今日ここにいる私達の何人かは、人類は罪ある性質を持ち、私達が犯す罪の贖いとして主イエス・キリストが命を捧げるためにこの世に来られたことを強調した西洋キリスト教文化で育ちました。しかし、日本の非常に異なる文化圏で働いてきた私達は、西洋で育った神学的な説明がそれほど自然でうまく当てはまらないことがわかります。ですから、今朝、私がお話ししたいことは、日本のような非西洋文化の人々が神の福音のメッセージをどのように受け取るかについて考えていただくことです。
世界中の多種多様な文化は、それぞれ人間の経験を理解する上で独自の説明方法を持っています。文化を一般的なカテゴリー「罪意識文化」と「恥意識文化」に分類したのは、多様な文化を理解するために人類学者が伝統的に試みた一つの方法です。これらのカテゴリーは、今日起こっているすべての文化のるつぼにおいても依然として有用ですが、100%な文化や、0%の文化などはありえないことを付け加えておきましょう。西洋文化は「罪意識文化」の範疇に入りますが、だからといって、そのような文化圏の人々が恥を経験しないわけではありません。ただ、伝統的に罪意識は恥意識よりもずっと強調されてきたのです。 私は西洋の「罪意識文化」の環境で育ちましたが、私の人生のほとんどを「恥意識文化」と見なされる日本で過ごしてきたので、西洋の神学的な常識がキリストの福音を効果的に伝えるのに、いかに障壁になるかを直接見てきました。もし私が「あなたは罪人であり、神の赦しを受ける必要がある」という教理を伝えようとすると、典型的な日本人は通常、それを自分の状況に関連するメッセージとして認識しないでしょう。一つには、そのような概念を日本語自体が明確に伝える意味を持っていないからです。「Sin」を翻訳すると「罪」ですが、同じ言葉は「犯罪」と訳すこともできます。そこには神の御前での私達の罪の概念と社会における犯罪行為との間に明確な区別はありません。もちろん、その違いを説明することはできますが、概念そのもの、すなわち「罪」と「犯罪」は、日本語の異なる言葉によって区別されるものではありません。したがって、無意識のうちに、典型的な日本人は、罪と罪悪を中心としたメッセージに無関心となります。なぜなら、結局のところ、「私は犯罪者ではない」からです。 同様に、罪悪感の概念に関しても、言語的にも同様の隔たりがあります。「罪意識文化」を日本語に翻訳するにはどうしたらいいかを考えていたとき、罪と犯罪を区別しないことに加えて、「罪悪感」を翻訳できる言葉は「罪」の文字を使った言葉だけであることに気付きました。実際「罪意識文化」の訳し方を探せば、「罪の文化」しか見つからないのです。 英語では、罪と罪意識は確かに伴うものですが、それらは同じものではありません。 聖書のメッセージに重要な概念は他にもいくつかあり、日本語には明確な言葉がありません。たとえば、「ゆるし」は、文脈に応じて、「赦し」と「許可」の両方を意味することがあります。ですから、「つみのゆるし」は「罪の赦し」ではなく「犯罪の許可」という意味にも理解できるのではないでしょうか。そのような間違いをする人はいないでしょうが、しかし可能なのです。いずれにせよ、要は、用語が曖昧であるため、誤解につながる可能性があるということです。それに加えて、神の概念そのものが言語的に問題となります。「かみ」という言葉は「神」を意味しますが、日本語自体に英語の定冠詞「a」と「the」に相当するものはなく、日本語の書体に大文字や小文字に相当するものはありません。単数形と複数形の間に明確な区別さえないので、「かみ」は小文字の「g」で「神」または「神々」を意味するのか、または大文字の「G」で「神」を意味すると言う可能性もあるのです。「かみ」の話がかなり曖昧になるのが分かるでしょう。伝えようとしているメッセージと聞き手が受け取るメッセージとの間に、このようなズレが生じる理由がわかるでしょう。それは文字通り「翻訳で失うものがある」ということです! 「不思議の国のアリス」のルイス・キャロル氏が、言葉とは「言葉の意味は自分で決める!」という有名な文言を言ったように思います。あるレベルでは真実であり、私達の日常生活の中で、私達はしばしば言葉の意味がねじ曲げられ、人々が操作している意味論的なゲームに遭遇します。或いは、国際的なシーンから例を挙げてみましょう。「朝鮮民主主義人民共和国」という言葉はどうですか? 北朝鮮と同じ意味なのですが、私達が日本やアメリカで通常使う言葉とは、はるかに異なる意味を与えませんか。ですから、言葉は私達が意味してほしいこと、つまり私達にとって意味することを意味するのです。 しかし、福音のメッセージを伝えること、或いは人々の生活に取り入れることを説得したい情報に関しては、まったく逆のことが真実となります。それは 聞き手が それを意味して欲しい、または少なくとも認知することを意味します。私達が言葉、行動、ボディランゲージなどを通してメッセージを伝えようとするときはいつでも、実際に伝えられる意味は、その情報の受信者がそれを解釈した内容となります。したがって、意図した意味をできるだけ正確に伝えたい場合は、聴衆者の文化および個人的な経験の枠組み、および彼らが私達のメッセージをどのように認識するかを理解する必要があります。 さて、明らかに、これはかなり複雑になる可能性があります。「言葉の意味は自分で決める!」と、そのままにしておく方が実に簡単です。しかし、私達の意図した意味を伝えることが私達にとって重要であるならば、それはうまくいきません。繰り返しになりますが、私達が誰かに伝えたい意味は、決して直球で伝えることができないのです。私達はそれらの意味を言葉、声のトーン、ジェスチャーなどに入れ、他の人がその情報のすべてを解読し、そのメッセージの意図する意味を汲み取られることを願うのみです。しかし、そのメッセージを受け取る人は、自分の文化と個人的な経験の枠組みの中でのみ、それを解釈することができるのです。 これらのことを勘案すると、神のメッセージが間違いを犯しやすい人間の器「宣教師」によって解釈され、しかも文化的障壁を乗り越えて伝わったのが不思議なくらいです。しかし、西洋文化でさえ、多くの人が聖書の罪の概念を誤解していますが、少なくとも伝統的に、たとえ人が主イエス・キリストを受け入れていなくても、無意識のうちに、ある種の絶対的な基準に反しているので、間違ったことをしているという思いがまだあります。たとえかたくなな心が罪深いことをさせても、「あなたは罪人です。あなたは神の御前に正しくあるべきで、悔い改めて神の赦しを受けてください。」と言われると、それが理解できる文化的規範の下地がまだ人にはあります。現在において明らかに、西洋文化でさえ、以前ほどこのアプローチにより意図したことをうまく伝えられるとは思いません。しかし、日本のような恥意識文化の人に福音を伝えるときに、この同じアプローチが使われるとどうなるでしょうか。創造主である神によって人類に啓示された絶対基準の概念は、日本の伝統文化において何の機能も果たしませんでした。その代わりに、道徳や倫理は社会、家族、またはその他の重要な所属先にどの影響を与えるかによって成り立っていました。 恥或いは罪悪を感じる意識の差は、殺人や強盗などの犯罪について話すとき、これらは明らかに社会に有害であるため、それほど大きくはありません。しかし、その違いは、より微妙な「罪」によってはるかに大きくなります。自分の行動が自分の所属先に恥をかかせない限り、「罪深い」行動を止める心理的な道徳抑制力は比較的に弱いものです。幼い頃から、子供たちは「笑われるよ」という文言でしつけをされます。- 「あなたは他人から笑われるよ。」。 言い換えれば、「そのような行動は恥ずかしいよ。」ということです。所属先を重要視する文化では、社会において、この恥への恐怖は行動を強く支配します。誰も知らない限り、私が家族に恥をかかせない限り心配する必要がないので、状況下においてのみの倫理・道徳の行使という傾向に向うのです。恥の恐怖が社会に行動制御を持つメカニズムとしてどのように使われているか具体的な例を挙げると、日本で運転免許証を取得または更新する際、不注意な運転手がひどい事故を引き起こし、それが家族全員に恥辱もたらし、それから逃れるために新しい場所に引っ越すことを余儀なくされると言う劇的なプレゼンテーションを見せられるのです。 日本文化を恥と罪に関してどのように分類しようとも、伝統的な西洋の概念で福音を伝えることになると、例えば、すべての人間は聖なる神の前に立つときに罪深く、したがって神に受け入れられるようにするために救い主が罪を取り除く必要があるなど、という話がうまく伝わるわけがありません。人が犯した罪のために全能で、超越した聖なる神の前に「最後の審判」という概念がないとき、それに基づく福音主義的アプローチは、それがどれほど「聖書的」で真実であっても、文化的な土壌がそのような福音の種を受け取り、養う準備ができていないので、ほとんど実を結ばないでしょう。 主イエスのたとえ話の中でしばしば用いられた種と土の比喩を用いて考えると、この問題を克服するための2つの可能なアプローチがあります。より文化に受け入れられる種類の「福音の種」を見つけるか、或いは、伝統的な西洋の「種」をより容易に受け入れることができる「土壌」に取り組むかです。後者のアプローチは、2つの中ではるかに一般的であり、確かにその成功がなかったわけではありません。教育や病院などの間接的な伝道の多くの手段は、土着の土壌を西洋風の種子をより受け入れやすくするための一種の「肥料」として機能してきました。それも良いかもしれませんが、そのような文化圏の人々に届くための鍵は、他のアプローチにあります。ある日本人神学校の教授は、どのようにしてクリスチャンになったのかという質問に「まず、西洋人のように考えることを学ばなければなりませんでした。」と答えました。しかし、通常、それはほとんどの人にとって現実的な選択肢ではありません。日本に関して言えば、キリスト教の宣教は、聖書の意味に近い「罪」の正確な翻訳がないまま、なかなか進みませんでした。したがって、聖書の理解がほとんど、或いはまったくない典型的な日本人にとって、福音のこの罪と言う側面を基本的な福音のメッセージとして伝えてもほとんど実を結ばないでしょう。 さて、これらの言語的、文化的障壁をどのように克服できるかを考える中で、私は「恥」と「恥を覆い隠す」という概念を含むアプローチを使って、これらの同じ福音の真理を説明することを試みました。恥は日本文化の非常に重要な部分であり、200以上の聖句に様々な形で現れるように、聖書の重要な言葉でもあります。興味深いことに、恥の文言の大部分は旧約聖書に見られ、ヘブライ文化(ユダヤ文化)はこれと他のいくつかの点で日本文化によく似た群れ指向の文化を持ちます。旧約聖書の律法が儀式的な汚れと不浄、そしてそれらをどのように清めることができるかの参照で満たされているという事実に感銘を受けます。一人の恥は群れ全体の恥であり、集団の問題として扱われました。レビ記の規則は、罪や穢れた儀式を覆い隠す様々な清めの儀式とささげ物を詳述しています。このように、西洋で通常認識されている罪というよりも、罪は、清めによって取り除かれる不浄と汚れであると見られていました。これらはすべて、罪意識を示すのではなく、恥意識を指し示しており、したがって、恥は聖書の中で、ほとんどの西洋の読者が気づいていたよりもはるかに重要な概念なのです。 いくつかの参考文献を見ると、聖書が恥の概念をどのように扱っているかがわかります。伝統的に、西洋の神学は全人類を堕落させる「原罪」について多くを語ってきました。