祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが贖い主、主よ 。私の口の言葉が私自身のものでなく、あなたの言葉でありますように。今、私たちの心があなたの言葉を受け取るために準備されますように。あなたの聖なる御名によって祈ります、アーメン。
さて、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、私は主の日、つまり最後の審判の日、あるいは神の審判にあまり重きを置いていない宗派の出身です。だから、神戸ユニオン教会に初めて来た時、悪霊やサタン、そして迫り来る裁きへの恐れに霊的生活の焦点を合わせる、つまり私にとって馴染みのない神学に重きを持つ人々に出会い、驚きを覚えました。 聖書研究会や週半ばの集会の際に、聞き慣れない神学を耳にすることがありました。そこでは、サタンの偉大な計画、サタンの人格、そしてサタンがこの世で繁栄し、どこからでも私たちを攻撃できるようにしていることについて聞きました。 サタンの人格...私は正直、サタンが人格や動機を持った悪霊であることを考えたことがなかったので、その発想自体を興味深く聞きました。 正直なところ、サタンや悪霊、最後の審判の日のような話をすることさえ、私には違和感があります。それは私がこのような考えにあまり時間を費やさない環境で神学を学んだからかもしれませんし、サタンや悪霊、今日の聖書箇所で「主の日」(ヨエル書2:1)と呼ばれている裁きの日について話すよりも、神様の限りない恵みと憐れみについて話したい、話すことがたくさんあると思っているからかもしれません。 しかし、私が感じる違和感は、サタンや悪霊、裁きの日などの言葉やこれらに対する考え方がキリスト教界で乱用されるのを見たからでもあります。「信じなければ地獄に落ちる 」という言葉を耳にしてきたからです。そのような言葉をかけられた人がキリスト教の信仰から遠ざかってしまったのを見てきました。それは、クリスチャンたちが、「裁きの日が来るからイエスを信じなければならない、もし信仰を持たなければ地獄に落ちる」と、強く迫ったからです。 キリスト教や、イエスキリストの信仰について知らない人たちがこのような事を聞いた時、どのような印象を受けるのでしょうか?クリスチャンは裁きの神に従う裁きの民であることを証している可能性はないでしょうか?裁かれるのであれば、私たちは愛されていない、大切にされていないと感じてしまう可能性もあります。 もちろん、私たちの神が裁きを下すことを否定することはできません。今日の聖書箇所にも書いてある通り、「...主の日が近づく」(ヨエル書2:1)と神は言われます。そして、それは実に恐ろしい日なのです。 ヨエルはこの日を「闇と暗黒の日(ヨエル書2:2)」と表現しており、その日には偉大で強力な軍隊が(2:2)、馬のような姿をしてやって来て、戦いに備えた戦士として突進し、町を駆け巡るとあります(2:4-5)。この軍隊はよく準備され、よく訓練され、どこに行くべきかをよく知っています(2:7)。彼らは、跳び、走り、登りながら、町の隅々まで攻撃して来ます。この軍隊は武器を持っていないようですが、武器は必要ないようです。なぜなら、自然さえも彼らの味方のようで、彼らが行くところすべて火が焼き尽くし、滅びの荒れ野だけが残ります(2:3)。 「地はおののき、天は震える。太陽も月も暗くなり、星も光を失う。(ヨエル書2:10) この偉大で恐ろしい裁きの軍勢の前に、人々は逃げ場を失い、身動きが取れなくなっています。「諸国の民はもだえどの顔も色を失う。」(ヨエル書2:6) 「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。」(ヨエル書2:11) このように、神は裁きの日の恐ろしさについて、何度も何度も語っておられます。受け入れがたいことかもしれませんが、耳の痛い話かもしれませんが、人々が神の裁きについて強く語るとき、それは作り話ではないのです。ヨエルがここで述べているようなことを話しているのです。 神様は私たちの味方であって、私たちに敵対する方ではないのでは?しかし今日の聖書箇所は、私たちの心に希望ではなく、恐れを植え付けようとしているのでしょうか?神は私たちが神に近づくために、恐怖から出発することを求めておられるのでしょうか?もし、私たちの裁きの日を計画し、実行する主が神であるならば、私たちは今すぐにでもイエス・キリストを信じなければなりません。しかも、私たちの愛する人たち、親、子供、友人、同僚、隣人までもが、今すぐキリストを信じるようにしなければならないのです。 そうでなければ、誰も滅びを免れることはできないのです。 見てください、もう始まっているのです 。世界中で戦争が起こり、自然災害が次々と起こっています! 主の日、闇と暗黒の日はもうすぐ来るのです! もう来ているかもしれません。もうすでに来ているかもしれない 。だから急いで、できる限りの人を改心させなければならないのです! 今すぐ行動しなければならないのです! でも、本当にそうでしょうか?本当にそうなのでしょうか?私たちの神は今日の聖書箇所からそのように私たちに語られておられるのでしょうか? 個人的には、それ以上のことを神は語っておられるのではないかと思っています。 11節を費やして、この恐ろしい裁きの主の日がどのように来るのか、そして、神がそのすべての立役者であることを述べた後、神が神の民に対して次に語る言葉はどのようなものだと思いますか? 「恐れてはならない。わたしはあなたたちとともにいる」。 怖くて恐ろしい状況において、神はしばしば神の民にそのように言われます。 しかし、今日の聖書箇所において神はそのようには語りません。 代わりに神は「私に立ち帰りなさい。私はあなたたちの神だから、私に立ち帰りなさい。」(ヨエル書2:13)と語られます。 裁きの日の恐怖の中、神は「恐れるな」と言うのではなく、「神のところに帰れ」と言われます。ここで大切な事は、自分たちに降りかかる裁きを恐れているから神のところに戻れと言われているのではないということです。ヨエル書2章13節を見てください。「あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富みくだした災いを悔いられるからだ。」(ヨエル書2:13) 裁きの恐怖の中にあったとしても、私たちが神のもとに戻る理由は、裁きの恐怖であるべきではないのです。裁きの日は来るし、神はそれを隠すようなことはしていません。しかし、神は私たちがどう感じるかではなく、神がどのような方であるかに信頼して神の元に戻ってくることを望んでおられるのです。つまり、恵み深く、憐れみ深く、怒るのが遅く、揺るぎない愛にあふれる神様の人格が、恐怖の中にあったとしても私たちを駆り立てるべきなのです。神はそれほどの人格をお持ちなのです。 あなたが最初に神を知ったきっかけを覚えていますか?それは、破滅、裁きの危機が迫りあなたの心が恐怖でいっぱいになっていたからでしょうか?それとも、神があなたの恐れを越えて手を伸ばし、恵みと慈悲と愛を通して、神がどのような方であるかを示されたからでしょうか? もう皆さんは何度もこの話を聞いたと思いますので、もう一回詳しく話す必要はありませんが、私の人生が一番暗かった時、私の人生が本当に粉々になっていた時、母が死んで破滅と恐怖、不安に埋没したと感じた時、精神病院で言いようのない、果てしない悲しみと鬱と戦っていた時、神はその日勤務していた看護師を私の部屋に送り、「亜希子、大丈夫だよ。あなたはまた幸せになれます。何故なら全てのことには理由があり、神はあなたが背負いきれない荷物は与えない。」と言ってくださいました。 神は「あなたが罪を犯したから、こんなことになった」と私に言うために看護婦を遣わしませんでした。「神を信じなければ、あなたは永遠に地獄に堕ちることになる。」そうは語られませんでした。 もし、看護婦にそのように言われたら、私は神を知りたいと思うことはなかったのではないかと思います。 人生の底辺にいた時、私は恐れの代わりに、恵みを与えられました。それは慈しみ、愛でした。神が彼女の口に授けた言葉を通して、私は恵み深く、慈悲深く、限りなく愛してくださる神への道を示されたのです。 彼女の言葉を通して、私は神と出会いました。 神は、いつでも裁きができる状態であっても、決して恐怖や恐れから私たちが行動することを望まず、神の人格のままで私たちに接してくださいます。神は、たとえ破滅が迫っていても、恐怖の呪いを祝福に変えることができます(ヨエル書12:13-14)。神はそういうお方なのです。 神は親切です。神は憐れみ深い方です。神は、私たちの罪深い性質や違反行為に基づいて、私たちを罰する事を望んでおられません。神は容易に怒らず、神は豊かな愛に溢れています。 今日の聖書箇所、そしてヨエル書全体が他の預言書と大きく異なっていることがあります。やってくる裁きに対する言葉は多くありますが、他の預言書に見られるような私たちに対する非難の言葉、罰せられるべき罪の羅列がありません。そこに私たちへの信頼があると私は思わずにはいられません。