祈りましょう。主よ、あなたのみことばは、私たちの足のともしび、私たちの道の光です(詩篇119:105)。あなたの御言葉が明らかにされ、私たちの中に根を張り、あなたが私たちに求めているように生きることができますように。イエス様の御名によって、祈ります。アーメン。
愛するKUCの皆さん、おはようございます。 みなさんご存知かわかりませんが、今日から3週間後の6月19日に教会では臨時総会が行われ、教会に仕え、信徒を代表するカウンシルメンバーの選挙が行われます。 そもそも教会の選挙って何だろうと思われる方もいらっしゃるかもしれません。教会の選挙は、政治的な選挙とはいくつかの重要な点で異なります。政治家の選挙は、候補者自身の資質や能力などを評価することが多いものです。政治家の候補者は、自分自身の強みを強調し、イメージを重視し、人々が自分をその仕事に最も適した人物として見てくれるように、できる限りのことをし、同時に、他の候補者がそれほど良く見えないようにしたりするものです。 そして、選挙で勝利するというその目標を達成するために、(残念ながら)時として人やグループは手段を選ばずに色々な策略を練ることがあります。みなさん人生のどこかで一度は政治の腐敗を目撃したことがあるでしょう。ルールから外れた選挙活動、賄賂、そして票を獲得するために大きな操作が陰で行われていることがあります。 一方、教会の選挙は個人を対象としたものではありませんし、そうあるべきでもありません。ある候補者または別の候補者が最も多くの票を獲得できるようにするために、ロビー活動、選挙運動、または舞台裏で人と人がつながることはありません。なぜなら教会選挙における識別のプロセスは、技術や人格の面でどの候補者が優れているかということに一番のフォーカスを置いているわけではないからです。 教会の選挙は、誰を選ぶかではなく、奉仕のポジションに神様が誰を召されたのかを見極めるためのものだからです。 教会の選挙は、内なる召し(特定の役割を通して神様と神様のコミュニティに奉仕したいという願い)を感じている人、あるいは他の人から推薦された人が、その内なる召しが共同体の認識によっても肯定されるかどうかを、コミュニティとして一緒になって確認する場なのです。私たちは政治的な選挙が大きな意味を持つ世界に住んでいますが、教会の選挙の時に私たちの焦点は選ぶことではなく、聞くこと、つまり私たちのコミュニティの中で表される神様の意志に耳を傾けることであることを心に留めておくことが重要です。 数週間後に行われる教会選挙の中では、私たちが神様の呼びかけにどう応答するか、そして、その呼びかけに対し、誰が従うことによって神様のどのような意思やご計画が実現されるかもしれないかを、私たちのコミュニティ全体が一緒に見極めていくことが重要なのです。神は誰を召されているのか、そして、そのような召しに従順に答える人々を通して、神は何をなさりたいのでしょうか? このようなことに、私たちは注意を払うべきです。 しかし、これは言うのは簡単ですが、実行に移すのは容易いことではありません。神様が誰かを召されるときはいつも、召された人物が、与えられた召しを受け入れるにあたり、葛藤、痛みや苦痛を経験します。預言者ヨナはその良い例で、ヨナの物語は、神様の召しや呼びかけに誠実に応じることがいかに難しいかを示しています。 ヨナ書は、預言者ヨナがヤロブアム2世の時代にイスラエルに仕えていた時に、神様からの呼びかけを受けるところから始まります。神様はヨナに、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪が私の前に上って来たからだ。」(ヨナ書1:2) と伝えます。 これはかなり直接的で明確で具体的な神様からの呼びかけです。それを聞いて、ヨナはどうしたのでしょうか? ヨナは、ヨッパ(ヨナ書1:3)というイスラエル南部の町まで行って、船を見つけ、タルシシュ(スペインの都市と考えられている)に向かうチケットを買いました。ヨナは神様からの召命を聞くと、神様が行くようにと言われたニネベとは全く反対の方向にできるだけ行こうとしたのです。 ヨナは自分がここで何をしているのか、自分の行動が何を意味するのか、よく知っています。ヨナは船上の人々に、自分は主の前から逃げている、特に神からの召命から逃げている、と言っていることからもそれがわかります(ヨナ書1:10)。 ヨナは神様からの呼びかけをこのようにとても公に大胆に拒否したわけです。ヨナは、神様に直接「結構です!」と言ったわけです。そんな大胆に神様の呼びかけ・召命を否定するヨナのように誰がなれるでしょう?そのように思う人もおられるかもしれません。 しかし、正直に告白すれば、私は神様からの呼びかけをヨナのように大胆に拒んでいたことがあります。 私が初めて夫のドンと結婚したとき、彼が大学を卒業して最初に就いた仕事は、宣教師で、東京のキリスト教系列の高校で教え、説教をすることでした。そして、それは俗に言う、安定した良い仕事でした。もちろん、私たちは億万長者でも何でもありませんでしたが、お金持ちになることが目標ではなかったので、悩むことはなかったのです。彼が得たこの仕事を通して、私たちの生活には安定と安心がありました。私はその安心感にしがみつきたかったのです。彼がその高校で働く限り、私たちの人生の進むべき方向は決まり、さまざまな他の事が計画しやすいと思ったのです。 しかし、彼が教会で奉仕しているのを見たとき、神様が彼を全く別のことに呼んでおられることを私は確信しました。彼の顔に輝きがあったのです。 私はドンのミニストリーにおける将来の可能性のために真剣に祈り始め、友人たちにもそのことを一緒に祈ってほしいと頼みました。そのような祈りをはじめてすぐに、彼の宣教師としての仕事が突然、前触れもなく終了し、私たちの住居と彼の労働ビザがなくなることがわかりました。それと同時に、彼がずっと望んでいた神学校への進学の道が開かれたのです。 