「フルーティな喜び」| ガラテヤ人への手紙 5:22-23 | ネヘミヤ記 8:9-12 | 神様戸ユニオン教会 | 2024年1月28日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch1/27/2024 ガラテヤ 5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です 。このようなものに反対する律法はありません。 ネヘミヤ記 8:9-12 総督であるネヘミヤと。祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人た ちは、民全体に向かって言った。「今日は、あなたがたの神様、主にとって聖なる 日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法の言葉を聞いたと きに、みな泣いていたからである。さらに、彼は彼らに言った。「行って、ごちそ うを食べ、甘い酒を飲みなさい。何も用意できなかった人には食べ物を贈りなさい 。今日は、私達の主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶこと は、あなたがたの力だからだ。」レビ人たちも、民全体を静めながら言った。「静 まりなさい。今日は聖なる日だから。悲しんではならない。」こうして、民はみな 帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えら れたことを理解したからである。 聖霊の実のシリーズを続ける中で、今日は一番美味しい実の一つを見ていきます。 今回の喜びは私にとって難しいものです。喜びは私にある主な実ではなく、あれば と願うばかりです。私が自分に対する罪(そう、自分に対しても罪を犯すことがあ ります)の一つは、喜びの只中においてそれを冷静に分析してしまうことです。こ うして、喜びの瞬間から取り残されたような感覚になります。これは熱い炎に冷水 をかけるようなものです。ある諺があります。「分析による麻痺」。何かを一生懸 命分析しすぎることで、自分を凍結させることです。物事を経験する代わりにそれ を凝視することで、自分自身にブレーキを掛けてします。聖書は言います、「御霊 を消してはいけません。」(テサロニケ人への手紙一 5:19)。喜びによって私達が 今生きることを必要とします。喜びは本物でなければ、それはまるでSF映画です。 偽りの喜びではならないのです。神様の働きが喜びを起こすのです。 35年前、私はロードアイランドのキリスト教のキャンプに行き、かわいい女の子 に出会い、友達になりました。彼女は大学に戻り、私は働いていました。私は電話 番号も住所も持っておらず、連絡が取れませんでした。母はそれが気に入らなかっ たようです。それはともかく、私が数か月後に家に電話をかけると、母は私にステ ファニー・デロルフという女の子について尋ねました。私は「どうやってその名前 を知っているのか」と尋ねたのです。母は彼女があなたに連絡をしようとして電話 をかけてきて、あなた達が互いに連絡が取れなかったので話し始めたと言いました 。私が母と電話で話したとき、母は「彼女はどんな人か」と尋ねたのです。私は 、「一番目立つのは彼女の喜びです。」と言ったのです。きっと自分が欠けている ものを相手に求めるのでしょう。 厳格な人々はしばしば喜びを軽視します。愛の次に、主が私達に授けた最も力強い 福音的な贈り物が喜びかもしれません、しかし私にはそれが得意ではありません。 牧師が私に言ったことがあります、「10人の喜びに満ちた人を連れてきたら、教会 は地面から生えてきます。10人の消極的で不満そうな人々が教会に集まると、8人 の不満そうな人が残り、賢明な2人は去るだろう。」これはかなり真実です。喜び は私達のキリストへの信仰において中心的なものです。私達は「もろびとこぞりて (民みな喜べ)」と歌います、「御神様の愛をば(Joyful, joyful we adore thee)」、「主の喜びは私の力(The Joy of the Lord is our strength)」。なぜでし ょうか?それは喜びは聖霊からの贈り物であり、または聖霊が私達の内で働いてい る証しなのです。 聖霊の誕生日(ペンテコステ)に、11人の弟子達はエルサレムにいて祈っていたと ころ、突然、火の舌が各自の頭上に現れました。興味深いことに、鏡の前ではなく 、他の人の頭の上でしか火の舌を見ることができなかったのです。それはまさに喜 びのようです。自分の喜びは見えませんが、他の人が喜んでいるのは本当にわかり ます。弟子達は街や外の世界に聖霊による喜びによって導き出されました。しかし 世の人々は弟子達に起こったことを理解できませんでした。それで、人々は弟子達 を酔っ払いと見なしたのです。物事を分析する時も必要です。合理的な思考や知的 な識別が必要な場合もあります。しかし喜びを犠牲にしてまで分析する必要はない のです。喜びは聖霊が与え続ける贈り物です。 