ガラテヤ人への手紙 5:22-23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 マルコの福音書 3:1-6 主イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々は主イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。主イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、主イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにして主イエスを殺そうかと相談し始めた。 今日は「善意」について話します。ご存知のように、日本語の言葉の概念は、英語やフランス語、ドイツ語などにうまく翻訳されないことがあります。私はしばしば、「もったいない」という言葉を説明するのが難しいと感じています。簡単に言えば、それは「無駄にするな」という意味です。しかし、「もったいない」は、もっと、つまり何か消失することで生じる人の気持ちや感覚を表しているのです。今日は、ヘブライ語の“Tov”で「良い」または「善意」という言葉に焦点を当てます。「良い・善意」という言葉、聖書で「良い」という言葉を読むとき、翻訳がうまくはまらないことがあります。なぜなら、それはそこそこ普通より良くて、それは偉大だと同じくらいの意味を持ち合わせるからです。私達は、「あなたの誠実さは普通だOkay is your Faithfulness」とか、「あなたの誠実は良いものだGood is your Faithfulness」とは歌いませんよね。そうではなく「あなたの誠実さは偉大で素晴らしいです。」です。ヘブル語的にも、文化的にも、神様との関係性においてに「良い」は適切な翻訳ではありません。なぜなら、単に「Tov」という言葉やギリシャ語の「Agathosune」という言葉を「良い」や「善意」と訳すだけでは、マタイ19章で主イエスが裕福な若者に「良き先生」と呼ばれたとき、なぜ主イエスが怒ったのかが理解できないからです。それでは意味が通じません。それは先生に対する礼儀正しい呼び方のように思えます。私を良い説教者や牧師と呼んでくれるなら、それは褒め言葉として受け取ります。しかし、主イエスやその周りの人々は、その言葉「良い」が「まあまあ普通」と「偉大」以上を意味することを知っています。それは聖なること、完全で欠点のないこと、または完璧なことを意味します。主イエスは、使徒達にすぐれた指導者として、適した言葉を身につけさせる意図がありました。主イエスは聖なるお方なのだから、主イエスを「良き先生」と呼ぶのは適切であると言うかもしれません。主イエスが主であり、救い主であることが私達に分からないのなら、「良き先生Tov Rabbi」と呼ぶことは不適切なのです。主イエスがあなたにとって主であり救い主でなければ、「キリスト」と呼ぶべきではありません。キリストは主イエスの姓ではなく、主イエスが誰であるか、どのように見られているかを認知する言葉です。それは単なる言葉ですが、主イエスは言葉にこだわり、言葉を重視しているのです。 創世記1章では、すべての創造が展開します。三位一体である神様による驚くべき啓示なのです(創世記1:26)。「われわれの似姿に人を造ろう」。すべてが創造された後、神様はそれを「良い」と呼びます。またはそれは完全で完璧です。生物学的に不思議な自己維持型の創造であり、神様はその創造を評価し、それが完璧であることをご存じです。興味深いことに、最初の人間アダムは完全な環境下に置かれ、罪を犯し、園から追放されました。 私達の主イエス・キリスト、第二のアダムは、堕落した世界に置かれ、世界を贖いました。心理学者(私の父もそうです)は、自然と育成の議論をします。両方が重要です。環境は重要ですが、私達は環境でだけで定義されるわけではありません。私達は神様からの助けと、神様に自分を明け渡して従い、聖霊の導きによって、その環境を克服することができます。神様は世界を生命維持に適した状態を整え、それを豊かに維持できるように造りました。私は駄目な説教をするかもしれません。私は平凡な日を送るかもしれません。他の人とのコミュニケーションがうまくいかないかもしれませんが、神様はゴミを造りません。神様はがらくたを造りません。 神様は世界を造り、それを良いと呼び、私達にただその被造物を大切にするように求めただけです。正直に言って、大切に被造物の世話をするという私達の任務はかなりひどい状況になっています。神様は完璧にバランスの取れた生命体を造りました。その生命体は太陽の周りを移動し、ちょうど適切な距離に位置し、完璧な傾斜を持って生命を維持しています。神様は私達を自分の似姿に造り、私達を良いと宣言しました。私の人生で、体の問題を抱えている人々に何人か出会いました。彼らは鏡を見て、神様の子であるのに(彼らはそうです)、自分を出来損ないと見ています。私自身5年前にその問題に直面しました。健康的な生活にはあまりにも体重が増えました。私は太ってしまい、アスレチックなことをするのをやめてしまいました。毎日の終わりには疲れ果てているのです。しかし、それが最も鮮明に現れたのは、私が写っている写真を見たときでした。自分の写真が嫌いでした。特に、私が楽しい時間を過ごしている写真を見ると、その写真を見て、家族や友人との良い経験を思い出す代わりに、この太った男を見て、恥ずかしく感じました。これは私の友人Jess Engleの写真で、彼の娘がたまにKUCに来ています。そんな時、私は神様に愛されていることを思い起こす必要がありました。 私が罪人であることを知っています。あなたもそうです。