「新しい契約の何が新しいのか ― すべては変わる そしてその意味するところ」 神戸ユニオン教会 ― 2021年4月25日 ヘブライ人への信徒への手紙 10:16-18 説教者:チャック・グラフト牧師4/25/2021 聖書箇所:ヘブライ人への信徒への手紙 10:16-18(詳訳聖書)
「『それらの日の後、わたしが彼らと結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き(心の内を変えるよう)、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』罪と不法の(完全な)赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」。 カリフォルニア州ロングビーチからこんにちは。今日の説教は今月のテーマである「新しい始まり」に沿ったものです。 どれほど多くの教会用語や句を自分が使っているかを日本に行ったときに発見しましたが、それが神とともに歩む私の生活の中で大いに役に立ちました。英語ではなく日本語であっても日本人の友人には教会用語の意味が理解できませんでした。贖い、救い、罪とは何か。こういう言葉をうまく説明する必要があり、それがその後の私の役に立ちました。以後、神の真実について語るとき相手にわかるように、また自分のためにも別の言葉を探して話します。 子どもの頃から教会に通っている人には、一種の不利な条件があると最近思い始めました。不可解なようですが実はこういうわけです。自分が持っているものを軽視し、おそらく完全には理解していないのです。なぜなら正しい教会用語をよく知っているのに、自分のものになかなかならず、自分の心の中に実在していないからです。 私は子どもが好きで高校生の時、日曜学校の小学3年生のクラスを教えていました。ある子どもが質問に対していつも「イエスは主である」とか、決まりきったアーメンの句を答えました。答そのものはよい答ですが、質問に対しては見当違いでした。高校生だった私はその質問と答のちぐはぐさに笑いましたが、その時初めてその不利な条件の意味するところに気がつきました。つまり真実を自分のものとしてよく理解していなければ、真実を失ってしまうのです。 そこで今日は重要な考えであり言葉である「新しい契約」について考えてみたいと思います。まず「契約(covenant)」とは何でしょうか。covenantは普段の会話の中で使う言葉ではありません。契約には新約聖書、旧約聖書でそれぞれ新しい契約と古い契約がありますが、契約(covenant)とは他の言葉で言い換えると合意とか取り決めとか約束です。 数週間前、Kwame兄が創世記から現在までの信仰の歴史について、そしてなぜイエスは死に、どのように私たちは恩恵を受けているかについて上手に要約しました。それがとてもよかったのでここで簡単に復習してみると、古い契約、つまり取り決めには基本的に600以上のすべきこと、すべきではないことがありました。イエスが生まれた頃には、当時の教会はそれ以上にもっと多くの事柄を付け加えたので、人が良しとされるのは非常にむずかしくなりました。 古い契約には動物の献げ物についても書かれていましたが、その制度の中では規定通りに献げられた動物の血によって、契約に違反した罪が清められました。 その後イエスが現れて教え始めた時、状況は変わっていきました。私たちは殺人や姦淫を犯していないからという理由で自分は良しとされると感じていたかもしれませんが、イエスは契約をまったく違う次元に持っていきました。 ここでイエスがいわゆる教会産業を混乱させていると思われる箇所を見てみましょう。 マタイ5:21-22 (詳訳聖書) 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に(軽蔑と侮辱をもってして)『ばか』と言う者は、最高法院(サンヘドリン)に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」 この箇所についてイエスは多くを語りましたが、それは新しい契約、新しい制度に対する神のご計画を神が成就させるという趣旨において、イエスは契約をより簡潔に、しかしより難しいものにしました。 次の聖書箇所は、今朝Tambaが読んでくれたヘブライ人の手紙の部分です。フランス語はとてもきれいでいいですね。 神はヘブライ10:16の中でこう言われました。 「『わたしの律法を彼らの心に置き、(心の内を変えるよう)彼らの思いにそれを書きつけよう』」 これはいいですね。これならずっと簡単です。私たちは恵まれていると言えますが、非常に困難な状況にあったユダヤ人からすると不公平です。私たちは神の子どもとされ、重荷を担うことなく善いものを与えられています。 神は続けて次のように言われます。 「『もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』罪と不法の(完全な)赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」 これは律法を守るのに苦しんだことのない私たちにとっては、賞金のくじに大当たりしたけれどもそれを知らないでいるのと同じようなものです。タイプライターを持っているからと言ってパソコンのありがたさをわかっていないのと同じです。または旅先で紙の地図を広げて目的地までの行き方を調べている人が、スマホの音声で尋ねるとすぐにシドニーの家に行く道を教えてくれるSiriのありがたさを知らないのと同じです。 次に私にとって最高の例えをこれからお話しします。貧しい家庭で父親がいない困難な状況で育った親友の話です。彼は私の知っている中で最もやる気にあふれ最も勤勉で最も成功したうちのひとりです。彼の子どももすばらしく、きちんと育てられました。彼が自分のつらい家庭環境から抜け出してどれほど努力してここまで来たかを子どもたちが知っていたらいいのにと思いますが、子どもたちは知りません。彼の4人の子どものうちふたりは、学生ローンも借りずに私立の全寮制高校からイエール大学に進みました。人生は不公平だと思うかもしれません。でもこの例え話で私が言いたいのは、親の苦労を知らずにイエール大学に進んだまさにその子どもこそが私たちのことなのです。だから喜んでください。 そういうわけでこれは大きな論題であり、聖書にある様々な契約を勉強しようとすると1年かかるでしょう。この新しい契約をよく理解し、喜ぶべきものであるのを知るには時間がかかります。そのことについて書かれているローマの信徒への手紙7章と8章についても、私はまだお話しできていません。 もうひとつお話ししましょう。この数か月間のメッセージの引き金となったものです。 古い契約をどう解釈すればよいか。どういうふうに自分に当てはめればよいのか。いろいろな教派や教会の中には解釈の幅があります。たとえば私の友人が多いセブンスデー・アドベンチスト教会の解釈は、そのうちの一解釈ですが、それは人の行いによってではなく、イエスが私たちのためにされたことを信じることによって救われるので信仰のみで十分である、しかし安息日を守ることやその他多数のこともまた重要である、というものです。