新年あけましておめでとうございます。今日は新しいスタートの日です。新年の新しい夢と希望! 新年を迎えるにあたり、私たちは時間について考えることがあります。ニューヨークのタイムズスクエアでは、新年のカウントダウンが行われます。日本では、新年をNHKのテレビ番組でオーケストラの演奏がありますが、1秒も遅れる事なく、午前0時ちょうどにオーケストラの演奏を終わらせる事が出来るので、ビックリしますね。 1か月程まえに、偶然、「In Time」という映画をテレビで見ました。映画の内容は、寿命時間を通貨とする未来社会の人達の話で、登場人物が腕に自分の寿命をカウントダウンする時計(タイマー)を持っているというものです。寿命時間は人と人の間で直接交換されるか、カプセルに保存することが出来るのです。 彼らが住んでいる国は「タイムゾーン」と呼ばれる地域に分けられ、腕に24時間以上の寿命時間を持っている人がほぼ存在しない、「可哀そうな地域」と、時間が十分にある「裕福な地域」があります。文字通り時間の価値が「ある人」と「ない人」について描かれた興味深い映画でした。 私たちは時間の価値をどう捉えていますか?1年という時間を、どう捉えていますあ?成績が悪くて進級できなかった学生や、家族と離れ、追加で1年どこかに配属されることになった軍人に聞いてみてください。 では、1カ月という時間をどう捉えていますか?赤ちゃんが1か月早く生まれたお母さんに尋ねてみてください。 1週間という時間をどう捉えていますか?論文の締め切りが1週間前だった学生に聞いてみてください。または、毎週、記事の締め切りがある編集者に聞いてみてください。 では、1時間という時間の価値をどう捉えますか?何かの事情で病院への到着が遅れている愛する人を待っている、末期患者に聞いてみてください。 では、1分という時間の価値をどう捉えますか?飛行機や電車にギリギリで乗り遅れた人。予定が変更できない、とても重要な約束をしている人に聞いてみてください。 1秒という時間の価値をどう捉えますか?オリンピックのメダリストに聞いてみたり、もう少しで事故に遭いそうだった人に尋ねてみてください。 私たちは時間というものを気にして生きています。時に、時間を大切にして生き、時に時間に対して不満を持って生きています。ある知人家族は「時間は私たちの大敵だ」と言っていました。毎日忙しいスケジュールをこなすため、十分な時間が彼らには与えられていないように感じていたのです。 人によって、時間が早く過ぎるように感じる人もいれば、時間がなかなか進まないと思う人もいます。時間が常にない人もいれば、時間がありあまるほどある人もいるのです。 では、私たち自身はどのように時間を使っていますか?時間を大切に使っているでしょうか?時間を大切に扱っていますか?祈りの時を大切にしていますか?聖書を読むために十分な時間をとっていますか?これらは、新年にもう一度考え、祈ってみる必要がある質問かもしれません。 神学者のヘンリ・ナウエンは、この様に言っていました。「人生は1日のようなものであって、あっという間に過ぎてしまう。もし私が自分の1日に無頓着であれば、どうやって自分の人生を大切にできるだろうか?」 「時が満ちた際」とは、感動的で強い言葉です。「時が満ちた」というのは、旧約聖書で預言者たちが預言したように、今、キリストが現れ、ここに臨在されているという事です。イエスの宣教と、人間と神との関係の新しい時代が始まったのである。これが、イエスが福音を述べ伝えることの始まりでした。 「すべての事には時があり、旬がある」と聖書には書かれています(コヘレトの言葉3:1)。神は完璧なタイミングを図られている。神が私たちを救うために御子を遣わされた時もそうです。パウロはガラテヤ人への手紙でこのことに言及し(「しかし、時が満ちると、神は神の子を遣わし…」)、イエスの誕生について「時が満ちる」と表現しています。神はそれを計画されたのです。旧約聖書で救世主の到来を預言したのは、預言者だったのです。しかし、正確な時というのは、神以外誰も知りませんでした。 人によって、新年は新しい事に挑戦したり、新しい決意表明をする時ですが、信仰における決意を新たにする時でもあります。新年は、神が私たちの人生、私たちの周りの人々の人生、そして今日の世界をどの様に形成しておられるのかを見つめ直す時でもあると言えるでしょう。 私たちには神の時間があります。そして、私たち自身の時間があります。 以前、カイロスとクロノスについてお話ししたことがあります。古代ギリシャでは、時間に対して、この2つの対照的な言葉を使っていました。「クロノス(chronos)」は、「クロノジー(年表や年代という意味)」という言葉の語源であり、時間を分と秒、要するに時計などの時の流れを指します。クロノスは、1日や1時間といった測定可能な時間を指します。(例えば、使徒言行録13:18にあるように「40年」や、使徒言行録27:9にある「多くの時間が失われた」などに表現される、計ることができる時間を指します)。 カイロスとは、歴史の中で神が定めた時間のことで、「正しい時」「約束された時」「好都合な時」と表現されることもあります。カイロスは神の次元で、過去、現在、未来に囚われないものです。 カイロスの時は、正しい時、時が満ちる、そういった時を指します。イエスの宣教はカイロスの時間で満ちていました。カイロスとは神の時間なのです。カイロスの時とは、神が私たちの日常に割り込んできて、私たちに深く触れ、永遠に私たちを変えてしまうような時なのです。この言葉はイエスの宣教をする際に使われるキーワードです。 イエスはガリラヤに行き、「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコの福音書1:15)と言いました。聖書ではザアカイも、盲人のバルティマイも、出血の絶えない女も、みなキリストを求めていました。 彼らはカイロスと呼ぶその時を必要としていたのです。私たちも神を求め(「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイの福音書6:33)、そしてカイロスの時を求めなければいけません。神を求め、神のために時間をとり、神を第一に考えることで、私たちもカイロスの時を手に入れる事ができるのです。 どのように時間の優先順位をつけ、カイロスの時のために自らの心を開けるかについて、ある話しを紹介したいと思います。 以前、タイムマネージメントの専門家がビジネスを学ぶ学生に対して講演をしていました。 その専門家は、しばらく講義をした後、「今からクイズの時間です」と言いました。彼は、1ガロン(4L)の大きな広口のガラス瓶を目の前に置きました。そして、拳サイズの石を10数個取り出し、1つずつ丁寧に瓶の中に入れていきます。瓶がいっぱいになり、もう石が入らなくなると、学生にこう聞きました「この瓶は一杯ですか?」、すると生徒は、「一杯です。」と答えました。 すると、その専門家は「本当に?」と聞きます。そして、次に彼はテーブルの下から砂利の入ったバケツを取り出しました。そして、砂利を瓶の中に入れて揺らすと、拳サイズの石の隙間に入っていくのです。 そしてもう一度、「瓶は一杯ですか?」と笑顔で質問します。すると、1人の学生が「多分満杯ではないと思います。」と言いました。 「ですよね!」と専門家は言い、次に砂の入ったバケツを取り出しました。砂を瓶の中に入れると、石と砂利の隙間を砂が埋めていくのです。そして、もう一度、「瓶は満杯ですか?」と聞きます。すると、学生たちは「まだ満杯ではありません!」と言います。そして、専門家は「よく言った」といって、次に水の入ったピッチャーを取り出し、瓶が満杯になるまで注ぐのです。 そして、専門家は学生たちに、「この実験の意味とは何でしょうか?」と聞きます。 すると、1人の熱心な学生が手を挙げて、「この実験の意味とは、どんなにスケジュールがいっぱいだと思っても、一生懸命に頑張れば、もっと詰め込む事ができるという意味です。」と答えました。 すると専門家は「いいえ、それがこの実験の意味ではありません。これが言いたかった事は、まず、大きな石を先に入れないと、石を入れるチャンスを失う」という事です。と学生たちに伝えました。 では、あなたの人生にとっての「大きな石」とは何ですか?それはこのようなものであるべきです。毎日、神に近づき、祈りながら神との時間を過ごし、神の御言葉を読みながら、自分の人生に対する神の導きを求めることです。 これらの「大きな石」を最初に入れることを忘れないでください。「大きな石」を知る事は、私たちの時間の優先順位を決めるのに役立ちます。 パウロはエペソ人への手紙にこう記しています。「そこで、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩んでいるか、 よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」(エペソ人への手紙5:15-16)時間を有効に使う。