神は私たちが自分達の罪の深さ、大きさに気づくことを信頼しているのです。そして、良い親がそうであるように、神は、私たちが親である主に心から立ち帰らないのなら、降りかかるかもしれない運命を丁寧に語っているのです。 「心からわたしに立ち帰れ。」(ヨエル書2:12) この「心」という言葉は、ヘブライ語では、lēḇālḇという言葉で、感情、思考、意志の力という意味があります。私たちは心という言葉に対して、感情や気持ちのことだと思いがちですが、この場合はそれ以上のことを意味しています。神は、私たちの感情、思考、意志、つまり私たちのすべてをもって神のもとに戻るよう求めておられるのです。そして、今日の聖書箇所では、神はこのことを自分一人で行うことについてだけでなく、礼拝のような場所で特に会衆の集まりとして戻ることについて語られています。 礼拝について話すとき、「参加する 」という言葉を使うことがあります。なぜなら、私たちが神の家に来るとき、ただコンサートのように観劇のために、礼拝堂に集まる観客になるために教会に来ているのではないからです。なぜなら、もし私たちがただ良い音楽を、良い話を聴くためにここに来たのなら、それはコンサートであり、講演会であり、献金はその入場料の代わりとなるからです。 しかし、私たちがここに集まっているのは、そういうことでは全くないのです。 礼拝は、私たちが皆、神がこの時代、この場所、この教会、このコミュニティーの中で積極的に行っておられる働きに参加する場です。私たちは、神が私たちと出会うのを待っておられるこの場所に、全身全霊を捧ぐべきです。神は恵み深い方ですから、私たちは共に歌います。私たちが共に祈るのは、神が憐れみ深い方だからです。私たちが赦しを求めるのは、神が怒るのが遅いからです。私たちは感謝し、賛美し、そして献金を共に捧げますが、それは神が揺るぎない愛に満ちておられるからです。そして、私たちが完全に受けるべき罰を下すことを神は思い直してくださるので、私たちは共に共同体として、神に信頼と信仰と感謝を寄せるのです。 神は私たちが集まる時、ご自身がどのような方でおられるかを全く恐れず示してくださいます。裁きの日について隠すことはしません。しかし、それ以上に愛と思いやりに満ちたその人格を見るように私たちに語りかけてくださいます。そのようにしてご自身の全てを先に示してくださることで、私たちも自分自身を同じように神の前にさらけ出すようにと言われているのです。 今日の聖書箇所で、神はまず「聖会」を持つ、つまりまず教会として集まってから、そして心から神に立ち帰れとは言っていません。むしろ神は、教会として、共同体として集まる前に、心から神に立ち帰ることの重要性を強調されています。 なぜでしょう? なぜなら、教会へ出かけ、礼拝に出席し、聖書研究に参加し、聖餐式に参加し、あらゆる方法や場所で教会にいたとしていたとしても、心が伴っていない、心を捧げていない、神が私たちに対してされたように自身をさらけ出していないということは大いにあり得ることだからです。 日曜日に教会に来るとき、あなたは全身全霊を傾けて、そうするつもりでこの場所に入ってきていますか?あくまでもルーティンとしてただ歌ったり踊ったり、立ったり座ったり、話を聞いたり、献金をしたりするのではなく、それらのことを自分自身の今の正直な姿をさらけだし、神に対し心を開く用意をしてきてからしているでしょうか? あなたが今週感じた感情、今週考えたこと、今週こうしようと決めたこと、これら全てをあなたの体と一緒に教会に持ってきているでしょうか?それとも単に教会用の一張羅の服を着て、今週あなたに起こった出来事、それに対して反応した心を置き去りにして、この場所に来ているのでしょうか? もちろん、私は今言ったことを実践するのが簡単ではないことを知っています。 でも、もっと難しいと思うことは、個人レベルではなく、教会全体が心から神のもとに立ち帰り、集うということです。 この新型コロナ感染症パンデミックを生き延びてきた今、教会として集まること、そのような単純なこと自体が難しくなってきています。パンデミックが起きたとき、教会はオンライン礼拝、集会に移行し、日曜日に教会に行くという習慣は崩れました。そのことにより、そもそも、なぜわざわざ教会に行くのかと実際どれだけの人が考えたことでしょう?オンラインで礼拝を見たり、オンラインで十一献金を捧げても良いわけです。奉仕を頼まれれば、手伝うことを拒むようなことはしません。ただ、なぜ教会に行きたいと思うのでしょう?私の心のあるところに神がおられるのなら、わざわざ教会まで来る意味があるのでしょうか? そのように心が彷徨う中で、神が私たちに教会に戻るように求めていると思うのなら、それは十分な理解に達していないと思います。神は教会の建物に戻ることを言っているのではなく、老若男女、乳飲み子、結婚を控えた夫婦と皆が心を一つにして集まる神の共同体に戻るよう呼びかけているのです(ヨエル書2:16)。結婚を控えた夫婦がその場を去り神の民の集まりに加わる。その呼びかけには切迫感があります。そしてそれは裁きが来るかもしれないという恐れからではなく、私たちが彷徨っていることを認め、神に対し心を開き、更には共同体の中で神を中心に互いに心を開くとき、恵み深く、情け深く、怒るのが遅く、揺るぎない愛に溢れた神に出会えるようにと神が願っておられるからなのです。そんな素晴らしい神にただ個人的に出会うだけでなく、教会全体で出会うことを神は望んでおられるからです。 私たちの神は、私たちが神に望まれていること、愛されていることを私たちが心から知り、そして私たち一人ひとりが自分自身の体と心を持って、教会に集い、主に心を開いて共同体として団結し、神に出会うことを望んでおられます。 私たちは教会として主に心を開き集まっているでしょうか?そして教会全体としてそうなれるよう、あなた自身がまずそのことをしているでしょうか? ここ数週間多くの人がアズベリー大学のリバイバルについて耳にしたのではないでしょうか?アメリカのケンタッキー州にあるこの小さなキリスト教の大学で、数人の学生たちが礼拝の後集まって祈りました。短期間のうちに、祈るために集まった人たちがどんどん増えていき、いつの間にかその学校の礼拝堂では、2週間連続で、一時も休むことなく人々が礼拝を捧げ続けました。 もちろん、私はその場にいたわけではないし、ネットで礼拝の様子を見たり、ニュース記事などでそのことについて読んだりしただけですが、私はヨエル書2章に書かれていることがそこで起きているのだと思いました。 人々が彷徨うことをやめ、心から神のもとに立ち帰ったということです。 アズベリー大学のリバイバルについてはいろいろな意見がありますが、大学の礼拝堂に集まった人たちは皆、神の招きに応え、神のもとに立ち帰り、神の前で裸になり心から自分を明らかにしたのだと思います。 礼拝堂に向かった人が、いずれ来る裁きの日を恐れて、この暗い罪深い世に向けられる罰を恐れてそこへ向かったとは思っていません。もしかしたらそういう気持ちも少しはあったかもしれません。でもそうではなく、恵み深く、憐れみ深く、怒るのが遅く、揺るぎない愛に溢れ、懲らしめることを悔い、思い直される神に会うことを望んで、そのことを心から期待して、その事が心をより支配して礼拝堂に向かったのだと思います。 教会として、私たちは信仰においてそのような心の状態に到達しているのか、本当に心から神のもとに立ち帰る目的を持ち集まっているのか、自問自答する必要があるでしょう。私たちは、神の言葉を宣べ伝えるために、この世に神の働き手として送り出される前に、個人的に神の満ち満ちた姿を体験しているでしょうか?私たちは、教会の中で、恵み深く、憐れみ深く、怒るのが遅く、揺るぎない愛に満ちた神の光を本当に体験しているでしょうか?私たちは神戸とその周辺の地域に手を伸ばし、愛の福音を宣べ伝え、キリスト・イエスの驚くべき恵みを知らせるために、まずは心を尽くして共に神に立ち帰り、共同体として一つになって集まることで新しくされてから、満たされてから、働きに出ているでしょうか? 私たちの教会の様々なミニストリーがそれぞれすべきことを示されていることを私は理解しています。私たちは積極的に行動し、教会の建物を出て、手を伸ばし、神の御国が教会に留まらず、神戸のコミュニティや全世界を包含することを願っています。しかし、私たちに何ができるかという興奮の中で、あれもこれもできる、あれもこれもしたら良いという思いの中で、神様が預言者ヨエルを通して私たちに与えてくださった呼びかけを疎かにしてはいけません。それは心から神に立ち帰り、教会として一つになり集まることです。 日曜日の礼拝をおろそかにしないようにしましょう。ただ礼拝に来たというのではなく、心から賛美し、心から祈り、心から聞き、心から捧げ、心から礼拝するのです。主のすばらしさを共に味わってから、それぞれの宣教や働きのために送り出されるようにしようではありませんか。 祈りましょう。 神様、今朝の御言葉を感謝します。聞くこと、受け取ることが難しいかもしれませんが、与えられた御言葉が私たちの心の奥底に宿り、共に集うたびに、あなたの御言葉が私たちの教会を導き続けてくれますように。あなたの御言葉に従うことができますように。聖なる御名によって、祈ります。アーメン
