今日のヨハネ6章は、聖書の中で最も長く最も深い意味を持つ章の一つです。章の始めでイ
エスは男性だけで5千人、全部でおそらく7千人から1万人に食べ物を与えました。 私は勤務する学校の入学式で生徒にお団子を配りましたが、私ともう一人の教師と二人で 、240人の生徒に箱に入ったお団子を配るのに20分か30分かかりました。7千人から1万人 となると想像もできません。これは「比喩」だと解釈する人もいれば(私は同意できませ ん)、イエスが皆の寛大さを促し、皆で分け合って食べたのだと信じている人もいます( これも同意できません)。人々を利己的な心から寛大な心に変えるのは奇跡的です。自分 一人で群衆を寛大にできるか試してみてください。 私たちにわかるのは何かが起こり、イエスが群衆から離れて弟子たちが舟に乗り湖を渡っ てからも、人々がイエスを追い求めたことです。 この群衆は、目を引き付けるものを目撃したので、イエスに執拗に付いてきました。しか し群衆がイエスに求めたのは間違ったものでした。メシアではなく、自分たちの王を求め る人たちと同じような間違いでした。見世物としての奇跡を見たがり、アンコールを叫び ました。イエスがパンと魚を出してくれたことに感動しました。それにびっくりするほど おいしいものだったはずです。まるでこういう会話が成り立つようです。「今日の夕食に 何が食べたい?」「何が食べたいか知っているでしょう。以前あの大工の人が作ってくれ たパンと魚よ」。 一方のイエスは大人数の人々に食べ物を与えて、人々が食べている最中に弟子たちを強引 に舟に乗せました。それは弟子たちが、群衆からの人気ぶりに心をゆさぶられつつあった からだと思います。人気は誘惑です。 ある有名な俳優が名声について話していた記事を読んだことがあります。レストランでフ ァンに取り囲まれてサインや写真を求められるのは好きではないが、それよりもっと悪い のは、街で誰も自分に気づいてくれないことだと言っていました。(私にはこういう心配 はありませんが)。 今の時代のインフルエンサーと同じように、弟子たちは自分たちのプラットフォームをよ うやく持ちました。フォロワーが今日は5千人、明日はおそらく1万人、その後はどれだけ 増えるか。こういった有名であることの魅力と誘惑をイエスは知っておられたので、弟子 たちを舟に乗せ岸から離し、ご自分は祈るために山に退かれました。 その後、弟子たちは一晩中嵐と闘いますが、そこへイエスが嵐の湖の上を歩いて舟に近づ いて来ました。イエスが水の上を歩く有名な話です。個人的に私は「水の上を歩くイエス 」という表現が好きではありません。イエスが水の上を歩くことができるのは、私の信仰 の範囲内です。しかし、ペトロが舟から出てイエスの方へ水の上を歩いたように、イエス とつながることによって、私たちもまた水の上を歩くことができるというのが私にとって は驚きです。あなたにもできますか。イエスに召されているのなら、備えていただけます 。しかしイエスに従うには、力と勇気が必要です。 今日の説教はペトロや舟の話ではなく、今日の聖書箇所の直前に起こった出来事について です。イエスは舟に乗られると波に話しかけ、波は耳を傾けました。イエスは単なる教師 ではなく、パンと魚を増やす人というだけでなく、まさに神の御子でした。 翌日反対側の岸辺で群衆はイエスと弟子たちに追いついて、イエスにどうやって向こう岸 に渡ったのか素朴な質問をしました。イエスは返答せずに話題を変えました。イエスが湖 の嵐を静めたのは群衆のためではなく弟子のためでした。人生には疑問や問題に立ち向か わなければならないときもありますが、時にはそういった疑問が邪魔になるときもありま す。それでイエスは「はっきり言っておく」と言われ、話題を変えられました。 イエスが「はっきり言っておく」と言われるときは、重要なことなので注意を払って聞い てください。この言葉は、教師の私が教室で「この箇所はテストに出る」と言う時と同じ 効果があります。生徒が集中して耳を傾けます。ですから注意深く聞いてください。イエ スは群衆に対して、イエスを追ってきた動機に目を向けるよう促しています。みなさんの 動機はいかがですか。なぜ今日教会に来たのですか。私の話を聞くためだけではないのは 私も分かっています。人みなそれぞれ礼拝の中の好きなものが違います。祈りの時間が好 きな人もいれば、ワーシップソングを歌うのが好きな人もいるし、説教の時間が好きな人 もいます。しかし私たちが集まる動機は、生きておられる主に近づくためであるべきで、 これに尽きます。