祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いとが御前に、受け入れられますように。主よ、あなたは与え、奪われる方。主の御名がほめたたえられますように。(ヨブ記1:20)アーメン。
私はワクワクしています。何故なら今日から2週間後、私たちはキリスト教暦で最も大きなお祝いをすることになるからです。何を祝うのかって?みなさんわかりますよね。 そうです、イースターです!私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの復活を祝うのですが、今年はコロナ感染症の対策が大きく緩和されたこともあり、大きく祝う予定です!特別礼拝、子供たちのためのエッグハント、そして礼拝後のランチフェローシップを予定しています。Tianenさんが得意の彼女のデジタルアートを使った商品を販売する予定もあります。 私たちクリスチャンにとってのイースターは、神様が死を生に、不可能を可能に変えたことを象徴するものです。私たちの主であるイエス様は、十字架に自らかかることによって、その犠牲を通して私たちが罪から清められるように私たちを救ってくださいました。 イエス様の死、そして死からの復活を通して、神様は私たちに新たな命を与えてくださいました。 私たちは皆、イエス様を信じた結果、人生の流れが好転した経験をしたことがあるはずです。神様が惨めで死のような状況から私たちを救い解放し、私たちの人生を意味と目的のあるものに置き換えてくださった経験です。 再生、刷新、人生における新しい章。神様が私たちの人生にそのように介入してくださるとき、それはとてもエキサイティングなことですよね。神様が私たちのために扉を開き、道を作り、その道をまっすぐにし、思いもよらないチャンスを与えてくださるとき、私たちの神様は生きている神様であり、私たちの状況を変え、私たちの人生を変え、そして私たち自身をも変えてくださる神様であると心から感じることができます。私たちの神様はイースターの神様であり、私たちの運命を死から生に変えてくださるのだと理解するはずです。 人生の大きなマイナスが、突然、奇跡的に大きなプラスに変わるとき、私たちは、神様が私たちの人生においてどのように働いておられるかを容易に知ることができるます。癒しを経験するとき、必要なニーズが満たされるとき、神様が敵対関係を修復してくださるときなど、私たちの人生やコミュニティで起こる新しいことがすべてポジティブなものであるとき、私たちは神様を賛美せずにはいられません! 人間のあらゆる力、あらゆる論理、あらゆる強力な意志があっても変わらなかったことが、神様によって奇跡的に変えられるとき、神様が人生を好転させ、マイナスをプラスに変え、闇を光に変えるとき、私たちは、これらの奇跡は神様から、そして神様のみからしか生まれないことを知ります。 しかし、それと同時に次のような疑問も浮かび上がるかもしれません。「もし、神様が物事を変える力があるのなら、悪いことをすべて良いことに変える力があるのなら、なぜ神様はいつもそうしてくれないのだろう」という疑問です。 もし神様が癒すことができるなら、なぜ神様はすべての人を癒さないのだろう?もし神様が必要なニーズを満たすことができるのなら、なぜ神様は時々、ニーズを満たすどころか、必要だと思われることを取られてしまうのだろうか?神様が修復できるのなら、なぜ神様は時に破壊してしまうのでしょうか? もし命を吹き込むことができるのなら、なぜ神様は死を許されるのだろうか? このような疑問が、今日の聖書箇所のお話しに登場する人々の頭をよぎったのではないでしょうか。 今日の聖書箇所は、マリアとマルタの兄弟ラザロが病気であるというところから始まります。ラザロの病気は重く、ラザロは結局死んでしまいます。 イエス様が、病に対処するのは、これが初めてではありません。実際、今日の物語に至るまでに、イエス様はすでに癒し手としての名声を得ていました。イエス様は宣教の始めから、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒されました。(マタイによる福音書4:23)イエス様は盲人の視力を回復させ(ヨハネによる福音書9:1-12)、12年間長血に苦しんでいた女性を癒し(ルカ8:43-48)、38年病気を患っている人を癒し(ヨハネによる福音書5:1-9)、手の萎えた人を癒しました。(マルコによる福音書3:1-6)これらはほんの一部にしか過ぎず、聖書には、イエス様による癒しの奇跡が他にも綴られています。 ですから、人々はすでにイエス様の癒しの力を知っていたのです。イエス様が行く先々に集まってついてきた大勢の群衆は、イエス様の力強い癒しの行為を目撃することを期待していたのであり、マリアとマルタもその例外ではありませんでした。 ラザロが病を患うと、マリアとマルタはイエス様に 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです 」とメッセージを送ります。(ヨハネによる福音書11:3)さらにヨハネによる福音書11:5にあるように、イエス様が愛していたのはラザロだけでなく、マルタとマリアのことも同じように愛されていました。 では、イエス様がラザロを、ラザロの姉妹を愛しているのなら、なぜイエス様はラザロのもとへ行き、病人や怪我人、死にゆく人のためにいつもそうしているように、ラザロを癒してあげなかったのでしょうか? さらに不可解なのは、イエス様が意図的にラザロのいる場所に行かないことを選択したことです。ヨハネによる11章6節には、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」とあります。 イエス様はラザロを死なせてしまったということでしょうか。ラザロを死なせることを選んだのでしょうか?愛する友人や家族の命を奪い、残された者たちを悲しませるなんて、私たちの神様がそんなことをなさるのでしょうか。 今日の聖書朗読でわかるように、神様は死を許すというのが簡単な答えです。イエス様は、ラザロが死んだことを、はっきりと宣言しています(ヨハネによる福音書11:14)。 しかし、もし私たちが、神様が死を許すのか、なぜそのことが重要なのかを理解したいのであれば、もう少し深く掘り下げてみる必要があります。そのためには、まず、イエス様が、そして神様が、死を私たちと全く異なる方法で見ていることを知る必要があります。 イエス様の死への向き合い方と私たちの死への向き合い方の最大の違いはこうです。私たち人間はしばしば死を避けようとし、死が起こるのを防ごうと努力します。私たちは死から逃れようとし、可能な限り死から遠ざかろうと戦いますが、それに対し、イエス様は死を避けることのできないものとして受け入れています。 マリアとマルタは、ラザロの病気を伝えるために、イエス様にメッセージを送りました。自分たちは神ではない、ラザロを救うことはできない、しかし、イエス様にはそれができることを彼女たちは知っていました。彼女たちは、イエス様が自分たちにはない力、つまり来るべき死を避けるための力を持っていることを知っていたので、イエス様が他の多くの人を癒したように、自分たちの兄弟のラザロも癒してくれることを期待して、イエス様に信仰を寄せました。 しかし、マルタとマリアが期待したほど早くはありませんでしたが、イエス様がようやくラザロに会いに行こうと決めたとき、弟子たちはイエス様に迫る死の危険について警告します。