聖書朗読1
マルコの福音書11:1-11 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのべテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いてきなさい。もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。そこで、出かけてみると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着を上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切ってきて、道に敷いた。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子と一緒にベタニヤに出て行かれた。 祈りましょう。私の口のことばと、私達の心の思いとが御前に、受け入れられますように。私達の岩、私達の贖い主、主よ(詩編19:14)アーメン。 大学で私は心理学を専攻していました。他の学問と同じように、心理学という分野も細分化されています。例えば、臨床心理学、発達心理学、教育心理学、健康心理学などなど、多岐に渡ります。私のお気に入りの授業は社会心理学でした。人々の考え、思い、行動は他人によって影響されているという事を学ぶものです。 大学3年生の時に社会心理学の入門授業を受けました。そこで私は「認知的不協和」と呼ばれる理論について学びました。この理論はすぐに私のお気に入りとなりました。その理論を理解すると、自分の人生や他人の人生のどこにでもそれを見受ける事ができると気づいたからです。 認知的不協和については、その1つの入門授業でしか勉強しなかったので、私の知識は限られていますが、もし説明するとすれば、認知的不協和とは、矛盾感の事を指します。私たちの信念と行動の差に見られる矛盾です。 たとえば、認知的不協和とは、キャリアを変えたいが、それを実現するために必要な勉強や休暇を取る事ができない状況など、望むことと、実際に出来る事との間には矛盾があることを指します。 うつ病の人は認知的不協和を経験していると言えます。元気に振舞いたいのに、ひどく落ち込んでしまう。なりたい自分と、実際の自分との矛盾です。もう1つの例は、招待を受けたとき、実際には断りたいのに、罪悪感が強すぎて、断る事が出来ない場合など。これはあなたがやりたい事と、やるべき事との間に見られる矛盾になります。 認知的不協和の意味を分かってもらえましたでしょうか? では、教会を例にしていくつか例を挙げてみましょう。教会に多くの時間を割きたいけれども、それ以外の事で忙しい。もっと教会で奉仕をしたいのに、奉仕に値するような得意分野が何もないと感じている時。神に近づくために断食したいのに、あまりにも空腹だったり!ご想像の通り、私は断食していた1か月前に同じような認知的不協和を経験しました。 要するに、私たちは毎日の生活の中で、この類の矛盾、認知的不協和をたくさん経験しています。 「やりたい事」と「やるべき事」の間の矛盾。また日々の生活の中で、私たちは期待する事と、直面する現実の間の矛盾にも遭遇します。これらは私たちの信仰の旅、霊的生活においても経験することです。 本日は棕櫚(しゅろ)の主日です。イエスが宣教の終わりに向かってエルサレムに入城した日のことを指します。この日はイエスに従った人々にとって本当に素晴らしい日となりました。それは、王としてイスラエルの首都に入ることになったイエスを祝うからです。人々は棕櫚の枝を振って、ロバの子に乗りエルサレムへの道を進むイエスのために、上着を地面に置きました。これらは、人々が王の存在を認識したときに行う行動でした。人々はこのようにして、当時実際に地域を支配していた王ではなく、イエスが彼らの王であることを言動で示したのです。 人々は興奮し、イエスに期待を抱いていました。人々はイエスがダビデ王の後継者であると考えていました。イエスが首都に現れた事で、彼らを取り巻く状況、世界が変わってくれると人々は信じていました。。。確かに変わりましたが、人々が望んでいた形ではありませんでした。 人々はイエスに王であり救い主であり、権力を支配し、政治的支配を行使する人であってほしいと期待していました。彼らは、イエスが反撃し、最終的には抑圧的なローマ政府を打倒し、神の民である彼らを再び解放することができる軍事指導者になってほしいと願っていました。 時は西暦30年ごろ、イスラエルの民は、長い間ローマ人の占領下で暮らしてきました。1500年前の出エジプト前の頃のように、奴隷として生活はしていませんでしたが、ローマ人の宗教は複数の神を崇拝する異教で、イスラエルの民はローマ政府の命令支配と重税の中暮らしていました。 今回の支配は、祖国に残る事ができ、かつて祖先が経験したように捕囚の民として異国に連れていかれる事ではなかったので、その部分だけは幸運でした。彼らは自身の神殿で礼拝することができ、いけにえを捧げることができました。 しかし、真の意味では、彼らは自由ではありませんでした。彼らがどこでどのように礼拝を行うか、どのように働き、日々行動するか、税金がどのように課され、どのように使われるか、これら生活に関わってくることはローマという外国の軍隊と政府によって管理されていたのです。そこで彼らは再び、独立した国を持ち、自分たち自身の政権を管理し、導き、保護することができる自分たちの王を持つことを望んでいました。 偉大で完璧な王のモデルとして、彼らはダビデ王の「古き良き時代」を考えていました。イスラエルの最初の王であるダビデの物語は世代を超えて受け継がれていました。誰もが小さなダビデが大きく、力強いゴリアテを倒したこと、イスラエルの南北の王国の統一を成し遂げたこと、十戒が書かれた2つの石の板を納める契約の箱をイスラエルに運びこんだこと、エルサレムを首都として確立した偉大で力強いダビデ王の物語を知っていました。 ダビデは王権時代に、軍隊を使い、イスラエル人が入植しようとする土地を保守しようとする地元の民の攻撃を打ち負かしました。強いペリシテ人と戦い、安全な独立国家を確立するための軍事戦略を実施しました。これらすべての事に成功したダビデ王は、人々から偉大で征服の王として称賛されました。このようなイスラエルの人々に語り継がれてきた過去の栄光から、人々は今日の聖書箇所にあるイエスのエルサレム入城を、ダビデ王のような王の再来と信じ、喚起したのです。 イエスは、ガリラヤとその付近の地方で行った素晴らしい奇跡の数々を聞いた群衆に囲まれながら、エルサレムに入城します。盲人や足の不自由な人への癒し、5,000人のお腹を満たした事、死者を生き返らせた事など、イエスについての噂はこの時点で多くの人々の間に知れ渡っていました。人々の期待はますます高まり、このナザレのイエスが長い間待っていた救世主だと救い主だと人々は希望を抱きました。 人々は、このナザレのイエスが偉大なダビデ王の後継者になることを期待していました。彼らは、このイエスはダビデのように抑圧的なローマ政府からの制限や支配から人々を解放し、全ての人々を統一し、国家としてまとめ上げるリーダーに違いないと考えていました。イエスが行ってきた数々の奇跡の中に人々は神の力を見ていました。