「心を差し出す」| ルカによる福音書 2:1-7 (新改訳) | 神戸ユニオン教会 | クリスマスイブキャンドルライト礼拝 | 2023年12月24日 | 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師12/24/2023 祈りましょう。私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。私たちの岩、贖い主、主よ。アーメン。
私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの御名によって、クリスマスおめでとうございます!共に喜び祝いましょう!私が皆さんと喜びを分かち合っているこの瞬間、この挨拶が私からのものではないことを皆さんに知っていてほしいと思います。私はこの教会で奉仕する牧師の一人であるだけで、今晩この美しい礼拝堂に皆さんを招きお迎えしているのはイエス キリストです。この教会が今夜の皆さんのホストではないし、私自身も皆さんのホストではありません。神様がホストであり、今夜この礼拝堂、そしてオンラインの場に私たち一人ひとりを 迎え入れてくださっています。 あなたが気づいていようといまいと、神様はあなたに今夜ここに来るようにという招待状を一 枚一枚個別に送り、そしてあなたは今この場にたどり着いたのです。 ですから、私たちの主イエス・キリストの御名によって、皆さんを私の教会でも私たちの教会でもなく、神の教会、神の家に今夜お迎えできることをとても嬉しく思います。 今日はお話しから始めさせてください。 1週間ほど前、私は末っ子の幼稚園で行われたクリスマス・ページェント(クリスマス劇)に行きました。クリスマス劇当日、私は幼稚園に行き、他の保護者たちと一緒に列に並んで中に入るのを待っていました。私の隣には息子の友人の母親がおり、園の門がまだ開いていなかったので、私と彼女は少し話をし始めました。どのように話し始めたのか正確には覚えていません。しかし気づくと、私は聖書にあるクリスマスの話を彼女にしていました。彼女は聖書のクリスマスの話に馴染みがなかったので、もちろん、難しすぎたり、複雑すぎたりしないように説明しようと心がけました。KUCに定期的に来られる皆さんは、私が聖書のことになるとどれだけ長く喋るかご存知ですから、これがいかに大変だったか想像がつくのではないで しょうか?(笑) 私は彼女にクリスマスの話を話し始めました。あるところにヨセフとマリアという若いカップルがおり、二人は婚約したばかりでした。将来に控える結婚を楽しみにしていたました。しかしショックなことに、二人の間に子供ができていることがわかりました。当時、結婚前に女性の妊娠が発覚することは、タブー、論外、そしてそれは死を意味しました。 マリアは姦淫の罪で殺されてしまう!ヨセフは彼女が罰せられる前に、婚約解消を考えます。 しかし、神様から遣わされた天使が二人に、この宿った命を守り、世に迎えなければならないことを伝えます。天使は、この子供は二人にとってだけでなく、全世界の人々にとって、特別な子になるからだと言います。この子は「私たちを救って下さる神」を意味する「イエス」と名付けられ、地上のすべての人の主であり救い主であるメシアとなるために生まれるのだと二人に告げます。 マリアとヨセフは神様が天使を通して言われたことを信じ、宿った命を二人で育むことを決めます。 時間を早送りして、2023年の12月のとある日、しばらくすると息子の幼稚園の門が開いたので、私はママ友との話を中断し、幼稚園の中に入りました。席を見つけ座ると、子供たちの準備が整うまでしばらく待つようにと言われたので、私はその時間を使って、聖書のクリスマスの話に出てくる東方の博士や羊飼いたち、さらに天使たちの話を彼女にしました。 そうしているうちにクリスマス劇が始まりました。 クリスマス劇が嫌いな人がいるでしょうか?特に可愛い子供たちがその劇の役を演じているのですから尚更です。というわけで、私の目、耳、心、私のすべてが、即座にクリスマス劇の世界の中に引き込まれました。羊、羊飼い、天使、宿屋の人々、東方博士、ナレーター、そしてもちろんヨセフとマリア。 どの子たちもとても上手にセリフを覚え、それぞれの役を見事に演じきっていました。 私の子供は宿屋の一人を演じました!とてもよく頑張っていました。 その日のクリスマス劇で私が一番好きだったシーンのひとつは、宿屋の人たちとヨセフとマリアのやりとりでした。確かに、私の子供が宿屋の一人だったからという理由もあります。それでも私にとって一番このシーンが印象に残ったのは他の理由です。そのシーンでは、愛らしい子供たちの演技を通してでさえ、私たち人間の心の頑なさがよく表現されていました。そして人間の心の頑なさとは対照的に、いつも私たちのそばにいて、私たちが神様と出会うことを待ち望んでいる神様の心の優しさ、柔らかさもよく表されていました。 ヨセフとマリアはベツレヘムの町に向かいました。それは、ローマ皇帝が全世界に向けて、帝国内の市民はみな、住民登録をするために、一族の長の故郷に帰らなければならないと命じたからでした(ルカによる福音書2:1-5)。ベツレヘムに着いたばかりのヨセフとマリアは、マリアがお産を控えていることもあり、宿屋を転々としながら、自分たちが泊まれそうな場所 を探して、ゆっくりとゆっくりと町中の宿屋を転々としました。 我が家の子を含めた子供たち、その様子をかわいい、キャッチーな歌で表現していました。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 マリアとヨセフがこのように尋ねるたびに、宿屋の人々は扉を開けますが、「申し訳ありませんが今夜は満室です。」と言い、その扉を閉じます。 「申し訳ありませんが、今夜は宿は満室です。他をお探しください。」 拒まれたヨセフとマリアは、町中を歩き回り、次々と宿屋のドアをノックし続けます。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 だんだんとヨセフもマリアも声の力が弱くなっていきます。しかし、それでも彼らはなかなか泊まる場所を見つけることができません。 そして最後の宿に着くと、初めは宿屋は他の宿と同じように二人の申し出を断ります。しかしヨセフとマリアは必死に懇願します。 「お願いです、どこでもいいんです。私たちにはもうすぐ赤ちゃんが産まれます。お願いです。どこでもいいんです。」 この宿屋の人は少し考えると、ドアを少し大きく開け、二人に向かって言いました。 「わかりました、今空いているスペースは散らかっていて、あなたが必要としている状況にはふさわしくないのですが、それでもよろしければお入りください。」 マリアとヨセフは宿屋の中に通され、馬小屋へと案内されました。そして二人は、この世の救い主であり、王の王であり、不思議な助言者であり、力ある神であり、永遠の父であり、平和の君(イザヤ書9:6)である赤ん坊イエスを、汚く、雑然とした、臭う飼い葉桶の中に置きました。イエス様は始めは、両親と動物たちによってのみ、このようにしてこの世に迎え入れられ、産まれる前から拒絶された方だったのです。 「空いているスペースは散らかっていて、ふさわしくないのですが、それでもよろしければどうぞお入りください。」 これは、宿屋の人がヨセフとマリアに言った言葉です。 もしかしたら皆さんはそうでもないかもしれませんが、私にとって、自分の家が散らかってい たり、また私の人生がめちゃくちゃな、悲惨な状態にある時に一番したくないことは、誰かを招き入れ、私の散らかった家や、私の惨めで悲惨な人生をありのままにその人に見せることです。「入ってもらってもいいんだけど、散らかっているし、何か嫌なものを見つけるかもしれないけど、それでもよかったらどうぞ入って 。」