私は、たとえ遠方からでもKUCの皆さんとご一緒できることを光栄に思います。 KUCの8月のテーマが「三位一体の神に安らぐ」なので、神秘的な「三位一体」の概念に、ここで注目するのは良い機会だと思います。私達が決して完全に理解することはできないかもしれませんが、キリスト教の三位一体の基本的教理について理解を深めることはできるでしょう。今朝、私はそれを試みようと思います。
今朝のヨハネの手紙第一からの朗読に、「神は光であり、神には闇がまったくないということです。」とあります。ヨハネのメッセージが光と闇という概念に焦点を当てているので、これらの言葉が何を意味するのかを見ていきたいと思います。神は光なり、とはどういう意味でしょう。私達は日々の生活から光が何であるかは知っています。また、夏のビーチで皮膚がヒリヒリするほどの日焼けは、過度の光が原因で困ります。同時に寒々しい冬の日や夜に暗いところで物を探している時などは、光が実に必要なものです。だけど、私達が「神は光なり」という時に、この様な物理的な光のことを言っているのでしょうか。神様は光子の束なのでしょうか。いいえ、明らかに違いますよね。 それじゃ、神様はどの様な種類の光なのでしょう。ヨハネの手紙第一の残りの聖句で、ヨハネは神がどの様な光であるかを説明しています。彼の言葉から真髄を抽出すると、光には3つの主な側面があることが明らかになります。この3つは「愛」「真理」「いのち」に要約できます。これらはある種の「三位一体」を形成し、神の三位一体の特性に密接に関連しています。つまり、父なる神、神の御子、神の聖霊です。私達は神の三位一体の光の中を歩もうと務めているので、三位一体の概念をさらに理解することは私達にとって大切なのです。別の言い方をすると、この課題に「光を投じたい」のです。 ヨハネが主イエスの全ての従者に宛てた書簡には、数多く愛について言及されています。恐らく、「神は愛なり」の単句が最も知られ、4章には2度出てきます。私達はこれについてお説教の全部を費やすことができますが、他にも触れたいことがあるので、ここでヨハネのメッセージの真髄を要約すると、私達は為すこと全てにおいて、神の愛を互いに反映することです。ヨハネは神の愛の賜物によってのみこれを実行することが可能になると言います。4:19で彼は言います。「私達は愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」 私が指摘した三位一体の型に当てはめると、最初の役割である神の愛を私達に表すことを父なる神がなされたと見ることができます。ヨハネの福音書に聖書で最もよく知られた言葉があります、3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネの手紙には神の愛に焦点を当てた箇所が多くありますが、父の観点から明確に愛を表している箇所は、3章の1節「私達が神の子供と呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。」でしょう。 私は三位一体についてと神の属性がいかに三位一体に現れているかに焦点を当てたいので、神の光の次の側面である真理に急いで移りましょう。5章6節「御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」ここにも三位一体の原則が見えますね、聖霊が神の真理を私達に表す本質的な役割を担っています。御霊は誰に対する真理を証しているのか、もちろんそれは主イエス・キリストです。ヨハネがこの方を「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と記しています。この聖句が神の光の3つ目の面である「いのち」に導くのです。何が真理であるかを聖霊が証するのかについて、ヨハネは5章11−13節で「その証しとは、神が私達に永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちをもっていません。神の御子の名を信じているあなた方に、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなた方に分からせるためです。」従い、神の3つの神格は「神の光」の3つの面に関与している一方、これらの聖句は、神の御子が基本的に神のいのちを伝える上で主だった役割をされていることを示しています。 私にとって光の概念は実に興味をそそります。多分、大学で物理学を専攻したからでしょう。しかしながら、物理や他の科学を学んでいない方々にとっても、神の「光の三位一体」と、私達が自然界で生活を営む環境を整える上で重要な役割を果たす神が造った物理的な光の間に驚くべき一貫性があることに興味深く思うことでしょう。実際、光の特性は多岐にわたり、一般的な自然界は「三位一体原則」を表しています。事実、神が三位一体の性質を彼が創造した自然界に反映している様なことが多く見られます。これらの多くは、神の三位一体の特性を私達に思い描かせ、私達が類推することで理解を促す助けとなります。太陽は良き例です。ガスの灼熱の玉として存在し、私達は光を与えるものとして認識し、そして、光が与えるエネルギーの働きを私達は享受しています。物理的な太陽の多くの面は神に類似しています。私達が宇宙船に乗って太陽まで飛んで、着陸できないことと同じように、罪深い人間は自分の善行で無邪気に聖なる神の前に行けないのです。どちらにせよ、途中で私達はその過程で消滅してしまいます。だからこの観点からも、物理的な太陽は父なる神の神聖さに似ています。また、太陽からのエネルギーがなければ、地球には生命が存在せず、霊的な領域でも同じです。太陽が発する光によって、太陽のことが分かるように、父なる神が「世の光」と呼ばれる主イエス・キリストを通して、御自分を現わされます。そして、太陽が放つ電磁放射がすべての生命を動かすパワーであるのと同じように、霊的な領域においてでもそうです。この霊的な意味では、神が聖霊を通して御霊に働き、それを通して私達は霊的ないのちを育てていくことができます。私達の世界は文字通り三位一体の例で満ちています。もちろん、どんな類推も完全に神を説明できません。また類推による説明だけに極端に傾くと、不完全な神理解へとつながる危険性が常にあります。それにも関わらず、それを心に留め置いて、物理的光の例は、唯一の神の三位一体の神格を思い描くのに、私は一助になると思います。 神の光の主題に戻る前に、神の三位一体の神格を描く自然界の更なる例を挙げたいと思います。最初に、私達の肉体としての存在は、三位一体、「三統一」の同じ概念に基づいています。神様は、私達を三位一体の存在として創造されました。