おはようございます。
今日は教会のカレンダー(教会歴)では新しいシーズンの最初の日です。それは教会の半年とか三位一体説とか呼ばれて、アドベントの直前まで続きます。教会でのもう一つの半年、キリストの半年といわれますが、そこにはアドベント、クリスマス、レント(受難節)、イースター、そしてペンテコステなど、たくさんの行事があり、刺激的ですね。この二つの季節、一つはいろんな行事があり、もうひとつはあまり盛り上がらず、特別な行事もあまりありません。そしてその二つの季節の比較も興味深いものです。 先週の日曜日、私たちはペンテコステをお祝いしました。聖霊がイエスの弟子たちを勇気づけ、彼らを弟子という立場から使徒、つまりイエスの権威を帯びて使わされる者という立場に作り替えられたのです。使徒言行録1章では、復活したイエスが、彼ら弟子たちにこう約束されています、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節) この使徒たちの働きによって、キリスト教信仰は数世紀のうちに世界中にひろまり、アジアまで届きました。聖霊の働きはとても活発で力強く、世界的にキリスト教会を生み出したことから、ペンテコステは教会の誕生日ともいわれるのです。 三位一体主日、またその季節にも私たちの間に聖霊の働きはもちろんあるのですが、とても異なった仕方なのです。「三位一体」という言葉の本当の意味は私たちにはあまりなじみがなく、「神学的」なものです。神学というのは、私たちの信仰や教会についての理論です。神学的な議論を通じて、私たちは教会とはどんな組織なのか、どう聖書を正しく解釈すべきなのか、私たちのキリスト教信仰はどのように組織的に定義づけられるのか、などが説明されなければなりません。 三位一体という言葉も、私たちの神がどのように理解されるべきかについての神学的説明なのです。その理論としては、神は私たちに三つのペルソナによって現れられます。ペルソナとはラテン語で、お芝居で使われる仮面という意味ですが、第一は天の父、第二は子、もちろんイエス・キリストのことですね、三つめが聖霊です。そしてその三つのペルソナが一人の神を表すので、三位が一体ということなのです。 中世のカトリック教会で、将来聖職者を志そうとする人たちに対して、ひっかけ問題のような質問がされました。聖母マリアは、キリストの母であるのか、神の母であるのか? みなさんならどう答えますか。正解は神の母なのです。なぜならイエス・キリストは神のペルソナの一つだからと、その当時は理解されていたからですね。面白い質問ですが、いったいその質問の意図はなにかよくわからないもので、私たちには「それで?」と思わされるようなものです。そしてこのような「神学的」議論のなかのどこに、生き生きとした聖霊の働きを見ることができるでしょうか。 それでも、三位一体説は私たちに、これらの神学的議論の持つ大切なことを思い起こさせるのです。確かに聖霊の働きは非常に力強く刺激的で私たちの存在そのもの、また本質をつくりかえるものです。でもそのことは、私たちが神の世界だけに生きるということを意味しません。むしろ私たちは、この地上で、ほかの人たちとともに、人間の理屈、考え方が通用する世界に生きています。そして聖書はその普通の世界もまた神様が私たちのために創造されたと語ります。私たちは、キリスト教の信仰について語るにしても、この世界の常識、理解、知性などを用いなければなりません。また教会も人間の組織ですので、人間の規則、秩序、組織が必要なのです、パウロがコリントの信徒の手紙一12章で示しているように。この構造を通じて、教会は有効にその働きを行いますし、世界と社会に対するミッションを果たしてゆくのです。 これまでのことを考えながら、エゼキエル書37章の預言者エゼキエルの物語を読むことはとても注目すべきことです。紀元前6世紀にイスラエル王国が滅亡してのち、預言者エゼキエルは故郷からはなれた国での生活を強いられます。彼は捕囚のひとりでした。 ある日、神は彼を招き、もはや死んで枯れた骨となっている死体でいっぱいの谷を見せます。そしてその死体に向かって預言するようにと求めるのです。彼がそうすると、神の霊が谷間に吹きわたり、すべての死んだ枯れた骨が音をたてて(エゼキエル書37:8)、筋肉が生じ、皮膚で覆われ、そこで大きな群れとなった。この奇跡的な事件によって、エゼキエルは、ユダヤ人社会の復興を確信するのです。みなさんは、アメリカの黒人たちの歌、とてもコミカルなドライボーンという曲を聞かれたことがあるでしょうか。この歌はエゼキエル書37章の物語から取られたもので、その歌詞はこうです。ご一緒に歌ってみませんか。 つま先の骨が足の骨につながると 足の骨がかかとの骨に かかとの骨が足首の骨に 足首の骨が脚の骨に 脚の骨が膝の骨に 膝の骨が腿の骨に 腿の骨が腰の骨に 腰の骨が背骨に 背骨は肩の骨に 肩の骨は首の骨に 首の骨は頭蓋骨へとつながるのさ あ、主のみ言葉を聞け! (歌詞は http://www.icuogc.jp/pukiwiki/index.php?Dry%20Bones より) この歌は驚くべき聖霊の働きを歌うもので、すべての骨は組織的につながり合い、人間の体の組織(秩序)を形作ったのです。人体の組織(器官)とでもいうのでしょうか。丁度最初の人間が土から造られたとき「主は…その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)のと同じように、エゼキエル書でも「霊が彼らの中に入った。すると彼らは生き返り、自分の足で立ち、おびただしい大軍となった。」(エゼキエル書37:10)のです。 聖霊の力と働きは、神様のペルソナのひとつとして私たちの信仰にとって決定的なものです。それは教会の秩序や組織を通じて働きますし、神は私たちの共同体において、聖霊によって建設的に制度的に働かれるのです。さあ、三位一体説の私たちの新しいシーズンを、教会の秩序と組織を、信仰についてしっかりと理解することから始めましょう。私たちの間に聖霊がどのように働かれているかを知るためにも。 祈りましょう。 神よ、私たちのこの三位一体説の歩みにおいて、あなたの知恵と良き理解をお与えください。それによって私たちの信仰がより明らかなものとなり、よく受け止められ、私たちのキリスト教共同体組織のなかでの、私たちの役割をも深く理解することができますように。憐れみ深い主、教会の半年における私たちのあゆみを導き、励まし、よりよく整えられた神戸ユニオン教会での今年のアドベントを迎えることができますように。十字架の死に至るまでこの世界に仕えぬかれた私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン
