好きな聖書箇所はありますか? 多くの方はヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」が好きです。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」エレミヤ29:11が好きな方もおられます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」と主は言われます、「『あなたに希望と未来を与えるために、悪のためではなく、善のための計画』。エレミヤ29:11は、ヨハネ3:16に次いで2番目に引用されている聖書の節です。
エレミヤのこの節が好きなのは、「神は私の人生のための計画を持っておられる」という考えが好きだからです。 今日困難な状況に直面しているクリスチャンは、エレミヤ29:11で、私達を苦難や苦しみから直ちに救うという約束ではなく、むしろ神が私達の人生のための計画を持っておられ、私達の現在の状況にかかわらず、神は私達を繁栄させ、私達に希望を与えるためにそれを通して働くことができるという約束であることを知って慰めを得ることができます。神はいつも私達とともにおられ、希望が常にあるとわたしは信じています。 私達クリスチャンは希望の民です! 先週のテッドさんの説教で、彼がローマ8:12-17から使った聖句は、私達は「.... 皆、神の子なのです。」と「...... 神の霊によって導かれる者」 これは本当です。神は私達を導き、私達のために計画を持っているかもしれませんが、私達はそれらを台無しにするか、或いは従うのかは自由です。 私達には自由意志があり、そのように神は人類を造られたのです。しかし、神の御霊は、私達がより良い人間となり、御霊によって歩むことができるようにしてくださっています。 パウロがローマ8:14で「御霊に導かれている」と書きましたが、食料品の買い物をするときに何を買うか、夕食に何を食べるか、夜に何時に寝るかなどの日々の決断を下すように導いてくださる御霊という観点からではありません。神は私達に自由な選択を与えてくださいます。しかし、御霊は私達に対する神の計画について何らかの決定を下すように私達を導いてくださいますし、そうしてくださいます。 神は私達にとって良いことを望んでおられます。しかし、この世界には病気、悲劇、戦争、疫病、自然災害があります。神の計画は、何があっても私達と共にいることです。 神は私達を決して離れません。神は私達のためにある計画を持っておられるかもしれませんが、私達は無視し、方向転換し、別の方向へ進み、常に最良の選択をするわけではありません。神はおそらく私達を見て、私達がめちゃくちゃになったときに憤慨して両手を投げ出して、「何? またやっちまった!」私達はおそらく絶えず神を失望させますが、私達に対する神の愛は決して止まりません。 神は計画を持っておられますが、もし私達がそれを変更するなら、神は私達のために計画Aを持っておられ、それもまた失敗しても、神は計画BまたはCへと移り、神は何が起ころうとも私達と共におられます。神の計画を見分けるのは難しいことです。神は私の人生のためにすべてを「計画」しておられますか? 例えば、私はどのように成長し、誰と結婚し、どのように物事が展開し、たとえ私が死ぬときでさえも? 神が空から手紙や地図を落として、私の人生で行くための最良の道標を示してくだればどんなに良いでしょう。最も平坦な道のり。しかし、神はそのようには働きません。私達は自分の人生をどのように生きるかについて選択権を与えられています。私達は主イエスに従うでしょうか、従わないでしょうか。私達は迷子になるのでしょうか? 神は私達がいつ迷い込むかをすでに御存じでしょうか。 私にとって、1976年に交換留学生として来日することは神のご計画だったのでしょうか。そう思います。1976年に将来の夫であり霊的なパートナーであるトシに会うのは神の計画でしたか? はい、そうだったと思います。神学校に行って日本に来て、宣教師として日本に来るのは、私にとって神の計画だったのでしょうか。はい、そうです。 私達は自分の人生で選択をします - 良いものもあれば悪いものもあります。私達は間違いを犯します。神の御心を見分けるにはどうすればよいでしょうか。私達には祈る責任があり、このようにして神の御心を見分けることができます。 祈りのプロセスの一部であるいくつかのステップがあります。
神の「計画」は幸福なものであり、私達にとって最良のものになるという前提があります。しかし、悲劇が襲ったらどうしますか? 神は時に苦しみを与えてあなたの人生を台無しにすることを計画していますか? 私は神がそのように働くとは思わない。神は私達のために最善を望んでおられます。 しかし、良い人々にも悪いことが起こります。このタイトルの本は1981年に書かれ、長年にわたって非常に人気があり、何年もベストセラーに選ばれています。この質問に答えようとしました。著者のラビ・ハロルド・クシュナーは、神は最善をなさり、苦しむ人々と共におられ、それを完全に防ぐことはできないと言います。この本は、不治の遺伝病の早老症で、14歳で亡くなったラビ・クシュナーの幼い息子アーロンの記憶に捧げられています。 何か良いことが起こると、私は「摂理」と言うのが好きです。 (神の神聖な御心) 神の摂理を信頼することは、私達の多くにとって慰めの源です。 しかし、それは摂理だったのか、1995年に神戸に地震が起こり、6000人以上が殺されるというのは、神の神聖な御心或いは神の計画だったのでしょうか? 2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起きた時は、神のご計画だったのでしょうか。その後の津波と原発メルトダウンもそうでしょうか? 15899人が死亡し、7700人がいまだに「行方不明」であると考えられている。 私はこれらの災害が神の計画であったとは思いません。しかし、私のクリスチャンの友人は、東北地方太平洋沖地震について私に反対し、非常に多くの仏教寺院が破壊されたので、それは神の計画だと言いました。私は彼女に、東北の教会も破壊されたことを指摘しなければなりませんでした。