どうでしょうか。 使徒言行録において初期の教会で議論されていたことも同じようなことでした。異邦人、つまりキリスト教に改宗した非ユダヤ人のことですが、彼らに律法や教えにどの程度まで従うよう言うべきか、少なくとも割礼は受けさせるべきか、ということが当時の大問題でした。 新約聖書を全部読んでみればその議論されているうちの何も必要でないことがわかります。日々の深い信仰とキリストによって変えられた心だけでよいのです。しかし初期の教会では彼らに4つのことを守るように言いました。そのうちの3つは、血のついた肉を食べないことに関連しています。現代から見ると気持ち悪いことですね。 後にパウロはこう言っています。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出される。何もなさない」。 割礼は必要ないと言っているようです。それでも聖書を読んでいくとわかりますがテモテは後に割礼をしました。 ここで詳しくお話しする時間がないのでダイジェスト版で要点を話すと、すべては愛に立ち返ります。隣人を愛する、自分よりも他人のことに気を配る、小さなことで人を判断したり批判したりしない。兄弟のために批判せずに実行できますか。あの人やこの人のために実行しましょう。そういう取り決めだからという理由からではなく、愛するためにそうするのです。 私が難しいと思うのは、誰もが神に腹を立てたり神の言いつけを軽く受け流したりしたいとは思わないし、神の言われることには好むと好まざるとにかかわらずそこに立って同意するべきだと思っていることです。悲しいことに多くの人が正しいフィルターを通さずに、旧約聖書から持ってきたものをそのまま新しいものに当てはめようとしています。ところが実は旧約聖書は新約のフィルターを通して理解されなければなりません。 例えていえば、3Dの映画を観たことがありますか。3D用の特別なメガネが必要で、メガネなしに映画を観れば変な感じがして気分が悪くなります。しかしメガネをかければまったく違う風に見えます。同じように旧約聖書もイエスというレンズを通して読むべきなのです。そしてイエスが死んで復活した後、新約聖書ができてすべてはすっかり変わり、より簡潔になりましたがより難しくなりました。そこでは何を知っているかではなく、誰を知っているかが大切なのです。 私はある話を先週のSermon lab(バイブルスタディグループの名前)で紹介したのですが、今日の説教に関連するので再度お話しします。 ケリーと私はカリフォルニア州レディングにあるベテルという教会に6年ほど通っていました。世界中の人が癒しを求めてやってきて多くの人が癒されていました。 その当時10年以上一緒に働いていた人が、自分はエイズなのだと私に打ち明けたので彼を気の毒に思っていました。それでベテルの教会で祈ってもらうために彼をアメリカに呼びました。彼はよく働いてきたので一種のボーナスとして私は喜んで彼を家に泊め、観光に連れて行きました。彼は最初ロサンゼルスに到着したので、私が以前時々行っていた感じのいいカルバリー教会に連れて行きました。その日曜日はちょうどゲストスピーカーが来ていたのですが、なんと「ゲイの問題」についてゲイに反対する話でした。私は屈辱を感じ、これはひどいと思いながら衝撃を受けて座っていました。彼は陥れられたと感じたかもしれません。今まで一度も彼の生き方について話し合ったたことはありませんでしたが、私が彼を気に入っていて感謝もしているし、彼の生き方に私が混乱しているわけでもないと彼が知っていてくれればと思いました。つらいことでしたが彼は私が考えていることをわかってくれていました。私は残念に思うと言いましたが、多くの人がゲイの問題に混乱しいろいろなことを言い過ぎます。 私自身はゲイの問題についてどう考えるか立場を表明していませんが、はっきり言えるのは私はすべての人間を愛しているということです。 その後、彼を連れてレディングのベテル教会に行くと、たくさんの愛があって助かりました。しかし非常に大規模な教会で人も多いので、いろいろなタイプの人がいて難しいことが起こるかもしれないと思い、私たちは癒しの部屋と呼ばれる部屋に行きました。この部屋には週末に世界中から何百人もの人が癒しを求めてやって来ます。私は彼の通訳をしながら彼の横に立っていました。彼のために祈るはずだった夫婦のうち女性が、彼に腹を立てたように言いました。「つまりあなたは同性愛者で、あなたが癒されるよう私たちが祈るとでも思ったわけですか」 何ということだ。私は衝撃を受け、まず口をついて出たのが「ああ、物分かりの悪いガラテアの人たち」で、それから我知らずガラテヤ3:5を引用してつぶやいていました。 「あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」。 その通りでしょう。私は心をかき乱されましたが、神も同じだと感じました。 私はこの教会の主牧師をよく知っていますが、私の日本での事業を応援してくれている愛情に満ちた人でした。そこでその大規模教会の巨大な会堂の中を走って前方の祭壇の方へ行き、主牧師にそれまでの話をしました。牧師は、それは気の毒なことだったと言ってシゲキのために喜んで祈ろうと言ってくれました。 そのとき、いかにも昔ながらの頑固で、保守的な人間に見える教会員のひとりがシゲキに話しかけるのが見えました。(あなたが頑固で保守的な人だったらすみません。でも私の義理の息子は頑固で保守的な人間ですが素晴らしい人です)ああ、まずいことになった。ここはカリフォルニアのレディングで、テキサスや多くのアメリカの地域のように、白人しか住んでいないしゲイもいない…と住民が思っているような町です。あの教会員は年配で、年季の入った超保守的な人だろうから何を言い出すかわからないと思い、友人のもとに走って行きました。それで友人は話をやめて私のところに来ましたが、目が合った時、彼の目から察して何事かが起こったのがわかりました。ああ、今度は何を言われたのだろう。それで彼に聞いてみると、その年配の教会員の人は彼にこう言ったそうです。 「私は君のことを知らないし君も私のことを知らないよな。でも君に伝えるようにと神が私におっしゃった気がしたんだよ」。その教会員は続けて私の友人に言いました。「神は君をご存じだよ。神が君をお創りになったのだから。神は君のすべてをご存じだし、神はあるがままの君を愛しておられる。神は君にこう伝えるよう私におっしゃったんだよ」。 何ということでしょう。ああ、私はこの話をすると必ず泣いてしまうし、神も泣いておられると思うのです。 いわゆるゲイの問題について私は意見を持ちません。多くの人は旧約聖書の中の律法や聖書句を根拠にして人を厳しく責めますが、それは旧約聖書を新しい契約のフィルターを通さずに解釈するからです。私にとっては新しい戒律ともいえる「お互いを愛すること」が、昔の律法にとって代わりました。私たちが恵まれており感謝すべきなのは、私たちがするべきことはただ神を愛することと、互いを愛することです。私たちは本当にそうしなければなりません。また、疑いの心を持つと愛に関して思い違いをすることもあります。あのときレディングの教会で、神が私の友人に神の愛を分け与えてくださった時、最もふさわしからぬ人であるように見えたあの年配の教会員を神が使われたことに、私は喜んでいます。 では祈りましょう。