と言うのはなかなか覚悟のいることです。 皆さんはどうですか?このような状況の時に、「どうぞどうぞ入って。」と言えるでしょうか。なかなか難しいのではないでしょうか。さらにこのように言うのも難しいですが、一歩進んでそのことを実際に実行するのはもっと難しいと思います。 「散らかっているのは分かっているけど、どうぞお入りください」と言うのも難しいですが、実際にドアを大きく開け、自分自身の家、人生をさらけ出し、ドアをノックしていた人を汚れて散らかっている自分の家、自分の人生の中に招き入れるのは、とても難しいことです。 そう思いませんか?でも、どうしてそんなに難しいのでしょう? それは私たちが皆人間であり、人間は批判されたり、裁かれることを恐れるからです。私たちの部屋の状態や生活の状態を見たとき、相手がどんな反応を示すかわからない。それは危険が伴うことです。愛情深く受け入れてもらえる保証はどこにもありません。相手が入ってきて、あたりを見回して、「うわ、思ったよりひどいね」と言うかもしれません。どうしてこんなことに?片付けなよ。人生変えないとダメなんじゃない?」 たしかにそのように言われる可能性はあるし、その可能性を考えると恐怖を感じるでしょう。けれどこのような可能性もあります。つまり私たちが想像もしないような反応を受ける可能性 もあるのです。 相手は優しい目で、愛情を込めてこう言ってくれるかもしれません。 「入れてくれてありがとう。きっと簡単なことじゃなかったよね。」 「でもあなたの部屋、あなたの人生がメチャクチャなんてことはどうでもいい。今夜私はあなたに会いたかった。」 このクリスマスの夜、イエス・キリストが私たち皆のために生まれてきてくださったことを心から信じる者として、確信を持って言えるのは、私たちの主であり救い主のイエス様はいつもこのように、裁きではなく、愛の言葉をかけてくださる神様ということです。 「あなたの家も、あなたの人生も、めちゃくちゃでも構わない。私はあなたに会いたいから。どうか、あなたの人生に私を入れてください。」 あなたが心の扉を開けるつもりであるなら、批判や裁きを恐れていながらも、あなたがリスクを冒して心の扉を開き、イエス様を迎え入れようとする限り、イエス様はいつもあなたに言ってくださいます。 「あなたの家も、あなたの人生も、めちゃくちゃで構わない。私はあなたに会いたいから。どうか、あなたの人生に私を入れてください。」 神様は決してあなたと関係を築き、深めることを諦めず、いつもあなたの心のドアを叩いています。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。♪」 神様は、あなたの散らかった部屋と散らかった人生に神ご自身が入って、留まることを望んでおられます。その思いが絶えることはありません。もちろん、私たちは自分の目で神様の 存在を確認できるわけでもないし、人の声、街の声など、他の音を聞くのと同じように神様の声をはっきりと聞くことができるわけでもありません。 しかし、あなたが心の扉を開く時、神様は私たちに直接語りかけ、こう言ってくださいます。優しく、温かみのある声でこのようにささやいてくださいます。 「入れてください。私はあなたを愛しているよ。何があっても。私はあなたを愛しているよ。」 クリスマスの物語を聞くのが初めてであろうと、100万回目であろうと、神様は今夜も、いつも同じことを私とあなたたちに語ってくださいます。 「♪こんこんこん、こんばんは。一晩泊めてくださいな。あなたにどうしても会いたいから♪」 この呼びかけに私たちはどのように応答したら良いのでしょう?どう答えればいいのでしょう?あなたの心のドアをノックする神様の声に、私たちはどう答えればいいのでしょう? 私自身は、次に聖歌隊が歌う賛美歌「In the Mid-Bleak Winter」(木枯らし寒く吹きすさび)の4節にその答えを見つけました。その歌詞はこうです。 主に何をさしあげられるだろう わたしのように貧しいものは。 もしもわたしが羊飼いなら 子羊を持っていくのに。 もしもわたしが賢者(東方の博士)なら、 その才知を役立てるのに。 今はわたしにできることをさしあげよう わたしの心をさしあげよう。 聖歌隊が歌うとき、私は皆さんに、美しいメロディーに混じり合う声の響きを味わうだけでなく、歌詞の言葉そのものを味わっていただきたいと願っています。神様の静かな、ささやくような招きに心の目と耳を開き、自分の心の扉を開くが準備ができているか是非思いを馳せてみてください。
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「クリスマスの本当の意味」| ルカによる福音書 2:8-20 (新改訳) | 神戸ユニオン教会クリスマスイブ礼拝 | 2023年12月24日 | 説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師12/24/2023 祈りましょう。神様、今朝、私たちがクリスマスの本当の意味を理解できるように
助けてください。イエスの御名によって、アーメンと祈ります。 今日のメッセージの準備をしながら、私はクリスマスの良い知らせとは一体何なの だろうと考えていました。今朝読んだお話しの中にはこうあります。夜、夜番で野 宿しながら、羊の世話をしていた羊飼いたちに主の御使いが現れ、こう言います。 「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビ デの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キ リストです。」(ルカによる福音書2:10-11) 亜希子、今更何を言ってるの?教会で育った子供たちですら、なぜクリスマスが私 たちにとって良い知らせなのかを知っているでしょう。昨晩、私が私の子供たちに 、「なぜクリスマスが大きな喜びの良い知らせなのか?」と尋ねたとき、子供たち も御使いが羊飼いに告げたことと同じことを言いました。私たちの主であり、すべ ての人のため、民全体の救い主であるイエス・キリストが、クリスマスの日にお生 まれになりました。その通りです。 しかし、私の疑問は、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生が、 具体的に私たちにとって、どのような良い知らせなのかということです。私たちは 本当に知っているのでしょうか?説明できるのでしょうか?クリスマスの本当の意 味を。 今日のメッセージの原稿を書く時、私は我が家のクリスマスツリーが飾られた部屋 の一角に座っていました。朝早い時間で、まだ暗かったので部屋の電気をつけたほ うがよかったにもかかわらず、私は部屋の電気を消したままでいました。なぜなら 真っ暗な部屋の中で、ツリーの美しさに魅了されていたからです。今日の説教原稿 を完成させるために手と頭を動かし続けるべきだったにもかかわらず、私は手を止 めました。していることを止め、我が家に飾られたクリスマスツリーを見つめまし た。 我が家のクリスマスツリーは、礼拝堂にあるクリスマスツリーほど大きくもないし 、豪華でもありません。我が家のクリスマスツリーは部屋の大部分を占拠するので もなく、隅に置かれています。クリスマスツリーが置かれている部屋は、しばしば 人々が滞在したり、私たち家族が、友人や教会の人と神様と共に過ごすために歌を 歌ったり、祈ったりする場所です。もちろん部屋の電気を消したままで、部屋が暗 かったので、クリスマスツリーの美しいディテールは見ることができませんでした 。しかしそれでも、クリスマスツリーを見て、私はその美しさに心を奪われました 。ツリーに飾られた白と金色のライトが点いたり消えたりしています。