私は、安全が失われることに恐怖を感じ、私たちの生活がどのように変わるのかを心配しましたが、それと同時に人知を超える平安を感じました。閉まるはずの扉が閉まっただけだと思ったのです。私の中に強くあった安定と安心を強く求めていた思いが、神様からのドンの召命を邪魔をしていたことに気づいたのです。 私はドンに与えられた神様の召命をサポートするという道を受け入れ、それと向き合わなければならなくなりました。そして最終的に、自分が描いた人生のあり方とは違う目的と計画を持たれる神様の呼びかけに耳を傾けようとしない自分がいたことを悔い改める必要があることを自覚したのです。 声を大にして言おうが、言わまいが、公に認めようが認めまいが、また自分自身の中でそのことを認めようが認めまいが、私を含め、誰も完璧に誠実に、全く恐れずに神の呼びかけ・召命に従うことはできません。そして同じように、神様が他者に与える召命を完璧にサポートすることができる人も、本当はどこにもいないのです。もしそうであれば、世界はこれほどまでに腐敗、悪意、憎悪、災難に満ちていないはずです。 ヨナ書の物語は、一人の人間の神への不従順、一人の人間の神様の召命に対する拒否が、罪ない人々に与える影響を教えてくれます。タルシシュ行きの船の人々は、ヨナの神様に対する不従順のために災難に遭いました。ヨナが神様に従わず、神様がヨナを通して成し遂げたいこと(ニネベの街を救う)をヨナが受け入れようとしなかったために、船は難破しかけ、船に乗っていた人々は死・滅びを覚悟したのです。 ウクライナ、ロシア、シリア、テキサスなど、今、世界で起こっていることを考えてみてください。人々が平和と正義を求める神様の呼びかけに従わないとき、人々がその代わりに自分自身の個人的な安全や経済的な安定を第一にするとき、結局苦しむことになるのは罪のない一般の人々なのです。 テキサス州で起きた銃乱射事件を考えてみてください。議員たちが行動を起こすことを拒否し、警察官たちが干渉することを拒否し、最も弱く、小さい人たちを思いやるという神様からの呼びかけよりも自分自身の安全と安心を第一にした多くの人々のために、21人という多くの幼い、大切な命が、神様が良い未来のために愛を持って創造した命が、失われてしまったのです。 私たちは、神様からの呼びかけ・召命に背くことが私たちのコミュニティ、この世界に与える影響、私たちの一人でも召命を無視することを選択したときに罪のない人々に降りかかる災難の深刻さを理解する必要があります。 そしてそのような災いを防ぐために、神様は時として私たちを呼び、私たちに困難なことをするように召すのです。 ところで、「召し」「召命」というと、牧師や預言者などの教会の指導者に召されるというような大きなことだけを言っているように思われがちです。自分には関係のない話だと思われる方もおられるかもしれません。しかし、神様は私たち一人ひとりに、生涯を通じて何度も何度も呼びかけ、神様のコミュニティーと世界をより良く変えるために、大小さまざまなことをするようにと求め、呼びかけられます。悔い改め、反省・振り返り、再挑戦、赦し、コントロールしたい衝動や自分自身の計画や恐れを手放す。償い、和解し、何があっても愛し、神を第一に考えること、これらはすべて神様が私たち一人一人に求めておられることなのです。 神様の呼びかけの特徴は、神様があなたに何かをするようにと呼びかけるとき、神様はしつこいということです。神様はその呼びかけを何度も何度も繰り返し、時には私たちが最初に聞きそびれた時には、もっと大きな声で、もっと大胆な方法で、私たちに呼びかけます。 人間である以上、聞く声が神様のささやきなのか、それとも自分の欲望なのか、見極めるのは難しいものです。しかしそんな中にあっても、神様の呼びかけは持続的です。変わることはありません。安定、安心、プライド、恐れ、自己正当化など、私たちが神様の計画を信頼するよりも依存しているものを放棄することを求め、神様と来る御国のために正しいことをするように、いつも私たちをうながします。 ヨナの場合、神様は少なくとも二度、ヨナに召命の言葉を呼びかけました。一回目は、今日読んだ1章の一番最初に起こります。二回目は3章2節で、大きな魚がヨナを乾いた土地に吐き出した後、神様はヨナに「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」と言われました。(ヨナ1:17、3:2) そして、4章では、ニネベが悔い改めた後、ヨナは、神様がニネベの人々を赦し、わざわいを免れることを予め知っていたので、それが実現したことに対し、怒りながら神様に文句を言います。 ニネベがわざわいを免れる事はヨナの望むことではなかったのです。 ヨナはイスラエルを離れる前から、ニネベを救えという神様の呼びかけ・召命に対して格闘していたのです。ヨナは神様が自分に与えている召命と、ヨナ自身が握るにニネベに対する思いと計画の間で格闘していたのです。そして、先ほども申し上げたように、この中の一つだけ、つまり神様からの呼びかけ・召命だけが永続的で変わることのないものなのです。 神様の「ニネベに行って叫べ」という呼びかけに対する、ヨナの最初の反応は、「ノーサンキュ、結構です!」というものでした。 そして、イスラエル南部の港町ヨッパに走るという行動を起こします。そして、タルシシュ行きの船の切符を買います。神様からの呼びかけを避け、召命を無視し、自分の計画のままに進もうとするわけです。 しかし、最終的にヨナは正しい判断に導かれます。自分の欲望が神様から離れるためにどんどん大きなことをするように導いている一方で、ヨナは神様の声は忍耐強く、何度も何度も全く同じことをするようにとヨナに対し呼びかけていることに気付いたのです。 ヨナは、ニネベはイスラエルの敵国の首都であり、ニネベの人を悔い改めに導くということは、彼らを助けることを意味し、それにより自分と自分の国の安全を脅やかされる可能性があることを知っていたのでしょう。