伝道者の書3:1-15
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 4 泣くのに時があり、ほほえむのに時があり。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 5 石を投げて捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 9 働くものは労苦して何の益を得よう。 10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。 11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。 今年は良い年でしたか?それとも悪かった?または、まずまずの年でしたか?または、コロナ感染症で1年の計画が狂ったでしょうか? 去年の今頃は何をしていましたか? 私たちが2020年を振り返り、2021年を迎えるにあたり、今年最後の日曜日の礼拝にこの聖書箇所を選びました。 2020年、家で沢山の時間を過ごした方もいましたね。仕事を失ってしまったから、たくさんの時間を持て余した人達もいらっしゃいます。私の出身地であり、現在チャックとケリーが住んでいるカリフォルニアでは、ロックダウンだから家に居なければならなかった人達もいます。 神戸では世界の他の場所と比べると、そこまで状況は悪くなかったのかもしれませんが、人と会う機会を失われ、教会の通常礼拝もイベントさえも開催する事が出来ませんでした。神戸ユニオン教会のミニストリーチームは、必要に迫られてzoom(オンライン会議システム)のエキスパートになりました。牧師チームも、どうやってオンライン礼拝が出来るかという事を学びました。Zoomを始めとする現代のテクノロジーのおかげで、繋がりを保ち続ける事はできましたが、簡単ではありませんでした。 自粛期間中、寂しくて落ち込んだ人達もいらっしゃいます。人によっては、たくさんの時間を家で過ごす事ができて喜んでいらっしゃる方もいらっしゃいます。それぞれの方々が、それぞれの形でこの1年(詳細に言うと、今年の3月からですね)を過ごしたと思います。 時間の使い方はどうでしたか?私は、常に時間に追われる生活を送っているので、9月11日に階段につまずいて、手首を折った時は、しっかり傷を癒す時間をとりました。そして、片手で様々な事をするやり方を習得しました。着替え、料理、水のボトルを空ける、ミルクの紙パックを開けるなど、通常なら両手でサッサと出来る事に時間がかかり、時間をゆっくりかけるという事を学びました。全ての事に2倍時間がかかる感じでした。しかし、怪我をしたことで、時間の使い方について考える事が出来ました。 時間を大切に使っていますか?それとも無駄にしている?神様と十分な時間を過ごしていますか?霊的な成長のための時間をどのように過ごしていますか?これらの質問は熟慮すべき項目です。 教会として2021年に霊的な成長(spiritual growth) をするために、1つの希望は、教会に来たい人達に向けて、1月に教会を開けたいと思っております。チャック牧師がそれについて、1月10日の説教とプレーヤー・グループ(祈りの会)でもう少し詳細をお話しする予定です。 今朝の聖書箇所に関する2つの言葉についてお話させて頂きます。カイロスとクロノス。聖書のギリシャ語を学ぶ楽しさですね。これらの言葉をグーグルで検索すると、カイロスは新約聖書で86回使用されており、「収穫時期」などの適切な時間、「瞬間」、「季節」を指しているのに対し、クロノス(54回使用されています)は、客観的な時間を指し、1日、1時間、1分、1秒または期限などを指します。(使徒の働き13:18と27:9) 私たちは、クロノス時間で物を考えがちです。1日は24時間と捉え、労働日を日数や時間で考えます。To do リスト(やらなければいけない事リスト)をこなすのには、時間が足りないとなります。私たちが地球で過ごす時間とはとても短く、地球上で常に良い管理人として、神を賛美したいと願っています。 カイロスは神の次元であり、過去、現在、未来と特徴づけられていないものです。 エペソ人への手紙5:16(NLT=ニュー・リビング訳)では、「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。」そして、エペソ人への手紙5:16の時代ではカイロスが使われています。そしてテトスへの手紙1:3で使われている「正しい時」「定められた時」と呼ばれる事もある、歴史を通して神が定めた時を指します。クロノスの考え方はパウロがエペソ人への手紙5章で私たちにカイロスを贖うように指示します。適切な時と季節を見極めるという事です。 例えば、子供たちが小さい時しか私たちは子供をお世話する事は出来ません。友達が痛みを感じている時、彼らを救える時間というのは少しの間しかありません。 ある私の知り合いが人生の苦境の中にいる時、彼女と一緒にランチを食べに行きました。もちろんランチという事で、私のクロノス時間を少し使いました。しかし、この時に、私は福音を伝える事が出来ましたし、一緒に祈る事が出来ました。そして、この友達は、キリストに近づけるように成長したいと思ったのです。これはカイロスの時だったのです。 イエスが来た時、過去の約束を満たしてくれるものでした。洗礼者ヨハネはマルコの福音書1:15で「時が満ち、神の国は近くなった。」 ある説教者は「この神聖なカイロスは、飼い葉桶の中の赤ちゃんの泣き声でクロノスを切り裂き、最適なタイミングで創造への道を切り開いた」と詞的な言い方をしていました。 カイロス時間の昔と今。神がどの様に作用しているかを垣間見ることが出来ます。 Turn, Turn, Turn! という曲をご存じでしょうか?「To everything, turn, turn, turn – there is a season, turn, turn, turn; and a time for every purpose under heaven.(全ての物には季節があり、天の下、全ての目的に対してふさわしい時がある)」 Judy Collins やThe Byrds、Joni Mitchell たちがこの曲を歌っているのを聞いていました。60年代や70年代、80年代初頭でもとても有名な曲でした。 題名以外、この歌詞はPete Seeger が書いていて、伝道者の書:3章の最初の8節から一語一語引用されています。(ご存じでない場合は、Peter Seeger の「ターン、ターン、ターン」と言う曲をグーグルで検索してみてください。)またはThe Byrdsを検索して曲を聞いてみてください。 