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今日はペンテコステの日曜日です。それは、イエスの弟子達が聖霊の降り注ぎを受けて使徒に召命された記念すべき日です。復活の50日後、そしてイエスが天に昇ってから10日後に起こりました。実際、復活祭は復活の日曜日に終わらず、ペンテコステまで続くキリスト教の伝統もあります。従い、今日はハッピーペンテコステ・サンデーです。
しかし、その最初のペンテコステの日はどの様でしたか? 激しい風が響き渡り、暴風が突如あなたの家を襲う、まさにその家から眺めているのを想像してみてください。大勢の人々がそのものすごい音を聞きつけてあなたのいる家にゾロゾロやって来て、何が起こっているのかを見に来たのです。 そんなに多くの人々を惹きつけるなんて、恐ろしくもあり、全く予期していなかった事です。これが主イエスの12弟子達が、今や使徒となったペンテコステ(聖霊降誕)の日に起こった事です。ユダの代わりにマッティアが選ばれ、12使徒とイエスと共に歩んだ婦人達、約120人の大勢の弟子達は一緒に集まってこの聖霊を待っていたのです。 彼らは聖霊がどんな形でやってくるのか分かりません、何を期待して良いのかもさっぱりわからなかったのです。ただ、主イエスが父の約束を待つようにと言われたので、待っていたのです。家全体この激しい風が響き渡った時、炎のような舌が分かれて現れて、一人ひとりの上に留まり、聖霊に皆が満たされたのです。彼らはもはや彼ら自身ではなく、彼らの母国語でない言葉で神を賛美し、神の大きな御業を語り始めました(使徒2:11)。 それでは、聖霊が降り注がれる目的とは何だったのでしょう? 主イエスが使徒1:8で言われた事を思い出して下さい「しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリア全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」 皆さん、聖霊の目的は神の御言葉を全土に述べ伝える事です。エルサレム、ユダヤとサマリア、さらに地の果てまで。 最初のペンテコステの日に、ペテロが他の使徒達の代わりに神の御言葉を群衆に語った時、3000人もの魂が救われたのは驚きではありません。その時に、今私達が集う教会が誕生したのです。教会の誕生日でもあるのです。使徒言行録(教会の初期の様子が詳細に書かれた書)の多くの箇所で、聖霊の記述があるところには神の御言葉が話されています(例えば、使徒4:31 – 「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出した。」) 聖霊に満たされる目的は、証人となり、証し、主イエス・キリストのことを話す事です。それはしるしや奇跡のためではありません。その当時、癒しが必要な人々もいたでしょう。(使徒の働きによって多くの者が癒されたのも事実です)しかし、聖霊が使徒達を満たし、ペテロが語るために立ち上がった時、それは奇跡を実演したり行うためではありませんでした。それは主であるイエスについてと、主がもたらした救いを証するためでした。悔い改めて、心を神の方へ方向転換することを説教したのです。 この日、私達がペンテコステを記念し、聖霊に満たされることを話す時に、神様は私達に与えた使命を第二コリント5章で示しました。主は私達にキリストの使節/大使の務めを果たすように言われたのです (20節)。大使は、外国で彼の出身国を総括して代表する外国人なのです。日本の米国大使は日本人ではなく、日本に住み、日本政府や人々に対して米国を代表し発言する者です。 まさにそれが私達です。聖書が私達は天国の国民ですと言うのが分かりますね (ピリピ3:20 – 「私達の国籍は天にあります」) 。ところが、私達はこの地上にいるのは、主イエスのことや天国のことを、この地の人々に話すために置かれているのです-「この世界で、この世界のことではなく」。私達の救世主キリストに出会うと、私達の状況に変化が起こります、それは、国籍は天国となります。霊的な私達は再生され、それによって主は、私達は新しく造られた者 (17節)だと言います。主は、人々に神との和解の務めを私達に与える、そのために私達を聖霊で満たします。神は和解の御言葉を私達に託しているのです。それゆえに、牧師だけではなく、全ての者、私達の務めなのです。実際、聖書はクラウディア氏、チャック氏、田淵先生、亜希子氏を牧師として召命し、他の者を使徒、預言者、伝道者などに召命します。彼らは一定の役割を持ち、その役割は人々を神と和解させるのではありませんが、クリスチャンとしての器の中でそうすることが可能なのです。聖職者達と呼ばれる人々の役割は、人々を神と和解させる様に私達を良く整えることです。エペソ4: 11-12,でパウロは言います。「こうして、キリストご自身が、ある人達を使徒、ある人達を預言者、ある人達を伝道者、ある人達を牧師または教師としてお立になりました。それは、聖徒達を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。」彼らは私達を宣教の仕事に整えるのです。 