しかし、船の中で嵐に巻き込まれ、そして大きな魚に飲み込まれ、3日3晩魚の腹の中に留まるというユニークな経験を経て、ヨナは、神の執拗で不変の呼びかけに応えることが最終的に正しい選択なのだということを認めざるを得なくなります。 神様からの呼びかけ・召命に応え続けることが、ヨナにとってどんなに浮き沈みの激しい旅路であったかわかりますか? 神様からの呼びかけ・召命は、私たちを安心させたり、心地よくさせたり、安定に導くようなものではありません。神様からの呼びかけは私たちの現状を揺さぶります。私たちの人生に対する神様からの呼びかけは、必ずしも簡単に達成できるものではなく、人間的な欲望や欲求という観点から考えれば、絶対にやりたくないことであることが多いのです。 初めて牧師になるという道について思いを巡らした時のことを私は鮮明に覚えています。私はそれをすぐに笑い飛ばし、頭を振って、これが神様からの召しであるはずがないと結論づけました。得意でないことをするために神様が私を召されるはずがない、と思ったからです。私は人前で話すのが好きではありません。教会史についてもすごく好きというわけでもありません。有名な神学者の本を読み、意味不明だとよく思ったものです。それに、この世界には、すでに素晴らしい牧師がたくさんいたので、私が牧師になる必要は全くないと結論づけました。 (余談ですが、その後、神学校に行き、教会史や神学を学ぶことの価値、楽しさ、喜びを知り、知識と経験が深まりました。) 神様が私たちに召命を与える時、私たちは自分の中で「コスト・リスク分析」を行います。神様の呼びかけにより、私たちに何が問われるのか(コスト)、神様の呼びかけに耳を傾ける価値があるのかどうかを問い、この呼びかけに応えることにより発生するリスクは何なのかを考えるわけです。 ヨナはこのような分析をしていたようです。ヨナは、神様の呼びかけに耳を傾けるならば、その代償として敵国の首都ニネベが救われるかもしれない、つまり、それは神様の言うことを聞き、ニネベに行けば、イスラエルから来た自分は殺されるかもしれない。そのようなリスクに加え、神様からの呼びかけに応じるためには、イスラエルだけが神様に選ばれた人々という理解を捨て、神様の救いは自分の国を攻撃する人々、そして自分が罪深いと判断した人々にも及ぶかもしれないことを受け入れなければならないというコストを背負うことを意味したのです。 ヨナは、もちろん神様に従わないことで生じる危険も理解していました。預言者として、神様に従わないことは大きな、時には恐ろしい結果をもたらす可能性があることを知っていました。預言者としての彼の仕事は、民が神様に従わないときに何が起こるかを民に伝えることだったわけです。嵐が船に襲いかかり、船が難波しそうになった時、ヨナは船にいる者たちにこう言います。「この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。」(ヨナ書1:12) ヨナは、神様の救いにニネベは含まれないと強く信じているので、神様の召しに従わない場合、死が自分に迫る可能性があることを知っていたのでしょう。ヨナは召し従いニネベの街が救われるのを見るよりも自分が死んだ方が良いと判断するのです。(ヨナ書1:12、4:3、4:9)。 ここでヨナのニネベに対する憎しみと恨みの深さを感じることができるでしょうか。ヨナのニネベの運命に対する頑なな思いがわかるでしょうか。ヨナのように私たちの心の中にも、こうあるべきだという信念は強くあるため、それが私たちの人生における神様からの執拗な呼びかけや召命を見えなくしてしまうことがあります。 ヨナ書のポイントはニネベの改宗でもなく、ヨナがニネベに対して平和と許しの境地に至ることでもありません。ヨナ書は全部で4章ありますが、最終章の4章はヨナがまだ怒りと惨めさの中に座って、神様と議論しているところで終わっています。 ヨナ書の物語のポイントは、神様の召命と真摯に向き合おうとして、格闘するヨナの人間じみた旅路にあります。神様の召命は、自分自身や自分の共同体を思ってもみなかったところに連れて行き、自分(達)の安定や安心、あるいは平和を脅かすような決断を取ることを時には求め、自分の心の欲望よりも神様の思いを優先させるように選ぶように促されることを私たちは理解する必要があります。 みなさん、神様最近あなたに執拗に、何度も何度も語りかけていることはありますか?それは不快で、自分にストレスを与えるから、その語りかけや呼びかけから逃げだしたいと思っていますか? 神様があなたの心の中に、辛抱強く、しつこく何かを呼びかける時、それを退けたり、それから逃げたりしないでください。しかしそれと同時に、すぐにその呼びかけに従おうとはしないでください。まず神様と話しましょう。神様の呼びかけに向き合ってみてください。そうすることで、語りかけがあなたの心からくる呼びかけなのか、それとも神様からの執拗なささやきなのかを見極める時間を持つことができます。 私は、神様から何か難しいことをするようにと言われているように感じるとき、よく祈りの中で「まじですか、勘弁してください!」と言います。お恥ずかしい話ですが、「本当にそう言ってるんですか?神様ありえません!"と私はよく告白します。 しかし、その後、私はもっと祈ります。神様に自分の思いを打ち明け、信頼できる人たちと話をします。そして、難しいことをすることが神様に求められているのか、それが神様からの召しなのかが、対話と祈りを通して、より明らかになっていきます。 神様からの呼びかけに一回応えることが、必ずしも大きな転機となるとは限りません。多くの場合、ベイビーステップの積み重ねです。主よ、それは本当に私でなければならないのでしょうか?他の人ではだめなんでしょうか?そして時には、神様からの呼びかけに応えた後でも、ヨナが不平不満を言ったように、「こうなるとわかっていたから、こんなことはしたくなかったんだ!」