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マタイによる福音書17章1~9節
1:六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2:イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3:見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4:ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5:ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6:弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7:イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8:彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9:一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 祈りましょう 光の中の光、真実の神、あなたが明るい雲からイエスとその弟子たちに語られたように、あなたの言葉が今日も私達を通して生かされますように。アーメン。 私の夫の苗字は「山本」です。山本という苗字は、日本各地にある「山本」という地名に由来しています。「山本」は「山の麓」という意味で、そのような場所の地名として付けられたものです。山本地区に定住した家族は、山本姓を名乗るようになりました。山の話から始めるので、今日は美しい山の写真をいくつかお見せしたいと思います。これらの山はどこにあるのか、わかりますか。 神戸は山が多く、私は住吉台の山の近くに住んでいます。私は山を見るのが好きなのですが、山を見ると、詩篇121編1-2節の「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る天地を造られた主のもとから。」という一節を思い出します。山はユダヤ教やキリスト教の文化にとって大きな意味を持ち、「神に近い場所」と考えられていたのです。「旧約聖書と新約聖書に登場する山」でググってみると、聖書には500回以上山が登場すること、聖書に登場する山の3分の1は、少なくとも1回は大きな出来事が起こっていることなどがわかりました。 例を挙げますと、アララト山(洪水後にノアの箱舟が置かれた場所)、モリア山(アブラハムが息子イサクを捧げるために呼ばれた場所)、シナイ山(神がモーゼに十戒を与えた場所)、ホレブ山(モーゼが燃える柴を見た場所)、ネボ山(モーゼが約束の地を見た場所)、ゲリジム山(神がユダヤ人に祝福を告げた場所であり、サマリア人の聖地となった場所) ゲリジム山(神がユダヤ人に祝福を告げた場所、サマリア人の聖地)、カルメル山(エリヤがバアルの預言者たちに挑戦した場所)、シオン山(旧約聖書では神が住むとされている場所で、新約聖書では神の王国の場所) オリーブ山(主イエスが十字架にかかる前に祈った場所)、カルバリー山(ゴルゴダとも呼ばれ、イエスが私達のために命を捧げた場所)、タボル山(変容の山とも呼ばれ、今日の聖書朗読で取り上げられた山である可能性が高い。しかし、学者によっては、変容は実際にこの地方で一番高いヘルモン山で起こったと言う人もいる)。いずれにせよ、今日の聖句では、その山の名前は特に出てきません。しかし、私の信仰では、どの山であったかは重要ではありません。しかし聖書に登場する山の歴史を知ることは、とても興味深いことです。 エイミー・グラント氏の歌「エル・シャダイ」(讃美歌123にあります)をご存知の方もいらっしゃると思います。「エル」は「エロヒム」という言葉からきており、神、あるいは神の聖なる御名であるヤハウェを指しています。「シャダイ」の語源は 「シャドゥ 」で、「山」を意味します。つまり、エル・シャダイは文字通り、「山の神」という意味です。今日は変容の聖日で、主イエスが神と話すために山に登られたことを学びます。その山で、イエスは変容し、輝きを放ちます。共観福音書(マタイ17:1-8、マルコ9:2-8、ルカ9:28-36)には、変容について書かれており、ペテロの第二の手紙にもそのことが書かれています(2ペテロ1:16-18)。変容は主イエスの人生において決定的な瞬間であり、それは主イエスの全世界における使命の道筋を決定することになりました。この時点から、主イエスと弟子たちは、来るべき主イエスの死と復活のためにエルサレムへ向かっていくのです。 変容の聖日は、四旬節の始まりである灰の水曜日(今年は2月22日)の直前に祝われ、40日間、主イエスとともに十字架への旅をし、復活祭のお祝いに備えます。皆さんはこの変容をどう捉えていますか。私は、この奇跡は、主イエスご自身に起こった奇跡なので、他の奇跡の中でも特別なものと考えます。 しかし、変容を本当に理解するためには、変容から6日(マタイ17:1)、主イエスとその弟子たちの日常を数日遡る必要があるのです。ペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒に山に登る前に、イエスは弟子たちに御自分のことについて尋ねました。「人々は人の子を誰だと言っていますか」「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。また他の人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」そこでイエスは、「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と尋ねました。ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えた。そして、イエスは弟子たちに自分の死について教え、その復活を予言された。「長老たち、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子達に示し始められた。」なぜイエスは山の頂上に行かれたのでしょうか。もしかしたら、イエスは少し休養の時間が必要だったのかもしれません。マタイの福音書9章を見ると、主イエスはガリラヤ中を旅して、癒し、悪霊を追い出し、神の国について説教し、教えるのに、とても忙しかったことがわかります。また、死んだ少女をよみがえらせ、5千人以上の人々に食事を与え、湖の真ん中で嵐を静めたこともありました。彼は、群衆から離れ、神に祈りながら休息できる静かな場所を選んだのかもしれません。この山に主イエスは一人で登ったのではありませんでした。ペテロ、ヤコブとヨハネを連れていき、そして目の前で主イエスが変容するのを彼らは見るのです。弟子たちは、イエスの衣が光のように白くなり、イエスの顔が太陽のように輝きを放つのを見ます。そして、ペテロが言います。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 (ある聖書では、テントではなく、「住居」や「祭壇」と訳されている)。その言葉を口にするやいなや、聖書はこう伝えています。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。彼らが見回すと、もう誰も一緒におらず、ただ主イエスだけがいたのです。 神学者のフレデリック・ビューナー氏は言います。「福音書にあるような不思議な光景だ。雲からの声がなくても、彼らは自分たちが目撃したものを疑う余地はなかった。それはナザレのイエスであった。しかし、それはメシア、キリストの栄光の姿であった。それは、この人の神聖さが、その人間性を通して輝き、その顔があまりにも燃え上がるので、彼らはほとんど目が見えなくなった。」 弟子たちは驚くべき体験をし、あまりの素晴らしさに山に留まりたいと思ったのです。山頂に留まるのもよかったでしょう。しかし一度山頂に到達したら、そこに留まることはできず、結局は山を下りなければなりません。山から谷へと下るとき、急いで登ってきたときには気づかなかったことに気づくかもしれません。景色や花、小さな生き物など、神様の創造の一部であることに気づくかもしれません。この道は歩きにくいかもしれません。曲がりくねった道、岩だらけの道、滑りやすい道もあるかもしれませんが、神様が私達を助けてくださいます。神様はあなたとともにいます。神を信頼しなさい。彼に耳を傾けてください。 もう山を降り切った時、山上のきれいな雲の上にはいなくて、そこはそんなに美しくもありません。谷は、私達の日常生活の困難さを表しているのかもしれないのです。しかし、山は谷がなければ存在しないことを理解すべきでしょう。 主イエスも谷に戻ることが迫っていることを知っておられ、7節で弟子たちに「起きなさい。恐れることはない。」と言われました。