しかし、興味深いことに、「罪」という言葉は、カインがアベルを殺す第4章まで創世記の物語にさえ現れません。「人間の堕落」の物語は、この言葉を使わず、代わりに「恥」と「裸」を象徴として、人類の神への不従順を描写しています。もちろん、この出来事について、「神のようになる」、すなわち自分自身が神になろうとしたという彼らの大きな罪のために生じた罪悪感という観点から語るのはごく自然なことでしょう。それでも、堕落の物語は、神の前での不従順、恥、裸という根本の概念において非常に理にかなっています。ですから、「原罪」ではなく、アダムとエバの不従順の影響を「恥の原型」という観点から説明できないでしょうか。結局のところ、生まれたばかりの幼児を「罪深い」と考えるのは、聖書の象徴を用いると、その子供はまだ自分の行いに「不潔な衣」をまとっていないので、むしろ無理があります。しかし、私達は皆、この世界に真っ裸で生まれ、すべての人の前に露わになり、その象徴として自然に人類の「恥の原型」を指し示しています。 ヘブル人への手紙 4:13には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私達はこの神に対して弁明をするのです。」 アダムとエバの肉体の裸の象徴に戻ると、それはまた、神の前での彼らの霊的状態を指していると言えます。不従順になる前は、彼らは創造主と完全に調和しており、隠すものは何もありませんでした。しかし、その後、彼らの恥ずかしいと言う意識は、彼らが利用できる唯一のもの、イチジクの葉で覆い隠そうとしました! 私達が自分自身の努力で神の前で私達の恥を隠そうとする、これは全人類の霊的なレベルにおいて非常に象徴的なことです。それはちょうどイチジクの葉から服を作ろうと努力しているようなものです。葉は最初の動きでバラバラと落ちますよね! しかし、物語が続くにつれて、このジレンマを解決するために第一歩を踏み出したのは神です。神はアダムとエバを裸でエデンの園から追放するのではなく、「皮の衣」を着せられます。これは、この恥の問題を解決し、神の被造物に再び調和を回復するための神の偉大な計画の第一歩にすぎません。聖書本文には特に書かれていませんが、アダムとエバの恥を覆い隠す象徴的な手段を行使するために動物を犠牲にしなければならなかったことは明らかです。その時から、動物の儀式的な犠牲は神への礼拝の中心的な部分になりました。 出エジプトの時代にレビ記の律法が確立されると、神はモーセを通して、さまざまな祭事と多様な状況下において、多くの種類の犠牲を伴ういけにえの制度を詳細に制定されました。これらの犠牲の目的は多岐にわたり、神がこの新しく形成された人々にご自身についての真理を伝えるための実例として役立ったからです。また、過去に行われた神の力強い業を思い起こさせる役目を果たしました。しかし、それらは皆、ある意味では、神が人類の恥を覆い隠し、ご自分と被造物との調和を回復するためにエデンの園で第一歩を踏み出した原初の犠牲を振り返り指し示したのです。彼らはまた、別の庭を見下ろす丘の上の最後の犠牲、切りたての墓のある庭を先に指し示し、そこで神は私達の恥、私達の霊的な裸を覆い隠すために永遠の衣を与えるために必要な犠牲を完成させてくださいました。 イザヤ61:10は、救いの象徴である義の衣で覆われるという表現を使用しています。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」この節は、救いを説明するために「義の衣」に覆われているという象徴を使用した多くの節のうちの1つにすぎません。一方、神の御前での私達自身の義は、「不潔な衣」にすぎません。罪はしばしばまさにそのように描写されます。ゼカリヤ書3:3-4は言います。「ヨシュアは、よごれた服を着て、(主の)御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」ここで、汚れた服は罪を象徴しており、神はそれを取り除いて「義の衣」に置き換えられます。恥はこれに似ていますが、その不潔な衣の代わりに、恥の象徴性はぼろ衣の下は裸であることです。この意味で、私達はこれら二つから本質を見ることができます。それは取り除くことができず、単に覆い隠すだけしかできないということです。神の前に立ち、罪はないと言い、この象徴における「不潔な衣」を脱ぐなら、残るのは全裸の恥だけです。いずれにせよ、有効な唯一の覆いは、キリストが信仰において私達に与えてくださる「義の衣」です。黙示録3:18で、キリストは私達に「また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣」を受けるように勧めておられます。これらの「衣」は、信仰によって受け取るキリストの「義の衣」です。 「罪と罪の赦し」とは対照的に、この「恥と恥を覆い隠す」というテーマに沿うと、多くの聖書の教理や考え方が日本文化のなかに多く現れているのです。そして実際にどんな文化にもそれらが見られるのです。聖書にある様々な象徴や物語は、神が人類に語りかけるメッセージの媒体となっています。それらは神のメッセージを望み求める全ての文化に対して話しかけているのです。私はこの考え方を、日本の説教などで福音のメッセージを話す機会があるときはいつでも使ってきました。多くの日本のクリスチャンが、私の解き明かしが日本文化に寄り添っていて、とても心地よく受け入れやすく感じると私に話してくださいました。ある女性は私に、亡くなった父親が福音をそのように説明されるのを聞いてくれればよかったのにと言いました。彼は求道者でしたが、とりわけ原罪の概念についてつまずいていました。どうやら、彼が聞いたメッセージに対する彼の解釈は、とても理不尽で「大切なものを無用なものと一緒に捨てる」ように聞こえたからです。原罪の教義が、生まれたばかりの赤ん坊は本質的に邪悪であり、生まれながらの犯罪者、そのような教えであると、彼が考えたと私は思います。 このように、クリスチャンは教会の歴史の中で繰り返し実証された聖書を土台とした神学を持ち得ますが、それでも人々を神に近づくように理解を促す伝え方がまだ十分できていないのです。私達はまず、人々が神やクリスチャンに関する献身などについて、すでに持っている誤った先入観を理解しなければなりません。それらの誤った先入観を更に深めるようなメッセージをしないことです。そしてもちろん、私達が他の人に伝えるメッセージでなくてはならない部分は、私達の行動や生活態度であるため、私達の言動は一致していなければなりません。 最後に、神が世界中に創造された多様性に富んだ文化を認め合い、祝うとき、神への礼拝がどれほど恵に満ちるかに再び焦点を当てたいと思います。パウロがアテネ人への説教で言いました。「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私達ひとりひとりから遠く離れてはおられません。」使徒の働き17:26−27 そして、神が「新しい天と新しい地」を創造されたこの現代の終末に関してヨハネが見た幻の輝かしい記述があります。『その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。彼らは、大声で叫んで言った。『救いは、御座にある私達の神にあり、小羊にある。』」ヨハネの黙示録7:9-10 マラナタ! 主イエス様、来てください!
0 Comments
ハワイに住む私の友人にはレイラニという幼い娘さんがいます。この話を聞いた時、彼女は6歳くらいでした。 「主の祈り」を暗記したことをとても自慢していました。ある日、彼女はお母さんに神様の名前まで知っていると言いました。お母さんは「本当に?そうなの?何?」と聞くと、少女は「ハロルド」と答えました。 母親は尋ねました 「どうしてハロルドだと分かったの?」 レイラニは言いました。 「天にまします我らの父よ... ハロルド汝の名において...」
幼い頃、「主の祈り」は初めて覚えた祈りの一つで、「今、私は眠りにつきます、主よ、私の魂をお守りください...」で始まる、就寝時に唱えた別の祈りとともに覚えていました。 誰があなたに祈りを教えられましたか?両親?祖父母?先生?友達?牧師さん?あなたは誰かに祈りを教えたことがありますか? 子供たち?それとも友達? あなたがどうやって祈り方を学んだか興味がありますので教えてください。 暗記した祈りは、人々が祈る言葉を欠いているときに慰めになります。私はよく「ブレス・プレイ」(一息で行う短い祈り)について話します。 しかしながら私は暗記した聖句や「主の祈り」を祈ることにも価値があると考えています。 病院にいる人を訪ねたとき、その人の病気のために祈った後、一緒に「主の祈り」を暗唱することがよくあります。暗記している祈りをすることで、心が安らぐのです。 2000年以上にわたって祈られてきた祈りであり、イエスが私たちに教えてくれた祈りでもあり、とても特別なものなのです。 前回(7月10日)の祈りのメッセージでお話ししたように、祈りにはいろいろな方法があります。時には深く考えずにただ祈ることもあるかもしれません。 しかし心から祈った祈りは、暗記していてもいなくても、私たちの中に内在し、神に近づくことができると私は信じています。祈りを神への心の言葉としましょう。 私が 「主の祈り」の好きなところは、個人ではなく共同体の祈りであることです。代名詞が複数形であることにお気づきでしょうか。 私たちの父よ...私の父ではありません。 もっと例を見てみましょう。 私たちの日々の糧をお与えください。私たちを導き...私たちを救い出し...。 今日の聖句であるルカ11:1では、祈るイエスをよく見ていたイエスの弟子たちがあることを尋ねています。「弟子の一人が彼に言った。"主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えてください"」。以下は「主の祈り」の短編版です。 主の祈りの長いバージョンは、マタイ書の中の山上の説教の6:9-13にあります。 イエスは弟子たちに祈り方を教えられ、ご自身も、どのような必要や要求が押し寄せてきても祈る時間を作られました。 私たちも祈る時間を作っているでしょうか。ジョン・ウェスレーは一日に3時間も祈っていたようですが、自分はとても忙しいのでこれ以上祈ることはできないと言い、それを正当化したそうです。 我らの父 主の祈りは、Fatherまたはアラム語ではAbbaから始まります。しかし25年ほど前に牧師会で聖地に行ったとき、ヘブライ語を話す人々が "Abba "という言葉を使うのを耳にしました。現代のイスラエル人の多くは、英語で "Dad "や "Daddy "を使うように、自分の父親をアッバと呼びます。 イエスは祈りの中で「アッバ」を使っておられます。新約聖書では、マルコ14章36節、ローマ8章15節、ガラテヤ4章6節の3回にのみ「アッバ」が使われています。 説教の準備で見つけた面白い点ですが、ある学者はアッバは私が思っていた「お父さん」という意味ではなく、従順を暗示する「お父さん」という言葉であると考えています。(https://rsc.byu.edu/vol-6-no-1-2005/why-abba-new-testament) つまり、「お父さん、私はあなたに従います」、ということです。イエスは親密さと服従の言葉としてアッバと祈られた、というようなことなのでしょう...。しかし、アッバは単なる感情の言葉ではなく、弟子としての言葉でもあるのです。 (https://himpublications.com/blog/meaning-abba/) 私は別の解釈をしています。