と言っている自分に気がつきます。 しかし、葛藤するたびに、私はローマ人への手紙11章29節にある聖書の言葉に立ち戻ります。「神の賜物と召命はとは変わることがありません。」神様の召命は取り消すことができないもので、そこに何かを加えたり、何かを引いたりすることができないのです。だから、試行錯誤し、たくさんの不平を言いながら、何度もあきらめそうになりながら、私は再び従順の道を選びます。 私はヨナです。 私たちは皆、ヨナです。 でも、神様は神様です。神様からの呼びかけ・召命は、私たち自身の恐れや偏見、不安のために変わることはありません。神様の呼びかけ・召命は変わることなく、応じなければそれは何度も何度も語りかけられる執拗なものです。神様は私たちに語り続け、私たちがやっと耳を傾け、応答する前も、その後も、私たちと共にいてくださるのです。 私たちの教会が、私たちに与えられる召命の神性を真剣に受け止める共同体となるように祈ります。私たちの教会が、物事に対し、神によって始められ、神によって召され、神によって承認されたことを見極めながら前進する共同体となることができるように祈ります。この教会や世界に対して、自分達の計画、自分達の恐れ、自分達の望みに焦点を合わせるのではなく、従順と信仰をもって神様の召命に従い、常に神様を中心とした共同体となることができるように祈ります。 私たちがヨナのように多くの試行錯誤を繰り返しながらも、忍耐強く耳を傾け、祈りをもって召命に向き合い、神様からあたえられる召命に対し互いに支え合う共同体となることができますように。私たちが従順を選択する限り、神は憐れみ深い方なのです。 アーメン。
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親愛なる KUC の友人の皆様、おはようございます。KUCの皆さんと御言葉を分かち合う機会を頂き、主に大変感謝しています。2009年から2013年までKUCで過ごした時間は今でも大切な思い出です。そして私の人生を大きく変えた時期でもありました。 このような形でホームに帰れることができて本当によかったです。クラウディア先生、亜希子先生、そしてKUCの家族の皆さん、お招きいただきありがとうございました。
今日のメッセージはヤコブが命からがら逃げ出した時のものです。ヤコブは兄のエサウと父親のイサクをだましたのです。エサウはその事実を知って激怒しました。ヤコブはエサウのために用意された祝福をイサクから受け取りました。両親であるイサクとリベカは、エサウの怒りがおさまるまで、ヤコブを逃がしてハランの叔父ラバンのもとに避難するよう勧めました。ヤコブはハランに向かって長い旅を始めました。ヤコブは長い一日を過ごしてとても疲れました。長い道のりで疲れ、命がけで走って疲れ、恐怖で疲れました。日が沈むと彼は荒涼とした場所で一晩を過ごさなければなりませんでした。ヤコブは人里離れた場所にいました。ヤコブの周りには暗闇が広がり、孤独がヤコブの魂を蝕んでいました。ヤコブは一個の石を取り、それを頭の下に置いて枕にしました。そして冷たい地面に横たわりました。ヤコブにとってなんという暗い夜だったことでしょう。しかし神様はとても恵み深い方です。神様は何もないところでヤコブに出会われました。ヤコブは眠ってしまい、神は栄光に満ちた夢の中で彼に会われました。天が開かれ、地から天まで届くはしごがあり、神の使いたちがそのはしごを上り下りしていたのです。その時ヤコブは主の言葉が彼に語りかけるのを聞きました。神はヤコブに、わたしはあなたとともにいる、という祝福の確信を与えたのです。なんという夜でしょう!それはまさにヤコブの人生を変える生ける神との出会いでした。 その夜から約2000年後、神ははしごを下りてこられました。はしごを降りて、インマヌエル(「神が私たちとともにおられる(マタイ福音書1:23)」)と呼ばれるナザレのイエスという人となられたのです。ある日ガリラヤでその会話が行われました。イエスはまずピリポを呼んで自分についてくるように言われました。ピリポはイエスについてとても興奮していたので、すぐに友人のナタナエルに証しをするようになりました。最初ナサニエルは懐疑的でした。「ナザレから何か良いものが出るだろうか(ヨハネ福音書1:46)」 と疑心暗鬼になっていました。ピリポはナサニエルに、イエスに 「来て、見なさい」と勧めました。ナタナエルがイエスを神の子であると告白した後、イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」。ここヨハネ書1:51でイエスはご自分が真のヤコブのはしごであることを暗示しておられます。イエスは天と地の間の仲介者です。聖なる神と私たち罪人との間のギャップを埋めるために、天から下ってこられた方なのです。イエスは真のヤコブの梯子なのです。イエスは真の人であるため、はしごの一番下は地上に設置されています。イエスが真の神であるため、はしごの一番上は天まで届いています。イエスは神が天から下ろされた唯一のはしごなのです。神はわたしたちの間で生きるために、そしてわたしたちのために死んで、わたしたちを罪と死の力から救うためにイエスという人となられたのです。イエスのカルバリーでの究極の犠牲と復活によって、私たちは天が開かれヨハネ書3:16の約束を受け取るのを見ます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、と。イエスの昇天によって私たちは天が開かれ、父の右に座っておられるイエスを仰ぎ見ることができます。イエスが生きておられ、支配しておられるからこそ、私たちは天が開かれ主の臨在によって祝福を受けることができるのです。 ヤコブの暗夜に戻りましょう。神はヤコブが予想だにしなかったときに荒涼とした場所でヤコブと出会われました。天が開かれ、神はヤコブに階段の幻を与えられました。