ネヘミヤ記 8:10は私達に「主の喜びは私達の力です。」という真実を思い出させま す。神学への理解が私達の力になるのではありません。私達が知る聖句の量でもあ りません。そうではありません!ネヘミヤは言います、それは私達の喜びです。ネ ヘミヤはなぜこんなことを言えたのでしょうか?問題点ばかりで、イスラエルの民 は捕囚から帰還し、神殿は破壊され、城壁は崩れ、畑は荒れ果てていました。ネヘ ミヤの書は困難を克服し、リーダーシップに関するものです。良いリーダーシップ は問題に対処すること(もちろん)ですが、それ以上に人々を生きることと喜びに 導くことです。神殿よりも、城壁よりも、攻撃から解放されるよりも、ネヘミヤは 喜びにこそ真の力があることを知っています。喜びは礼拝に導き、礼拝は私達を神 様とより深い関係に導きます。神殿は略奪されるかもしれません。城壁は崩れるか もしれませんが、主を信じる者は恥をかくことはありません(詩編25:3)。私達信 者は、この喜びを深く受け入れる経験をし、それが一時的な感情ではなく、私達を 強め、聖霊が私達の内で働いている証しであることを理解するように呼びかけられ ています。 喜びは霊の実のリストの中で2番目です。天使が羊飼いたちに現れたと き、天使は彼らに「我々は大きな喜びを告げ知らせます。」と宣言しました。喜び は幸福ではありません。この喜びは外部の条件に依存していません。それはむしろ 、神様とのつながりから流れ出る超自然的なパワーです。私達がキリストにとどま り、聖霊が私達の内で働くにつれ、喜びは私達と神様との関係から自然に溢れ出る ものです。 ネヘミヤに戻ると、イスラエルの民には幸福である理由がないのです。彼らの状況 はそんなによくありませんでした。KUCの皆さん、現実を見ましょう。KUCは過去 数年間、いくつかの困難に直面してきました。異なる牧師が入れ代わり立ち代わり しました。複数の人々から、皆さん自身が直面してきた対立や困難についての話を 聞いたことがあります。時折、あなたたち自身や他者に課した挑戦もあります。私 はあなたたちが自分たちについて語った話を聞いて、怖くなりKUCに関りたくあり ませんでした。その話を聞いて悪夢を見ました。私は正直に話しています。しかし 、私がゲスト説教者としてここで説教した後、私は問題を垣間見ました(はい)。 しかし、キリストへの人々の献身の一端をも見ました。その献身を通じて喜びも見 ました。もちろん、私達は(少なくとも8月までは私も皆さんの仲間です)実践的 にも霊的にも取り組むべき課題はまだありますが、問題だけに焦点を当てるのでは なく、喜びに焦点を当てる必要があります。私は牧師と教会評議会の仕事はその喜 びを守ることであるべきだと思います。先週は短縮礼拝で、私は説教を10分間も短 くするのが嫌でした。しかし、賛美と礼拝の時間を削減するくらいなら、私は説教 を20分間短くする方がいいと思います。 なぜならそれらが必要だからです。 私達の喜びの主な源泉の一つは、イエス・キリストによる私達の救いです。詩篇 51:12には、「あなたの救いの喜びを私に戻してください」と書かれています。ク リスチャンとして、私達はキリストへの信仰を通じて受け取った恵み、赦し、そし て永遠の命という信じられないほどの贈り物を絶えず思い起こすべきでしょう。こ の認識は、現在の状況に関係なく、私達の心を喜びで満たすはずです。喜びと幸福 を混同するといけません。幸福は素晴らしいことです、誤解しないでください。幸 福は私達の状況や環境に依存しています。幸福という言葉は、ラテン語の「機会/好 機」に根ざしており、私達は幸福を富、健康、成功に結びつけます。私はこれらの ことに反対する説教をするつもりはありませんが、それらは一時的なものであり、 永遠のものではありません。喜びは私達の現在の状況に結びついていません。あな たが今現在、健康で成功していることを願っていますし、同時に幸福で喜んでおら れることでしょう。しかし、パウロは私達にすべての状況で感謝するようにと呼び かけています(1テサロニケ5:17)。 聖書で最も古い物語、ヨブの物語では、サタンが神様に言います。「あそこにいる 幸せそうなやつを見てくれ。彼は財産を持っているから、あなたが祝福したからこ そ、幸せで賛美してくれるんだよ。」 物語では、神様はサタンにヨブの生活からこ れらの祝福を奪わせることを許可します。ヨブは苦しんで、感情的にも肉体的にも 苦しみます。友人達さえもヨブは当然受けるべき苦しみだと言います。しかし、ヨ ブは神様を呪うことはありません、サタンは間違っていました。サタンはヨブの神 様との関係が彼の幸福や状況に基づいていると思っていましたが、ヨブの神様との 関係は信仰と喜びにおいて築かれていたのです。ヨブは正しい人として本当に幸福 ではありませんでしたが、喜びの人でありました。ヨブ(ヨブJobのbをyに置き換 えるとJOYになります)喜びはこの世のものに基づいていません。 幸福は私達の状 況に依存しますが、喜びによって私達は状況に対してどう対応するかを態度で示し ていきます。