しかし、神様は私達を非常に愛してくださるので、その独り子である御子を送ってくださいました。私が130kgをはるかに超えていても、神様はがらくたを造っていません。 時には、私達は個人的、あるいは社会的な居場所や、気持ち、また霊的に達成したい場に身を置くために人生を変える行動をしなければなりません。そこに積極的に乗り出してくなら、我々の神様は私達に出会ってくださるのです。神様は私達が住むための完璧にバランスの取れた世界を造りました。私達はこの良い世界を台無しにしてしまったので、たくさんの悔い改めが必要です。詩編103は神様の良さを示しています。「主はあわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。」今日、回復ではなく処罰に重点を置くグループがいます。もしあなたが間違いを犯したなら、もし先祖が間違いを犯したなら、彼らはあなたを告発し、沈黙させ、または亡き者にしようとします。それは罰であり、贖いや赦しの機会もありません。それは残酷なことです。 パウロがヘブル人への手紙 12:10-11で言います。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」 神様は喜んで私達を鍛えて正してくださるのです、そのような神様を礼拝できることに感謝します。神様が私達を鍛えるのは、私達の益、良いためにです。その目的は、鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるためなのです。しつけと言いながら罰を与える人々には本当に気をつけてください。鍛錬の目的は常に善であり、罰ではありません。問題は神様の善にあるのではなく、(神様が私達をしつける場合でも)私達がその善を受け入れる意思があるかどうかです。 主イエスがダマスコへの道でサウロに出会ったとき、主イエスは言いました。『サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけるのは、あなたには痛い。』 主イエスは、彼の羊を傷つける人々を神様への個人的な冒涜として見ています。「なぜわたしを迫害するのか。」主イエスは、神様を傷つけるよりもそれがあなたとあなた自身の心を傷つけていることをご存じです。とげの付いた棒とは、畑仕事をする牛やロバが主人の指示に従うように訓練するための棒のことです。これは動物を守るためであると同時に、動物の役に立ちます。動物が反抗して蹴りを入れると棒にぶつかり、その痛みのために素早くにそのようなことをしないように学習するのです。 医者の所に言ったある人のことを聞いたでしょう。その人は医者に「手を伸ばして背中に回して、できるだけ手を下げると、首に痛みが走るんです。どうしたらいいのでしょう。」 医者はしばし考えて言いました。「それじゃ、それをしなければいいんじゃないですか。」 あなたにとってのとげの付いた棒は何か分かっているでしょう。その棒を蹴り上げるのを止めましょう。動物でさえ賢く学習するのに、私達人間は時に愚かでいつかうまくいくんじゃないかと、馬鹿げたことを何度も繰り返すことがあります。それは止めましょう。神様の善意を拒絶するということは、私達がとげの付いた棒を蹴っていることにほかなりません。神様を傷つけているのではなく、自らの痛みと失望を引き起こしているだけです。 詩編34:9「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。」申命記30:15に似た記述があり、モーセは人々に助言します。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」 神戸ビーフステーキとマクドナルドのハッピーミール、どちらにするという簡単な選択のようです。神様の善を選ぶことは、「命と幸いを選びなさい」と言うことです。しかし、死は簡単です。あなたはまったく努力しなくても、そのまま長い坂道を滑り降り、底に落ちるだけです。生活は難しいです。そして良いことを選び続けるには努力を要します。 私達、キリスト信者は、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神様、主を愛し、隣人を自分自身のように愛することは努力するに値すると言い続ける者だと思います。それは良いことです。神様の善を求める中で、神様は私達にその善を満たしてくださいます。それは美味しい味です。「味わい、見つめよ、主がいつくしみ深い方であることを。」 祈りましょう。 天のお父様、私達はあなたの善意の啓示に感謝します。私達に真の善意はあなただけから生じていることを分からせてください。私達の心を変え、あなたの善意を周りの世界に反映させる力を与えてください。主イエスの名において祈ります。 アーメン。
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もし80年代に育ったなら、このフレーズを覚えているでしょう。「親切心を持って、巻き戻してください。」今では時代遅れになってしまい、20代の人々、たぶん30代の人々には知らない人もいるかもしれませんが、すべてのビデオレンタル店に、この標語が掲示されていたことがありました。
