今日の私の証を世界が認める2人の影響力のある人物の2つの有名な言葉から始めたいと思います。
この世に生きる価値のない人などいない。 人は誰でも、誰かの重荷を軽くしてあげることができるからだ。 -チャールズ・ディケンズ 己を知る最高の方法は、人々を助けることに没頭することである。 - マハトマ・ガンジー 先週の金曜日は、私の最愛の妻、Ofieの誕生日でした。どこかで盛大なパーティーをやったのでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、誕生日というのは、おいしい料理やプレゼントで祝い、自分を特別な存在として扱ってもらえる日であり、それが通常の誕生日を祝うやり方です。そんな風に誕生日を祝われるのが嫌いな人なんていないでしょう。祝福に満ちた誕生日は最高ですよね。 先週の金曜日も祝福に満ちていました。なぜだか分かりますか? それは、先週の金曜日、私たち家族がそれぞれ仕事と学校が終わってから、私と子供たちは三宮駅で待ち合わせをしました。私たちは仕事と学校で疲れていましたが、Ofieの誕生日を祝うことができて幸せでした。みんなで美味しいバーガーキングのハンバーガーを買いました。みんなバーガーキングのハンバーガーは大好きですよね。買ってから、神様にお祈りをしました。 こんな祈りでした。 主よ、私たちに与えられたすべての恵みに感謝します。食べ物、家、仕事、そして私たちの生活。ママの誕生日に感謝します。さらに私たちを祝福ください。主よ、その祝福が他の人々にも及びますように。主よ、私たちが買った食べ物で助かるホームレスの人たちがいないか、導いてください。彼らが必要としているものを満たすために、私たちもイエス様の愛を分かち合うことができますように。アーメン このように、私たちはオフィーの誕生日を祝うために、夜の三宮の街を2時間かけて歩いたのです。それは、キリストのために失われた人々を探し、救うという、最も喜びに満ちたお祝いなのです。そういった人達を探し、何人かに食べ物と聖書を与え、彼らのために祈りました。 兄弟姉妹の皆さま、真実はこうです。喜びは、受け取ることではなく、与えることにあるのです。真の幸せは、イエスが私たちのために命を捧げ、私たちが救われるようにされたことに従う時に訪れるのです。それが真の喜びです。他人のために自分を捧げる喜び。 私たちは過去7年間、家族の誕生日を祝う時は、このように祝ってきました。実際の食べ物だけでなく、最も重要なのは、私たちの主イエスを知ることから来る霊的な食べ物(霊的に人間が必要とするもの)です。神に感謝しましょう。 三宮では4~5人の方に食事と祈りを捧げる事ができました。 毎年、ほぼ同数の人達に恵みを与える事が出来ています。 そして、昨年、「主よ、私たちはもっと祝福を与えたいのです」と主にお願いしたことを思い出しました。「もっと多くの人にキリストの福音を伝えたい」と主に祈りました。 そして、主はその祈りに答えてくださいました。 昨年10月10日、私はMMIM教会とKUCの弟子伝道のミニストリーの企画委員に参加する機会がありました。私たちは、日本のホームレスの人々に希望と救いの福音を伝えようと計画しました。 私たちは、神様が私たちを導いてくださる場所を求めて祈りました。その答えがやってきたのです。Ofieは以前その近くでアルバイトをしていたので、ホームレスの人たちがたくさん集っている場所を知っていました。彼女自身もこんなにたくさんのホームレスの人たちを見たのは人生で初めてと言っていました。町中がホームレスだらけという感じです。どこに行っても、寝ていたり、酒を飲んでいたり、ただ路上でくつろいでいたり。ホームレスで溢れかえっている町。その場所とは、大阪の天王寺に近い新今宮駅付近でした。 どの様に伝道できるかを、祈り、計画する必要がありました。 そして祈りました。「主よ、ここは私たちに伝道させたい場所でしょうか?」その答えは「はい。」でした 私たちはギデオンズ・バイブル・ジャパンと調整し、無料で配布する40冊の日本語の聖書を手配し、次に、福音の言葉が書いてあるものを購入しました。また、コストコでホットドック40個と飲み物を買ったのです。私たちは日本語がそれほど流暢ではないので、彼らに何を話すかを紙に書き留めました。英語で書いた原稿を、宮谷恵深さんをはじめとする、日本人の友人たちが日本語に訳してくれました。(めぐさん、ありがとうございました。) その場所には7人で行きました。私たちは、このような場所に行くのは初めてだったので、少し緊張していました。安全かどうかも心配でした。でも、これは神様の御業であって、私たちの御業ではない、と神様を信頼しました。神様の御業であれば、神様が導いてくださる場所では、神様が守ってくださり、与えてくださるのです。私たちは2つのグループに分かれ、素早く伝道できるようにしました。 最初のスライドは、私たちが伝道することができた男性です。このように、彼はとても熱心に話を聞き、そして祈ってくれました。この写真では、私が祈ったイエス様を救い主として受け入れる言葉を男性が復唱し共に祈りました。 次の2枚目のスライドでは、彼らが道に並んでいる様子を見ることができます。VickoとCamille、JoyceとMarion牧師がホームレスのために祈っているのが見えます。ホームレスの人たちのために祈っているのがMarionさんです。 3枚目のスライドでは、この男性が聖書を読んでいるときの喜びを見ることができます。食べ物を受け取ったとき、彼の目には喜びがありました。祈ってもらった事が嬉しかったのだと思います。 4枚目、雨が強くなってきましたが、私たちの目的は変わりません。何があっても、この人たちに食べ物と福音を届けることです。この人たちは主を必要としています。私たちはこの目的のために神から遣わされたのであり、雨が降っても、彼らにキリストの福音伝道は止まる事はありませんでした。 5枚目のスライドにあるように、私たちは通りの真ん中で、この人たちのために大きな声で祈っていました。他の人にもイエスの御名が聞こえるように、わざと大きな声で祈っています。 6枚目、この方は知的障害者です。大声を出して、独り言を言っていました。実は、Ofieはこの人がちょっと怖かったんです。しかし、私が福音を伝え、祈ったところ、彼は静かになり、彼も祈りました。そして、食べ物や聖書を喜んで受け取ってくれました。 7枚目から9枚目は、私たち自身がキリストの愛を分かち合うことに夢中になっている写真です。私たちは皆、神様に遣わされ、この人たちのために使命を果たしていたのです。みんな共通の目的に向かって団結していました。 最後の写真では、もっと沢山のホームレスがいるのに、聖書と食料が足りなくなった時の写真です。もっと多くの食料と聖書を持ってくればよかったと言っていた場面です(残念!) 私たちは、この人たちの心に神様の言葉を植えることができたと思い、また来たい、もっと与えたいと強く思いながら帰路につきました。アーメン! 喜びは与えることにある! その通りだと思います。 それが、冒頭に掲載した質問につながります。「街角でイエスを見る事ができますか?」 答えは、「できます。」です。私は街角でイエスに会う事ができます。イエスが「これらの最も小さい者にすることは、わたしにするのです。」と言われるからです。 兄弟姉妹の皆さん、これはイエスが街角にしか現れないという意味ではありません。 イエスはあなたの家族の中でも見る事ができます。 イエスはあなたの仕事場でも見る事ができます。 イエスはあなたの教会でも見る事ができます。 イエスにはどこででも見る事ができるのです。 困っている人がいたら、イエスはいつでも親身になってくれる事を覚えておいてください。 なぜでしょうか?なぜなら 私たちが彼らに食べ物を与えるとき、私たちはイエス様に食べ物を与えます。 私たちが彼らに衣服を与えるとき、私たちはイエスに衣服を与えます。 私たちが彼らを訪問するとき、私たちはイエスを訪問するのです。 この教会にいる皆さまにお伝えしたいのは、常に主が望んでおられる事を行うという事を忘れないでください。 ただ教会に行くだけでなく、「教会に出向き、自分自身が教会になる」ことです。 私たちはこの世界における神様の手であり足なのです。神様の愛は私たちを通して他の人々に流れていきます。 私たちが出会うすべての人々に祝福を与えることができますように。 主が「誰を遣わそうか?」と問われたとき、こう答えることができますように。 「主よ、私を遣わしてください。」 祈りましょう。