ところが聖書のこの箇所の群衆の動機は、食べ物の配給や奇跡の見物で した。イエスはここで「動機」について、深く掘り下げて問題を提示しています。 なぜ今日ここに来たのか。イエスは群衆が自分を追い求めて来た動機が、見当違いである ことを知っておられました。彼らの動機は、天の父と霊的なつながりを深めるためでも、 宇宙の創造主とのより深い関係を育むためでもありませんでした。メシアではなく王がほ しいと望みました。人は動機を問われるのを好みません。 私も説教するたびに、なぜ自分は説教しているのかと自分に問うています。ビートルズの 曲、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」の歌詞を知っていますか 。 「僕の歌がヘタクソだったら、君はどう思う?立ち上がって、出て行ってしまうかな?」 答えは「うん、そうだね」でしょうか。 イエスはメガ・チャーチ(巨大教会)を失った最初の人です。彼らはSNSのインフルエンサ ーになる代わりに道を爆走し、もう戻ろうとしません。イエスはそういう人たちに問いを 投げかけます。本当の優先順位は何か、なぜ莫大な時間とエネルギーを、はかないものに 費やすのか、と。 私は出費を抑えるためのルールを決めています。新しい服を一着買ったら、古い服を一着 捨てます。捨てる服がなかったら、新しいシャツは買いません。多くの人が世俗の物欲に 囚われています。イエスに、財産をすべて捨てるようにと言われた裕福な若い支配層の人 と同じです。所有することが悪いのではありません。所有することに囚われるのが悪いの です。世俗のものを追い求める余り、永遠に続く霊的なものを見逃してしまうのです。 ここに問題があります。神は、人間が食べ物、水、休息を基本的に必要とするよう創造さ れました。私たちはそれらがすべてだと思い込んでいます。しかし永遠のいのちを求める なら、この必要性の優先順位を逆にしなければならないと主は言われます。もしあなたが 今日のことだけ考えているなら、今日を生き抜きなさい。しかしイエスをあなたの主、あ なたの師と認めるなら、私たちの必要順位は逆さまになるとイエスは明らかにしています 。 このことはヨハネ4章に登場する井戸でのサマリアの女とイエスの会話に、はっきりと表さ れています。女が永遠の命に至る水をほしがったのは、神に近づきたいからではなく、丘 を上って水を汲みに来なくてもよくなるようにでした。それでもその女性は最終的に命の 水を得たのでした。 子どもの頃、私の教会の牧師が、家にある一番古い食べ物を教会に持ってくるように言い ました。そして賞味期限が10年以上前に切れているラーメンを牧師が食べていました。食 品の賞味期限は、食べても害がないかどうか見極めるために表示されており、国が健康上 の安全を保証するものです。同じように、神は神のしるしを御子イエスに表示されました 。イエスが群衆に食べ物を与えたように、私たちがイエスを信じれば、イエスは食べ物以 上のものを私たちに与えてくださいます。 多くの人が、イエスは賢明な師と認め、その教えを生活の中で実践しています。自分にし てもらいたいことを人に行えば、あなた自身の人生がよくなるだけでなく、周囲の人も恩 恵を受けます。明日を心配せずに生きることができれば、もっと生産的で幸せな人生を送 ることができます。 イエスは「偉大な師」であると同時に、もっとそれ以上の存在です。 しかしイエスを師として受け入れても、主として、救い主として認めなければ、それはパ ンと魚は受け取るが、命のパンと命の水を拒むのと同じことです。 人々は、神が求める働きをするにはどうすればよいかと尋ねます。信仰さえあればよいと いうのは単純(あるいは感傷的)過ぎるという考えに、イエスは問題提起をしています。 人はよく困っている人に食べ物を渡すとか、病院や学校を建てるとかといった目に見える 形での働きを切望し、信仰を取るに足りない些細なものと退けてしまいがちです。イエス は、求められている働きは信仰のひとつだと言っています。働きは楽しくないものと言っ ているのではなく、努力が必要だと言っています。目に見える仕事より努力が必要です。 私は教会で週10時間ほど働いています。そのうち少なくとも週1時間を教会のための真摯 な祈りに費やし、仕事の10分の1を差し出しています。私の心はさまよいますが、これは 働きだと自分に言い聞かせています。これには説教原稿を書いたり牧会をしたりするのと 同じ努力が必要です。もちろん信仰の働きに沿った行動が必要です。