聖書朗読箇所 ルカの福音書9章21~27節 するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」イエスは、みなの者に言われた。だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。 もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは決して死を味わわない者たちがいます。 祈りましょう。 油を注がれた救世主、イエス、私達に聖霊をおくり、あなたの言葉を照らしてください。私の口から出てくる言葉、そして私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。我が岩、我が購い主、主よ(詩篇19:14)。アーメン。 私がクリスチャンになった1年目くらいでしょうか、クリスチャン歴が私よりキリストの姉妹と話をしていました。彼女は彼女が住む地域で彼女が主催するノンクリスチャンのための聖書研究会について話をしてくれていました。そして、それについて悩んでいる事、苦労している事を打ち明けてくれました。 私は彼女に「どういう事ですか?」と尋ねました。 彼女はクリスチャンの信仰の基本部分をノンクリスチャンでキリスト教を知りたいと思っている人達と、どうやって共有すればよいか、そのやり方が分からず苦労していると言っていました。彼女は、「私達は罪を持って生まれているので、自分自身を罪から救う事はできないから、私達は死に値する。私達がキリストを受け入れ、彼と生きる新しい人生を選ばない限り墓場行きである。」 その言葉に耳を傾けている間、私は、「これは本当に致命的な考え方だわ!」と思って聞いていました。キリストの事を知らない人に対して、罪と死から話を始めるなんて。そして「これはキリスト教を知らない人に共有するのには厳しすぎる真実だわ」と思っていました。 こんな暗く、憂鬱で真面目なキリスト教信仰の話を最初から聞きたい人はいるでしょうか?最初から私達が自分自身を救い出す事が出来ない運命で生まれてきたという事実を受け入れて会話をスタートしたいでしょうか? 私は新しくクリスチャンとして回心した者として、キリストにある新しい人生という事に特に焦点を当ててきました。私の好きな聖書箇所は、コリント人への手紙 第二 5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」です。 私の限られた信仰の知識の中で、「幸せ」な聖書の話をどんな話しよりも先に、もってきたいと思っていました。ですから、私がクリスチャンになってから証を話すときは、私が鬱で苦しかった事を話しました。実の父が母が亡くなった後に再婚する事を受け入れる事がつらかった事、自己肯定感が低く、自分自身の価値を見出せなかった事。 これらはクリスチャンになる前の事 この様な苦しみは全て終わった事としてお話をさせて頂き、現在全ては平安であるという事を話しました。私が通った苦しかった道を話すのです。 鬱、怒り、哀れみ。それらを全て神の力で乗り越える事が出来たという事、そして過ぎた苦しみを思い出す事はないという事。 神様ありがとうございます!これらの問題から解き放たれました!そういう風に証をしていました。 証をする上で物事が複雑で、未解決で、ドロドロしていることよりも、もうすでに解決して、意気揚々として、神様の栄光に満ちているそういう話をしたいと思っていました。 本日のルカの福音書の朗読箇所は、話の初めにした姉妹が伝えようとしていたクリスチャンとしての厳しい現実について語っています。 イエスは12人の弟子を選ばれ(ルカの福音書6章13節)、神の愛について教え、神の御名によって癒す奇跡の能力を彼らに示し、そして伝道へと送り出します。 それからイエスは伝道の中心地ガリラヤに送ります。イエスは弟子たちに福音を分かち、癒す力と権力を与えました(ルカの福音書9章1節) そして、イエスの祝福と共に弟子たちはガリラヤに向かいました。彼らは村や町を抜け、良い知らせを伝え、病気の者を癒しました(ルカの福音書9章6節) そうです。どこでも彼らが行くところ全てで。 弟子たちの視点から見ると、この話しの中では彼らが期待していた通りの旅だったと思います。やりたい事はほぼ全て出来、イエスが行ったような事が出来ていました。 どんなに素晴らしいことだったでしょう。この世界で神の働きの一部となり、それを叶えていくという経験ができたことは素晴らしかったに違いありません。 弟子たちが「伝道」旅行から戻った後、イエスは教えたり、癒したりというだけではなく、奇跡の働き手であることも証明しました。たった5つのパンと2つの魚で5千人の群衆の空腹を満たすという事を弟子たちの目の前で行ったのです。 弟子たちは本当にびっくりした事でしょう。彼らの熱狂が想像できますか?次に伝道旅行に送られたら、一体どんな奇跡を起こす事が出来るようになるかと考え興奮したに違いありません。 神に任命された救世主であり、支配者である事を弟子たちに示したイエス。弟子たちもイエスのフォロワーとして生きる準備は出来ていました。 そして、今日の聖書朗読箇所の部分に入ります。弟子たちが興奮、熱狂の中にあり、イエスをより深く理解しようとしている時に、イエスはそのような熱い思いの障害となる事実を共有するのです。 イエスは、イエス自身が大きな苦しみを経験し、宗教指導者である長老、祭司長、そして書記などの人たちに拒絶される事を弟子たちに伝えます。 大きな苦しみと、拒絶。。。あぁ、なんてこと。 それだけではありません!イエスは、自分自身は殺され、そして死んでから3日目に復活すると弟子たちに伝えるのです。 