祈りましょう。 聖霊様、ここに来て、私たちの心を燃え立たせてください。聖霊様、ここに来て、私たちの教会を燃え立たせてください。聖霊様、ここに来て、そして私たちを満たしてください、そうすれば私たちはイエス・キリストの愛で世界を輝かせることができるのです。アーメン。
ペンテコステは、キリスト教会の誕生日です。その日、弟子たちの上に現れた聖霊に満たされ、その日、何千人もの信者がキリストを信じ、キリスト教が世界中に野火のように広がっていきました。その日は、言語の賜物があり、誰もが自分の言語で伝えられたメッセージを理解することができました!新しい教会員のランチ会で、ある教会員が「天国はKUCのようなもので、さまざまな国や人種、背景、伝統のある人たちが、ひとつになってイエス・キリストを礼拝している姿を思い描いている」と話していました。これはペンテコステのようなものです! ペンテコステはイースター・サンデー(日曜日)から50日後のことで、ペンテコステのギリシャ語は「50番目」を意味します。最も古い教会の祝日と言われていますが、私にとっては、聖霊の体験について学ぶことができるため、一番好きな教会の祝日です。 聖霊は、頭で信じるものではなく、体験するものです。だから、ペンテコステの聖霊のイメージは、火のように、鳩のように降り注ぐもの、水のように流れるもの、風のように吹き付けるものなど、動きのあるイメージになる。これらは停滞したイメージではなく、動きのあるイメージなのです。今朝、礼拝堂内のバナーや教会を見渡すと、ペンテコステの火の色と同様に、これらのイメージを見つける事ができます。(周りを見渡してみてください) ペンテコステの日、弟子たちは、彼らが聖霊の火に満たされていることに気がつきました!イエスの命令に従い、聖霊の力を待ち望み、集まって祈り続けていたのです。 そしてペンテコステの日、聖なる火が、彼らの上に降り注ぎ、彼らの目、耳、舌、心、そして精神は炎で燃え上がり、広がり続けました。その聖霊の火は今もここにあり、広がり続け、人々の人生を変えています! ペンテコステのために、ウィリアム・ブレイクの詩を紹介したいと思います。 ウィリアム・ブレイクは1757年から1827年まで生きた人で、詩を書いたことで知られていますが、そのうちのいくつかは、イギリスでは多くの教会で歌われる「エルサレム」のような讃美歌になり、特別なイベントの際にも歌われています。このペンテコステの詩を紹介します。 目に焼き付けない限り 神を見ることはできない。 耳が火に包まれない限り 神は聞かれることはないだろう。 舌が火に包まれない限り 神は名づけられることはないだろう。 心が燃えない限り 神は愛されることはない。 心が燃え上がらない限り 神は知られることはないだろう。 ----ウィリアム・ブレイク(1757-1827)「ペンテコステ」より。 私たちの目、耳、舌、心、そして精神を神の聖霊で満たすには、どうしたらよいのでしょうか。 それは、祈りによって行うことができます。謙遜、告白、和解、そして愛によって、行うことができるのです。 私たちが聖霊に心を開くとき、私たちは神の恵みと赦しを受けるのです。私たちには、聖霊の賜物が与えられているのです。私たちは、聖霊に、私たちの心を神様のために燃え立たせてくれるようお願いすることができます。そして、そうすることで、心に火のついた教会になるのです。 聖霊を表す火や炎は、常に動いています。 陶器を作るように、窯の中の火は粘土を変化させて強くするものです。 場合によっては、不要なものまで焼き払われ、変容が起こることもあります。 陶器のように、土器のように、私たちも神の聖霊の力と火によって変えられ、変容していくのです。私たちがこの宝を土器に入れているのは、この並外れた力が神のものであり、私たちから出たものではないことを明らかにするためなのです。 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。-- コリントの信徒への手紙二4章7節 火について、もう一つ加えておきたいことがあります。火を使って貴金属を分離する技術です。 銀、プラチナ、金の鉱石の貴金属や含有量を測定します。神様は、私たちの内側にある大切なものを輝かせるために、私たちを清め、精錬してくださる時に、火の試金石のような存在です。 聖霊は使徒たちを変え、使徒たちを熱意で満たし、彼らの恐れを、キリストの物語を伝え、前に出る勇気に変えました。私たちはどうでしょうか?今日は、偶然にも年次総会の日曜日ですが、ペンテコステは、私たちが外に出てキリストの物語を伝え、より多くの人々が神への信仰を持つようにする方法を見つけなければならないことを思い出させてくれるはずです!私たちの中で火を燃やしましょう! ここで、内に燃え上がる火についての聖句を2つ紹介します。 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、 このうえその名によって語る事はしない」と言えば、 主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/ わが骨のうちに閉じこめられているようで、 それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。