私達は、肉体的な身体、知性、感情、意思の心、まさに神の似姿としての永遠の霊から成り立っています。全ての3つが一つに統一されていないと、人間として存在ができません。 非常に多くの点で、存在そのものの実体は一種の三位一体的枠組みをたぐり寄せています。まるで何か有神論の世界観にうまくはまるように。それに対する主だって競合するものとして、自然主義の世界観は、現実の基本的な要素が二つしか存在しないと主張します。すなわち物質とエネルギーだけです。全ては「運動粒子」に還元される、別の言葉では、化学と物理的法則です。しかし、聖書的な世界観は、物質とエネルギーに加えて、更により基本的な要素が土台としてあります。それは情報です。ヨハネの福音書は「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」で始まっています。これを言い換えると、「初めに情報があった。」そして生エネルギーと物質を法則化し制御する情報なしに、生命体は存在し得ないのです。 これは次の問いかけ、「最初にその情報はどこからきたのか」をもたらします。もし、少しばかり考えてみると、何かが存在するためには、偶然でない永遠の何らかの存在が必要であると気づくはずです。偶然ではない最初の理由があるべきです。偶発的(或は原因)な実体が存在するために、少なくとも一つの偶発的でない実体が偶発を引き起こすために必要なのです。唯物論者は、宇宙自体が永遠である(私達は今やこれが真実ではない事を知っています。)か、仮想「量子泡」が「量子真空ゆらぎ」や永遠に存在した他の自然なプロセスによって宇宙を形成することができる物理的な状態を説明できる提案をする必要があります。(これらの用語の意味が理解できなくても心配しないでください。私は確かに説明できませんし、これらを思いついた科学者達も本当にそれらを理解しているかも疑問です!) ともかく、意志の心がなければ永遠の「ことば」もありません、そうでなければ「量子泡」のようなものが残された選択肢で、つまり何でもありということになります。物質とエネルギーの2段階レベルの実体だけでは私達の存在を説明するには不十分です。ですから3段階レベルの情報が鍵となります。それは本質で、心を指しており、永遠の「ことば」のすべての背後にあるものです。これら3つの随伴する要素、物質、エネルギー、そして情報が物質存在における三位一体を形成するのです。 この「三位一体性」は原子核内部の世界にも当てはまります。というのは、原子は陽子と中性子と電子に構成されています。更に、これらの構成要素を分解すると三位一体性が現れてきます。中性子、陽子は各々3つの「クォーク」粒子によって構成されます。もし、原子核内部の例を続けて話すならば、説教は専門的になりすぎて(既にそうなっていなければ!)しまうので、多くの他の原子核内部の構成要素も同様に3つ、或は3組ペアに分類されるとだけ言っておきます。見ていけば見ていくほど、神が創造された宇宙とそれに包括される全ては、神の三位一体性が反映されているように見えることを私はここで申し上げたいのです。 霊的な領域に当てはめると、パウロがコリントへの手紙第一13章で述べる、「信仰、希望、愛」が重要なキリスト教の3主徴でしょう。他の霊的な属性として、喜び、平安などが挙げられていますが、他のこれらは3主徴に依存しています。キリストを過去の主とするなら、私達が受けるのは信仰です。私達の罪や欠点の全てに対して神の赦しを受け入れる信仰。キリストを今現在の主とするなら、私達が受け取るのは愛です。恐れを捨て去る完全なる愛。キリストを未来の主とするなら、私達が受け取るのは希望です。永遠のいのちの約束の中に私達はいるという希望です。 それでは私達自身の三位一体性について見ていくことにしましょう。神は、私達に「聖霊の宮」と呼ぶ肉体を託してくださったので、適切な栄養、運動、休息を通して、体を養う必要があります。これもまた三位一体性です。神は私達に神の栄光のために用いる心を与えました。私達は、神の創造における多くの三位一体性に思いを巡らすように、継続的に学んで心を養わなくてはなりません。また、神の似姿で造られた永遠の霊で私達を創造し、私達は主と日々歩むことを通して私達の霊が養われ、それによって私達は強められるのです。 ここで説教の初めの神の光に戻りましょう。ヨハネが「神は光であり、神には闇がまったくないということです。」を言ったちょうどその後、7節で言います。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」そうしたら、どのように私達は神がするように光の中を歩めるのでしょうか。私達は神の御言葉の光を日常生活に用いることで歩むのです。私達がまだ触れていない光の反対、闇があります。「闇」とは一体、何でしょう。それは単独で存在しうるものでしょうか。用語そのものの意味ではありません。「冷たい」が熱の欠如と同じように、闇は単に光が無いことです。両者ともある物理的実体がプラスでないことです。明るいより、もっと明るいは得られますが、絶対的暗闇より更に暗いは得られません。それは、絶対温度ゼロより冷たくならないのと同じです。しかし、これらの概念は物理的な光またはその欠如であり、私達が「神に暗闇がない」と言うとき、神の光、すなわち神の愛、真実、そしていのちの欠如がないことを意味します。私達は「光の中を歩む」者で、そして神の光を避けようとしないことをヨハネは強調しているのです。ヨハネの福音書3:19-21は言います。「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方にこない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」もちろん、誰も行いは神から隠すことはできません。たとえ誰かがそうしようとしても、神は全てをお見通しなので、彼らは自分で負った暗闇の中を単に歩んでいるだけです。ヘブル人への手紙(4:13)著者の言い方が適しています。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」だから、隠れる場所はないのです。しかし、キリストに信頼するなら、隠そうとしたくなる理由もなくなるでしょう。十字架上のキリストの死を通して神の恩寵を拒絶する人々には、死を恐れる理由は十分にありますが、ヨハネが「まったき愛は恐れを締め出します。」と述べ、「まったき愛」は神御自身です。 終わりに、難しい三位一体の概念の理解を促すためにイラストを用いたいと思います。三位一体がどのように機能するのかを理解する鍵は、私達が経験する3次元の空間及び1次元の時間を超えた別の次元があることに気づくことです。この超越した次元こそ三位一体の神として臨在することが可能となるのです。