死に至る苦しみと拒絶。これは、弟子たちにとって聞く準備が出来ていなかった事ですし、聞きたい内容でもありませんでした。しかし聖書には、イエスはこの事を躊躇なく、包み隠さず話したと書いてあります。(マルコの福音書8章32節) 弟子たちがこれを聞いた時にどんなショックを受けたか想像できますか? 事実、マルコの福音書8章にはペテロの反応が書いてあり、神の子であるイエスを横に、彼を叱責し始め、イエスが言った事を批判したとあります。 弟子のペテロがイエスを叱責する。面白いですね? もちろんイエスもペテロをすぐに叱責し、この様に続けます 「もし私のフォロワーになりたいのであれば、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私についてきなさい。」 この時点まで、弟子たちがイエスに従っていた方法は、ソーシャルメディアで私達が人々をフォローする形に似ていました。ツイッターは皆さんご存じですよね、ご存じない方に簡単に説明すると、人が短い文章を投稿できるオンラインのツールです。それに対して人々がコメントを残す事が出来たりするものです。 ツイッターで人と繋がり、その人が今までに投稿した内容が見る事ができ、そしてフォロワーになる。フォロワーは、フォローしている人の投稿に「like」ボタンを押す事が出来て、他の人とその投稿を共有する事も出来ます。要するに、相互作用があるオンラインのファンクラブの様なものです。 これまで弟子たちが行なっていた事それは、イエスが言っている事が好き、その言葉を他の人達と共有するなど、要はツィッターのフォロワー感覚的な事でした。イエスは弟子たちにイエスのフォロワーになるように言っていましたが、ここで重要な事は、イエスは単にファンクラブに参加して欲しいと言っているだけではない、それ以上の事を弟子たちに求めたのです。 イエスは弟子たちに自分の十字架を負うよう求めています。イエスはそれに伴うリスク、犠牲、そして自分の命に関わる苦し身について話をしているのです。 十字架を負うということは、当時では肉体的な死を意味していました。イエスの死と復活後クリスチャンは迫害されます。弟子たちは彼らのクリスチャンとしての信仰を告白することで殉教するのです。 これは弟子たちにとって、信仰における次のステージです。真にイエス様について従うということは、神の癒しと奇跡の働きで満たされるクリスチャンとしての「良い」部分だけに焦点を当てるということだけではありません。 この時点からイエスは、弟子たちに何度も何度も、世界を救うために召されたのは苦しみを受けてこそと思い出させます。イエスは強さを支配するために神によっておくられた救世主ではありません。イエスは世界を救うために大きな苦しみを経験しなければなりませんでした。 そしてイエスのようになるため、イエスに従うために弟子たちも同じことをするように覚悟を求められます。 もちろんイエスが負ったように十字架を負う事は、私達の本当の気持ち、意志と体には相反するものです。死に至るまでの曲がりくねった、ゆっくりとした鈍い苦しみ。誰がそれを体験したいと思うでしょう? 正気であるなら、一体誰が十字架にかけられることを望んだでしょうか?誰が自分の十字架を拾い、運び、死を選びに行くでしょうか? しかし、イエスは私達クリスチャンは自分自身の十字架を手に取る事は必要だと言います。それを行わない限り、イエスがどのように世界を救おうと思ったのかを感じ、理解する方法はありません。イエスは最も残忍な方法で苦しみ、世界を救いました。これが私達にとって救いへの唯一の道でした。 気持ちの良い話ではありません。即効性や負担のない奇跡ではありません。忍耐力が必要であり、痛みが伴い、それでも全てを神様の捧げ、仕えるということです。 それは、死に至ったとしても服従するという選択です。 イエスはこの重い事実が一部の弟子たちにとっては恥ずかしい事かもしれないという事を知っていました。(26節)一部の弟子はイエスと、その言葉について恥じる事を知っていました。 弟子たちは、イエスは力強い、征服した王であり、ローマ軍の占領と奴隷化を打ち負かし、神の民を解放する事が出来る人物だと期待していました。奇跡を期待し、ローマ政府からの解放がすぐに起こることを願っていました。 神に対するアプローチとして、私も時々神様をこのようにみてしまう事を告白しなければいけません。クリスチャンになったばかりのころ、そして今だって時々自分が悩んでいたり、ぶつかっている壁について人と共有するのは恥ずかしい事があります。苦しみの真っ只中にあるこの気持ちを小さな箱にラッピングをして心の奥に置いておきたいのです。 自分自身の人生の中におけるイエスの役割を魔法や奇跡のように考えて、それだけに制限したいと思うのです。 大きな苦痛の部分は飛び越えて、栄光の贖いに飛び込み、そのことだけ話していたいのです。 そして教会自身も時にそうであると思います。明るい栄光だけ、信仰の良い部分だけに焦点を当てると、苦難の道を通る必要性を、そしてそのことを話す必要性を忘れることがあります。苦しみについて話さないわけではありません。例えばキリスト復活前のレントのシーズンでは苦しみについて話をします。 先に述べた私の証のようですが、私達は現在進行形で起こっているキリストとの関係性のなかで悩だり、苦しんだりしている事を話すのではなく、過去に起こ利、すでに解決した話、苦しみを通り抜け、復活した話を共有しがちです。 現在進行中の話しにくい部分を避けたり、個人としても教会としても苦しみを見せる場所を作らないのは簡単です。 