https://www.youtube.com/watch?v=pKP4cfU28vM https://www.youtube.com/watch?v=8fmjB5OWtkk 私は上手く歌う事が出来ないので、ハミング(鼻歌)で歌うのが好きです。人生の様々な瞬間に「伝道者の書」のこの部分に戻り、読むことが好きです。この言葉は、人生の中で起こる事全てに適切な時があるという賢明な考え方を思い起こさせてくれます。 多くの皆さんはこの言葉に頷くでしょう。これらの言葉、動詞は、私たちの人生に起こる様々な季節(瞬間)に語りかけてくれます。これらは、人生の旅を構成する言葉です。 私たちが自分自身を見つける季節の瞬間よりも、はるかに大きな何かの一部として存在している事を思い出させてくれる言葉です。 伝道者の書2:3では、生まれる時と死ぬ時があると書いてあります。生死の時を決める事を私たちは出来ません。 1992年から、亡くなる1999年まで、私の母はアルツハイマーに苦しみました。その間、兄弟が一緒にどの様に母を一番良い状況で介助できるか考えました。彼女が何もかも忘れてしまうので、一緒に過ごしてもすぐに物事を忘れてしまっていました。5分経ったら全てが新しく、時間(重ねていく時)というものが母にとって意味のないものになっていました。いつもキチンとしていて、全てを箇条書きにして事を成す、賢く、愛すべき母はもうそこには居ませんでした。私にとって悲しく、喪に服していた時というのは、そこにいつもの母が居ないと実感した時であり、母が亡くなる何年も前でした。実際に母が(肉体的な)死を迎えた時は、そこまで悲しみを感じませんでした。母は神の御手に戻り、天国に召されたのだと実感する事が出来たからです。 私たち兄弟は母の愛を思い出し、その後に父が亡くなった時は、また喪に服しました。また、私は2人の男兄弟を亡くし、喪に服しました。今は私の妹と私だけが残っています。 神の愛を思い出すのは困難な季節の時です。 時間は私たちの礎となる人生の重要な要素です。 伝道者の書の「全て」「天の下の職業」には時間があります。伝道者の書3:1aにあるように、伝道者の書のクロノス通り、全てが時系列で行われています。しかし、特定の「時」が何度も強調される時、伝道者の書3:1aを超えて、カイロスが使われるのです。カイロスは「季節」「機会」または危機を意味するものです。 別の曲でこの聖書箇所に繋がるものがあります。1996年のブロードウェイミュージカルの「Rent」に使われている曲で「Season’s of Love」です。Rentは2005年に映画にもなりました。見た事がある人もいらっしゃるでしょう。知らない方は検索してくださいね。 曲で聞いて頂きたい箇所はこちらです https://www.youtube.com/watch?v=ZrAMA26oqHk 歌詞は以下の通りです。 525,600 minutes 525,000 journeys to plan 525,600 minutes How do you measure? Measure a year 525,600 分 525,000 計画する旅 525,600 分 どうやって測るの?1年を測る そして、曲は「どうやって女性の、男性の人生を測るの?愛はどうやって測る?愛を、季節を、愛を思い出し。。。」と続きます。 この曲は時系列を歌っていますが、聖霊によって人生が邪魔される時間もあり、邪魔され、驚かされるのですが、私たちはそれを前もって知る事は出来ません。全ての物ごとに時があるのです。伝道者の書にある言葉は人生の中で困難な時に遭遇したとしても、嬉しい時も悲しい時も神は私たちに成長できる方法を示してくださっています。 クリスチャンとして人生を歩む中でも良い時、困難な時があります。 神は私たちが喜びの時や痛みの時を経験している事もご存じです。しかし、最終的には、様々な季節の中で経験する全ての事に意味があり、無駄ではありません。神は私たちが経験する全ての事をお使いになります。(伝道者の書3:11) 以下の約束は、私たちが困難に直面した時、困難な季節に入った時に役立つ聖書箇所です。 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招きいれてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(ペテロの手紙 第一5:10) わたしがこれらのことについてあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16:33) 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(ヨハネの福音書1:5) 人生の中で暗い時を過ごす事があります。しかし、暗闇がないと、光を認識することも出来ません。暗い気持ちの中で光を見つける事は困難ですが、光が存在することを思い出す事も必要です。 ラルフ・ワルド・エマーソン(1800年代のアメリカ人思想家)は1820年代に書いたもので、「内側からも後ろからも光が私たちを通して物事を照らし、私たちが何者でもないことを認識させます。光が全てです。」 ローマカトリック教会の司祭であり、キリストに献身的なヘンリ・ナウエンは「人生は一日のようです。とても早く過ぎ去ります。一日一日を大事にしなければ、どうやって自分自身の人生に注意を払う事が出来ますか?」 皆様がどの季節にいようとも、キリストの光があなたを通って、神があなたと共にある事を思い出させますように。神はあなたを愛しています。あなたが経験する全ての事があなたを成長させ神に近づけさせます。地球上での残された時間を大切にし、神と過ごす時間を作ってください。出来る限りです。 私たちが今年に別れを告げる時、2020年はどんな意味があったのだろうかと考える事が出来ます。神と過ごした時間はいつでしたか?成長はあったでしょうか? きっとあなたにとって素晴らしいカイロスの時があり、あなたが思い出す事を感謝している神の恵みを垣間見る事が出来たかもしれません。クロノスの時を覚えている事もあるでしょう。落ち込んだり、虐待されたり、疲れ果てたり、欲求不満になったり、怒ったりしたことを思い出すかもしれません。 神に私たちの壊れた人生の破片を渡してください。神の愛はそれを修復します。神の愛は決して裏切りません。神の愛は永遠です。 伝道者の書3:14aに書かれているように、 「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。」 神が私たちに与えてくださった時間で、私たちが何をすべきかを考えてください。 私たちに残された時間。 あなたがそれを使ってこの新しい年に神と共に歩むのならば、全ての物ごとに対しての時があるでしょう。 祈りましょう。 季節の神よ、 急いだり、ゆっくり歩いたりする時がありますが、神よ、私たちがあなたとペースを合わせて歩めますように。あなたの時間軸で生きる事が出来ますように。あなたの時間とは、天の下、すべての物事には時があり、遅くても遅すぎる事はなく、早くても早すぎる事はない。 私たちが時を賜物、友達だと見れるように変えてください。あなたの時間は止まる事がないのを私たちは知っています。 イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン。
