3わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。4わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 5あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 6こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、 7その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 8主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 9神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
今日はキリスト教において新しい一年の始まりを記す日です。キリスト教の一年の始まりはアドベント、降臨節、イエスキリストの誕生を待ち望むことから始まります。 この季節になるとよくある年のアドベント・クリスマスシーズンを思い出します。あれは東京に住んでいた時のことでした。ある年のクリスマスに、当時所属していた東京の教会礼拝に出席しました。礼拝で私の牧師が言った言葉を私はずっと心の中で大切にしています。 彼は牧師として「クリスチャンの信仰と他の信仰は何が違うのか」と質問をされることがよくあったそうです。その話の細かいところまで覚えているわけではありませんが、印象深く今でもよく覚えているのは、「恵みこそがキリスト教を唯一無二のものにしている」という私の牧師の言葉でした。私たちは赦されれ愛されるのに値しないとしても、やはり赦され愛されています。神の恵みはイエス・キリストの命を通じて私たちに与えられた賜物です。 「神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように」今日私たちが聖書に見つけるように、これはパウロがコリントの人々へ送った手紙の冒頭です。この手紙を書く数年前、パウロはギリシャ南部にある都市コリントに教会を設立しました。それはイエスの昇天からおよそ30年後のことでした。 パウロは手紙の中で続けます。「わたしは、あなたがたがイエス・キリストによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」 私の牧師は、恵みこそがキリスト教の信仰を唯一無二のものにしていると言いました。同じくパウロは手紙を恵みという言葉で始めました。コリントの人々への感謝でもなければ、コリントの教会の人々がキリストのためによい働きをしていることへの感謝でもありません。その代わりにパウロは、神の恵みがイエス・キリストにおいて人々に与えられていることを神に感謝しています。神の恵みはコリントの人々に与えられてきて、人々の中に生きているというそのことを、パウロは感謝してい流のです。 ところで神の恵みとは何のことでしょうか。正確に定義することができますか。考えてみれば、この言葉を教会以外で使うことはあまりありません。私自身、クリスチャンになるまで恵みという言葉を使ったり、恵みについて誰かが話しているのを聞いたりしたことはありませんでした。 第一コリント15章で、パウロは以前神の教会を迫害していたのだから、キリストの弟子には不適格だと自分を称しています。キリストの弟子になる前は、パウロは忠実なユダヤ教徒であり、教徒の中でもエリートの位についていました。その地位と権力を行使して多くのクリスチャンを迫害し、またステファノの石打ちに賛成投票した一人でした。 過去に行ったこのような迫害や、襲撃、暴行にもかかわらず、パウロは言います。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(Ⅰコリント 15:10 )神の恵みによりパウロはキリストの弟子になり、指導者になり多くの教会を建て、さらには彼自身が迫害される身となりました。 コリントの信徒への手紙の一と二を読むと驚くかもしれません。コリントの人々のためにパウロは神に感謝しているのですが、二通の手紙はコリントの教会のコミュニティの罪と根深い問題について書いています。教会内の分裂という困難な事実にパウロは向き合っています。人々はどちらかの側につき、この先生に従うのだ、あの教えに従うのだと言います。自分たちには霊的な賜物があると言って自慢し、神に感謝するどころか自分たちを自画自賛しています。性的不道徳、主のテーブルでの差別、偶像に捧げられた肉に関する口論、プライドと傲慢、ライバル意識と嫉妬があります。パウロはこれらについて言及し、立ち向かうことを恐れません。 これこそパウロが設立し、心から愛して30年と少しのミニストリーのうち、3年間滞在した教会なのです。優れた指導者、創設者がそうであるように、パウロも教会のメンバーが成長し、キリストとの絆が強く結ばれることを願っていたことでしょう。コリントで力強く成長し、固い絆で結ばれた教会コミュニティができることを望んでいたはずです。しかし現実は違っていて、それどころか逆方向に向かっていたのです。 コリントの教会が抱えているこれらの難問と苦闘を知り、そこの指導者たちからの相談に応える形でパウロはこの2通の手紙を書いています。これらの現実を知ってもなお、パウロの手紙の最初の言葉は非難、怒り、脅し、失望ではありませんでした。 パウロは手紙を神の恵みのメッセージで始めるのです。 コリントの人々がお互いに交流し、人間関係に努めるよう神から求められていることをパウロは人々に思い出させます。つまり「イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(9節) 教会にふさわしくない、不適切だとみなされる態度や行動にかかわらず、パウロはコリントの人々に「すべての点で豊かにされています」(5節)と言います。