちのために死なせることはなかったでしょう。人を愛する時、あなたの中にある神の性質によって、神が人を愛するようにあなたも人を愛するようになりますが、それが見返りを求めないアガペーの愛です。 神の国から遠くない 「イエスは彼(律法学者)が賢く答えたのを見て言われた。『あなたは神の国から遠くない』」(マルコ12:34)。イエスはこのスクライブ(律法学者)が言ったことを受け止めました。しかし「神の国から遠くない」だけでは不十分です。このスクライブはまだ神の国に入っていません。近くにいますが、まだ中に入っていないのです。 イエスの言われたことを信じるだけでなく、信じて実行しなければなりません。ナイキのJUST DO IT!(とにかくやってみよう)のスローガンと同じです。 知っているのに実行しないのは、イエスの言われた「あなたは神の国から遠くない」状態と同じことです。 毎週日曜日この教会で、私たちは神の言葉を聞いて祝福されています。もし神の言葉を受け入れるなら、スクライブと同じように神の国から遠くないところにいるといえます。でももう少し前進して行動しましょう。このままでは神の国の近くにはいますが、まだ中に入っていません。 誰も天国の近くにいたいとは思いませんよね。天国の中にいたいと思うはずです。「神の国の近くにいる人」というレッテルを張られたいとは思わないはずです。 私たちは全うしたいのです。イエスを主として、また救い主として受け入れ、イエスの言葉を聞き、イエスの言われるように行動しましょう。神の国の近くにいるだけではだめです。長い道のりをここまで来たのですから、もう少し歩を進めてあなたの人生のために主の言われることを実行しましょう。全うするようがんばりましょう。 神を愛するとは温かく、優しく、まるで綿毛に包まれたような感覚だと言う人がいます。それは讃美歌やワーシップソングを歌う時、祈る時、聖書を読む時などで、神に本当に愛されていると感じるといいます。すばらしいことです。そういう感覚を持つのはよいことです。しかしそこで終わってはいけません。みなさん、神を愛するというのは感覚だけではありません。愛するとは行動の言葉です。 「もしわたしを愛しているなら(みなさん、温かく優しく包まれたような感じになるでしょうか)、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)。 愛するなら行動してください。隣人を愛することによって神を愛してください。人に仕えることによって神に仕えてください。心といのちと知性と力を尽くして神を愛し賛美するだけでなく、困っている人たちに援助の手を差し伸べてください。イエスは言われました。本当にイエスを愛するなら、隣人を愛することで示しなさいと。 イエスが引き受けてくださった 「『あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです』。すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』。すると王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです』」(マタイ25:35-40)。 さて、これはあなたの愛の実践です。行動の伴わない信仰は死んでいると神の言葉にあります。また行動の伴わない愛も死んでいると私は信じています。同じように神も行動を伴ってあなたを愛しておられます。神はあなたが地獄に行くと知りながら、天国からあなたをただじっとご覧になっていただけではありません。あなたが永遠に神から引き離されると知りながら、あなたを愛しているとか、あなたはかわいいとか、感じがいいとか口先だけで言われたわけではありません。 神は行動されました。どのようにされたのか。あなたを地獄の火から救うために御子イエスをこの世に送ってくださいました。それはただあなたを愛しておられるからです。神はあなたへの愛ゆえに行動されました。ですから愛するとは行動の言葉なのです。 一番たいせつな教義 KUCのE&Dミニストリーのリーダーを務めることができて嬉しく思っています。誰もがこのミニストリーの一員であるよう皆に勧めています。ここはまたイエスが全人類にくださった愛と救いについて話をする個人的なミニストリーでもあります。 E&Dミニストリーのための聖句はマタイ24:14です。 「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」。 これがいわゆる「大宣教命令」です。 さて、今日お話しした戒めは何と呼ばれていますか。 「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』」。これが第一の戒めです。「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』」(マルコ12:30-31)。 これが「重要な戒め」と呼ばれるものです。 これで大宣教命令と重要な戒めがわかりました。 次のものが教義です。 大宣教命令と重要な戒めに対する大きな決意によって、心の中に大きな平安がある偉大なクリスチャンを作り、偉大な教会を作る。 これが私たちの生き方と教会の祈りとなりますように。アーメン 「平和を作り出す者:立ち上がり、動きだせ」 神戸ユニオン教会--- 2023年8月6日 説教者: クラウディア牧師 マタイによる福音書 5:9、ローマの信徒への手紙 5:1 (NIV)8/3/2023 約27年前、私は聖地を2週間旅しました。ここにおられる皆さんの中で、聖地に行かれたことのある方がどれくらい、いらっしゃるか分かりませんが、私たちの主イエス・キリストが歩いたかもしれない場所に実際に行くというのは素晴らしい経験です。私はそこで、世界各国の英語圏の牧師が集まる国際牧師会議に出席しました。