キリストの輝かしい贖いや勝利がなく、解決されていない世界で起こっている問題について話をするのも難しい事もあります。 人種差別、差別、これから行われる米国の選挙、地球温暖化、人身売買、女性の権利、移民、難民などに関する全ては未解決で非常に難しい問題であり、話さない方が間違いなく簡単です。 そして、このようなことを指摘する時に、最初に頭に浮かぶ罪深き人間は私自身であることをお伝えしたいと思います しかし、今朝、皆さんに提案したいのは、そういった話しにくい内容を包み隠さず話して欲しいということです。1つのコミュニティとして、どうやって私達は自分たち自身の罪に対して、無力である事を認め、個人の弱さ、そしてそれに向き合う事をオープンに話し、そして愛を持って祈る事ができるでしょうか? 皆さんと共に歩きながら、苦しみの話しを聞く事が私にとっては喜びであり、教会としてそのようなことをもっとしていけたらと思っています。 そういった時に、パウロが言った本当の意味を理解できるのではないでしょうか。「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからです。キリストの力が私をおおうために、むしろ喜んで私の弱さを誇りましょう。」パウロの心を、私達も身に着ける事が出来るでしょうか?教会として私達の弱さを自慢し、苦しみを自慢し、それがキリストの力と栄光に繋がると信じれるでしょうか? キリストの力が私達の完璧さではなく、私達の弱さによって完成される事を知っているだけでなく、信じていらっしゃいますか?すべては人間のやり方で対処されるのではなく、すべては神の威厳と栄光につながる、神の方法でしか対処、解決されないのです。 そして私たちにとって良い知らせは、私たちは苦しみが終わりでないことを知っています。死が最終地ではありません。 イエスはこれから自身に襲いかかる苦しみについて話す事を恥ずかしいとは思っていませんでした。苦しみが彼に近づいている時も、何故ならその苦しみがどこに彼を導くかをイエスは知っていました。屈辱ではなく、栄光へと導びかれることを知っていました。 私達の三位一体の神の栄光、創造主、キリストと聖霊。私達の神には全ての栄光、名誉、力が宿っています。神こそが私達の中に宿り、全ての涙を拭ってくれる神。 神の栄光のもとで苦しみは無くなり、嘆き、悲しみ、そして痛みも無くなる(ヨハネの黙示録21章4節)神の国が天にあるように、地上にもあるので、死はなくなります。 人々やすべての創造物がハレルヤと、主を賛美し、すべての目がキリストが私たちの主であり、王であることを理解するのです。 死、苦しみ、弱さ、これらは信仰の旅路の始まりにすぎません。旅の終わりでもなく、旅のクライマックスでもありません。 全てが新しい命、新しい機会、生まれ変わり、そして成長に導かれるのです。その旅路全てにキリストが共にいてくださり、私たちは最終的にどこに行くのかを知っています。だから道が暗くなったとしても心配する必要はありません。自分たちの墓場を避ける事を意識しなくて良いのです。 むしろ皆さん、勇気をもって、苦難に耐えましょう。キリストが私達の主であり、救い主であること、イエスが私達と共に死に、そして共に甦るその事を覚えましょう。 祈りましょう。 聖霊よ、あなたのささやく声を私達の心で聞き取れるように助けてください。そして私達にあなたの呼びかけに応える強さと勇気をお与えください。アーメン
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おはようございます。今日はまずクローディア先生が手首を怪我されたことで、早くお元気になられ、神様のお守りがありますようにお祈りしたいと思います。しかし先生はすでに教会でのお働きをされています、ただしその傍ら手術もされたそうですが。
さて今日は預言者エレミヤについてお話ししたいと思います。みなさんは、旧約の世界において彼がどんな働きをし、役割を果たし、社会においてどのような立場にあったかご存知でしょうか。 もちろん彼は神の言葉を語ったのですが、彼の訴えはイスラエルの人々にはなかなか聞いてもらえず、受け入れられなかったのです。なぜなら彼にはその社会におけるはっきりとした「公然の権威」がなかったからです。 旧約の主な預言者たちは、王が支配する時代に活躍しました。ちょっと不思議かもしれませんが、イスラエルの王国時代、王自身も神聖な存在で「神の子」と呼ばれたり、「神は王の父」とも言われたのです。イスラエルの王は神に選ばれ、その頭に聖油を注がれることによって聖別されたのです。その「頭に油を注ぐ」という意味のへブル語はマーシャーで、それから派生する言葉メシアは「油を注がれた者」、それがギリシャ語に翻訳されると「キリスト」となることはみなさんご存知ですね。 旧約預言者の時代、エルサレム神殿は、そこに働く祭司たちも含めて、当時の人々のための重要な働きをする宗教的中心でした。王や祭司たちにはそれぞれに、公然の宗教的権威を持っていました。豪華で素晴らしい宮殿、ソロモン王によって建てられた神殿などが人々を圧倒し、それらの建物はイスラエルの宗教的アイデンティティの国家的宗教的シンボルとして捉えられました 他方預言者たちはもともと普通の人たちで、その働きのための特別な性格や立場などはありませんでした。預言者アモスも「私は預言者ではなく、預言者の弟子でもない。私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。」(アモス書7章14節)と語ります。 エレミヤについていえば、彼はその生涯の早い時期に神から預言者となるべく招かれましたが、彼は懸命にそれを辞退し、あるいは断ろうとしてこう言いました、「ああ、わが主なる神よ/私はまだ若く/どう語ればよいのか分かりません。」