<![CDATA[KUC - 日本語の説教]]>Tue, 21 May 2024 11:47:29 +0900Weebly<![CDATA[「ペンテコステ:聖霊降臨祭」|  使徒言行録 2:1-13  |  神戸ユニオン教会 | 2024年5月19日  |  説教者:Rev. Mark Bartsch]]>Fri, 17 May 2024 02:59:22 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-21-13-2024519-rev-mark-bartsch復活祭の日の説教では、その日が私達の霊的な誕生日だと言いました。賛美は、「主が生きているから、明日に向かっていける。主が生きているから、恐れは消える。主が未来を持っているから、人生は生きる価値がある。」と歌います。しかし今日は、神様は教会に聖霊の賜物を与えられた日です。復活祭が私達の霊的な誕生日なら、今日、聖霊降誕祭は教会の誕生日です。聖霊については聖書の最初のページから記されています。天地創造の物語は、未創造の世界を暗く、混沌とした「形がなく空虚」な場所として描いています。そして聖霊「ルアハ」、つまり神様の息や風は、この混沌の上を動き、そこから生命と秩序を創造しました。もしあなたが暗闇にいると感じたり、人生が混沌としていると感じたりするなら、恐れることはありません。神様の息があなたを満たし、包み、暗闇に秩序をもたらすように明確に求めてください。もしあなたが人生、生活を立て直したいのなら、がむしゃらに働くのではなく、もっと賢く立ち回り、あなたの人生に聖霊を受け入れてあなた自身を変革し、形作るように求めてください。時には、生活に秩序を定着させるために変化をもたらす必要がありますが、神様はあなたに神様の息を送り、豊かな命をもたらしてくださいます。聖書が聖霊と言うとき、それは神様の個人的な存在を意味します。神様のルアハには多くの側面がありますが、すべての側面に共通するのはエネルギーです。ペンテコステの前後の弟子達を見てください。ペンテコステ前のペテロは部屋に閉じこもり、師である主イエスを否定しましたが、聖霊がペテロを満たすと、歴史上最も深遠な説教の一つを行い、何千人もが主に導かれました。ペテロやステパノのように、神様のエネルギーに満ちた人々は命を代償にしても説教をしたのです。後にパウロとなったサウロをキリストへの道に導いたようにです。ピリポは神様のエネルギーに満ち、戦車のそばを走り、エチオピアの宦官を主に導きました。こうして、子供を持つことができない男が、その国の霊的な父親になるのです。神様の存在は、実り豊かで喜びに満ちたキリスト教生活を支えるエネルギーや活力です。これがなければ、私達は何もできません。

20年ほど前、私は疲れ果てて少し無気力になっていた時期がありました。教師として、学生が無気力だと感じるとき、悪いことが起こるのが分かっています。何年も前、私は燃え尽き症候群に陥り、しばらくして、年配の牧師であるメンターにそのことを話しました。彼は私に、「あなたは自分の力で何でもやろうとしてバッテリーを使い果たしているんだよ。だから燃え尽きたと感じたんだろう。あなたの霊的な発電装置に問題があるんだね。発電機なしで車をしばらく走らせることはできるけれど、最終的にバッテリーが切れて車は止まってしまう。発電機がバッテリーを充電するように、聖霊は私達の生活を充電するんですよ。」と忠告しました。私達は聖霊で満たされることを求めて祈りました。そして翌朝、私は生き帰ったような気分で目を覚ましたのを覚えています。あなたは聖霊に充電を求めたことがありますか。車の発電装置が働いていれば、あなたがどれだけ遠くまで運転していてもバッテリーは常に満タンになります。だからマルティン・ルターは「私は一日に一時間祈るが、忙しいときは二時間祈る。」と言いました。それは逆説的に聞こえますが、本当です。忙しいときこそ、私達は充電が必要です。
聖霊(ルアハ)は旧約聖書を通じて、また新約聖書にも現れます。主イエスが受胎したのは聖霊によるものです(ルカ1:35)。天使はマリアに「聖霊があなたに臨む」と言います。創造の時と同様に、聖霊は常に創造し、力を与える活動をしています。主イエスが復活後に弟子達に現れ、彼らに使命を託して言いました。「父が私を遣わされたように、私もあなた達を遣わす。」そして彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい。」と言いました。聖霊は教会に与えられますが、あなたは聖霊を自分の生活に迎え入れる必要があります。迎え入れますか。

聖霊を迎え入れたときに異言を話す人もいます。それは神様の言葉と呼ばれることもあります。私は異言を話したことはありません。異言の賜物を求めて祈りましたが、受けたことはありません。しかし、二、三回ほど異言を解釈する賜物を受けたことがあります。エマヌエル・メノナイト教会という教会に出席していたときのことです。ある男が礼拝の最中に立ち上がり、異言を話し始めました。私も思ったのですが、牧師は礼拝を中断し、誰か解釈の賜物を持っている人はいないか尋ねました。私はその異言を英語で聞きとりました。すると尊敬される長老が立ち上がり、異言の解釈として神様の愛の素晴らしいメッセージだと話し始めたのです。それは私が聞いたものとは違い、初めてのことで、私は臆病だったため長老をあえて訂正しませんでした。ステファニーが「どうしたの?」と聞いてきました。というのも、私は自分自身の臆病と、それを正しく解釈しなかった年長者に激しい怒りを覚えていたからです。それ以来、他の人が異言を話すのを聞いたとき、私はそれを解釈しました。無意味な異言を聞くこともありました。今では、無意味な異言であったなら、特に公な礼拝の場ではその人の異言を止めるように言います。
主イエスは彼らに息を吹きかけ、彼らは聖霊を受けましたが、主イエスは彼らにエルサレムで聖霊の降臨を待つように命じました。ペンテコステ以前の聖霊は、個人や御計画に働くように与えられましたが、万人に降り注がれることはありませんでした。ペンテコステ以降、聖職者、祭司や預言者だけでなく、聖霊は全ての信者に与えられました。

昔の西部劇では、保安官が町の人々を法治国家の道具として使役させることがありました。
ペンテコステでは、神様は全ての信者を代理人に任命し、各信者に御霊の実を結ぶように努力を呼び起こします。従順にも弟子達はエルサレムで待っていました。それはちょうど復活の50日後が初穂の祭りで、イスラエルの民を収穫で支えた神様のいつくしみに感謝し、祝う日でした。神様の恵みや聖霊は、あなたが神様の御心と道に背く生活しているときにはあなたに宿らないことを忘れないでください。そのことは、主イエスはマタイ5:23-24で言います。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているとき、兄弟(姉妹)が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物をそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。」主イエスはあなたがささげ物を献げるとき、あなたに豊かな祝福を与えたいのです。もし何か塞ぐものや不従順があるなら、豊な祝福を受けることはできません。私達は豊かな祝福を受ける教会でありたいと思います。私達が献金を献げようとして、兄弟姉妹に対して罪を犯していることに気づいたとき、主イエスは私達に実を神様に献げないように命じています。共同体として、私達が神様とひとつになり、互いにひとつになれば、驚くべきことが起こることを知っています。
弟子達は皆一つの場所に集まり、精神的にも霊的にも神様の御心と目的とひとつになっていました。そして突然(驚き)でした、彼らはその日がいつ来るか知らなかったのです。彼らはただ待つように言われただけでした。私達が主の再臨を待っているように、その日や時間はわかりません。それは夜の盗人のようにやってきます。しかし彼らは聖霊を感じました。私は人々が聖霊との出会いについて話すのを聞くのが好きです。私にとって聖霊は本当に寒いときに熱い風呂に飛び込むような感じで、皮膚に生きているようなチクチクする感覚があります。人それぞれ感じ方は違いますが、聖霊は常に常に常に神様に栄光を帰し、救い主イエスを表します。弟子達は祈りの姿勢で部屋に座っていたとき、彼らはそれぞれの頭の上に舌のような炎を見たのです。

最近、私はコンピュータの顔認識パスワードのために自分の顔を見ることが増えました。あるいはスカイプで自分を見て、「なんで誰も私の髪がこんなに乱れていると言ってくれなかったんだろう。」と思うことがあります。弟子達が生きていた時代を思い出してください。当時、鏡を持っていたのはごく一部の富裕層で、その鏡もあまり質が良くありませんでした。弟子達は自分の頭の上にある炎の舌を見ることができませんでした。(笑)「私の炎を見て、君の炎より大きいんだよ。」いや!聖霊に満たされた人はそんなことを言いません。それは肉体の声です。彼らはお互いの賜物を見て、その美しさに感嘆していたに違いありません。「ペテロ、君の炎を見てごらん。」 「いや、トマス、君の炎を見てごらん。」神様は素晴らしい!私達はお互いを愛の中で高め合い、善行を促し合う必要がある(ヘブライ10:24)と教えられています。弟子達がこの美しさを頭上で見たとき、普通なら危険だと思い、「火がついてるぞ、止まれ、地べたに寝て転がれ」と言うでしょう。しかし彼らは今、神様がなされたこと、しかも神様だけができることを祝っているのです。
弟子達がその炎を経験していると、彼らは異言を話し始めました。ここで重要なのは「聖霊が彼らに語らせたまま」です。私達は異言を強制することはできません。それは聖霊の賜物だからです。そしてその目的は神様の共同体を築くことです。その日、ペテロは最も驚くべき説教の一つを始めましたが、皆が自分の母国語で理解したのです。神様はこれらの群衆に愛と希望のメッセージを聞いてほしかったのです。あなたは知っていますか。聞いたことがありますか。主イエス・キリストが主であることを。主は、ご自分の罪のためではなく(ご自分には罪がなかったから)、あなたの罪のために十字架上で死ぬことを厭わなかったほど、あなたを愛しておられます。そして反キリストは死を祝ったのです。「勝った!神様の子を殺したぞ!」しかし神様は主イエスを蘇らせました。そして話はさらに良くなります。主の犠牲のおかげで、私達は死ぬことはなく、主のおかげで永遠の命を持つことができるのです。これを知っていますか。友達に伝えましたか。今日は、神様があなたを超強力にしたいのです。人間の能力や実力ではなく、主の霊によって、あなたの神様、主が言います。人間の能力や実力だけで生きるのをやめ、神様の息の風で充電され始めましょう(ゼカリヤ4:6)。

祈りましょう。
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<![CDATA[「わたしはぶどうの木」|  神戸ユニオン教会 |  2024年5月12日 |  ヨハネによる福音書 15:1-8  |  説教者:マーク・バーチ牧師]]>Sat, 11 May 2024 20:55:32 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2024512-151-8ヨハネによる福音書15章の「わたしはぶどうの木」というイエスの有名な言葉を見てみましょう。

これはマタイによる福音書13章の「種を蒔く人」のたとえより、わかりやすいものです。「種を蒔く人」のたとえでは、弟子たちが意味をたずね、イエスは説明しなければなりませんでした。
ヨハネ15章では、イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と、わかりやすいたとえで話されています。これはすぐ理解できます。イエスは続けて、神は農夫であると言われました。そして私たちに目的を果たし、実を結ぶよう命じています。これもすぐ理解できます。

高校生の時、私は農業関連のふたつのアルバイトをしていました。一つは深く考えたくないのですが養鶏場の仕事で、もう一つはぶどう農園でした。ですからぶどうの手入れについてはよく知っています。ぶどうを摘んだり、枝を剪定したり、畝と畝の間の土を手入れしたり、新しい木を植えたりしました。高校は、カナダではワインで有名なナイアガラ・オン・ザ・レイクにありました。教会はヴィンヤード・メノナイト教会で、周囲をぶどう畑に囲まれており、教会の人たちはよくぶどうの話をしていました。

さて、ロバが人を乗せるようになるまで3年かかるのと同じように、ぶどうの木も成熟するのにたいてい3年かかります。イエスも弟子たちの準備に3年を費やしました。
来週のペンテコステでは、弟子たちが聖霊に満たされ、実を結び始めるところを話したいと思います。
ぶどうの木は1年たつと実ができるものの、十分に成熟し、風味もよくなるのは3年経ってからです。時間が必要です。神は私たちが成熟し、実を結ぶのに必要な時間を与えてくださいます。ぶどうの木はいったん成熟すると50年から80年の間、実をつけることができます。ちょうど私たちと同じです。

ぶどうの木は土から栄養を取り込み、枝に届け、実を結びます。ぶどうの品種は世界中で約1万種あり、神の民に与えられた多様な賜物や才能を象徴するかのようです。
ここで非常に重要なのは、その実が「まことのぶどうの木」(キリストのこと)につながっていることです。もし私たちが、神の言葉や、礼拝や(日曜に限らず)、祈りの時間から栄養を吸収していなければ、実は結べないでしょう。
キリストのうちにとどまりなさい。マタイ25章の、ともし火の油を切らしてしまった愚かなおとめたちのようになってはいけません。愚かなおとめたちは、神の栄養を受け取っていませんでした。