また「キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなった」(6節)、そして「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」(7節)と書いています。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」(8節)とパウロは彼らに告げます。 コリントの人々の過去の行為、現在の行為にかかわらず、またパウロが最初の挨拶のあと言及することになる教会の問題にもかかわらず、パウロは最初にこう書いています。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、非のうちどころのない者にしてくださいます」。 これが神の恵みです。コリントの人々は教会と呼ばれるのにふさわしくないかもしれませんが、それでも神の恵みによって彼らは教会であるのです。罪深い人々の集まりであっても教会と呼ばれ得るのです。罪の重さにかかわらずパウロがこの恵みのメッセージを伝えることができたのは、彼自身が恵みを経験していたからではないかと私は考えます。 神の恵みは教会の歴史をみても色々な風に定義されてきました。受けるに値しない恩恵、慈善的な愛と赦し、神の善意、愛にあふれた慈愛。神学校では恵みについて色々な方法で、色々な言葉を用いて学びました。けれどもし神の恵みを本当にシンプルに定義するのであれば、それは受けるに値しない人々への神からの無償の愛と赦しの贈り物と私は定義するでしょう。 パウロの例を見てみてください。パウロがキリストを知る前と知った後を比べ、変わりようを見てみてください。クリスチャンを迫害するユダヤ教徒から、キリスト教の偉大なる教師、宣教師になっただけでなく、新約聖書に出てくる多くの書物を記すまでになったのです! もちろん私は自分自身をパウロと比較することなどはできませんが、私自身が体験したイエスを知る前と知る後の変化をシェアすることはできます。 イエスを知る前の私は、怖がりで、自分に自信のない女の子でした。自分をブサイクと思い込み、高い服と化粧で自分を着飾り、自分の醜さを隠そうとしていました。夢やビジョンは何もなく、いつも他人が自分のことをどう思っているのか心配していました。人に裁かれるのを恐れ、特に取り柄もない、つまらない人間という風に思われるのを恐れていました。自信のなさから人との約束を破ったり、人を見下したり、人と距離を置いたり、神以外のところや人から承認を得ようとしていました。 そして私はイエスに出会い、イエス様を私の主と救い主として受け入れました。神は私に語りかけてくださいました。自分が足るに足らないものでありながら、過去の失敗がありながら、欠点や、弱点がありながらも私は神によって完全に愛されたのです。 こんな私でも、神によって神のイメージに似せて、良い行いをするために神の作品として創造されたのです。私は良くなるために何かを持ったり、所有したりしなくてよかったのです。神は私の全ての部分を、弱い、醜い部分をも神の御用に用いてくださったのです。 イエスにあり私は完全な愛を知りました。他の誰も与えられない愛です。その愛を通して私は本当の自分を見つけ、自由を得ました! もちろんこのビフォーアフターの変化は一晩で起こったことではありません。私の周りにいる人々が神の臨在、神の愛、神の赦しを私に体現してくれたことにより、このように変わることができました。私のこの劇的な変化は私の努力や、私の中に存在する良さや、私が持つスキルによって起きたのではありません。神の恵みによって起きたのです。神の私に対する無償の愛です。 時に弱い人間の私は人を赦したくない、人に慈しみを注ぎたくないと思ってしまうことがあります。そんな時神の恵みにより人は誰でも変われるということを思い出します。まず何より自分がそうだったように。 神は差別されないお方で、望む全ての人に恵みと慈しみを注がれる方です。神の恵みを受けるに値しない時に、私に恵みが与えられるように、神の恵みは同様に人々、そして教会にも注がれるのです。パウロも教会に注がれる恵みのことを手紙の中で話しています。 教会であるということは、生活の中にこれらすばらしい、華やかな、幸せなものが満ちているという意味ではありません。もちろんこういうものもありますが、わたしたちの中にあるすべてのものが完璧というわけではありません。教会の外での日常生活で困難や問題に直面するのと同じように、教会として歩む日々の中にもも同じことが起こります。問題や困難の起こらない教会はありません。コリントの教会も例外ではありませんでした。そして現在の私たちの教会もまた例外ではないのです。 しかしパウロは神の恵みがコリントの人々に注がれているのを知っていたので、彼らのため神に感謝することができたのです。彼らに霊的な賜物が与えられ、賜物を通してすべての点で豊かにされていることをパウロは確信しています。神は真実な方なので、コリントの人々と関係を保ち、彼らに恵みを与え、最後の日まで彼らを強めてくれるとパウロは信じていました。 このことを知っているので、パウロは教会が直面している問題や困難に立ち向かうことを恐れません。パウロは、問題や困難が教会としての彼らを定義するわけではないと知っています。恵みが彼らを、教会を定義するのです。神の恵みを彼らが覚えている限り、神は彼らを成長させ、よい方に変えていくことをパウロは知っています。 神の恵みによって私たちが、教会が定義される時、真の生まれ変わりがあります。私たちが、教会がどのようなものであったかを受け入れると同時に、神の恵みにより私たちがどう変われるかを思う時、神は成長と生まれ変わりを与えてくださるでしょう。 このことは私たちに何を教えてくれるでしょう?キリスト教における新しい一年の始めにおいて、全員で考えてみましょう。目の前にある困難を超えて未来を描くことができますか?