(エレミヤ書1章6節)。ここで彼が「若い」と言うのは年齢だけのことではなく、神の言葉を取り次ぐ者としてなんの準備もなく、能力もなく、経験もない、ということです。まさに彼がのちに神の言葉を人々に宣言したとき、誰も聞こうとせず、無視されてしまったのです。 ときにエレミヤの言葉は、王の政府に対して厳しいもので、「姦淫」を犯していると糾弾するものでした。王はイスラエルの神によって聖別されたはずなのに、異教、異国のバアルやアシュタロテという神々に心惹かれてもいたのです。そこでもエレミヤの発言は、神に聖別され神聖で油注がれた王に対する不敬の言葉として受け取られ、激しい迫害を受け、投獄されたりもしました。 預言者として人々には嘲られ、王からは抑圧されるなど、彼はそのような苦難に直面させられたのです。あるときエレミヤは神と論争をし、預言者の働きを辞めたいと訴え、神様の召命は彼にとって厳しすぎるもので「私は疲れ果てました。/私は耐えられません。」(エレミヤ書20章9節)とまで訴えています。 前回お話をしたように、エレミヤはバビロニア帝国の軍隊が、神の裁きの道具として、イスラエルに侵略しようとして近づいていることを予告しました。このように彼の預言は、もし人々が神のもとに立ち返らなければ、イスラエル王国は滅亡するというものでした。誰がそんな、自分の国の滅亡などという気の滅入るメッセージを聞きたがるでしょうか。エレミヤ自身、彼の預言がまさか実現することなど思いもしなかったのかもしれません。本当のところ、彼のメッセージの中心は、滅亡ではなく神への悔い改めだったのですが、しかしエレミヤが語ったことが起こってしまいました。エレミヤはそんな破滅的な預言の実現など決して期待していたのではありませんでした。 ついに彼の預言は実現し、神の言葉が真実であること、そしてエレミヤの宗教的な権威は、イスラエルの歴史の展開を通じて証明されたのです。バビロニア軍はエルサレム神殿を破壊し、焼失させ、都市は制服され、人々は1000kmも離れた都市バビロンに追放され、ディアスポラ、つまり今日でいう難民とされました。それでもエレミヤは王国滅亡の最後の時まで神のメッセージを訴え続けたのです。 エレミヤの物語を通じて、私たちは神の言葉にこだわり続けることの難しさを感じさせられます。私たちは、時にはこの世的な人間関係などで、そんな姿勢を放棄してしまいます。キリスト教の歴史は、それを取り巻く社会から、その信仰に対する迫害いついて多くのことを語っています。しかし私たちの先達たちは、そんな圧迫のなかでも自らの信仰を堅持しました。私たちはどうなんでしょうか。この世界の困難に直面したときに、信仰を守りぬくことができるでしょうか。イエスが、種まきのたとえのなかで、「御言葉のために苦難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」(マルコ福音書4章17節)と語ります。そして私たちの今の状況は、とても興味深いものがあります。 今はキリスト教信仰に対する直接の迫害などはありません。でもこの新型コロナの状況のなかで、私は、私たちは「柔らかな迫害」、あるいはキリスト教コミュニティに対する圧迫に直面させられているように思われるのです。私たちの政府(中央でも地方でも)は多くの人たちの集会のような密を避けるように主張しています(三密、あるいは3C)。つまり、私たちの会衆(コングリゲーション)に対して、礼拝のために集まる(コングリゲートする)ことを止めているのです。このような「制限」をかけること、それを「柔らかな迫害」と私には見えますし、私たちは散り散りになって、孤立し、孤独で、友達を失った思いさえ抱かされます。いつになったら長峰台の教会に一緒に集まることができるのでしょうか。さらに今の状況のなかで、経済的に、社会的に、さらに個人的に不安や心配があります。 しかしながら、私たちが離れ離れにされていたとしても、私たちの連帯、教会員としてのまとまりを保つことは決して不可能ではありません。もし私たちがそれぞれの場所で、神の言葉を信じて聞き取るなら、神様の揺るぐことのない愛を私たちの隣人に対して示すことで、神様のみこころを実践することで私たちが一つになるのです。それは、どのような状況のなかで過ごすとしても、イエスのもっとも中心的な教えである「隣人を愛しなさい」という教えに従うことなのです。 エレミヤは預言者になることには非常に消極的でしたが、神はその言葉を彼の口に入れることによって(「さあ、私はあなたの口に私の言葉を授けた。」エレミヤ書1章9節)、彼といつも共にあることのしるしとされたのです。私たちがどんな状況のなかでも神様の言葉を思い起こすとき、神様が私たちと共におられ、イエスの愛が新しく降り注がれることに気づくべきなのです。私たちは同じキリスト教共同体、神戸ユニオンチャーチの仲間であり、ひとりの神様から同じメッセージを聞き続けているのです。 祈りましょう。 主よ、私たちにあなたが私たちの毎日の生活のなかに共におられることのしるしとして、み言葉をください。私たちは我慢強く、あなたのみ声を聞き取るために祈り続けます。憐れみ深い主よ、今困窮のなかに、大きな悩みや不安のなかにある人、また病床にある方々と共にいてください。その手をとって、愛の言葉を語りかけてください。そして私たちがあなたの道具となって、あなたの導きによって、あなたのメッセージを隣人に届けるものとなることができますように。私たちの愛する主、イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 「神がコントロール、掌握されている? あるいは自身の最善を尽くされているだけ?」 神戸ユニオン教会 2020年9月13日 コリント人への第一の手紙13章12節、ローマ人への手紙8章28節9/13/2020 また新たなホットなトピックです。神が主導権を握り、掌握されていますか?すべてのことがある理由によって、そう、良い理由によって起こりますか?これらのフレーズがよく使われるのをよく耳にしますが、私はいろいろな角度から見て、皆さんに考えてもらう糧としたいと思います。