ぶどうにはいろいろな種類があり、またキリストへの愛を表現する方法も数多くあります。KUCはユニオン教会であり、キリストの信仰の様々な表現を受け入れます。バプテスト派、メソジスト派、長老派、またはどのような教派でもです。聖餐式や洗礼式の様式は、あなたの母教会の教派のものと違うかもしれませんが、イエスの王国は教派を超えて大きなものです。

私たちの信仰の実が、まことの木につながっているかどうかは、マタイ22章のイエスの教えに合致しているかどうかでわかります。
私たちは「すべてを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛しているか」。
神の掟のすべてはこの二つの掟に基づいているとイエスは私たちに言われます。
さらに、私たちの信仰は十字架刑の後復活したキリストに根ざし、また、みことばと一致しているでしょうか。もしそうでなければ、まことの木ではありません。
人を惹きつけるような実でも、後に酸っぱくなってしまったのを見たことがありますし、後味の悪い苦い説教を聞いたこともあります。それは天の父との愛に満ちた関係の土台が欠けていたために、食べられない実になっていたのでした。

ぶどうの木は、土壌から栄養分を吸収し、樹液に変えて枝に送り、果汁の多い大きな実ができるようになっています。私たちもまた、キリストというぶどうの木とつながることで実を結びます。農夫(神)の役割は私たちの実を育てることで、キリスト教用語で言えば、私たちの喜びを大きくすることです。この木につながっていれば、私たちは実を結び、実から喜びをもらうだけでなく、私たちの実を食べる人たちにも喜びをもたらすことができます。

問題は、ぶどうの枝は樹液が多いので、実を結ばない枝を他の用途に使えないことです。イエスは大工だったので、ぶどうの枝が安定性に欠け、建築用資材に向いていないと知っていました。また暖炉の薪としても使えません。樹液のために煙突火事になるからです。

私が若い頃にあった話ですが、ある人が100万ドルの家を建てましたが、けちだったので農家が捨てていたぶどうの枝を燃料にしていました。燃やすと枝からいい匂いがするのだと言っていましたが、1~2年後に家が火事になりました。地域で最初の100万ドルの火事でした。
実を結ばない枝は、自分自身や家族やコミュニティや教会にとって役に立たないし、危険な存在になるとイエスは教えています。

私がアルバイトをしていたぶどう園の収穫の時期には、剪定の目印となるリボンを枝に結んでいました。黄色のリボンは特別な手入れが必要な印。黒いリボンは実が成っていないので、掘り起こして燃やす印でした。

健康な木も剪定が必要です。大きく切る強剪定は秋に行い、形を整える程度の小さな剪定は初夏に行います。剪定は、植物が健康で大きな実を結ぶようにするために行います。木は、剪定が嫌いだと声に出して言いませんが、アルバイト先のぶどう園の持ち主のフリーゼンさんは、剪定する人を選んでいました。剪定には木への深い愛情が必要だと考えていました。

自分が剪定されるのを楽しむ人は、滅多にいません。私は主に剪定されたことがありますが、楽しいものではありませんでした。剪定されていない牧師が説教をするのは、その牧師自身にとっても、人々にとっても非常に危険なことです。
植物は剪定してほしいとか、してほしくないとか自分で言えませんが、私たちは選択できます。私たちはキリストを受け入れるか否か、十字架を背負って従うか否か、選ぶことができます。神は呼びかけています。その呼びかけに応じるか否か。私たちは自由意志を与えられています。

ヘブライ12章にあるように、神は「わたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11、12節)。

剪定というのは、私にとっては歯医者へ行くのと同じです。虫歯が2本あるので今週行かなくてはなりません。歯医者に行くのも、歯のクリーニングも、歯をドリルで削られるのも嫌いですが、虫歯はもっといやです。しかし多くの人は、魂が虫歯のように穴が開いて腐っていても平気でいます。
私の歯科医は歯の治療をするとき、楽しそうに笑うことはありません。治療は私にとってつらいものなので、歯科医は真剣な態度を取ります。同じように神も私たちの剪定をするとき、真剣に取り組みます。剪定は懲罰ではありません。罰は間違ったことをしたための報いです。剪定は成長するための訓練です。
そして収穫は何でしょうか。剪定は義と平和の収穫をもたらします。実を結ぶことができるように、あなたも訓練を受け入れてください。

また剪定は牧師や長老の仕事ではなく、神がされる仕事です。
以前トレドで、私は教会のある男性の問題について彼と話すよう神から呼ばれました。その男性の魂は、いわゆる虫歯状態でした。すると男性は私に怒り、ほかの人たちに自分が正しいと認めてもらおうとしました。しかしその剪定は私ではなく神の御業で、男性は剪定を受け入れる必要がありました。
男性は教会理事会に電話して文句を言いました。幸い長老は新米牧師の私を支持してくれました。長老はその男性に、私は正しいし、その男性は剪定される必要がある、と言ってくれました。長老は「マークは剪定をする人ではない。ただ神の伝達係だ」と言いました。
そして残念ながら、男性は神の剪定を受け入れませんでした。クリスチャンであることに変わりはありませんでしたが、神が望むような実を結ぶクリスチャンにはなりませんでした。

現在では、何か問題が起こると多くの人は教会へ行き、そしてその教会を去って別の教会に行きます。神戸だけでなく、西欧諸国の教会でもこのような椅子取りゲームが流行っています。しかし問題から逃げても、問題の長期的な解決にはなりません。歯の健康を保つために歯科医が虫歯の治療をするように、神は私たちの成長と繁栄のために剪定をしてくださるのであって、神が残酷だから剪定をなさるわけではありません。

神は私たち一人ひとりを、そしてKUCのコミュニティをどのように剪定なさろうとしているのでしょうか。
私たちは、神が私たちを霊的、感情的に成長させてくださることを喜んで受け入れられるでしょうか。
成長に必要な栄養を受け取るためには、私たちはぶどうの木につながっていなければなりません。自分の力だけで実を結ぶことができると言って、自分をだますのはやめましょう。
ナイキのスローガンを借りて言います。「Just Do It(とにかくやってみよう)」。

祈りましょう。
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<![CDATA[「備えよ」|  マタイによる福音書 24: 36 – 44  |  神戸ユニオン教会  |  2024年5月5日  |  説教者:Ted Kitchen, Jr.]]>Sat, 04 May 2024 04:14:24 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-24-36-44-202455-ted-kitchen-jrおはようございます!神戸ユニオン教会で再び説教できることをうれしく思います。私は、テッド・キッチンと申します。ほとんどの方がご存知のように、私はこの教会でKUPCマネージャーとして働いています。2年前にフルタイムの宣教師と啓明学院中学校・高等学校の教師を引退しました。啓明学院は、私達の牧師であるマーク・バーシュが勤めている学校です。啓明では、毎日のチャペル礼拝でよく日本語で説教をしましたが、牧師や宣教師には引退はないということで、ここでまた説教をしています。今日は、備えることがどれほど大切か、一緒に考えてみたいと思います。何に備えるのか。何に対しても、どんなことに対してもです!
私の人生において、神様は多くの状況で私を祝福し、守ってくだり、私に、予期せぬ事態を想定することを教えてくれました。私達は多くの災難が及ぶ世界にいます。自然災害もあれば、人災もあります。アメリカでの銃乱射事件や学校での銃乱射事件、日本での無差別ナイフ襲撃事件、19年前に日本で起きた福知山線のような列車事故などを考えると、誰にでも起こりうることなので、どこも完全に安全というわけではないことが分かります。
2001年、私達家族はアメリカにいる私の家族を訪ねた後、日本に帰国するために飛行機でニューヨークを発ちました。父の家族がワシントンD.C.の近くに住んでいるので、いつもはワシントンD.C.から出発していました。まさにその年、妻と子供達、そして私は初めて一緒にニューヨークを訪れました。そこから帰国して1週間後、9.11の事件が起きたのです。私達はその災難を免れましたが、他の人達はそうではありません。その前の1995年、私達夫婦はここ神戸で淡路阪神大震災を経験し、何とか生き延びましたが、多くの人々はそうではありませんでした。
私は子供の頃、ボーイスカウトに所属しており、ボーイスカウトのモットーは「備えよ」でした。スカウトは、自然の中で生き残る術や、他人を助ける方法を教えてくれたので、良い経験でした。啓明で働くのが楽しかったのは、学校のモットーが 「手と心は神と人に仕えるために鍛えられる」だったからです。教育者として、私達は生徒達に、人を助けるための知識や技術を身につけ、準備することの大切さを教えようと努めました。肉体的にも精神的にも強くなること、そして他人と協力することの重要性を強調し、そして他人を助けるときが来たら、生徒達はそれができるようになるためです。
皆さんは、日常生活でどのようなことに備えていますか。地震に対してはどうでしょうか。日本に住んでいると、これは大きな心配事でしょう。地震は予知することはできませんが、例えば防災用品を備蓄するなど、地震に備えることで、被害を軽減することができます。自然災害は恐ろしい経験ですが、困っている人々を助ける機会を与えてくれます。そのための準備はできているだろうか。人生の多くの物事を成功させるには、十分な準備が必要なのです。「アリとキリギリス」という有名な寓話を知っていますか。アリは懸命に働き、食料を蓄え、夏に準備をしたからこそ冬を越せたが、怠け者のキリギリスにはそれができません。私はフルマラソンに出場したことがあり、レースを走る前には何時間もトレーニングに費やし、無事に完走するまでに何度も挫折を味わいました。そして私達は「練習が完成を生む」を知っています。練習すればするほど、成功する可能性は高くなるのです。
今日の聖書の箇所を選んだのは、再臨の時であれ、死んだ後の天国であれ、主イエスに会う準備ができているかどうかを考えてほしいからです。あなたは、主イエスに誇りに思ってもらえるような人生を送っていると確信しているでしょうか。もちろん、私達は人間であり、罪深いが、幸いなことに、神はその罪を赦してくださいます。だが、私達は最大の戒めを実践するために最善を尽くしていますか。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして隣人をあなた自分自身のように愛しなさい。」私はこのことをずっと考えてきました。最近は健康上の問題を経験したため、なおさらそう考えます。ご存知の方も多いと思いますが、私は昨年、心臓に問題があると診断され、開胸手術を受けました。私にとっては恐ろしく困難な時期でしたが、神様の助けと皆さんの祈りの支えによって乗り切ることができました。しかし、私は心の準備ができていませんでした。
バランスのとれた食事、ランナーとしての適度な運動、睡眠など、基本的には健康的な生活を送っていると感じていました。昨年4月、年に一度の健康診断を受けたとき、医師から心雑音があると告げられました。あまり気にせず、6月の後半に大きな病院で心臓の検査を受けることにしました。検査の結果、驚いたことに、3つの心臓弁に欠陥があり、開胸手術で修復する必要があると言われました。えっ?なぜ私が?と思いました。普通、この病気にかかると息切れがするのですが、私にはまったく自覚症状がありませんでした。それで神戸中央市民病院で詳しい検査と手術を受けることになったのです。そうこうしているうちに、体がだるくなり、微熱が出るようになりながら仕事をしていました、そして体重が減り始め、なぜだろうと思っていました。そして7月、突然高熱が出て、救急病院に行くことになりました。検査の結果、血液中に細菌が入り込み、心臓を攻撃していることがわかり、非常に危険な状態だと言われました。私の心臓が細菌にさらされたのは、私の心臓疾患のせいだったと後で知らされました。普通なら、私の体は細菌を撃退できるはずでした。とにかく、私は4週間入院し、細菌を除菌するために抗生物質を1日6回点滴する治療を受けました。それを乗り越え、最終的には10月に心臓手術を受けることが許可されました。私はこれまで一度も手術を受けたことがなかったのに、突然このようなことになったのです。手術は8時間ほど続き、3時間ほど心臓を止められ、手術中は機械で自分の血液を還流したのです。そのために幸い輸血の必要はありませんでした。入院は2週間でしたが、回復はかなり順調でした。それから自宅に戻り、3カ月間自宅でリハビリをしました。1月から仕事を再開しました。不整脈の問題があり、薬を飲まなければなりませんが、今はかなり普通の状態に戻っています。神様と皆さんに感謝します。
さて、聖書の一節に戻りましょう。人の子、あるいはメシアの別の呼び方である主イエスがいつ再臨されるかは分からないので備えておかなければなりません。主イエスがいつ再臨されるかは未知で、私達が地上で生きている明日かもしれないし、私達が死んで天国に行った後に来られるかもしれません。しかし、私達はいつでも主イエスに直接会えるように準備しておく必要があります。この箇所には、「備えよ」と記載され、しかし方法は書かれていません。どうすれば準備できるのでしょう。家に人を招いてパーティーをするとき、あなたは何をしますか。おそらく、家を掃除し、おいしい料理を作り、素敵な服を着て、ゲストが楽しい気分になるような雰囲気を作るでしょう。基本的に、あなたはゲストのために最善を尽くします。では、主イエスのための準備はどうですか。主イエスが喜んでくださるようなことをする、つまり、主イエスが私達に命じられたことをし、主イエスの模範に従って、主イエスの道に生きようとしませんか。
主イエスは唯一の完全な人でした。私達は完全ではないが、主イエスは私達に完全であれと言われるので努めることになります。主の祈りの中で、主イエスは私達にこう教えています。 御国が来ますように、御心が天にありますように、地にもなされますように。つまり、私達は地上の生活を天国のようにするために努力する必要があるということです。死ぬまで待つのではなく、今この地上に天国をもたらす必要性があります。マタイの福音書25章で、主イエスは『十人の花嫁の娘のたとえ』、『タラントのたとえ』、『諸国民の審判』というたとえ話を語っておられ、これらのたとえ話は、私達が神の国に入り、主イエスに会う準備をするためのヒントを与えてくれます。目を覚まして警戒していれば、身の回りの問題に気づき、助けを必要としている人を助けることができるかもしれません。また、ためらわずに、自分の持っている才能を何でも使って他の人を助けるようにしましょう。そして最後に、私達は飢えている人に食べ物を与え、渇いている人に飲み物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に服を着せ、病人の世話をし、囚人を訪問すべきなのです。神様が私達に望んでおられる生き方をし、いつ、どこでも主イエスにお会いできるように備えましょう。
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<![CDATA[「わたしが命のパンである」 | 神戸ユニオン教会 | 2024年4月28日 |  ヨハネによる福音書6:25-40 |  説教者:マーク・バーチ牧師]]>Sat, 27 Apr 2024 13:17:08 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2024428-625-40​今日のヨハネ6章は、聖書の中で最も長く最も深い意味を持つ章の一つです。章の始めでイ
エスは男性だけで5千人、全部でおそらく7千人から1万人に食べ物を与えました。
私は勤務する学校の入学式で生徒にお団子を配りましたが、私ともう一人の教師と二人で
、240人の生徒に箱に入ったお団子を配るのに20分か30分かかりました。7千人から1万人
となると想像もできません。これは「比喩」だと解釈する人もいれば(私は同意できませ
ん)、イエスが皆の寛大さを促し、皆で分け合って食べたのだと信じている人もいます(
これも同意できません)。人々を利己的な心から寛大な心に変えるのは奇跡的です。自分
一人で群衆を寛大にできるか試してみてください。
私たちにわかるのは何かが起こり、イエスが群衆から離れて弟子たちが舟に乗り湖を渡っ
てからも、人々がイエスを追い求めたことです。
この群衆は、目を引き付けるものを目撃したので、イエスに執拗に付いてきました。しか
し群衆がイエスに求めたのは間違ったものでした。メシアではなく、自分たちの王を求め
る人たちと同じような間違いでした。見世物としての奇跡を見たがり、アンコールを叫び
ました。イエスがパンと魚を出してくれたことに感動しました。それにびっくりするほど
おいしいものだったはずです。まるでこういう会話が成り立つようです。「今日の夕食に
何が食べたい?」「何が食べたいか知っているでしょう。以前あの大工の人が作ってくれ
たパンと魚よ」。
一方のイエスは大人数の人々に食べ物を与えて、人々が食べている最中に弟子たちを強引
に舟に乗せました。それは弟子たちが、群衆からの人気ぶりに心をゆさぶられつつあった
からだと思います。人気は誘惑です。
ある有名な俳優が名声について話していた記事を読んだことがあります。レストランでフ
ァンに取り囲まれてサインや写真を求められるのは好きではないが、それよりもっと悪い
のは、街で誰も自分に気づいてくれないことだと言っていました。(私にはこういう心配
はありませんが)。
今の時代のインフルエンサーと同じように、弟子たちは自分たちのプラットフォームをよ
うやく持ちました。フォロワーが今日は5千人、明日はおそらく1万人、その後はどれだけ
増えるか。こういった有名であることの魅力と誘惑をイエスは知っておられたので、弟子
たちを舟に乗せ岸から離し、ご自分は祈るために山に退かれました。
その後、弟子たちは一晩中嵐と闘いますが、そこへイエスが嵐の湖の上を歩いて舟に近づ
いて来ました。イエスが水の上を歩く有名な話です。個人的に私は「水の上を歩くイエス
」という表現が好きではありません。イエスが水の上を歩くことができるのは、私の信仰
の範囲内です。しかし、ペトロが舟から出てイエスの方へ水の上を歩いたように、イエス
とつながることによって、私たちもまた水の上を歩くことができるというのが私にとって