クロノスの考え方はパウロがエペソ人への手紙5章で言っていることを見逃してしまいそうになります。パウロはカイロスを贖うこと、注意を十分に払い、正しい時、好都合な時や季節を利用することを指示しているのです。 モーセは、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」(詩編90:12)と祈りました。日を数えるという事は、私たちが過ごした時間の質を評価することです。時間をどこに使うのかだけでなく、どのように使うのか、なぜそうするのかを考えます。私たちの地球上での時間は短く(詩編39:4-6)、神に仕えるものとして、私たちは本当の意味で神を讃えるために一秒一秒を使い、人生の全ての域で神を第一とすべきなのです。 イエスは朝早く、まず神を求めた(「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行いき、そこで祈っておられた」(マルコの福音書1:35))そしてイエスは私たちに同じことをするように勧めています。 この新年、私たちが時間を賢く使う事でカイロスの時を多く経験できるように祈ります。私たちはクロノスの世界に生きていますが、聖霊に導かれ、カイロスの時を経験することができるのです。 時間の使い方には価値のある時とない時があります。まだ救われていない友人に福音を伝える機会が与えられた数分間は、自分のフェイスブックを見たり、メールをチェックしている時よりも重要な数分間です。この新しい年を、神から与えられた機会を探す時間として使ってみてください。また、神を第一に考える事は、時間を有効に使うことだと覚えておいてください。 神は、過去、現在、未来、すべての時間を司る神です。不確実性の絶えない人生において、聖書は「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」(コリント人への手紙6:2) 今ある時間を活用しなければいけません。クリスチャンは祈り、聖句を読み、人を助け、資源を分かち合い、平和を求め、神を愛し、互いに愛し合うことによって、時間を賢く使う事ができるのです。 時に人生に起こる事で手一杯になることもあるかもしれません。誰にでも起こり得ます。しかし、使徒パウロは自分の置かれた状況に圧倒され、手一杯になるようなことはありませんでした。むしろ、神の助けを借りて、主のために「邁進」する決意を固めるのです。その決意はピリピ人への手紙3:12-14に書かれています。 (「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」) パウロの言葉は、2023年の私たちを助けてくれるでしょう。私たちは未来に向かって突き進む事が出来ますが、過去には赦しを求めなければならないことがあるかもしれません。聖書に書いてあるように、「後ろにあるものを忘れ、前に向かって努力する」べき「時」があるかもしれません。人生は常に不確定要素があります。 明日、明後日、明明後日に何が起こるかは分かりませんが、神が常に私たちと共にいてくださる事は分かっています。キリストにおいて上に召してくださる神に向かって突き進むのです。 神は私たちに記憶する能力を与えてくださいました。それは、良い方向にも悪い方向にも記憶してくれます。この1年の良い事を思い出せれば良いですが、悪い事を思い出す可能性もあります。 しかし、過去に囚われないことが大切です。パウロは、「後ろにあるものを忘れ」と言いました(ピリピ人への手紙3:12-14)。パウロには後ろに様々なものがありました。思い起こせば、パウロには、やや不安定な過去があります。彼は教会を迫害し、自分の権威を振るってクリスチャンを殺害しています。彼は、このとてつもない罪悪感を持って生涯を歩むこともできたでしょうが、そうすれば、今日私たちが愛する偉大な使徒にはなっていなかったでしょう。 パウロは「後ろにあるものを忘れ」と言いました。つまり、「神よ、私はそれをあなたに委ねます。私は過去の全ての罪のためにあなたの赦しを求め、前にあるものを楽しみにしています。」という意味です。そして、続けて、パウロは「私は今日を精一杯生きようと思います。」と言います。 パウロ自身は、テントを人々のために張り、説教をして、教会を設立しました。病人を癒し、本を書き、様々な事をした人です。そのパウロが、「しかし、心に1つ抱いているものがあります」と言います。パウロは、「私の人生の最優先事項は、神が私を召してくださった意義のために、目標に向かって突き進みます。」と言いました。 私たちもパウロと同じように、この新しい年を生きていこうではありませんか。 誠心誠意、頑張ったけれども、その努力が実らなかった時、または世界の出来事に落胆する時、全ての物ごとには、時が満ちる瞬間があることを知りましょう。 世間の喧騒や、忙しさに気を取られているとき、一度立ち止まって、私たちの人生に働く優しい聖霊の音と動きに耳を傾けてください。そして、時が満ちる瞬間を知りましょう。 私たちが祈る時、時は満ちるのだと覚えておいてください。 心を緩めることなく、2023年を歩み、物ごとには、自然と満ちる瞬間があることを忘れずにいましょう。イエスが私たちの心の中に常にいてくださいますように。 私たちの主イエス・キリストの御名のもと、時は満ちるのです。 アーメン。 今から、人々の為に祈ります。 PRAYERS OF THE PEOPLE 祈り 過去、現在、未来の主よ。 新年の最初の日曜日に、私たちはここに集っています。 不安、希望、期待、可能性、心配、など様々な感情が入り混じった中で、新年を迎え、日曜日を迎えています。 私たちには今年がどんな年になるのか分かりません。 しかし、聖霊に私たちを導いて頂くようにお願いします。 新しい冒険の主よ。 あなたの光がやってきて、その光が地球を照らします。 KUCのために、そして私たち自身が他の人々のための光の道しるべとなるように祈ります。 私たちの世界のために祈ります。暗闇と絶望が存在するところで、あなたは私たちの祈りと行動を通して、必要とする人々に光をもたらすための方法を示してください。 私たちは、この新年に、あなたの導きと知恵が私たちを導いてくれることを祈ります。あなたの声が私たちを励まし、成長させ、学び、共に働くことを元気づけてくれることを祈ります。 私たちの未来の主よ。 この新年に、あなたの聖なる光がすべての国、人々、そして創造物を照らし、愛と平和を喜びに導いてくださりますように。 希望の主よ。 今年がどんな年であろうと、私たちは、あなたを信じ、今年の1日1日をあなたのために捧げます。これまでと同じように、あなたは私たちと共にいてくださり、絶え間ない愛で私たちを包んでくれると知っているからです。 愛の主よ。 痛みと飢えで苦しんでいる人、恐怖と不安で怯えている人、空虚で満たされていないと感じている人、愛されていないと感じている人、そして人生の損失を嘆いている人、あなたの癒しの光が、これらの人々を包み込むように願います。 聖霊によって、これらの人々に慰めを与えてください。 新しい始まりの主よ。 これからの一年で、 私たちの魂を成長させ、 私たちを突き動かし、 新しい事に気づかせてください。 神よ、あなたが光を私たちに注いてくださることに感謝します。 あなたが守ってくださるところに身を置き、あなたのために奉仕をして、人生を捧げます。 あなたの御子イエス・キリスト、そして私たちに祈りを教えてくださった救い主を通して、この新しい年に恵みを与えてください。 御名のもと、天の父にお祈りします。 アーメン 新年の祈り この新年を目の前に、 新たな始まりの主よ、 私たちの心を成長させ、 私たちを突き動かしてください。 人々が切望する事、 新しい事に気づかせてください。 人々が望む事が、自分たちの望むものとなり、 そうすれば、自分たちはもっと自信を持って 小さな自分から、より深くコミュニティーとして 成長し、相互存在を反映させる事ができますように。 あなたが与えてくださる可能性を認識できますように。 そして、実践することができますように。 この繊細で壊れやすい世界の中で あなたの御名のもとに感謝して集まり、あなたの為に捧げれますように。 新年、私たちに恵みを与えてください。 正義の種をまき、この時代に平和をもたらす 恵みが与えられますように。 アーメン
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「クリスマスってなんでしょう」 神戸ユニオン教会 ― 2022年12月25日 イザヤ書9:6、ルカの福音書2:12-14、ヨハネの福音書3:16 説教者:クラウディア・ジュノン牧師12/24/2022 メリークリスマス!