聖地にいる間、私は、主が私たちに「至福の教え」を与えてくださった場所からそう遠くない、ガリラヤ湖を見下ろす丘の上に立っていました。 今日の聖句は、その「至福の教え」からの抜粋となります。イエスの言葉は、今も私たちの心に響くものです: 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイによる福音書5:9) 今日は広島の原爆投下があった日です。今から78年前の8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下されました。 広島では10万人~16万6千人が亡くなったと推定されています。 (出典:放射線影響研究所)そして今日、私たちは平和について、また平和を作り出す人とはどういうことかを考える日でもあるのです。 私たちが知っている聖書は翻訳に翻訳を重ねたものなので、必ずしも原本の正確な意味を理解できるとは限りません。パレスチナのクリスチャンであるエリアス・チャクール司教は、その著書である、『We Belong to the Land』の中で、イエスの言語であるアラム語を知ることで、イエスの教えに対する理解が大いに深まったと述べています。 「至福の教え」は、時に受け身(受動態として)で表現されます。今日の聖句は、その一部抜粋となります。 「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 「blessed (祝福される/さいわいである)」は、ギリシャ語新約聖書で使われているmakarioiという単語の訳です。しかし、チャクール司教がイエスのアラム語を、さらに遡ると、原語になった単語はashrayであることがわかりました。しかし、ashray には受動的な意味はなく、むしろ、『正しい目標のために正しい道を歩むこと、回心すること、悔い改めること、まっすぐになること、正しくなること』を意味します。だから、イエスの言葉をアラム語で解釈すると、次のようになるのです: 「立ち上がり上がり、進みなさい、動きなさい、平和をつくる者たちよ、そうすれば、神の子と呼ばれるでしょう。」 このように聞けば、キリスト教は受け身ではなく、もっと能動的で、エネルギッシュで、生きているものだと理解できるでしょう。 つまり、現実的には、私たちは立ち上がり、自発的に何かを行うように求められているのかもしれない。という事です。 イエスがこの言葉を語った時、(このスピーチは群衆に向けられたものではなく、弟子たちに向けられたものであることを思い出してください。)それは、「立ち上がり、動きなさい、そして平和と正義と平等の世界を築きなさい。」 という命令に近いものであったことを読み取る事ができます。 なぜ世界には戦争があるのでしょうか?なぜ世界平和は世界の指導者たちから遠ざかっているのでしょう?なぜ世界各地で、少なくとも50の内戦が常に起こっているのでしょうか?なぜ私たちは、平和を作り出す者になれないのでしょうか? 世界中のキリスト教徒は、軍事力だけでは(大量破壊兵器の使用も含めて)紛争は解決しないと繰り返し主張してきた。むしろ、紛争の根本的な原因に対処する必要があると説いてきました。 何年も前に、私は近藤紘子さんと初めてお会いしました。 近藤紘子さんは被爆者で、平和創造をライフワークとしている平和活動家です (彼女の名前をグーグルで検索すれば、YouTubeのドキュメンタリーや記事をたくさん見ることが可能です)。 広島に投下された原爆によって街が破壊されたとき、紘子さんは、わずか生後8ヶ月でしたが、原爆投下は彼女のその後の人生に大きな影響を与えたのです。彼女と彼女の母親は、78年前の8月に自宅が破壊されたとき、爆風から生き延びる事ができました。自宅は倒壊しましたが、2人は生き延びたのです。 彼女の父親でメソジスト派の牧師であった谷本清は、ジョン・ハーシーの著書『ヒロシマ』に登場しています。谷本牧師は原爆によって火傷を負い、醜い姿をした日本の少女たちに整形手術を受けさせる「ヒロシマの乙女たち」という活動を組織化しました。谷本牧師は平和を推進するために米国に赴き、原爆投下後の広島の負傷者のために、特に酷い容姿になってしまった彼女たちのために募金を集めたのです。1987年に亡くなるまで、彼は平和のための活動を止めることはありませんでした。その活動によって、1955年にはアメリカのテレビ番組『This is Your Life』のインタビューを受けることになり、谷本牧師は、紘子さんを含む家族とともに番組に出演し、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイ機の副操縦士であった、ロバート・ルイスと共にインタビューを受けたのです。その中で、紘子さんは子供の頃、自分の街と多くの人々の生活を破壊した人々を憎みながら育ったと語りました。 しかし、そのテレビ番組の撮影中に、副操縦士ルイスの深い自責と後悔の念を目の当たりにした彼女は、「人を憎むことは人道的ではない、戦争そのものが悪なのだ 」と悟り、その気持ちを自身の言葉で語るのです。 紘子さんは、その後UCC(教団)の牧師と結婚し、平和を推進することに生涯を費やしてきました。