-- エレミヤ書20:9 エレミヤのように、私たちは神の火を内に燃やして行動するよう求められているのです。 礼拝の後、年に一度の総会があります。皆さんの中でKUCの教会員になっている方はいますか?手を挙げてください。そして、そのままでいてください。KUCの教会員の皆さん、今朝は私たちの教会の年次総会にワクワクして目が覚めたでしょうか? 手を挙げてください。 教会のモデレーター、デビンと他のカウンシルメンバーの皆様、手を挙げている人は将来のカウンシルメンバーになる可能性があるので、書き留めておいてくださいね!☺。 人は様々な理由で教会員になります。もしあなたが教会員なら、なぜKUCを選んだのか考えてみてください。 国際的な教会の一員になるため? 国際的な環境の中で霊的に成長するため?クリスチャンや国際的な友人をもっと作りたいから?具体的に何があなたをKUCに引き付けたのでしょうか?聖霊は、あなたがここにいる理由が何であれ、変化するように促したかもしれません。私たちの信仰は停滞するものではなく、変化し成長するものですから、それでいいのです。一度教会員になれば、キリストの弟子として教会を助けることを約束することになります。先週は4人の新しい教会員を教会ファミリーに迎え入れ、今日も1人を迎え入れました。彼らのために祈り、私たちはキリストの弟子として成長するために互いに支え合います。私たちは神様の愛を分かち合い、この世界で神様の働きをする一員となります。 これは、聖霊が、私たち自身と、この教会を変えてくださることによって行われます。もし、聖霊が私たちに一度に降臨したら、KUC はどのような姿になるのでしょうか?これが、私たちが教会に通う本当の理由です。 一緒になって、神様の仕事をする一員になりたいのです。聖霊が私たちの教会を変化させ、その変化の一部となることを望んでいます!弟子たちは、ペンテコステの前から心を温めていました。 エマオへの散歩中の聖句にあるように、 "彼が道すがら私たちと話し、聖書を開いてくださったとき、私たちの心は燃えていたのではないか?" -- ルカの福音書24:13-35 NRSVUE 皆さんの心は燃えていますか?そうであってほしいと願っています。聖霊様、ここに来て、私たちの心に火を付けてください。 最後に、私は2011年に東京から神戸に引っ越してきてから、KUCの教会ファミリーの一員として祝福されています。 私は、聖霊の体験をたくさん見てきました。KUCでは、聖霊が人々を通して動きます。喜びも苦しみも、涙も笑いも見てきました。人々が去っていくのも、人々がやってくるのも見てきました。人々が失望するのも、奇跡を見るのも見てきました。聖霊は私たちを進化させ、変化させ続けますが、それは私たちが心を開いて聖霊を受け入れる場合のみです。 私たちは共に、聖霊が私たちの間で動き、語りかけることのできる空間、私たちの心の中にある炎を尊重し、互いに支え合い、励まし合うことのできる空間を作り出そうとしています。 神様の聖霊が私たち自身と、私たちの教会を鼓舞してくださいます。 英語のInspire(鼓舞する)はラテン語のinspirare「息を吹き込む、吹き込む」が語源です。KUC、私たち全員が新しいことをするようにインスパイア(鼓舞)されるでしょう! 私たちが本当に神のために燃えているならば、聖霊を封じ込めることはできないでしょう! 私たちは、御霊に触発されて、心に火のついた教会になることができます。私たちが互いに愛し合い、隣人を愛することによって、火は広がっていくでしょう。聖霊によって、また、聖霊の火を抑えることができないほど、聖霊が私たちの中で明るく燃えることによって、これを行うことができるのです。 その炎を前方に出しましょう。その火を私たちの教会に広げましょう。 聖霊の神聖な炎を私たちを通して輝かせましょう。その火花を私たちのコミュニティと日本の他の地域に広げましょう。 ペンテコステのあの日のように、神の火があなたの上に新たに降り注ぎ、その火が、私たちの心を溶かし、成形し、変化させ、心に火のついた教会となることができますように。アーメン。
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今日は、祈りについてお話しします。私達はさきほど主イエスの祈りであるヨハネの福音書17:20-26を読みました。それは主イエスが自分自身、弟子たち、そして世界のために捧げた祈りです。主イエスが十字架へと進む準備をする中で、これは最も長く、最も親密な主イエスの祈りです。しかし、この祈りに特に焦点を当てるのではなく、私はより広く祈りについてお話ししたいと思います。この説教は、祈りが不十分だ、もっと祈る必要があるんだと皆さんに罪悪感を植え付けるつもりはありません。なぜなら、罪悪感と祈りは相いれないからです。むしろ、私の目標は、主イエスのように自分自身、身近な人々、そして世界のために祈ることを励ますことです。
