「恵みを与える」 神戸ユニオン教会--- 2022年3月27日 ローマ人への手紙5:1-2、 エペソ人への手紙 2:8-9、テトスへの手紙2:11-14 (NIV) 説教者: クラウディア牧師3/27/2022 四旬節はキリスト教では悔い改めの季節です。そして先週アキコ牧師は悔い改めについて語られましたが、今週はその続きとして、恵みについて説教をします。まず、クリスチャン作家、フィリップ・ヤンシーがその著書 "What's So Amazing About Grace?" の中で語っている短い物語を紹介します。 以前、ロサンゼルスの渋滞に巻き込まれ、58分遅れでハーツのレンタカーデスクに到着したことがありました。なんとなく嫌な気分で近づいていき、車の鍵を置いて、「延滞料金はいくらですか?」と聞きました。すると女性は、「何もありません。大丈夫です。」と返答したので、私が遅刻したと言うと、彼女は微笑みながら、「はい、でも1時間の猶予期間がありますよ。」と言うのです。そこで、「そうなんですか、「猶予」って何ですか?」と尋ねると、彼女は、「私も知りません。(きっと会社の研修では習っていないはずです)多分、払うことになっていても、払わなくてもいいということでしょう 。」と続けました。 「払うべきなのに、払わなくていい事」神からの贈り物。イエス様は私たち罪人全員のために代償を払ってくださいました。私たちはその恵みを受け取り、神様の助けと愛によって、より良い人間になろうと努力します。 私たちは完璧ではありませんが、ジョン・ウェスレーはこう言いました。「我々は完璧を目指します」そう、私たちは不十分です。完璧からは程遠い。完璧に近づく=それは過程です。ジョン・ウェスレーもそう書いています。私たちは愛において完璧になるために 「目指している」のです。私たちはまだそれを成し遂げてはいないのです。 聖書を読むと、不完全な人々、「最高の自分」になれなかった人々で満たされていることが分かります。聖書の中には 欠陥のある人たち、不完全な人たちばかりです。 いくつか挙げてみましょう。モーセは気性が荒く、殺人と神への反逆を犯しました。ダビデは姦淫と殺人を犯し、放浪息子は相続財産を浪費しました。 何度もイエスを拒絶したペテロ、かつてキリスト教徒を迫害したパウロ。それでも神様は私たちにもう一度チャンスを与えてくださるのです。不公平にも見えますが、それが恵みなんです。聖書の時代の人々も、そして現代の私たちも、神様の恵みが届かないほど壊れているわけではありません。フィリップ・ヤンシーはあるインタビューで、「神の恵みが届かないほど、私たちは沈むことはできない。同時に、恵みは私たちをそこに置き去りにすることはありません。私たちを新しい高みへと引き上げてくれるのです。」と言っています。 私自身、神様が私に求めておられることを果たせなかった事があるので、皆さんの前で悔い改めます。 特にこの四旬節の間、私たち全員が神と互いの前で悔い改めることができればと思います。問題は、神様が将来私たちを許してくださるかどうかではなく、私たちが悔い改めて赦しを請うかどうかということです。先週の日曜日のアキコ牧師の説教の中で、「悔い改めた後にどうなるかは、悔い改めるという行為と同様に心配する必要はない」と言われました。 恵みについての福音は、神様が私たちをまだ愛してくださり、私たちが間違いを犯し、倒れても拾い上げてくださり、そして再挑戦の機会をくださるという事です。 この恵みの概念は、私たちの人間関係にも通じます。私たちは完璧な自分を保てない時がありますが、それでも神の恵みを受けるのです。ですから、私たちは同じ贈り物を他の人にもしてあげることです。 問題は、それが難しいということです。 神が私たちに与えてくれるのは私たちを許し、私たちの良くない場面だけが私たち自身でないという事を理解し、前に進むことを許してくれます。 しかし、他人が「最高の人」でないときに、私たちが許すのは難しいです。その人を許し、その人の良くない瞬間がその人の全てではないと理解し、その人が前に進むのを許すのです。 人生で出会う人の中には、私たちを困らせる人がいます。それは教会員であったり、自分の家族かもしれません。私たちはクリスチャンとして互いに愛し合うと言いますが、互いに好きなのでしょうか? 正直なところ、私は自分とは異なる神学的視点、異なる政治観、異なる思想を持つ人々との関係に悩むことがあります。自分と同じように考えている人に恵みを与えるのは簡単ですが、自分を怒らせたり、自分と意見の違う人に恵みを与えるのは、とても難しいことです。 私たちはお互いの粗探しをしていますか?それとも良いところを探し合っていますか? 私たちは本当にお互いの話に耳を傾けているでしょうか?神の言葉に耳を傾けているでしょうか? この四旬節の間、私たちは皆、神様の前で悔い改めることができます。神様が私たちを清い心で創造してくださるようにお願いする(詩篇52編)ことは、四旬節だけでなく、毎日行うべきことなのです。 神様は、最も見捨てられたと感じる部分に入ってきてくださいます。私たちの最も深い痛みと最も深い罪の場所に神が入られる時、私たちのその部分は新しいものへと変えられるのです。神は赦しと恵みをもたらしてくださいます。神は復活の神です。 悔い改めとは変化と新たな成長と癒しを意味します。 パウロは、「神の慈愛は、あなたがたを悔い改めに導く」(ローマ人への手紙2:4)と述べています。真の悔い改めには、いくつかのことが伴います。 私たちが悔い改めについて、あるいは恵みについて思うことは、この言葉と矛盾しないはずです。パウロは、神が私たちを 「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように」(コロサイ人への手紙1:10)とあります。 ペテロはパウロと同様に私たちはもはや無知ではなく、「キリストの尊い血によって贖われた 」(ペテロの手紙1:19)という知識の中で生きており、自らの行動に対する責任を私たちに課しているのだ。と述べています。 パウロはテトスに宛てて、「すべのての人を救う神の恵みが現れ、私たちに不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し」 (テトスへの手紙2:11-12)と述べています。 テトスへの手紙はパウロが初めてローマに投獄されている時に、同僚のテトスに向けて書いたものだと考えられています。テトスはパウロによってキリストに導かれた異邦人でした(テトスへの手紙1:4)。彼は「生まれ変わった」異邦人のクリスチャンとも言えるでしょう。 テトスはパウロから罪と腐敗で悪名高いクレタ島を訪問する任務を任されていました。パウロはテトスに島へ行って神の恵みに伝えるようにと頼んでいました。 テトスへの手紙2:11-14 では恵みとは、誰もが期待する効果もあれば、ほとんど期待できない効果もあるとされています。パウロは、神の恵みが現れたとき、すべての人に救いをもたらしたと教えています。どんな罪を犯した人も神の恵みによって救われるのです。その恵みなしには、私たちは希望を持てないのです。 しかし、パウロによれば、恵みは単に私たちを救うだけではありません。それは、不敬虔な行いをやめ、信心深い生活をし、イエスの出現を待ち望むという3つのことをするように私たちを訓練するものでもあります。 神の恵みを理解すればするほど、「私たち自身が教会 (Be the Church)」となります。私たちは、自分の人生から罪を取り除こうとします。私たちは、互いに親切に、愛し合うように努めます。 良い行いをするのは、しなければならないからではなく、キリストに従う者としてそうしたいと心から思うから、そうするのです。 