今日は詳しく聖書箇所を一緒にみていきたいと思っていますので、まずはじめに、もしよろしければ聖書を手元にご用意ください。
祈りましょう。 主よ、私たちの耳、心をあなたの声に開きます。どうぞお話しください。清いあなたの名前によってお祈りします。アーメン。 今日はコミュニケーションについて話したいと思います。コミュニケーションは、私たち人間が自分自身を表現し、そしてお互いを理解するのに必要不可欠なツールです。コミュニケーションがなければ、何かをシェアすることもなく、お互いから学び合うこともできません。それはつまり私たちが共同体として共存することができないことを意味します。コミュニケーションのない生活はさびしく、孤立を招くものです。 神様と私たちの関係も同じです。私たちが神様とコミュニケーションを取らなければ、私たち自身をオープンに神様にシェアし、神様を理解しようとするようなコミュニケーションが、神様と私たちの間になければ、私たちは神様と関係を築き、その中で神様と親しくなり、クリスチャンとして成長するという機会を逃してしまいます。 コミュニケーションは私たちにとって、とても大切でなくてはならないものです。 コミュニケーションは私たちにとって大切で必要不可欠なのに、何故私たちはコミュニケーションをうまくとることができないのでしょう? もちろん今の私の言葉を聞いて、中には「何を言っているの?私はコミュニケーションが得意!いつも明瞭簡潔に、論理的に、人が理解できるようにゆっくりと話している。」と思われる方もおられるかもしれません。 もちろんそうかもしれません。けれど優れたコミュニケーション、コミュニケーションの心得、他者、そして神様と繋がる上での心得というのはもっと深く、複雑だと私は思います。今日の聖書箇所は、そういう意味で最適です。良いコミュニケーション、そうでないコミュニケーションに関するヒントがたくさん詰まっています。ですので今日の聖書箇所を一緒に見ていきましょう。 まず今日の聖書箇所はこのように始まっています。「これらの教えがあってから八日ほどして、、、」(ルカ9:28) これらの教えとは何のことでしょうか?今日の説教箇所の少し前を読んでみましょう。 今日の聖書箇所はルカの福音書9章28節から始まっていますが、その前の9章21節〜27節はルカの福音書における大きな転換点とされています。イエス様が4章で宣教を開始されてから、物事はほぼスムーズに進んでいきます。宣教の効果は高く、伝道成功といって良い出来事が次々と起こります。 イエス様は弟子達を招聘し、弟子達はイエス様についていく決心をします。イエス様は汚れを清め、全身ツァラトの人を癒し、足のなえたものを立たせ、教え、嵐を沈め、死人を甦らせ、5000人の人のお腹を満たします。(ルカ4章ー9章) 奇跡の連続、絶え間ない力と栄光が示される。多くの群衆がイエス様と弟子たちを追い回します。その群衆の熱狂に圧倒されて、イエス様と弟子達は人里離れた静かなところに逃げなければいけない時もありました。人々はイエス様が行う数々の奇跡、イエス様の教え、そして癒しにただただ驚き、圧倒されていたのでした。イエス様は次に何をしてくださるのか、人々は期待と歓喜にあふれていたことでしょう。そして何よりそのイエス様の御業を間近で見ていた弟子達もそれ以上の期待と歓喜をイエス様に抱いていたことでしょう。 しかし、弟子達は彼らの信仰が試される厳しい現実を突きつけられることになります。なぜなら弟子達がイエス様に従う中で、目撃している神様の力と栄光とは釣り合わない言葉をイエス様から聞かされることになるからです。 毎日のように、イエス様が人々に命を、慈しみを注ぎ込む姿を弟子達は目撃します。イエス様の豊かな恵み、癒し、赦しが人々に肉体における、精神的における、霊的における新たな命をもたらしていたのです。 しかし、ルカの9章22節で、命と善の源であり、神の力に満たされたイエス様は弟子たちに向かってこのように言います。 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(ルカ9:22) なんとショッキングな言葉でしょうか?病人を癒し、死際間近の人を救い、死人を甦らせることのできる当人が殺される?神様に特別に愛されている偉大な先生が、同業者の宗教指導者たちによって殺される?まさか、そんなはずがない。そんなことはありえない!弟子達はきっとそのように思ったことでしょう。 しかしこのような知らせを受け取ったからには、その知らせを受けとめ、その知らせに向き合っていかなければなりません。 イエス様はさらに続けます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23) イエス様の死という、恐ろしく考えられない出来事が伝えられたという事実に加え、イエス様は弟子達自身にも忠告するのです。 キリストであるということ、キリストに似たものとしているということは、弟子達が想像していたこととは全く違ったのです。奇跡の連続、力と栄光が満ち、歓喜と賛美が世々に満ちる。キリストに従うということは、そういうことを継承するのではなく、力を行使するのでもなく、むしろ力を明け渡し、手放し、犠牲を払うということが明かされたのです。 今日の聖書箇所はこのような背景を持って始まります。「これらの教えがあってから八日ほどして、」(ルカ9:28)というのは、このようなイエス様の教えがあってから8日ほど経ったという意味です。しかしこの8日の間の弟子達の様子や反応については何も記録されていません。 このような衝撃的な告白と忠告をイエス様から受けたにもかかわらず8日間、弟子達がこのことについて何も話をしなかったというのは考えずらいことではありませんか?でも考えてみたら起こりうることかなとも思います。弟子達は否認していたのかもしれません。つまり、イエス様から聞いた告白の内容があまりにも衝撃すぎたので、むしろ聞いたことを考えないようにしていたのかもしれません。 私たちにもそういう経験がありますよね。あまりに困難で、衝撃的な知らせを受け取った時、その話題を避ける、考えないようにする、口に出さないようにする、そんな態度を取ったことがみなさんあるかと思います。 人間は困難な情報や、ニュースを受け取った時、その困難さゆえ、そのことに直面することを避けようとする生き物です。もしかしたら完全に避けられない場合もあるかもしれません。でもその困難な出来事に関連している人達と話をするよりかは、全く関係のない人のところにいって話を聞いてもらったりすることで、自分が聞きたいことを言ってもらえるか期待したりすることもあります。この場合も要は難しい状況に直面することを避けているわけです。 難しい状況の解決の糸口になる会話は労力が伴うから、むしろ差し支えない会話を続ける。解決の糸口になる人を避け、違うところでその会話を続ける。そうすることで状況をより理解するということから逃げ、神様がどのようにその困難な状況にアプローチするべきと言っているか探ることをしない。そのような事を続ければただ不安や、恐怖が増すだけになります。 ペテロや弟子達は、愛する先生イエス様のこの過酷な運命について聞いた時、何を感じていたのでしょうか?先ほども言いましたが、聖書には弟子達の反応については書かれていないので、私たちができることは想像するだけです。そして8日ほどたちイエス様はペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈りに山へと向かいます。(ルカ9:28) この時点で弟子達から積極的な行動は見られません。イエス様から衝撃的な知らせを受け取りますが、その知らせについてどのように対処してよいかわからなかったのではないかという推測をすることができます。 しかし、ここで素晴らしい事が起こるわけです。偉大な、奇跡を起こせる先生に相応しい出来事が起こるのを弟子達は目撃します。 彼らの目の前で、人間であるイエス様が祈っていると、姿が変えられたのです。もはや人間の姿ではなく、神の子としての威厳を現わしはじめます。イエス様の顔が変わり、来ていた御衣が白く光り輝き始めます。(ルカ9:29)人間の次元を超えた、天の、神の力のしるしを彼らは目撃したのです。 このようにイエス様が神の御姿に近い形に変容されることにより、弟子達はイエス様の栄光をより完全に見る事ができたわけです。これこそ神の子、救世主イエス様に相応しい姿だと、思ったに違いありません。 なんと素晴らしいことでしょう!ヨハネとヤコブと共にこの場面に居合わせたペテロにとっては、これは彼の思いを完全に承認する出来事だったに違いありません。 イエス様は弟子達にこのように聞きます。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(ルカ9:18)「では、あなたがたは(弟子達)、わたしをだれだと言いますか。」