個人的に、または教会が直面している目の前にある困難やチャレンジを無視しろと言っているのではありません。 ただ私たちは個人的にも、そして教会全体においても、神の恵みを通して愛され、赦され、神に仕える機会を与えられてきたのです。もう一度キリストを知る前の自分と、その後の自分を思い出してみてください。 あなたに与えられている神の恵みは普段あなたが会い、挨拶し、話をする人たちにも与えられていることを忘れないでください。そして特に大事なことですが、あなたが受けている神の恵みはあなたと意見の合わない人、あなたと対立している人にも与えられていることを忘れないでください。 対立や不愉快な行為が、クリスチャンの仲間や教会のコミュニティのメンバーを定義するものではありません。私たちはみな神の恵みによって定義されており、その恵みは神が私たちのために蓄えてくださっているすべてに向かって開かれています。 私たちはみなそれぞれ個人として、またイエス・キリストにおける神の恵みによって結ばれた教会のコミュニティとして、クリスチャンの旅を続けるのです。 今日ここに私たち皆のために祈ります。私たちが話す言葉のすべてにおいて、行動するすべてにおいて、考えるすべてにおいて、また信じるすべてにおいて、私たちが神の恵みの人となりますように。 親愛なるKUCファミリーのみなさん、私たちの教会と私たち皆に神の恵みがあり、私たちが神の恵みを体現する人々としてこの世に知られることができますように。 アーメン。
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通常であれば、今日11月22日の日曜日は、七面鳥、マッシュポテトとパンプキンパイが出て、みんな食べ物を持ち寄って、感謝際のポットラックパーティーを大勢の方々と祝う日曜日になっていたはずです。しかしコロナウィルスの感染症拡大のため、それも無くなりました。でも感謝はすべきなのです。なぜでしょう?それは、神がどんな状況でも感謝をしなさいと私たちに求めるからです。 礼拝の冒頭でユースの方々がやってくださったスキット(寸劇)の中でも説明していたように、何かに対して感謝するという事と、現状に感謝するという事には違いがあります。家族の誰かが病気になった事に対して感謝する事は出来ないですが、家族が病気になった事で、お互いを思う気持ち、愛を看病するあいだ感じれる事に感謝をする事はありますよね。 感謝の中で生きた1年があったか自分の人生を振り返ってみます。毎日が神からの賜物です。でも、ここ1年で起きたコロナ感染症の拡大は私たちのコミュニティにとっても、多くの人々にとっても良い事ではありませんでした。コロナ感染症の拡大はもちろん、フィリピンで洪水があり、沢山の人々が職を失い、病気に苦しみ、個人的な問題を抱えている人もいます。私個人の事を言うと、9月半ばに手首の骨を折ってしまい、手術も大変で良い経験ではありませんでした。しかし、KUCメンバーからのサポートに感謝しています。皆さんが私のために祈ってくださり、食べ物を運んでくだり、そのほか様々な形で助けてくださいました。そして、右の手首ではなく、左の手首を折った事にも感謝します(どんどん治ってきています!)。 そして、今の時代だからこそ、沢山のオンラインのイベントを開催する事で、離れていても皆さんを近くに感じれる事に感謝します。Zoom を通して、神戸在住の人達だけでなく、様々な場所に住んでいらっしゃる方々にオンラインを使って、奉仕する術も学びました。 讃美歌 “Now Thank We all Our God” (邦題:いざや共に)を見てみましょう。この曲の作曲家であり、ルーテル教会の牧師であったマルティン・リンカートに感銘を受けます。テサロニケ人への手紙一5章18節を基にした、この曲を作詞したときは、彼自身は長年の困難の時を過ごしていたのにもかかわらず、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」 とあります。 マルティン・リンカートについて少しお話をしましょう。リンカート牧師は、ドイツ・アイレンブルグ住み、1618年~1648年まで続いた三十年戦争を生き抜きながら、人々に愛をもって奉仕を続けていました。アイレンブルグ市は政治および軍事的な避難者の逃げ場となりました。その結果、過密状態となり、疫病と飢餓が発生してしまいました。市は3度も軍によって支配され、リンカート牧師自身が家族を養うのに大変なのにも関わらず、彼の家は犠牲者の避難所となります。1637年の深刻な疫病のさなか、リンカート牧師のみが、市内で唯一生き残った牧師になり、1日に50回もの葬儀を執り行い、最終的に彼は、その年、自身の妻を含めた4,000回以上の葬儀を執り行いました。 そのような現状になろうとも、リンカート牧師は、礼拝を続け、神を賛美し続け、この歌詞を書いたのです。 「いざや共に 声うち上げて くしき御業 ほめ歌わまし 母の胸に ありし時より わが踏む道 さきわい給う」 "Now thank we all our God, with heart and hands and voices. Who wondrous things has done, in whom this world rejoices. Who from our mothers' arms, has blessed us on the way. With countless gifts of love and still is ours today." 素敵な讃美歌です。先ほど歌いました、後で他の部分を歌いたいと思います。KUCのメンバーの方が歌ってくださった「Give Thanks with a Grateful Heart」という曲もあります。困難に立ち向かっている時に、感謝をするのは容易な事ではありません。しかし、私たちには出来るのです。神に感謝をするという事です。 今年もKUCがたくさんのミッション・パートナーをサポート出来ている事に感謝します。