「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
マタイによる福音書 11:28-30 みなさん、いかがお過ごしですか。もちろんこれはオンライン礼拝ですから、みなさんの返事は聞こえません。でも今9時30分からの礼拝を見ている方はチャットでメッセージを送ることができます。元気にしていますか。それともちょっと休息が必要ですか。この時季、神戸は非常に暑いですし、パンデミックも長期にわたって続いています。 おそらく私たちには心理的休息、精神的休息、感情的休息が必要でしょう。イエスは霊的な休息、つまり魂の休息について語っておられました。 私たちは休息を知らないかもしれません。人生は傷心、心の痛み、後悔、罪悪感、苛立ちに満ちています。それらを全部様々な方法で心の中から追い出そうとする人もいますが、それでは魂の不安を癒すことになりません。 休息は、イエス・キリストの中にのみあります。「神の中に安らぎを見つけるまで、魂は不安で休息することがない」と言ったのはアウグスティヌスでした。 今日の聖書箇所に、イエスがもたらす休息があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエスは言われます。 今日の説教の本題に進む前に、ここに関連した歌の一節を紹介しましょう。 歌の繰り返し部分は、二つの聖書句が基になっています。 「わたしについて来なさい」(マタイ4:19) 「休ませてあげよう」(マタイ11:28) この讃美歌は、ボブ・ダフォードS.Jの「おそれることはない」です。 森本アンネさんと、母親の敬子さんの歌と演奏です。お聞きください。 (音楽) 「おそれることはない。いつも私があなたの前を歩くから。わたしについて来なさい。休ませてあげよう」 グーグルでもっとこの歌を聞くことができます。 https://www.youtube.com/watch?v=wQr4udSiEew 2週間前の礼拝のオンライン説教で、亜希子牧師は詩篇23編について話しました。この詩篇の中で、よい羊飼いというものは、どのように私たちを世話してくれるかを私たちは知りました。ご存じの方も多い次の詩篇は、私自身、魂の休息が必要な時によく読むものです。以下がその一部です。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる」。 詩篇23編では、私たちは「死の陰の谷」を歩くかもしれない、そこにとどまることはないが、通り抜けなければならない、と言っています。その谷が長い人もいれば短い人もいます。 しかし私たちは一人ではありません。イエスが共に歩き、導いてくださるからです。私たちはともにいてくださる主、よい羊飼いを知っています。 先週ティム・ボイル氏の説教の中で、なぜ善良な人に悪いことが起こるのかという昔からの問題についての話がありました。(教会のウェブサイトで、過去の説教を読んだりビデオを見たりできます)その説教で「足跡」という詩を紹介していました。詩の中で、自分が一番辛く、悲しい時、神は私を背負って歩いていたとありました。苦難は魔法のように消え去ったりしませんが、私たちは決して一人ではありません。 では今日の聖書箇所を、より深く見ていきましょう。ひとつのやり方として、聖書箇所の中から、目を引いた言葉、または自分に語りかけていると思われる言葉を一つか二つ選びます。その言葉について祈ったり瞑想したりします。これを先週土曜日のSermon labで行いました。どの言葉が選ばれるのかを興味深く見ていましたが、ある人は「来なさい」と「謙遜」を選び、ある人は「軛」を、またある人は「休ませてあげよう」を選びました。 また、聖書の他の翻訳を見ることで、言葉のより深い意味を知ることもできます。 次に今日の聖書箇所の主なポイントと語句の意味を話します。 1. 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28) イエスの招きを見てください。誰も除外されることのない、万人に開かれた招きです。イエスは、人生の重荷から私たちが逃げることを提案しているのではなく、私たちが重荷に対処するとき共にいてくださる、と言っています。重荷のない人生はありません。人生は苦悩と困難に満ちています。人生の重荷を負うのに耐えかねて、意欲を失い疲弊するのは普通のことです。その時、イエスは私たちに休息を与えてくださいます。 28節の「休む」(rest)という言葉は「静かにじっとしている(be still)」とか「動きをやめる」という意味です。私は詩篇46章の「力を捨てよ(Be still)、知れ わたしは神」を思い出します。祈りながら、主において自分の力を捨て、静かにする鍛錬をしましょう。休んで、静かに神のご臨在に感謝をささげましょう。 「休ませてあげよう」の句の中の、「あげよう」(give)という言葉もまた重要です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。これはイエスからあなたへの贈り物です。受け取るために何も苦労しなくてよいのです。受け取るに値しなくてもよいのです。懇願しなくてもよいのです。ただイエスの招きに応じればよいだけです。 2. イエスは柔和で謙遜(マタイ11:29) 次にイエスの性質を見てください。29節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。この「謙遜」の意味は「地上に低く」で、これは神がイエスにおいて私たちになさったことと同じです。神はイエスを通して「地上に低く」来られました。万物の神は、人間としてこの世に来られました。そして神の御子として、イエスは神がどのようなお方であるかを私たちに示してくださいました。イエスは柔和で謙遜な方です。人は多くの場合、神は厳格で、厳しい判断をなさるお方と考えています。しかし実は神は穏やかで、優しく、人を許すお方だと私は思っています。 3. イエスはあなたが弟子として従うよう召命している イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。ここで「学ぶ」という言葉は「弟子」という言葉と関連しています。わたしの軛を負うようにとイエスが言われるとき、それは弟子になるようにと言われているのです。イエスに従い、イエスから学び、イエスに仕えるよう、イエスはあなたを招いています。 4. わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い(マタイ11:30) ところで、魂はどのように休息を見いだすのでしょうか。30節でイエスが言われたことを見てください。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)イエスが語りかけた当時の人々は、複雑な律法、命令、伝統、政治的状況の重荷を負っていました。 イエスはファリサイ派について、律法を守ることに固執しすぎて、大局的な視野に欠けると批判しました。 マタイ23章で、イエスはファリサイ派のことを「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」(マタイ23:4)と言っています。 イエスはファリサイ派とは別の生活、別の信仰へと招きます。重荷であったり、崩れたりする信仰ではなく、気力を回復し、元気を取り戻す信仰です。これがイエスのもたらす休息です。イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言いました。 軛を負ってわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう…。この軛(くびき)とは何でしょうか。軛とは木製の枠で、2頭の牛の頭をつなげて、鋤や荷馬車を引くための道具です。先週の土曜日にロイ・ミスラングさんが言っていましたが、フィリピンではよく使われているそうです。 イエスは「わたしの軛は負いやすく…」と言っています。この「負いやすく」(easy)というギリシャ語はまた「ぴったり合う」という意味もあります。イエスは大工として軛もたくさん作ったことでしょう。牛が連れて来られ、寸法を測り、軛はまず大雑把に作られます。牛の首につけてみて大きさを修正し、牛の首をすりむかないようにちょうどよい寸法で作られたことでしょう。 軛は農夫が牛を優しく引くのに役にたちます。イエスが軛の言葉を使ったのは、軛が服従の象徴だからです。この世で休息を求め、心の平安を望むなら、イエスに完全に従わなければなりません。 ここで神のご意志に服従した4人の人を、私は思い浮かべます。彼らは神を愛し、隣人を愛しました。重荷に苦しんでいる人を助け、その重荷を軽くしようとしました。その一人はアルベルト・シュバイツァーです。フランスの神学者でアフリカに伝道しました。他の二人は賀川豊彦と妻のハルで、神戸のスラムに身を投じ、神の意志に従い、貧困にあえぐ人々の救済に力を注ぎました。そしてもう一人、私たちの兄弟であるチャック・グラフトは、癌で亡くなる最後の時も主に従い、神との関係に平安を見いだしていました。今は安らかに神のそばにいます。 イエスが「わたしの軛を負い…」と言う時、私たちはイエスと同じことをするように求められています。イエスは、この世のすべての罪、悲しみ、苦しみを背負っていました。しかし私たちの軛はイエスの軛より軽いはずです。なぜなら私たちの軛の片方に、イエスがおられるという主の約束があるからです。イエスの軛は、クリスチャンとしての人生を生きる私たちを助けるためにあります。 私たちが生きているこの世の中は、どこを見渡しても混乱に満ちています。国際的な混乱、社会的な混乱、道徳的混乱、経済的混乱があります。 