(ルカ9:20)その質問に対し、ペテロはイエス様は「神のキリスト」であると答えます。(ルカ9:20)イエス様は神様に選ばれたお方なのだと。 ペテロの答えは合っていました!今ペテロとヨハネとヤコブが見ている光景はまさしく選ばれた救世主であるイエス様に相応しいものでした。選ばれたイエス様が輝かしい栄光に満ち溢れる姿へと目の前で変えられていったのです。 イエス様はモーセとエリアと話し合っています。そうです、ユダヤ教の偉大な律法を象徴するモーセと、偉大な預言者を象徴するエリヤ、その二人と共に肩を並べ話しておられるイエス様はやはり特別なお方なのです。 そのようは格別な、聖なる瞬間に居合わせたペテロ。この瞬間をなるべく長く崇め、記念したいと思ったペテロは次のような提案をします。「ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(ルカ9:33) この素晴らしい栄光の瞬間を収めるために、幕屋を造ろう! ペテロの幕屋を造ろうという考えは必ずしもランダムな、降って沸いたようなものではありませんでした。幕屋を造ることは、ユダヤ教の三代祭の祝いで行われることの一つで、イスラエルの人々の荒野での暮らしに神様が仮家の幕屋を建ててくださったことを覚えるための行為でした。 ペテロにしてみれば、幕屋を造ろうという提案は、自身の知識と自身の知りうる伝統に基づいた、神様に最大の敬意を示すための提案だったわけです。ペテロ自身が思いつくベストな形で、イエス様の満ち満ちた栄光の現れをお祝いしようとしたわけです。 このことを考えればペテロの考えもそうおかしいものではないことがわかるでしょう。 しかし、ここでルカの福音書9章33節の全文を一緒に読みたいと思います。 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。 ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。。。 ペテロは何と言っていいかわからなかったのです! まずはじめに、ペテロはイエスが殺されるという衝撃的な事実を受け止めることができず、無反応を貫きます。 話す、理解する努力をするということがむしろ良いとされる時には、ペテロは何も言いませんでした。しかし、自分の理解を超える出来事が起こり、何と言っていいかわからない時にペテロは話し始めたのです。 これっておかしいことだと思いませんか?話した方がいい時に話さず、話さなくても良い時に話す。なぜペテロはこのような行動を取ったのでしょうか。 私が思うに、それはペテロが心の奥底にある恐怖を見つめていなかったからだと思います。 今日の聖書箇所である主イエスの変容(Transfiguration)は、他の福音書にも記録されています。マルコ9章2節〜8節にペテロが幕屋を三つ造ろうと提案していることが記されています。しかし、マルコ9章6節にはこのようにあります。「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼ら(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)は恐怖に打たれたのであった。」(マルコ9:6) ペテロは自分の恐怖だけでなく、同労者のヨハネとヤコブの恐怖も感じ取っていたわけです。そして多くの人間が恐怖に直面した時に起こす行動を取ったわけです。 それは、聞いたり、深く考えたりせずに、むしろ自分の言いたいことを正当化したり、合理的に見せようとする自分中心の、自分を守るための行為です。 「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。(ルカ9:33) ペテロだけではありません、これが人間の姿だと思いませんか?私たちは口にするには早く、聞いたり、熟考するのには遅い生き物なのです。 恐怖や、怒り、プライドや、恥など心の奥底にある感情を見つめずに、放置したままでいると、私たちの言動は思慮を書いたものとなり、自分や人のためにならなかったり、神様の思いとはかけ離れた自己中心的なものとなってしまいがちです。 自分の心の内を見つめずにコミュニケーションを図る時、私たちは誤ったチョイスを犯してしまいがちです。 一人の人がこのような言動を取るだけでなく、もし多くの人がこのような言動を取ったらどうなると思いますか?自分だけでなく、コミュニティ全体が困難なトピックについて話すことを避けたり、また心の奥底にある恐怖や、不安に向き合わずに感情的になったり、思慮にかける言動を互いに続けていったとしたら。 自分の知識や、自分の知る伝統だけを元に今の状況を理解しようとしたら何が起こるでしょう? それは神様が私たちに耳を傾けてくださるように、私たちが神様に、そして他者に耳を傾けていないということを意味します。 ペテロとヨハネ、ヤコブはイエス様に何が起こるか知っていました。イエス様自身が何が起こるかを彼らに知らせたのです。十字架はさけられないものであることを。それにもかかわらず彼らはその知らせと、目の前に広がるイエス様の栄光の光景の本当の意味について、祈りや、イエス様に直接聞くという選択をせずに、今起きていることがどういうことを意味するのか、思慮深く熟考しなかったわけです。 目の前にいるイエス様とコミュニケーションを取らなかったのです。イエス様に質問しなかったのです。 コミュニケーションを取らない、つまり神様に聞かない、神様に祈らない、お互いに質問し合わない、話し合わない、そのようなコミュニティに何が起こると思いますか? 混乱、緊張状態、そして分裂、平安・平和の欠落です。 神様を理解しよう、お互いを理解しようという姿勢が崩れ去り、よそよそしさが増し、疎外感が増していきます。なぜならコミュニケーションを図らなければ、そこに共通の認識や思いが生まれず、それぞれが互いに対し誤解を重ねていくということが起こってくるからです。 ここで「The Cultural Adjustment Map」(文化適応に関する図表)をみなさんにお見せしたいと思います。 これは人が新たな文化を体験する時に通る過程を表したものです。今日私がみなさんにお話ししていることとは何の関係もない図表に見えるかもしれません。しかし文化適応には、コミュニケーションが深く絡んでくるので、この図はコミュニケーションの過程を表す図でもあるのです。 この図は、人間が海外で生活する時に避けて通れない出来事、つまりフラストレーションが溜まったり、混乱が生じたり、緊張状態になったり、恥を経験したりとする時に、私たちがどのようにそれらについてアプローチするかが、結果的にどのようにその出来事に反応するかという決断に影響を与えることを示しています。 もし生活の中で避けて通れない出来事に対し、恐怖や、猜疑心を抱きつつ、柔軟な心を持たずに、それらのことに対処しようとすると、私たちは、批判や、正当化や、共同体に属することを拒むという反応を持って、その出来事に対応します。それらの反応が生み出す結果は孤立化、疎外感です。(Duane Elmer著 CrossーCultural Connections 8章8・1の図表から抜粋) 一人のひとがこのようなアプローチ、反応を取るだけでなく、同じアプローチ、反応を持ったものが集まり同盟のように固まると何が起こるでしょうか?つまり、人々が固まり、恐怖、猜疑心、かたくなな心を持って共に行動し始めたらどうなるでしょう? 批判、自己防衛的な正当化が増し、協力を拒む姿勢が強くなり、疎外や孤立がさらに激化します。そのようなものがグループとして集まり、他のグループとコミュニケーションを図ることなく意見を自分のグループ内で統一させていく時、何が起こるでしょう? 分裂、派閥争い、他グループとの意志の疎通や相互理解の欠如、平和は破られ、戦争が始まる。 考えてみましょう。最近の中で緊張、混乱、フラストレーション、恥などの感情を経験した相手、もしくは出来事がありましたか? その時にその出来事、状況に対し、どのように向き合いましたか? 寛大さ、容認、信頼を持って向き合い、相手の話を忍耐深く話を聞いたり、注意深く状況を見守ったり、礼儀正しく状況を確認したり、掘り下げる作業をしましたか?それとも先ほど話した図表の下に記されたアプローチや行動を取ったでしょうか?(図表8:1) ペテロは図表の下に記された方法を取りました。彼自身の心の奥底にある恐怖や不安を直視しないまま、ペテロは主イエスの変容(Jesus’ Transifutarion)に遭遇しました。 そのような状態で、混乱を生ずる出来事に遭遇した彼は、イエス様、モーセ、エリヤのために3つの幕屋を造ろうというまったく的外れな提案を正当化しようとしたのです。彼らが何のために集まっていたかという目的を探ったりすることもなく。 