みなさんの中には、昨夜のキャンドルサービス礼拝に出席された方もいらっしゃるかもしれません。今朝も来ていただきうれしく思います。 さて、クリスマス(Christmas)という言葉は、キリストのミサ(礼拝)のことで、masはギリシャ語で「大勢の人が集まる」という意味です。つまりクリスマスは「キリストの集い」を意味します。1038年にCrīstesmæsse が、また1131年に Cristes-messe という言葉が記録に残っています。 今日は12月25日クリスマスの日です。宗教事典では「クリスマス」はキリストの降誕を祝うミサとあります。 12月25日を誕生の日と決めた理由はいくつかありますが、実のところイエスが生まれた日はわかっていません。 ある研究では、古代ローマ帝国の国勢調査があった春にキリストが生まれたとしています。ローマでは春に人口を調査し、税金を徴収していました。ユダヤの羊飼いたちは、春に子羊を売って税金を払いました。 別の研究によると、パレスチナの冬は寒すぎて羊飼いが戸外で眠ることはできないため、キリストの誕生は春か夏だとしています。羊飼いは、羊の出産シーズンである春に戸外で羊の群れの夜番をしていたものでした。 また新しい説では考古学的証拠から、イエスは紀元前12年の晩夏か初秋に生まれたとしています。三人の博士をベツレヘムに導いたのはハレー彗星だったというものです。 いずれにせよ私たちはイエスが生まれた本当の日を知らなくてもよいのです。信仰は変わりませんから。 初期のキリスト教徒は、多くがイエスの宣教に同行していましたが、イエスの誕生日を祝うことはなく、むしろイエスの死を記念し大切にしました。(ルカ22:17-20、Ⅰコリント11:23-26) イエス誕生の日にちを12月25日に定めた理由の一つは、古代ローマの政務官ユリウス・アフィカヌスが、受胎は3月25日と信じて、9か月後の12月25日が生誕の日だと決めたからです。 もう一つの理由は、古代ローマ帝国が採用したユリウス暦では、冬至が12月25日だったからです。この日は冬至を祝う異教徒の祭りがありましたが、キリスト教を支持したコンスタンティヌス帝が異教の祝祭を衰退させるために、イエス生誕の日を12月25日に決めました。 冬至は一年の中で節目となる日です。この日を境にして翌日から日照時間が長くなっていきます。日の光はまだ強くはありませんが、物事がこれから変わり始める転換点といえます。このことからも、罪に満ちた暗い世界に「世の光」をもたらしたイエスの誕生が、12月25日の冬至の日になりました。 ところで、日本のクリスマスは私が育ったカリフォルニアのものと随分違っています。私は高校卒業後、交換留学生として1976年に初めて来日しました。当時も今も日本のクリスマスではチキンを食べますが、クリスマスにケンタッキーフライドチキンを食べるなんて、お正月にラーメンを食べるのと同じくらい変なことに思えます。北米ではクリスマスディナーには七面鳥やローストビーフを食べるからです。いちごやろうそくで飾った日本のクリスマスケーキの習慣も私には珍しいものでした。アメリカではデコレーションケーキではなく、クッキーやフルーツケーキを食べます。なぜケーキにろうそくを立てるのかと聞くと、「サンタさんの誕生日だから」と言われました。 以前の日本の街では、12月25日にクリスマスの飾りをはずし、それからお正月の準備を始めていました。最近はそれが早まっているようで、12月15日に買い物に行ったときには悲しいことにクリスマス用のお菓子や切手の販売が終わっていて、すでにお正月の準備が始まっていました。私自身は1月6日の公現祭までクリスマスの飾りをつけていたいと思っています。街のクリスマス飾りをはずす日が年ごとに早まって、飾りが街から消えてもクリスチャンのクリスマスは消えませんし、愛はとどまっています。クリスマスは一日だけのものではありません。クリスマスにやってきた神の愛は、常に私たちとともにあります。インマヌエル、神われらとともにいます。 オランダ人のクリスチャンで、講演者、作家のコーリー・テン・ブームは、ユダヤ人をかくまって強制収容所に送られ生還した人ですが、クリスマスについて次のように言っています。「クリスマスは完璧なものです。神がこの世をそれほどまでに愛されたからです。完璧な贈り物として神はそのひとり子をお与えになりました。私たちに求められているのはただ神を信じることです。信じることで永遠の命が与えられます」。 つまりクリスマスは、キリストの誕生によって世界が変わったことを祝う日です。天が地に触れ、神が人間の肉体を持ってこの世に来られた日です。これが受肉と呼ばれるものです。神は私たちと一緒にいるために、そして愛を示すために地上に降りてきてくださいました。 昨夜のクリスマスイブ礼拝で、受肉について説明するために農夫と鳥の話をしました。説教のコピーが教会玄関ホールに置いてあるので読んでみてください。またウエブで読むこともできます。 それでは今日はまた別の話をしましょう。 昔々、ひとりの王子がお妃にふさわしい女性を探していました。ある日、近くの村を通りかかったとき、馬車の窓から農家の美しい娘を見つけました。以来その娘を見るために何度もその村を通り、娘を好きになりました。しかしどうやって娘と知り合い、結婚を申し込めばよいのかわかりません。命令を出して娘と強制的に結婚することもできましたが、娘が自らの意思で王子との結婚を選択してほしいと王子は思いました。立派な衣装で6頭立ての馬車に乗り、娘の家に行くこともできましたが、それでは娘が本当に王子を好きになったのか、それともその豪華さゆえに目がくらんだのかわからないと思いました。 そこで王子は貧しい身なりをして、一介の農夫として娘の前に現れました。村の人々の中に入り、農民と同じ言葉で語り合いました。王子が娘を愛していたからこそ、やがて娘は王子の人間そのものを愛するようになりました。 この物語は1800年代半ばのデンマークの哲学者で神学者のキルケゴールが、クリスマスとは本当は何なのかを伝えるために書きました。それは神の愛です。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されたのです。(ヨハネ3:16)そして神にとって重要なのは、私たちがその愛にどう答えるかです。 私たちは神がどのような方なのか、神の愛とはどのようなものかについてさまざまな見解を持っています。多くの場合、その見方は自分自身の人生経験によって形作られるものです。物事がうまくいかないとき、愛に満ちた神がどうしてそのようなことをお許しになるのか疑問に思うこともあるでしょう。 クリスマスが意味するのは、神は地上に降りて来て人間の中で生活し、そして私たちのために死んでくださった、それほどまでに神は私たちを愛してくださっているということです。それゆえ苦難や痛みの中にあっても私たちは神の愛を知ることができるのです。 クリスマスに愛が降り注ぎました。あなたは神の愛の贈り物を受け取りますか。 The Risk of Birth (Christmas, 1973) by Madeleine L’Engle This is no time for a child to be born, With the earth betrayed by war and hate And a comet slashing the sky to warn That time runs out and the sun burns late. That was no time for a child to be born, In a land in the crushing grip of Rome; Honour and truth were trampled by scorn- Yet here did the Saviour make his home. When is the time for love to be born? The inn is full on the planet earth, And by a comet the sky is torn- Yet Love still takes the risk of birth. 「クリスマスに愛が降りてきた」 ルカの福音書 2:12-14 &ヨハネの福音書 3:16 (新共同訳) 神戸ユニオン教会 --- 2022年12月24日 説教者: 山本クラウディア牧師12/24/2022 今日はクリスマス・イブです。みんなでイエスキリストの誕生をお祝いします。11月27日のアドベント(イエス様の誕生を待ち望む期間)からクリスマスを迎えるために私たちは準備をしてきました。
クリスマスは、イエス・キリストという人物を通して愛が降りてきたことを伝える素晴らしい物語です。それは神様の愛です。 聖書にあるヨハネ福音書の3:16にはこのようにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 これこそクリスマスの本当の意味です。神様の独り子イエスキリストを通して、神様の愛が私たちのところに降りてきてくださったのです。 今日の私のメッセージの後、クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)が書いた19世紀の詩を歌詞にした「Love Came Down at Christmas(クリスマスに愛が降りてきた)」を歌います。彼女は16歳の頃から健康を害していましたが、深い信仰心を持っており、詩を通して彼女の信仰について表現しています。Love Came Down at Christmas(クリスマスに愛が降りてきた)」は、愛について11回触れている第1ヨハネ4章7節から11節に基づき書かれました。 「7愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 8愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 9神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 11愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 」 ロセッティの詩に基づいた讃美歌は、「Love Came Down at Christmas」(クリスマスに愛が降りてきた)(1885年)の他に、「In the Bleak Midwinter」(寒々とした冬のさなかに) (1872年)とどちらの曲もとても有名で、曲のバリエーションも豊富にあります。 