聖書朗読箇所 ローマ人への手紙:14:22-23 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。 コリント人への手紙 第一 10:23-25 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれも食べなさい。 まず始めに、あなたの1月の霊的成長テーマ、特に「祈りと断食」についてお聞きしたいと思います。 どうでしたか?この事について私と話をした人達は、上手くいっている人が多かったようですが、もっと詳しく知り、祈りと断食について学びたい、特に断食についてそう思っている人が多かったように思います。素晴らしいです!祈りも断食も、いつでも行う事が可能で、両方とも、もっとみんな行うべきだと思います!ですから、諦めず、何度でも「練習(トレーニング)」してください。「練習」という言葉の考え方が好きです。何かイベントのために練習する、大会などのために痩せる(トレーニングする)、戦うために。。。実際 私たちは戦っているのだと思います!そして、霊的な訓練を続けるのです。聖書には、何をすれば良いかというリストは存在しません。しかし、祈りと断食、そして聖書を勉強することがトレーニングする事であるというのを私たちは知っています。 今月のテーマに合わせて、説教を伝えるとすると、3大霊的な訓練になります。それは
例えば、神と共に歩くという事をスポーツに例えたらどうでしょうか?個人競技ではなく、チームスポーツです。良くも悪くもあります。チームスポーツは楽しいけれども難しい。神と一緒に歩くことは、私たち1人1人がチームの一員にならなければいけません。チーム力を高め、チームのために働き、お互いをサポートし合う。時には励ます人になり、サポートする人になる、または精神的に支えるメンターになったり。コミュニケーションを図り、友達になる。 残念なことに、教会に行く多くの人は知っていますが、これがかなり難しいのです!そして、これが人々が教会を嫌う理由だったりもするのです。クリスチャンっぽく見える人が、クリスチャンじゃない人よりもお互いを支える事が下手だったりするのです!なぜでしょう? この問題に関する私なりの見解をお伝えしましょう。 「同時期に正しい事と間違った事が出来ますか?」 ご存知のように、私たちは日本で4人の娘たちを育てました。私は子供たちと「知恵」を共有することが大好きでした。忙しい毎日の中で、考えたり想像する事は賢明な事だったのです。 1つの教訓は、「同時期に正しい事と間違った事を出来る」という事です。もう一つは、「正しい事を知っている時に一番気を付けなさい」 時に私たちは物事に白黒つけたくなります。神と共に歩く時にはもっと賢明になり、物事の原理に目を向けなければいけません。
KUCは約20か国から人々が集まり、きっと20以上の教会の伝統やスタイルを持っている人達の集まりです。そこに、KUCが昔から持っているルール、やっていい事、悪い事があります。これが素晴らしい面でもあり、難しくしている面でもあります。 1人1人の考えを評価出来れば素晴らしいです。自分のやり方が唯一の方法だと主張するのであれば、問題です。 数週間前にサンデースクールでイエスの誕生を祝いに来た賢者の話をしていました。霊的にグレーな部分である、占星術やハロウィーンについて私たちの見解を話しはじめました。 グレーと受け止める人もあれば、黒(否定的)に受け止める人もいました。 私たちは神を崇め、一緒に正しく、霊的に安全に歩き、良いクリスチャンでありたいのです。でもこれも人によって考え方が違います。 私たちの多くは、霊的な世界を真剣に受け入れない危険性を強く感じています。霊的な世界を意識して育ったか、それともそうでないかで大きく違います。 ある意味、4人の娘を育てた時と同じような大変さに似ていると思っています。娘たちを育てながら、彼女たちの友達も周りにいて、たくさんのフォスター・ガールズ(里子)を迎え育て教えたのは、世界でどうやって彼らが安全に暮らせるか、導くことだと思っていました。娘たち全員が勇敢で、自信を持って、躊躇せず様々な場所に行って欲しいと思っていました。限界はない。神の導きが必ず彼女たちを守っていることを知って欲しい。。。 賢く問題を認識することと、賢明に状況を回避する時を知ること。2つのスキルは良いものであり、真実であり、価値があります。 皆さまにも同じことをお伝えしたいです。聖書には、こうあります。ヨハネの手紙 第一4:4 「子どもたちよ(信者、親愛なる者)。あなたがたは神から出た者です。そして彼ら(半期リストの代理人)に(すでに)勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世(罪深い人類)のうちにいる、あの者(サタン)よりも力があるからです。」 真実!正義!力! マタイの福音書10:16にあるように、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。 子供たちを育てながら「人ができること」を恐れず、どの様に聖霊の導きで自分を前進させ、戦いを選ぶ方法を学ぶ! 同様に、この教会でも様々なトピックに関していろいろな見解があります。人々によって矛盾や熟慮する度合いが違ったりします。人によって大切な事が、別の人にとってはそこまで大切でないなど。 新約聖書には、教会の立ち上げ時期にパウロがどの様に問題解決していったのかが書いてあります。それは、私たちを分断しかねない今日の問題にも置き換えれます。では、パウロがどの様に教会立ち上げをけん引したかを見てみましょう。 本日ロイさんが読んでくれた場所に関連します。クワメイさんも先週サンデースクールでこの部分について触れていました。一番の霊的な訓練とは、聖書を知ることです。そうすれば、私たちの体の一部となり、それを証明できるからです。 ロイさんが読んでくださった、コリント人への手紙 第一10:23 23 すべてのことは、してもよいのです(道徳的に正当で、許容される範囲)。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。 ここでパウロが述べているのは、現地文化についてです。例えば肉を食べること。これは、クリスチャンでない人から来ている習慣だと思われます。また、神を礼拝する日など。パウロが取り上げた問題を全て今日お伝えする事はしませんが、当時どんな問題があったのか、気になるものを調べる事を皆さんの宿題にさせて頂きます。 興味深いのは、パウロが気にしたのは優先順位でした。兄弟姉妹が気にかけられているという事を見せる事。冒頭に申し上げた通り、神を崇め、神への愛を示すことと、チームメンバーに対しての愛とサポートできる心が大切です。 ですから、私の子供が成長する過程で、正しい事を言っているかもしれないけれど、姉妹たちを邪険に扱っていたらどうでしょうか?正しいことをしているからと言って、人に意地悪をすることはできません。正義を盾に、人を殴ることはできません! 特にアメリカには聖書を武装させる人達がいます。武装した聖書で攻撃された人達もいます。聖書を盾に正しい事を言ってくる人もいます。彼らは正しいのかもしれません、しかし、間違ってもいるのです。そこに愛が無ければ。 神への愛。神への愛が全てです。しかし、お互いへの愛も必須です。 使徒の働き2:42にはこうあります。 「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」 4か所、興味深い部分があり、彼らが時間を献身している部分があります。 *使徒の教え(聖書とも言えます) *交わり(私はチーム力を高めると言います) *パンを裂く *祈り 私の3大要素:聖書、祈り、そしてチーム力! チームの一員である事が最優先の1つです。イエスは、ヨハネの福音書13:35でこう言っています。 「もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」 そして、ヘブル人への手紙10:24-25にも、こうあります。 「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おうではありませんか」 今日、学んで欲しい部分はここです。 優先順位を間違えば、誰もが同時期に正しくあり、間違うことがある。神はお互いを思いやることに力を注いでいます。安息日や、間違った人々のグループと話していたのかに関わらず、イエスも当時の信仰深い人々が、十分にお互いを思いやらずに、自分たちのルールで神を喜ばせる事をしていた人には落胆していました。 イエスは、互いを愛するという事に価値を置いていたのです。 物事を真剣に受け止めなければ、霊的な世界では愚か者になる。だれも恐れながら生きたくありません、しかし、愚か者にもなりたくはありません。神が私たちに与えてくれた約束を抱きながら、神が誰と一緒に私たちの中に存在するか、私たちが持っている力、そして知恵、見解。 神がまだあなたに青信号を与えていない(行けと言っていない)戦闘には立ち向かわないでください。聖霊のささやきが聞こえた時に、どこに行くのかだけでなく、いつ、どうやって行くのかも分かるのです。 私の娘たちは全員成長し、前にも皆さんに話したことがあると思いますが、「神と良い関係を保っているなら、いつでも行けます」。私は、娘たちをあまり安全ではないと思われる場所にも送り出しました。彼女たちに、識別させることも学ばせ、正しくないと感じた時は、その場から去る事も教えました。 ですから、こう考えてください。優しく、愛を持ってあなたの持っている真実を共有してください。私たちの多様性がより高まる準備をしてください、そして、もっと団結力が生まれるように。私たちの霊的成長はより高いレベルで、お互いに学び合い、癒しがやってきます。お互いがお互いを思いやる事を優先的に行えるなら。それがイエスが言っていたことです! では2月のテーマを言います。 「傷ついた心を癒す」 聖書はこれについて何と言っているでしょうか?傷ついた心をどう癒すのか。来月お話しするのを楽しみにしています。 祈りましょう
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人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
祈りましょう。主よ、あなたの御言葉は私達の足のともしび、私達の道の光です。(詩篇119:105)あなたの言葉を聞く中で、ただ聞くだけではなくあなたの言葉に従うことができますように。イエス・キリストの名において、アーメン。 他の親と同じように、私は子供たちに散らかした後の片付けをするようにと子供に言うことがよくあります。その後で、私は子供たちに自分たちで片付けをする時間を与え、進捗状況をチェックするために部屋に戻ります。時々私が望んでいたように子供たちが片付けていない時、私は少し意地悪になることがあります。私が特にストレスを感じているときがそうです。床にある小さな糸を拾い上げて、なぜ拾わなかったのかと子供たちに尋ねるだけでなく、おもちゃ、紙、床にあるものを全て拾う必要があると子供に説教します。 しかしながら、私がこれらすべてを話して、私が子供たちに片付けをしていないことを厳しく子供たちに思い出させた後、自分の寝室に戻ってみると、自分の服が床中に散らばり、ベッドは整えられておらず、ナイトスタンドに空のチップスの袋が開いているのを見つけることがあります。 私はそのとき自分が持っている非常に大きな二つのものさしに気づくのです。私は子供たちにあてはめている同じ測定基準を自分自身に適用しているのではないということを。 この話を今日の聖書箇所を理解するのに使うのには、ばかげたことかもしれません。しかしそれと同時に私が今シェアした話は、私たちがどのような人間であるかということについて、非常に核心に近い何かに触れているように思います。私たち人間の中には当たり前のように、ごく普通に裁いてしまう傾向があります。それに加え、私たちは自分の頭の中ですでに裁いた、決めた結論を確認または肯定する目的で、他の人を見てしまうことがあります。 散らかった部屋の話の例えを続けてみましょう。あなたが「だらしない」「散らかし屋」のイメージを抱いている誰かについて考えてみてください。 (ちなみに疑っておられるかもしれないので言っておきますが、私は私の子供がだらしないと決めつけているわけではありません笑!)あなたが頭の中でだらしない、散らかし屋と決めつけているその誰かの部屋に行って部屋を見回すとしましょう。あなたがまず最初にすること、私たちが皆そうすることは何でしょう?それはその人についての私たちの信念を確認するために、意図的にその部屋の中にある散らかっている部分を探すことではないでしょうか。 他人をある方法で見極め、裁くとき、私たちは常に自分が下した結論、裁きを確認できる情報を探しています。私たちの目、耳、心、頭はそれを考えもせず自動的に行っているのです。今日の聖句は、私たちがいかに自動的に、簡単に他人を見極め、裁くかを明確に指摘しているのです。 1節と2節にある「裁き」という言葉は、ギリシャ語では法的な意味での判定、裁きを意味しています。それは、具体的な過ちを検閲をし、それに見合った罰を下し、判定をすることを意味します。 このようなタイプの裁きはソーシャルメディアで常に行われています。投稿に著作権またはコミュニティの基準に違反しているという赤旗が立てられると、その背後にあるアルゴリズムは投稿したアカウントにさらに注意を払い始め、さらなるルール違反を探します。実際、私たちの教会がfacebookでライブストリーミングを始めたとき、私たちはこの問題に直面しました。適切なライセンスを確保した後でも、著作権侵害で厳しく検閲され、時にはLiveでのオンライン礼拝をブロックされることに気づきました。 時として同じように私たちは検閲し、裁きを下す人間になることがあります。誰かについて裁く時、すぐにその人の欠点を探し始めて、自分の中ですでに下した裁きを確認し、私たちが正しいことを証明しようとするのです。 「やっぱりね、そうだと思った!」 「この人はそういうことを言ったり、そのようなことをする人だとわかってた。」 これが私たちが検閲を目的にして人を裁く時のメンタリティです。私たちが真摯に何かを見たり聞いたりする前に、私たちはすでに私たちが裁きを下した人がどのように振る舞うか、そして彼らが何を言おうとしているのかについて自分たちの頭の中で決めてしまっているのです。 現在、米国で何が起こっているかを見てください。民主党員と共和党員の間には争いがあります。福音派のクリスチャンと非福音派のクリスチャンの間の分裂。リベラル派と保守派がお互いに批判しあっています。これらの分裂は深い歴史的基盤にルーツを持っているので、私はそれらすべてを理解してはいません。それでもイエス様が今日の聖書箇所で私たちに警告していることが、これらの状況で起きていることはわかります。 裁きに使う測りは他人には使うものの、自分自身には同じ測りを用いないことがよくあります。隣人の目から、敵対する相手の目から、敵の目からちりを取り除こうとする試みを私たちは絶えずしますが、自分自身の目からは大きな丸太が突き出ていることには気づいていないのです。 