もちろん、レンタルして視聴したビデオを巻き戻す必要はありませんでした。巻き戻したらお金を返してもらったり、しなかった場合に追加料金を支払ったりする必要はありませんでしたが、ビデオショップは、「親切心を持って、巻き戻してください」という標語で、人が持つ優しい心に訴えかけようとしました。 以前、この標語に関する研究結果を見る機会がありました。その研究では、標語が見やすい場所に掲示されていると、レンタルビデオを返却する際に巻き戻す人々が、標語を掲示していない店に比べて20%多いことがわかりました。 世の中には、一定数厄介な人たちがいます。電車の優先座席に座って、年配の人が乗ってきたときに眠っているふりをする人々がいます。こういった人たちが厄介者だという事は、皆さんも同じように感じていらっしゃると思います。 しかし、ほとんどの人々は、70%、80%、90%、あるいはそれ以上であるかどうかはわかりませんが、他人に対して優しくありたいと思っています。ただ、常に、親切な心を持つことを思い出してもらう必要があります。今日、ここで皆さまへのリマインダーとしてお伝えします。「皆さん、親切心・優しい心を持ってお互い接しましょう。」 Amazonがガラス入りの商品やその他の壊れやすい商品を配送するとき、「取り扱い注意」と明記して、配送します。人間同士も同じです。たまに明記されていることを忘れてしまうのですが、私たち自身も壊れやすいので、お互いに思いやりをもって接してください。 親切は、霊の結ぶ実の一部です。それは神を形作る一部です。私たちは神を威厳的で力強いと思っていますが、神の慈悲と親切な心を忘れてはいけません。そうでないと、神を怒りの支配者と見誤ってしまいます。詩篇23篇には、こう書かれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ…」神は愛と善良だけでなく、親切の精神を体現しているのです。 一部の人々は優しさを弱さと見なしています。特に若い男性は、弱いと見られることを恐れ、優しくなることを避けますが、宇宙にはヤハウェよりも偉大な力はありません。それでも、ヤハウェは親切で優しいのです。親切心とは相手のことを心の底から考えてあげることです。ケーキそのものではなく、ケーキのアイシング(ケーキを彩るクリームや飾り)が、ケーキを美しく際立たせるのです。 相手のことを心から思ってあげることは、愛、喜び、平和、忍耐、善良のように聖書で明確に言及されているわけではありませんが、どんな人間社会においても、相手を思って行動することは、全ての基本となります。親切でない人々と一緒に暮らし、交流し、働き、教会に行くことは、とても辛いです。 かつて私は横浜の学校で働いたことがありましたが、そこの教師たちはお互いに対し、親切ではありませんでした。彼らは賢くて働き者であり、生徒を大事にしていたと思いますが、お互いに親切心を持って接することをしませんでした。職務内容にそういった明記がなかったのかもしれませんが、入れておくべきだと思ったほどです。誰の人生の、どんなステージにあっても、「お互い親切心を持って接する」ということは、覚えておくべきです。その学校は給料がよかったのですが、そこで働くのは辛かったので、1年間勤めて辞めました。 ある無人島で遭難した男性の話があります。数年後、通りかかった船が彼を見つけ、救助しました。船が岸に到着すると、男は言いました。「来てくれてありがとうございます。」そして尋ねました。「何年間もコーラを飲みたいのですが、コーラはありますか?」コーラを手にした後、救助者は浜辺に3つの建物を見つけ、男に尋ねました。すると男は「最初の場所は私の家です。」彼らは「いいですね。」と答えました。そして彼は2番目の建物について聞きました。すると、男は「こちらは私が神を礼拝する場所です。」彼らは「いいですね。」と返しました。最後に、3つ目の建物について聞いた時に、男は、「その場所について話したくないですが、以前通っていた教会です。一度も親切にされたことはありませんでした。」 これは冗談ですが、教会を去っていく人々は常にいます。別の教会を見つけて、そちらに行ってしまう人がいる一方で、多くの人は、単純に教会に行かなくなります。教会から人が去ってしまう理由は様々です。説教者が気に入らない、音楽が気に入らない、しかし多くの人は、親切にされないがために、自分がその教会に属している感覚が薄く、そのまま去ってしまうのです。これは牧師の責任ではなく、それは会衆の問題です。 YouTubeで効率的に企業を改善させるコンサルタントを見ていました。彼は有名な企業や組織と協力して、仕事を効果化したり、短時間でより多くのことを成し遂げるようにしたりしています。簡単に言えば、もっと多くのことを成し遂げることができれば、もっと多くのお金を稼ぐことができます。(それが私たちの目標ではないですが、効率化を図ることは悪いことではありません。)そのコンサルタントは組織をより効果的にするためのさまざまなアイデアを持っていますが、私が驚いたのは、お互いに親切で肯定的であることについて話したときでした。「人を叱咤し、人を動かすことはできます」と彼は言いました。私の場合だと、学生に勉強を促すために、一時的には叱ることが出来ますが、(学生もその叱りに慣れてくるので)その声がどんどん大きくなり、最終的にはもう叫ぶことが出来なくなります。そのコンサルタントは、「長期的には、叱り・怒りは通用しません。とても非効率な方法なのです。組織をより機能的に効率的に動かすには、思いやりが必要です。」才能の維持だけでなく、実際に物事をスムーズに、そして、きちんと行うには、お互いの思いやりが必要だと言っていました。 私が、YouTubeの影響で教会に新しい時代の風を吹き込んでいると思わないでください。イエスが山上の垂訓(マタイによる福音書7:12)で、旧約聖書の法を要約しながら言われたことです。私の聖書には旧約聖書が680ページ以上あり、ここでイエスはそれを簡潔に表現しています。私たちはこれを「黄金律」と呼びます。素晴らしいものなので、「黄金」と呼ばれています。イエスは単純かつ深遠に、「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」と言っています。