「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなた(イエス様)を石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(ヨハネによる福音書11:8) マリアもマルタも、そして弟子たちも、自分たちにとって大切な人の命が奪われないように、死を防ごうとしているのです。そして、それとは対照的にイエス様は死を避けたり、防ごうとはしていません。 イエス様は、死が起こるのを防ぐことには興味がないのです。イエス様は、死が起こる中で神様が行っておられる働きにのみ目を向けておられるのです。イエス様はラザロについてこのように言います。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(ヨハネによる福音書11:4) 死ぬこと、そして神様が死が起こるのを許すことには目的があります。そしてそれだけでなく、イエス様は、死を許す神様は栄光を受け、賛美されるべきであると言います。 力、命、光、癒し、回復、そして神様を通して実現されるあらゆる可能性が私たちにもたらされるとき、神様に栄光を帰すことはとても簡単です。しかし、私たちにもたらされるのが祝福ではなく、死であるとき、その中で神様を賛美し、神様に栄光をあれと言うことは、ずっとずっと難しいことです。自分が大切にしていたものが奪われ、愛する人が困難を背負い、状況が好転するどころか悪化の一途をたどるとき、私たちは手を上げて「ハレルヤ」(神を賛美せよ)とはなかなか言うことはできないでしょう。そのような中で神様を偉大だ と思うことは難しいはずです。 しかし、今日の聖書箇所から読み取れる核心的なメッセージは、神様は生と死の両方を司る神様であるということです。神様は生命を創造し、生命を取り去る。神様は、新しい命を与える力、そして、役目を終えた人や物事から命を奪う力と権威を持っています。この与え、奪うという究極の権威と大きな力は、神様だけに与えられ、行使されているのです。 そして、神様が死を定めるとき、それを避けたり、起こらないように必死になるのではなく、それを受け入れることは、私たちの信仰において非常に重要なステップとなります。 イエス様の生涯を考えてみましょう。イエス様は地上における生涯と宣教の中で、自分が十字架の上で苦しみ、死ななければならないことを知っていました。イエス様は、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われました。(ヨハネによる福音書10:11)イエス様は、自分の死について語ることを避けず、また、それを防ごうともされませんでした。 イエス様は死を避けようとしなかっただけでなく、言動を通して、弟子たちにも同じように生きるように勧めました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言いました。自分と同じように死を受け入れて、神様の御心のために生きることを勧められたのです。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである」(ルカによる福音書9:23-24)と。 自分を捨て、自分の十字架を背負う、つまり自我に死ぬということは、私たちクリスチャンにとって非常に大切なことです。人生における出来事の大小に関わらず、私たちクリスチャンは自我に死ぬことを求められています。私はクリスチャンになった後、高価な服など物質的なものに自己価値を置いていた自分を手放し、十字架につけなければなりませんでしたが、その死を受け入れたとき、高価な服ではなく神様が私を良く造ってくださったという事実を受け入れることができました。 ドンと私が神学校に行き、牧師になろうと決めたとき、私たちは安心と安定を一番にするライフスタイルを手放さなければなりませんでした。そのことにより、私たちがどこへ行こうとも、神様が私たちを養ってくださるということを信頼するよう鍛えられました。神様が私にステップマザーを赦し、受け入れるよう促したとき、私は自分のプライドや自分は何も悪いことをしていないという信念を手放し、十字架につけなければなりませんでした。そのことにより、私は神様が私の人生に与えてくださったこの新しい関係を受け入れるステップを踏むことができました。 自分の中にある、自分中心の欲望、計画、希望、期待を捨て、それらを十字架につけ、死を受け入れるとき、私たちは神様が私たちの中に新しいものを育くみ、新しい計画、希望、命を墓場から創り出すことを知ることができます。 自分自身に、自我に死ぬということは、キリストにあって新たに生まれ変わり、立ち上がることを意味します。 「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時。」(コヘレトへの言葉3:1-2) 私たちの多くは、コヘレトの言葉にあるこの有名な聖書箇所を知っています。つまりすべての物事は神様の定められた時に起こり、良いことも悪いことも神様の意志に従って起こるということを私たちは知っています。しかし、それを知っていても、それを本当に信じ受け入れているかどうかは全く別の話です。 正直なところ、私は、日曜礼拝や、その他教会が主催する集会やイベントの出席率が低下していることを心配していた時期があります。「昔はもっとたくさんの人が礼拝していたのに」と嘆く声を聞く時、「ああ、私たちの教会はこのまま縮小して死んでしまうのだろうか?私たちは過去の栄光を取り戻すことができるのだろうか?これは私のせいなのだろうか?私の力不足なのだろうか?」という思いがよぎったこともあります。 そんな不安と恐怖の中で、私は事態を悪化させないために懸命に働いている自分に気づきました。教会の集会に来てもらえるように催促のメールを送り、そして集会に来る人数を気にするようになり、その人数が少し増えると、安堵している自分に気づきました。 でも、ある時、私はこのように労苦して何になるのだろうと思ったのです。私は気づいたのです。その中に命がない物事に対し、それらを一生懸命に救おうとしていたことを。これ以上数字が下がらないように、日曜日に教会に来る人の数を増やすために一生懸命になることに時間を費やしてはいけないと思ったのです。私は、教会の成功が数字や数値、データで測れるという考えを捨て、十字架につけなければなりませんでした。 その代わりに、私は神様が何をしておられるのか、神様が私たちの教会をどのように復活の体に導いておられるのかに目を向ける必要があることに気づきました。誰が教会に来るか、来ないかを決めるのは私の仕事ではなく、それは私たちが一生懸命になることではありません。そのことは神様と神様だけに委ねられています。しかし、私の任務は、神様がどのように死を生に変えておられるかを見つめ、その事を教会レベルでできるようになるように仕える事だと気づきました。イエス様が自らを犠牲にして世に光を与えるために実践したような、サーバントリーダーシップが実現されるために、私たちを自我中心の生活の墓から呼び出し、そこから立ち上がり、神様だけに従うよう呼びかける神様の声に耳を傾ける、神様にだけに目を向けるよう、人々を励ますことが私に、教会に与えられた役割だと気づきました。 このような霊的成長は、数字で表せるものではありません。しかし、教会において人々が忍耐を実践し、その忍耐によって人格を形成し、どんなに困難な状況でも希望を見出すことができるようになる時、教会の中に新しい命が育ち、それが成長していることが分かるでしょう。 礼拝出席人数、将来を描く綿密な計画、財務報告書のプラスマイナスなど、それらの数字に注目し続けることは、死そのものを回避するようなものだと気づかされました。何故なら私たちの神様は、偉大で輝かしい目的のために死を許す方です。私たちの神様は終わり、死を喜ぶからではなく、人生のサイクルの自然な一部として死、終わることを許される方です。 