しかしイエスのもとに行けば、休息(rest)が得られます。restの意味は「元気を回復する」です。このrestは「コリントの信徒への手紙一」の中で、ステファナ、フォルトナト、アカイコについても使われています。「この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです」(Ⅰコリント16:17-18) また次の節でも使われています。「主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください」(フィレモン1:20) イエスとともに、イエスの中に、イエスのために生きる人生には元気があります。人生の旅路で、イエスを通して力を与えられています。 ここで、毎年行われている催しを紹介しましょう。ご存じの方もいますが、私はサンフランシスコに近いベイエリアにあるレッドウッド・シティ出身です。南カリフォルニアに向かって海岸沿いに車を走らせると、かつてスペイン人宣教師が建てた伝道所をいくつか通り過ぎます。ミッション・サン・ファン・カピストラーノはそのひとつで、ジュニペロ・セラ神父によって1776年に建てられ、今では毎年3月に行われる「ツバメの回帰」という催しで世界的に有名になっています。 3月になると、毎年何百羽ものツバメが、遠くアルゼンチンから海を越えて6,000マイル(9,656キロ)彼方のカリフォルニアのミッション・サン・ファン・カピストラーノまで飛んできます。ツバメは泳げず、6,000マイルを休まずに飛ぶことはできないはずなのに、どうやってたどり着くのでしょうか。 実は、ツバメは小枝を口にくわえていて、飛ぶのに疲れると小枝を海に落とし、その上に止まって休憩するのです。 この話は私たちと類似しています。人生の旅路で疲れると、イエスに止まって休息するのです。 神があなたに休息をくださる時、イザヤ書40章31節を思い出しましょう。 「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31) 主は私たちの気力を回復させ、とてもできないと思われる時でさえ、前進する力を与えてくださいます。 イエスの招きを受け入れ、自分をイエスに結び付けると、軛によってイエスと自分が一つになり、ともに重荷を負う力を持つものとなります。イエスは私たちの疲れを取り去り、魂に安らぎを与えてくださいます。 さあ、みなさん、イエスはすべての人を招いておられます。イエスのもとに来て魂の安らぎを得てください。 アーメン
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聖書における義についての円卓会議 なぜ悪い事が良い人に起こるのか 詩篇73、ヨハネの福音書9:1−7 神戸ユニオン教会 2021年7月25日 説教者:Timothy Dale Boyle牧師7/23/2021 今日、このお説教を皆さんの前で致しますが、私は複雑な気持ちでいます。しばらくご無沙汰していたので、またKUCの家族とご一緒できるのは喜ばしいのですが、本来、今日お説教をする方の代打として悲痛な思いでいます。チャック牧師は病院の病床から本日のお説教をする予定でした。皆さんもご存知のように、彼はおよそ1ヶ月前に救世主である主イエスのところに旅立たれました。私達がこの悲しみに打ちひしがれて「多くの隣人にあんなに良いことをされた方が、なぜ若いのに死んでいくのだろう。」と疑問に思うのももっともです。
「悪の問題」は歴史始まって以来、人類が取り組んできた問題です。明らかに、簡単には理解できないし、このジレンマに満足いく答えもありません。しかし、だからと言って聖書には何の答えもないという意味ではありません。ただ、人生のこの部分には神秘的な面がどうしても残るということです。今日はこの難しい問題に対して聖書全体の立場から見て、何を学べるか考えて行きたいと思います。 私達が直面している問題は全能の愛なる神を信じながら、毎日のテレビのニュースで見る言語に絶する恐ろしい出来事や事件をどうしたら説明できるかということです。 私は科学の歴史を学んでいますが、有名な科学者であったアインシュタインにとって信仰の一番の妨げとなったのはこの問題でした。彼の宇宙に関する様々な研究を通して、宇宙は永遠から存続したのではなく、数十億年前にはっきりとした始まりがあったということが分かりました。従って、万物が存在するように宇宙が形成される瞬間があり、それを創り出した創造者も存在しているはずだと結論に至ったのです。しかし、アインシュタインはこのような全能の神がなぜ悪や苦しみを許すのか納得できる答えが与えられなかったので、結局、彼が聖書の神を否定して、神は我々人間と直接に関係を持たない人格性のない力として描くようになりました。 一体なぜ良い人がしばしば苦しまなければならないのだろうか。そして、同じように困惑させる問いかけは、なぜ悪い人が栄えるのだろうか。これらの質問は大きなジレンマを示しています。というのは、神は善でありながら、このような不正に対してどうすることもできないということなのか。それとも、そのようなことを支配できるにも関わらず、そうしてくださらないのか。どちらも矛盾を生じます。最初の場合は神が全能ではないことになるし、反対の場合は「神は愛なり」という聖書の教えは嘘になってしまうように見えます。そして、もし神は私達の日常生活と関わりをもってくださると信じているのなら、同じようなジレンマが発生します。すなわち、善と見える私達の人生の詳細と関わっているとすれば、悪と見える出来事と同じ程度の関わりをもっているということにもなります。 では、この問題を考えて行きたいのですが、このお説教であらゆる苦しみの原因を割り出せる便利なシステムを提供し、この問題をおこがましくも解決しようとしているのではありません。やはり、それは人間ができることではないのです。その上、聖書に答えを求める時、聖書は複雑な書物であることを認識する必要があります。聖書に示されている救いの道は簡単で、分かり易いものですが、聖書そのものは単純なものではありません。聖書全体を本当に理解するために、多くの祈りと学びの時間をささげなければなりません。 それでも、この説教で苦しみと神の義というこのトゲある問題を聖書がどう取り扱っているか、全体像を一緒に考えて行けると思います。では、この課題を考えるために、聖書のいろいろな人物が互いに話し合っている場を想像してみましょう。聖書に含まれている66巻の本は1000年以上の間に様々な文化的な背景を持つおよそ40人の手によってできたものです。聖書全体を通して内容の一貫性と一致を考えますとそれ自体、実は大変驚異的なことです。 しかし、思考の模索として、一応、主だった登場人物が一緒に大きな円卓の周りに座ってこの重い問題について議論している様子を想像しましょう。この討論の議長を勤めているのは、もちろん主イエスご自身で、その周りにモーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤ、エレミヤなどの旧約聖書の人物が並んでいます。そして、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、ペテロ、パウロなどの新約聖書の中心的な人物も一緒です。この問題を彼らが討論していることを想像してみてください。 この議論の詳細に入る前に、この話し合いがいわゆる古代中近東の文化的な世界観の中で行われていることを認識しなければなりません。その時代の中核をなす世界観、人生における最高の価値観、つまり健康、長寿、社会的地位、多くの子供を設けること、富などはすべて神々への礼拝と奉仕によって勝ち取るものだと考えられていました。古代人にとっては選択肢が明らかでした。この様なことを獲得したいのなら、神々に仕えなければなりません。なぜなら、神々に逆らったら、病気や短命、子供のない生活、貧困の人生を送ることになると考えられていたからです。このような聖書時代の文化的背景の中で、聖書物語が起こっていたのです。 まず、この文化的背景の中で、モーセは聖約信仰をどう語るのかみてみましょう。彼はもちろん、つまり古代文明の世界観の多くの面に対して異義を申し立てるのです。神の霊感に触発されて、モーセは無数の神々の概念、それら神々とは一体何なのかと抗議したのです。人間が唯一真の神と交わるために信仰と信頼をもって神に仕えないで、魔術的な呪文を唱えて神に介入することを厳しく非難します。実はこのような考え方は、現在でも世界のあらゆる宗教に見られます。すなわち、自分の願いごとが叶えられるように、儀式や祈りを通して神を操ろうとすることです。つまり、ご利益宗教のことです。このような文化的な環境の中にありながら、モーセはこの点を強く非難します。 しかし、神に従順かそうでないかの結末の問題については、モーセは古代中近東の隣人とほぼ同じ考えを持っていたということが分かります。モーセとイスラエルの民との関係を述べている出エジプト記、レビ記、民数記と申命記に記録されているのは、モーセを通してイスラエルの民は神と契約を結ぶことになり、その契約に従えば祝福されるけれども、もし従わなければ、呪われることになるということです。そして、それらの結果は直ちに受ける具体的な祝福を受けるか、また呪いが身に降りかかります。 これらは契約のいわゆる「霊的」な祝福と呪いですが、それらはすぐ現われる健康、生殖力、寿命、そして国としてまた個人としての繁栄と平和などという形で経験するものです。旧約聖書の残りを見ると、この考え方は旧約聖書の大部分の思想の土台となっていることがすぐ分かります。このいわゆる「聖書の円卓会議」では、この考え方は「大多数の解釈」と呼びましょう。 しかし、この「大多数の解釈」に対してもう一つの考え方があります。