神の恵みに満ちた教会であることは、イエスを中心に、イエスが生き、イエスが望んだように私たちが生きることを意味します。恵みに基づく救いを生み出すことを意味します。 どうやったらそれが実現できるのか不思議に思うかもしれません。ありがたいことに、パウロは、恵みが私たちの人生にこのような結果をもたらすのは、イエスがそのように意図したからだと説明しています。 イエスは私たちのために十字架上に自身の身を捧げられました。イエスは私たちのために十字架に架かり、私たちを清めてくださいました。イエスは私たちを愛し、私たちを変えることによって、私たちがより良くなるように助けてくださいます。 この自由に与えられる恵みの賜物は、私たちが望むところに神の意志、御心を持っていくことができます。今手にしている恵みに感謝し、その恵みを返したいと思うようになるのです。 「恵み」という言葉が聖書で最初に使われるのは、創世記6:8節です。「しかしノアは主の目に恵みを見出した」。使われているヘブライ語は、「好意を示す」とか 「慈悲深い」とか 「憐れみを持つ」と訳されることが多いものです。 新約聖書では、「恵み」はCharis(カリス)と訳されていますが、これは善意、慈愛、心に及ぼす神の存在、神から与えられる愛ある憐れみを指しています。 神は御子イエスというフィルターを通して、私たちが一度も罪を犯した事のない人のように私たちを見ています。 「恵み」と「憐み」の違いは何ですか?恵みと憐れみの違いについて、私は以前このような定義を聞いたことがあります。「憐れみ」は、あなたが値するものを得られないことであり、「恵み」は、あなたが値しないものを得ることです。 恵みとは、神からの贈り物として私たちに与えられるものです。新約聖書では140回以上使われており、神の恵みは、教会創立初期の教父の一人であったヒッポの司教アウグスティヌスが展開した神学の中心概念です。 アウグスティヌスは、「神は、私たちが癒されるように...私たちが召されるように...私たちが神的な人生を送ることができるように」と述べている。(ヒッポの司教アウグスティヌス「自然と恵みに関する論考」) アウグスティヌスの言葉を借りれば、恵みは私たちが 「神々しい人生」を送ることを助けてくれるのです。恵みは、私たちが恵みに満ちた人生を送り、教会を恵みと愛で満たすことを助けてくれるのです。 神戸ユニオン教会は今後の目標として”To be a grace filled and Christ led church, that is a welcoming, growing and sending body of Christian belivers in Kobe” (恵みに満たされ、キリストに導かれた教会であること、人々を歓迎し、成長させ、クリスチャンを神戸に送り出す教会であること)と掲げています。 最初の一文は「To be a gracefilled and Christ led church」と書かれています。 祈り、悔い改め、告白、赦し、愛、親切、他者への働きかけ、伝道などさまざまな方法を通じて恵みに溢れた教会を作る事ができます。 また、聖書を学び、共に祈ることによっても可能です。KUC には祈りのグループがあります。オンラインで参加することもできますし、自分で祈りのグループを作ることもできます。 私たちの教会では、女性が祈り、聖書を学び、互いに支え合うために、WOW (Women on Wednesday) と呼ばれるグループがあります。 最近、私たちはエペソ人への手紙を学んでいますが、数週間前に恵みについて話し合いました。 そのグループで、ある女性は、恵みの例として、過去に自分がされた悪いことを許すことだと言いました。また、別の女性は、「恵みは過分な贈り物であり、私たちはただ手を開いて神から受け取るだけでよい」と言いました。また、他の女性は、恵みは私たちに与えられるものであり、私たちは神の恵みを他の人に与えるのだと言いました。 それは簡単なようで難しいことです。しかし、それは私たちの信仰の一部です。 恵みは、人に成長意欲と失敗する余地を与え、優しく成熟へと導きます。恵みの中での成長は、キリストの様に生きる事をゴールとしています。弟子を育てること(クリスチャンの考えを広めてくれる人々)に真剣な教会は、人々がクリスチャン人生において深く成長するのを助けます。 恵みは私たちを解放し、神を愛し、仕えるようにしてくれますが、それは私たちが他の人々を愛し、仕えるべきことを意味します。恵みを重視する教会は、神と他者のためにどのように愛すべきかを教えます。つまり、疑問のあることについては、それが他の人々にどのような影響を与えるかを考え、愛に基づいてのみ行動することが奨励されるのです。私たちは、キリストに従う者として、他の人々に仕えるように勧められます。 私たちは、互いに愛し合い生きるように求められているのです。 自由に祝福された者は、その祝福を喜んで他の人に分け与える事が出来るでしょう。もし教会が神の御心を求めているならば、私たちは恵みの福音を他の人々に伝えることに積極的になるはずです。そこに神の御心があるからです。 恵みに満ちた教会として、「私たち自身が教会であれ (Be the Church)」と、チャック牧師がよく言っていました。自分たち自身が教会であるために、私たちは罪の現実にも目を向けなければなりません。個人的な告白と回復を行うのです。 恵みに満ちた教会であることは、互いを批判するのではなく、癒しの環境を作ることを意味します。私たちは、神から示された恵みを思い出し、その恵みを他の人々にも与えるのです。 「私たち自身が教会であること」恵みに満ちた教会、恵みを与える教会とは、聖霊によって常に変化が起こっているという事です。 アーメン ――――――――――――― Amazing Graceを歌う前に、この曲の作者であるジョン・ニュートンの事をお話しします。彼は神の恵みを切望し、神によって心が入れ替わった1人です。ジョン・ニュートンは1725年ロンドン出身、若くして海で働き、数年間は奴隷船で奴隷貿易に携わっていました。1745年には彼自身がシエラレオネの女性、ペイ姫の奴隷になり、救出されています。その後、奴隷船の船長となり、後に奴隷貿易の投資家にもなっています。彼自身が奴隷として扱われた経験があるから、奴隷貿易には手を出さないかと思うかもしれませんが、奴隷貿易に深く関わっていました。しかし、神が彼の心に触れ、英国教会の牧師となり、その後、奴隷制度廃止論を支持するのです。彼は20年間教会の牧師として従事しました。Amazing Grace 以外にもGlorious Things of Thee Are Spokenなどの讃美歌を作曲しています。1807年に大英帝国がアフリカの奴隷貿易を廃止するのを見届けるまで生きましたが、それは、彼が亡くなる数か月前の出来事でした。 神は素晴らしい恵みを彼に与えました。 神の恵みを心に描きながらAmazing Graceを歌いましょう。 Amazing grace, how sweet the sound, That saved a wretch like me! I once was lost, but now I'm found; Was blind, but now I see.
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祈りましょう。