「Love Came Down at Christmas」(クリスマスに愛が降りてきた)は私たちの教会の讃美歌集242番に載っていますが、この素敵な讃美歌の一節がこの数週間、私の心に響いています。 クリスマスに愛が降りてきた うるわしき愛 神からの愛 クリスマスに 愛が生まれた 星や天使のしるしと共に これは、イエス様がお生まれになった特別な夜に何が起こったのかを、とてもシンプルでありながら、深く心に響く形で私たちに伝えていると思います。私たちは、神様の愛がいつもあることを知っていますが、このクリスマスの日、神様が受肉され、弱い人間の赤ちゃんの形で私たちのところに降りてきました。神様が私たちのところにおいでになり、私たちの間で生活し、私たちを罪から救ってくださったことを祝うのです。 ここで、あるストーリーを紹介したいと思います。ポール・ハーヴェイというアメリカのABCラジオ放送局のキャスターをご存じでしょうか。 News and Comment、そして有名なThe Rest of the Storyなどが彼の代表番組です。彼は、有名人や一般人に関するあまり知られていない話を分かち合うことで人々を元気づけ、最後に必ず ”and now you know the rest of the story.”)「だから話の続きがわかりますよね」と言って番組を締めくくるのでした。1951年から2008年の間、彼の番組は1週間あたり2400万人もの人々に視聴されていました。 私は彼のラジオを聴いて育ちました。 ある年のクリスマス、彼は "The Man and the Birds "「男と鳥」というストーリーを紹介しました。皆さんにもこの話をシェアしたいと思います。 あるところに親切で正直な男がいました。彼は家族にも友人にも寛大な人でした。 しかし、受肉(イエスキリストが人類救済のために神でありながら、人間として地上に現れたこと)は彼にとって意味をなさないものでした。「なぜ、神は地上に来て人間に生まれることを選んだのだろう」と彼は懐疑的に思っていました。彼は、神様が弱い赤ん坊として地上に生まれるいうイエスの物語をどうしても信じることができませんでした。クリスマスイブの夜、彼は妻に言いました。「悪いけど、教会のキャンドルサービスには一緒に行かないよ」。イエスキリストの誕生を信じられないのに教会に行くのは、偽善者のような気がしたのです。家にいる方がよっぽどましだから、家で家族の帰りを待っていると言いました。妻と、子供たちは悲しいけれども理解を示し、家に残る彼を置いて教会に向かいました。 その直後、雪が降り始めました。彼は窓から雪が積もるのを、風が強くなる様子を見ながら、お気に入りの炉辺の椅子で新聞を読んでいました。すると、「ドン」という音がしました。そしてその音がもう一度しました。彼は近所の子供たちが窓に向かって雪玉を投げているのかと思いました。しかし、再び窓際に行くと、子供たちではなく、鳥の群れが雪の中で必死に身を寄せていたのです。雪嵐に巻き込まれた鳥たちは、窓際に避難し、窓からまた飛ぼうとしていたのです。 心の優しいその彼は、全ての生き物を愛する男でもありました。かわいそうな鳥たちを凍え死にさせてはならない!そこで彼は思いつきました。裏手に古い納屋があったのです。そこまで鳥たちを導き、そこに避難させればいいのだと。彼はコートを着て、ブーツを履き、雪が深くなってきた中を納屋まで歩いて行きました。 彼は扉を大きく開け、鳥たちが道順をわかるように明かりをつけました。しかし、鳥たちは入ってきません。そこで彼は、食べ物で鳥たちを誘い出そうと考えました。急いで家に戻り、パンくずを手にし、そして、黄色い明かりのついた納屋の入り口までパンくずをまきました。しかし、予想外なことに、鳥たちはパンくずに反応しません。 鳥は雪の中でなすすべもなくバタバタと動き続けています。彼は鳥を捕まえようとしたが、失敗に終わります。彼は、鳥の後ろを歩き回り、腕を激しく振って、鳥を納屋に押し込もうとしました。すると、暖かくて明るい納屋の中以外のあらゆる方向に鳥たちは散らばっていってしまったのです。 その時、彼は鳥たちが自分を恐れていることに気がつきました。鳥たちにとって私は奇妙で恐ろしい生き物なのだ。もし、私が鳥たちに、私が信頼できる存在であることを知らせる方法を考えることができれば。私は鳥たちを傷つけようとはしていない、助けようとしているのだ、と。でも、どうやって? どんな助けや動きも、鳥たちを怖がらせ、混乱させるだけで鳥たちはついてこない。恐れている鳥たちは彼を恐れている、私に従うことはないのだ。 「もし私が鳥になれたら」彼はそう考えました。「鳥の中に混じり合い、鳥の言葉を話すことができたら。そうすれば、恐れるなと言うことができるのに。そして、安全で暖かい納屋への道を教えてあげられるのに。私は鳥にならなければならない。そうすれば、鳥は私を見て、聞いて、信頼し、理解するだろう。」 その時、教会の鐘がクリスマスの讃美歌「O Come all Ye Faithful」(神の御子は今宵しも)を鳴らし始めました。その音は風の音よりも大きく響き彼の耳に届きました。彼は鐘の音、クリスマスの吉報を鳴らす鐘の音に耳を傾け、その場に立ち尽くしました。そして、雪の中で膝をつきました。 彼はようやく、神様がなさったことを理解したのです。 神様は、私たちが理解できるような方法で、弱さと謙遜さという形で私たちのところに来てくださったのです。それがクリスマスに私たちに贈られた最大の贈り物だったのです。 祈りましょう。神様、あなたは私たちに愛を示すために、あなたの御子、私たちの救い主を遣わすために来られました。今年のクリスマスも、そしてこれからのクリスマスも、私たちが身近な人々に愛情をもって接することができるよう、その愛を私たちに示し続けてください。 アーメン。 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。私たちが今日聞くべきメッセージを明らかにしてくださるよう、あなたを待ち望みます。あなたの聖なる御名によって、祈ります、アーメン。
二週間前、私は今日の聖書箇所のマタイによる福音書1章の最初の8節にある系図について説教をしました。そのメッセージは、キリストへの信仰を通して、私たちはイエスの系図の一部となり、神様の家族に加えられるというものでした。私たちの物語は、ルツ、ラハブ、ナオミ、ボアズのように、互いの人生が交錯することで、家族、共同体という一つの物語のタペストリーを形成します。異なる民族、異なる国、異なる文化、異なるバックグラウンドを持つ私たちの物語が神の家族の物語として一つとなるのです。 前回の説教時にも申し上げましたが、マタイの福音書1章にある、イエス様の系図の部分は、私たちの多くにとって、一見、意味のない名前の羅列に見えるため、あまり読まれない箇所です。 私は、初めて聖書を読んだ時のことを今でも覚えています。今から20年ほど前のことです。当時、私はまだ信者ではなかったのですが、友人の紹介で教会に通うようになり、聖書を読んでみようと思うようになりました。私が聖書を読もうとしていることを知った友人はこう言いました。「新約聖書から読み始めなさい。そして、そこから読み始めると、最初に出てくるのは意味不明な名前の羅列です。それでも、我慢して、頑張って、読み続けなさい!」と。 友人のアドバイスを念頭におき、私は聖書をマタイの福音書から読み始めました。そしてマタイの福音書1章1節で以下の記述を目にしました。 「メシアであるイエスキリストの系図」。 当時「メシヤ」 "という言葉の意味を知りませんでした。日本語の聖書を読むと「メシヤ」はカタカナで「メシヤ」と書かれていますが、これでは世界の救い主をイメージすることは全くできません。「メシヤ?」「飯屋?」と最初は思っていました。イエスキリストは飯屋、レストランのシェフなのかとさえ考えたほどです。 もちろん、あの時から月日が流れ、イエス様が「命のパン」(ヨハネの福音書6:35)であることを知った今、メシヤ=飯屋は私が思っていたより正確な解釈なのかもしれません(笑)。 とにかく、話を戻しますと、友人のアドバイスのポイントは、イエス様の系図の話は理解するのが難しいということだったのだろうと思います。イエス様がこの世に来られてから2000年経った現在に生きている私たちには一見全く関係のない名前や人々の話のように思えるので、圧倒され、退屈して、読み飛ばしたくなるものなのです。 マタイによる福音書1章の最初の6節半は、神の民の誕生の物語です。神様はイスラエルの民という特定のグループを選び、イスラエルの神であるだけでなく、すべての民の神となることを約束し、その約束を成就させるために、イスラエルの民を約束の地へと導き、そこに定住させ、地上に神の王国を築く働きに従事させます。 今日の聖書箇所の一部、つまりマタイの福音書1章の6節半から11節では、そこから、イスラエルの民がが定住の地を構え、築き上げた祖国を守るために戦い、そのため戦争に巻き込まれ、外国に侵略・征服され、しまいに捕虜の民となり、外国に強制移住させられるまでの時代に生きた王様の名前が連ねられています。 このような話を聞くと、少し距離を感じてしまうかもしれません。私たちの多くは、戦争や紛争の影響をあまり受けたことがありません。しかし、私たち自身は戦争を知らないかもしれませんが、私たちの曽祖父母、祖父母、あるいは両親は戦争と暴力の中を生き延びてきたのです。今日ここにいる私たちの中にも、過去に戦争の時代を生き抜いた方が何人かいるかもしれません。そしてご存知のように、今年はロシアとウクライナ間に戦争が勃発し、再び戦争が私たちの生活に影を落とすこととなりました。 先週、Netflix(ネットフリックス)で 「My Next Guest; with David Letterman 」という番組を観ました。David Letterman(ディヴィッド・レターマン)は、アメリカのテレビ司会者です。Netflixで放映されているこの彼の新番組で、レターマンは俳優・女優、スポーツ選手、ミュージシャン、科学者、政治家などの有名人にインタビューしています。 最新のエピソードでは、番組のホストであるレターマン自身がウクライナのキエフ(キーウ)に行き、ウクライナのヴォルディミル・ゼレンスキー大統領にインタビューをしています。