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神戸ユニオン教会のファミリーの皆様、こんにちは。 美しいカリフォルニア州テメキュラからご挨拶申しあげます。そう、私はもうロングビーチにはおりません。そして、これまでに多くのことに変化が生じました。皆さんにお会いするために日本に帰りたかったのですが、コロナや私の身の周りの状況によって、それがかないませんでした。
チャック(夫)と私が神戸で皆さんと一緒に過ごしたのはずいぶん前のことのようです。この間、神様によって私が経験した紆余曲折、試練、勝利についてお話ししたいと思います。 クラウディア牧師がヨブについて語った説教はとてもよかったです。私の場合は、それほど劇的な状況ではなかったにしろ、短期間のうちに、慣れ親しんだ快適な生活のすべてを奪われたような気がして、共感できる部分がたくさんありました。 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、チャックは2012年に極めて進行性の悪性前立腺癌と診断され、余命2~4年と宣告されました。手術、化学療法、放射線療法が必要だと言われましたが、それでも克服できる保証はないと言われたのです。私たちはすでに何年にもわたって自分たちの伝道活動を通して多くの癒しの奇跡を見てきたので、彼は導かれるように私たち家族は彼の癒しのために神様を信頼することに同意しました。定期的に検査を行いましたが、癌が転移して広がっていないことにいつも驚きを隠せませんでした。私たちは、80年代半ばに始めたビジネス、フォーリン・バイヤーズ・クラブ(FBC)を営業するために日本に通い続け、神戸ユニオン教会と密接に働くようになったのです。私たちの人生は祝福されたものでした。神様は私たちに4人の娘を与え、その娘たちは皆、素晴らしい夫と結婚し、私たちが住むのに快適な家を常に与え、私たちの必要を満たしてくれました。 日本を発った時、私たちはコロナが収束するのを待ち、そのまま日本に戻り、ビジネスを再開するつもりでおりました。その間、私たちは、FBCを休業するよう働きかけ、フルタイムの伝道活動に専念していたのです。チャックは KUCと皆さんに奉仕することが大好きでした。しかし残念なことに、アメリカに帰国後間もなくして彼の健康状態が悪化し、FBCの経営も同様に悪化してしまいました。2020年後半から、私たちは事業を縮小し始めたのです。2021年の5月には、癌が全身に広がってしまい、彼は足が不自由になり、FBC事業は正式に閉鎖してしまいました。最愛の親友であり、ソウルメイトである彼がすべてを失うのを見るのは、心が締め付けられるような思いでした。この時期、クリスチャンの友人たちの祈りとサポートが、私の命綱でした。病院に来て祈ってくれたり、ズームで一緒に祈ってくれたり、様々な方法で励ましてくださいました。6月28日、私は彼が息を引き取り、主のもとへ行くのを見送ったのです。突然、一瞬にして私の親しんだ人生は終わったのです。不思議なことに、私はとてつもない平安を感じ、それは聖霊からしか得られないものだと知っていました。最初の数週間、数カ月は、最愛の親友がいない生活の細かい必要なことを整頓していました。この間、この平安が私を支えました。しかし、時間が経つにつれて、私は虚しさと目的のなさを感じるようになったのです。私たちには将来について多くの計画があったので、今や自分には将来がないと感じだしたのです。チャックとケリーとして知られていたのに、チャックなしでどうやって伝道活動が出来るのだろう。チャックなしにはケリーは存在しないような気がしたのです。彼はカリスマ的な存在で、社交的で、外向的で、私は彼のサポーターでした。彼がいなくなり、私に何ができるのでしょう? 絶望の中、私は自分自身を孤立させ、健全な方法で自分の悲しみと向き合うことが出来ませんでした。孤独で暗い道を進んでいた私は、ついに手を差し出し助けを求めました。神様は賛美に値する方で、私たちに何かを強制することはありませんが、手を差し出せば、私たちのために状況を好転させることができるのです。 2022年6月、末娘マディの夫がテメキュラでの仕事を得て、私の長女クリスティンとその家族がすでに引っ越していたテメキュラに、一緒に引っ越さないかと誘われました。奇跡的にクリスティンの家から通りを隔てたところに家が見つかったのです。私は自分の悲しみと、喪失感への不健全な過ごし方に取り組むためにカウンセリングを受け始め、クリスチャンの素晴らしいコミュニティを見つけて交わりを深めました。今、私はカウンセラーになるための訓練を受けています、そして、壊れてしまった私を神様がどのように他の人のために使っておられるかがわかります。 チャックと私は、クラウディア牧師が説教の中で述べたローマ人への手紙8章28節という聖書の一節をいつも心に留めて生きていました。それを一言で言うと「以前より良くなる」です。 私はまだ毎日チャックを恋しく思いますが、もう自分に未来がないと思って暗闇の中で生きることはありません。私の未来は明るいのです。私の周りには4人の娘とその夫、そして6人の美しい孫たちがいます。 私たちは皆、人生の中で大変なことを経験します。主イエスはヨハネの福音書16:33で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言います。また、ローマ人への手紙8章28節「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」主はすべてのことを働かせて益としてくださると約束しておられます。あることだけではなく、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。 だから、自分自身の苦難を経験するとき、心に留めておいてください。神様を責めないでください。神様は助けてくださいます。孤立しないで、誰かに手を差し出してください。そして、いつもお互いのために祈りましょう。あなたの祈りは、あなたが思っている以上に力強いのです。 何かがあなたを悩ませている。何かがあなたを落ち込ませている。 何かがあなたを苦しめている。何かがあなたを許そうとするのを邪魔している。何かがあなたを疲弊させている。
今、目を閉じて、呼吸してください。本当に呼吸してください。お腹の底から深く。 (日本人が"気 "があると言う場所です) 息を吸って吐く - 呼吸で妊娠しているくらいにお腹を大きく。 ヘブライ語で "ruah "または神の息と呼ばれるものを吸って、吐いてください。あなたの頭、あなたの心、そしてあなたの体のすべての部分、特にあなたがストレスや痛みを感じる部分に、あなたの呼吸で神の息を吹き込んだところまで呼吸を続けてください。 祈るように呼吸をする。神の息吹よ、私に吹きかけてください、新たな命で私を満たしてください。アーメン。 ヨブ記27章3-4節には、「私の内に命があり、神の息吹がまだ私の鼻にあるかぎり、私の唇は不正を語らず、私の舌は嘘を言わない」と書かれています。ヨブ記では、ヨブがいかに大変な思いをしているかが読み取れます。英語では困難な状況にある人や状況を表す慣用句があります。誰かが "a devil of a time "を抱えているという言い方をします。 さて、この場合のヨブは、文字通り "a devil of a time "を抱えているのです。 36の長い章の中で、ヨブはすべてを失いました。子供たち、家、富、牛、羊、使用人、社会的地位・・・そしてこの物語の中で悪魔はその背後にいます。 ヨブでなくとも、苦しむことの意味はわかります。私たちの多くは、神の沈黙のような痛み、あるいは苦痛を経験したことがあるかもしれません。(詩篇13:1「主よ、いつまで私をお忘れになるのですか。いつまで私から御顔を隠されるのですか」)。 本当の闘いは痛いものです。それは私たちがいつも気づかない方法で私たちに印をつけます。私たちの人生に刻まれた傷跡を理解し始めるまでに、何年もかかることもあります。その結果、私たちは傷つき、残りの日々を過ごすことになるのです。