コロナ感染拡大により、どこも辛い時期を迎えています。KUCも教会に実際に人が参加する形での礼拝を行えていないがために、献金が平年よりも40%減ってしまっています。 でも、その現状を踏まえてどうしますか?あきらめる?いいえ、他の人々を助け、それが出来る事に感謝するのです。 KUCグローバル・ミッションのプロジェクトが今年どんな活動をしているかを紹介させて頂きます。これを見て頂く事で、皆様の献金の一部がどう使われているかをご理解いただけると思います。(スライドをご覧ください。KUCミッション・パートナーの一覧を後日KUCホームページに掲載させて頂きます)。 グローバル・ミッション・パートナー 一覧 2020 1 - Home of Hope in Philippines 2 - Haizu Tutoring Program (はいず) 3 - Heaven's Café (天国屋カフェ) 4 - Food Bank Kansai (フードバンク関西) 5 - Fukushima-Kobe Kodomo Program (ふくしま・こうべ こどもプログラム) 6 - Asian Rural Institute (アジア学院) 7 - Shinai Kodomo Home (神愛子供ホーム) 8 - Gram Bharati Samiti (Self Help Program supported by EKK) 9 - Kibo no Ie (喜望の家) 10 - Shiyou Gakuen (止揚学園) 11 - Gideon International in Japan (ギデオン協会) 12 - TELL Counseling in Japan 13 - Young Life 14 - Ray of Light in Uganda 15 - Olive Branch Mission in Chicago 16 - Abakadang Kayumanggi Community Development Foundation in Philippines 人に何かを与える、人を祝福する事を主張し過ぎる事はありません。与える事、喜ばせれる事というのは、喜びです。 キャサリン・ヘップバーンの幼少期からの話が私は大好きなのです。ハリウッドスターとして60年間活躍した有名なキャサリン・ヘップバーンさんの事を皆様ご存じですよね? 彼女の話を彼女の言葉のまま書きます。 「ティーンエイジャーだった時、サーカスのチケットを購入するために、父と私は列に並んでいました。やっと、あともうひと家族が前にいて、次が私たちの番になった時、その前に並んでいた家族の事を印象深く記憶しています。 その家族には8人子供がいて、多分、全員12歳以下、服装を見る限り、そんなにお金を持っているようには見えないけれども、小ぎれいで、清潔な服を着ていました。子供たちはお行儀よく、親の後ろに2人ずつ手を繋ぎながら、その列に並んでいました。ピエロ、動物、そして今夜見れるであろう楽しい演技について興奮して冗談を言っていました。彼らの興奮具合を見ると、サーカスに来るのは初めてだと感じる事が出来ました。彼らの人生のハイライトになった事でしょう。 両親は先頭で、どこか誇らしげに立ち、母親は父親の手を握りながら、彼が輝く鎧を着た彼女の騎士であるかのように、彼のことを見ています。父親は、笑顔で家族が幸せそうなのを見ていました。 その父親にチケットが何枚必要か、サーカスのチケット販売の係員が聞きました。すると、父親は「子供の券が8枚と、大人の券が2枚です。家族みんなをサーカスに連れてきました。」と誇らしげに言いました。 販売員が合計金額を伝えます。 すると、母親は父親の手を離し、頭を落としました。父親の唇が震え始めました。そして、もう少し近づいて「いくらと言いましたか?」と聞きます。販売員はまた金額を言います。 父親は十分なお金を持っていなかったのです。父親は、クルっと後ろを見て、子供たちにサーカスに連れていけるだけの十分なお金を持っていないと言うべきところでした。 何が起こっていたか終始見ていた、私(キャサリン・ヘップバーン)の父親は、すかさず自分のポケットに手を入れ、20ドル札を落としました。(私たちも裕福という事では全くありません!)。 そして、私の父親はその20ドル札を拾って、8人の子供たちの父親の肩を叩いて、「落ちましたよ」と20ドルを渡しました。 子供たちの父親も何が起こっているかは理解していました。物乞いをしたわけではありませんが、絶望的で、恥ずかしい状況での助けに感謝をしていました。 彼は、私の父親の目を見て、両手をぎゅっと握り、20ドルを握って彼の唇を震わせながら、頬から涙を流しながら「ありがとう、ありがとうございます。私たち家族にとって大きな意味があるんです。」と感謝されました。 私(キャサリン・ヘップバーン)と父はそのままサーカス場を後に、家に帰りました。その20ドルとは、私たちのチケットを購入するためのお金でした。結局私たちは、その夜サーカスを見る事は出来ませんでしたが、私も父も心の中は自分たちがサーカスを見て感動するより、もっと大きな喜びに包まれていました。 その時、私は与える事の価値を学んだのです。 与えるという事は受け取るよりも大きな事です。今の人生よりもより大きな人生を望むのであれば、与える事を学んでください。何かを期待するのであれば、愛は意味がありません。何を与えれるかを考えている時に意味をもたらすのです。それは全ての事において。 与える事、人を祝福することは、主張し過ぎる事はありません。それは、与えるという事に必ず喜びがあるからです。与えるという行為を通して、人を幸せにできる事を覚えておいてください。-キャサリン・ヘップバーン」 1世紀マケドニアにいたクリスチャンたちは素晴らしい「与える人(Giver)」でした。コリント人への手紙 第二 8章1節~9節 「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。」 