来週はペンテコステ、教会の誕生です。使徒言行録1章では、主イエスが天に昇った後、弟子たちは教会を開拓することになりました。彼らは頭を切り落とされた鶏のように走り回る姿を想像できませんか、聖書の例を引用すると、慌てるマルタのように走り回る姿です。しかしこれらの欠点のある人々は、霊的な偉大な人物として行動し、人々を導き始めたのです。どうしてでしょうか。それは彼らが神の言葉と祈りに自分自身をささげたからです。祈りから彼らのリーダーシップ、他者への奉仕、そして伝道が流れ出たのです。祈りは補足や思い付きではなく、最も重要な行いでした。 ヨハネの福音書17:20-26の祈りは、主イエスが裏切られ、磔に向かう直前の祈りです。あなたは「もし死ぬ前にただ1食だけ食べることができるとしたら、何を食べますか。」という質問を聞いたことがありますか。または「もし1日しか生きられないとしたら、何をしますか。」主イエスは終わりが近いことを知っていて祈りました。確かに、主イエスは望んだのです、創世記22章のアブラハムとイサクの物語のように、ギリギリのところで神がイサクの代わりに犠牲となる雄羊を用意してくださったように。主イエスは祈りました。「父よ、できればこの杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの意志ではなく、あなたの意志が成されますように」(マタイによる福音書26章36-46 節)。主イエスは裏切りを受け入れ、犠牲になる覚悟が定まり、時間を取って弟子たちと一緒に弟子達のこと、私達、将来の教会の誕生のためにも祈りました。 主イエスの最初の願いは、私達が一つになることでした。私の学校では先週、運動会が行われました。私は主イエスが、私達が一つになるように祈ったときのことを思い起こすとき、いつも22人のグループが縄跳びをする様子を思い出します。子供たちが結束し、一緒に動くと本当に素晴らしいですが、一人が跳ばなければ縄跳びは止まってしまうのです。あなたがその人にならないでください。私は今週あなたのために祈っていますが、もっと重要なことは、主イエスがあなたのために祈っていることです。一緒に跳びましょう、一緒に奉仕しましょう、一緒に愛しましょう、そして違いを解決していきましょう。それは聖霊に導かれることでしか実現しません。 「クリスチャンとして行うべき5つのことは何ですか。」と聞いたなら、祈りがおそらくトップ5に含まれるでしょうし、そうであるべきです。しかし、食前の祈り(「食事に感謝しましょう、いただきます。」タイプの祈り)を除くと、祈りはクリスチャンにとって実に不十分な行いの一つです。確かに、困難に直面したり、問題を抱えたりしたときに祈りますが、日常的に神との開かれた人格的な関係を求めているでしょうか。私達の多くは夜にスマートフォンを充電することがあります。なぜなら、スマートフォンの電池が切れることは避けたいからです。しかし、多くの私達は真の力源がないまま霊的に空っぽで走り回っているのです。つながり続けましょう。 主イエスは神とのつながりを求めて祈りました。私達はしばしば主イエスの犠牲が十字架の上、それは事実ですが、それだけであったと考えがちです。しかしそれだけが主イエスの犠牲ではありません。三位一体の一部として、主イエスは父と聖霊から切り離され、人間としてすべての制約のもとで完全に人間として生きることは、十字架に行くことと同じくらい払われた犠牲でした。したがって、三位一体(父、御子、聖霊)の中の御子主イエスは、私達人間ができる唯一の方法である祈りを通して神とつながったのです。福音書に記載されているだけでも主イエスは少なくとも27回、一人で祈るか、祈りに専念していることが分かります。 私は人々が、祈りは上手ではないから祈らないと言っているのを聞いたことがあります。もし洗練された言葉で上手で良い祈りが、『聖公会祈祷書』に見られるような流暢な言葉で祈ることだとしたら、私も上手ではありません。しかし、できることは、まず始めることです。私が以前アメリカの教会でいたとき、ダウン症の女性がいました。彼女は私達の毎週の祈り会に参加していましたが、彼女の祈りは最も正直で愛に満ちたものでした。それらは流麗ではない素朴で、常に理解できるものでもありませんでしたが、祈りは誠実であり、神が彼女の声を聞いていたことが分かりました。 ルカの福音書18章のたとえ話で、主イエスは祈りに行く二人の男性を比較しています。一人は中心に立って自慢します。興味深いことに、彼は一人で立っていたとあります。おそらく彼は自分の存在に相応しい人物がいないと感じたからでしょう。彼は誇りを持って神に自分の良さ、正しさを神に告げ、自分自身の義、正しさから神のために犠牲をどんなに払っているかを告白します。彼は断食をし、教会に寄付をし、彼の正当性を彼は実証しようとします。それだけでなく、自分が他の人と同じでないことに感謝しているのです。(少々、彼は病んでいるみたいですね)。この男性や彼のような人(女性もいるでしょう)は、一人(神)を除いて、皆の賞賛を浴びて家に帰ったことでしょう。しかしその男性は神の恩寵を受けて家に帰らなかったのです。彼のような人は、自分に神の恵みが必要だとも思っていないのです。 この話でバスの運転手と牧師の間のジョークを思い出しました。聞いてみたいですか。 しかし、もう一人の取税人の男は、よく言えば道徳的に怪しい人でした。