は驚きです。あなたにもできますか。イエスに召されているのなら、備えていただけます
。しかしイエスに従うには、力と勇気が必要です。
今日の説教はペトロや舟の話ではなく、今日の聖書箇所の直前に起こった出来事について
です。イエスは舟に乗られると波に話しかけ、波は耳を傾けました。イエスは単なる教師
ではなく、パンと魚を増やす人というだけでなく、まさに神の御子でした。
翌日反対側の岸辺で群衆はイエスと弟子たちに追いついて、イエスにどうやって向こう岸
に渡ったのか素朴な質問をしました。イエスは返答せずに話題を変えました。イエスが湖
の嵐を静めたのは群衆のためではなく弟子のためでした。人生には疑問や問題に立ち向か
わなければならないときもありますが、時にはそういった疑問が邪魔になるときもありま
す。それでイエスは「はっきり言っておく」と言われ、話題を変えられました。
イエスが「はっきり言っておく」と言われるときは、重要なことなので注意を払って聞い
てください。この言葉は、教師の私が教室で「この箇所はテストに出る」と言う時と同じ
効果があります。生徒が集中して耳を傾けます。ですから注意深く聞いてください。イエ
スは群衆に対して、イエスを追ってきた動機に目を向けるよう促しています。みなさんの
動機はいかがですか。なぜ今日教会に来たのですか。私の話を聞くためだけではないのは
私も分かっています。人みなそれぞれ礼拝の中の好きなものが違います。祈りの時間が好
きな人もいれば、ワーシップソングを歌うのが好きな人もいるし、説教の時間が好きな人
もいます。しかし私たちが集まる動機は、生きておられる主に近づくためであるべきで、
これに尽きます。ところが聖書のこの箇所の群衆の動機は、食べ物の配給や奇跡の見物で
した。イエスはここで「動機」について、深く掘り下げて問題を提示しています。
なぜ今日ここに来たのか。イエスは群衆が自分を追い求めて来た動機が、見当違いである
ことを知っておられました。彼らの動機は、天の父と霊的なつながりを深めるためでも、
宇宙の創造主とのより深い関係を育むためでもありませんでした。メシアではなく王がほ
しいと望みました。人は動機を問われるのを好みません。
私も説教するたびに、なぜ自分は説教しているのかと自分に問うています。ビートルズの
曲、「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」の歌詞を知っていますか

「僕の歌がヘタクソだったら、君はどう思う?立ち上がって、出て行ってしまうかな?」
答えは「うん、そうだね」でしょうか。
イエスはメガ・チャーチ(巨大教会)を失った最初の人です。彼らはSNSのインフルエンサ
ーになる代わりに道を爆走し、もう戻ろうとしません。イエスはそういう人たちに問いを
投げかけます。本当の優先順位は何か、なぜ莫大な時間とエネルギーを、はかないものに
費やすのか、と。
私は出費を抑えるためのルールを決めています。新しい服を一着買ったら、古い服を一着
捨てます。捨てる服がなかったら、新しいシャツは買いません。多くの人が世俗の物欲に
囚われています。イエスに、財産をすべて捨てるようにと言われた裕福な若い支配層の人
と同じです。所有することが悪いのではありません。所有することに囚われるのが悪いの
です。世俗のものを追い求める余り、永遠に続く霊的なものを見逃してしまうのです。

ここに問題があります。神は、人間が食べ物、水、休息を基本的に必要とするよう創造さ
れました。私たちはそれらがすべてだと思い込んでいます。しかし永遠のいのちを求める
なら、この必要性の優先順位を逆にしなければならないと主は言われます。もしあなたが
今日のことだけ考えているなら、今日を生き抜きなさい。しかしイエスをあなたの主、あ
なたの師と認めるなら、私たちの必要順位は逆さまになるとイエスは明らかにしています

このことはヨハネ4章に登場する井戸でのサマリアの女とイエスの会話に、はっきりと表さ
れています。女が永遠の命に至る水をほしがったのは、神に近づきたいからではなく、丘
を上って水を汲みに来なくてもよくなるようにでした。それでもその女性は最終的に命の
水を得たのでした。
子どもの頃、私の教会の牧師が、家にある一番古い食べ物を教会に持ってくるように言い
ました。そして賞味期限が10年以上前に切れているラーメンを牧師が食べていました。食
品の賞味期限は、食べても害がないかどうか見極めるために表示されており、国が健康上
の安全を保証するものです。同じように、神は神のしるしを御子イエスに表示されました
。イエスが群衆に食べ物を与えたように、私たちがイエスを信じれば、イエスは食べ物以
上のものを私たちに与えてくださいます。
多くの人が、イエスは賢明な師と認め、その教えを生活の中で実践しています。自分にし
てもらいたいことを人に行えば、あなた自身の人生がよくなるだけでなく、周囲の人も恩
恵を受けます。明日を心配せずに生きることができれば、もっと生産的で幸せな人生を送
ることができます。
イエスは「偉大な師」であると同時に、もっとそれ以上の存在です。
しかしイエスを師として受け入れても、主として、救い主として認めなければ、それはパ
ンと魚は受け取るが、命のパンと命の水を拒むのと同じことです。
人々は、神が求める働きをするにはどうすればよいかと尋ねます。信仰さえあればよいと
いうのは単純(あるいは感傷的)過ぎるという考えに、イエスは問題提起をしています。
人はよく困っている人に食べ物を渡すとか、病院や学校を建てるとかといった目に見える
形での働きを切望し、信仰を取るに足りない些細なものと退けてしまいがちです。イエス
は、求められている働きは信仰のひとつだと言っています。働きは楽しくないものと言っ
ているのではなく、努力が必要だと言っています。目に見える仕事より努力が必要です。
私は教会で週10時間ほど働いています。そのうち少なくとも週1時間を教会のための真摯
な祈りに費やし、仕事の10分の1を差し出しています。私の心はさまよいますが、これは
働きだと自分に言い聞かせています。これには説教原稿を書いたり牧会をしたりするのと
同じ努力が必要です。もちろん信仰の働きに沿った行動が必要です。ヤコブ書が説いてい
るように、働きをしない信仰は死んでいますが、信仰のない働きもまた無意味です。
私たちの最も優先すべき仕事(働き)は、神が私たちに送ってくださったイエスを信じる
ことです。