神とのつながりがあったから、与えたのです。 献金とは神とのつながりです。教会に献金をすることで、分かち合い、助ける事は、霊的な経験になります。 マケドニアのクリスチャンたちは、心から与えました。彼らにとって与えることは、霊的な絆の経験です。みんなで協力をして、他の人を助ける事ができる信者が一番幸せである事に気づいた事はありますか? コリント人への手紙 第二 9章7節 「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 ヘブル人への手紙 13章16節 「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」 パウロは最後の言葉をマケドニアのクリスチャンに与えます。私たちにとっても重要な言葉です。 コリント人への手紙 第二 8章7節 「あなたがたは、すべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちから出てあなたがたの間にある愛にも富んでいるように、この恵みのわざにも富むようになってください。」 マケドニアに住んで、恵みのわざに富む必要はありません!どこに住んでいても行う事は可能です。 聖霊が私たちの心を動かし、2021年のグロースプラン(教会の成長プラン)に対して私たちは活動を始めました。AGMでチャック牧師より詳細の説明があります。あなたがどこにいようとも、誰であろうとも、聖霊があなたの心に触れますように。感謝の心で神に感謝をしましょう!KUCに献金するのは、教会員である必要はありません。どなたでも献金できます。私たちのミニストリーをサポートし、そして、未来へのビジョンを描きましょう。与えるという事は喜びをもたらします。与える事が出来る事に感謝し、感謝の中で生きていきましょう。 アーメン ヘブル人への手紙5:11-13 (Amplified Bible) このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの(霊的な)耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに(真実を学んできた時を考えると)、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者(聖書に未熟)はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 ローマ人への手紙15:4 (Amplified Bible) かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。 コリント人への手紙二3:18 (Amplified Bible) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 今日の説教は長年、私の心の中で発酵し続けていたことです。その内容が、私達が何故KUC に戻り、リーダーや牧師達をサポートしている理由と言えるかもしれません。 霊的成長が今日の説教のタイトルです。一見、格好いい教会用語ですが、その定義の前に皆さんでその意味を話し合って頂きたいのです。本日のゴールは、霊的成長に対する皆さんの更なる渇きを引き出すことであって、その模範解答を示すことではありません。 他の領域の成長は見ためにもわかりやすいです。身体的な成長、私達も成長しますし、子供達の成長を見ています。歳を取るとジムに行き、走り、サプリメントを取り、減量し、健康的な食事を摂取しようとします。精神的な成長も同様です。書物を読み、勉強し、学ぶことは理にかなっています。情動的な成長は複雑で、今日の話に近いでしょう。 それじゃ、野球、フラダンス、ピアノ、歌などのスポーツ、趣味を見てみると、どうしても個人的に得て不得手があり、得意分野では成長できるでしょう。 成功するのに3つの要素が必要なことは認めざるを得ません。 最初に、1)基礎知識 何をどうやってするか、そして2)練習。とにかく多くの練習、練習、練習を重ね、3)コーチ、先輩、先生があなたのレベルがどの程度なのかを適切に伝え、あなたを観察しフィードバックしてくれる。 霊的成長を関係性と見ることもできます。この観点はかなり当たっていますが、関係性を測定するのは難しいです。関係性においてあなたは成長していますか?例えば、あなたの伴侶とどのようにして関係性をよくしていけるでしょう?多くの私達は単に人生を生き、人間関係を良好にするなど考えながら生きていないでしょう。 私達クリスチャンが、「霊的成長」と言う時、キリストに従うことがクリスチャンであることをまず、共通理解としておきましょう。私達は事実上、弟子であり従者であろうとしています。更に冷静に考えると、主イエスのようになろうとします。そうこれが目標であり、ずいぶん分かり易くなります。 それでは、私達が互いに成長し、何ができるのかを見ていきましょう。 1)ある人物をよく知る事で、さらに親近感が湧きます。例えば、その人の好き嫌いとかです。私の説教の中に「主イエスを喜ばせ、怒り、悲しませるもの」と言う題の説教があります。これらは、主との親密な関係性を表す情報であり、単なる日程、場所などの事実情報ではありません。つまり、どのようなことが神様を喜ばせ、怒らせ、悲しませるか知っているかです。そのことを考えたことありますか? 神様の大好物を知っているか、そう言う意味ではありません。考えてみるのに良い題材ですね、サンデースクールで話し合ってみてください。 2)体験を分かち合うこと。皆さん今までに修養会や、誰かと旅を一緒にしたことがありますか。同じ経験を共有すると一気に仲良くなります。職場では、タフな戦争ゲームやいろんな活動を通して一緒に力を合わせて結束を固め、関係性を強固にすることがなされています。 私とケリーが思うに、神様との出会い体験が最も重要な鍵だと言うことです。