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主よ、あなたの言葉は私たちの足元を照らす灯火であり、道を照らす光です。今日あなたの言葉を聞くとき、私が話す言葉と私たちみなの思いが、主の目に喜ばしいものでありますように。あなたは私たちの岩であり贖い主です。アーメン
子どもの頃、母がよく海外の音楽をかけて聞いていました。母が好きなバンドの一つがビートルズで、後に私も好きになりました。ビートルズの曲の一つがみなさんもよくご存じの「レットイットビー」です。次のような歌です。 苦難のときに聖母マリアが僕のところに現れて、賢明な言葉をかけてくれた。なすがままに身をゆだねなさいと。暗黒のときにも彼女は僕の前に立って、賢明な言葉をかけてくれた。なすがままに身をゆだねなさいと。…… ティーンエージャーの頃、とてもかっこいい歌だと思ってよく歌っていました。「レットイットビー(なすがままに身をゆだねなさい)」なんと気楽な響きでしょうか。 レットイットビー。ケセラセラ(なるようになる)。当時の私にはこの歌は気楽な意味でしかありませんでした。でも本日の聖書箇所である、天使がマリアを訪れてイエスの誕生を知らせるところを見てみましょう。ルカ1:38でマリアが「お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったときの意味を深く理解するために考えてみたいと思います。 クリスマスの物語の中で、マリアの存在は並外れて華々しいというものではありません。平凡で、もしかしたら平凡以下かもしれません。クリスマス物語は、主の道を整えるために遣わされた洗礼者ヨハネの誕生の知らせから始まります。この知らせは、まず父親のザカリア、次に母親のエリザベトに伝えられました。ザカリアとエリザベトはどちらも重要で歴史がある司祭の家系の出身でした。ルカ1:6に「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と書かれています。 同じ頃、最近婚約したばかりの若い二人がいました。ヨセフとマリアです。ヨセフは正しい人であった(マタイ1:19)と聖書にあり、ダビデ王の家系でした。(ルカ1:27)イスラエルの人々にとってこれもまた重要な歴史ある家系です。しかしこの家系の出身であることが、裕福であることや社会的な成功やよい地位を約束するものではありません。ヨセフとマリアは貧しかったと聖書は書いています。(ルカ2:22-24) 今日の聖書箇所でマリアについて述べているのは、若いおとめでヨセフという男性と婚約していたということだけです。(ルカ1:27)ヨセフはダビデの家系ということですが、マリアの家系については何も書かれていません。またクリスマスの物語に出てくるザカリア、エリザベト、ヨセフは宗教的に正しい人と描かれていましたが、マリアはそういうふうに描かれていません。何はともあれ、マリアの住んでいたナザレはユダヤ人に軽蔑されていて、重要なものは何もない土地でした。ローマ兵士が駐屯していたので、ローマの支配下にあるユダヤ人たちからますます嫌われる地域でした。そういうわけでマリアは偉大な名も家系もなく、どこの出身かもわからない者でした。 神の御子、すべての人の救い主となる御子を生むことになるべき人とは程遠いような人でした。大事な地位にあるわけでもなく、みすぼらしい小さな町の出身で、宗教的、歴史的な経歴もありませんでした。 「マリアは取るに足らない平凡な人」 そして、まさにそんなマリアに主の御使いが現れました。神が世の救い主を生むように定めたのはマリアでした。御使いはマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(ルカ 1:28)御使いはもう一度繰り返して言います。「神から恵みをいただいた」という大事なことをマリアにわからせるためでした。(ルカ 1:30)マリアの社会的地位にかかわらず、神はマリアを非常に恵まれた者として特別な目的のための計画を彼女に担わせたのです。 このように特別な者とされたことに対してマリアはどのように反応したのでしょうか。マリアは戸惑ったと聖書にあります。(ルカ 1:29)懐妊したことに戸惑ったのではありません。そのときはまだ懐妊していませんでした。マリアは自分の社会的地位の低さにもかかわらず、神に「恵まれた者」と呼ばれたことにとまどったのです。 それから私たちがよく知っている場面になります。御使いからの重大な知らせです。マリアは懐妊しイエスと呼ばれる子を生むでしょう。その子は偉大で、いと高き方の子と言われ、神である主は、彼に祖先ダビデの王座をくださるでしょう。マリアの子は、永遠に続く王国の長として、ヤコブの家を治めることになるでしょう、と御使いは告げます。 イスラエルの歴史上誰もこのように王国を治めることはできませんでした。イスラエルの人々は何世代にもわたってそのような王、そのような救世主を待ち望んでいたのです。このようにイスラエルのために王となる子を懐妊することになるのが、この名もなき女性だと御使いは言いました。 まあ、なんていう驚きでしょう。自分がマリアの身になって考えてみてください。あなたが突然神の計画の重要な役割を担うことになったとしたら、どれほど圧倒され混乱するでしょうか。また圧倒され混乱する以上に、恐ろしくなるでしょう。というのも婚約中に、つまり結婚する前に子どもができれば、当時のこの地域ではすぐに離婚になりました。離婚や婚約破棄は当時の女性にとって死の宣告とも言えました。そういうわけで、この子を宿すことはマリアにとって文字通り死を意味しました。 想像を超えるような複雑で恐ろしい知らせに接したとき、人は自分なりに解釈して理解しようと努めます。マリアもそうでした。天使が言った、事実上ありえないようなことへのマリアの最初の言葉は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」でした。きわめて現実的な問いかけですよね。 これはクリスチャンやクリスチャンになる前の人がクリスマス物語についてよく尋ねる質問です。処女マリアはどのようにして懐妊したのでしょうか。若いマリアも私たちと同じ思いでした。