主よ、私たちはあなたが十字架にかかってくださった時に祈った祈りの対象にある者たちです。あなたはこうおっしゃられました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でもわからないのです。」(ルカの福音書23:34)主よ、私たちがその「彼ら」です。私たちは自分達に罪があることを自覚しておらず、何をしているのかわかっていないのです。あなたの御言葉を通し、私たちの心を導き、気づきを与えてくださいますように。道であり、真理であり、命(ヨハネの福音書14:6)である御子イエスキリストの名前によりお祈りします。アーメン。 最近本当に色々なことが起きていると感じます。一番初めに思い浮かぶことはやはりウクライナのことです。ウクライナで起きていることをニュースで知る度に、思いを言葉にすることが難しく、本当に心が痛みます。またコロナ感染もまだまだ日本においては問題です。今月の初めに、我が家でもコロナ感染が起きたので、我が家は先週まで隔離期間にありました。その他に最愛の家族を失ったり、難しい知らせを受け苦しんでいる人々が私の周りにはいます。 世界全体が炎に包まれているような気がしています。世界全体がそのようになっているのでどこから火がついたのかがわからないような感じです。全てが、全ての事が火事現場に置かれているような感じです。 そんな中にありながら、クリスチャンコミュニティにいることの幸いを思います。それはクリスチャンコミュニティにあって、私たちは共に重荷を担う仲にあるということです。私達や、私たちの最愛の人が病に倒れる時、コロナにかかるとき、来週分の食料品を買うお金がない時、違う国に引っ越そうか、違う学校に転校しようか、仕事を変えようか悩んでいる時、家族や友人の死を経験する時、私たちは神の家族の元に助けを求めます。キリストにある兄弟姉妹に頼り、心の中にある思いを注ぎ出します。このようにして共に祈る中で、神様の愛を実際に体感することができるのです。 祈りの力強さをみなさん経験したことがあると思います。困難に直面する時、私たちの心の中にある思いを注ぎ出し、神様の元にやってきて、悩みや憂いを涙と共に神様に分かち合う時、神様は私たちの心の奥深くに触れてくださいます。私たちの重荷をイエス様が背負ってくださることで、重荷は軽くなります。私たちが直面している問題はその場では解決しないかもしれません。けれど、私たちはイエス様の前に重荷をおろすことで、神様が私たちを守り、導き、愛してくださっていることを実感するのです。 はじめに言ったように、個人的にも、教会生活においても、世界的に考えても私の身の回りではたくさんの出来事が起こっています。そのため、ありがたいことに祈りの力を思う存分感じる機会がたくさんあります。最近は色々な人と祈る機会が与えられています。先日私が牧会ケアを定期的にしている人と共に祈る機会がありました。その時の事をその方の了解を得て、今日はみなさんにシェアしたいと思います。 この方は先日病院に行く機会があり、その際生死にかかわる病名の診断をいずれうけると感じたそうです。もちろん不安や混乱を感じますので、Zoomで一緒に話をすることにしました。その方は今感じている思いや、不安を吐き出すと同時に、もし死んだらどうするかということについても話し始めました。死んだ後、残された人にどうしてほしいかというような話の内容です。 私たちは話し、共に祈りました。祈っていると、その方が罪の告白を始めました。その方の家族に対して犯した罪の告白です。その方の罪の告白と、罪を犯したことに対する痛みについて聞いていると、私も罪の告白をするように導かれました。私は父の再婚に対する悲しみから、父の再婚に対してハッピーな気持ちや応援する気持ちになれなかったこと、その事からひどい言葉を父に吐いてしまったこと、そしてその事によって私と父、父の再婚相手との関係にヒビが入り、それはまだ修復中であることを告白しました。 その方と共に祈り、共に罪の告白をした時間は聖なる時間でした。「聖なる」と言う時、私は決してピュアで罪のない、真っ白な、というようなことを意味しているのではありません。ギリシャ語では「聖なる」とは「より分けられた」という意味を指します。私とその方は、神様によって、罪の告白の中に神様と共にいるように、「より分けられた」時間を過ごしたのです。 私はその方と罪の告白を共にしました。私たちがいかに罪に覆われた人間であるかを。個人として、家族の一人として、教会のコミュニティーの一員として、そして世界に住む住人の一人として、いかに自分達が属するコミュニティーや、グループが、神様が求められるものとはかけ離れているか、神様が言われたような地における神の御国から離れているかについて告白しました。 牧師という職業上たくさん祈りの時を持つ機会があります。祈りを持つ時が大好きです。他の人と祈りを持つ時は一対一の個人的な時もありますし、数人の小グループ、もしくはもっと大きいグループの中で共に祈りを捧げる事もあります。グループのサイズや目的が異なるにしても、祈りの時を持つ時、正直に告白すると、全ての祈りの時が今話したような、魂を探る深い時間だったり、平安が与えられたり、変貌を感じるほど劇的なものではあるわけではありません。私が思うにそれは私たちの祈りが神様に対するお願いだけで、自分達のなかにある罪を告白し、神様の前で悔い改めていないからです。 イエス様は宣教を開始した時から、「悔い改めなさい。天の(神の)御国が近づいたから。」(マタイの福音書4:17・マルコの福音書1:15)と悔い改めを宣べ伝えられました。イエス様は頻繁にたとえ話を用いられました。有名なものには例えば、一匹の羊を探し求める羊飼いについての例え話(ルカの福音書15:1−7)、放蕩息子の例え話(ルカの福音書15:11−32)があります。イエス様の弟子は悔い改めの教えをイエス様より直接受け、その重要性をイエス様が昇天された後も人々に宣べ伝えました。 この事からもイエス様と弟子達が悔い改めについて頻繁に語っていた事がわかります。さて私たちはどうでしょうか?私たちは教会コミュニティにあって悔い改めについて話しているでしょうか?私たちの礼拝において、Zoomの聖書研究クラスにおいて、悔い改めについて触れて、話しているでしょうか?祈りの会を持つ時、キリストにある兄弟姉妹と交わりを持つ時はどうでしょうか? 悔い改めについて困難を感じるのは当然のはずです。実際のところ、私たちは自分達の悔い改めについて話さないのですから! 教会として私たちが共に集う時、それは結婚の誓いをかわすカップルと似ています。結婚の誓いでは、良い時も、悪い時も、病める時も、健やかなる時も、愛し、真心を尽くす事を互いに誓い合います。教会もそうです。新しく赤ちゃんが産まれれば、それを共に祝い、誰かが洗礼を受ければ、共に神様に感謝を捧げます。また教会として困難な中を通っている人を支えます。誰かが大切な人を亡くしたり、仕事や家、生活の安定基盤を失ったり、人間関係に傷を負っている時にその人に寄り添います。 私は私たちの教会が困難な人に手を差し伸べるのを見てきました。食料品が必要だったり、あたたかい食事が必要だったり、新しい家具が必要だったり、日本語や英語の言語サポート、また日本や、神戸に順応するために必要なヘルプだったり、教会の人々が、困った人に手を差し伸べるのを見てきました。そしてそれは素晴らしいことです。 しかし、教会の中の罪が露呈される時、困った人に手を差し伸べるような寄り添いが実践されたのを私はあまり見た事がありません。むしろ、その罪に向き合おうとしなかったり、その罪から敬遠しようとする姿や行動をよく見てきました。罪に対するこのような姿勢は何も私たちの教会だけに、はびこっているものではありません。罪に向き合わない、悔い改めない、これはどこに住んでいようが、いつの時代に生きようが、私たち全ての人間に共通して言える事なのです。 今日の聖書箇所はイエス様が群衆に話しているところから始まります。