あなたやあなたの知り合いは、大切な人を亡くしたり、就職できなかったり、大学に行けなかったり、夢を先延ばしにされたことがありますか?(ラングストン・ヒューズの詩「A Dream Deferred」参照)箴言にあるように、"先送りされた望みは心を病むが、かなえられた望みは命の木 "なのです。(箴言13:12) シスター・ジョアン・チティスターはかつて、「苦労は私たちを人生のある地点に導き、その地点から新しい人間に変える。時には前より悪く、多くは前よりも良く、しかしながら常に異なる人間に」と言っています。 私たちは人生において闘争を避けることはできません。多くの場合、それは私たちの心の奥底で行われます。外敵は、内なる敵、私たち自身が作り出した敵ほど、厳しく、有害で、破壊的なものはありません。それは私たち自身のリスト、プライド、貪欲、嫉妬、怒り、PTSD、中毒、大食、許しの欠如、落胆、自己価値の欠如など、私たちをダウンさせるものです。生来の情、謙虚さ、自己知識、正義と勇気こそが、私たち自身をより良い自分にするものです。 私たちは使徒パウロと同じように言うことができるでしょうか。十分な食料があっても、空腹でも、豊かな生活でも、欠乏でも、どんな状況でも満足できる秘訣を学びました。(ピリピ4:12) でしょうか。しかし私たちは常に「どんな状況でも満足」することができるでしょうか? 例えば、"私は何年もの慢性的な痛みに耐える術を知っている"、"私は経済的な困難に直面する術を知っている"、"私は裏切られる術を知っている"、"私は愛する者の死について悲しむ術を知っている "と実際に言えるでしょうか? 時々、私たちは人々がヨブの「忍耐」、「我慢」、「耐久」、「根気」(少し違う言葉-どの聖書翻訳を使うかによって異なります)について話すのを聞いたことがあるかもしれません。 この「忍耐」という言葉はヤコブ5:11にあります。「私たちは忍耐している人を幸いな者と思っています。あなたがたはヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。ヤコブはそう思っていても、ヨブはそう思っていません。 少なくとも最初はそうではありませんでした。ヨブの最初の反応は、生まれてこなければよかったと思い(ヨブ3:3)、次に天に向かって神との一対一の対決を呼びかけることです。(ヨブ10:1-3、23:3-5)この危機の中で、彼の友人であるテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ゾファルは彼に慰めと彼らの知恵を提供しようとします。そのため、彼らは非常に長い間、36章の大部分にわたってヨブに説教をします。 ヨブは彼らを「慰めるふりをする人」と呼び(ヨブ記16:2)、ほぼ全編にわたって彼らと議論しています。 あなたの人生において危機に瀕したとき、友人や教会でさえも役に立つような対応をしてくれなかったことはありませんか? 私は友人たちが、私が何をすべきかをアドバイスしようとするのではなく、ただ一緒に座っていてくれればよかったのにと思うことがあります。もちろん、状況にもよりますし、誰がアドバイスするのかにもよりますが。しかし多くの場合、必要なのはただ話を聞くという存在なのです。 とにかくヨブ記の最後に、主はヨブの仲間もヨブを慰めるのにあまり良い仕事をしたとは思っておられません。 聖書の中に、「主がヨブにこれらのことを言われた後、テマン人エリファズに言われた。「私はあなたとあなたの二人の友人に怒っている。なぜなら、あなたは私のしもべ、ヨブのように私について真実を語らなかったからだ」(ヨブ記42:7-8) 友人の言葉にもかかわらず、ヨブはなぜか神を信頼することができました。「私は自分の潔白さを否定しない。私の良心は、私が生きている限り、私を責めることはない」 (ヨブ記27:5) ヨブ記を通して、ヨブは自分の心が正しいこと、自分の良心がはっきりしていることを知っていたので神に正義を求め続けました。しかしヨブ記の最後には、ついに神が語られ、ヨブはただ敬虔に顔を伏せました。彼は主の前にへりくだったのです。 ヨブは自責の念や罪悪感、敬虔な説明には屈しないのです。彼は次のような宗教的な議論を拒否しました。 -自業自得だ。 あなたは自分の罪のために罰せられている。 -これはすべて神の意志である。 -もし本当に信仰があるなら、悲しむことはない。 -もっと信仰を持てばいいだけだ。 これは誰かをどのように感じさせますか?どんなに誠実な慰め人たちでも、私たちの悲しみの深さを理解することはできませんし、いつも正しい言葉を正しい調子で話すことも、刻々と変化する私たちのニーズを見極めることもできません。しかし、「わたしはいつもあなたがたとともにいる」 と約束してくださった人がおられます。(マタイ28:20) ヨブは自分が正しいという感覚を持ち続け、自分の感情を感じ、悲しみ、苦しみ、不公平に怒る権利を持ち続けました。 私たちは自分の感情を持つ権利があり、他の人にそれを否定されないようにしましょう。神は私たちの怒り、痛み、フラストレーションの叫びを受け止めることができます。 神がずっとヨブに耳を傾けておられたように、私たちに耳を傾けてくださいます。 最後に、「その時、主は嵐の中からヨブに答えられた。」(ヨブ記38:1) 神は、燃える柴、風、嵐、そして静かな小さな声など、時に最も思いがけない方法で私たちの前に現れてくださるのです。 神はヨブの質問をすべて聞き、ヨブの友人たちの答えを聞きましたが、主はさらに4章に渡って質問されました。 神は神であり、ヨブはただの人間であることをヨブに示すために、神はヨブにたくさんの修辞的な質問をしているのです。そして、神はすべてのことを行うことができるのだということを。 もう一つ言いたいのは、神は私たちのために計画を立て、私たちにとって良いこと、最善のことを望んでおられるのに、私たちがそれを台無しにしてしまう、あるいは予想外の状況によって台無しにしてしまう、あるいは予想外の災難に見舞われてしまう、ということがあります。 しかし、私たちが神がそこにおられることを知りながら生きていくことができれば、神はその困難を神の栄光のために用いてくださいます。また、私たちが一人で奮闘できないとき、必要な時に支えてくれる思いやりのあるコミュニティがあることを祈ります。 誰も苦しみたいとは思わないし、苦しんで喜ぶこともないでしょう。しかし、神は私たちが直面する苦しみを旅の燃料として使うことができるように助けてくださいます。また、神は私たちを助けるために人を遣わすこともできます。 苦しみを経験した人は、他の人を癒す人になることができます。 ヘンリ・ヌーウェンは1972年の著書『The Wounded Healer』の中で、「私たちの奉仕は、私たちが語る苦しみに傷ついた心からのものでなければ、本物として受け止めてもらえないだろう」と書いています。 多くの場合、最も効果的な癒し人は、ただ傷ついただけでなく、その傷そのものが他の人々への奉仕や癒しに使われるような空間を実現し実践できる人なのです。おそらくヨブは、苦しんでいる他の人々を助けるようになったでしょう。 おそらく彼は、助けを必要とする人々を助け、癒すことができたでしょう。ヨブが次にどうなるかは、彼が再び祝福されること以外にはわかりません。 しかし願わくば、私たちは自分が経験した痛みや苦しみを同じような経験をした他の人たちのために役立てることができたらと思います。 願わくば私たちが癒された後、他の傷ついた人たちを助けることができればと思います。私たちはこれを一人で行うのではなく、私たちのコミュニティと祈り、そして神が私たちを見捨てないということを知ることによって行うことができるのです。 私たちは一人ではありません。 災害や予期せぬことが起こります。 私たちは苦しむかもしれません。しかし、私たちにも自由意志があり、自分で選択することができます。多くの場合、それが必ずしも最善の選択であるとは限りません。 そのため、私たちは向きを変えなければならないかもしれません。プランBやプランCに移ります。 神は、私たちが神のプランAに従わなかったことに失望されるかもしれません。 しかし、神は私たちが失敗しても、私たちと共にいてくださいます。 私たちが迷ったとき、神は私たちとともにおられ、神の聖霊が私たちの進むべき最善の道へと導いてくださいます。 