奉仕の働きは限定した目的が示されています。それは和解への働きです。主イエス・キリストを通して人々を神との関係をつなぐ奉仕の働きです。ペテロは使徒6:4で異なる言い方で同じことを示しています-御言葉での奉仕。これは日々の献身です-いつ何時も使節としての役割を担う機会を待ち望むのです。 神が私達を召し寄せるまで終わらないこの働きをするためには、聖霊が必要ですから、私達は常に聖霊に満たされている必要があります。 マジック・エドさんが以前子供達へのメッセージで、酢や他の液体が入った瓶に水をどんどん注いでいくと、前にあった液体が真水に入れ替わって飲める様になるのを見せてくれました。そのポイントは? 言葉、祈り、その他の啓発活動に時間を常に費やすことによって、私たちの古い性質とその習慣は、常に聖霊の実であふれている人生に道を譲り、そして私たちは課せられた奉仕を成就していくことができるのです。 私達は注ぎ出すために聖霊に満たされるのです。私達が空っぽだったら、何も注ぎ出せません。 だから、私達の人生で聖霊に満たされることが常に起こることになっています。 今日、私たちは常に聖霊に満ちている旅を始め、神と和解することによって他の人々に注ぎ出し、教会が普遍的に、地球上のキリストの大使であるという役割に立ち上がる日となりますように。 教会の兄弟姉妹のみなさん、ロングビーチからこんにちは。
今月と来月の教会のテーマは「聖霊と共に歩む」にしました。これはケリーと私が話すメッセージのおそらく核心となるものです。この題目については2,3回お話しするつもりです。 さて、創造主である神につながること、天国に行くことの鍵となるものは「救い」です。 力強く生きること、愛すること、天国を地上にもたらすことの鍵となるのは、「聖霊を受け入れ、聖霊に満たされること」です。 聖書に書いてあるように私たちはそうしなければならないはずですが、実際はどうでしょうか。 そうしなければならない。しかし力がなければただ重荷であり義務でしかありません。力があってこそ、神が共にいる予期せぬ刺激的な経験となるのです。 例をあげてみましょう。数日前ケリーは知人のパーラに連絡を取るようにと聖霊に促されたような気がしたので、携帯メールを送ったところ、パーラは喜んですぐに電話をかけてきました。パーラは友人と一緒に暮らしていましたが、パーラもその友人もケリーがリハビリセンターで行っているバイブルスタディで知り合ったので共通の友人でした。その日3人は久しぶりに近況を話し合いました。 その翌朝午前3時にパーラがパニックになって電話をかけてきました。その友人が突然死んだのです。それでケリーに電話をしてきたのです。詳しいことはここでは話しませんが、その日私たちの家に宛名違いのダイレクトメールが届きました。宛名は私たちではなくパーラの名前でした。住所も私たちのマンションの近くではないのにどうしてこのような間違いが起こるのかわけがわかりませんでしたが、神がケリーの前にパーラの名前を差し出し、パーラの問題にかかわるように指示しているのだと私たちは感じました。 数日たって、私がこのことについてさらに神に尋ねると、多忙な生活の中でもパーラを第一優先にするように、と神が答えたように感じました。 ふつうこのような深刻な件には、誰でも注目するのが当然だと人は思うかもしれません。でも実際私たちは、他にも大きな問題を抱えている人にたくさん関わっていて、毎日手一杯の状態でした。ケリーはその日パーラの様子を知るために電話をかけたとき、その不思議な宛名違いの郵便物のことを話しましたが、パーラは驚いて非常にショックを受けました。 神のみがこのような不思議なことを起こすことができます。神は明確に「私もここに一緒にいるよ」と言っていました。こういう不思議な体験がケリーと私にはたくさんありますが、これが聖霊とともに歩んでいる一つの側面であり誰でも体験できるものなので、この話題が好きなのです。 つまり私たちのように聖霊に満たされたクリスチャンであれば、普通に起こることだと思っています。 霊に満たされた人生を送るには聖霊との関係が不可欠要であると聖書は言っています。 イエスは、弟子たちが世の中を変えるために出発する前に、待つように言いました。聖霊の持つ人智を超えた愛と力が必要だったからです。 使徒言行録1:5でイエスはこう言っています。 「5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられ(そして聖霊の力と一致を得)るからである。」 聖霊の力と一致。このことをよく覚えておいてください。 さて今日のテーマにはふたつの課題があります。 ひとつは、聖書などから得る知識を増やすこと。もうひとつは、現実の経験を増やすこと。 知識のみを追求することは無味乾燥で空しいものですが、一方経験に見合う知識がなければおかしなものになります。 大事なことは知識と経験のバランスです。 さて聖霊との関係を人に説明するとき、私は結婚を例えに用います。 バイブルスタディのSermon labでは、聖霊と共に歩むことを結婚やほかの人間関係に例えました。たとえば聖霊を自分の親友だと思うことはできるかというようなことです。聖霊をどのようなイメージでとらえるかは数多くあり、風に例えることも聖書にあります。問題は、多くの人が聖霊に対して親密さや真の関係を求めようとしないことです。聖霊との関係は、ちょうど神が宇宙の遥かかなたの創造者であると同時に、「アッバ」つまり「おとうさん」と親しみを込めて呼べる身近な存在であるのと同じようなものです。 イエスは弟子が理解しやすいように多くの例え話をしましたが、私も例えで話してみます。 クリスチャンになることは結婚することと同じようなものであり、聖霊は関係性において肉体関係の役割を果たすと言えます。 たとえば肉体関係はある(霊的なものをもっている)が結婚はしない(クリスチャンではない)ということがあり得ます。これはニューエイジだとかキリスト教以外の深い精神世界に魅了されているというような理由からですが、魅力的な世界観でもあります。