それは「少数派の解釈」ということで、この人生において、正義が行われると必ず祝福を受けること、また、悪が行われれば自動的に天罰を受けるという考え方を否定するものです。 たとえば、創世記に書いてあるヨセフの物語を読みますと、人が苦しみを受ける原因が様々であると明らかにされています。若い時、ヨセフは、兄達に自慢たらしい自分の夢を不愉快にも話したため、兄達は激しい嫉妬心を起こしました。それゆえに、兄弟の手によって、ヨセフがエジプトに奴隷として売られてしまう結果となりました。そこでヨセフは、結局、牢屋に入れられ、長い間苦しんでから、とても不思議な導きによって、パロ王の次となる、権力を持つエジプトの総理大臣まで昇進したのです。この話から見えるのは、苦労の原因は自身が生意気なことや罪深い自分のせいである場合もありますが、他人の不正な行為による場合もあると分かります。私達が苦しむ原因は複雑で、幾つかの要因が組み合わさり、私達がコントロールできるものではありません。 ヨセフの経験から学べるもう一つのポイントは悪の状況の中にでも、神が背後で、ご自分の究極の善、その目的のために奇しくも働いていらっしゃるということです。何年間も後にヨセフが兄弟達に言ったように、「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを良いことのための計らいとして下さいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」罪と苦しみ、また従順と祝福の因果関係が明確にされているのに、このようなヨセフの話が神との契約の物語の中にあり、私達は苦しみに対するもっと深みのある理解へと導かれます。 このいわゆる「大多数の解釈」に対して、ヨブも強く反論します。ヨブは自分がどういう人間であるかと、どういう人生を送るかの間に直接的な因果関係があるというこの単純化された考え方を否定します。ヨブがひどく苦しんでいた時、彼を慰めようとした三人の友人はヨブの苦しみは、何かヨブ自身が行ったことに原因があるという立場からヨブと口論し接しました。しかし、ヨブは彼らに反論して証拠をきちんと見るように訴えたのです。すなわち、明らかに悪人が少なくとも地上における人生のうちに罰を受けずに繁盛する数多くの例と、一方、自分のように良い模範となる人生を送りながら、ひどく苦しんでいる例があると訴えました。このようにして、ヨブ記は人の性質と人生の状況との間の直接的な関連性を否定します。 ヨブ記は苦しみを見る可能性を贖罪として昇華しているのです。つまり、この世の快適な人生よりも、苦しみの経験は更に高潔な目的に仕えているというのです。天における永遠の命に比べれば、地上における肉体的な人生は極めて短いもので、ヨブはその観点をいつも念頭に置いています。この人生における苦しみに耐えるために、天国に永遠の命があると信じる必要性を強調します。しかし、ヨブが頭でそれが分かっていても、心の中で大きな葛藤を感じていたので、神に自分の心の苦しみを訴えました。ヨブ記から読み取れる大事なメッセージの一つは、神に対して自分の気持ちに正直であることです。神と話す時、他の人が期待する信心深い宗教用語で祈る必要はありません。他人が思い描く私達のあるべき姿ではなく、私達はありのままで神とお話しできるということです。苦しみの中で、たとえ神に対する怒りの気持ちがあってもそのまま神に訴えることができます。なぜなら、神が私達をよく知っているからです。 ヨブ記に見えるもう一つの大事な点は、神の御前で人間のためにとりなしをしてくださる仲介者の必要性です。ある意味、ヨブは自分が最後には正当化されることを感じ取って、彼は偉大な信仰告白を叫びます。「わたしは知っている!わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」その時、ヨブがその言葉の本当の意味を理解できるはずはありませんでしたが、神と人間の間に立つ贖い主、救いを与える主イエス・キリストについて預言することになりました。その上、ヨブは自分の苦しみは、神が自分を見捨てたという意味ではないと指摘します。ヨブの状況を理解するには有限の被造物としての限界があったのです。問題は、地上における人生しか見えないという制限があるので、霊的な世界に何が起きているのかなどの全体的なことが見えないのです。ヨブにはできないことです、そして私達にもできません。このようにヨブが取り上げる各要点はこの円卓会議に「少数派の解釈」に大きな説得力をもたらします。 この時点で、イザヤが議論に加わります。イザヤ書53章には、神のしもべは自分の罪のためではなく、他の人の罪のゆえに苦しむことが描かれています。そして、実際は、他の人の罪のゆえにばかりではなく、その罪の赦しのためにも苦しみを受けるのだと言っています。御心は、明確に他の人の贖いのために苦しむことを前面に出しています。これもまた主イエスの人生に完全に成就された預言でした。 この原理はもう一人の旧約聖書の預言者であったエレミヤの人生にも反映されました。エレミヤのメッセージは「大多数の解釈」の基礎となった申命記の御言葉に基づいています。すなわち、契約に従えば祝福されること、従わなければ呪われるということです。しかし、エレミヤ自身はどうなったのでしょうか。彼が神に訴えます、「主よ!あなたのために説教する度に、彼らは私を牢屋に投げ入れるのです!」そして、この書の結末がどの様に終わるかと言いますと、かわいそうなエレミヤはエジプトに連れ去られ、行方不明となります。ちょっと一貫性がないですね。エレミヤは契約に従順でありましたが、地上の人生は決して祝福されたとは言えません。こうして、エレミヤの人生はヨブの経験に加わえて「少数派の解釈」に対する説得力に重みを増します。 そして、同じように詩編の編集者は「少数派の解釈」を支持する詩をいくつか取り入れました。たとえば、長期間、慢性疾患に苦しむ人の問題があります。その苦しみは、病気は何かの罪を犯したためで、つまり病気自体、あなたが何らかの罪人であることを証明するのだ、と人々が言うことによって更に苦しみがひどくなるのです。 そして、先ほど読んだ詩編73編があります。詩人は自分の周辺を見て、神につぶやきます、「主よ!疑問を感じます。私は良い人なのに、家族が貧しくて、病気がちです。神様、向こうの町に住む異邦人が見えますか。あの口汚い、暴力的なずるい奴。彼が住んでいる立派な邸宅と何と妻と子供達のうるわしく、健康に恵まれた者達をご覧ください。その上、彼らがいつも私達をばかにしているのです。神様!あなたはどこにいらっしゃるのですか。何かがおかしいでしょう!」 その後、彼が神殿に入り、物事をもっとはっきり見えるようになります。悪人の場合、彼らについに何が起こるかがよく分かり、そのために信仰を持ち続けます。たとえ大富豪や高慢な人であっても、いかに人生は不確実なものであるかが見えたのです。そして、自分の嫉妬や妬みによって、人生の見方が歪んでいたことなどが分り、自分の本当の醜態が見えるようになるのです。その上、この人生の後の旅に対して、ある程度の洞察を授けられ、次のことばを言います、「あなたの他に天では、私に誰がいるでしょう。地では、私は誰をも望みません。この身も心も尽き果てるでしょう。しかし、神は私の心の岩。とこしえに私が受ける割り当ての地。」詩篇73:25−27 私達もいつか、「主よ、私には本当に必要なのはあなただけです」という言葉を肯定するかまた否定するかのどちらかを決めなければならない時が必ずくるのです。いつまでもどっちつかずで、フェンスにまたがっているわけにはいきません。 「少数派の解釈」を支持する一番強い味方となるのは、もしかしたら、「コヘレト」と呼ばれている伝道者の書を執筆した哲学者かもしれません。彼は自分がどういう人物であるか、それゆえに自分に何が起こるかという直接な因果関係を完全に否定します。彼によると、茶葉を読み運勢を占うより、日常生活に起こる出来事を通して神は私達をどう思っているのかを知るのは難しいと言います。私達はもちろん神の御手の中にいるのですが、私達が神に愛されているかそれとも憎まれているか、誰が告げてくれますか? どのようにして神が私達を愛しているのかが分かるのでしょうか。どのようにして神が私達を憎んでいるのかが分かるのでしょうか。やはり、それもわからないのです。こうしてコヘレトは私達がどういう人間であるかと人生に何が起こるかとの関係を完全に断ち切るのです。しかし、それにもかかわらず、結論として、次のことばで彼の文書を締めくくります、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。・・・『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」 このようにして、「少数派の解釈」は新約聖書を呼び求め、ある意味で、新約聖書への橋渡しの役割をも果たします。こうして、聖書における思考模索の円卓会議は、ここで主イエスが討論の指導権を取って、「少数派の解釈」に味方します。 ルカ13章で誰かが主イエスに問題提起をして、神にいけにえをささげながらピラトによって殺されたガラリヤ人のことを尋ねました。主イエスはこう答えました、「そのガラリヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガラリヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 後に、弟子たちが生まれつきの盲人のことを尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」主イエスが答えたのは、どちらでもないということで、これらの一連のことは、誰かが罪を犯したために何かが起きたという因果関係は成立しないということです。