目標は、聖霊のささやきを聞くことが出来るようになり、それに応答することです。相互に突き動かされ、ダイナミックな神の時こそ病みつきになりますが、それには他のことと同様に練習が必要となります。 鍵となるメッセージは、去年から成長しましたか、神様とより近づきましたか? 神様はあなたに対して何と言うでしょう、これが試験なら、採点はいかなるものか..フム それでは、これはいかがでしょう。聖書は私達の御霊の実によって何者であるかを知るといいます。ガラテヤ人への手紙5:19-23は2つのリストを挙げているので読んでみましょう。御霊(主が内に臨在するため)の結ぶ実は愛であり(隣人愛)、喜び、(内なる)平和、寛容(待つことが出来るだけでなく、どのように待つかです)、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。 一言、一言、信仰の友と正直にこれを思い巡らす価値がありますね。 ヘブル人への手紙 5:12は言います。 実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに(真実を学んできた時を考えると)、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 このように言い換えてもいいですか? 皆さんは教会で霊的に食物を与えられるためか、あるいは与えるために通っていますか? 教会に行くのは神様から教会であれと言われているからですか? 「教会であれ」は私の大好きな言葉でありTシャツのロゴです。あなたは与える者ですか、取る者ですか?フム 後半の乳について、ミルクは消化しやすいですが、体がより発達すると固形物を消化できるようになります。皆さんは自分で聖書を学んでいますか、それとも牧師に答えを求めていますか?あなたの課題に対して緊張感を持って取り組んでいますか、或いは準備された解答を得る為に教会に行く方ですか? 神様は私達に思慮深くあり、考える能力を持ち、霊的事柄を理解して欲しいのです。それにより、私達は実践し、訓練を受けるのです。 ローマ人への手紙15:4は言います。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。」見過ごすこともあるけれど、聖書やその一定のパターンを知ることは、聖句だけではなく、私達の成長と成熟の基準となります。それには、聖句を暗記したり、役に立つ無料ソフトを使ったりします。 biblehub.com 、biblegateway.com それに、聖書朗読のサイト、年間を通して聖書を読むサイト、音声朗読と解釈や質問つきで、毎日配信されています。 最後にテストと味見、それは私達が励んでいる事を思い出させるのです。 コリント人への手紙二3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 私達がこのプロセスを通るなら、このプロセスを歓迎するなら、それは素晴らしい目標となるのです。 それで….. あなたはこの1年間で成長しましたか? 一年前と比べて、神様に近づいたと思いますか? 神様をもっとよく知ることができましたか? あなたの周りにいる人々が、あなたを通して神様の臨在と栄光を感じることができたでしょうか? あなたは神様の痕跡を残しましたか? 神様の香りを残しましたか!? あなたは更に渇いていますか? 講義だけでなく、私達は適切な包括的な弟子訓練を作るべきでしょうか? 一年後、どのようになりたいですか? 私達が住む周りの人々や地域に神様と共にご奉仕できるように、何かスキルアップしたいことがありますか? お知らせください。KUCのリーダーにそれらを知らせて、成長への足掛かりを始めなくてはなりません。 2021年に向けての計画を立てています。KUCの数人で来年に向けての成長計画を更新しているところです。皆さん一人一人が霊的な成長をまず始めなくてはなりません。成長が私達自身に自明となることで、友人をKUCに呼び込むことが出来るのです。ダイエットでも同じでしょう、減量に成功すると、友人達はどこでどうやってしたのかと知りたがるではありませんか。 単に教会に通うのではなく、教会となりましょう。 2021年の成長計画を今から始めましょう。すると、神様が意図された人物になりうるのです。暗闇の中の光になりうるのです。この社会で神様がなさる例を示すことができうるのです。もし神様が私にこれらをなされるのであれば、神様はあなたの為にもされるでしょう。 祈りましょう。 神よ、私たちが今どこにいるのか、そしてどこにいることができるのかを見るのを助けてください。 神様の御心が私達になされるように、私達の霊に渇きを与えてください。 KUCで素晴らしい霊的成長の環境を作り出す為に、私たちを助けてください。 教会に単に通うだけでなく、私達の神様に対する奉仕が何であるかを教えてください。 しかし、教会であれ - OK、サンデースクールでもっと深く話し合いましょう。 今日は、信頼という言葉を見ていきたいと思います。信頼と信仰はキリスト教用語の中で重要ですが、似ているようで実践面で異なります。月曜から土曜日までの日常生活において、このキリスト教用語がしばしば支えとなります。先日、私は実に心を動かされた経験をしました。それは神様が私に人生の秘訣のようなものを思い起こさせ、神様の時に出会えたように感じました。それは表面的な出来事以上のことです。私は時に、神との時を忘れ、思い出し、また忘れ、萎え、燃え上がったり、そして消えたりついたりしています。