私たちは再びつまずくかもしれませんが、神は決して私たちのもとを去ることはありません。神はいつも私たちを捕まえ、抱きしめ、道を示してくださいます。 “そして、神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された者たちのために、神がすべてのことを働かせてくださることを、私たちは知っているのです。” (ローマ人への手紙8:28) 私たちの教会や地域社会には、困難な状況に置かれている人々がいます。 私たちは、お互いに祈り、支え合う方法を見つけることができます。神は私たちの人生経験を神の栄光のために用いてくださいます。 聖書にある通り、「私たちの主イエス・キリストによって、また霊が与えてくださる愛によってお願いします。どうか私のために私と一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ人への手紙15:30) 「私たちをあらゆる悩みの中で慰めてくださる神に賛美あれ。私たち自身も神から受ける慰めをもって、どんな悩みの中にいる人も慰めることができます」(第二コリント1:3-4) イエスはあらゆる悲しみを見、あらゆる悲しみの叫びを聞き、あらゆる苦しみを知っておられるのです。「私たちが自分の靴で歩くことの意味を知っている人を探すとき、イエスが私たちの苦悩の傑出した真の伴侶として現れる」とは、牧師であり作家であるザック・エスワインの言葉です。(スポルジョンの悲しみ』85。私たちには、悲しみに通じている悲しみの人がいて(イザヤ53:3)、私たちの道を導いてくださいます。 ヨブの物語は42章で終わりますが、私たちの物語は神の聖霊が私たちを助け、互いに助け合うことで続いていきます。そして、私たちに命を吹き込んでくださった神は、決して私たちを見捨てない神であることも忘れてはいけません。 今一度、呼吸する時間を持ちましょう。吸って、吐いて。イエス様が私たちの卑しい体に命を吹き込み、栄光のうちに引き上げてくださるとき、それは壊れている他のすべてのものの終わりになると確信できます。 カリフォルニアのチャック牧師の未亡人ケリー・グラフト牧師に、証しの一部を語っていただきたいと思います。そこにはもがき、闘いも含まれます。けれども祈りと、コミュニティに助けられました。神はケリーの人生に目的を与えられました。私たち皆が、人生の闘いにあっても、神からの目的が与えられているのだという感覚を持つことが必要です。 チャック牧師は2021年6月28日に天に召されました。彼に対する記憶が永遠にとどまりますように。 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。われらの岩、われらの贖い主、主よ。(詩篇19:14)アーメン。
牧師として日々様々な働きに関わらせていただきますが、私が一番好きなことの一つは、誰かと一対一で座って話をすることです。お互いのことを知り、話を共有し、今人生や信仰の歩みの中で何が起こっているのかを聞き、話す時間が大好きです。 私は「こんにちは、お元気ですか?」「ええ、元気ですよ。」というような毎日自動的に私たちがやり取りをするような、世間話のことを言っているのではありません。人生において私たちが直面する真実、美しさ、葛藤、痛み、悩みなどを共有できるような、深い、真の交わりの時間の事を言っています。 しかし、私は全ての人がコミュニティを持ち、自分に正直でいられる場所、辛い時に辛いと言える場所、見下されたり批判されたり罰せられることを恐れずに助けを求められる場所があるほど幸運ではないこともわかっています。時には、あるいは人によっては、コミュニティーの中で本当の自分を分かち合うことを困難に覚えている場合があるでしょう。 今日の聖書朗読箇所は、まさにそのような状況を長いこと体験している女性についての物語を語っています。 この女性をもっと詳しく紹介できればと思います。しかし、聖書は彼女の健康問題以外、彼女に関する情報をあまり与えてくれません。今日の聖書箇所の冒頭でヤイロという人物が会堂管理者の一人として紹介されていますが、私が今日一緒に見ていきたい女性は名前や役職を紹介されることもなく、彼女に関する記述にはこのようなことしか書かれていません。 「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」(マルコの福音書5:25-26) この記述、そしてこの記述が書かれた文脈を考えるとき、私たちはこの女性が経験したはずであろう知られざる孤独と苦しみの物語をたくさん考えることができます。 まず第一に、イエスの時代の人々にとって、そしてそれ以前の人々にとっても、イスラエル社会において出血(血の漏出)は不純や汚れのしるしとみなされていました。出血している人は、出血の期間が続く限りいつまでも汚れていると見なされました。(レビ記15:25)出血している者は、社会から追放された者でもありました。なぜなら出血している者は汚れており、その汚れを神聖な会堂、その他人々が集うところに持ち込んではならないと考えられていたからです。それゆえ、出血している者には、居場所、コミュニティがありませんでした。 通常であれば、出血が止まるのを待って、清めの儀式を行えばよいだけなので、それほど深刻なことではありません。それに、大抵の場合、出血はそんなに長く続くものではありません。切り傷は数分で血が止まるし、もう少し長く続くものもあるが、出血が原因で長い間コミュニティから遠ざかることはたくさんあることではなかったでしょう。 しかし、この女性は12年間も出血を続けていたのです。12年間、地域社会から孤立し、孤独を味わっていました。12年間です。自分の人生のこの12年間を振り返ってみてください。その間にどれだけのことが起こったでしょうか?私の場合、この12年間に3人の子供の母親になり、学校に戻り、卒業し、牧師になり、3回国を跨いで引っ越しをしました。 これらの事は大変なことで、私たち家族は、私たちを取り囲むコミュニティの愛とサポートなしには、これらをやり切ることはできなかったでしょう。 しかし、この女性は、この12年間、一人で苦しみ、葛藤と孤独に満ちた人生を送ってきたのです。彼女の苦しみは、汚れているとみなされることから来るものだけではなく、幾重にも重なっていました。時間、お金を使い、自分が持っているものすべてを使って、良くなるためにできることは全てしました。しかし、身体的、精神的、経済的な投資にもかかわらず、彼女の状態は良くならないばかりか、むしろ悪化していったのです。 そんな彼女を、人々はどのように見ていたと思いますか?彼女は、きっと変な意味で有名だったのでしょう。永遠に汚れたままの人、人生全体が絶望的な状況にある人としてコミュニティから見られ続けていたのではないでしょうか。 またヨハネ9章の盲人の話のように、彼女の出血は彼女自身の罪の結果なのか、それとも彼女の先祖の罪の結果なのかと追求する人々もいたのではないでしょうか。 また、癒されないのは信仰が足りないからだと思った人もいたかもしれません。 あるいは、そのように彼女を見なかったとしても、彼女が抱える問題があまりにも大きいため、自分には解決策がないと感じて、どう接していいかわからず、彼女を避ける人もいたかもしれません。 しかし、差別や偏見、さらには孤立を経験しながらも、彼女は引き続き医者の元に通いました。彼女は諦めることなく、決意を持って前を向いていたのです。けれど12年という月日の中で、「もう本当にだめかもしれない」と落胆する時も多くあったことでしょう。絶望的な気持ちになり、人の声に耳を傾けられず、孤独が深まる瞬間もあったでことでしょう。自分の苦しみに耳を傾けられることのない12年間、彼女は自分の苦しみが見られ、聞かれ、理解される日は来ないのかと考えたに違いないでしょう。 医者に行くたびに、「今度こそ、この医者が私を助けてくれるはずだ。やっと、トンネルの先に光が見えてきた!」と思っていたかもしれません。しかし、そのたびに、症状が改善せず、癒されない度に、挫折を味わい、失望し、絶望感を募らせていったことでしょう。 このような状況のなかで「神様はどこにいるのだろう」と思うのが自然ではないでしょうか。 しかし、この日は違いました。この日、イエス様は船に乗り、彼女が住む街の海側に渡ることを決められました。