これはアメリカやアメリカのキリスト教だけの問題ではありません。人々が集まりがある教会、会社、家族のような組織、場所すべてに起こりうる問題です。 私たちが自分と他人に対し違う物差しを使い、他人を裁く時、私たちはつながりを保つのではなく、グループに分かれ、分裂し、自分のグループ以外の人とは距離を置きます。 今日読んだ箇所をもう少し詳しく見てみましょう。この箇所は、幾何かのパリサイ人に対するイエス様からのメッセージであるとしばし解釈されます。これらのパリサイ人は、まさに文字通りに、そして具体的にユダヤ教の法律に従ったユダヤ人の宗教指導者のグループであり、イエス様の教えや行いに反抗しました。他の人を裁くことについて書かれたこの部分は、マタイによる福音書の第7章にあり、山上の説教として知られている第5章から第7章までイエス様が弟子たち、イエスに着いていく者達に説教した大きな説教シリーズの終わりにあります。 パリサイ人たちはその中にいました。イエス様の説教を聞くためにイエス様の後を追いましたが、それはイエス様から学び、教えに従うためではありませんでした。イエス様の行いと教えに対する彼ら自身が下した裁きを裏付けするためでした。 イエス様は徴税人や罪人と一緒に食事をしました。汚れたらい病者に触れ癒されました。安息日に癒されました。神殿のテーブルをひっくり返しました。そして罪の赦しを宣言されました! これらのイエス様の振る舞いにパリサイ人は腹を立てました。彼らはイエス様がなさったことを見て、彼が神のように振る舞い、神を冒とくしていると言いました(マタイ9:3)。彼らはイエスを訴える口実を見つけるために、イエス様が安息日に癒されるかをじっと見ていました(ルカ6:7)。彼らは、イエス様を訴えるために、安息日に治癒することが法にかなっているかどうかイエス様に質問しました。イエス様を罠にかけることを望んでいたのです。(マタイ12:10) これらのパリサイ人たちは、イエス様とその弟子たちを裁いていました。彼らがユダヤ教の法律の書に従っていないと指摘し、彼らの過ち探しを始めました。しかしパリサイ人は神様の王国と神様の義のためにこれらすべてを指摘しているのではなく、告発と裁き自体のために、そして彼ら自身の義を押し進めるためにこれらを指摘していたのです。 イエス様はそのような状況の中で、「裁くな」と説きます。「裁くな」あなたがすでに自身の心の中で下した裁きを裏付けるためだけに、人々の過ちを探してはいけない。そのようにイエス様は彼らにおっしゃったのです。 ただイエス様が必ずしもこれらのパリサイ人に当ててはっきりと裁くなと言っていないことに気づきましたか?説明した状況を踏まえれば、裁くなというメッセージは恐らくパリサイ人に当てられたものだとかなり明確に理解できますが、それでもイエス様は5節で「偽善者よ」と言っただけで、パリサイ人を名指ししてはいないのです。 ここに私たち一人一人の内にある人間性がよく現れていると私は思います。他人を判断し、裁こうとしている人に対して私たちは自分に課す基準とは違う基準や測りを他人にかけます。そのような二重基準、ダブルスタンダードは私たち全員が行ってしまうことです。決してそれを認めたくないかもしれませんが、自身の発言や行動において私たちはしばしばパリサイ人のような振る舞いをするのです。 聖書箇所をゆっくりと、一節ずつ読んでみましょうか。そうしつつ、イエス様が警告されたこれらのことを私たちがどれほど迅速に、且つたやすく行うか考えてみてください。私たちは、特に私たちが好いていない人々に対していとも簡単にそれらの人を測りにかけ、裁きます。そして、その裁きを裏付けする目的で、同じように迅速に行動を起こし、私たちが自分たちに対して用いるのとは大きく異なる測りでその人々を裁きます。 更には自分自身の中にある巨大でひどいつまづきの障害物に目を向けようとせず、そのくせに他人に対しては細部をつついて、それを非常に大きい問題のように取り扱うのです。 自分の人生を振り返ると、赦すことがなかなかできずにいた相手に対し、1節から5節でイエス様がしてはいけない、何故するのかと言われていることを自身がしていたのが見えます。 好きではない人々について、私の目は、私が欠点として裁いたことにすぐ焦点をあて、そして私の耳は私が下した裁きを確認する情報だけに耳を傾けようとしました。私はその人について私が下した判断、裁きは完全に正しいと確信し、固い心と確固たる信念を持ちました。私は自分の目の中にある大きな丸太を見ようとはせず、その人達の中にあるちりを見ることにあまりにも熱心だったのです。 ダビデ王は、自分が正しいと盲目的に信じて、身勝手である私たち人間についてよく知っていました。今日の告白の祈りの中で田淵先生が読まれたように、ダビデ王は私たちの目の前には常に罪、悪があることを知っていました(詩篇51:3)。なぜなら、今日の箇所から学べるように私たちはすぐに人を裁き、不当に判断する生き物だからです。 私たちは自分には用いない測りを使い他人を裁きます。自分たちが認識しているよりもはるかに頻繁にそうしています。相手の目にあるちりは見やすくても、自分の目にある丸太を見るのに必要な気づきを実践していないのです。さらに悪いことに、自分の目から突き出ている丸太を探す作業にかかる前に、隣人の目のちりについて何かをしたい、または少なくとも何かをしようとしていることがよくあります。 私は私自身が裁かないから、裁かない方法を知っているからこのトピックについて説教をしているのではありません。むしろ裁かないということに苦労していると告白します。私は人を裁いたことが多くあるだけでなく、今でもそうしている自分に時々気づきます。私は、私が判断を下し、裁いた人々の過ちを積極的に探したことがあります。私は他人の目のちりに非常に熱心に焦点を合わせ、自分の目の中の巨大な丸太を完全に見逃したことがあります。 ですのでこの聖書箇所は私にとって、自己規律への気づきと招きの言葉となっています。自分の言動に対する気づき、自身の批判的な、裁いてしまう性質に気づくこと、これらのことを私たちは意図的に行う必要があります。真に霊的な訓練と言えるでしょう。なぜなら、私たちの批判的な性質、検閲をし、裁く傾向、他人の悪いところを追求する熱意は私たち自身にある人間的な部分で、それをしないには気づき、自己抑制、鍛錬が必要だからです。 私たちは、自分自身を見ようとするずっと前に、他人の罪や過ちを見て、それについて話し、行動したいと願う生き物です。 ただ、最後に5節が言っていることを考えるのも大事だと思います。傷つけたり、罪を犯したり、間違った他人の言葉、行動、ふるまいに対して言動、行動することが決して許されないわけではありません。それらをすることは、神様が私たちに呼びかけられる正義、公義を果たすために大切なことです。しかしこの一節は、私たちが他の人の誤った行いを見ようとする前に、まず最初に自分自身を見て、最初に自分自身の内面を深く見つめ、自分自身のうちに傷のついた道があるか、ないかという探り(詩篇139:23-24)を行うという訓練をしてみましょうと呼びかけているのではないでしょうか。 私たち全員が、他人の過ちを見つけるために裁いたりしないように自身を律し、人と話す前に自分の内面を見つめるということを実践すれば、お互いにシェアするフィードバックや懸念を裁くのではなく、真剣に受け止めることができるようになるのではないでしょうか。このクリスチャンコミュニティの一員として、お互いを信頼し、誠意を持ったコミュニケーションの中から出てくる洞察を真剣に受け止めるのであれば、お互いに耳を傾け、自分の目の中にある丸太、教会の中にある丸太を見つめることができるのではないでしょうか。 