今月曜日の夕方で、ドアは鍵がかけられ閉まっています。 弟子たちは部屋の中にとどまり、自主隔離をしています。外の世界から距離をとっています。なぜかと言うと、それは感染症パンデミックのせいではなく、恐れているからです。彼らは心配して、恐れていました。 彼らと今の私たちが重なる部分はありますか?実際、日本は世界の他の国ほど厳しくしていません。ここ神戸は東京よりも状況は少し良いように感じます。しかし、未来は分かりません。人によっては、日本国内のコロナの状況について本当の事が伝えられているのか疑念を持っています。弟子たちが将来を確信できなかったように。私たちも今後何が待ち受けているのか分かりません。 ペトロともう一人の弟子は空の墓を見ました。マグダラのマリアは復活したキリストと話しをし、彼女は弟子たちにそれについて話しました。この話しを聞いた後、弟子たちがイエスが生きていた事を興奮して人々に話していると思ってしまいます。しかし、理由はわかりませんが、代わりに鍵のかかった扉の後ろに隠れることを選びました。 もしかしたら、弟子たちはイエスの逮捕と十字架での死にまだトラウマを抱えていたのかもしれません。弟子たちはイエスが戻ってきたと信じていなかったのかもしれません。弟子たちはイエスの信者として逮捕されることから身を守っていたのかもしれません。だから彼らは鍵のかかった扉の向こうに集まり、待ったのです。 私たちも待っています。 私たちは将来に不安を抱いていますか? CNNやNHKを何時間も見て、沢山の情報を知ってどう思いますか?情報に埋もれていませんか?情報は私たちの気持ちを落ち着かせるのに役立ちますか?それとも私たちをより恐れさせますか? この危機がどれだけ人々をイライラさせ、混乱させ、恐怖に陥れようとも、恐怖は最終決定権を持ちません。ヨハネの手紙 第1 4章18節には「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」とあります。私たちの希望は、イエス・キリストにほかなりません。私たちの希望は、人々と共有するキリストの愛に基づいています。鍵がかけられた扉の中だとしても、私たちは共にキリストの愛を分かち合い、ニーズに応えるように求められてきました。 今日の聖書朗読箇所に出てくる弟子たちはどうでしたでしょうか?鍵がかけられた扉に逆らって、彼らは希望を見つけます。イエスに希望。イエスは彼らと共におられます!イエスは私たちと一緒です! これらの閉ざされた扉の向こうで、この希望に最初に疑問を抱いた人はトマスです。英語では様々な事を疑う人を「Doubting Thomas(疑いのトマス)」といいます。彼は自分が聞き、見ているものに疑念を抱きます。(この出会いのため、ヨハネの福音書20章24節にあるように、聖書にあるように単に彼をデドモ、「双子」呼びません。)トマスはずっといわれのないひどい非難を受けてきました。トマスは正直に疑念を発言したがために、「疑いのトマス」という名前が、それ以来何世紀にもわたって付きまとうのです。可哀そうなトマス。 (最初の3つの福音書では、トマスについて何も触れられていないのは興味深いことです。ヨハネの福音書では、彼が現れるのですが、それでもトマスについては書かれているのは、155単語しかありません。) 弟子たちが「私たちは主を見た」と主張するのを聞いたとき、トマスはどう思いましたか。彼はそれが真実ではないと思いましたか? 弟子たちはマリアのイエスの報告を「たわごと」として却下したところです。ルカの福音書第24章11節では、「この話はたわごと」と思ったため、弟子たちは女たちを信じなかったと書かれています。 (翻訳によっては、女性たちの話は「怠惰な物語」であったとさえ言う) 弟子たちはイエスが十字架で死ぬのを見て、それから墓を見ました。イエスが復活できるわけがありません。 ですから、トマスは「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘の跡に入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言います。(ヨハネの福音書20章25節) トマスは、それがイエスである事の証明は、イエスの体の傷を見ることが最善の方法だと思ったのです。 しかし、なぜトマスはその傷に触れなければならなかったのですか? トマスは、それがイエスの亡霊ではなく、生身のイエスであることを確かめ、傷を確認するだけでなく、触る事でイエスが経験した痛みを感じる必要があったと私は思っています。イエスと繋がるために、イエスと連帯するために。イエスの手を触り、その手からイエスを感じたかったのでしょう。 私は人の手を触るだけで、だれの手か当てる事が出来るか分かりません。私は人の顔やその声を聞かないと誰だか認識できません。でもトマスはイエスの手とその傷を見たかったのです。日本でもアメリカでも手話では、手のひらの真ん中に触れることが、「イエス」を意味します。 手は私たちが人とつながる方法です。トマスは、イエスが生きていたと本当に信じるために、手でイエスとつながる必要がありました。トマスはキリストの苦しみを表す傷に触れたかったのです。 トマスの信仰は復活し、イエスを見て、彼の手を感じた時に、トマスの絶望感は、喜びの気持ちに置き換えられます。 トマスに対しイエスはこう言います。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(20章27節)。 トマスには、私たちが考えない他の特長がありますが、とりあえず聖書を見ていきましょう。 ヨハネの福音書11章16節では、トマスは、イエスがユダヤ人が以前にイエスを石化しようとしたユダヤに戻ることを決意したとき、ラザロの死後、勇気を持って弟子たちに「私たちも一緒に行って、主と一緒に死のうではないか」と強く勧めました。