その男性は遠くに立って、頭を下げて祈り、彼は自分や周りの人々皆が、彼が罪人であることを知っていました。しかし、彼は謙遜に(これが重要な言葉です)、神に心を注ぎだし、自分の罪を認め、赦され、変えられてほしいと懇願しました。そして、主イエスは、彼が神様に義とされて去って行ったと言われました。 このたとえ話は、祈りの態度について教えてくれます。祈りは謙遜と誠実さから生まれるべきでしょう。私達は自分の力や正当性に頼るのではなく、神の恵みと導きに頼らなければなりません。 私達が祈りについて学ぶとき、私達が主イエス・キリストのモデルを持っていることを忘れないでください。主イエスは祈りを欠かさずに行い、神の御言葉と共に生きました。私達もその模範になるよう努めましょう。祈りは私達が神とつながり、導かれ、力を受けるための素晴らしい手段です。私達の個人的な関係と教会の成長にとって欠かせないものです。私達が祈りを深め、神に自分自身と他の人々のために捧げることで、神の恵みと力が注がれ、神の国の目的が達成されるのです。私達が一つになり、共に祈ることを通して、神の栄光が現れますように。 アーメン。 ヨハネの手紙第一1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」と書かれています。(ちょうど取税人のように) 「主の祈り」に続いて、祈りの基本的な要素が5つあります: - 礼拝-ただ神を賛美する。 - 奉献-神の御国の目標を神にゆだねる。 - 祈り-自分の必要、家族や地域の必要を祈る。 - 執り成し-赦しと人を赦す心のために祈る。 - 保護 - 悪から身を守る。 祈りましょう。
主よ、あなたは私たちに、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と教えておられます。(テモテへの手紙二3:16) あなたの御言葉が今朝真実の中に光り輝きますように。私たちがあなたの教えを理解し、実行することができるよう、聖霊を通して助けてください。 あなたの御名によって祈ります、アーメン。 我が家では、金曜日の夜になると、ちょっとした習慣があります。金曜日の夜は、家族で楽しい映画を見て、テレビを見ながら一緒にご飯を食べるんです。もちろん、子供たちはこの時間が大好きです。食事とテレビを同時に楽しむことができるのですから。 先週の金曜日、私たちはよくやるように、夕食を食べながら映画を観ました。確かスタートレックの映画だったと思います。しかし、子供の一人が急に体調を崩し、お腹の調子を悪くしたので、今日説教をする予定だった私は、病気の子供と一緒の部屋で過ごし、みんなと一緒に食事をする代わりに、念の為キッチンで夕食を食べることにしました。つまり、ドンと子供たちが見ている映画についての会話を、キッチから聞いていたのです。 すると、子供の一人がこのように話しているのが聞こえました。 「パパ、これってどういう意味?待って、何があったの?あれは誰?どうしてこうなんだろう?どうしたんだろう?」 映画の間中、ノンストップで次から次へと質問をする子供の声を聞きながら、私は心の中で笑っていました。なぜかわかりますか?映画館で映画を見るとき、私はいつもこういう風にドンに話しかけているからです! ドンに質問責めの子がどちらの親の性格を受け継いでいるかは一目瞭然ですね。 しかし、これは単に「うちの子は私に似ている!」という笑い話ではありません。心の中で笑ったあと、私は思ったのです。「なぜ、子供も私も常に質問するのだろう?」そのことを考えた時、「次に何が起こるのか知りたい」というのは、私たち人間の根本的な欲求であることに気づきました。 そう思いませんか?私たちは皆、自分の人生において次に何が起こるのか、そしてそれがいつ起こるのかを正確に知りたいと切に願う生き物なのです。この1週間、家族、友人、同僚とどんな会話をしたかを考えてみてください。話を聞きながら「次はどうなるんだろう」と思いませんでしたか?私たちはそういう風に問いかける生き物なのです。常に次のことを考え、疑問に思い、尋ねようとする人間の傾向は、イエスが地上におられた時代にももちろんありました。 今日の聖書箇所を見てみましょう。イースターの直後、つまりイエス様が復活した直後、イエス様が死からよみがえった直後、いったい何が起こったか覚えていますか? その通りです。イエス様は弟子たちの前に現れました。弟子たちは、イエス様が死から甦られたとすぐに信じることはできませんでしたが、イエス様は、いつもと同じように弟子たちと一緒に時を過ごされました。歩き回り、教え、食事を共にしました。弟子たちは、イエス様との慣れ親しんだ日々の生活を思い出し、弟子訓練を引き続き続けようと思ったかもしれません。 ところが、そのような日常を打ち破るようなことを、イエス様はおっしゃいます。死と復活の前、イエス様とともに各地を旅し、人々を癒し、教え、空腹を満たし、解放する働きをしていた弟子たちに対し、イエス様は、エルサレムを離れずに待つように命じたのです(使徒言行録1:4)。 何を待つように言われたのでしょうか? 聖霊です(使徒言行録1:5)。 厳密に言えば、イエス様は弟子たちに聖霊を待つようにとは言っていません。4節と5節を見てください。