霊的であるとはこのような場合もあり得ます。人間は肉体的、精神的の両方でつながりを求めるものです。神と霊的なつながりを持たない関係は、本来あるべき楽しさも感動もありません。 また結婚はしている(クリスチャンである)が肉体関係を持たない(聖霊を持たない)というのは、厳格で宗教的なクリスチャンではあるものの、聖霊に満たされず聖霊とともに歩んでいないことを指します。人を非難することはできません。あなたのことかもしれませんから。 西欧諸国の弱点は根底に霊的なものがないことです。人々は霊的なものを欲しています。霊的なものを提供しなければ、多くの教会で人々が離れて行くでしょう。 アフリカのような地域では、霊的な世界はおよそ現実世界と同じくらい力強く存在しています。そのような所では霊的に生きることがむずかしくありませんが、課題となるのは霊的なものをどのように取り扱うか、それが本当に聖霊に導かれたものであるかです。 先ほどの結婚の例え話が有効であるなら、人が神との関係において、また霊的歩みにおいて、神への真の情熱を示すためには許可が必要であるはずです。 一方、知識を持つということでは、聖霊についてグーグルで調べて聖霊の持つ力をすべて探してみるといいでしょう。また聖書には何と書いてあるか見てください。 それではスライドを見てください。(ジャック、スライドの準備をありがとう)これが聖霊の働きの一部です。これで聖書をいちいち調べなくてもよいようにしましたが、あとで自分で聖書を見ておいてください。 聖霊とは、 ・あなたがたにすべてのことを教え(ヨハネ14:26) ・イエスが話したことをことごとく思い起こさせてくれる(ヨハネ14:26) ・弱いわたしたちを助けてくれる(ローマ8:26) ・執り成してくれる ・一緒に住み、あなたがたの中にいる ・あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。(使徒1:8) どうです、すばらしいでしょう。この聖霊の働きについてだけで講義が何回もできそうなくらいです。大事なことは、これらは聖霊に満たされてこそ受け取ることができるのです。 しかしあなたは自分が知らないことや、自分の目の前にあるのに気がつかないものを求めることはできません。ということは、救いの祈りのほかに聖霊を受け取る方法はあるのでしょうか。 以下の聖書箇所についてよく考えてみてください。 使徒言行録8:12-16 (この箇所では、サマリヤの人々が福音を聞いてキリストを信じ、洗礼を受けました。それを聞いてエルサレムの使徒たちはペトロとヨハネをそこへ行かせるのですが、それは「もうひとつのこと」のためでした) 「14エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。 15二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。 16人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである」。 また、使徒言行録19:1-6でパウロは人々に洗礼を授け、人々に聖霊が降りました。この箇所は宿題にします。 そして私の好きな箇所は使徒10章で、ペテロがイエスについて語り、どのように救われるかをユダヤ人でない「異邦人」に語っているときに突然起こった出来事のところです。 「44ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。(神が異邦人を受け入れた証し) 45割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。」 そしてペトロたちはどう思いましたか。 「46異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、聞いたからである。そこでペトロは、 47『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った」。 不思議です。聖霊の賜物を受けるには、まず悔い改め、罪人の祈りを行い、洗礼を受けてからという手順があるはずです。ではこれは一体どういうわけでしょうか。 つまり聖霊の贈り物を受け取る正しい方法は、ひとつだけではないことを示しているのです。神は私たちの考えよりはるかにずっと大きなものです。謙虚に受け入れましょう。 以上が今日私が話したかったことです。みなさんは今日の話をきっかけに聖書の中の聖霊に関する箇所を全部調べて、知識を増やしてください。使徒言行録の今日読んだ箇所について、今日この後のバイブルスタディで話しましょう。ケリーと私、そしてこの教会の多くの人が聖霊の働きを経験しています。みなさんの話や質問も聞かせてください。何よりもあなたが聖霊の働きを経験できるよう手助けができたらうれしく思います。 イエスの流された血によって救われたい、清められたいと思っている人(アーメン)のために共に祈りたいと思います。 この人たちはおそらく聖霊の贈物を求めたことはなかったと思いますが、これは信仰という第一段階と同じくらい簡単なことです。このことについてはルカ11章で言っています。 ルカ11:9,11:11-13 「9そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。 「11あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」 そういうわけですから求めましょう。次回の私の説教で「毎日の生活の中で聖霊と共に歩む7つの方法」をお話しします。今は前進し求めてください。それでもし不安になったら…もっと求めてください。いつ求めるのかどのように求めるのかわからなくなり、途中で立ち止まってしまうかもしれません。使徒言行録4:31を見ると聖霊についてさらに書いてあります。 