群衆の中のものがイエス様に衝撃的な出来事を伝えます。それはローマ帝国属州総督であるポンテオピラトが、いけにえを捧げていたユダヤ教徒のガリラヤ人を殺したという話です。つまり、殺人という恐ろしい罪が、神様にいけにえをささげる神様が宿る場所で犯されたのです。 そのようなおぞましい事件について知らされたイエス様はどのように返答したでしょう?イエス様は次のようにいいます。 「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。」(ルカの福音書13:2) この言葉を通し、イエス様は人間の性質について力強く語られます。私たち人間は罪を目撃する時、分析して、誰がいけないのかジャッジするのが大好きなのです。誰がこの罪の報酬を受けるのか。私たちは他人が犯す罪について好奇心を持ってたくさんのことを知ろうとします。誰が正しくて、誰が罪人だか自分で決めたいからです。 苦しんでいる人に対し、その苦しみは罪の結果と決めつけるようであればそれはもっと最悪なことです。苦しみは罪が招いた当然の結果だと見下すような態度をもし取るようなことがあれば。 このように誰か正しくて、誰が罪人かと自分の中で決めつけて行く時、私たちは聖書が言う基本的な真実、私たち全員に当てはまる人間の真実から目を背けます。 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。」(ローマ人への手紙3:10−11) 私たちがどのように自分達のことを考えるにしても、私たち人間は決して物事に対し、完全なる理解を持つことはできない生き物なのです。私たちは自分達が純粋で、正しく、神様の御心を求めるように見せかけていますが、もし罪に対し、それは自分ではなく、他の人、自分が属してない他のグループが犯すもので、彼らに悔い改めが必要だと考えているのであれば、それは自分達を欺いているのです。そのような姿は神様を追い求めているとはいえません。 イエス様は、犯罪現場にたまたま居合わせた人々を罪の結果だと責め立てるような人間のナンセンスには興味もくれません。しかし私たち人間は罪というものに対し、いつも「自分」ではなく、「彼ら」「あの人(たち)」という称号をつけるのです。「彼(彼女)らは罪を犯した。」「あの人の罪。」罪は自分が属してない違うグループのものが行っていること。自分達はそこに関わっていない。罪は私たちには触れていない。そう、いつまでたっても私たちは罪を他人事として扱うのです。 あなたは今までに直面した状況下で、本能的に状況を分析し始めたことはありますか?私はあります。状況を見た時に、とくにその状況がヒートアップしていたり、対立を招いているものだったりする場合、それを見て私は誰が悪いのか、誰が責任をとらなければいけないのかと考え始めるのです。「この人はあんなことを言った。それは間違いだ。」「あの人はそれを聞いてこんな風に反応した、ああ、わかってない。」「彼(彼女)らがあんなことをしなければ、(もしくはあんなことをしていたら)こんな状況にはなっていなかった。」 私を含め私たち人間の心はこのようにいとも簡単に裁きを行うのです。そのような裁きの中に留まっているとすれば、私たちは神様との信仰の歩みで最も大切な一つのことを見過ごすことになります。 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」 (ルカの福音書13:3&13:5) イエス様がこの言葉を誰に伝えていたかもう一度考えてみましょう。イエス様は個人的に一人の人を特定してこの言葉を投げかけていたのではありません。イエス様は群衆に向かって話していました。ユダヤ教徒のガリラヤ人達が殺されるという罪とは率直なところ関係のない人達に向かって話していたのです。 イエス様は犯された罪に対して、誰が正しくて、誰が悪かったなどということに時間を割きません。誰が苦しみに値するか、誰がより罪深かったかなどという話もしません。その代わり、真っ直ぐにためらうことなく、人間の霊的な魂を呼び起こすようなことを群衆に呼びかけるのです。 「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」 (ルカの福音書13:3&13:5) 神様にとって、私、あなた、彼(彼女)らという人間を区分けするというコンセプトはありません。神様は神様ご自身そして、私たち全員と寄り添うという考え方なのです。 もし私たち全員が罪、罪の悔い改めについて真剣に向き合わなければ、私たち一人一人が罪を自分が犯すものとして、真剣にとらえなければ、私たちは破滅、自滅に向かうのです。 教会に仕えていると罪についてよく耳にします。でもそれは多くの場合、自分が犯した罪ではなく、自分ではない他の誰かが犯した罪についてです。そのことを指摘すると同時にこの事も告白します。イエス様が今日の聖書箇所で「そうではない。」(ルカの福音書13:3&13:5)と諭した言葉の対象はまず誰よりも私であるという事を。 教会には罪があります。当たり前です。教会は人間の集まりです。救世主を必要とする人間の集まりです。悔い改めなければ罪に覆われていて当然です。私は一人の人が、あるグループが、他の人(グループ)に対して愛を見せない、赦さない、思いやりをもたないというような行動を取るのを見てきましたし、耳にしてきました。 このような事について聞く時、もちろん声には出しませんが、私の頭の中では次のような思いが湧いていました。「あの人がそんな風に行動するのならこんな風になって当然だ。」「あの人があんなひどいことをしたのだから、この人が怒るのも当然だ。」 私がどんなに善意を持って対処しようとしていたとしても、このような思いを一瞬でも持ち、私が祈りと謙遜をもって聞かされた状況に向き合わないのであれば、私はそこで犯された罪に参加した一人の者となり、悔い改めを神様に請わなければいけない者となります。人を頭の中で、心の中で裁く時、私は状況を見つめる群衆や観客のような面持ちで、起きたことは私がしたことではないから関係ないというような態度を取るのです。 今週私が神様に赦しを請うていることがあります。それはここにいる皆さんにも赦しを請わなければいけないことと自覚しています。私がこの教会コミュニティに牧師という立場で仕えていることに関して、この数週間祈りの中で私に示されたことがあります。それは私が悔いあらめについて説教をする前に、まず私自身が悔い改めをしなければいけないということです。 私のことをよく知っている方は私が平安を好むことを知っていると思います。私は波風を立てることが好きではないのです。特に面と向かって人に話すことが苦手です。はっきりとした態度で人に語ることが好きではありません。スポットライトを浴びることも苦手です。影に隠れている方が好きです。今ここで、自分の罪について告白することで、罪人でありながら悔い改めについて説教するなんて、肉の思いだけで言えばしたくないことです。 しかし今日の聖書箇所、そして罪を見つめることが促される受難節を通じて、神様が明らかにしてくださったことがあります。それはまずは自分の罪を告白すること。そして私たちの教会の中にある罪を目撃したら、それに対し毅然とした態度で向き合い、癒しと解決に向けて積極的に行動しなければいけないということです。私たち教会の中に罪がある時に、それをただ目撃してそのままにするのではなく、私がその罪の一部という自覚を持ち、罪を犯す者たちに同じ自覚を持つように働きかけなければいけないということです。これは波風を立てることが好きではなく、安定、安全を求める私、すぐ怖がる私にとって簡単なことではありません。ですので私が、私たち教会リーダー達が、罪に対しもっと真摯に向き合うことができるようにみなさんに祈ってサポートしていただきたいです。