何故なら私たちの神様は死を通して、再生される神様だからです。私たちの神様は甦りのイースター・サンデーの神様なのです。 私たちが今置かれている受難節は、イエス様の十字架に目を向け、死もまた神様の計画の一部であることを思い出すための時です。私たちの大切な人々、私たちの人生の物事、あるいは自分達の教会に対する思いの中に存在する自我を十字架につけるという精錬の季節を受け入れる必要があります。私たち自身が、私たちの教会が自我に死ぬ時、神様に属さないものはすべて焼き払われ、神様が望まれるもの、神様にとって大事なことだけが残ります。 私たちは、死が神様の計画の一部であることを忘れず、神様が死ぬ時だと言われる時、死なせ、手放さなければなりません。 そうして初めて、私たちは復活、再生の栄光の証人になれるのですから。 祈りましょう。 主よ、私たちはいつも死より、新しい命について語りたがる者たちです。あなたが私たちのために死を模範としてくださったのに、私たちは死について考えたり、向き合うことを拒否しています。死を受け入れれば、私たちは皆、あなたの中で永遠の命を持つことができるのにです。どうか私たち一人一人に、私たちの人生においてそこに命はないのにしがみついているものを、十字架につける必要のある自我を示してください。過去の栄光を手放し、あなたが望まれる教会として再生し、完全に生きるために、私たちが教会として何を見つめるべきか、何をするべきかを示してください。あなたが今もこれからも永遠に、神様の御心に従って、愛と憐れみのうちに与え、奪う主であり続けてくださいますように。アーメン。
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今日は、盲目で生まれた人が癒された話についてお話しします。聖書には、ある人が生まれつき肉体的な苦痛をもつ人の話をいくつか見ます。使徒言行録の中に2つあります。ヨハネの福音書では、弟子の一人が罪と罰の因果関係について質問しています。彼らは盲目で生まれた人に出会ったとき、「誰が罪を犯したのか」と質問します。母親の胎内で罪を犯したのか、それとも、両親の罪なのか、はたまた曾祖父の罪なのか。この質問は、その人の目の前で行われたのですから、失礼なものです。後ほど夕方まで待って、主イエスに問うという礼儀正しさもないのです。
数ヶ月前、スーパーで小さな男の子が私に向かって、「大丈夫ですか?」と聞いたのです。私は驚いて、「大丈夫ですよ。」と答えました。なぜそんなことを聞いたのかと尋ねたら、その子は、私の目が青かったから病気かと思ったと言うのです。その子のかわいらしさがあふれたたわいもない問いかけですね。しかしながら、主イエスの弟子達はかわいい子じゃすまないのです。彼らはもっとよくわきまえるべきですよ。こんな失礼な質問をすること自体、間違っているのです。この人は苦しんでいて、世間から切り離されていて、ただその日を乗り切るための小銭が欲しいだけなのに、突然、裁きに満ちた独善的な人が、自分や親の罪について質問するのです。 彼は見えないのです、その彼にとって知らない人達が彼のことを話題にしているのです。彼が対峙することすらできない人たち。その質問は彼を傷つけたに違いないでしょう。彼はずっと苦しみぬいていただけでなく、お金を乞うしかない状況に追いやられていたのです。このような問いかけは裁きの言葉になります。正しい裁きではなく、罪深い裁きです。主イエスが神殿で悪徳商売人の屋台をひっくり返したとき(マタイ21章)、私達は正しい裁きのイメージを想像します。使徒パウロがペテロに異邦人への誤った振る舞いについて問いただすとき (ガラテヤ2章)もそうです。これは、主イエスのように権力者と対決しているわけでも、パウロがペテロに平等であれと正しているわけでもありません。何も持っていない人を裁き、その人をそれ以上に劣っていると見なそうとするものです。それは正しい裁きではありません。なぜなら、その目的は、壊れたものを直したり、正しいことに導くのではなく、その人の顔を強く泥に更に押し付けることにあるのです。目に梁があるような(マタイ7:4)キリストの代理人ならば、世界は私達を必要としていません。 このような裁きの言葉を見聞きしたなら、私達はそれに立ち向かい、「ノー」と言う必要があります。この種の裁きの言葉は、twitterや他のソーシャルメディアサイトで人々がお互いをキャンセルする方法とよく似ています。「キャンセルされる」という言葉をご存じでしょうか。ある集団が何か裁きの言葉や誰かをボイコットすることを現代風に言うのです。これがイエスの時代であればキャンセルされたでしょう。 もし、この人の目が見えなくなったのは、この人の罪のせいだと思うのなら、 私達は彼に何も与える義務はありません。もしこの人の家族の罪だとしたら、私達はこの人の世話をしたり、かわいそうだと思ったり、精神的に支えたりする必要はないのです。ルカ16章に登場する金持ちが、ラザロを自分の食卓の残飯にさえ値しない、劣った存在として扱ったのと同じことです。もし本当に盲目の原因が罪であるならば、罪を告白して悔い改めるように言う以外に彼を助けることは、神の正当で義なる懲罰に対する冒涜になります。 この質問には深い意味があります。彼は苦しむだけでなく、自分の苦しみを引き起こしたと非難されているのです。このような考え方は、経済的・肉体的な祝福を信仰と同一視し、貧困や不健康を不従順や罪と同一視する健康・富裕思考に根ざしたものです。それは聖書的な神の理解ではありません。正直に言いましょう。確かに、自分の直接の罪のために、その人自身が苦しむこともあります。 私の知り合いに、妻を裏切った男がいます。彼は家族を精神的にも経済的にもないがしろにし、ついには妻から離婚を切り出されました。そのため、この男性は心が折れてしまい、本当に精神的に苦しんでいました。私は、彼と会ったとき、彼の苦痛について話を聞く前に、彼自身の苦痛を引き起こしたのは彼の罪深い行動であることを伝える必要があると感じました。彼が苦しみから解放される唯一の方法は、自分の罪を認め、神と前妻と子供達に許しを請うことです。私は彼に、あなた自身の苦しみは自分で蒔いた種ですと言わなければなりませんでした。 何度も言いますが、この種の弟子達の質問は、この世の人々を気遣うことをわざと避けるためのパラシュートの着地点のようなものです。キリストを中心とした世界観ではありません。この場合、その盲目の人は何も見えないのだから、世の中の痛みを見る必要はないのです。弟子達のように世界を見るなら、エゼキエル36章で語られている石の心を持っているのかもしれません。しかし、神様にお願いすれば、石の心を肉の心に変えてくださるという良い知らせがあります。しかし、あなたは神様に頼まなければなりません。エゼキエル36章26節には、「わたしはあなたの石の心を取り除き、あなたに肉の心を与える。」とあります。私が苦い思いをしたり、怒ったり、嫌味を言ったりするとき、この石の心で生きる必要はない、キリストの光に立ち返るのだ、と自分に言い聞かせています。 主イエスはエルサレムで、神殿の門の近くにいるときに、この男の前を通りかかったのです。彼は物乞いをしており、おそらく通行人に自分が盲目であること、生まれつき目が見えないことを伝え、人々の心の琴線に触れ、小銭を手に入れようとしていました。 実をいうと、罪と苦痛への問かけは、決して悪い質問ではありません。聖書の中で最も古い書であるヨブ記は、苦しみと痛みへの問いかけを扱っています。少なくとも8,000年前から、人々はその問題を問い続けてきたのです。しかしそれを扱うには、設定とタイミングが重要なのです。シャワールームで裸になることは想定内ですが、スーパーマーケットで裸になることは許されませんよね。