喜びは福音(善い知らせ)を信じる超自然の応答です。クリスチャン の中心にあるのは、喜びを知ること、あるいは個人的な救いを理解することでしょ う。そして、私達の確信はイエスを主と救い主として信じることによって救われて いることです。あえて言うなら、救いの知識に苦しむクリスチャンは、喜びにも苦 しむということです。ヤコブはこのタイプの人を二心の人と呼びます。信者が喜び の贈り物を受けとることと、祝福をいただけることとは同じことなのです。聖霊を 遠ざけないでください。主の喜びを受け入れましょう。神様の祝福を十分に受けと ってください。困難な時を経るのはつらいことです。しかし、サタンが非常に喜ぶ のは、あなたの信仰が幸福に結びついて、喜びに結びついていないときです。その とき私達はサタンにとって狙い撃ちの格好のターゲットです。しかし、もし信仰が 主の喜びに基づいているならば、サタンは私達に触れることはできません。 終わりに「喜びのチャレンジ」に挑んでみましょう。 1. 今週は毎日、iPadやスマートフォンで賛美歌や讃美歌のボリュームを上げて 聴いてみましょう。一緒に歌うことにも挑戦する。これは電車向きの活動で はありませんね。 2. あなたが知っている誰かに喜びをもたらす方法は何でしょうか? それはしば らく話していない人への手紙かもしれません。 誰かに電話して、お茶やコー ヒーに誘うことかもしれません。それは知っている誰かのために無償の行動 を起こすことかもしれません。おそらく感謝されないかもしれませんが感謝 に関係なく、喜びは聖霊があなたに働いていることを知ることなのです。 さあ、歌いましょう。
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ガラテヤ人への手紙5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この ようなものに反対する律法はありません。 ヨハネの手紙第一4:7-8 愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある 者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だから です。 これからの9週間、御霊の実(the fruit of the Spirit)について詳しく見ていきたいと思 います。「フルーティ・クリスチャンズ」という受けそうな呼び名をつけてもいいですね 。 「御霊の実」についてよく考えることは、根本的な問いに答えることになります。つまり 、「クリスチャンとはどのような人なのか。どんな資質を持つべきなのか。他人からどの ように思われるべきか」。目標は高いところにあります。 この問いには、使徒パウロがガラテヤ人への手紙5:22の中で答えています。救い主である 主に従うクリスチャンにとって、大切なのは知識ではなく、どのような人間であるべきか が書いてあります。 パウロが書いたのは、混乱しているガラテヤの教会に宛てた手紙でした。重要なのは教会 が主イエスへの信仰に焦点を当てることであって、規則を守ることではないとガラテヤ書 全体で説いています。それは聖霊の賜物なしにはできません。みなさんもご存じのように ガラテヤ5章に次のようにあります。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、 誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません」。ガラテヤ人への 手紙は、聖霊の光を教会にもたらすことを目指しています。(使徒の働き15章を参照のこ と) パウロは、御霊の存在と力、そして神と私たちとの関係を通じて、福音が人々を変容させ るのだと主張しています。このガラテヤ人への手紙5:22-23から、私たちはイエスの品位を 知ることができます。また、聖霊の導きによりこれらの特性を受け入れることができます 。 ではガラテヤ5章を一緒に読んでみましょう。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切 、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません」。 この御霊の実のリストを自分自身に当てはめてみて、どう感じますか。私は二つか三つは うまくできていると思いますが、もっとよくできるようになったらいいなと思うものもあ ります。 「忍耐って本当に書いてあるのかな。タイプミスなのでは?」と思う人もいるかもしれま せん。他の人と話し合ってみてください。このリストの中で自分に備わっていると思う特 性があれば話してください。自分はいくつかよくできていると考えるのは、厚かましいこ とではありません。自分の強みと今後の課題を知るのはよいことです。 そしてよろしければ今後身に着けたいと思う特性、挑戦しなければならない特性について も話してみてください。 でもこのことで落ち込んだりしないでください。