(マルコの福音書5:21) 向こう岸に着き、イエス様が会堂の指導者であり、社会的地位の高いヤイロとやりとりをしている時、長血で苦しむその女はイエス様に会う、イエス様に触れるチャンスを得るため、行動することを決めたのです。今度こそこれが癒される最後のチャンスかもしれない。だったらその機会を掴まなければと。 もちろん、彼女が置かれた状況を考えるとき、大群衆(マルコの福音書5:21)の中にいるイエス様に会いに行くことが、彼女にとっていかに困難なことであるかが想像できます。イエス様はすでに奇跡を起こす人、癒す人としてこの地方で知られていたので、行く先々で多くの信奉者に囲まれていました。 出血が続き、汚れたままとされる女性として、大勢の群衆の中に混じるということは、間違いなく避けるべきシチュエーションの一つでした。律法では、出血したままの人が触れるものはすべて汚れたものとされています(レビ記15章)。ですから、出血している人間が汚れを広めないために、集団に近づくべきではないことは当時の暗黙のルールであり、それを破って、群集の中に混じることは大きなリスクだったのです。それに加え、彼女はきっとこの12年の間様々な人から色々な事を言われていたに違いありません。 「あなたはまだ汚れているから、ここにいてはいけない」。 「自分の人生を振り返って、どこで神様に背いたのか見つめて悔い改めるべきだ。」 「もっと強い信仰を持てば癒される。」 「もっと祈れば癒される。」 そのような言葉をかけなかったかもしれないが、何も言わない代わりに、意地悪な視線を彼女に浴びせかけた人たちもいたかもしれません。彼女は清いものが集まるこのコミュニティに属することはできないと。 彼女の話を聞くこともなく、ただただコメントし、解決策を提示する。彼女を話を聞くべき一人の人間として見ず、解決すべき問題のように扱う。そんな風にとり扱われていたとしたらますます彼女の孤独は深まったことでしょう。 論理的に考えれば彼女には懸念がありました。今まで多くの医者にかかりながら彼女の病気は癒されるどころが、どんどん悪くなったのです。話に聞くイエス様が、今までたくさんかかった多くの医者よりも優れているのか、彼女には想像もつきません。 しかし、彼女はそのような疑念を抱きながらも、イエス様に会いに行くことにしました。なぜなら彼女は次のように信じていたからです。 「(イエス様の)お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」(マルコの福音書5:28) 彼女はイエス様が自分に話しかけてくれるとは思っていないし、皆の前で彼女の問題を取り扱ってもらえるとも思っていないのがこのコメントからわかります。彼女は 「イエス様が私に気づいたら、彼が私を見たら、彼が私に触れたら、私は良くなる 。」と言ったのではなく、「(私がイエス様の)お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と言ったのです。 そんな風に遠慮がちにイエス様に近づくプランをたてる彼女ですが、彼女は絶対的な確信を持っていました。彼女は自分がイエス様の衣の裾に触れるほど近づきさえすれば、自分は良くしてもらえるという事を完全に信じていたのです。 実際、28節にある「きっと直る」という箇所はギリシャ語で見てみると非常に強い意味を持ちます。「きっと直る」は、直ることが確実に起こるという意味を持っているのです。つまり、回復、癒し、さらには和解が絶対に起こるという意味を表しています。 この女性にとって、群衆の中にいるイエス様に会いに行くことは一大事なことでした。12年間汚れたままの女性が群衆の中に紛れこみ、イエス様の着物に触れようとすることは、大きなリスクを伴いました。彼女は、汚れから清められなければ社会と交わることはできないはずでした。汚れたままで宗教指導者に故意に触れることは、宗教指導者を汚すことになる。それは捕まるに値するリスクのある行為でした。 しかし、今日こそは何かが変わる。最後の望みをかけ、絶対に直るという信仰を持って彼女は群衆の中を通り抜け、イエス様のすぐ後ろまで行き、イエス様の着物に触れました(マルコの福音書5:27)。 その瞬間、すべてが止まったのです。 12年間続いていた出血が止まりました(マルコの福音書5:29)。 イエス様は、自分のうちから力が外に出ていったことに気づき立ち止まりました(マルコの福音書5:29-30)。弟子たちは、イエス様が立ち止まったので、立ち止まりました。群衆も、イエス様と弟子達が止まったので、止まったのです。 その瞬間、イエス様と女の心はつながりました。彼女の癒されたいという願いと、イエス様の癒したいという願いが一致し、出血が止まったのです。 その瞬間、彼女は何が起こったかをすぐに理解することはできませんでした。後に彼女は自分に起きたことを理解しましたが、誰にも言うつもりはありませんでした。実際、イエス様が群衆に「だれが私の着物にさわったのですが」と言われたとき、彼女は恐れをなしたのです。(マルコ5:30&33) 弟子たちはイエス様の疑問を退けようとします。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれが私にさわったのか』とおっしゃるのですか。」と弟子達は答えます。群衆の中で誰かが押されて、たまたまイエス様の着物に触れただけかもしれない、そんな風に弟子達は言おうとしていたのかもしれません。 しかし、イエス様は、起きたことが偶然の事故ではないことを知っていました。イエス様は、短い一瞬の時間、力強い交わりを経験したのです。力強く、計画的で、勇気のある信仰を持った者が自分に繋がり、自分に触れ、自分に癒しを求めていることに気づいたのです。(マルコの福音書5:30) そして、この力強い交わりを経験した瞬間、イエス様は交わりを、癒しを強く求めたその者に会いたいと思われたのでした。 イエス様は、自分の着物に触れた人が誰なのか知ろうとして、周りを見回し始めました(マルコの福音書5:32)。その瞬間、女性は選択を迫られました。彼女は黙っていることを選ぶこともできたのです。イエス様に触ったのが誰なのか、まだ誰も気がついていないようでした。ですから、彼女は自分が受けた癒しだけを受けとって帰る、つまり、捕まる危険を冒さずにこっそりとその場を立ち去る機会も彼女には与えられていたのです。 彼女が真実を打ち明けるのに躊躇したことを考えるとき、私たちは彼女がいかに過去のトラウマから恐怖に縛られているかを確認することができます。まだ汚れているのに、イエス様に触ったことで私は罰を受けるのではないか。癒しという素晴らしいことが起きたにも関わらず彼女の心を恐怖が支配していました。 しかし、その瞬間、彼女は恐れを捨て、代わりにつながることを許し、受け入れます。長い間、彼女から奪われていたものー触れ合い、つながり、社会的な歓迎ーそれらが、今、イエス様を通して彼女にオファーされたのです。イエス様が着物にさわったものを「知ろうとする」(マルコの福音書5:32)熱心さの中に、彼女は自分の心の傷が癒される機会を見出し、もう一度リスクを冒す価値があることに気づきます。 彼女には、イエス様が清めを受けずに、汚れたままでイエス様に触れた自分を罰するような指導者であるかどうかはわかリませんでした。しかし恐怖とおののきに打ち勝つ信仰の強さを再び示し、イエスの呼びかけに答えるためにイエスの前に出ることを選びます(マルコの福音書5:33)。 「女はイエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すことなく打ち明けた」(マルコの福音書5:33)。 彼女は真実を余すことなくイエス様に打ち明けました。考えてみてください。彼女のこれまでの人生の中で、誰が彼女の物語を余すことなく聞き、痛みを伴う真実に耳を傾けてくれたことがあったのでしょう。彼女の苦しみがどれほどのものであったのか、癒されることを切実に願い、彼女がいかに全財産を費やしてきたのか、誰が知りたいと思い彼女にアプローチしてくれたのでしょうか。彼女がいかに必死であちこちに出かけ、様々な医者に助けを求め、癒しを求め続けてきたかを聞こうとした人たちはいたのでしょうか。清められるまで、社会活動に出るべきではないという律法に基づいた暗黙の了解を破ってまで、今日、イエスのもとに来なければ行けなかった絶望の中にある強い信仰を、誰が理解しようとしたでしょうか。 