その力と権力を持ち、イエスがローマの兵士と政府を征服し、神の民であるイスラエル人を解放してくれることを期待していたのです。 こんな期待があったからこそ、人々は棕櫚の葉を振り、上着を道に敷き、イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場するその姿に歓喜していました。 イエスの信者たちは、このようにして熱狂的にイエスを歓迎しました。 かつての偉大な戦士、ダビデ王を迎えるような思いで、イエスを歓迎しました。棕櫚の葉と上着を道に敷き詰め、戦士である王を迎えるのと同じように、国を引っ張っていく真の支配者イエスを歓迎しました。 人々は夢中でした。人々は叫んでいました!「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」(マルコの福音書11:9)これは詩編118:26からの引用です。歴史的にこの言葉は王が軍事で征服し、勝利したときに使用されていたことを人々は知っており、人々は意図的にこの言葉を叫びました。 「ホサナ」(マルコの福音書11:9)、彼らは叫びました;ホサナとは「今救ってください」という意味です。 「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。」(マルコの福音書11:9-10) 人々が考えていたことを想像することが出来ますか?「ついに、偉大な王国を再建できる王が現れた!私たちの祖先であるダビデが行ったように、イエスは私たちの王国を再び素晴らしいものにすることが出来る!」 これが、人々がイエスに期待し、イエスに「こうあって欲しい」と願っていたことでした。かつて神様がしてくださったように、今、介入し、人々を救い出す。今すぐに力を用い救い出す。彼らは誰かがイエスの衣服に触れるだけで、またイエスが手で触れるだけで奇跡を起こす力を持っている事を見て、聞いて知っていました。その力を今、自分たちの救済のためにイエスが使うことを願ったのです。 ですが、実際には何が起こったのでしょうか? 引き続き聖書を読み、何が起こったか見てみましょう。ゴッドフレッドさんが読んでくれます。 聖書朗読2 マルコの福音書11:15-19 (NRSV) それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。 ———————————————————————————————————————-- これが人々の願い、ホサナ=「今救ってください」に対するイエスの答えでした。ローマ政府に盾を突くのではなく、抑圧者に対する主の裁きを下す代わりに、救いを求める人々が集まる神殿にイエスは赴いたのです。 そして、イエスが初期の宣教時に悪魔を追い出したのと同じ大胆さと強さで、神殿の中で日常業務に携る人々を追い出し始めます。自身の不満の力を、ローマ政府ではなく、神を礼拝するために集まった人々のために向けたのです。 これこそ認知的不協和だと思いませんか。人々がイエスに期待し、望んでいたことと(ローマ政府から人々を解放する)、イエスが実際に行った事(神殿を清める)には開きがありました。ダビデ王の後継者として人々に切望された王は、抑圧者や敵の代わりに、自身の怒りを彼を崇拝する人々に向けたのです! マルコの福音書11:16には、イエスが両替人の台やハトを売る者たちの腰掛を倒したとあります! なぜイエスはそんなに怒っているのでしょうか?イエスをこの様にさせた原因は何なのでしょう? イエス様が行動を取る時にはいつも理由、良い理由があります。当時、神殿に来た人々は罪を赦されるために、鳩など動物の生贄(いけにえ)を捧げていました。そして、この時期はエジプトからの脱出、奴隷生活からの脱出を祝う過越の祭りの時だったので、エルサレム外の近隣の地域から多くの人々がエルサレムの神殿に集まって礼拝に来ていました。 エルサレムで使われている通貨に両替をして、神殿で売っている生贄(いけにえ)を買う必要がある人も中にはたくさんいました。人々が集まる繁盛時期だったので、通常より高値で生贄が売られていました。その上、神殿の収入にもなるように生贄は課税もされていました。 ですから、全て合わせると通常の価格よりも生贄がかなり高値で販売されており、生贄の値段は人々の1日または2日分、それ以上の収入を簡単に超える額で売られていました。さらに、生贄の売買が行われていたのは、「異邦人の宮廷」と呼ばれていた、ユダヤ人以外の信者のための場所でした。外部から神を礼拝するために集まる場所が、内部の少数の人々にとっての利益を得る場所となっていたのです。 それに怒ったイエスは、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコの福音書11:17)と言います。 すべての国、すべての人のためにあったその場所は、まさしく市場と化していました。神殿と呼ばれるその市場で行われていたビジネスは、神殿に礼拝に来た人達からお金を搾取するだけでなく、神殿が利益を得るようになっていたのです。 イエスがエルサレムに入城した時、人々は、イエスがその神なる力で彼らを救い出す事を期待していましたが、イエスはその神なる力を内部に向け、自分の民と彼らの宗教的慣習を清めるように行動で、言動で示しました。 イエスは自身の民の中にある認知的不協和を明るみにし、彼らの信仰の認知的不協和に彼らが気づくように、語り行動しました。この神殿はすべての人のために存在しているように見せかけていましたが、実際にはそうではありませんでした。 神殿はすべての国の礼拝の家であるべきだったにも関わらず、実際にはそうではありませんでした。 実際には、神殿のリーダーたち、そしてその神殿で働く人々が利益を得る場所となっていました。神と近づき、その絆を大切にしようとやって来る人々の場所にはなっていなかったのです。それだけではなく、浄化された神聖な礼拝の場所あるべきのこの場所で、実際は神のためにやって来る人々から搾取していたのです。 イエス様は、私たちの中にある認知的不協和に気づくよう教えられました。神が持つ理想、御心に対し、私達自身が掲げる理想、欲望、信念や行動。それらが対立し、生み出す矛盾。イエスは貧しい人々の世話をし、金持ちには彼らが持っているすべての物を売るように求めました。権力者にはその力を置くように、声を上げる事が出来ない人々に声を上げる機会を、社会的に最初に迎えられるべき人々が最後に置かれ、最後に置かれていた人々が最初に迎えられるようにと宣べ伝えました。 心理学では認知的不協和を理想と現実の矛盾と言っています。しかし、この矛盾を神学的に言うとすれば、神が私たちに召すことと、私たちが実際に行っている事の中にある矛盾と解釈できると思います。そのことを私たちクリスチャンは、心理学用語の認知的不協和ではなく、違う名前で呼ぶ事ができます。 罪です。(Sin) ギリシャ語でSin (罪)は、的確ではないという事を意味します。的に当たっていないという意味です。私たちの実際の行動が神様の意志という的に当たっていないことを指しています。私たちの言動が、神が私たちに行って欲しいと願っている言動と離れている時に、罪が起こります。キリストを信じている私たちは罪を犯したからといって、永遠に暗黒に葬られるわけではなく、罪は神の光を通して明らかにされ、私たちは、罪を直視することになるのです。 