神学者のエイミー・ジル・レバインとベン・ウィザリントン三世はその著書『ルカ福音書』の中で、「父」という言葉はもしかしたら政治的なものかもしれないと示唆しています。 紀元前2年、アウグストゥス皇帝は "pater patriae"、"祖国の父 "という称号を受け入れたからです。 イスラエルの神を「父」と呼ぶことは、このように、ローマ皇帝が、人が祈る相手や頼る相手の「父」ではないことを示しています(Amy-Jill Levine and Ben Witherington III, The Gospel of Luke, (Cambridge: Cambridge University Press, 2018), pg.132312.)。イエスが「父よ、御名があがめられますように」と祈りを始めるられるのは、皇帝の権力を完全に破壊し、代わりに神を称えるということなのです。 この「アッバ」という言葉に、これほどまでに意味が詰まっているとは思いもしませんでした。 "御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ“ 私は以前、説教の中で、私たちは皆「親族」、つまり神の家族なので、「親族」という言葉を好んで使っていると述べたことがあります。私たちは共同体なのです。 私たちは、すべての人々のために、正義と思いやり、愛と解放の「親族」を目指しているのです。 それは、この地上にいる私たちが、"天にあるように "神の支配と神の シャローム "を実現するための呼びかけなのです。 天国とは、死後に神と一緒になれる場所というだけでなく、その間に私たちは何をするのかを見てみましょう。私たちは、この世界に "天国 "をもたらすために協力し合うことができます。 あなたの御心が地上になりますように、と祈るとき、私たちはシャローム(平和と正義と慈愛)に対する神の御心が私たちの世界に現れるように祈っているのです。 (例えば、国際関係、政府の行動、私たちの教会、地域社会など)それは私たちが今、この世界のために働き、祈り、希望することができるものです。 神は私たちを用いて神の御心を行うことができるのです。私はアビラのテレサの言葉を思い出します。「あなたがたは神が善を行うために歩まれる足です。あなたがたは神が善を行うために歩む足であり、あなたがたは神が全世界を祝福するための手です。あなたの手、あなたの足、あなたの目、あなたは彼の体です。キリストはこの世においてはあなた方以外の体は持たれていません。」 "我らの日用の糧を今日も与えたまえ..." イエスの時代、パンは主食でした。当時のパンはアジアにとっての米のようなものでした。パンは通常、大麦のパンで、毎食食べていました。 「パンに使う穀類は、女たちが2つの砥石で挽きました。下の砥石は固定し、上の砥石は回転させて穀物に水を混ぜ、発酵した生地を練って、膨れるまでねかせました。そして、薄く平らな円形の生地を火で熱した石に叩きつけるか、その家庭にあればパン焼き窯に入れた。」とあります。 (食料:ナザレで人々が食べたもの https://www.jesus-story.net/food-in-nazareth/) 「日々の糧」というと、ヘブライ人が荒野で与えられたマナのことを思い出します。 1日の消費量を超えてマナを取っておくと腐ってしまいました。 このことは、私たちが本当に必要なものだけに限定して消費するように私たちに問いかけているのです。もし私たちが他の人たちよりも多くの資源を取っているのであれば、私たちのライフスタイルを見直した方がよいかもしれません。 イエスはまた聖書の中で自分自身を「命のパン」と呼んでおられます(イエスは「わたしは命のパンである」と宣言した。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」と宣言された。ヨハネによる福音書6:35) パンは命、イエスは命です。 私は神様によるパンによって、様々な方法で養われていることを実感しています。 神様と一緒にいる時間が私を支えてくれます。 私は祈りと神様の聖霊によって養われています。 "我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるし給え" 神に赦しを求めることは簡単かもしれませんが、他人に赦しを求めたり、他人を赦すことはそう簡単ではありません。 イエスは私たちが赦すと言われましたが、赦すべきと言われたのではありません。赦すのに時間がかかり、急ぐことができない人もいます。 犯罪があまりにもひどいものであったために、赦すことが困難な場合もあるでしょう。 私たちは相手のためだけでなく、自分のために赦すのです。自分自身のために赦すのです。 ハワイに住む私の友人は、娘さんを殺されましたが、娘さんを殺した犯人を赦すまでに、しばらく時間がかかりました。彼女は自分のために赦したのです。そうすれば、一生、自分の中に憎しみを持ち続けることはないでしょう。 カリフォルニアに住む別の友人の息子は、ネットいじめで人生を狂わされましたが、彼は許して前に進みました。しかし、彼は犯した罪に対する正義を求めました。 私たちの多くは赦しについて、あるいは赦したときの物語や証を持っています。 神の赦し、恵み、憐れみを意識しない日はないでしょう。私たちの罪は赦され、私たちはすでに自由になっているのです。 私たちは神の恵み、特に赦す心を持つために祈ることができます。聖書には赦しに関する聖句がたくさんあります。私たちの赦しや他の人を赦すことについてです。それらは見つけるのが難しいものではありません。ここではそのいくつかを紹介します。 「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。」マタイ6:14 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」 コロサイ3:13 「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」マルコ11:25 「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」1ヨハネ1:9 赦すとは、怒りと復讐心を手放すことです。私たちは、神の力が与えられない限り、赦すことに苦労します。(詩篇29:11)主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。 ルカ11章の「主の祈り」の後には、たとえ話があります。このたとえ話は、夜中に現れたもう一人の友人のために、夜中に親しい隣人のところへパンをもらいに行く友人の話です。 もしかしたら、彼はもっと後日、早くても次の日までに来るとは思われていなかったかもしれません。しかし、その友人はそこにいて、お腹を空かせているのに、家には彼に食べさせるパンがないのです。当時は大きな問題でした。 イエスの時代にはホスピタリティがとても重要でしたし、聖地では今でも重要です。私がイスラエルでパレスチナ人の家に行ったとき、彼らは私のことをよく知りもしないのに、私に飲み物と食べ物を提供してくれたのを覚えています。 突然の来客でも、真夜中でも、もてなしをしなければならないのです。 ですのでこの物語に登場する男は、客人のために十分なパンがないことに気づいたとき、友人のところに行って、その友人の家庭全員を起こしてでもパンを貸してくれるように頼んだのです。当時は扉に大きな梁があり、皆が一つの部屋で寝ていたので、梁を外して扉を開けるとかなりうるさかったようです。 「邪魔をしないでください」と、その友人は家の中から答えます。「戸にはもう鍵がかかっていますし、子供たちも一緒に寝ているので、起きて何かを渡すことはできません」(ルカ11:7)。 私たちは友人の家のドアをノックする人が失礼だと思うかもしれませんが、当時はドアに出ない人の方が失礼だと思われていました。なぜなら隣人を助けていないからです。 彼は、もてなしの条件を満たすために助けを必要としていたのです。目覚めた友人は、この義務において隣人を助けなかった場合、不名誉を被ることになるのです。 イエスは、この男が最終的に友人の求めに応じるのは、彼が友人だからではなく、友人の粘り強さのためだと言われます。(ルカ11:8)。 彼は応じるのです。イエスのたとえ話は、私たちが粘り強く祈ることができることを教えてくれます。神様は私たちを助けてくださり、良いものを与えてくださいます。 神様は私たちの祈りを聞きたいと願っておられます。 私たちは祈り続けることができます。神様は困っている人に応えてくださいます。 「だから、あなたがたに言います。求める者はみな受け、捜す者はみな見つけ、たたく者にはみな門が開かれるからです」(ルカ11:9-10)。 この箇所は難しく、いくつかの疑問が生じます。 なぜでしょうか?それは、私たちの経験がイエスの言葉と矛盾しているからです。私たち、あるいは私たちの知り合いは、求めても与えられず、探しても見つからなかったことがよくあります。誰かのために、あるいはある状況のために懸命に祈っても、目に見えるような改善は見られないかもしれません。 その例をいくつか挙げてみましょう。一生懸命に祈ったのに、チャック牧師を癌で亡くしました。 私は親友を地下室への階段からの転落事故によって失いました。 私たちの教会のマレット夫妻は、5歳半の娘を不治の病で失いました。このような出来事の中から、神からの信じられないようなことが後に起こりました。 しかし私たちの世界はどうでしょうか。世界の多くの地域で、いまだに銃による暴力が続いています。 飢餓、干ばつ、洪水があります。 世界中の人々の熱心な祈りにもかかわらず、ウクライナでは戦争が続いています。 もし神様が愛に満ちた親のように、良いもの、命を与えるものを与えたいと願っておられるのなら(ヨハネ11:11-13)、なぜ多くの祈りが答えられないように見えるのでしょうか。7月10日の説教でこのことを話しましたが、この問いに対する答えは単純ではありません。 聖書は、私たちが平和を得、誰もが十分に食べることができ、暴力と戦争がなくなるという神の御心を証ししています。いつのことでしょうか?私たちにはわかりません。しかし私たちは今、神の親族が来るように働くことができます。 神様は私たちの祈りを聞いてくださり、答えてくださいますが、私たちが望んだり期待したりするような形ではないかもしれません。しかし私たちはこの世界を変えるために神に祈り続けることができます。 私たちは祈り、そして行動を起こすことができるのです。ジョン・ウェスレーはかつて、「祈りと行動は共にある」と言いました。 公共テレビで幼児教育をしていたロジャース氏は(Mister Rogers' Neighborhoodは1968年から2001年まで放送されました)は、長老派の牧師でもありましたが、「私が少年の頃、ニュースで怖いものを見たとき、母は私に『助けてくれる人を探しなさい』と言ったものでした」と述べています。助けてくれる人は必ずいるんだよ、と。これは子どもたちにとって慰めでした。そして、大人になった私たちにも、神様は助けてくれる人の一人になるように導いてくださるのです。私たちは共同体であり、『主の祈り』を祈るとき、私たちはつながっているのです。一人が傷つくと、私たち全員が傷つくのです。 ですから、もし私たちが毎週日曜日のように『主の祈り』を祈るのであれば、神は私たちをこの世界の善のために用いようと意図しておられることを理解しなければなりません。 神は私たちを人類のために用いようと意図しておられます。神はすべての人々がシャロームと全体性と平和の一部となれるように、私たちを用いようと意図しておられます。 私たちは祈り、この世界をより良い場所にすることができます - "... on earth as it is in heaven"(天にあるように地にも)。 神は私たちを使うことができます。私たちは神の手であり足です。私たちは世界における援助者です。 私たちは祈り続ける者です。 私たちは、祈りによって変化を起こすことができる者です。 私たちが皆、神様に用いられることを祈ります。次に祈るとき、神は今、あなたをどこで用いようとされているのか、自分に問いかけてみてください。その答えに耳を傾け、最後に「主の祈り」を唱えましょう。 国と力と栄光はとこしえにあなたのものです、 アーメン 祈りましょう。主よ、私たちがあなたに耳を傾けるとき、あなたの御言葉に注意を向けることができるように助けてください。気が散らないように助けてください。イエス様様の御名において祈ります。アーメン。