過去に、私のメンター、家族、そして親友は、私自身は見えていないけれども、自身や他の人を傷つけている私の罪や欠点について指摘してきました。 「かつては盲目だったが、今は見える」という賛美歌「アメイジング・グレイス」で歌われていることを私は個人的に体験しました。以前、私はうわさ話をしてしまう傾向がありました。また私は鬱状態に陥ると自分の惨めさにだけ注意が行き、それ故に他人への思いやりを示せない傾向がありました。神様は人々を通じてこれらのことを私に指摘されました。もちろん心が痛みました。けれども最終的にこのような指摘をしてもらったことにとても感謝しています。 なぜなら、これらのことは私が自分自身を裁かれることを望まないのにも関わらず、私が他人を裁いているというところを示してくれたからです。自分の中にある暗闇、罪、悪と向き合う機会となりました。20代前半に自分の中にあるうわさ話をする傾向に直面し、人を見る代わりに自分自身を見つめた時、自分自身の不安を隠すために、他の人やその行動を批判していることに気づきました。 自分自身に自信が持てず、特に面白いわけでもなく、好感を持たれる人間でもないので、好かれるためには何か別のことが必要だと感じていたのです。それが他人の話をすることであり、それにより自分が楽しく、面白い話し相手であると見せようとしていたのです。 このことは自尊心が低い、不安な自分が存在しているという事実と直面する機会となりました。 そのことに気づいた時、神様のもとに行き、そのことを告白し明らかにし、傷つけた人たちに謝罪しました。その経験を通し、私は神様と人の両方からとても多くの恵みを受けました。しかしながらそれで誘惑から完全に断たれたという意味ではありません。 自分自身、自己認識と気づき、その中でゴシップをしないという決意を確固に持ち、実践しなければ、ゴシップをすることへの誘惑は常にそこにあるものです。 先ほど申し上げたように、私たちは裁くことにより分裂と敬遠を簡単に選んでしまえる時代に生きています。自分達とは異なる人々を裁かないようにするのは簡単なことではありません。自分たちと違う人とは関わらないようにする、自分達に取って心地よい、チャレンジのない快適な人間関係の中に留まることはあまりにたやすいことです。 けれども今朝、そして今週を通して、今日の聖句を通し、神様がどのように語りかけておられるかを考えてみましょう。自分の中で誰か裁いている人はいませんか?あるいは意識的に過ちを見つけ、責めずにはいられない誰かがいませんか?もしそのような人が思い浮かぶなら、自己認識、気づき、自己抑制の霊的訓練を実践することを勧めたいと思います。他の人に批判の目を向ける前に自分自身を見て、心の奥深くを見て、自分の態度や行動を最初に考えてみましょう。 このようなことができるようになるには神様の助けが必要です。 イエス様がご自身を裁いた人々とどのようにつながっておられたかを思い出してください。すべての批判に対して、イエス様は決して批判を浴びせた人を拒絶しなかったことを思い出してください。彼らの質問、批判、反撃をどのように受け止めたかを思い出してください。彼らに同意はしませんでした。そして常に彼らの二重基準を警鐘をならし続けました。イエス様はそれでも彼らを愛していました。イエス様はそれでもなお彼らのために十字架にかかられたのです。 イエス様は裁きたがり、批判的な私たちのために十字架にかかられたのです。これは、裁くということが、裁きたがるという私たち自身が十字架にかけられなければならなかった罪であることを意味します。裁くという私たちにある性質を私たちは真摯に受け止めなければいけません。 しかし、友人である皆さん、良い知らせは、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」 (ローマ5:20) という御言葉にあります。私たちの神様は驚くべき恵みの神であり、赦しと決して変わることのない愛に満ちておられます。ですからそのことを心に留めて、霊的訓練の旅を続けてください。私たち牧師は皆さんがどのように霊的な旅を続けられているか、皆さんの様子を知りたいと願っています。皆さんが霊的訓練の旅を続けられる中で、私たちの主イエス・キリストの恵み、私たちの神様の愛、そして聖霊の交わりが皆さんと共にあることを祈ります。アーメン。 詩編66:19-20
しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。 ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。 ピリピ人への手紙4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 テサロニケ人への手紙 第一5:7 絶えず祈りなさい。 ―――― 本日の説教は、”Standing in the Need of Prayer” (祈る必要)についてです。そして、オリビアさん、賛美歌を歌ってくださりありがとうございました。 KUCのメンバーの中でも、今月に入って断食をスタートした人もいます。断食は祈りに捧げる時間を増やす良い方法だと思います。 祈りにも沢山の種類があります。祈りは、単に手に入れたいものを神様に願うだけではありません。信仰と信頼の上に神との関係性を築く作業でもあります。あなたが心に抱いている事は、神はあなたが気付き、願うずっと前から分かっているのです。しかし、神はその思いをあなたから聞きたいと思っているのです。道しるべを探しているのか、それとも感謝を伝えるのか、どちらにせよ、祈りはあなたを神に近づけさせます。 今月KUCでは霊的な訓練について話をしています。霊的な訓練とは、霊的成長を促す聖書に見られる実践です。日々の祈りは、霊的な訓練です。霊的な訓練とは、精神を発達させ、成長させ、魂の質を強くする作業です。そして、人の内面を広げるものです。それらは全て私たちを神に近づけてくれます。 霊的な訓練は、一人で行うものもあれば、他のクリスチャンの方々と行うものもあります。祈りを例に挙げると、一人で行う事もあれば、他の人と祈る事もあります。他に霊的な訓練とは、*聖書を読むこと。*メディテーション(瞑想)。*日記をつける。*断食をする。*シンプルに暮らす。*礼拝と祈り。などです。 テモテへの手紙 第一4:7に「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」という言葉があります。聖霊の助けがなければ、出来ません。霊的な訓練をしているから「敬虔」という事にはなりません。それはパリサイ人の大きな誤りでした。彼らは、こういった事をすることが「敬虔」であると感じていました。それらは、「敬虔さ」への手段であり、それらの訓練は、聖霊があなたの内で働くための入口を提供しているのです。 祈りは重要な霊的訓練です。 マザーテレサは、ある興味深い事を言っています。1981年に彼女が東京を訪れた際、私は彼女に出会い、握手をさせて頂く機会をもらいました。彼女は、人々に伝えたいメッセージとして、何を覚えておいて欲しいかと聞かれると、「祈るように伝えてください」と言っていたのを思い出します。 とてもシンプルです。祈る。 ルカの福音書11:1-4にあるように、弟子たちがイエスに「私たちにも祈りを教えてください」と言う場面があります。イエスの弟子となった時に、彼らは祈りがイエスにとってどんな意味があるのかを見たのです。祈りはイエスにとって力でした。 