3つの特性を持つ神格が一つとなることが可能なのです。ここに2次元空間の世界に住んでいると想定した2つの紙人形があります。それは平面(ぺちゃんこ)の世界です。彼らの世界は平で、その上にも下にも3次元を経験することができません。平(たいら)夫妻、青い方を平主人、ピンクの方を平夫人と呼びましょう。この二人を私が手に持って、3次元の空間で動かすことができますが、彼らは、テーブルの表面のような2次元の世界の閉じ込められているとしましょう。平夫妻は上から見下ろすことができないので、お互いを見るときは、互いの端の線しか見えないことになります。ですから、平主人が奥さんの外見を分かるためには、彼女を一周して、目に入る線の長さと自分からの距離を測定しながら、自分の2次元の頭の中で奥さんの形を計算するしかできないのです。しかし、平主人は垂直方向を経験できないので、彼らの水平方向だけの世界からは奥さんがどんな風に見えるか実際には視覚化できないのです。彼女を視覚化する能力は2次元内に限定されます。よって、彼女は永遠に線でしかあり得ないのです。 しかしながら、私はもう1つの次元を彼らより持っているので、私は彼女を見下ろせますし、即座に彼女の全てが見えます。私は彼女の外形だけでなく、そのままの中身も見えます。そして、私が彼らのすぐ近くまで近寄ることができますが、彼らの平面に入らない限り、彼らは私が存在することさえ全く認識できません。神と私達はこの状況に非常によく似ています。この例えでは、私はたった1つの次元しか彼らより優位に立てていません。はるか多くの次元において、神が私達より優位に立っていることなど誰にも分からないのです。この点で、私達人間と神との差は、私が作った2次元の紙人形と、彼らの「創造主」としての私の間よりもはるかに大きいのです。平夫妻の話の中で、私の存在を彼らが認識するには、私が彼らの平面の世界に何かの形で入り込めば、しかし、それでも、私のほんの一部分しか知ることができないのです。もしこの説教台の上が彼らの平面世界だとすれば、例えば、ここに座っている3次元の私の体の断面図しか気づけないし、かなり長い線としか見えません。私の断面図をぐるっと回ることによって、彼らの計算によるとけっこう大きな輪だと理解できます。この数年、残念なことはその輪はだんだんと大きくなっていることですかね。 しかし、このイラストで示すために、私は完全に彼らの2次元世界の外にいることにしましょう。彼らが経験し得ない上の3次元にいます。私が例えば、指を平夫人のいる平面世界に突っ込めば、彼女は私を小さな線としてみるでしょう。私の指の周りを一周すれば、彼女が見た線は一つの小さな輪であることが分かりますね。私は神様のような存在ですから、彼女はきっと他のぺちゃんこの友人に「神は一つの小さな輪です」と話すでしょう。また別の機会に、私が3本の指を平主人のいる所に差し込んだら、彼はもちろん、私は3つの小さな輪だと決め込んで、皆に「神は3つの小さな輪」だと吹聴することでしょう。これで、論争が起こり、やがて、平夫婦の意見が別れ、彼女が「一つ輪教会」を見つけて、彼が「三つ輪教会」を設立することが想像できます。 これはもちろん、人間が経験する神の例え話です。もし、平夫妻が3次元で物が見れるなら、彼らは1つの輪と3つの輪が、実は、私の一部で同じものだと分かるはずです。これと同じように、神様は何らかの方法で私たちの4次元の世界(3次元の空間と1次元の時間)に入り、ご自分を三人の存在者として啓示されますが、もし、私達がこの世を超越する次元の中で見ることができたなら、神は、実際はお一人だけです。それが「三位一体」の本質です。 この例え話において、天地創造の神が人間になられたことの意味を考えてみましょう。私は3次元の空間に属し、2次元の世界にいる平夫妻の創り主なのです。私は彼らの救い主となるためには、彼らの世界に入り、「ペちゃんこ人」とならなければなりません。そうするのに、私は空間の1つの次元を放棄して、一種の「受肉」によって、2次元の空間の範囲に自分を抑え込まなくてはなりません。それで、これが受肉した私の紙人形です。私は彼らの2次元世界にいるので、彼らのように私はその範囲内に活動が限定されます。私は、彼らにとって遥か彼方の3次元の世界を彼らに説明はできますが、彼らはその話をぼんやりとしか理解できないでしょう。私達も、多次元における神の全体を理解しようとするので非常に難しさを覚えるのです。 このたとえ話と同じように永遠のキリストも私達のために、始まりから支配している数多くの次元を一時的に放棄して、私達の4次元の世界に限定し御自分を抑え込みました。このために、人間イエスは4次元の世界のすべての制限を受け入れたのです。人間になるということで、主イエスは私と同じように一つの時間には一つの場所にしかいられません。主は一度に一つの会話しかできません、睡眠も休憩も必要でした。人間として、主イエスは私たちと同じ肉体的な制限を抱えていました。 もちろん、霊において、主イエスは超自然的な力の源に繋げて、癒しやその他の奇蹟を行えたのです。そして、復活後、主イエスは受肉以前にあった全ての次元や力を再び取り戻しました。従って、ピリピ2章のパウロの言葉のように、主イエスの名は「あらゆる名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの全てが膝をかがめ、全ての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」そして、イエスはもはや、この世の空間と時間の次元に制限されていないので、主は私達の間に臨在しながら、同時に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしはその中にいるのである。」が可能なのです。 神の三位一体性と光である神について皆さんに「光を投じたと」私は望んでいます。主イエスは「世の光」です。そして彼は従者に「あなた方の光を人々の前で輝かせなさい。人々があなた方の良い行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようになるためです。」(マタイ5:16)その光は私達自身から出るのではなく、神の光を反射したものです、つまり主の愛、真理、そしていのちです。 最後の賛美は「 シャイン、ジーザス、シャイン(愛の光り輝き)」がこの説教の神の光と真理という主題にふさわしいと思います。 祈りましょう。 「 光り輝く 主の愛の光、暗闇の真っ只中に輝く、世の光なる主イエス 我らを照らす。主がもたらす真理によって我らを解放し、私を照らし、光を注いでください。」 それでは皆さんと一緒に終わりの祈りとして賛美しましょう。神の栄光の光が私達のいのちに届きますように願いましょう。そして私達の御霊を燃えさせていただきましょう。