イエス様は弟子たちに「父の約束されたものを待ちなさい」と言っています。 この「約束」という言葉について、少し考えてみてください。「約束」という言葉には、約束が実現することへの期待が込められています。私たちは約束をするとき、その約束が実現したらどうなるかを考えます。そうでなければ、それはまったく約束ではなく、ただの言葉でしかないからです。だから、ここで、この瞬間に、イエス様は、約束が成就するのを待つようにと弟子たちに伝えているのです。 そして、その約束はどのように成就されるのでしょうか? 5節を読んでみると、イエス様は、神様の約束の成就として、聖霊による洗礼が授けられると言っています。聖霊による洗礼とは、神の霊に浸る、満たされることであり、洗礼としか言いようのないほどの聖霊の溢れ注ぎを意味します。 イエス様は、聖霊による洗礼という約束の成就と、それにより起こる聖霊の力強い働きを待ち望むようにと弟子たちに告げたのです。(使徒言行録1:4&8) 甦りの後、イエス様は弟子達の前に現れ、聖霊を受けるよう招きました。覚えていますか?(ヨハネによる福音書20:22)そして今日の聖書箇所で、イエス様は、近い将来弟子達が聖霊による洗礼を受けることを語っています。聖霊による洗礼?それは何なのでしょう?イエス様は今まで、聖霊のことについては語られましたが、聖霊による洗礼については語っておられません。弟子たちが受けた水の洗礼とはどのように違うのでしょう?明らかに混乱を招く状況ですね。 そのような状況の中、弟子たちはどのような行動を取ったでしょうか?それは、典型的な人間としての行動です。弟子たちは次に何が起こるのか知りたいと思い、その欲求を、推測や質問、確認の要求として表現したのです。 「まもなく聖霊による洗礼を授けられる」(使徒言行録1:5)ことを聞いた弟子達の、最初の質問は、「いつ、一体何が起こるのか?」についてです。使徒言行録1:6で、弟子たちはイエス様にこのように尋ねます。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」 ここに、弟子たちの願いがはっきりと表れています。ローマ帝国ではなく、メシア、救世主イエス様の指導のもとにイスラエルが再建され、再び独立した国家と王国になることを弟子たちは何よりも望んでいたのです。 弟子たちは聖霊による洗礼が何を意味するのかを知りたかったのですが、私たちの多くがそうであるように、神様からの答えに耳を貸そうとはしませんでした。私たちの多くがそうであるように、弟子たちは自分達の思いとは違う答えを聞きたくはなかったのです。弟子たちはただ、自分たちが期待したとおりに物事が成就してほしいと思ったのです。 私たちは皆、次に何が起こるかを知りたいと切に願っていますが、次に何が起こるかについて神様がどのように語っておられることに耳を傾けたいとは必ずしも思っていません。 私が20代前半の頃、私の父はよく私に「で、次はどうするんだ?落ち着くつもりなのか?」と言っていました。 特に信仰や宗教を持たない典型的な日本人である私の父は、子供を気にかけ、愛する父親らしく、私やドンのこと、私たちの将来のことを案じていました。当時、私たちが結婚した直後、ドンは都内のミッション系の高校で教鞭をとり、私はガイダンスカウンセラーとして働いていました。教会での奉仕も熱心にしており、そして神学校に行くことについても真剣に考え始めていたところでした。 父は私に「次はどうするんだ?この仕事の後はどうするんだ?神学校を行った後はどうするんだ?家を買って落ち着くつもりなのか?お金はあるのか?具体的な長期計画は?」と私によく聞いてきました。 この話を、日本の典型的な父親の心配事として片付けるのは簡単です。しかし、信じられないかもしれませんが、このような考え方は、私たちクリスチャンの考え方にも、そして教会の生活にも簡単に入り込んできます。 ある時、新しい教会で働き始めて間もない頃のことです。教会の一人が私に近づき、「この教会で長く働くつもりなのか?」と私に尋ねました。私は、「さあ、どうでしょう、わかりません。」と答えました。「本当にわかりません。それは神様次第です。」と言いました。そんな冗談まじりな答えと思う方もおられるかもしれません。しかし、「わからない。神様次第だ」と堂々と言えることは私たちの信仰生活において非常に大切なことです。 KUCファミリーの皆さん、「わからない。それは神様次第です!」と堂々と言えますか? 正直なところ、「わからない」という言葉を、教会のコミュニティであまり聞くことはありません。自分が教会に何を求めているかという話を人がしているのはよく聞きます。私たちの教会では次は何が起こるのだろうと考えている人たちの声もよく聞きます。教会がどのように歩んでいけばいいのか力強く、信念を持って語っているのを耳にしたこともあります。しかし、私たちは本当に理解してから話しているのでしょうか?私たちは本当に神様の願いに耳を傾け、神様の計画を理解しようと奮闘してから話しているのでしょうか?それとも、ただ自分の心の欲望をありのままに語っているのでしょうか? もし私たちが、神様が私たちに望んでおられることが何なのかを実際に知らないのであれば、「わからない。今神様に聞いている。なかなか答えが聞こえない。」