群衆は、バプテスマのヨハネに出会った人々と同じ反応をしました。彼らはアブラハムの
子孫だと主張し、血統を誇りました。また、祖先が荒野でマナを食べたことを自慢し、ユ
ダヤの血筋を自慢しました。しかしイエスは彼らの誤った神学を指摘しました。マナを天
から降らせたのはモーセではなく神である。モーセがマナを降らせたと聞いたら、モーセ
は動転したでしょう。
マナについて説明すると、エジプトから脱出するとき、イスラエルの民は主の御使いが家
々を通り過ぎる(過ぎ越す)前に、急いで酵母を入れないパンを焼いて食べました。これ
が過越祭になりました。御使いはイスラエルの民の家の入口の柱に塗られた羊の血を見て
、あるいは匂いで、その家を過ぎ越しました。
しかしエジプトから脱出した後、民は荒野で不平を言うようになりました。礼拝美の反対
は不平ですが、彼らは何も食べる物がないと不平を述べたてました。
神が天から降らせたマナは、白い薄片状のパンでした。マナの賞味期限は1日で、安息日の
前日に降るマナだけ2日持ちました。荒野を旅するイスラエルの民は、毎日マナを食べるこ
とができました。マナをその日に食べずにいたり、保存したりすると臭くなって腐敗しま
した。しかし、マナの一部は壺に入れられ、契約の箱の前に置いて蓄えられました。普通
は腐敗してしまうマナは、このように礼拝と神聖に結びついて、新鮮なままで保存されま
した。
では私たちを腐敗させようとするこの世の中で、私たちはどうやって霊的新鮮さを保つこ
とができるでしょうか。その答えは礼拝と賛美にあります。もしあなたの信仰が枯渇して
いると感じるなら、もっと聖書を読もうとするより、主を賛美する歌を歌ってください。
最も偉大な預言者で指導者の一人であるモーセがマナを降らせたのではなく、それは神が
なさったことです。そして神の御子も同じことをされました。イエスは人々にパンと魚を
与えましたが、それよりもっと多くのマナを天から降らせる準備ができています。それな
のに人々は魚を求めています。
同じように神は今、天から命のパンを与えてくださいました。1日しか持たないマナと違い
、命のパンであるイエスは、私たちの魂を永遠に育んでくださいます。契約の箱の前のマ
ナと同じようにずっと新鮮であり続けます。
群衆が、天からのパンをくださいと言った時、イエスは「わたしが命のパンである」と言
い、彼らを驚かせました。「わたしがパンである」。
イエスを信じ、このパンを食べる者は決して飢えることがありません。イエスは自分の意
志を行うためではなく、天の父の御心を成就するために天から降って来られました。父と
子は一体だからです。
イエスを信じる人を、イエスは最期の日に天に上げてくださいます。愛と心を主にゆだね
る羊を、イエスは一頭も見失うことはありません。
この贈り物を受け取るために、主から与えられた課題を引き受ける用意ができていますか
。もし準備ができているなら、あなたの手を差し出してこの方の手の上に置いてください
。湖を静めた方の手に、波を凪にした方の手に。
自分をよく見つめてみれば、ほかの人も違って見えます。