私は本当に神がこの苦しみを引き起こしたとは思いません。しかし、この苦しみのさなかに希望があり、KUCを含む多くのクリスチャンが東北を支援するために集まりました。 災害から、神はまだ働くことができます。何か悪いことから、神は善をもたらすことができます。 私達はこのCovid 19パンデミックを2年間経験してきました。神はこれを私達のために望んでおられたのでしょうか。神は私達のためにこれを望んでいなかったと思いますが、このパンデミックの結果、私達は世界中の非常に多くの人々とつながることを可能にするzoomクラスを始めました。 宇宙を創造し、私達のために良いことを望んでいる愛に満ちた神を私達は信じています。しかし、この世にはまだ悪があります。悪いことは起こります。しかし、神は悪よりも強いのです。 悪いことは神からのものではありません。私達は、神が私達を決して見捨ててくださらないことを知っています。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。モーセはそれからヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの前で彼に言った。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない。」申命記31:6-8 「わたしは決してあなたがたを離れず、あなたがたを見捨てない」という神の約束は、旧約聖書と新約聖書の両方に記されている聖書のどの書にも見いだされます。この約束によって、私達は神がいつも私達とともにおられることを確信することができます。 聖書のエレミヤ29:11には、「あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」私は「繁栄」という言葉について疑問に思います。一般的に、私達は「繁栄」という言葉を金銭、経済的なものに関連するものとして理解しています。しかし、これは神がエレミヤ29:11で約束された繁栄ではありません。(訳者挿入:日本語新改訳、新共同訳では繁栄とは訳されず、それぞれ平安、平和と訳されています。) 「繁栄」と訳されたヘブライ語は「シャローム」という言葉です。「ですから、この箇所で神がなさる繁栄の約束は、実は「シャローム」の約束なのです。 「シャローム」は私達が知っているヘブライ語で「平和」を意味しますが、平和よりもはるかに深い意味を持っています。「シャローム」はまた、全体性、満ち足りた状態、静けさ、共同体の回復、調和、福祉、健康、安全、普遍的な繁栄、そして正義、成就、そして神、人間、そしてすべての被造物が、世界にあるべき姿を相互に織りなしていくことを指します。 約束された「希望と未来」とは、短期的な苦しみからの解放ではなく、つまり神の王国:神の家族が地上に来て、私達の間に住む時に、罪と苦しみから解放されて共同体全体が回復されることです。それが、シャロームです。 「わたしがあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」と主は宣言し「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤのこの言葉を理解するために歴史的背景を見てみましょう。 エレミヤは、エルサレムからバビロン捕囚へと連れ去られる前に、エジプト帝国、そしてバビロニア帝国の支配下で暮らしていたユダヤ人に、これらの言葉を語りました。紀元前587年、ネブカデネザル王は ユダ王国とその首都エルサレムを滅ぼしました。 エルサレムの破壊、民はバビロニアの捕虜となり、都市の住民と周辺の土地の人々はバビロニアに捕囚されました。その後、ユダヤ人は、ネブカデネザルをその時点において最大の敵であるとみなしていました。彼らは追放されたので、それが彼らを永遠に見捨てられたものと確信していました。しかし、エレミヤは彼らに手紙を書き、彼らが非常に長い時間、正確には70年間、この外国にいると告げます。しかし、神は 彼らを「平安」にさせる計画を持っていると約束します - 神は彼らの現在の状況の真っ只中に彼らに「シャローム」を与えます。 今日の私達にとって、主イエス・キリストが来られたのは、主に従うすべての人が真のシャロームを経験するためであったことを知っています。 ヨハネ10:10は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」キリストに従う者として、私達はシャロームを経験することができます。シャロームは、部分的には、神の親族*がこの世界、私達の現在の世界に、キリストによって介入されたことによって経験します。私達の役割は、私達の周りの人々に、神の親族*においてシャロームがもたらされたことを表すことです。 神の親族*はキリストの再臨まで地上で完全には実現されませんが、それでも私達は足を踏み入れて回復のプロセスを始めるように求められています。シャロームの世界。 エレミヤ29:11は、神の「本質的な計画」がすべての人のためのものであることを示しています。「わたしがあなたがたのために持っている計画」の「あなたがた」という言葉は複数形です。神はエレミヤを召され、イスラエルの国民に御言葉を語らせました。今日の私達にとって、共同体と世界に向けてのものです。これには、神戸ユニオン教会のための神の計画と神のシャロームも含まれます。 先週の日曜日にSGM(特別総会)があり、多くの新しい評議会メンバーが選出されました。新会員は祈り、将来の計画を立てます。神の御霊が私達を導いてくださいます。私達はKUCのための神の計画に従おうとしますが、私達は一緒に働き、祈る必要があります。 神は教会のために計画を持っておられます。神はKUCのための計画を持っておられます。私達はシャロームのために一緒に働きます。私達は神の家族です。私達はまた、神の手と足です。 私の人生、あなたの人生、神の計画におけるKUCでの私達のすべての人生は、他の人々と織り交ぜられています - キリストの体と。神の計画の一部は、神が私達によりも大きな何かの一部になる特権を与えてくださるということです。 私達には未来への希望があります。私達はシャロームに希望を持っています。私達は主イエス・キリストに希望を持っています。私達はKUCに希望を持っています。神を信頼し、聖霊を呼び起こそうではありませんか。神の計画に従うとき、私達は神の愛を分かち合い、シャロームのすばらしい共同体を築くでしょう。アーメン。 祈り 私の人生とKUCと世界のための あなたの計画を神に感謝します。あなたがあらゆる状況で私達と一緒にいることに感謝します。 あなたの声が私達を導いているのを私達が聞くのを助けてください。 私達が皆、人生のための計画と道を選べるように助けてください。私が主の御言葉を読み、それを生活に応用するときに、熱心に求めたいという情熱で私を満たしてください。アーメン。 (*私の説教では「王国」の代わりに「親族」が使われており、私達が互いに「親族」であり、神の家族の一員であることを示しています。)