今週、自分の強みについて神に感謝し、 弱みについて神に助けを求める時間を取ってください。例えば次のように祈ってみてはど うでしょうか。「親愛なる神よ、聖霊の助けを借りて、私の今までの人生の中で愛と善の 形を見ることができました。実りに感謝します。今後もっと(あなた自身の言葉で、例え ば信仰深くとか、柔和など)になれるよう私の成長を助けてください」。 また、文字にして紙に書いて聖書に張り、6か月後に自分の成長を確認するのもおすすめで す。勇気があれば、配偶者やクリスチャンの友人に話してみるのもよいかもしれません。 では特性について話していきましょう。まず、「御霊の実(Fruit of the Spirit)」は単数 形で書かれており、複数形ではありません。 たとえば「善良」の木から、「忍耐」や「辛抱強さ」の実がなるとは神も思われていませ ん。イエスはいばらの茂みからいちじくの実は摘めないと言われました。このように、多 くの特性があるわけではなく、実際には一つの特性です。ですから健全なクリスチャンで あるためには、すべての特性が必要です。 それでは最も重要な特性からみてみましょう。パウロはコリント人への手紙Ⅰの13章で 、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです」と書いています。そして、「 その中で、一番すぐれているのは愛です」と続けます。 なぜ愛が一番になるのでしょうか。それは、私たちがこの地上の肉体を離れて神の国に迎 えられた後、私たちが持っている唯一のものが愛だからです。天国に行けば、信仰はもう 必要ではありません。「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させ るもの」(ヘブライ11:1)だからです。天国では神を見ることができるので、信仰は必要 なくなるのでしょう。そして希望とは、神の好意を待ち望むことです。天国にいれば、待 ち望むことなく経験するでしょう。 しかし、愛は違います。愛は私たちが今行うべきものであり、天国に行っても続けること ができる唯一のものです。御霊の実の他の特性は、すべて愛の延長であると言う人もいま す。それは正しいかもしれません。あるいは愛の泉から他の特性が流れ出てくるのかもし れません。 ギリシャ語には愛という言葉が4つあります。エロス(情熱的な愛)、ストルゲ(家族の愛 )、フィリア(友情)、アガペー(犠牲的な愛、不変の愛)です。パウロが御霊の実の愛 の定義として使っているのはアガペーの愛です。 では、アガペーとは何でしょうか。過去に多くの詩人が愛の定義を書いてきました。ここ では愛を定義するのではなく、アガペーの愛が示された話をしてみましょう。 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、第二次世界大戦の戦前、戦中のナチス・ドイツで生 きた聖書学者でした。著書の『The Cost of Discipleship』と『Life Together』は、信仰 を深めたい方にお薦めの本です。 世界が憎悪と暴力に向かっていく中、彼はイギリスやアメリカに移住する機会が何度もあ ったにもかかわらず、ドイツに留まりました。 ある会議がニューヨークで開催された時、他の牧師たちは彼に会議の後ドイツに戻らない ように懇願しました。ドイツ国内のキリストの教えに反する憎悪について批判し続ける彼 は、命を狙われていたからです。しかし彼は、まるで獅子の穴に入るようにドイツに戻り ました。彼には目的があり、アガペーがあったからです。(私たちは目的とアガペーを持 っているでしょうか)。 彼はドイツで教会を導き、神学生の世話をしました。そして福音のすべてを説教し、ドイ ツがいかに悪に向かったかを明らかにしたため、ついにナチスに逮捕されました。 獄中でボンヘッファーは聖書勉強会を開き、他の囚人や看守のために祈りました。看守た ちは彼を尊敬するようになり脱獄させようとしましたが、彼は逃げませんでした。死にた いと思ってとどまったわけではありません。もし逃げれば、看守たちが罰せられるからで した。 ボンヘッファーは唯一聖霊からのみ得られるアガペーの愛を持っていました。彼はマタイ 5:43-45を生きました。「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを 、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し 、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは言われました。これによってあなた がたは天において自らの父の子となるであろう」。 ドイツ降伏直前にボンヘッファーは死刑になりましたが、キリストの愛と彼のアガペーの メッセージは生き続けています。光は闇によって消されることはないからです。 ボンヘッファーのような英雄がいることは素晴らしいことですが、私たちはナチス・ドイ ツに住んでいるわけではありません。それでも私たちも困難に直面しています。 