ガリラヤの人の手にあなたの手を置いてください。
祈りましょう]]>
<![CDATA[「私は良い羊飼いです。」 |  ヨハネの福音書10:11-18   |  神戸ユニオン教会 | 2024年4月21日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch]]>Sat, 20 Apr 2024 14:02:59 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-1011-18-2024421-rev-mark-bartschまず、KUCの過去の牧師達がニュージーランド出身でしたが、私はカナダ人です。ギリシャ語の「ποιμήν」(poimen)は羊飼いと牧師の両方を意味します。そのため、この説教中に両者を置き換えながら使います。私が羊飼いと言うときは牧師を意味し、その逆も同様です。カナダ出身の私は、ラグビーよりもアイスホッケーについて、そして羊よりも鶏について(鶏肉工場で働いた経験があるため)多くのことを知っています。 羊は、聖書において神様の民に対して一般的な比喩として用いられています。渡辺禎雄氏の最後の晩餐の絵を見たことがあるかもしれません。そこでは主イエスが寿司と酒をパンとワインとして分け与えています。聖書は主イエスが民衆を羊飼いのいない羊の群れに例えたと言います。主イエスが民を農夫のいない鶏と見たと言ったかどうか私は分かりませんが。私がよく知らない羊について皆さんが私に話しに来るかもしれませんが、人間の羊については少し知っています。と言うのも、私はまず自分自身を見つめ、他の人間-羊達と共に歩んできたのです。では、私があまり詳しくないことをお話ししましょう。まずは、ひとつ物語から始めます。
クリスチャン作家のリン・アンダーソンは、彼が聖地(イスラエル)への旅行中に聖地を回るツアーに参加した時の話をしています。彼は、このツアーガイドについて話しました。その話の中で、バスツアーを案内していたガイドが、羊をたくさん見かけたので、中東の羊飼いはオーストラリア人のように羊を追い立てるのではなく、犬を使って羊を怖がらせ、羊飼いの意思に従わせるのだと話し始めました。古代の羊飼いがいかに羊と愛情深い関係を持っていたか、羊飼いがいかに羊の世話をし、羊を養っていたか、羊飼いは羊に厳しく接する必要がなかったのです。羊は羊飼いの声や匂いを知っていました。バスの車窓から、突然棒を持った男が羊を殴り、羊に向かって叫び、羊を完全に威嚇しているのを見たのです。ツアーガイドは旅行者へ注意を払わず、ツアーガイドはバスを止めました。この羊飼いに近づき、何をしているのかと尋ねたのです。その男は彼に向き直り、「友よ、誤解しているようだが、私は羊飼いではない。私は屠殺者です」。ご存知の通り、羊と呼ばれることは褒め言葉ではありません。羊は生まれつきの方向感覚を持たず、危険にさらされたときの防御手段もほとんど持っていません。彼らは逃げるしか選択肢はありません。決して神様の創造物の中で最速というわけではないのです。実際、羊は羊同士が戦います。(私は知らなかった)。羊たちはお互いに喧嘩したり蹴飛ばしたりしますが、オオカミや犬が来れば、羊たちに勝ち目はありません。
知っておいてほしいのは、私達は互いに戦うのは得意だが(主よ、お赦しください)、本当の敵とは戦っていないのです。私達の格闘は、血肉に対するものではなく、支配、力であることを常に忘れてはならない。血肉に対してではなく、支配と力に対してです(エペソ6:12)。これらに対して、自力で立ち向かっても勝ち目はありません。私達は蹴り、叫びますが、勝つことはありません。私達が必要とするのは羊飼いです。外からの悪魔、或いは自分の作り出す悪魔と自力で戦うのなら、まだマイク・タイソンやマニー・パッキャオを相手にした方が勝ち目があります。困ったときは、主イエスの名を呼びなさい、なぜなら彼の名によって、全てが膝をかがめ、全ての舌が主イエスを主と告白するからです
旧約聖書では、ダビデが王になる前、彼は父の羊を育て、野獣が来たとき、彼は自分の羊を愛していたので、立ち向かいました。私達が必要としているのは、困ったときの(小さな)羊飼いではなく、困難な時の「良い羊飼い」です。私はよく祈っています。「神様、私はあなたの羊であり、あなたは私の羊飼いです。あなたの助けが必要です。私を導いてください。特に自分自身から守ってください。神よ、私が故意にあなたに従わなかったとき、あなたに私を探すことを強いた私をお赦しください。」
羊はまた感情的な生き物であり、簡単にパニック状態に陥ることがあります。羊は流水を怖がるので、水を飲むのを好まないことを知っていますか。詩篇23篇で、詩篇の作者は「主は静かな水のほとりに私を導いてくださる」と書いているのはそのためです。羊飼いは私達を怖がらせたくないのです。羊は重荷を扱うことができません。マタイ11:28-29「疲れ果て、荷物に重荷を負った者たちよ、わたしのもとに来なさい。あなたがたに休息を与えましょう。わたしのくびきを負いなさい、わたしのもとで学びなさい。わたしは心が柔和で謙遜です。そうすれば、あなたがたの魂に休息が得られるでしょう。わたしのくびきは軽く、わたしの荷は軽いのです」
私達の信仰は、神様が創造者であるように生命を与える必要があります。信仰が神様との人格的関係に立脚せず、すべきこと、してはいけないことのリスト(律法)になるとき、信仰は本当に重くなり、私達は良き羊飼いに見守ってもらう必要があります。私は、視覚ではなく信仰よって歩むので、私は主の声に従います。主は私の名前だけでなく、主のすべての羊の名前を知っています。私は400人の新しい生徒のリストをもらったばかりで、その名前を覚えるのに1学期かかりますが、主イエスにはその問題はありません。
これほどの欠点があるのに、なぜ神様は聖書を通して私達を羊と呼ぶのでしょうか。そのひとつは、羊が価値あるものとされているからです。聖書では、羊はあなたの富を測るものでした。あなたは神様にとって価値ある存在であり、神様に尊重されています。主イエスが宣教を始められたころ、主イエスは町から町へと会堂を回って教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いをいやされました。群衆が来ると、主イエスは彼らを憐みました。なぜなら、羊飼いのいない羊のように、彼らは疲れ果て、助けを求めていたからです。(マタイ9:35-36) KUCが牧師探しのプロセスを開始するとき、あなたは本当に良い羊飼い(真の羊飼いは主イエス)に従う代理羊飼いを探すことになります。興味深いことに、代理羊飼いも羊に過ぎないのです。(その現実を知らない牧師には気をつけよう)。我々は良い羊飼いの特性を見ており、クリスチャンとして、代理羊飼いにこれらの特性を求めるべきです。11節から牧師の最初の特性は、良い羊飼いが自分の羊のために命を捧げるということです。それは犠牲的な愛と呼ばれます。結果ではなくプロセスへの愛。私達は皆、勝つことが好きです。私が出会ったすべてのサッカー選手は皆、負けることよりも勝つことを好みます。しかし、多くの人々が勝利に至るまでのプロセスを好みません。(骨を折ることだから)。
主イエスはもちろん、世の罪のために十字架上で究極の代価を支払われました。ほとんどの牧師はその代価を支払うよう求められることはありません。しかし、彼らは民のために祈り、民を愛し、民のために断食して祈るだろうか。たいていの場合、雇われ牧師は良い仕事をしますが、いざという時、牧師は教会の人々のためにその隙間に立つよう求められるのです。トレドに住む私の友人は、大変な事態に直面しました(ウンコが爆発した)。ウンコがあちこちに飛び散るので不快なイメージです。とにかく、彼の教会は順調に進んでいたのですが、会計係が教会の金を盗んだのです。牧師には妻子があり、責任もあったので、教会の外で仕事を見つけ1年間給料なしで働いたのです。実際、彼に給料を支払うことはできましたが、パートタイムの青年牧師と秘書を解雇しなければなりませんでした。だから彼は働き、外での仕事を通して、教会の人々のために立ち上がったのです。給料だけが目的の牧師なら(雇用人であれば)、彼はもっと大きな教会に転職したでしょう。彼だけでなく、彼の妻も代理羊飼いとして羊に献身したのです。
第二に、良い羊飼いは自分の羊の名前を知っています。単に名前を知っているだけでなく、彼らを知っています。私の学校ではしばらく前、年配の教師がトラブルでよその担任の代わりをしなければならなくなりました。担任の先生が辞める前からクラスは崩壊していて、担任の先生が辞めるにつれてさらに混乱していったのです。その年配の物腰の柔らかい先生が入ってきて、私は彼らが彼を引き裂くだろうと思いました。私も他の先生と同じように、生徒の頭上で大声を出さなければなりません(本当に学級崩壊状態)、彼のクラスの前を通ると、クラスが落ち着いて勉強しているのを見ました。私は空き時間があったので中に入り、子供たちが騒がしくなると、先生は静かになりました。先生は冷静さと愛で彼らの学級崩壊と戦い、徐々に、徐々に生徒たちを知っていくにつれて、学校で最も行儀の良いクラスの1つになりました。
それはワインを水に変えるような奇跡でした。うーん、たぶん違うかな。まあ、私達の優しく善良な羊飼いは、あなたのことを知っています。あなたを愛しています。あなたには羊飼いを知り、彼を愛し返すというただひとつの使命があります。その愛を知れば、何ものもあなたをその愛から引き離すことはできません。パウロは言います。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私達のためにとりなしていてくださるのです。私達をキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私達は一日中、死に定められている。私達は、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私達は、私達を愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:34-37
良き羊飼いと比較すると雇われ羊飼いは、正直に言うと、本当に問題がない日は、雇われ羊飼いはちゃんと仕事をします。いや、彼らはそれ以上のことはしないが、一般的に仕事をこなします。彼らは夜中に目を覚まし、教会の人々のために祈る必要を感じません。物事が完璧に運ばないとき、彼らはリンゴ箱をひっくり返す危険を冒しません。彼らは自分の仕事をし、働いた分の給料をもらい、そして家に帰ります。大きな問題が起これば(そしてそれは誰にでも起こること)、彼らはただ次に移動し進むだけです。彼らは自分のしていることに情熱を持っているわけでもなく、それほど気にかけているわけでもないが、自分の仕事はこなしていきます。私はこのような牧師達を知っていますが、概して彼らはプロの牧師であり、それは悪いことではありません。が、もっと良い牧師がいます。
悪い羊飼いに比べれば、雇われ羊飼いはずっとましです。悪い羊飼いの難しさは、最初は良い羊飼いと見分けるのが難しいことです。私達が話しているのは羊飼いの代理人であることを忘れないでください。エゼキエル34章は亡命中の預言者の記録です。エゼキエル33章で、彼はエルサレムが陥落したという悲惨な知らせを耳にします。(彼はそれを預言したが、それを望んでいません)。神殿が略奪され、破壊されました。その後、エゼキエル34:18で、彼は悪い羊飼いに対して預言します。神様は彼を通してこれを言います。「あなたがたは良い牧草地で草を食べていながら、それでも足りないのか、その牧草地の残りを足で踏み荒らすとは。澄んだ水を飲みながら、その残りを足で濁すとは。」良い牧師が平和と安定をもたらすのに対して、悪い牧師は分裂と葛藤をもたらします。彼らは情熱的でしばしば口がうまいですが、彼らは神様が人々を導いている方向とは反対の方向を指しています。覚えておいてください、羊は方向をよく見失うのです。だからこそ、羊が迷子になると、小屋に帰ってくるのが難しいのです。それこそが主イエスが100匹の羊の話をする理由です。1匹が迷子になると、彼は1匹を探しに出かけます。なぜなら、それは自分で帰る能力がないからです。悪い牧師たちは彼らの上手な言葉で群れを散らします。彼らは最初に食べますが、それが彼らの最悪の特性ではありません。食べた後、彼らは草地を踏みつけるので、羊が自分で食事するのが難しくなります。そのため、羊はますます彼らに依存的になります。
悪い牧師のもう一つの特性は、彼らが水を泥だらけにすることです。ああ、彼らは飲みます。しかし、飲んだ後、彼らは水たまりに入り、底の泥とろをかき混ぜます。他の羊が飲むことができないか、飲む楽しみを奪います。そして、悪い牧師は教会の生活を奪います、あるいは奪おうとします。悪い牧師はどのようにしてこれをするのでしょうか。第一に、彼らは奉仕を人々のためではなく自分たちのためだとします。羊の教会のすべての問題を引き起こしておきながら、その罪に対して赦しを求めようとしない人々です。多くの場合、彼らはひどい神学しか持っていません。
健康と富の福音書もその一つです。プライベートジェットで飛び回る牧師たちです。ビジネスクラスやファーストクラスは忘れて、プライベートジェットでなければなりません。彼らは民衆の地位よりもはるかに高いところに住んでいます。彼らが人々を騙すもうひとつの方法は、彼らは人々を飛躍させるためではなく、自分自身を良く見せるために大言壮語や大きなアイデアを使います。彼らは謙虚に見えますが、彼らはただの羊の皮を被った狼にすぎません。雇われ羊飼いは自分の仕事をして家に帰りますが、悪い羊飼いは人々を支配できなくなることを恐れて決して家に帰らないのです。
私達の主イエスはどのように教えましたか。彼は小さな子供でも理解できる方法で私達に教えました。なぜなら彼は私達が理解し、成長することを望んでいたからです。私達が生命を持ち、その生命を完全な形で持つことを望んでいるからです。なぜなら、私達の良い羊飼いは私達が成長することを望んでいるからです。主イエスが私は良い羊飼いであると言うとき、主を信じましょう。主を信頼しましょう。主イエスから逃げないでください。
祈りましょう。
]]>
<![CDATA[「疑いから信仰へ」| ヨハネの福音書 20:19-2 | 神戸ユニオン教会 |  2024年4月14日 | 説教者: マーク・バーチ牧師]]>Sat, 13 Apr 2024 13:41:25 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2019-2-2024414メッセージ: 
高校時代、いつも大それたことばかりを言う近所の友達がいました。時々そういった人がいると思うのですが、例えば、「こんなに大きな魚を釣ったんだ」とか、「こんなに自分は高く跳べるんだ」とか、自慢するような人です。ある日、彼が私たちの方に近づいてきて、学校一可愛い女の子とデートをしたと言いました。それを聞いた瞬間、みんな彼がウソをついているか、冗談を言っていると思って気にしませんでした。そして、彼に、「彼女が君とデートするわけがないよ」と私たちは言ったのですが、グループの中で彼女と仲の良かった女の子が、彼女自身が彼を映画に誘っていたことを確認したのです。信じられなかったのですが、彼が言っていた事は本当でした。学校一可愛い女の子が彼の様な人をデートに誘った事実は忘れることが出来ないものになりました。
本日は、私の友人がデートに誘われたことよりも、さらに信じられないことを話していきましょう。聖金曜日にイエスが残酷に殺され、むち打たれ、手足に釘を打ち込まれたことを理解していますね。そして、十字架にかかって亡くなった後、彼のわきに槍が突き刺さりました。 
約20年前、私はメル・ギブソンの映画「The Passion of the Christ(邦題:パッション)」を観ました。映画ファンは、十字架にかけられるシーンが見るに堪えられないと不満を述べるほど残酷だったのです。そんな映像を見ながらスナックを食べる人が少なかったので、映画館はポップコーンやお菓子の売り上げが低迷しました。イエスの身体が激しく傷つけられ、私たちの主が耐えた暴力のレベルが描かれていたのです。 復活祭の説教で少し触れたマグダラのマリアが最初はイエスを認識できなかった理由を、疑問に思う方も多いですが、その理由の1つは彼に加えられた暴力だったのかもしれません。
イザヤ書53:5には、こう書かれています。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」 アーメン。 
トマスはイエスに何が起こったかを理解しており、このような残虐行為からは戻ってこないことを知っていました。だから、十人の弟子たちがイエスが生きていると主張したとき、「こんなに大きな魚を捕まえた」とか、普通の男の子が可愛い女の子とデートしたといった話以上の驚きだったでしょう。単に「不可能かもしれない」というものではなく、「不可能」だったのです。 
トマスは、弟子たちが彼をからかっているのではないかと思ったかもしれません。もし、そうだったなら、弟子たちが、主であり、教師であり、友人であるイエスが亡くなったことを知っているのに、イエスが歩いていたと主張するのは悪趣味の極みを超えています。あるいは、トマスは弟子たちが深い悲しみに打ちひしがれる中、集団的に感情が崩壊してしまったと思ったのかもしれません。ただ、どんな状態であったとしても、決してだまされないとトマスは思っていたのです。
トマスが「フェイクニュース」だと思っている、その出来事について聞いた後、トマスを有名にした言葉を口にします。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入いれ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」
1週間後、再び11人の弟子が集い、ドアにカギをかけています。なぜ11人の男性たちがカギをかけた部屋に閉じこもっていたのでしょうか?それは、ローマ人、ユダヤ人の指導者、世界に対しての恐れがあったからです。11人のうちの10人は1週間前に見た光景に疑いを持ち始めていたかもしれません。恐れることは悪い事ではありませんが、恐れに支配されるよはよくありません。神に対する信仰以上に恐れが大きくなることがいけないです。
以前にもお伝えしましたが、リウさん及びKUCの牧師を探すサーチ・コミティーが私にサポート・パスター(副牧師)になってみないかと話しを初めて持ってきた時に、私は不安を感じました。何を恐れ、不安に思ったかというのは、ここでは挙げませんが、主がイザヤ書41:10を私に伝えてきているのが分かりました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」 同じ箇所を共に英語で読んでみましょう。Do not be afraid, for I am with you; do not be dismayed, for I am your God. I will strengthen you and help you; I will uphold you with my righteous right hand."
イスラエル人が戦の間、モーセが神を讃美するために手を上げると、イスラエル人は負けることがあなかったというのをイザヤは知っているのです。しかし、戦いが長引き、モーセが腕を上げる力が弱まり、その手が下がると、イスラエル人は戦いに負けました。そのため、モーセの腕を持ち上げるための男たちが必要でした(出エジプト記17)。
戦の間に手を持ち上げるのを助けてくれる兄弟姉妹がいることは神を賛美し続ける上で助けになります。忘れないでください。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである(エペソ人への手紙 6:12)。さらに、腕を支えてくれる兄弟姉妹がいない場合も、神さま自身が神の御手を挙げてくださるとイザヤ書41に書かれています。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか?
弟子たちは部屋にこもり、窓を閉め、扉を閉め、地上の煉獄のような状態でした。皆さんの中に一度でも男性11名と密室で過ごしたことがある人がいるか分かりませんが、あまり良い匂いがしなかったかもしれませんね。そして突然、イエスが彼らの真ん中に現れ、「Shalom be with you (平安があなたたちと共にありますように)」と彼らに挨拶をしたのです。
もしあなたが今、何かを不安に思っていたり、恐れているならば、神の平安を祈ってください。大切なので、再度言います。不安や恐れがあるのであれば、神の平安を祈ってください。神の平安がありますように。
  • 「神様、私は毎日とても忙しいし、今週KUCの人々に何を話せばよいか、時間もないし。あーーーっ!神様、私にあなたの平安を与えてください。」
  • 神様、結婚生活に問題があります。神様、あなたの平安をください。
  • 神様、私は仕事が大変です。神様、あなたの平安をください。
  • 神様、私の子供たちのことが心配です。神よ、あなたの平安をください。 
私は一度も「の平安をください」とは言っていません。なぜなら、私の平安は私の問題を対処するには不十分です。でも神の平安なら可能です。そして、私たちは神の平安の中で、保護の下で生活しているとき、何を恐れる必要があるでしょうか? 
イエスは、ほかの10人の弟子たちと一緒にトマスのもとに行きます。イエスはトマスを見下したりするのではなく、事実を伝えるために、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。相手を非難するのではなく、事実を伝えたのです。私が十字架にかけられたのを見ましたよね。私はあなたがたの罪のために代償を払いました。世界が神の子を殺し、神が死から蘇らせた世界の事実を見ています。
イエスは私たちに思考力を切り捨てるようには言っていません。私たちに感情を切り離すようにも言っていません。私たちのほとんどは、自分の思考力や感情で世界を見ます。信仰は私たちの理論的な考えを否定するものではありませんが、理論的な理解を超えた世界があるのも信仰なのです。それが、父なる神への信仰なのです。
トマスには見えていました。トマスは主の痛みを感じることが出来ました。トマスはその物理的な傷を見たのです。それが私たちが父なる神を信じる信仰です。 トマスは見ることができました。トマスは主の傷を感じることができました。トマスは、実際の傷を目にしたのです。
イエスはトマスと、歴代の他のすべてのトマスたちに向かって、「見ずに信じるものは幸いである」と言います。この言葉はトマスだけでなく、信仰を持って人生を歩む私たち全員にとって言っているのです。信仰だけに頼らざる追えない時、物理的な傷や証拠を見る事ができない場合もあるでしょう。それも全てイエスは分かっています。
見えないものを信じるのが信仰の本質です。その信仰心がイエスをただ従う者(フォロワー)と真の弟子を区別するものです。信仰とは、希望することの確信であり、見ていないものへの確信です。状況が暗中にあるように思えても、神の約束を信じ、まわりのすべてが絶望的であるときでも希望を持ち続けることなのです。 
では、どのようにして信仰を育てるのでしょうか?見えないものを信じるにはどうすれば良いのでしょうか?それは、復活したキリストとの個人的な出会いから始まります。イエスを私たちの心に入れ、彼の愛と恵みを経験すると、私たちの信仰は単なる教義や信念を合わせたもの以上になります。生きた神と自分とが、呼吸を重ねているような関係性になるのです。
マルコによる福音書8:27-29では、イエスが「あなたがたは、私を誰だと言うか?」と弟子たちに尋ねた時、彼らは「ある人はあなたが教師だと言い、また、ある人はあなたが預言者だと言い、また、別も人たちは、イエスは蘇った洗礼者ヨハネだと言います。」と答えました。しかし、イエスは言います。「あなたは私を誰だと言うか?」。すると、ペトロは「あなたはキリストです!」「あなたは救世主です!」。そして、ここでもトマスが一歩上をいき、「私の主よ!私の神よ!」と言いました。
メシアのような、単なる神の道具ではなく、イエス、あなたは父と共にあります。あなただけが崇めるに値する。あなただけが従うべき存在です。あなたは始まりであり終わりであり、アルファでありオメガであり、最初であり最後である。イエスよ、あなたは神です。
ここがトマスが神を感じ発言している部分です。
イザヤ書6章の有名な箇所、トマスが神の王国に引き上げられ、こう言いました。「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚がれたくちびるの者で、汚がれたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。トマスが神と対面した時に口にした言葉です。これがトマスが見たイエスなのです。
祈りましょう。
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<![CDATA[「誕生日おめでとう」| 神戸ユニオン教会 | 2024年3月31日 | ヨハネによる福音書  20:1-18 | 説教者:マーク・バーチ牧師]]>Sat, 30 Mar 2024 11:17:11 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2024331-201-18誕生日おめでとう。今日は、キリストの愛を受け入れたすべての人の誕生日です。「イエスは我が主」と告白し、神がイエスを死からよみがえらせたと信じれば救われます。救われる「かもしれない」とか、救われる「可能性がある」とかではなく、着実に救われるのです。
私たちには各々誕生日がありますが、今日は私たちの主が復活された日です。ですから今日は私たちの霊的な誕生日です。
ところで、誕生日を祝うのにプレゼントをもらい、ケーキのろうそくを吹き消したりするのは何だか変だと思っていました。生まれる時、生まれる本人が大きな仕事をするわけではありません。
私の誕生時には、エブリン・バーチが1月5日に大変な仕事をやり遂げました。私の父カールは、廊下でただ待っているだけでした。
私の二人の息子の誕生時には、私も分娩室でヒッヒッフーの呼吸を力の限り行いましたが、実際に出産の大仕事を行ったのはステファニーでした。