したがって、彼は「忠実なトマス」と呼ばれるべきです。 トマスは、最後の晩餐で弟子たちに代わって勇敢に話しかけた人物です。 ヨハネの福音書14章5節~7節でトマスは「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」するとイエスは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 そして、今日の朗読箇所をもう一度見ると、弟子の中で唯一トマスだけが、鍵のかかった扉の後ろで恐れ、隠れていなかったことが分かります。 トマスがイエスの手に触れて、それを受け入れ、「私の主よ、私の神よ!」と言ったのです。 この箇所がすべての福音書の中でキリストの神性が述べられている場所です。信仰の告白をするトマス。 トマスはこう言います「私の主よ、私の神よ。」先生ではなく、主だけでもありません。救世主でもない、しかし、神よ! トマスはイエスを「神」と呼んでいます、この部分はかなり重要です。それは、イエスが他の条件が無く、「神」と呼ばれる唯一の箇所です。 これらの言葉は、未来のクリスチャン、私たちの様な、イエスの姿を見ることなく信じるクリスチャンに直接関係してきます。 ヨハネの福音書は私たちのような人のために書かれています。私たちはイエスの復活を自分の目で見ていません。しかし毎日イースターの人として私たち自身の人生の中で復活を経験しています。 これまでに自分の信仰に疑問を抱いたことがありますか?今疑問がありますか?あなたの将来について疑いがありますか?世界の未来については? 人生の状況によっては、信念と疑念の間でぐちゃぐちゃになることもあります。そして、このパンデミックの間、多くの私たちにとって、非常に当てはまる事があります。 事故や危機が私たちの生活の中で起こり、なぜ神がこれを起こさせたのか?と思う事がありますね。子供が病気の末期症状になる。なぜ?コロナウィルスが世界中に広がったのはなぜ?私たちはクリスチャンとして、神が危機を作って私たちを苦しめたり、試したりしているわけではないと知っています。でもなぜ?なぜ神はこういった状況を作ったのか?と問いたくなります。 なぜ今このパンデミックが発生しているのですか?詩編作者も叫びながら、「主よ、いつまでですか?」 詩篇13章1節 個人的な話をさせてください。私の友達にKarenFay Ramos- Youngという人がいます。彼女は私のような聖職者であり、母親でもあります。私たちはカリフォルニア州バークレーで一緒に神学校に行き、その後、私たちは二人ともハワイの教会で奉仕しました。 (彼女はキリスト連合教会(UCC)で、私はメソジスト教会(UMC)でした。)彼女は現在LA周辺に住んでいます。 アメリカン航空の客室乗務員である彼女の26歳の息子テイラーがコロナウィルスに感染したことを知って驚きました。この動画をご覧ください。 https://abcnews.go.com/Nightline/video/parents-hear-son-time-coming-off-ventilator-coronavirus-69974184?fbclid=IwAR2ZLC1xyJsGc6TnENrtb3lQUSLBpRfVvpCZcooigiFFtYgzr1vLKQUr7uc 彼らは神と息子を助けてくれたすべての祈りと病院スタッフにとても感謝しています。 これは本当に祝福です! 苦しみの中で神が私たちと共におられることを忘れることがあります。私たちは信仰を持っていますが、どういうわけか疑いが浮上してきます。 信仰と疑いは良いバランスで人生の中で共存して良いのです。 イエスはこれを知っていたようです。 イエスは安全な鍵のかかった家を出た時に殺されるかもしれないと思っている弟子たちの恐怖感を無視したり却下したりすることはありませんでした。「父が私を遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネの福音書20章 21節)。 この命令は、恐怖と希望、疑念と信仰の緊張とともに生きる復活の話に私たちを招き入れます。この命令は、私たちがクリスチャンの社会で生活しているときに、信仰、質問、疑念をさらけ出して良いと言っています。この命令は、困っている隣人に奉仕することを勧めています。 復活の話は、堅く閉ざされた扉、心の閉ざされた扉の鍵を開け、それらを大きく開くことを私たちに促し、イエスの復活の福音を用いて人々を迎え入れるようにと促します。 弟子たちは主を見て喜んだ。また、恐れや疑いのまっただ中にいるとき、私たちはここでキリストに気づき喜ぶこともできます。恐れが単純に一掃されるということではありません。しかし、恐れはもはや私たちの生活を支配しません。主はより強力な力を示してくださっています。 疑いが私たちの信仰の一部である時があります。 しかし、疑問がある場合は、多くの場合、クリスチャンの姉妹と兄弟たちが私たちを動かし続けてくれます。このパンデミックの間、インターネット、ZOOMの祈りの会を通し、ここKUCの他のクリスチャンとの電話、そしておそらく他の教会での祈りがあなたを励ますことでしょう。 神が私たちの祈りに答えてくれないように思える時があります、誰かが答えられた祈りについて私たちに教えてくれます。チャック牧師は答えられた祈りについて多くの説教をしており、彼らは私たちにインスピレーションを与えてきました。彼はまた、このパンデミックによって「以前よりも良い」状態になると言っています。 (先週のチャック牧師のイースターの説教をウェブサイトで聞いてください。) 私たちは祈ることでいつでも神のもとに行って疑問を共有することができます。神はそれをすべて聞いたことがあり、私たちの疑問や恐れを神と共有することを恥じることはありません。