数年前、勤務先の職員室で隣の席にいた人は、私が挨拶をしても他の教師が見ているとき 以外挨拶を返しませんでした。仕事に関することを尋ねても無視されました。私が何か悪 いことをした訳ではないのですが、彼は私を好きではありませんでした。私は外国人で彼 は外国人が嫌いでした。彼は私に仕事に関する情報を伝えてくれず、私を悪く見せようと しました。非常につらい一年でした。 愛すること(エロス)はロマンチックで、仲間を愛すること(フィリア)は楽しく、家族 を愛すること(ストルゲ)は安定していますが、アガペーの愛は難しいものです。 その年の半ば、私は彼に挨拶するのをやめました。彼が挨拶しないのだから、私だって挨 拶しなくてもよいと思いました。 すると妻のステファニーが「マーク、それはまちがっている」と私に言いました。私は、 彼がしたことや言ったことをあげつらいました。そのうちに気がつきました。私はその時 キリストの道ではなく、世俗の道に生きていたのでした。 翌朝から私は職場に向かう道で、愛に満ちた人間になれるよう聖霊を通して助けてくださ いと毎日神に頼みました。そして再び彼に挨拶するようにしました。同僚が彼の悪口を言 っても、同調しませんでした。神は人間の愛ではなく、神のアガペーで私を満たしてくれ ました。彼は依然として私を嫌っていましたが、私は彼を助けることさえできました。そ して彼は翌年定年退職しました。 私はボンヘッファーのように処刑されたわけではありませんが、神が私に求められた道を 歩みました。これがアガペーの道です。アガペーの道を学ぶ成長過程でした。子ども時代 には子どもらしく考え行動しますが、大人になれば神は私に幼稚さを捨て、成人クリスチ ャンとして振る舞うように求めました。神は私たちに子どものように神を愛するように求 めておられますが、子どもじみたものではなく、おとなの信念を持つよう求めておられま す。 ヨハネの手紙第一4:7-8は、私の好きな聖句の一つです。ヨハネは「愛する者たち。私たち は互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ 、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」と言っています 。ヨハネは私たちに愛の人になるように呼びかけています。でも完璧な愛の人は私たちの うち誰もいません。 今後二か月にわたって学ぶこれらの特性は、私たちの体と似ています。ウエイトリフティ ングを考えてみましょう。今日突然ウエイトリフティングを始めれば、明日は筋肉痛にな ります。そして、もう二度とやりたくないと思うでしょう。しかしウエイトリフティング を続けるのと同じように、神があなたに呼びかけている道を歩む旅を、聖霊に導かれて続 けるなら、愛する能力が成長するでしょう。あなただけの、そして非常に美しいものに作 られることでしょう。 それが今日すぐに起こることはありませんが、今日から始めることはできます。 祈りましょう。 今日、この場で私の心にある思いを分かち合えることに感謝しています。
本題に入る前に、少しお話をしたいと思い、3つの質問を用意させて頂きました。 最初の質問です。私たちの中で、何人がイエス様との関係を持っているでしょうか? イエス様との関係を持たない限り、クリスチャンと呼べないので、少なくとも皆さん関係を築いていらっしゃると思います。この場に集うということは、キリストを信じていらっしゃるということだと信じています。私たちとキリストとの関係、キリストの十字架での御業のおかげで、お父様の もとに贖われたと知るのは大切なことです。イエスのおかげで神の御目に受け入れられたからこそ、私たちはキリストの嗣業を分かち合っているのです。だからこそ、誰に従って生きるのかということが重要になってきます。旧約聖書で罪の罰を贖うために捧げられたすべての犠牲は、十字架上 のイエス様の犠牲によって、取り除かれたのです。 エペソ人への手紙1:5と2:5-6によれば、私たちキリストと共に生かされ、キリストにあって共に天上で座につかせてくださいました。だから私たちは、イエスと彼が行った御業に多くの借りがあるのです。 第二の質問です。私たちの中で、何人が父なる神との関係を持っているでしょうか? 先ほどの質問よりも少し難しくなります。しかし、私たちが父なる神に近づくことができるのは、キリストのおかげだということを忘れないでください。イエスが弟子たちに教えた祈りの中でも、まず父なる神に祈ることを教えています! 天にまします我らの父よ。願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。御国(みくに)を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用(にちよう)の糧(かて)を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、我らの罪をも赦したまえ 。