山には留まれないが、谷の仕事に戻り、神様から与えられた仕事をすることを、主イエスと弟子たちは知っていたのです。この変容は、使徒たちがその後を耐え忍ぶことになる試練のために信仰を強める特別な恵みの体験でした。弟子達は主イエスに聞き従うように言われたのです。 しかし私達は神を見つけ、神に耳を傾けるために山に行く必要があるのでしょうか。私達は、神様の声を聞くために、気が散らない場所にいなければならない時があるのかもしれません。それはあなたにとって本当にそうでしょうか。しかし私達の人生には、祈るときに集中して耳を傾けることができる場所が必要な時があるかもしれません。安心してください、山頂でも谷間でも、神様はどこにいても私達と共にいてくださるのです。それは単に静かな場所でよいのです。 以前の説教で、祈りの部屋について話し、クリスチャン映画「War Room」の中で、女性が祈りの聖域としてクローゼットを使っている映像をお見せしました。静かな場所で良いのです。外の公園でも、例え車の中でもいいのです。どこでも、すべての場所で息をするたびに祈ることができます。時には気が散らない場所が良いこともあります。いわゆる「祈りに浸る」と呼ばれる祈りの練習ができる場所を探して、そこで主において安らぎを得て、神様に自分を捧げることができます。そこで聖霊に満たされ、神様と親密な時間を体験することができるのです。 当時の主イエスは、その時期に山頂に行くことを必要としていました。私達は人生の様々な時期に、様々なものを必要とします。ある時は一人で、またある時は仲間と一緒に。山か谷か、一人か二人か、神様は私達と共におられ、神様の愛が私達に注がれています。 あなたはいつ、どこで山頂体験をしましたか。あなたの体験談をお聞かせください。このような「山頂」での体験は、主イエスとの日々の歩みの中で起こることが多いのです。それは素晴らしい礼拝の経験かもしれませんし、修養会かもしれません。私は、女性のためのリトリートに行くと、しばしば新しく生まれ変わることができます。また、祈りの時間、日曜学校、心に響く讃美歌を歌ったり聞いたり、主イエスを賛美する時、日曜賛美礼拝、聖餐式などがそうかもしれません。また、教会の外で、大切な友人とランチをするとき、あるいは静かに祈るときに、山頂での体験ができるかもしれません。また、ホームレスの人たちに給食を配ったり、聖書を配ったりして、誰かを助けているときかもしれません。あるいは、困っている人の話を聞いて、その人を助けることができる時かもしれません。以前、友人が祈りによって腫瘍が癒されたことがありましたが、この癒しに立ち会えたことは、彼女だけでなく私にとっても山頂経験でした。祈りが答えられたとき、私達は希望と愛の山頂にいるような気持ちになることがあります。山頂での体験はどのような感じでしょうか。もしかしたら、それはちょっとした天国のような感じかもしれませんね。私達は恵みを垣間見ることができます。そして、これは私達の生活の中で天国を垣間見ることかもしれません。私達は、このような変容した瞬間と山頂での祈りによって祝福されるのです。 祈ることは、しばしば山頂体験となります。もし祈りながら涙を流したなら、その涙から聖霊があなたに注がれ、あなたを清めてくださることにつながります。私達 KUC の牧師は、いつも皆さんと一緒に、皆さんのために祈っています。KUCの評議会の人々や他の人々も、あなた方と一緒に、あなた方のために祈っています。また、ニュースレターには KUC祈りのリストがありますので、必要な時にはいつでも牧師たちに連絡を取ってください。私達は弟子たちのように、主イエスの声に耳を傾けることを求められています。このような山頂での出来事は、私達を他者から孤立させるものではなく、むしろ他者とつながるためのものです。主イエスはこのような人々とのつながりの重要性を理解していたので、山から下りたとき、彼が見たものは群衆でした... そしてイエスは彼らを助けるために群衆に目を向けました。さて、私達は「群衆」という言葉を聞くと、「大勢の人の集まり」のようなものを想像しますが、聖書でいう「群衆」は少し違います。聖書の群衆は人々の集団ですが、それはしばしば「貧しい人」「苦しんでいる人」「病気の人」「人生に痛みを抱えている人」「癒しを必要としている人」で成り立っています。主イエスの話を聞くために集まった群衆、あるいは主イエスについて行った群衆は、何らかの問題で苦しんでいる人、あるいは苦悩している人たちでした。この人たちは、山頂体験をその時にしていないかもしれませんが、主イエスを切実に必要としていました。彼らは神様の愛を渇望していました。彼らは谷の中で神とつながる必要がありました。私達は谷間で働くように召されています。そこには私達の残りの兄弟姉妹がいます。私達を必要とする人々、そして私達が必要とする人々は、人間の全体を意味する存在なのです。谷でも山でも、神の愛はいつも私達と共にあります。私達はその愛を他の人々と分かち合います。 東京でルーテル派の宣教師をしている私の友人キャロル・サック氏にとって、この聖なる瞬間は、彼女が誰かを助けているときです。彼女はホスピス、ホームレス、病院、そして礼拝でハープを演奏します。困っている人のためにハープを弾くときが、彼女にとっての山頂体験です。人のために奉仕し、神様の愛を示すことは山頂での経験ですが、それは谷間でも行われることです。神様はどちらの場所でも私達と共にいてくださり、私達を変えてくださいます。私達が、奉仕のために他の人々に奉仕するように導かれる信仰、「変容し、新たにする信仰」を持つことができるように祈っています。 ツツ主教は次のように語っています。「神は、私達を神の同胞、すなわち変容の使者としてこの世界に置かれたのです。私達は神と共に働き、不正を正義に変え、より多くの憐みと思いやりが生まれ、より多くの笑いと喜びが生まれるのです。それによって、神の世界に多くの一体感が生まれるようになるのです」。 クリスチャンになってから、あなたはどのように変化しましたか。神様の声が聞こえるときがありますか。また、聞こえない時もありますか。問題や苦しみのある時、神様が共にいてくださるとわかっていても、その問題から抜け出すまで神様の声を聞くことは難しいかもしれません。そんな時こそ、他の人に助けてもらったり、祈ってもらったりすることが必要です。しかし主は私達の羊飼いで、私達が谷に迷い込んだように感じても、私達を導き、見つけ出してくださいます。主は私達を回復してくださいます。(詩編23編)主イエスに耳を傾け、主イエスに従うことが、今日私達が覚えておくべき変容のメッセージです。 四旬節は2月22日の杯の水曜日から始まります。来週の日曜日、2月26日は四旬節の第一日曜日です。四旬節は、神に耳を傾け、神の声をより明確に聞くための時期です。四旬節の6週間は、私達の光であり希望であるキリストに近づくための旅となります。私達は、神が私達に対して持っておられる偉大で素晴らしい愛が、私達を変容させることを知っています。この四旬節の間に、私達全員が神に近づく方法を見つけることができますように。 四旬節の旅路で神の声に耳を傾けることができるよう祈ります。山の上でも深い谷でも、イエスは世の光であり、その光は私達を導いてくれることを私達は知っています。私達が他の人の中にキリストの光を見ることができるように、そして私達が出会うすべての人にキリストの光となることができるように助けてください。谷でも山でも、そしてあなたが私達に行かせようとするところならどこでも、私達が光と真理の内に歩むことができますように。 私達の主イエス・キリストの祝福された御名において祈ります。 アーメン。 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが贖い主、主よ 。あなたの聖なる御名によって祈ります、アーメン。