イエス様、モーセ、エリヤは「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について」(ルカ9:31)話していました。それが目的で集まっていたのです。十字架への道の旅はもう始まっており、避けることはできませんでした。 図表を見ればペテロは下にあるアプローチ方法で、主イエスの変容(Jesus' Transfiguration)に向き合ったので、理論上彼の結末は孤立化、疎外感と推測することができます。それは部分的に正解かもしれません。自分の中にある恐怖を見つめずに主イエスの変容に向き合ったペテロは、真の意味でイエス様と繋がることはできませんでした。そこにコミュニケーションはありませんでした。 けれど神様の恵みに限界はありません。だからこそ神様の恵みは素晴らしいものなのです。神様の恵みがあるから、私たちが今日一緒に見た図表が示す理論を超えた結果が可能になります。 恐怖や、猜疑心、頑なな心がいつも、必ずしも孤立化、疎遠、分裂、戦争につながらないのです。神様の介入があれば、神様の声を聞き、従えばまたお互いへの愛、相互理解、お互いへのサポートを取り戻せる可能性があります。 イエス様はどのようにペテロに接しましたか?イエス様自身の死についての会話を恐れる故、避け、必要のない幕屋を作ることの提案に集中しているペテロに対して。また人間的にこの状況に対応するとしてどのような反応になるでしょうか? 責めたり、正したりするのではないでしょうか?なんて場違いなことを言ってるの?ばかね!わかってない。間違っている。このような言葉が出てこないでしょうか? ではイエス様はこのようにしてペテロを責めましたか?いいえ。イエス様はただそこにいて、ペテロの熱弁を聞いていたのです。 そう聞いていたのです。 耳を傾けていたのです。でも決して何かを隠したり、うやむやにしたりすることなく。 神様はペテロを子供扱いして、辛い現実を見せないようにかばうようなことはしません。雲の中から次のように話しかけます。 「これは、わたしの愛する子。わたしの選んだものである。彼(イエス)の言うことを聞きなさい。」(ルカ9:35)話を聞きながらも大切なことを隠すことはしません。イエスは神の御子。困難で痛みを伴う運命を背負うのに選ばれた特別な存在。だからイエスの言うことを聞きなさい!神様はそのように語ります。 私たちのイエス様は決してあきらめられないお方です。イエス様はペテロをあきらめたり、ペテロを見捨てたりしませんでした。ペテロだけでなく、全ての弟子達に向き合い続けました。そこにはいつも忍耐がありました。イエス様は大切なことは何度も辛抱強く弟子達に伝え続けました。 イエス様は忍耐をいつもコミュニケーションの礎とされていました。私たちもそんなイエス様を見習い、忍耐を持ち周りの人とコミュニケーションを図り続け、付き合い続けることが求められています。 あなたの人生の中に、困難を覚える関係にある人がいますか?コミュニケーションを図るのが難しく、その人とコミュニケーションを図るとフラストレーションが溜まる、そんな人はいますか?少し考えてみてください。あなたはその人とコミュニケーションを取る際、どのような態度で臨んでいますか?寛容、信頼、受容の姿勢を持って話を聞こうとしていますか? それとも自分の立場を守ったり、自分の意見を正当化したり、相手を非難するのに忙しくしていますか? ペテロのイエス様に対するコミュニケーションには欠陥がありました。時には恐怖、疑う心、頑なな心を持ってペテロはイエス様に向き合いました。覚えていますか?ペテロは水の上を歩いたと思ったら恐怖に駆られ助けを求めたり(マタイ14:28−29)、イエス様を否定することは決してないと言いながら、イエス様を3回否定したり(マタイ26:31−35)、イエス様が「私を(神様の愛のような自己犠牲の無償の愛で)愛するか?」と聞けば、「兄弟愛の愛を持って愛する」と質問とは少しずれた回答したり(ヨハネ21:15−17)と、完璧なコミュニケーションとは決して言えない方法でイエス様についていきました。 けれど神様はいつも忍耐を持ち、私たちが恐怖や、疑う心、頑なな心を持ってしまう時も、持ち続けてしまう時も、私たちが少しでも寛容に、聞く耳を持てるように、理解に努めれるように、私たちとコミュニケーションを取ることをあきられめない神様です。 コミュニケーションの達人である神様により頼み、従っていく時、神様が聞いてくださるように、私たちも互いの声に耳を傾ける時、コミュニティが分裂ではなく、一つとなることができるでしょう。 ロシアのウクライナ侵攻があり、国レベルでの相互のコミュニケーションが崩壊しています。また個人の生活においても、壊れた関係にある人々がたくさんいます。そんな状況にあり、私はこのように祈りたいと思います。 私たち一人一人が三位一体の神様が私たちとコミュニケーションを図ってくださるように、私たちも周りの人とコミュニケーションを図ることができますように。神様が私たちに耳を傾けてくださるように、私たちも他者の声に耳を傾け、神様が私たちに語りかけてくださるように、私たちも周りの人に声をかけていくことができますように。 祈りましょう。 神様、私たちはうまくコミュニケーションを取ることができない生き物です。話すのに早く、聞くのに遅い生き物です。すぐに人を裁き、寛容な心を持てず、あなたの導きに忍耐と受容を持って従うことがなかなかできません。どうぞ助けてください。あなたの愛と赦しを伝えられるよう、あなたの声に耳を傾けながら、あなたと、周りの人々と引き続きコミュニケーションを取っていくことができますように。 尊き主イエスキリストの名前によって祈ります。 アーメン。
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みなさんは手紙をよく書かれますか、SNS万能の時代ですが。家族や友達、よく知っている人に手紙を書くのは楽しいことですね。でもそれが、一度もあったこともなく、しかも地位のある人に対してだったらどうでしょう。あなたの人柄、教育歴や社会的背景などが、あなたの言葉づかいや文章で判断されることでしょう。私のような者としては、よく文法や言葉の選び方を間違えて、ああ、あまり英語
には強くないんだな、と思われてしまうことでしょう。みなさんはどうでしょう。今からそんな手紙を書き始めようとしているとすれば。 ローマの信徒への手紙は、パウロによって書かれたのですが、まさにそんな手紙で、ローマのクリスチャンたちにあてられていました。しかしパウロはそこを訪れたこともなく、そのメンバーとも友人のような関係はありませんでした。でも、彼がそのメッセージを記す姿勢には、確信と謙虚さがありました。確信というのはイエスご自身によって異邦人の使徒として招かれた者としてのものでした。彼はキリストの福音を、大胆に率直に表明します。謙虚さというのは、キリストと教会に仕えるものとして、ちょうど先週の日曜日にClaudia先生が説教でコリントの信徒への手紙第一の13章をもとに話された「愛」という言葉で言えるものでしょう。しかし、ローマの教会からは、簡単には好意的に受け止められず、最初から歓迎されたわけでもなかったのです。二つの理由が考えられます。第一に、当時のキリスト教の世界におけるローマ教会の地位でした。第二は、パウロの使徒としての、それ以上にクリスチャンとしての背景についての疑いが教会員のなかにありました。 ヨハネの黙示録のなかに、当時キリスト教社会のなかで有力であった七つの教会の名前が出てきます。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオデキア。これらの教会は小アジア地域にあるもので、ここではエフェソを除いて、新約聖書の目次に記されているほかの教会、主に地中海沿岸にあるコリント、テサロニケ、ガラテア、フィリピ、コロサイ、そしてもちろんローマはそこには出てきません。でも紀元一世紀の世界史においては、これらの教会のなかではローマの教会が最もよく知られたものなのです。当時の一般の歴史家のひとりが、ローマのクリスチャンたちについて、否定的に言及しています。そしてもっとも注目すべき事件としては、紀元64年に起こったローマ市内の大火事で、皇帝ネロは、クリスチャンたちをその犯人だとして非難し、ローマ帝国における最初の組織だったキリスト教への迫害を行ったのです。それはパウロがローマに手紙を書く5~6年前というところですが、それにしてもイエスの十字架刑から30年に、もうローマ帝国皇帝がローマにあるクリスチャンコミュニティについて何事かを知っていたというのも注目すべきことです。どうやって、キリスト教がローマに伝わったのか、誰が福音を広めたのか、ということは明らかではなりません. 当時は現代のような便利なコミュニケーションの手段もありませんでしたが、30年のうちにイエス・キリストは結構多くのローマの人々によって受け入れられ、救い主として信じられており、それが皇帝にまで知られていたのです。