そして、主イエスが教えたのは、このようなことは神の目的とこの世での神の栄光をもっと広い視野で見なければならないということです。 更に鮮烈なのは、主イエスの弟子に対する呼びかけの言葉です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」主イエスが十字架を背負って苦しみを受けましたので、もし私達が彼に従おうとするならば、どうしてすべての苦しみから免れることができるのでしょうか。これがマルコの福音書の主題です。彼の証言の中心は十字架上の主イエスのことで、その十字架に関わる苦しみを避けようとするなら、主イエス、また神を理解できないと主張します。主イエスを本当に理解できるのは十字架の立場からのみです。ですから、苦しむことを否定したり、回避しようとするキリストの弟子訓練への取り組みは的を外れているのです。それらは、苦しみを神の御心の内にあるこの世の人生の経験の一部として捉えることをしていないからです。 その威厳のある現場で、主イエスの驚くべき人生、その死と復活を通して神の啓示の完成を初めて経験した使徒達は今度討論に加わります。私達に起こったことから、神が私達を愛しているかどうか本当に知り得ないという伝道の書、コヘレトの主張に対しての答えは、使徒達は「そうだけれど、違います。」と返答します。彼らの申し立ては主イエスの十字架に委ねられています。神が私達を愛しているかどうかはどうやって分かるのですか? それは苦しみを受けずにすんだという「祝福」を受けたかどうかではありません。同様に、戦争や自然災害によって、家族や家屋を失う経験がないという幸運が、神の愛の根拠でもないのです。神が私達を愛しているかどうかはどうやってわかるのですか? それは、罪とその支配から私達を救出だすという、人間にとって最も必要なことを神が達成されたことから分かるのです。神が私達を愛しているかどうかはどうやってわかるのですか? 使徒達はいつも私達を十字架に連れ戻します。ヨハネの手紙一4:10にこれが愛であると書いています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、私達の罪が許されるために御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」また、ローマの信徒への手紙8:39 のように、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト.イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 それで、苦しみと神の義に関する聖書の円卓会議は私達に何だかどっちつかずの結論を残しましたね。ある意味、「大多数の解釈」は人間の理解という観点から見ればもっと正しく見える面があるでしょう。善行は祝福され、悪行は呪われます。「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」これも聖書の言葉です。人生のあらゆる面において、これは事実だと誰でも分かるはずです。それは私達の法律と政治制度の基礎そのものです。よく働くことによって報われ、法律違反をして、他の人に害を及ぼすなら、刑罰を受けるのです。聖書の円卓会議で「大多数の解釈」より「少数派の解釈」の優位性は、まるで私達の生き方が人生に起こる事態に全く無関係であるかのように生きることを意味していません。その逆で、私達が善を行い、義である人生を送るように勧められています。この人生で行った善行に対して報いを受けないかもしれません。場合によって、かえって苦しみを受けるかもしれません。しかし、天において、必ず報われます。それは具体的にどういうことなのかは私にはよくわかりません。しかし、その約束があることは大きな慰めとなります。 いや、苦しみと悪の問題に対する答えは単純なものではありません。その単純化された「大多数の解釈」は、人生の祝福と呪いだけに限られる方程式なのが大きな問題で、それは明らかに間違いです。しかし、天における永遠の命の観点から考えれば、つまり、「天における報い」と報いの欠如の場合は、その方程式に入れられてしまいます。さすれば、私達はこの二つの観点は実際どうして共存するのか見てみましょう。 いずれにせよ、ヨブが発見したように、神が私達と共におられるだけでなく、私達の強い味方にもなってくださることは使徒達が「少数派の解釈」の締めくくりとして言います。私達が苦しむ時こそ、神が私達を慰めてくださいます。そして、神の時にかなって、神の良い目的のために私達の苦しみを通して神は働かれるのです。神は、私達が神は義であること、そして私達の信仰が無駄ではないと分かる日まで私達を導かれるのです。それは福音の良い知らせです。そして、これは悪の問題をうまく回避しているのではありません。人生というものにはいつも神秘的な面が残りますが、それでも神が私達と共にいることを確信して、人生の道を歩むことができます。そして、御旨に従っていく決心をして、自分のすべてを神にささげて生きていく内に、神がご自分の目的を私達の中に果たしていきます、たとえ苦しみの中にいてもです。それだからこそ、私達は主イエスの十字架、私達の強い味方である神は私達を愛してくださること、私達のために主イエスが命をささげて、よみがえってくださったことに私達の信仰の土台をしっかり置きましょう。 最後にアメリカで有名になったある詩を皆さんと分かち合いたいと思います。「足跡」という題ですが、日本語に訳しますとこうなります。 「ある夜、わたしは夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出された時、私は、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く、悲しい時だった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心した時、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私には分かりません。』主は、ささやかれた。『私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡が一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていたんだよ。』」 人生の歩みには、私達も苦しみの時期を通らなければならないかもしれません。場合によって、耐え難い試練に遭わせられるかもしれません。しかし、どんな場合でも覚えておきましょう。神がいつまでも私達と共にいらっしゃるので、私達の信仰は決して無駄にはなりません。 お祈り致します。主よ、この人生の歩みには、分からないことが多くあります。私達が霊的な意味においては、目の見えない者に等しいです。どうか、主よ、導きを必要としている私達を導いてください。そして、試練に遭う場合、それを肯定的に受け止めて、成長するチャンスとして迎えられるように私達を強めてください。これらのことを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン 今日の聖句朗読は、詩篇の中でも最も有名な箇所の一つです。詩篇23篇は聖書の中でも最も有名な箇所の一つと言っても過言ではありません。この箇所を題材にした歌もありますし、芸術作品もあります。今日のメッセージの後で聞くことになると思いますが、ミスラン・ファミリー・バンドがこの聖句をテーマにした曲を今日の礼拝のために録音してくれました。また私の末っ子が通う幼稚園には詩篇23篇を題材にしたタペストリーがあります。布製の壁掛けで、羊飼いとしてのイエスが羊の群れを抱きかかえ、導いている様子が描かれています。
今日の聖書箇所朗読(英語)ではNew Revised Standard Versionという翻訳を使いました。このバージョンでは他のバージョンと同様に、それぞれの聖書箇所に見出しやタイトルが付けられています。詩篇23篇の見出しは、”The Divine Shepherd"(神なる羊飼い)となっています。 詩篇23篇の冒頭には、"主は私の羊飼い "という、私たちの多くが知っている言葉が出てきます。この詩を書いたと言われているダビデ王はイスラエルの偉大な王として知られています。彼はサウル王がイスラエルの12部族を統一した後、イスラエル連合王国の王となりました。若き日のダビデが神の保護と祝福を受け、スリングだけで武装してペリシテ人の巨人ゴリアテを倒したという有名な話は多くの人が知っています。その後、彼は武力と組織力を高め、イスラエル史上最も有名な戦士、そして王となったのです。しかしこれらのことを成し遂げる前に、ダビデは何よりもまず羊飼い、それも善良で、献身的で、責任感のある羊飼いでした。 自らも羊飼いであったダビデは、この詩篇で主を唯一の真の神の羊飼いと理解していることを告白しています。ダビデは羊飼いの経験から、また神の牧草地に飼われる羊としての経験から、羊と羊飼いの間には親密な関係があることを個人的に知っています。羊はその性質上、"従う "生き物です。群れを導き、安全に目的地まで連れて行くためにはリーダーが必要です。2節を見ると、この神の羊飼いは羊の日々の必要を満たすために羊を休息と水のある場所に導いています。 また、この羊飼いは羊を移動させ、緑の牧場に寝かせます(詩篇23:2)。しかしイスラエルは完全に草に覆われた土地ではなく、乾燥した不毛な砂漠の土地であることを覚えておく必要があります。緑の牧草地が豊富にあるわけではありません。イスラエルでは緑の牧草地が期間的に現れます。最近見たイスラエルのビデオでは、緑の地はイスラエル全体の20~30%しかないと言っていました。