私自身、自分の中にある罪を直視した一つの経験は、私自身を傷つけた人を赦すべく、もがき苦しんだ時でした。酷く傷つけられたので、この人を嫌う「恰好」の理由はありました。その人のことをを批判し、正しい理由によって私自身が犠牲者だとい言い続けることはできました。私は神に助けを求め、ホサナと叫び、「今救い出してください」と何度もお願いしました。でも神が与えてくれた答えとは、ドラマチックな状況の変化ではなく、むしろ何度も私自身にこの様な感情を相手に持ち続けている私に悔い改めを求めるものでした。 ここ数年間、世界におけるキリスト教が果たす役割、特にアメリカで果たす役割に気づき始めた時、声を上げず、行動を起こさない事が実際に世の中にある罪の成長に寄与する可能性がある事に気づき始めました。人種や性差別など、差別的な発言に異議を唱えないことは、イエスが神殿に押し寄せ、テーブルを押し倒した時に傍観し、何もしなかった弟子たちと同じことだと気づきました。 私たちの神は、正義の神です。罪がそこにあるときに、神は黙っておられません。神はすべてに光をあてる方です。 2か所目の聖書朗読箇所を読むと、罪が明らかになった時の反応には2種類ある事が分かります。祭司長、律法学者のように、不正そのものではなく、不正を暴露した人に怒りの矛先を向けることも出来ます。(マルコの福音書11:18) また、弟子たちのようになることも出来ます。罪を前に何もしない傍観者。確かに彼らは生贄を不正な値段で売っていたわけではありませんが、繰り広げられる不正に対し何も行動を取らず、ただ傍観しているのでは罪に貢献している事になってしまいます。 あなたの罪、私たちの罪が露呈したとき、私たちはどの様に反応しますか?司祭のように自分の罪を露呈した人を批判しますか?それとも弟子のように他の誰かが正義を行うのを静かに待ちますか?または他の方法が存在するのでしょうか? 存在します。ありがたい事に聖書にはその別の、他の方法が記されています。今日の話には続きがあります。聖書を読み進めると、不当で差別的な礼拝場所であるという罪が十字架にかけられ、その結果新しい命が生まれるのです。 何が起こったかご存知ですか? イエスの血と復活の力によってのみ可能であった変革が神殿にもたらされ、教会という共同体が生まれました。 弟子たちは、自分たちの神殿での生活を悔い改めながら生き、人生と宣教を新たにするために出発しました。これがどのように行われたかを確認したい場合は、使徒言行録を読むことをお勧めします。 弟子たちは新たな共同体を作り、男性と女性、ユダヤ人と異邦人、「持っている」「持っていない」を隔てる壁を打ち破りました。みな一緒になり、それぞれが持つ違いに関係なく共にパンを裂き、資産や持ち物を売って、全てのものを共有し、必要な人に必要なものを与えました(使徒の働き2:44-47) これが、キリスト教の教会の始まりなのです。新しい共同体としてのあり方を見つめ、行動に移した時、教会の変化が成長をもたらしました。(使徒の働き2:47) この変化が起こったのは、イエスが神殿で明るみにした事を弟子達が受け止めたからです。 自分自身の悔い改めとして捉えたのです。 クリスチャンであるという事は、神が私たちの生活の中に思いも見なかった形で現れ、私たちに語りかけることを受け入れる事を意味します。私たちは、「主の名によって来る者は幸いです」と称賛しますが、そのことによってイエスが、私たちが予期しない場所や時間の空間に現れ、私達の中にある的外れな部分、罪深い信念や行いを明るみにされる事があります。 神がテーブルをひっくり返し、私たちが行った不義な事、または正義のために行動を起こさなかった事を清められようとする事があるかもしれません。 自分自身の中にある罪や、神様の意志と離れた的外れな部分を見つめる事は、決して楽しい事ではありません。大声で証したいことではありません。 しかし、イエスの弟子たちがどうなったか見てみましょう。彼らはキリスト教としての、新しい共同体の成長に貢献しました。この共同体としてのコミュニティは現在のキリスト教の教会の始まりでもあります。イエスが当時の礼拝場所、神殿の中に見られる不正や不義を明らかにし、清められた結果、今教会という私達の共同体が存在します。イエスは、弟子たちの行動に対して直接テーブルを押し倒したわけではありませんが、弟子たちはイエスの行動を見て、聞いて、理解し、それらを心に留めました。弟子たちは、イエス様の神殿での戒め、清めに対して悔い改めの言葉を言った事はなかったかもしれません。しかしその後の彼らの行動の中に彼らの悔い改めの意志を見る事ができます。 イエスが行った事を弟子たちは心に留め、行動の方向を変えました。ギリシャ語では、「悔い改める」とは、「方向を変える」という意味です。 弟子たちは、方向を変えました。悔い改めました。 彼らの悔い改めを通し、聖霊が降臨した後に起こった変化はこのようなものです。 文字通り分断された神殿の壁は取り除かれ、すべての国のための祈りの家へと変貌を遂げます。人々の期待通りに動かれないイエス様の言動が、弟子達を人々を、自身の言動を見つめ直す機会へと導きました。 今週から聖週間に入ります。罪なき主、救世主のイエス様が十字架にかからなければならなかった理由を、自分たちの内に見つめる時です。私たちが自分達の内面を見て、振り返る時、私たちのコミュニティの成長が外から来るのではなく、内側の変化から来ることを私たちはもう一度心に留める事ができるのではないでしょうか。 神が私たちの言動と神の完全なる意志の間に存在する矛盾、不協和を明らかにし、私たちに呼びかけてくださる時、的外れに進んでいた方向を変える勇気と力がありますように。主よ、私たちを憐れんでください。私たちは今日も、そして永遠にあなたの清めを必要とする罪人です。アーメン。
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コリントの信徒への手紙 第二5章 17節
だから、キリストと結ばれる人(主につぎ木、信仰により救世主の主とつながった者)はだれでも、新しく(生まれ変わり、聖霊によって新しくされる)創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(霊的な覚醒により新しい命をもたらす)。 皆さん、ロングビーチからチャック牧師がご挨拶申し上げます。今朝のユース礼拝に参加できることを光栄に思います。 2012年に私は初めてインドに行きました。旅をもっと楽しくするために現地の言葉ヒンズー語で1つの文を暗記して、至る所でそれを使ってみたのです。新しい国を訪れたときはいつもこのようなことをしています。 それでヒンズー語で覚えた文章は「私は、あなたが思うような人ではないよ。」です。これを正しく言えるように誰かに助けを借りて、いく先々で「私は、あなたが思うような人ではないよ」を言うのです。まるで何かの秘密、今日に思いついたように或いは、秘密をコソッと打ち明けてささやき、そのときウインクをしたり、にっこりしたりするのです。 滞在していた週を実に面白おかしく過ごしました。タクシー、お店、街灯のそばで立って、この文章を言えるならどこでも使いました。