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父の日おめでとうございます。今日はこの地上の父親の存在を祝う特別な日ですが、私たちの創造主である天の父の存在を思い出し、祝う大切な日でもあります。先週、私たちは三位一体、つまり3つの位格を持つ神について聞きました。息子であるイエス・キリストは私たちに生き方を示し、創造主とつながる道を与えるために地上に来られました。ですから私たちは祈る時、イエス様の御名でお願いをするのです。また私たちには聖霊がおられ、神様とのコミュニケーションを助けてくださいます。私たちは天の父のような存在であり、そして神の子どもなのです。創世記には男性と女性は神様によって神様に似せて造られたと書かれています。私たちはそのことを思い出し、より神様に似るように努力しなければなりません。マタイ伝でイエス様は、"だから、あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい "と言われています。
今日、私たちは父親たちに感謝します。ところで父の日はいつから始まったのでしょうか?さて、母の日は1914年にアメリカで正式に始まり、長い間祝われてきました。1909年、母の日のお祝いに触発されたソノーラ・ドッドというアメリカ人が、自分の父親が片親で5人の子供を一人で育てたことから、父親も称えたいと考えたのだそうです。長い時間がかかりましたが、1972年に父の日はアメリカで正式な祝日になりました。今では世界中の多くの場所で祝われています。 皆さんは有名な父親とその子どもたちを知っていますか?誰を思い浮かべますか?ちょっとだけ時間をおきますので考えてみてください。(写真)この人たちを知っていますか?これはマイケル・ダグラスとお父さんのカーク・ダグラス、有名なアメリカの俳優です。次の写真はディック・ホイトと息子のリックです。ディックさんは体の不自由な息子さんを車いすで押して、一緒に何度も何度もマラソンを完走したそうです。(写真)この方々はいかがでしょうか。これはアメリカの有名な俳優ヘンリー・フォンダと、その娘で女優であり平和活動家でもあるジェーン・フォンダです。それから、アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディと、その娘さんで駐日アメリカ大使をされていたキャロラインはお分かりでしょうか?申し訳ありませんが、ここにいらっしゃる若い方々はお分かりにならない方が多いかもしれませんね。 (写真)この人たちは誰でしょう?有名な人たちですか?今日は私の父を称えたいと思います。父は95歳で、アメリカのバージニア州に住んでいます。新型コロナのために5年間会えなかったのですが、今年の4月に父を訪問することができました。これは、父が19歳で軍隊にいた頃の写真です。父が最初に日本に来たのは1946年の占領下の時代でした。その後、父は牧師になることを決意し、宣教師として来日しました。東京の青山学院大学で41年間教鞭をとりました。そして次の写真は24歳の時の私です。似てますか?父と子のように?多くの人が、私たちは似ていると言ってくれました。(写真)これが今の私たちです。私は自分が宣教師になるとは思っていませんでしたが、父と同じように日本で教師兼宣教師になりました。私の場合はまた、父と子のように。 実は、私の家族には「テディ」が3人います。私の父はセオドア・ジャクソン・キッチン、私はセオドア・ジャクソン・キッチン・ジュニア、そして息子はセオドア・ジャクソン・キッチン3世です。父と私は子供の頃、"テディ "と呼ばれていました。面白い話をしましょう。今お話したように、私は宣教師の子供でした。ある時、父の故郷の教会を訪れ、そこでポットラックランチをしたことがあります。食事を始める前に誰かが言いました。"テディ、祈りをリードしてください "と。私は驚きましたが、勇気を出して祈っていると、父が祈り始めたのです。彼らは私ではなく、父に祈るように頼んでいたのです。私は祈らなくていいんだ、と嬉しかったですね。 今、父と私は「テッド」と呼ばれています。しかし、3人目のテディである私の息子は、今でも「テディ」と名乗っています。(写真)これは私とテディです。テディは今月25歳になったばかりです。(写真)テディと私の父です。 私は息子のテディに恵まれ、また2人の素晴らしい娘にも恵まれています。私の家族についてはもう十分ですね。さて、聖書に登場する有名な父親は誰でしょう?(写真)。ここにいくつかの写真がありますが、もちろん、私たちは彼らがどのような顔をしていたのか、よく知りません。一人目はアブラハムです。私たちは皆、彼のようになりたいと思っています。彼は他の誰よりも神への信仰を持っていました。彼は何があっても神に従おうとしました。彼は、神が命じられたとき、自分の息子イサクを犠牲にするところでした。次に息子のイサク、そしてイサクの息子ヤコブです。ヤコブは天国への階段、ヤコブのはしごの夢を見ています。最後の父親は、イエス様の地上の父親、ヨセフです。この父親たちは皆、素晴らしい父親でした。彼らは神様に従うためにベストを尽くそうとしましたが、間違いを犯しました。彼らは完璧ではありませんでした。彼らは人間でした。