みなさんの中に、教会暦をご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。その一例を今スクリーン上で紹介しますが、それを見ると、私たちは今、教会暦でいうとペンテコステの後の季節、"Ordinary Time(聖霊降臨後の普通の時) "と呼ばれる時期にいることが分かります。 教会において1年の間に、3つの大きな祝日の季節があります。クリスマス、イースター、そしてペンテコステです。そして、それぞれの季節は、キリスト教の信仰のある特定の側面に焦点を当てています。 クリスマスの時期、私たちは、神様が私たちと共におられるという事実、すなわち「私たちと共におられる神」を意味するインマヌエルであるイエス・キリストが、私たちが理解できる方法で私たちの元にこられたという事実を祝います。私たちの神様は、ただ私たちと共にいるために、人間の姿をしてこの地に来られたのです。 イースターの時期、私たちは神様が私たちのためにいてくださるという事実を祝います。私たちは罪深い存在であり、罪のために自分では神と直接関係を結ぶことができない人々です。自分では救いを実現することができない人々であることを、この時期に思い出さずにはいられません。私たちが救われるために必要だったのは、罪を知らない、あるいは罪を犯さないイエス・キリストが十字架にかけられ、私たちのために死んでくださったことで、その死によって、私たちは再び全能の神様の善意につながることができるようになったのです。 聖霊降臨(ペンテコステ)の季節には、神様が私たちのうちにおられること、神ご自身の霊が私たちに注がれ、今も私たちのうちに生きておられることを祝います。神様が私たちの心、精神、体に住まいを持ってくださったことにより、私たちは絶えず新しくされ、日々よりキリストらしくあるために必要な力を与えられます。 このように、教会暦に沿って祝われるこれらの季節は主要な祝祭となりますが、これらの季節について何か興味深いことにお気づきでしょうか。クリスマス、イースター、ペンテコステの3つの季節は、「季節」と呼ばれるにしては、とても短いように思われます。しかし、「Ordinary Time(聖霊降臨後の時期」と呼ばれる緑色の大きな部分は、クリスマス、イースター、ペンテコステの時期と比べるともっと長い時を占めています。 見てお分かりの通り、教会暦の中で最も大きな部分を占めるのが「Ordinary Time(聖霊降臨後の時期」です。クリスマス、イースター、ペンテコステといった「大きな出来事」を祝うことも大切ですが、教会歴を見ているとイエス様がこの世に来られた後のシーズン、イースターの朝の救いの後のシーズン、神ご自身の霊が降臨した後のシーズン、これらのシーズンも私たちの信仰生活において同様に重要であることがわかります。 今は7月中旬ですが、スクリーンの画像でお分かりのように、今私たちは「Ordinary Time(聖霊降臨後の時期)」にいます。「Ordinary(普通)」という言葉から、このシーズンが特別なものではないと思われるかもしれませんが、実は私たちクリスチャンの生活にとって、このOrdinary Time(聖霊降臨後の時期)はとても大切な時期なのです。私たちクリスチャンは、クリスマス、イースター、ペンテコステのような大きな記念日をお祝いするのが好きですし、同じように、日曜日を一週間における重要な日としてとらえています。日曜日は、一週間の日常を離れて集まり、神を礼拝し、御言葉を深く学び、神の家族全員と祈りの交わりをする日だからです。 しかし、これらの時間と同じくらい大切なのが、Ordinary(普通)の時間です。それは私たちの信仰の成長において、教会にいない時の日常生活での言動が本当に大切だからです。家庭、学校、職場の人間関係、このような日常生活で普通に経験する人間関係が重要なのです。 今日の聖書箇所は、エルサレムから数キロ離れたベタニアという町に住むマリアとマルタという二人の女性の日常生活にイエス様が介入するお話しです。イエス様はエルサレムに向かう途中、彼女たちの家に立ち寄られます。 1世紀の中東では、お客様をお招きすることは一大事で、その準備は通常、女性の責任と捉えられていました。マルタは、そのような時代に生きる女性として、イエス様とその弟子たちを家に迎え入れるために、もてなしや食事の準備など、必要なことをすべて行い忙しくしていました。 そんな一方で、妹のマリアは、まったく忙しそうにしていません。彼女はただぶらぶらとイエス様の足もとにすわって、イエス様の言われることをすべて聞いているだけです。(ルカの福音書10:39) それを見たマルタは、自分ばかりが働いているのは不公平だとイエス様に訴えます。イエス様たちをもてなすために必要な仕事を自分に任せているマリアを批判します。(ルカの福音書10:40)その苛立ちから、マルタはイエス様にこのように言います。 「主よ、妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」(ルカの福音書10:40) マルタの頭の中では、マリアは何もせず、ただイエス様と一緒にくつろいでいるだけで、大変な仕事をさぼって、簡単で楽しいことをやっているだけだったのでしょうか。 しかし、よく考えてみれば、マリアがしていたことが簡単だったわけではないことがわかります。今日の聖句が書かれた時代と場所について考えてみましょう。 1世紀の中東では、女性は家事全般をこなすことが期待され、客が来ると、料理を含め、家の中のすべての準備をするのは女性の仕事でした。当時は、男女が交わることはまれで、ましてやまだ準備が残っている間は、絶対男女が交わることは決してなかったのです。(https://www.workingpreacher.org/commentaries/revised-common-lectionary/ordinary-16-3/commentary-on-luke-1038-42-3)。 しかも、イエス様の足もとにすわる(ルカの福音書10:39)というのは、師匠、先生の教えを直接聞くという、重要な行為で、それは男性にのみ許された行為でした。しかし、今日のルカ書の一節にあるように、イエス様はこの慣習を破り、マリアという女性が自分の足もとに座っても追い払うことはありませんでした。 そして、このことはマリアも覚悟がいることだったのです。彼女はただぶらぶらし、イエス様や他の弟子達と楽しい時間を過ごしていたのではありません。男性に限定されていたスペースで、彼女は積極的にキリストの言葉を学び、弟子となる方法を学んでいたのです。 そして、イエス様はそんなマリアを完全に歓迎していたのです。 イエス様はマリアを伝統的には男性のものであったスペースに迎え入れ、弟子として彼女の存在を受け入れ、自身の教えについて説きます。 このようにして、二人の関係は公的に教師と生徒の関係と定義されるのです。イエス様の世界観においては男女の境界線がないことを示しています。誰もがイエス様のもとに来て学ぶことを歓迎されているのです。 イエス様にあって男女の差はなく、全ての人が歓迎される、そんな素晴らしいことがリビングルームで起こっている間、マルタはキッチンにいて、その歴史的な瞬間を完全に見逃していました。マルタは実は、重要なことが起こっていることにさえ気づいていないようです。 そしてそれは、マルタがいろいろなことを心配して気を使っている(ルカの福音書10:41)からなのです。マルタのフォーカスは、イエス様が言っていること、イエス様がしていることではなく、全く別のところにあります。マルタのフォーカスはマリアの行動、マリアがマルタだけにもてなしをさせていること、そしてイエス様がマリアのその行動をそのままにさせていることにあります。マルタはイエス様に、イエス様がマルタの過労、マルタのことを気にしていないように見えると言います。彼女はイエス様に、マリアに台所に戻ってマルタの手伝いをしてくれるように言ってくれと頼みます。 そのようなリクエストに対し、イエス様はどう答えられたのでしょうか? イエス様は...マルタの問題点を指摘し、彼女を諭します。マルタが一つのことに気を取られているのではなく、多くのことに気を取られていることを指摘するのです...。(ルカ10:40-41) 面白いのは、イエス様がマルタのことを「いろいろなことを心配して気を使っている 」と言うのに、マルタ自身にはその自覚がないことです。実際、マルタの目から見れば、マルタは自分のことを良いこと、主に仕えるために必要な労苦をしていると思っています。マルタは、「妹が私だけにおもてなしをさせている。」と言います。(ルカの福音書10:40) ここで使われているギリシャ語の「おもてなし」にあたる言葉は、実は「仕える」という意味を持っています。マルタの頭の中では、自分がしていることはすべて主であるイエス・キリストへの奉仕と捉えているのです。彼女は、すべてのことを、神様への奉仕のためにしていると思っています。マルタは彼女自身の「おもてなし」を、イエス様と彼の教えを聞きに来たすべての人々を歓迎することを中心とした、主のために行う慈善行為や親切に基づいた奉仕と表現しているのです。 マルタは主に仕えて、奉仕している。 しかし、イエス様は彼女のこの奉仕の働きを「気を使っている」(ルカの福音書10:41) 行為だと言い、不必要なものだと示唆します。(ルカの福音書10:42) イエス様は今日の話の最後に、マリアは良いほうを選んだと述べています。(ルカの福音書 10:42)マリアは、イエス様が自分の家に歓迎されていると感じられるようにするために必要な、たった一つのことを選びました。それは、必ずしも常識や伝統に基づいて考え、人間的な方法でイエス様を歓迎することではなく、むしろイエス様の足もとにすわり、イエス様の言葉を聞き入り(ルカの福音書10:39)学ぶことによって、でした。 時として歓迎することと教えられることのどちらかを選ばなければいけないことがあります。その選択は厳しいもので、教会共同体においては、この選択が緊張の源となることがあります。イエス様に従う者として、私たちは老若男女、黒人、白人、黄色人や茶褐色の肌を持つもの、クリスチャン、そうではない人、独身、離婚、既婚、犯罪者、貧困、未亡人、障害者など、すべての人を歓迎します。しかし、それは必ずしも、一人一人を歓迎するために、私たちがイエス様の教えの優先順位を下げたり、妥協したりすることを意味するものではありません。 私たちのコミュニティにもたらされるすべての要望や必要性に対応しようと、自分達自身を追い詰めるということでもありませし、また、私たちのコミュニティで発生するコメント、苦情、要求のすべてに対応しなければならないということでもありません。 