大切なのでもう一度言います。「あなたがされたいと思うように、他人に対しても行いなさい。」不思議なことに、私はTEDトークで黄金律を目にすることのほうが多いと感じます。実際、説教があったかどうかさえ覚えていません。もちろん、私たちは孔子の教えが「自分にされたくないことを他人にするな」と言っているのも知っています。それも悪くありませんが、大きな違いは、孔子は私たちの負の行動を制限するように指示しているのに対し、イエスは私たちに行動を呼びかけています。イエスは否定的なことをしないようにというのではなく、他人を肯定したり褒めたりするように呼びかけています。他人に自分のことを中傷されるのが嫌なら、他人に中傷しないようにしなさい、というのではなく、イエスは中傷しない代わりに、他人を肯定し、励まし、ケアするように私たちを呼びかけています。 人々が親切であり、お互いを励ましあうというのは、興味深いと感じます。最近、より多くの人が私に褒め言葉をくれますが、すぐに「しかし」と続きます。3週間前、言われた言葉は、「今日の説教は良かったですが、...」であったり、「EKKのために教会を時間通りに終わらせてくれてありがとう、しかし...」こういったご意見は正直かつ率直で受け止めます。ただ、本当に言いたい言葉は、褒め言葉でないことが分かります。 私自身(きっと他の方も)も「今日の説教は素晴らしかった!」と自画自賛しません。でも、褒め言葉の後にすぐ「しかし」が来るのは、本当の褒め言葉ではなく、実際には、相手への苦情や攻撃として使われることがあるからです。相手が褒め言葉で良い気分になった直後に「しかし」が来るので、より印象が悪いです。だから、何か私に対して言いたいことがある時は、褒め言葉は必要ありません、率直に問題を伝えてください。 私の説教を数週間聞いてくださっていたら、分かると思いますが、私は説教を様々な物語で終わらすことが好きです。先週は忍耐の物語があり、ある友人が夫のために絶え間なく祈る話でした。2週間前には、洞窟の中のエリヤの物語を語り、3週間前にはボンヘッファー牧師について話しました。今日は私たちの主について話したいと思います。親切は大きなことではなく、実際には小さなことですが、小さな親切の心が私たちにこの世界で生きていく意味を見出してくれるのです。 イエスがその活動を始めたとき、彼はある結婚式に招かれました。ユダヤの結婚式は音楽、食べ物、踊り、笑い、飲み物で祝われる大イベントです。それは1日だけのものではなく、時に数日続きます。結婚式のために、現代と同じように、人々はこういったイベントのために貯金をします。結婚式が上手くいくことが、幸せな結婚生活の保証ではありませんが、イエスの時代も現代と同じく、結婚式が上手くいかないと、それは不幸な結婚の前兆とみなされていました。この結婚式にはイエスの母(マリア)が深く関わっていたことが分かっています(マリアの親戚か友人である可能性)。結婚式の合間に、マリアはパーティーのワインが切れかかっていることを知ります。それはワインであり、ブドウジュースではありませんでした(何年か前に、ある説教者が15分間ほどワインは教会で許可されていないので、それはワインではなかった可能性があると説明していたことがありました)。マリアはワインが切れかかっていることをイエスに伝えます。「もうワインがなくなった。」これは世の中の問題の中で大したことではありませんが、それでもマリアはイエスに行きます。皆さんは、大きな問題だけでなく、小さな問題を抱えていたとしても、イエスのもとへ行けることを知っていますか?イエスは母親に、こう返答します。(この女性が誰であるかを覚えていますか?これはマリア、聖マリアです)「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」(イエスを何者か理解していますか? マリアも理解しています)。そして彼は続けて、「わたしの時はまだ来ていません。」と言います。それにもかかわらず、マリアは息子の大きな優しい心を知っているので、働いている人々に告げます。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」イエスは礼拝用の大きな壺を満たすようにし、その後、結婚式の主催者に壺から出てきたワインを試飲してもらうように伝えました(結婚式の主催者は、ゲストに提供される全てのものを最初に試食・試飲する必要があったからです)。 水が入った壺からワインが出てきていたのです。ただのワインではなく、これまでに飲んだ中で最もおいしいワインでした。主催者はこのワインがどこから来たのかさえ知らず、働いている人たちは、その真実を隠すようにイエスから伝えられていたので、主催者には伝えられませんでした。「左手がしていることを右手に知られてはいけない」というイエスの教えは、献金だけでなく親切行為についても実践されています。「そうすれば、あなたの行動を見ている天の父が、あなたを祝福なさる」。イエスは水をワインに変える必要はなかったのですが、イエス自身が言ったように、彼がその「出番を待つ」としてしまったら、結婚式という大切な時を台無しにしてしまったかもしれません。しかし、主は親切なことを行いました。私たちにも出来るでしょうか? このワインの話は、確かに奇跡ですが、盲目の人を見えるようにしたり、らい病者を治したりするような大きな奇跡ではなかったです。しかし、主の最初の奇跡は、他者に対する親切心から行われたものでした。私たちにも同じように小さなことからでも、親切を相手に届けることはできるのではないでしょうか? 祈りましょう 聖書