2000年後の私たちと同じように不思議に思ったのです。しかし御使いが言ったのはその質問に対する直接の答ではありませんでした。「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。」(ルカ 1:35)そして子が生まれる。 御使いの答えはあいまいなので驚きますが、それに対するマリアの言葉はもっと予想外で驚くべきものです。マリアは御使いにそれ以上質問しませんでしたし、また聖書の中に出てくる人がよくするように、御使いにしるしとなるものや証拠を見せるよう頼んだりしませんでした。マリアは御使いに言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ 1:38) マリアは質問するのを恐れませんでしたが、この神様を前にして自分が何者かよくわかっていました。マリアはます従い、まず何よりも先に主に仕える者だったのです。マリアが御使いの神性に気づいたとき、また御使いの姿や言葉が自分の理解を超えていたとき、そしてイスラエル全体とその王国の偉大な計画の中に自分が入れられたとき、彼女にわかったのは自分がただの人間だということでした。この偉大な計画の重大さがよく飲み込めないので、マリアは御使いに従順に従うことにしました。「お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ 1:38) ここでビートルズが歌ったレットイットビーとの違いがわかりますか。ビートルズが歌った「let it be(あるがままに)」の気楽な軽さとマリアが言った「let it be (お言葉どおり、この身になりますように)の重さの違いです。ビートルズの歌詞の中ではマリアが賢明な言葉をくれたとありますが、私はマリアの言葉は賢明というより従順を表すものだと思います。 マリアのlet it be (お言葉どおり、この身になりますように)は、でたらめに身をまかせて「なるようになれ」と言っているわけではありません。逆に積極的に神の御業に参加しています。マリアの言うlet it be は、神に服従し神の導きに身をゆだねることを意味しています。 イエスの母として、神であり人間である御子の親として、マリアの人生はどのようなものだったのか想像したり深く考えてみたことがありますか。マリアは非常に複雑な状況にあったに違いありません。ほかの母親のように、マリアもイエスに母親としていろいろなことを教えたかったことでしょう。しかし神でありすでに何でも知っているイエスに、何を教えたらいいのでしょうか。実際どのようにイエスを育てたのでしょうか。どのように母子の関係を築いたのでしょうか。どんな母親でも同じですが、マリアも自分の子がいじめられたりいやな目にあったりするのを見るのを辛いと思うはずです。でもマリアがそばに立って耐えなければいけなかったことはもっとひどいことでした。マリアはイエスが人々から拒絶され、罪がないのに十字架の上で殺されたことを耐え忍ばなかればいけなかったのです。マリアの子は、当時最も恥ずべき刑罰で死ななければなりませんでした。 そのような状況下で、マリアは時としてただの母親でいたいと思ったのではないかと思います。普通の意味での家族ではなくなるような神の御子を育てるより、普通の母親でありたいと思ったことがあったのではないでしょうか。イエスはたびたびマリアのことを母と呼ばずに婦人と呼びました。マリアは、婦人と呼ばれるたびに心が傷ついたことでしょう。(ヨハネ 2:4 など) イエス・キリストが生まれた時から、私たちのために犠牲になって十字架上で最後の息を引き取るまで一緒にいたのは唯一マリアだけです。もしマリアの人生の基盤が自分の意志、自分の希望、自分の計画だけだったのなら、自分の子が人からあざけりを受け、苦しめられ、拒絶され、迫害され、裏切りを受けて死ぬ苦しみをそばで見ていることはとてもできなかったことでしょう。神の御子だと信じているからこそ、母親以上の思いをもち、イエスが苦難を受け続けるのを耐え忍ぶことが出来たのだと思います。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ 1-33)という御使いの言葉をマリアは信じていました。 今日お話ししているマリアは、ごく普通の女性として描かれています。出自や経歴という点では平均以下といえるかもしれません。しかし今日の聖書箇所の中の最後の部分で、御使いに返答するマリアは、もはや普通の女性ではありません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言った時、マリアは主の忠実なしもべとして高められました。 神の力は必ずしも高い地位、財力、権力のある人を通して働くのではありません。神は御業を行うために、ごく普通の財力のない平均的な人々に働きかけます。神のご計画に使われるために求められるのは、唯一服従するということです。もちろん神に服従するという意味は、自由もなく疑問を持つこともなく盲目的に従うような堅苦しい軍隊的なものではありません。パリサイ人はそんなふうに神に従っていましたが、イエスはこれを非難していました。神に従うのは、親が子どもに正しいことをさせるため動機となるようごほうびを与えるのとも違います。「もしこれをするなら、何々をあげよう」という「取り引きのある服従」は神が私たちに求めるものとは違います。 天使との会話でのマリアには、このような取り引きの服従はありません。マリアは質問をする自由があり、とまどったり考え込んだりすることができました。マリアの服従は強制ではなく自由意志から出たものであり、また見返りをもらうためのものでもありません。マリアは自分の立場を、また神がどういうお方かを知り、神のご計画に従ったのです。マリアは自分の能力の限界を知っており、神のご計画の全容は理解できないことを知って、自分の力に頼るのではなく神を信頼することを選びました。 私たちはよく自分の力だけで世の中を生きていこうとします。理性的で論理的な考え方で世の中を理解しようとします。自分自身の力で問題を解決しようとして、人智を超越した神の力に頼ることをしません。私たち信仰者は「お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことができます。また主の祈りにあるように「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と言うこともできます。ところが時として、私も含めて、まず自分で考えてできる限りの努力をして疲れ果てた後、最後にやっと神に服従するということはないでしょうか。私にはよくあります。 これが「普通の女性」であるマリアの、普通でないすばらしいところです。