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祈りましょう。私の口のことばと、私達の心の思いとが御前に、受け入れられますように。我らの岩、甦りのキリストの御名によって祈ります。アーメン(詩編19:14)
結婚1年目、私の夫であるドンと私は既婚者の集まりに参加していました。そこで私たちは他の夫婦と交流し、お互いについて、そして結婚の意味について共に学びました。一緒に食事をしたり、交流をしながら他の既婚者と一緒に過ごすのは楽しい経験でした。 この集まりは結婚生活で起きるチャレンジについても話す事ができる安全な場所でもありました。結婚生活で直目する様々な問題というのは、他のどんな人間関係の間でも起こり得ることだと思います。 私たちがこの集まりで読んだ本は。。。本の題名を忘れてしまっている事を告白させて頂きますが、その本の中では、男女の違いについてたくさん書いてありました。その中で1つだけ私が鮮明に覚えていることがあります。 それは、問題に対しての対処方法が男女間で大きく異なる傾向があることについての記述です。一般的に言うと男性は問題を「修正」する傾向があり、女性は直面している問題について誰かに話を聞いてもらう事を好みます。 もちろんこのような考え方に同意していないわけではありませんが、実際のところ、物事は必ずしも白黒つけれるものではなく、性別に固有し、考えるものでもないと思っています。男性だって直面している問題の話を聞いて欲しい場合もありますし、女性でも問題を「修正」したい場合もあるでしょう。 ここで重要なのは、コミュニケーションには様々な方法があるという事だと思います。「愛を伝える5つの方法」という有名な本があります。読んだ事がある方もいらっしゃるかもしれません。著者であるゲーリー・チャップマンという心理学者兼牧師は、この本の中で愛を伝えることと受け取ることの両方の観点から一般的に5つの異なる愛情表現があると説明しています。 著者によると5つの「愛情表現」とは、身体的な接触(フィジカルタッチ)、贈り物、奉仕の行為、肯定の言葉、そして質の高い時間(クオリティタイム)です。チャップマンは、人は通常これらの愛情方法うちの1つまたは2つを通じて愛を表現し受け取ると言います。 2人の人間が同じ愛情表現をを使っていれば、本当に素晴らしい事だと思います。贈り物を通して愛を表現するのが好きな人が、贈り物を贈り、贈り物を通して最も愛を感じれる人がそれを受け取る。それは波長がピッタリ合う素晴らしい愛情表現の瞬間だと思います。 しかし、2人が同じ愛の表現方法を使わない場合、時に対立や困難を招くことがあります。例えば、贈り物を通して愛情表現をする人がいるとします。贈り物を受け取ることで最も愛を感じれる人が受け取れば最高ですが、贈り物を受け取る側が別の形での愛情表現を望んでいたらどうでしょう?例えば、質の高い時間や奉仕されることを望んでいる場合。その場合、表現した愛が意図したように、受け取られない可能性があります。 そのような時、一人ひとりがどんなに善意を持っていてもコミュニケーションに困難や、障害が生じます。 これらの5つの異なる愛情表現ついて考える時、神様が私たちにどのような表現方法で愛を伝えるのか、神様の愛を私たちはどのような形で受け入れているのか、また私たちがどんな愛情表現を使って神様に私たちの愛を伝えるのかという事を考えるのは興味深いことだと思います。 神様はおそらく本に出てきた5つの愛情表現全てを使われるだけでなく、またそれ以上の愛情表現を使われていることでしょう。 イエス様は明らかに身体的な接触(フィジカルタッチ)で愛を伝えました。彼はハンセン病患者に触れ、長血に苦しむものに手を置き、社会的に汚(けが)れているとされ、人々から触られることのない方々に触れることで愛を示しました。(マルコの福音書1:40-45、ルカの福音書8:43-45) 神様は、神のひとり子であるイエス・キリストの死と復活を通して私たちに与えられた新しい永遠の命の贈りものを通して私たちに愛を示しました。 イエス様は仕える指導者であり、弟子たちの足を洗う行為を通して愛を示しました。当時それは使用人や弟子たちによってのみ行われる行為で、イエス様のような先生の立場の者がする行為ではありませんでした。(ヨハネの福音書13:14-17) イエス様は仕えられるよりも仕える方が良いと教えました(マルコの福音書10:45) 「祝福されている」で始まるイエス様の山上の教えの中にある至福の教えは肯定の言葉でいっぱいです。「心の貧しいものは幸いです天の御国はその人たちのものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイの福音書5:3-4) イエス様の宣教の日々は、多くの人がイエス様を求めたのでとても忙しいものでした。しかし、イエス様は時間をかけることを惜しまず、立ち止まり、社会から拒絶されていた人々と交流の時をもっていました。例えば、抑圧的なローマ政府のもとで税金を徴収していた取税人のザアカイ(ルカの福音書19:1-10)や、人種と男性との関係が原因で嫌われていたであろう井戸の女(ヨハネの福音書4)など。 神様は様々な方法で愛を示してきましたが、神様が私たちに対し愛を示すさまざまな方法を通じて、私たち自身が神様の愛をどれほど真に深く受け止めれているのかを私はよく疑問に感じます。神様はこのように、様々な方法で私たちに愛を伝えますが、私たちは本当に神様の愛の深さ、高さ、そして大きさを受け取っているでしょうか? イエス・キリストの人生とは受肉された(具現化された)神の愛の現れです。つまり、神の愛は実際の人間の形になり、イエス・キリストの人生と宣教を通して私達に示されました。神様は私達に対する愛を、究極的に十字架と復活によって表されました。私たちの罪のために支払うべき代償は、十字架でのイエス様の死によって取り扱われ、イエス様はは死から甦りました。これを通して、私たちは新たな命と永遠の命をキリストを通して得ています。 神様が私たちのために何をしてくださったかを私たちは知っていて、理解していると思います。受難日を覚え、イースターを祝い、イエス様が死んで、甦られたことを理解しています。 しかし、もう一度言いますがその愛をどれだけ私たちが心から理解できているのでしょうか?実際にその愛を受け取り、私たちはそれに応えているでしょうか?神様の愛を受けた直接の結果、私達には大きな変化がありますか? 本日の聖書朗読箇所で私たちはヨハネの福音書から、復活したキリストに弟子たちが初めて出会う有名なイースターの一節を読みました。 マリア、ペテロそして他の人々がイエス様の墓が空であることに気づいた、恐ろしく混乱に陥ったイースターの朝を過ごした同日の夜、弟子たちは家に閉じこもり隠れていました。