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。(ガラテヤ5:22-23) しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31) わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11) 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ人6:9) 説教 さてキリスト者でない人は、今日のメッセージをおかしなものと感じるかもしれません。 では、曲を聴いてみましょう。これはクリスチャンの歌ではありませんが、今日お話しする忍耐について、世の中の人がどのように見ているかがわかります。(クイーンの「アイ・ウォント・イット・オール」の曲の歌詞、「全てが欲しい、全てが、今」)。 世の中がなぜそれほど不満でいっぱいなのでしょうか。「全てが欲しい、全てが、今」という歌詞は、まるで2歳の子がかんしゃくを起こしているかのようです。とはいうものの、私は待つのが苦手です。素早いサービスが好きです。90年代のパソコンのインターネット接続時のうるさい音を覚えている人も多いでしょう。(その音を再生) 誰でも待つのは好きではありません。しかしパウロは、「忍耐(寛容)」は御霊の実の一部であるとはっきりと述べています。パウロは、神に選ばれた民(私たちもそうです)、神に愛されている民について語るとき、思いやり、親切、謙遜、やさしさ、忍耐を身に着けるように求めています。忍耐(寛容)は御霊の実の中でトップ4に入り、平安の次にあります。 忍耐の反対は、いら立ちです。世の中が自分の望むように回らないときに湧き上がる我慢できない感情です。私が一番我慢できない人間は自分自身です。(マークもそうでしょう)。周りの世界に対する不満がいら立ちになります。世の中がどのように機能しているかに対する不満です。2週間前に話した「喜び」とは、周囲の人によいものをもたらす清らかな湧き水のようなものです。「いら立ち」とは、汚水やごみをまき散らす下水道のようなものです。人は自分自身に我慢できないとき、自分の心に汚いごみをまき散らします。Ⅱコリント19章で「聖霊の神殿」と呼ぶ身体を、汚してしまうのです。 私にとって一番我慢できないことは、自分の予定が時間通りに進まないときです。夜更かしをして翌朝寝坊し、あわてて出勤すると、まるですべてが赤信号になったかのように感じます。悪いのは自分だとわかっていても、世の中にいらいらしてしまいます。 いら立ち、特に長期間のいら立ちは、神を批判していることになります。自分の欲しいもの、必要なもの、願望、時間が思うようにならないとき、神が世界をうまく統制していないせいだと責め、神に「もっとちゃんとやってよ」と言っているようなものです。忍耐の実を育てていかないと、こういうことが起こります。 一方、忍耐は、神との信頼と希望に満ちた関係に根ざしています。神の時間に信を置き、自分の都合や時間ではありません。 モーセは忍耐を学ばなければなりませんでした。エジプト人の監視を殺害したことでエジプトを逃れ、砂漠で40年羊飼いをしなければなりませんでした。忍耐を学ぶのに40年は長い時間です。彼の忍耐は、燃える柴の茂みで神に出会うまで続きました。神は、モーセを「全てが欲しい、全てが、今」という気持ちから解放されました。なぜ神はそれほど長い期間待たせたのでしょうか。モーセは指導者として準備ができていなかったのでしょうか。民の側が、導いてもらう準備ができていなかったのでしょうか。私たちにはわかりません。わかるのは、神がモーセを何十年も静かな場所に身を引かせ、神の言葉や御業がわかるようモーセの耳と目を開かせたことです。 数年前、ブルース牧師が教会を去った後、牧師職の面接の機会が私には来ませんでした。私は傷つき、それがどういうことかを考えて苦しみました。長野の別荘小屋に行き、どういうことかわかるよう祈りました。神が私に言われたのは、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている―主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」というエレミヤ29:11の言葉でした。神は私のための計画を持っておられ、私は主を待ち望むことを学ばなければならないとわかりました。その後サポート牧師としてここで働くことになるとは思ってもみませんでしたが、神が私のための計画を持っておられるのは知っていました。 神はみなさんそれぞれに計画を持っておられ、たとえ困難に出会うとしても、神のご計画はわざわいをもたらすものではありません。希望と未来をもたらすものです。使徒パウロは言っています。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)。ですから夏が終わった後どうするつもりか尋ねられたら「わからないけれど、今日するべきことはわかっている」と私は答えるでしょう。 こう考えてみてはどうでしょう。神はすばらしいことを用意してくださっている。それは人間関係、社会的地位、職業、または神に奉仕する仕事かもしれません。その代価として神が私たちに求められるのは、時期が来るまで待つということです。それでも、待つのはいやなものです。そして主を待ち望むのは、病院の待合室でスマホの電池切れで何もすることがなく、ただひたすら順番を待つのと同じような煉獄だと勘違いする人がいます。それは忍耐ではありません。そんな風に待っていては、あなたにとっての柴の茂みが燃えた時、間に合いません。忍耐に対する考え方を変えてください。忍耐とはただ時間を潰して待っているような受け身のものではありません。神の愛と希望と喜びを体現する器としてのあなた自身を形作るための、最も生産的な時間であるべきです。 待つとは準備の期間です。