インタビューは、今も使われている地下の鉄道トンネルで、聴衆を交えて行われたため、収録中も電車が通過する様子が見てとれました。もちろん、ゼレンスキー大統領の命にかかわることなので、特定できない場所で撮影されています。そのような状況にありながらも、コメディアンとしてキャリアをスタートさせたゼレンスキー大統領は、何度もジョークを飛ばして聴衆を和ませ、その後、ウクライナで今も起きているロシア侵攻により始まった戦争についての話を始めます。 インタビューの中で、ウクライナの首都キエフの現在の様子を撮影した映像が流されます。戦車や破壊された装甲車、街から避難する際に乗ったが、着火し燃え尽きた車、亡くなった兵士が履いていた靴など、戦争が続いていることを思い出させる物が首都の中心部に集められ、デイスプレイされている様子が映し出されていました。 番組の中で、司会者のレターマンがキエフの中心部でこれらの戦争の遺物を見ている様子が映し出されると、その場に同行していた、戦争などの災害時に食料支援を行うNGO「ワールド・セントラル・キッチン」で働くユリアさんが、次のように言いました。 「キエフの多くの人々は安全な場所にいるが、これ(戦争の遺物)は彼ら(キエフの人々)に戦争がまだ続いていることを思い起こさせる。キエフの人々は、仕事に行ったり、コーヒーを飲んだりすることができるが、ウクライナの大部分は戦争下にあるのだ。」 (My Next Guest with David Letterman and Voldymyer Zelensky, special episode, Radical Media Productions, 2022より引用) 私たち人間というのは、現実が投げかける厳しい真実を、直接目の前で見ない限り理解できない生き物なのです。直接注意を向けられない限り、私たちは現実を真実を見ようとはしません。戦争の遺物、つまり暴力、破壊の象徴が、美しい街の中心部に集められていなければ、この世界でまだ起こっている戦争という残酷な現実を、私たちは見過ごしてしまうのです。戦争がもたらす損失、痛み、苦しみについて考えないのです。 マタイによる福音書1章にあるイエスの系図を読むと、イエス様の名前よりも多くダビデ王の名前が記されていることに気がつくかもしれません。ダビデ王はイスラエルの人々にとって特別な王です。彼の功績と言えば、エルサレムを偉大なイスラエル連合王国の首都としたこと、イスラエルの各部族を一つの国として統合し、十戒が書かれた石板が入った契約の箱や、イスラエルの人々にとって重要な信仰の象徴の品々をすべて首都に運び込んだことなどがあります。神様はダビデ王が神の王国の中心となり、ダビデの王国が永遠に確立され、彼の子孫によって継続されるという約束をされました。(サムエル記第一7:12、16) ですから、私たちはダビデ王に目を向けるとき、神の道に従う心で知られた王について聞くことを期待するのです。しかしイエスの系図で、ダビデ王の素晴らしさ、神々しさがこ強調されると思いきや、実際に出てくるのは6節bのこの一行です。 「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、」(マタイの福音書1:6b) ダビデ王の後を継いだソロモン王は、ダビデ王とウリヤの妻との間に生まれました。つまりこの箇所はダビデが成し遂げた功績を語っているのではなく、ダビデが犯した他人の妻を寝とるという姦淫の罪を表しているのです。 この話を知らない人のために少し説明したいと思います。ウリヤはダビデ王に仕える兵士であり、バテ・シェバという女性の夫でした。 ある日、ダビデ王が宮殿から外を見ていると、バテ・シェバが水浴びをしているのが見えました。彼は彼女に惹かれ、彼女と寝た。そして、その結果、彼女は妊娠した。姦通は箱舟の中のそれらの板に書かれた罪なので、真実が明らかになることを恐れたダビデ王は、王としての権力と地位を利用して、軍司令官に命じて、ウリヤを戦争の最も危険な激しい場所に送り、殺させるようにした。(サムエル記第二11:1-27) "ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であった。" (マタイの福音書1:6b) ダビデがバテ・シェバと関係を持ち、ウリヤを殺したことを知っている人がこの系図の併記を読むと、ダビデの姦淫、殺人、そしてそれらを主と神の民から隠そうとした罪深い過去を思い起こさせます。この系図を通して明らかにされることはダビデが残した遺産の礎は、輝かしい神性ではなく、壊れた罪深い人間性なのです。 ソロモン、レハベアム、アビヤ、アサ、ヨサパテ、ヨラム、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟たち。(マタイの福音書1:7-11) ダビデ王の後に継承したこれらの王たちも例外ではありません。彼らも罪の重さから逃れることはできませんでした。彼らもまた、主の目に悪と映ることを行ったのです。他の神々を拝み、神の戒めに背き、神の摂理に頼らず、他国の王を、神様以外のものに信頼を寄せました。そして、貧しい者や弱い者を顧みず、罪のない血を流したのです。 神様はこれらの罪深い王たち、そして彼らに従うイスラエルの民に語り続けられました。神の御言葉を取り次ぐ預言者に次ぐ預言者を通して、神の道に戻るように、主から離れるのをやめるようにと、厳しい警告を発し続けました。 しかし、人間が発揮するリーダーシップ、そして全人類の現実はこうです。完璧な人間、完璧な世代は存在しないということ。ダビデ王(マタイの福音書1:1、6、17)、ヒゼキヤ王(マタイの福音書1:9、10)、ヨシヤ王(マタイの福音書1:10、11)のようにイスラエルの信仰の偉大な建設者、改革者と見なされた王たちもやはり神に背く罪を犯しました。良い忠実な王が君臨しても、悪い王がその後を引き継ぎました。また、ある王は民衆から善良と賞賛されましたが、実は神に背いた行為を行っていました。罪と義の間の押し問答、そしてその繰り返しがイスラエルの歴史そのものであり、私たちが住む世界の歴史そのものなのです。 神様は人間の罪深い行動パターンを知り尽くしていたので、預言者たちを通し、もしイスラエルの民が悔い改めないのであれば、神は外国の王をイスラエルに送り込み、イスラエルが彼らにより征服されることを警告しました。 紀元前6世紀、バビロン王国がイスラエル王国を侵略し、征服し、イスラエルの民を捕虜としてバビロンに連れ帰り、80年以上拘束したとき、この警告はイスラエルの民にとって現実のものとなりました。このイスラエルの歴史の暗いトラウマのような部分を、今日の聖書箇所では11節、12節、17節にあるように「バビロン移住」と呼んでいます。 それは神の民が散らされ、苦しみ、私たちが思うような勝利と栄光に満ちた神の国とは程遠い時代をイスラエルが過ごした記しです。 イエスの系図から、戦争の物語、権力者が自分たちの利益を追求する物語、若者や罪のない人が殺され、捕囚として連れ去られたりする物語、貧しい人や弱い人が虐げられる物語が明かにされます。そして、2022年を迎えようとしている今日も、このようなこうした物語は起こり続けているのです。 私たちの世界はまだ戦争に悩まされており、戦火にある場所では命が奪われ、家族は離れ離れになり、夢が砕かれ、日常が奪われ、その日の焦点は生き残ること、暖房や電気なしでやって来る厳しい冬を乗り越える方法を見つけることに絞られています。 戦争の続く地域に住むある家族は、健康上の理由から国を去ることができない年老いた両親を介護するために、戦火にある国に残ることを選択し、残りの家族は国を去り、家族は離れ離れとなりました。難民として海外に避難した家族は、母国に残した家族のことを常に心配しながら、日々暮らしています。 これが現実です。戦争は罪です。 そして、それは私たち全員が共有する罪なのです。 キリスト教では、これを 「corporate sin(共有の罪)」を呼んでいます。私たちは独裁者や政治指導者、あるいは戦争を始めた人間ではないかもしれませんが、両親や祖父母、先祖、そして私たち自身が関係する国や民族の一員であり、戦争が今日まで続くことを許している世界の一員として、すべての苦しみや痛み、死に対する責任を共有しているという意味です。 戦争や罪の話が個人的にはあまりピンとこない方もおられるかもしれません、しかし今日読んだ系図は「corporate sin」だけでなく今日も続く、私たち人間の日々の生活における罪の記録を明らかにしてくれます。アブラハムは恐怖と自己保身のために妻の身元について嘘をつきました。イサクは一人の息子をもう一人の息子よりもかわいがり。ヤコブは自分の双子の兄弟の祝福を奪うために策略を企て、ユダとその兄弟はヨセフに嫉妬し、彼をいじめ、追い出し、見捨てました。(マタイの福音書1:2) 私は、キリスト教暦の一年がクリスマスのお祝いから始まらないことをとても有り難く思い、感謝しています。私たちの信仰の1年はアドベント(降臨節)で始まり、それはこの世の真の救い主であるイエス様の到来を待ち望む季節なのです。このアドベントの季節、私たちは、世界を救うのは王ではなく、戦争に勝利する将軍や英雄でもないことを思います。私たちが自分の利益や欲望を押し通したり、自分の権力や地位のために戦ったり、自分の限られた頭で考えたことが神の民や神の国にとって最善であると主張することによって、世界が救われるのではないことを再認識するのです。 私たちの救いは、完全な神であり完全な人間であるイエスキリストが、罪と向き合い、私たちと苦しみを共有し、その神性によって世界と世界にいるすべての人々の救いをもたらすためにこの世に来られたことでもたらされました。救いを、私たち人間が自分たちの手でなし得ることは決してありません。 神様は、私たち人間が理解できるような方法で、平和の道を示してくださいました。救い主イエスキリストは、征服する王として現れたのでもなく、天から降りてきた天使として現れたのでもありません。救い主イエスキリストは、私たちと同じように地上における両親を持ち、私たちと同じように誘惑に立ち向かいました。人間として生まれ、人間として苦しみ、人間として死にましたが、私たち人間のように戦争、怒り、憎しみ、争いを持って生きるのではなく、私たちに真の平和を与えるために来られました。ダビデやソロモンをモデルとした戦いの王ではなく、暴力、権力、報復ではなく、愛と赦しに満ちた平和な関係を築くことを地上での生き方、関わり方を通して私たちに示されたのです。 