私たちの天の父、私たちの創造主だけが、完璧なのです。地上の父親、地上の親には足りないところがありますが、神様の助けによって問題を克服することができます。天の父は私たちに厳しく接することもあり,それが必要な場合もありますが,ルカ伝にある放蕩息子の父親のように,私たちが戻ってくるのを待っていて,私たちへの愛を示してくれる場合が多いのです。今日の聖書朗読が思い起こさせるように、私たちは神の子であり、神が私たちの面倒を見てくださいます。神様は、遠くて手が届かないような遠い存在ではありません。神様は、私たちが「アッバ」、「ファーザー」ではなく「ダディー」、日本語では「お父さま」ではなく「父ちゃん」と呼ぶことのできる方なのです。私たちは小さな子供のように、愛と強さを持った親に全面的に頼ることができるのです。 最後に、2人の特別な父親を称えたいと思います。お二人は家族にとって偉大な父親であっただけでなく、私たちの教会、KUCにとっても偉大な父親、父親像でありました。彼らは、アブラハムのように、神様に対する素晴らしい信仰を持っていました。私たちも彼らのような信仰、つまり父祖の信仰を持たなければなりません。神様は私たちがそのような信仰を持つことができるように助けてくださいます。(写真)チャック・グラフトとビリー・バルクです。彼らは私たちの教会にとって、とても素晴らしい先生であり説教者でした。私たちはこの二人がいなくなって本当に寂しいです。昨年の父の日にチャックさんが最後の説教をされたのを覚えている方もいらっしゃると思います。神様はこの部屋で一番スマートで、そして私たちの親友であり、お父さんと呼べる人であると考えなさいということでした。そしてビリー・バルクさんは、私たちの教会のために祈り、福音を広めることを本当によく知っていました。7月8日に教会でビリーさんのお祝いをすることを忘れないでください。 先週はペンテコストでした。私はカリフォルニアにあるUnited Methodist 教会にて、この教会と施設を共有している、The Church of India との合同礼拝で説教をしていました。神戸ユニオン教会と同じように、多様な信徒が集まっている教会でした。神戸ユニオン教会でも素晴らしいペンテストの礼拝があったと聞いています。カリフォルニアに滞在している私も良いペンテコスト礼拝を過ごす事が出来ました。
本日は、ペンテコスト後、最初の日曜日で、三位一体の主日として知られています。三位一体の主日とは、主なる神、子なる神、そして聖霊なる神という三位の神様に焦点を当てる主日です。 三位一体の神は、人に説明するのは容易ではありません。新約聖書の中には「三位一体」という言葉さえ出てきません。しかし、私たちは三位一体を理解するために聖書を読みます。三位一体を出来る限り直接的に福音に結び付ける必要があるからです。 クリスチャンとして、三位一体について考え始める時、実はあなたの頭と心と経験には全ての必要なピースが揃っているのです。パズルのピースがあり、それを全て一緒に見る事さえできれば、あなたが考える三位一体を理解することが出来るのです。 もしも、三位一体というものを理解した経験がないと思っているなら、こんな例えはどうでしょうか?リンゴには芯があり、果肉と皮があり、全てでリンゴを形成しています。または、水で例えると、水は、流れる水にもなるし、凍らすと固まる、沸騰すると蒸気になる。3つに形が変わるけれども、水である事は変わりないですよね。こういった例えを出したとしても、3つであるものがどうして1つなのか?など理解できません。 三位一体=父、子、そして聖霊は全て同じですが、全て異なっています。 以前、三位一体についてこんな説明を受けた事があります。実際には言葉での説明ではなく、音符でした。ジェレミー・ベギーは、Cコードを歌うと、その音は部屋全体を満たし、和音が広がります。そこにEコードとGコードを順に重ねていくと、さらに部屋は音でいっぱいになりますが、1つのコードが別のコードを邪魔するという事はありません。そして、全てのコードが一緒に形成する和音は単音よりもはるかに美しいのです。三位一体の神とはそういうものだ。という説明でした。私たちが歌った讃美歌の「Holy, Holy, Holy」の部分も同じ3音で奏でられています。 別の例は、初期の教父の1人であり、紀元345年~430年まで生きたヒッポの聖アウグスティヌスの言葉です。彼は初期キリスト教の神学者、哲学者であり、その著作は西洋のキリスト教と西洋哲学の発展に影響を与えました。その著作は、西方キリスト教の最も重要な教父の1人と認識されています。カトリック教会では聖人とされており、プロテスタントでは救済と神の恩寵に関する教えを説いたことから、プロテスタント宗教改革の神学的な父の1人と知られています。 話はこの様な内容です。聖アウグスティヌスはある日、父、子、聖霊の三位一体の教義について考えながら海辺を歩いていました。その時、彼は「海岸そばにある大きな貝殻を1つ拾いなさい」という声を聞きます。そこで貝殻を拾いました。すると、「さぁ、海を貝殻に注ぎ入れなさい」という神の声が聞こえたので、彼は「主よ、私には出来ません。」と言います。すると、神の声は、「もちろん出来ないですよね。同じ様に、理解に限界がある、あなたの心がどうやって、無限の、永遠の三位一体の神の謎を注ぎ入れ、理解することができますか?」と応えました。 大海原をどうやって普通の貝殻に流し込めますか?私たちの様な小さな心にどうやって神の壮大さを説明できるのでしょうか? ヨハネの福音書では、イエスが弟子に教えを説いています。そしてイエスはこう言います。「わたしには、あなたがたに話すことが、まだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」 イエスは弟子たちが彼らを敵対する世界に出ていくことを知っていました。弟子たちは力と導きの両方を必要とするのです。イエス自身は肉体をもって弟子たちと共に過ごす事はできません。しかし聖霊の働きによって彼らと共にいるのです。 私たちが父、子、聖霊について語る時、私たちは創造主である神を信じ、人間の肉体を持ってこの世に存在されたイエスを信じ、私たちそれぞれの人生の中にいるキリストの霊を信じると言っている事だと思います。 