あなたがキリストを主として、また救い主として受け入れれば救われて、新しく生まれることになるのですが、神との和解を取り持つ大きな働きをしてくださるのはイエスです。
「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(ヨハネの手紙一 5:11-12)。
何年か前に「牛乳ある?」(Got Milk?) というアメリカの有名なコマーシャルがありました。イエスを心の中に受け入れれば、「いのちを得る」(Got Life)ことができます。まだイエスを受け入れていない方は、私か教会の誰かに話をしに来てください。このすばらしい「いのち」について説明します。
今日の聖句は、マグダラのマリアと他の婦人たちが、自分たちを愛してくださり、自分たちも愛したイエスの墓に行った場面です。十字架刑の後、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモがピラトに願い出て、イエスの遺体を降ろし、埋葬する許可をピラトから得ました。その日は過越祭の準備の日だったので、アリマタヤのヨセフが所有していた近くの墓にイエスを埋葬することにしました。
婦人たちは注意深く、細かいところまで気が回るのですが、反対に男性たちはイエスの遺体(皆はイエスが死んでしまったと思っていました)にするべきことを何もしていないと思っていました。それで婦人たちはイエスの体を清める儀式をしようと、兵士が見張りをしているはずの墓へ行きました。その時、墓の入り口をふさいでいる大きな石を女性だけでは動かせないことに気がつきませんでした。(悲しみに打ちひしがれているときは、物事を論理的に考えられなくなるものですよね)。
明け方まだ暗いうちに、婦人たちは丘を上って墓に行きました。近づいてみると番兵はおらず、入り口の石は取り除けてありました。イエスは、ご自身が死から復活すると31回もはっきりと話されたり暗示されたりしていたのに、空の墓を見た婦人たちは復活されたという考えには及びませんでした。少なくとも31回はその話を聞いていたにもかかわらずです。
婦人たちが最初に思ったのは、イエスがまたひどい扱いを受けたのかもしれないということでした。ユダヤ人指導者やローマ人といった権力者がイエスの遺体を動かしたのだと思いました。「イエスを殺しただけでなく、私たちにお別れの挨拶もさせないなんてひどすぎる」と思いました。
時には人生がつらすぎると思う時期があります。人生が大変な時、恨んだり敵意を持ったりしてはいけません。アルコールに逃げてもいけません。無視したり押しやったりしてもいけません。苦悩を神にゆだねてください。神はあなたの苦しみをご存じです。聖書で最も感銘深い聖句のひとつは、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)です。私たちの主イエスは、苦悩や喪失感を知っておられます。悲しみとはどういうことかを知っておられます。
マグダラのマリアは弟子たちがいる所へ走って戻り、墓の様子を告げました。主であり師である方が墓から取り去られたと聞いて、ペトロとヨハネは丘へ走り出しました。ヨハネは元気で早く走ったので、ペトロより先に墓に到着しました。次にペトロが墓に着いて見てみると、マグダラのマリアが言ったように石が取り除かれ、イエスの遺体は無くなっていました。
聖書の物語には興味深い詳細が記されています。もしイエスがあなたの家に来られたら、行儀のよいお客になることでしょう。というのは墓の中には、イエスの頭を包んでいた覆いが、血で汚れていたはずの他の布と別に置いてあり、しかもたたまれて置かれていたからです。
ペトロとヨハネは立ち去ったようで、マリアは一人で墓の外で泣いていました。自分を苦悩から救い出してくださったのに、今は亡くなってしまった方のために泣きました。希望のすべてだった方のために泣きました。このマリアは、イエスに救われる前は売春婦だったと言われているマグダラのマリアです。イエスによって、体を売るという屈辱的な職業から抜け出すことができただけでなく、七つの悪霊も追い出してもらいました(ルカ8:26)。
ですからイエスがいなくなった今、自分はどうなってしまうのだろうと思ったのに違いありません。昔の生活に戻ってしまうのだろうか。悪霊が自分の中に再び戻って来るのだろうか。これから自分に何が起こるのだろう、と。

このマリアを、そして私たちを、割れた器に例えることができるでしょう。先週お話ししたように、私たちは何かに捕らわれて生きていますが、その不健全な締め付けから解放されなければなりません。私たちは皆、いわばどこかが壊れている存在です。
約11年前、私たちのうち何人もの人が、東北大震災後の東北へボランティアに行きました。その中で、ある女性を手伝って、海水の浸水と割れた食器でひどい状態になった家を片付ける仕事をしたことがありました。女性は地震で夫を亡くしていました。私は割れて粉々になった食器を次々に拾っていきました。その時私は日本語がそれほどうまくなかったので、女性が私に気兼ねすることなく嘆くことができたのはよかったと思います。
その人は割れた皿を一枚ずつ手に取って、じっと眺めて涙を流しました。私が十字を切ると、彼女は皿をごみ袋に入れ、次の割れた皿を拾い上げるのでした。その出来事で私は、旧約聖書の預言者エゼキエルが、谷の上いっぱいの骨を生き返らせることができるかと神に問われた時のことを思い起こしました。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えました。
イースターによって、復活によって、「谷の上の骨は生き返ることができます」と私たちは自信を持って答えることができます。
私たちは皆、多かれ少なかれ壊れている所があります。壊れている箇所をじょうずに隠している人もいます。
イエスの宣教は、私たちの内部にある壊れた皿を修復することに焦点を当てたものでした。「わたしが来たのは、傷ついた心を慰めるためである」とイエスは言われました。

日本には金継ぎというすばらしい技術があります。
勤務する学校の校外学習で京都に行き、生徒と一緒に見学したことがあります。金継ぎの技は、割れた(粉々になったものでも)器の破片を元に戻すものです。東北で私がしたように割れた器を捨てたり、100円ショップで新しい器に買い替えたりするのではありません。金継ぎは、器の割れた隙間に漆を塗り金粉を蒔いて器を美しく修復する技です。割れた器が再び使えるようになるだけでなく、割れる前より美しくなります。金継ぎの実演を見せてもらいましたが、その時使用したのは何と東北大震災で割れた器でした。熟練の職人は細かい作業でその器をきれいに再生させました。

素晴らしい技術である金継ぎも、そしてまた私たちの信仰も、どんな接着剤を使ってもそのひび割れた部分を完全に隠すことはできません。ひび割れを恥ずかしいものとして隠すのをやめましょう。そうではなく、私たちを癒し、修復してくださった神に感謝しましょう。
私たちはかつて道に迷っていましたが、今は見つけていただきました。
以前は盲目でしたが、今は目が開かれました。
以前は死んでいましたが、今は生きることができます。

マグダラのマリアが、復活されたイエスを見て最初の証人になりました。イエスが生きておられると告げた最初の伝道者となりました。
イエスが生きておられるから、私は明日に向かうことができる。
イエスが生きておられるから、すべての恐れは消え去る。

私は知っている。イエスが未来を担っておられると。

イエスが生きておられるから、人生は生きるに値すると。


祈りましょう。

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<![CDATA[「主がお入り用なのです。」| ルカの福音書19:28-40 | 神戸ユニオン教会 | 2024年3月24日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch]]>Sat, 23 Mar 2024 05:44:38 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-1928-40-2024324-rev-mark-bartschPicture
 今日は受難週の始まりです。「ホサナ」と「主の名で来る者は祝福される」というキリスト信者の言葉から、来週は「キリストがよみがえった!本当によみがえった」という宣言へと移っていきます。しかしその移行期間の本質を見逃していませんか。それは、オレオクッキーの中身を味わわずにクッキーだけを食べるようなものです。こうなると、主イエスが神様の御名において貧しい人々を搾取する者たちを神殿から追い出し、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と力説した真意を見落としてしまいます。主イエスは、教会は説教や音楽の家であるとは言いませんでした。むしろ、祈りによる神様との関係を基礎にして建てられた家であるべきだと言います。あなたの祈りの生活はどうですか。本当に、どうですか。私達がただ日曜礼拝に来ることだけこなしていると、主イエスの裏切り、ペテロの主イエスの否定、主イエスの教えの重要な部分を見逃してしまいます。最後の晩餐、主イエスが聖餐式を命じ、弟子たちの足を洗うという彼の謙遜な行為の真意を見落としてしまいます。最も重要なことは、十字架の意義を見落としてしまいます。十字架の真意を見落とすことは、キリスト教の本質が分からず、信仰の本質を見落とすことを意味します。

世界が王の王を殺したとき、私達は単に現状維持を望む群衆の中に自分の自らの声があることを認めざるを得ないのです。私達はメシアを切望するが、私達の欲する条件下で望んでいるのです。今週をあわただしく過ごさないでください。金曜日に、一人一人のために犠牲を奉げられたことに私達は深く思いを寄せ、それに焦点を当てた厳かな礼拝を行います。礼拝の中で、十字架で主イエスが残した最後の言葉について深く味わってみます。この週は「聖なる」という称号を持つ理由があり、それはすべてのキリスト教徒にとって大きな重要性を持っています。

主イエスのエルサレムへの最後の旅を、しばしば凱旋入城と呼びます。そこには明らかな熱狂があったでしょう。去年、プロ野球日本シリーズの開催中に、私は電車の中で阪神タイガースとオリックス・バファローズの熱狂的なファンに出くわしました。両チームが日本シリーズの勝敗を競い合って、そのファンの熱気と興奮を車内で感じとることができました。エルサレムも同じ熱気が満ちていたのか、さらにもっと白熱していたかもしれませんね。主イエスは、つい最近ラザロを死者の中からよみがえらせたばかりで、この若いラビがこれから何をするのか高まった期待の中でエルサレムに入場していくのです。

キリスト教ではこの日を「棕櫚の日曜日」または「凱旋入城:エルサレム入城の日」と呼ぶのは興味深いのです。つまり凱旋入城は、ローマ文化から来ています。そこでは、将軍が大勝利を収めると、ローマ中をパレードし、彼は神(小文字god)だと宣言します。しかし、主イエスはまだ最大の勝利を収めていません(それは金曜日に起こります)が、主イエスは自分が父と一体であることを宣言するパレードは必要ありません。彼は実にそのままが事実で、私と父は一つであること、そのことにより父が十字架上で御心を成され、私達は勝利を得たのです。

エルサレムへの途中で、主イエスは2人の弟子に、近くの村に子ロバを見つけるよう指示します。そのロバは誰も乗ったことがないにもかかわらず、主イエスのところに連れて行かれました。ゼカリヤ9:9には、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなくろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」と書かれています。

3歳未満のロバに乗るのは危険とされているので、このロバが3歳ほどであることが分かっています。想像してみてください、主イエスが地上での宣教を始めたとき、3年前にこのロバはこの日のために生まれてきたのです。そのように神様は備えてくださいました。主イエスが神殿税を支払う必要があったとき、ペテロを釣りに行かせ、魚の口から2枚の銀貨を引き出しました(主イエスは神殿税を支払っており、神殿は彼の父の家でした)。私が義理の両親の家で食事をして帰るとき、その料理の請求書を受け取るみたいです。

一度も乗ったことのないこのロバは、主イエスのもとに連れて行かれることになっていました。弟子たちは許可を求めるべきではなく、なぜ自分のものでもないロバを連れて行くのかと聞かれたら、「主がお入り用なのです。」と答えなさいと言われました。これは王者が話す言葉であり、主イエスが完全に主であるという本質を具体化したものです。その時代の王や主は、単に「主がお入り用なのです。」と言うことで誰にでも接近し、彼らの財産を取り上げることができました。言われた人はそれを彼らに差し上げなければなりません。通常、王の家来は王の命を受けた身なりの人で、漁師のような身なりではありません。