最初にこのフレーズがどのように、どういう場所で使われたかをいくつかを見て、次に私たちがそれをどのように裏付けているか聖書の箇所を見て、最後にこのことについて考える新しい方法を見てみたいと思います。 昨夜、私たちは親友の何人かと夕食をしました。彼らの27歳の娘は私たちの娘みたいな子ですが、困難な状況にあります。彼女は最後の手段として背中の手術をしました。腰部に棒状の器具が埋め込まれましたが、残念なことにうまくいかず、今ちょっとした危機にあります。 彼女のお母さんは私たちに彼女の信仰が強いということを話しました。彼女は神がすべてを掌握されていることを知っていて、そしてすべての事柄は理由があって起こり、すべて目的があることを知っています。家族は「Suffering Is Never For Nothing」 という本を読んだばかりで、それが助けになったようです。私はその本を読んだことはありませんが、心のどこかで自分たちの役割を通して彼女を癒すことができるかどうか知りたいと思っています。でもそういう風に考えることは神がすべてを掌握されているという考え方は相反するものですよね。どうしたらいいんでしょうか。 これらのフレーズが使用された他の例をいくつか挙げましょう。 義理の兄は交通違反の切符を切られました。彼は最低2人が乗ることで走行できる車線を単独で走って違反しました。 「なぜ神は私にこのようなことをされるのか?」 と彼は言いました。彼の考えは次のとおりです。神はすべてをコントロールされていて、彼に反則切符を受けさせた。 最近いくつか悪天候があり、人々は 「まあ、神には理由があるに違いない」と言うのを聞きます。このコロナの感染状況下で多くの人が 「少なくとも神が主導権を握っておられる」 と聞き安心しています。しかしこれは母親と父親がコロナによって亡くなったばかりの友人にとっては難しい言葉です。献身的なカトリック教徒です。私は彼らに何と言えるでしょうか? スペクトルの反対側には、自由意志を持つ自由な生き物であり、私たちの選択が重要であるという考えがあります。また、神が実際に考えを変えることができるのは、私たちの言動によるかもしれないという考え方です。 列王記下20章1-6節にあるヒゼキヤの物語を思い出してください。 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。アモツの子預言者イザヤは彼のところにきて言った、「主はこう仰せられます、『家の人に遺言をなさい。あなたは死にます。生きながらえることはできません』」。 それで彼はどうしたのでしょう。2-3節 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、「ああ主よ、わたしが真実を真心をもってあなたの前に歩み、あなたの目にかなうことをおこなったのをどうぞ思い起してください」。そしてヒゼキヤは激しく泣いた。 そして4-5-6節 イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべ、ダビデのためにこの町を守るであろう』 これは私たちに与えられた自由な選択に関する例だけではなく、私達が神様に影響を与えることができる?そういう可能性も示しているのかもしれません。そう考えてみると祈りが重要だと思いませんか?私たちの選択は重要です!そうです大切なことです。 そして、私たちはこのポイントに対し聖書のさまざまな場所を引用することができます。そこでは神はある人に報い、またある人を罰します。これらは私たちが行う選択に対する結果。 そしてほとんどの人がこれまでに知っているように、癒された人がどのようにして違いを生んだかをキリストが告げる箇所を私はよく強調します。マタイ書9:22にあります。 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。 さて、これは15分間の説教ですが、ここでは神が主権者であり、そしてまた私たちがどのように自由に選択できるかを示す聖書の箇所に多くの時間を費やすことができると思います。私たちは神が掌握されているという点に真実があると知っていますが、私たちが自身の未来を形作るために神が私たちに与えた力も知っています。さあこの二つの点をどう両立できるでしょうか。 その両方とも真実であるとしたらどうでしょうか。先日これについて新しい言葉を学びました。 アンチモン。それは2つの法則または真理が互いに矛盾しているように見えることを意味します。 科学志向の人にとっての典型的な例は、光が粒子であるのか波であるのかがあげられます。ある意味でその両方です!しかし、多くの人が言うであろうことは、実際に今では新しい説明があるということです。 光の問題について、それは量子力学と呼ばれていて正直私には学問を超え、スピリチュアルにさえ感じています。それについては別の日に話しましょう。 とにかく、新たな学問分野を通して、昔の人が説明できなかったことの説明が可能になったということです。 私が主張する点も同じことです。私たちはよくフレーズを、実際にはアイデアですが、持っています。