今日の礼拝の始めに歌った歌、みなさんどう思われましたか?メロディーがシンプルで心地良いですが、それと同じくらい歌詞もシンプルでありながら深いと私は思います。 以下が、私たちが歌った歌詞です。 わが主よ愛を増したまえ わが主よ わが主よ 愛を増したまえ わが主よ 心のそこより愛を増したまえ わが主よ きよくなしたまえ わが主よ わが主よ きよくなしたまえ わが主よ 心のそこより きよくなしたまえ わが主よ 主をば倣(なら)いたし わが主よ わが主よ 主をば倣いたし わが主よ 心のそこより 主をば倣いたし わが主よ このシンプルな歌と歌詞は私の心を打ち、この歌の歌詞のような人間になるためには本当に神様が必要なのだと気づかせてくれます。より心のそこより愛し、聖く、主のようになることは私自身では、できないのですから。 今日の聖書箇所はとてもチャレンジを受ける箇所ですね。私は大抵、Lectionary(聖書日課、キリスト教暦に沿った聖書の読書プラン)に従って説教をしますが、今日の日曜日に課されている聖書箇所を見たとき、最初に正直に感じたことをシェアしたいと思います。それは「しまった」でした。この箇所から説教するのをできることならしたくないと思いました。 なぜだかわかりますか? それは、今日の聖句でイエス様が問いかけていることを、私はまだマスターしていないからです。クリスチャンであり、牧師である私ですが時々、教会家族に対して腹を立てることもあります。時にはののしりたくなることだってあります。もちろん,目に見える形で公然と罵ったり、侮辱したりすることはないと思っていますが、心の中で、他人を悪く思うことはあります。 そして、それよりももっと悪いことに、気をつけていないとそのことについて何とも思わなくなってしまうことだってあるのです。なぜなら、世の中の多くの人がしているように、人間関係を世俗的で、人間的な方法で対処することに慣れきってしまっているからです。 人とトラブルがあるとき、あなたはどのように対処しますか?誰かと衝突したとき、あなたの友人や家族はあなたにどのような助言を送りますか? 15-20年ほど前のことです。私には、好きになれない、感謝の気持ちを持つことができない相手がいました。それは父の再婚相手の女性でした。彼女をディズニーの映画に出てくるような邪悪な継母と表現し、自分の怒りや悪感情を彼女のせいにできるようなことがあればいいのですが、実際のところ、彼女はとてもいい人でした。私が彼女を好きになれなかったのは、彼女の人間性が理由ではなく、私たちの関係の本質が理由だったことに私はその当時気づきませんでした。私は、父が再婚することに対し、心の準備ができていませんでした。自分の中に湧き上がってくる辛く複雑な感情を処理しきれず、それを全部彼女のせいにしてしまっていたのです。 私は彼女のことを好きにならなくてもいいんだ、と思いました。考えてみても、好きになれるわけがない。私はまだ母の死を悲しんでいるし、父の再婚なんて受け入れるどころか、考えもつかなかった。私は、「彼女に対して苦い感情を抱いていてもいいはずだ」と思いました。この気持ちを友人に伝えると、友人も同意してくれました。「それはしょうがない」と私の友人たちは私に言いました。ディズニーの映画でよく見るように、継母との関係はうまくいかないのが普通なのだから。 しかし神様は私に別の生き方を求めておられるのだと理解し始めたのは、ずいぶん後のことでした。数年間、継母に対して重苦しい感情を抱いていた私は、心の奥底で「彼女に対してそのような気持ちを抱き続けることは、本当はいけないことなんだ」と感じていました。「いつも愛していなさい」と言われる神様の目には、このことは正しくないと映っているはずだと感じたのです。しかし、私の心が何と言おうと、私の神様が何と言おうと、私はそのことに向き合いたくはありませんでした。 私は長い間、「私は被害者だ、向こうが再婚のことで私を傷つけたのだから、私が苦い思いを抱いているのは当然だし、それは許されることだ。再婚を決めたことで私は突然自分の家族から取り残されたのだから。」と自分に言い聞かせました。 正直に告白すると、当時は聖書を定期的に読んでいなかったので、他人に対し怒ること、他人を侮辱すること、他人の悪口を言うことに対する神様の教えが頭にも心にも刻まれていませんでした。仕方がないじゃないかと、思っていました。別に彼女のことを嫌いになったってしょうがないと。 しかし、もちろん、神様は私がそのような思いを抱き続けていたことに警鐘をならされました。なぜなら神様は恵み深く、慈悲深いお方だからです。神様は、私たちが学び、成長し、訓練されることで、イエス様のようになるための機会を与え続けてくださいます。 私は、自分の心の頑なさと独善性から、自分の中にある傷や怒りに向き合うまでに3年ほどかかりました。それを通して、自分が内側に抱えている怒りの感情を心や魂に根を張らせていることはいけないこと、そのことで、神様が私に求めている生き方をしていないことに、ようやく気がつきました。 神様はいつも完璧なタイミングで、和解の必要性を私たちに気づかさせるだけでなく、その和解を実践する機会も与えてくださいます。 その当時、私はまだアメリカに住んでおり、継母は日本に住んでいました。しかし、その距離にもかかわらず、神様は祖母の葬儀という機会を通して、私が彼女に会い、話をする機会を与えてくださいました。葬儀が終わり、祖母の家に私たち家族だけが残った後、私は彼女に、今までの自分の気持ちを伝え、謝りました。 私は彼女に「今までごめんなさい」と謝りました。正直に自分の気持ちを話しました。彼女が嫌だったのではなく、自分の母以外の人が父の人生の中でその場所を占めたことが、私にとって辛かったことを伝えました。そして、今まで彼女に対してとっていた態度を謝りました。 彼女は、私が苦しんだことを理解できると言ってくれました。そして、私たちは家族なのだから、互いに支え合っていこうと言ってくれました。 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。(マタイの福音書5:21-22) これはイエス様の言葉です。 イエス様はここで警告を発しています。もしあなたが、神の戒めは殺人という行為についてだけで、単に.誰も殺さないなら大丈夫...と思っているなら、それは間違いだとイエス様は言っておられるのです。神様は、罪の大小を区別されることはありません。他人に腹を立てる者、他人を侮辱する人を神様は殺人をする人と同じ基準で見ておられるからです。 イエス様の教えの核となる基本的な考え方を覚えておきましょう。それは神様の律法を全て文字通り、正確に従うことではないということです。それは神様の律法に関して、私たちが律法一字一句に従っているかを確認することではありません。考えてみてください、律法学者やファリサイ人は神の律法にまさにそのようなやり方で従いましたが、イエス様は彼らに対し、律法の真髄を理解していないことを何度も説き伏せました。 律法学者やファリサイ人たちは、神様の言葉と律法を、よりよく生きるためのチェックリストのように扱っていたのです。「人を殺さず、姦淫せず、誓いを実行し、隣人を愛し、敵は愛さなくても良い。それらだけを実行すれば、神様の裁きから逃れられ、天の御国にそのまま歩いて行けるはずだ!」と彼らは考えていました。 しかし、イエス様はマタイによる福音書5章で、これは全く神様の意図からかけ離れていると語ります。イエス様は、ご自身がこの世に来られた理由を「律法を完成するため」だと言います。(マタイによる福音書5:17) それはつまり、神様の律法の完全さ、根本的な深さを受け入れるということなのです。神様の律法とは、他人にしてよいこと、悪いことの具体的なリストではなく、私たちの心と魂を神様のような完成、完全なものにすることを目標に生きれるように存在しているのです。 たとえあなたが誰かへの怒りを表向きに表現していなかったとしても、公の場で相手を侮辱していなかったとしても、他人の悪口を言わなかったとしても、あなたの心がささくれ、刺々しくなり、人のためではなく、その人に反するような言動をするようであれば、あなたは殺人を犯した人と同じ基準で神様から扱われることになるのです。 神様は私たちに確かに高い基準を持たれています。キリストを信じる者として、私たちはその高い基準を満たすように、この世的な生き方ではなく、神様の律法を完全にする、達成するような生き方をするように召されているのです。 世間は、心がささくれても、刺々しい時があっても仕方ない時もあると言うかもしれません。友人や同僚、家族でさえも、怒るのは人間だから仕方ない、悪口を言われたのなら、悪口を言い返すのは仕方ない、とあなたに言うかもしれません。周りの人々は、あなたの傷や怒りを正当化するように促すかもしれませんし、あなたの友人や教会に通う仲間でさえ、あなたの悪口、噂話に加担するかもしれません。しかし、そのような生き方は私たちに与えられた道ではないのです。 神様は違う生き方を私たちに求めておられます。 私たちは自分の言動に対し責任を負うことになります。また今日の聖書箇所にあるように、私たちの言動に対しは教会コミュニティにも責任を負うことになります。 しかし、怒らない、侮辱しない、悪口を言わない。馬鹿にしない。これは本当に簡単なことではないんです!特に、自分は何も悪くないと思ってる時は尚更です。さっきの私の継母の話に戻りましょう。継母ではなく、本当は彼女と父の結婚生活そのものへ不快感や抵抗を強く抱いていたとき、私は心の中で「私は悪くない」と思い続けていました。再婚を決めたのは私じゃない。再婚したのは私ではない、向こうだ。向こうから私に声をかけるべきなんだ。向こうが腰を低くしなければならないと思っていました。 しかし、今日の聖書箇所をもう一度見てみると、はっきりと分かります。神様を信じる者として、キリスト・イエスに従う者として,わたしたちはより高い基準で見られているのです。たとえ自分が不当な扱いを受けていると思うときでも,攻撃されていると思うときでも,自分が被害者だと思うときでも,自分を非難する相手に腹を立てたり、侮辱したり,その相手を打ちのめしたりすることは許されないのです。 自分が怒り、攻撃、悪口、侮辱の対象である場合、高い基準を持ち続けることは簡単なことではありません。私自身、これに関しては何度も何度も失敗を重ねました。今でもです。だからこそ、23節から25節で神様が示される憐れみに感謝しているのです。 神様は、人間関係が難しいことを知っておられます。