ヤコブ書が説いてい るように、働きをしない信仰は死んでいますが、信仰のない働きもまた無意味です。 私たちの最も優先すべき仕事(働き)は、神が私たちに送ってくださったイエスを信じる ことです。 群衆は、バプテスマのヨハネに出会った人々と同じ反応をしました。彼らはアブラハムの 子孫だと主張し、血統を誇りました。また、祖先が荒野でマナを食べたことを自慢し、ユ ダヤの血筋を自慢しました。しかしイエスは彼らの誤った神学を指摘しました。マナを天 から降らせたのはモーセではなく神である。モーセがマナを降らせたと聞いたら、モーセ は動転したでしょう。 マナについて説明すると、エジプトから脱出するとき、イスラエルの民は主の御使いが家 々を通り過ぎる(過ぎ越す)前に、急いで酵母を入れないパンを焼いて食べました。これ が過越祭になりました。御使いはイスラエルの民の家の入口の柱に塗られた羊の血を見て 、あるいは匂いで、その家を過ぎ越しました。 しかしエジプトから脱出した後、民は荒野で不平を言うようになりました。礼拝美の反対 は不平ですが、彼らは何も食べる物がないと不平を述べたてました。 神が天から降らせたマナは、白い薄片状のパンでした。マナの賞味期限は1日で、安息日の 前日に降るマナだけ2日持ちました。荒野を旅するイスラエルの民は、毎日マナを食べるこ とができました。マナをその日に食べずにいたり、保存したりすると臭くなって腐敗しま した。しかし、マナの一部は壺に入れられ、契約の箱の前に置いて蓄えられました。普通 は腐敗してしまうマナは、このように礼拝と神聖に結びついて、新鮮なままで保存されま した。 では私たちを腐敗させようとするこの世の中で、私たちはどうやって霊的新鮮さを保つこ とができるでしょうか。その答えは礼拝と賛美にあります。もしあなたの信仰が枯渇して いると感じるなら、もっと聖書を読もうとするより、主を賛美する歌を歌ってください。 最も偉大な預言者で指導者の一人であるモーセがマナを降らせたのではなく、それは神が なさったことです。そして神の御子も同じことをされました。イエスは人々にパンと魚を 与えましたが、それよりもっと多くのマナを天から降らせる準備ができています。それな のに人々は魚を求めています。 同じように神は今、天から命のパンを与えてくださいました。1日しか持たないマナと違い 、命のパンであるイエスは、私たちの魂を永遠に育んでくださいます。契約の箱の前のマ ナと同じようにずっと新鮮であり続けます。 群衆が、天からのパンをくださいと言った時、イエスは「わたしが命のパンである」と言 い、彼らを驚かせました。「わたしがパンである」。 イエスを信じ、このパンを食べる者は決して飢えることがありません。イエスは自分の意 志を行うためではなく、天の父の御心を成就するために天から降って来られました。父と 子は一体だからです。 イエスを信じる人を、イエスは最期の日に天に上げてくださいます。愛と心を主にゆだね る羊を、イエスは一頭も見失うことはありません。 この贈り物を受け取るために、主から与えられた課題を引き受ける用意ができていますか 。もし準備ができているなら、あなたの手を差し出してこの方の手の上に置いてください 。湖を静めた方の手に、波を凪にした方の手に。 自分をよく見つめてみれば、ほかの人も違って見えます。 ガリラヤの人の手にあなたの手を置いてください。 祈りましょう
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まず、KUCの過去の牧師達がニュージーランド出身でしたが、私はカナダ人です。ギリシャ語の「ποιμήν」(poimen)は羊飼いと牧師の両方を意味します。そのため、この説教中に両者を置き換えながら使います。私が羊飼いと言うときは牧師を意味し、その逆も同様です。カナダ出身の私は、ラグビーよりもアイスホッケーについて、そして羊よりも鶏について(鶏肉工場で働いた経験があるため)多くのことを知っています。 羊は、聖書において神様の民に対して一般的な比喩として用いられています。渡辺禎雄氏の最後の晩餐の絵を見たことがあるかもしれません。そこでは主イエスが寿司と酒をパンとワインとして分け与えています。聖書は主イエスが民衆を羊飼いのいない羊の群れに例えたと言います。主イエスが民を農夫のいない鶏と見たと言ったかどうか私は分かりませんが。私がよく知らない羊について皆さんが私に話しに来るかもしれませんが、人間の羊については少し知っています。と言うのも、私はまず自分自身を見つめ、他の人間-羊達と共に歩んできたのです。では、私があまり詳しくないことをお話ししましょう。まずは、ひとつ物語から始めます。