それは質問して確認する必要があるものです。それらが真実ではないからではありません。しかしそれらは不完全であるか、別の真実を見逃す原因になるからです。 そして多くの聖句のうちの1つ、今日読んだものが助けになります。 「今、私は部分的に (断片的に) 知っていますが、そのときには私は全部を知るでしょう。」 誰かが 「神がコントロールされている、主導権を握っている」 と言ったときには、私は「あなたもそうだ!」 と言うのが早すぎないか自分自身確認する必要があります。 数年前、私はこのことを祈りで黙想していて、神が 「私は最善を尽くしているよ!」 と言われたように感じました。大笑いしました、今はこのフレーズがお気に入りです。 私が感じたのは、神は私たちを愛し、神は私たちのためにおられ、神は実際に私たちの中に生きておられ、それは真実な事柄です。ですから何かが起こったとき、私は真実を自分に思い出させる必要があります。その瞬間を正しく、正確に見つめるため。 ローマ人への手紙8:28のように: 28そしてわたしたちは、神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を(計画として)益としてくださることを、わたしたちは[大きな確信を持って]知っています。 私たちはこの節は大好きですし、そうあるべきです。 私が意味するのは神が言われている - ここだけではなく、聖書にある神のパターン - 事は起こるのだということ。 既にそれが善なら、万事を益とするために働かれることを人々に保証する必要はないですね。 意味するところは、起こるいくつかのことは悪いものになるでしょう、しかし神はそれを修正することができるということ。それを以前より良く見えるように。 さて、しかし…神を愛する人々のため!ここはポイントです。 私は人を落ち込ませたことがあります。 「心配する必要はありません。すべてうまくいくでしょう」 と誰かが言ったときでした。 私が 「本当に?それはなぜでしょう?」 と言ったからです。 もしあなたが神を愛しているなら、もちろん。 ただ私は神の部分無しに、耳に優しい言葉を言うのが嫌いなのです。 あるいは誰かが 「すべての物事は理由があって起こるのだ」 と言うでしょう。 私は 「はい、時々あなたを目覚めさせるか、その選択がどれほどまずかったかを示すために!」 と言うでしょう。 重要なのは認識することです。神は物事を良くすることができる、事実、以前よりも良くすることができるという認識です。しかし私はそこに 「もし」 を付け加えたいと思います。 そして祈りが重要であり、私たちが重要であり、私たちが何をすべきかが重要である、ということも。 ですから、神はご自身ができることを行われますが、最善の結果のためにご自身とパートナーを組むよう、神の人々に要求されます。 ここ何週か、私たちは霊的な戦いについて話し、エフェソ人への手紙を読みました。そこには私たちには盾と剣があると書かれています。防衛と攻撃において私たちの見逃せない役割を示唆するものです。 次に、一方で私たちは、神の主権と権力を無視したり、過小評価したりすることはできません。「神は主導権を握っている」 という代わりに私は 「神は主権者だ。最善を尽くしておられる、だからできるのであればあなたが助けてください!」 と言うでしょう。 これについては、10:30からのクラスでもっと話し合うことができます。1つのクラスはすべて日本語で1つは英語なので、ズームで参加してください。 ここからが私の最後のポイントであり、他よりももっと大切なことです。 神の力と神が私たちとその力をどのように共有し、私たちの自由意志を尊重するかについて。そしてこれが、私たちがこれらの真実にどのように向き合ったらいいか考えてみましょう。 私の子供が小さいとき、私は彼女たちに、正しくもあり、同時に間違ってもいられる、としばしば言いました。私たち大人もこのことを思い出す必要があります。よく。 そうです、あなたは正しいですし、その通りですが、その真実を間違った方法で、あるいは誤ったタイミングで共有すると人々を傷つける可能性があります。そしてそれは誤りです。その真実も受け入れる必要があります。 数年前、私は神からのイメージを感じました。それは私を助けてくれました - 私はそれが本当に神の瞬間だと感じたので、前にもそのことを共有したのは確かです。 人々のために祈るとき、私はこのイメージを心に留めて祈ります。 祈りの対象の人の手と、もう一方の手で神の手を握ろうとしている姿。- ですから私のイメージでは、その人をとてもよく見て、注意深く手を伸ばしたり上に向けたりして、そしてその手を優しく、気を付けて、そしてそのあと握らなくてはなりません。 それから同時に、神の手がどこにあるのかを見ようとします。その手をつかめるように。そして神とその人の手をつなぐことで本質的に結びついている。 そしてどういうわけかこのイメージでは、私が必要としたり、共有したいと思うものが何であれ、神と人の両方によって調整されるのです。 ある人はこれを神自身である言葉と呼ぶかもしれません。もし私がその言葉に繋がっているのであれば、人が神から必要とする真実だけを得たいのではなく、それをどのように言うか、どのくらい言うのかを探り求めるでしょう。 あるいは今ではないかもしれません。 だからポイントは何ですか。最初に、1つまたは複数の真理が他の真理と共存でき、できるだけ多くの結果を見ると、より良い結果が得られると考えてみてください。 もしあなたがそれらをすべて持っていると思ったとしたら、Michaelか彼のような誰かに聞いてみてください。