彼らはマリアから彼女がイエス様をこの目で見たと聞いてはいたもの、とても恐れていました。弟子たちはユダヤ人、特にユダヤの宗教指導者達がイエス様にしたこと(捕らえ、十字架の処刑に処する)を弟子たちにも行うのではないかと恐れていたのです。 恐怖と恐れの中にある弟子たちに、イエス様は復活した体で鍵のかかったドアを通り抜け、部屋の真ん中に現れ、弟子たちの間に立ちます。弟子たちに挨拶をし、自身がイエス本人であり、実際に死から蘇ったことの明確な証拠を彼らに見せるのです。 イエスの体にはまだ犠牲を払った痕跡が残っています。手には釘穴があり、横腹には最後に兵士の1人から槍で突き刺された痕が残っていました。(ヨハネの福音書19:4) 聖書には、弟子たちは復活した主を見て喜んだ(ヨハネの福音書20:20)とあります。 弟子たちは自分たちが目にしているものが重要であり、イエス様が死から甦ったことは理解しましたが、これが神様からの愛の表現であることをまだ理解していなかったようです。今日のの朗読箇所にはで神様が弟子たちを愛されたという記述はありません。 しかし、この箇所をもう少し注意深く読むと、イエス様が彼らへ深い愛を示し、弟子たちが個人的に見て理解できる方法でその愛を表現しているのを垣間見ることができると思います。 恐れや疑いという感情は自身を閉じ込め、現状の考えから抜け出せなくしてしまいます。弟子たちがいた鍵のかかった部屋のように、これらの感情は私達を凝り固まった考え方に縛り付け、他の視点から物事を見るのを非常に難しくし、神様が世界でどのような働きをしているかという真実を見るのは難しくさせてしまいます。 イエスは宣教を通して、恐れることはないと折に触れ言われました。イエス様は弟子たちに今後やってくるかもしれない歓迎されない状況や迫害を恐れないように伝えました(マタイの福音書10)。イエス様は弟子たちに神の声を聞くことを恐れないように伝えました(マタイの福音書17:7)。弟子がイエス様が水の上を歩くのを見た時には、「恐れることはありません」(マタイの福音書14:27)と言いました。 それに加えて、イエス様は時に、恐れ、心配、そして癒すことができない事に繋がったのは弟子たちの信仰が足りなかった事について話をしました(マタイの福音書6:30, 8:26, 17:16-17)。 しかし、今日の朗読箇所では、弟子たちに恐れと疑いがありますが、イエスはこれらの事を責め立てたり、釘を刺したりすることはしません。 代わりに、イエス様は恐れと疑いに満ちた弟子たちに対して、「平安があなたがたにあるように」と言います。イエス様は、「戻ってきましたよ!」や「生きてます!」または「言った通りでしょ!」と、自分自身のことを強調することは言っていません。むしろイエス様は弟子たちの恐れと疑いの中にいるのを理解しているので、彼らの恐れと疑いを優しく受け入れるためにやって来たのです。 イエス様は「平安があなたがたにあるように」と言われました。(ヨハネの福音書20:19) イエス様は十字架で死ぬ前に弟子たちに「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」と言われました(ヨハネの福音書14:27)。この「平和」はイエス様が今この瞬間に彼らにもたらしているものではありません。すでにイエス様が殉教する前からそれは弟子たちと共にあったのです。イエス様は弟子たちにその平安を受け入れ、彼らがすでに直面している恐れや疑いと一緒にそれを受け入れるように促しました。彼らの感情を否定したり、押しのけようとしたりすることはありませんでした。 この箇所で描かれているイエス様はとても優しく、思いやりに溢れています。弟子たちの経験を否定したり、彼らが抱いている感情を正そうとしたりはしません。私たちの誰もがやった事があったり、された経験があるような、問題に直面している人に対して「そんな事しないほうが良いよ」と、あたかも感情や、思いを否定したり、解決策を提示するかのような言葉を投げかけるようなこともしません。 でも彼らを放っておくわけでもありませんでした。 キリストは単に弟子たちにキリストの平安を優しく思い出させます。ここでの平安とは心の中での争いがないことを意味します。感情と経験が対立する必要がないことを意味します。彼らの恐れや疑いと同時に存在することのできる、人間の感情を包含する、人間の理解を超えた神様の平安です。 恐れの感情を抱いている弟子たちに非難を与える事はしません。イエス様は「私が恐れるなと言ったのに、なぜあなたはまだ恐れているのか?私が戻って来ると何度も言った後でも信じないのか。」と言ったりはしませんでした。 非難はありません。復活後の弟子たちへの最初のイエス様の言葉は「平安があなたがたにあるように」です。そして、今日の朗読箇所でもそれが3回繰り返されています。(ヨハネの福音書20:19, 21, 26)弟子たちが恐れを感じたり、疑ったり、または喜んだりする中で、イエス様は主観的な人間の思いと同時に存在できる、更にそれらを超越することのできる神の平安について伝えたのです。 31節(ヨハネの福音書20:31)は、福音の中に記録されていること以外にも、イエス様が弟子たちの前で他の多くの示しを行ったと記されています。福音の中、特にヨハネの福音の中には人々がイエス様を信じるきっかけとなる、奇跡や示しを行うイエス様に関する言及がたくさんあります。 水をぶどう酒に変えられたカナでの結婚式(ヨハネの福音書2:1-11)、5000人を食べさせた奇跡(ヨハネの福音書6:5-14)、病気や身体の不自由な人々への癒しなど。これらは人々がイエス様を信じるようになるために、イエス様が行った示しです。 しかしイエス様は29節(ヨハネの福音書20:29)で、「見ずに信じる者は幸いです」と述べています。これがイエス様の観点です。ヘブライ人への手紙では「信仰は目に見えないものを確信させるもの」と定義されています。(ヘブル人への手紙11:1)。イエス様も進行についてこのように考えているのです。 信仰についてのこの究極の真理を知っているにも関わらず、イエス様は弟子たちが再び信じることができるように、彼は弟子たちに手のひらにある穴と、横腹にある穴を見せました。さらにトマスにはその穴に指を入れるようにと呼びかけました(ヨハネの福音書20:27)。 イエス様は再び弟子たちの前にやってきて、弟子たちに対して信仰の不十分さを指摘したり、恐れている事を非難するのではなく、弟子たちがイエスの愛を感じることが出来るように示し、話されました。イエス様は彼らの恐れと疑いに思いやりをもって、そして愛で応えたのです。 イエス様は信じるのに「見る」必要がないことを知っていますが、弟子たちと一緒に信仰の道を弟子たちのペースに合わせて歩んでいるのです。イエス様は信仰がプロセスでもあり得ることを認めています。それは、人が信じるようになるために通る道です。(ヨハネの福音書20:31)。 イエス様が弟子たちに話しかけ、彼らを導く方法は思いやりと愛に満ちています。