私たちは復活したイエス・キリストを信じています。イエス・キリストは私たちを愛し、彼の永遠の愛を私たちに保証しています。 状況に関係なく、イエスは平和と生命を復活の証明として現れます。しかし、地震は依然として発生し、パンデミックが発生し、飢えた人々はまだ食糧を必要とし、愛する人は死ぬことがあります。イエスの復活の人生と平和は、私たちがそのような状況に出会い、生き抜く事を可能にします。 私たちの人生の扉の鍵が開くと、イエスは私たちに触れ、癒してくれます。 これはイースターの復活の話です。イースター信じ続けられているのは、それが起こり続けているからです!新しい人生が訪れます。暗闇の中で光が輝いています。現状の世の中では今まで以上にその必要があります。 まだ新しい人生を経験した事がない人もいるでしょう。もしかしたら、あなたはあなたの人生の扉がイエス・キリストによって解き放たれることを望んでいるかもしれません。祈り、忍耐強く待って、神を信じてください。 人生を強制することはできません。成長を急がせる事はできません。時に私たちの中ですでに芽生えている新しい人生の芽を認識するのに時間がかかることがあります。 それは神だけが見る事ができるものかもしれません。 先週の日曜日のイースターのために森本安音ちゃんによって歌われた素敵な賛美歌を聞きましたよね。(覚えていない方は、先週の礼拝を聞くことができます)。 球根には花があり。種の中にはリンゴの木。 さなぎの中には命がある 蝶はすぐに自由に羽ばたく! 寒い冬の中、春はめざめる その日、その時をただ神が知る 沈黙はやがて歌に変えられ 深い闇の中、夜明け近づく 過ぎ去った時が未来を拓く その日、その時をただ神が知る いのちの終わりは いのちの始め おそれは信仰に、死は復活に ついに変えられる 永遠の朝 その日、その時をただ神が知る パンデミックの間、私たちが未来を知る事はできないかもしれません。歌詞の中にあるように、「過ぎ去った時が未来を拓く、その日、その時をただ神が知る」 イースターのこの季節、イースタータイドとして知られ、ペンテコステの日曜日まで50日を意味します。ペンテコステは5月31日です。それまでにまた皆さんと礼拝堂で共に集えるようになっている事を願っています。 イースターそのものも、また今年のイースターは人生の変化と世界の変化についてです。イースターは死が敗北する日です。復活の約束は、死、全ての死、肉体的な死だけでなく、様々な形の死、生きた壊滅的な死や損傷、恐れ、絶望、またはコロナウィルスであるかどうか関わらず。しかし、死の力はもはや存在しません。 イースターとは、復活のその約束が現実となるまで、人生にその約束を吸収させることです。それがイースターの人々である私たちのクリスチャンの特徴です。 心の扉を開いて愛を迎え入れる人々は、イースターの人です-あなたは復活の人です。イースターの人として、私たちは死には支配権がないことを知って生きています。イースターの人は世界の痛みに耐え、それに負ける事はありません。 このパンデミックを通して私たちの世界の他の人々とつながるため、イースターの人々はお互い、KUCの家族だけでなく、隣人も助けます。イースターの人々はキリストの愛を共有します。私たちは愛が道であることを知っているので、イースターの人々は自分自身や他人の虐待を許しません。私たちが神の創造された世界に住んでいるので、イースターの人々はすべての人の命の尊厳を主張します。イースターの人々は、痛みを見つけたら緩和します。イースターの人々は可能な限り癒しと希望をもたらします。 私たちは今日、希望のイースターの人々として、おそらくいくつかの疑問を抱いているかもしれませんが、キリストは常に私たちと共にいるから、将来何が起ころうとも恐れを抱く事はありません。 希望の人になり、心の扉を開いてください。 復活したキリストはいつも私たちと共におられます。 神に感謝します!アーメン。 ほとんどの方がご存知でしょうが、私は状況やトピックに関わらず、何か面白いもの、時に不適切なものを見つけないではいられません。このウイルスが最初に始まったとき、私は食料品店に行って色々なな種類のコロナビールの写真を撮りました。
私の子供たちの間でこれらの画像/ミームのいくつかを共有しました。パンデミックにさらされているアメリカの自宅からのショットです。それはどんな状況でも笑わせてくれますし、私はよく笑えるように感じますが、このような時に感じる別のことがあります。それは泣く必要性、痛みを感じることです。ニュースとそれをどう受け止めるかがどういうわけか適切な感情をろ過して取り除いていきます。数字は無益のようです。家で座ってコーヒーを飲みながら大きな悲劇の恐ろしい話を読む - 自分の町で1000人もの人が一日に命を落とすというようなニュース、そして次の記事に目を移す。それはある意味間違っていると感じます。 しかし私は今日皆さんと、神様との関係に基づいて励ましの言葉を共有したいと思います。良い知らせがあります!ケリーと私が30年以上にわたって神様の存在を見て感じてきた生活から共有したいのですが、まず最初にCNNの報道を見て私たちが今直面している状況を一人の人の物語を通してある程度説明したいと思います。悲しいですが、イースターの喜びは金曜日の大きな悲しみから始まることを思い出したいと思います。私たちの希望のメッセージが、多くの人が今感じている悲しみや恐れに競って超えていくことができないように、喜びと悲しみは密接に関連しています。それはちょうど夫を失った女性の話です。42歳で3人の子供の父親で素晴らしい夫だったようです。ビデオの最初の60秒と、途中の4分間を映します。一緒に見て、実際の人々の間で、本当の意味で私たちの周りで何が起こっているのか、そして数字だけでは十分に伝わらない、多くの人々にとって本当の悲劇を認識しましょう。 