もし私達が自分達の罪深い性質や、私達個人、そして人類全体が、神から遠ざかってしまったという現実を省みることなくクリスマスを祝うなら、それは本当の意味でクリスマスを祝っているとは言えません。神の独り子であるイエス様が赤ん坊として、人間としてこの世に来られたのは、私たちの罪の重さを示し、私たちが住むこの暗く壊れた世の中において、神の愛の深さを示すためでした。 私たちの罪は大きいです。しかし、私たちに対する神様の愛はもっと大きいのです。 クリスマスに向けて心を整える時、私たちは思い起こすべきです。 私たちの罪は大きい。しかし、私たちに対する神様の愛はもっと大きい、全世界の罪よりも大きいのです。 クリスマスがやってきます。冬休みが始まり、プレゼントを贈り合い、おいしいものを食べて、クリスマスをお祝いします。しかし、お祝いの理由を忘れてはいけません。 私たち人間は、光よりもやみを愛し、悪を行うものなのです。そして、その悪い行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ないのです。(ヨハネの福音書3:19-20) 私たちは、系図に出てくるイスラエルの民と何ら変わりはありません。彼らは、バビロン王国がやって来て国を破壊し、国民を捕囚に連れ出すほどまでに、何度も神に背を向けたのです。私たちは私利私欲のために、弱い者達を犠牲にしたダビデ王やソロモン王と同じです。私たちは戦争、暴力、差別の罪を繰り返し、恵まれない人、貧しい人、声なき人を顧みません。私たちは恨みを抱いたり、復讐を望んだり、怒りや悲しみに心を支配され、それに基づき行動する罪深い生き物なのです。 私たちの自己中心的な罪深い行いによって、私たちの運命は裁かれ、その罪のために断罪されるのです。 しかし、私たちに与えられた良い知らせはこうです。 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 」(ヨハネの福音書3:16-17) 今、私たちはこのことをしっかりと受け止めたいと思います。私たちは裁かれる代わりに、神のその大きな愛によって、恵みとあわれみ、そして救いが与えられました。 それはどんなに素晴らしいことでしょうか。そして、これほどまでに豊かな愛を与えてくださる方、これほどまでに無償で私たちを愛してくださる方に、私たちは何をお返しできるのでしょうか。 心の貧しい私達は、何を捧げることができるでしょうか。 私たちの心のすべてを、そしてこの地上における神の国への献身を、天にあるのと同じように、神様に捧げようではありませんか。 私たちは惜しみなく与えられたので、惜しみなく与えます。(マタイの福音書10:8) アーメン。 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
今日、アドベントの第3日曜日の恵みに祈りましょう。私たちの魂が主をほめたたえ、私たちの霊が救い主である神を喜びます。神は私たち全員を好意的に見てくださり、すべての世代が私たちを祝福されたと呼ぶからです。力ある方は私たち皆のために偉大なことをなさったからです。 神の聖なる御名を称えます、アーメン。 私が西東京ユニオンチャーチで牧師をしていた頃(17年間在籍しました)、毎年サンデースクールの子どもたちと一緒にクリスマスのページェントをしました。12月の第2日曜日に子どもたちが衣装を着て発表するのです。1歳から3歳の小さな子どもたちには羊になってもらい、他の子どもたちは天使、羊飼い、マリア、ヨセフ、宿屋の主人、王になりました。 ある年、天使が現れる直前、マリアが家の外で掃除をしているふりをしているところで、ガブリエル役の子どもがマリア役の子どもに近づきました。天使ガブリエルに扮した子供は、「おめでとう、恵まれた方。主はあなたとともにおられる。あなたは女の中で祝福され、あなたのほうきの実(子)も祝福される!」。(胎の代わりに「ほうき」と言った)会衆は大爆笑しました。 "天使ガブリエルが訪れてマリアに良い知らせを伝えた "という実際の話とは少し違う展開になったわけです。 実は "blessed is the fruit of your womb " はルカ1章42節からで、「マリアの挨拶を聞いたとき、幼子は彼女の胎内で跳ね、聖霊に満たされたエリザベトは大声で叫び、"あなたは女の中で最も祝福されており、あなたの胎の実(子)も祝福されています "と言った」のです。 さて、今日読まれる聖句は、よく "マニフィカト"と呼ばれるものです。 "マニフィカト"はラテン語で "拡大する"という意味です。 その中で主を拡大しているからです。実はこの歌はマリアが歌った歌なのです。もしかしたら、この歌が最初のクリスマス・キャロルかもしれませんね。 あるいは今はまだアドベントの季節ですから、書き留められた最も古いアドベントの賛美歌であり、これまでに歌われた最も革命的なアドベントの賛美歌と言えるでしょう。 彼女の歌は、彼女が誰であるか、神が誰であるかについて語り、また、私たちがどうなるように召されるているかを教えてくれています。私たちはしばしばマリアを優しく従順な人物と考えますが、ここでの彼女の言葉は彼女の強さと信仰を示しています。私たちは彼女の勇気を聞きます。 革命において彼女は神とパートナーを組んでいます。 彼女は現状を覆そうとしているのです。 マリアは地位が低いのに、神はキリストの母親として彼女にシグナルを送りました。彼女は神の意志に「はい」と言うことが結果につながることを知っています。彼女は "あなたの御心のままにさせてください "と言っています。 私たちは、たとえ困難であっても、リスクがあっても、神の御心に謙虚に従うことが必要かもしれません。 エピスコパル司祭のバーバラ・ブラウン・テイラー師は今日の一節を次のように語っています。「私の魂は主をたたえ、私の霊は救い主である神を喜びます」 とマリアはエリザベトの居間で歌いました。エリザベトとゼカリヤは彼女の歌を最初に聞きますが、それは彼らのためだけではありません。それは彼女、マリア、そして彼女のために偉大なことをしてくださった力ある方のためでもあるのです。高慢で権力を持つ者の膨らんだ頭が取り除かれ、飢えた人々が良いもので満たされ、金持ちが空っぽになって、お金で買えないものを買う余地ができるようになるためです。彼女の歌は、アブラハム、イサク、ヤコブ、サラ、レベカ、レア、ラケル、そして、神が永遠に共にいて、永遠に愛し、新しく、限りのない命を与えるという約束を忘れてしまったと思っていたイスラエルのすべての息子と娘のために歌われているのです。マリアはそれを確信していたので、未来形ではなく、あたかも約束が既に実現したかのように、前もってそれを歌ったのです。預言者は動詞の時制を正しく理解することはほとんどありません。なぜなら、彼らの才能の一部は、神が見ているように世界を見ることができるからです。すでに終わったこと、まだ起こっていないことに分けず、永遠に展開する神秘として、すべての人を、もしかしたら神さえも驚かせます。」 マリアは自分の妊娠に驚いたでしょうし、恐らく怖れたでしょう。 従姉妹のエリサベトもそうだったかもしれません。この二人の妊娠はどちらも神からの奇跡でした。 マリアの妊娠は、彼女の胎内に神が宿っておられたので、特別なものでした。 マリアがエリザベトを訪問した時、特別なことが起こりました。「マリアの挨拶を聞いたとき、エリザベトの胎内で赤ん坊が躍り、エリザベトは聖霊に満たされた。(ルカ1:41) マリアの言葉は、そのエリザベトから「祝福された」と宣告された時の自発的な反応です。エリザベトはバプテスマのヨハネの生母です。バプテスマのヨハネは、人々にイエスを迎える準備をさせる役割だった人です。 マリアの言葉は神の霊によるものでした。 彼女はサムエル記上2:1-10にあるハンナの祈りを暗示したのかもしれません。この二人の女性の話の共通点は、二人の歌の言葉に反映されています。二人とも神から祝福されたのです。 マリアは「祝福された」と言われ、エリザベトはそのことを彼女に告げます。 私たちの基準では、彼女は全く祝福されているようには見えません。彼女は貧しい農民の娘で、未婚で妊娠しています。もし彼女が未婚で妊娠していることが人々に知られたら、ユダヤの掟では石打の刑に処せられるかもしれなかったのです。 しかし、マリアは歌の中で、約束のメシアを産む特別な使命を与えられたことを喜び、神が自分を選んでくださったことのすばらしさに圧倒されます。彼女は、神の慈しみは「畏れる」者のためにあると言います。(ルカ1:50)「畏れる」とは、神への畏怖、尊敬、誉れ、服従を意味します。 しかし、その後、彼女の言葉はかなり過激になっていきます。権力者を倒し、無力な者を引き上げることによって、社会の構造 を覆す神を賛美します。 主は、力ある者をその座から引き降ろし、卑しい者を引き上げられました。 飢えている者を良いもので満たし、富める者を空しくして追い出された。 この言葉に耳を傾けましたか?彼女は力強い言葉を語っているのです。彼女の歌は、貧しく虐げられている人々にとって朗報であり、新約聖書の中で女性が語った最も長い言葉の集合であるこの歌に共感してきた人々にとって朗報なのです。 私にとって彼女の言葉は、神がどれほど私たちを愛し、そしてまた私たちの政治的、経済的、社会的現実をも気にかけておられるかという真の壮大さを理解する助けとなりました。 私たちは様々な方法で神を助けることができます。 私たち夫婦は、日本キリスト教協議会の宣教師として、キリストの証人となりながら、人権、平和、自然災害で苦しむ人々のためのプログラム、あらゆる差別への反対など、キリスト教関連の社会問題の一端を担いました。 協議会は33の加盟団体・教派で構成され、社会と世界をより良くするために協力しています。神は、私たちが神とパートナーになれば、不正を打破するような素晴らしいことができると見ておられます。 このアドベントの第3日曜日に、そしてクリスマスを待ち望みながら、現実に生きている私たちに、正義を求め、より良い社会のために働いたキリスト者の例をいくつか紹介したいと思います。 もちろん、賀川豊彦師については、多くの方がご存じでしょう。以前、彼について説教したことがあります。賀川は1888年に生まれ、21歳の時に神戸のスラム街に移り住み、貧しい人々と共に生活しました。