ですから、三位一体の主日は再度、私たちが信仰のもと集まり、父、子、聖霊という三位を思い出す機会です。 これを何度も繰り返し理解することが、私たちが信徒として神に応え、聖霊の力によってこの世でイエスの弟子として生きていく事なのです。 先週はペンテコストであり、聖霊の働きについて話す時です。聖霊は私の好きなテーマです。ですから、ペンテコストと使徒の働き2章が大好きです。 聖霊がどの様に私たちに力と導きを与えるかという部分が大好きです。聖霊が私たちに触れてくださる瞬間です。聖霊は私たちに何かを行うように促すものであり、私たちは聖霊の声に耳を澄ます必要があります。いくつか例を挙げてみましょう。 アキ子牧師が説教を書いたり、忙しい週だったにも関わらず、誰かと一緒に時間を過ごすように導かれた話をしていました。聖霊がその人と一緒に時を過ごすように促したのです。アキ子牧師は、その時、その人と時間を過ごす必要があると感じたそうです。 もう1つの例です。何年も前になりますが、私は教会員のある人のためにチョコレートチップクッキーを作らなければと感じた事がありました(KUCではなく、神戸に来る前に仕えていた別の教会です)。その方は寝たきりでした。その方のご主人が寝室に連れて行ってくれ、クッキーを手渡しすると、彼女は「何で知っていたの?」と言うのです。「知ってるって何が?」と尋ねると、「この45年間、結婚記念日には夫にクッキーを作ってきたの。でも今年は体調が悪くて作れなかったんです。彼の大好物で、今日は私たちの結婚記念日なんです!クッキーを作ってきてくれて本当に有難うございます!神に感謝します!」と言われた事がありました。 これは偶然でしょうか?それとも神のイタズラ?きっとそうかもしれません。聖霊の導きに身を委ねる人には、嬉しい小さなこういった偶然がたくさん起こっているのです。これは、偶然ではなく、神が私たちの人生に入ってくる瞬間です。神の瞬間。そういった神の瞬間を探してみてください。私は聖霊に促されて、何かをしたり、連絡を取っていなかった人に連絡をした時に、後にその人が助けを必要としていた事や、私からの連絡に感謝してくれた事を知った事が何度もあります。時にこういった導きを感じながらも無視してしまう人もいると思いますが、霊的な生活をもって、常にアンテナを張っていれば、こういった聖霊の導きはもっと頻繁に起こり、いつ私たちを聖霊が導いているか気づく事も出来ます。 イエスは弟子たちに「彼らは1人ではない」と言いました。イエスは聖霊を弟子たちの助けとなるように送りました。ペンテコストの際は、聖霊の火が彼らの心に燃え、福音を宣べ伝えるために世界に出かけるように導かれたのです。私たちが神の導きに耳を傾け続けるなら、神戸ユニオン教会として、前進するための助けとなってくれるのが聖霊です。私たちはイエスに従う者として、イエス・キリストに従う者がするような行動、つまり互いに愛をもって、心を開き、思いやりをもって行動する必要があるのです。 三位一体とは、一年に一回の「三位一体の主日の日」にだけ思い出すものではありません。三位一体の神は私たちに慈しみと思いやりのあるコミュニティの中で生きるように求めているのです。これこそ神が私たちに望んでいる事なのです。 KUCで行われている洗礼式を思い出してください。「父、子、聖霊の御名によって洗礼を授けます。」(マタイの福音書28:19) 「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けます。」こちらが三位一体の形です。イエスの明確な指示とは、こういった形で洗礼を授けることです。 しかし、そうであるならば、なぜ新約聖書には「イエスの御名によって」と言って洗礼を受けた人が散見されるのでしょうか?
彼らが「イエスの御名において」バプテスマを受けたのは「御名において」という言葉が「キリストにある力と権威において」という意味だからです。このキリストの権威とは、「父、子、聖霊」の一部です。 三位一体のもう一つの例は、パウロがコリント人への手紙 第二の手紙で、「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」と念を押し、同じ手紙の最後には、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13:14)と締めています。 キリストの洗礼は、洗礼を受ける子、天から降臨する聖霊、天から語ってくださる父という三位一体の全ての位格が同時に現れる素晴らしいものでした。この出来事によって、父と聖霊はキリストの神性を確認し、イエスは父の意志に従ったのです。 パウロは第二の手紙の冒頭で、コリント人達に「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(1:21-22)と念を押しており、同じ手紙を「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13:14)と結んでいます。 最後に短い話をさせてください。昔、私の主人であるトシに大好きな伯父がいて、2人で凧を作ったそうです。それを飛ばそうと2人は公園に行った時の事でした。トシは行ったり来たり、凧を飛ばすために走りますが、凧は空に上がりません。地面に落ちてしまったのです。そうすると、伯父さんは、「トシ君、いつまで走っても風がない限り凧は上がらないんだよ。」これは、神戸ユニオン教会にも例える事が出来ます。人々が色々走り回ったとしても、風が吹かないと、何も動きません。私たちには聖霊の風が必要で、聖霊が私たちを上げてくれるのです。「主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わり」が私たちと共にある事を思い出しましょう。ヘブライ語で風や息を意味する「Ruach(ルハー)」は、御霊と同じ単語です。クリスチャンとしての人生、教会の生活においても、御霊の風が吹かなければ、何も意味を持ちません。私たち自身や教会を新しい方向へ導く神の息吹や神の風が必要なのです。 KUCは神様が与えようとする力強い聖霊の風に対して、大きく開かれていると共に誓いましょう。神様の聖霊があなたの人生の中で働いてくださるように心を開いてください。行動と言葉において、イエスのように生きましょう。聖霊と神様の愛を他人と分かち合いましょう。神が意図してくれた通りの自分になり、キリストの教えに従い、聖霊に導かれ、世界を燃え立たせましょう。 祈りましょう:主よ、今日は三位一体の主日です。あなたが創造主、キリスト、聖霊として私たちの前に現れた事を知っています。私たちの人生と神戸ユニオン教会の中で働く神の聖霊に私たちの心を開いてください。私たちと共に、私たちの中で働きかけてください。主イエス・キリストを通して祈ります。アーメン。 祈りましょう。