パウロはダマスコの道でキリストに出会った後、すぐに説教を始めたわけではありません。ペテロと弟子たちは、使徒になる準備が整うまで3年間訓練を受けました。イエスでさえ待ちました。神殿にいた12歳のときから、自分が誰であるかを知っていました。彼は完全に神の御子でした。しかし18年間御父の定めた時機を待ちました。それは3年間の伝道のためであり、十字架上での3時間のためでした。これらは「全てを欲しがり、今すぐ欲しい」とは違います。もし、全部ほしい、今すぐほしいと思うなら、結局その人は何も手に入らないと断言できます。 アメリカで巨額の宝くじに当たった人のほとんどは、わずか数年で全てを失います。自分を蝕んでしまう富に備えていなかったからです。成功するのに必要なスキルを習得するため、待たなければならない人もいます。感情を成熟させる時間が必要な人もいます。こういった人は主において成長する必要があります。恵みにおいて成長し、慈悲において成長し、知恵において成長する必要があります。 以前、急いでケーキを焼こうとして失敗したことがあります。200度で20分焼くところを400度で10分にしました。ケーキは外側が焦げて中が生焼けでした。物事には時間がかかります。数字の計算上は正解でしたが、ケーキを焼くにはうまくいきませんでした。 他の人にとって、待つことは大事なことではありません。待つことは、主に導かれる人や計画にとって大事な事です。子どもの頃、かくれんぼで、こちらが隠れる場所を見つける前に、鬼になった子どもが探し始めることがあります。神が用意されたリーダーシップの地位にスキル面でも感情面でも準備ができていても、その人に従う人々も準備ができていなければなりません。家を整える人が誰なのか私にはわかりません。 主よ、主が私に地位を与えてくださる前に、私はスキルを向上させる必要がありますか。主よ、私は態度や行いを改善する必要がありますか。主よ、主がイスラエルの民に約束の地を用意されたように、私が入る前に私の地位を用意されますか。私に主の答えはありません。ただ待つ必要があるときには、私はひざまずいて待つことで答を得られるのだと知っています。 モーセは自分自身に取り組み、神は民のために難しい仕事をされました。神はその民を頑固で強情な民と呼びました。これは私の言葉ではなく、神の言葉です。モーセは主の力強い御手によって、民を率いて紅海の水を渡り、ヨルダン川まで民を導きました。モーセ自身はヨルダン川を越えることはできませんでしたが、自分の仕事は果たしました。 繰り返しますが忍耐とは怠惰や受け身ではありません。A型の人間だから忍耐はできないとは言えません。忍耐は受動的ではなく、主イエスのされたように神への積極的な信頼です。 私たちは1990年代に横浜に住んでいました。親しい友人のアンドレアとは子どもの幼稚園で出会いました。初めて会った時の最初の質問の一つは「クリスチャンですか?」でした。私たちはよく子どもたちを一緒に遊ばせ、家族で集まることもありました。当時私たちは横浜ユニオン教会に通っていました。現在クラウディア牧師が奉仕している教会です。アンドレアと私は毎週水曜日に女性の聖書勉強会に参加していました。KUCのWOWのようなものです。そこでは、家族、特にクリスチャンでない夫に、イエスとその愛をどのように伝えるかについてよく話し合いました。アンドレアは夫のケイシのために祈ってほしいと言いました。ケイシは1990年代の東京の一流企業に勤めるサラリーマンでした。私たちは、ケイシや他の夫がイエスに従う者となるように毎週祈りました。1999年に私たち家族はアメリカに戻り、マークと私は牧師になるべく神学校に通いました。その頃アンドレアは横浜ユニオン教会で積極的に活動していましたが、ケイシは月に1回または教会行事があるときに出席する程度でした。教会の中心メンバーは当時20人ほどのリーダーで、毎週日曜日の礼拝後に残って、持参の昼食を一緒に取り、交わりの時を持っていました。 私たちが日本を去った後、ケイシが毎月2回ほど教会に出席しているとアンドレアから聞きました。私たちが神学校で2年目を過ぎたころ、アンドレアとケイシがアメリカに戻ってアトランタに家を買い、そこの大きな教会に通い始めました。ケイシは毎週教会に出席するようになり、教会に来た人を席に案内するアッシャーの男性に声をかけられて、アッシャーのグループに入りました。グループの男性たちとコーヒーを飲んだりするうち、今度はバイブルスタディに入りました。 ある夏に私たちは彼らの家に滞在し、一緒に教会に行きました。ケイシが喜んで教会に行き、イエスを信じるのを見るのは驚きでした。ケイシは2001年に息子のクリストファー・レオと同じ日に洗礼を受けました。この信仰の旅路、神のご計画を待つ忍耐の期間は約9年でした。毎日誠実に祈り、一緒に祈ってくれる人がいることが重要です。アンドレアとケイシは日本に短期宣教旅行を始めました。そして東日本大震災が発生したとき、ボランティアの人材を日本に連れてきました。また私たちと同様にBe Oneと提携しました。ケイシはそこで通訳をし、バイブルスタディを開いてBe Oneの日本人に教えました。そしてケイシが神からの召命を受けて神学校に通い始めたと聞きました。彼は仕事やアンドレアと宣教旅行をしながら神学校に通いました。2023年12月に最後の論文を書き上げ、宣教学の学位を取得しました。彼らは東京のTEAMに5年間の契約をし、日本に滞在する人のための宣教師として活動を続けています。 神への信仰を持つ人々の人生に、神が成されることは驚くべきことです。神が今も人を動かし、働き、導き、人を送り込んでいることを賛美しましょう。私たちがイエスと共に歩むこの信仰の旅は、神のご計画を待ち、準備するための忍耐の旅です。ケイシとアンドレアの人生のように、私たちの人生にも神は計画を持っておられます。神は私たちがその計画に気づき、従うよう望んでおられます。神が私たちに送ってくださった聖霊のかぐわしい香りとともに神に従うよう、神は望んでおられます。 私たちの人生、友人の人生、KUCのクリスチャン仲間の人生における神のご計画について日々祈る中で、主の道とご計画に従う忍耐力をますます養っていきましょう。忍耐を持つことで、主が望んでおられる人間に成長できるのであり、それが御霊の実です。忍耐という御霊の実を私たちの内に育ててくださるよう、主に助けを求めましょう。 ガラテヤ人への手紙 5:22-23