これは、天と地、神と私たちの間のギャップを埋めるイエス・キリストの雛形です。そしてヤコブは祝福の確証を受けました。それは、神がヤコブを守り、見守ってくださるという約束でありました。ヤコブは神の栄光の前味を味わい、インマヌエル(「神が私たちとともにおられる」という意味)と呼ばれるイエスの前味を味わったのです。目覚めたヤコブは、「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ(創世記28:17)」と、驚きと畏怖と崇拝の念にすっかりと浸っていました。確かに、ヤコブの人生を変えるような体験でありました。ヤコブは状況を操作し、物事を実現するためには何でもする人間でした。神の祝福を受けるために、ごまかし行為までしたのです。しかしヤコブは、「神は神であり、私は恵みを必要とする無力な罪人である」という教訓を学びました。神と出会ってから、ヤコブは自分の罪 - 父も兄も欺いた罪、自分中心であった罪、高慢の罪、不信仰の罪、エゴの罪...を見るようになったのです。ヤコブは以前は走る人でした。今は神に向かって走っています。そして神はとても恵み深い方です。ヤコブに非難と罪悪感を抱かせたままにはなさいませんでした。神はヤコブに十分な恵みを与えてくださいました。神の恵みはヤコブを神に近づけ、彼の人生を変えました。神はヤコブに祝福の確証を与えました。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。」「走るのをやめよ、ヤコブ。自分勝手に動き回るのをやめよ。へりくだり、私を信じなさい。そうすれば、あなたは大丈夫だ。」 今度の火曜日は私たちの教会の歴史にとって重要な日です。メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、1738年5月24日に救いの確信を経験しました。ジョン・ウェスレーは、真面目で、良心的で、真剣な心の持ち主の若い牧師でした。多くの失敗と失望を経験したウェスレーは、自分自身の信仰に疑問を持つようになりました。しかし神は彼が最も予期していなかった時に彼に出会われました。その夜、友人たちはウェスレーに、アルダスゲート街で開かれるある集会に出席するように促したのです。ウェスレーは日記にこのような有名な記録を残しています。「その夜、私はあまり気が進まないままにアルダスゲート・ストリートの集会に行った。ある信徒がルターが書いたローマ人への手紙の序章を読んでいた。9時15分前頃、キリストへの信仰によって神が心に働かせる変化について述べているとき、私は自分の心が不思議に暖かくなるのを感じた。私は救いのためにキリストを、キリストだけを信頼しているのだと感じた。そしてキリストが私の罪さえも取り除いて、私を罪と死の法則から救ってくださったのだと確信した(試訳)。」 ウェスレーのオルダースゲート体験は、彼の人生を変えただけでなく歴史の軌道を変えたのです。アルダスゲートでの回心から1年後、ウェスレーは野外で群衆に救いの福音を宣べ伝える野外伝道活動を開始しました。その結果、魂は救われ、心は触れられ、キリストの福音によって人生が変えられました。やがてリバイバルがイギリス全土を席巻するようになりました。 最も予期しない場所と時間で神様に出会うといえば、私が働いているオリーブ・ブランチ・ミッションを思い浮かべます。オリーブ・ブランチ・ミッションは、アメリカで最も古いレスキュー・ミッションです。1867年、ウェスレー派のリバイバル運動の中からオリーブ・ブランチ・ミッションは生まれました。聖霊に満たされた勇気あるフリーメソジストの女性たちが、シカゴの最も貧しい人々に奉仕し、物理的、霊的な必要をケアするために、この救助活動を始めたのです。ナタナエルがそうであったように、多くの人が 「オリーブ・ブランチ・ミッションなんて?あそこから何かいいことがあるのか?」 というようなことを言われたものです。その155年の間に何千人もの疲れた旅人たちが、疲れ、傷ついた状態で、助けを求めてオリーブ・ブランチ・ミッションの戸をたたきました。彼らはどうしようもなく疲れきっていたのです。しかしその旅人たちの多くは、オリーブ・ブランチ・ミッションという予想外の場所で生ける神と出会ったのです。オリーブ・ブランチでイエスのことを聞いたからこそ魂が救われ、心が触れられ、人生が変えられたのです。彼らは人生のどん底の時に、何もないところで「天国への入り口」を見てきたのです。彼らの心はイエスの福音によって「不思議なほど暖かく」なり、人生が好転していったのです! 何十万人もの人々が絶望、依存症、ホームレスから解放されたのです。今日も私たちは日常の直中で天が開かれることを目の当たりにする恵みを経験しています。この頃、オリーブ・ブランチ・ミッションの入所者や人々の間で霊的な渇きが高まっているのを目にします。一週間のうちに何人かの方と一緒に祈るとき、主は彼らが直面している痛み、傷、課題のただ中で、私たちを聖なる時に招き入れてくださいます。時には主の霊が私たちの普通の場所を天国への入り口に変えてくださるのを見ることがあります。天が開かれ、主の霊が私たちの上に降り注ぐのを見るのです。天が開かれ、人々が希望を見始めるのを見ます。天が開かれ、人々が新しい、深い方法でイエスと出会うのを見ます。 親愛なるKUCの友人の皆さん、もしかしたら今朝はヤコブのような状態かもしれませんね。もしかしたら、にっちもさっちも行かない状況におられるかも知れませんね。感情的にも霊的にも荒涼とした場所にいるのです。逆境に置かれている。攻撃されていると感じている。職場で困難な状況に置かれている。健康上の問題に直面している。この長引くパンデミックのために、強い孤独を感じている。あなたは、人々があなたに敵対しているため、「エサウ」に直面しているのかもしれません。家族の厳しい状況を経験しています。