ですから羊が緑の牧場に寝そべるように導くには、羊飼いの綿密な計画と的確な指導が必要です。羊飼いは土地全体の生態や地質を熟知し、更に羊と親密な関係を築いていなければ、砂漠を越えて緑の牧草地に導くことはできません。そのためには羊は羊飼いの導きに喜んで従い、羊飼いが稀にしかない緑の牧場に確実に導いてくれることを信じなければなりません。 もちろん、緑の牧場がどこにあるかを知っているだけでは必ずしも十分ではありません。なぜならこの緑が広がる場所の時期は本当に短いものだからです。地中海から風の湿気が谷の上を緩やかな弧を描き、何口か分の緑が芽を出すのに必要なだけの湿気を落とします。もちろん風向きは変わりますから、今日羊が休んでいる緑の牧草地が、明日、明後日にそのままある保証はありません。 羊飼いは一日一日、羊を休息と食事のできる緑の牧草地に導き、一日一日、飲むための水に導かなければなりません。詩篇を読み進めていくと羊は肉体的な強さだけでなく、魂の強さのためにも毎日十分なものを与えられていることがわかります(詩篇23:2)。そしてその時必要なものが満たされるという経験を通して羊は羊飼いへの信頼を深めていくのです。 もちろんイスラエルの砂漠で緑の牧草地を見つけるにはまだまだ課題があります。この地域は岩や丘陵が多く、土地の起伏が激しいのです。何千年もの間、人間と野生動物はA地点からB地点への多くの道を作ってきました。羊飼いが緑の牧地を見つけるために岩や丘を通って小さな道を作り、岩の多い丘を一度ずつ超えて羊を水や休む場所に導いてきました。 これらの写真(オンレイン礼拝に載せています。)からもわかるように、イスラエルの地では人があちこちに行くのにさまざまな道があり、羊を牧草地に導くのにもさまざまな方法があります。羊は目も良くなく、方向感覚もないので、放っておくと簡単に道を間違えて岩山から転落してしまいます。実はこの地域では羊をはじめとする野生動物の主な死因は転落なのです。 羊飼いが羊を守るのは羊を正しい道に導くことです。羊飼いの仕事は、羊に日々の糧を与えるだけでなく、羊が転んで死なないように正しい道に導き、維持することです。また羊飼いが導く道は必ずしもまっすぐな道ではありません。他の人から見れば、羊飼いが羊を導く道は、長く、曲がりくねっているように見えるかもしれません。しかしそのように見えても、羊飼いは羊にとって最も安全で最良の道を選んでおり、羊は羊飼いの導きを完全に信頼しているのです。 ダビデがこの詩篇で用いている、私たちと神との関係を羊飼いと羊のように表現したこの例えは深く意味のあるものですが、4節でその例えは終わりを迎えます。5節と6節では私たちと神様の関係がホストとゲスト(招かれた客)のようなものであることを示し始めます。私たちの中には、特に神を羊飼いと見なすことに安らぎを感じ、共鳴していた人にとってはこれは突然の変化のように感じるかもしれません。しかし実際には神様が羊飼いからホストに変わるということを表しているのではありません。 この変化は私たちが主との本当の生きた関係を経験したときに実際に起こることを表しているからです。私たちが主との生きた関係を持ち、その関係の中で成長していくとき、私たちは羊として日々の羊飼いの供給に頼る一方で、主の家に迎え入れられる光栄な客となるのです。 この章の序盤で主は羊の世界に入ってこられました。羊飼いがそうであるように、私たちの神の羊飼いも家を出て、私たちの世界に来られ、私たちに加わり、私たちの住む場所で私たちと一緒におられます。しかし5節と6節では、私たち羊が、牧草地を離れ、主の家に入り、食べ物と飲み物のある食卓に迎えられます。 興味深いのは、羊の緑の牧草地の家から主の家への移行の途中で、4節のよく知られた暗闇に関する箇所が出てくることです。 「暗い谷を歩こうとも、私は災いを恐れません。あなたが私とともにおられ、あなたの棒とあなたの杖が私を慰めてくださるからです。(詩篇23:4)。羊飼いが羊を正しい道に導くといっても、羊に危険が全くないわけではありません。羊飼いは失敗やひどい落下の可能性がある道から羊を守ってくれます。 しかし、だからといって、暗くて危険な谷間を、羊自身が実際に歩かなくてよいということではありません。ダビデは時として私たちはその暗い谷だけでなく、最も暗い谷を歩かなければならないこともあると言っています。光が失われ、休息や食物のための緑の牧場が得られないような場所のことです。 しかしそのような暗い谷間を歩いたとしても、羊にとって、私たちにとって、何の恐れもないと詩篇は言っています。なぜなら羊飼いはそのような時でも羊と一緒にいるからです。主が私たちと共におられるからです。最も危険な時、最も深い暗闇の時、私たち羊が最も信頼できるその一人がすぐそばにいて、私たちと一緒にその暗い谷を歩いている。羊飼いがともに羊といてくださるという約束、つまり、主が私たちと共にいてくださるという約束が羊飼いと羊、神様と私たちの間を近づけます。 そしてそのような羊飼いの存在に加えて、私たちは羊飼いの道具である棒と杖を通して、親密さや信頼を更に築くことができます。羊飼いは羊を襲おうとする野生動物を撃退するために棒を持ち、羊が勝手に危険な場所に行ってしまわないようにするために杖を持っています。 羊飼いが用いるこれらの道具は羊を安心させます。羊の群れの中で羊飼いが見えなくなっても、羊は群れの上に突き出た棒や杖を見ることができます。そして羊たちは、羊飼いの道具を見るだけで、羊飼いの保証を信じることができるようになり、信頼を深めていくのです。 人生では羊飼いがどんなに上手に群れをナビゲートしても、その暗い谷間は私たちから離れず、そして取り除かられないこともあります。しかし私たちが羊飼いの臨在に寄り添い、私たちの中におられる主の臨在に寄り頼み、主の臨在のしるしを自分の慰めとするとき、羊飼いである主と私たちの関係はより近く、より親密になっていきます。 主への信頼が花開くのです。私たちは主の家に自分の家を見つけることができることを学び、そこから真の素晴らしい帰郷を迎えることができます。イスラエルの乾いた土地は、彼らにとって自然な生息地のように見えたかもしれませんが、そこは彼らの永遠の家ではありませんでした。主の家が永遠の家でした(詩篇23:6)。 そのようにまさに主の家に入るような、主と親密な関係を築く時、変容を経験するのは私たち自身なのです。この詩篇では、主が羊飼いから宿主(ホスト)に変わったとは書かれていません。重要なのは私たちにとっての神の姿が変わることではありません。重要なのは私たちと神様の関係が変わることです。私たちと神様の関係は信頼によって成熟し、成長するのです。 私たちが知っているように、主は昨日も今日も明日も変わりません。しかし主の家の客となるだけでなく、主の家に住む者の一員として歓迎されていることを受け入れる時、あなた、私を含め、私たち全員が変えられます。このように主との親密な関係を深めていく中で私たちは必要なものがすべて主によって日々与えられているだけでなく、実際に杯があふれるほど与えられていることに気づくようになります(詩篇23:5)。認識が変わるのです。欲しがることがない(1節)だけでなく、もはや渇きを知ることもなくなる(5節)のです。 最愛のチャック牧師が亡くなってから2週間以上が経ちました。先日、ケリー牧師がご自身のフェイスブックにチャック牧師への美しい追悼文を投稿されました。癌との闘いの中で、彼女は自分たちが "正しい道を歩んでいる "ことを「神様が何度も裏付けてくれた」と語っています。信頼できる羊飼いである主が、彼らをそのような正しい道に導いてくださったのだと私は信じています。 また、亡くなる前の数週間は本当に辛く大変な時でした。亡くなる直前、チャック牧師は痛みに苦しみ、明らかに回復していなかったので、文字通り、暗い谷、死の影の谷を歩いていたのです。 しかしチャック牧師が私たちに証してくれたように、ケリー牧師も「チャック牧師は、神との最も美しい親密な時間を過ごしていた」と語っています。彼が経験していた平安はとても明白でした。私たちにはそれは手にとるようにわかったのではないでしょうか。何千キロも離れたところからでも、ビデオを通じてチャック牧師が主と親密な関係にあることがわかりました。主は彼と共におり、時がきて彼は永遠に主の家に住むようになりました。 チャック牧師は一瞬一瞬を信頼して生きていました。主が自分と家族を日々養ってくださることを信じていました。自分が欲しいもの、必要なものををすべて受け取ったかのように振舞い、実際、彼は自分の杯が溢れていると思い、その溢れた杯を私たちや彼に接するすべての人と分かち合おうとしていました。 この詩篇の旅は、私たちが信仰生活の中でしばしば経験する旅を反映しています。曲がりくねっていたり、でこぼこしていたり、岩だらけの道を歩いていると、どこに向かっているのかよくわからなくなることがあります。みなさんの中には、自分が本当に暗い谷間にいるのではないかと感じ、ここが最終目的地なのではないかと心配する人もいるかもしれません。 しかし私たちは皆、先が見えない暗黒の時にこそ、ますます神様により頼む、信頼することができるようになることを知っているのではないでしょうか。私たちは試練の時、荒野での歩みを通して神に近づきます。チャック牧師の言葉を借りれば、それは神様と大親友になるチャンスなのです。 私たちは神様が私たちの羊飼いであり、私たちを正しい道に導く方法をご存知であると信頼しています。私たちは神様の棒と杖のような目に見えるしるしを信頼しています。これらのしるしは、神様が私たちを気遣い、守り、いつも私たちのそばにおられることを示し、私たちに慰めを与えてくれます。 人生の荒野を通る時、不確かさ、不完全さ、傷、次にどこに行けばいいのかわからないことが露呈します。