我らを試(こころ)みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり。 アーメン。 これは父なる神様に直接語り掛けるためのお手本です。神を敬い、より深いレベルで神の道を知りるために。聖書とは、神がご自身の民に語りかけているものであり、私たちは神の御性質をみて、神が誰であるかを知ることができるのです。 第三の質問です。私たちの中で、何人が聖霊との関係を持っているでしょうか? 救われてすぐに聖霊を迎えたのか、それとも今後迎えるのかについては触れません。単純に自分に問いかけてみて、聖霊との関係を持っているのか考えてください。 この約束は現実のものとなっているのでしょうか?聖書を見てみましょう。 ヨハネによる福音書14:15-18 「 15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。 16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。 18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」 ヨハネによる福音書14:25-26 「 25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。 26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」 また、ヨハネによる福音書15:26と16:7-15にも私たちがどのように聖霊を約束されているかが書かれています。 これらが私たちの現実となるよう、簡単にお祈りをしたいと思います。聖霊よ、私たちは、あなたを歓迎します。あなたは、私たちを見捨ててはいません。私たちを再度、満たしてください。私たちが人格的に生まれ変わり、あなたの賜物を大切にし、人生が変えられるようにしてください。 聖霊はどのように私たちの前に現れるのでしょうか?「御霊の実と賜物」を通して、聖霊が私たちの人生において現れる2つの方法を簡単に見てみましょう。 ガラテヤ人への手紙5:22-25における御霊の実 御霊の実とは、人としての性格のことを指します。私たちは、聖霊と共に過ごしてきたかどうかを、私たちの品性を通して評価することができるのです。あなたは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制心を持っていますか? 私が高校生の時、教会でサマーキャンプがあり、そこで洗礼を受けました。キャンプが終わって帰宅しパソコンの前に座っていると、父が私に対して怒ってきたことを覚えています。でも、私はいつものように反応するのではなく、私の心が平安で満たされたのです。それを見て、父は、「何かが変わった。」と言っていました。聖霊は私たちを本質的に変えることができるのです。 コリント信徒への手紙一 12:7-11 における聖霊の賜物 これらの賜物は、他者のためにあなたに与えられています。あなたは聖霊の声を聞き分けることができますか? 大学在学中、聖霊がどのような存在なのかをもっと知りたいと切に願っていた時期がありました。ある時、ミニ聖書研究会をするために、カフェで何人かの仲間と会っていました。私はその集まりを少し早めに切り上げ退室しなければいけなかったのですが、帰り際に座っているカップルのそば を通りかかる際、聖霊が私に対して「そのカップルに話しかけてほしい」と言っているのを感じました。こんなことは初めてだったので、困惑しながらも、その場を離れてしまいました。私はドアを出て、まっすぐ自分の車に向かいました。しかし、聖霊は、私がその場を去ってもまだ私に要求 してきていたのです。重苦しさが増し、何かしなければならないと思ったので、そのカフェに一緒にいた友人に電話し、そのカップルがまだそこにいるのかどうか尋ね、主に彼らと話すように促されていると説明しました。すると、友人は、「もちろん、話しかけてみて」と言ってくれたので、再度カフェに戻り、自己紹介をしました。そして、「変な話に聞こえるかもしれないけれど、主があなた方に何かを伝えて欲しいと言っているようなんです。」と話しかけました。 今日読んだヨハネによる福音書と同じ箇所、私たちに対する神の愛のメッセージで溢れていることを話しました。そのカップルと神の愛について話すことができ、彼らはご自身の息子さんのことに関してとても危惧していることを話してくれました。共に祈ることができ、今日と同じ聖霊の約束 の部分について語り、それを信じることについて話しました。 主は私たちが教会の外の教会となることを望んでおられます。主の声を聞いたことで、彼らと「約束」について話し合うことができたことに感謝します。 祈りましょう。 天の父なる神様、私たちがあなたとの関係を持つことができるように、私たちを隔てていた壁を打ち壊すために、あなたは御子を遣わしてくださいました。約束の御方であるイエスの上におられたのと同じ御霊、聖霊が私たち一人ひとりの内側に生きておられます。主の声を聞き、私たちも人生 を歩み続けることができますように。 アーメン 「福音からのリーダーシップの教訓」: 赦し、奉仕、服従、および管理責任 | ヨハネの福音書13:1-14 | 神戸ユニオン教会 | 2024年1月7日 | 説教者:Rev. Mark Bartsch1/7/2024 リーダーシップに関する数え切れないほどの本やセミナーが開催されて