タイミングや場所が重要です。弟子たちのタイミングはずれていました。そして、私達のタイミングが悪いとき、私達はしばしば意図せずに人を傷つけてしまうのです。気をつけましょう。 私は幼い頃、おできに悩まされていました。おできとは、皮膚の下にできる膿をもった痛いぶつぶつで、多くの場合、細菌感染によって起こります。最初は1個か2個で痛かったのですが、ある夏、足と背中にもできてしまったのです。圧迫されると痛みが出るので、柔らかいベッドで眠ることもできませんでした。寝返りを打つたびに痛みが走るので、泣きながら寝たのを覚えています。夜中に腫れ物ができて、朝にはシーツを交換しなければならないこともありました。母は私に薬を塗ってから、歌って寝かせてくれました。ある夜、私は母に「どうして神様は私を癒してくれないの。」と質問しました。「私は何か悪いことをしたのだろうか」と。私の記憶では、母はただ私を抱きしめて歌い続けていました。母は何と答えればいいのでしょう。詩篇58篇3節のような箇所を引用しても、私の霊的、感情的な生活には役立たなかったでしょう。 すべての質問に答えようとする罠にはまらないようにしてください。主イエスは、聞かれたことにすべて答えるわけではありません。時には、その人の意図が的外れだったため、答えないこともあります。この機会に、私たちは裁くためではなく、仕えるためにここにいるという教訓を学んでほしいと、主イエスは願っています。ヨブ記の中で、ヨブの友人たちは、彼らが話し始めるまで、ヨブを慰めるために本当に素晴らしいことをたくさんしています。それは私も同じです。 主イエスは、傷ついている人の前で、聖書の神学的真理を論じるという罠にははまりません。主イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。4 わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。5 わたしが世にいる間は、わたしは世の光です。」と素早くおっしゃったのです。 教えることは大切ですが、行動を起こすべき時は別です。私達が苦しんでいる人々に出会ったとき、罪について説教する時ではありません。神様は私達に、愛の道具として、神の大使として行動する機会を与えておられるのです。ヨハネ9章のこの癒しは特別です。なぜなら、この癒しは、その人が直接イエスのところに来るのでもなく、友人や親が病人に代わって主イエスのところに来るのでもない唯一の癒しだからです。主イエスは、ただ癒されるのです。主イエスは、「洗いなさい」と言うまで、その人に話しかけられることはありませんでした。私は、人が助けを求めるのを待つことも大切ですが、人生の中で、単に一歩踏み込んで何かをしなければならない時が何度かあると思います。そのためには、聖霊の声に耳を傾けること以外にほかにルールはないのです。 主イエスは土に唾を吐き、泥のペーストを作ります。聖書の時代、唾液はその人の本質や意思を表していると考えられていました。汚れた人の唾液は、人のきれいな肉体的だけでなく精神的も汚してしまうとされていました。十字架の主イエスに対して人々はつばきを吐き、主イエスを汚そうとしました(マタイ26)、しかし、正しい人、聖なる人の唾液は、祝福や薬になると考えられていたのです。世の光である主イエスは、暗闇の中に生きるその人に祝福を伝えたのです。ヨハネ1章は、まず主イエスが「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」と述べています。主イエスは単に光であることを語っているのではなく、その光が暗闇に打ち勝つことができることを示しているのです。盲目という闇。そうです。そして、他の種類の闇も。主イエスは自分が光であり、闇はその光に逆らえないことを実際に体でお示めしになったのです。 私達、神の民は、光ではありません。教会も光ではありません。キリストだけが光なのです。しかし、私達は月のようになることができます。月はただの岩の塊です。月が太陽の光を反射すると、驚くほど美しく夜を照らすことができるのです。月になって、光を必要としている人々にキリストの光を反射させましょう。主に指示された通り、盲目の人はシロアムの池に行きましたが、シロアムとは文字通り、遣わされた者という意味です。まるで主イエスが彼自身にバプテスマを施すように指示したかのように、彼は自分を洗い、見ることができたのです。彼は家に帰り、初めて自分の住んでいる地域社会を見、美しさと汚れの両方を見ることができるのです。 ここに真実があります。暗闇の中で生きるのではなく、神の愛の光を心に取り込むと、あなたは見違えるように変わるのです。私はこの3年間で約30キログラムの減量に成功しました。今でも、特に昔の学生たちが寄ってきて、「バルチさんですか?あなたですよね 。」と言われます。彼らは驚かれ、何があったのかと聞かれます。でも神様との出会いが人生を変えることに比べたら、そんなことは何でもないのです。 サウロ(使徒言行録9)のように、目から鱗が落ちたとき、鱗を元に戻そうとする人がいます。そうさせないようにしましょう。疑心暗鬼にならず、信仰に生きなさい。ある人は、その変化を喜ぶでしょう。しかし別の人達はあなたが盲目で、手足が不自由で、病気で、健全でないことを実際に望んでいるのです、その理由は、健全なあなたを支配できないからです。とにかく健全になりましょう。毎日、キリストの光を心の中に入れてください。キリストの光は闇を追い払うからです。 祈りましょう。 イエスとサマリアの井戸の女の話は非常によく知られています。名前のわからないこの女性の人生を、イエスは完全に違ったものに変えました。この出会いでの会話が、イエスの行った会話のうちで記録上一番長いものとなっています。
話の筋は簡単ですが、この中から様々な社会問題が浮かび上がってきます。人種差別や宗教の違いなどですが、同時にこの女性のように社会から疎外されている者に対して、イエスがどういう態度で接したかも描かれています。 この話の大きな真理の一つは、神は人種、階級、性別、宗教の伝統といった社会の枠組みを超越して、偉大な存在だというものです。この女性はそういった多くの社会規範の問題に苦しめられていましたが、現代でも同じ問題があるといえるでしょう。自分が選択した結果の場合もあれば、不可抗力のもの、無理やり押しつけられたものの場合もあります。人生を自分で変えることができず、どうしようもない状況に陥って、被害者意識に悩まされることもあります。 このサマリア人の女性の気持ちは私たちには推測するしかありませんが、現代と同じく一番大切なものを見誤り、罪悪感、疑念、破れた夢、失敗、無関心、言い訳で心がいっぱいになり、うまくいかない人生に対して怒りを隠していたことでしょう。 私たちにわかるのは、イエスがこの女性に出会い、愛を持って接したので、女性はキリストを受け入れ、彼女の人生がまったく違うものになったということです。これが真の伝道というものです。人にキリストを伝えるのは、簡単なことではありません。それでも人に伝えたいという思いがあるなら、私たちもイエスのように人に会いにいくべきです。イエスはこのサマリアの女性を救うために、サマリアに行きました。これが「福音」を伝える方法です。この女性は自分が救われた後、今度は人々に伝えるために町へ走って行きました。 では今から私が登場人物になったつもりで「語り形式の説教」をしましょう。イエスが井戸でサマリアの女に会われました。これから私がそのサマリアの女になったつもりで話します。 祈りましょう。「主よ、この井戸の物語を違う方法で聞き、そこから学べますように。新しい理解でこの物語を聞けますよう助けてください。