「31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き(神の臨在のしるし)、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。 では祈りましょう。 母の日おめでとう!いくつかの教会で呼ばれているようにクリスチャンホームのハッピーフェスティバルです。 母親になる方法はたくさんあります。出産したり、養子縁組したり、里親になったりすることで母親になることができます。しかし別の方法があります。 アイデアや夢、新しいプロジェクトを生み出したことがある人は誰でも母親と見なすことができます。 この定義を用いて、1888年に生まれた有名な牧師、伝道者、作家、活動家である賀川豊彦牧師は、貧しい人々への奉仕、新しい教会の設立、初の天国屋カフェ、協同組合の発足など多くの新しいミニストリーを始めたという点で母親のようでした。彼には夢がありました。すべての人が平等で、誰もが互いに助け合う新しい社会のビジョンです。彼は一人で始めましたが、後にハルさんと結婚しました。彼女はスラム街の子供たちの世話をすることで香川を助け、多くの人がトラコーマに苦しんでいたので彼らの目に点眼薬を点しました。スラム街の生活環境のため、彼女は片方の目も失明しました。ハルは彼のミニストリーのパートナーでした。香川家には自分たち自身の子供が3人います。彼らは愛情深い母親のように他の子供たちの世話をしました。また、私が述べた他のイメージのように、彼らは貧しい人々の益となる、より多くのプロジェクトを生み出しました。私たちが覚えているのは賀川豊彦の名前ですが、ハルの名前と彼女が夫をどのように助けたかを忘れないでください。 あなたの人生には「母親」がいたかもしれません。あなたの道途中であなたを助けてくれた人々。あなたを運んでくれた人。多分それはあなた自身の母親かあなたの人生で出会った他の誰かかもしれません。 私の母ルビーは、1922年にテキサスで生まれました。私に最善を尽くし、正義のために立ち、教会に仕え、神を愛するように勧めてくれた人でした。彼女は私にとってロールモデルでした。彼女の私への愛は、私が神学校を通して、そして私が牧師になった後も、私を担ってくれました。 米国での最初の母の日は1870年にジュリア・ウォード・ハウによって始まりました。彼女は平和運動と女性参政権運動に積極的でした。彼女は平和の日としての母の日という考えを生み出しました。アンナ・ジャービスが1905年に亡くなったとき、同じアンナという名前の彼女の娘は、全国的な母の日を設立することで母親の反戦宣言を称えることを誓いました。 1914年米国議会は5月の第2日曜日を母の日としました。 母の日を考えるとき、私は神のイメージを母親として考えざるを得なくなります。しかし聖書には神の多くのイメージがあります。今日私が選んだのは私のお気に入りの1つです。たくさんのお気に入りがありますが今日はこれを選びました。申命記32章11節の鷲としての神「鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように」 鷲としての神のイメージを描く聖句をいくつか挙げます。 詩篇91:4 神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。 出エジプト記19:4 あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを。 母鷲としての神のイメージは、出エジプト記、ヨハネの黙示録、申命記、そして聖書の他の部分にある他の神のイメージとともに描写されています。 けれども鷲について興味深いのは、オスとメスの両方が若鳥の世話をしているということです。鷲について最も興味をそそるのは子供たちに飛び方を教える方法です。こういうことが起こります。時が来れば、一般的に仲間よりも強くて大きい母親の鷲が、自分の子鷲が飛ぶ時期だと判断したとき、子を自分の翼に乗せて空高く飛びます。 突然、母鷲は急降下して強制的に子鷲を単独で飛行させます。子は飛び始めますが、まだ学び始めなのでふらふらと落ち始めます。しかしその後、母親は下から急に飛び上がり、翼で子を捕まえます。それからまた空高く運び、子鷲が自分で飛べるようになるまで同じことを何度も繰り返し試みます。 神は聖書が言うように、私たちが弱いときに私たちを育ててくれる母鷲のようなものです。常に私たちの独立、成熟、そして強さの目標を目指しています。神は私たちが運ばれる必要があるときに私たちを運び、私たちを見守っておられます。 このあとチャック牧師が彼のメッセージと神のイメージを皆さんに共有しますが、その後にオリビアがジャマイカにいる彼女のお母さんと、彼女が倒れないように支えてくれているお母さんを信頼するオリビアの信仰の飛躍について話してくれます。 私たちは神を信頼する必要があります。神は私たちを倒れさせません。私たちの生活には多くの課題がありますが、神は私たちをつかまえてくださいます。神は私たちに教えてくださいます。神は私たちが成長するのを助けてくださいます。 神は私たちが霊的に成長することを望んでおられます。それは私たちが神との本当の関係に立ち、私たちをご自身のイメージに作られた方に似ていくように日々成長するためです。この後にチャック牧師から、私たちが作られたイメージについてもっと聞くことができます。 私たちの神は私たちを巣に留めておきたいとは思っておられません。私たちの神は、人間の成長をもたらす霊的な探求へと私たちを巣から追い立てられます。しかしながら神は私たちと共におられ、私たちから離れられることは決してありません。 申命記の母鷲としての神の肖像画は、いかに神がヘブライ人をエジプトで奴隷制から解放し、自分たちの土地での自己決定に向けて彼らを前進させたかを思い起こさせるという文脈から来ています。神は問題がある時も私たちを運んでくださいます。 