イエス様は今日の箇所で弟子たちを愛していると明言しませんが、イエス様の行動と言動を見てみるとそれは愛に満ちあふれていることがわかるのではないでしょうか。 イエス様は恐れと疑いの中にある弟子たちに会い、神様の平安が彼らと共にあるということを思い出させます。イエス様は信仰の旅路の中にある彼らと共に歩き、彼らが困難を覚えていることに関し非難をするのではなく、そのまま受け入れられるのです。 イエス様がこのように弟子を愛し、このように彼らの恐れや疑いに応えた結果は何が起こったでしょう? それは信仰における成長です。弟子たちの信仰は強められたのです。 イエス様は愛をもって弟子たちのところに来られ、その愛を弟子たちにわかる形で表現されました。その結果、弟子たちはイエス様の復活を確かめるために、触れることは必要ない、信じるという信仰を強めたのです。イエス様の復活した体を見た時、弟子たちは信じることが出来たのです。 イエス様は穴の開いた身体を見せ、トマスに手と横腹の穴に指を入れる機会を与えました。しかし、その瞬間トマスはそのことをすることなく、イエス様を「私の主。私の神!」と呼んだのです(ヨハネの福音書20:28)。イエス様に触れることなく、イエスを見ただけで信じることができたのです。 これは小さな出来事に思えるかもしれませんが、恐れや疑いを持っている人にとって信じるという事はとても大きな一歩です。イエス様は信仰は旅路であることを知っていて、忍耐深く弟子たちが歩む旅路を共に歩いているのです。 もちろんこれはイエス様が真理を「曲げる」ということや、信仰とは何かという現実から彼らを過保護に守ることを意味するものではありません。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」と言うことを恐れません。イエス様は自身が父から遣わされたように、弟子たちが安全な鍵のかかった部屋から、それほど安全とは言えない世界に遣わされるのだと彼らに告げています(ヨハネの福音書20:21)。 イエス様が話す時、そこには常に愛があります。イエス様は弟子たちと共に歩き、話し、彼らはイエス様のものであると伝えます。私たちが本当に恐れ、疑いに満ちている時、イエス様の応答は思いやりと愛に満ちています。 そしてこの様に愛情を持って取り扱われることによって、私たちはより大きな信念、より多くの真実、より多くの信仰と信頼に向かって少しずつ前進することが出来るようになります。そして私たちは成長しはじめるのです。 イエス様は私たちが受け取れる限りの愛情表現を通して、私たちのイエス様の愛を伝えてくれます。おそらく私たちが定義するよりも多くの愛情表現を持っていることでしょう。 今年、神戸ユニオン教会は創立150周年を迎え、祝福の時にあります。世界から人々を迎え続けて1世紀半。これは神を祝い、感謝するための美しい功績です。 同時にこの多様性はお互いにコミュニケーションするのを難しくもさせます。前述したように、愛を表現したり受け取ったりする方法は様々です。文化、人種、言語、社会経済、神学的な違いを加えるとこのような状況においてのコミュニケーションはさらに難しくなります。 しかし、今日の聖句が私たち全員にインスピレーションを与え、イエス様が弟子たちの恐れや疑いに思いやりをもち、そして愛情を込めて寄り添ったことを思い出してください。イエス様は弟子たちを非難したり、突き放したり、軽蔑することはありませんでした。思いやりと愛をもって彼らに会いに来たのです。 イエス様は弟子たちにイエス様が好む愛情表現やコミュニケーションの方法でイエス様と話すことを強要したりはしません。逆にイエス様は弟子たちに愛を示し、弟子たちがそれを最もよく受け入れる事ができる方法で、彼らが見て、プロセスできる方法で寄り添う事をいとわなかったのです。 それが真の思いやりです。人の側に寄り添い、相手にこちらに来るように頼むのではなく、あなたから愛を必要としている人の側に行くのです。 それが愛です。 教会のコミュニティ、家族、職場、学校、友達、親戚や隣人、あるいは神が私たちの人生において出会わせてくださる人達にこの様な愛をどうやって伝えることが出来るでしょうか? 考えや感情を処理したり、伝えたりすることにおいて異なる方法があることを考えてみましょう。対立が生じた時、私たちは立ち止まって、相手は私たちとは違う方法で物事を表現したり受け止めたりしているのではないかと考えてみましょう。 きっと彼らは別の愛情表現を用いて話しているだけで、私たちがまだ理解していない方法で愛や懸念を示そうとしているのではないでしょうか。私たちの間に、コミュニケーションスタイルや、愛情表現の方法に違いがあることを自覚する時、相手がよりよく理解できる方法でコミュニケーションをとることができますか?相手が私たちのところに来るべきだと主張するのではなく、彼らのコミュニケ―ション方法で話し、理解できるように私たちが自身を適応させ、変えることができますか? もしかすると、あなたはこれらの質問に対して「はい」と答えるかもしれません。肯定的な言葉や贈り物を与え、時間をかけ、奉仕をし、必要な時には抱擁をすることを決して怠らない、ありとあらゆる形であなたは愛を表現している。けれどもそのすべての努力の中であなたは自分自身が同じように愛を受けているようには感じない。そのように思っている方がおられるかもしれません。 もしそうだとしたら、今日、神様があなたに愛をどのように示しているのか考えてみませんか。もしかしたら神様の愛はあなたが好む方法で表現されてはいないかもしれません。別の方法、もしくはあなたが予期せぬ方法で愛が示されているかもしれません。 もしかすると神様は自然の美しさを通してあなたに愛を語っているかもしれません。または、神様はあなたに贈り物をするように誰かを促し、愛を伝えようとしているかもしれません。または、今まさに神様はあなたと静寂の中で、質の高い時間(クオリティタイム)を共に過ごしているかもしれません。もしかすると、神様はあなたに誰かを赦すことを求めているかもしれません。それを通してあなたがどれほど神に赦され、愛されているかを伝えようとされているのかもしれません。 神様は私たちに他人と愛を分かち合うように、相手が望んでいる方法で愛を示すように伝えています。同時に、神様は私たち自身が神様の愛を受け入れるように呼び掛けているのです。 言葉を使うだけでなくとも愛を伝える方法はたくさんあります。私たち自身が固執する独自の方法での愛情表現を脇に置き、変わりに相手が受け取りたいと望んでいる愛情表現に耳を傾け、注意を払うことを選んだイエス様の様になることができますように。 神様の愛はここにあり、様々な形で、予期せぬ形でも私たちに与えられています。イエスを模範として私たちが神様の愛の受け手でもあり、与え手でもあることができますように。 アーメン。 イースターの第2日曜日にKUCへようこそ。私たちはまだイースターの季節、またはイースタータイドと呼ばれる時期にあります。イースターの季節は、今年5月23日にあたるペンテコステまでの50日です。