アーメン」 ―ここから語り形式の始まり― さて、人は誰も私の名前を知らないでしょうし、私を忌み嫌っているのも知っています。皆、私を批判するだけです。私の事情をよく知ろうともしないし、私の苦しみや痛みも知らないでしょう。人がうわさをしているのは知っています。「あの女にまた別の男がいるのを知っているか?」「罪な女だ」「恥ずべき存在だ」ってね。 私がうわさを知らないとでも思っているのでしょうか。それとも私の気持ちなどお構いなしなのでしょう。まあ、私もどうでもいいですけど。 井戸の水を汲みに行くのには、人が行く涼しい時間帯より、誰もいない日中の暑さの厳しい第六の時間の方が私には都合がよいのです。誰にも会わずに済みますからね。人の視線が気になって誰にも会いたくないのだけれど、逆に皆も私を避けているみたいです。 でも今日は違っていました。今日も日中は暑く、水がめを運ぶと汗が滴るくらいでした。いつものように井戸に行くと、ユダヤ人のラビが井戸の傍らに座っていました。そして私の過去の出来事について全部知っていて、私に話しました。 ユダヤ人のその方が、サマリア人でしかも女である私に話しかけてきたこと自体、驚くべきことです。私もびっくりしました。ユダヤ人の男性は、女性に話しかけませんし、サマリア人の女性に対しては絶対に話しかけません。しかも公の場で女性に話しかけるなんて聞いたことがありません。それもサマリア領の土地で。 私はスカルの小さな村の出身です。スカルはエバル山とガリジム山の間にあり、サマリアにあります。サマリアは、北のガリラヤ、南のユダヤの間に位置しています。 スカルはまた、二つの交易路が交わる場所にあり、その二つの道の一つはエルサレムからカペナウムに向かう道、もう一つはエリコ方面から地中海に向かって西に向かう道です。私が水を汲みに行く井戸というのは、この二つの道が交わる場所にあります。この井戸は、ここで泉を見つけた父祖ヤコブにちなんで、「ヤコブの井戸」と呼ばれています。 ユダヤからガリラヤへ行く最短の道は、サマリアを通って北上するルートです。でも、ユダヤ人はこの最短ルートを使わずに、まず東へ進んでヨルダン川を渡り、ペレヤに入ってから北上して再びヨルダン川を渡り、ガリラヤに到達する迂回ルートを取ります。 サマリアを通りたくないのでわざわざ遠回りをするほど、ユダヤ人はサマリア人を嫌っているのです。 その理由は、ユダヤ人はサマリア人を宗教的にも民族的にも純血ではない異教徒として見下しているからです。 昔、イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、サマリア人はアッシリア人と結婚していました。異邦の民との婚姻は、申命記7:3-5に反するとユダヤ人は考えました。こういうわけで、ユダヤ人はサマリア人を嫌い、「犬」だの「純血でない者」だのと呼んで軽蔑し、同じユダヤ人とは見なしませんでした。 ところが、この井戸で出会った方はそういうことを何も気にしていないようでした。心から私と話したがっているように見えました。まるで私に会うために、わざわざサマリアに来たという風でした。私を探していたのでしょうか。でもそんなことありえませんよね。 この方は井戸の傍らに座り、暑かったので汗まみれで疲れているようでした。見知らぬ旅のお方だとはわかりました。彼は私に一杯の水をくれるよう頼みましたが、私をからかっているだけだと思いました。ユダヤ人はサマリア人に決して話しかけませんから。私たちは「汚れた者」と見なされています。サマリア人の触れた食器に触れるだけで、ユダヤ人は「汚れた者」と見なされました。ラビは、サマリア人の触れた食器に触ることは罪だと教えていました。それで私はその方に、あなたはユダヤ人なのにどうしてサマリアの女の私に飲み水を求めるのか尋ねました。その方は、「私が誰だか知っているか」と私に聞きました。「もし、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」とおっしゃいました。 もし私が求めるなら、この方は「生ける水」をくださると言う。私には理解できませんでした。「生ける水」とは流れている水を意味するのか、それとも何か違うものなのでしょうか。 それでその方に皮肉をこめて聞きました。どうやって私に水をくださるのですか。井戸は深いし、それにあなたは水を汲む入れ物も持っていないのですよ。 その方は、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われました。私は生ける水をくださいと言うだけでよいのですか。とても簡単なことです。 そのとき突然私は悟りました。それは比喩であって、本当の水のことではありません。 同時に、私は一人の人間として対等に話しかけられていると感じました。ありのままの私を受け入れてくださっているように感じました。その理由は、たぶんその人は私のことをよく知らず、世間の悪い評判も知らないからだろうと思いました。でもそうではなかったのです。 私が何か言う前に、その方は「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。恥をさらしたくない私は、「私には夫がいません」とだけ答えました。 するとその方は、「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから」と言われました。どうしてそれをご存じだったのでしょう。 誰も知らないことですが、私はこの村へ来る前、何度か結婚しました。若い時に最初の結婚をしました。夫は良い人でした。夫は私のためにかなり高額の花嫁代価を払ってくれたので、私の両親はとても喜びました。私は幸せになれるはずだったのに、夫が突然死んでしまいました。律法では、夫の死後、夫の家系を守るため、残された妻は夫の親戚と結婚しなければなりません。それで私は夫の叔父と結婚しましたが、その二番目の夫も死んでしまいました。その後、親戚の別の男性と三度目の結婚をし、また死に別れ、四度目の結婚をし、その夫も死にました。そして五度目の結婚をしたのですが、この夫は私を大切にせず暴力を振るうので、私は逃げ出しました。女性、特に夫を亡くした女性には選択肢は多くはありません。私は土地も家も持っていないし、成人した子どももないので、子どもの家に行って住むことはできません。面倒をみてくれる息子もいません。両親はすでに亡くなっています。私は天涯孤独で、財産もありません。私のような年齢で、夫を亡くした女性が生きていくのは容易なことではありません。ルツとナオミの物語を思い出す人もいるかもしれません。あの人たちはハッピーエンドでした。でも私の場合は違います。私はとにかく、どうにかして生き延びなければなりませんでした。 預言者とおぼしき井戸の方は、私のこのような過去をすべてご存じでしたが、ちっとも気になさいませんでした。井戸での出来事は何時間にも感じられましたが、実際はたった数分でした。その方は、優しさと愛に満ちた目でずっと私を見てくださいました。 先ほどお話ししたように、私の人生が人から批判されるような形になったのには、様々な事情があったからですが、人々は誰もそんな事情を聞こうとせず、ただ悪口を言うだけで話しかけてもくれません。でもその方は違いました。その方と話している間、私は畏れ多い気持ちになり、当惑し、混乱してきました。 そこで私は話題を変え、山を指して言いました。「私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。どこで礼拝するのが正しいのか教えてほしい。私は嫌味か愚鈍かわからない質問をしましたが、実は本当に知りたかったのです。その方は優しく、敬意を持って答えてくれました。