人々の間に存在する境界線を取り払うことによって、すべての人をご自分の足もとに座らせることを可能にするのはイエス様です。私たちの役割は、何よりもまず、神様に耳を傾け、イエス様の教えに注意を払い、私たちが今、属するコミュニティの中で何に焦点を当てるよう神様が求められているのかを注意深く見極めることです。 時に、教会は、マリアのように、人々が快適に過ごせるように、思う存分歓迎されるように、できる限りのことをすることに集中しすぎてしまうことがあるように思います。誤解しないでください。私は、マリアが男女の役割の壁を越え、弟子としてイエス様の足もとに座ることを許したイエス様が示す歓迎の重要性をとてもよく理解しているつもりです。 しかし、私が指摘したいのは、私たちは歓迎する共同体になることに焦点をおくとき、いつのまにか気付かぬうちに歓迎することを最重要視する共同体にかわっていることがあるということです。もし私たちが、すべての必要を満たし、すべての小さな不満に答え、誰もが快適に過ごせるようにということに重きを置きすぎると、やがて、これらのことが積み重なり、これらの対応に忙殺されている間に、イエス様の教えに耳を傾ける機会を逸してしまう可能性があります。マルタのように。 マルタは、自分がしているすべての奉仕はとても重要で、絶対に欠かせないものだと考えていたので、何も手放すことはできないと考えていました。実際、彼女はイエス様に、全てのことがもてなす上で必要と考えたため、マリアに自分を助けるように言ってほしいと頼んだわけです。 このような必死なマルタを、イエス様は「心配している」と呼びかけます。 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」(ルカの福音書10:41)とマルタに言うのです。 「心配」は強力な感情であり、私たちを盲目にし、私たちが焦点をあてるべきものから注意を奪う力があります。心配は、私たちの目を曇らせ、焦点をあてるべき事柄から私たちの集中力を奪ってしまうのです。 教会の会員数が減り始め、財政が逼迫してくると、心配になるのも無理はないでしょう。私たちの教会は大丈夫だろうか?また成長するのだろうか?パンデミックになり、多くの教会がこのような不安や心配を抱えています。私の所属する教団の他の教会や、他のユニオン教会においてもこのような心配の声があるのを耳にします。そして、正直に言えば、私たちの教会も同じような心配を抱えているでしょう。 このような心配の対処法として、より多くのプログラムを提供し、より多くのオプションを追加し、コミュニティの一人一人が表明するあらゆるニーズに対応しようとする誘惑に駆られることがあります。人々が何かを好んでいることが分かると、そのことをさらに推し進めようとする誘惑に駆られるのです。人々が何かに困難を感じたり、何かが好きではない、楽しくないと言うとき、私たちはそれらを取り除かなければ、もっと人を失うかもしれないという絶望的な心配から、それらが実際に人々の霊的成長にとって必要なものかを吟味せず、それらのことを行うことからすぐに手を引く誘惑に駆られるのです。 そのようなことが積み重なると、やがて、イエス様の教えに焦点を当て、それに基づいて行動する教会ではなく、人々が好むことだけを行い、人々が好まないことを避ける社交クラブになりかねないのです。 私たちはいつも単純な真実、自分たちは神ではないということを覚えておかなければいけません。 私たちはキリストではありません。神様の民のすべての望みや必要を満たすことはできません。私たちはすべての人を歓迎し、すべての人に開かれた教会ですが、その歓迎は私たちから来るものではありません。それはイエス様様から来るものであり、私たちがイエス様様の教えに耳を傾け、イエス様様が私たちに教えてくださったことを実行することによって実現するものなのです。 人々を歓迎することが私たちにとって重要なのは、それがイエス様が私たちに教えたことだからであり、人々が私たちの教会に戻ってくるための良い方法だからではありません。 教会のメンバーとして、キリストの体のメンバーとしての、私たちの役割は、人々を私たち自身、私たちの人間的な考え方ややり方に結びつけることではなく、人々をイエス様様の教えに結び付け、人々がその教えに従えるようにサポートすることなのです。 これは、簡単なことではありません。私たちは何に対してもイエスと言うために教会に属しているのではありません。実際、聖書は明確です。境界線を引き、どこに焦点を当てるべきかを見極め、それに応じて優先順位をつけることは、決してクリスチャンとしての信仰に反する考え方や行動ではありません。しかし、しばし私たちは、ノーと言うことは愛がないように感じるので、そのように考えてしまいがちです。 しかし、今日のお話しをみてわかるように、イエス様が私たちに警告しているように、この世には私たちの気を落ち着かせない誘惑が存在します。私たちをイエス様の教えから遠ざけ、イエス様の教えに従わないように誘惑する考え方、伝統に基づくプレッシャー、心配事があります。これらは私たちの焦点をぼやけさせ、私たちの霊的成長のために必要な良いものをどのように選択したらよいかを分からなくさせます。 教会のコミュニティーの中で「ノー」を実践しなければいけないことがあることを私たちは覚えておかなければいけません。時として、物事にノーと言わなければならないこともありますし、自分が求めるもの、自分が望むものに対して、人から「ノー」と言われることを受け入れなければならないこともあるのです。 教会として、私たちが提供するクラス、活動、機会が、本当に人々を霊的に養っているかどうかを私たちはよく見極めなければなりません。私たちのコミュニティで、人々は歓迎され、ありのままの自分を受け入れられていると感じているのでしょうか。この点は非常に重要です。私たちは、イエス様の教えを学び、それに従うという困難な旅に出る前に、お互いに対する信頼、愛、優しさ、尊敬のベースを作る必要があるのです。 しかし、そのベースができた後、私たちはより大きな質問をし続ける必要があります。人々が自己満足に陥っていないか、自分の生き方を見つめる時、イエス様の教えに沿っていない場合は自分の言動を改めるよう促されているか?人々は世とは異なる生き方を選択するよう奨励され、そのために必要なすべてのサポートを受けているのでしょうか? もしそうでなければ、もし私たちがしていることが現状をキープしたり、奨励するだけなら、私たちはマルタと同じで、気が落ち着かず、大切なものを見落としているのかもしれません。時には、物事を手放し、変化を受け入れ、物事に対しノーと言う必要があります。 しかし、クリスチャンとして、それをどのように行うかは非常に重要です。イエス様がマルタにどのように向き合ったかを見てください。イエス様はマルタを責め倒したわけでもなく、その場で何をすべきかを命令したわけでもありません。ただ、マルタに対し、「いろいろなことを心配して気を使っている」(ルカの福音書10:41)と言われたのです。イエス様はマリアを例に出し、同じ状況にありながらも、全く別の主への仕える方があることを示されたのです。イエス様はマルタに具体的に何をすべきかを指示することはなく、最終的にマルタ自身に優先順位を選択させる自由を与えたのです。 私たちは、霊的成長のためにより良いほうを選択するよう、互いに励まし合う教会共同体でしょうか?私たちが皆、イエス様の足もとにすわり、その教えに耳を傾けることができるように、先入観や世の中が作り上げるプレッシャーを克服し、信仰の成熟を目指すように励ます、サポートし合う共同体でしょうか? 私たちの霊的な成長に妨げになるものを取り除くことは容易なことではありません。個人レベルにおいても、教会の共同体としても、イエス様の教えに集中し、従うことを邪魔する心配や誘惑に誰もが晒されています。 しかし、このことを覚えていてください。イエス様はマルタの心配や気が落ち着かない様子を問題視し、諭さなければいけませんでしたが、イエス様はマルタもマリアも等しく愛されました。(ヨハネの福音書11:5)私は、私たちの教会が、愛情をもって信仰の成長を妨げるものを取り除くようお互いに助け合い、世の中が推奨する生き方とは違う生き方を選び、自分達にできることがたくさんあったとしても、イエス様に集中することを、より良いほうを選択する共同体でありたいと願っています。 祈りましょう。 主よ、あなたの真実は時として厳しい真実です。あなたはいつも私たちに、より良いほうを選び、よりあなたのようになるために優先順位をつけることを求めています。主よ、私たちがあなたの子供として、また教会の共同体として、より良いほうが何であるかを見分けることができるようにしてください。私たちの心を、私たちとこの教会に対するあなたの御心と一致させてください。イエス様の御名によって祈ります、アーメン。 (この説教を作成する際のインスピレーションと本説教の一部は、http://stmichaelsgideapark.org.uk/sermons/how-to-pray-differently-colossians-11-14/(なお、コロサイ人への手紙の概要は、https://www.youtube.com/watch?v=pXTXlDxQsvc をご参照ください)。
何年も前、クリスチャンの間で「祈りのちから(邦題)」という映画が流行ったことがありました。ご覧になった方はいらっしゃいますか?2015年8月に公開になった映画です。日本の映画館で日本語を話す人たちの間でどれだけ人気があったかは知りませんが、アメリカで最も高い興行収入を記録したクリスチャン映画の1つとなったそうです。今日、説教の最後のほうで少しだけ映画をお見せする予定です。 2016年、当時KUCの女性ミニストリーリーダーだったロビン・シャウが、KUCのオアシス・女性・バイブルスタディで 「祈りのちから」をテーマに六甲アイランドで祈りとスタディ・グループの場を設けました。 その際に「祈りのちから」のスタディガイドを用い、映画も鑑賞しました。この映画で描かれている老女クララさんの祈りの生活に、女性たちはとても心を打たれました。 映画をほんの少し紹介します。クララさんは、家の中に祈るための特別なクローゼットがあり、それを 「ウォー・ルーム 」と呼んでいました。 彼女は実際にはクローゼットである、その小さな部屋で、人々や世界のために祈ることで、霊的な戦いを行っていたのです。 映画の中で彼女は、「敵に立ち向かうためには、膝をついて祈る必要がある!」と、その部屋での祈りの生活を語っています。 この映画では、クララさんが、ある家族のために祈ります。その家族には素敵な家、良い仕事、たくさんのお金、かわいい娘、すべてがあるように見えますが、実際はそうではなく、蓋をあけると、両親は酷く崩壊しており、祈りが必要な状態です。そこで、クララさんは自分の得意なこと、つまり祈ることをします。 そして、彼女は映画のストーリーの中でずっとこの家族のために祈り続けました。 私たちは自分のために祈る人々が必要です。あなたのために祈り続ける人がいることを祈ります。私たちは教会のコミュニティとして、個人として祈ります。そして、私たちの世界のために祈り続けるように祈ります。 すべての祈りは、すべて神様に届きます。祈りは物事を変えます。祈りは私たちの生活の優先事項なのです。 聖ミカエル教会のダニエル・カーク牧師によると、ある人が「もしあなたがその人の本当の人生の優先順位を知りたいのなら、二つ聞く事があります:何に一番お金を使うのか、そして自分と他人のために何に対して祈っているか」と言ったそうです。 