初期のクリスチャン教会では、クリスチャンはキリストにある新しい生活を始めることを望んでいたので、イースターに新しい始まりを見つけることを望んでいました。ちなみに今月の4月のテーマは新たな始まりです。初期の教会では、イースターはバプテスマが行われたときであり、年に一度だけでした。もちろん今ではもっと頻繁に行っています。そして私たちがバプテスマを受けたとき、それはキリストにおける私たちの生活の新たな始まりです。 このパンデミックは1年以上続いています。 COVID-19が発生して以来、世界中で2,666,000人以上が亡くなったことを忘れないでください。愛する人を亡くした人たち、そして進み続けなければならない人たちのために祈り続けましょう。 世界的なコロナ感染拡大の中、キリストの体であることが何を意味するのかを学び、つながっている方法を発見しました。けれども、早く教会の会堂で礼拝に戻ってまた会えるように一生懸命祈っています。 このパンデミックの期間は今日の聖句である「墓の中にいる」という箇所に関連付けられるのではないでしょうか。 しかしこのパンデミックの中にも喜びがありました。先週の土曜日、下の駐車場の庭で教会の子供たちのためだけに、距離を取ってイースターエッグハントを行い、約10人の子供たちが参加しました。空のプラスチックの卵探しをして、最後にぬり絵シートとキャンディーに交換しました。これはティエネンによって描かれた空の墓の絵です。 この空の墓の物語は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書すべてに見られます。 4人の福音書の執筆者全員が、女性が最初に空の墓を発見してそのニュースを共有したと主張しています。 (歴史でこの時代に女性は法廷で信頼できる証人とさえ見なされていませんでしたが、女性はイエスに会って、ニュースを共有した最初の人々でした!) しかしながら福音書によっては他の詳細は異なっているので、この空の墓と復活したキリストの物語を見るときは、4つの福音書全部を見ておくのがよいでしょう。それぞれのバージョンから何かを学ぶことができます。当時は主に口頭伝承であり、書き手によって記憶が異なっていた可能性があります。しかし最も重要な点はイエスがよみがえられたので墓は空であるということです! 4つの福音書はすべて、マグダラのマリアが一人で、あるいは他の女性を伴って、イエスの十字架刑に続く週の最初の日に墓に来て、その亡骸が消えていたのを発見した様子を伝えています。 マタイ、マルコ、ルカはギリシャ語の「シノプシス(あらすじ)」という言葉から「シノプティクス(共観福音書)」と呼ばれています。これは同じような観点からイエスの生涯を記しているため、「一緒に見た」という意味です。 マルコは最も早く(おそらくイエスの死から約40年後の西暦70年頃)、そして元々の結末では、女性は若い男性が墓にいるのを見て、彼からイエスは弟子たちにガリラヤで会い、そして見たことを誰にも告げないようにと言われて逃げます。 マタイ(西暦85~90年頃)は、見張りをしていた人々と好奇心旺盛な人々を紹介しています。女性は天使から、次にイエスから、ガリラヤで弟子たちに会うことを2回言われます(マタイ28:7-10)。 西暦85~90年頃のルカは、マルコの1人の「青年」を2人に変更し、ペテロによる墓の視察を追加し、イエスがガリラヤで弟子たちに会うという約束を削除します。 ヨハネは90から110年の間に出回り始め、女性の数をマグダラのマリアだけに減らし、ペテロと一緒に墓を訪れてその重要性を最初に理解した「最愛の弟子」(ヨハネ)を紹介しています。 今日の説教は短く、4つの福音書すべてを読むのに十分な時間がないのでマタイを選びました。先週の土曜日にKUCで行ったZOOM説教ラボから学んだことをいくつか指摘したいと思います。楽しく、啓発的な時間でした!土曜日の午前11時にご参加ください。 イエスの復活した体を見、触れて、声を最初に聞いたのは女性でした。 (マタイ28:9 ヨハネ20:14)。しかし、復活の朝に他の女性の触れ合いを受け入れ(マタイ28:9)、1週間後にトマスに触れるよう勧めたのにもかかわらず、なぜイエスはマリアにはすがりつくのをやめるように告げたのでしょうか。(ヨハネ20:27)私たちは話し合って、さまざまな理由があげられました。フィリピン出身のメンバー、ロイ・ミスランが興味深い説明をしてくれました。イエスは大祭司であり、ユダヤの文化では清められなければならなかったので、女性が彼にしがみつくことを許さなかったのですが、8日後にトマスといたときにはそれまでには清浄されていたので大丈夫だったという、今まで聞いたことのない興味深い解釈でした。 彼らは「彼の足を握りしめ、彼を崇拝した」とマタイ28:9は述べているので、これらの女性は間違いなくイエスを抱擁したいと思っていましたが、まだ父のもとに上がっていないので、すがりつかないように言います。イエスは私たちのいかなる地上の力によっても拘束されることはなく、すべての束縛から解放されます。 また、イエスはマリアや弟子たちとの新しい関係を示していたと思います。「私が天に昇った後、あなた方は私の存在を霊的に持つが、肉体的にはない。」地上で彼らとともに存在されませんでしたが、慰め主である聖霊を送られる約束をされました。 女性たちがイエスを見た後、彼が姿を消し、後で弟子たちに現れたことを皆さん思い出すかもしれません。彼の物理的な体は消えています。これは弟子たちにとって、そして今日の私たちにとってもトレーニングだったと思います。それは彼らがイエスの体を見たり、肉体の存在を見たりすることなく信じるという訓練でした。私たちはイエスを信じ、復活を信じています。イエスの体は死からよみがえったと私たちは信じています。私たちは彼の体を見ずに信じます。 今日の礼拝でカワベタカヨとアヤミが歌った使徒信条の最後の文章で述べられているように、私たちは「私たちは体の復活と永遠の命を信じています」と信じています。 後になってイエスが「二階の広間」として知られている場所で弟子たちに現れ、物理的な体とそこにある傷を見せられたことを思い出してください。 (亜希子牧師は来週の日曜日にヨハネ20:19-31でその箇所についてもっと話します)。ここでイエスはトマスに「…。見たことがなく、信じている人々は幸いである」と言われます。 私たちは信仰のために信じています。私たちは肉体でイエスを「見る」ことはありませんが、イエスは私たちと一緒におられます。私はこの聖句を思い出します、ヘブライ人への手紙第11章1節「信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」私は聖霊を感じ、世界で彼の働きを見て、出会う人々の中にキリストの顔を「見る」のです。聖霊は私たちを満たし、私たちを慰め、私たちを動かし、私たちの生活を新しい方向に後押しするのです。 「聖霊に満たされる」がテーマとなるので、5月の牧師チームの説教から聖霊についてもっと聞くことになります。私は聖霊について分かち合うのが大好きなので待ちきれません! 聖霊は予想外の多くの場所に現れます。