います。私はあなた方に動機づけのために数千ドルをもらっているわけ ではありませんが、リーダーシップについてお話しし、私を評価するた めの基準を示しましょう。これは私の最初の日曜日であり、客員説教者 ではなく、牧師チームの一員としてお話します。従い、私はリーダーシ ップをについて考えてみたいと思います。リーダーシップに必要な一貫 性、正直、誠実さ、ビジョンの設定、チームの構築という多くの素晴ら しい特性を挙げることができます。私はそれらの高い水準にふさわしい ことを願っています。しかし、リーダーシップにおける特性の一つ、赦 しについては語られていません。それが今日始めたいテーマです。 I. 赦し(マタイの福音書18:21-22): 私は聖書的人生とリーダーシップは赦しから始まると考えています。ペ テロはイエスに尋ねました(マタイ18:21-22)「主よ。兄弟が私に対し て罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。7回まででしょうか。」ペ テロは彼の質問で寛大な回答をしたので、主イエスが「すごい、ペテロ 、君はすごいなぁ。」と言うことを期待していました。その代わりに、 主イエスは「7回ではなく、77回」と彼に言います。これは必要なだけと 言う別の表現です。主イエスが言い間違えたのではありません。ルカの 福音書17章でも似たようなことを主はおっしゃいました。主イエスは赦 しを本気で考えていたのです。 有名な福音派の宣教師ビリー・グラハムの妻であるルース・グラハムに 関する話があります。彼女はビリーとの離婚を考えたことがあるか尋ね られました。彼女は「離婚はありませんわ。でも殺人はあります。」と 答えました。それから彼女は真剣に、「夫婦が互いに赦し合わない限り 、結婚はうまくいかないのです。」と言いました。教会の皆さん、私が 間違いを犯して(きっと犯すでしょう)、もし皆さんが私を赦せないの なら、またあなた方が常に私を傷つけたとき(きっと傷つけるでしょう )、私があなた方を赦すことができないならば、私達はうまくいかない でしょう。私は7月までKUCにとどまり、それから去るか、あなたが私を 解雇することになるかもしれません。そうなれば私達はお互いの時間を 無駄にするだけです。それは避けたいものです。 赦しに関しては、2つの側面があります。1つは、最初に神様からの赦し を受け入れるために自分を謙虚にすること、そして我々が過ちを犯して しまった人からも同様に赦しを求めることです。鍵はここで謝罪しなけ ればならないということです。あなたは神様との契約を破ったこと、あ るいは誰かとの関係を損ねたことにおいて、あなたが行ったことを明ら かにしなければなりません。2つ目は、あなたを傷つけた人々に対してあ なたが赦すことと、その赦しをさらに広げることをいとわないことです。 主イエスは私達に無慈悲な僕の物語を話しています。彼は喜んで赦しを 受け取りましたが、他者を赦すことができませんでした。神様は彼の赦 しを取り消されます。神様は私達に、多くのことを赦された者同士で謙 虚に生きるよう呼びかけています。今日は月の最初の日曜日で、私達は 聖餐式を行います。聖餐の目的の一部は、自分を無慈悲な僕の立場に置 くことであり、私達が神様に返済できないほどの負債があることを知り 、認めることです。そして、聖餐式に臨む際に、(私達が聖餐を受ける にふさわしいから、聖餐を拝領するのではありません)聖餐を受け取る ことで、私達は自分には多くのことが赦されていることを認めて、他者 を赦すことに心を砕いて生きていくのです。 II. 自分の限界を知る 私は自分が有能であることを望んでいます。もし私が有能でなければ、 あなたが私をチームの一員として迎え入れてくれないでしょう。しかし 、私は自分の限界を知っています。古い映画『クール・ハンド・ルーク 』には有名な言葉があります。「人は自分の限界を知らなければならな い。」です。私はこの仕事を一人でやり遂げることはできないことを知 っています。神様の助けなしには、何も成し遂げられません。主が家を 建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい(詩篇127篇)。主イエ スが神の国に入ることについて教えたとき、「金持ちが天の国に入るよ りは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。」と言いました。弟子 たちは「それでは、だれが救われるのでしょう。」(本当にだれが救わ れるの?)と尋ねました。主イエスは「人にはできないことですが、神 にはどんなことでもできます。」と言います(マタイの福音書19章)。 