神様は、仲良くできない人が私たちにいることを知っておられます。神様は、私たちがある人をどうしても好きになれないことがあることを知っておられます。神様は、私たちの人間関係が、時にはとても苦しく、敵対的になり、その人と話すことさえやめてしまうことを知っておられます。 だから神様はこのように言うのです。 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5:23-24) イエス様は、何が正しくて何が間違っているのかだけでなく、私たちが道を踏み外してしまうことを知っておられ、その場合はどう対処すべきかを教えてくださっているのですから、なんと素晴らしいことでしょう。神様は私たちのことをどれほどよくご存知なのでしょう。 神様は私たちが神様の律法を守ることに関して不完全な者であること、私たちが失敗する可能性があること、そして失敗してしまうことをご存知なのです。さらに言えば、私たちが神様の律法に忠実でないことさえも自覚していない場合があることを、神様は知っておられるのです。 ですから、今日の聖書箇所は、私たちの不完全さが露呈された時、そのことに気づかされたとき、行動を起こす必要があることを教えてくれています。私たちは行って、和解する必要があるのです。(マタイによる福音書5:24) ところで、ここの「仲直り」(マタイによる福音書5:24)という言葉は、お互いに仲直りすることを意味しています。敵対から平和へと、それぞれお互いの心が変わるという意味です。強調したいのは、この仲直りが相互のものであるということです。一方が相手に対する敵意を解放するだけでは不十分であり、心の中で許しを乞うことで全てが解決なのではありません。イエス様がここで語っている、真の仲直りとは、敵対関係を終わらせ、お互いの間に和解を通して、真の公正な平和が始まることを意味します。 そしてそれを実行に移すことは簡単なことではありません。 しかし、キリストのメッセージはこうです。続けなさい。あきらめてはいけない。 仲直りのために、和解のために、平和をもたらすためには、敵対関係がが公式に、そして合法的になる瞬間まで、いやその後も努力を続けなければいけないのです。イエス様は「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。裁判所に行く途中でも、告発者と和解するためにできる限りのことをしなければなりません。」(マタイによる福音書5:25)と言っておられるのです。ですから諦めてはいけません。 世間は、仲直り、和解をあきらめてもいい。あなたが怒るのは当然だと言うかもしれません。あなたは何も悪いことをしていない、相手が、向こうがあなたを非難したのだ、だから敵対関係になって当然なのだと言うかもしれません。しかし、これは世俗的な考え方で、神様の考え方とは違います。神様の考え方とは「兄弟姉妹と和解しなさい。兄弟姉妹と和解し、あなたを告発する者と早く仲直りしなさい」です。 神様の律法を受け入れ、相手との公正で永続的な和解に向けて行動を起こすかどうかは、あなた次第なのです。 私は決して今日の説教内容をマスターしているから、先輩として、指導者としてこの話をしているのではないことを、皆さんに知っていておいていただきたいと思います。実際には、その逆です。神様がいつも私に思い出させてくれなければ、私は簡単に怒る罪深い人間になってしまいます。神様がいつも私に思い出させてくれなければ、残酷な言葉や思いやりのない言葉を、隠れて言ってしまうような人間です。神様がいつも私に思い出させてくださらなければ、自分が悪くなければ和解は必要ないと思ってしまう人間なのです。辛辣で罪深い人間です。私は、自分の心と魂の状態について、より高い基準を持つように召されていることを簡単に忘れてしまうのです。 苦い思いが心に根付くと、怒りや侮辱、悪口といった実がすぐに大きくなってしまうので、私たちは気をつけなければいけません。なので今日、私は教会の家族であるみなさんと、私たちには、私たちを導く律法が与えられていること、そしてお互いにどのように接することが求められているかを教える律法が与えられていることをもう一度共に確認したいと思います。 私たちは、神様とお互いに責任を負うべき人々です。もし、私たちの教会で、誰かが他の人に対して怒って行動しているのを見たら、キリストに従う者として、何か言うべきですし、何かをするべきです。もし、私たちの教会で誰かが他の人を侮辱しているのを聞いたなら、キリストに従う者として、あなたは何かを言うべきですし、行うべきです。もし、誰かが公共の場や陰で、他人の噂話や悪口を言っているのを見たり聞いたりしたら、キリスト・イエスに従う者として、あなたは何かを言うべきですし、行うべきです。 しかし、行動に移す前に祈りましょう。それはすべてのことにおいて言えることです。神様があなたが目撃した罪深い行動を兄弟姉妹にどのように伝えるように望んでおられるのか見極めるために、祈りましょう。私たちは神様ではありませんし、裁くことを求められているわけでもないことを忘れてはなりません。私たちはお互いに対して愛情をもって責任を負い、たとえお互い何度も何度も失敗を繰り返しても、神様の厳しい律法に従い続けるように励まし合うべきです。たとえ、あきらめそうになったとしてもです。 神様の律法は不変であり、私たちに与えられた高い基準なので、恨み、憎しみ、敵意が入り込む余地があってはいけません。ですから、私たちは黙っていてはいけませんし、キリストにある友人や家族に、怒ったままでもいい、侮辱やゴシップや悪口は自分が受けた傷のために正当化されると言う風に思ってはいけないし、そのように振る舞ってもいけません。また怒り、侮辱、悪口を目撃したとき、そのような状況に和解をもたらすために与えられた私たちの役割は何であるかを神様に問う必要があります。 私たちは皆、神様の律法が明確であることを知っています。怒る、噂話をする、残酷で侮辱的な言葉を放つことは、私たちがすべきことではありません。しかし、私たちはそれを完全にできないことも知っています。私たちは皆、肉の思いに負ける弱い、不完全な人間であるために、失敗してしまうのです。ですから、私たちはキリストにある家族として、互いのために存在し、サポートし合う必要があります。人間関係で悩んでいる人を見たとき、私たちはただ 「クリスチャンとして、あなたはそのような行動をとるべきではありません 」とだけ言うべきではありません。みんな知っているのです。怒るべきでも、侮辱するべきでも、悪口を言うべきでもないことを。でも、できないから苦しんでいて、私たちの助け、愛、そしてサポートを必要としているのです。 神様が私たちに望んでおられるコミュニティとは、愛をもって互いに責任を負い合うコミュニティだと私は思います。それは、私たちが神様が求める高い基準に従って生きるために歩む困難な道を前に、共に祈り、励まし合いながら、関係を築き、真の友となり、敵対とした時は和解へと努力し合う人々となることを意味しています。 これこそ、神様が私たちに望んでおられる共同体です。神様が私たちに課されたより高い基準を受け入れ、自分自身と互いに、そして敵に対しても慈しみと愛を持って共に和解の課題に立ち向かう限り、神様が私たちを助けてくださいます。 祈りましょう。主よ、私たちを憐れんでください。私たちはいつも世の中が良しとする生き方に妥協してしまう弱い者たちですが、世のあり方とは違う、より良い生き方があることを教えてくださることを感謝します。主よ、私たちと共にいてください、私たちに忍耐強くおられてください、そして、和解を決してあきらめないように助けてください。あなたの聖なる御名において、祈ります、アーメン。 祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。私たちを祝福してくださるのはあなたです。主よ、あなたによって祝福されるとはどういうことか教えてください。あなたの聖なる御名によって祈ります、アーメン。