彼女は何年も前にWOW(KUCの毎週水曜日に行われる女性たちの集まり)で講演した事もありますし、カナディアン・アカデミーでも何度も講演しています。 小学生から大学院生までを対象にした、様々な学校での講演活動も行っています。また、現在では私の友人であるルース・イングルスルッドと新しい本の作成にも力を注いでいます。そして、1982年にサンフランシスコで始まった 「Children as the Peacemakers 」に長期に渡り関わっていらっしゃいます。 彼女は、「私たち一人ひとりが、次世代を担う子どもたちのために平和を作り出そうという思いで一致団結しなければなりません。若者たちが過去の歴史から学び、行動を起こし始めることに希望がある。」と言っています。 クリスチャンとしての信仰が彼女の活動を支え続けているのです。彼女の願いは、私たち一人ひとりの心に平和が訪れるよう、一人一人が世界の平和を祈り続けることなのです。 (https://rise.icanw.org/koko_kondo) 私が広島を訪れたとき、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に目が留まりました。碑文の一節には、こうありました。 「過去を思い起こすことは、未来に自らを託すことである」 クリスチャンとして、私たちは個人として、また集団として犯した過去の罪を悔い改めなければいけません。そして、私たちクリスチャンは希望の民であり、聖霊に導かれて未来を見つめます。そして、私たちは平和の民でもあるのです。 平和を作り出す者とは、イエスが私たちに命じていること、つまり敵を愛することを実践することです。私たちが敵を愛するのは、神が普遍的な愛を私たちに与えてくださるからです。神は私たちすべてを愛してくださる。私たちは神の子なのだから、同じことをすべきなのだ......それは互いに愛し合い、キリストの平和を分かち合うことである。 平和を作る人は神と平和である(ローマの信徒への手紙5:1、11)。「平和の神」とはヤハウェ・シャローム(The Lord is Peace=主は平安である)です。 「主は平安」(士師記6:24)、「私たちの主イエス・キリストは平和の君」なのです。主イエスは、平和を作り出す者なのです。「主は私たちの平和です」(エペソ人への手紙2:14)。イエスは私たちに平和を与えてくださる方です。(ヨハネによる福音書14:27、16:33) 聖霊は平和の霊である。聖霊は神の平和を私たちの心に与え、供給してくれるのです(ガラテヤの信徒への手紙5:22)。私たちは、導き、知恵、そして神の平和を常に与えてくれる聖霊に頼ることができるのです。 平和を作り出す者とは、神との内なる平和をどのように持つか、また、どのように社会で外なる平和の一部となるかを、自らの生活の中で示しているのです。平和を作り出す者として、私たちはイエス・キリストを人生の主とし、聖霊に導いてもらうことです。 「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」(ローマの信徒への手紙5:1)私たちは平和を作り出す者として、また神の子として祝福されるために、行動するよう求められているのです。 受け身の態度は、神が求めているものではありません。むしろ神は、私たちが平和を作る者として行動を起こすことを望んでいらっしゃいます。 いつ、どこで、どのようにするかは、神の助けによって見極めることができますが、世界を変えるために外に向かうためには、私たちの内側にキリストの平和がなければならないのです。 本日の説教を終えるにあたり、最近聞いたちょっとした話を紹介したいと思います。ある2匹の小さなコウモリの話をしたいと思います。 ある日、2匹のコウモリがミルクの入った鍋に落ちました。悲観的なコウモリはこう言いました。「どうすれば良いの?もがいて、沈んで、疲れて死んでしまうのだろうか?疲れて死ぬことはない。あきらめよう」。そのコウモリはすぐに沈んで溺れたのです。彼は自分の境遇に消極的だったのです。一方、楽観的なコウモリは、こう言ったのです。「私は最後まで努力する。最大限努力して、できることは全てやったと思いたい。」と。彼女はもがき、苦しみ、飛ぼうとしたが、気絶してしまった。その後、彼女は目を覚まし、自分がまだ生きていて、大きなバターの上で無事に休んでいることに気づいた。彼女は絶望に屈することなく、絶望を越えて、絶望的と思われた状況で行動を起こすことができたのです。 私たちは絶望に屈しなくて良いのです。私たちは、平和な生活を送ることを妨げる各々の問題を抱えているかもしれないし、平和でない世界で生きていくことは不可能かもしれません。 しかし、生き残った小さなコウモリのように、私たちは未来に向かって突き進まなければならないのです。そうすれば、私たちを超えたもの、すなわち神に支えられ、支えられていることに気づくのです。 今日は聖餐式の日曜日です。ですから、平和の神と交わるために祭壇に向かいましょう。聖餐式と聖霊から栄養をいただきましょう。「立ち上がり上がり、進みなさい、動きなさい、平和を作る者たちよ、そうすれば、神の子と呼ばれるでしょう。」 アーメン。 |
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May 2024
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