と言っても全く問題ないと思うのです。教会の中で、「わからないから、一緒に神様に聞いてみよう」という会話がなされて何もおかしいことはないのです。なぜなら、全てはそこから始まるからです。神様の共同体の中で、神様に対してそのままのリアルな自分達の思いを明らかにすることから全てが始まるからです。 私たちは教会としてそのことを実践できているでしょうか?本当にわからない時に、「まだわからない」と声を大にして言うことができるでしょうか?それともそうすることに抵抗があるのでしょうか?私たちの多くが知っているように、今年は教会のリーダーシップにおいて変化のある年です。私たちは、神様がKUCに何を望んでおられるかを知り、祈りから示された理解をもって教会のこれからについて発言しているでしょうか?それとも、ただ自分の心の欲望を明らかにして、そのことについて発言しているのでしょうか?自分たちが抱いている思いが正しいに違いないという確信の故に、神様の声や、他の思いを通して語られる神様の声を見逃してはいないでしょうか? もし、私たちがまだ答えを探し、聖霊の導きを求めている渦中にあるのだとしたら、「まだわからない」と私たちは言うことができるのでしょうか?「私たちは引き続き待ち望み、神の声を聞くことを切望しているのです。」と自信を持って言うことができるでしょうか? そしてさらに言えば、 あなたは、教会の指導者たちがあなたの前に立ち、「私にはまだわからない。だから一緒に神様の御心を求めてくださいませんか 」と言ったらそれをサポートすることができますか? 教会指導者が、自分達のために道を定めてくれるのではないのかという期待を捨て、キリストにあり対等な関係の中で、共に御霊の道を求めることができるでしょうか? 私たちはどんなに頑張っても、やはり人間なのです。何か答えが欲しい、何か方向性が欲しい、そう思ってしまうのが人間です。神様はそれをご存じで、私たちを見捨てたりはしません。今日の聖書箇所の聖句を見てください。不確かで何もわからない弟子たちに対するイエス様の答えはとてもシンプルなものです。 「父の約束されたもの」(使徒言行録1:4)を、「父が御自分の権威を持ってお定めになった時や時期」(使徒言行録1:7)を待ちなさい。 私たちは、神様による聖霊の注ぎ、つまり聖霊による洗礼は、神様が定められた時にしか来ないということを知り、受け入れなければなりません。神様が御自分の権威によって定めたタイミングを知ることは、私たちの仕事ではありません。ですから自分の中に起こる、もしくは他の人が聞く「次は何?」と言う質問に答えようとしないでください。推測しなくても良いのです。答えを探したり、目標を立てたり、ビジョンを求めたりすることに専念しないでください。 私たちはただ、待つことに専念すれば良いのです。 聖霊からしか得られない力を待つのです(使徒言行録:1:8)。 弟子たちに注がれると約束された聖霊の力は、弟子たちのビジョンや計画によってもたらされたのではなく、神様のタイミングで、神様のみによって始められたのです。私たちは、聖霊の到来を呼び起こすのは私たち次第ではないことを忘れてはなりません。私たちは、イエス様の名によって、聖霊が私たちの上に再び降臨し、私たちの教会を満たしてくださるよう祈りますが、それがどのように、いつ実現されるかは神様が決められることです。 私たちのキリスト教信仰には、待つ季節があります。次どうなるかわからない時、道がクリアでないため積極的に前に進めない時、ただ集まって礼拝し、その中で聖霊の力が私たちに臨み、神様が私たちに望んでいることを行うことができるように、聖霊の力を待ち望む時期があります。 聖霊について、そして聖霊の力を待つことの大切さについて、私は何度も説明することができますが、聖霊の力、聖霊の力を待つことの大切さは、私たち自身が経験しなければよく分からないことだと思います。 ですから、今共に集まっているこの空間の中で、共に礼拝を捧げ、聖霊からいただく力を待ち望みましょう。この後でまどかさんとやすこさんが聖霊についての歌をリードしてくれるます。聖霊について思いを巡らす時、「聖霊様、来てください、私たちを満たしてください」と言う代わりに、「聖霊様、あなたを待ちます」と信頼を込めて言おうではありませんか?「聖霊様、あなたが私たちに力を与えてくださる時を待ちます。」と。 共に声を上げて、神様の聖霊を待ち望もうではありませんか。 先週、ジョー・オザワ氏が聖霊と愛について話をされました。聖霊と愛はいつもつながっています。私たちが互いに愛し合うよう、聖霊は私たちを神の愛で満たしてくれます。聖霊は私たちをつなぐ架け橋のようなものです。