私は、LA(ロサンジェルス)でその日は極めて忙しくしていました。スケジュールが一杯で早朝から晩まですべき多くのことがありました。その過程でトラックを借りて、日本の学校へ送るために 大きな重い器材を積んでいました。品物の代金を払い、トラックに積むのに予想以上の時間がかかったので、私は少々気を揉んでいました。 私が店の駐車場を出かけたところ、老人の夫婦が道路を渡ろうとしていました。一瞬、私は決断を迫われ、すぐさま発車すべきか、大丈夫だろう、けれど失礼かな、あるいは待てよ、それで、彼らが横断するのを待ったのです。彼らは80か90歳くらいの高齢者で両者とも歩行器に頼って歩いています。それでその時に、自分の気持ちを柔らかい心へと傾けるようにしました。彼らに渡るように手で合図をし、その時何か良いものがこみ上げてきて、少し神様の方向、神様のやり方へ向かっていったような、私の中におられる神様が勝ったような気持ちです。大したことはない、でも爽快です。それから 彼らが道路を2/3行ったところ、私の後方にいる車はこの道路を横切ろうと待っているのです。老夫婦の女性が下手な英語で紙を私に見せ「福祉事務所?」「どこにあるの?」と尋ねました。私は紙に何が書いてあるのかはっきり見えませんでしたが、何を言ってるか分かったので、「私はこの辺の者ではないのですが、音声案内機能シリで調べましょう。」背後の車がクラクションを鳴らし、イラついている様でした。シリによると、この道路を上り左へ曲がったその辺にあるようです。彼女に伝え、彼女もある程度は分かったようです。私は手招きで行って、行って、左に曲がるんだと示しました。背後の人々は発車したくて待っています、老夫婦はゆっくりと道路を渡り切ったので、私は急いで車を出し走りだし、Google マップに戻って次の目的地へと急がなくてはなりませんでした。街角をいくつか抜けた後、信号の前で止まりました。その時、私は不思議な思い当たる感覚が湧いてきて、私が知る聖霊の働きです。くすぐるような、優しい感覚で私をスローにさせ、笑みがこぼれます。実際、微笑んでいたし、まるで何か面白いことでも言い出しそうな感じです。それで、心の中で、老女が持っていた紙に4つのバス線131のバスを乗って、次に12のバス、次にバス#というように4つのバスに乗り継ぐ道のりが書かれてあったのです。突如私の心が落ち込みました。なんてことだ、あのまともに歩けない歩行器を使う老夫婦が4つのバスを乗り継ぐなんて、LAのバスで彼らの場所まで行き着くには何時間もかかるだろう、何かが腑に落ちない気持ちでした。 私は戻ろうかしら?トラックだけど、彼らが座る場所もないし、どうやったら助けられるのだろう? 彼らは英語が話せるように見えないし、私はスペイン語が話せないし、どうしよう、もう遅れるじゃないか、今日は忙しいんだ!私は岐路に立たされていました。 目盛りのはかりは今日のために買ったのです。 私は神様のささやきと私の現実をはかりにかけたのです。私は行かなくてはなりません。 私は、私が感じたことが、おそらく聖霊の導きなのか確信がなく、聖霊なのか、私自身の緊急で目の前の問題なのかを天秤にかけたのです。私が、両者を天秤にかけていることを 急に感じとりました。天秤は、私の神様への信頼に対して私の自分への信頼、及び私の神様、聖霊への信頼そして導き、それに対する私の理解、感じ方そして考えです。 ある人はこの聖句を思い出すでしょう、私は思い出さなかったのですが。 箴言3章 5節「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず」 集中しろ、進まなくては、或いは霊の導くまま進むかだ。 OK、信号が青にかわり、私は微笑んで意を決しUターンをしました。その時、心が動くことが起こったのです。私がくすぐったい神様のささやきを感じた時は、90% の確率で驚くことが展開し実に驚きなのです。私や他の人の中に神を見出し、最も荘厳なことに出会うのです。神様とのアドベンチャーです、しかしまだ私はためらいがちです。 それで、私は踵を返して難儀している彼らを見に行きました。彼らは左に曲がったようで、それはよかったのです。シリで福祉事務所の方角を再確認すると、1キロメートルはこの道すがらを歩かなくてはならず、そこら辺にあるのですが近くではないのです。すると3人の子供達が道を歩いているのがすぐに見えて、事務所のある区画あたりで、人気がないのです。おそらくコロナのせいでしょう。3人の黒人の子供達が歩いていて、2人は少女で1人は少年でした。車の窓を開けて、「やあ、福祉事務所はこの先かね?」 とたずねました。「そうですよ」と彼らは答えて「でも全ての手続きはオンラインで事務所は開いていないよ、コロナのせいですよ。」と付け加えました。 私はあら~と言い「ご覧なさい、私達に向かって歩いてくるあの老夫婦は4つのバスを乗り継いでこの遠くまでやって来たんだ、英語も話せないし、彼らを車に乗せることもできない。」子供達は心配そうだったが、彼らもどうしたらいいのという態度でした。 私は車を止めて降りて、老夫婦の所に行って説明しようとしたら、3人の子供達も来て、少年がタガログ語で老夫婦に話しかけました。老夫婦はフィリピン人で、少年はフィリピン人との混血でした。少女がこの少年がフィリピン語を話せることを教えてくれました。私は鳥肌が立ち、ありえない、これは完璧に神の仕業だと、口走ってしまいました。老夫婦は微笑み、分かったように頷き、状況を感じ取ったようでした。 少年が老夫婦に事情を説明し、ウバータクシーの運転手に家まで送るように頼み、その料金を支払うことにしました。30ドルで、恐らく家まで20分もかからないでしょう。 LAで4つのバスを乗り継ぐなんてどれくらいの時間がかかっただろう、数時間だろう。タクシーが到着して、運転手は私が見ず知らずの老夫婦のためにタクシー代を払うことにかなり困惑していました。彼は3回も同じことを聞いたのです。私はそうです、そう、何の問題もないですよねと運転手に確認して、奇妙なことのようでした。子供達は笑っていて、そこにいる私たちは皆、神様と協力して、聖なる時間を共有したように感じました。 大したことではありませんが、私にとって真実の現場だったのです。そして、私が遅れていることに気づいたけれど、神様が今、私と一緒にトラックに乗車しているような気がしたのです。神様に、さあ行きましょうか、ガソリンを入れるためにどこで曲がるか教えてくださいねと話しかけ、実際に示してくださいました。