私は 20 代前半でクリスチャンになりましたが、その頃初めて「祝福」(Blessing)という言葉に出会いました。クリスチャンの友人がこの言葉をよく使っているのを聞いたり、手紙やメールの最後に「Blessing」(祝福を)と書かれていることに気づきました。 「祝福」(Blessing)という言葉は、キリスト教の世界では一般的な言葉のようだったので、私自身もクリスチャンになった後は、この言葉を使うようになりました。友人との別れ際に "blessings to you "「祝福がありますように。」と言ってみたり、"I am blessed to have you in my life!"「あなたと知り合えて祝福を受けました。」とか "I had such a blessed time!"「祝福の時間をあなたと過ごしました。」とか言ってみたりしました。 「祝福」(Blessing)という言葉、私たちのコミュニティでもよく使われていますよね。そこで、皆さんに質問です。 画面にあるような「I am truly blessed...」(私は真に祝福されている)というフレーズを与えられとして、そこから何か単語や文面を加えて文章を完成させるように言われたとしたら、あなたは何を書きますか? 皆さんがどのようなことを書くか今ここで聞きませんので、ご安心ください。でも、よろしければ、私が思い浮かんだことをシェアさせてください。 私は素晴らしい家族がいて、祝福されている。 私は神様に愛されているので、祝福されている。 私は人生に目的と召命を見出し、それに従う特権が与えられているので、祝福されている。 私は教会に集う人々が神様と親密な関係を築くのを見ることができ、祝福されている。 私は良い医療を受けることができ、友人や家族から良いサポートを受けられるので、祝福されている。 私は良い教育を受けることができたので、祝福されている。 大画面上のスライドを見てください。スライドにある "blessings "(祝福)という単語を見ると、"count "(数える)という単語で構成されていることに気がつくかもしれません。 皆さん「count your blessings」という表現を聞いたことありませんか?自分に与えられている祝福を数えようという意味です。この表現から、意図的であろうとなかろうと、私たち人間は祝福について考えるとき、しばしばそれを数字で数えられるものとして考える傾向があります。中には自分の祝福を数えるとき、数え切れないほどたくさんあると言う人もいるでしょう。 もし自分が受けている祝福をリストにしたら、どのようなことがリストに挙げられるでしょう。祝福のリストには友人の数、子供の数、収入や貯蓄の額、学位、職位、住んでいる地域、住んでいる家の大きさや広さ、今まで旅行した場所、パートナーや配偶者、子供の成功などが含まれているかもしれません。 私たちはクリスチャンですから、もちろんこれらの祝福を自分の善意に帰することはありません。だから、自慢したり、自分がいかにこれらの祝福に値するかを話しながら歩いたりはしません。祝福を神様の善意に帰するのです。私は神様によってこれらすべての事、人を持つことができ、祝福されています!」と。 しかし、今一度立ち止まって考えてみてほしいのです。 私たちが所有しているもの、与えられているものが、本当に祝福のすべてなのでしょうか? 逆に言えば、多くのものを持っていることが祝福だとしたら、これらのものを持っていない人はどうなのでしょうか。家族、子供、お金、安定した仕事、立派な家、健康な身体などを持っていない人はどうでしょうか。結婚生活に苦労を覚えている人、行儀の悪い子供を持つ人、離婚した人、パートナーのいない人はどうでしょうか?そのような人々は神様からの祝福を受けていないということになるのでしょうか? では、マタイの福音書を一緒に読み、イエス様が祝福についてどのように語っておられるか見てみましょう。 今日の章は、イエス様の伝道の初期の段階に触れています。今日の聖書朗読の前の章にあたるマタイによる福音書4章は、イエス様が荒野での誘惑に打ち勝った後、伝道を開始するところから始まります。その直後、イエス様は最初の弟子にあたる、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを呼び、漁師としての生活を捨てて、イエス様について行くようにと言われました。(マタイによる福音書4:1-22)。 その後、イエス様はガリラヤ地方を回り、神様の言葉を教え、良い知らせを宣べ伝えました。イエス様は人々の病気や疾患を治し、(マタイによる福音書4:23)癒す者、奇跡を起こす者として有名になりました。人々があらゆる病人をイエス様の元に連れて来て、イエス様はその人々を皆癒されたので、大ぜいの群衆が彼に従うようになりました。(マタイによる福音書4:24-25)。 ちょっとだけ、考えてみてください。このような状況について、どう思いますか?病人、痛みや病気で苦しんでいた人たち、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者、これらの人たちが皆、治ったのです!(マタイによる福音書4:24)彼らはイエス様によって癒され、苦しみから解放されたのですから、祝福された者たちと考えることもできるかもしれませんね? しかし、イエス様によれば、それは祝福の定義ではないのです。イエス様は治ったこと、癒されたことを祝福と言わず、癒された人を祝福された人とも言いません。では、イエス様が祝福されたと言ったのは誰だったのか、という疑問が残ります。 マタイによる福音書5章は、"Beatitudes "(至福の教え)と呼ばれるものから始まります。これは、"Blessed are... "(幸いであるのは)で始まるイエス様の言葉集です。イエス様が弟子と群衆に教える、まず最初に神様に祝福された人たちとは、心の貧しい人たちのことです。 「 心の貧しい人々は、幸いである 」(マタイによる福音書5:3) 「祝福された」いう意味をもつギリシャ語(マタイの福音書がある新約聖書はギリシャ語で最初に書かれました。)の単語は、ここでは「幸い」と訳されています。これは、まず理解できますよね?クリスチャンでなくても、「祝福」という言葉が、一般的に良いこと、前向きなこと、幸せなこと、幸運なこと、という意味を指すと推測できると思います。 イエス様がこの地上におられた時代にギリシャ語を話す者が考えた「幸い」な人とは、人生の苦難や困難から解放された人、この世で何一つ不自由のない幸運な人だったそうです。つまり、「幸い」な人とは、教養のある人、富や資源のある人ということになります。イエス様が「幸い」いう言葉がそのような意図で人々の間で使われていたと理解しておくのは重要なことです。 マタイにおける福音書の5章では、イエス様が「幸い」という言葉を全く別の意味で使っていることが分かります。イエス様は、その当時の一般的な考え方であった多くのものが与えられている人々を「幸い」とは呼ばず、困難や試練や苦難に向き合っている人々を幸いと言ったのです。それだけではなく、そのことに対し喜びなさいと祝福の言葉を送ったのです。 ちょっと考えてみてください。 イエス様は、心の貧しい人々、悲しむ人々は幸いだとおっしゃいます。(マタイによる福音書5:3-4)祝福に値するのは、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々だと言います。(マタイによる福音書5:5-10)イエス様は、苦難を通り、神様の御国を地に実現するために働く人たちこそ、祝福に値すると教えているのです。 柔和であること、義を追求すること、憐れみ深いこと、心の清いこと、平和を実現すること、義のために迫害されること、これらのことはどれも簡単なことではありませんし、世の中の常識から言えばこれらは祝福とは見なされないでしょう。 イエス様は弟子達を伝道の働きに送り出す前に、真の祝福・幸いについて説くことが重要だと考えられました。 ご存知の方も多いと思いますが、私が21歳のとき、母が突然亡くなりました。私はこのことが原因で喪失感に打ちのめされ、ひどく落ち込むようになりました。その結果、当時アメリカに住んでいた私はミズーリ州の精神病院に入院し、数週間をそこで過ごしました。さて、アメリカの精神科病院がどのようなところかご存じない方も多いと思いますので、少し説明します。 アメリカの精神病院では通常、患者のケアや治療は、精神科医、看護師、ソーシャルワーカーなどのチームワークで行われ、それぞれの担当者が毎日患者をチェックすることになっています。 ある日、私はその日当直の精神科医のオフィスに行きました。「調子はどうですか」と聞かれたので、入院してから考えていることを正直に話しました。この精神病院で、今まで出会ったこともないような人たちと出会っていることを話しました。 当時、私はアメリカの大学に通っていたのですが、それまで私が出会った人たちは、学生や教授など、学歴や肩書き、学位を持っている評判のいい人たちがほとんどでした。しかし、この精神病院には、アルコール依存症や薬物依存症の人、貧しい人、苦しんでいる人、歯並びが悪い人、薄毛の人、話し方も身なりも、それまで私がアメリカで接してきた人とは全く違う人たちがいたのです。 そのことを思った時、私は自分の人生がそのような人々との人生と比べたら、ずっと恵まれていることに気づきました。家族がいて、いい教育を受け、お金に苦労することなく育ててもらった。入院している人たちと自分を比べる時、私ははるかに恵まれている。私の恵みは、そのような人々の恵みに比べて数多くあったということを自覚したのでした。 私は「どう考えても、他の多くの人が持っていないものを、私は持っているのだから、自分は幸せだと考えるべきだ。」と精神科医に言いました。すると彼は、「どうしてそんなことを考えるんだ。他の人の幸せと自分の幸せは比べるものではない。自分の痛みが他人の痛みより大きいとか小さいとか、そういうことではないんだ。こんなふうにお母さんを亡くした21歳はそういない。あなたが抱える痛みは妥当です。あなたの痛みや悲しみは容認されなければならない。それらを大したことではないと扱ってはならないのです。」 