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。」 ヨハネによる福音書 14:25-27 「これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 今日は、御霊の実の一つである平和の実について話します。私の母教会であるメノナイト教会の伝統は、平和に大きな重点を置きます。銃所持への問題意識があり、メノナイト出身の警察官やメノナイトから軍に入隊する人は非常にまれです。私達は滅多に暴力的ではありませんが、時折、私達の暴力は受動的攻撃性(訳者挿入:直接、不満や怒りを相手に示さず、表面的にはやわらかい物腰で、暗に怒りや抵抗を表現して相手を攻撃すること)という形で表れます。神学校で最も頑固な教授の一人は平和に関する講義でしたが、そのアプローチはあまり平和的ではありませんでした。まるで反面教師、親が「私の言うことをしなさい、だが私の行動を真似するな。」と言っているようでした。私は、心の中に神様が私達に備えた平和を喜んで取り入れるまで、私達が周囲と平和を保つことはできないと考えています。ほとんどすべてに流れがあるように、平和は内側から外側に向かい流れているのです。だから、クリスチャンにキリストの道ではないようなこと「隣人を殴らないで」「兄弟に言い争わないで」と言う必要はないと思います。よって今朝はキリストの平和に焦点を当てたいと思います。その平和を受け入れれば、あなたの人生を平安へと変えることができるのです。それほど平和には力があり、神様を愛し、隣人を愛することができます。主は私達に平和を創出する者であることを教えただけでなく、平和な人生がどんなものかを死に至るまで私達に見せたのです。すべての必然性がそうであるように、変容は内面で起こり、外側に現れだすのです。平和、愛、喜びがあふれ出すところから、私達は御霊の実をこの世と分かち合うことができるのです。しかし、それにはまずあなたの心から始まります。 平和、またはシャローム(Shalom)、は聖書で約300〜450回言及されています、使用する翻訳により異なりますが。ルカの福音書24章では、主イエスの十字架刑の後に弟子たちが動揺して隠れている中、主イエスが現れます。主は「何をしているんだ隠れているのか。」とは言いません。主は叱責しません。代わりに、「兄弟たち、平安があなたがたにあるように」と言います。では、平和とは何でしょうか。それをどのように定義しますか。多くの人は平和を戦争でない状態か、争っていない状態と定義します。その定義によると、私があなたに向かって怒鳴っていないなら、或いはあなたに手をかけていないなら、それは平和と言えるでしょうか。私はそうは思いません。暴力の欠如は、聖書の平和やヘブル語で使われる「シャローム」の定義からはほど遠いものです。主イエスはアラム語を話していたと考えられますが、彼が弟子たちに話しかけたときにはおそらくヘブル語の「シャローム」を使ったと思われます。シャロームという言葉、皆さんの中でロイからメールを受け取ったことがある人は、彼のメールの最後に彼の名前の前にシャロームと書かれているのに気付いたことでしょう。シャロームは紛争の欠如だけではありません。シャロームは相手に充足した幸福を望み、その人がその幸福を得るために行動する意志を含みます。能登半島の人々にシャロームを提供するなら、私達はそれについて何かをしなければなりません。従って、キリストの平和を互いに享受するとき、あなたは単に「あなたを殴らないよ」または「ゴシップはしませんよ」と言っているだけでなく、その人のために最善を望み、神様によって祝福されることを願うことになります。 西洋では、握手という簡単な儀礼があります。なぜでしょうか。それは私の手に武器がないこと、ナイフや銃を持っていないことを示すためです。私はあなたにシャロームの心をもって挨拶し、あなたに害を加えない意思を表します。興味深いことに、ネイティブ・アメリカンの友情のサインは右手を上げることで、手に弓を持っていないことを見せます。私はあなたに対して暴力的な武器を持っていません。神様の私達への握手または上げられた手は、神様の御子を意味します。神様は私達にその御子を送り、その御子の最も頻繁なメッセージの一つがシャロームなのです。神様が御子をこの世に送り、そして私達が主イエスと他者との間に愛に満ちた関係で満たされるようにするためです。主イエスは私達に対して、「わたしが来たのは、羊たちが命を得るため、それも豊かに得るためです。」(ヨハネ10:10)と言っています。これがシャロームです。私達はこの関係を規則に基づく契約関係ではなく、愛に基づく誓約関係と呼びます。神様は世を愛して、御子を送り、御子を信じる者は救われ、主の平和を喜び楽しむことでしょう。 ほとんどの結婚カップルは言い争いをします。それは普通のことです。私と妻ステファニーが試行錯誤で学んだことの一つは、ベッドで明かりを消して口喧嘩をしないことです。なぜなら、ベッドは平和と安らぎ、愛の場であるべきだからです。明かりが消えると、発した言葉がどれくらい相手にダメージ与えたかを見ることができません。