イエスを見て、弟子たちは祈る事は、神に物乞いをしているのではないと理解するのです。イエスと生活を共にすればするほど、イエスにとっての祈りを理解しなければ、イエスの言葉を理解できないと思ったのです。 祈りは私たちを神と結びつけ、人が生み出す事が出来る最も強力なエネルギーの形です。 私の息子が読んだ本日の聖書朗読箇所である、テサロニケ人への手紙 第一5:17には、「絶えず祈りなさい」という使徒パウロの言葉があります。常に祈るのです。 一部の学者によると、使徒パウロのテサロニケ人への最初の手紙は新約聖書(西暦52年)で最古の書物である可能性があり、「止む事なく祈る」がその書物に含まれています。止む事なく祈る。どうすればそれが可能でしょうか? 私がbreath prayer (一息の祈り)の事を話しているのを聞いた事がある人もいると思います。私は様々な祈り方が好きですが、breath prayer はその中でもお気に入りです。一息で祈る方法です。息を吸って吐く。神に伝えたい事を数単語で伝えるのです。そして息をしながら何度も何度も静かに繰り返す。例えば、「イエスよ、導いてください」「神よ力をください」「神よ私を支えてください」などの一息で言えるくらいのとても短い祈りです。 Breath prayer は場所や時を選ばず、いつでも祈る事が出来ます。電車の中でも、家のドアを開ける瞬間でも、料理をしている時、歯を磨いている時、病院の中、歯医者さんで治療してもらっている時でも祈れます。 今、少し時間をとって、breath prayer でご自身が使いたい祈りを考えてみてください。言葉が思い浮かばない場合は、賛美歌から拝借するのも良いです「アメイジンググレイス、私を救ってください」「イエス、私の友よ」、または私が先ほど出した例で「イエスよ、導いてください」「聖霊様、私の手を引いてください」など。 今から息を吸って、吐いてみましょう。吸ったり吐いたりして最低3回は祈りましょう。3という数は三位一体なので好きですが、もちろん5回、6回、10回お祈りしてもらって構いません。 ぜひ同じ祈りを1週間またはそれ以上、色々な場所、時間、どこでも祈って頂きたいと思います。起床したとき、外出するとき、そして就寝するとき。祈りに囲まれて生活をしてください。 一日中神がそばにいる事を感じながら過ごす事が出来ます。 私が好きなもう一つの祈りのスタイルは、観想的祈り又は、センタリング・プレイヤーと呼ばれるものです。目を閉じて、リラックスして静かに座り、神の前に愛と信仰に浸ってください。そして一言選びます。あなたの内、本当の気持ちを表す一言です。神のご臨在と神の行動があなたと共にあります。神が神であることを知るのです。(詩編46:10) KUC は祈りの教会です。Zoomのイベントの中でも祈りますし、毎週火曜日に送っているニュースレターの中に祈りが必要な人、場所を掲載しています。毎週土曜日午前11時から行われているzoomのプレイヤーミーティングもあります。祈りが必要な方々のために祈ります。世界の希望のために祈ります。感謝を伝えるためにも祈ります。ですから、ぜひ私たちの祈りにご参加ください。 祈りとは、神のご臨在に生きるという事です。これが、弟子たちがイエスから学びたかった事です。祈り方を学び、神のご臨在をいつも感じるという事です。(ルカの福音書11:11) 神のご臨在を認識し、それを受け入れる事が出来た時、パウロの「常に祈りなさい」の意味が分かってくるのです。 スピリチュアル・ライフについて39冊の本を書いたオランダの神学者、ヘンリ・ナウエンは、かつて「祈りの訓練は、神のための空間を創造する意図的で、集中し、定期的な努力だ」と言っています。 神のための空間の創造。これが私たちが祈りで行う事です。 私たちは、場所、時間、方法を選ばず祈る事が出来ます。神のご臨在のために行う事が祈りとなります。 祈りを通して何も聞こえなければ?何も変わらなければどうすれば良いのでしょうか?変化が無いという事は信仰が十分でないという事でしょうか?神は静かにそこにいらっしゃるという事なのです。時に私たちは静かに佇む神の声を聞かなければいけません。 神からの声が聞こえなかったとしても、神と会話をすることは可能です。例えば祈りの中で、「どうしてこういった事が私に起こっているのでしょうか?神よ、あなたは今どこにいらっしゃるのですか?私の事を忘れたのですか?どうしてこれに対して何もしてくださらないのですか!」神はあなたの痛みの言葉、時に怒りの言葉を受け止めます。祈りである嘆きの詩編を読んでください。神のご臨在は、私たちが知っているかどうかに関わらず、私たちの生活の中で動いています。神はそこに存在しているのです。 祈りは私たちが自分の人生について真実を語り始める場所です。祈りの中で、私たちは自分自身の破綻、不安、痛み、恐れ、恥を認める事ができます。 祈りは私たちがどうするかを学び始めるところです。神に告白をすると、他人にも正直になりやすくなります。祈る時は神と話をすれば良いのです。 私たちの”Sermon and Prayer Class (説教と祈りのクラス)“ で、私たちは、たくさんの祈りの例、どのように神が私たちの人生に触れてくださるかを話します。祈りを通して神は私たちや他の人達を変えていきます。本日午前10時半からのKwame が行うクラスにぜひご参加ください。祈りについて話をします。 ダンス(踊り)も祈りの1つの形です。以前、宮谷めぐみさんが率いていたKUCダンスチームもありました。メーガン・マーレットさんが礼拝の中でダンスを見せてくれました。コロナが収束したらまた再開しましょう。 讃美歌をKUCで歌う時、人によっては、手を上にあげたり、時に横に少し揺らしたりする事がありますね。これも祈りの形です。私たちはクリスチャンですが、一部のユダヤ人は「揺れる」を意味するイディッシュ語からきている「シュクリング」と呼ばれる行為をします。通常は前後に揺れますが、左右にも揺れる事を意味します。 プレイヤー・ウォーキング(祈りの散歩)を行うのも祈りの形です。静かにリトリートを行うのも別の祈りの形です。本当にたくさんの祈りの形があり、KUCはとても多様性、伝統にあふれた教会であり、お互いに学ぶ事が出来ます。 私が説教している横にあるこの椅子を見てください。どうしてこの椅子がここにあるのか不思議に感じていた方もいらっしゃるでしょう。この説教の締めくくりの話をするために、私がここに置いたのです。 病院の牧師が亡くなりかけている男性に会いにきて、彼のベッドのすぐ近くに誰も座ってない椅子があることに気づきました。彼はその男性に椅子について尋ねました。男性は、「椅子についてお話しましょう」と言って、「何年も前、祈る事がとても困難になった時、その問題を牧師先生に話しました。牧師先生は、ひざまづいたり、綺麗な言葉で話す必要はないと言いました。先生は、ただ座って、自分の前に空の椅子を置いて、友人と話すのと同じような感じで神と話すように言ってくれました。それ以来、私はそれを続けているのです」と言いました。 数日後にその男性は静かにベッドで息を引き取りました。牧師先生は、男性の娘に会いました。その娘は、「父親の手は、誰も座っていない椅子の上に置いてあったのです。不思議ではないですか?」と言いました。牧師は、「不思議な事ではないよ」と伝え、「あなたのお父さんは、彼の親友に触れていたんだよ」と言いました。 これが祈りなのです。神に手を伸ばして触れるのです。 ミッション・モーメントのお話がアケモト・トモヨ牧師からあります。彼女は元KUCのメンバーであり、貧困に苦しむ人々への愛を持ち、自由メソジスト教会の伝統に基づいて定められているシカゴのホームレスと協力して、KUCグローバルミッション・ミニストリーがサポートする団体の1つであるオリーブ・ブランチ・ミッションに参加しています。 祈りは私たちを霊的な訓練に導き、他人への思いやりと他人を大切にする気持ちをはぐくみます。トモヨ先生は祈りによって人に奉仕をするミニストリーに導かれました。ミッションモーメントを聞きましょう。 私はあるやり方で聖書を読むことがあって、数年前もそのやり方で読んでいたのですが、それは新しく出た訳や版の聖書を次のように読むのです。