https://www.cnn.com/videos/us/2020/04/04/maura-lewinger-full-intv-ebof-vpx.cnn 私が映像を共有した理由はこれです。私たちが今起こっていることを感じ、泣くことができなければ、この結びつきを見なければ、私たちの発することは浅く、また説教がちになります。私は癒される神様を信じますが、誰かが亡くなる瞬間にその場にいたことがあります。首をつった友人を下ろしたこともあります。私がこれらの瞬間を心に留めていないとすれば、私が本当にしたいのは共有なのに、そんなときに説教してしまうかもしれないと懸念します。私たちが知っている神様–私たちの必要に真に応えられることの出来る神様を傷ついた人々と結びつける、そのことを私たち全員にして欲しいと思います。ですので私はここから始めます。今はとても、とても厳しい時期ですので、神様が私たちに今何を言われるのか…。 ええと、ところで…ハッピーイースター! イースターは、そう言えると思いますが、誰もが想像しうるよりも良い結果となった大きな悲劇でした。ヨハネ書20章を今日読んだように、映画のようです。イエスが戻ってきたという予想外のひねった展開です。イエスは死んだ、そうです。彼に従った人々は砕かれました。今では納得できますが、当時は?困難、非常に困難です。そして誰が次に何が起こるかを本当に想像できたでしょうか。「あなた、戻ってきたんですか?亡くなったのに、また私たちと一緒にいるんですか?!」 飲み込むのは難しいですが、非常にクールです!数年後11人の少年が座っているのを想像します。そして次に何をすればいいのかわからずにみんなで座っていたところに突然彼が現れた!わー、びっくり!ですよね。すべてを変えた歴史の瞬間。イエスは死に、そして死からよみがえり、世界は「以前よりも良くなった」 イースターの物語、聖書の最も馴染みがある箇所であると同時にゆっくりと読む必要があります。それは、心が物語を熟知しているにもかかわらず、心が感じるべきものを感じていないという現在の視点からではなく、それが起こったときの感覚で持って読まなくてはいけません。私は彼らがイエスに何をしたかについて泣いたことがありません。ですので私がキリストのイースターの復活とよみがえりに対して人が感じる本当の興奮を感じないのも不思議ではありません。それに取り組んでいますが、要点はわかります。それが本当に史上最も驚くべき物語の1つであり、「以前よりも良い」結果である究極の形と感じています。 ですのでケリーと私は2009年からある方法で祈っています-祈りの戦略-そしてそれは「祈り:前よりも良くなる」です。イースターの展開と同じように本当の悲劇がありました。私たちは皆泣いたでしょう。彼らはイエスをひどく扱いました、殴打して殺しました。悪夢です。本当にそうです。イエスの母親が十字架の足下にいる様子を描いてみてください。その後、数日後…うわー、それは単に言葉で言える以上の良くなったレベルではありません。ですから私たちはこの祈りで特定のイベントや状況において祈るのです -「前よりも良くなった、そしてそれはこのように始まった。」 私は日本にいて、アメリカにいるケリーとスカイプで話していました。そのとき娘のリンジーからの電話を取らなければとケリーが言いました。彼女はすぐにコールバックしてきました。「リンジーが事故にあって車は高速道路で全壊した、それしかわからないから行かなくては、でも祈りましょう。」 私は神戸にいる家族と一緒にいて、全員がショックで立ち上がりました。そのときに出てきた言葉を思い出すことができます。「これまで以上に良くなるように祈りましょう」、どういう意味であっても! 私たちは時に欲しいもの、必要なものを考えて祈ります。時には答えを想像するのが悪かったり難しかったりして「神様、何かしてください、何か良いことで驚かせてください。押しつぶされそうです」としか言えないこともあります。 モーセが国全体と紅海にいる状況、彼らは脱出してきたところです。誰が次に起こることを想像できたでしょう?何かへの信仰があり、次に誰かへの信仰があります。次に何が起こるのか、または神様がどのように状況を修正することができるのかが分からないとき。これらはチャンスであり、困難な時期、困難な課題、そして次に何が起こるかが明確ではなかった瞬間を生きてきた人間として言います。私はただポジティブであったり、いいことを言ったりしているのではありませんが、つまり今は神様が私たちと私たちの周りの人々のために何ができるかを見るための時間です。 私たちは祈る必要があり、これは私が最も祈りに導かれたと感じている祈りです - 神様、この「前よりも良くなる」に至らせて下さい。 2009年の話と自動車事故に戻ります。ケリーと私は祈りました。神様は以前より良いものとされました。私たちはその意味を明らかにしませんでしたし、私たちのそれぞれが本当に意味するところを考えたとは言えませんが、単に神様は物事を成される、私たちが想像できないことを成されると知っていました。そしてそれが私たちの歴史であり、経験であったことを知っていました。それが私たちが「前よりも良くなる」と祈ったことでした。 もっと時間を割いてストーリーをとてもクールにする詳細を共有したいのですが、時間の都合上、これだけを言います。それは実際の事故でしたし、決して良くはありませんが、深刻な怪我をした人はいませんでした。リンジーは背中の問題を抱えていましたが、治療は非常に費用がかかり、緊急性はありませんでした。今では彼女は治療を受けて良くなりましたし、保険がすべてカバーしました。彼女の車は全壊でしたが、払われた保険は奇妙なほど高額で、新しい車の代金はほぼカバーされました。