私の希望は教会の席を温めて、教会を維持するのではなく、教会を成長 させることです。この不可能な課題は、私達自身が神様の器として生き るならば可能なのです。私が自分の力に頼って働くと、ほとんど何もで きません。しかし、不可能なことなど神様にとってないのです。それを 私は祈っています。私は不可能なことを祈っています。私達は自分の役 割を果たす必要があります。人々を歓迎し、KUCについて人々に伝え、 教会に必要な祈りをします。パウロが言ったように種をまき、種に水を かけることかもしれませんが、教会の成長は神様がもたらすことを知っ ています。 III. 役割を果たし続ける/優先順位をつける(使徒行伝6:2): 皆さんは私がフルタイムで働いていることを知っていますね。私は少な くとも月に3回は教会にいます。しかし、私は高校の宣教師/教師として 他の責任もあるのです。たとえ教会でフルタイムで働いていたとしても 、私はすべてをすることはできません。初期の教会では成長の痛みを経 験していました。人々は見落とされ、なおざりにされていたのです。祈 りの後、使徒達は教会に長老を指名し、そうして使徒達から御言葉の奉 仕の務めを奪わないようにしてきました。私も皆さんと同じくフルタイ ムの労働者です。私が楽しむこと、得意だと思っていることでも、その 仕事のためにできないことがあります。財政面、時間の使い方において も私達はできる範囲のことを優先せざるをえません。ですから私が教会 のために週に10~15時間働くことを約束しているところで、すべてを成 し遂げることはできないのです。 私がトレド・メノナイト教会にいたとき、最初の牧会で、非教会員から の要請が多く、時間に追われていました。この時点で私はパートタイム でした。ある時点で、教会員へのケアが見落とされていました。私は「 はい」と言ってすべての要請に応じていたので、日曜のための勉強を怠 っていました。私の牧会の指導者は私に使徒行伝6:2について話し、また 人々の口からパンを盗まないようにとも教えてくれました。私は神様が 私に課した仕事をするために「いいえ」と言う難しい返事をしなければ なりませんでした。良いことのためではなく、より良いことをするため にです。 IV. 奉仕(ヨハネの福音書13:1-14およびマルコの福音書10:45): 十字架の後、主イエスの言葉の中で最も力強いものの一つは、「仕えら れるためでなく仕えるために来た」というものです。主イエスはヨハネ 13章で実証した通り、彼が裏切られることを知っていたにもかかわらず 、彼はひざまずき、手で弟子たちの足を洗いました。ペテロは拒否しま したが、主イエスは彼に言いました。イエスが彼の足を洗わなければ、 ペテロはイエスとその王国と関係のないことになるのです。足を洗った 後、主イエスは尋ねます。「私があなたがたに何をしたのかわかります か。」 私達は認めなければなりません。子供の頃、両親がどれほど私 のことを気にかけてくれていたか全く分かりませんでした。それを知る には自分自身が親になる必要がありました。この世の中では、私達は主 イエスが私達のために何をしたかを理解することはできません。彼は続 けて言います。「あなたがたはわたしを『先生』とか『主』と呼んでい ます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。主であり 、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなた がたもまた、互いに足を洗いあわなければなりません。」 このように 主イエスが私達に示した例は一度きりの出来事ではなく、私達が世界を 見る見方です。教会に「はい、お受けします」と言う前に、私はあなた たちの牧師になるために自分を謙遜にさせることができるかと自問自答 しなければなりませんでした。私は自分の誇りを棚に上げ、神様に導か れ、あなたたちからの助言を受け入れることができるだろうか?私は単 にあなたたちの足を洗うだけでなく、それを楽しむことができるだろう か?私はまだ考えている質問があります。教会の足をどのように洗うこ とができるでしょうか?私達は自分の足だけでなく、神戸の人々の足を どのように洗うことができるでしょうか?これらの質問に私は答えがあ りません。主イエスは、もしそれを進んでする意志がないなら、私達は 祝福を逃すことになると非常にはっきりとおっしゃいます。足を洗いあ うことを行えば祝福されるだろうと。私達が祝福を望むなら、控えめな 姿勢を捨てて、積極的な行動に移さなければなりません。 主のテーブルに臨む神秘を準備する際、神様はあなたにどのようにリー ダーシップをとるように呼びかけているでしょうか。それに応じてあな たの人生を主に使うようにしましょう。 祈りましょう。 |
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May 2024
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