ライトがつ くと、ツリーに飾られたそれぞれのオーナメントの形や色がクリスマスツリーの美 しさを引き立てているのがわかりました。 「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビ デの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キ リストです。」(ルカによる福音書2:10-11) 御使いからこの事を聞いた羊飼いたちは、おそらくこれが自分たちにとって、いっ たい何を意味するのか最初は理解できなかったでしょう。なぜ、この知らせがすべ ての人々に喜びなのか?そして、なぜこの知らせが羊飼いたち自身に届けられたの か?羊飼いではなく、もっと力のある人、もっと有名な人、あるいはこの知らせを 受け取り、お礼に多くの素晴らしいお返しを送ることができる人にこの知らせが届 かなかったのだろうか? その昔、羊の世話は多くがやりたがらない、低俗な仕事のひとつと考えられていま した。羊飼いは羊の血や糞に定期的に触れており、そうすることで汚れていると考 みなされていたからです。彼らは汚れた、触れられるべきではない存在とみなされ ていました。だから彼らは社会から疎外されていたのです。 闇が刻々と深まる夜、救い主である赤ん坊イエスの誕生の知らせは、まずこの羊飼 いたちに伝えられました。 それを聞いた羊飼いたちは、自分たちの働きを止めます。動かしていた手や足を止 めました。すると突然、大勢の天の軍勢が天使に加わり、共に神を賛美して言うの を見ました。 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々 にあるように。」(ルカによる福音書2:14) 羊飼いたちの目は、御使いと天の軍勢に釘付けになりました。羊飼いたちは、自分 達の目の前に、何か特別で、美しく、荘厳なものを見たのです。羊飼いたちは目撃 した美しさは、私が魅了されたクリスマスツリーの美しさの1000倍、いやそれ以上 だったに違いありません。羊飼いたちは、御使いと天の軍勢に出会ったですから。 私はただ自分の家にあるクリスマスツリーを眺めていただけです。でも、そんなこ とは関係ないのです。羊飼いたちと私、比べてみてどちらがより畏敬の念を抱いた かというのが問題ではないからです。 重要なのは、羊飼いたちと私は、動かしていた手と足を止め、次に何をすべきかを 常に考えることをやめ、神様が目の前に差し出す美しさを見つめたということです 。 私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生の知らせのどこがそんなに 喜びあふれる良い知らせなのでしょう?結局、羊飼いたちの生活は厳しいままです 。羊飼いたちは、まだ汚れた者として多くの人々に敬遠されたままでした。報酬も 低いままです。御使いと、天の軍勢から知らされ、イエスキリストに会いに行きま したが、羊飼いたちの生活はガラリとは変わりませんでした。彼らは負担の大きい 仕事にまた戻っていったのです。 私は自分が生きる世の中を見つめる時、そこに暗闇を見ます。今年もまた新たな戦 争、紛争が始まりました。財政的に苦労している人はたくさんいます。賃金は変わ らないのに、生活費はどんどん高くなる一方です。いろいろな病気が流行り、多く の人が病気にかかりました。人々は忙しく、ただ生活するのに必死です。子供たち は聞き手を必要としています。大人たちも、他の人間との繋がりに飢えています。 しかし、私たちは皆忙しくし、手と足を動かし、なかなか心を休めることもありま せん。 では、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生の知らせを受けても 、物事が何も変わっていないように見えるとしたら、何がそんなに喜び溢れること なのでしょうか?本当にこれは良い知らせなのでしょうか? そんなことを考えながら、私は立ち上がって我が家のクリスマスツリーのある部屋 の明かりをつけました。羊飼いたちも立ち上がり、互いに言い合いました。 「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て 来よう。」(ルカによる福音書2:15) 明るい部屋のクリスマスツリーも、暗い部屋のクリスマスツリーと同じくらい美し いものです。ツリー自体は何も変わっていません。別にオーナメントを増やしたわ けでもありません。しかし、部屋の明かりをつける時、それぞれのオーナメントや ツリーのディテールがより良く見えるという意味で、ツリーはより美しくなったと 言えます。それぞれのオーナメントが独自の色と形の美しさを発揮し、点灯してい るクリスマス・イルミネーションの周りで輝いていました。 明かりのついた部屋に佇むクリスマスツリーの美しさに、パソコンの上で忙しく動 く私の手が止まりました。私は深呼吸をして、目の前に映る美しさを見つめました 。 羊飼いたちは、それまでしていたことを止めました。救い主が生まれたという知ら せを聞いた彼らは、ベツレヘムの町へ出かけ、「布の帯に包まれ、飼い葉桶に寝か されている子ども」(ルカによる福音書2:12) を見つけます。私たち全ての民を救う ために生まれてきた赤ん坊のイエスに会いに行ったのです。 羊飼いたちは、自分達に課された働きを止めている間、美しい瞬間を体験し続けま す。赤ん坊のイエスに会いに行き、そこでイエスの両親に出会います。羊飼いたち は、御使いから聞いたことをイエスの両親に話します。天の軍勢も現れ、共に神様 を賛美していたことを。(ルカによる福音書2:13-14) 羊飼いがそう言った時、そこ にいたすべての人が驚きました。(ルカによる福音書2:18)畏敬の念を抱きました 。羊飼いが見た美しさを分かち合うことで、クリスマスの物語はさらに生き生きと 輝き出しました。 クリスマスの本当の意味はこうです。私たちが生きるこの世界は完全ではありませ ん。病んでいます。私たちの生活や世界には目を背けたくなるほど、辛く厳しいこ とがあります。しかし、私たちの神様には、忙しく手や足を動かし、心配で頭や心 を埋める私たちを止める力があります。なぜなら神様が造り出すものには、この世 を超えた美しさと荘厳さがあるからです。忙しく日々働く、私たちの人生の喧騒の 中で、私たちの足を止めことのできる神様。私たちは立ち止まり、この暗闇の世界 でもまだ輝きを放つ神様が造り出した美しさを見つめるよう招かれています。 多くの人にとって、クリスマスの後も忙しい日々が続くと思います。これから年末 に向かっていきます。皆さんの人生は厳しい大変なままかもしれません。しかし、 クリスマスの物語は私たちにこう語りかけ、励ましてくれると私は思います。今し ていることを止めて、立ち止まってみて。人間が造ることのできない、この世を超 えた神様が造り出す美しさと威厳をこの暗く沈む世の中、人生の中で見つけましょ う。神様はそういう風に私たちに語られておられるのではないでしょうか?あなた が発見した美と威厳の背後には造り手の神様がおられます。それはクリスマスツリ ーから、今日のお話しから、子供たちの笑顔から、自然の美しさから、そしてもっ と多くのことから見つけることができます。私たちの主であり、救い主である方が お生まれになり、私たちの世界を明るく照らすからです。 祈りましょう。 イザヤ書55章6-11節の一部を引用して祈ります。