その瞬間 私は初めて、自分の悲しみの深さを、他人と比較して、私の悲しみはそんなに大変なことではないと決めるのではなく、自分の悲しみを感じるそのまま認めてもよいことを自覚しました。「私は傷ついている。」「本当に悲しい。」「悲しすぎてどうしたらいいのかわからない!」と、必死に叫びたい気分になりました。「誰か助けて!」 と叫びたくなりました。 私はマタイの福音書による5:3にあるような、本当に「心の貧しい人」になったのです。 ここで使われているギリシャ語の「貧しい」という言葉は、絶対的な貧しさを意味します。どんなに働いても、どんなに努力してもこの貧しさから抜け出すことはできない。このレベルの貧しさから抜け出すためには、誰か、あるいは何かが救ってくれるのを待ちながら、助けを乞うしかないという、究極の貧しさを意味します。 イエス様が「心の貧しい人々」と言ったとき、それは単にツイていない、運に見放された人々のことを言っているのではなく、あまりにも深い傷と悲しみで心がすり減り、その痛みを和らげるものが何もない、自分達では解決法が何もない、究極的にピンチな状況にある人々のことを指しているのです。 そうです。本当に心の貧しい人々を救えるものは何もないのです。私たちの三位一体の神様以外には。 精神科医と話をした後、私は自分の痛みと他人の痛みを比較するのを止め、自分が背負っている悲しみや傷を受け入れました。心が貧しい状態であること認め、何をやっても悲しみが取り除かれないこと、助けがなければ苦しい道からの出口が見つからないことを受け入れることにしたのです。病院で自分の考えや気持ちを書き留めるためのノートを渡されたので、ひたすら「助けてください」と書き続けました。「辛すぎる、助けて。」と書き続けました。 この話は以前にもしましたので、すでにご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、そんな人生の底辺にいた時、泣きじゃくる私のところにある日、一人の看護師が私のベットのところにやってきて、私の人生を変える言葉を語りかけました。 彼女は私にこう言ったのです。 「大丈夫。あなたは大丈夫。あなたはまた幸せになれるわ。すべての出来事には理由があり、神様はあなたが乗り越えられない重荷は与えられない。」 「神様が道を示してくれるの?また幸せになれるの?」と私は心の中で思いました。その時、暗いトンネルの先に光が見えているような気がしたのです。自分ではどうすることもできない私を、神様が手を差し伸べて、引っ張り出してくれたのだと思いました。 その瞬間、私は本当に祝福されました。 もちろん、キリストとまだ出会っていない21歳の私には、悲しみ、幸せ、神様というものがよく理解できていませんでした。私の心を押しつぶしている心の貧しさが、幸せという概念とどう共存していくのかさえも理解できませんでした。 しかしこれが、私の神様との旅の始まりでした。私が神様を見つけ、神様が私を見つけられたのは、私が自分の心を貧しくなることを許した時、助けを求める以外にできることは何もなく、頼れるものは何もないと悟った時でした。 皆さんは、「塩と光」についてイエス様が語られる箇所が「Beatitudes」(至福の教え)のすぐ後にあることに、少し違和感を覚えませんか?ここにどんな関係があるのでしょうか?イエス様は「心の貧しい人々は幸いであり、悲しむ人々はは幸いであり、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いです」(マタイによる福音書5:3, 4 &11)と言われました。 そして、こう続きます。 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」(マタイによる福音書5:13) え?幸いと塩にどのような関係があるのだと思いませんか? お恥ずかしい話、塩がどうして塩気を失くすのかが分からなかったので、Googleで調べてみました。すると基本的に、塩が塩気を失くすことはないことがわかりました。つまり塩に賞味期限はないのです。 しかし、塩が期限切れになり、塩味を失い、"塩らしくない "状態になる要因が1つありました。 塩は、他のものと混ぜない限りはずっと塩でいられるのです。塩気を保っていられるのです。お店で見かける塩、たとえば食卓塩は、塩が固まらないように添加物を混ぜたものです。塩そのものは腐りませんが、添加物は時間が経つと劣化し、塩を塩気のない、使い物にならない塩にしてしまいます。 私たちが自分を良く見せようとするとき、つまり憂い悩み、苦しんでいること、本当に深く悲しんでいること、心の奥底で絶望していることを隠して、塩が固まらないようにと添加物を入れるように、偽物の祝福や幸せで心の貧しさを満たそうとしている時、私たちが自分の心の貧しさを包み隠し認めない時、真の意味で神様に出会う機会を失ってしまいます。 塩気をなくした塩は、もはや、何の役にも立ちません。 私たちが塩気をなくすのは、自分がそうなるように作られた塩以上のものになろうとするときです。塩が自然に起こす固まりを、醜いからといって防ごうとすると、私たちは塩味を失い、神様が造られたままの、つまり良い、シンプルな、素の塩としてできる働きができなくなってしまうのです。 塩として造られた私たちが受け取れる祝福はこうです。心の奥底で抱えているものを明るみに出す時、それを隠すことをやめるときに、祝福がもたらされます。私たちが自分の苦しみの深さをありのまま受け入れ、他人の苦しみと自分の苦しみを比較することをやめ、ただ苦しみの中にある自分を認める時、神様は私たちに出会ってくださいます。天の国が私たちのものであること、私たちが慰められることを約束してくださるのです。(マタイによる福音書5:3-4) 神様は、私たちの心が貧しい時、喪に服している時、苦しんでいる時、そして、そうでないふりをしようとするのをやめる時、私たちに出会い、最も祝福してくださるのです。 私たちの塩気は、私たちの傷、痛み、悲しみ、苦しみを自覚し、もろさ、弱さを許した時に生まれます。 あなたの魂の状態はどのような状態でしょうか?正直に向き合っていますか?あなたの心の貧しさに向き合い、そんな塩気のある自分を受け入れ、神様がその塩を光として照らされる時、自分の塩気つまり心の貧しさを通して神様があがめられるために、神様はあなたを用いてくださいます。(マタイによる福音書5:15-16) しかし、自分の塩気、心の貧しさを認め、明るみに出さなければならない経験は、個人レベルにとどまりません。教会という共同体全体が祝福を受け、その祝福を流していくためには、教会レベルで心の貧しさを認め、明るみに出さなければならないのです。 先週の日曜日、礼拝の最中、聖霊に導かれ、出席していたメンバーの一人のために、みんなで祈りましたよね。これも神様による塩の祝福だと私は思いました。塩の祝福、つまり塩気、心の貧しさを隠さず明るみに出すと言うことは、神様のコミュニティーに祈られることを受け入れることでもあります。なぜならその行為は自分の葛藤や悩み、憂いを地の塩、世の光として変えずに、隠さず表に出すからです。そのような時に教会は祝福を受けます。 私たちのもろさ、弱さ、葛藤、悩み、悲しみ、苦しみを通して神様の光を輝かせることで、祈られる人、祈る人、すべての人が私たちと共に神様がおられることを実感することができます。それは何という幸い、祝福なのでしょうか。 みなさん、私たちの教会は幸いな、祝福された教会だと思いますか?もしあなたが神様の祝福を、礼拝堂に座っている人数、日曜学校やその他のスモールグループに参加している人数、あるいは毎週の什一献金の額(もちろん献金は教会の働きを続ける上で大切なものなのでその事の価値を否定しているわけではありません)から測っているのであれば、それは今日の聖句のポイントを完全に外していると思います。 イエス様が語っている幸い・祝福は、私たちの心の貧しさを受け入れることから始まります。私たちは教会としてどれだけ必死に、完全に神様の御顔を求め、私たちのうちに、そして私たちの間に神様の助けを求めているでしょうか?私たちは皆、自分の人生の、心の本当の状態を互いに分かち合い、イエス様の名前によって教会の兄弟姉妹から祈られることを許しているでしょうか?私たちは、自分の弱さやもろさを隠すのではなく、その弱さやもろさが周囲の人々の道を照らすように、神様が私たちにそのような祝福を授けてくださるようにと、心を貧しくしているでしょうか? 心の貧しさを通して与えられる祝福は、統計やデータ、数字には表れない祝福です。 祝福された教会とは、心の貧しい人々が集まり、その貧しさを隠すのではなく、神様に捧げ、それを通して神様の御業がなされるように祈る教会です。 祈りましょう。主よ、心の貧しさという祝福を感謝します。私たちの教会が本当に祝福されるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります、アーメン。 |
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May 2024
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