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私にとって小さい頃の夏の思い出と言えば、長野の田舎の祖母の家に行くことでした。
私は東京の西の千葉で育ちました。長野の南部のりんご園地帯に住む祖母の家に行くには数時間以上車を走らせなければいけません。私にとって夏休みにいつもより長い期間祖母のところに滞在できることはとても特別なことでした。 祖母の家に着くと、父側の従兄弟姉妹と遊びほうけました。従兄弟姉妹の中で私は一番小さかったのでみんなにかわいがってもらいました。叔父さん、叔母さん、祖母に甘やかされ、靴を買いに行ってもらったり、外に遊びに連れてってもらいました。誰かがいつも私の話を聞いて、相手をしてくれました。 みんなで近くの川に行き水遊びをして、地元産の美味しい野菜と果物を食べました。それぞれの家に帰る前には花火もしました。 私にとって祖母の家に滞在することは夏休みのハイライトでした。 そのような楽しい夏の思い出から20−25年ほど経った頃私はドンと結婚し、彼と家族としての歩みを共に始めました。そして私たちが東京に住んでいる時長女のクレアが誕生し、その後ニュージャージー州に移り住み長男と次男のノアとリアムが誕生しました。 ドンの神学校の学びのため東京からニュージャージー州に引っ越した私たちでしたが、神様の不思議な導きにより私も神学校で学ぶこととなりました。 最初はドンが神学校で学ぶ期間の3年間ニュージャージー州に住む予定でしたが、結局そこには6年住み、私とドンは交代でそれぞれ神学校で学びました。 神学校での学びは貴重で、3年という長い期間集中的に聖書について学べたことは本当に感謝なことでしたが、フルタイムで学びをするために、それまで働いていたフルタイムの仕事を離れたため、財政的に厳しい状況になりました。 どちらか一方がフルタイムで学びをする間、もう一方が働き、家事をより多く負担し、子育てにもより積極的に関わりました。家計を支えるために二人でたくさんのパートタイムの仕事をこなしました。 このように財政的には決して楽ではありませんでしたが、このような時も神様は良い方で私たちと共にいてくださいました。押し寄せる様々な支払いを期限通りに支払えるか心配する時も多くありましたが、神様はいつも私たちに必要なものを必要なだけ、必要な時に与えてくださいました。このような時を通し、神様に対しより深い信頼を置くことができるようになりました。 それと同時に、このようにも思いました。休暇を取る、休息を取るということは贅沢なことで全ての人が休息を楽しむだけの余裕があるのではないということを。 その当時私たちは色々なパートタイムの仕事を掛け持っていました。様々な仕事を掛け持つ、副業を持つというのはアメリカではよくあることですし、最近では日本でも増えています。アメリカではパートタイムの仕事は有給のお休みが保証されていないことが多いため、給与カット覚悟でお休みを取ることはただでさえギリギリの我が家の家計ではリスクの高いことでした。 私は気づいたのです。子供の頃毎年祖母のところに遊びに行けていたことは、贅沢なことで、もしかしたらこのような暮らしが続けば、休暇を取ることは一生できないのではと。 多くの人にとっては夏はお休みをとったり、旅行に行ったり、スローダウンしてリラックスする時かもしれません。けれど多くの人が夏を楽しむ間、より労働に勤しむ、またその他の事情により休みを取れない、休みを満喫できない人がいることも事実なのです。 例えば貧困に苦しむ人たちにとって「休む」ということは贅沢なことです。一部の人に与えられる特別な権利で、自分たちに与えられている、保証されているものという認識ではありません。仕事から休みをもらえることはできるかもしれませんが、それでも明日の食料品を買えるだけのお金があるだろうか、今月の電気水道料金はいくらになるだろうか。来学期の学費を納めることができるだろうかということを考えていたら、心を休ませることはできないでしょう。休みを満喫するということはどこかの遠くの避暑地に行くような、自分とは無関係のようなアイディアに感じられるのです。 「休む」「休暇を取る」ということは一部の人だけに、お金に余裕がある人だけ与えられた特別なもの、贅沢なのでしょうか? 今日の聖書箇所は休みが神様の創造の大切な一部であること、休むということが天地の始まりから私たちの生活に組み込まれていたということ、そして休むという行為は全ての人に与えられている権利だということを思い起こさせてくれます。 創世記の創造の話はよく知られている話です。神様は植物、海の生き物、動物、そして人間の私たちを含め、天地にあるもの全てを創造されました。そして7日目になさっていたすべてのわざ、働きを休まれました。(創世記2:2) 今日の聖書箇所の申命記5:12にはこうあります。「安息日を守ってこれを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。」 神様は安息日を守るという掟をモーゼを通し、荒野に彷徨うイスラエル人に与え、休むという行為を意図的に行うことを律法とされました。 神様が一番始めに創造した秩序ある良い世界とは違い、神の民は荒野での生活を続けていました。神の民はエジプトでの奴隷生活の過酷な労働から解放されましたが、荒野での生活は厳しいものでした。 過酷な荒野での生活に人々は不平を漏らしはじめます。何故エジプトから逃げてきてしまったのだろう。多くの人がエジプトでの生活に戻りたいと言うようになります。休みのない、奴隷として過酷な強制労働に従する方が良いと思うようになったのです。 そのような状況にあり、神様は神様が世界を創造された時から人間に計画された安息するいう行為を掟として、守る律法として教えていることを、今一度神の民に思い起こさせたのです。 神の民は安息の律法を思い起こす必要がありました。実に神様はモーゼを通して安息の重要性を何度も説いたのです。(出エジプト記16:23, 20:8, 31:14 & 35:2) 何故なら現代人もそうですが、当時の神の民にとっても、休息を取るということは人情に逆らうことのように思えたからです。 自分の国と家を持たない荒野での生活、一つの場所からまた違う場所への移動、荷物をまとめ、荷物をほどき、潜んでいるかもしれない他民族からの攻撃から自分たちを守る、そのような毎日を送り、生きるのに必死という状況の中で、休息を取るということは、すべきこととは真反対のことのように思えたのではないでしょうか? むしろ自分たちの命を守るため、生活を守るためひたすら働き続けことが理にかなっているように思えたのではないでしょうか。