御使いから質問に答えてもらえなくても、神のご計画の全容を知らされず理解できなくても、議論や推論や論理的な説明がなくても、まず信頼することを選びました。マリアが最初にしたのは、御使いの言ったことを信じて服従することでした。何という謙虚さでしょう。マリアは己の限界を知り、神に服従する時を知っていました。 先週チャック牧師が説教の中で、マリアは御使いに会ってただ不思議だと思うのではなく、深く考え、心の中で大切に思っていた、ということをお話しされていました。聖書の中のマリアの生活を追ってみれば、不思議に思うことや疑問に思うことでマリアが深く考えるようになることがわかります。そしてそれが服従へとつながります。 もし興味がある人がいれば、blueletterbible.com と入力してMary とタイプしてみてください。マリアに関連した聖書箇所がリストになって出てきます。これを読むと、神の御子の母としてのマリアの人生を垣間見ることができます。 マリアはまず自分の懐妊を知り、いとこのエリサベトはマリアの子の神性を認めました。(ルカ1:40−45)ベツレヘムの飼い葉桶でイエスが生まれ(ルカ2:7)、生後8日目にイエスは割礼を含めた清めの儀式に連れて行かれました(ルカ2:21)。イエスは12歳の時過越祭が行われていたエルサレムで迷子になり(ルカ2:41−45)、ガリラヤで伝道を始め(ルカ4:14)、カナの婚礼に始まる多くの奇跡を行いました。敵がますます多くなり、ついにマリアは自分の子が十字架にかけられるのを見ざるおえなくなります。それからイエスが復活し、イエスが天に昇って神のもとへ行く前に約束した通りに聖霊が降りてくるのを弟子たちと一緒に待ちました(使徒の働き1:14)。 イエスの生涯、自身の生涯を通してマリアはずっとイエスの母として、同時に主に仕える者として生きていました。そしてどちらが大切なことかをわかっていました。マリアは第一に主に仕える者であったのです。 私たちはみな何らかの肩書を持っていますが、その肩書は自分の身分を証明するものであり、人生の中で重要な役割を担っているものです。母、父、妻、夫、息子、娘、学生、教師、社長、マネージャー、部長、教会指導者、日本人、アメリカ人、フランス人、ガーナ人、フィリピン人、ジャマイカ人、などもっとたくさんあります。しかし私たちは権力や権利や特権や権威を主張するのではなく、つまり肩書や身分を通して与えられる特別な権利を行使することなく、マリアのように服従するという視点から主との関係を築くことができるのではないでしょうか。 仕事、家族、友人、教会との関係を考える時、マリアのような姿勢で関係を築いていますか。話したり行動したりするとき、最初に「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と思っていますか。マリアの謙虚さを持っていますか。自分の思いを脇に置いて、自分の期待や想像や綿密な計画を超越した神の計画に服従していますか。心からすべてを神にゆだね、神の言葉どおりになすがままに身をまかせられますか。 祈りましょう。クリスマスの物語では、主であり救い主であるイエス・キリストは、神を知る人々の服従によって誕生されました。ヨセフは危険を冒してマリアとの婚約を継続しました。マリアは神の御子の母になる役割を引き受けました。羊飼いは御使いが言うことを信じ、その言葉に従いイエスの誕生を見るために野からやって来ました。神様、私たちの人生に、私たちに、「あなたのおっしゃる通りにこの身になりますように」と言える力と信仰を与えてください。アーメン。 おはようございます。ロングビーチからチャック牧師がお話しします。いよいよクリスマスの季節になってきましたね。今週は気温が20-25 度もあったので、本来の季節感を取り戻したいです。今日は、アドベントの3回目の聖日です。いわゆる12月のクリスマスメッセージですが、伝統的に喜びがテーマです。今回、主イエスの母マリアについての私の考えを感じていただき、新しい着想を感じてもらえたらと願っています。
今日の聖句はレイモンドさんがうまく朗読してくださいました。あまりにもよく知られた話の一場面なので、多くのことを見過ごしてしまいそうになります。足元にあるものが、実は分かっていなかったりします。二つのことに注目していきましょう。 ルカによる福音書 2章 18-19節 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に大切にし、注意深く考え、思い巡らしていた。 私達が大好きな多くの物語のように聖書の多くの物語は、非常に研ぎ澄まされ、ほとんど現実離れしたように感じたり見えたりしませんか。私達自身の生活にそれらを適用するという考えには違和感があり、神への冒涜とさえ感じます。- 私は何者ですか?! 私はマリアでもヨセフでも、いや、イエスではありません! しかしながら、真実を言うと、主イエスは私達のモデルであり、聖書に登場する男性、女性達は、彼らから学んで、我々が今日に生かす為に存在するのです。 ローマの信徒への手紙 15章 4節 かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。 だから、私は個人的に確信しています。- 無罪宣告 – 私達を有罪とするのは悪魔がする事であり、信仰への確信は聖霊が私達になされるのです。有罪宣告は敵からです - この意味するところは - 私は停止し、反省し、悔い改める必要があります - 方向を変えることを意味します - しかし、それを助けるのが聖霊です。 皆さんが受け入れるならこの点を私達の反省点とさせていただきたいのです。それではこのお話を深掘りしていき、新鮮な目を持って見ていきましょう。 マリアは人間であり、聖書と全ての聖書の偉人達をよく見ると、彼らは人間味を持っており、彼等がなされた素晴らしい出来事を読むうちに、私は不思議な思いと、励ましを受けるのです。ここに婚約した若い女性がいます。なんというお話しなのでしょう。そこに、羊飼い達がいて、労働者達を想像し、また賢者、学問があり裕福で、更に神様は天使を送られて、なんという光景でしょう。18節で羊飼い達は天使から告げられた話をすると、聞いた者は皆、「え、何て?! それは驚きだ!」羊飼い達の話を不思議に思ったのです。ここに面白い対比があるのです。「しかしマリア、しかしマリア、しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に大切にし、注意深く考え、思い巡らしていた。」 この「すべて心に大切にし、注意深く考え、思い巡らす」を取り上げたいと思います、単に思い悩むのとは違います。私達はすべてを丹念に、心に大切にし、注意深く考え、思い巡らしていますか? 慎重に物事を考えることです。