あなたが必要としているより3つは多くのポイントを指摘してくれるでしょう。 次に、物事が矛盾しているように見えることが時にありますが、まだそれらを一緒に見る方法がないだけなのかもしれません。グレゴリー・ボイドによる「God of the possible」というクールな新しい本を手に入れました。「神の開かれた見方」と呼ばれるトピックに関するものです。神は全能であられると同時に私たちに自由な選択を持たせられることを学術・聖書的に説明しています。 第三に、先ほどお話ししした兄弟姉妹と神の手を握る私の例です。想像してみてください。 誰かにそうしてもらったことがありますか?その人があなたの手を持っています。リアルで心地よいものです。しかしながらもう一方の手には聖書です。 私が意味するのは、彼らは真実を後押しているかもしれませんが、間違った時に、間違った方法で、または神がそうする方法ではないということです。 さらに悪いことなのは、両手を聖書に置いていることです!ややこしいですね!つまり、彼らは聖書を引用しているのですが、神のようでなく、愛でもなく、打ちのめされた気持ちになるように使っているということです。 私はそれを聖書の武器化と呼んでいます。 ですから、光の理論やアンチノミーという言葉を忘れても、このイラストを頭に留めておいて欲しいと思います。 神が作られたこのパートナーシップは、厄介になることもあれば時に良いことでもありますが、それ以外の時には皆さん、「もう単にコントロールして、私のために物事をうまく働かせてくれるだけでいいのです。もう自由な選択は要りません!」 と言いたくならないですか? しかし神は私たちとともにいて、私たちのために、私たちに必要なものを与えてくださいます。私たちが聞くことを学び、聖霊に耳を傾けるなら。 祈りましょう。まず最初に、この冒険を感謝します。私は本当に別の方法を知りませんが、ここにある原動力を見ると、刺激的で恐れが小さくなります。 あなたが私たちと一緒にいてくださりありがとうございます。どのようなチャレンジであっても私たちはあなたのもとに来て助けを得ることができることを感謝します。私たちの役割と、信仰と呼ばれるものと、それを成長させる方法を見ることができるように助けてください。あなたを助けられるように私を助けてください。(これは祈りですが、神が微笑んでジェリー・マグワイアからの台詞を覚えているように感じます)私たちは祝福され、謙虚にあなたとともに歩きたいだけでなく、私たちの兄弟姉妹も助けたいです。 人々を助けられるあなた、そのあなたを助ける私たちをあなたが助けられる、その道を見ることができるように助けてください。イエスの御名によってアーメン。日曜学校でお会いしましょう! 〔物語〕
人は私のことをイエス様にしつこくせがむ愚か者と呼びました。でもほかにどうしていいかわかりませんでした。どんな治療もどんな祈祷もどんなまじないも娘には効果がありませんでした。娘は死にかけていました。娘の苦痛はどんどんひどくなっていきました。娘の命が心配でした。とても愛しているのですから。助けが必要でした。そのとき、イエス様が町に来たのです。イエス様がなさった奇跡については知っていました。うわさが広まっていたのです。それで私も助けてもらえるのではないかと思いました。私はイスラエル人ではありません。私のもともとの信仰はイスラエルのものではありません。それで私はイエス様のいる所にいるべきではないとみんなに言われました。私は自分を何者だと思ったのでしょうか。みんなが私に向かって叫び続けました。「イエスから離れろ」と言って。「おまえはここの者ではない。おまえは我々と違う。」私は自分に言われたことに耳を貸しませんでした。少なくとも彼らの言う通りにはしませんでした。私はイエス様のところに行き、娘の治癒を懇願しながらイエス様の上着をぐっと引っ張りました。するとイエス様は私を見ました。弟子たちでさえ私を追い払うよう言っていました。「お願いです、お願いです。主よ、娘を治してやってください!」イエス様は群衆を見てから言いました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のために遣わされた。」そんなこと私は気にも留めませんでした。思い切って言いました。「お願いです、主よ、私たちを助けてください。」イエス様は、パンは選ばれた民族のもの、神の子どもたちのものだと言いました。「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」信じられませんでした。犬ですって?私が犬なのですか?そこで私は持てる勇気を振り絞ってイエス様に言いました。「子犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」パン屑はいいものです。一番いいところだと思うこともあります!パン屑をいただきましょう!パンを丸ごとほしいと言ったわけではない、一人の小さな少女の病気を治してもらうこと、ただそれだけでした。イエス様は思いやりに満ちた目で私を見て言いました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ!あなたの願い通りになるように!」驚き、動揺して私はまるでふわふわと宙に浮いているような気持ちになりました。私の願いどおりになるように、ですって?娘の病気はいやされるのでしょうか。あらまあ、本当に。娘は治っている!娘は元気になっている!娘は癒された!そして私も癒されました。ありがとうございます、イエス様。私のような異邦の者の苦しみに憐れみをかけてくださってありがとうございます。ありがとう。ありがとう。 