クリスチャン作家のリン・アンダーソンは、彼が聖地(イスラエル)への旅行中に聖地を回るツアーに参加した時の話をしています。彼は、このツアーガイドについて話しました。その話の中で、バスツアーを案内していたガイドが、羊をたくさん見かけたので、中東の羊飼いはオーストラリア人のように羊を追い立てるのではなく、犬を使って羊を怖がらせ、羊飼いの意思に従わせるのだと話し始めました。古代の羊飼いがいかに羊と愛情深い関係を持っていたか、羊飼いがいかに羊の世話をし、羊を養っていたか、羊飼いは羊に厳しく接する必要がなかったのです。羊は羊飼いの声や匂いを知っていました。バスの車窓から、突然棒を持った男が羊を殴り、羊に向かって叫び、羊を完全に威嚇しているのを見たのです。ツアーガイドは旅行者へ注意を払わず、ツアーガイドはバスを止めました。この羊飼いに近づき、何をしているのかと尋ねたのです。その男は彼に向き直り、「友よ、誤解しているようだが、私は羊飼いではない。私は屠殺者です」。ご存知の通り、羊と呼ばれることは褒め言葉ではありません。羊は生まれつきの方向感覚を持たず、危険にさらされたときの防御手段もほとんど持っていません。彼らは逃げるしか選択肢はありません。決して神様の創造物の中で最速というわけではないのです。実際、羊は羊同士が戦います。(私は知らなかった)。羊たちはお互いに喧嘩したり蹴飛ばしたりしますが、オオカミや犬が来れば、羊たちに勝ち目はありません。 知っておいてほしいのは、私達は互いに戦うのは得意だが(主よ、お赦しください)、本当の敵とは戦っていないのです。私達の格闘は、血肉に対するものではなく、支配、力であることを常に忘れてはならない。血肉に対してではなく、支配と力に対してです(エペソ6:12)。これらに対して、自力で立ち向かっても勝ち目はありません。私達は蹴り、叫びますが、勝つことはありません。私達が必要とするのは羊飼いです。外からの悪魔、或いは自分の作り出す悪魔と自力で戦うのなら、まだマイク・タイソンやマニー・パッキャオを相手にした方が勝ち目があります。困ったときは、主イエスの名を呼びなさい、なぜなら彼の名によって、全てが膝をかがめ、全ての舌が主イエスを主と告白するからです。 旧約聖書では、ダビデが王になる前、彼は父の羊を育て、野獣が来たとき、彼は自分の羊を愛していたので、立ち向かいました。私達が必要としているのは、困ったときの(小さな)羊飼いではなく、困難な時の「良い羊飼い」です。私はよく祈っています。「神様、私はあなたの羊であり、あなたは私の羊飼いです。あなたの助けが必要です。私を導いてください。特に自分自身から守ってください。神よ、私が故意にあなたに従わなかったとき、あなたに私を探すことを強いた私をお赦しください。」 羊はまた感情的な生き物であり、簡単にパニック状態に陥ることがあります。羊は流水を怖がるので、水を飲むのを好まないことを知っていますか。詩篇23篇で、詩篇の作者は「主は静かな水のほとりに私を導いてくださる」と書いているのはそのためです。羊飼いは私達を怖がらせたくないのです。羊は重荷を扱うことができません。マタイ11:28-29「疲れ果て、荷物に重荷を負った者たちよ、わたしのもとに来なさい。あなたがたに休息を与えましょう。わたしのくびきを負いなさい、わたしのもとで学びなさい。わたしは心が柔和で謙遜です。そうすれば、あなたがたの魂に休息が得られるでしょう。わたしのくびきは軽く、わたしの荷は軽いのです」。 私達の信仰は、神様が創造者であるように生命を与える必要があります。信仰が神様との人格的関係に立脚せず、すべきこと、してはいけないことのリスト(律法)になるとき、信仰は本当に重くなり、私達は良き羊飼いに見守ってもらう必要があります。私は、視覚ではなく信仰よって歩むので、私は主の声に従います。主は私の名前だけでなく、主のすべての羊の名前を知っています。私は400人の新しい生徒のリストをもらったばかりで、その名前を覚えるのに1学期かかりますが、主イエスにはその問題はありません。 これほどの欠点があるのに、なぜ神様は聖書を通して私達を羊と呼ぶのでしょうか。そのひとつは、羊が価値あるものとされているからです。聖書では、羊はあなたの富を測るものでした。あなたは神様にとって価値ある存在であり、神様に尊重されています。主イエスが宣教を始められたころ、主イエスは町から町へと会堂を回って教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いをいやされました。