私は長い間こんなふうに敬意を持って接してもらったことはありませんでした。その方は、固定の場所に縛られることなく、神を礼拝する時が来る、と言われました。つまりエルサレムなどの場所が大事なのではない、とおっしゃるのでした。「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」。「父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです」と言っておられました。これは、サマリア人である私に向かっておっしゃいました。いつ礼拝するか、どこで礼拝するかは問題ではない。神を礼拝する真の心が大事なのだと。 その方の声の調子、落ち着いた態度のせいでしょうか、その方が「御霊と真理」と言われたとき、私は言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシア(救い主)が来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう」。 するとその方が言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです」。それで私はわかりました。この方がメシアだと。私は驚愕し、喜びに心が躍りました。 私はずっと、神は私のように取るに足りない者などを気に留めてくださらないと思い込んでいました。でもそうではありませんでした。あの方は私の考えを変えてくださいました。 私は座ってあの預言者の方と話をすることができたのです。 私は非常に興奮して、水がめも忘れて町へ走り出しました。自分が社会ののけ者だということも忘れて、人々にこの福音を伝えずにはいられませんでした。 私は今までは、世間からつまはじきにされていましたが、あの方のおかげで自分が受け入れられていると思えるようになりました。あの方は私の過去の出来事も、私がサマリア人だということも気になさいませんでした。メシアはユダヤ人だけではなく、私たちサマリア人にも訪れました。 さあ、今日ここに来ているみなさん、みなさんは心が渇いた村人かもしれません。生ける水をあの方にかけてもらいましょう。その水は天上から絶えず流れ落ちて来ています。私たちは心を開いて、その生ける水の中に魂を浸すだけでよいのです。生ける水を受け入れ、主を信じるなら、この礼拝堂の中を水が満たし、教会の外にあふれ出て、坂道を流れ落ち、あらゆる場所に流れて行くでしょう。 私が今までしたことを全部知って、すべて私に話したお方に会ってみてください。私は町の人たちに話したので、皆、あのお方イエスがメシアだと信じるようになりました。だからあなたも信じてください。ただ求めればよいのです。救いを求めてください。 イエスを信じましょう。生ける水の主は、私たちに恵みを注いでくださいます。主は私たちを清め、生ける水を与えてくださいます。 イエスの生ける水を他の人にも伝え、共に分かち合いましょう。アーメン 祈りましょう。主よ、私たち岩であり、贖いの主、私の言葉と心の瞑想があなたによって受け入れられますように。アーメン
昨年、受難節(レント)第1日曜日によく説教に使われるこのイエスの誘惑の聖句を福音書から取り、砂漠-荒野にいたこと、それが、イエスや私たちにとってどんなものであったかについて、話しをしました。しかし、今年は御霊に導かれて、別のテーマで説教を行うことにします。 誘惑。 簡単に「誘惑」と口に出してしまいますが、イエスが砂漠で直面したのは、まさにこの「誘惑」でした。 誘惑について、こんな話があります。 ある強盗が男性に近づき、銃を抜き、財布を奪おうとした話があります。その時、強盗は男性が着ている服の襟を見て、彼が神父であることに気づきます。そして、強盗は、男性に対して、「申し訳ありません、神父様。あなたは神父であり、神の人です。あなたの財布は奪えません。」 神父はほっとし、気持ちを落ち着かせるためにタバコを取り出し、強盗に「吸いますか?」と尋ねます。しかし、強盗は「いいえ、ありがとうございます、神父様。 誘惑しないでください。受難節のために、禁煙をしているんです。」 人は、やってはいけないことをする誘惑に駆られる時があります。本当は必要ないのに、ケーキを1個余分に食べたり、ピザを1枚余分に食べたりする誘惑に駆られるかもしれません。あるいは、仕事や学校を早く切り上げて、友達と遊びに行こうという誘惑に駆られるかもしれません。時には、誰かの気持ちを傷つけないように、新しい髪型や服装について、たわいのない嘘をつく時もあるかもしれません。または、本当は言ってはいけないことを、言ってしまいたくなったり、本当に必要でないものを買ってしまおうという誘惑に駆られたり。誘惑はそこらじゅうにあります。人によっては、誘惑がさらに深刻で、別のレベルに達し、神様が不快と感じる事をやりたくなる誘惑に、駆られるれるかもしれません。(例えば、嘘をつく、ごまかす、噂話をする、自慢する、理由がないのに怒る、食べ過ぎる、などの誘惑を受けるかもしれません。) 他にも思い当たる節があるのではないでしょうか? これらの誘惑の中には、チョコレートを一枚余分に食べてしまうような、軽いものもあるかもしれませんが、中にはあなたの魂に影響を与えるような、深刻なものもあります。 今までにどんな誘惑に駆られた事がありますか?今現在、誘惑に駆られている事はありますか? ウィリアム・ウィリモン博士(多作家、『クリスチャン・センチュリー』編集長、神学者、合同メソジスト教会の退任司教)は、その著書『What's Right With the Church』の中で、荒野でのイエスの誘惑を学ぶ大人の日曜学校のクラスを指導した時のことを語っています。3つの「誘惑」に関して、学び、説明をした後、ウィリモン博士は、「今日、私たちはどのように誘惑されていますか?」と尋ねました。すると、ある若いセールスマンが最初に発言しました。「誘惑とは、昨日の私のように、上司に呼び出され、『君に本当のチャンスをあげよう』」と言われることです。「君に、もっと大きな営業範囲を与えよう。我々は、若い君が活躍することを信じている。」と上司が言うと、「でも、もっと大きな営業範囲は必要ないんです。」と、若いセールスマンは上司に言いました。もう週に4日も家を空けていて、妻と娘に申し訳ない。と言います。すると、上司は、「奥さんや娘さんのために、より大きな営業範囲をお願いしているんだよ。」と続けました。「いい父親になりたいと思わないのか?家族を養うには金がいるんだ。確かに、あなたのお嬢さんは今はあまりお金がかからないけれど、将来のことを考えた方が良い。」 この可哀そうな若いセールスマンにとっては大きな誘惑です。家族のためにもっとお金を稼ぐには、その代償として家族と過ごす時間が減る。それとも、その仕事を断わり、収入を減らして家族との時間を増やすのか。 初期キリスト教会のコプト砂漠の教父たちの物語に、小人のジョン修道院長(聖ジョン・コロブス、聖ジョン・コロボスとも呼ばれています。ウィキペディア参照)。修道院長ジョンは、すべての情熱を自分から取り除いてくれるよう、主に祈り、彼の祈りは叶えられました。そして、その状態で、彼は長老の一人のところに行き、こう言ったのです。「あなたの目の前にいるのは、完全に安らかで、もう誘惑のない男です。」しかし、長老は彼をほめるどころか、こう言いました。「魂は戦いの中でこそ成熟するのです」。院長ジョンは、その言葉に驚きを隠せなかったのですが、これを実行し、再び誘惑が襲ってきたとき、闘争を取り去るように祈ることはしませんでした。代わりに彼は「主よ、戦いを乗り切る力をお与えください」と祈りました。[トーマス・マートン『砂漠の知恵』p.56-57] 誘惑の中には、自分自身が作り出したものもあります。