イエス様はそれらをすべて見ておられたのです。イエス様は、誰もそうしない時でさえ、彼女を見、彼女が発するシグナルに敏感になり、彼女の声に耳を傾けられたのです。 そして、彼女がようやく姿を現したその瞬間、イエス様は彼女にこう言われました。 「あなたの信仰があなたを直したのです」 (マルコ5: 34) 。 ここでイエス様が強調したのは、ご自身の癒しの行為ではなく、癒しに繋がった彼女の信仰でした。イエス様に対する彼女の信頼が、彼女が切実に必要としていた癒しにつながった事をイエス様は彼女に、群衆に伝えたかったのです。 彼女の信仰が彼女を直しました。イスラエル全土でイエス様の癒しの物語が何度も語られました。けれどイエス様が彼女を引き寄せ、彼女の物語に光を当てる今日まで、誰もこの女性の物語と彼女の苦しみを聞いたことがなかったのです。 この名もない女性は、公然と訴えたりすることなく、ただ静かにイエス様の癒しの力を信じて、イエス様の着物に触れました。彼女は癒しを通して高揚するのでもなく、イエス様の偉大な物語の一部になろうともせず、ただ強く、静かな信仰を全うして生きようとしたのです。 このような信仰を、イエス様は公に分かち合うことにしたのです。そして34節で、イエス様は彼女に対する思いが集約されている言葉を彼女に呼びかけます。 イエス様は彼女を「娘よ。」と呼んだのです(マルコの福音書5:34)。 「娘よ。」 名前で呼ばれることは、この女性が本当に、深く必要としていることではありませんでした。この12年間、すべての医者、すべての司祭、すべての会堂の役人が彼女の名前を知っていました。しかし、名前は知っていても、長血を患っている汚れた女だということは知っていても、この12年間、誰も彼女を家族の一員として見たことがなかったのでしょう。娘と呼ばれること、家族全員に見守られ、愛される子供として取り扱われる。それこそが、彼女の心が切実に必要としていた癒しだったのです。そして、イエス様はそのことを知っていたのです。 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです」(マルコの福音書5:34)。 人生やミニストリーにおいて、落胆したり、悲しくなったり、孤独を感じたり、あきらめたくなるような日もあります。でも、つい先日、私がそんな風に感じている時に、私のメンターがイエス様のように私の話を聞いてくれて、「あなたがこんな風に思い悩み、奮闘し続ける姿を見て、イエス様は本当に喜んでいるに違いないね」と私に言ってくれました。 私はそれを聞いた時、その言葉が魂のレベルで私に響き、涙が出るのを抑えることができませんでした。 教会がオファーするスモールグループのミーティングに行くと、正直な分かち合い、魂の交流にに立ち会う機会が多くそのことを私は大変喜んでいます。そこでは苦しみが共有され、涙が流されます。祈りが交わされます。そして、そのような時を共有する時、神様がその場に共におられ、私たちを優しく包んでくださっていることを深く感じるのです。 教会は共同体ですが、真の共同体は人が集まるだけでは成り立ちません。今日の物語を見てください。長血を患った女性が正直な自分の苦しむ姿をさらけ出し、弱さをもちながらも信仰に生きるまで、物語は前に進みませんでした。 神様が働かれる物語は、私たちが予想もしない人物によって動かされることが多々あります。弱さを持ち合わせながら、正直な歩みの中で信仰を選ぶ。肩書きを持たず、その場にいる権利も持たない。この物語は、12年間も癒えることなく血を流してきた女、罪深く、呪われ、望まれず、コミュニティから歓迎されないというレッテルを貼られた女が、キリストの愛にその弱った心を開いたことにより、前に進んだのです。 私たちの教会のコミュニティにとっても、世界的に見ても、ここ数年のコロナパンデミックの中で、私たちに様々な困難をもたらしました。しかし、私は、困難、混乱、苦しみ、痛みに耐えながらなお、神の善意を信じる人々の物語が、更に発掘され、長血を患う女の話のように、それらの物語の真実が余すことなく私たちのコミュニティで語られ、分かち合われることを期待しています。 私たちは教会の共同体として、キリストがされたように、神様の物語を探し求める特権を持っているのです。地域社会や世界に目を向け、聖霊の力がどこに流れ出ているのか、それは沈黙のうちに苦しんでいるすべての人々の中にあるという事を見つけることができるのです。 教会のコミュニティとして、私たちはこれからも共に集う機会を持ち続けていきます。10月30日の礼拝後に教会全体でのフェローシップの時間を持ちますが、イエス様が長欠を患った女性と分かち合ったようなつながりが、私たちの間にも広がっていくように祈っています。 愛と恵みが溢れるべき教会共同体であっても、人々は自分自身を深く共有すること、その事を助ける親密な交わりに参加することを躊躇してしまうことがあるのは事実です。それは、裁きや罰を恐れたり、恥をかくことを恐れたり、過去に分かち合いがうまくいかなかった時のトラウマが、今も私たちを苦しめていることが理由なのかもしれません。 しかし、今日のお話は、私たちを励ましてくれるはずです。弱いままの自分を信仰を持って差し出す時、人生において最も悩ましいことを神様が介入されるはずだと信仰を持って打ち明ける時、私たちの人生の物語の完全な真実が、編集されることなく、見られ、聞かれることを許すとき、イエス様が働かれます。 時にはイエス様のような立場に立つこともあるでしょう。誰かが意を決して、あなたに痛み、弱みを打ち明ける時のことです。その時、その人がそうしてくれたように、あなたも心を開き、祈り、耳を傾けることを忘れないでください。創造主、キリスト、聖霊が一つであるように、私たちもまた一つになれるように、神様がその瞬間にどのように働いておられるかを感じ取る繊細さと敏感さを与えてくださいますように。 祈りましょう。 主よ、私たちの教会が、あなたと長血を患った女性が持ったようなつながりを持つことができるように助けてください。あなたが私たちの共同体に注ぎ、築いてくださった愛を信じることができるように、私たちのうちに働いてください。イエスの御名によって祈ります、アーメン。 今日は、いつもの聖句の意味を解釈していく説教とは少し違うことをしようと思います。なぜルカの福音書17章が私にとって重要な意味を持つのか、簡単に個人的な話をさせてください。この夏、野尻湖で同じ内容の説教したので、今日は話さないつもりでしたが、この日曜日の聖句集の箇所であり、クラウディア牧師と話した後(すでにクラウディア先生は野尻でこの説教を聞いています)、主がもう一度説教しなさいと言っておられると感じました。再度この説教に挑戦する事で、より深く聖句の事を考え学ぶ機会をもらい、今度こそ説教がうまくいくかもしれないと思っています。
B. 瞬時に電話に出てはいけないと察知しましたが、出てしまいました。それは教会の車椅子に乗っている女性でした。彼女は「こんにちは」と言い、私が彼女の用事を手伝う事が出来ないか聞いてきました。彼女は身体的に痛みを抱えていて(彼女の声からそれが伝わってきました)、手伝ってくれる人を探していたのです。彼女は病院に行くために誰かの手が必要なだけでなく、アパートから出るのを手伝ってもらう必要がありました。私は「今日は本当に忙しいので、ボランティア一覧にある他の人に電話してくださいますか?」と言いました。すると、彼女は、私がその一覧の最後で、他に誰も手伝ってくれる人はいないと言いうのです。「お手伝い願えないでしょうか?」と聞いてきました。あなたなら、この状況をどうしますか?何と返答しますか?これは作り話の質問ではありません。 C. そんな事で、とにかく彼女の元に駆け付けました。彼女を私の車に乗せ 病院まで超高速で車を走らせました。病院では長時間待たされ、医師に診てもらった後、薬局に向かいました。そこで彼女の保険証に何か問題があって、薬局でも長時間待たされました。私が彼女のお手伝いをした事は間違いありません。でも、私の心と態度は最低でした。天国でこの事に関するポイントはもらえません。私は「価値のないしもべでした。ただ自分の義務を果たしただけ」だったのです。 早朝8時に彼女を助けに行くために出発し、午後4時頃に私の家に戻り、椅子に座ると、妻と息子たちが家に帰ってきました。あああああああああ!