群衆が来ると、主イエスは彼らを憐みました。なぜなら、羊飼いのいない羊のように、彼らは疲れ果て、助けを求めていたからです。(マタイ9:35-36) KUCが牧師探しのプロセスを開始するとき、あなたは本当に良い羊飼い(真の羊飼いは主イエス)に従う代理羊飼いを探すことになります。興味深いことに、代理羊飼いも羊に過ぎないのです。(その現実を知らない牧師には気をつけよう)。我々は良い羊飼いの特性を見ており、クリスチャンとして、代理羊飼いにこれらの特性を求めるべきです。11節から牧師の最初の特性は、良い羊飼いが自分の羊のために命を捧げるということです。それは犠牲的な愛と呼ばれます。結果ではなくプロセスへの愛。私達は皆、勝つことが好きです。私が出会ったすべてのサッカー選手は皆、負けることよりも勝つことを好みます。しかし、多くの人々が勝利に至るまでのプロセスを好みません。(骨を折ることだから)。 主イエスはもちろん、世の罪のために十字架上で究極の代価を支払われました。ほとんどの牧師はその代価を支払うよう求められることはありません。しかし、彼らは民のために祈り、民を愛し、民のために断食して祈るだろうか。たいていの場合、雇われ牧師は良い仕事をしますが、いざという時、牧師は教会の人々のためにその隙間に立つよう求められるのです。トレドに住む私の友人は、大変な事態に直面しました(ウンコが爆発した)。ウンコがあちこちに飛び散るので不快なイメージです。とにかく、彼の教会は順調に進んでいたのですが、会計係が教会の金を盗んだのです。牧師には妻子があり、責任もあったので、教会の外で仕事を見つけ1年間給料なしで働いたのです。実際、彼に給料を支払うことはできましたが、パートタイムの青年牧師と秘書を解雇しなければなりませんでした。だから彼は働き、外での仕事を通して、教会の人々のために立ち上がったのです。給料だけが目的の牧師なら(雇用人であれば)、彼はもっと大きな教会に転職したでしょう。彼だけでなく、彼の妻も代理羊飼いとして羊に献身したのです。 第二に、良い羊飼いは自分の羊の名前を知っています。単に名前を知っているだけでなく、彼らを知っています。私の学校ではしばらく前、年配の教師がトラブルでよその担任の代わりをしなければならなくなりました。担任の先生が辞める前からクラスは崩壊していて、担任の先生が辞めるにつれてさらに混乱していったのです。その年配の物腰の柔らかい先生が入ってきて、私は彼らが彼を引き裂くだろうと思いました。私も他の先生と同じように、生徒の頭上で大声を出さなければなりません(本当に学級崩壊状態)、彼のクラスの前を通ると、クラスが落ち着いて勉強しているのを見ました。私は空き時間があったので中に入り、子供たちが騒がしくなると、先生は静かになりました。先生は冷静さと愛で彼らの学級崩壊と戦い、徐々に、徐々に生徒たちを知っていくにつれて、学校で最も行儀の良いクラスの1つになりました。 それはワインを水に変えるような奇跡でした。うーん、たぶん違うかな。まあ、私達の優しく善良な羊飼いは、あなたのことを知っています。あなたを愛しています。あなたには羊飼いを知り、彼を愛し返すというただひとつの使命があります。その愛を知れば、何ものもあなたをその愛から引き離すことはできません。パウロは言います。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私達のためにとりなしていてくださるのです。私達をキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私達は一日中、死に定められている。私達は、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私達は、私達を愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:34-37 良き羊飼いと比較すると雇われ羊飼いは、正直に言うと、本当に問題がない日は、雇われ羊飼いはちゃんと仕事をします。いや、彼らはそれ以上のことはしないが、一般的に仕事をこなします。彼らは夜中に目を覚まし、教会の人々のために祈る必要を感じません。物事が完璧に運ばないとき、彼らはリンゴ箱をひっくり返す危険を冒しません。彼らは自分の仕事をし、働いた分の給料をもらい、そして家に帰ります。大きな問題が起これば(そしてそれは誰にでも起こること)、彼らはただ次に移動し進むだけです。