親しみを込めて、単に面白く、でも反応は手応えのあるものでした! これが実に愉快だったため、米国に帰国してTシャツまで作りました。これを切るのも愉快ですが、皆の反応も面白いのです。 さあ、ここで皆さんに質問です。「あなたは自分が何者か知っていますか?」 今月はレントです。クラウディア牧師と亜希子牧師が主イエスの荒野での誘惑について振り返っています。サタンが主イエスは何者かと尋ねました。もしあなたがあなたの言う者であるならば•••、主イエスは自分が何者かを知っていますので、主を混乱させるような試みに対して打ち返し、聖句を持って明確に答えられました。しかし、主が何者であるかをサタンは追求してきたのです。あなたは自分が何者かをご存知ですか? 以前お話ししましたが、様々な方をカウンセリングする中で、重要なパターンの一つに、アイデンティティー(自分の正体、身元)及び虚偽と真実と言う問題があります。あなたが本当に誰であるかを知り、神があなたをどの様だと言われているかを知ること、また敵によってあなたが誤解や混乱をしないことが重要な点です。 ローマの信徒への手紙 8章 15節 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れ(神の裁き)に陥れる霊ではなく、神の子とする霊(子としての霊)を受けたのです。この霊によってわたしたちは(喜んで)、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 私達は森羅万象の神を父よと呼びことができるのです。 メッセージバイブル: あなたが神から受けたこの復活の人生は、臆病で墓守りの人生ではありません。それは冒険的に期待され、「パパ、次は何ですか?」と子供のように神様に聞いて、神の御霊は私達の霊に触れ、私達が本当に誰であるかを確認します。私達は神が誰であるかを知っており、私達が誰であるかを知っています:父と子供。 特に子供達において、よく見られることは嘘を信じてしまうことで、悲劇的な結末に至ることです。クリスチャンになった後も嘘を信じているために、人生が変わらないでいる主な理由なのです。人々は信じたことによって変われるし、変えるべき人生があるのです。彼らは自分が何者かについて漠然とした理解しかなく、他人から言われたことを信じたり、神が言ったことより、密かに自分で思ったり、自分で言い聞かせた者と信じ込んでいるのです。 聖書は、真実は何かを語っています。下記は神が仰ることです。 ヨハネの福音書1:12 あなたは神の子です。 15:15 主イエスはあなたをしもべとは呼ばず、友と呼ぶ。 ケリーと私はこれを真実のセラピーと呼んでいます。神の真実は本当の真実で、変革をもたらす真実です。 もしあなたが何者であるかが分かったなら、全てが変わるだろう。あなたは何者ですか? 神は言います。 ガラテヤの信徒への手紙4:5-7 あなたはもはや奴隷ではなく神の息子や娘なのです。 ローマの信徒への手紙8:17 あなたは神の相続人です、あなたは神の子なのですから。 私たちの里子の娘は、母親からお前は一晩寝た男との子で、過ちの子だったと言われ、父親とは会ったことがないのです。このことが彼女の自分自身の価値をひどく歪めてしまっていました。彼女がキリストにおいて、何者であるのかを分かるのに、彼女は継続して夜も昼も神の言葉を思い起こす必要があります。私達もみんなそうなのですよ。 今日の説教で何を話すかを決めた後で、私の実の娘の一人が今朝話す内容を聞いて、神様に直接「私は何者なのか」を尋ねることは大切なことだと皆に話すように私に促してくれました。また、ポールさんから「アイデンティティーについてもっと聞かせてくれないか、先週、そのことについて話され、筋が通っていると思うよ。でも話は早すぎて、全部吸収できなかったので、また話してくれたらなあ。」と言うEメールを同じ日にいただきました。 だからこのメッセージは神様からで、私はそれを皆さんにパスしているだけです。私の娘がこの質問に対する個人的な経験、神様が言っておられることを聞く彼女の苦悩、そしてそれが彼女を変えたことを書き送ってくれました。それは感動的なものです。 彼女は姉妹であり友人で、その他のことは分かっていましたが、それは不十分に感じ、少し迷っていました。彼女は自分で他のクリスチャンとは違うように感じたのです。だから彼女は、自分が本当はクリスチャンじゃないのかと心配しました。こんな辛い思いをしていたなんて、私は読むのが辛いです。彼女は迷いを感じ、少し自分を見失ってしまいました。それで、彼女はギャップイヤーにYWAM のプログラムに参加してコスタリカに行きました。青年の宣教活動で、そこでの重要な課題の一つに、神様に直接たくさんの質問をすることでした。教えることを少なくし、神様と直接話すことの手助けをされたのです。そこに居た時に、彼女は神様がこのように言ったのを聞いたのです。 あなたはユニークで美しい。 あなたは才能があり賢い。 あなたは赦された。 ある時点で彼女は訳があって嘘の父サタンが呼ばれて、誰も言っていないことを彼女に信じさせたと気が付いたのです。彼女は、何が嘘で、何が真実かに気づいた時、彼女は自分が本当に何者かが分かり始め、それが全てを変えていったのです。 最後に、聖書全体の中で何が一番大切かと聞かれたならば、二つのことが他のものより際立っていると言えるでしょう。 1. 愛 - 愛が一番です 2. あなたが信じていることが何よりも大切なのです。あなたが信じていることは重要です。あなたが神を喜ばせたいなら、神を信じてください。それは信仰や信頼、信じると言われ、一方で神を信じないことは何よりも神の人々をないがしろにすることです! 聖書の人々が取った信じると言う行為は最も重要な事です。彼らが行動に移した重要なことは、つまり信じると言う行為なのです。 女性は主イエスの服にさえ触ったら、癒されると信じたのです。それはそうなりました。主イエスが知らぬ間に、それは起こったのです。 イエスの故郷で「それで、何人かの病人に手をおいて癒されたほかは、そこでは彼は何の力ある業を行うことができなかった。」この場合、彼らが信じたことが彼らに降りかかったのです。 非ユダヤ人/非キリスト教の占領兵士は、 彼が信じていたことのために主イエスによって褒められます- これが私の好きな話で、一連の教訓です。ここに要点を示しますと。 あなたは誰、何者ですか? 神はあなたのことを何と言いますか? もしあなたが神の言うことを信じたならば、それはあなたの人生を変えるでしょう。皆さん、単にこの説教を聞くだけでなく、これらの聖句を大きな声で読んでください。ここに書き記しましたので読んでみてください、或いは一人になって読んでみてください。 私は聖霊を通して神と直接つながることができます。 エフェソの信徒への手紙2:18 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。 フィリピの信徒への手紙4:13 私は主イエスよりもっと大きな業を行うようになる。 ヨハネによる福音書14:12 「はっきり言っておく。わたし(救い主として)を信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」 それでは、春休み中の宿題です。学生達、親御さん達、これをお聞きになっている皆様、どうかリストにして、私 chuckgrafft at gmailに返信するか、神戸ユニオン教会のウエッブサイトの右上のmoreにLiewさんが「神が私のことを何と言っていますか?」のページを作ってくださいます。それを得て、読んで、信じて、覚えてください。そして、神が言われたあなたになってください。あなたの心が入れ代わることによって変わってください。 祈りましょう。 「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きている(つまり霊の導きに応答する)あなたがたは、そういう人を(優越感や自己の正義感からではなく)柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。(ガラテヤの信徒への手紙6:1詳訳聖書)