この説教のテキストについて考えるとき、私の思いは私の母と彼女の祈りが私をどのように運んだかということに戻ります。母は私たちが自立するのを助けることを目標に4人の子供を育てました。私の母は2003年に81歳で亡くなりましたが、私は母と父が恋しいです。 しかし母が私に与えてくれた力の一部を自分の中に抱いています。そしてこの世界の他の誰よりも、母は私に神の愛がどのようなものかを教えてくれました。母鷲の愛と同じように、神の愛は決まっています。それは私たち一人一人を成熟させ成長させるように後押し、促します。それは、私たちが進むごとに、強い翼が何度も何度も私たちを支えてくれることを約束します。それは母親の愛です。それが神の愛です。アーメン - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 「母の日を思い返して」2021年5月9日 チャック・グラフト牧師 創世記1章26-27節KUCの家族と友人の皆さん、こんにちは。まず、これは説教ではありません。
先日私が経験した聖霊との時間について共有したいと思いました。そのことが皆さんの神との関係、そして神をどのように見て、どのように近づくかを深めるきっかけになることを願っています。 そうですね、それは神の伝統的な見方です。神は私たちの父であり、私たちはそれが聖書的であることを知っていますが。 先日私は、毎日神と持つ最高のつながりの時間のひとつのために横になっていました。土曜日の新しい一年聖書プログラム - 試してみることをお勧めしますが、その素晴らしくて楽しい聖書の朗読のことではありません。 そうではなくて、今回は私の最高の祈りの時間のひとつですが、多くの人にとっては違うように聞こえるかもしれません。私は横になって目を閉じて、ほぼずっと耳を傾けるのです。言ってみれば一種のギヤチェンジです。精神をコントロールして心と体を休ませます。しばしばアイデアや人々の名前や物事のイメージを思い浮かべます。これらの多くが聖霊が私と共有するある形なのだと感じます。 そして私はメモを取りますが、流れを台無しにしないようにします。 一週間ほど前に私はこの啓示の感覚を持ちました。近い将来に自分の兄弟についての説教をしようと考えていました。彼をどれだけ尊敬し、私たちがここ何年かの間でどれほど親密になったかについて。けれども私に生物学上の兄弟がいないことを知っている皆さんは疑問に思うかもしれません。私は最近、私たちの兄弟としてのイエスの歩まれた道とイメージに心を惹かれました: ヘブライ人への手紙2:11にあるように。 きよめる方も、きよめられる者たちも(つまり霊的に変容し、聖別され、神の目的のために分けられる)はすべて一人の父から来ています。それゆえに主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。 ですから、これがあなたの神学を台無しにせず、後でこのことについてもっと共有できるよう願っていますが、私は突然新しいアイデアが浮かんだと感じました。とにかく新しいと感じました。神は私の父であり、イエスは私の兄、聖霊はお母さんのよう! 驚くべきアイデアと啓示のように感じたので衝撃を受けましたが、すぐにそれほど驚くべきものでもユニークでもないので、私はこれについて祈り、瞑想し続けました、そして私は創世記1章の箇所に連れ戻されました。 私のお気に入りは詳訳翻訳です: 創世記1:26-27 すると神は言われた、「わたしたち(父、子、聖霊)は、わたしたちの似姿 [ 肉体的ではなく、霊的人格と道徳的似姿 ] に従って、わたしたちのかたちに人を造ろう。そして彼らに海の魚、空中の鳥、牛、そして地球全体、そして地球上を這うすべてのものに対して完全な権威を持たせよう。」 そして神はご自身のイメージで、神のイメージと似姿で人を創造した。男性と女性、神は彼らを作られた。 このことが私と同様にあなたに気づかせることを願っています。神は彼/彼らのような人々を作られたかったので、彼/彼らは人を男性と女性に作られた。男性と女性、神に似たものであれば、三位一体のすべてが男性であるとなぜ言えるでしょうか? 少なくとも私たちは問うべきです。 私が意味するのは、私たちは皆、神が実際には男性でも女性でもないことを知っていますが、皆さん自身、問いかけてみてください。祈りの中でどのように神に近づきますか? あなたが彼、あるいはあえて言うと彼女をどのように想像するかによって、どれほど神に近いと感じますか? 結論として、おそらく本当に皆さんのうちの何人かを混乱させたかもしれませんね、何年前だったか忘れてしまいましたが、私がイメージする神はこうだということを感じました。私が神をどのように描くかが大事であり、それは培うことが可能である。であるなら誰を私は意図的に描くのか。 最も親切で、最も愛情があり、最も賢く、私が考える得る最高の人間だと考えてみました。そう、神がそうじゃないと言われない限りは、それが私が神を想像する方法であるべきだ、と。 私たちの多くがそのようなイメージで育ったと思いますが、老いた髭の白人男性、それは間違いなく共有したくありません。 イエスが神と神の王国を理解するために私たちに物語や例を与え続けられた様子が私は好きです。残念ながら今ではあまり理解されていない日常のシーンですが、彼はこのような方法を取られました。 ですから私が座って描いてみると、私が今までに知ったり見たりした神のすべての属性 は誰のようであるか、わかりました。何年もの間育ててきたイメージです、それは黒人のおばあさんです。大きくて肌黒く、暖かくて敏感であるだけでなく、強く、確信を持ち、単純で、けれども深みがあって私たちを混乱させるような方法に聡いおばあさん。 先日私は突然のように感じたのです、そうです、「我々のイメージで」神は彼/彼らのイメージで人類を作りました:男性と女性! 