その新しい車は、ケリーがそのすばらしくクールでスポーティーな真新しい2008年のホンダシビックを元値の半額で見つけたのですが、その車は事故車を作り直したという物語がありました。でも点検をしてディーラーも完全に大丈夫だと言いました。それが私たちの新しい車となりました。 数か月後に私たちの機械工から車にちょっと問題があってトランスミッションがダメになるからすぐに交換する必要があると言われた別の話もありました。 非常にお金がかかる修理で私たちは待つことにしました。 これは私たちが「以前よりも良い」と祈ったところの物語や証言の始まりだったとだけ言います。なぜならそれがイースターのメッセージ、つまり福音のメッセージだからです。それは単に「天にあるごとく地上にも」と祈る別の形であるのです。 私たちはみな、創世記1:27にあるように(神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。)私たちをご自身のイメージで作られた方と共に歩くために作られました。私たちは人生を楽しみ、神様との関係、そして人と人との関係を楽しむことを意図されています。しかし私たちは堕落した世界に住んでおり、それを自分自身の中に、私たちの周りに見ることができます。しかし私たちには以前よりも良くなる機会があります。恵みを、それは私たちが値しないものですが、得ることができます 恵みとは、罰や私たちが実際受けるに値する結果の代わりに、神様が私たちに与えてくださる以前よりも良い人生です。 これを体験することは、「以前よりも良い」ということの意味を知ることです。 私はこの一節がとても好きです。ローマ人への手紙8:28「神は神を愛する者たち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて万事を益となるようにして下さることをわたしたちは知っています。」 人が「これは神がされること」だとか、「これには神様の理由があるに違いない」、と言うときに私はよく反対します。私は神様が私たちが見ている多くのことをされているとは思いません。人によく言っていたのですが、私には養子がいて、神様がコントロールされているとか、神様が事を起こしているとは誰も言えないと。いいえ、天国ではないこの世界で人は邪悪になり得るし、恐ろしい事が起こり得ます。天国を地上にもたらせるか、闇に光をもたらせるかは私たちが神様と共に働くかどうかにかかっています。そして良くないもの、悪しき者のためにあるものを吸い上げて好転させることができるのが神様なのです。 神様は多くの人が言ったり考えたりするようにコントロールされていません。 私たちが新しい車を手に入れたり、娘が背中のために必要な治療を受けたりするために事故を起こしたりはしませんでした。 盗み、殺し、破壊しようとする本当の敵がいます。 多くの場合、神は敵がすることに対して非難されます。 それ自体が別の日のメッセージ全体になるでしょうが、宿題としてこのことについて考えてみてください。その一節は、神が悪いものを取り上げ、それを良いものと、とても良いために恐らく以前よりももっと良いものとすることができることを意味します。 心臓発作や突然の健康上の出来事があり、それが突然新しいダイエットであったり、定期的な運動のきっかけとなった人を知っているのは私だけではないと思います。そのような恐ろしい出来事を経験した多くの人々は、前よりも良くなっていると言えるでしょう。 危機は、通常の日常生活ではできない方法で私たちを神に導くことができます。ではどのように祈ればよいでしょうか。 「神様、私たちを、そしてこの状況を前よりも良くなるようにさせて下さい」 というのは一つです。今この不確かな時にあって私はこの祈りを祈りました、そして皆さんにも同じことをするように招きたいと思います。 これは悪いこと、それは間違いなく、私は神だとは思いませんしむしろこの世で起こることで、私たち全員に降りかかる雨ですが、私たちは神と一緒に立ち、神を呼び求め、神に祈り、私たちの命が前よりも良いものとなるように求めることができると私は思うのです。特に自分の生活の中で、見上げたり、神の必要を感じたりするのに十分な瞬間がなかった人のために祈ることが。 この状況を、「神様、どうぞ私たちに触れて下さい、私たちが出会う人々に触れてください」と祈る機会としてとらえればどうでしょうか。 良い人生を送ってきたことを私たちが知っている特定の人々、多分これまで飢えというものを感じたことがなく、でも今は本当の飢えを感じている人たちのために祈るためにこの時間を活用したとしたらどうでしょう。神は私たち全員に食事を用意してくださっています。しかし多くの人にとっては飢えが足りず、食べに来た人はほとんどいません。今、私たちは地域社会にあって「これまで以上に良い」が見えるよう、祈りたいと思います。 祈りましょう。神様、何が起こったとしても私たちがあなたのもとに来て助けを求められることを感謝します。近い将来に何が見えなくても以前よりも良いなにかを想像することができます。あなたは奇跡の神であり、私たちの避難場所です。父であり、友人であり、救い主であります。私たちが行き続けられるように死の墓から戻って来てくださって感謝です。天国に戻られた時に聖霊を送ってくださって感謝します。すべての状況において私たちを導き、備えてくださり感謝です。今、神様との関係がわからない場合、あなたが確実でありたいのであれば、どうぞこの祈りを私と一緒に祈ってください。これは結婚するようなものです。たくさんの誰かと出会い、心の中でこれが愛であると知って、結婚することを知っています。でもその人についてすべて知っていたでしょうか?いいえ。彼らは自分達が直面することをすべて見ていたのでしょうか?いいえ。結婚は、頭の中でははっきりしていないかもしれない何かを心ではわかっているという信仰の飛躍であります。