「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を(神の)真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。(つまり救い出された人が犯した罪は赦しを得るのです)」(ヤコブの手紙5:19-20 詳訳聖書) KUCのみなさん、おはようございます。 最近ずっとアメリカ国内や他の地域からメールをもらっていてうれしいのですが、それはリアルタイムの動画配信のおかげです。遠方に住んでいる人や教会に来られない人がコロナ収束後も礼拝に参加できるようこの動画配信のシステムは残したいと思っています。 さて私はまた医師の上衣を着ています。あまりぱっとしないし聴診器も首にかけていませんが、これは次女がカリフォルニア大学サンディエゴ校に行っていたとき私がもらった本物の医師用のスクラブです。この恰好からわかってほしいのは次のことです。私たちは警察官ではありません。医師や看護師のような救急救命士であるべきです。 数日前が2011年に東日本を同時に襲った三つの災害から10周年の日でした。10年前のあの日、私はクリスティンとマディと一緒に神戸にいました。地震が起きた時マディがFBC(Foreign Buyers’Club)の私の事務所に入って来て、めまいがして気持ちが悪いと言い私も同じように感じました。500マイルまたは600キロも離れているのに私たちは揺れを感じたのです。その後数日間、また数週間は私にはいろいろな出来事がありました。阪神淡路大震災を経験した私たちの多くは、自身の経験から東北の震災をより現実的で身に迫るものととらえていました。 私の会社FBCは海外からの救援物資の主要中継地点となり、たくさんの物資の流通や通関の手助けをし、また私たち自身でも人や会社や組織や多くのグループに品物を送りました。その中には世界獣医師機関、サマリタンズ・パース(クリスチャン運営の緊急援助支援団体)などがあり、とりわけエースハードウエア(アメリカのホームセンター)の会社は重役が来て大量の物資を私たちと共に運びました。震災後の数か月は忙しい日々でした。 当時のいちばんの思い出は信じられないほど強烈なものですが、おもしろいこと(こう言うとひんしゅくを買うかもしれませんが)もありました。私はいくつかの組織でボランティアをしていましたが、ある組織が電話で次のように言ってきました。「大阪にトラックがあるのだけれど、運転して日本中部で米を受け取ってから被災地に届けてくれないか」。私は了承し、往復3日間のこの冒険に仲間の一人を誘い、トラックを貸してくれる運送会社に一緒に行きました。それがなんとトラックと言っても巨大なトラックトレイラーでした。こんな大きなトレイラーは運転したことがありません。でも神が守ってくれ導いてくれると感じ心は正しい位置にありました。よし、運転するぞ。(正気の沙汰ではないかもしれません)。それでギアチェンジの仕方とガソリンをどこにいれるかを覚えてから出発しました。米を取りに行くまで12時間ほど、荷物を満載にしてから目的地までまた12時間ほどかかりました。原発の横も通り過ぎましたがまだ道路を封鎖する前でした。いちばんひどい被災地の中心地に到着しサマリタンズ・パースに米を届けてから、その後24時間ほどで銀座でトラックを降りました。冗談ではなく本当の銀座です。人や物にぶつからずに済んだのはちょっとした奇跡でした。 そのときの被災地の光景は想像を絶するもので言葉で言い表すこともできないくらいでした。1995年の大震災のときと同じことを感じました。 こういうときに何をすればよいのでしょうか。私たちは災害が起こったときに神のご臨在を携えて、助けが必要な人に対応する緊急対応要員であると感じています。危機のとき神の代理人となり、現場の医師や看護師のように人を慰め、癒し、平穏をもたらすために最善を尽くすのです。 そして「このような悲惨な出来事を神はどうしてお許しになるのか」という問いを私は決して言いません。私はとって現実はこのようなものなのです。ここは地上の世界で天国ではありません。私はこの地上の人生を外国の地で暮らす外国人のように生きています。まあ実際に私は日本で外国人として暮らしてはいましたが。私が言いたいのは私たちは神を賛美しますが、この地上は自分の本当の居場所ではなく母国ではないと私はいつも感じでいるということです。邪悪がはびこる敵の領域に住んでいるので当然困難がふりかかってくるのです。 今月は四旬節で3月の教会のテーマは「荒れ野にどのように対処するか」です。津波がそうであったように困難はやってきます。悪いことが次から次へと起るこの地上の世界で生きていくのは大変なことです。 スコット・ペックの「多くの人が採らない方法」は私が好きな本で、ニューヨークタイムズでノンフィクション部門の過去10年間の最長ベストセラーになりました。本は次の言葉で始まっています。「人生は困難である」。 そして悪いことがなぜ起こるのか知りたい人は、過去の私の説教を見てください。8月の始めに「霊的戦い」、9月に「神は本当に支配しているのか」について話しています。ウエブサイトで見つからなければ私にメールしてください。 津波のような悪いことが起こるのと同じように人間も悪いことを起こします。みなさんに聞いてみましょう。善人が悪行を犯すことはあり得ますか。クリスチャンが罪を犯しますか。あなたはこの30日間に何かしてはいけないことをしたり言ったり考えたりしませんでしたか。良い人が悪いことをした話はたくさん知っています。私たち夫婦は打ち明け話をする相手として「安全な人」で、80年代、90年代は宣教師や牧師タイプの人たちがよく私たちのところに話をしに来たものでした。それはカウンセリングというより実際は罪の告白で、問題を整理して解決するためのようなものでした。私たちは結婚してからずっとこのように問題を抱えた人がやってくる場所でした。やってくる人は全員「よい人」で悪い人はいませんでしたが、皆何か悪いことを起こして窮地に陥っていました。問題の早い段階で来る人もいれば後になって来る人もいました。私は決して怒らず不愉快なことも言いませんでした。その人たちは私が彼らを手助けして問題を解決し元の生活に戻してくれると信じていました。私は「緊急対応要員」だったのです。 私たち夫婦が里子を預かったときには「医師」である必要がありました。