私たちは教会リーダーという立場にありますが、弱く、もろく、罪ある人間です。 みなさんはどうでしょうか?今日の聖書箇所からどのような語りかけがあったでしょうか?私たちの教会にある罪という言葉を聞いた時、どのような思いがあなたの頭をよぎったでしょうか?私には関係ない、どうでもよいというような無関心があるでしょうか?私たちの教会がそんなところなのかという落胆があるでしょうか?もしくは「そうよ、うちの教会は罪だらけなのよ!」と思ったでしょうか?もしくは「こんなこととは関わりたくない」と思われたでしょうか?「自分達の教会に罪があると聞き悲しい。」と思われたでしょうか? 私たちの教会にきたばかりの方は、「この牧師は一体何を話しているんだろう?意味がわからない。」と思われる方もおられるかもしれません。 みなさんがどのように思われているかはわかりませんが、今ここでみなさんに祈りの中で考えていただきたいことがあります。それはあなたがどう思うかではなく、神様が今あなたに何と言っておられるでしょうか?もしかしたら、よくわからないからもっと祈ってみたらよいとあなたにおっしゃられているかもしれません。もしくは私たちの教会にはびこる罪について自分がその一部になっていた、加担していたという自覚が与えられ、告白と悔い改めに導かれているかもしれません。神様は私たち一人一人に語られており、私は神様ではないので、神様の元に行き、祈り求めてくださいとしか言えません。 ただ個人的に悔い改めをする者として分かち合えることがあるとすれば、心が頑ななままでは罪に向き合い、真の悔い改めをすることは難しいということです。私たちは神様の元に行き、いくつものお願いをしていながら、神様の前に自分が罪人であることをなかなか認められない生き物なのです。だからイエス様はそのために、自分達の罪を認められない罪深さ故に私たちのために、十字架にかかってくださったのです。 もし今話を聞いておられる方の中に、自分が悔い改めるところを特に示されないと、もし感じられている方がいるのであれば、礼拝に定期的に参加し賛美を積極的にされることをおすすめします。歌や祈りを持って神様に感謝と賛美を捧げる時、神様から示されるでしょう。それは私たち人間の在り方、やり方と、神様の完全な在り方とやり方には大きな、恐ろしいほどの隔てがあるということを。 また、怒りや悲しみといった強い感情を抱えているのであればその感情に向き合ってみることをお勧めします。それらの感情をあなたが信頼を覚える人、裁きや非難に屈しないと思う人に聞いてみてもらってください。愛されて、受け入れられるというスペースで自分の思いを分かち合う時にどのようなことが起こるか体験されてみてください。 そのような時、神様があなたと共におられます。 けれど私たちはずっと怒ったり、悲しんだりしているべきではないということもお伝えしたいと思います。あなた自身が自身の思いや、感情を明らかにする時、神様もその御姿をあなたに明らかにしてくださるでしょう。怒りや悲しみでまみれたあなたの頑なな心とそこに潜む罪から離れ、告白と悔い改めの中で神様の元にどのように戻れるか神様が優しく一歩一歩導いてくださるでしょう。 今日の聖書箇所は、イエス様の大好きな例え話で終わります。実らない、いちじくの木に関する例え話です。この例え話を通して、悔い改めについての理解が更に深まるでしょう。なぜならこの例え話は悔い改めがどのようなものか、具体的に記しているからです。 この例え話において、実らないいちじくの木の結末については何も書かれていない事に気づきましたか?もう少しで切り倒されそうになった、実らないこのいちじくの木ですが、翌年実を実らせたか、もしくは切り倒されたかについては書かれていないのです。イエス様にとって、神様にとって、実が実ったかどうかということは悔い改めをする上で大切なことではないのです。悔い改めをした後で何が起こるかということは私たちが心配することではないのです。悔い改めをするということが大事なことなのです。 悔い改めにおいて一番大切なことは緊急性です。壊れている自分、罪を犯している自分に対して、もう一度チャンスがあることを信じ今この瞬間向き合う姿勢です。このたとえ話でぶどう園の番人(ルカの福音書13:8)は明らかに悔い改めをするものとして描かれていますが、彼はいちじくの木を切り倒してしまいなさい(ルカの福音書13:7)という主人に次のようにに言うのです。「ご主人、どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」(ルカの福音書13:8) 悔い改めの象徴である番人はぶどう園に座って、またもう一年、何もしないで待つとは言っていません。木の周りを掘って、肥やしをやる、手を汚しながら、積極的に状況が改善するように働くと言っているのです。あと1年しかないというタイムリミットを感じながら、木に実がなることに全身全霊を注ぐ決意を持っているのです。 悔い改めにおいて、私たちはこの例え話と同じような姿勢で臨まなければいけません。明日悔い改める、来週悔い改める、来月悔い改める、来年悔い改める、実がなる時に悔い改めるそれではいけないのです。今日、この瞬間悔い改めなければいけないのです。木の周りを掘り、肥やしをやるーー今実際に自分の手を汚しながら、肥料の臭い匂いを感じながら、状況が改善するように努めなければいけないのです。 悔い改めの一環として今とは違う行動を取る覚悟がありますか?今このように神様は私たち一人ひとりへ悔い改めへの呼びかけをしています。その呼びかけに個人として、また私たちの教会のコミュニティの一員として応えますか?神様を感じられない状況にあったとしても、神様の導きを求め続け、その過程で他人を責めるのではなく、他人の欠陥ばかりに目を向けるのではなく、罪は自分ではなく他の人(達)が見つめるものと決めつけるのでもなく、自分自身の罪に向き合う姿勢、覚悟がありますか? 私たち自身が番人となって、木の回りを掘り、肥やしをやり、いちじくの木の再生にもう一年時間をかける覚悟はありますか?それとも番人が覚悟を持って再生に挑む姿を、客観的に見て、自分は手を汚すつもりはないのでしょうか? 私は私たち一人一人が番人のようになり、神様の導きを求めながら、悔い改めに導かれ、神様と共に再生の道を一緒に教会として歩む事ができるように祈りたいと思います。みなさんも私と共に歩んでくださる事を願っています。 とても興味深いことに日本の国会で「神学論議」という言葉が繰り返し使われたことがあります。しかしそれを口にした政治家たちは神学的知識には乏しく、ただ彼らへの反論は、結論のない、混乱と曖昧さしか産まないものだとバカにするために用いたのです。神学というのは「神の本質と宗教的信条についての研究」と言われますし、国会での発言はあながち間違ってはいないようにも思います。例えば、20世紀のスイスの神学者カール・バルトは「教会教義学」という書物全31巻を著しました。13世紀のカトリックの神学者トマス・アクゥイナスは「神学大全」という記念碑的名著をのこしましたが、それは一冊で読めます。ただしアマゾンのカタログでは1116ページとされています。しかしパウロがこれらの著作を読んだら、あるいは現代の神学者たちの様々な問題に対する議論や、今朝の私の説教を聞いたら、どう反応するでしょうか。言葉が多すぎ、理屈があり、そして曖昧過ぎる、となることでしょう。