幸運にも神は実際にあなたがデートしたときよりも結婚したときのほうがいいのです!ですから心に耳を傾けてください。私はあなた方のために週を通して祈ってきました。そして今この瞬間、私の後に続いて祈ってください。 神様、あなたが誰なのか、そしてこれがどのように機能するのかはわかりません。しかし、あなたが私をあるがままに連れて行って下さるのであれば、私はあなたに従いたいです。方法を教えて下さい。助けて下さい。「前よりもっと良く」なりたいと願います。創造主であるあなたと和解を望みます。 主イエスの御名によってアーメン。 その祈りを祈られたのなら、安心してください。神様はあなたに耳を傾けてご覧になっています。詳細をあまり心配しないでください。その祈りを祈ったなら、私に知らせてください。pastorchuck@kobeunionchurch.comにメールを送ってください。あなたと共に歩かせてください。 そして神を知っている人たち、つまりあなたが神様と結婚していると感じている人たちにとって、今はあなたの誓いを新たにする絶好の機会です! この状況の重大さがあなたを動かし、思い出させてくれます。私たちすべての脆弱性と神様の必要性を真の方法で。日曜日の朝だけでなく、毎日の方法で。私と一緒に大胆に、真に、そして心からこのように私と一緒に祈ることをお願いしたいと思います。 神様。今は多くの人々にとって恐ろしい時間であり、非常に悲しく、厳しいです。しかし私はあなたが私を知っていて下さりとても嬉しいです、そして私はあなたを知っています。「以前よりも良くなる」ことを教えてください。この時間を使ってこれまで以上に私たちを近づけて下さい。周りの人に近づく方法を教えて下さい。私と家族を守るだけでなく、その機会をつかめるように手伝ってください。人の必要とするものを見られるように、またこの暗闇の中で光になることができるように助けて下さい。これまで以上にあなたの方法を見せて下さい。私の中に清らかな心を作って、私の内の正しい霊を新たにして下さい。あなたの御前で前よりも良いものとして下さい。私をより良くして下さい。主イエスの御名によってアーメン。 もしこのことについてもう少し話されたいと思われれば、このあと10時30分にケリーと私にジョインして下さい。サイト上にリンクがありますので、クリックすればOKです。メグも日曜学校のクラスをズームで行うことになっています。また後ほどお会いしましょう。 少し時間をとって、次のシーンを想像してほしいと思います。
イエス・キリストが明るく晴れたパーム・サンデーに、ロバの背に乗り堂々と街の正門から入ってくる姿を。頭を高く掲げ、群衆がお祝いを叫び、尊敬と賞賛のしるしとして彼の前にナツメヤシの枝を敷いている姿を。 確かにキリストの福音は厳しい時期を通ってきました(そしてこれからまだ厳しい道はもっと続いていきます)が、この瞬間キリストは勝利を収めました。 まばゆく輝いていました。 イエスキリストは王の中の王です。 すばらしい場面だとは思いませんか? メシア、私たちの救世主であるイエスは勝利を収め、周囲から認められ、尊敬され、祝われ、歓迎されたのです。考えるだけで心が踊ります。 しかしもちろんこれは完全なフィクションです。 本当の話ではありません。 信じられないですか? では一緒に聖句を見てみましょう。 聖句の始まりはイエスと弟子たちがロバとその子ロバを「獲得する」ことから始まります。 その後弟子たちは上着をロバに乗せ、イエスがより快適に乗れるようにしました(ご存じかもしれませんが、ロバは特に快適な乗り物ではないためです)。 彼らが街に向かって移動し始めると、途中で群衆が集まり始めます。この群集の中にどんな人がいるのでしょうか。シュロの葉が敷かれ、「救い給え」という意味のホサナという言葉を群衆が叫ぶときイエスはまだエルサレムには入っていません。ですからここで集まって「ダビデの息子にホサナ」と叫ぶ人々、イエスに敬意を表し尊敬を込めて枝葉を道に投げ込む人々は、城壁の内側、つまりエルサレムの都内に滞在できるような裕福で生活に余裕がある人達ではなかったでしょう。過ぎ越しの時期にあって都と都周辺は人で埋め尽くされ、この時点では数週間とまではいかなくても何日にも渡り混雑していました。この時点でエルサレムの中にいる人々は、ほとんどが裕福で力や権力を持つ人々でした。過ぎ越しを見越し早い時期にエルサレムに来れる財政的余裕のある人、または最初からエルサレムにすでに住んでいた人々です。 それと対照的にエルサレム城壁の外にいる人々はどうでしょう?城壁の外にいる群衆の大勢が敬意を表して自分の上着を道に敷いたとあります。彼らは過越祭のためにできる限りエルサレムの都市に近づこうと、巡礼の道を進んできた者達であったでしょう。祭りに集う人混みを避けるために、早めに街に入る経済的余裕はなかったものの祝日のために聖地に向かおうとする人々。この群衆の中には城壁の外に住んでいる人々もいることでしょう。貧しい人々、空腹を覚える人々、障害者、そして社会に見放された人々。なんらかの理由でこの日、あるいは他の日であっても街の中には居場所を見つけることができない人々。 おそらく道に自分の上着を敷く以外に、余分な上着を持ち合わせてはいなかった人々。「いと高きところに、ホサナ」と呼ぶ人々はこのような状況にある人々でした。限られた状況にありながらもイエスを歓迎するこれらの人々は、イエスがメシアであることをすでに理解しており、当然表されるべき尊敬を示すために集まった人々なのです。 イエスはこれらの群衆を通り抜け、正門を通ってエルサレム市内に入ります。…ですが実際には正門ではありません。 正門は偉大なパレードを見るために金持ちや権力を持つものが集まる場所です。祝日やお祝いをの様子を監視し、何の問題も起こることにないようにやって来るポンテオ・ピラト総督と総督に仕えるローマ人の人々が華々しい歓迎の中到着する場所です。 