里子たちは友だちを連れて来るようになり、私たちは人に会うたびに彼らの悪いことを聞かされることが増えて、私たちは子どもたちの話を聞き、祈り、新しい道が開かれるよう彼らを助けました。そして神に愛されていることを思い出させ、誰でも悪いことにつまずくことはあるがイエスの流された血のおかげで神は私たちを赦してくださるのだと言いました。さらに神は赦し以上のもの、私たちが受け取るのに値しない銀の燭台を差し出してくださるのだと話しました。それは罰ではなく善であり、恵みと呼ばれるものであり、それゆえ人は罪悪感ではなく恵みを得て感謝し立ち直るのです。 ところで最近KUCで起こった出来事と混乱を引き起こした張本人について何人かの人が尋ねました。彼は人の心を傷つけましたが発覚し、現在は過去に混乱を起こした何百人もの人と同じようにその後の措置が経過進行中です。 神はいつも同じです。真実で寛大で赦す神です。よい親が子どもをしつけるのと同じです。悪いことをした後は受け止めなければならない責任もあります。そして彼はいつか証しをすることができるでしょう。それは彼の視点から見た彼の物語になります。 そういう私にも悪いことはあります。そのことをお話ししましょう。 1994年に私の会社に一人の従業員がいて私のことを尊敬していました。FBCが絶頂期の頃でCNNやウォールストリートジャーナルにも出たりした繁栄の時期に、その従業員は私のファンのひとりでした。つまり彼女はたぶんファンとして私のことが好きだったのですが、彼女はクリスチャンで父親は牧師でした。あるとき電話で父親に私のことを熱狂的に話していました。彼女と家族は外国人で夫は忙しい駐在員で子どもがふたりいました。悪いことに彼女は私のことをあまりにも気に入っていて、私もそのことを喜んでいました。ケリーは心配してこれはちょっとよくないのではないかと私に忠告し、ランチなどで彼女と一緒に長い時間を過ごすのはやめてほしいと言いました。私は耳を貸しませんでした。彼女は会社の中で主要な従業員で、私のことを尊敬するのは当然ではないかと思ったのです。それで混乱を招きました。肉体関係がなければ大丈夫だと思ったのですが、それは大丈夫ではなくてケリーはひどく傷つきました。私はいったい何を考えていたのでしょうか。何も考えていなかったのです。本当に恐ろしい状態でした。幸運にも彼女は家族とともに遠くへ引っ越し、私の目は開きました。ここで強調したいのは私は当時もよいクリスチャンだったということです。1985年に日本に来て以来、私たち夫婦は教会のリーダーを務め、また自分たちの教会や母教会やその他の教会へも出席していました。そのいわゆる感情の不倫ともいえる出来事があった時期にも私たちは人のために祈ったり奇跡を見たりし、事業は順調で私は祈り聖書を読んでいました。それなのにあんな窮地に陥ることになったのです。 今、KUCの多くの人が多かれ少なかれ混乱している状態にあります。もうひとつ言っておきたいのは、たいてい悪いことは種子ほどの小さなものから始まって次第に大きくなっていくということです。人はすべって転んでそして転がり落ちるのです。 ヨハネの手紙一1:9-10 は言っています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」私たちはみな今後も何らかの形で悪い状況に陥ることがあるでしょう。しかしそれでも神は誠実なお方で私たちを赦してくださるのです。あなたは今どんな状態にありますか。緊急対応要員はどこにいますか。ヨハネによる福音書13:34でイエスは次のように言われました。 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 これは大きな愛です。イエスが愛したように、とはとてつもなく次元の高いものです。 この10年間はがんになったり破産したり会社を失くしたりしたにせよ、私たち夫婦の霊の旅はますますよいものになりました。路上生活者や刑務所への宣教は順調に行き、私たちの教会で話を聞いてくれる人が必要だった人は誰も昔自分がした悪いことや悪い考えに戻る人はいませんでした。以前刑務所で出会った人がいてマシューと呼びますが、一緒に祈ったことで彼の人生が変わったと言えるでしょう。彼はアメリカ中南部出身の本物のギャングで片方の目の下に涙の形のタトゥーがありましたが、これは殺人を犯した印でした。彼はたいていひと月に一回刑務所から私に電話をしてきましたが、それは何と私のために祈るためでした。彼は救われて清められた人でした。以前は非常に悪いことをした人間でしたが彼は悪人ではありません。以前は混乱して悪いことをしていましたが、今では刑務所で神の代理人としてできる限りのことをしています。彼は今や緊急対応要員です。 聖書はガラテヤの信徒への手紙6:1でこう言っています。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きている(つまり霊の導きに応答する)あなたがたは、そういう人を(優越感や自己の正義感からではなく)柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」。 注目すべき箇所を太字にしてみましょう。 霊の導きに応答するあなたがた―神は私に何に集中し何に注目すべきかを示されます。それは私の選んだ主題ではなく神の選んだ主題であり、各人に神ご自身が決められた優先順位があり聖霊がこれを教えてくれます。 立ち返る―私たちがもたらすのは癒しと立ち返りです。逮捕や懲罰ではありません。イエスは律法と旧約聖書の下にいる人々に新しい考え方をもたらしました。新約聖書はおもに愛と恵みと赦しについて書かれており、神が創造された本来の自分の姿になること、つまり立ち返りについて書かれています。 柔和な心―今までに罪や悪い行いを柔和な心を持って眺めてみたことがありますか。それとも捕まって有罪を宣告されてひどく打ちのめされたと感じたことがありますか。柔和な心は大きな力です。 自分に気をつける―多くの人がご存じのように私は12のステップのミーティングを応援しています。このプログラムの好きな所はたくさんありますが、最も好きなのはミーティングの参加者全員が謙虚なことです。彼らは自分が過去に悪いことをした、または自分の行いのせいで現在窮地に陥っているがそこから自由になるためにここに来ていることを知っているからです。自由になるとは窮地に陥っている原因となるものから脱して、自分の願っている人生に変われるよう神の助けを借りることです。ミーティングの部屋中に漂っている謙虚さは12のステップの文言である「神の恵みによってのみ私は前進します」に当てはまります。 以上これは大きなテーマであり多くの要点を含んでいるので、これを受け止め適用し生かし手本とし広めるために、神が私たちに何を望まれているか私が感じたことを要約してみます。 1.人生は困難である 山上の説教でイエスは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われました。この世では私たちは皆多くの邪悪や困難に直面します。しかし… 2.私たちは暗闇に光をもたらす者である 私たちは緊急対応要員で、聖霊を内に持ち希望と癒しのメッセージを届けます。好むと好まざるとにかかわらずあなたがその人のために祈ることができる唯一の隣人であるかもしれません。