1.あたかも自分がその場にいるように 2.その話を初めて知るかのように 3.ゆっくりと時間をかけて 私の好きな箇所であり、今日の聖書箇所でもあるマタイによる福音書17章をそのとき読んでいて、弟子たちが子どもの病気を治すことができなかったところで、はたと止まりました。弟子たちは、私たちが知っている章では病気を治す力を持っているのに、ここでは突然その力を失くしているようでした。聖書でほかにも好きな箇所がありますが、ここは私の好きな場面です。人間らしさと人の弱さが際立って感じられるからです。それが私自身にも関係しているような気がするからです。そこで何が起こったのでしょうか。以前には弟子たちは病気を治し、悪霊を追い出し福音を述べ伝えました。まさにイエスがそうするようにと教えて送り出したとおりのことをしました。イエスがそうするように言われたのですから、弟子たちは当然できますよね。イエスはマタイ 10:7-8 で弟子たちに言いました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」 ところが今になって弟子たちは突然その力がなくなってしまいました。マタイ17:17では弟子たちが病気を治すべきだったのに、できなかったことに対してイエスがいらいらしているようにさえ見えます。「『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。』」こういう状況になったとき、私たちもそうするべきである正しいことを弟子たちはしました。質問したのです。マタイ19節「『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』」 私はこの箇所を読むのに新鮮な気持ちで、またその場に居合わせているかのように、ゆっくりと時間をかけて、そして注意深く耳を澄ましていました。20節と21節(詳訳聖書)でイエスの言葉を読み、イエスが話されるのを耳で聞きました。「『信仰が薄いからだ。〔神の力を信じようとせず信頼していないからだ。〕はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても〔それが神のご意志であるなら〕、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出ていかない。』 私は聖書の中に入ってイエスとともにその場にいたので、まるでイエスに向かって言うかのように大声で叫ぶようにして言いました。「でもあなたはそのとき祈りと断食をしませんでした。ただ悪霊に出て行けと命じただけではないですか。」 今そのときのことを思い出して笑ってしまいますが、私はその場面に入り込んでしまっていたので素直に正直な反応をしました。すぐその場で祈りのように繰り返して神様に尋ねました。「祈りと断食をしなかったのに。何が起こったのですか。」 ちょっと言っておきますが、こういうことが私に頻繁に起こっていると思われるかもしれませんが、実際はほとんど起こりません。ただ起こったときにはその瞬間のことをいつも人に話しています。たいていはこういった瞬間の隙間を歩いているようなものです。実際私はイエスの答を聞いたような気がしたのです。 「断食と祈りはしていたのだ。ただ病気を治したり悪霊を追い出したりする瞬間にするのではなく、いつもしていた。」とイエスは言われたようでした。これがまさにその瞬間でした。私は理解しました。イエスがなぜ「習慣のように」出かけて行って祈りの時間を持つのか、これがその理由だとイエスが言っておられるように感じました。私たちが祈りと断食をするべき理由はここにあります。何かを得るためのその瞬間のためにするものではなく、神様に近づき、神様につながり、時がやってきたときにあなたに準備が整っているようにするためのものなのです。 そこで、本日の私の言いたいことはこのことです。必要なときに準備が整っているようにするにはどうすればいいのでしょうか。消防署でいつも待機している消防士のようにするのです。消防士は訓練を積み、演習を行い、運動を怠らず、事態に備えています。出動すべき時が来ると消防車はすぐ出発でき、消防士は強健で自分がなすべきことをする準備ができています。 わかりました、ではすぐに祈りましょう、断食しましょう。というのは日本人的でしょうか。それはさておき、神戸ユニオン教会で祈りと断食をすることを提案したいと思います。2021年を成長の年としましょう。より高い霊的成長を目指しましょう。ケリーと私、ほかに数人が明日1月11日から祈りと断食を始めます。1月31日日曜日まで21日間です。人によっては21日間毎日昼食を抜くとか、ダニエル断食をするとか、または21日間のうちの3日間だけ断食するなどがあります。KUCのウエブサイトに情報を載せています。また今日のサンデースクールでも話し合いたいと思っています。どんな人にも各人に適切な運動方法があるように、祈りと断食もそれぞれの人に適したやり方があります。1日だけでもかまいません。とにかくやってみましょう。 実を言うと、ケリーと私は今までの信仰生活の中で断食をしたことはほとんどありませんでした。実際15年前まではまったくありませんでした。最初の断食らしい断食は娘と一緒に実施したレモネード断食で10日間でした。手短に話すと、楽しむための気まぐれな断食だったのに、そこで重要な何かを感じ取ったのです。自分は肉体を持っていますが、実際はもっと大きな霊だとわかったのです。以前はそのことに気づかず、自分の霊を意識したり成長させようとしたりすることは、ほとんどありませんでした。 私たちのロングビーチの教会では毎年1月にダニエル断食を行っています。そこでケリーと私は断食を何度かしましたが、とてもうまくいきました。 そして2年前にはボーンブロス(骨から出汁を取ったスープ)だけの断食をすることに決めました。これも一種の断食と言えるだろうと思ったのですが、このスープが私たちには大成功でした。断食は霊的成長のためにするものですが、正直に言うと体重も減りブロスは体にもよいのです。そして私たちは二人ともこの方法で21日間断食をしようと思いました。その体験はすばらしいものでした。苦しい最初の4日間の後、私たちの肉体は順応し、気分がよくなり、ますます爽快になっていきました。通常の日課は変えることなく、仕事に行き運動をしました。そして神様に集中し、神様が私たちのために何を用意しておられるのかを考えました。あいた時間は祈りと、とりわけ神様の声に耳をすますことに費やしました。私たちが二人とも驚いたことは、どれほど得るものが大きかったかということです。私は14日間で終わりましたが、ケリーは21日間この断食を続けました。 この体験があるからこそ、みなさんにぜひとも断食をすることを提案したいのです。 断食をする聖書的な理由はたくさんありますが、今回みなさんにおすすめしたいのは神様に近づくために断食を行うということです。神様にこう言うのです。「神様、私たちには食べ物と水が必要です。しかしそれよりももっとあなたを必要としています。