オザワ先生は、人を愛することの難しさを語りました。クリスチャンになったばかりの頃、オザワ先生はすべての人を愛そうとしましたが、もちろん簡単にできることではありません。実際、愛するのが非常にむずかしい人も存在します。いやなことを言う人、神経を逆なでする人、人の心を傷つける人などがいれば、その人を愛する気持ちにはなれないでしょう。 友人のキャロル・サックは、東京の府中刑務所でハープを演奏するボランティアをしています。受刑者の中には恐ろしい罪を犯した人もいますが、キャロルは犯した罪を見るのではなく、受刑者の人を愛することができるよう祈り、自分を通して神の愛が輝くよう祈っていると言います。 次はアメリカの話ですが、愛の冷めたある仲の悪い夫婦がいました。牧師は彼らを助けたいと思い、お互いの話に耳を傾けるよう夫婦に助言しました。これは夫婦間だけでなく、すべての人が実践するべきことです。 ちょうど先週、ジョー・オザワ氏のカウンセリング・ファーストエイド(CFA)のスキルを教わる講座がありました。 CFAのスキルは家族、友人、知人すべての人に使うことができます。耳を傾けることは非常に大切なことです。 アメリカの夫婦の話に戻ると、彼らはもう一度以前のように互いに愛し合えるよう祈ってほしいと牧師に頼みました。牧師はその夫婦のために祈りました。 もちろんすぐに関係が変わるわけではありませんでした。それでも翌日、夫は自発的に掃除機をかけました。相手のために何かをするということ、掃除機をかけるのも愛を表す行為になり得ます。妻は夫のためにクッキーを焼き、夫は妻の新しい髪形をほめ、というようなほんの小さな親切や気遣い、思いやりの行為を通して、彼らは徐々にお互いを愛するようになっていきました。私たちがキリストに似た者になるにつれて、聖霊が私たちを満たし、導いてくれます。 ところで愛を表現する方法はいくつもあります。ゲイリー・チャップマンの著書「愛を伝える5つの方法」を知っていますか。夫婦やパートナーの間で、愛を表現したり受け止めたりするのに5つの方法があるとチャップマンは書いています。その5つとは、サービス行為、肯定的な言葉、クオリティ・タイム、身体的なタッチ、贈り物です。その全部を使っているかもしれませんが、自分が何をしてもらえば愛を一番強く感じるかは、人によってそれぞれ違っています。 以前、亜希子牧師もWOW(水曜午前の女性のスタディグループ)でこれを紹介したことがあります。 この愛の言語は夫婦間だけでなく、クリスチャンの仲間同士でも愛を表すために使えます。 CFA(Counseling First Aid)とは、人の話を真摯に聞くことで愛を表し、その人が何をしてほしいと思っているのかを見つけ、その人のために祈る方法です。 時に愛は説明しにくいものです。ギリシャ語の新約聖書では、愛を表す言葉は三種類あります。 まずエロスは性的な愛を意味します。次にフィリアとは兄弟姉妹、親しい友人に対する愛のことです。最後にアガペーは、自分を捨てて相手の幸福を願う自己犠牲的な愛です。相手のためだけを思う愛です。敬意、やさしさ、分かち合い、助けること、与えること、ゆるすこと、感謝などはアガペーの愛の例です。イエスはマタイの福音書22:37-39で次のように言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これが最も重要な第一の戒めです。第二の戒めは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というもので、これがアガペーの愛です。聖霊が私たちを愛で満たしてくれるので、私たちは互いを愛することができます。聖霊は私たちが愛し合い、イエスに似た者に近づくのを助けてくれます。 神の愛は、神を信じる人の内で完全なものになります。神の愛は私たちの中で完全になり、罪人は神の恵みにより救われます。神は私たちを通して神の愛を表します。「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます」(Ⅰヨハネ4:16)。 使徒パウロは、信者を励ますため次のような言葉を手紙に書きました。 「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれて」います(ローマ5:5)。このイメージが私は好きです。 ではみなさん、次のようにやってみてください。 両手を開いて、神の聖霊が自分に降り注ぐのを想像してください。目を閉じて呼吸(ルハ、神の息)に集中し、自分が聖霊に満たされるのを想像してください。私たちが聖霊に満たされることを神は望んでいます。聖霊に身をゆだね、神の存在と神の力を感じ、神があなたに何を望んでいるかを感じてください。あなたの頭、心、体のすべての部分で聖霊を吸い込んでください。聖霊が来てくれますように。アーメン では目を開けてください。リラックスできましたか。祈るとき、バイブルを読む前、人に会う前、聖霊に呼びかける時にもこれを実践してみてください。 聖霊に呼びかけると心に愛を注いでもらえます。短い祈りでもよいので、聖霊に「あなたの愛で私を満たしてください」と祈りましょう。 さて、ガラテヤ人への手紙5:22-23には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」とあります。愛は最もよく知られる御霊の実です。御霊の実の愛は、私たちがイエスのように人を愛するときに示されます。 イエスはその教えの中で「愛」という言葉をよく使われました。調べてみると51回も使っています。ヨハネの福音書15:17の中で、イエスは「愛すること」を命令しています。「あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます」。 