別の聖書の翻訳では、それを瞑想する(Holman Christian standard)、深く熟考する(Good news)、心の中で思いを巡らせる(Young's literal) などと訳されています。加えて、BibleHub 及びBible Gateway は無料で簡単に聖書の意味を深く教えてくれます。この箇所の翻訳はなんと29もあるのですよ。 数年前から、ケリーと私は、極端な神体験を私達でさえしていると言っています。六甲アイランドで小規模の女性等の聖書の学びがあり、ケリーは私達の友人の一人と一緒に、お祈りをしてもらう為に参加しました。私達の隣人のミンさん、夫はモトローラーにお勤めでテキサスから来て間もない方々です。彼等は上海で生まれ育った為に英語は上手ではありません。このグループは10名の女性が集まり、半数は日本人で、残りは様々、ミンさんのように中国からの方もいました。そこには家主の友人の横田さんが来ていて、ハワイに移住されていたのですが英語が話せませんでした。彼女は祈りの達人という評判があり、それで私も呼ばれたのです。「あなたも祈ってもらいなさいよ!」それで私も昼食時に顔を出しました。思い返すと、この交わりの会に多くの奇妙な事がありました。私はそっと入り、日本人らしく振る舞い、ゆっくりとペースを落とし、遠慮気味にしていました- ハワイから来た祈りの女性(横田さん)が、そこに座りなさいと私に言い、これからあなたについて祈ります、おしゃべりや堅苦しさはなしですよ、と付け加えました。彼女が祈りだすと異様でした。私は伝統的な教会から来て、人々は異言を話し、私もできますがそれは個人的な意味を持つものです。今回は今までに見たことも聞いたこともない、全てが中国語のように聞こえたのです。率直に言わせてもらうと、中国語は一風変わった言語で、妙な語感があります。語調が上がり下がりして違うのです。私にとって話せませんが中国語は気付きます。しかし彼女は流暢に中国語でお祈りをしているように聞こえました。有酸素の10分間の祈りの後、強烈な祈りで、彼女は汗まみれになり、激しいものでした。私の頭の上にある彼女の手も強く感じました。私はやれやれ、ワォオ、有難うございます、でした! さあ、これからが未知の世界で、話は長くなりますが、今日のために話を短くまとめます。横田さんは中国語を話し、私の隣人の中国人が横田さんの言ったことをできるだけ書き留めておいたのです。横田さんが喋った言葉はミンさんの方言の中国語で、語句を何度も繰り返していたと言います。それはだいたい5つの聖句で、横田さんが言ったことは、ミンさんが書き留めておいたほとんどの中国語は、聖書の単語、文字そのままでした。ワオ、私にとって不思議なことなのです。ここに今日私がこの話を選んだ理由があります。神様は、実に偉大で、素晴らしいことをなされるのです。この話をする訳が十分あるのですが、これは告白により近いでしょう。私はずっと、このような祈りに複雑な思いを持っていました。このような事が私の気を逸らすか、引きつけるか、神様に引きつけられるか、更にこのような話をもっと追及したくなるかが心配になるのです。今もそういう気持ちは変わらないのですが。 誰かがこの話や祈りをしても、私が何を言われたか忘れてしまうとずいぶん馬鹿げた事で終わってしまいます。つまり、神様があなたに話したこと、中国語で、しかも日本人を通して、中国人女性を介して、メッセージは何なのか?! あなたにとってどういう意味があるのですか、このメッセージを熟考しましたか? 心に持ち続けていましたか? たとえば、あなたが米国大統領から個人的に手紙をいただいたと私に話すと、私にとって、それはあまりにもあっぱれで、恐縮して「大統領は何と言ったの、なぜ彼はあなたに手紙を書いたの? !」と基本的な事を尋ねるのを忘れてしまうことに似ています。 はい、このアプローチは良くて、実を言うと最初の数年は神様が私達を見ていて大切に思い、手を差し伸べておられることに感動しました。この世でこのようなことをしばしば見るにつけ、遠くではなく近くにおられる神様から大きな慰めを得られました。何年も放棄していたことは、御言葉を心に留めて思い巡らすことをしなかったということです。今は、私はそれらをいつも心に留めています(ちょうど、家を見つける準備の百ドルと一緒に) しかし、私が受け取った言葉の熟考と思い巡らしはほとんどしなかったのです。 ケリーと私はこれとよく似た話がたくさんあるので、私達は幸運で、祝福されたと喜んでいます。これは極端な話ですが、大変厳しい時期、退屈な時期、人生が苦しみと感じる時期、物事が八方塞がり、皆さん、この時期にこそ、私達の宝を引き出す必要があるのです。神様との時間が私達の宝なのです。 さて、マリアのことを考えてみましょう。イエスの母であるマリア、訪れた天使、学者等、突如ヨセフは天使からのお告げを受けます。 マタイによる福音書2章 13節 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」 そして彼はそのようにしたと14節は言います。「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去る」 正しい人だ! 私達皆がこのように従えればと祈ります! 神様は側におられ、天使を送り、それは深淵で、神様が言われた通り彼等は帰り、生活が続き、イエスはまだ子供の頃に両親から3日間いなくなったのです(ルカ2:41−49)。ちょうどその話、マリアが告げられた御言葉を心に持ち続け、大きな絵図だが詳細は告げられていない不思議な言葉を思い巡らしていたのです。 3週間前の日曜日の朝、ケリーと私はガレージにある車に向かい、突然、信仰と失望感が混ざり合った感じがしたのです。カーラジオのことをケリーと祈りました、車に乗る前にですよ。 ラジオは8年前に父から車を譲ってもらった時から壊れていました。以前からこれについて祈り、ラジオがついたかと思うと止まり、その日も祈りまた止まってしまいました。それで、今日ケリーとラジオが鳴りますようにと言って祈りました。私達は運転し、自宅に戻り、また出かけて、その日、数時間内の祈りの中で、ラジオは突如鳴り出したのです、冗談ではありません。 私のある部分で、もうたくさんだと言う気持ちがあり、おバカな癌、聴覚を失い、事業を失い、嫌気がさしていました。それで私はケリーをうんざりさせてしまいました。だから、ラジオについて祈りだし、とても説明がつかないのですが。それでも、私は興奮気味で、子供達や兄弟姉妹に祈りがきかれたと話しました。人生をなるがままにさせるな! クール そして3日後、仕事に行く途中ラジオはまた止まったままです。その瞬間、私も止まり、神様がこういうのを聞きました。「これはサインで答えではない、サインで立ち止まるな。」