ルーテル派の神学者であり、宗教に関する著者であるシカゴ大学ディビニティスクールで教鞭をとったマーティンE.マーティ博士が語った物語を共有します。マーティン・マーティは、深刻な先天性欠損症を患ったスティーブンという名前の8歳の少年の実話を語っています。彼は学校のクラスの他の生徒たちに愛されていましたが、時間が経つにつれて病気が悪化していました。 4月のある日、学校の先生はクラスのすべての子供たちに、空のプラスチックの卵の中に春の新しい命を表す小さな物体を隠して、翌日クラスに持ってくるように言いました。子供たちはプラスチックの卵を持ち帰りましたが、先生はスティーブンが何も捕まえられなかったのではないかと心配し、恥ずかしい思いをしないように、子供たちにラベルのない卵をすべてテーブルに置いて、匿名で1つずつ開けるようにしました。最初に開いた卵には、春の素敵な兆候として小さな花が入っていて、小さな女の子は「私がそれを持ってきました!」と言うのを止められませんでした。次の卵が開いて出てきたのは岩で、ビリーは岩にもっと苔が付いていると叫びました。 3番目のプラスチックの卵が開かれ、生きた蝶が出てきました。それを持ってきた子供はこの蝶を自分で捕まえたと言いました。次の卵の最初の容器は空で、先生はスティーブンに恥をかかせないように次の容器にすぐに手を伸ばしました。けれどもスティーブンはそのとき、墓が空だったので空であると言いました。そしてそれがみんなにとって新しい命を意味していると言ったのです。その夏スティーブンの状態は悪化し、慈悲深く彼は静かに亡くなりました。葬儀で人々は彼の棺にプラスチックの卵があるのを見て驚きました。そしてそれらはすべて空でした。 イースターの希望と約束は、イエスがどのようにして墓の拘束から自由になったかを覚えているということです。墓は空でした、そしてそれはすべての人にとって新しい人生を意味します。私たちはキリストの中で新しい人生を経験します。 私たちの人生の墓が開かれたとき、それは生きているイエスが私たちに触れ、私たちを癒してくださる時です。 皆さんの中にはまだこの新しい人生を経験しておられない方がおられ、そして何かがあなたの内なる墓から石を転がしてあなたの中で人生を目覚めさせることを望んでいます。それが今日起こる、あるいは起こらなくても忍耐と信頼で待ってください。成長を急ぐことはできません。すでに私たちの中にある新しい命の種を認識するのに時間がかかることがあります。 イースターは変化した人生と変化した世界についてです。聖書が私たちに告げているように、イースターは死が打ち負かされる日についてです。復活の約束は、死、それはすべての死、肉体的な死だけでなく、あらゆる形態の死、あらゆる死の力がもはやなくなるという約束です。 私たちの心の墓を開いて愛を受け入れる皆さん、あなた方はイースターの人々です。私の友人は私たちがイースター志向の人々であると好んで言います。私たちは死には支配がないという認識を持って生きています。私たちは世界の痛みに耐えることができ、それによって屈服することはありません。私たちは愛がその方法であり道であることを知っているので、自身や他人の虐待を容認しません。チャック牧師は説教の中で、互いに愛し合うというイエスからの新しい戒めを分かち合いました。 私たちは神の創造された世界に住んでおり、イースター志向の人々としてこの世界を大切にしています。私たちは愛を示し、どこでも苦しみを見つければそれを和らげます。説教ラボで英国出身のマイケル・シャクルトンは、私たちがユニオン(統一の)教会であると共有しましたが、違いを見る必要はあります。イースター志向の人々として、私たちは常に同意しなくても、お互いに愛と敬意を示すことによってそれを行うことができます。私たちは皆、コミュニティの一員です。イエスにある神はこの世で生きておられます。私たちは死から掘り起こされた人生、痛みから生まれ出た喜びを知っています。 痛みの時に慰めを、疑いや相違があるときに恵みの確信を与えてくださり、そして永遠の命を私たちに与えてくださる復活したキリストをどうぞ見つけてください。 私たちの、そして世界の心の墓を開きましょう、そしてイエスの与える愛の人生をあなたに触れさせ、あなたを変え、そして世界を変えさせましょう。 アーメン。 おはようございます、ハッピーイースター
チャック牧師はロングビーチから仲間のブルースと一緒です。ここは、常に太陽が照って暖かく、いつもイースターの朝のようです。それでイースターにふさわしい装いをしています。本日は教会にとって重要な日です。今日、皆がこぞって教会にやって来るキリスト教の重要な日なのです。そう、イースターには教会に行かなくっちゃ。そうでなくてはならないし、正しいのだけど、なぜほとんどの方は毎週日曜日に教会に来ないのかしら。私が思う理由の一つは、教会はしばしば排他的で厳しく批判な目を教会に来ない人達に向けているからかもしれません。ある人は教会の人々の行為よりも発言に愛や配慮が欠けていると言うかもしれません。それでは、クリスチャンとは何者でしょう。 私達は後戻りして鍵となる問いかけを見直してみませんか。クリスチャンとはイエスの従者で、主イエスの足跡や話すことをまねる者です。 多くはクリスチャンになるのは一回限りで良くて、祈祷文を祈ったり、天国への切符を手にしたようなものだと言うかもしれません。最初はそのようかもしれません、だが... ここに心に刺さる聖句をあげましょう。 マタイによる福音書7章 21-23節 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には(私が審判をする日)、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない(私の目の前からあなたは消える)。不法を働く者ども(私の命令を守らなかった者)、わたしから離れ去れ。』」 或いは、コリントの信徒への手紙一の13章で、どんな素晴らしい行いをしたとしても、例えば預言をしたり、貧しい者に食事を与え、偉大な信仰を示し、神秘を解き明かしたりしても、愛がなければ、何も良いことを自分にもたらさないのだ、と言います。驚きです。 今日、私が伝えたい事は、イースターに、たとえオンラインにしても、教会に集まるのは良い事で、イースターの装いでね、主イエスが命じたこと(提案ではありません)とは何なのかをしっかりと皆さんと共に見ていきたいと言うことです。最後の数日に主が新しい契約と呼び、それによって人々が我々をクリスチャンだと見分けることができます。それは私が着ている十字架でも、日曜の朝、集まる場所でもないのです。主イエスが従者に与え、それは私達にも与えられたと言う意味の新しい契約です。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 今日、顕現 (ある事柄の本質・意味などについての突然の)洞察やはっきりと分かる瞬間がありますよう。そして新しい始まり(4月のメッセージです)主イエスが命じたこと「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を真剣に捉えたならばどのようになるのかを見ていきたいと思います。 