同時にローマの教会は、強力な主張にもとづいて組織されていたようで、彼らはそれまでに、それが皇帝ネロからの迫害につながっていった否定的な視線で見られ続けており、それに耐えてきたのですから。そこで教会員たちは自分たちの信仰と教会の組織に、ある種の自信を持ち始めており、そこでパウロも「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」(8節)と語っています。 それに加えて、ローマのクリスチャンたちは、ローマ帝国の首都にクラスということでの、別の言い方をすれば「都会人」としての優越感をも持っていたかもしれません。その彼らが、遠く離れた小アジアの一地方にいる、疑わしい背景を持つ,未知の人物、すなわちパウロから手紙を受け取ったのです。 使徒言行録を読まれると分かるように、パウロは最初、クリスチャンに対する厳しい迫害者として登場しますし、彼自身もガラテヤやフィリピの信徒への手紙でそのことを認めています。そしてそのクリスチャンに対する厳しい働きのさなか、彼は復活のイエスから使徒、つまり教会の指導者となるように招かれたのです(使徒言行録9章)。初期のクリスチャンの中で、パウロの立場は大いに疑問視され、ローマ教会のメンバーもきっとそのことを耳にしていたことでしょう。そのパウロが彼らに、彼らの使徒であり信仰の指導者として福音を宣べ伝えると書いてきたのです。 みなさんがこの手紙を先に読み進めていかれると、彼は極めて強い言葉と表現を使い、キリスト教の正しい信仰に向かうようにと教えるなど、彼の強い確信に気づかれることでしょう。18節では、彼は「神の怒り」に触れながら、ローマの教会にある好ましくない状態を指摘します。彼はそのような直截なメッセージがローマの教会員にどのように受けとめられるかなどは気にしていないようです。彼はすでに、ローマ教会の問題についての評判を聞いていたのでしょうし、だからこそ彼はローマに出向いて彼らの信仰を正したかったのです:「霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。 12あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。 」(11-12節) パウロは長くローマに来ることを願っていました、それは彼がその教会に大きな希望、期待を持っていたからです。パウロの伝道のビジョンは神の国をこの地上に建てることであり、ローマの教会はそれを実現するための最高で、最も重要な舞台であったからです。ローマは人間的な意味では帝国の権力をもって世界を支配する中心地でした。地中海世界に広がる帝国の首都にある教会は、キリスト教が世界的信仰であることのしるしであり証だったのです。ローマ教会が、「山の上にある町」として「隠れることができ」ず、 彼らの「光を人々の前に輝か」せば、世界中の「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」(マタイ5:14,16) パウロのその確信はどこから来るのでしょうか。それは彼がキリストと教会に仕えるという謙虚さから生まれます。彼は異邦人、つまりギリシャ人やローマ人への使徒として招かれたのであり、彼の過去の個人的な経歴がどうであれ、イエスご自身から直接に送り出されたからです。彼はその過去をゆるされ、過去から解放されており、その使命を達成するために、強い確信をもってあらゆる努力を払うべきなのです。 ローマの教会はそのようなパウロの期待にどう答えたのでしょう。あるいは、パウロはどうやって彼のメッセージを教会員に伝えることができたのでしょう。2022年の新年を迎えて、私は改めてローマの信徒への手紙を、丁寧にしっかりと読み直しはじめました。今年そこからの説教をしたいと思います。もちろん毎月のKUCの礼拝でも、それがゆるされるならば。そして、もしパウロが神戸にある教会、KUC、都市にあり日本を代表する都市のひとつにある教会に手紙を書いたとすれば、私たちはどう彼の期待にどう答えることができるでしょうか。 “愛の行い” ヨハネによる福音書 13章 34節 コリントの信徒への手紙一 13章 1-8節 神戸ユニオン教会 2022年2月13日 説教者:Rev. Claudia Genung2/13/2022 ヨハネによる福音書 13章 34節
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 コリントの信徒への手紙一 13章 1-8節 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 愛。それは私達が頻繁に口にする言葉です。「あなたにその色がよくあっているわ」「私はチョコレートが大好きです。」家族やペットに「あなたが大好きよ」って言います。そして、もちろん、私達の中には、少なくとも私と同世代の人々は、有名なビートルズの歌「All You Need is Love.」をご存知ですよね。 私達は、多くの感情を表すために単語LOVEを使い回しています。明日はバレンタインデーです。バレンタインデーの起源は少々異なるかもしれませんが、約紀元後270年、2月14日、クラウディウス2世の時代にローマの聖なる司祭であるバレンタインは、若いカップルを助けるために不法に結婚式をとり行い、そのために彼は最終的に処刑されました。一旦、彼は刑務所に送られましたが、伝説によると、司祭は、彼が仲良くしていた刑務所の看守の娘に「あなたのバレンタインから」と宛てた手紙が、彼女の失明を癒したという事です。 米国では、誰もがバレンタインカードを交換します。小学校では、子供達はクラス全体にバレンタインカードをお互いに配りあい、教師もその中に含まれます。カップルは時にお互いにチョコレートや花をプレゼントします。アメリカでは、カップルはレストランに食事に出かけるので、一年中で予約が最もある夜です。今、このパンデミックで多分、カップルが食事をしていることでしょう。バレンタインデーにチョコレートを受け取るのは男性だけなのは日本だけでしょう。私はその習慣がどのように始まったのか実は知りません。 バレンタインデーは、一部の人々にとって悲しみの時になる可能性があります。 マーレット一家は2月8日に5歳半の娘ルーシー・グレースを失い、彼女の葬儀は、家族や他の多くの人々にとても愛された子供の葬儀を行うのに、バレンタインデー2月14日は適していると考えました。ルーシーは、(ルーシーの名前は「道に光」を意味し、彼女のミドルネームは「グレース」です)、衰弱し、致命的な病気のミトコンドリア病だったのです。悲しい時ですが、彼らは彼女の短い人生の多くの素晴らしい思い出を持っています。ルーシーは人生の大半を病院で過ごし、ニコールは病院でルーシーと一緒に泊まり、ドリューと子供たちはルーシーが入院するたびに自宅から病院まで40分かかり通勤していました。彼らは愛からそうしました、彼らはどんな状況にもかかわらず、できるだけ家族が一緒にいたいと思っていました。それは簡単ではありませんでしたが、彼らは病院のスタッフや医師と一緒に彼女を愛したのです。ルーシーの人生を通して、マーレット一家から多くの証しを聞くことができるでしょう。 あなたはアフリカのことわざ「子供を育てるには村が必要だ」を知っているでしょう。キリストの体として一緒になって、お互いを支え、祈り合うとき、これは本当です。そして、マーレット一家の教会員の愛は,ルーシーの生涯を通じて一家を支えるのに役立ったものでした。ニコールはルーシーの人生の早い段階でバプテスマを受けました。聖書は「愛はすべてを忍ぶ」と言います(1コリント13:7)。神の愛は彼らを包み、彼らがすべての重荷を背負うのを助けました。愛は人生の嵐を乗り切る力を持っています。彼らの人生は、ルーシーとの絶え間ない嵐のようでした。 ルーシーは24時間のケアを必要としました。ルーシーの愛の人生は他の人に感動を与え、神の愛は彼女を通して働きました。ルーシーの医者の一人もルーシーの生涯を通してバプテスマを受け、ルーシーはその証人でした。マーレット一家はルーシーをとても愛していたので、彼らは彼女のために多くの犠牲を払いました。しかし、それはあなたが誰かを愛するとき、あなた自身ではなくあなたは愛する人のことを考えます。マザーテレサは言った;「痛みを伴う愛」そして、時には愛は痛みを伴います。 聖書の新しい欽定訳聖書によると、4節「愛は忍耐強い」には別の翻訳があり、「愛は長く苦しむ」と言います。この解釈はさまざまですが、愛が作用するとき、愛は何をしますか? 私達はどのようにして愛の中で行動するのでしょうか。 1コリント13章をもう一度見てください。4節では,愛は親切とパウロは言います。