結局のところ奴隷として生きてきた神の民は働き続けるという生き方しか知らなかったことでしょう。 エジプトの地でイスラエル人は奴隷として強制労働を100年、恐らくそれ以上の期間強いられました。 イスラエル人にとって、人間に与えられた神様からの休息を取る、安息日を設けるという考え方は聞いたこともなく、自分たちとは関係のない異文化の考えのように感じられたのはないでしょうか? イスラエル人はエジプトの王ファロに仕え、全ての時間と労力をエジプトを強国にするために注ぎ、人生をひたすら働くもの、労働に耐えるものという風に捉えていました。彼らにとって労働は与えられたタスクではなく、自分たちの人生そのものでした。過労、オーバーワークは彼らの生き方だったのです。 休息は人間が創造された時から全ての人間に与えられたものにも関わらず、そのことに気づいていなかったのです。 神様はそのことをご存知で、何度も何度もイスラエル人に休息の必要性、重要性を説いたのです。 奴隷として労働、休息のリズムのある生活を経験したことはなかったでしょう。だから休息が、安息日が人間のために作られた(マルコの福音書2:27)ことをリマインドしたのです。 休息を取る、安息日を設けるというのは贅沢で、一部の人しかすることができないことではなく、全ての人に与えられた権利だということを。 もちろん現代に生きる私たちの多くがかつてのイスラエル人のような奴隷ではありません。しかし、現代の私たちにとっても過酷な労働や、オーバーワークといった負のサイクルを断ち切る必要があります。 イスラエル人のように民を圧迫し、休みのない強制労働を強いる者があなたの周りにはいないかもしれません。しかしすぐに応答する、生産性、効率性を世の中が多く求める社会に生きる私たちは、時として人間性よりそれらのことを優先することにより、そのような価値観を重視する生き方が習慣化し、自分たちの頭の声が自分たちをオーバーワークに導くようになってしまっているかもしれません。 例えば、Emailやテキストをすぐ返信しなければならない。返信しなければ無能と思われるかもしれない。一生懸命休みなく働かなければゴールを達成することは決してできない。一生懸命働き、勉強しなければ良い点数は取れないし、昇格も望めない。 このような考えは教会にも及んでいると思います。色々なことしなければ、プログラムを提供しなければ、教会は成長できない。。。 そのような考え方に対し、神様は考え方や生き方に休息を取り入れるということをし、それを習慣化させなさいと言っているのです。 「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。」(申命記5:12) 休みを取らないというのが当たり前の社会に属しているかもしれない。休みを取るなんてもっての他という世界に生きているかもしれない。けれどこの世の価値観に調子を合わせる(ローマ人への手紙12:2)のではなく、休息を取るということを意識的にする。世の中がいう生き方とは違う生き方を選ぶそのような呼びかけをされているのではないでしょうか。 今日の新約聖書の箇所の中にこのような箇所があります。「人の子はは安息日にも主です。」神様は私たちが働いているときにも主であり、そして私たちが休んでいる時も主であり、私たちと共にいてくださるのです。 しかし、今日の私のメッセージが「みなさん、私たちは働き過ぎです!もっと一緒に休息を取りましょう。」というメッセージだとしたらそれは何か大きな、大切なことを見過ごしていると思います。 もし私たちが神様の安息日を守るという教えを、かつてパリサイ人がしたようにどんな仕事をしてもならないという意味だけと捉えるのであれば、それは神様が望む安息日を完全に理解したということにはならないでしょう。 休息と取る、安息日を設けるということは神にとって、創造の時から存在する習慣で、神の大切な教えの一つです。長いこと教えられてきた教えです。 しかし新約聖書の箇所で、イエス様ははっきり説いています。もし休息を取るということと、他者のニーズを満たす、ニーズに応対することを天秤にかけるようなことがあれば、ニーズが満たされないことで命を奪われている者がいるのであれば、働くということは自分が休息を取ることより大切なことであることを。 イエス様は安息日を守ることを始めとした律法を成就するために来られ、その意図を明らかにされました。それは安息日に人の命を救うことは良いことで、律法にかなっているということを。(マルコの福音書3:4-5)そして安息日の真の目的を今日の申命記の聖書箇所に照らし合わせて見れば、神様の意図が浮かび上がってくるのではないでしょうか。何百年もの間、休みなく強制労働を強いられてきたイスラエル人にとって、安息日を設け、守るということは彼らの命を救うという行為につながるということを。 神様の目はいつも全ての状況、全ての人々に注がれています。神様は全ての人が休息を取れない状況にあることを案じられます。 今日の聖書箇所を通し、神様はもう一度私たちに必要な真のニーズは何なのか振り返られるよう招いておられます。私たちの体、心はどのような状態にあるのか?休みは必要か?そしてどのようにしたら豊かな休みを取ることができるのか? と同時に、これらの聖書箇所は周りを見渡し、様々な理由で神様から与えられた人間の権利である安息を取れていない人々のことを思いやるように招いておられます。休めずに苦しんでおられる方が周りにいないでしょうか?シングルファーザーや、シングルマザー、共に子育てをするパートナーを失った配偶者、財政的に休暇を取れない人や、家族、孤独、心配、不安を抱え休むことができない人々。 このような理由で休めない人々に私たちができることは何でしょうか? とある女性は未亡人となり、働き手を失った彼女はこれからどのように家賃を払っていいか悩んでいました。彼女の教会はお金を集め、これからずっと彼女と彼女の子供たちが休息を取れる場所が保証されるように彼女に家を購入し、プレゼントしました。 ある冬の年、子供たちにクリスマスを買う財政的な余裕のない家族がいました。両親たちはそのことで心を痛め、魂に安らぎがありませんでした。教会はこの家族にお金を渡し、両親は子供たちにクリスマスプレゼントを買うことができ、良い冬休みを過ごすことができました。 どちらの家族も近くに住んでおらず、三人の子育てをしている私とドンにとって、出産後周りの人が食事をしばらく届けてくれたことは、本当にありがたいことでした。食事を作らずに、束の間休息を取ることができました。 また教会や家族、友人が子供たちを見てくれることで、子育てという長い道のりにおいて休息を取れることは本当にありがたいことです。 一人暮らしをしている人にとって命を救う、命を与える安息日は、もしかしたら一人で過ごすという意味ではないかもしれません。