相手を生涯の愛する伴侶と見る代わりに、相手を敵対者と見てしまいます。それが原因で勝ちを意識し、夫婦で勝利することよりも個人的な勝利を求めてしまいます。だから明かりをつけたままにしておきましょう。 シャローム。内なるシャロームの欠如がこの世に影響を与えていると思います。私達は御霊の実の平和について見ており、主イエスは聖霊を約束した時に言います。「わたしはあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ14:27)。主イエスの死後の航跡(私達は皆、死後に航跡を残します)は、平和の霊でした。私達がこの場、部屋を出るとき、私達は何を残すのでしょうか。平和、喜び、愛の心、それとも別の何かでしょうか。ある人のそばにいて、その人と一緒にいて深い安らぎを感じたことがあるでしょうか。主イエスの平和は、弟子たちと一緒にいる間だけでなく、弟子たちにも移されたのです。「私の平和をあなたがたに与える」。主イエスが私達に平和を与えてくださるのは、私達個人だけのためではなく、私達が関わる人々に主の平和を分かち合うためでもあります。私達が部屋を出るとき、後ろに残るものは良い匂いだろうか、それとも悪臭だろうか。年を取れば取るほど、子供の頃の歌は私にとって大切に思えます。「愛とは、もしあなたがそれを与えたなら、与えたなら、与えたなら、愛とは、もしあなたがそれを与えたなら、ついにはより多くの愛を得ることになるんだよ。」平和も同じ原理です。あなたは平和を後世に残していますか。しかしながら、平和を乱す人々には注意をしてください。若い頃、私はあまり理解していませんでしたが、今では平和の精神に対して注意を払っています。平和を乱す人々と協力できますし、彼らを気遣うこともできますが、私の心や真珠(貴重な宝)を彼らに与えないように慎重になりますね。 私のお気に入りの旧約聖書の預言者の一人はエリヤです。彼の名前は文字通り「私の神様はヤハウェ」を意味します。彼は神様の素晴らしい預言者でした。今後、彼についての説教をいくつか行いたいと思っています。エリヤは王と女王に立ち向かった人物です。彼はたった一人で、バアルの450人の預言者とアシェラの400人の預言者と対峙し、ヤハウェがより強力であることを証しました。彼はまた絶望を体験し、実は孤独ではなかったが、彼は孤独感に打ちのめされていました。一度、彼は神様に自分の命を取ってほしいと願いました。神様に仕えているのは自分だけだと感じたのですが、神様は彼の他にも同じような者が多くいることを教えたのです。 乾いた小川の低地で、神様の天使が彼に言いました。「この旅の道のりはまだ長いのだから」それを想像してください。天使があなたに道があまりにも長いのだと言った時のことを。この時に神様と聖霊の贈り物を受け取らなければ、私達の人生は少なくとも幸福に暮らし、生きてゆくには過酷すぎます。その後、天使はエリヤに食事を与え、彼は神様に会うためにホレブ山を目指しました。ヒント、世の中があなたにとって重くのしかかっている時、どうか実用的なことに焦点を当ててください。シャワーを浴びること、食事をすること、部屋を片付けること、主の祈りを唱えることなどです。私は祈ることができないと感じる時がありました。言葉が見つからないと感じたとき、何度も主の祈りを唱えました。シャワーを浴びることがすべての問題を解決するわけではありません。食べ物を摂ることがすべての問題を解決するわけではありませんが、生活のリズムを維持するのに役立ち、他の人と会うときには良い匂いがします。 とにかく、エリヤは山に到達し、洞窟にたどり着きました。神様が、天使ではなく神様が彼に語りかけ、「エリヤよ、ここで何をしているのか」 おまえは平安ではないな、と尋ねました。これに対してエリヤは、自分一人ですべてをやらなければならないと不平を言いました。神様は彼に、洞窟の入口に立って待つように命じました。神様が通り過ぎるからです。洞窟の入口で、岩を砕くほど強力な大風が山に吹き付けました(驚きですね)。しかし聖書には神様は風の中にいなかったとあります。その後、地震が山を揺さぶりました(日本で地震の威力を知っていますね)。しかし聖書は再び、神様は地震の中にいなかったと言っています。地震の後、山に火があった、しかし聖書は再び、神様は火の中にいなかったと言っています。私達は世界で強力な自然界の力と対峙し、時折、力に過度に執着します。岩を砕くことができる大風、山を揺さぶる地震、山の上のすべてを消し去る火。しかし、これらの破壊的なものの中に神様がいなかったことを知る必要があります。火の後に、破壊するしかない何か、そこに変容させる何かが現れたのです。それは穏やかなささやきでした。興味深いことに、エリヤは神様がこの穏やかな風の中にいることを知って、この瞬間に外套を頭にかけました。この神様の臨在の瞬間に、エリヤは自分の目的を見つめ、平安を見出したのです。それでも厳しい旅路であり、私の旅路とあなたの旅路も難しいことは分かっています。それらは甘い糖衣で包まれてはいません。しかし、あまりにも多くのクリスチャンが風、地震、人生の火の中で神様を見ようとします。必要なのは、神様の穏やかなささやきを聞くことです。私達に平安を与える聖霊に耳を傾けることです。最初は内面で平安を得て、そしてその平安を経験すると、他の人にも伝えることができます。 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」 ヨハネの福音書14:27 祈りましょう。 |
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May 2024
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