そのような時、神様は私たちが自分の家、つまり快適さ、安全性、解決策に関する自分の考えを捨てて、主の家に新しい家を求めることで、ご自身とのより深い関係に入るように招いています。主の家では、神様は私たちを歓迎し、私たちを本当に必要なもので私たちを養ってくださいます。神様が私たちの魂を完全に、そして深く養ってくださるとき、私たちは自分の杯が満杯になるだけではなく、周りのすべての人々と分かち合うことができるほど溢れていることに気がつきます。 神の家では、神がダビデ王に油を注いだように、私たちも油を注がれ、生ける神との親密な関係を通して成長し、成熟し、変化した心で奉仕するために準備され、世に送り出されます。その過程を通して、私たちは、私たちの後ろを追っていたのは敵対者や、悪ではなく、神のいつくしみとあわれみであり、そのいつくしみとあわれみは私たち生涯を追うものと認識するのです。(詩篇23:6) 詩篇23篇は、この世の人生から永遠の命への移行について語られるお葬式やメモリアルサービスでよく読まれますが、この篇は死についてだけではなく、実は命について語っているのです。主を信頼することで、私たちがいかに満たされ、何も欠くことのない人生を送ることができるということを。 今週時間をとって、この詩篇23篇の言葉をゆっくりと味わってみてください。もし導かれるのであれば一部を暗記してみても良いのではないでしょうか。時間をかけて、心に響く箇所とじっくり向き合ってみてください。例えば、4節の「あなたの棒とあなたの杖は、私を慰めてくれます」という言葉が心に響いたら、周りを見渡して、あなたの周りに見える神様の存在のしるしに思いを馳せてみてはどうでしょうか。羊飼いが棒と杖を使って羊の世話をしたように、神様があなたを導き、守るためにどんな道具、物、人を使っていると思いますか?夕焼けの美しさや、友人や家族から受けた小さな親切などでしょうか。 詩篇23篇の素晴らしい、慰めと励ましの言葉に耳を傾けましょう。どの箇所で神様を身近に感じることができますか。どの箇所があなたを神様の家に帰らせてくれたように思いにしてくれますか? 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」 アーメン。 おはようございます。
先週クローディア先生が、何か神戸ユニオン教会の牧師チームはみんな聖霊を愛している、というようなことをおっしゃいました。それはある意味本当のことで、わたしが以前お話ししたように、三位一体のひとつとしての聖霊については何も問題はありません。しかし本当のところ、わたし自身は聖霊についての洞察や深い理解を持っていないと思うのです。その第一の理由は、私のキリスト教的背景からくるもので、そこではあまり聖霊の働きについて強調されてこなかったように思います。 また、私は神学を関西学院大学神学部に学びましたが、それは神学校という組織とはかなり違っていました。学問的な大学の一学部として、知的な学びに焦点が当てられ、キリスト教信仰についても合理的な説明が加えられていたのです。私の同級生のなかには、そのような学びの性格や傾向に失望して、退学してより神学校らしい場所に移った人もいました。 確かに聖霊は私たちの神様のひとつのペルソナであり、信仰に基づく私たちの毎日の生活において働かれています。旧約の物語においても、聖霊の働きは繰り返し語られます。天地創造の物語において、神が世界を創造される直前に、「神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)とか、神はアダムの「鼻に命の息(ヘブル語で息は聖霊と同じ単語が使われます)を吹き入れられた(創世記2:7)のです。 多くの預言者たちも聖霊を受け、聖霊によって預言を行いました。ヘブル語で預言者をあらわす言葉はNABIで、それは霊に憑かれて何事かを口走るという意味を持っています。預言者は神との交流を通じて、そこでの恍惚的というか興奮に満ちた体験のなかで、語るべき言葉を獲得するものと思われていたのです。サウル王もそんな預言者の一人として見られており、サムエル記上の中で「神の霊が彼に激しく降り…サウルもまた預言者の仲間か」(サムエル上10:10以下)と記されています。ですから聖霊の働きは、旧約の人々の間でもよく知られていたのでしょう。 一方、旧約の預言者のなかにはそれとはかなり違った形で預言をする、ROHEと呼ばれる人たちもいました。Roheとはへブル語で、「じっくり見る」「観察する」「凝視する」というような意味で、NABIとは対照的に、より合理的、理性的で、人々の現実生活状況に迫ろうとする者でした。 預言者イザヤは、その両面の性格をもった預言者でした。彼が預言者の召命を受けたとき、彼は神の実際の存在に触れ、それに圧倒され、自らの罪深さを思い知らされたのですが、天使が火のついた炭をもってきて彼の唇にふれることによって許されたとされます(イザヤ書6章)。 イザヤは世界を支配される神の全能の力を体験的に知っており、それによって預言の言葉を語ったのです。 ある時、イザヤはユダヤの王に対面して彼の政治的な決断を批判しますが、アハズ王はそれを拒否したため、真の理想的な王、インマヌエルであり(イザヤ書7章)、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ書9章)の登場をイザヤは預言します。同時に彼は、現実の社会が貧しく弱い立場の人々を抑圧し、差別するという大きな問題を生み出していることもしっかりと見つめていたのです。 彼の王のイメージは、強力な敵を打ち破る存在が、またこのように抑圧され苦しんでいる人々に平安と安心をもたらす者であるというものでした。そこでイザヤはイザヤ書11章で、来るべき理想的な王(メシア)の私たちの社会に対する働きについて述べています。そのテキストを今日私たちは聞きました。 この部分は多くのクリスチャンにはとてもおなじみの部分で、クリスマスの礼拝で毎年朗読されます。エッサイというのはダビデ王の父親で、マタイによる福音書の系図によればイエスはダビデの直系とされています。預言者イザヤが期待したメシアは、主の霊に満たされた、公正と正義による、「弱い人のため正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公正に弁護する」(イザヤ11:4)理想的な統治者でした。 そしてイエスも自らユダヤ教の会堂で、注目すべきイザヤ書のテキスト「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4:11)を読みました。 これは、もともとはイザヤ書からとられたもの(イザヤ61:2)で、その後イエスは「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」とさえ言われたのです(ルカ4:20)。イエスの伝道はまさしくイザヤの教えに沿うものであり、神の霊によって導かれ、苦しみの中の人々への祝福と平安に焦点が置かれていたのです。 今朝の聖書の箇所を読みながら、私は遠藤周作によって著された一冊の小説を思い出しました。何人かの方は彼の代表的作品である「沈黙」を読まれたと思います。 周作氏はカトリックのクリスチャンで、西宮の夙川教会で受洗しており、彼の作品の多くは日本人にとってキリスト教信仰の意味を共通のテーマとしています。その中で私の好きな作品は「おバカさん」と「私が・棄てた・女」ですが、後者の主人公はミツという平凡な女性で、その生涯についての物語なのです。彼女は控えめな性格で、友達の間でもあまり評判にもならず、毎日一生懸命に生きていました。 ある日ひとりの男性に出会い、憧れをいだきます。クリスマスになって彼にプレゼントを贈ろうと考え、セーターを編むことにしました。いよいよデートのその日、彼のためのセーターも編みあがり、彼に会うために出かけて行ったのです。 しかし彼のところに行く途中、思いがけなくまったく見ず知らずの、赤ちゃんを胸元に抱いている貧しそうな女性を見かけるのです。最初ミッちゃんは、その女性のことをあまり気に留めず通り過ぎようとするのですが、突然彼女に何かが起こり、心のうちに声が聞こえたのです、「あなたはそれでいいの?」と。そして彼女は先に進めなくなりました。そこに立ち止まってどうすればいいのかと考えてしまったのです。 ボーイフレンドは彼女とクリスマスを楽しもうと待っていますし、彼女もその日をとても思い出深いものにするためにいろいろ考えてきました。そのための手編みのセーターだったのです。しかしミッちゃんは、寒さに震えながら赤ちゃんを抱いているこの貧しい女性に出会ってしまったのです。「それでいいの?」 ついにミッちゃんは女性のほうに振り向き、そのプレゼントを彼女に手渡し、走り去ったのです。彼女はそこを黙って通り過ぎることはできなかったのです。 そのときミッちゃんに何が起こったのでしょう。そして、今日の説教のために、なぜ私はこの物語を思い起こしたのでしょう。私はこのミッちゃんの振る舞いのなかに、主の霊の働きを見ることができるのです。 あのとき、ミッちゃんの最優先事項はボーイフレンドに会ってプレゼントを手渡すことでした。でもこのまったく見ず知らずの女性と出会ったとき、誰かが彼女のことを考えるように強いたのです。 彼女のためではなく、ただこの女性の状況の助けになることをすることを。ミッちゃんはそのとき本当に思いがけずに、むしろいやいやながら、ある意味強いられて聖霊の導きにしたがって、良いことをしたのではなかったでしょうか。 神戸ユニオン教会では使徒信条で「聖霊を信ず」と告白していますし、私もそうしています。聖霊は私たちの思いのためにではなく、神の働きを実現するために働かれるのです。 聖霊によって私たちは、時に神様のご意思を実現するための道具となるのです。そうです、聖霊は実際に、私たちを通じて働かれるのですが、そのときの私たちは神様の道具なのです。今日の私のお話を、ひとつの祈りの賛美をうたって終わりたいと思います。 生ける神様の聖霊よ、私たちにいつも新しく臨んでください。 私たちを溶かし、形づくり、満たし、用いてください。 生ける神様の聖霊よ、私たちにいつも新しく臨んでください。 アーメン 「互いに仕え合う」 神戸ユニオン教会--- 2021年7月4日 説教者: クラウディア牧師 聖書朗読箇所: ペテロの手紙 第一 4:10-11 & コリント人への手紙 第一 12:4-77/3/2021 もう気づかれている方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち牧師チームは毎月その月のテーマに合わせて説教をしています。先月は「聖霊と共に歩む」でした。今月は「聖霊の賜物」です。先月中にチャック牧師、アキコ牧師と共に決めたテーマでした。