彼らは自分のしていることに情熱を持っているわけでもなく、それほど気にかけているわけでもないが、自分の仕事はこなしていきます。私はこのような牧師達を知っていますが、概して彼らはプロの牧師であり、それは悪いことではありません。が、もっと良い牧師がいます。 悪い羊飼いに比べれば、雇われ羊飼いはずっとましです。悪い羊飼いの難しさは、最初は良い羊飼いと見分けるのが難しいことです。私達が話しているのは羊飼いの代理人であることを忘れないでください。エゼキエル34章は亡命中の預言者の記録です。エゼキエル33章で、彼はエルサレムが陥落したという悲惨な知らせを耳にします。(彼はそれを預言したが、それを望んでいません)。神殿が略奪され、破壊されました。その後、エゼキエル34:18で、彼は悪い羊飼いに対して預言します。神様は彼を通してこれを言います。「あなたがたは良い牧草地で草を食べていながら、それでも足りないのか、その牧草地の残りを足で踏み荒らすとは。澄んだ水を飲みながら、その残りを足で濁すとは。」良い牧師が平和と安定をもたらすのに対して、悪い牧師は分裂と葛藤をもたらします。彼らは情熱的でしばしば口がうまいですが、彼らは神様が人々を導いている方向とは反対の方向を指しています。覚えておいてください、羊は方向をよく見失うのです。だからこそ、羊が迷子になると、小屋に帰ってくるのが難しいのです。それこそが主イエスが100匹の羊の話をする理由です。1匹が迷子になると、彼は1匹を探しに出かけます。なぜなら、それは自分で帰る能力がないからです。悪い牧師たちは彼らの上手な言葉で群れを散らします。彼らは最初に食べますが、それが彼らの最悪の特性ではありません。食べた後、彼らは草地を踏みつけるので、羊が自分で食事するのが難しくなります。そのため、羊はますます彼らに依存的になります。 悪い牧師のもう一つの特性は、彼らが水を泥だらけにすることです。ああ、彼らは飲みます。しかし、飲んだ後、彼らは水たまりに入り、底の泥とろをかき混ぜます。他の羊が飲むことができないか、飲む楽しみを奪います。そして、悪い牧師は教会の生活を奪います、あるいは奪おうとします。悪い牧師はどのようにしてこれをするのでしょうか。第一に、彼らは奉仕を人々のためではなく自分たちのためだとします。羊の教会のすべての問題を引き起こしておきながら、その罪に対して赦しを求めようとしない人々です。多くの場合、彼らはひどい神学しか持っていません。 健康と富の福音書もその一つです。プライベートジェットで飛び回る牧師たちです。ビジネスクラスやファーストクラスは忘れて、プライベートジェットでなければなりません。彼らは民衆の地位よりもはるかに高いところに住んでいます。彼らが人々を騙すもうひとつの方法は、彼らは人々を飛躍させるためではなく、自分自身を良く見せるために大言壮語や大きなアイデアを使います。彼らは謙虚に見えますが、彼らはただの羊の皮を被った狼にすぎません。雇われ羊飼いは自分の仕事をして家に帰りますが、悪い羊飼いは人々を支配できなくなることを恐れて決して家に帰らないのです。 私達の主イエスはどのように教えましたか。彼は小さな子供でも理解できる方法で私達に教えました。なぜなら彼は私達が理解し、成長することを望んでいたからです。私達が生命を持ち、その生命を完全な形で持つことを望んでいるからです。なぜなら、私達の良い羊飼いは私達が成長することを望んでいるからです。主イエスが私は良い羊飼いであると言うとき、主を信じましょう。主を信頼しましょう。主イエスから逃げないでください。 祈りましょう。 メッセージ:
高校時代、いつも大それたことばかりを言う近所の友達がいました。時々そういった人がいると思うのですが、例えば、「こんなに大きな魚を釣ったんだ」とか、「こんなに自分は高く跳べるんだ」とか、自慢するような人です。ある日、彼が私たちの方に近づいてきて、学校一可愛い女の子とデートをしたと言いました。それを聞いた瞬間、みんな彼がウソをついているか、冗談を言っていると思って気にしませんでした。そして、彼に、「彼女が君とデートするわけがないよ」と私たちは言ったのですが、グループの中で彼女と仲の良かった女の子が、彼女自身が彼を映画に誘っていたことを確認したのです。信じられなかったのですが、彼が言っていた事は本当でした。学校一可愛い女の子が彼の様な人をデートに誘った事実は忘れることが出来ないものになりました。 本日は、私の友人がデートに誘われたことよりも、さらに信じられないことを話していきましょう。聖金曜日にイエスが残酷に殺され、むち打たれ、手足に釘を打ち込まれたことを理解していますね。