他の人との交流の中で心が元気になり、リフレッシュする、一人暮らしの人々にとって安息日はそういうものかもしれません。 ですから一人暮らしをされている人には、電話、テキスト、ズームを通して定期的に連絡を取ってみてください。きっと喜ばれるでしょう。 コロナの影響で大人数での対面の集まりはすることができません。けれど創造主でおられる神様は私たちに良いアイディア、良いインスピレーションを与えてくださるでしょう。 神様は7日目に休まれました。この日を祝福し、聖別されました(創世記2:2-3)。7という数字はヘブル語では欠けることのない完全なものと考えられています。私たちの安息は全ての人が休息を選択できる、休暇やリフレッシュメントを取ることができるまで聖別され、完全なものとはなりません。 最後のみなさんにあるイメージをお見せしたいと思います。 https://eohhs.ri.gov/sites/g/files/xkgbur226/files/2021-03/Equity-Council-Progress-deck-091620.pdfより3ページ目の絵を引用 一番左の「現実」(Reality)というところを見てみましょう。これが今の「休息」「安息」に関する現実です。神様の意図に反し、全ての人が休息にアクセスできなくなっています。一部の人しか休息を取ることができていません。 けれど一番右の「解放」(Liberation)というところを見てみましょう。解放がある時、休息を取れないバリア(この場合はフェンス)が取り除かれ、全ての人が休息を取り、休息を楽しむことができるようになっています。 しかし現実から、解放に向かうのがプロセスだということに気づくでしょうか?解放に至るには全てのバリアを取り除くため、公平、公義を実現していかなければいけないのです。 私たちのコミュニティが休息、安息を習慣化し、育むコミュニティでありますように。休息を教えとして説く、三位一体の神様の助けを通して、安息がどういう意味であるかが一人一人それぞれに、私たちのコミュニティに明らかにされますように。最も小さいもの(マタイの福音書25:40)が休息を取れるよう全てのバリアを取り除く働きに加わることにより、全ての人に与えられた安息の良さを全ての人が味わうことができますように。 アーメン。 そこでペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。これは預言者ヨエルによって語られた事です。 「神は言われる。終わりの日に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見る。老人は夢を見る。」その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 ―――― 皆さまお早うございます。KUCにまた戻って来れて嬉しいです。私のことをご存知の方もいらっしゃると思いますが、私の名前はジョナサン・マッカーリーです。先ほど私の同僚からの情報があった通り、私はクラウディア牧師と同じようにメソジスト教会から委託され、支援を受け2009年から栃木県にあるアジア学院(ARI)で働いています。 今日は、KUCの皆さまの説教シリーズである「神の中で休むこと」についてお話をしていきたいと思います。特に聖霊が私たちの人生の中での働きについて考えていきましょう。聖霊が私たちの人生における神の力の約束であることを考えると、私の心は平安で満たされます。それは私の力ではなく、神の力が私を支えてくれている事を知っているからです。それが私たちがこの世界で求めている「休むこと」ではありませんか? では有名な使徒の働き2章を見ながら説教を進めましょう。ここでペテロに何が起こったかを中心に見ていきましょう。 14節を要約すると、ペテロが聖霊の力を体験したばかりの他の使徒たちと一緒に立っているのが分かります。そしてペテロは彼らの頭がおかしくなったり酔ったりしているのではなく、神に動かされた事を明らかにします。そして、ペテロは今起こっていることは、預言者ヨエルが何百年も前に預言したように、全ての人々に神の霊が注がれている状態であると言います。 この預言はヨエルの第2章28-32節にありますが、今はヨエルの言葉を引用したペテロの説教を見ていきましょう。 今日の私たちへの質問は、聖霊が注がれて何が起こったか?ということです。14節でルカが立ち上がって話していると描写しているペテロですが。。。 ペテロを皆さまご存知ですか?すでに知っていらっしゃるかもしれませんが、ペテロは漁師でした。これは当時かなり一般的な職業ですが、現在、ガリラヤ湖のカナぺウムにある教会となっている彼の家での生活をひも解くと、彼の漁業は成功していたようです。ペテロの義理の父である人が成功した漁師であったようで、その父のあとを追ってペテロも漁師として成功したようです。 ペテロは漁業で成功したものの、ガリラヤ湖のカナぺウムにある家は、周りに何もない場所に建っています。去年、私はガリラヤに行く機会があり、実際に目にすると、私自身が今住んでいる栃木を思い出しました。美しく平和な場所ですが、都会の人から言わせると、何もない場所でもあります。 何が言いたいかというと、ペテロは教育をしっかり受けた人ではなく、特に聖書に関しても教養が豊富にあった人でもないという事です。しかし、ペテロはイエスの弟子であり、数年間ペテロの家にイエスを受け入れています。ご存知かもしれませんが、ペテロとイエスの関係は良い時も悪い時もありました。ペテロはいつも何か物を申す事を恐れなかったけれども、ほとんどの場合、その意見が反映される事はなかったのです。言い換えれば、ペテロは話しをし過ぎるという欠点もあり。。。 ペテロについてのこんな話しを知っていますか?例えば、ヨハネの福音書第13章でペテロは「イエスと共に死にます」と言ったり、「イエスを守ります」や「決して私の足をお洗いにならないでください」と言ったかと思えば、ヨハネの福音書の最後の方まで読み続けると、ヨハネがイエスと共に死なない事が分かります。イエスはペテロの足を洗いますが、ペテロはイエスを守りません。実際、イエスの人生の終盤には反対にペテロはイエスを知らなかったとさえ言います。 しかし、この話はペテロに限ったことではありません。似たような事を経験したことはありませんか?イエスを愛していると言いながら、約束を果たさず、罪があなたを支配し、正気を失います。イエスを落胆させたり、イエスを否定した事はありませんか? ここ1年以上、教会に実際に足を運ぶことができずに、苛立ちを覚えたことがある人達もいらっしゃるでしょう。イエスを否定しているのではないか?と感じた事がある人もいらっしゃるかもしれません。