私にとって想像することは、より大きな親近感のために、そしてよりオープンになるため、より自由に愛するため、毎日電話をして、会いたくなったらいつでも会うことのできる黒人のおばあさん、あるいはお母さんとして聖霊を想像することはOKだと。 私は皆さんがこのことについて瞑想し、ただ神に尋ねることを願っています。新しい目で神を想像して見ることは大丈夫ですか。そのことがあなたを助けるかどうか見てください。そうでなければ、気にしないでください! 私は皆さんとこれを共有したかっただけです。私たちは5月を「聖霊と一緒に歩く」のテーマで開始します。そしてあなたが私のように微笑んで、警戒を解いて、年配の大きな黒人女性がポーチにいてこう言うのを創造したならば: 「ハニー、あなた、座って話しましょう。」 けれども最初に彼女はあなたに今までで最高の抱擁をします。そしてあなたはリラックスして、少し泣くことでしょう。愛されることがどれだけすばらしいか、そしてあなたがどれだけ愛されているか、ただそれだけの理由で。 祈りましょう。 聖書朗読箇所 ルカの福音書 24:13-35 キリストの復活・出現についての話の中で、私はエマオへ行く話が個人的に一番好きです。 他にもキリストが復活し出現する話しがあります。キリストが庭でマリアに対して、彼が誰であるかを明らかにした場面です。そして、弟子たちやトマスの前にも現れたり、ペテロとヨハネにはガリラヤ湖のほとりで出現します。しかし、この生きている救い主が出現するエマオへ向かう道中での出会いはとても力強く、私の心に印象付けられています。 また、興味深いのは、4人の福音書の著者のうち、ルカだけがこの話を書いているという事です。ルカはイエスの復活後の出現を2回だけ書き記しており、エマオへ行く話しはそのうちの1つとなります。 ルカはこの復活後の出現の話は私たちの信仰を励ます話だと思って書いたのかもしれません。私たちの信仰の中心にイエスの復活がある事は確かですが、パウロは次の様に述べています。「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく」(コリント人への手紙 第一15:17) そうだとしても、4人の福音書の著者全員が復活後のイエスの姿をあまり多く書いていないことに驚いた事はあるでしょうか? マタイは28章のうちの1章のみ、マルコは16章の内の1章だけです。そして、ルカは24章のうちの1章だけ、ヨハネは21章のうち2章にて復活後のイエスの姿を書いています。 ルカの書にはエマオへ行く(ルカ24:13-35)2人の弟子のところにイエスが現れ、もう1つは(ルカ24:36-49)クレオパと彼の友人がエマオからエルサレムへ7マイル(約11キロ)の距離を戻り、他の弟子たちに何が起こったのかを話している間に部屋にイエスが現れる話しです。 マグダラのマリアや他のマリアなど女性を除いて、少なくとも514人の男性が復活した主を見ている事がパウロの言葉から分かっています(コリント人への手紙一 15:3-8) エマオの話は私たちにとっても文字通りの心の旅です。2人の弟子が主の十字架刑と復活の後、エルサレムから彼らの村であるエマオまで歩いていく道中の話しです。それはまた私たちがイエスを認識しない場所から、聖書がイエスについて何と言っているかを理解する事、イエスが何者であるかを認識すること、そして最後に私たちが経験したことを証しするまでの旅の概要と受け取れます。 さらにこの部分にはもう少し注目して欲しい部分があります。CEN(クリスチャン・エデュケーション&ナーチャー)のチームリーダーである恵深さんがよく言う様に、この箇所を「掘り下げて」見てみましょう。 私たちの前には2人の悲しみに打ちひしがれた弟子がいて、彼らは自分たちの信仰と未来が砕かれたと感じていました。彼らの感情を想像するのは難しいですが、あなたの人生の中で自身の将来に疑問を抱いたり、そして神に疑問を投げかけたことがあるかもしれません。 弟子たちは、理由は分からずとも何故か神から見捨てられたと感じていたかもしれません。彼らは希望を失っていたかもしれません。失望や落胆の時、愛する人を失った時など、私たちは生きる希望と意味を見出すために神への信仰が必要です。それは、私たちが信仰のコミュニティを必要とする時です。祈りが必要な時です。神の御言葉を読み、聖霊が私たちをその迷いから救い出してくれる必要があります。人によって、それが容易に出来たり、そうでなかったりします。 時折、私たちの信仰は放棄される時もあるかもしれません。しかし、見えないものを信じるのが信仰です。そして信仰によって私たちが得るものは信じてきたものを最終的に目にすることです。 話に戻りましょう。弟子たちは疲れ切った身体と虚無感で歩いていました。イエスは亡くなりました。彼らはイエスこそが彼らを救い、イスラエルを贖うと思っていた人でした。十字架刑以降、弟子たちが経験していることは「道徳的な傷害」と呼ばれていました。彼らは悲しみ、恥らいを感じ、おそらくPTSDでさえも感じていたでしょう。 聖書をより深く理解するための別の方法として、話しの中に自分自身を想像してみましょう。(もし良ければ、今目を閉じて、自分自身を話しの中にいるかの如く、想像してみてください) あなたがクレオパの仲間として埃っぽい道に立っているとします。今何時ですか?お天気は?日差しが強く背中に照りつけていますか?それとも少し肌寒い?道に立っている時の匂いは?道の両サイドに植物はありますか?何が聞こえますか?身体はどう感じていますか?埃が目に入って、目から涙が出ていませんか?それともその涙は悲しみの涙でしょうか? クレオパとあなたは、十字架刑の後、イエスが再び生きている姿が確認されたと聞いて、本当なのかどうかを話しています。 そこにもう1人の人が加わります。あなたはこの人が誰か知っているような気がします。思い出せないけれど、前に会った事があるような感情になります。そして、この見知らぬ人が、あなたとクレオパの会話に入り、彼は何が起こったのか知らないと言うのです!