そして、十字架にかかって亡くなった後、彼のわきに槍が突き刺さりました。 約20年前、私はメル・ギブソンの映画「The Passion of the Christ(邦題:パッション)」を観ました。映画ファンは、十字架にかけられるシーンが見るに堪えられないと不満を述べるほど残酷だったのです。そんな映像を見ながらスナックを食べる人が少なかったので、映画館はポップコーンやお菓子の売り上げが低迷しました。イエスの身体が激しく傷つけられ、私たちの主が耐えた暴力のレベルが描かれていたのです。 復活祭の説教で少し触れたマグダラのマリアが最初はイエスを認識できなかった理由を、疑問に思う方も多いですが、その理由の1つは彼に加えられた暴力だったのかもしれません。 イザヤ書53:5には、こう書かれています。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」 アーメン。 トマスはイエスに何が起こったかを理解しており、このような残虐行為からは戻ってこないことを知っていました。だから、十人の弟子たちがイエスが生きていると主張したとき、「こんなに大きな魚を捕まえた」とか、普通の男の子が可愛い女の子とデートしたといった話以上の驚きだったでしょう。単に「不可能かもしれない」というものではなく、「不可能」だったのです。 トマスは、弟子たちが彼をからかっているのではないかと思ったかもしれません。もし、そうだったなら、弟子たちが、主であり、教師であり、友人であるイエスが亡くなったことを知っているのに、イエスが歩いていたと主張するのは悪趣味の極みを超えています。あるいは、トマスは弟子たちが深い悲しみに打ちひしがれる中、集団的に感情が崩壊してしまったと思ったのかもしれません。ただ、どんな状態であったとしても、決してだまされないとトマスは思っていたのです。 トマスが「フェイクニュース」だと思っている、その出来事について聞いた後、トマスを有名にした言葉を口にします。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入いれ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」 1週間後、再び11人の弟子が集い、ドアにカギをかけています。なぜ11人の男性たちがカギをかけた部屋に閉じこもっていたのでしょうか?それは、ローマ人、ユダヤ人の指導者、世界に対しての恐れがあったからです。11人のうちの10人は1週間前に見た光景に疑いを持ち始めていたかもしれません。恐れることは悪い事ではありませんが、恐れに支配されるよはよくありません。神に対する信仰以上に恐れが大きくなることがいけないです。 以前にもお伝えしましたが、リウさん及びKUCの牧師を探すサーチ・コミティーが私にサポート・パスター(副牧師)になってみないかと話しを初めて持ってきた時に、私は不安を感じました。何を恐れ、不安に思ったかというのは、ここでは挙げませんが、主がイザヤ書41:10を私に伝えてきているのが分かりました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」 同じ箇所を共に英語で読んでみましょう。Do not be afraid, for I am with you; do not be dismayed, for I am your God. I will strengthen you and help you; I will uphold you with my righteous right hand." イスラエル人が戦の間、モーセが神を讃美するために手を上げると、イスラエル人は負けることがあなかったというのをイザヤは知っているのです。しかし、戦いが長引き、モーセが腕を上げる力が弱まり、その手が下がると、イスラエル人は戦いに負けました。そのため、モーセの腕を持ち上げるための男たちが必要でした(出エジプト記17)。 戦の間に手を持ち上げるのを助けてくれる兄弟姉妹がいることは神を賛美し続ける上で助けになります。忘れないでください。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである(エペソ人への手紙 6:12)。さらに、腕を支えてくれる兄弟姉妹がいない場合も、神さま自身が神の御手を挙げてくださるとイザヤ書41に書かれています。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか? 弟子たちは部屋にこもり、窓を閉め、扉を閉め、地上の煉獄のような状態でした。皆さんの中に一度でも男性11名と密室で過ごしたことがある人がいるか分かりませんが、あまり良い匂いがしなかったかもしれませんね。そして突然、イエスが彼らの真ん中に現れ、「Shalom be with you (平安があなたたちと共にありますように)」と彼らに挨拶をしたのです。 もしあなたが今、何かを不安に思っていたり、恐れているならば、神の平安を祈ってください。大切なので、再度言います。不安や恐れがあるのであれば、神の平安を祈ってください。神の平安がありますように。