キリストは正門の近くからエルサレム内に入られたのではありませんでした。 イエスは代わりに裏門の1つから入られたと信じられています。黄金の門だったようですが、あまり使われなかったため、後にレンガで塞がれたようです。つまり大切な門から市内に入らなかったということですね。想像とは違うのではないでしょうか? キリストがエルサレム市内に入ったとき、それが本当にホサナと叫ばれ、歓迎された時でしたよね。ええと…それも違います。 10節を見てみましょう。「イエスがエルサレムに入ったとき、都中が騒ぎ立ち「これはどのような方なのか」と言いました。もちろんエルサレムの都の人々はイエスが壁外で大きな歓迎を受けたことを認識していました。イエスについて大まかに聞いていた人もいたかもしれません。しかしエルサレムの社会で富や権力、特権を持つ人たちは誰も彼のことを真の意味では知っていませんでした。 都中の反応は基本的に「イエスとは誰だ?」という都の声に要約されます。もちろんイエスがパームサンディの後にエルサレムに入り、いつものようにミニストリーを始めると人々は気づき始め ます。イエスが愛と平和を説き、奇跡を起こし、そして私たち全員が知っているようにイエスは穏やかで人の心を持ち上げる人物であるということを。 実際そうでしょうか?今日の聖句の後をもう少し読み進めてみましょう。 第12節:「その後イエスは神殿に入り、神殿で売買していたすべての者を追い出し、両替商の台や鳩を売った人々の席を覆した。」ヨハネの福音書ではイエスがこれらの行動をむちを使ってやられている様子がさらに強くわかります。 イエスはエルサレムにいる裕福で権力を持つ人々の間では比較的知られていませんでした。貧しい人々や都の外では抑圧された人々に祝われ、統治者のように現れると、すぐに寺院でお仕置きに見えるかのような行動を取り始めます。これは私たちが想像していたイエスではありません。 これは私たちが期待していたパームサンデーではありません。これは終末です。 さて皆さんが終末という言葉を聞いて心配しすぎる前に、少し時間を取って終末とは何かを説明したいと思います。多くの人にとって、聖書が言う終末とは「死、戦争、火、そして炎など世界の突然の終わり」と考えています。 小惑星の衝突、核戦争、再臨などを想像します。 しかし、終末はそのように突然で恐怖に怯える悪夢ではありません。終末は世界や社会を完全に終わらせる瞬間ではありません。むしろ終末は劇的な転換点のようなものです。 しばらく社会に存在して機能していたものが、そのままでは機能し続けることが不可能になること、そのため社会を根本から変えるような方法で世に現れるもの。 終末とは既存のシステムを壊し、お互いやこの世の価値観についての私たちの理解を壊すことです。 それは必ずしも突然または劇的であるとは限りません。 多くの場合時間がかかります。しかしそれは確実にターニングポイントであり、その「終末」が起こった後、物事を同じようにみることはできないでしょう。 終末は突然恐ろしい悪夢を経験するようなものではありません。すでに非常に多くの人々と社会にとって現実になってしまった悪夢から目覚める(または目覚めさせられる)ようなものです。 今日の聖句から読んだ、イエスの都への到着、パームサンデーについての全てが終末です。ロバから神殿の清めまで、この日曜日の物語に起こる全てのステップは、富や権力が持つ力とは異なる、むしろそのような力に反論するようなことが起きています。 なぜロバに乗られるイエス、子ロバを引いたメスのロバに乗られるイエスがおられるのでしょう?それはゼカリヤが「それを預言した」からというだけなのでしょうか? ローマ軍の指揮官や総督にふさわしい壮大な雄馬、巨大な軍馬に乗ったポンテオ・ピラト、そして同様に力強い動物に乗った兵士達に囲まれた姿とは対比して、約束されたメシアであるイエス・キリストは貧しい人々だけの歓声を受けながら、偉大で勝ち誇った獣ではなく、子を引き連れた小さな雌のロバに乗って裏門から入って来られます。この対比こそが終末です。ただ、あなたが期待していたでような対比ではないでしょう。 先週Facebookに私の友人がある画像を投稿しましたが、かなりおかしい画像でしばらくの間私はそのことを考えていました。画像は2つの写真を並べたものです。 左側にはマッドマックスやウォーキングデッドなどのこの世の終わりを描いた映画に出てくるような、革張りで、銃を持ったヒーローの写真がありました。 それはある種の「見栄えの良い一般的に思われる世紀末のヒーロー」タイプで、見ればすぐに認識できるようなものです。また画像の上部には、「私が予想していた終末」というキャプションが付けられていました。 右側には別のイメージがありました。 30代か40代のスウェットパンツとバスローブを身につけた無作為の女性がソファに座っていて、おそらく彼女の子供と思われる数人に子供達がやんちゃに跳ね回っている姿でした。そしてこちらのキャプションには「私が得た終末」とありました。おかしくして笑いこけてしまいました。 しかし正直に言えば本当の真実がそこあります。間違えないようにしましょう。コミュニティとしてだけでなく、国としてだけでなく、人間の家族全体としてこの世にいる私たちが経験していることは間違いなく終末です。 昨年のこの時期、私たちのほとんどは貧しい人々、病気の人々、そして私たちの中で最も弱い人々の世話をするためにすべてをやめることは、理論的には良い考えであってもあまり現実的ではないと信じていました。 昨年のこの時期、私たちの多くは看護師やその他の医療従事者を…重要であると考えていましたが、彼らが間違いなく、全面的に大事にされているようにするほど十分には考慮していませんでした。 