この断食によって、私の中の優先事項である霊的世界を見せてください。この犠牲、この鍛錬、この行いによってあなたが私たちに語りかけ、物事を示してくださいますように。何かを得ることよりも、あなたにもっと近づけるよう私たちを助けてください。」 なぜ聖書には「断食するときには」(マタイ6章)とあるのか、また使徒言行録の中で、もし断食をするならば、ではなく「断食をするとき」と書いてあるのかがわかるように私たちを助けてください。「祈るときには」「断食をするときには」とありますが、イエスは私たちが行うべきこの二つのことを教えてくださいました。しかし現在の教会では多くの人が断食の方を忘れてしまいました。 さあ、それでは私たちがやるべきことを提案してみましょう。まず聖書を開いて次の3つのことを探してください。 ・断食の箇所 ・断食のやり方 ・断食についてイエスが何と言われ何をなさったか 多くの場面で断食について書かれているのがわかりますか。何かのテーマや問題について調べたい時、次のような方法をおすすめします。聖書は何と言っていますか。断食のやり方はどのようなものでイエスは何と言われ、何をなさいましたか。今日の聖書箇所の二つをよく見てみましょう。幸運なことに今はこれらの答えを探すのが簡単な時代になりました。次のウエブサイトを見てください。 https://biblehub.com または https://www.biblegateway.com blueletterbible.org (以前亜希子牧師が説教の中で紹介していました) https://bible.knowing-jesus.com/phrases/Prayer-and-Fasting www.openbible.info/topics/prayer_and_fasting KUCのウエブサイトの下の方に毎週の説教が載っています。そこに入れば説教を読み、コピー&ペーストすることができ、上記のウェブリンクを見ることができます。そこで第一のステップは、聖書が何を語っているか、特にイエスが何を言われているのかを知ることです。要約して言えば私たちがすべきことです。祈りと断食は共にあるということです。 二番目にはどんな方法でということです。聖書の文章や意味や要点だけでなく模範もほしいと思います。断食の模範とはどんなものでしょうか。グーグルで検索すればすぐにいくつもの方法が見つかるので、調べてみてください。しかし私たちは今からもっと簡単な方法を使います。聖書の中には神を信じる人々の断食の方法と理由がいくつも書かれていますが、それは宿題に置いておきます。今からただ一つのことに集中してほしいのです。それはイエスが荒野でどのように断食をしたのかを見てほしいのです。 イエスの荒野における40日間の出来事について、私が知っているのはこういうものです。イエスは食べ物を持たずに荒野へ行きました。断食をしました。そして悪魔の誘惑に遭いました。すばらしい話ですが、ここで私たちのために大事な点と聖書の中の断食の方法について話します。 まずルカによる福音書3章と4章でイエスは、ヨハネ(と神)によって洗礼を受け、聖霊が降ってきて、その後断食を始めました。そしてルカ4章が以下の通りです。 「さて、イエスは聖霊に満ちて〔また聖霊と深く交わって〕、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」 イエスは聖霊とともにいました。断食をして、悪魔に立ち向かった後、14節でこう言っています。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。」ということから、イエスは断食の最初に聖霊に満ちており、終わりには聖霊の力に満ちていました。考えてみてください。私たちは聖霊とともに生きていますが、聖霊の力なしに聖霊を自分の中に持つことができますか。聖霊に力を与えてもらうこと。これが私たちの望むことです。 では聖書の箇所を読んでみましょう。断食の方法、特にイエスが何を私たちに示しておられるのかを探してください。そして私たちを導いてくれるよう聖霊に頼んでください。 私たちは聖霊が導いてくれる個人的な経験を探し、待ち望み、聖霊の権利としての神秘の大部分を素直に認めます。自分にできることを学び、調べますが、聖霊については大部分が神秘であることも謙虚に認めます。私たちは聖霊を自分のものとし、個人的なものとするために自分のもとに連れて来る必要があります。二番目のステップで重要なことは、聖霊にどうすればいいのか聞くことです。具体的に、そして「今、どのように」すればいいのかを聞いてください。きっとささやき声が聞こることでしょう。 最後に三番目のステップです。実践の計画を立てることです。すでに聖書を調べ、聖霊にたずねました。聞いたり読んだりしたことを実行に移してください。 さあ、それでは断食を実行しましょう。 今日のサンデースクールで何人かが断食の経験を語ってくれます。私もKUCのウエブサイトに載せますので、ウエブサイトの画面右上のMOREのタブの中を見てください。さらに朝の励ましの会を毎週火曜日と金曜日の午前7:00から7:30まで開催します。ZOOMで祈りと分かち合いの時間を持ちましょう。21日間で毎週火・金の6回あります。 では祈りましょう。 神様、私たちはこれから21日間祈りと断食を行います。どうぞ祝福してください。その断食が1日でも3日でも、また私のように14日間でもケリーのように21日間でも、私たちの一人ひとりがそれぞれに適した断食の方法を見つけられますように。あなたに近づくことができますよう助けてください。イエスの御名によって。アーメン クリスマス、そして新年おめでとうございます。今日の礼拝の最初に、芦屋キリスト教会から申し上げたように、どうぞ2021年も、それがどんなに困難で問題の多かった昨年のなかでと同じように神様が日々の私たちの歩みを導いてくださいますように。
クリスマスの物語、特にマタイ福音書に記されたものは、一年最初の日曜日の教会の礼拝で読まれるのにとてもふさわしいものです。というのもそれは、私たちの救い主、主として新たに生まれられたイエスのもとへと導く星のお話だからです。そのお話が始まる前に、三人の賢者(博士)たちはその星に導かれながら登場します。しかし実際は、彼らは星を見失ってエルサレムにやってきたのです。そこでヘロデ王に面会したことは、とても大きな間違いで、そのことがこの物語の後で引き起こされるとても悲惨な出来事につながりますが、その部分は教会や学校のページェント(降誕劇)ではふつうはカットされがちです。それは王によるベツレヘム周辺の幼い男児すべての虐殺で、その母親たちは、預言者エレミヤの言葉によると「慰められるのを慰めてもらおうともしない」のでした(マタイ2:18 エレミヤ 31:15) 三人の博士がエルサレムにやってきた理由は、ユダヤに新しく生まれた王を見つけるためでした。しかし、もし彼らが心の底から星に従っていたなら、その星がどこに幼い王が誕生したのかを告げるはずでした。しかし、何らかの理由で星は彼らに見えなくなってしまったのです。みなさんだったら、いよいよゴール間近というところで、今まで導いてくれていた大切な印を見失ったとしたらどうしますか? この三人の人たちはよく「三人の賢者」と呼ばれますし、そのように彼らは、ゴール目前でその星を見失ったとしてもその知恵と知己をつかって行くべきところを見つけられると思ったのでした。彼らは新しく生まれる王を求めてきたのですが~、それはユダヤ王国の宮殿に違いないと考えました。 賢者たちの話を聞いて、ヘロデは大変に驚き、非常に恐れました。