イエスは、ほかの10人の弟子たちと一緒にトマスのもとに行きます。イエスはトマスを見下したりするのではなく、事実を伝えるために、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。相手を非難するのではなく、事実を伝えたのです。私が十字架にかけられたのを見ましたよね。私はあなたがたの罪のために代償を払いました。世界が神の子を殺し、神が死から蘇らせた世界の事実を見ています。 イエスは私たちに思考力を切り捨てるようには言っていません。私たちに感情を切り離すようにも言っていません。私たちのほとんどは、自分の思考力や感情で世界を見ます。信仰は私たちの理論的な考えを否定するものではありませんが、理論的な理解を超えた世界があるのも信仰なのです。それが、父なる神への信仰なのです。 トマスには見えていました。トマスは主の痛みを感じることが出来ました。トマスはその物理的な傷を見たのです。それが私たちが父なる神を信じる信仰です。 トマスは見ることができました。トマスは主の傷を感じることができました。トマスは、実際の傷を目にしたのです。 イエスはトマスと、歴代の他のすべてのトマスたちに向かって、「見ずに信じるものは幸いである」と言います。この言葉はトマスだけでなく、信仰を持って人生を歩む私たち全員にとって言っているのです。信仰だけに頼らざる追えない時、物理的な傷や証拠を見る事ができない場合もあるでしょう。それも全てイエスは分かっています。 見えないものを信じるのが信仰の本質です。その信仰心がイエスをただ従う者(フォロワー)と真の弟子を区別するものです。信仰とは、希望することの確信であり、見ていないものへの確信です。状況が暗中にあるように思えても、神の約束を信じ、まわりのすべてが絶望的であるときでも希望を持ち続けることなのです。 では、どのようにして信仰を育てるのでしょうか?見えないものを信じるにはどうすれば良いのでしょうか?それは、復活したキリストとの個人的な出会いから始まります。イエスを私たちの心に入れ、彼の愛と恵みを経験すると、私たちの信仰は単なる教義や信念を合わせたもの以上になります。生きた神と自分とが、呼吸を重ねているような関係性になるのです。 マルコによる福音書8:27-29では、イエスが「あなたがたは、私を誰だと言うか?」と弟子たちに尋ねた時、彼らは「ある人はあなたが教師だと言い、また、ある人はあなたが預言者だと言い、また、別も人たちは、イエスは蘇った洗礼者ヨハネだと言います。」と答えました。しかし、イエスは言います。「あなたは私を誰だと言うか?」。すると、ペトロは「あなたはキリストです!」「あなたは救世主です!」。そして、ここでもトマスが一歩上をいき、「私の主よ!私の神よ!」と言いました。 メシアのような、単なる神の道具ではなく、イエス、あなたは父と共にあります。あなただけが崇めるに値する。あなただけが従うべき存在です。あなたは始まりであり終わりであり、アルファでありオメガであり、最初であり最後である。イエスよ、あなたは神です。 ここがトマスが神を感じ発言している部分です。 イザヤ書6章の有名な箇所、トマスが神の王国に引き上げられ、こう言いました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚がれたくちびるの者で、汚がれたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。トマスが神と対面した時に口にした言葉です。これがトマスが見たイエスなのです。 祈りましょう。 |
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May 2024
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