繰り返しますが、これは愛の活動であり、何をするかを愛は常に探っているのです。人を愛するときや神を愛するとき、私達は行動にうつすことがあります。それは親切です。私達は互いに奉仕し、自分自身をささげます。私達は時には犠牲を払うかもしれません。私達は苦しむかもしれません。もちろん、犠牲を考えるとき、私達は神が私達をとても愛してくださったので、私達のために命を捨てた主イエスのことを考えます。1ヨハネ4:10,「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネによる福音書 3章 16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」エフェソの信徒への手紙 5章 25節「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」 愛について話すとき、愛の種類はさまざまです。西洋のギリシャの伝統は、4種類の愛を区別し、それらのすべてに対してギリシャ語を持っています。 エロス:エロティック、情熱的な愛。 フィリア:友人と対等の愛。 ストージ:子供のための親の愛。 アガペ:人類愛 アガペは、人間に対する神の愛と神に対する人間の愛をモデルにした愛の一種です。新約聖書のアガペは、主イエス・キリストの見知らぬ人、自然、神に対する愛が源泉となっています。アガペの愛はまた、利他主義の概念、それは他者の幸福のための自己犠牲的な思いを含みます。これは神が私達に与える無条件の愛であり、私達が他の人々に分かち合うようになされます。 愛は返礼を求めずに与えるものです。それは自己利益のない愛です。 主イエス・キリストは、生きて死ぬという形で父と人類に神聖なる神の愛を表したのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ3:16) 主イエスはペテロに、主イエスを愛する(アガペ)か、とお尋ねされました。ペテロは3回答えましたが、ペテロの使った愛は、フィレオまたは「兄弟愛」でした(ヨハネ21:15-19)。ペテロはまだペンテコステで聖霊を受けていなかったので、アガペのような愛が全てにおいて必要だと言うことをまだ十分に理解していなかったのかもしれません。しかし、ペンテコステの後、ペテロは神の愛に満ちていたので、彼は心から説教をし、3,000人が改宗しました! 愛は人間が経験できる最も強力な感情の一つです。聖書を通して、私達は愛をその多くの形で体験し、神が意図した愛を隣人と分かち合う方法を見つけ出します。チャック牧師はしばしば、「私達が実行しなければならないことは、主イエスのものと同じです。すなわち、『神を愛し、あなたの隣人を愛してください。それは明白です。』神と隣人を愛することによって『教会になる』方法だ。」と言われました。彼が亡くなられる前に、彼は私達の教会のウェブサイトに「ABC:積極的に神と隣人を愛することによって積極的に教会であること」を私達のために掲げてくれました。私達は受動的に神を愛するのではなく、積極的に神を愛しています。行動で愛を現します。 アビラの聖テレサは言いました。「主は私達に二つのことを願った、神への愛と隣人への愛。そして、あなたがさらにこれに邁進すると、あなたの神への愛はさらに大きくなるのです。」 教会員のメグの母親の宮谷きよこさんは、2週間前の土曜日に彼女の多くの証言の一つをお話しくださいました。宮谷さんが好んでされる事は、病院の人を訪ねに行く事です。私は今日、彼女が入院患者さんにされた証しを皆さんにお話しする時間がありません。しかし、コロナ以前、彼女は人々を訪問するとき、彼女は穏やかに彼らの足を触り、彼らにフットマッサージをしました。「誰かの心への道は足を通して」と彼女は言います。大したことに見えないかもしれませんが、彼女は彼らの足をマッサージし、並外れた愛からそれを行なったのです。 (マタイ25の本質でもあります。)マザー・テレサは言います。「愛の果実は奉仕であり、それは思いやりの行動である」それを宮谷さんがやったのです。思いやりに満ちた行動です。それは今日の私の説教のタイトルである「愛の行い」の別の言い方です。 ヨハネ13で主イエスは「互いに愛し合う」という命令をお話しされました。この聖句の興味深い点は、それが起こった場所です。この一節は、主イエスを裏切るユダが最後の晩餐で他の弟子達を去る直前に言われました。それは素晴らしい瞬間です。主イエスは自分がすぐに十字架につけられることを知っています。主はユダが彼を裏切ることを知っています。それでも主はまだ彼を愛しています。そして、この瞬間、主イエスは現実に起こる十字架のために、弟子達を整え、お互いを愛するように命じたのです。 弟子達に互いに愛し合うことを命じ、今後主イエスは弟子達と共にいることはないという事実にもかかわらず、彼らが主の臨在を感じ続けることを覚えさせたのです。主が愛したようにお互いを愛することによって、彼らは主が命じる愛を行うことによって彼らが弟子であることを自覚するのです。 4つの福音書のうちの3つで、主イエスは私達に期待することを告げました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つにまさる掟はほかにない。」 (マルコ12:30-31;マタイ22:37;ルカ 10:27) この一節から、愛が、私達が行うすべての行動の原動力となるのは明らかです。まずは神への愛、そして隣人への愛。 新約聖書には他にも愛についての聖句があります。レビ記19:18もこれにこだまし、主イエスの隣人愛を教える声が聞こえます。ヨハネ13章のこの聖句は愛に焦点を当て、主イエスの弟子が隣人愛によって弟子であることをまわりが認めるのです。(ヨハネ13:34-35)。 主イエスにとって、愛は行動を意味しました。それは積極的に愛情を持つという意味でした。 現実世界の活動に自分の愛を注ぎます。私達はまた、自分が弟子であるしるしとして、隣人を愛するように召命されています。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:35)。 私達の愛によってクリスチャンであることを皆が知るでしょう。 そのよく知られた一節、1コリント13:4-6で、私達は愛の特徴についてこう言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。」パウロは愛がどのようなものか、あるいは愛が何であるかを話すだけでなく、愛が何をするのかを語っています。ここには15の動詞があり、15のアクションワードがあります。愛は何をし、しないのか。 パウロはまた、コリント人の行動を指摘して、コリント人がやっているすべてのことは愛に根ざしていないと言います。パウロは1コリント12章の早い時期に御霊の賜物について話していました。 忍耐、優しさなどを持つことは、私達が学び、すでにキリスト教徒として与えられた賜物です。 1コリント13章のこれらの愛の特徴は、私達が心に養い、私達が神の愛によって変容するにつれて自然な性質になるものです。聖句を読む時に、つながっている他の聖句を思い出します。ガラテヤ5:22-23「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」を思い起こしませんか。 主イエスは立ち止まって誰かの質問に答えたり、弟子達の素朴な言葉に受けごたえするたびに忍耐をしていました。主イエスは自分が仕えた人々に嫉妬したり、自分自身を自慢しませんでした。主イエスは、全ての栄光を神に与えること、それを念頭に置いていました。彼の態度は誇示せず、誠実に話し、遭遇する事柄にも真っ直ぐに向き合い常に真実でした。 彼は礼を失しません、たとえパリサイ人を叱責したとしても、彼はまだ彼らを愛していました(主イエスは彼らを好まなかったにせよ、彼らを愛したのです!)。神に降伏する最善の方法を望んで、主イエスは心から彼らに話しました。 主イエスは神の御心に従って、自分の思いを通す事はしませんでした。この疑いのない従順の中で、主は今までにない最大の愛の行為を果たし、そうすることで、彼は世界を救ったのです。主イエスは神の鏡像であり、神が誰であるかを写し出したのです。神は愛です。しかし、私達は皆、忍耐強くも親切でなかったクリスチャンやクリスチャンでない人達を知っています。クリスチャンの中には、卑劣なことをする人もいます。それでは何をすべきか? ナディア・ボルツ-ウェーバー牧師は,「偶発的な聖徒たち:すべての『間違った』人々の中に神を見つける」という本を書きました。どのように神を見つけ、どのように人々の中で神を見つけ、愛するのに難しい人をどのように愛するのかを問うています。聖霊は私達の内に臨在し、私達は神の愛を心に宿るように神にお願いします。「主よ、私はその人の傲慢な誇り、頑固な行動、または利己的な態度を愛することはできません。