使徒パウロが何にお金を使っていたかは知りません。しかし、彼の祈りの習慣は、当時彼が手紙を書いた教会への手紙を通して知ることができます。祈りを優先していたのです。パウロが祈りの人であったことは間違いありません。 パウロはコロサイ人の為に祈ります。 9節の「...私たちは、あなたがたのために祈り続けます」という言葉が好きです。 今日の説教の題名はそこから引用させてもらいました。 今日の朗読で、パウロは神への感謝から祈りを始めています。パウロはパウロの弟子の一人であり、コロサイ教会に福音をもたらした人物であるエパフラスについて話しています。 エパフラスは彼らの霊的な父であり、羊飼いであるとも言えるでしょう。パウロは、彼を 「キリストの忠実な仕え人である親愛なる同胞 」と表現しています。 パウロは6-8節でこう書いています、「...世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに変わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」 エパフラスがよく教えてくれたというパウロ。パウロはエパフラスを愛し、尊敬しています。パウロは、彼を「仕え人仲間」、「忠実な聖職者」、「キリスト・イエスのしもべ」(コロサイ人への手紙1:7、4:12)と呼びました。その昔、エパフラスはローマでパウロを訪ねている時に投獄されたようなので、獄中でも仲間だったのです。 パウロは、「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています」(ピレモン人への手紙1:23) パウロは手紙の中で、エパフラスがいかに彼らの霊的成長を心から心配しているかをコロサイの人々に伝えました。エパフラスは、コロサイの人々のために祈ることを約束し、「いつも(彼らのために)祈りに励んでいます」(コロサイ人への手紙4:12)。エパフラスは、コロサイのクリスチャンたちが祈りの生活において強く立ち、信念において強く立ち、信仰において強く立つことを望んでいたようです。 パウロは、エパフラスがラオディキアやヒエラポリスの人々のために働いていたように、コロサイの教会のためにも懸命に働いていたことを示しています。 「私はあかしします。彼はあなたがたのため、またラオディケアやヒエラポリスにいる人々のために非常に苦労しています。」 (コロサイ人への手紙 4:13)。コロサイ人への手紙以外に、エパフラスの名前は、パウロのピレモンへの個人的な手紙にも出てきます。 「キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています」(ピレモンへの手紙1:23)。エパフラスは私たちにはあまり知られていないかもしれませんが、パウロにとっては重要な人物であったことは確かです。 コロサイの信徒への手紙は、たった4章から成っていますが、多くのことを語っています。 先週、亜希子牧師がコロサイ人への手紙から説教しましたが、今週は私も選びました。偶然?神様の仕業? そうかもしれませんが、一つの理由は、ちょうどWOW(Women on Wednesday)でこの章の勉強を終えたところだったからです。 WOWでは、1週間に1章ずつ、4週間勉強しました。 もう一つの理由は、私と亜希子師が何を説教するかについて祈っていて、聖霊を通してこの節を選ぶように導かれたからです。毎週、説教の準備のために、祈りに費やされています。 私たちは説教の準備のために祈りを大切にしています。 パウロは祈ることの大切さを知っています。 実際、彼は 「絶え間なく祈りなさい 」と言った人です。( テサロニケ人への手紙 第一 5:16-18) 「絶え間なく祈りなさい 」とパウロは言いました。「何事においても感謝しなさい。あなたがたは、御霊を静めてはなりません。」(テサロニケ人への手紙 第一 5:17-19) 私もそう思います! 御霊を鎮めないで祈りましょう! 何が起こっても神に感謝を祈りで捧げましょう。 当時、ローマの民はローマ帝国とローマ皇帝を崇拝していました。 しかし、パウロは、自分の忠誠はキリストにのみあり、カエサルに忠誠心はないと言っています。 パウロとクリスチャンはイエスを崇拝し、他の神々を崇拝しなかったのです。 ナチス・ドイツの時代の神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー(『弟子の代償』という本も書いている)のように、パウロは当時、イエス・キリストを信じることがいかに価値のあることであるかを知っていたのです。 それは、反文化的なことでした。 クリスチャンになることは、自分の人生を犠牲にしてしまうかもしれないのです。 特にコロサイの人々は、他のすべての神々を拒否して、イエスを拝んでいたのです。 このコロサイ人への手紙は、私たちに問いかけています。今日、クリスチャンであるための代償は何でしょうか? それは、イエスが本当に主であり、私たちはただ祈るだけでなく、全生涯をイエスに捧げなければならないということを、今日の私たちに教えているのです。 パウロは、伝道が成功したことを感謝し、彼らの霊的成長を祈り、弟子として深く知識を持つ事を祈っています。(3-14節)伝道と弟子訓練は、KUCでもよく耳にする言葉です。どちらも重要であり、手を取り合っていくものです。KUC では E&D というミニストリーがあり、ロイ・ミスラングさんがそのリーダーを務めています。 E&D に対する良いアイディアがあれば、ロイさんに話してみてください。私たちは KUC のすべてのミニストリーが「あらゆる善行のうちに実を結び」 (コロサイ人への手紙 1:10)ますようにと祈っています。 KUC のミニストリーに実を結ばせましょう。 コロサイ人への手紙をゆっくりと瞑想しながら読んだとき、私はレクチオ・ディヴィーナと呼ばれる、ラテン語で「神の読み方」という意味の読み方をしました。レクチオ・ディヴィーナとは、ラテン語で「神の読み方」という意味です。これは、聖霊に導かれて聖書を読む瞑想的な方法です。コロサイ人への手紙のこのフレーズは、聖霊から私に語りかけてきました:「すべての聖徒に対してあなたが抱いている愛のことを聞いたからです」(4節)私が瞑想中に何度も立ち返ったのは、「愛」と「すべての神の人々のために」という言葉でした。 彼らは互いに愛し合い、また他者をも愛していたのです。 コロサイのクリスチャンの信仰は、「聖霊によってできるすべての人への愛(8節)」を生み出していたのです。 彼らは愛した。それは、私たちが互いに愛し合うことができる方法です。聖霊が示してくださる祈りによって。 聖書にはお互いに愛し合いなさいという節が沢山あります。 (ヨハネの福音書15:12: 「私の命令はこれです。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」、ルカの福音書6:31:「自分がしてもらいたいと思うように、他の人にもしなさい。」、コリント人への手紙16:14「すべてのことを愛のうちに行いなさい。」) 当時、キリスト教は奇妙な宗教と見なされていました。ローマの神々を崇拝しないだけでなく、互いを本当に愛していたからです。彼らは、自分たちの間で物を分け合い、貧しい人々に施しをしました。また、他のキリスト教徒だけでなく、仲間への愛も示していました。 アメリカの新約聖書学者で初期キリスト教の歴史家であるラリー・フタド氏は、古代ローマの異教徒からキリスト教がどのように見られていたかを説明しています。「当時の多くの人々の目には、初期キリスト教は奇妙で、奇怪で、ある意味では危険でさえあった。そのことを示すように、ローマ時代の批評家たちは、これを倒錯した「迷信」と呼びました。 (Larry Hurtado, Destroyer of the gods (Waco, TX: Baylor University Press, 2016), 2-3. ダニエル・カーク牧師が言うには、「あるローマ皇帝は、キリスト教徒は自分たちの貧しい人々を愛するだけでなく、他の異教徒がしない方法で異教徒の貧しい人々をも愛し、助けている。」と言いました。 これは、当時としては非常に珍しいことで、同じグループでない他者を愛するということでした。しかし、クリスチャンは家族(親族)のように、また、他の人にも愛と優しさを広げていたのです。 聖書の他の箇所では、パウロは「すべての人に善を行いなさい」「特に信仰の家系に(注:だけではない)」(ガラテヤ人への手紙6:10)と言っていたのである。初期のクリスチャンの博愛主義はさらに外にまで及んでいたのです。「悪をもって悪に報いないように気を付け、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう努めなさい」(テサロニケ人への手紙 第一5:15)。初期キリスト教徒たちの愛と慈しみは、(引用)「急進的で費用がかかり、彼らの社会に深い影響を与えた。」 (ダニエル・カーク牧師) 自分とは異なる人たち(それがクリスチャンであろうとなかろうと)に対する愛は、人間の本能に反しているので、これはきっと聖霊の働きによるものだと指し示しているのでしょう。 それは簡単なことではなく、祈りによってのみ可能なことです。 私たちはしばしば、自分とは異なる考えを持つ人を愛さないことがあります。聖書では、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るようにと言われています。(マタイの福音書5:44)私たちが恨みを持ち、人を赦せず、互いに傷つけ合うなら、私たちはイエスの言葉に従っていないのです。 パウロは、「あなたがたのために天にたくわえられてある望み」(5節)を神に感謝します。クリスチャンは希望を持つ人です。私たちの希望はイエスにあります。私たちは、キリストに従う者として生きるなら、社会を変えることができるという希望を持っています。私たちには、福音、つまりイエスの良い知らせが広がり、「世界中に実を結ぶ」(6節)希望があります。私たちは、キリストの愛によって人生が変えられるという希望を持っています。私たちは、平和な世界に対して希望を持っているのです。 祈りと希望は、私たちが霊的に成長するのを助けてくれるのです。パウロはコロサイの人たちが霊的に成長することを望んでいました。 ですから、パウロは彼らのために祈り続けました。 私たちは互いのために祈り続けることができます。それが私たちが教会としてできることです。祈り続け、希望を持ち続けることです。チャック牧師がよく言っていたように、「昨日より良くなろう」。 祈り続けてください。できる限り、また私たちの教会のためにも祈りましょう。私たちがより良くなることを願い、祈りましょう。ジョン・ウェスレーはかつて、「私たちは完全に向かって進んでいる」と言いましたが、私たちはまだそれを成し遂げてはいません。しかし、希望を持つ者として、私たちは以前より良く生きることを続け、変化を期待することができます。 KUCの規約には私たちのミッション・ステートメントが記されています。「神戸ユニオン教会は、主に英語を話す超教派の教会であり、礼拝、交わり、成長を通してクリスチャンの愛と必要に応え、日本および世界の人々の間でキリストを伝え、キリストに仕える力を教会員に与えます。」 教会のビジョンは、「神戸にクリスチャン信者を迎え入れ、成長させ、送り出す、恵みに満ちたキリスト主導の教会となる 」ことです。 このミッションとビジョンは、私たちが祈らない限り、達成することはできません。