私は今日のお祝いのためにシュロの枝を入手することをテッドと話し合いました。彼は店でたくさんのシュロの枝を探しましたが、見つけるのに困難を要しました(テッドに感謝)。数週間前にテッドの家を訪れ、実にテッドの近所にシュロの木があるのを見つけたのです。私はテッドに、あのシュロの枝がいるよね、と言ったら、テッドは近所のフェンスを越えてそれらを切り取りました。彼は私が伝えたとおりにしたのです。所有者に何をしているのか尋ねられた場合は、「マークがお入り用なのです。」と言うように言いました。これは、所有者との会話の後のテッドの姿の写真です。正直を言うと、この話の半分だけが本当です。 しかし、100%真実なのは、神様が用意してくださるということです。

ロバについて言うと、 ほとんどの新品は中古品よりも価値があります。セカンドストリート店に行けば、ほとんど新品の服が50%から70%引きで買えます。ロバや馬は違います。オークションでは、調教されていない馬よりも、調教された乗れる馬の方がはるかに価値があります。主イエスは一日このロバに乗り調教し、元のロバよりも価値のあるロバとして返しました。

ここには霊的な真理があります。私達が神様に何かを奉げるとき、私達の時間、才能、または資源、神様はそれらの贈り物をより大きな価値で返してくださいます。主イエスはこの特定のロバを必要としていましたが、全体的に見て、神様には何も必要ありません。神様は私を必要としませんし、あなたも必要とされません。神様は自身で充足しています。しかし、神様は私達との人格的関係に、私達と一緒にいることに喜びを見出しておられます。随分前に神様は、涼しい夕方にアダムとエバと一緒に歩いたように、私達と一緒に歩むことを欲しておられるのです。「神様は私を必要としている」と言うのは真実ではないでしょう。むしろ、「神様はあなたを求めている。」と言うべきです。主はあなたを欲しており、あなたの罪を主の血で買い戻すために主自身を犠牲にしました。(イザヤ53:5)「彼は私達の背きのために刺し貫かれ私達の過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって私達に平安が与えられ彼が受けた打ち傷によって私達は癒やされた。」

私達が召命を受けたとき、応答の仕方をビデオでお見せしましょう!

主イエスのエルサレム入城と、サムエル記下6章に登場するダビデ王の契約の箱を運ぶエルサレム入城の行列の相似は注目を惹きます。ダビデ王の高揚した神様への賛美は、王の品格に欠けると批判されながらも、神様の臨在に対する彼の喜びの大きさを明らかに表したのです。人生は挑戦に満ちています、だから誰もあなたの喜びを奪うことのないように。主イエスは私達に、明日の問題に心を奪われず、今日の問題に十分注意を払うようにと諭しています。だからこそ、私達は喜びの瞬間を受け入れることが大切なのです。

主イエスは弟子たちに使命を与え、一度も乗られたことのないロバを紐から解くように命じました。簡単な宣言で、「主がお入り用なのです。」と言うのです。私達はみんな何かに縛られています。健康的で良い縛りもあります。私が神様との関係、家族の世話、私の召命への忠誠心など、良いものに自分を縛っているときは、それらが滑り落ちないよう二重結びにします。しかし、この世のプライド、イメージ、余分なものに縛られるとき、私は神様にこれらのものを解いて、神様に奉げる力を与えてもらうように祈ります。知っていますか。聞いたことがありますか。私達はキリストの信者であり、従者として、縛るだけでなく解く権威と力と特権を神様の御旨に従っている限り、地上だけでなく、天でも与えられているのです(マタイ16:19)。

心から全きに神様を賛美すると、抵抗に遭うでしょう。ダビデ王は、熱狂的な賛美のために妻のミカルからの批判に直面しましたが、これは棕櫚の日曜日の主イエス信者を黙らせようとしたパリサイ派の人々と同じです。主イエスは、礼拝を黙らせようとする彼らの努力を叱責し、黙れと言ったとしても、被造物そのものが自発的に賛美を始めるので、それは何の役にも立たないと示唆しています。主イエスによれば、人々が黙っていれば、石が神様を賛美し始めると言います。私は石、無生物が話すとは思いません。もしかしたら私が間違っているかもしれません。私は、ロバが話せるとは信じませんでしたが、旧約聖書(民数記22:28)には話すロバがいます。主イエスが話している石は、エルサレムへの道に並ぶ墓石だと思います。各墓石には一節または聖句が書かれていました。主イエスは、これらの墓石が、主イエスが何者かを語ると言っているのです。墓石に書かれた言葉は、エルサレムに入城する主イエスにおいて、今まさに成就されようとしている神様の忠実さを語っているだけでなく、最悪の事態でも、眠りについた忠実な人々がよみがえり、主イエスが誰であるかを証言すると言います。死者は知っているからです!それが、金曜日に神殿の聖と俗を隔てる幕が裂かれたとき、人の手によって下から上へ裂かれたのではなく、神様が上から下へと裂かれた理由の一つでもあります。主イエスの復活の後で死者が都に入り歩きました(マタイ27:52)。もし私達が主を祝う義務と喜びを忘れても、死者は忘れていません。

民が熱狂的な喜びで主イエスを祝福する中、主イエスはエルサレムの町を見て泣かれたのです。ロバは自分の仕事が何であるかを知っており、主を背中に座らせてそれを果たしましたが、ダビデの都、神様の民は、自分たちの王を迎える準備をするという目的さえ忘れ、わずか3日で主イエスに背を向けました。そのため、主イエスは彼らの不従順の結果を見て、母鶏が雛を集めて守るように、彼らを集めたいと切望されましたが、民は別を選択したのです。彼らはバラバを選び望んだのです。願わくば、主イエスが再び来られるとき、私達はそうならないようにしたいものです。もう一度言いますが、主は私を必要としません。しかし、私を求めておられます。

祈りましょう。


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<![CDATA[「神にゆだねる」 (自制の実) 神戸ユニオン教会 ― 2024年3月17日 ガラテヤ人への手紙 5:22-23、マタイの福音書4:1-11 説教者:ロイ・ミスラング]]>Sat, 16 Mar 2024 15:50:07 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2024317-522-2341-11何かに精通しようと思ったら、特にスポーツの分野では訓練が必要です。
プロのアスリートは誰よりも早く練習場に来て、誰よりも遅くまで練習しています。鍛錬のため、より多くの時間とより大きな努力とより厳しい規律を自分に課しています。時間と行動を律することができれば、その分野で最高とまではいわずとも、卓越した者になれると信じているからです。そして自分の専門分野で優れた技術を身につけることができます。


このように規律には自制が伴います。たいてい何をするにも自制が必要です。例えば運動すると決めたとします。減量したい、ダイエットしたい、お腹周りの三段腹をなくしたいと思ったとします。しかし実行するには自分を抑制できなければなりません。


今の世の中は「手軽に満足できる」ものにあふれています。インスタント食品、カップ麺、インスタントコーヒー、それにインスタント妻、つまりオーダーできる花嫁まであります。

「結果を待つ必要なんかない」と言う人がいます。「何かを手に入れるのに待ちたくない、自分のやり方で手に入れたい。今すぐほしいから」と言う人です。

ドライブスルーやレストランで長い間待ちたくないですよね。列に割り込む人がいたら、頭に来て復讐したくなります。そして注文を取りに来た店員に怒りの矛先を向けたりします。または運転中に自分の前に割り込んだ車がいたら、追いついてその運転手に怒りを爆発させたくなります。


親愛なるみなさん、今日は御霊の実シリーズの最終回です。アーメン。これまでにマーク牧師とサンデースクールから多くの事を学びましたか。そう願っています。


ガラテヤ5:22-23

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。


多くの人が、おそらくみなさんもそうかもしれませんが、一番苦労しているのがこの自制であるようです。(私も時々罪悪感があります)。様々なタイプの人、様々な国籍の人が皆自分を抑制することに苦しんでいます。あなたも、ここにいる人も、あるいはほとんどの人が自制について悩んでいるのではないでしょうか。あなたはどうですか。


今までに自制について苦しんだ経験がありますか。私たちは皆クリスチャンなので、物事がうまくいっていないと、自分の中で闘いが起こっていると感じます。自制とは何でしょうか。


自制(self-control)という言葉は、ギリシャ語のENKRATEIAから来ています。ENは内側(in)、KRATOSは力(power)という意味です。つまり力を持っている状態、自己を統制している状態です。

基本的には感情、衝動、欲求を抑えることを指しています。抑制の能力のことです。


何かがほしいと思った時に拒絶する能力です。

言っておきますが、誘惑にあうのは罪ではありません。しかし誘惑がやって来た時、拒絶できますか。

親愛なるみなさん、自分の手に負えないような誘惑がやって来た時、拒絶できますか。

自制の最良の模範は、私たちの主イエス・キリストです。


へブル4:15

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。


あなたが今、どんな状況にあるのかイエスは知っておられます。あなたの苦悩をわかっておられます。あなたがもがき苦しみ、困難と誘惑にさらされているのをご存じです。だからこそ自制のことを「抵抗し、拒絶する能力」と定義しているのです。自己抑制力です。


先ほどイエスへの誘惑についてマタイ4章の聖書朗読がありました。イエスの40日40夜の断食を想像できますか。4章を見てみましょう。


マタイ4:1-2

それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。


イエスは1か月半も食事を取らず、「その後で空腹を覚えられた」とあります。普通私たちは朝食を抜いたり、食事を1、2回取らなかったりすると空腹だと訴えますね。しかしここでのイエスの空腹は、「餓死しそうなほどの空腹」です。イエスには食べ物が必要で、食べ物がほしいと思っていたはずです。

そこへ悪魔がやって来て、食べ物のためにイエスの力を使うよう誘惑します。イエスの食べ物への欲求は、はかりしれないほど大きなものだったはずです。

悪魔は言います。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」。

悪魔は、イエスの力でそうできることを知っていました。イエスもご存じでした。イエスはパンをほしいと思われたことでしょうが、きっぱりと拒絶されました。

すると悪魔は魅力的な提案を次々に出して、イエスを試みました。


悪魔はいつも、あなたに望ましいものを利用して誘惑します。

断食して空腹の時でも、悪魔は野菜サラダを使って私を誘惑することはありません。そうではなくて、レチョン(訳注:豚の丸焼き。フィリピンのごちそう料理)やステーキや寿司やイチゴケーキやアイスクリームなどを目の前に出されたら、それこそまさしく私にとって「誘惑」となります。

(主よ、ほんの少し、味見だけさせてください、と言うかもしれません)


繰り返しますが、悪魔はあなたが本当にほしい物を携えてやって来ます。自制や拒絶をあなたから取り払おうとします。

マタイ4章で、悪魔はイエスに力、能力、権威を使うよう誘惑します。「あなたは神の子なのだから、石をパンに変えられるだろう。空腹なのだからそうしなさい。あなたならできますよ。今すぐに」とイエスに言います。

そこでイエスはパンを食べるか、正しいことをするかの選択をします。


私たちには正しいことをするより、やりたいことをする欲求の方が強いのでしょうか。

あなたが正しい方を選択すれば、それは「義」と呼ばれます。


ゲツセマネの園は、イエスが十字架刑を受ける前に祈られた場所です。

イエスはこう祈られました。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」(マタイ26:39)。

この時、イエスは人間の罪をすべて引き受ければ、天の父から引き離されると知っておられました。父なる神は罪とは相いれないからです。想像してみてください。イエスは遠い過去からずっと天の父と一緒におられたのに、ここで御父から離されるというのです。イエスは心の中の葛藤を制御しなければなりませんでした。


その後、イエスは拷問と十字架刑を受けるのを自分にお許しになりました。イエスはあなたの代わりに死なれました。教会の兄弟姉妹のみなさん、よく聞いてください。イエスは私たちの代わりに死なれたのです。

イエスは正しいことをされました。自制の完璧な模範でした。

イエスの自制はまだあります。


イエスは拷問と十字架刑に際して、天からの援軍を呼ぶこともできたのに、そうはされませんでした。御使いに、ご自分を迫害している人々を滅ぼす権限をお与えになりませんでした。


マタイ26:53

(イエスは言われました)「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」。


イエスはここで、自分を捕らえようとする人々が来ているのに、自分を守る必要はないとペテロに言っています。


ところで、1軍団は何人の兵士で構成されているか知っていますか。ローマ帝国の1軍団はおよそ6千人でした。ですからイエスが言われた12軍団は、計算すると6,000人×12=72,000人となります。イエスがペテロに言われた御使いの数は、7万2千人です。


旧約聖書では、列王記第二19:35で一人の御使いが18万5千人のアッシリアの兵士を打ち殺したとあります。

再び計算すると、72,000人の御使い×185,000人≒130億人となります。もしあの時イエスが御使いに助けを求めていたなら、およそ130億人の人が御使いに打ち殺されていたでしょう。ただ、当時の世界人口はわずか推計3億人程度でした。