というのも、パウロの根本的な神学的考え方は、とても単純で明解です。そしてその点を理解すれば、ローマの信徒への手紙という長いと思われる文書も、彼の中心点を、どの章からも、節からも単語からも、そして今朝読まれた今朝の聖書箇所からも、よく理解できるのです。 私はそれを「神の前の人間の罪深さ」と言うことができると思います。「だれ一人神の前で義とされないからです。」(ローマ3:20)。そしてこの点は、私たちの現在の状況、今日の諸問題にも大きな意味があります。罪深さというのはいろんな形で理解されます。ああ、私も曖昧な神学的説明を始めようとしていますね。今日の朝刊の第一面、見出しを見てください。戦争です! 人間はきわめて長い間殺し合いをしてきました。ウクライナの状況は決して新しいものではありません。人間の歴史は、戦争と殺し合いの歴史と言えるでしょう。21世紀に生きる私たちは、過去を克服し、平和と正義の新しい時代を予感することができると考えています。しかし、今日の状況は世界の歴史のあらゆる時代と同じです。例えば、1572年、「サン・バルテルミの大虐殺がフランスで起こり、5千人から3万人がその事件で殺されました。それは宗教改革の間に起こったひとつの事件で、戦いはカトリックとユグノー(フランスでのカルヴァン主義者)の間で起こりました。彼らはみなクリスチャンで、それぞれに神の名において自分たちの正統性を主張し、彼らの対立者を敵として否定したのです。彼らはどのように「敵を愛」せよ(マタイ5:44)というイエスの言葉を聞いたのでしょうか。そして私たちは16世紀の人々(クリスチャン)たちよりもずっとよくなっていると、どうして考えることができるのでしょうか。「足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。」(ローマ3:15-17) そこから別の罪深さが始まります。私たちは自分の本当の性質を見ることを否定し、自分たちは彼らよりもずっとましな存在で、かなり高い人間的な価値へと進歩し、達成している、自分たちは「文明化されている」と呼び、信じようとしています。進歩ってなんでしょう、私たちの社会の発展とは何でしょう。私たちは未来のどこに向かうのでしょうか。私たちは私たちのよりよい生活状態を創造するために十分な知性と知恵、それ以上に能力を持っているのでしょうか。私はそうは思いません。私たちは自分がなにかよりよい性質を持っている何者かであると偽っているのです。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」(ローマ3:13)。 パウロがこの手紙を書いたローマの教会には、民族的にことなった多くの人達がいました。そのなかでパウロは「ユダヤ人もギリシャ人も」(9節)に触れています。その彼らの間に、その信仰の内容をめぐって対抗心というか緊張関係がありました。ユダヤ人は、彼らの元々の信仰であったユダヤ教からの改宗者で、彼らの聖書である旧約聖書についてかなりの理解を持っていました。そこでパウロはユダヤ人たちのもつキリスト教信仰への誤解というか誤りを指摘しました。パウロ自身もユダヤ教からキリスト教への改宗者でした。彼もまた以前の信仰に大きなプライドをもっており、こう述べています、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ 3:6)だと。しかし、彼がクリスチャンになったとき、彼はそれら全てが「塵あくた」(8節)だと気づいたのです。どうしてでしょう。 ちょっと考えてみてください。教会の新しいメンバーと、あなたと、キリスト教についての知識においてどれぐらい差があると思いますか。あなたは教会の組織についてもよく分かっていて、経験もあります。そしてあなたとその新メンバーの差と、あなたと神様の差はどちらが大きいですか?そして神様の目からみると、私たち同士の違いなんて無いに等しいのですが、人間はそのゼロのような違いを強調したがってしまい、神様と私たちの考えもつかないような大きな違いを見ようとしないのです。そしてそのゼロのような違いが何か大きな意味をもっているなどと訴えるのも、私たちの罪深さなのです。私たちのクリスチャンとしてのプライドは、クリスチャンであろうとする私たちの努力や経験によるものではなく、私たちがどんなものであろうと、神様が愛してくださるという事実のみあるのです。 あるときイエスは「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねられました(マルコ12:28)。それに答えて「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(30節)と答えます。私たちは十分に神様を愛しているでしょうか。どうやって?お祈りをし、ときには神様のことを思います。いつものように今日の礼拝でも感謝と賛美を捧げますが、それで十分でしょうか。もしパウロのとても単純な仕方での神学に従うならば、それは神様にのみ降伏することです。あなたの自信を投げ出し、あなたが何かをする前にすべてを神様に委ねる事です。 デンマークの牧師であり神学者であるゼーレン・キルケゴールはその説教で、神様に仕えるためにまず第一になすべきことは、その前で沈黙することだ、と語ります。神様の前に静かに立ち、神様から本当の交わりが与えられるまで待つのです。神様の導きにヘリ下って忍耐強く、すべて降伏するのです。その後で、イエスが私たちに教えるのはその後に、第二の戒めとして「隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:31)と教えられました。そうなのです、根本的なことはただ単純なのですが、私たちの問題、むつかしさ、罪深さは、この基本点を無視し状態を複雑なものにしてしまうことなのです。 もし私がこのように説教をして語るなら、「現実の社会」にいる人たちは。「クリスチャンってなんて現実離れしているんだ」 祈るだけで何もしない、と。その時私は彼らにこう答えて問いたいのです。あなたは、自分の知的で複雑な理論、ちょうど国会で話題になった神学議論のようなもので、何ができるのでしょう? 現在の世界的な問題を、あなたの知己でどのように解決するのでしょうか? と。 クリスチャンとして今の世界的なむつかしさに直面するとき、神を信じ、平和のために祈るのみです。あるいは「戦争を止めよ!」と繰り返し、眼下に語るだけです。それ以上の細かな議論は私たちのやるべきことではありません。今日の説教を短いラテン語のお祈りで締めくくります。 「ドナ・ノービス・パーチェム」 主よ、平和を与え給え。 アーメン 祈りましょう:神様、私たちはあなたに降伏しきれない自分を悔いています。ほかの言い方をすると、常に「全地の造り主、万能の父なる神」と繰り返し告白しながらも、あなたを常に信じることがありません。今日このとき、私たちを真実にあなたを愛し、私たちの世界を真実に導かれるあなたを信頼させてください。今私たちは「ドナ・ノービス・パーチェム」あなたに祈ります。あなたが唯一の命と平和の源だからです。私たちの主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン 今日は四旬節の最初の日曜日ですが、こんなお話があります。ある司祭が暗い中、司祭館に帰る道すがら強盗に出会いました。銃を突きつけられ、"金か命か!"と言われたそうです。神父がコートのポケットに手を入れるときに聖職者用の襟が見えました。強盗は、「お前は神父か。それなら逃がそう」と言いました。神父が感謝しながらポケットからチョコレートバーを取り出して強盗に差し出したところ、強盗は「結構、四旬節でチョコレートをやめたから。」と答えたのです。 この物語の強盗のように、多くの人が四旬節の間に神に近づく方法を探し、また四旬節の間に何かをあきらめる人もいます。 四旬節とは、毎年「灰の水曜日」から始まり、日曜日を除いた40日間の期間のことです。 