また、他人からの誘惑もあります。「誰かを誘惑する」とは、他人に何かをさせようとすることで、サタンがイエスにしたことです。しかし、イエス様は神様から要求されたことを実行しました。40日間、砂漠で断食していたのですから、簡単なことではなかったかもしれません。 そして、イエス様は、この砂漠での悪魔との体験から、より強くなられたのです。 神様は私たちを誘惑に導くのでしょうか?主の祈りで、私たちは、「...私を誘惑に導かず、悪から救い出してください...」と祈ります。 時に、自分自身を誘惑に導いてしまうことがあります。私たちの周りには、神様を「心から」信じ、「隣人を自分のように愛する」ことから遠ざけるようなものがあふれています。(マルコによる福音書12:30-31) アメリカでは、多くの車にバンパーステッカーが貼られていますが、時々、面白いものや、ウィットの利いたものがあります。 例えば、私が見たあるバンパーステッカーは、「主の祈り」と冗談を交えたものがあり、「私を誘惑に導かないでください、誘惑は自分で見つける事が出来ます。」と書いてあるものを見た事があります。 私たちは自分で誘惑を見つけているのでしょうか?それとも誘惑が私たちを見つけ出すのでしょうか?神様は本当に私たちを誘惑したり試したりするのでしょうか?聖書の翻訳によっては、「誘惑」 の代わりに 「試練」 を使っているものもあります。 イエスは、神の愛の力を味方につけていることを知っていたので、砂漠での誘惑に屈することはありませんでした。しかし、彼はその誘惑を探しに行ったのではなく、誘惑が彼を見つけたのです。さらに、誘惑は必ずしも悪いものとも限りません。私たちが誘惑と、どう付き合うかというのが、課題となります。 試練と誘惑。もし私たちが試練を体験したら、神の助けと信仰で繋がるコミュニティの祈りによって、前よりも強くなっているかもしれません。 ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの格言に 「私を殺さないものは私を強くする 」という言葉があります。 繰り返しになりますが、それがすべての人に当てはまるかどうかはわかりません。困難な時を経て我を失い、壊れる人もいれば、強くなる人もいるという事です。 イエスの場合は、サタンを叱責した後、強くなりました。このことは、イエスが誘惑され、困難な状況にあると感じた時、神の言葉に導きを求めることを示しています。火は鉄を強くするように、この試練が彼を強くしたのです。イエスが経験した試練は、彼の見分ける精神を研ぎ澄ませ、誘惑を拒否した結果、イエスは自分の宣教のための準備がさらに整ったのです。 イエスが砂漠に行く前に何をしたかを知るために、聖句に戻りましょう。イエスはヨハネから洗礼を受けたばかりで、洗礼を受けた後、鳩が肩に降り、天から神の声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 (マタイの福音書3:17)、神はイエスと共におられたのです。 砂漠の中でも、神はイエスと共におられるのです。イエスが40日間砂漠で過ごした後、イエスは身体的には体が弱くなっていましたが、霊的な力を得て、神の言葉によって精神的には強くなっていました。そして、神様に従うこと、十字架への道を歩むことという、自分に求められていることができるようになったのです。イエスの誘惑は、カルバリの十字架で待っている報われない苦しみと死を見送ることだったのかもしれません。 この中に、マーティン・スコセッシ監督の1988年の映画「キリストの最後の誘惑」をご覧になった方はいらっしゃいますか? この映画は、ユダヤ人の地味な大工であるイエスが、自分が神の子であることを知りながらも、暴力ではなく愛こそが救いの道であると信じ、ユダによってローマ占領軍に対する革命行動に引き込まれるという内容です。人類の救済者であるという重荷が、この映画の中でイエスを生涯にわたって苦しめ、彼を疑心暗鬼に陥らせ、十字架にかけられたイエスは、マグダラのマリアと結婚した平凡な生活の幻影に誘惑される。聖書では、イエスは完全に人間であり、かつ神であると教えられていますが、イエスの神性を疑うことに不快感を抱く一部のキリスト教原理主義者によって、この映画は冒涜的であるとみなされました。 しかし、他のキリスト教徒は、この映画はマーティン・スコセッシの代表作の一つだと言っています。いつかKUCでディスカッションするのに良い映画だと思います。 (※脚注:監督のマーティン・スコセッシは、罪、罪悪感、贖罪をテーマにしたシリアスな映画を好んで作っており、スコセッシ監督は、遠藤周作の小説を原作とした映画 「沈黙」 の監督も務めています。彼は、登場人物の魂の中での、恩寵と罪、信念と情熱の間の戦いを描いた映画を多く作っています。(例:『タクシードライバー』『レイジング・ブル』『ギャング・オブ・ニューヨーク』『ウルフ・オブ・ウォールストリート』など。) 今日の聖句では、砂漠でのイエスの物語は、3回の誘惑の後、天使たちがイエスを見守るところで終わっていますが、ルカによる福音書では、同じ物語が、サタンが去って、イエスを誘惑する他の機会を未来で探しているところで終わります。 (悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離はなれた-- ルカによる福音書4:13)。私たちがクリスチャンになった後も誘惑が絶えないように、イエスにとっては、砂漠での体験の後も、誘惑は絶えることがなかったようです。 イエスが孤立し砂漠にいるとき、彼は弱くなっていましたが、神は聖句を与えます。 私たちが攻撃されている、弱い、怖いと感じるとき、そのようなときこそ、聖句の言葉を借りて力を得ることができます。私たちは、「サタンよ、私の後ろにいけ 」と言うことができます。 私たちが読んでいる聖書(マタイによる福音書4章とルカによる福音書4:8)では、イエスはこれと同じ言葉で「誘惑者」(またはサタン)を叱責しています。 「サタンよ、わたしのうしろへ行け。」(KJV:欽定訳聖書)この言葉は、神様がいつも強く、力強く、私たちと共にいてくださることを思い出させてくれるでしょう。 亜希子牧師が先週の説教でおっしゃったように、神戸のコミュニティで数人の人が 「サタンの人格」「サタンはどこでもどこでも形を変えて私たちを攻撃する準備ができている 」という話を聞いて、驚いたそうです。彼女はそれを「よくわからない神学」だと言い、神の尽きることのない恵みと憐れみについて、もっと言いたいことがたくさんあるのだと言っていました。 私も亜希子牧師に同意します。 私は、サタンよりも常に強い力を持っている、神について、もっと言いたいことがたくさんあります。私は、サタンがどこにでも潜んでいて、私個人を攻撃し、教会に遅刻するように目覚まし時計を止めたり、風邪をひいて体調を崩し、聖書を読むことができないようにしているなどとは思っていません。私は、「悪魔が私にしたこと」や「悪魔がやった」と言うのは、誘惑に負けて捕まったときに便利です。もちろん、この言葉は、自分が行ったあらゆる選択について、すべての責任を免除するものです。 しかし、私は悪が存在することも信じています。私たちは自由に自分の言葉を選び、「悪魔がそうさせた」と言うことが出来ますが、同時に、それは自分の行動に責任を持たないことです。しかし、特定の人には悪が憑依しているように見えることがあり、私はかつて、憑依されていると信じている人のために祈ったことがあります。精神的な病気なのか、憑依なのか、それ以外の何かなのかはわかりませんが、私は聖句と祈りの力を借りました。 悪がいると感じたときこそ、祈りの中で神の力を呼び起こす必要があるのです!