時には、もう一日だけ生き延びるのは大変なことです。私たちの多くはヤコブのような生き方をしているのではないでしょうか。私たちは神の御心を求めているのですが、なんとよく走ってしまうのでしょう。私たちは必死になって自分の道を探そうとしています。私たちは物事を成し遂げるためにいつも走っているのです。私たちはしばしば、神の計画を完全に信頼する代わりに、自分たちの手で問題を解決しようとします。アルバート・アインシュタインは、"狂気とは、同じことを何度も繰り返し、異なる結果を期待することである "と言いました。この意味で私たちは多くの場面で狂っているのです。しかし、神はとても慈悲深い方です。とても慈悲深い方で、私たちが思いもよらない時に、喜んで出会ってくださるのです。実は神戸は漢字で書くと「神の扉」「神の門」という意味です。神戸ユニオンチャーチや神戸の他の教会の働きによって、神が神戸の多くの人々に天国の門を明かしてくださる日が来ることを私は心から信じています。多くの人々が、「神戸市の教会というところは、なんという畏敬の念を抱かせるところなのだろう」と宣言する日が来るとは、なんと輝かしいことでしょう。「ここが天国の門だ。神様はここで私に出会い、私は救われました。イエス様を私の個人的な主、救い主として受け入れました。」「KUCと呼ばれるこの場所は、何という畏敬の念を抱かせる場所でしょう。神様はここで私に深く出会い、ああ、そうだったんだ!と心の底から納得する経験させてくださいました。本当に新しい視点を与えてくださり、私の人生の流れを変えてくださいました。」 天と地をつなぐ、真のヤコブのはしごであるイエス様、ありがとうございます。イエス様が天国への真の階段であるからこそ、神の御心が天で行われるように、地でも行われるのです。天国の入り口であるイエス様のおかげで、魂が救われ、心が触れられ、人生が変えられていくのがわかります。真のヤコブのはしごであるイエス様のおかげで、私たちは神の確信に満ちた声を聞くことができます。イエス様のおかげで、私たちは不思議と心が温かくなるのを感じます。そして、この古い賛美歌を心をこめて、魂をこめて歌うことができるのです。 罪咎(つみとが)を赦され 神の子となりたる 我が霊(たま)の喜び 比べうる ものなし 主に全く(またく) 従い 安き得し 我が身に 天つ家(あまつや)の歌声 響き来る 心地す 日もすがら 証しせん 夜もすがら 主をほめん 御救いは 妙なり 御救いは 奇しと 聖歌232番 新聖歌266番 「罪咎を赦され」 注:聖書箇所の訳は新改訳2017を用いました。 これは私の好きな福音書の中の物語の一つです。主イエスが十字架につけられた数日後、エマオへ向かう途中の弟子たちのこの物語は、私達のより大きな信仰の旅の一部です。この二人の弟子たちは、事実上、主イエスの弟子であり、そのうちの一人は名前がありません(クレオパという名前の弟子のことを聞いたのはこの時だけです)。
棕櫚の日曜日の凱旋、食事の分かち合い、裏切り、逮捕、裁判、十字架刑など、エルサレムで起こったばかりのことを理解しようとエマオへの道を歩いていました。そして空の墓、主イエスがよみがえったという女性たちの証言、しかし彼らはそれを信じませんでした。彼らの知る限りでは、主イエスは十字架につけられて、3日後、主はまだ死んでいたのです。だから、彼らは失望し、悲しみ、落胆してエルサレムを後にしたのです。 彼らが起こったことを話し合い、悲しんでいると、見知らぬ男(主イエス)が彼らのところに歩いてきて、「やあ、あなた達は何を話しているのですか?」と言った。彼らは彼に気づかず、アラム語で 「お前さん、エルサレムで何が起こったか知らないのはあんただけか?」というようなことを言ったのです。彼らは主イエスの生涯、宣教、そして死の物語を語ったのです。 そして、「この方こそ、イスラエルを解放する方だと望みをかけていたのですが......」と、落胆と不安を語りました。 悲しいですね。「彼こそはと望みをかけていたのに...望んでいたのに...。」 私達はその気持ちが分かりますよね? 私達が人生で望んでいたことが、思い通りにならなかったことはたくさんあるかもしれません。大切な人を亡くしたこと、人間関係を失ったこと、仕事を失ったこと、チャンスを失ったこと、勉学の機会を失ったこと、入学できなかった学校、友人を失ったこと、あるいは信仰を失ったこと、かもしれません。人生には、失望、悲しみ、後悔、恥、失敗を感じるようなことがたくさんあるのではないでしょうか? そのとき、この弟子たちがどんな気持ちでエマオに向かっていたか、私達は彼らの気持ちに寄り添えるかもしれません。 しかし、彼らは主イエスに出会います。彼らは最初、主とは分かりませんでした。時々、私達は悲しみや不満や怒りや失望に目を奪われて、私達の真中にいる主イエスの存在そのものを見失っていることがあるのです。主イエスがエマオへの道で弟子たちを歩かせ、モーセやすべての預言者について、そして、そのすべてが苦しんでから栄光に入るメシアを指していると話し始めたとき、彼らがこれを聞いたのは初めてではありませんでした。これは、主イエスがずっと説教し、教え、約束していたことでした。主イエスが再びパンを裂かれると、彼らは、彼が誰であったか、つまり彼らのメシアであり、救い主であり、主こそが起こったことすべてにもかかわらず彼らの生きる理由であることを再び見え始めたのです。 彼らが最初、彼に気づかなかったというのは、とても信じがたいことです。しかし、時に、悲しみや不満や怒りや失望に目を奪われて、私達の間に主イエスが臨在されていることを見失っていることがあるのです。 主イエスは先に、エルサレムに行って、長老たちや祭司長たちの手によって大きな苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえる、と告げていました。 しかし、エマオへの道での悲しみの中で、彼らは彼を見ることができませんでした。 