イエスが御使いに助けを呼ぶのをやめていなければ、イエスに自制心がなければ、どうなっていたでしょう。あなたも私も私の家族も今ここに存在していないでしょう。世界中が消え去ってしまったことでしょう。


現代に置き換えたとしても、やはり世界は消え去ることになります。現在の世界人口は約80億人なのですから、御使いの軍団に消し去られてしまいます。


Ⅱペテロ2:21-24    

このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。


親愛なる兄弟姉妹のみなさん、イエスには世界中に権威を持つ権利がありました。しかし、そうなさいませんでした。なぜでしょうか。

イエスは、あなたを、私を、あなたの家族を、あなたの愛するすべての人をご覧になりました。あなたの友人を、あなたが昨日かっとなって怒った近所の人を、そして世の中をご覧になりました。

もしイエスが死ななければ、あなたはどこにいるでしょうか。あなたの両親は、子どもはどこにいるのでしょう。


御霊の実は自制です。

みなさん、欲望と誘惑が襲ってきたとき、抑制し、拒絶し、食い止めるよう私たちは求められています。では、自制が必要なのはどういう時でしょうか。

1. 人間関係で自制が必要

誰かに腹立たしい思いをさせられた時、相手を攻撃したくなったことがありますか。ある教会員を怒鳴りかけた牧師がいました。私たちは自分を抑えなければなりません。我慢できないときは100まで数えてください。でも羊を数えてはいけませんよ。眠ってしまいますからね。


2.金銭面で自制が必要

必要以上に浪費していませんか。貯蓄に回すはずの金銭を使ってしまっていませんか。ちょっと見るだけのつもりでショッピングモールに行って、結局家族全員の買い物をしたりしていませんか。


3. 健康を維持するのに自制が必要

スケジュールを守りましょう。運動の習慣をつけましょう。継続には強い意志が必要です。適切な食事にも自制が必要です。サラダを食べたいという誘惑は来ないでしょうが、ケーキやステーキには心を惹かれます。それを拒絶する自制を持ってください。今日は食べないぞ、と。


4. 霊的に健全な身体の保持に自制が必要

運動や健康的な食生活を規則正しく実践するのは難しいことです。同じように、祈りやデボーションの時間を日々の生活の中に規律をもってスケジュールに組み込むのも難しいことです。神との関係性をより深めるためには、決意と規律と自制が必要です。


5. 罪を避けるために自制が必要

ガラテヤ書の御霊の実の前の節に、実と対比する事柄が書かれています。肉のわざとあります。


ガラテヤ5:19-21

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。


あなたはこのうちの一つや二つは経験があり、もうおしまいだ、自分は天国に行けないと思うかもしれません。しかし大切なのは最後の21節です。「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」という箇所です。

もしあなたが継続的にそれを行い、罪があなたの生き方となっているなら、文字通り神の国を相続できません。しかしイエスに罪の赦しを求めたのなら、それらの罪はすべて取り除かれています。あなたは義とされています。

私たちはみな、誘惑されやすい弱い分野を持っています。悪魔はその弱い部分を突いてきます。


Ⅰコリント10:13

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。


みなさん、神は、耐えられない誘惑にあわないよう、いつもあなたに逃げ道を用意してくださるでしょう。罪に陥らないようにする選択肢は常に存在します。

イエスにすべてを引き渡し、あらゆる重荷をゆだねれば、平安が訪れます。主よ、私の人生を支配してください。みこころにゆだねます。

わたしの願いではなく、みこころがなりますように。


おしまいに、次の聖句を読みます。ここに本質があります。


マタイ7:15-20

偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。


誰がイエスに従う人か、どうやって見分けますか。

その人の実を見てください。御霊の実を結んでいますか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持っていますか。

翻って、自分はどうですか。だいたいは持っているけど、持っていないものもある、というところでしょうか。もっと成長するよう私の内側で神が助けてくださっています。


親愛なる兄弟姉妹のみなさん、御霊の実の成長を望むなら、実の種を植え、大きくしてくれるようイエスに頼んでください。実を成長させてくれるのはイエスです。

あなたが受けたどんな傷も、どんな痛みも手放して、イエスに自分を預けてください。自分を頼らず、イエスに頼ってください。


​祈りましょう。



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<![CDATA[「親切の実」神戸ユニオン教会--- 2024年3月10日説教者: マーク・バーチ牧師 | ガラテヤ信徒への手紙 5:22-23 & ヨハネの福音書 21:15-17]]>Sat, 09 Mar 2024 12:10:07 GMThttp://kobeunionchurch.com/260852641235486123983550025945/-2024310-522-23-2115-17メッセージ: 
90年代に横浜に住んでいた頃、私たちはYUC(現在はクラウディア牧師が奉仕している場所)に通っていました。当時、第二次世界大戦で破壊された古い教会の焼け残った跡地があり、礼拝後に子供たちが遊ぶ場所でした。がれきがあるので、少し危ないのですが、私が子供だったら、遊びたい衝動にかられる場所でした。

私たちはテッドさんのような管理者がいなかったため、ある日、その場所で教会の清掃をしていました。 私は木材と燃えるものを集め、それを燃やすように言われました。しかし、木材に火がつかないのです。そこで私はガソリンをかけ、火をつけました。すると、燃えるだけではなく、爆発して、火と点火で勢いを持った気化したガソリンが、私の腰から下に当たり、文字通り、比喩表現ではなく、私の足に火がつきました。

私の足はII度の火傷と病院で診断されました。その後、私は火傷の専門医を訪れ、3日ごとにバンドエイドを剥がして薬を塗り直さなければなりませんでした。 毎回、あおむけに寝ると、おそらく50代後半くらいの看護師さんが、こう言います。「この処置は痛いと思いますが、3数えてください」と私は数え始めます。時に彼女は2まで待ち、ある時は3まで待ちますが、彼女は滑らかに、一気に古いバンドエイドを剥がしてくれます。本当に痛くて、目から涙がこぼれ落ちたこともありました。

ある日、その看護師さんが忙しかったので、看護学校を卒業したばかりの若い優しい看護師さんが代わりに来てくれました。私はいつものように横になると、彼女は「痛いと思うので、優しく処置させて頂きます」と言ってくださいました。そして、彼女はゆっくりと、私の足のバンドエイドを引き裂いていきました。これは、本当に痛かったです。そして、私が処置台の上で泣いていると、いつもの年配の看護師が入ってきて、「何をしているの?」と言い、バンドエイドを一気に剥がしました。

なぜこの話をしたかと言うと、その年配看護師さんの毅然とした姿勢とケアが世界で一番優しいものだったからです。 傷ついた人々の世界では、私たちは人々を丁寧にケアする巧みな手が必要です。カウンセリングは私が持っている才能ではありません。ですから、他者にケアを求められた時は、私自身は、いつも率直に物事を言う自分ではなく、この若い看護師のように、物事をゆっくり進めるように努めてしまいます。

私たちはヨハネの福音書1:14からイエスが恵みと真実に満ちていることを知っています。恵みと真実に満ちていて、とても重要な箇所です。私たちは、よくどちらか一方に偏ってしまいます。あまりにも正直に、率直に伝えすぎ、結果として人々を信仰から遠ざけてしまうことがあります。 

信仰に熱心であった、ある友人がいましたが、彼は夜中にトレドのバーが点在する場所に出かけ、人々に悔い改めて罪を犯すことから離れるように説得していました。もちろん失笑されました。彼は人々に真実を伝えていると言いましたが、恵みも慈悲も社交スキルもありませんでした。私は他の人々も知っていますが、何でもかんでも許容し、それが許容されたと言いますが、実際にはそうではありませんでした。そして、私たちは恵みと真実の中で、どちらか一方に感情的に落ちる傾向があり、誰もが完璧にバランスを取れているわけではありません。ですから、私は誰かと話す前に、祈ります。「神様、あなたの恵みと真実に満ちた存在となるように助けて下さい。」

その友人には、賑やかなバーではなく、静かなバーに入り、飲み物を買って座り、誰かとじっくり話す事をおススメしました。私の知る限りでは、彼は一度もそれを実行していませんし、誰かをキリストに導くことはなく、逆に彼自身のやり方を貫いたことで、人々を神様から遠ざけていたと記憶しています。

イエスは罪人や取税人と会い、話しましたが、彼らに話しかけなかったのです。これはファリサイ派がイエスに対し、問い詰めたことの1つです。イエスの兄弟であるヤコブは言います(ヤコブ3:13-16)、「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい
私たちの知恵を示すのは、キリストとの関係によってもたらされた理解からくる柔和な行いです。これはこの時代の知恵ではなく、神様のメッセージ(ロゴス)につながった知恵です。

映画『モンタナの風に抱かれて』にはロバート・レッドフォードが主演しました。けがをしたり傷ついた馬と共に仕事をする実在の男性をモデルに描かれた作品です。実在するこの男性は、次のように述べています... 冷静に自身の軸を保つこと(私たちにとっては、それが霊に留まること、または古参者が言うように、「祈り続けること」です)。それには時間がかかることを理解してください。愛情を持って境界を設定します。馬が自身の意思で、ここに来るまで待ちます。

今から私たちが見るシーンは、馬が恐怖で逃げ出した状況です。主演のレッドフォードは馬を信じながら、馬が自分のところに戻ってくるのを待ちます。まるでルカの福音書15章にある、父親が浪費家の息子が帰ってくるのを待っていたように。
そのシーンを見てみましょう。

ヨハネの福音書21章では、イエスが初期の教会の岩(土台)となるペテロを助けます。私たちは、イエスが逮捕されたとき、ペテロは近くにいましたが、その後、イエスを1度でも、2度でもなく、3度も「イエスを知らない」と言いました。イエスはペテロに質問をします。

「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか?」とイエスは尋ねます。ペテロは、「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えます。イエスは言います、「わたしの小羊を養いなさい。」まず、私たちはイエスがペテロに対して、友人としてではなく、正式にアプローチしていることが分かります。それは、彼を「ヨハネの子シモン」と呼ぶことでも示されています。

次に、小羊は小さくて弱い存在です。母羊が小羊を拒絶する際(それが起こることもあります)と、羊飼いには二つの選択肢があります:小羊をそのまま死なせるか、羊乳を搾って小羊に飲ませるかです。興味深いことに、その小羊は成長すると、群れの中の他の羊よりも羊飼いに最も忠実になります。それは、漁師でさえ知っている常識でした。

イエスは再びヨハネの子シモンに言います。「私を愛していますか?」再び、ペテロはは「はい、私はあなたを愛しています」と答えます。ここで、イエスはペテロに二つ目の使命を与えます。「わたしの羊を飼いなさい。」これは普通です。羊は(小羊と違って)自分自身で食べることができます。彼らが必要とするのは通常の命令であり、羊自身は基本的に自分のことを自分でします。

イエスは3回目に再度尋ねます。(そして私たちはペテロが3回イエスのことを「知らない」と言ったように、イエスがペテロに3回質問したことは重要です)「ヨハネの子シモン、私を愛していますか?」私たちは、イエスがペテロがこの関係にコミットするように、優しくですが毅然とペテロに尋ねたことで、ペテロの心が傷ついたことを知っています。ペテロは言います、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています。」

イエスはペテロが彼を愛していることを知っていましたが、ペテロがどれだけイエスを愛しているか、自覚していない事を知っていました。そのため、イエスはペテロに心の鏡が見えるようにしていたのです。イエスからの最後の命令は、「私の羊を養いなさい」でした。 1回目、2回目までは理解できますが、3回目は理解できません。羊はすでに自分自身で餌を食べることが出来ます。しかし、イエスは、人生のトラウマや困難のために、通常のことをする能力を失った者もいることを知っています。そういった人々は霊的なエネルギーを必要としていますが、トラウマや困難のためにそれができなくなっています。そのため、イエスはペテロに子供だけや、通常の人をケアするようにと呼びかけるのではなく、弱い者や困っている人たちをケアするようにと呼びかけています。彼らは、親切かつ真実の愛の手を通して、また健康に戻れるように導かれる必要性があります。

あなたが傷ついた羊の1人であるような気がするならば、それを自分の中だけに留めておかないでください。できれば、あなたを祈ってサポートしてくれる、しっかりした人に伝えてください。霊的に成熟した人々からサポートを受けるだけでなく、イエスにも告げ、彼があなたをケアするために彼の愛の御手であなたの心に触れさせてください。なぜなら、イエスは私たちに言います。「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙虚な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

祈りましょう。
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