彼は貧しい人々、子供、労働者、女性、農民の権利のために、教会や貧しい人々のための診療所を建てながら、時間を惜しまず働きました。どうぞ三宮の近くにある香川ミュージアムを訪れ、彼についてもっと知ってください。 オスカー・ロメロは、エルサルバドルの司祭であり、大司教でもありました。 彼はサルバドル内戦を引き起こした社会的不公正と暴力に反対を唱えました。彼は説教の中で、政府が様々な方法でサルバドル社会の最も貧しい人々を抑圧していることを糾弾しました。彼は、人を殺すことを止め、土地所有権の改革を始め、貧しい人々の政治的代表権を認めるよう訴えました。そのために、彼は1980年、教会でミサを行っている最中に殺されたのです。神学校で読んだロメロ大司教の著作には、マリアと自分のコミュニティの貧しい人々や無力な人々を比較しているものがあったのを覚えています。1992年、サルバドル内戦が終結したとき、殺されたサルバドル人の総数は75,000人以上でした。(Wikiから)(1989年に作られた「ロメロ」という優れた伝記映画があるので、機会があればご覧になることをお勧めします。彼は真実を語り、そうすることで殉教しましたが、永続的な遺産を残しました) ディートリッヒ・ボンヘッファーは、39歳のドイツ・ルーテル派の牧師であり神学者でした。ヒトラーや第三帝国に積極的に立ち向かい、自分の信じることを体現して命を賭けました。彼の著書は神学校でも読まれており、その中の一冊が "The Cost of Discipleship" です。 彼の言葉を一つ紹介しましょう(『共に生きる-キリスト教共同体の古典的探究』より)。 "共同体における日常のキリスト教生活から、弱く取るに足らない人々、一見役に立たない人々を排除することは、実はキリストの排除を意味するかもしれません。貧しい姉妹や兄弟の中に、キリストがドアを叩いておられるのですから。“ ボンヘッファーは、アメリカ軍が捕虜収容所を解放するわずか数日前に、ナチスによって絞首刑に処されました。 彼はキリスト教の殉教者とみなされています。 彼はマニフィカトを "最も情熱的で、最も荒々しく、最も革命的な賛美歌とさえ言えるかもしれない" と呼びました。 マニフィカトのマリアの言葉は、権力者たちによって危険視され、破壊的とさえ見なされてきました。 (https://enemylove.com/category/biblical-basis/ ) イギリス統治下のインドでは、マニフィカトが教会で歌われることが禁止されていました。1980年代には、グアテマラ政府が、マリアの言葉があまりにも危険で革命的であると判断し、特にグアテマラの貧しい人々が彼女の言葉に触発されていたため、マニフィカトを禁止しました。 アルゼンチンでは、1974年から1983年にかけて、軍事政権(市民軍独裁政権)が権力を握った戦争があり、多くの人権侵害が起こりました。("ダーティウォー"と呼ばれるこの戦争では、約3万人が殺害されたり、強制的に姿を消されたりしました。) これに対して、戦争中に子供や孫が行方不明になった「マヨ広場の母たち」は、木曜日の午後に白い頭巾をかぶり、マニフィカトの言葉が書かれたポスターを持って議事堂広場を平和的に歩き回り、これがアルゼンチンの軍事政権がマリアの歌を公に表示することを禁じた理由でした。 神学者のウォーレン・カーター(ニュージーランドのバプティスト教会の聖職者で、アメリカのDisciples of Christのメンバーでもある)は、イエスの時代には人口の2-3パーセントが裕福で、大多数はギリギリの生活レベルの存在であったと書いています。富裕層と貧困層の間には大きな隔たりがあったのです。マリアは、搾取的で不公正な経済構造に終止符を打つことを明言しています。マリアは、すべての人が神から与えられた良いものを享受する時を語っているのです。 マリアは、神が "卑しい者を高く上げ"、"飢えた者を良いもので満たし、富める者を空しくして 去らせた "と言っているのです。(ルカ1:52-53) 神は無力な者と強力な者が入れ替わることを語っておられるのでしょうか。 それとも、社会の平準化なのでしょうか。金持ちや権力者は、自分を愛するように隣人を愛し、他人を抑圧することをやめ、資源を分け与え、主の前にへりくだるように教えられます。すべての人が尊厳と尊敬をもって扱われ、誰も権力を使って危害を加えることはありません。聖書に真剣に取り組もうとしている者として、私は隣人を愛することが、この世界で神を愛することができる方法であることを知っています。 マニフィカトは、ここKUCの私たち全員に関係するものではないかもしれません。しかし、マリアとその歌は多くの人々にとって良い知らせなのです。 マリアの歌を私たちの歌にしましょう。 私たちは、神が世界を変えてくださると信じて生きることができるでしょうか?神とパートナーになれるでしょうか?私たちのコミュニティには、貧しい人、孤独な人、社会の周縁にいると感じている人がいます。しかし、神は忠実です。 神は私たちの中で最も低い者に目を向けられますが、私たちを能力のある者と見ておられます。マリアのように、神は謙遜と信頼を必要とされます。 マリアのように、神は身分のない者を引き上げてくださいます。 マリアのように、私たちは神の約束に従順であることができます。搾取され、弱い立場に置かれ、正義を求める人々がここにも世界中にもいます。私たちはどのように手を差し伸べることができるでしょうか。 私たちはどのようにしてマリアの歌を歌うことができるでしょうか? マリアのように、私たちは勇気と信仰の確信を持たなければなりません。 神は、私たちが神とパートナーになれば、不正を打ち砕くような驚くべきことができると見ておられるのです。 私たちがマリアの言葉を心に留め、それを歌い、より良い世界を作ることができますように。 祈りと賛美の言葉 恵み深い神よ、私たちがこのアドベントの旅に出るとき マリアの喜びの予感と力強い歌で待つことができますように。 あなたの御子、私たちの救い主を、その救いを必要としているこの壊れた世界に迎える準備をしながら。 私たちを集め、導き、あなたの民として保ってください。 私たちにさせようとするすべてのことにおいて、キリストの手が私たちの手となり、キリストの心が私たちの心と一つになるように、私たちをこの世に送り出してください。このアドベントの季節に、互いに愛し合う方法を繰り返し繰り返し示してください。 アーメン 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。主よ、あなたは私たちの救い主であり、私たちが待ち焦がれた真の王様です。アーメン。
大学時代、英作文の授業で、自分のルーツについて何か書くようにという課題が出されたことがありました。そこで、考えた末に、当時唯一生存していた祖父母である父方の祖母にインタビューをすることにしました。 私がまだ子供の頃、長野の田舎に住んでいた祖母は毎年少なくとも数回は千葉に住む私たち家族に会いに来てくれていました。祖母と私はとても仲が良く、よく話をし、相撲を見たり、野球チームの巨人ジャイアンツを共に応援したりしていました。(阪神タイガースのファンの方には申し訳ないのですが、私は東京の近くで育ったので...。) 戦後、私の祖母と祖父は長野の田舎でリンゴ農家を始めました。もちろん、敗戦後の日本はとても貧しい国でしたから、祖父母は毎日苦労していました。戦争で破壊された土壌は農業に適していない上、彼らは大家族を養っていたのです。祖父母には3人の子供がいて、そのうちの1人が私の父、そして祖父の兄弟も一緒に暮らしていました。 料理や身の回りの世話をするのは、この家の母親である祖母の役目でした。祖母は、料理やその他の家事に追われ、食事の時に家族と一緒に食事をすることすらままなりませんでした。祖母が食事を終えて食卓につく頃には、食べれるご飯がなくなっていることもしばしばあったそうです。 時には、畑で採れた草を料理して、食事を確保することもあったということでした。 生活の苦しい日々が続いていた祖父母は、お金持ちの隣人から借金をしました。そのおかげで、農具を購入することができ、リンゴ栽培は軌道に乗っていきました。それでも、祖父母がその借金を返し終えたのは60歳代になってからと聞きました。 残念ながら、ちょうどその頃、祖父は白血病で亡くなってしまったので、私は祖父のことをよく覚えていません。でも、祖母が家に遊びに来るときは、いつも祖父と一緒に写っている写真を持っていたので、祖父の顔は知っています。祖母がいつも持ち歩いていた写真について、祖母に聞いたところ、祖母は私が知らなかったことを教えてくれました。 祖母はその写真は、二人がハネムーンに行っているときに撮られたものだったと私に言いました。 "ハネムーン?" そのように聞いてびっくりしました。何故なら写真に写っている二人の姿は年老いた私が覚えている二人の姿で、私が聞いていた、若くして結婚した当時の様子ではなかったからです。 すると、祖母は新婚旅行は、結婚当初ではなく、60歳になって借金を全部返してから出かけたのだと言うのです。 祖父母は60歳まで新婚旅行に行かなかったのです。 私が子供の頃、夏に家族で長野の祖父母の家に遊びに行くと、祖父は孫たち(合計6人)を連れて靴を買いに行き、私たち一人一人に好きな靴を選ばせてくれました。祖父が亡くなってからは、祖母が家に遊びに来ると、必ず私と兄にお小遣いをくれました。祖父母は働き者で、大変な時もこのように愛情を示すことを忘れませんでした。 ドンと私が結婚した頃のことです。アメリカでは結婚証明書を発行してもらうために、出生証明書のコピーを提出しなければなりませんでした。しかし、日本では出生証明書を発行しないので、日本から「戸籍謄本」を送ってもらう必要がありました。 その当時の私の戸籍謄本には、3代分の家族全員の情報が記載されていました。父は世帯主として記載され、そこには父の名前、生年月日、父の両親の名前、父の出生届を提出した人の名前も記載されていました。また、戸籍謄本には母の名前と、父が母と結婚した日、母の旧姓、結婚した町が記載されていました。そのあと、兄、そして私についての情報が記載されていました。 この戸籍謄本には、私と祖母の関係がはっきりと記されていました。私は祖母と血のつながりがあり、それは紙面上に示されているのです。祖母と祖父の夫婦関係、そして父が長男として生まれた事実も書かれていました。両親が結婚した日、兄が生まれた日、そして私が生まれた日も書かれていました。 