「主を求めよ。お会いできる間に、近くおられるうちに、呼び求めよ。主に帰れ。そうすれば、 主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。「わたしの思いは、 あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ ― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あな たがたの思いよりも高い。わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに 帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させ る。」 主よ、私は畏敬の念を抱いています。あなたの言葉にみなぎる自信に畏敬の念を覚えま す。あなたは、あなたの言葉が空しくあなたのもとに戻ることはないと言われます。あなたは、 あなたの言葉があなたの目的を成し遂げることを知っておられ、その目的が成功することを 知っておられます。あなたの言葉には、あなたが計画された目的とそれに伴う結果がありま す。 だから今朝、私は祈ります。そして、皆さんにも私の祈りに加わっていただきたいと思いま す。私たちがパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生き ていることを、本当に経験することができますように。(マタイによる福音書4:4)主よ、私たち はあなたが建てられたこの家で、あなたを心より求めます。イエスの御名によって、アーメン と祈ります。 先週の日曜日に教会にいらっしゃった方はご存知だと思いますが、私は教会を欠席しまし た。また、この一週間はずっと家で仕事をしていました。私が不在中サポートしてくださった 皆さんに心から感謝します。そして、皆さんに心配をかけてしまい、本当に申し訳ありませ ん。私は大丈夫です。私は神様とともに歩んでいますから。 しかし、今日はなぜ私が教会にいなかったのかについてお話ししたいと思います。このこと はすでにカウンシル、教会スタッフ、そして私がさまざまなミニストリーで働いている方たちに も伝えてあります。だから、もうすでに知っておられる方もいらっしゃいますし、それと同時に 今日初めて聞く方もおられるかもしれません。 私は働き過ぎた結果、過労になっています。それが理由で持病のうつ病が悪化しました。 KUCに長くいる人は、私がうつ病を持っていることを知っています。私はこのことを隠したり、 また、うつ病であることに罪悪感や恥ずかしさを感じることもありません。私には私を贖ってく ださったイエス様への信仰があります。しかし、この世において、キリストは(少なくとも今のと ころは)私をうつ病から完全に治すことを選んでおられません。私はそれでいいと思っていま す。全てを神様に任せています。神様の御心がなされることだけを祈ります。神様はいつも 私のそばにいてくださいます。神様と私は、うつ病とともに生きるこの旅を通して、とても親し くなりました。私は自分のうつ病の経験を通して、「弱さのうちに完全に現れる」キリストの力 を経験し、(第二コリントへの手紙212:9)、キリストが私の弱さを通して栄光をお受けになると 心から信じています。 過労からうつ病が悪化したので、私は主治医のところに行きました。主治医は私に、無理を しないようにと言いました。彼は私に休息を取るように言いました。私も同感です。私には今 休息が必要なのです。休息して神様とともに過ごす時間がもっと必要です。このことを相談 するとカウンシルとマーク牧師は、サポートを約束してくださいました。ですから私は今最低 限の働きだけをさせてもらっています。私は、私と私の家族へのみなさんのケアに心から感 謝しています。教会での働きよりも、私の健康を第一に考えてくださることに感謝していま す。ですからみなさんにお願いがあります。カウンシルや教会のスタッフのみなさんに、みな さんお一人お一人がどのようなヘルプをすることができるか、考えて行動に移していただき たいのです。何事も一人、一つのグループでできることはないからです。 この事を聞いて、ショックを受けたり、驚いた人もいるかもしれません。私がこのように弱って いることに動揺し、困惑している人もいるかもしれません。そのことを申し訳なく思います。も しそうなら、それは私の本意ではないことを知っていただきたいと思います。ショックを感じた り、動揺したり、混乱したり、どのような感情もそれは当然の反応だと思います。それらを否定 したり、感じないようにする必要はないと思います。しかし、あなたの中にあるそのような感情 を認め、それを脇に置きながら、今日私が与えられた言葉に耳を傾けてみてほしいと思いま す。 なぜなら神様はいつでも私たちに良い知らせを宣べ伝えてくださるからです。私のうつ病は 悪化しましたが、神様はノンストップで私たちに語ってくださっています。神様はいつも力強 く働いておられるのです。 ここでとある教会員の方の許可を得て、あるお話をシェアしようと思います。この方と私には、 一緒に取り組んでいるあるタスクがありました。しかし、先ほども言いましたように働き過ぎか ら鬱が悪化した事をその方に知らせていなかったので、この方は私に、必要な情報を共有 するように求め、急かされました。 先週の日曜日の後、この方が私にメールを送ってこられました。この方は、自分の言動が私 の過労とうつ病の原因の一部になってしまったかもしれないと思い、心から深く謝罪してくだ さったのです。謝罪の後、この方はこう言いました。「あなたの計画が主の御心に従って正し くうまくいくよう祈ります」と。 ベッドでこの方からのメールを読んだとき、私は涙を流しました。そう、泣いたのです。それは もちろん悲しかったからではありません。いいえ、喜んだから涙を流したのです!喜びの涙 を流したのです。 私はこの方のEmailを読んで、今日の聖書箇所にあるイエス様のこの言葉を思い出しまし た。それはルカによる福音書15章7節です。 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める 必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」 この方からのEメールは私の心に大きな喜びを与えてくださいました!大きな喜び!ネットフ リックスを見たり、ジャンクフードをたくさん食べたり、マッサージに行ったり、鍼治療を受けた り、欲しいものを何でも買ったりしたとしても、得ることのできない喜びです。そう、ストレスに 対処するために、自分をケアするために、喜びを感じるためにこのような事をします。けれど 私は知っています。そのような事から来る喜びは一時的なものだということを。 なぜなら、真実はこうだからです。私たちが悔い改めるとき、イエスキリストを信じる私たちに 約束された喜びは、これらと違って永遠に続きます! 数日後、その方と私は電話で話をしました。そして私たちは共に祈りました。祈りの中で、私 たちはただ、私たちを赦し、贖ってくださった主に集中しました。私の心には感謝と賛美と喜 びしかありませんでした! すごいことだと思いませんか?なぜ私が今朝、この話を皆さんと分かち合いたいと強く思っ たのか、おわかりになりますか?見てください、私のうつ病は悪化したのですが、ご覧の通 り、この話を分かち合う今、私は満面の笑みを浮かべています。これは、私たちを励まし、悔 い改めからくる神さまの赦しを共に喜ぶために、神さまが私たちのコミュニティに与えてくだ さったストーリだと信じているからです!なんという贈り物がクリスマス前なのに私たちに届け られたのでしょうか!? そして今日、私はもうひとつ素晴らしい話をみなさんと分かち合いたいと思います! 私は過 労から、自分の状態がベストではありませんが、神様は全く変わることはなく、引き続き力強 く働いてくださり、むしろ神様がご自身の御言葉にどれほど力強く忠実で真実であるかを示 すために、私にたくさん語りかけてくださっています。 