最初に、なぜ主イエスは新しいと言われたのか、その私の考えは、主の教えが革命的で真新しいこと、その理由は旧約聖書で言われる隣人を愛せよ、たとえ敵でもと言う愛ではないからです。重要な命令「隣人を自分のように愛しなさい。」だけではなく、むしろ「わたしがあなたがたを愛したように」に着目します。ワオ、気が遠くなる、主イエスの愛とは。 今朝、どうやってそれができるかを私は実践的な例を示したいと思います。これを正しく理解し、私がこの聖句から学ぶと、恐らく50のことを主イエスがしなさい或いはしてはいけない事柄を言われていますが、ある一つのことを実践すると、だいたい約50%は合格で、後の50%は全身全霊で神を愛することで成立します。 詳しく見ていきましょう。それは私のためであり、神様が与えた少なくとも3つの鍵となる愛の啓示を今でも鮮明に覚えています… 2012年、12の人生を変える警告と呼ぶ事が12週において起こったのです。 - 私の癌の診断 - 次の日、次の日にですよ、私の父が突然、前触れもなしに死んだこと - 10 週後、母が死んだこと - 私のビジネスも突如、末期を迎え - 私の妻はリハビリに行き - 私の末娘は悪い奴と出て行ってしまった 大体分かったでしょう、私はショックと破滅の感情の中にいました。多くのことが起こりました。しかし、私の中で、何か良くなる気持ち、或いは必要な事は全て片付けてやると言う思いがありました。 それで私がその時にした事は近辺のホームレスの人々と過ごす事です。単に訪問し、彼等の話を聞くだけでした。この行動が、起こった事や今起こっていることへの、私に対する神様からの癒しであると感じたのです。 ここから学んだ2、3の愛の教訓があります。
あなたが壊れた時は愛するのに絶好の時です。謙虚で優しい気持ちで、壊れたままで、神からの愛の流れを隣人に対して感じるのは本当に癒しなのです。
ある時、混乱と苦難の中の私はウォルマートに行き、たくさんのホームレスが物乞いをしている中、ある一人、際立った男の人に目がいきました。彼は詩を売っているのです。これは私を笑顔にしました。うん、ちょっと変わっているなあと思ったのです。彼は自分が書いた詩をいくつか持っていました。それで、私は彼にここで何をしているのかを尋ねたのです。言葉を発する前に、私と彼の中で不思議なことが起きていました。まるで、自分の言葉ではなく、聖霊を通して話している様でした。私も彼も神の臨在に包まれたようでした。彼は身の上話をし、私はそれを聴き、ほんとうに、心から聞いたのです。それは別世界のようで、非現実的で、畏れ多いことでした。その数分後、どのくらい時間が立ったのかも分からない状態でした。兄弟、あなたの身の上に起こったことは、実に心が痛むよ、でも今できることをあなたがされているのは素晴らしいことです。私は「じゃ、あなたの詩を買いましょう。」と言うと、彼はすぐにためらいこう言いました。「いいや、あなたからのお金はいらないよ。僕のことをきちんと見てくれたのは君が初めてだよ。これが僕にとってどれほどのことを意味するか君にわかるかい。」そして彼は私に大きなハグをしてくれました。ウォールマートの外で、この背の高い痩せた、詩を売っている黒人の男性は私をしっかり抱きしめてくれました。神は確かに聖霊に耳を傾けた私達を祝福してくれたのです。 従い、 1. 愛する誰かを見つけなさい 2. 導かれたように愛しなさい 3. 耳を傾けハグしなさい 先週の土曜日、11時から私達は説教ラボと言う新しいzoomクラスを始めました。その時この話題を話し合い、皆で思いを語り合いました。土曜日に皆さん、参加して下さい、楽しいですよ。 クラウディア牧師の良い観察、最たる愛を示すのに、神がホームレスの人々をどのようにお使いになるのかではなくて、私達が身の回りにいる家族、友人を愛する事であり、一番身近にいる者をどのように愛するかでしょう。主イエスの愛はこの場合どのように表現されるでしょう。 3つのことを提案します。 第一、これは簡単な事で、見知らぬ人の話を聞く事です。知らない人の話を聞く方が身近な人の話を聞くより得意な人もいるのです。耳を傾け、ハグします。 私は結婚した夫婦のためのクラス受講が終わったところで、いつも言われる事は良いコミュニケーションです。良い発信者となれ、そんな事はもう分かっているでしょうね。 ケリーと私は結婚して40年になります、そこで言える事は、私が言わなかったことより、言ったことが失敗の原因でした。私が耳を傾けた場合はより効果を生み、失敗も少なかったと思います。これが傾聴の力です。私が意見を言う前に、人の言うことを理解することを努めることです。それが私のゴールです。 話されたことを熟考し、聖霊の助けにより見えてくるものを尋ねるのです。話された内容ではなく、神だけが明らかにされる事柄です。力、効果があり、愛を表す道です。 説教ラボでジェニファーが8人の兄弟姉妹の大家族の中で学んだ教訓、母が言うことは、みんな仲良くしなさい、あなた達は家族なんだから。これはクリスチャンにも言えることで、私達クリスチャン家族にも愛を示すことから始めることができます。 メグは聖霊が導いたときにこそ愛の示し方が最善であると指摘しました。皆それぞれ違った形の愛が必要なのです。皆さんは愛するために導かれると言うかもしれません、同じことです。 最後に、励ます者であれ、慰める者であれ。 私は解決すべき、改善すべきことにすぐに目が行き、良い事を述べたり、励ましたり、慰めることを忘れています。これは大切なことで、新約聖書を通して主イエスは決して罪人(教会の人々)に厳しく対応しませんでした。つまり、主は憐み深く、励ます人であり、私がそれを実践すると神の臨在を感じるのです。教会に与えられた最も重要な賜物の一つは、預言ですが、今の世での預言の目的とは何か、旧約聖書時代に人々に運命や暗闇が待ち受けているのを伝えたのとは違うでしょう。 コリントの信徒への手紙一 14章3節 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、(霊的成長のために)人を造り上げ、励まし(の言葉を話し、神に関するアドバイス)、(憐みを持って言葉で)慰めます。 これと同じように賜物を持つ者のようになりましょう。 最後にロイが土曜日のクラスで話した事は、私達は復活後の新約聖書の時代に生き、聖霊を受け取る、エレミヤ31:33を思い起こさせてくれました。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」 私達はこの時代に生きています、神様に感謝です。実に、私達は律法や規律を心配する必要はなく、私達の目標は愛、簡単で深淵です。 隣人を自分のように愛しなさい。主イエスがあなたがたを愛したように。 祈りましょう。 |
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May 2024
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