B. そこで、その後数週間、何度も何度もその聖句を読み返しました。私の期末テストはまずまずでした。素晴らしい成績でもありませんでしたが、悪くもなかったという感じでした。神学校の評定を平均「C」で卒業する人のことを何と言うか知っていますか?- 牧師です。この聖句は私の心に残りました。そこで牧師にそのことを尋ねてみました。満足のいく答えをもらう事は出来ませんでした。この聖句はクリスチャントゥデイ誌によって、牧師が説教する福音書の中で最も困難な箇所の一つと評価されています。私は神学校の教授に尋ねましたが、彼らもまた、色々な言葉で説明してくれましたが、満足のいく答えを得る事は出来ませんでした。この箇所だけを単独で見ると、イエスは厳しく、無情に見え、実際のイエス様を投影しているとは言えません。 C. ある牧師が急に都合で説教が出来なくなり、地元の教会で説教を頼まれ、渡された箇所はルカの福音書17章からでした。10人のハンセン病患者の箇所です。神様は、この聖句を事ある毎に何度も何度も取り上げて、私に働きかけてくださいました。 準備を始めると、私の中に光が差し込んできました。私はついに、ふさわしくないしもべと、ふさわしいしもべの違いを理解したのです。 4.10人のハンセン病患者 A. イエスはエルサレムに向かう途中、ガリラヤとサマリヤの境を歩いておられます。見知らぬ村のはずれで、イエス様の癒しの話を聞いたであろう10人の男たちが、離れたところに立って、イエス様に叫びました。「私たちを憐れんでください」。彼らがハンセン病であることは一目瞭然でした。ちょうど、私が助けた女性に痛みがあると言われても、私自身が特に驚かなかったように、ハンセン病患者を見ても人々は平然としていました。痛みを抱えている人はたくさんいます。もしかしたら、それはあなたや、あなたの愛する人、一緒に働いている人かもしれませんね? B. 彼らが使う興味深い言葉は、pity(憐み)です。憐れみとは感情です。 彼らはイエスに行動を求めていないことに着目してください。もし彼らがもっと具体的に言っていたなら、「イエス様、私たちを癒してください」と言うべきだったのです。それは彼らが望んでいたことです。しかし、彼らはそう言いません。彼らはイエスに、自分たちを見てくれるように、話しかけてくれるよう頼みました。自分たちのことを感じてもらえるように。そして、その気持ちから、彼らはイエスが応えてくれることを信じたのです。私たちはどうでしょうか?私の祈りの生活では、神様に何をして欲しいかについて、あまりに具体的に考えすぎてしまいます。まるでレストランで料理を注文するように、「神様、この時間に、この方法で、このような結果を出してください。」と伝えていないでしょうか? C. まるでエイズウイルスの初期の頃のように 2020年初頭にコロナが流行した頃のように、病気である彼らは家庭や地域社会の生活から追い出され、物理的に孤立して衰弱しています。まだ世界はコロナの隔離(孤独)の影響と闘っています。主は私の葛藤を感じ取ってくださり、常に自分の気持ちが正しいとは思っていませんが、主の気持ちを信じています。主よ私を憐れんでください。/ 私たちはなぜ病気なのかわかりません。/ なぜうつ病と闘っているのかわかりません。/ 私たちはなぜ仕事で、子育てで苦労しているのかわかりません。他にも様々な悩みがありますね。主よ、私たちを憐れんでください。 D. そして、イエスは憐れんでくださいます。1つ着目して欲しい事があります。10人のハンセン病の患者は距離を置き、声を張り上げてイエスに声をかけました。しかし、イエスは「言った」となっています。イエスは「声を張り上げて応えた」わけではないのです。イエスはその10人の側に行って話したのでしょう。 もしも、教会が世界とその問題から距離を置いていたら、私たちは決して世界に影響を与える事はできないでしょう。 5.外に出て、自分自身を見せてください A. この箇所では14節が特に素晴らしいです。イエスは彼らを徐々に癒していきます。そして、イエスは「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われます。しかし、彼らはまだ癒されてはいなかったのです。 B. この聖書の箇所は明確に書いています。「彼らは行く途中で」と書いてあります。イエスは彼らの信仰を試し、癒しと健康な体を手に入れる事ができるように仕向けるのですが、彼ら自身が行動しなければいけないのです。私たちも自分たち自身が行動しなければなりません。結果を確認する前に行動しなければならないのです。もし、彼らがそこに立っているだけだったら、癒されることはなかったでしょう。これを「行動する信仰」と言います。「ヨハネ、見て!肌がきれいになっているよ」。「いや、お前を見てみろ」なんて、よろめきながら、歩きながら、小走りしながらお互いにこの10人の病人は言い合っていたかもしれません。祭司に姿を見せ、健康である証明書さえ手に入れれば、元の生活に戻ることができたのです。その朝、何の希望もなく目覚めた彼らは、元の生活に戻れる可能性を秘めていたのです。私たちが主と共に歩むとき、常に私たちも可能性やチャンスを持っているのです。あの朝、何の希望もなかったのに、彼らは可能性を手にしていました。イエスに感謝します。アーメン。 C. そして、一人の男が立ち止まり、振り返って、イエスのもとに戻ります。イエスには「行きなさい。」と言われましたが、戻ってくるのです。彼は最終的に祭司のところに行くと思いますが、その前に神を賛美すること、神の息子に感謝したのです。私たち教会は、感謝する心を持っていますか?私たち自身は?それとも、感謝せずに次の問題、次の欲求へと進んでいくだけなのでしょうか?神様、私たち教会をお許しください。私たちが褒めることもなく、感謝することもなく、ただ義務を果たすとき、どうぞ私たちを御赦しください。 6.最後に A. 何かを奉仕する時に、喜びや情熱、感謝もなく、ただ義務をこなす、果たすだけ、献金するだけ、奉仕するだけであれば、私たちは価値のないしもべでしかありません。それは言われた事をこなしているというものです。でも喜びをもってその事を行えば、はるかに素晴らしいものになるでしょう。それが私たちには出来るでしょうか?あの10人のハンセン病患者が健康を手に入れただけではなく、もっと大きな癒しを手にした事を私たちは知っています。心や魂が癒されたのです。 私たちもそういった癒しが必要です。そして、教会も世界もそういった癒しが必要です。 祈りましょう ある日曜日の朝、一人の少女が聖餐式を受けるために前に進み出た。聖体奉仕者は少女にパンを渡し、「あなたのために与えられたキリストの体です。」と言いました。少女はパンの大きさにがっかりし、聖体奉仕者に「これだけなの、もっと食べたいわ!」。パンと杯に対する飢え、命の糧に対する飢え、イエスに対する飢えです。 私たちが、主イエスとの深い交わりを求める飢えに気づくことができます様に祈ります。
今日は世界聖餐日です。世界聖餐式の日曜日は、私にとって、一年のうちで最も好きな聖日の一つです。 (でも、ペンテコステの日曜日も大好きです)。 牧師になって30年以上になりますが、様々な文化や神の壮大な創造の御手を思い起こすために、いろんなパンを使って世界聖餐日を祝ってきました。私たちKUCの信徒は非常に多様で、様々な背景、伝統、そして国から集まっています。 ガーナ、韓国、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インド、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、カナダ、中国、日本などです。このことは、多くの国の人々がエルサレムに集まり、自分たちの言語で福音が語られるのを聞いたペンテコステの幻を思い起こさせるものでもあります。世界聖餐日を迎える今、私たちは、あの最初の聖霊降臨の日の神様の御霊の力を、少しでも再現しているのかもしれないと思うのです。 世界聖餐日を思うとき、世界中の何万人ものクリスチャンの兄弟姉妹が、異なる時間帯に主の食卓に集まり、主を覚えていることにワクワクします。 私たちがどこから来たかは問題ではありません。神から見れば、政治的、民族的、文化的、宗教的、国家的な境界はないのですから。世界聖餐式の本来の目的は、様々なキリスト教の信仰グループを隔てる壁を越えて、すべての人に神の恵みを広げることです。 私は聖餐式が大好きで、ここKUCで毎月第一日曜日に聖餐式を祝うことを実に楽しんでいますし、実際、毎週日曜日に祝っても構わないと思っていますよ。聖餐式、主の晩餐、聖体、大感謝祭、どのような名前で呼んでも、私たちの最も神聖で、特別で、聖なる礼典の一つであります。私たちはこの聖餐式で神の恵みと私たちに対する神の愛を宣言し、私たちを待っている天国の大宴会の前味を経験します。 私たちの世界は、日毎にお互いに分裂が続いているように感じられます。だからこそ、今年の世界聖餐式の日曜日は、これまで以上に重要なのです。 世界教会協議会は、キリスト教の一致とエキュメニカル(キリスト教の教派を超えた結束)のために協力して活動しています。WCC第11回総会は8年ごとに開催されます。この総会は、世界各国から4000人以上の参加者が集まる特別なものです。WCC総会は、その規模的に世界で最も多く、様々なキリスト教信者による集会なのです。今年の世界教会協議会第11回総会は、8月31日から9月8日にかけて開催されました。