クリスチャンの重要な特性は愛です。愛には力があり人を変えることができます。先ほどの聖句にもあるように、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれて力を与えてくれます。私は疲れた時、落胆した時、聖霊に呼びかけて助けてもらいます。 本日の聖書箇所のエペソ人への手紙3:16-17で、パウロは次のように書いています。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように」。 この手紙を書いたときパウロは獄中にあり、社会はローマ帝国の圧政下にある厳しい時代でした。パウロが手紙を宛てた人々は、パウロがもたらした福音に希望を託していました。パウロは彼らが希望をなくしてしまうことを心配し、神が彼らを強めてくださるよう彼らのために祈りました。パウロは聖霊を通して祈りました。 世界では様々なことが起こり、私たちの周りでもトラウマになるような人間関係や日々の出来事などいろいろなことが起こります。ですから私たちには力を与えてくれる聖霊が必要です。人生で大変な時期に、キリストが自分の心の中にいると聖霊が教えてくれ、そのことが力を与えてくれると私は知っています。 パウロは力を与えてくださいと祈るとき、神が祈りを聞いてくださると知っていました。パウロは聖霊に何を期待していたでしょうか。 エペソ人への手紙でパウロが強調しているのは、私たちはキリストと共に生きているということです。 神はイエスを死からよみがえらせましたが、同時に「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした」(エペソ2:6-7)。 キリストにある私たちの希望は、死ねば天国に行けるといった類のものだけではなく、もっと大きなものです。キリストが私たちとともに生きるために、聖霊を通して来てくださるという大いなる真理が、パウロの祈りによってわかります。キリストは私たちの中に存在しています。 キリストはどのように私たちの中に存在するのでしょうか。キリストは信仰を通して心の中に存在します。 信仰という言葉は、パウロが福音との関連で使っています。信仰とは、神がキリスト・イエスを通して私たちにしてくださったことを信じることです。神は私たちを愛され、イエスの十字架での死を通して私たちの罪を赦してくださいました。そしてキリストとともに私たちをよみがえらせてくださいました。 パウロは、福音を信じる人は「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」(エペソ3:17)と書いています。「根ざす」「基礎を置く」という言葉で、信仰とはどうあるべきかをパウロは説明しています。神の愛は地面や土のようなもので、聖霊という水をもらうことで私たちは成長していきます。 パウロがエペソ人への手紙の中で言っているように、神の愛によって私たちはほかの人を愛する人間へと変わります。パウロのこの祈りは、私たちが自分のためだけでなく、人のために祈るときの助けになります。 自己中心的で、自分たちのためだけに祈る教会は成長しません。聖霊の力を借りて、教会内のことだけでなく、教会の外の世界も助ける必要があります。どんな隣人のためであれ、好き嫌いなく祈り、手を差し伸べなければなりません。私たちの聖霊を内側に閉じ込めておくのではなく、解放し、神の愛を分かち合いましょう。 イエスは、弟子に自分自身の力では成し遂げられないような厳しい人生を要求しています。しかし、ひとたび聖霊に満たされると、以前はとてもなれそうにないと思っていたような愛に満ちた人間になり、苦悩の時でさえ、自分の中に神が存在しているとわかります。 聖霊は私たちの中にキリストの姿を作り上げます。神は私たちに御子を与えてくださり、御子はご自分の命を与えてくださり、聖霊はいのちとキリストへの信仰を与えてくださいます。 今日は聖餐式を行いますが、聖餐式を通して、また聖霊の働きを通して私たちはキリストが自分の中に存在すると知ります。これは信仰によるものです。神の偉大な愛ゆえにイエスがどのようにして私たちのために死んでくださったかを、聖餐式で私たちは思い起こします。ウェハースを食べ、ジュースを飲むとき、私たちは次のことを思い出すのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。 今日私たちが聖餐にあずかるとき、救いの福音を思い出しますように。私たちを強くするのは聖霊の働きであり、キリストが私たちの内に生きておられるからです。私たちの毎日の生活が、私たちの内にある愛の御霊の証しとなり、体現するものでありますように。アーメン 考えてみよう 困難に直面して気持ちが弱っているとき、信仰によって心にキリストが存在しているという真理は、どのようにあなたを強くしますか。 ほかの人のために祈るとき、パウロの祈りはどのようにあなたの助けになりますか。 |
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May 2024
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