セラ これについて私は思いを巡らし、何を言われているのですか? どうゆう意味ですか? 私は深く考えている時にこそ、神様は答えてくださるように感じます。あなたは一体何がしたいのだ? 実際にラジオが鳴ることがそんなに大切なのか? 私にとって全く大事ではなくiPhone を使っているので、ラジオがなくても構わないのです。数年前に私が祈った時の祈りの力を思い起こさせてくれるから祈っただけです。それは神様のサインで、それだけです。サインだけでもすごいことなので、そこで止まってしまったのです。しかし、マリアの場合はサインの意味は更に続くのです。あなたにとっても、私達一人ひとりの人生にとってもです。 皆さんの大方は神体験があり、サインあるいは奇跡などを経験されているでしょう。私が話したドラマチックな事、おかしな出来事ではないにしろ。聖句が飛び出してきてそれを感じ取れたり、その時にかなった適切な良い聖句が人から送られたりしたなら、よく噛み締めて味わってみてください。 皆さんに一つ、チャレンジしたい事があります。御言葉のその先に他に何がそこにあるのか? サインは何を示しているのか、あるいは誰に向かっているのか? サインで止まらず、不思議に思うのは自然ですが、思い巡らすのは神様に届くように手を伸ばす事です。神様が用意された全てを受け取るためです。 もっとお話ししたいのですが、時間となりました。10時半からサンデースクールがあります。日本語と英語のクラスがあり、そこでもっとこの話をしましょう。是非、初めてでも参加してみてください。私達は御言葉をうまく心に留めて思いを巡らしているでしょうか? マリアは御言葉を大切にした良い例です。神の時、神の御言葉は私達の宝です。だからこそ、御言葉を抱き続けなければなりません。 祈りましょう。 瞬間的に神様を感じたことはありますか。それは、神様が直接的あるいは個人的にあなたと何かを分かち合おうとしていると感じた瞬間のようです。教会のビジョンについて話し合っている中で、私の体験一つを皆さんにお話しするのは興味をそそると思います。 数年前、私達の友人の娘さんが末期ガンと宣告され、その友人達は心臓が止まるほどの悲劇的な困難と向き合うことになりました。彼らは私達に祈りを求め、カリフォルニア州レディングにある治癒や奇跡を起こすことで有名な、私達も長年通い続けたベテル教会に一緒に行ってほしいと頼んできたのです。そして私達は彼らと一緒にその教会を訪れ、人々と会い、祈りました。 私は今までこういったことに対していつも複雑な気持ちを抱えていました。神の恩恵を受けるために、人々や場所を探し求めることに対してです。しかし、お気持ちはわかるのです。私達みんな多かれ少なかれ、そういったことをいたします。私達もこの教会の一員となるために、この「何もない」都市に実際に引っ越してきたわけです。そしてそこに住んでいた6年間、神による治癒や神との触れ合いを求めて訪れる多数の人々をもてなしてきました。多くの者は癒され、多くの者は癒されませんでした。しかし、私はいつも、「神はどこにでも臨在し、全ての信者と共におられる。」ことを指摘する必要性を感じていました。事実、私達は日本に住んでいた20年間、何百もの奇跡と不思議を実際に見てきました。日本でですよ。世界でキリスト教徒が1%以下の国の一つと言われているこの国でです。私達は神に救われた人々だけでなく、小さな子供達が奇跡を起こす様子も見てきました。ですから、私が言いたいのは、神はどこにでも臨在し、神の信者である私達は皆、神の臨在の伝道者であるのです。アーメンですよね。 さて、文字通り何百人もの人々が世界中からこの世界的に有名な教会にやって来ていたある日曜日のことでした。礼拝中に、私はある男の人が着ていたシャツに目がいきました。そこには「Be the Church(教会となれ)」と書いてありました。その時、私の周りの全てのものが薄れていくような感覚になり、私はかき乱され、感動し、これが私にとって、神聖なる神との瞬間のひと時で、私が見たものは極めて真実であり、力強く、深淵であると感じました。私の心は高ぶり、私達が実際に教会であるというその力強さを、この短い言葉は暗示していたのです。巨大化という危険性を背負う教会、真実の核心から遠ざかる教会において、そのTシャツをまさに男性がここで着ているというその瞬間に、神が私に真の奥義を示しておられました。そしてその時、彼が少し振り向いた時に私は気づいたのです。彼のTシャツは少し折り重なっていただけで、そこに実際書いてあったのは、「Be the Church」ではなく「ベテル教会(Bethel Church)」だったのです。そう、「L」の文字が折り重なって見えなくなっていただけだったのです。でも時既に遅し、私は既にこの瞬間を自分のものとしてしまっていました。そしてそれ以来、この瞬間は私の心を惹きつけてやみません。 私はこの言葉が本当に「神の御言葉」であると思っているので、今皆さんにこの出来事についてお話しします。その内容を掘り下げようとしている中、皆さんと一緒にできるであろう3つの実践的方法をお話ししたいと思います。 まず一つは、「立ち止まる人間になろう。」です。私の子供達はきっと笑って、こういうでしょう。「もし私が誰かトラブルや事故など困っている人を見かけたら、私は恐らく立ち止まり、必要であれば911に電話し救急車を呼ぶでしょうね。」と。私は考えたのです、皆が、他の誰かが立ち止まり助けるだろうと考えたならどうでしょう。一体、誰がその助け人になるのでしょうか。イザヤ書6章8節『そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」』にもあるように、神が誰を遣わそうと見渡しているところで「立ち止まる人になれ。」ということです。 ある日、車で自宅に夜遅く帰る途中、交差点で気が狂ったようにわめき、雨の中で叫んでいる人がいたのです。実におぞましく恐ろしかったです。周りのドライバー達の顔色を素早く見渡すと、皆急いで彼から逃げていくようでした。その時、私はあの懐かしい突っつくようなささやきを感じ、「車を止めて、彼を見てきなさい」と言うのです。それで車を止めて、何があったのだ、どうして欲しいのかを聞きにいきました。彼は泣きじゃくり、状況がのめなくて、何かが起こったと言うことはわかりました。それで、私は彼を車に乗せて、何が起こったのかを聞いたのです。(これこそ神の時です)他の車は私がすることを見ながら急いで走り去っていきました。彼の話は、15年前、彼が小さかった頃に蒸発して音信不通だった父親に会ったと言うのです。父親が彼を飲みに連れて行って、それも彼はお酒を飲めないと断ったにもかかわらず。数時間経った後、父親が突然現れた理由を話し出し、お金が必要だと言うのです。彼は驚愕して、渡す金など持っていないと言ったのです。