1週間半ほど前、私は日課通り、朝聖書を読んでいました。私は毎日のデボーションに聖書 日課(英語ではLectionary Textと言います)を使っていますが、その日の聖書箇所の一つが 詩篇79篇でした。そこで私は詩篇79篇を読み始めました。そして次の箇所で手を止めまし た。 詩篇79:11 「捕らわれ人のうめきが御前に届きますように。あなたの偉大な力によって、死に定められた 人々を生きながらえさせてください。」 この箇所が私に強く語りかけてきたとき、私は教会員のバルク良子さんがこの夏に話してく れたある男性のことを思い出しました。この男性ウィルさん(ウィルさんの許可を得て実名を 使いこの話をシェアします)は、去年の冬から神戸の拘置所に放り込まれていました。良子 さんは友人を通して彼のことを知り、自分には彼を面会することができないので、私たち牧 師に拘置所にいる彼を訪ねてくれないかと尋ねてきました。もちろん、私たちは面会に行き たかったのですが、タイトな仕事のスケジュールの中で、そうする時間を見つけることができ ませんでした。だからとても申し訳なく思ったし、お話しするのも恥ずかしいことですが、彼に 面会することをしばらくは諦めていました。 それから数カ月後のある朝、詩篇79篇11節を通して神様は私に語りかけました。そしてこの 瞬間、私は悟りました。神様は私にセカンドチャンスを与えてくださっているのだと。神様は、 捕われたウィルさんのうめき声を主の御前に届ける働きの一部となるチャンスを、私にもう一 度与えてくださったのだと。そこで私は、良子さんが夏に送ってくれたメールを探し出し、そ してウイルさんの奥さんの携帯番号を見つけました。 そして彼女に電話しました。彼女が電話を取りました。私は自己紹介をして、なぜ彼女の電 話番号を知っているのか、そしてどうやって彼女の夫のウィルさんの状況を知ったのかを説 明しました。すると彼女は、今日はウィルさんの裁判の最終日なので、神戸にいると私に言 いました。そして一緒に裁判所に来て、裁判の間、彼女の隣に座っていてほしいと言いまし た。 ウィルさんが拘置所に入り、裁判を受けるに至った経緯について詳しく説明するつもりはあり ません。実は昨夜ウィルさんと電話で話したのですが、彼はいつか彼の経験を、私たちと分 かち合いたいと思ってくださっています。いつか彼から直接話を聞けるかもしれません。しか し今日のところ、私が皆さんにお伝えしたいことはこれだけです。ウィルさんは自分が犯した 小さな過ちを心から悔いていました。彼は人を殺したわけでも、傷つけたわけでもありませ ん。彼は法廷で謝罪しました。彼はこのように言いました。「多くの人に迷惑をかけてすみま せん。一番謝りたい人は自分のために、取り調べを受けた妻です。」彼は泣いていました。 彼はひざまずいて心から悔い改めていました。 私は彼の悔い改めの真摯さに心を打たれました。彼は本当に悔いていたのです。私の心は 悲しみに打ちひしがれました。それは私は神様に赦された子として、神の国について知って いるからです。神様が司る世界では、悔い改めれば赦されるのです。放蕩息子の話のよう に、もし私たちが過ちを認め、悔い改めるなら、私たちは神様と神様の家に大歓迎されて戻 ることができます。私たちは豪華で美しい衣をまとわされ、私たちだけのために盛大な歓迎 パーティーが開かれます!!!神様の国では悔い改めるとそういうことが起こるのです。 しかし、私が目の前で見たものは違いました。心から告白し、悔い改めたにもかかわらず、ウ イルさんは鎖につながれ、2人の看守に付き添われながら拘置所に連れ戻されていきまし た。近くにいる奥さんと話すことも許されずに。それを見て、私は打ちのめされました。 翌日、私は拘置所にいる彼を訪ねました。彼は法廷ではマスクをしていたのと、遠くに座っ ていたのでその時は顔はよく見えませんでした。しかし、ガラス越しに見たウィルさんは、穏 やかな笑みを浮かべ、好奇心旺盛な目と心を持った男性でした。このような状況にもかかわ らず、彼は前向きで、親切で、思慮深く、訪ねてきた私に感謝してくれました。 私は彼の奥さんと連絡を取った経緯と、昨日裁判所に来た理由を説明しました。詩篇79:11 の御言葉がすべての始まりだと伝えました。そして面会時間の30分はあっという間に過ぎて いきました。帰る時間が迫っていました。私は彼に祈ってもいいか尋ねました。彼ははいと 言ってくれたので、私たちは一緒に祈りました。それは短い祈りでした。神様は 「捕らわれ人 には解放を、囚人には釈放を告げ」られる神様であること(イザヤ書61章1節)、私は神様が 神様であることに忠実であるようにと祈りました。 この面会の翌日、裁判の判決を待たずに保釈が認められたと私は奥さんより報告を受けま した。信じられませんでした!彼は9カ月ぶりに奥さんと再会することができたので す!!!!しかもこの拘置所で実際に保釈が許可され、神戸を出て奥さんのいる愛媛とい う遠い距離まで行くことができたのは、この拘置所で彼が初めてだったと後で聞きました。信 じられますか?ウィルさんは家に戻ることができたのです!!!!!! 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める 必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカによる福音書15:7) 私たちの多くにとって、「悔い改め」という言葉は心に重くのしかかります。時にクリスチャン は「悔い改め」という言葉にアレルギー反応を示しているのではないかと私は思うことがあり ます。私たちは「悔い改め」を避け、その話題を口にしません。「悔い改め」という言葉が私た ちの口に苦味を残すので、私たちはその味を味わうことを避けるために、言葉だけを飲み込 んで、それを味わっていないのかもしれません。過去に「悔い改め」に関して説教をしたと き、私はこのようなフィードバックをいただきました。「なぜ教会の悪口を言うのですか?」「説 教はポジティブであるべきです。」と。 説教は前向きであるべきだ。私もそう思います。それに加えてこうも思います。真の光とポジ ティブさを見出すために、物語が暗くならないといけない時があるとも。でも、私たちはそこ で諦めてはいけないと思います。なぜなら暗くて長いトンネルの先には光があるからです。 ギリシャ語で悔い改めを意味する言葉はMetanoia(μετάνοια)と言います。この言葉は、私た ちに恐怖を呼び起こす、否定的なものではなく、単に方向を変えることを意味します。私た ちの心を変える。自分自身を振り返り、神様に立ち返ることを意味する、それだけです。 私たちが悔い改めについて話す時、悔い改めをする時、その目的は決して私たちを嫌な気 分にさせることではありません。神様は、悔い改めをすることであなたが嫌な気分になること を全く望んではいません! 悔い改め、本当の悔い改めとは、自責や非難につながるものではありません。悔い改めは、 キリストにある新しい命へと私たちを導くのです!悔い改めは喜びにつながります!神様 は、あなたが神様の元へ立ち返るとき、神様のもとに帰るとき、あなたと共に喜び、共に祝い たいのです。そのような立ち返りが初めての人もいれば、もう何回もの立ち返りをした人もい るかもしれません。でも毎回、立ち返りが起こるたびに神様は同じ反応、同じ喜びを示されま す! 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める 必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカによる福音書15:7) たとえ九十九人の正しい人がすでにそこにいたとしても、一人の人が悔い改めるとき、天国 ではより多くの喜びがあるのです。