暗闇の中の唯一の灯し火であるかもしれません。自分自身が教会にならなくてはなりません。 3.罪はたいてい小さな種子から始まります。自分や友人のふだんの生活の中でその芽を見つけたら成長させてはいけません。放っておいてはいけません。「大きくするな。そのままにするな」とはTシャツのロゴにぴったりの文句ですが、あなたの仲間内で緊急対応要員が必要な人がいますか。 警察官ではなく医師になりましょう。混乱の原因は大きくなるものです。芽のうちに摘み取りましょう。 また、ジムに行って本当に体を鍛えたいと思ったらトレーナーが必要です。ベンチプレスを持ち上げるとき全力を出してがんばれるよう励まし助けてくれ、重すぎる時はバーを支えてくれる人が必要です。私たちは勇敢で大胆で柔和でいて、トレーナーのようにお互いのためにそこにいて励まし支え合う必要があります。 そして最後に私が言いたいのは「教会であれ」。あなたがならなければ誰がなりますか。 私たち夫婦が里子を預かるまでは、こういう子どもたちの世話をする人材も場所も整っているのだと思っていました。しかしその後わかったのですが、その体制はひどいもので多くの場合事態を悪化させています。そこの医師やカウンセラーは、あまり否定的なことは言いたくありませんが、よいとは言えませんでした。しかしみなさん、聖霊を内に持っているならあなたが解決できます。神のご臨在を運びましょう。本物の医師を待つまでもなくその場に足を踏み入れましょう。柔和な心で光を携えて行くのです。 もし自分がそういうことをするのに慣れていないと心配しているのなら、そうですね、練習して慣れてください。この世はあなたを必要としています。神はあなたを必要としています。あなたの知り合いの人の中で、あなたが神の代理人になるのです。 祈りましょう。 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
単語を示して、どのようなイメージが頭に浮かぶかを見て、今日のメッセージを始めたいと思います。 「荒れ野」 何を思いましたか? 一人? 孤立している? 岩? 野生動物? 「砂漠」 どう思いましたか? 乾燥している? 砂がたくさん? 不毛な? 危険な? 砂漠について考えるとき、私はアリゾナについて思います。 私の父は1914年にアリゾナ州の砂漠にある鉱山キャンプで生まれました。 父は、砂漠は非常に乾燥していて、サボテン(複数のサボテン)が点在しており、ガラガラヘビに注意する必要があると言っていました。 なぜ私はこれらの言葉を持ち出したのでしょう? 今日の聖書から推測できますね、なぜならバプテスマのヨハネから洗礼を受けた直後のキリストが、砂漠あるいは荒れ野に送られた、または呼び入れられたところだからです。 聖書によって異なった翻訳を用いています。ですので皆さんの選択をしてください。荒れ野あるいは砂漠。 学者たちは、キリストが40日間行かれた場所は、ユダヤ砂漠であったと言います。 ユダヤ砂漠 - ジェシモンは、「荒廃」を意味し、そこでキリストは40日の間昼夜悪魔に誘惑されました。 この砂漠はエルサレムと死海の間にあり、今日でもかなり荒れ果てています。 イエスが砂漠で過ごした40日間、これは四旬節と関係があります。 先週の土曜日(2月27日)に、メーリングリストに入っている教会員と友人全員に四旬節についてのメールを送りました。読んでくださったことを願います。 (そうでない場合は見てください。受け取っておられず、教会のメーリングリストに加わりたい場合はお知らせください。)四旬節に関する私の記事では少し歴史を語り、物語も含まれています。 四旬節のプレッツェルのレシピと、四旬節のプレッツェルスタイルを祈る5歳のネイティのかわいい写真も入っています。 さて、初期のクリスチャンは四旬節が何であるかを知らなかったので、四旬節を祝いませんでした。イースター前に悔い改め、祈り、施し、更改、自己否定に40日間を費やす習慣は4世紀までありませんでした。四旬節は灰の水曜日に始まり、イースターサンデーの前夜である約6週間後に終了します。ラテン語のレントは、もともとQuadragesimaと呼ばれていました。 Quadragesimaは「40番目」を意味し、四旬節は厳粛な宗教的儀式でした。四旬節は「春の季節」を意味する古英語の「lencten」で、春になると日が長くなるので「lengthen長くする」と結びついています。これは更新の時期であり、人によっては春 - 魂の掃除の時期かもしれません。 古代の教会では、四旬節はまた、新しい改宗者がバプテスマと罪に囚われた信者が悔い改めに集中するように指示される時期でもありました。四旬節は、「神よ、わたしの中に清い心を創造してください」と尋ねる時です。(詩篇51)。 四旬節のためにチョコレートやワイン、Facebookや別のものをあきらめる人もいます。しかし、私たちの多くのオンラインクラスや祈りのグループの1つに参加したり、毎日祈りの散歩をしたり、毎日聖書を読んだり、教会またはNPOでボランティア活動をしたりするなど、人生に何かを加えることもできます。アイデアが必要な場合は私が送った四旬節の手紙を読むか、牧師の一人に連絡してください。四旬節の間にあなたがするのを学べるもう一つのことは与えることです。あなたの時間、あなたのお金、そしてあなた自身を神とコミュニティに与えること。 砂漠でのキリストが受けた誘惑は、四旬節に毎年読まれています。 4つの福音書のうち2つだけが、ユダヤ砂漠でのキリストの誘惑について長く描写しています。ヨハネはそれについて言及しておらず、マルコの福音書はすべてを2つの文でカバーしています。「…霊はイエスを荒れ野(砂漠)に送り出した。イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けた。野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」 (マルコ1:12-13) マタイとルカは悪魔が言ったこととキリストが言ったことについてもっと詳しく述べています。悪魔に対するキリストの返事はすべて申命記6-8章から来ており、それぞれの誘惑は申命記6:5にある偉大な戒め、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神を愛しなさい」 に反して罪を犯すという誘惑です。 悪魔は聖書を知っています。キリストを試すために必要な聖書の節をどこで見つけるかを正確に知っていますが、キリストは聖書が言っていること以上を知っておられます。キリストは聖書が言っていることを行う方法を知っておられます。悪魔がキリストに何か- パン、力、保護、を提供するたびに断りました。キリストはパンにも、王国にも、天使のボディーガードにもノーと言われました。 マタイはこれについて言及していませんが、ルカは「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と言っています。 (ルカ4:13)これはキリストが宣教を通して同様の誘惑に直面した可能性があることを示唆しています。 (ですから私たちは決して安らかに休むことはできず、警戒を緩めることもできないと思います。) キリストの追随者として私たちは世の声に耳を傾けるか、神の声に耳を傾けるかを決めなければなりません。