私たちは先週、KUCの灰の水曜日の礼拝を行い、四旬節をスタートさせました。 四旬節は、イエス・キリストの復活を祝うイースターに備え、断食、祈り、内省のために伝統的に設けられている期間です。 四旬節は霊的な刷新の時です。英語のLentは、古英語のlencten(「長くする」に関連し、春に日が長くなることを指す)の短縮形であり、2世紀頃に典礼暦の一部となるまでLentは「春の季節」という意味でした。 つまり、レントは魂の春の季節への誘いなのです。 この四旬節の40日間は、祈り、懺悔、信仰を新たにする、あるいは再活性化するための行為を通して、私たちを導いてくださるよう神にお願いするときなのです。私たちは神に、私たちの中に清い心を作り、正しい霊を新たにするようお願いします。(詩篇51:10)。 四旬節の間、何かをあきらめる人もいます。チョコレートやコーヒー、あるいはソーシャルメディアなど。 しかし、毎日の習慣を変えてみたり、何かを追加して新しいことにコミットすることもできます。私の知り合いは、四旬節の間毎日「感謝」を追加していました。別の人は「忍耐」を加えました。 ここ数年、私たちの教会では四旬節の間、ダニエルの断食(https://www.allrecipes.com/article/what-is-the-daniel-fast/ )を試している人がいます。この四旬節に別のことをやってみるのもどうでしょう。6週間、毎週一緒に祈るパートナーを見つけることです。祈りのパートナーは、あなたがやり遂げるのを助けます。あるいは祈りの日記をつけるのもいいでしょう。また別のアイデアは何らかの社会奉仕をすることです。自分なりの方法で四旬節を有意義なものにしましょう。 四旬節の最初の日曜日は、マタイ4:1-11とルカ4:1-13にあるキリストの荒野(ユダの砂漠)での誘惑の聖句を読むことから始まることが多いようです。 マルコの記述は非常に簡潔で、ただその出来事を記しているだけです。 (マルコ1:12-13)。ヨハネによる福音書では、誘惑は明確に言及されていませんが、この福音書の中でキリストは「この世の支配者」である悪魔が自分に対して力を持たなかったことに言及しています(ヨハネ14:30)。 良い言葉です。悪魔は私たちに対しても何の力も持っていないのです。神様はいつも、より強い方なのです。 ルカによる福音書ではイエスが洗礼を受けた後、聖霊に導かれて荒野に行き、そこで40日間悪魔に誘惑されたことが記されています。 さて、悪魔は多くのことで非難されています。C.S.ルイスが書いた「悪魔の手紙」という小説は、上位の悪魔が甥の悪魔に人間を誘惑し堕落させる方法を指導するという架空の面白い小説です。 時々、"The devil made me do it 悪魔が私をそうさせた!" と言う人がいます。欧米では一種の冗談として(あるいは本心から)言うようです。 例えば、「誘惑に負けて、自分を抑えきれなかったんだ!」というように。日本では旧暦の2月3日、節分の日に豆まきをします。 鬼の面をかぶった人に向かって、「鬼は外。福は内。」と言って一年の幸運を祈ります。特に、恵方巻きを食べるとその年の幸運がやってくると言われています。 真面目な話、自分ではどうしようもないことをやってしまう人もいるかもしれません。自分には責任がないと思っているのです。強迫的な買い物、アルコールの過剰摂取、強迫的な嘘、いじめやネットいじめ、コントロールできない怒り、言葉や精神的な虐待など、数え上げればきりがありません。もしそれが「悪魔のせい」なら、自分自身の行動に責任を持つ必要はないということです。 しかし聖書にはこのような悪魔憑きの事例があります。イエスが悪魔を男から追い出して豚のところへ行くように言ったのです。(マタイ8:28-34、ルカ8:26-39)。 しかし、私はその種の悪魔の話をしているのではなく、言い訳として使っているということなのです。神様は私たちに自由意志を持たせて創られました。 ですから、私たちの問題や人生の出来事を他人のせいにしたり、あるいは悪魔のせいにしたりするのは、簡単な責任回避の方法かもしれません。 私たちは悪魔を恐れることもまたできません。私たちは悪魔を笑うことができるのです。ある講演者が、女性会議の参加者に、「朝起きて、足が床についたら、悪魔が "Oh, no!"と言うような人間になりなさい」と言ったことがあります。「(あなたの名前)が起きた!」と言うような人間になりなさいと。 ですから、悪魔に目の前から消えろと言い、あなたの神である主を礼拝しましょう。神様はあなたを守ってくださいます。 イエスは悪魔を恐れません。 荒野で悪魔に出会います。 イエスは悪魔が投げかけるすべての誘惑を聖句で打ち消します。 (申命記6章から8章を参照)。 イエスはヨルダン川で従兄弟のヨハネからバプテスマを受けた後、御霊によって荒野に導かれました。 前の節でイエスの洗礼がいかに輝かしい場面であったかを読み取ることができます。イエスはバプテスマを受けるとすぐに水から上がられた。天が開かれ、聖霊が鳩のように肉体をもってイエスの上に下った。そして天から声がしました。「あなたは私の愛する子。私の心に適う者」(ルカ3:22) イエスはこの素晴らしく輝かしい洗礼から、不毛の荒野に入られたのです。 なんというコントラストでしょう。 なぜ行かなければならなかったのか、その理由は定かではありませんが、おそらくイエスにとっては、自分が何者で、どこへ行き、どのようにしてそこへ行くのかということに改めて焦点を合わせるための時間だったのでしょう。ですから、宣教が始まる前に行かなければならなかったのです。 イエスが生きておられた世界について触れておきたいと思います。ローマ帝国がイスラエルを征服し、彼らは常に迫り来る圧制的な力で、すべてに影を落としていました。 また、イスラエルの人々は、ヘロデ派、熱心派、サドカイ派、パリサイ派、エッセネ派の間で、ローマの圧制に対する対応が分かれていました。 イエスは宣教をするのに簡単な場所ではない世界に行くことになったのです。荒野にいることのほうが、当時の現実の世界よりずっとよく見えたかもしれません。 荒野にいることは、40日間食べ物がないことと、悪魔が彼に嫌がらせをし続けることを除けば、隠遁生活のようなものだったかもしれません。 皆さんは荒野を経験したことがありますか?孤立し、孤独になったことがありませんか?もしかしたら希望を失ったことがありますか?霊的な危機があったのでしょうか?あるいは予期せぬ悲劇的なことが起こったような危機ですか?自暴自棄になったことがありますか?落ち込んだ時? マルティン・ルターは落ち込んだとき、それをサタンの誘惑とみなし、古くからの敵に向かって「私は洗礼を受けている。私は洗礼を受けている。」と叫びました。 彼は自分がイエスに属しているという、自分のアイデンティティの確証を必要としていたのです。たとえ彼の信仰が揺らぐことがあっても、神の愛は揺らぐことはないのです。 人によっては、人生の中で何度も荒野に出たり入ったりすることがあります。荒野にいるのは簡単なことではありません。 荒野でイスラエルの民はうまくいきませんでした。40年間、イスラエルの民は荒野をさまよいました。 彼らは神に対して不平を言い、神がどのように彼らを養われたかを忘れ、カナンの王国の神々を追い求め、それが彼らを滅ぼしかけました。出エジプト記、民数記、申命記でその物語を読むことができます。 申命記8:2-6(NRSV)から、モーセがこれらの年月について民に語った言葉を聞いてください。 2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。 