本日の説教におけるカナンの女についての考察 今日の説教について考えてみたいと思います。 この女性の名前はわかりません。彼女はカナン人の女性であり、カナン人はさげすまれていた民族でした。カナン人は異教徒で、ユダヤ人に非常に敵意をもつ国からパレスチナ北方にやって来ました。このカナンの女性は結婚していたようで、少なくとも一人の子どもがいました。わかっているのはただこれだけです。彼女は勇敢で必死でした。彼女が辛抱強かったことはわかります。イエスが結局は彼女の娘をどうにかして治してくれると心の中でわかっていたからです。イエスの偉大な力のことを聞いていたのでしょう。イエスは治癒者であり救い主であり、貧しい者や助けが必要な者に哀れみをかけてくださる方。それならば彼女をも助けてくれるはずだと思った、またはわかっていたのです。彼女にはイエスが助けてくれるという信仰がありました。 ふつうならあきらめてしまうような状況にありましたが、このカナンの女性はあきらめませんでした。あきらめざるを得ない理由がたくさんあったのにもかかわらず、です。 一つ目はイエスが沈黙していたことです。カナンの女性が叫びながら手を伸ばして助けを求めていたのに、イエスは何も答えなかったと聖書に書いてあります。 驚くことには、彼女はイエスの沈黙におびえたりしませんでした。神が沈黙していることは神が無関心でいることとは違う、とわかっているのは少数の人ですが、彼女はそれをわかっていて信仰を持っていました。この女性は沈黙に直面しても失望しなかったのです。 二つ目は弟子たちもカナンの女性を助けようとせず、単に迷惑な者とみなしていたことです。弟子たちはイエスに言いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 弟子たちはガリラヤ湖のほとりで5,000人の空腹の人を見た時も同じことを言いました。気の毒な身体の不自由な病人がベトザタの池で助けを求めたときも同じことを言いました。子どもたちがイエスを見ようとしたときにさえ追い払おうとしました。教会は、苦悩する人間に対してこの弟子たちがしたのと同じような対応を取ることがよくありました。刑務所や福祉施設、隔離された居住地区に追いやりました。弟子たちは、絶え間なく助けを求められてその重圧に疲れ果てましたが、現在の教会も同じことが起こっています。私たちもあるいは「危機的状況下の疲労」に苦しめられ、疲れているかもしれません。しかし、この女性の信仰は人々の無関心にあっても妨げられるものではありませんでした。 三つ目は、イエスがようやく言った「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉です。イエスはカナンの女を試そうとしたのでしょうか。私たちにはわかりません。イエスは現在の多くの人がそうであるように、自分と違う文化をもつ人の苦しみには冷たい態度をとる、という慣習にとらわれていたのでしょうか。私たちにはわかりません。 しかしそれでもカナンの女性はあきらめませんでした。イエスが言ったせりふにもかかわらず、彼女はイエスの前にひれ伏して言いました。「主よ、どうかお助けください」これこそまさに彼女の信仰です。 この女性の助けを求める願いにイエスはまた言葉を述べていますが、理解するのが難しいものです。通常ならイエスが言わないようなことです。「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とイエスは彼女に言いました。彼女を侮辱しているように聞こえます。 解説書の中に、イエスが実際に使った単語は「犬」ではなく小さな「子犬」だと指摘しているものがあります。イエスが言っていたのは家で飼っているペットの犬のことで、当時、路上をうろついていた野良犬のたぐいではないというのです。それで少しは安心できますか?また別の意見では、イエスはその女性を侮辱したのではなくからかっていて、イエスは言いながらほほえんでいたのだろうというのもあります。そうかもしれません。またそうでないかもしれません。 女性はイエスに言いました。「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 「私はパン屑は一番いいところだと時々思います!」 それが彼女の信仰であり、今の我々の信仰なのです。自分は神の慈悲に値しない。それでも信仰によって神のもとに進んで行くこと。これが信仰です。 「あなたの信仰は立派だ」。私はこの言葉をイエスから聞きたいと思っています。そう思いませんか?あなたの信仰は立派だ。イエスが信仰をほめた人はほかにただ一人だけいます。興味深いことにそれはカファルナウムのローマ兵士でした。「あなたの信仰は立派だ。」(マタイ8:5-13) カナンの女性の信仰の立派さは次のようなことに由来します。 1.人種差別の垣根を超えようとする意志 2.彼女の社会的立場から起こる社会からの除外、無視をはねつけること。辛抱強さ。 3.自分は主に注目してもらうことや時間を割いてもらうことに値しないと認める謙虚さ。それでも彼女は信仰のうちに主のもとに進んで行きました。 私たちも信仰のうちに神のもとへ進むことができます。あきらめないでください。 神は、世の中が変化している今のこの時期にも私たちとともにおられます。このことはこれからも決して変わることはありません。 信仰を持って進みましょう。アーメン |
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May 2024
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