自分の計画通りに物事が進まないので、歴史が語るように、ペテロと同じように感じた人もいらっしゃると思います。 話しはまだ続きます。使徒の働きの章で聖霊がペテロに注がれるとどうなったでしょうか? 聖霊が注がれると、ペテロは今までに経験したことないくらい、やる気に満ち溢れます。彼がいつも内に持っていた情熱だけが、そうさせたのではありません。ある種の力と知恵が彼の上に注がれたのです。これは、彼が学び得たものでも、彼自身が生まれ持っていたものでもありません。 聖霊がペテロに触れた時、何かが変わったのです。ペテロは神のものとなったのです。使徒の働きを読んでいくと、何千人もの人が信者になり教会に入る事で変化していくのです。そして、ペテロは神の力となり、その影さえもが人々に癒しを与えるのです。この変化こそが聖霊がペテロに行ったことです。イエスを否定していた裏切り者からイエスの力をもった人となったのです。 ペテロに限った事ではありません。新約聖書を読むと、この様な話が次から次に出てきます。 聖霊から聖なる賢明な力が注がれるのです。ルカの福音書12章にあるように、イエスの弟子たちが世の中に出て行くとき、必要な時に御霊が言葉を私たちに与えてくださるのです。そういった話しが何度も何度も新約聖書には描かれています。これらの言葉を信じる事が御霊と共に歩むという事ではないでしょうか?使徒の働きを読んでみると、御霊がイエスだけでなく、イエスの弟子だけでなく、もっともっと多くの人に影響を与え、世界を変えていくのを感じれるはずです。 普通の人々の生活の中で聖霊の働きが彼らを集め、互いに共有し、励まし合います。それが、今日私たちが行っている事であり、少なくとも2000年の歴史を刻みながら、今日に至るまで私たちが続けていることです。聖霊はすべての人に注がれ、今日でも私たちにとっての約束なんです。 あなたはこれを信じており、常に思い出す必要があります。だから今日もコンピューターの前でこの説教を聞いているのではないでしょうか?神が聖書の中でなさった事を思い出し、今日あなたの人生でそれを必要としている事を理解しているからではないでしょうか? 私たちが礼拝に集まる時、ここは私たちを励ます場所となります。私たちがキリストにあり、聖霊が私たちの上にある時、私たちは愛され、受け入れられ、全ての罪は許されるのです。どうやって御霊と共に人生を歩むのか学ぶ場所であり、人生に何が起ころうとも直面し、乗り越える事ができるようになるのです。 今日、御霊と共に歩む人生を再度思い起こしてください。今日、そして毎日あなたの人生の中で導きと癒し、さらに御霊の力を深く求めるようにしてください。何かに苦しんでいたとしても、生きる価値が無いように感じたとしても、神は普通の人であるペテロを選び、素晴らしい事を成し遂げました。あなたもまた、何億人もいるキリスト教徒の中の、その素晴らしい事の一部であることを忘れないでください。 ペテロのように、私たちもまた聖霊の中で進む力を見つけることができます。ペテロがどれだけ人生で情けない事をしたり、弱さや愚かさを見せても、必ずイエス、神のもとに帰ってきて、神はペテロを許し、彼に力を注ぎ、彼が想像していた以上の事を成し遂げたのです。他の部分では、イエスとビーチ、テーブル、または庭に座っていることが分かっていますが、ペテロは生き続ける力を見つけたのです。 では、ペテロの話しから私たちは何を学ぶのでしょうか?御霊と共に生きるという事は、私たちが出来ない事、知らない事、以前どんな愚かな事をしたかに恐れず生きていくこと、そして、聖霊を通して神の導きに従い、神の中で休みます。神の導きにより、神がミニストリーや、あなたが思いもつかなかった事に導かれる場合もあるかもしれません。 私自身もアジア学院に来ることは想定外でした。全てが今までの生活と全く違う場所に導かれたのです。虫が飛び、土や肥料が宝物であり、汗や涙、笑いが私たちを癒してくれる場所。農業を提供する生活と世界中のあなたのような人々の力によって支えられたアジア学院の自給自足生活は決して容易なものではありません。しかし、その困難さを見ながら、ふと私は神の力を求めます。このミニストリーが50年間続いてこれたのは、聖霊の力と導きであり、それを理解する事で、私は神の中で休む事ができます。 全ての人が心の準備が整った中で人生を歩んでいるのではありません!日本の周辺でも内戦や病気が常にあり、コロナのパンデミックは人々の人生をひっくり返し続けています。実際、ミャンマーにいる卒業生の1人と話していたら、彼の子供はここ2年間学校に通う事が出来ておらず、コロナとミャンマーの軍事状況のために、彼自身も仕事が無い状況だと言っていました。私が彼のことを心配していると伝えると、彼は笑って、彼自身はこの状況を恐れていないと言いました。なぜなら以前、聖霊が彼に力を与えたので、彼は神の力が今も彼の中で働き続けていると言うのです。 これが、私たちの希望のメッセージではないでしょうか?私たちが聖霊と共に歩む人生を選択した時、私たちは恐れの中で生きるのではなく、神の導きを求めると、神は神の子供たちに素晴らしい贈り物を送ってくれ、人生の中でどんな困難に直面しようとも、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それが、神の中で休むという事ではないでしょうか? 聖霊を通して得る神の力を信じ、歴史を通して何十億人もの人々が行ってきたように、今あなたを導いてくれることを信じることです。私の事を信じてくださいますか?共に歩きませんか?祈りませんか? おはようございます。みなさんはニューヨークの国際連合本部に行かれたことがおありでしょうか。もしなければ、ぜひ生涯のなかで一度はそこを訪ね、世界的平和状況の現実について考えるべきことを強くお勧めします。そのときぜひパスポートをお忘れなく、というのも政治的に言うとそこは独立した地域で、事前にビザのような書類の発給を受けることが必須ですので。 2018年に私はそこを訪れ、とても興味深いという以上に非常に内容のある場所だということに気づかされました。その訪問には二つ目的がありました。一つはその組織の全体的な印象を持つこと、もうひとつはより具体的に、一つの彫刻を見ることでした。その彫刻は建物の、イーストリバー沿いにあり、「剣を鋤に」と題されたものでした。もちろん今日の日曜日の礼拝の聖書の箇所から取られたものです。残念ながらその庭は一般には公開されておらず、近くまで行くことはできませんでしたが。この彫像は1959年にある国連加盟国から贈られたものですが、どこの国か想像がつきますか? それはソビエト連邦でした。とても興味深いですね。共産主義国が聖書的メッセージをもつ彫像を建てたこと、そしてその国はやがて西側諸国と冷戦を闘い、核兵器を開発し続けたのです。