このミッションとビジョンは、私たちの成長に合わせて、変化していく可能性があります。 もし私たちがクリスチャンとして成長したいのなら、教会として地域に影響を与えたいのなら、神様の目的が何であるのかを理解し、成長する必要があります。 そのためには、祈りが必要です。 そのためには、聖書を読み、祈るという継続的な霊的訓練が必要です。霊的に成長するためには、私たちは常に神を探し求め、聖書に目を通し、神との祈りの中で時間を過ごす必要があります。 そうすれば、神を敬う意義深い、目的を持った人生を送ることができます。 映画「祈りのちから(邦題)」を少し見てみましょう。https://www.youtube.com/watch?v=_WpfkFyG5qQ 0.34から2.55 このシーンを見ると、私たちは祈りの必要性の中に立っていることを思い知らされます。この映画では、私たちは霊的な戦いの中にいるのだから、祈る必要がある、と言っています。 パウロはそのことをよく理解した上で、手紙を書きました。 イエスはマタイの福音書6:6で弟子たちにこう伝えます。「...祈るときは、自分の部屋に入って戸を閉め、目に見えない天におられるあなたの父に祈りなさい」人は、いつでも、どこでも、息をするたびに祈ることができると信じています。 祈ることは、どこでもできるのです。しかし、人によっては、祈るための特別な場所があってもいいかもしれません。 数年前、今は別の国に住んでいる、あるKUCの教会員がいました。 彼女は祈るための特別な部屋を持っていて、その部屋の壁一面に聖句を貼っていました。その部屋はトイレでした。彼女はその部屋が自分のアパートで一番静かで、誰にも邪魔されずに祈ることができると言っていました。私の知っている他の人々は、寝室や家のどこかに特別なコーナーを作り、十字架、ろうそく、聖書を置き、その部屋の真ん中で祈り、神聖な場所としています。外に出て祈りの散歩をするのが好きな人もいます。 祈りにはいろいろな方法があり、いろいろなスタイルの祈りがあります。 また、祈りのパートナーを見つけたり、小さな祈りのグループを作ったりすることもできます。また、教会のコミュニティの中にも祈る機会があります。昨夜8時から、タカヨさん、アヤミさん、そして他の教会メンバーがギャンブリングホールに集まり、イエス様のために祈り、賛美しました。 この「Praise for Jesus」を毎月開催していきたいと考えているそうなので、イエス様のために一緒に祈り、歌うことに興味がある方はぜひ声をかけてください。 音楽と歌は祈り1つの形です。私たちは皆、祈りを必要としているのです。 コロサイ人への手紙 1:3-5、9-11を引用し、それに基づいて祈りを捧げましょう。 「私たちの主イエス・キリストの父である神よ、私たちはこの神戸ユニオン教会のコミュニティのキリスト・イエスに対する信仰と、神の人々に対する愛を知り感謝します。このような理由から、私たちはKUCのことを聞いたその日から、祈り続けています。 それは、あらゆる善行において実を結び、あなたへの知識において成長し、あなたの栄光の力に従ってあらゆる力によって強められ、大きな忍耐と辛抱を持ち、父であるあなたに喜びをもって感謝を捧げるためです」。私たちは、イエス・キリストの御名によって、これを祈ります。 アーメン 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。われらの岩、われらの贖い主、主よ。(詩篇19:14)聖霊により、私たちが肉の思いに死に、あなたとともによみがえることができるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります、アーメン。
7月に入りました。毎日大変暑い日が続いていますね。引き続き世の中ではさまざまな事件や出来事が起こっていますが、皆さんはどのような日々を過ごされていますか?教会の活動に関して言えば、新しい始まりを告げるような出来事がいくつか起こっています。まず、教会事務所に新しいスタッフが加わりました。先月の父の日の礼拝で説教をしてくれたテッドさんは、私たちのコミュニティの施設管理者としての働きをはじめ、また、7月1日から新たに選出されたカウンシルメンバーが教会リーダーとしての働きをはじめました。近いうちに、礼拝の中でも新しいカウンシルのメンバーを紹介する予定です。神様の召命を受けて教会をリードするカウンシルメンバーのために祈り、支援することができればと願っています。 このような新しい始まりを見るとき、私が初めてアメリカで勉強し、働き始めた時のことを思い出します。20歳の時、大学に通うためにアメリカに行きましたが、それは確かに私にとって新しい始まりを告げる出来事でした。新しい国、新しい町、新しい友達、新しい学校、すべてが新鮮でした。日本では、両親と兄と一緒に暮らしながら、日本の大学に通っていましたが、アメリカでは、家族と離れて一人で大学の寮に入り、初対面の人とルームシェアをすることになったのです。 この新しい始まりは、私にとってとても嬉しい出来事でした。英語を学ぶことの楽しさを知ったときから、英語圏への留学をずっと希望していたのです。しかし、ただ単に英語を勉強して上達したいというだけでなく、英語で勉強できるものはすべて英語で勉強したいと思うようになりました。 私の母国語である日本語では、細かいことをあえて曖昧にしたり、抽象的にしたり、間接的にしたりすることが多いのですが、英語はとても直接的な言語で、英語で話すと、まったく新しい自分を発見できるような気がしました。より直接的で、より自信に満ちていて、より自己主張が強く、日本語を話しているときの自分よりも、英語を話すバージョンの自分が好きだと思うようになったのです。 その頃、私の日本での生活はあまりうまくいっていませんでした。ひきこもりのような状態に陥っていたのです。今思えば、まだ診断されてはいなかったが、すでにうつ病と闘っていたのだろうと思います。悲しいことがあると、絶望的な気持ちになることが多々ありました。自分の人生に喜びを感じることもあまりなく、人と真摯な付き合いをするのが、とても難しいと感じていました。学校にも行きたくありませんでしたし、友達と過ごすのも嫌でした。心の奥底では、どんな社会的な交流も望んでいなかったので、人との交流を避けるために、できるだけ自分を隠していました。 そんな暗闇の時を過ごしていた私は、アメリカへ行けば何かが、すべてが変わる! と思ったのです。当時、自分が本当に好きなのは英語を話している時だけだったので、英語圏に住めば好きな自分のままでいられるし、きっといいことがあるはずだと思ったのです。 しかし外国での一人暮らしの安全性を心配した両親は、私が日本に留まることを望んだので、アメリカ行きはすぐには叶いませんでした。しかし1年ほどかけて両親を説得し、ようやく承諾を得て、アメリカへ行くことになったのです。 私は荷物をまとめて、ミズーリ州の大学に編入しました。 アメリカでの生活は興奮にみちた、とても素晴らしいものでした。新しい国、新しい町、新しい友達、新しい生活習慣、新しいアパート、自分も含めてすべてが新しいのです。日本での生活の暗い過去ーーひきこもり、うつ病、それらすべてがアメリカにいる今、過去の産物として消え、新しい亜希子として生きていくことができる。今までの自分を知っている人は誰もいない。私は新しい自分を好きなように作ることができる。そう思ったのです。 しかし、そんな前向きで楽しい日々も長くは続かず、アメリカに来てすぐに母が体調を崩します。そして、渡米してわずか10カ月後、母は亡くなりました。母を亡くした喪失感が、私のうつ傾向を悪化させ、うつ病が再発しました。結局私は新しい国に逃げ込むのではなく、自分の心の奥底にあるものと向き合い、悲しみや落ち込みの根本的な原因と向き合わなければならなかったのです。 「新しい」 とか 「新しさ」という言葉を聞くと、過去の自分を完全に断ち切る、今の状況から自分を切り離すことを想像しがちです。「新しい」とは、今までのことをキャンセルして、新しい何かを完全にゼロから作り直すこと、そういう風に考えるとすべてが新しくなった今、過去の事を考える必要はなくなり、これから先も完璧に物事が進むと錯覚してしまいがちです。 キリスト教の信仰は、キリストにあって新しくされることを信じています。私たちがイエス・キリストを自分の主であり救い主として受け入れる時、私たちは新しく生まれ変わるのです。第二コリント人への手紙5:17にあるように、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」クリスチャンになる時、私たちは以前の自分のあり方に別れを告げ、キリストのうちに新しいアイデンティティを築きます。 今日の聖書箇所では、この手紙の著者であるパウロが、新しくされることについて、古い自分と新しい自分との対比の観点から語っています。パウロは、ローマ帝国の占領下にあった地中海の都市コロサイの人々に、キリストの復活からわずか数十年後にキリストを信仰するようになったクリスチャンコミュニティが成長していることに触れ、キリスト教の信仰の旅路における重要な教訓の一つを述べています。 それはつまり、信仰によってキリストのうちに新しくされ、新しい自分になることは、旅の始まりに過ぎないということです。 パウロはコロサイ人への手紙3:9-10で、「あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」と語ります。 パウロは古い自分と新しい自分を対比していますが、この箇所で古い行いと新しい行いを対比していないのが面白いところです。 クリスチャンが1%にも満たないと言われる日本では、キリストを信じること、つまり改心することが信仰の旅路ににおいて最も難しく、最も重要なステップであると思われがちです。しかし、今日のパウロの言葉は、クリスチャンになってからの旅路がもっと大変であることを示唆しています。 パウロは、「古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着た」という言葉を通して、私たちがキリストを受け入れたときに生じるアイデンティティの変化について説明しています。キリストを知る前の古い自分は、ちょうど汚れた服を脱ぐように、なくなってしまい、新しい自分は、あたかも新しい服を身につけたかのように現れます。 それだけ聞くと簡単なことのように思えます。アイデンティティ、つまり自分が誰であるかという認識の変化、未信者から信者への移行は神様の恵みの中で起こることで、そこに努力、鍛錬や、行いの必要性はありません。今日の聖句をよく読むと、フォーカスはアイデンティティの変化ではなく、キリストにあり新しい自分になったというアイデンティティの変化に見合った良い行いをしていくこと、つまりクリスチャンに見合った行いを身につけるということが、クリスチャンにとって最も献身的な取り組みを必要とする部分であることが分かります。 なぜなら、キリストにおいてアイデンティティを変えられるということは、それに伴い私たちの古い自己中心的な欲望をすべて十字架の上に置いて、自我に死ななければならないことを意味するからです。つまり、怒り、怒り、悪意、中傷、暴言といったものをすべて取り除かなければならないのです(コロサイ3:5、3:8)。 このことを知れば、今日の聖書箇所の焦点は、古い自分から新しい自分への突然の劇的な転換にあるのではないことがわかります。むしろ、その後のことに焦点が当てられているのです。キリストを受け入れた後、私たちに求められることは何なのでしょうか?