KUCの牧師チームは何でも聖霊に関するものが大好きですが、特に私たちの愛するチャック牧師は聖霊に関する事が大好きでした。 チャック牧師は6月28日、日本時間午後4時過ぎ(カリフォルニア州の午前0時過ぎ)に多臓器腫瘍によって亡くなりました。 まだ前もって礼拝を録画しているために、通常はその週の火曜日までには説教内容を書きあげるのですが、もっとチャック牧師の事を説教に盛り込みたくて、何度も今日の説教を書き直しました。 チャック牧師は賜物の塊でした。今日の説教で彼が持っていた全ての賜物を伝える事は出来ませんが、今月末に執り行う予定である、チャック牧師のライフ・サービスでもっと彼についてお話が出来ればと思っています。 今日は彼がこのコミュニティや教会に与えてくれたいくつかを思い出し、話しをさせて頂きます。その中で説教を聞かれている皆様も、ご自身が持っている賜物に気づき、社会や教会に与えてくださるきっかけになればと思っております。 チャック牧師の賜物のひとつに「寛大さ」があります。彼は惜しみなく食料、お金、そして時間を与える人でした。1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災や、2011年3月11日に起きた東北の津波と原発のメルトダウンの際には、彼が経営していたForeign Buyers Club (FBC)から食べ物を寄付していました。必要とされる人達に沢山寄付をする人でした。東北の地震の直後に私は彼に電話をかけ、食べ物やお菓子を親を失った子供たちが沢山いる福島県の避難所に送るようにお願いしたこともあります。彼は快く引き受けてくれました。彼自身も東北に直接出向き、食べ物を届けていました。 チャック牧師はカリフォルニア州ロングビーチの彼の家の周辺や、他のロサンゼルス周辺の街を散歩するのが好きで、奥さんのケリーさんと100ドルのお札を1つのポケットに、そして20ドルのお札をもう一つのポケットに入れて、お金を必要としている人に聖霊がチャック先生を使ってどちらのポケットから渡すのかを楽しんでいました。コリント人への手紙 第二 9:7には「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。チャック牧師は与える事を喜ぶ人でした。 チャック牧師は人を癒す事も得意でした。超能力的な意味だけでなく、精神的にも、そして霊的にも人を癒す人でした。彼は癒しについても沢山の説教の中でその経験を話しています。再度お聞きになりたい方は、KUCのウェブサイトから、過去の礼拝を選択して頂き、チャック牧師の説教を聞いていただければと思います。 チャック牧師の他の賜物とは何でしたでしょうか?リーダーシップ、人を喜ばせようとする心、伝道、深い信仰、異言で祈る事ができ 、識別力があり、そして神の使徒でした。 人によっては身体的、霊的、精神的、そして精神的に置かれている状況によって賜物に限界があるかもしれませんが、全ての人が賜物を持っています。私たちの信仰を深めていく中でその賜物がよりアップグレードされ、人生の様々な場面で持っている賜物を人に与える事があります。私たちの持っている賜物(能力)を生かすために、誰かの手伝いや、導きが必要な場合もあります。キリストを信じる者たちとして、お互いを助け合う事が大切です。 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。コリント人への手紙 第一 12:4-7 私は神が神の創造物に与えた多様性が好きです。イエスの呼びかけに応えてくださった様々な人達が好きです。聖霊が私たちに与えてくれた様々な能力に驚くばかりです。KUCには色々な人々が集い、それぞれが持っている能力も多岐にわたります。皆さまもご自身が持っている賜物に気づくよう聖霊に導かれますように。チャック牧師は天国に逝ってしまいましたが、彼の残した功績やアイデアは生き続けます。各々が自分の持っている賜物を見つける事を助け、それを育む事をしてきました。弟子訓練はチャック牧師にとって大きな意味を持っていました!アキコ牧師、田淵牧師、そして私自身の残された牧師チームが祈りを通し、聖霊の助けを持って皆さまの賜物(能力)を見つけるお手伝いをさせて頂きます。 そして、賜物を見つける事が出来たら、殻を取り除き、周りとその能力を共有してください。ですから、「その能力を隠したり」「埋めたり」することはせず、良い管理人はそれを使います。(マタイの福音書25:14-30)「あなたの才能や能力を隠さないでください」この言葉は山上の垂訓から取られたことわざです。(マタイの福音書 5:14-15、マルコの福音書 4:21-25、ルカの福音書8:16-18)私たちは賜物を用いてお互いに仕え合うのです。「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(ペテロの手紙 第一 4:10) 私たちは皆違います。私たちは様々な興味、情熱、スキル、賜物、能力を持っています。聖書には、「私たち一人ひとりに与えられた恵みに応じて、私たちには様々な賜物があります」と書いてあります。(ローマ人への手紙 12:16) 他人に仕える事は、他人に奉仕することでもあります。私が「minister(ミニスター=仕える人)」という言葉を使うと、牧師や教会でフルタイムで働く人の事を思い浮かべないでください。聖書では全ての信者はミニスターであると書いてあります。 あなたが他人に仕える事を通して、神に仕える時は常にあなたはミニスターになるのです。コロナ前、対面型で礼拝をしていた時、私は週報を毎週仕上げていました。これもKUCの人々に仕える(ミニスター)事です。私は皆さまの牧師であるかもしれませんが、ここにいる全ての人がミニスター(仕える人)なのです。1700年代に活躍した伝道者でありメソジスト運動の創設者であるジョン・ウェスレーは全ての信者は仕える者であると常に言っていました。ですから、私たち全員がどんな形であろうとも、少しでも沢山でもその賜物や能力によって仕える者であるべきです。 1.神に奉仕する準備をする チャック牧師は神に奉仕する必要性を心から信じていました。神に奉仕するとは、9時5時の仕事ではありません。四六時中、神に奉仕するのです。いつも神に奉仕する準備を整えている必要があります。箴言3:28には「もしも隣人を今助ける事ができるなら、「明日戻ってきたら、助けてあげよう」と言うな。」とあります(箴言3:28) しもべの精神とその心を持った人であれば、気が付いた時にすぐに仕える準備が出来ています。ジョン・ウェスレーは生涯を通じて、この彼のモットーに従って生きていました。「出来る限り、全ての意味で、出来る限りの方法で、出来る限りの場所で、出来る限りの時間を使って、出来る限り多くの人に、そして出来る限り長い間」。これが神に奉仕する準備が出来ているという意味なのです。 2.神の働きに敏感になりなさい 仕えるという事は必ずしも神の為にしなければいけないことではありません。あなたが神のために行う事です。パウロは神が彼に与えたミニストリーについて話をし、こう言っています。「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。」(テモテへの手紙 第一 1:12)。パウロは彼のミニストリーをやらなければいけない仕事と捉えたのではなく、喜びと捉えたのです。与えられた機会を負担として受け止めたのではなく、恵として受け止めました。 詩編100:2は「喜びをもって主に仕えよ。」(詩編100:2)とあります。ミニストリー=仕えるという事に対して、1つ覚えていて頂きたい事があります。神は他の人にとって意味のある事をあなたにやって欲しいと期待しています。私たちの能力は様々です。私も知っていますが、神もそうご理解なさっています。人によっては祈る事しかできないという方もいらっしゃるかもしれませんが、それも神のために仕えている事となります。 3.神の働きに信頼を置く チャック牧師は彼のミニストリーや彼が行った事全てを喜んで行っていました。彼は沢山の方々に彼の賜物を通して影響を与えていました。彼の人生そのものが、そして働き自体がミニストリーそのものでした。 何年も前、カリフォルニア州のサドルバック教会の創設者であり、シニア牧師であるリック・ウォレン牧師が言った言葉が忘れられません。彼は「人間は寿命を延ばすのに必死で、食事に気を付けたり、運動したり、ビタミンを摂取したりしていますが、本当に大切なのは、どれだけ長く生き延びれたかではなく、どの様に生きてきたのかが重要なんです。」と言いました。リック・ウォレン牧師によると寿命の長さが重要ではない。人生を通して何を与える事が出来たかが重要と言っていました。 コリント人への手紙 第一 15:58 「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(コリント人への手紙 第一 15:58) 「無駄がない」という言葉を見ましたか?