このエキュメニカルな集会のテーマは「キリストの愛が世界を和解と結束へと促す」で、今年はドイツのカールスルーエで開催されました。 (https://www.oikoumene.org ) 8年前の2013年(10月10日~11月8日)に韓国の釜山で開催されたWCC第10回総会に、夫のトシと一緒に参加しました。その時のテーマは「いのちの神、正義と平和へと導かれる。」で、世界各地から集まった多くのキリスト信者と一つになることは、とても刺激的でした!私は釜山で多くのキリスト信者と一緒にいることが心地よく、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」という聖句を思い起こさせてくれました。(詩篇133篇1節)。 2011年に神戸に来る前、私たち夫婦は東京にある日本キリスト教協議会(NCCJ)で18年間働いていました。日本キリスト教協議会(NCCJ)は、日本にある33の教派、教会、キリスト教団体で構成されています。KUC は準会員で、他のユニオン教会も同様です。(私はNCCJでの働きと並行して、西東京ユニオン教会で17年間牧師を務めました)。私の夫はNCCJの国際教会関係担当、そして事務局長を務めました。NCCJは、他の教団やカトリック教会、さらには他の宗教ともエキュメニックに社会問題(例えば、日本国憲法第9条、マイノリティや障害者の人権、平和問題、女性の権利など)に取り組んでいました(https://ncc-j.org)。 他の教会と協力することは、クリスチャン同士の結束を築くための一つの道です。また、私たちは福音を広めるために協力することができます。 ここにその一例があります。私たちの教会のメンバーであり、E&D(Evangelism and Discipleship)ミニストリーリーダーであるロイ・ミスラング氏は、他の教会と共同してメリケンパークにおいて、クリスマスキャロルを賛美するイベントを企画しています。日本のユニオン教会は、ユニオン教会ネットワークを作り、KUCのニュースレターで紹介しています。教会や背景、国籍が違っても、一緒になれる道があるはずです。大なり小なり、私たちは同じ神の子である隣人を愛することができるのです。 世界聖餐式の特別な日曜日、私たちは神の食卓にはすべての人のための席があるという事実を祝います。 パウロはガラテヤの教会への手紙の中で、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」 (ガラテヤ人への手紙3:28) パウロは、人間に優劣をつけることはできないと、はっきり宣言しています。二流のクリスチャンは存在しないのです。 それでは、パウロのガラテヤ人への手紙の目的は何だったのでしょうか?パウロは、自分がガラテヤ教会を去った後にガラテヤを訪れた宣教活動をするユダヤ人信者たちのメッセージに対抗するために、ガラテヤの信徒への手紙を書きました。これらのユダヤ人信者たちは、異邦人が救われるためには、ユダヤ教の律法の一部に従わなければならないと教えたからです。しかしパウロは、その必要はないと教えたのです。 神様の目には、私たちは平等なのです。主イエスはすべての人を歓迎し、垣根を取り払われました。 私たちは皆、神の子なのです。私たちは、キリストにあって一つとなり、多様性に富んだ多くの人々の中から、新しい人種となるのです。私たちは、違いがあっても、キリストにあって一つの群れなのです。 ユダヤ人は古代世界の他の人々とは異なり、神は唯一であると信じていました。古代ローマ人は多くの神々を信じていました。古代ローマ人は神々を信じており、彼らの生活のすべてに神が存在するのが普通でした。ユダヤ人は、自分たちは神によって特別に選ばれた存在だと信じていました。彼らは他の人たちとは区別され、神が彼らを「異邦人への光」とし、イスラエルの神を唯一の神として受け入れて、導かれるために召されたと信じていたのです。 パウロ自身はユダヤ人で、思い起こせば、改心してイエス・キリストに従うまで、クリスチャンを迫害していたのです。(使徒言行録9:1-19参照)パウロは1世紀の間、異邦人(非ユダヤ人)に福音を広める重要な役割を果たし、彼の宣教の旅はローマ帝国全土に及びました。彼は異邦人を心から愛し、すべての人を神の子として見ていました。私たちもそうでありたいと思います。 パウロは、主の晩餐が当時の人々を分断していた問題に直接関わっていたことを見ていました。コリント人への手紙第一11:18-22で、彼はコリントの教会内の分裂について述べています。このような分裂は、信者のある特定の使徒や他の使徒への忠誠心をめぐるものかもしれませんし、社会的、階級的な分裂もあったでしょう。また、パウロは、主の晩餐において、コリントの信者が間違っていることを叱責しました。 初代教会は、主の晩餐の祝い方を、今日の多くの教会とはかなり違った形で実践していました。ごく初期の教会では、主の晩餐は実際にきちんと充分な食事を一緒に食べることでした。しかし、裕福な人たちは早くから食事に来て、おいしい料理を食べ、ワインを飲み干し、貧しくて働かなければならない人たちは、仕事が終り遅く来るために、もう食事は残っておらず十分な食事ができませんでした。それは平等な分配ではありません。裕福な人たちが貧しい人たちよりも「優れている」わけではないのですが、自分たちにはより多く持つ権利があるかのように振る舞い、分かち合いをしなかったようです。 主イエスはすべての人を食卓に迎え入れます。その人が誰であろうと、階級、経歴、性別、年齢、国籍、あるいは私たちすべてがどれほど壊れていようと関係ありません。私たちは、イエスがなさったこと、そして聖霊の力によって今もなされることを祝い、私たちのために死に、復活し、再び来られるイエスを祝います。 私たちと世界は深く壊れているように見えるかもしれません。結束は必ずしも実現しないかもしれません。しかし、この一致の理想は今でも存在し、神は私たちをキリストにおいて一つにするために、この世界で動いておられます。エペソ人への手紙4章4-6節にあるように、世界聖餐日は私たちに「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」ということを思い起こさせることができるのです。主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、そして、すべてのものの上にあり、すべてのものを通しており、世界聖餐日は、すべてのキリスト者が主の食卓につく日であり、キリストにおいてすべての分裂の壁が克服され、すべての傷が癒され、「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民」(黙示録7:9)の境界線がなくなる日であることを宣言する日なのです。これが私たちの希望です。しかし、私たちの人生には多くの傷跡があります。聖餐式を終えても何も変わらないのであれば、私たちの赦しの祈りは本物でしょうか。 私たちは聖餐式に進むたびに、私たちの罪、怒り、恐れ、疑い、心の傷など、私たちのすべてをキリストに捧げ、そしてキリストはご自身を私たちに捧げてくださいます。食卓で、主イエスはご自分の体であるパンと血である杯を私たちに提供し、無償の愛と恵みと赦しと救いを与えてくださいます。これは提供され得る最高の食事です。ジョン・ウェスレー氏は、主の晩餐を「神の霊の恵みがすべての神の子らの魂に伝えられる壮大な経路」と表現しました。 今日、聖餐式に臨む際に、もしあなたが何処か共同体に属したいなら、キリストがあなたを招いていることを思い出してください。もしあなたが希望を求め望んでいるなら、キリストはあなたを歓迎します。もしあなたが赦しを必要としているならば、キリストはあなたを赦してくださいます。もしあなたが神の恵みに飢えているなら、このパン(またはクラッカー)を食べ、この杯を飲みなさい。私たちは栄養を与えられ、支えられているのです。 私たちは皆、神に愛されているのです。 最後に、WCC総会の代表者たちの言葉を紹介します。「私たちは、キリストの愛に基づく一致から行動する力を見出すでしょう。それは、私たちが平和をもたらすものを学び、分裂を和解に変えることを可能にするからです...キリストの愛は、すべての人を受け入れ、私達の任務である、拒絶を克服すると言う私達の働きを主イエスは支えてくださるでしょう。...キリストにおいて、すべてのものが新しくされるのですから。最後の者、最少の者、失われた者を含むすべての人に開かれ、すべての人に提供される主の愛は、正義と和解と一致の巡礼において、私たちを動かし、力を与えることができるのです。」(出典:Oikoumene) (出典:oikoumene.org「共に行動するための呼びかけ」) 私たちが主の食卓を共にするために集まる時はいつも、共にキリストの体の一部として、癒しと和解をもたらす神の力の中で、またその力によって生きる体としてつながっているのです。 誰も除外されることはありません。食卓は神様の愛と同じように広大です。 私たちは皆、神の子なのです。私たちは、他の人々が私たちを通して、イエス・キリストの愛と恵みを受けられるように祈ります。 アーメン、そして世界聖餐日において、おめでとうございます。 |
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May 2024
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