そして私はこの彫像の意味、さらに平和って何だろう、と考えさせられたのです。 「平和」ということばは、多くの人にとって自分の立場を正当化するためにはとても便利なものです。国際連合は、その加盟国の安全を脅かすであろう敵と闘うための平和維持軍をもっています。ヒロシマ、ナガサキの原子爆弾は、1945年太平洋戦争を終わらせ世界に平和をもたらしたものと言われます。オリンピックは「平和の祭典」と言われます。 ある人は平和を実現するために、核および通常兵器(個人的なレベルでは銃)の完全な廃棄を主張しますし、ほかの人はそれは絶対必要だと訴えます。私たちクリスチャンはその混乱した状況にどう向き合えばいいのでしょう。何か明解な答えがあるのでしょうか。もちろんイエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と語りましたが、多くのキリスト教国家も軍事力を保持しています。クリスチャンは、理想的に生きるべきか、現実的に、いやただ妥協的に生きるべきなのでしょうか。 私はミカ書のテキストはこの混乱した状況へのヒントを与えているように思います。預言者ミカは紀元前8世紀、預言者イザヤと同時代、あるいは少し後に活躍しました。興味深いことに、今日の聖書箇所はイザヤ書2章1~4節にまったく同じ文章が見られます。なぜ今朝、イザヤ書ではなくミカ書のテキストを読んで頂いたのでしょうか。今日の平和主日(日曜)礼拝のために、どちらのテキストを選んでも同じなのでしょうか。先に申し上げたように、ミカはイザヤより遅れて登場した人物で、それぞれの歴史状況は非常に違っていました。 今ここで旧約聖書の歴史についての講義をすることはできませんが、紀元前8世紀というのは古代イスラエル王国にとっては大きな転換点でした。古代オリエント地方で圧倒的な勢力を誇ったアッシリア帝国がパレスチナに迫り、イスラエル王国の存在にとって大きな脅威を与えました。イザヤはこのアッシリアが迫ってくるなかで、その危機にどう立ち向かうかについて語ったのです。注目すべきことに彼は、いかなる人間の持つ軍事力に頼るべきではなく、神の支配、権限に頼るべきで、そこで剣や槍ではなく鋤や鎌ということばを訴えたのです。イスラエルの神が状況を解決してくださるだろうと。ところがイスラエル王国の支配者たちの眼には、それを採用することはあまりにも理想的であり危険なものとして映り、彼は無視されました。そこで預言者イザヤは、神によって遣わされる支配者、「メシア」、「平和の君」がイスラエル社会に立てられることを期待した(イザヤ書9,11章ほか)、ということは前にお話ししました。 預言者ミカの時代にはイスラエルは残忍なアッシリア勢力に打倒され、北イスラエル王国は滅亡させられました。歴史的記述を引用すると「こうして北イスラエル王国の残留民たちは消滅した。かつてはシリアーパレスチナの橋として中心的な政治的役割を果たしたこの王国は、影響力を持つ存在という位置から、以後長く没落していった」(ヘイズ、ミラー「イスラエル、ユダヤ史」434頁)。そのイスラエル北王国の滅亡の結果として、人々は捕囚民(難民)としてどこかに連れ去られ、その後の消息は分からないままとなりました。そこで彼らは「イスラエルの失われた十部族」とも呼ばれるのです。預言者ミカは北王国にではなく南ユダにいましたが、これらの事件を目撃し、自分の状況のなかでイザヤのことばを思い出したのでしょう。彼はそのときその前任者のメッセージの意味を、打ち負かされた立場の視点から真に理解し、闘うための武器ではなく、毎日の生活とその安全を生み出すための農具によって、平和を打ち建てるための本質的な必要性を痛感したのです。 2018年、私は国連本部を訪ねる前に、サーロー節子さんにお目にかかるためにカナダトロントに行き、当時私が院長を仰せつかっていた関西学院にお招きし、学生たちに平和についての講演をして下さるようお願いしました。1945年、彼女が広島女学院(1886年、メソジスト宣教師によって設立された女子校)の高校生であったとき、彼女自身が原爆の攻撃によって倒壊してきた建物の下で瀕死の状況に直面したのです。奇跡的に彼女は助け出されたのですが、そのとき彼女は平和、戦争廃絶、原爆廃絶の決定的な意味を実感したのです。その後彼女はカナダ人宣教師サーロー氏と結婚し、関西学院の西宮キャンパスに赴任します。そのとき二人は神戸ユニオン教会にも出席したことでしょう。 カナダに帰国後、彼女は献身的に平和運動に関わり、ICAN(国際子ども行動ネットワーク)の事務局長として核廃棄の完全廃絶を訴え、それにより2017年国連本会議において「核兵器禁止条約」が議決されました。その直後彼女は日本を訪れ、安倍首相を説得し日本政府その批准を求めようとしたのですが、安倍首相は彼女に会うことさえ拒みました。 このICANには同年ノーベル平和賞が与えられました。その表彰式で節子さんの演説をインターネットで読むことができます。(https://www.wagingpeace.org/setsuko-thurlow-nobel-peace-prize-acceptance-speech/)。彼女はこう述べてそれを締めくくります、「私は13歳の時、くすぶるがれきの中に閉じ込められても、頑張り続けました。光に向かって進み続けました。そして生き残りました。いま私たちにとって、核禁止条約が光です。この会場にいる皆さんに、世界中で聞いている皆さんに、広島の倒壊した建物の中で耳にした呼び掛けの言葉を繰り返します。『諦めるな。頑張れ。光が見えるか。それに向かって這っていくんだ』」(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=79180) 彼女のように「平和を作り出す者」は、イエスのメッセージよると神の子と呼ばれるひとりです。戦争によるくすぶる瓦礫と、また彼女(この人たち)の義しさの結果、社会からの無知、反対、迫害などとも闘うのです。 祈りましょう: 憐れみ深い私たちの神様、今日私たちは、平和を与えてください Dona Nobis Pacemとだけ祈ります。ただそれを待つだけではなく、毎日の生活の中で、あなたの御国がここにあることのしるしとして、私たちの生活の豊かさと安全を求めて這いよってゆく、私たちの救い主、平和の主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。 アーメン |
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May 2024
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