彼らは、神の国において、死が新しい命につながることを忘れていたのです。神は葛藤を祝福に、心の傷を完全なものに、闇を光に、罪を許しに、悲しみを喜びに、怒りを平和に、数え上げればきりがないほど変えてくださることを忘れていたのです。そして、私達もそのことを忘れてはいないでしょうか。 人生は本当に難しいものです。クリスチャンであっても、先が見えなかったり、苦しみ、失望に直面することがあります。 キリストに従う者として、順風満帆に生きられるという約束は決してありません。 ルーテル教会のナディア・ボルツウェーバー牧師は、新しく教会に来た人々に対して、あなた方の気持ちが傷つくこともあるでしょう、教会の中の誰かが、たとえ牧師であっても、あなた方を憤慨させ、感情を傷つけ、ある時点で、別の方法であなた方を激怒させるであろうと覚悟しるようにと、新入会者を招いています。そして、彼女は人々に、怒り、失望、あるいは傷つき、それが醜くなる前に、この側で、事態が厳しくなっても離れない、あきらめないことを決意するよう呼びかけます。 なぜなら、もし私達がただあきらめて帰ってしまったら、神の恵みがその悪いものをすべて美しく新しいものに変え、私達の時間とエネルギーと献身にふさわしいものに変えていく力を目撃する機会がなくなってしまうからです。 そしてそれは、家族、人間関係、キャリアなど、私達の人生のあらゆる領域と同様に、教会にも当てはまります。もし私達がただ立ち去ってしまうなら、神の恵みが悪いものを美しく、新しく、価値あるものに変えていく力を目撃する機会はないでしょう。 神戸ユニオン教会は、あなたにとって喜びや救いの場であったかもしれませんし、傷ついたり失望したりした場であったかもしれません。 もしかしたら、浮き沈みがあり、その時々によって様々な思いがあったかもしれません。 しかし、イースターの良い知らせは、苦しみや失望、失われた希望の中にあっても、私達と共に歩んでくださるのが神で臨在するということです。主イエスは、神の恵みと、過去と未来の新しい命が、私達の最も深い苦しみよりも大きく、力強いものであることを私達に思い起こさせてくれます。 それは、苦しみを取り除いてはくれません。しかし、それは私達に耐える勇気を与えてくれます。これから起こることへの希望を与えてくれます。待つこと、見ること、働くこと、さらには最悪の事態を変えること、贖われること、私達の住む場所、目の前で、神の驚くべき恵みによって聖なるもの、新しいものに変えられることを信じることができるのです。 教会として、私達は共に歩んでいます。私達は、キリストのもとで一致する方法を探します。時には意見が合わないこともあるかもしれません。 しかし、私達はキリストに従う者として恵みを示すように召されています。 亜希子牧師と私は、皆さんと一緒に未来に向かって歩んでいくことを約束します。私達教会カウンシル(協議会)は、KUC の将来を導くために懸命に働いています。私達は皆、KUC のために最善を尽くし、キリストのしもべとして共に働くことを望んでいます。 私達は希望の民です。対面式の礼拝が再び始まった今、KUCに再び人が集まり始めています。 オンラインで礼拝を見たり、クラスに参加したりする人たちがたくさんいます。 物事は完璧ではないかもしれません。 ナディヤ牧師も新しいメンバーに伝えているように、時には失望することもあるでしょう。「確かに、私達はいくつかのことを台無しにしてしまいます。しかし、物事を台無しにして、それでも次の週には戻ってくるとき、そこに恵みが起こるのです。それが、教会が本当の姿になり、死者がよみがえる時なのです。」 と言います。 私達は完璧ではなく、壊れているかもしれませんが、神様は私達を愛してくださっています。ですから、私達は共に働きましょう。文句を言ったり、批判したりしたくなりますが、親切に、愛情をもって接しましょう。 あなたの教会を助けましょう。 行動を起こし、共に歩んでいきましょう。これが私達の教会です。 今日はAGM(年次総会)があります。私達の将来に関わる問題を議論します。 報告を聞きます。また、教会カウンシルメンバーの名簿を承認するかどうか投票をいたします。 KUCは150年の歴史がありますが、神様は私達を見放されてはいません。恵みと一致のうちに歩んでいきましょう。神戸ユニオン教会の未来のために、主イエス・キリストと共に、共に歩んでいきましょう。 祈りましょう。 主よ、エマオへの道で私達をお迎えください。 目的地に向かう道を導いてください。 そして、あなたと共に歩み続けるために、私達の力を新たにしてください。 私達の目を開いてください、そうすれば私達の周りにあなたの存在のしるしを見ることができます。 私達の心を開き、あなたの平和と愛を受け取ることができるように。 私達の人生を開き、あなたが私達に惜しみなく与えてくださった恵みを他の人々に伝えることができるように力を与えてください。アーメン。 「だから人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイの福音書7章12節)