すると、父親はバーに彼を置き去りにして、飲み代の請求書を残して去って行ったのです。雨の降りしきる中、そのような状況下で、彼は愕然として崩れ落ちたようでした。私は彼を車で家に送り、彼と祈り、天の父が彼に言いたいであろうことをお話ししました。実に畏敬に満ちた経験で、本当にあそこで車を止めたことがよかったのだと思います。 2つ目のチャレンジは、立ち止まって、耳を傾けることです。初めに立ち止まり、次に隣人に耳を傾けることです。耳を傾ける、そう聖霊に耳を傾けることが重要です。911の電話するのは、聖霊に対してです。神様が何を言おうとされているのかを聞く訓練も必要です。特にこのような状況下で、私達に何をさせようとしているのかを聞く耳を持つことが大切です。 耳を傾ける経験で思い出に残るものが一つあります。すごく印象に残る神の時だったので、何度か話したことがあるので皆さんも覚えているかもしれませんね。ある時、私は娘たちと買い物に出かけていました。私達がウォルマートに近づくと、たくさんのホームレスが物乞いをしている中、ある一人、際立った男の人に目がいきました。このような時、私は立ち止まって話し、数ドルを与えるのですが、彼は違っていました。彼はこう言いました。「詩を一つ買いませんか。」この言葉は私を笑顔にしました。うん、ちょっと変わっているなあと思ったのです。彼は自分が書いた詩をいくつか持っていました。それで、私は彼にここで何をしているのかを尋ねたのです。言葉を発する前に、私と彼の中で不思議なことが起きていました。まるで、自分の言葉ではなく、聖霊を通して話している様でした。彼を見ていると、私の息遣いや鼓動がゆっくりとなり、神が私達を包んでいるような感覚になったのです。彼は身の上話をし、私はそれを聴き、ほんとうに、心から聞いたのです。それは別世界のようで、非現実的で、畏れ多いことでした。その数分後、どのくらい時間が立ったのかも分からない状態でした。兄弟、あなたの身の上に起こったことは、実に心が痛むよ、でも今できることをあなたがされているのは素晴らしいことだ。私は「じゃ、あなたの詩を買いましょう。」と言うと、彼はすぐにためらいこう言いました。「いいや、あなたからのお金はいらないよ。僕のことをきちんと見てくれたのは君が初めてだよ。これが僕にとってどれほどのことを意味するか君にわかるかい。」そして彼は私に大きなハグをしてくれました。ウォールマートの外で、この背の高い痩せた、詩を売っている黒人の男性は私をしっかり抱きしめてくれました。神は誰かに、聖霊に耳を傾けた私達を祝福してくれたのです。 それでは私の二つ目のポイントです。神がおっしゃるであろうことに耳を傾けることです。急いで何かをするのではなく、聖霊に耳を傾ける人になれ。アーメンでしょうか。 こういった話が多くの皆さんにとってこじつけのように聞こえるかもしれないことは承知しています。とてもよくわかります。しかし、私の霊がムズムズし、ささやきのように感じただけで、何が起こるか分からず、テキストを出し、Eメールを送り、電話したりした話なら皆さんにいくらでもお話しできます。もっと時間があれば、人生の危機的な時に神を必要とし、しかもその時に、神との繋がりを持たせてくれる誰かを必要としていた人々の驚くべき話を、皆さんにする事ができるのですが。神はささやいています。どうか、神のささやきに耳を傾けられる人になってください。いいですか? 三つ目、最後のポイントは「人々のために祈りを捧げる人になろう。」です。手を差し伸べることはとてもいいことですが、私達人間が持つはるかに強力で貴重な力が「祈り」であることを忘れてはなりません。簡単で、短く、目を開けながらでいいんです。大抵私もそうやって人々のために祈ります。もっと簡単に、より自然な形になるように「そうですね、もしあなたのためにお祈りをするなら、私は神に恐らく~をするようお願いします。などなど・・・」と言うこともあります。実際そのようにして人々のためにお祈りをしてきました。 ある日、ロングビーチ教会の後、その朝会った男性と私達は昼食を食べに出かけました。食事も終わりかけの頃、その男性がテーブルの下で足を伸ばしてもいいかと聞いてきました。彼はフットボールやサッカー関連で怪我をしたと説明してくれました。30年もの間、痛みに耐え、手術を3回も行いましたが、何の変化もなかったようです。実は彼はレントゲン技師なので、自分が毎日どう感じるかが見えていました。骨と骨との接触による痛みが四六時中続くのです。ちょっと詳細まで聞きすぎた気もしますし、私達の普通の考えでいくと本当にそこまで痛むのか疑問に思うかもしれませんね。 ケリーと私は、彼の脚のために祈っても良いか尋ねました。私達はただテーブルの下の彼の膝を5~10秒ほど触って短い祈りをしました。それから私達はただ話し続け、彼はお礼を言いました。それから3分ほどしてまた私は「私達は、また足のことについて祈る必要性を感じたので祈ってもよろしいでしょうか。」と尋ねました。「はい、もちろんいいですよ。」そしてまた、5秒ほど、「キリストの御名において、あなたの膝が治りますように。」と祈りました。彼は少し不思議そうにして、混乱したようにも見えましたが、涙を流し始めました。少し興奮しながら、「痛くない、痛くない!」と言いました。私達は皆呆然としました。やはり神の力だと感じました。 それほど簡単で手間がかかりません。数年後、この男性と連絡がつき、この出来事は文字通り彼の人生を変えることになりました。彼は治ったのでゴルフをしたり、また元の生活に戻ったのです。彼は霊的に以前の彼ではありません、彼は教会に戻り、新しい捉え方、神を知ることで神を見出し、神と触れることができるのです。彼は祈る人となりました。短く、明快に、大したことではないけれど、その祈りからどんな事が起こるかで、大したことになるのです。アーメンですか。 もしこのメッセージがあなたにとって「神の御言葉」に感じたならば、お願いがあります。あなた自身が経験し、少なくとも一つは話せるようになるまで、この話を誰かに話したり、シェアしないでください。神の言葉を聞くだけでなく、ヤコブ書1章22節にあるように、実行する者になってください! 立ち止まる人になり、 耳を傾ける人になり、 祈る人になりましょう! この後に、教会とつながり、10時半からサンディースクールに参加してください。英語と日本語がありますのでZoomに入り、あなたの考えや質問などを述べて、また新しい友人に出会う機会でもあります。リンクがK U Cのウエッブサイトにあります。 祈りましょう。 |
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May 2024
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