ガソリンスタンドに入り、注入していると、私の向こう側にいる男性は5歳くらい娘を連れていて、1ガロンのガソリンを入れて家に帰るのに数ドルいただけないかなと私に聞いてきました。私は真剣に彼らに言いました、「神様がこのことを仕組んだんだろうね、ガソリンを満タンにしてあげるよ」すると、彼は自信たっぷりに言ったのです。「今朝、娘に祈ろう、神様は助けてくれるよ。私達は祈りそして神様は助けてくださいました。」ウワォまたしても神様の時です。 時間がない、それでも忙しい日に更に2つ神様の時がありました。そんな中、私は全く大丈夫でした。スケジュール通り、必要な時に援助が与えられ、暖かい気持ち、平安に満ちた充足感、神様と私は良い時間を過ごした一日でした。 この一連のことを思い返すと、これは信頼する時であったと気がついたのです。信頼は鍵となる言葉です。私は常に信仰という言葉を口にしますがそれも適切で、聖書もそう言います。この日、信仰X2=信頼のように、一連の神様の時は信頼が信仰より優位だったように思えます。私はよく信仰について説教し、それを善しとしていました。救いへの信仰、あれやこれへの信仰、癒しへの信仰!ヘブル人への手紙で聖書は言います。 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」信仰ではなく信頼がなければのように感じたのです。礼拝や、祈りや、さらに愛や、聖書知識がなければ、罪を犯すことなしにではなく、信頼です。私は実にこの聖句を「信頼がなければ、神に喜ばれることはできません。」と正しく書き換えることを主張したいのです。 振り返ってみると、神様がこう言っていたように感じました。「これが信頼というものです」つまり「信頼は人物に対してで、信仰はある事柄に対してである」という意味です。このようなことは聖書解説書には載っていません。神様はこの言葉を通してその日のことを私にしっかりと見せようとしたのです。 神に信頼するとは神と共に歩むことです、と神様が言われるように、例えば、アブラハムはどこで、どのように何が起こるか知らずに信頼するお方について行ったのです。このはかりに戻りましょう、私が思うには、信頼あるいは信仰は戦いです、毎日、戦い続けるのです。私達は信頼/信仰のもう一方にいろんなものを積み上げてしまいます。それらは恐れや、もし何か、多くのもし何かが起こったら、遅れたら、荷物の発出を逃したら、もし癒されなかったら、仕事が得られなかったら、もし何か、もし何かの心配を積み上げます。それなら、神様の方には何を積み上げたら良いのでしょう。 神様の言われること – 神のみ言葉- 私にとっての今、最近の御言葉 神様が何と言われているのでしょう – 尋ねるのです、耳を傾けるのです! 神様が私達のために成されたこと – 私自身にとっての神の御言葉- 私の証し! 信頼の方向へ傾けてバランス(均衡、調和)を取る必要があります。 神様の方向へ傾けてバランス(均衡、調和)を取る必要があります。 私の心と精神を神様の御言葉と御業で満たす必要があります。積極的にです! 「もし何か、しかし」という考えを差し引かねばなりません。 ローマ人への手紙 10:10: 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」 聖書は「私達は心に信じて」と明確に記載しています。私達の心は調教、訓練、新生が必要です(ローマ12:2で言うように)そして軌道から外れないことです。私達は「大きな心」を持って「大きなしかし」ではありません。「もし何か」「しかし、それじゃ」では私達の気持ちを散漫にし、恐れ、不安、自分に頼り、神との分断へとバランスを崩してしまいます。 そしたら、どのようにして心を信頼方向へと傾けることが出来るのでしょう。 私の考えは: 聖書をよく知ることです。聖書があなたの心配事について何と言っているか、あなたが神の時に出会った時、何を示されたか、そして、神様があなたに何と言われたか。 あなたの課題や問題、それらに関連する事柄について主イエスが何と言っているか見つけ出し、心の中のはかりに積み上げて行くのです。 あなたが何故心配し、うつ状態になり、恐れるのかを知りたいですか? バランスを調べてみて下さい。医者の言ったことは聞くけれど、神様は何と言っていますか?あなたは「家賃が支払えなかったらどうしよう」に心が占められているようですね。 あなたはあまりにも多くのことを考えすぎです。だが、神からの聖句全て、長年に亘り神様から与えられた導きを見失っています。アーメン(同意しますか)? アーメン! ピリピ人への手紙4:8~9 「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正し いこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、そのほか徳と言われること、 称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい(心の中に留め、埋め込みなさい)。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい(日常生活において)。そうすれ ば、平和の神(源泉)があなたがたとともにいてくださいます」 「心配するよりこれらのことに心を留めなさい」 皆さんと一緒に祈りますが、もう一つ私が言いたいことは、 皆さん、あなたのはかりにおいて、バランス、均衡、調和を保ちなさい。 私達は祈ることはできますが、あなたが御言葉、神様の御業をはかりに積み上げなくてはなりません。 祈りましょう。 |
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May 2024
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