私はできませんが、あなたはできます。どうか、あなたは私ができないことをしてください。ここで、あなたは私を通してこの人を愛します。」 これは、悪い行動を容認したり、その人が犯罪を犯した場合に目をそらすという意味ではありません。その人が何をしたかによって、彼らはまだ責任を負うべきです。私達は、それが本当に彼女または彼がした悪いことだった場合、その人のしたことを「愛する」必要はありません。しかし、それは私達がその人を愛するために神様の強さを使おうとすることを意味します。時には、これらの人々は壊れて傷ついています。彼らを愛するにはチャレンジとなる理由があり、あなたはその人を好きではないかもしれません。しかし、チャック牧師は「壊れた人は壊れたことをする」と言っていました。 彼はまた、傷ついている人は人を傷つける、と言いました。だから、私達は彼らを好きではないかもしれませんが、私達はまだ彼らを愛する必要があります。チャック牧師は刑務所宣教をしていたので、神がこれらの人々を愛していることをしっかりと知る必要があり、そのためにチャックも彼らを愛することができることを知っていました。チャックは誰かが「神が愛していない人の目を見ることは決してありません」と言っていたと話してくれました。 私達がそのように行動するときはどうでしょう? あなたは自分のやり方を押し通しますか? あなたはあなたのイメージ、あなたの評判とあなたの尊敬を守りたいですか? 愛は羨望しない、愛は自慢しない、愛は傲慢ではないのです。あなたの隣人について最初に考えますか? それともそうではありませんか? 自分の思い通りにならないといらいらしますか? あなたは恨み、苦しみ、復讐の計画によって悪い記録を蓄積していますか? 真実はどうですか? あなたは不正行為を受け入れますか、あなたはそれが神によって容認された一線を超えても、正当な理由がある限り、それは大丈夫だと思いますか? 愛は偽りを正当化するわけではなく、愛は真実を喜ぶのです。 パウロが言う愛の行為における水準を見ると、私達の生活、行動、態度が必ずしもこれらに達しているとは限りません。それで、私はどのように成長するのかと自問自答します。どのように私の心の中に愛と愛の特性を宿すことができるでしょうか? 繰り返しますが、私達は一人でそれを行うことはできません。私達は神の助けに頼っています。祈りを通しての神の聖霊は、あなたの心を変える最も重要な源です。神は、あなたの精神だけでなく、あなたの心を造り直し、神はあなたの気持ちをあるべき正しい状態にされることを約束しています。また、私達は、神の愛が私達の心を満たし私達を変えることによって、愛し合い、成長する信仰の共同体の一員になりえるのです。神はそのままの私達を愛していますが、変わらない私達を放っておくのではなく、私達の愛の中で成長するのを助け続けています。神の愛は私達を変えます。神は私達を導きます。なぜなら、聖霊は、私達の主イエスがあなたと私のために同じ愛を与え、同じ主イエスが私達を内側から変えるためにその愛で私達の心を満たすために聖霊を送ったからです。 最後に、1コリント13:8「愛は決して滅びない」から分かち合いましょう。詩篇136では、「神の愛は永遠に続く」という言葉が26回繰り返されます。(はい。私は数えました。26回) 神の愛は永遠に私達と一緒です! 神の愛は決して終わりません。神は愛です。 祈りましょう。 聖なる神様、あなたは私達を「愛する者」と呼ぶ そして、あなたは私達をとても愛しています。あなたの神聖なる愛が私達の中に宿り、そして、私達を通して現れ、どんな言語を話しても あなたの愛は、私達が話す言葉と私達の行動によって知られるでしょう。正義のために立ち上がるために私達を呼び出すとき、あなたの愛は、私達の行動に拍車をかける力になります。知識を求めるとき、あなたの愛は私達に真実に至るまで、私達を導きます。信仰の下で祈りをささげる時、神よ、あなたに対する私達の愛は、私達の心を平安で満たします。私達が自分自身と所有物を与えるとき、あなたとあなたの人々に対する私達の愛は、世の中の物欲を超えて輝くでしょう。 神よ、愛の贈り物に感謝します。私達が、愛が開いていく道を歩けるように、あなたが私達を力づけるような愛の行動を私達に見せてください。 アーメン。 祈りましょう。神様、御言葉を通してあなたがご自身を明らかにしてくださるように、私たちも自分自身をあなたの前に明かすことができますように。アーメン。
「トキシック・マスキュリニティ」という言葉を聞いたことがありますか?私が初めてこの言葉を聞いたのは神学校で勉強をしていた時でした。「トキシック・マスキュリニティ」日本語では「有害な男らしさ」と訳されていますが、この言葉は社会全体が男性らしさを男性に求めるときに起こるネガティブな、有害な影響を意味します。 この事をもう少し深く考えてみましょう。男性に対して私たち社会が抱いているステレオタイプにはどのようなものがあるでしょうか?スポーツが得意?たくましく、メンタルにおいてもタフ、家の主、問題解決が得意、けれども指示に従うのが苦手? このようなステレオタイプ的な考え方は、男性だけでなく、女性にも有害を与えます。何故なら知らないうちに男性はこうあるべきだというプレッシャーや、期待を男性も女性も男性にかけてしまうからです。その影響は有害、トキシックなものです。 例えば、男性によるドメスティックバイオレンスは男性はそういう生き物だから仕方のないことと、チャレンジを受けずに一部の文化では認識、容認されています。このような考え方は被害を受ける女性にとって、もちろん有害な考え方です。しかし、忘れてはいけないのは男性もドメスティックバイオレンスの被害者になることもあることで、社会全体が男性=男らしい=マッチョ=強いという概念に固執していると被害者の男性は声を上げることが難しくなります。「トキシック・マスキュリニティ」はただ、男の子、男性はそういうものという単純な考え方を超えた、社会全体に悪影響を及ぼす根の深い問題なのです。 小さい頃から、男の子は「男らしく」振る舞うよう求められています。男の子なんだから、泣かない。男の子なんだから感情的にならない、何故なら男の子はタフで、弱さを見せてはいけないから。そのように口に出してはいなくても、心のどこかで男の子、男性はそうあるべきと思ってはいないでしょうか? 男性は感情を出さない、タフで強くあるべきという考え方が社会にはびこり、小さい頃から、男の子はこうあるべきとして育てられた男性は、感情(特に弱いとされる感情)に向き合う、感情を表現する、感情を受け入れてもらうという機会があまり与えられず、結果として感情を表現したり、見せたり、助けを求めたりする深いレベルでの人間関係を築くことが難しいことがあります。 しかし、「トキシック・マスキュリニティ」はステレオタイプ的な考えが社会にもたらす有害の例の一つに過ぎません。私たち人間は、特定の性別、人種、グループに対し偏見や、こうあるべきという考え方を押し付けていることが多くあります。 今日はそこで私たちクリスチャンが、自分達自身、つまりクリスチャンコミュニティに押し付けている有害な概念がないか考えてみたいと思います。私たちの中に「クリスチャンなんだからこうあるべき」という考え方が、実は有害な影響を与えているということはないでしょうか? つまり「トキシック(有害)なキリスト教信仰」というものはないでしょうか? このようなことを考えながら今日の聖書箇所、イザヤ書を一緒にみていきましょう。今日の聖書箇所は紀元前6世紀ごろ、南イスラエル王国の政権を握っていたウジヤ王が亡くなった時のこと、当時預言者として南イスラエル王国に遣わされていたイザヤが栄光に満ちた堂々たる、壮大な神様に出会った時のことが記録されています。 「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。」(イザヤ書6:1) 主のすそはその大きさゆえに神殿全体を満たしており、燃える天使と呼ばれるセラフィムがそれぞれ6つの翼を持ち、翼で顔と足を隠しながら、飛んでいた。(イザヤ書6:2) そしてセラフィムは互いに呼びかわして次のように言います。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ書6:3) セラフィムはその翼で顔を隠しており、目は見えないながらも、神様の栄光と荘厳を感じることができたのです。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と言うセラフィムの賛美に応答し、神殿の「敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされ」ます。(イザヤ書6:4) このような賛美の場に招き入れられ、イザヤは神様の臨在を強く感じたはずです。