昨年のこの時期、トラックの運転手、食料品店で働く人、配達員、教師は良い存在であったとしても不可欠ではないし、あるいはその仕事に対する必要最小限の生活賃金に見合った人とすら信じていませんでした。 去年のこの時期、私たちの多く、特に日本で子育て中の母親は今日の聖句にある母ロバのようなものだと考えられていました。存在してはいても、重要なもの、私たちの社会を本当に支える骨を形成する存在だとは考えられていませんでした。 この国の親、母親についてはどうでしょうか。長い間取り残され、ここ日本では軽視されていた母親の存在はコロナウィルスの騒ぎを通して一層大きくなりました。この学校閉鎖を通し子供たちの教育の全般を面倒見るだけでなく、家事管理全般を扱い、物資を探し、周りを非常に清潔に保ち、社会的に距離を置くのに必要な労力を割いています。文字通り世界を救っているのです。 これは…私たちが予期した終末ではありません。私たちの罪深い、ねじれた期待は、力を持つ者が立ち上がって状況を制圧し、力と決意を持ってその日を救うような、火や死や戦争の場面の終末を探すようにさせました。私たちを救うために、政府や首相、大統領、企業、そして富、権力、特権のある個人に私たちはいまだ目を向けています。 しかし私たちが得た終末はキリストにおける終末です。キリストは権力者たちに権威を与えるために来たのではなく、神殿に来て祝福したり、謙虚に指導者たちに助けを求めたりしなかったのです。私たちは 都の中でゆったりと構えている人々が「これは誰か?」と尋ねる一方で、病人や苦しむ人々、貧しい人々、そして「ダビデの息子ホサナ。主の名によって来る人々に祝福あれ!いと高きところにホサナ!」と叫ぶ抑圧された群集に迎えられた救世主における終末を私たちは示されました。私たちは救世主が、最初に選ばれたものとして子育て中の母親やその子供たちがもたらす終末を得たのです。 私の友人たち、私は今日ここに立って、やがてすべてが正常に戻ることを伝えたいと思います。学校は再開し、ビジネスは通常どおり再開し、この恐ろしい劇的な変化はすべて終わります。それは確かに慰めのメッセージになるでしょう……しかし、それはキリストのメッセージではないでしょう。 キリストは終末のメッセージを愛を持って私たちのところに来られます。私たちがキリストと一致するとき、私たちが救い主に従うことを選択するとき、私たちは都の壁の外に出て、特権と権力を脇に置いて、いと高き神様の名によって来られる方に「ホサナ」と叫ぶことができるようになります。 私たちがイエスに身を委ねるとき、私たちは豊かで力のある人々やシャマイ・パリサイ人の側や、弱者や社会に阻害された人々に囲まれたキリストを目前にして「この人は誰か」と尋ねた宗教指導者たちの側にいないことを選択するのです。 友人の皆さん、自分の内側を見ましょう。私たちの心の最も深い部分を調べて、この人物が誰であるかを本当に知っているかどうか考えてみましょう。もし私たち自身にその事を問うができるなら、私たちが時間をかけて、エルサレムの壁のように私たちとイエスの間に立っているものが何かを見ることができれば、もし私たちがそれらの壁から踏み出すことができるなら、空腹の人に食べ物を与えること、喉が渇いた人に飲み物を与え、見知らぬ人を歓迎し、裸の人に衣服を着せ、そしておそらく今最も重要なこと、病気の人のためにできるすべてを行う、これらをするのに妨げとなるすべてのものを一旦横に置いておき、「わたしの父によって祝福された人々よ来たれ、あなたのために準備された王国を継承せよ」と言われたらどうでしょう? 皆さんおわかりでしょう、これがパームサンデーでのキリストのメッセージです。終末は世界の終わりである必要はありません。あなたがイエスの思いと教えと一致しているのであれば、あなたは救い主のしもべであり、虐げられ抑圧された者に対する友人であり、創造物の管理人であり、神に愛されているならば、キリストがもたらす変化はあなたにとって破壊的なものではありません。 むしろそれは機会です。私たちが主張する信仰を実現し、自身を顧み、魂を深く掘り下げ、発見したものを用いて、新しい、より良い神様の御国をこの世界に築くチャンスです。壊れた世界に足を踏み入れ、贖い、再建する教会になるチャンスです。美しい会堂に集まるグループであるだけでなく、コミュニティやその周辺で良い活動を行うチャンスです。このコミュニティ、そして世界にあって、神の手足となるチャンスです。 私たちは、すべてを救い、すべてを赦し、すべてを愛するその方に仕えるよう召された神の子どもと呼ばれた存在です。そうすることが終末を乗り切るのにベストなアプローチと言えるでしょう。 ですから神の善良で忠実なしもべたち、力を合わせて助け合いましょう!困っている人を助けるために私たちができることはたくさんあります。クラウディア牧師が率いる新しいケアチームのミニストリーに参加するのが1つの良い簡単な方法です。マスクを作ったり、食料品を手に入れたり、物資を共有したり、この新しく変化する世界に苦しんでいる人々のために祈りましょう。外出を止めて、社会的距離に留意し、衛生に気を配り、消毒し、このウィルスがこれ以上広がらないようできるすべてを実行しましょう。今週私たちは地域社会の人々が支援に取り組み始めたのを目にしました。それを通して私たちはすでに神様の恵みと憐れみが地域社会の中に流れているのを、見ることができます。 神の愛の交わりとして一緒に、一致して参加しましょう。ロバに乗るメシアに仕え、この予期しない終末のメッセージを通して、一緒に寄り添い、助け、奉仕し、愛する準備をし、いと高きところにホサナと叫びあいましょう。 アーメン、アーメン! |
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May 2024
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