彼らは自分の王位にとってかわる新しい王の誕生について話したからです。彼の政治的な権力と栄光はまもなく終わる、そんなことは決して現実として受け入れられないのです。現代でも同じようなことが起こります。強大な権力を持つ人物は常に、自分の敵対者に対してとても嫉妬深く、不安を感じるのです。ヘロデは訪問者たちをベツレヘムに送り出すときに、帰りがけに「新しく生まれた王」が生まれた正確な場所を報告するように確認したのですが、彼らは二度とヘロデの前に現れませんでした。ヘロデは怒り狂ってベツレヘム周辺の男児をすべて殺し、自分の政治的立場を安全に保とうとしたのです。 いつもマタイ福音書のクリスマス物語を読むたびに、なぜ彼らが「賢者」と呼ばれるのか考えてしまいます。むしろ彼らは自分たちの旅の目的をヘロデに話してしまうような不注意さがあったのです。もしヘロデに会わなければ、男児たちは殺されなかったのです。そう、彼らは多くの知恵を持ち賢かったのでしょうが、彼らには何かが足りなかったのです。彼らは確かに知恵の人でした、しかし決して信仰の人、祈りの人、神を信じる人ではなかったのです。「この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」(コリント113:19)と使徒パウロは訴えます。 彼らは導きの星を見失ったとしても、決してあわてることなく、これからゆくべき道を自分たちの知恵を信頼して見つけ出したのです。しかし、それは神様が準備された道ではなかったのです。もし彼らが本当に神様に導かれていたとしたら、そしてその導きの星を見失ったときに、彼らがまずなすべきことは自分たちの知恵を使うことではなく、祈ること、求めること、何をすべきかについて神様からの答えを待つべきでした。しかし彼らは祈りの人ではなかったのです。彼らは待てなかった、そしてなんのためらいもなくヘロデの所に行ってしまったのです。とても大きな過ちを彼らは冒しました。 この物語を一年の最初の日曜日の礼拝で読むことはとても意味深く思います。この物語は私たちの毎日の生活の基本姿勢、そのあり方を示してくれます。祈りから始めましょう! そう感じるなら祈りましょう。お祈りをすることのもっとも根本的で「実用的」なメリットはなんだと思いますか。今すぐにやらなければと思っている私たちの行動をいったん止めることです。ちょっと待って! 今すぐにそれをしなければならないのでしょうか? 祈りは、私たちの日常の行動の動きを、神様が霊的に中断してくださることです、それによってイエスの視点というまったく異なったところから私たちの状況を見直すことができるのです。もしみなさんが、それをしなければ、それは大事だ、今しておかなければとより強く思う時にこそ、まず何をすべきかを神様に問いかけるのです。イエスが「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と語られたように。 どうぞ皆さんの毎日のなかで、導きの星に従って過ごされることをおすすめしますが、祈りながらその星を見つめ続けてください。私たちは「しるし」だけに従っているのではなく、私たちの主イエス・キリストに導かれているのですから。 新年おめでとうございます。そしてこの2021年が、実り豊かで祝福されたものでありますように。 祈りましょう。 神様、どうぞあなたが私たちの肉体的な目によってではなく、私たちの魂と心のうちに確かめられる聖霊によって、それらしいゴールではなく、私たちの人生の真のゴールへの導き手となってください。 私たちと、そしてそれぞれの心のうちに救い主の誕生を待ち望んでいる人々とともにいてください。私たちは真のクリスマスの人であれるように、祝福してください。 イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン 詩と霊想 「光を追って」 神戸ユニオン教会 2021年1月3日 マタイの福音書2章1−12節 説教者:Claudia Genung牧師 あらゆる種類の電灯が灯るずっと前に、夜空に光るものがあり、人々はその動きのパターンを認識し始めて、一年を通して、時に応じて星の位置を予測していました。 人々は星との位置関係を観察して、彼らの旅の方角を星から導くことを学びました。これは賢者達が行ったことです - 彼らはベツレヘムへと星に従いました。 田淵先生から聞いたように、賢者達はおそらく光に従うほど賢明でなかったのかもしれません。なぜなら彼らはヘロデ王の宮殿に回り道をしたのですから。本年度において、私たちは光を見失わないことを願っています。 今日はエピファニー日曜日(顕現日:東方の三博士による救い主イエスの顕現を記念する祝日)です。 私の義理の妹、アレクシスはギリシャ系アメリカ人で、ギリシャ正教会で育ちました。彼らは エピファニーを大いに祝います。私は東方正教会が行う習慣のいくつかに興味がありました。 セオパシー(エピファニーとも呼ばれる):神の顕現《神が目に見える姿で自らを現すこと》は、正教会の「光の祭典」であり、または単にタ フォタ(光)とも呼ばれています。 東方正教会は、この光の時節をクリスマスと同じくらい祝います。正教会では、創造のすべてが神聖な神の臨在によって照らし出される日なのです。西洋キリスト教のエピファニーの伝統は、子供イエスへの賢者の訪問にもっと焦点を当てています。ある国はそれを「三人の王の聖日」と呼び、その日の特別なケーキがあるのです。 エピファニーはクリスマスの12日後に当たり、本来は1月6日ですが、私達は1月6日に最も近い日曜日にエピファニーを祝います。 多くの国にとって、これは冬の暗い時期なので、光を思い出すのに良い時期なのでしょう。 2020年をなんとか生き抜いた人々にとって、まだ人生が暗闇の中にいると感じているかもしれません。 しかし、イエス・キリストの光が来ました。 この世に光を照らされた主イエスの誕生まで、世は暗闇の中にありました。預言者イザヤは、この聖句を書いたときに彼自身のエピファニーを経験したのです 「起きよ、輝け。まことに、あなたの光が来る。」 この新年を迎えるに当たって、キリストの光のイメージを保ち、あなたの人生を照らしてください。光はあなたに道を示します。 すべての人と共有される光。まだクリスチャンではない方は、あなたの人生でキリストの光を輝かせてください。 キリストがあなたの人生に入ってください、とシンプルに祈ることも大切です。 1月は、霊的鍛錬を主題として祈りと断食を含む説教をいたします。今日の説教の中で、私達が祈りをもって新年を始める方法を聞きました。祈る中で、あなたに道を示してくださるために、キリストの光を心に受け入れてください。 ヤン・リチャードソンの「光」という祈りと祝福である詩を読みたいと思います。私は、どのように光があなたの人生に入るのかをあなた自身が振り返ることを願っています。 (janrichardson.com) 「光」Jan Richardson 祝福された者、 光を灯す人 耐え難い時代に、 証言する人 耐え難きを耐え忍ぶことを 証人となる人、粘り強く すべてに実体がなく悲惨に見えても 祝福された者、 その人の中で 光が生きる、 その人の中で 明るさが燃える — あなたの心、 礼拝堂、 祭壇において、最も深い夜に見ることができるその火は あなたの中で輝く、 不思議な信仰、 不屈の希望、すべての壊れたものを照らす愛の中で。 |
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May 2024
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