彼の目、耳、鼻、そして足、体全体で。 神様の臨在をこのように満遍なく感じたことはあるでしょうか?神様は偉大で、素晴らしいお方、けれど遠くにおられる方ではなく、私たちのすぐ隣に、近くにいて、私たちを抱きかかえてくださる、そのように神様を感じたことはありますか?私の場合、礼拝堂で賛美をしている時、心からの祈りの時、祈りながら、聖書を読む時、そして海の見える近くの公園にいて海の大きさを神様の大きさのように感じることができる時、特に神様を近くに感じます。 「大丈夫、神様がおられる、私と共に。こんな私でも愛され、守られている。」大変なことがあってもそう思えることができます。 このような思いは無理やり自分に言い聞かせている思いとは違います。神様と親密な時間を過ごしているとこのような思いが与えられるのです。それはまるで神様が私に語りかけてくださるようで、神様の優しいタッチを感じることができます。 今日の聖書箇所で、イザヤは神様と「個人的に」出会います。イザヤは神様から召命・コール・コミッションを受け取ります(イザヤ書6:8)けれど、よくよく考えてみると面白いと思いませんか?今日の聖書箇所はイザヤ書6章なわけです。イザヤ書の初めの章ではないわけです。モーゼスや、エレミヤなどの預言者達は、神の民に仕えるように召された時、その瞬間から、神様と「個人的」な出会いを体験しています。(出エジプト記&エレミヤ書) でもイザヤはそうではありません。イザヤ書を読んでみると、今日の聖書箇所の前の1~5章において、イザヤは預言者としての働きをしています。けれどもイザヤは6章目まで神様と個人的に出会う、交わる、関わるというような関係にはなかったわけです。彼の目が、耳が、鼻が、足が、心が体全体が神様に触れられるという経験は6章までなかったわけです。 クリスチャンでありながら、リアルで、個人的な出会いや関係を神様と持ったことがないということがありえるでしょうか?もしくはクリスチャンになった時はそのような劇的な、個人的な出会いがあったけれど今はそうでもない、そのような経験はないでしょうか? もちろんありえると思います。教会に行き、賛美し、交わり、奉仕していたとしても、神様との個人的な出会いや、交わりがない。イザヤのように神様と劇的に出会い、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ書6:8)という思いが与えられ、それを口にするそういう経験がない。そういう方もおられると思います。 何故ならイザヤ自身も6章目まではそうだったからです。 そのように考えると「何故?」という思いが湧きあがります。何故私たちは、リアルな、個人的な、真の交わりを神様と持つことができないのでしょうか?何が私たちがそうできることを阻んでいるのでしょうか? 私は、今日の一番最初に話した「トキシック・マスキュリニティ」と同じように、クリスチャンはこうあるべきだという価値観を私たちが、自分自身、そして教会として他の人々に押しつけていることが、神様との真の交わりを阻んでいるのではないかと思っています。具体的にいうと、時としてクリスチャンはポジティブ、楽観的な考え方に早く行き過ぎているのではと思うことがあります。それは裏を返せば、人間の経験の奥深い部分に向き合うことに対する恐れがあるのではないかと思うのです。 昔このようなことを聞いたことがあります。ある人が私にこのように言いました。「私は傷ついたり、戸惑っている自分を教会で見せることが、本当の自分を見せることができない。」何故なら、ジャッジされるのが怖いから。本当の自分を見せたら、クリスチャンなのに変えられていないのか、そんなんなのかと思われ、受け入れてもらえないのではと思う。クリスチャンだったら、信仰を持つことで人生がハッピーに、好転し、簡単になるべきという風に見られるのではないか。そのように話してくれました。 みなさんこれを聞いてどのように思われますか?これは珍しい不安では決してないと思います。例えば、前回の説教で私は、私の友人や家族が信仰を受け入れるためには、私が幸せでいるように、祝福されているように見えなければならないと思っていたことを告白しました。そしてそのようなプレッシャーを今でも時として感じることがあります。いつも落ち着いて、ポジティブで、ストレスなど何も感じていなくて。。。。牧師としての働きに仕えている今、そのような見せた方が良いという誘惑は以前より大きいのかもしれません。 コロナ感染&拡大で人々はストレスを感じています。米国心理学会によるとアメリカ人の3分の1から2分の1の人々がストレスの重圧を感じ、その日何を着る、何を食べるなどの生活における基本的な決断をすることが難しいとアンケートに答えたそうです。(2022年2月6日にhttps://www.apa.org/news/press/releases/2021/10/stress-pandemic-decision-makingより抜粋) 生活における基本的な決断をすることが難しい、このアンケート結果に私も共感します。コロナの感染者が爆発的に増加している今、私の3人の子供達は、子供達の通っているクラスで感染者が出たので今全員、学校に通わず自宅で時間を過ごしています。ここ1週間は色々な場所に電話をかけて予定を延ばしたり、キャンセルしたり、食料品を買い込んだり、子供の友達が家に遊びに来たら、断って代わりにオンラインで話せるようにZoomをセットアップしたり、子供達のオンライン授業のセットアップとフォローアップをしたりと、もう一つパートタイムの仕事が増えたようでした。そして、もちろん今説教しているメッセージの原稿を書き終えなければいけません。(笑) というわけで、ストレスで(笑)、最初に言うのを忘れましたが、子供達が自宅にいるので、私も家から仕事をしています。ですので今日は教会からメッセージをするのではなく、家で説教を録画するという形でみなさんにメッセージを届けています。もう言わなくてもわかると思いますが。 生活における基本的な決断ができない。他にも考えることや、やることが多すぎてストレスを感じる。。。 どのようなストレスがあるか、どのようにストレスが現れるかはもちろん人によって千差万別です。仕事の契約が切れるので、職探しをしている人のストレス、引っ越しを検討しているが引っ越したら仕事を続けられるかという不安、コロナで残業時間や出勤日が減り、貯金を崩しながら生活をしているストレス。病気になったこともストレスなのに、コロナで病院で思うように治療を受けることができないストレス。このようなストレスの原因から不安や、疑問、心配が積み重なり、祈ってみてもなかなか心の重荷が取れない。 祈っても祈っても祈りが聞かれていないように感じる。何故だろうか。 クリスチャンとして、私はこのような心のざわつき、心配、不安、ストレスを抱えるべきではないのに。。。本当はストレスが溜まっていてどうしようもない、そんな気持ちを暴露できない。。。そのように思われている方はいないでしょうか? 神様はいつもおられる、全てをつかさどっておられる、だから全ては大丈夫と、いつも言うべきなのに。信じるべきなのに。神様は全能の神様だから、私も、私の友人も、私の家族もみんな大丈夫。神様は強いお方。心配や不安を抱えていても何も解決しない。不安や心配を抱えているのは、私の信仰が弱いからだ。。。 勘違いしないでください。私は神様を信じています。神様が良いお方で、恵み、慈しみ深く、ローマ人への手紙8:26が言うように「神を愛する人々、すなわち、神ご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」という言葉を信じています。 神様が持つパワーを信じています。しかし、私がここで言おうとしていることは、神様の力強さを押し出すあまり、時として私たち教会コミュニティは、トラウマや、不安からくる痛み、傷、弱みなど真実で、正直な人間の姿を見せて分かち合うスペースを、意識的に作ってはないのではないかということです。神様の子供として、クリスチャンとしてあるべき姿を押し出すあまり、ストレスをストレスとして、痛みを痛みとして、トラウマをトラウマとして、怒りを怒りとして、恐れを恐れとして、悲しみを悲しみとして分かち合うというスペースを作ることを忘れてしまっているのではないでしょうか。 痛みからくる涙を流す前に、神様を信じているから、神様が私たちといてくださるから全ては大丈夫というところに急ぎ足で向かい過ぎてはいないでしょうか?高いところにおられる神様に会うために、セラフィムの賛美にさっと加わり「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」(イザヤ書6:3)と共に歌ってはいないでしょうか?心の中を深く探ることなく。もしかしたら本当はまだそのように歌う準備はできていないかもしれないのに。 