私たちが神様のもとに戻ってくるとき、神様がどれほどそ の事を喜ばれるか、その事がどれほど重要なことか、おわかりいただけたでしょうか!何度 道に迷ったとしても、神様はいつもあなたが神様の元に戻ってくることを喜ばれるのです! この悔い改めの喜びが、この一週間、私を強くし、励ましてくれました。心は燃えていました が、肉体と心は弱さを感じていたのです。私は疲れ、落ち込み、働きすぎていました。しか し、私たちの教会コミュニティのメンバーの悔い改めを通して、法廷でのウィルさんの誠実な 罪の告白と謝罪を通して、そしてもっと早くウィルさんとつながるべきだったことに気づき、神 様のところに戻った私自身の経験を通して、私は改めて悔い改めの美しさに気づきました。 私は悔い改めからくる神聖な、天の喜びを経験することができたのです。 そして、私はその喜びをみなさんと今日共有するのを楽しみにしていました。今朝、教会に 来るのが待ち遠しかったです。私が見たこと、経験したことを皆さんと分かち合うのをとても 楽しみにしていました!一緒に喜び、神様を賛美したかったからです。 主のもとに戻る喜びは、一人の中に、教会の奥に、陰に留まるべきではありません。そうでは なく、友人や隣人たちと共に喜び、祝うべきものなのです。 『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』 (ルカによる福音書15:6) 私たちの主はこのように言ってくださるお方です。 悔い改めはパーティーを催すのにふさわしい大切な出来事です! 愛する神の家族のみなさん、これが私が牧師になった理由であり、KUCに来た理由です。 私たち一人一人が神様に立ち返るたびに与えられるこの素晴らしい喜び、愛に満ちた大歓 迎を、私はお一人お一人に知ってもらいたいのです。方向転換をして神様の元に行く事、 すなわち「悔い改め」「立ち返り」は、私たちがこの地上で生きている限り、何度も、何度も、 何度も経験する事です。なぜなら私たちの中に、私たちを取り巻く世界の中に、あまりにも 多くの誘惑が、神の道を歩むことから私たちを遠ざける、あまりにも多くの種類の闇、利己主 義、悪が存在するからです。 この旅においては時々、自分の過ちに迷うことがある。 私の物語は終わったのではなく、始まったばかりだ 失敗は私を定義しない、それは父のなさることだから 失敗は私を定義しない、それは父のなさることだから 重荷を降ろせ。あなたは父の家にいるのだ。 これは今日の礼拝の冒頭で私たちが歌った「父の家」(The Father's House)という歌から引 用した歌詞の一部です。 ヨハネの福音書14:2にこのようにあります。「わたしの父の家には、住まいがたくさんありま す。」私たちが今いる、居住をかまえるこの神様の家には、たくさんの部屋があります。私た ちの過ち、試練、冤罪、苦しみ、痛みの重荷を降ろすための部屋が用意されています。そし てもちろん、永遠の喜びのための大きな部屋も確保されています! 先ほども言ったように、私は仕事を最小限にして休む必要があります。私はまだ回復途中だ からです。無理はできません。ですので来週のクリスマスイブ礼拝のお手伝いをお願いした いと思います。もし可能であれば、ボランティアとしてお手伝いください。礼拝後の交わりの お手伝い、シャトルのお手伝い、駐車場の交通整理などのお手伝いが必要です。25日にマ イケルさんの家で行われるフェローシップのお手伝いや、彼の家へ車を出してくださるお手 伝いも必要です。それから長いこと更新されていないウェブサイトの更新もどなたかお手伝 いしていただけませんか?私たちがコミュニティとして団結すれば、これら全てが可能だと思 います。そして、12/24にあなたの家族や友人を教会に招待することを忘れないでください! みんなで一緒にクリスマスをお祝いしましょう!そしてひとりぼっちで心細そうにしている方 がおられたら声をかけてあげてください。KUCがその方の居場所になれるようにお手伝いし てください。 神様はいつも、この永遠の喜びの中に、すべての理解を超える平安の中に、そして誰にも、 何ものにも奪われることのない主の平安と喜びの中に、私を留めてくださっています。何が あっても、生きている限り、私はいつも主にあって喜ぶことができます。ですからみなさん私 は大丈夫ですし、これからもずっと大丈夫です!決して心配しないでください。むしろ心配 を全て神様に持っていき、平安と喜びを得てください! KUCのみなさん、これが私がいつも私が望んでいたことです。私はいつも、私たちが一つに なって主にあり喜ぶことを望んでいます。この神様の家を素晴らしいパーティーのエネル ギーで満たし、この神様の家をお祝いの場所、絶え間ない喜びの場所にしたいのです。そ して、私たちのコミュニティの中で人々が神様に立ち返るのを見るとき、私たちはそんな素晴 らしいことを決して秘密や沈黙の中で終わらせてはいけません!立ち返り、悔い改めた兄 弟姉妹がいるのであれば、その喜びを分かち合うべきです。祝うべきです! 神様は本当に誠実な方です。神様はいつも私たちにチャンスを与えてくださいます。悔い 改めるのが初めてであろうと、神様に立ち返るのが100万回目であろうと、神様はいつも私た ちを神様の家に招き、ホストとして祝いの会を開き、私たち全員を招いてくださるのです。 だから今日、私は皆さんに尋ねます。 神様に立ち返る、心を向ける準備はできていますか? もしそうなら、もう一度そうしたいのであれば、ぜひ教えてください!一人で抱え込まないでく ださい!神様の共同体としてその事を共に喜ばせてください!私たちに与えられたこの神 様の家を共に協力して、悔い改め、喜び、祝いの家にしましょう。 アーメン。 わが民を慰めよ
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を/主の手から受けた」。呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。 イザヤ書40章の美しさを理解するには、人々が経験していた苦しみを理解する必要があります。これは、受難日(聖金曜日)や十字架の死(磔刑)を理解せずに、復活祭を理解しようとするのと同じです。聖金曜日を理解しなければ、人々にとって復活祭は卵とチョコレートのウサギの印象しか残りません。 世の中が十字架から背を向けるために、卵とウサギに注目を集めさせるのは、そのためです。復活祭は、すべての希望が失われたと思われた時に起こり、石の扉で塞がれた通常女性だけでは開ける事ができない墓に入り、葬られたイエスの身体を労わろうと歩いていくと、復活の日曜日の奇跡が起こります。 イザヤ書40章の美しさを理解するには、イスラエルの人々の絶望の物語を知る必要があります。イザヤの最初の半分では、神は預言者を通じてイスラエルの指導者たちに対して反乱(クーデター)を起こしていると告発しています。彼らは神から背を向け、偶像を崇拝するようになりました。彼らは神の預言者たちを虐待し、主の神殿を冒涜しました。これは神にとって忌まわしいことでした。 往年のアニメ「ポパイ」の中で、ポパイが「我慢できることは我慢できるが、これ以上は我慢できない」と発言するシーンがありますが、イスラエルの人々の行動は、神にとって忌まわしいもので、「これ以上は我慢できなかった」のです。 人々の行動は主にとって嫌悪すべきものでした。イエスが(マルコによる福音書11章)で宮殿に入り、両替人のテーブルを倒して、「私の家は民の祈りの家と呼ばれるべきなのに、あなた方はそれを盗賊の巣にしている」と言いました。 神が諸国のために祭司として招集された人々は、社会によって汚れ、神から離れて、自らを堕落させたのです。