でも、戸籍謄本には祖父が孫達を毎年靴の買い物に連れて行ってくれたことは書いてありません。祖父母のハネムーンについても。私と祖母の長い会話も、一緒に見た相撲も、一緒に応援した巨人軍のことも、一言も書かれていません。祖母達が夜な夜な草のおひたしを食べていたことも書かれていません。 祖父母の苦悩、忍耐、そして寛容。このようなことは、公式の記録には決して残らないので、私たちが世代から世代へとその物語を受け継がない限り、簡単に忘れられてしまうのです。 今日の聖書箇所のマタイの福音書は新約聖書の一番最初の本であり、今日の聖書箇所はその中の一番最初の章にあり、イエス様の誕生の話の前にある箇所なので、クリスマスの季節を迎えるにあたり、読み、考えるのに良い箇所だと思われるかもしれません。しかしながら今日の聖書箇所は、しばしば見落とされがちな聖句です。 今朝、実際にこの箇所を聞いて読んでみて、圧倒されたり、つまらないと感じたりした人もいたかもしれません。何しろ、名前がたくさん並んでいるだけなのですから。旧約聖書の創世記、民数記、歴代誌などには、同じような名前の羅列がたくさんあります。では、なぜ名前の羅列が重要なのでしょうか?名前の羅列から私たちに何が語られ、何が示されようとしているのでしょうか? 実は、マタイの福音書の筆者は、この章に登場するすべての名前を慎重に選び、そこに出てくる一人一人の人生の物語を明らかにし、神様がこれらの人々の人生にどのように触れられたかを示し、神様が書かれる大きな物語の一部として取り扱っています。一人一人が同じ神様の家族に属しているという偉大な物語です。 3節を見てください。「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、」と書かれています。これは画期的なことです。なぜなら、古代イスラエルでは、家族の記録(公的な記録)には通常、女性は含まれていなかったからです。そして、もしあなたがタマルという人物について知っていて、彼女の物語を知っているなら、新約聖書の一番最初の本の一番最初の章に彼女の名前を見て、驚かれているかもしれません。 タマルはユダの長男エルと結婚しました。しかし、エルは「主を怒らせていた」(創世記38:6-7)ので、死んでしまいました。ユダの次男はタマルとゆくゆくはその子孫の世話をする立場のはずでしたが、彼はそれを拒否し、彼も死にました。(創世記38:10)タマルは辛抱強く、義父ユダが三男に彼女を引き取るように言うことを期待しましたが、ユダはそれを拒否しました。そこでタマルは、ユダとその家族が引き続き世話をしてくれるように、ユダとの間に子供をもうけるために娼婦のふりをしたのです。 この話を聞いて、ショックを受けるのは無理もないことです。タマルは自分の性を利用して、自分がもう属していない家族から必要なものを手に入れただけだと思われるかもしれません。しかし、当時のユダヤ社会では、女性が自立して生活する方法がなかったため、家にいる未亡人の世話をするのは家族の義務でした。そこでタマルがしたことは、自分の持てるわずかなものを使って、自分といずれ生まれてくる子供たちのために自分の権利を主張し、神の正義に基づいて物事が執り行われるよう戦うことだったのです。 では、3節をもう一度見て、仮に3節がタマルの事について全く触れないことを想像してみてください。つまり「ユダに、パレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ」と書かれていたと想像してください。 この場合、あきらめず、神様から保証された権利のために戦い、自分の人生と後世の者の人生のために戦ったタマル、彼女の物語は完全に物語から消されてしまうのです。 そうなると、実際のところ、「エスロンの父パレス」も「アラムの父エスロン」も、さらにその先も存在しないことになります。なぜなら、タマルを通して、ダビデ王、キリストに続く血統・系図は続いていったのですから。 では、5節を見てみましょう。 「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、」 ラハブはカナン人(非ユダヤ人)で、イスラエル人が神様が約束した土地に定住するために征服しようとしていた土地に住んでいた娼婦でした。その土地では、カナン人とイスラエル人の間で戦争が起こっており、ラハブとその家族の命が危険にさらされていました。しかし、主を信じるラハブは、土地を偵察に来ていたイスラエル人のスパイと交渉し、自分と家族の命を助けることを条件に、スパイを自分の家にかくまったのです。 結果、彼女とその家族は、イスラエル人と主を信じる信仰を共有したために救われ、イスラエル人が征服した後もその土地に住み続けました。 さて、ルツはモアブ人の女性で、イスラエルの歴史の中で、モアブ人はイスラエル人から軽蔑されていた民族でした。悲劇が彼女を襲い、彼女は夫を亡くしてしまうのですが、この外国人未亡人はそれでも主への強い信仰を告白し、老いた義母の故郷であるベツレヘムにやってきて、彼女を支えようとしました。そこで彼女はボアズという人に出会います。 ボアズは、姑を養うために新天地までやってきたこのモアブ人の外国人未亡人に目を留め、彼女が神の心に従い、仕える姿を見ました。そしてルツの姑の家族と親戚関係にあったボアズは、ルツを妻として迎えることにしたのです。 ラハブとルツ、それぞれの物語をご存知の方は多いと思いますが、ラハブもボアズとの結婚を通してルツの姑となったことに、つまりこのようにラハブ、ルツ、ボアズ、ナオミの物語が交錯していることにどれだけの人が気づいているでしょうか?血縁や婚姻関係だけでなく、神様への信仰を通して、彼、彼女らは家族になったのです。 ラハブは自分の命が危険にさらされたとき、かくまったイスラエルのスパイに言いました。「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられる」。(ヨシュア記2:11) 息子を亡くした老女ナオミが、外国人の義娘であるルツに、自分の故郷に留まり、平安な暮らしをするように(ルツ記1:8-9)と言ったとき、ルツはナオミにこのように言いました。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16) ボアズは、ルツが神の心に従って老いた義母の世話をし、将来の自分の子孫のために献身しているのを見て、ルツにこう言いました。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださいますように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ2:11-12) 神様は、これらの物語を全て織り込み、老若男女、富める者と貧しい者、イスラエル人と寄留者・外国人、軽蔑される者、尊敬される者、これらの人々を、一つの神様の家族にされたのです。 ダビデの子孫、救世主イエス・キリストの系図はこうです。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。(マタイの福音書1:1-6a) 最初から、神様の家族は全ての人を迎え入れる包括的な家族なのです。不可能なこと、スキャンダラスなこと、そして、神様が愛する家族の偉大な物語に織り込めないほど絶望的な物語は存在しません。売春婦の物語、未亡人の物語、戦争の物語、これらの物語はしばしば痛み、苦しみ、トラウマを伴いますが、神様はこれらの痛みの物語、行くように人々を任命し、何とかして、苦しむ人も前に進み続けることができるようにされます。最も苦しんでいる人であったとしても、その者達の苦しみは神様の物語の一部であり続けるのです。 この世の救い主として来られたイエス・キリストへの信仰を通して、私たちもこの偉大な物語に加わえられました。私たちの名前は神様の書物に加えられ、そのページは果てしなく続くイエスの系図に加えられました。イエス様の系図の物語には何十億もの人々の名前が綴られており、あなたの名前もそこにあります。 神様の民の偉大な物語には、はるか昔に神様がアブラハムに約束したように、空の星の数ほどの人々の名前が載っています。しかし、神様は私たち一人一人を、数字で捉えているのではなく、私たち一人一人の物語をとても大切に思っておられます。何十億もの物語のうちのひとつに過ぎないにもかかわらず、あなたの物語は神様にとって重要なのです。あなたの人生の物語、あなたの過去、現在、未来、それらはすべて、神様が今も練られておられる偉大な物語の一部なのです。あなたに関わる全ての人々、血縁の両親、それから霊的な両親、パートナー、兄弟姉妹、子供、孫の物語、それらはすべて神様にとって重要なものです。 周りを見渡してみてください。今日、礼拝堂で皆さんと一緒に礼拝している人々の顔を見てください。皆さん一人ひとりが、神様だけが知っている、神様だけが明らかにできる理由によってここにおられます。私は、今日ここにいる皆さん一人一人が(そしてオンラインで参加されている皆さんも)、お互いの物語の一部として存在していると信じています。私たちはお互いの霊的な祖父と祖母、父親と母親、メンター、パートナー、兄弟、姉妹、子供、孫であり、神様の物語に加えられ、神様の家族として結ばれているのです。 私たちは家族なのです。 教会の人がそう言うのを聞くと大変嬉しい気持ちになります。そうです、私たちは家族です。家族は時に喧嘩をします。家族は時に互いに距離を置き、互いを不愉快に思う時もあります。互いを傷つけ合うことさえあります。しかし、私たちは喜びも悲しみも共に分かち合います。なぜなら、私たちは皆、同じ本に属する物語であり、同じ神様の系図の中の一行だからです。 私たちは、ダビデの子、アブラハムの子、世の救い主、神の子、そして私たちの愛する家族の長であるメシア・イエスの系図に属する者達なのです。 祈りましょう。 主よ、私たちをこの場にに呼び寄せ、あなたの物語の一部として迎え入れ、一つの家族として結んでくださっていることを感謝します。私たちが家族として喜びや悲しみを分かち合いながら共に歩むことができるように助けてください。イエスの御名によって祈ります、アーメン。 |
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May 2024
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