そのようにして、自分の内側を見つめず、ポジティブであることや、全ては大丈夫という表面的な楽観を抱き続けると、神様の前に、魂を裸にし、真の告白をするという経験や、そのような経験を通して感じることのできる神様の臨在を見逃してしまうことでしょう。どのような自分をも全て受け止めてくれるという神様の臨在を経験する機会を逃してしまうのです。 イザヤは神様の栄光、荘厳を経験した後、すぐに賛美のコーラスに加わるのではなく、自分の中にある痛みや不完全さを見つめ、このように言いました。 「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ6:5) もう終わった。断ち切られた。どうしようもない。 イザヤは、「ああ、こんな自分で、自分が仕えるコミュニティもこんなんで、悲しい、辛い。」このようなストレスを抱える思いをこの言葉を通して告白していたのかもしれません。 ここで立ち止まって伝えたいことは、私たちはクリスチャンとして苦しみについて正直であることと、神様の臨在の中にいることどちらかを選ばなければいけないわけではないということです。早々と神様の賛美に移ることで、私たちはもしかしたら、神様の前に真実な、リアルな自分達の姿を、告白を持っていっていないかもしれないのです。 寂しい。 鬱病がある。 怒りがある。途方に暮れている。ストレスが溜まっていてどうしようもない。 「ああ。私は、もうだめだ」(イザヤ書6:5)こんな状態になってしまっていることが悲しい。 このように感じる自分達を私たちは許容できているでしょうか?クリスチャンコミュニティとして私たちは人々の苦しみや、悩みを、人々が裁かれたり、非難されていると感じることなく受け止めてあげられているでしょうか?それとも、そのような苦しみや悩み、辛さを受け止めることのできる神様にアクセスできるスペースを作らず、それらを否定し、神様を賛美しようと行き足早く自分を、相手を急かしていないでしょうか? 私は神様を賛美し、礼拝することの大切や美しさを否定しているのでは決してありません。ただ、自分達の中にある傷を見つめ、その部分に向き合う時、傷だらけの自分や自分のコミュニティにも流れる神様の愛に気づき、その愛に出会う時、私たちは、義務感や無理やりという気持ちではなく、自然と心から神様への賛美が溢れでるようになります。 何故なら、イザヤが見せてくれるように、私たちは自分達の傷をさらけだし、告白するのと同時に、神様の御名を同時に賛美することもできるからです。 イザヤはこの様に言っています。 「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目でみたのだから。」(イザヤ書6:5) 神様に出会うために自分達を完璧にする必要はありません。神様に会うために、神様に聞いてもらうために、見てもらうために、自分達が神様のようになる必要もありません。(そんなことは最初からできませんが。)神様は私たちのところに、私たちが通っている状況のところに来てくださり、私たちの心からの告白や思いを聞いてくださる方です。 ここで神様がセラフィムを送り、イザヤの汚れた口に触れられたことの意義を考えてみましょう。旧約聖書において「汚れる、汚れている」ということは、大問題でした。この「汚れ」が神様とイザヤ、イザヤのコミュニティの間に埋められない距離を置き、それが原因でイザヤとイザヤのコミュニティは神様と交わることができないと考えられていたのです。 けれどもイザヤはこの清い神殿で、まだ汚れているままで、神様の栄光を仰ぎ見、感じることができました。このように神様がご自身を現して下さった時、イザヤは自分の弱さ、コミュニティの真実の姿を告白し、神様が見せて下さった栄光に預かる者ではないことに気づくのです。 「ああ。私は、もうだめだ。」 私たちの神様は私たちがその様に心のうちを打ち明けた時に、自分達でそのことを処理するように、処理してから神様のところに戻るようにと言う神様ではありません。その場でそのことに関わってくださる方です。 イエス様は汚れていると思われていたツァラトに冒された人、遊女、イスラエル人と敵対していると信じられていたサマリア人と交わりを持ちました。イエス様は世の中から拒絶された人々が持つ痛みを聞き、受け止めたのです。 もうだめだ。疲れた。ストレスがひどい。悲しい。寂しい。怒りがある。病気になった。辛くて、苦しくてもう何て言ってよいかわからない。 このような状況にある時、神様は私たちの痛みを見過ごし、無理やり賛美しなさいと強要されるお方ではありません。神様は私たちに自分達を賛美にふさわしく整えてから、神様の元に来るようにも言っておられません。むしろ、そのままの私たちと向き合い、痛みや苦しみを共にされたいと思っておられるのです。 神様は私たちの心からの思いと告白を聞きたいと思っておられます。 もうどうしてよいかわからない。何も決めたくない。何も考えたくない。何もしたくない。 神様は良いお方。誠実で、優しく、赦し深く、愛に溢れ、祝福を下さり、日々の生活を守ってくださる。神様は私たちに何度でも、何十回でもチャンスを下さる。 神様は私たちが神様のことを賛美をするときも共におられ、私たちが自分たちの心の 思いを打ち明け、告白するときに共におられます。ヘブル語の「告白」に当たる単語「Yada」は賛美すると言う意味でもあるのです。 神様は私たちの全てを知りたいと思っておられます。私たちの幸せ、喜び、悲しみ、怒り、失望、フラストレーション、絶望、心配、疲労。神様は私たちの全て、私たちが経験する全てに関わりたいと思われる方です。 コロナウィルス蔓延の世の中に生きる私たちは、多くのストレスを抱えています。パンデミックが始まってからすでに5,705,754 の命が奪われ、 386, 548, 962 の人がウィルスに感染しました。コロナウィルスに感染しなくても、周りの誰かの命が奪われていなくても、2年に及ぶコロナウィルスパンデミック化の生活は私たち全員の生活を変えました。 私たちは疲れています。ストレスを抱えています。 けれど、私たちはそれでも神様を賛美することができます。私たちは生きた神様に出会うことができます。それは自分たちの疲れを否定したり、ストレスをあえて見過ごして、クリスチャンの義務感から賛美をするのではなく、イザヤがしたように自分を神様の前にさらけ出す時に自然と神様への感謝と賛美が溢れてくるのです。 私たちの目が、私たちの汚れた、傷ついた部分に触れるために、私たちの元に来てくださる万軍の主である神様の栄光を目撃します。神様は私たち自身も、見つめるのを憚る完璧ではない、人間らしさに満ちた部分に関わりに来てくださいます。神様は私たちと親しくなることを願い、痛みを抱える部分に寄り添いたいと思ってくださるお方です。 心からの思いの告白と賛美は私たちを神様に近づけます。私たちが日曜日に集まる礼拝は私たちが抱く心の内の思いの告白と、賛美をすること両方ができるようにデザインされています。礼拝の中で行う告白と賛美全てが神様に栄光をお返しすることにつながるのです。心からの思いの告白と賛美、どちらかが欠ければ本当の意味で神様に出会うことはできません。 自分の、自分達の全てを神様に持って行く時に、神様はそこにいて、受け止めてくださいます。そして神様が私達にそうしてくださるように私たちもお互いに対して、そうするように招かれています。人々が抱えるストレス、苦しみ、痛みを受け止めるように招かれています。 「大丈夫、神様は弱い時に強いお方だから。心配しなくてもいい。」など、人の痛みを否定したり、すぐに軽くするような発言をしないようにしましょう。神様が私たちの心のうちを、心の叫びを忍耐深く聞いてくださるように、私たちもお互いをそのように取り扱いましょう。私たちは複雑なのです。痛みや弱みや、傷がありながら、罪と向き合いながら、それでも神様の御名を賛美する、そのことができる者なのです。 私たちは苦しみを神様の前に持っていき、その痛みを容認しながら、引き続き神様の臨在に留まることのできる共同体なのです。 神様の前において、砕かれた心は、心からの賛美と同じくらい尊い捧げものです。 私たちが自分達の全てを神様に持って行く時に、私たちはイザヤのように、整えられ、神様への献身への思いを新たにすることができます。神様の前に、神様のコミュニティの中に隠れるのではなく、自信を持って「私はここにおります。私を、私の全てを用いて遣わしてください。」と言うことができるでしょう。 祈りましょう。神様、どうぞあなたの前に今正直に私の全てを持っていくことができますように。聖霊を通して助けてください。アーメン。 |
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May 2024
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