3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。 4この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。 5あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。 6あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。 イスラエルの民は荒野で苦闘し、ひどく訴えました。荒野の体験には、内なる荒野、あるいは私たち自身がそこにいる荒野など、異なったものがあります。 もしかしたら、あなたは自分が神から遠い存在だと感じていたかもしれませんね?あるいは、その間に神を身近に感じることができたのでしょうか?しかし、非常に困難な苦難から抜け出し、荒野にいた後に振り返ってみると、いかに神がそこにおられたかがわかることがあります。ある悲劇に直面した教会員が、その危機の間、神の力に圧倒されそうになったことがあると言っていました。 ある詩を紹介します。作者は不明ですが、この詩は第二次世界大戦中、ケルン強制収容所にいたユダヤ人が地下室の壁に書いたものです。 「私は太陽を信じる 光っていないときでも そして、愛を信じる 誰もいないときでも そして私は神を信じる 神が黙られていても どんな試練の中にあっても 道は必ずあると信じる しかし、時にはこの苦しみの中で そして希望なき絶望のうちに 私の心は庇護を求めて泣いている 誰かがそこにいることを知るために しかし、私の中で声が上がる、私の子よ、しがみつけ、 力を与えよう、 希望を与えよう、 もう少しだけそこにいなさいと。 私は太陽を信じる 輝いていないときでも そして愛を信じる 誰もいなくても 私は神を信じる 黙っておられていても どんな試練のなかにあっても 道は必ずあると信じる いつか陽の光がありますように いつか幸せが訪れますように 愛がありますように 平和が訪れますように. 平和がありますように。確かに、今ウクライナや私たちの世界の他の地域の状況を考えると、私たちは平和を祈ります。 私たちは、時に希望を失いそうになることがあります。 無意味な苦しみ、大きなストレス、うつ、病気、衰弱させる悲しみ、戦争、悲劇的な死などに直面し、「神はどこにいるのか」と叫ぶことがあるかもしれません。 私たちは荒野で迷っていると感じるのです。 どうすれば荒野から抜け出すことができるのでしょうか。 神に頼るのです。 言うは易く行うは難し、かもしれませんね。しかし、それが私たちのすることなのです。 私たちは神の力に頼るのです。 イエスは神の愛の力が自分の味方であることを知っていたので、荒野で誘惑に屈しなかったのです。誘惑は必ずしも悪いことではなく、それをどうするかということがしばしば問題になるのです。 最初の誘惑を見てください。荒野で40日過ごし、空腹を覚えて、石をパンに変えろと誘惑されたとき、イエスは神の言葉を使ったのです。「人はパンのみにて生きるにあらず」 (申命記8:3から引用)「主は、あなたがたを謙遜にさせ、あなたがたも先祖も知らなかったマナを食べさせることによって、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る一つ一つのことばによって生きることを理解させようとされた」)。聖書には神様と神様の約束があり、神様が私たちを愛し、決して見捨てないということを知らせてくれているのです。 次に、イエスは高い所に連れて行かれ、世界のすべての王国を見せられ、悪魔にひれ伏すなら、その権威と力をすべて提供すると言われます。この誘惑は単に権力を追い求める以上のものでした。それはイエスにとって全く魅力的ではなかったはずです。イエスが悪魔を崇拝しさえすれば、その力はイエスがこの世でよいことをするために使えると主張する誘惑でした。 その力は悪魔のものです。悪魔は自分がこの世をコントロールしていると言いました。恐ろしいことです。悪魔はこの世の力を自分のものとし、イエスにその力を渡すことができる、という意味です。(ルカ4:6)しかしルカ4:8でイエスは答えられます。「『あなたの神である主を崇め、ただ神に仕えなさい』と書いてある」。 イエスは申命記6章13節「あなたの神、主を敬い、主だけを礼拝し、その名によってのみ約束をしなさい」をそのまま引用されています。 イエスはこの世の権力を握ることをされず、完全に手放されました。福音書によれば、イエスは仕えられるために来たのではなく、仕えるために、そして他者の解放のために命を捧げるために来られたのです。 イエスの道は十字架に通じており、十字架は死を意味し、地位や権力を手に入れることを意味するのではありません。 イエスは弟子たちに、自分の十字架を背負ってついて来なさいと言います。イエスに従う者は、それが何を意味するかについて何の幻想も抱いてはなりません。 最後の誘惑では、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宗教世界の頂点そのものを象徴する神殿の頂点に立たせ、「神と試練の勝負をしろ」と言いました。「飛び降りたなら、天使があなたを捕えるだろう」(ルカ4:9-10、マタイ4:6)。聖書の中で悪魔が聖句を引用しているのはこの時だけです。悪魔は、詩篇91:11-12にあるこの聖句を使って、天使たちがすべての道でイエスを守り、倒れても持ち上げ、イエスの足を石にぶつけることさえさせないと言っているのです。 このような聖句の使い方は危険です。シェイクスピアが「ベニスの商人」(第1幕第3場99行目)で言っているように。「悪魔は自分の目的のために聖句を引用することができる」。 教会にとっての教訓は、悪意が聖書の引用によって裏付けられるということです。民族の抑圧、戦争、虐待は、しばしば聖書の引用によって支えられてきたのです。 私たちは、何を言っているのか、誰が言っているのかを識別し、耳を傾ける必要があるのです。私たちは誘惑に耳を傾けているでしょうか。人は利己的な目的のために聖句を利用することがあります。 正しいことと間違ったこととの選択は時に容易ではなく、どちらの道を取るべきかを知ることです。 イエス様はこの誘惑の中で、なぜ強くいられたのでしょうか。それは自分が何者であるかを知っておられたからです。彼の耳には、"あなたは私の子、愛する者、あなたに私は満足している"という声が響いていたのです。 私たちは神様に愛されています。 私たちには将来がどうなるか、あるいはどのような困難に出会うかは知り得ません。 しかし私たちが知っているのは、神様がそのような困難の中でも私たちと共にいてくださるということです。主は荒野の一歩一歩に私たちと共にいてくださいます。 私たちは一人ではありません。 神は私たちと共におられるのです。 「あなたは私の子、私の愛する者。あなたにあって私は喜ぶ」と。 祈りましょう。 神様、私たちが見識と理解をもって自分の心を注意深く見つめることができるように助けてください。あなたが私たちを愛し、無条件に受け入れてくださることを知り、私たちがそこに見出したものを認めることを恐れませんように。 神様、あなたの道を教えてください。この世の力ではなく、あなたの愛の力によって、私たちが活かされますように。そして、あなたの御霊に同調し、あなたの望まれることを、あなたの望まれるように行うことができますように。アーメン。 |
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May 2024
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