キリストは「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主のみに仕えよ』と言われました(マタイ4:10)。キリストは神に仕え、神のみに仕えられます。そして誘惑者は去りました、そして私たちが荒れ野をキリストと共に通り過ぎて地面に立つならば、私たちの元をも去ります。 私が砂漠で40日間断食することができたとは思えません。特にベルギーのチョコレートを目の前に置いた場合、誘惑されたらどうすれば持ちこたえられるでしょう。 神がキリストとともにずっとおられたという事実よりほかに、キリストが砂漠でどうやって耐えられたかはわかりません。 コロラド州のルーテル教会の牧師であるナディア・ボルツ・ウェーバー牧師は、四旬節の彼女の説教の1つで次のように述べています。「キリストが断食をされていたとき、誘惑とは食べることではなく、キリスト自身のアイデンティティと神との関係がとても簡単に疑問視されうると信じることだった」 悪魔が語る最も危険な言葉は、常に「もし」という言葉でした。誘惑者がやって来て、「神の子なら、これらの石にパンになるように命じたらどうだ」と言いました。(マタイ4:3) 「神の子なら、飛び降りたらどうだ…(マタイ4:6) 私たちはこう言うことができます。 人々が本当にあなたを愛していれば、あなたはそれほど孤独を感じることはないでしょう。 神が本当にあなたを愛しておられるなら、人生はそれほど苦痛ではないでしょう。ですから、これらは私たちが自分自身に言うか、他の人に私たちに言わせる嘘です。 ナディア牧師は言います; 「サタンはただ不安定な言葉「もし」を投げかけ、私たち自身の誤った結論に到達させる。」 これが私たちが神を必要としている理由であり、疑いの中にあっても神はそこにおられ、私たちを決して一人にされたことはないのです。 しかし、霊的な旅の荒れ野は私たちが準備できていないときに起こります。ある人にとっては、すべてが非常に乾いてしまったという感覚です。恐らくあなたの人生の中で、本当に神からの言葉が欲しくて何も聞こえなかった時があったでしょう。危機が襲った時。 荒れ野で、そしてあなたの魂の中で荒れ野を感じることは、私たちが乾いて、疑いに満ち、孤立し、落ち込んで、神から離れていることを意味するかもしれません。少なくともヘブライ人への手紙の時代から、荒れ野は精神的な旅の暗い側面のイメージとしてキリスト教の書物で使用されてきました。内なる荒れ野、あるいは私たちがいる荒れ野は困難です。四旬節の間だけでなく、私たちはまったく無意識のうちに荒れ野に導かれるかもしれません。それはいつでも起こり得ます。ランダムな、あるいは無意味な苦しみ、計り知れないストレス、消沈、病気、衰弱させる悲しみ、戦争、そして悲劇的な死に直面して、「神はどこにおられるのか?」と叫ぶかもしれません。 ユダヤとシナイの砂漠が異なるように、荒れ野は非常に多くの形や大きさで現れます。(乾燥した土地は地球の陸面の約3分の1を覆っていますが、中東では99%を占めています。)聖地にはたくさんの砂漠があります。イスラエルの60パーセント以上は砂漠です。ヨルダンからエルサレムまでの砂漠は長く、道路から少し離れたところを歩くと、すぐ道に迷ってしまいます。 私たちは周りを見回して、砂漠にいるように感じます - 道に迷ったように感じるかもしれません。私たちは孤独を感じるかもしれません。砂漠では、乾いて喉が渇き、砂しか見えないことがあります。 (私は気持ちが鬱になりがちというわけではありませんが、愛する人の死、人々への失望、人生の良い変化、予期せぬ変化に大きな悲しみを感じたことがありました。)精神的な旅の荒野は厳しいものになる可能性があります。 言うまでもなく、私たちは荒れ野や砂漠に行きたくないかもしれません。できれば避けようとしますが、予想もしなかったときにそこに着いてしまう可能性があります。できるのであればそれを避けたいですが。 しかし、そこに着くと、神が私たちと共におられることでしょう。時に荒れ野は人が最も精神的に満ち、人生を変える場所のひとつになることがあります。どういうわけか砂漠にいる必要があると感じる人もいれば、できるだけ早く砂漠から出る必要があると感じる人もいます。 とても昔、私の神学校時代、神学者のウォルター・ウィンクがサンフランシスコの神学校で教えていたのを覚えています。彼は霊的な旅の部分として、ある人々は砂漠にいて、そしてまた何度も砂漠にいることを話しました。しかし一生砂漠を体験しない人もいます。他の人の霊的な旅を私たちは批判することはできません。それはその人と神の間のことです。 誰が砂漠に行くでしょう?そうですね、あなたは家族の死や深刻な病気、仕事を失った、あるいは邪悪な何かや悪魔による攻撃を受けるとは思っていなかったかもしれません、しかしあなたは生き残り、時には予期しない、あるいはポジティブな何かがそこから生まれます。私たちが砂漠にいる間、私たちを支えてくれる神の聖霊を信頼できますか?はい。御霊が私たちを砂漠から導き出すことを信頼できますか?はい。 私たちは神が私たちを決して離れないことを信頼できますか?はい、できますし、しなければなりません。神の愛は絶えることなく、終わりもありません。 新型コロナの感染拡大を一年中続いた四旬節のようだったと言う人もいます。去年の3月にここ神戸で感染が非常に深刻になり、症例が増え、日本が非常事態を宣言したので、それは本当だったかもしれないと思います。神戸ユニオン教会での集会をやめ、オンラインで礼拝を始めました。確かに私たちの多くにとって、そして仕事を失ったり、旅行ができなかったり、他の人に会うことができなかったり、またZoomを通して教える方法を学ばなければならなかった人々にとって、また何かを奪われたり、困難な挑戦にあったりと、荒れ野にいる時間のようでした。 コロナ禍で私たちは多くのことをあきらめました。それは荒れ野にいるようなものです。それは私たちを変え、私たちがお互いにどのように関わりあうかを変えました。しかしながら新しい方法でつながることを学べたのは確かです。私たちのオンラインクラスは、Zoomの週半ばの礼拝がそうですが、非常にうまく行われています。 Zoomは私たちにとって第二の自然なものとなりました。私たちはよくZoomを使っています、特に私は会議、祈り、礼拝などのためによく使っています。私たちの中にはZoom疲労を感じたり、「ズームアウト」したと感じる人もいますが、それでも会ってつながりを保つことができます。コロナ禍がいつ終わるかはわかりません。しかし私たちはそれを乗り越えさせてくださる神がいることを知っています。 神は私たちを神のものと名付けられたので、私たちは自分自身の荒れ野にいるこの時を生き残ることができます。この砂漠は、私たちが成長し、神を信頼することを学ぶ時期になりえます。覚えておいてください、私たちは決して一人ではありません。神に感謝します。アーメン。 |
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May 2024
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