聖霊様、私たちがどこにいようとも、私たちの上に降り立ち、私たちを満たしてください。私たちの迷える心と思いをお導きください。あなたをよりよく認識し、あなたの優しい導きによってあなたに近づくことができますように。イエスの御名によって祈ります、アーメン。 ペンテコステの日曜日、おめでとうございます! 今日はクリスチャンにとって、聖霊の働きを祝い、喜ぶ大切な日ですが、今日は私たちの三位一体の神様の人格の一つ、聖霊を祝うだけの日ではありません 。 今日は、イエスに従う者たちに聖霊が降臨したことを思い出し、お祝いする日です。聖霊の降臨は、弟子たちの集まりがイエスの弟子たちに限られた小さな集まり以上の、つまり復活したキリストへの信仰を中心とした、聖霊の力に満たされた共同体、すなわちキリスト教会の始まりが可能になることを示したからです。 何事にも始まりがありますね。教会のように長い歴史を持つものにも始まりがあり、その始まりについて考える時、教会とは何か、なぜ私たちはこのようなことをしているのかを知ることができます。なぜ、教会は共同体として集まるのでしょうか?なぜ私たちは互いに祈り、礼拝し、交わりを持つために集まってくるのでしょうか?使徒の働きの第2章を読んでみると、共同体としての集まりが聖霊のおかげであることがわかります。 聖霊は人々を集め、偉大なことをするように導いてくださるのです。 2000年以上前のイースターの日曜日、十字架に釘付けにされ、息途絶えた3日後に、イエス様は復活されました。死からよみがえり、そこから40日間、天に上げられるまで、様々な弟子たちの前に現れ、イエス様は彼らと話し、彼らを再び霊的に導きました。(使徒の働き第1章) イエス様は、弟子たちと話をして、これから起こることに備えるよう伝えます。エルサレムに留まり、そこで聖霊の力を受けるようにと言われます。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」 (使徒の働き1:8) 地上にいる間、イエス様は弟子たちに呼びかけ、自身についてくることを求めましたが、間もなく天に昇る今、弟子たちへの「ついて来なさい」という呼びかけの意味をさらに補足する必要がありました。 イエス様が昇天された後も、引き続きイエス様に従うということは、単にイスラエルとその周辺を旅して伝道するだけではない。それは、イエス様がなさったように生活し、イエス様がなさったように神様の言葉を宣べ伝え、教え、さらに世界のすべての人々をキリストの弟子とするために、時には一人で世界に出て行くことを意味しました。 このような従順、つまりより困難が襲うであろうこのような従順は、より大きな力を必要とするものでした。弟子たちが信仰を持っていたとしても、それよりもはるかに大きな力が彼らには必要だったのです。 そのような理由で、聖霊の力を受けるため、イエス様の指示通り、弟子たちはエルサレムで待っていました。 「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒の働き2:2−4) この聖書箇所はおそらく、聖霊に関して多くの人が最もよく見聞きしている箇所だと思います。 実際、聖書によれば、その時パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちなどがその場にいたようで、弟子達が彼らが話すすべての言語で、神の力の業について話したことが記されています。(使徒の働き2:9−12) 論理的に考えれば、これは意味の通じないことです。私たちは12人の弟子が聖霊降臨のその場にいたことを知っていますが、その日、エルサレムには12以上の異なる地域の代表者がいました。そう、弟子たちの数よりも多くの地域を代表し、その地域の言語を話すもの達がいたのです。 聖霊は弟子たちに他の言語を話す能力を与えただけでなく、群衆の中にいた人たちに、これらの異なる言語をまるで自分の母国語を聞いているかのように理解する能力も与えてくださったのです。 明らかに、聖霊が力強く働いていました。私たちが神様との歩みの中で経験する多くの事柄と同様に、ここで起こっていることは神秘的であり、少なくとも「どのように」起こったかということに関しては、簡単に説明できるものではありません。 奇跡がどのように起こったかを考えることに夢中になると、その瞬間に聖霊様が何をしておられるのかを見失いがちになります。例えば、今日の聖書箇所を読む時、弟子たちがいろいろな他国語で話していた内容については、まったく触れられていないことにお気づきでしょうか。 聖書は、集まった群衆がいかに多様であったかを丁寧に説明していますが、弟子達を通して、群衆に語られたことの内容については説明していません。そのことを思う時、むしろ大切なのは、何が話されたということではないことに気づくでしょう。聖書は、聖霊の働きにより、違う場所から集められた人々が互いに理解しあえるようになったということ、聖霊の働きによって人々がつながる(コミュニケーションする)ことが可能になったという事実の方を重要視しているのです。 そして、聖霊により互いのコミュニケーションが可能になったこの瞬間に、ペテロは力強い説教を始めます。 使徒の働き2章17節から始まるペテロの説教は、まず人々が経験していることはヨエルの預言の成就であることを思い出させることから始まります。 神は言われる。 