ですから、もう一度、なぜあなたがそこまで悲しんでいるのかという事を説明するために、出来事を伝えます。クレオパとあなたは、21節にあるように「しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていました。」と言うのです(ルカの福音書24:21) 「私たちが望んでいた」とは絶望によって重くなった言葉であり、あなたの悲しみはキリストを認識するのを遠ざけます。 そして、その見知らぬ人はヘブライ語の聖書について話し始め、イエスが十字架で死ぬことは預言者によれば必要であったと説明するのです。そしてその見知らぬ人は、さらに多くの聖書の言葉を説明します。 その見知らぬ人は神が過去にどの様に私たちのために働きをしてくれたのか、モーセ、予言者やイザヤのしもべの苦しみを通して何をしてくださったかを話します。「神はその苦しみを通して、勝利と贖いをもたらされたのではないでしょうか?」とその人が訊ねるのです。 この見知らぬ人はイエスなのですが、他の事も言います。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの行ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」(ルカの福音書24:25)厳しい言葉ですよね。 先週土曜日の私たちのSermon Lab で参加者の1人はイエスが彼らを愚かだと呼ぶことにおいて非常に現実的で率直な言い方だと言った人がいました。イエスはクレオパともう1人の弟子(今の段階では、想像している中ではそれは、「あなた」自身です)に少し腹を立てていたのかもしれませんね。 イエスはエマオへの道中、モーセと預言者について話した時、モーセが言った事が書かれている箇所を弟子たちに思い出させました(申命記30:14) 「みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」 そのイエスである見知らぬ人が話していると、クレオパの中で何か力を感じました。もしあなた自身もイエスと共に歩いているのを想像できるのであれば、何か心の中で暖かくなるものを感じ始めたのではないでしょうか? 実際それは燃え始めるのです!しかし現時点ではその理由を明確にすることはできません。彼はさらにいくつかのことを追加し伝えますが、それはあなただけが何であったかを知っています。そしてこれらの言葉はあなたの心に触れ、その中に熱いものを感じます。 もう夕暮れなので、夕食と寝る場所を探す時が来ました。習慣に従って、クレオパはその見知らぬ人に一緒に食事をして、夜を過ごすように勧めます。あなたも3名が宿泊できる場所を見つけ、皆が座って食事をします。その時に事は起こるのです。ゲストがホストになるのです。その見知らぬ人はパンを手に取り、それを祝福し、裂いて彼らに渡します。私たちがコミュニオン(月初めにパンとワイン(ぶどうジュース)を共に分かち合う時)でパンを裂くのと同じように、イエスが弟子たちと共にパンを裂いた時と同じように。その瞬間、「彼らの目が開かれ、イエスを認識した」のです。パン、御言葉、そして目の前にいるそのお方のおかげです。 イエスはもう見知らぬ人ではなくなったのです。 先週土曜日のSermon Lab で参加者の1人は30節と31節は奉仕を常に行うという精神を強調しているのではと言っていました。弟子たちはイエスが彼らに仕える(パンを裂き、渡す)までイエスと気づきませんでした。 クリスチャンとして私たちのライフスタイルと奉仕は私たちが互いに仕える時に人を神に近づけます。 もう一つ、Sermon Labの参加者が言った事は、隣人が誰であろうとも、もてなしと愛を隣人に示すまでイエスを認識できないかもしれないといった発言もありました。 彼らの「目が開かれた」とき、彼らは復活した主を目にしました。イエスは彼らと共にいました。私たちの「目が開かれたとき」、イエスを目にするでしょう、でもそこで立ち止まることはできません。私たちの周りにあるニーズを見るのです。私たちの「目が開かれたとき」、後戻りはできません。世界の痛みに目をつぶることは出来ないのです。 賀川豊彦牧師は1881年生まれです。世界のニーズを感じそれに対して様々な事を行った牧師です。彼の心は貧困に苦しむ、抑圧された人々への愛で燃えていました。聖霊は彼を動かし、牧師は21歳で神学校から神戸のスラム街に移りました。貧困層に対して説教を行い、診療所を設立し、組合の組織化、子供たちへの教育、晩年には農民を救うためにCo-op(協同組合)を設立し、たくさんの著書を出しました。彼の心のすべてを尽くして使えました。ぜひ賀川牧師の事を検索してみてください。もっとたくさんの事を学ぶことができます(香川牧師の写真) 賀川豊彦牧師は当時の社会に対して目を開き、神の愛を通してどのように社会を変化させることができるかを伝えました。神の愛を人々に伝え、その愛をどうやって行動に移すかを伝えました。彼の人生は今なお現代を生きる私たちにとっても力となります。 神戸で今日の礼拝を見てくださっている方々はぜひ三宮にある賀川記念館に行ってみてください。そこには彼の人生と奉仕を紹介する博物館があります。 機会があれば、ぜひ足を運んで、インスピレーションを受けてください。 わたしたちは御言葉と聖礼典に集まった人々です。私たちは目を開いて世界に目を向けるように送り出されている人々です。 私たちは、みな神の民です。許され、生まれ変わり、御言葉と聖礼典によって、世に送り出され生きているのです!そして私たち自身が教会です。チャック牧師がよく口にするように「教会になりなさい」という言葉があります。 私たちは目を開き私たちの周りにある世界に目を向ける人たちです。私たちは聖霊に導かれる人々です。私たちの目と心を開いてくださったイエスキリストと共にこの世に足を踏み入れています。 アーメ |
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