彼らは神の命令に背き、第8、第9、第10の命令だけでなく、第1の「わたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20:3)さえも守ることが出来ませんでした。これはクリスマスに適した礼拝のメッセージとは言えませんね。しかし、内容はもっと酷くなります。 人々の行動の結果、神は自分の民に対する保護を取り下げ、当時の超大国であったアッシリア、次いでバビロンをイスラエルに対する裁きの道具として使用します。人々は追放され、神殿からは聖遺物を略奪され、最終的には破壊されました。 人々は主との契約を破ったため、約束の地から離れたところに捕らえられました。その間ほとんどの人々は主から離れてさまよいました。アッシリア人とバビロニア人には、自分たちの神と偶像の存在があったので、ほとんどの場合、捕らえられた人々が改宗させられることはありませんでした。 しかし多くの人々にとって、アッシリアとバビロニアの文化や生活に馴染む方が生活が簡単だったため、信仰を失いました。信仰を失わなかった人たちも一部いました。 イザヤは言います。「慰めよ。もう一度言う。わが民を慰めよ、と神が言う。」 「あなたがたの罪は赦され、償われた。」 多くの人は、許すと口では言っても、その気持ちを心に抱えています。コリントの信徒への手紙一13章では、「愛は過ちを記録しない」とあります。それが神が罪を扱う方法なのです。もしあなたが神に赦しを求めるならば、本当に赦しを求めるなら、神はあなたを赦し、その罪を「雪よりも白く」洗い流してくださるでしょう。 多くの人々はこの箇所で小手先に解決しようとします。「神に赦しを求めたから、私は赦された。だから私は私が傷つけた人々から赦しを求める必要はない」と言います。これは聖書的な赦しではありません。(ここで話を脱線したくありませんが) 神は罰を受けた民に対して憐みの言葉を述べ、今度は新しいメッセージを語ろうとしています。神は言います。「慰めよ、慰めよ、わが民よ、あなたがたの神が言う。」時折、学生が問題や質問をしようとするときに、「バーチ先生、バーチ先生」と言って私の注意を引こうとします。自分の好きな食べ物のように、2回同じ音を繰り返す名前を付けることがあります。例えば「クスクス」、「ボンボン」、「チャウチャウ」、または「タムタム」。 神は預言者、説教者、教会、人々が、(正しい裁き)の後には和解と慰めがあることを見逃さないよう望んでいます。アドベント(降臨節)の季節は、神の世界に対するオリーブの枝であり、御子における神の贈り物なのです。 マタイによる福音書に登場するヨセフも同様の状態にありました。彼は若い花嫁と結婚する計画をしていたが、彼女が妊娠していることを知りました。ヨセフは高潔な男性だったので、彼女を石打ちの刑にすることは望まなかった(ヨセフが求めれば実行可能な刑罰だった)のですが、自分自身を裏切ったと思われる女性と結婚したくはありませんでした。しかし、ヨセフの素晴らしさは、主に耳を傾け、計画を変更する準備が出来ていたことです。 神からの新しい御言葉を聞いて、私たちは同じようにできるでしょうか? 神は「慰めよ、慰めよ、あの人々を慰めよ。」と言いません。また、従順でない人々や、私たちを失望させた人々に慰めを与えません。神は「慰めよ、慰めよ、わが民よ」と言います。私たちは神にとって孤児ではありません。私たちは神の民であり、神の牧場の羊なのです。ヨハネはイザヤの言葉を使って言います。「主のために道を備えよ。」彼は私たちに神の王国への直道を作るよう呼びかけています。私が行ったいくつかの教会では、時折、人々は説教者を激励し「ストレートに言ってくれ」言います。 真実をオブラートに包んだり、あるいは私たちを取り繕おうとせずに真実を伝えてくれという意味です。 以下が真実です。 私たちは神をとても必要としています。自身の愚かさや傲慢さや罪深さのために、私たちの多くは神から、兄弟姉妹から、自分自身や健全な人生から追放された場所に身を置いています。 ルカによる福音書15章で父の贈り物を受け取り、浪費した少年のように。私たちは豚の餌を食べる放蕩息子のようになってしまうのです。それが真実です。 そして、プライドは高いので、その豚の餌が美味しいものだと自分を騙すことさえするのです。しかし、今年のクリスマスとアドベントの第2日曜日は、神は私たちに言っているのです。「Comfort, Comfort(慰めよ、慰めよ)」。この言葉で、私たちを神のもとへ受け入れているのです。 もしまだイエスを主と救い主として受け入れていないなら、イエスを受け入れる祈りをお願いします。クリスマスとは、神のもとへ帰る時なのです。共に祈りましょう。 「親愛なる天の父よ、私はイエスがあなたの唯一の子で、十字架で私たちのために死んだことを信じます。イエスが死から蘇ったことを信じます。私の罪をお赦しいただきますようお願いします。私の罪を洗い流し、清めてください。私は永遠の命を得るための唯一の希望として、イエスに信仰と信頼を置きます。アーメン。」 もしこの祈りを初めてされたのであれば、ぜひ礼拝後に前まで来てください。アキコ牧師か私と一緒にお祈りをしましょう。 私はクリスマスシーズンに、マルコ13章を使って説教したことはありません。若い説教者だった数年前、終末をテーマにしたシリーズを試みたことがありました。聖書に沿った正しいシリーズでしたが、失敗に終わりました。私は説教中に自分で迷子になり、教会の人たちを混乱させてしまったのです。今日は同じ失敗を繰り返しません。もっとわかりやすく話してみます。(単純にするのではありません。単純なことではないからです)。
復活祭の前の四旬節(レント)の時期に、希望と喜びのメッセージを説教で話す中に知恵があります。また、アドベントに十字架のメッセージを説教で伝える中にも知恵があります。二つの時期は人々に待つよう呼びかけます。なぜでしょうか。それは、神は驚くべき ことをなさろうとしているからで、それには時間がかかるからです。ケーキがオーブンで焼きあがるまで時間がかかるのと同じです。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ書40章)と私たちは知っています。 私が霊的に疲れ果てたとき学んだ教訓のひとつは、「速度をゆるめ、ゆっくり行け」です。 主が望むペースよりも速いペースで進もうとすると、私は疲れ果ててしまいます。興味深いことに、神のペースよりも遅いペースで進む時も疲れてしまいます。私は自分よりも走るのがずっと遅い友達と一緒に、10キロを走ったことがありました。遅いのだから楽だろ うと思うでしょうが、遅いペースで走ることは私にとって、通常より速いペースで走るのと同じくらい疲れました。 主の言われた言葉ではないが、助言があります、と使徒パウロが時々言っています。私も同じく、これは主から来るものではありませんが、皆さんにアドバイスがあります。アドベントの期間中、多くのことをしようとしてクリスマスを惨めなものにしないでください。クリスマスは喜びの時ですが、大きな「しかし」があります。「しかし」、私たちはすべてのことをできるわけではありません。自分とまわりの人にとって、クリスマスを意味深いものにするための、日々のペースを見つけてください。せわしなく動き回らないでください。このアドベントの時期に一息ついて、あなたのペースを俗世間ではなく、主に設定してもらってください。 「待つ」ということ。待つのはいやなものですね。でも、聖書は待つことで満ちています。何世代にもわたって待ちます。ユダヤ人がどれほど長い間、メシアの到来を待たなければならなかったか考えてみてください。それなのに、ほとんどのユダヤ人がイエスを拒絶 しました。なぜなら彼らの期待にそぐわなかったからです。そして私たちは2000年もの間、イエスの再臨を待っています。もし私が天に召される前に主が再臨されるのであれば、そのとき私の準備が整っているように、と私は祈っています。 