クリスチャンとして、教会として、キリストにある新しいアイデンティティを与えられて新しくされた人々として、私たちは何をすればいいのでしょうか。 これらの問いに対するパウロの答えは、「Renewal (リニューアル):日々造りかえられる」のプロセスでしょう。クリスチャンである私たちの内なる人は、日々造りかえられ、新たにされるべきものであり、またそうでなければなりません。(第二コリント人への手紙4:16) 私たちは信仰を受け入れた時にキリストにあって新しい人になるだけでなく、その後も日々絶えず新しくされ、日々、ますますキリストのように成長する必要があるのです。 パウロは「新しい人は...造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、神の知識に至るのです。そこには、ギリシャ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。」 (コロサイ人への手紙3:10-11) と語ります。 このパウロの有名な言葉は、教会コミュニティにおいて、人種、神学的立場、社会的地位の違いにかかわらず、キリストにある一致が可能であることを強調しています。しかし、ここでも「Renewal(リニューアル):日々造りかえられ、新たにされること」がキーワードとなっています。つまり私たち一人ひとりが、日々、キリストに似た者になっていく、このRenewal(リニューアル)の過程を通して、教会コミュニティにおける一致が達成されるのです。 クリスチャンであるというだけで、教会コミュニティーにおける一致を達成したり、保証したりすることはできません。私たちの共通の信仰のために集まるだけで、自然に一致を達成することはできません。一致は、それぞれの自我が砕かれ、私たちの間に存在する違いが小さくなり、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる 」という視点に向かって、すべての神の民がキリストに似た者として成長する、この造りかえられる、新たにされるRenewal(リニューアル)のプロセスを受け入れたときにのみ起こり始めることなのです。(コロサイ人への手紙3:11) このような一致は、教会コミュニティのすべての人々が一人一人、キリストに似た者に変えられるようキリストとともに日々歩むというRenewal(リニューアル)への呼びかけを真剣に受け止めて初めて起こり始めるのです。 しかし、よりキリストに似たものとして日々造りかえられ、新しくされるということは決して簡単なことではありません。コロサイ人への手紙3:12-17では、キリスト者としてどのような生き方をすればよいかが述べられています。 キリストにある一新とは、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けることで、互いに忍び合い、赦し合い、愛を実践し、キリストの平和が私たちの心を支配するようにすることです。また、一新は、私たちが新しく生まれ変わったクリスチャンとして受け入れるべきこれらの美徳とは相反する悪習をすべて取り除くことも意味します。(コロサイ人への手紙3:12-15) 私たちはクリスチャンとして日々どのように振る舞っているでしょうか。私たちは、クリスチャンとしての自分の行いを定期的に、祈りながら振り返っているでしょうか。私たちは、クリスチャンとしての自分の発言や行動を定期的に振り返り、家族や友人、周囲の人々や教会コミュニティに対しキリストの顔と心を反映する振る舞いをしているでしょうか。今日の聖書朗読を聞いたとき,自分が発した特定の発言や行動が心に浮かびましたか。自分のある考えや行動パターンについて,そのことを一新するよう神様からの呼びかけがあったでしょうか。 今日パウロを通して神様から語られたことは、私自身に語りかけられていることです。例えば、私は忙しくなったりしてストレスが溜まると、家族に対して盲目的に自分のやり方を主張したり、他の人が望むことよりも自分の計画を押し通す傾向があることを知っています。また、自分の中にある不満や恐れ、怒りをうまく処理できないと、言葉が鋭くなり、愛に欠けることがあります。頭では、これらは悪いことであり、周りの人たちとの関係を傷つけるものだとわかっています。しかし、自分の中にあるこうした世俗的な傾向を取り除くことは難しいものです。 だから、私は神様に頼っているのです。なぜなら、神様の御言葉は、本当に私たちを一新してくれるからです。神様の御言葉は、私たちを刷新の道へと導いてくれます。私たちがそのことに対してオープンであれば、御言葉は、神様は聖霊を通して私たちを本当に変えることができるのです。 今週は、予期せぬ出来事や、ちょっとした緊急事態が発生し、私のスケジュールは変則的なものになりました。私がその急な変化に、人間らしく、自分の肉の思いのまま対応していたら、私は不機嫌で、意地悪で、疲れた妻や母親、友人、またはもしかしたら牧師として、ふるまったことでしょう。(そういう風になった瞬間もあったかもしれません!)しかし、ありがたいことに、コロサイ人への手紙にあるこの言葉が、この一週間を私を助けてくれました。もちろん完璧ではなかった思いますが、私はもっと意図的に意識し、怒りや不満ではなく、優しさをもって、変則的なスケジュールや用事に対応することができました。怒りや裁きではなく、赦しと思いやりをもって行動することを、より意図的に選択することができました。 クリスチャンとして、私たちはその信仰に見合った生き方を選び、行動するよう召されています。これには、聖霊の導きのもとで自分自身を日々新しくする作業を受け入れることが含まれます。私たちは、創造主である神様が示された模範に従って(コロサイ人への手紙3:10)、自分の言葉と行動を定期的に吟味し、どうすれば神様の善意とすべての人に対する愛をよりよく分かち合うことができるようになるか考え、そうできるように努めなければなりません。私たちがそのことを怠る時、神様は聖霊を通して私たちに変化と刷新を呼びかけます。 私たちは、単にクリスチャンであるだけでは十分ではありません。神様と神様の恵みによって私たちのうちに起こる変化は、クリスチャンになった時一度だけ起こるものではありません。その変化、一新は継続的でなければならず、キリストに似た新しい自己の一部となるプロセスです。 もしあなたがRenewal(リニューアル)、一新の呼びかけに対し、重荷を感じているなら、振り返りと刷新の呼びかけを重荷として感じているなら、これはあなた一人ではできない作業であり、すべきではないことを思い出してほしいのです。新しく造りかえられるという、新たにされるという一新の作業は、私たちが神様をその過程に招き入れ、一新の必要性を受け入れるときにのみもたらされます。私たちは自分で自分自身を変えることはできませんし、私たちが自分の家族や友人、キリストの兄弟姉妹を、教会を変えることもできません。 一新の作業は神様の恵みによって始まり、私たちは神様の憐れみと愛によって、キリストに似たものへと変えられていくのです。神様は、私たちが神様の子供として、キリストに似たものとして日々成長することができることを信じ、私たちに驚くほど忍耐強く接してくださいます。神様は聖霊、御言葉、私たちが聞くべき教えやアドバイス、そしてキリストのようになるための謙遜さと開かれた心など、必要なものをすべて与えてくださいます。そして忘れてはならないのは、教会コミュニティからの一新、成長に対するサポートです。 神様の恵み、憐れみ、愛を受け入れることが、私たちの一新のプロセスの始まりです。そのことを聖餐式で私たちはより深く知り、味わうことができます。 毎月第一日曜日、神戸ユニオン教会では聖餐の時を持ちます。私たちはまだキリストと直接会っておらず、キリストは神の右の座に座っておられますが(コロサイ人への手紙3:1)、聖餐式は、私たちがこの地上にいる間、新しく生まれ変わることができるというキリストにある望みを、物理的、目に見える形で思い出させてくれるものなのです。私たちのために砕かれたキリストの体と私たちのために流されたキリストの血を表すパンと杯をいただくとき、私たちはよりキリストに似た者となるようにという呼びかけを受け入れることができます。私たちはパンと杯に預かり、救い主が私たちの罪のために捧げた犠牲を認識し、キリストが私たちの内に生きていることを確認するのです。 私たちが教会コミュニティとして共に聖餐を持つことには、大きな意味があります。それは、私たち全員が神様の前では罪人であることを、深く思い知らされるからです。私やあなた、誰一人として正しい人はいません。しかし神様の子供として、私たちは皆、神の恵みによって新しくされました。しかし私たちの罪により、何度も何度も、神の栄光を受けられずにいます。私たちは、神様が教えてくださったことをいつも実践しているわけではありませんし、神様が私たちに呼びかけている一新のチャンスをいつも受け入れているわけでもないのです。 だから私たちは、神様からの恵みがいかに必要であるかを何度も思い出しながら、共に聖餐に預かります。私たちはパンと杯を通して、キリストが私たちの罪のために捧げた犠牲を謙虚に受け入れます。 そして、そうするとき、私たちは、キリストの犠牲を通して示された全ての罪人に対する神様の愛により可能となる一新、再生、回復の機会が、キリストにあるすべての兄弟姉妹に提供されているのを目撃するのです。私が赦されたように、兄弟姉妹も赦される。私が一新されるように、兄弟姉妹も一新される。私たちが自分自身のために、また互いのために聖餐に預かるとき、神様の霊が私たちの中にも生きていて、私たち一人一人をキリストにある新たな自己へと導いてくれることに気づくのです。 聖餐式は儀式ではありません。クリスチャンとしてただ行うためのものではありません。それ以上に私たちにとって大きな意味があります。聖餐式を通して私たちは、多くの失敗にもかかわらず、キリストを通してそれぞれが神様と和解することで、新しく生まれ変わるための招きを共同体として受け入れているのです。 クリスチャンとして、私たちの内なる人は日々造りかえられ、新しくされていますか。私たちはキリストに似た者として造りかえられていますか。私たちの成長は、キリストを受け入れただけで終わっていませんか。それとも、毎日、毎週、毎月、毎年、一新の必要性を認識し、私たち自身や教会生活の中で、日々、自身の罪に向き合い、キリストのような自己に近づくよう聖霊を、一新を求めていますか。 私たち一人一人が神様により一新のプロセスを受け入れ、よりキリストに似た、刷新された人になれるよう、そしてそのことにより私たちの教会がキリストの御顔を照らす共同体に一新されていくことを願います。 祈りましょう。 親愛なる主よ。 私たちは、この世の腐敗、悪に加担した罪人です。あなたを信じるだけで満足し、信仰と自分自身を日々新しくする必要があることを認めなかったことを赦してください。私たちが信仰を過信して、この世のやり方を受け入れ続け、キリストにあるものとして、悪習を変えずに生きていることをお赦しください。私たちはこの世にいますが、もはやこの世の者ではありません。私たちの信仰をさらに強く、健全なものとしてください。私たちの内なる人を強め、キリストに似た者とし、この世の困難に立ち向かえるように助けてください。慈しみと優しさと謙遜さと柔和さと忍耐をもって、愛と赦しをもって互いに忍びあいながら生きることができるように助けてください。イエス様の御名において、祈ります、アーメン。 |
日本語の説教日本語の説教原稿はこちらにあります. Archives
May 2024
Categories |