終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたがたの息子や娘は預言し、 青年は幻を見、 老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、 わたしの霊を注ぐ。 すると、彼らは預言する。 (使徒の働き2:17−18) ペテロは預言、夢、幻は、神様が神ご自身の霊である聖霊を人々の上に注いでくださった結果として、私たちにもたらされるギフトなのだということを伝えています。 神様が聖霊を注いだ結果、人々が預言や幻を見ることは、何も新しいことではありません。旧約聖書には、そのようなことが何度も書かれています。しかし、預言、幻、夢は、国を治めるリーダー、信仰共同体を率いるリーダー、あるいは罪と腐敗に陥った王や政治指導者に助言し、挑戦し、あるいは叱責する預言者などに対して限定的に与えられたものでした。 しかし、ここで驚くべきことは、ペンテコストのこの日、エルサレムにおいて、神の霊である聖霊が一部の特権的な者だけに限定されるのではなく、その場にいるすべての人に自由に注がれたということです。社会的地位、性別、人種、民族、年齢さえも関係なく、そこにいる全員が聖霊の注ぎを受けることができると預言されたことが成就したのです。聖霊はこの瞬間、人間が作り出したあらゆる国境や境界線を吹き抜け、自由に働かれていったのです。 ペンテコストの前までは、神様の言葉の啓示、幻、夢を見たりすることは、選ばれた特定の家系や特定の部族の人だけに与えられるものでした。神様は、聖なる者、忠実な者にのみこれらの贈り物を与え、名もない大衆に聖霊を降ろすことはなかったようです。 しかし、ペンテコストで聖霊が降臨すると、神様は、聖霊の働きを制限する人間が作り上げたな壁や制限をすべて取り除かれました。むしろ聖霊を通して人間がそのことを理解することができるようになったという方が正しいのかもしれません。預言、幻、夢は、祈った人、求めた人、宗教的・社会的に高い地位にいる人々だけに与えられるものではなく、また神様は、聖霊を受けようとする者すべてに無差別に聖霊を注いでくださることがペンテコストを通して明らかにされたのです。 私の経験から言わせてもらえば、このようにして聖霊が働かれるとき、ビジョンはただやって来るものです。 3年ほど前、私はアメリカに住んでいて、夫のドンと私はKUCで牧師としての招聘を受けるかもしれない状況にあり、牧師最終候補者の一人でした。その際、教会の人たちとネットで交流会をしました。その時の様子は割愛させていただきますが、その中で、ある方がとても良い質問をしてくださいました。「KUCに来たら困難にぶちあたるかもしれないにもかかわらず、なぜKUCに来て仕えたいと思うのでしょうか?」 その時、私の心に飛び込んできたのは、自分の信念や確信に満ちた言葉でも何でもなく、第二コリント人への手紙5章にあるこの聖句でした。 16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。 17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 18 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。 19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。 その時、私がこの御言葉を通して神様から受け取ったメッセージ、それは今のKUCにおいても必要なメッセージだと思っています。それはまず私たちの教会において必要なのは自分自身を神様に和解させることだ、ということでした。そして、キリストとの共同体として、それぞれが神様と関係を和解させることができたとき、私たちは互いの関係をも和解させることができるようになるのだと。 神様の言葉を通してこのビジョンが私に与えられましたが、興味深いのはKUCの教会としてのビジョンや計画を聞かれたから、このビジョンが私に与えられたのではなかったということです。むしろもっと個人的な、人間としての私をよりよく理解するための問いかけに対する答えが、なぜか結果的に教会のビジョンに関する答えに繋がったことに不思議な導きを感じずにはいられません。 預言、ビジョン(幻)、夢を与える聖霊の働きは、私たちの予想を超えた形で現れ、しばしば私たちが論理的、あるいは正しいと思っていることに反した形で現れます。 更に人間同志の繋がりを大切にする時、自分に与えられたビジョンが他の人にも与えられていたということがわかったりします。私たちの期待と予想を超えて働かれる聖霊をよりクリアに見ることができるのです。 少し前のことですが、その週、私はとても忙しい一週間を過ごしていました。やらなければいけないことがたくさんあったのですが、とある誰かに手を差し伸べるようにと、聖霊がうながすのを感じてました。それで、その人に連絡をとってみました。そうしたら、その人も、私と一緒に時間を過ごしたいと望んでくれていることがわかったのです。 その時、私はその週の説教の準備が本当に遅れていたので、合理的に考えれば、私は説教を書き終えるまで、または少なくとも説教原稿を書くのに必要な「十分な」準備をするまで、私は時間を作るべきではありませんでした。 しかし、私の直感の中の何かが、この人にすぐに会いに行く必要があると告げていました。だから、説教書きが終わっておらずどうなるか心配でしたが、その人に会いに行きました。 その人に会い、話をするうちに、私たちはその日時間を共に過ごす運命にあったのだと理解し始めました。私が聖霊の後押しを感じていたように、相手も同じように、今日、今、私と会うことが大切なのだと、後押しを感じていたのです。 そして、そのような予定はなかったのですが、いつの間にか私たちの会話は、教会のビジョンの話になりました。教会はどのように成長するべきなのか、社会問題にどう絡み、対応すべきなのか、取り組むべきなのか。教会がどのようにしたら、誰にとっても温かい場所になることができるのかを話し始めました。私たちは、教会が世界中の人々、特に最も弱い立場にあり、疎外されている人々のための家であるという考えを共有することができたのです。 