再臨、または主の日。旧約聖書の預言者ヨエルは、主の日を「主の大いなる恐るべき日」(ヨエル書2:31)と書いています。 私はすべてのクリスチャンが、主の前に立つことに、これらの相反する感情を経験すべきだと信じています。それは恐ろしいことであり、私たちは審判で主の前に立ち、自分の過去の行動と怠慢の罪に直面することになります。自分の人生をどのように過ごしたかで、 自分を評価するなど想像できますか。私はしたくありません。私は自分を知っているので、自分の評価がわかります。自分の行いを他人から隠すことはできるかもしれませんが、神や自分から隠すことはできません。私たちは神の完璧な審判の前に立つことになりますが、私自身は受け入れてもらうには程遠いかもしれません。 まるで東京で一番高級なレストランで食事をした後、勘定書が来たけれど支払いに十分なお金がないのと同じようなものです。クレジットカードは限度額いっぱいになっています。そこへイエスが現れて、もう支払ったよと教えてくれます。現金や物ではなく、血で支 払われました。私たちの罪のために、イエスは苦難を受けて支払ってくださったのです。注意深く聞いてください。ご自身の罪ではなく、私たちの罪のために支払ってくださいました。イエスを主とする信仰を私たちが持っているから支払ってくださいました。からし 種ほどの信仰であっても、イエスがおられるので審判の山を動かすことができます。これが「恵み」と呼ばれるものです。 ああ恵み! はかりしれぬ恵み! ああ恵み! 我にさえおよべり イエスは、闇と苦悩の時が来るので目を覚ましていなさいと言われました。いちじくの木の教訓では、農夫が、いちじくの木の枝が柔らかくなって葉が出てくると夏が近いとわかるように、私たちもその時が近くなればわかるとイエスは言われます。マルコ13章28-31節を、32-37節とひとまとめに考えるべきではないと思います。30節で、イエスは話されている人々に対して告げていることがあります。イエスはそのユダヤ人の人々に、二つのしるしのうちの一つか、またはしるしの二つともについて話されたのだと 私は信じています。しるしの一つは十字架での死と復活、もう一つは紀元後70年の、ローマ人によるエルサレムの襲撃と神殿の破壊です。この二つのしるしは、イエスが30節で語りかけた世代がまだ生きている間に起こりました。イエスは 31節で言われます。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」。ここから、イエスは再臨について話し始めます。 多くの人々は永続性を追求し、何かすがりつける物を手に入れようとします。私の学校の英語学科は、先日常勤の職の採用面接を行いました。候補者の人たちは、常勤の地位がほしくて応募したと言っていました。 また、人間関係、仕事、お金、愛国心、土地の所有など、さまざまなもので永続性を得ようとする人もいます。永続的なものもあれば、そうでないものもあります。私の学校のフルタイムの仕事では、63歳まで継続雇用されます。他の学校では4年の雇用契約しかもらえないかもしれません。人間の安全保障を見つけるのは悪いことではありませんが、私たちが霊的な家を築く礎ではありません。 イエスの言葉に比べれば、天地さえも永久なものではないとイエスは言われます。想像で きますか。 ヨハネの福音書1章では、「初めにことばがあった(天地よりも前に)。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っています。イエスはアルファ(始まり)であり、オメガ(終わり)です。 詩篇127篇は、「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい」と言っています。あなたは何を礎として自分の人生を築いていますか。神の言葉に基づいていなければ、永続的ではなく、襲ってくる嵐や風や波に耐えることはできません。 イエスは弟子たちに、来るべき十字架刑だけでなく、復活についても語ります。そして私たちにも再臨を告げています。マルコ32節では、イエスは再臨の日はいつかわからないと非常に明確に言われています。もし誰かが、「神が御子や御使いにさえ告げていない再臨についての情報を知っている」と言ったら、その人から逃げなさい、とイエスは言われます。「唯一」天の父だけが再臨の日を知っておられるとイエスは言われ、したがって正確な時期については私たちには何もわかりません。その時がいつかはわかりませんが、はっきりしているのは、イエスが私たちに再臨に備え準備しておくよう望んでいるということです。 32節から37節までイエスは、注意深く、警戒心を持ち、目を覚ましているよう5回強調しています。私たちはどのようにして注意深く、警戒し、目を覚ましていればよいでしょうか。どうすればそうできますか。 その答えは、マタイの福音書22:37-40の中に見つかるでしょう。聖書的な質問すべての答ではないかもしれませんが、良い出発点となります。その重要なポイントは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。そして その次に「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。これが礼拝に含まれているのです。 今、アドベントの時期に、次の祈りが私たちの朝夕の祈りとなるでしょう。「主よ、私が全身全霊で主を愛することができるよう助けてください」。そして「主よ、私が愛情深い人間になれるよう助けてください」。これは、家族のためにクッキーを焼くよりもっと大 きな祝福を家族にもたらすでしょう。 聖書に登場する二人の人物で、マタイ22章の助言に従って準備していた人たちを見てみましょう。ルカ2章に出てくる二人です。男性と女性です。まずシメオンは、主を賛美して一生を過ごした人物でした。彼はそれまで多くの赤ん坊を見てきましたが、イエスを見たとき赤ん坊を腕に抱き、神に感謝しました(私たちはこの信仰深い人にいつか天国で会えるでしょう)。 もう一人は、60年以上未亡人として過ごしていた女性で、主を賛美することに身を捧げていました。彼女もまた、みどりごイエスを見たとき、メシアを送ってくださった神に感謝しました。 彼らは二人とも注意深くしていたので聖なる人と見なされています。目ではなく魂で、心の目を覚ましていました。この二人が完璧であったとは言いませんが、神を賛美していたので、神の贈り物を目にするという報いを得ました。 前千年王国説や後千年王国説についてはご自由にお考えください。私は答えを持っていませんので。しかし、私が知っていることは、主を毎日愛し続ければ、世界が投げかけるすべてに備えることができるということです。目を覚ましていましょう。 この後、私たちは聖餐式を行います。コリント人への手紙第一11章で、教会が祝福を受ける健全な方法について教える中で、パウロは私たちに三つのことを求めています。一つは、自分が今何をしているかを注意深く見ることです。私たちは軽率な行動を取るべきでは ありません。不適切な事をすることによって、病気になったり、体が弱くなったりする人がいます。 二つ目は、私たちが主の教えだけを覚えておくのでなく、十字架上で私たちのために死なれたことと、復活の栄光も思い出すよう求められています。 三つめが、主の再臨を待つことです。聖餐式のパンを食べ、この杯を飲むたびに、主の死は「主の再臨」で終わると宣言することです。主は再臨されるからです。 祈りましょう。 |
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May 2024
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