それは、どんな些細な事に見えるものでも、神に仕えるためにあなたが行う事は全て重要であることを意味します。教会の外出が出来ない会員に手紙を書いたり、ドア側で挨拶をしたり、椅子を直したり、封筒に宛名を書いたり、イベント後の片づけを手伝ったり、教会で挨拶をしたり、礼拝を手伝ったり、教会のバンを運転したり、証しを行ったり、動画を編集したり、教会のために絵を提供してくれたり、歌を歌ったり、テクニカル・チームとして働いてくれたり、祈ったり。それらは全て重要です。 重要なのは、名もなき人々は神にとって重要な人々です。 私が調べたところによると、基本的には18の聖霊の賜物があるようです。ゲマトリア(ユダヤ人の数秘術の一種)では、18は「生命」を意味します。それはヘブライ語で「生命」を意味する「Chai」は18の文字から出来ているからです。(ヘブライ語で人生の充実を表すのはChayyim またはChaimです。) 調べてみると、18のリストが2つあり、各リストの最後の3つが異なっている事が分かりました。しかし、聖霊の賜物は沢山あるので、それでも大丈夫です。これらの賜物それぞれが重要です。ある賜物が他のそれよりも優れているという意味ではありません。 聖霊の賜物の一部は以下の通りです 1. 知恵のことば:コリント人への手紙 第一12:8、 ルカの福音書6:9 2. 知識のことば:コリント人への手紙 第一12:8、ルカの福音書18:22 3. 信仰:コリント人への手紙 第一 12:9、使徒の働き3:6-7 4. いやしの賜物:コリント人への手紙 第一 12:9、使徒の働き28:1-10 5. 預言:コリント人への手紙 第一 12:10、テサロニケ人への手紙 第一 5:20-21、エペソ人への手紙4:11 6. 霊を見分ける力:コリント人への手紙 第一 12:10、ルカの福音書8:29 7. 異言(祈りの際または話す言葉):コリント人への手紙 第一 12:10、使徒の働き19:6 8. 助けること:コリント人への手紙 第一 12:28 9. 治めること:コリント人への手紙 第一 12:28、使徒の働き6:2-3 10. 奉仕/働き:ローマ人への手紙12:7、テモテへの手紙 第二 1:16-18 11. 教えること:ローマ人への手紙12:7、エペソ人への手紙4:11-14 12. 勧める(励ます):ローマ人への手紙12:8、ヘブル人への手紙10:24-25 13. 与える:ローマ人への手紙12:8、コリント人への手紙 第一 13:3、使徒の働き4:32-35 14. リーダーシップ(指導)/治める: ローマ人への手紙12:8、使徒の働き13:12 15. 慈善:ローマ人への手紙12:8、ルカの福音書5:12-13 16. 異語を通訳する:コリント人への手紙 第一 12:10、14:13-33 17. 奇蹟を行う力:コリント人への手紙 第一 12:10、使徒の働き6:8 18. 恵み:ローマ人への手紙12:6、エペソ人への手紙3:7、4:7、ペテロの手紙 第一4:10-11 聖書にあるように「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。 (コリント人への手紙 第一 12:27-31)。 今日の説教の中で全ての賜物の意味をお伝えする事は出来ませんが、各賜物についての簡単な説明は説教内容を記述しているファイルの中に入れています。KUCのウェブサイトに入って頂き、ぜひ読んでみてください。7月4日午前10時半からの裕子さんの行っている日本語のサンデー・スクール、クワメイが行っているSermon Discussion Sunday School の2つのクラスではこの事についてより詳細を読み取っていくと思います。 聖霊の賜物(能力)に関する説明 1.知恵:現状とデータを分類して、教会のために何をする必要があるかを発見できる賜物。 2.知識/知恵:聖書の知識を積極的に探究する人。こういった人はまた、聖書のデータ分析をすることを楽しむ傾向にあります。 3.信仰:この賜物を持っている人達は、神の力と約束に非常に大きな信頼を置いているので、何かが彼らを揺さぶろうとも、彼らは信念の上に強く立ち続ける事ができます。彼らはまた教会を擁護し、前進させるような方法で教会と彼らの信仰のために立ち上がることができます。 4.癒し:身体的、感情的、精神的に人を回復させるために神が使用する能力。 5.預言:神のメッセージを人に話す能力。時に今後の見通しや展望が含まれる場合があります。このスキルは励ましや警告を促すためにのみ使われる必要があります。 6.識別:行動や教えが神からのものなのか、他の不敬虔な源からのものなのかを正しく評価することによって真実なのか不真実なのかを正しく認識する知恵。 7.異言での話しや祈り:別の言語(まだ習得していない言語)で話す超自然的な能力。 8.支援:この賜物を持っている人は、キリストの体である教会員を支援して、彼らが自由に奉仕できるようにします。 9.管理:計画、組織、監督のスキルを備えた、神から与えられた目標達成に向けて、教会またはミニストリー(仕えること)を導く助けをできる能力。 10.働き/ミニストリー:キリストの体に必要な仕事を見つけ、利用できるリソース(資源)を使用して仕事を成し遂げる才能。 11.教える:聖書からの教え、人の理解と精神的な成長のためにそれを効果的に伝えるスキル。 12.励まし:励まし、慰め、サポートを提供し、神が望んでいる人物像へ近づくのを助ける能力。 13.与える:この賜物を持っている人は、彼らが持っているリソース(資源)を喜んで共有したいと思い、見返りを求めない。 14.リーダーシップ:この賜物を持っている人は、教会の先頭に立ち、注意を払って組織を導き、教会の目標に近づけるように教会員に動機付けが出来る人を指します。 15.慈悲:何かに苦しんでいる人に対し非常に敏感に動ける特徴を持っている人です。思いやりと励ましを愛をもって提供し、困っている人を実質的に支援します。 16.ホスピタリティ:見知らぬ人でさえも、弟子訓練や奉仕の手段として自分の家や教会で彼らが歓迎されていると感じさせる自然に備わった能力。 17.使徒:福音を持って新しい場所に送られた人。宣教師が御言葉を広めるのを助けるために様々な国に行くのを聞いた事があるでしょう。彼らは使徒として定義できます。使徒はまた、他の教会やミニストリーにリーダーシップを発揮し、霊的な事柄について助言を与えることが出来ます。 18.伝道:特に信者ではない人に福音のメッセージをうまく伝える能力。 チャック牧師の賜物のいくつかを共有しました。私たちは皆、賜物を持っています。私にとって1番の賜物とは、人と資源、人と人、人と神を繋ぐことです。神学校の盲目のルームメイトであったスーザンに言われ、私自身の賜物に気づく事が出来ました。時に周りの人々があなたの賜物を見つけるのを手伝ってくれるでしょう。そう確信しています。 私が育てているもう1つの賜物は、人々を癒し、育てるのが大好きです。私はまた礼拝を創造する才能があると思っています。私は神を崇拝し、神の名を賛美するために礼拝をまとめる作業が大好きです。 私が持っていない賜物もたくさんあります。例えば、歌うこと。私は音楽が大好きですが、良い声を持っていません。しかし田淵先生は歌い、コーラス隊を率いることが出来ます。またKUCは多くの才能にあふれた歌手に恵まれています。また私は財政管理で強い才能を持っているとは感じないので、教会の会計係をやっていない事を幸いに思います。ベンさんが会計係をやってくれていることに感謝します。 こうやってそれぞれが賜物を持っている場所で活躍できる事がキリストの体です。誰かが持っていない賜物に関しては、他の人が補える。持っている賜物は互いに仕え合う(支え合う)ために共有する。 聖霊は私たちに聖なる賜物を与えてくださいます。パウロは「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」(エペソ人への手紙4:7)と言っています。ギリシャ語の恵みを意味する言葉Charisは文字通り賜物を意味するカリスマ(charisma)、カリスマ性(charismatic)として使われています。 全てのクリスチャンに才能があります。私たちは皆、賜物を持っています。全員が同じ賜物を持っているわけではありませんが、神が私たちに与えてくださった特定の賜物を持っているので、神が私たちに望んでいることを人のために行う事が出来るのです。 神は何も無駄にしません。あなたが持っている全ての霊的な賜物と自然の能力は働きやミニストリーで使って欲しいと神があなたに与えたものです。幸運な事に教会にはたくさんの賜物があり、神がこの教会にやって欲しいと望んでおられる事に十分な賜物が揃っているということです。この教会の教会員であるかどうかに関わらず、あなたはこの教会を手伝う事ができ、教会やコミュニティの為に何かをすることが出来るのです。 人が教会を探す時、この様な質問を聞く事があります。「この教会は私の必要としている事をどうやって満たしてくれるのだろうか?」しかし、クリスチャンとして成長し始めると、その質問の代わりに「この教会で他の人々の必要としている事を満たすために、私はどの様な働き(仕え)ができるだろうか?」と自問し始めます。 私たちは互いに奉仕し、賜物を分かち合う様に望まれています。互いに仕えるために聖霊と共に歩み続けましょう。 アーメン |
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May 2024
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