預言やビジョン、夢はそれだけでわくわくするものですが、神様はそれを一部の人だけに限定することを意図しておられません。自分の中にある聖霊が他の人の中にある聖霊を認識し、自分だけが神様から聖霊の賜物を与えられているのではないことに気づくとき、聖霊の賜物を他の人と分かち合うとき、そこにはさらにわくわくすることが待っています。 ビジョンが一人の夢でなくなり、皆が共有する預言となったとき、聖霊の働きに心から驚き、喜ぶことができるのです。 聖霊の働きは、預言者ヨエルが語ったことを成就するためにやってくるのです。 「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒の働き2:17) 老いも若きも、男も女も、誰もが、どこの出身であろうと、どんな姿をしていようと、どんな人間であろうと、あなたも私も、すべての人に聖霊が注がれるのです。 と同時に、興味深いことに、ペテロがここで引用しているヨエルの預言は、これらの預言が一部の人にしか与えられないとは書いていないばかりか、私たち自身が預言、夢、幻を与えられるとも書いていないのです。 ヨエルは、私たちの息子、娘、若い男性、老人、若い女性、老女、仕えられる者ではなく、仕える者たちが、預言を語り、幻を見、夢を見ると言っているのです。 それでは、そこに当てはまらない私たちはどうしたらよいのでしょうか。神様が本当にすべての人に聖霊を注いでくださった(使徒の働き2:17)のなら、ヨエルが預言で述べた人たち(娘、息子、青年、老人)以外の人たちはどうなるのでしょうか。 ここで今日冒頭に話したことを思い出してください。ペンテコステに降臨した聖霊は、話すことと聞くことという2つの異なる能力を与えたことを思い出してください。私たちがコミュニティーの中で共有するビジョンを掴もうとするとき、聖霊が私たちの間で自由に動くことができるように、話すことと聞くことの両方の賜物が必要とされます。 だから、ヨエルが預言したように聖霊がすべての人に注がれるのです。注がれなければいけないのです。 預言が語られるだけで、聞かれることがないのなら、預言は機能しません。ビジョンが表現されるだけで、それに耳を傾け、信じることがなければ、ビジョンは実現することができません。もし人々が神様からもらった夢を共有し、夢を実現するために人々が手を取り合って歩まなければ、夢は決して叶わないのです。 聖霊降臨について考えるとき、私たちはそれを何か魔法のような、壮大で劇的な出来事としてよく捉えるのではないでしょうか。聖霊の降臨は、私たちを積極的で英雄的な信仰の担い手に変え、預言、ビジョン、夢の実現に導いてくれる偉大な力を与えてくれると考えたいのです。 しかし、このペンテコストで起きた本当の奇跡は、人々がつながった、つまり、聖霊に満たされたことにより、人々は互いに話し、また互いの話を聞き、理解することが可能になったそのことが奇跡なのです。聖霊が預言、幻、夢を与えてくださるのは事実ですが、同時に聖霊は、預言者に耳を傾け、互いの幻を受け入れ、互いの夢を理解し、共有する力も与えてくださるのです。 聖霊は、私たちが自分の中につくる壁を打ち破り、互いにつながり、共同体として成長する力を与えてくださいます。それは、この使徒の働きにある最初の教会共同体で行われたのと同じことです。 私は、KUCに聖霊が注がれていることを強く信じています。私たちの教会では、ビジョンを見たり、夢や幻を見たりしている人々がいます。教会主催の祈りの集会に行けば、それを聞く機会があります。牧会をしているときにも聞きます。日曜日に一緒に礼拝をするときにも聞きます。日曜学校での会話や話し合いの中にもそれらを聞くことができます。 和解を求める声、祈りに満ちた教会になりたいという夢、歓迎する教会になりたい、神戸の外国人コミュニティーのサポートをしたいという思い、礼拝をし、祈り、御言葉を学ぶという基本的なことに立ち戻る必要性、壊れた祭壇が再建され、壊れた信頼が回復される、そのようなビジョンをみなさんの口から聞きます。聖霊が私たちの間で働き続ける限り、私たちはさらに多くの預言、幻、夢について聞き続けるでしょう。 皆さんに与えられた預言やビジョンや夢を聞き続けるために、私は聖霊の注ぎをもっともっと受け入れなければなりません! 聞くことも聖霊の賜物なのですから。聖霊の働きを、使徒の働き2:13に出てくるように、酔っぱらって話しているだけなどとしたくはありません。 結局のところ、聖霊が私たちの教会に与えてくださる預言、幻、夢を聞くためにオープンであることの鍵は、ただ集まり、交わる、つながることにあるのだと私は思います。 今日の聖書箇所のテキストはこう始まっています。 五旬節(ペンテコスト)の日になって、みなが一つの所に集まっていた。(使徒の働き2:1) 神様に言われたとおり、一同が集まって初めて、激しい風が部屋に流れ込み、火の舌が降り注ぎ、弟子達が他国のことばで話し出します。この大きな音に群衆が集まり(使徒の働き2:6)、さらに多くの人々が集まって初めて、聖霊の注ぎに必要な状況が整えられていくのです。 神様は、私たちの教会コミュニティに聖霊を注ぎ続けるでしょう。もしそのことをあなたが疑っているなら、一人で思い悩まずに、他の人と一緒に集まって交わりを持ちましょう。礼拝の後で人々に話しかけてみてください。Zoomの集まりや交わりに積極的に参加して、神様が人々の心の中に何を語っておられるかを聞いてみましょう。他の人に与えられた預言、ビジョン、夢について聞くことは、自分に与えられたそれらよりももっとわくわくするものかもしれません。 神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。(使徒の働き2:17−18) 私たちのコミュニティのすべての人々に聖霊が注がれる時、共有される預言、ビジョン、夢に対して私たちが良い聞き手、良いサポーターでいることができますように。 イエス様の名前を通してお祈りします。アーメン。 |
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May 2024
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