神はどんなものよりも強いと知っています。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高ものも深ものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。-- ローマ人への手紙8:38-39」 マルティン・ルターは、1517年10月31日にドイツ・ヴィッテンベルク城教会の扉に「95ヶ条の論題」を突きつけてから有名になりました。 その日から間もなく、マルティン・ルターに関する物語や絵が登場するようになります。有名な話のひとつは、彼が著作や聖書の翻訳を邪魔するサタンと思われるものに対して、インク壺を投げつけたというものです。ルターはサタンに対して、"Baptizatus sum"(「私は洗礼を受けている」という意味)"I am baptized."(彼にとっては、「サタンよ、私の後ろにいてくれ」という意味)と言っていました。 マルティン・ルターは生涯で多くの敵と議論したが、サタンとの毎晩の議論ほど彼を悩ませたものはなかったと言われています。ルターは、自分のうつ病や気分の落ち込みを、この「悪霊」のせいだと考えていました。このようなサタンへの絶え間ない恐怖は、中世後期には普通のことで、幼少期の家庭内や学校での宗教的な教育からきていました。 (Show: Painting of Luther throwing ink well at Satan.) ルターは、祈ったり、「幸せの歌」を歌ったり、あるいは、ここにあるように、インク壺を投げて身を守りました。(ドイツのヴァルトブルクにあるルターの部屋の壁のインクの染みは、修復されているようですが、今でも少し残っていて、巡礼者や観光客が見る観光スポットになっているようです)。 ルターにとって、福音を守ることは、「敵を通して語る 」悪魔という霊との本質的な戦いでした。伝記『ルター』の中で ルターの伝記『ルター:神と悪魔の間の人間』の中で、ハイコ・オーバーマンは、「悪魔を追い払う唯一の方法は、キリストを信じることであり、『私は洗礼を受けており、クリスチャンです』と言うことである」と、ルターの言葉を引用しています。 話を進める前に、ある女性とサタンにまつわる面白くて、ちょっと笑える話(冗談)を紹介します。それは、ある女性が教会に着ていくドレスを買いに行こうと玄関を出たときのことです。 彼女の夫は、「お願いだから、高価なドレスは買わないで!」と言いました。彼らにはそんな余裕はなかったのです。でも、彼女は、こう言いました。「でも、もし私が本当に気に入ったドレスを見つけたらどうすれば良いの?」夫は、「『サタンよ、私の後ろに隠れていろ!』と言えばいい。」と答えました。数時間後、その女性は新しい、とても高価なドレスを買って帰ってきました。夫は困惑して、「買い物の前に何て約束した?高価なドレスはダメだと言ったはずだけど!」 すると、女性は、「私はこのドレスを見て、試着だけしようと思ったの。買うつもりはなく、ただ試着だけしようと思って。そして、試着室に入って着て、鏡を見たら、とてもきれいで、買いたくなったの。すると、 サタンが「素敵ね」と言っているのが聞こえてきそうだったから、あなたが言ったことを思い出して、『サタンよ、私の後ろに下がれ』って言ったの。」すると、彼女の夫は、「それなら、なぜそのドレスを買ったの?」と聞いて、はっとしました。すると、妻は、「私が『サタンよ、私の後ろに下がれ!』と言ったら、サタンが『このドレスは後ろから見ても良く似合っているよ』って言ったの。」 そうすると、私たちにとって誘惑とはどういうことなのか、という疑問が湧いてきます。私たちは、イエスと同じように誘惑されるのでしょうか?そうです。あなたも私も、この世のあらゆる罪深さに誘惑されて、神から求められていることから目を背けているのだと思います。この世の誘惑は、私たちを他の偶像や他の「神々」、すなわち利己主義の神、権力の神、貪欲の神などに従うよう導きます。 この世の他の神々は、私たちを隣人を無視し、自分のこと、自分の必要や欲望にのみ心を奪われるように誘惑するのです。 私たちの偶像やこの世の他の神々は、私たちに罪を犯させるように誘惑します。しかし、私たちの神は、これらの偽りの神々や偶像のどれよりも強く、力強いのです。 そして、神様が私たちに求めていること。それは簡単なことですが、同時に最も難しいことでもあります。私たちは、聖書のマルコによる福音書12:28~34に書かれているように、イエスが語る2つの偉大な戒めに従うことが求められています。彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 私たちの戒めは、神を愛し、隣人を愛することです。それが、私たちに求められていることなのです。 イエスが誘惑に駆られそうになった時、彼は自分が神の子であることを思い出しました。自分の命は神から与えられたものであることを思い出したのです。神の言葉を思い出し、神が彼と共におられることを思い出したのです。私たちが誘惑されたとき、イエス様の助けを借りて、私たちが誰であるか、私たちの命がどこから来たのかを思い出しましょう。神の愛が強力であることを思い出しましょう。何にもまして強力なのです。 私たちは、イエス・キリストの力を借りて、この世に出ていくのです。 今日の聖句で、イエスが直面した誘惑に関して、もう一度見てみましょう-「自分を大切にしなさい。世の中を救いなさい。あなたの信仰を証明しなさい。」 これを見ると、イエスが誘惑を受け、困難な状況にあると感じたとき、神の言葉を頼りにしていることがわかります。誘惑の結果、イエスは3つの誤った方法を拒否したため、より強くなり、準備万端となりました。 悪魔が砂漠でイエスから逃れようとしたことを、誰かが 「アイデンティティ(存在証明)の盗難 」と呼んでいた事がありました。非常に興味深い言い回しだと思います。神はイエスに言った、「あなたは私の子、愛する者」。イエスは自分が誰であるか、誰のものであるかを思い出し、神の子として愛されるアイデンティティを持って生きることを選んだのです。 私たちは誘惑に直面することがあります。自分では、どうしようもないと思うかもしれません。しかし、あなたは神に愛された子であることを忘れないでください。 神は決してあなたを見捨てることはありません。聖書は私たちに、「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」- 申命記31:6と語っています。 最後に、私たちは神に属していることを思い出しましょう。 この3つのことを覚えましょう。イエスの洗礼、イエスの誘惑、イエスの宣教。この3つの行為に共通することがあるとすれば、それは、イエスはこれら3つの行動を通して、神への従順さに焦点を当て続けました。そして、私たちもそう生きる事ができますように。 この受難節の間、祈りと神の言葉があなたの 「試練と苦難 」を支えてくれることを知りながら、歩んでください。 もし助けが必要であれば、教会や他のクリスチャンがあなたを祈り、支えてくれるでしょう。神はあなたと共におられ、あなたは一人ではありません。神様に感謝します。アーメン。 ----------- 恵み深い神よ、私たちの精神を手にし、それを通して考えてください。 私たちの手を取り、その手を働かせてください。 私たちの心を取り、燃え奮い立たせてください。 アーメン |
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May 2024
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