KUCの皆様、おはようございます。 私は森本安音と申します。私は今、高校2年生です。私は2歳の時からKUCに通っており、現在、青年部に所属しています。 昨年は、全国中学生英語スピーチコンテストに参加しました。このコンテストは、故高円宮殿下を記念して毎年開催されているものです。なんと、私は5位に入賞することができました。私は海外に留学したことがありません。両親も英語が話せません。そんな私にとって、KUCは英語を学べる場所として、とてもありがたい存在です。 私は歌を歌うことが大好きです!結構上手いんですよ。私はまた、自分が得意なことを人々にお披露することも好きです。ここ数年の間、40か所以上もの老人ホームを訪れ、ボランティアコンサートを行いました。コロナ禍の今は、なかなかすることができません。しかし、近いうちに、もっとコンサートを開きたいと思います。 プログラムは大抵、童謡や昔の流行歌などで構成されています。例えば、( ♪~ハミング ) 聞き覚えありますか?そうです!スキヤキソングです!皆のお気に入り!お年寄りの方に特に親しまれています!老人ホームの入居者さん達は、1~2回訪問しただけで、すぐに心を開いてくれます。まるで孫のように接してくれるのです。また、私の細かいことまで覚えている方々もいます。ある時、フレンドリーな男性が言いました。「背が高くなったね!そして、あっ!メガネを変えたんじゃないの?似合ってるよ!」わ~、ビックリしました!ものすごく私のことを 覚えていてくれたのです! 老人ホームの入居者さんたちは1人1人、介護の状況が様々です。中には深刻な認知症を患っていて、家族の名前や顔すら覚えられない人達もいます。身の回りのことがなんでも自分でできる人もいれば、介助が必要な人もいます。私には忘れられない女性が一人います。この方は認知症ゆえに、顔に表情がありませんでした。話すことも、歩くこともできなかったのです。ある日、娘さんと一緒に、私のコンサートに来られました。最初は、ただ私をぼーっと眺めているだけでした。しかし、昔の懐かしい歌を歌い始めると、彼女の中で何かが変わったように思えました。車椅子の上で、少し身を乗り出しました。私の歌を聞いていたのです。また、メロディーにのって、リズムに合わせ手を叩き始めました。そして、笑ったのです! コンサートの後、娘さんに連れられ私のもとに来ました。女性は私の手を握り、 目には涙が浮かんでいました。娘さんも泣き出し、「母が笑うなんてなんて久しぶりです。本当にありがとうございます!」と言われました。私も泣きそうになりました。私の歌声がこの女性を笑顔にしたのです。 皆さんも子供の頃を思い出してください。覚えている歌があるはず。誰にでも子供時代のお気に入りの曲があるはずです。そのことを考えるだけで、笑顔になり、心が温かくなります。なぜでしょうか?それは、音楽が成せることだから!たった一曲だけで、再び前向きになれるのです。それが、歌の驚くべき力です! だからこそ、私はボランティアコンサートを続けていきたいと思います。もしかしたら、ある日、歌手になっているかも。先のことは分かりません。しかし、確信していることは、私が歌えば人を笑顔にすることができる、ということです。 できるだけ多くの方々に歌の驚くべき力を体験して欲しいと思います。そして、 私が歌い続ければ、それができるのです。 この経験から、歌は神様からいただいた贈り物だと実感しました。 これからも、神様からいただいたこの贈り物を増やしていきたいと思っています。 私を愛し、励ましてくださる神様をほめたたえます。 みなさんおはようございます。私は、ジョナサン・マッカーリーと言います。United Methodist Church (合同メソジスト教会)のアジア学院で働いています。私の派遣団体は、先輩であるクラウディア牧師と同じ団体です。今朝は皆様とご一緒できてうれしいです。
2週間前はイースターの日でした。子供のころ、イースターは楽しいイベントした。もちろん教会に行くのですが、イースターの意味は分かっていませんでした。 幼少期に私がイエスの復活や十字架の事を理解していなかったからではなく、私が通っていた教会では毎週のように、イエスの死や十字架、復活の事について話を聞いていたからだと思います。 だからこそ、イースターに改めてイースター用の新しい服を着たり、食事が出たり、イースター礼拝があったりする事が理解できなかったのだと思います。もちろん、イースターのマシュマロで作られたフワフワのお菓子や、イースターエッグ(チョコレートで出来ているもので、本物の卵ではありません)は美味しくて、幸せな時間だった事を思い出します。 しかし、成長と共に自分自身で、自分のためにイエスを主と理解し、救い主であると信じるようになると、イースターがどれだけ大切かという事に気づき始めたのです。 イースターに関する説教というのは常に説かれるものであると信じていますので、本日はイースターの話しからも学びを得たいと思います。 今読んで頂いた聖書朗読箇所は、イースターについて書かれた最も古いものの1つであると多くの学者たちは推測しています。 イエスが死から蘇ってから約30年後の紀元50年代から60年代にかけて、パウロは教会に手紙を送り活動をしていました。 それまでクリスチャンの間で説教や証という形で語り継がれていたイースターの真実を、パウロは手紙という形で書き留めたのです。 パウロが伝えたい最も重要なメッセージは以下の通りです。 3節と4節を読んでみましょう。このメッセージは驚くほどシンプルです。 聖書には、キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、そして本当に蘇りました。それは約束されたものであり、そして実際に起こった。だから私たちが存在しているという事です。 これは常に説教で伝えられている内容で、イースターの季節には、これが歴史上の最も重要なストーリーであり、真実であることを思い出します。 パウロは5節~8節でキリストを見た人達の事を説明しています。人によってはケパ、ヤコブなどの個人名が出てきますし、場合によっては12人の弟子や500人の信者(兄弟たち)などのグループ名で描かれています。 事実としてイエスの死と復活は多くの人が目撃しており、パウロ自身も復活したキリストを体験した1人であると言っています。 そんな体験をする想像をしたことはありますか? イエスが後にも先にも誰も無しえなかった事、復活を遂げた時にその場にいたことを想像してみてください。 先週みなさんが読んだ箇所にも、これに関する部分がありました。先週はトマスに焦点を当て、トマスと信仰について見ていきました。冒頭で、他の弟子たちがどの様に恐れ、そしてその恐れが喜びに変わっていったのかについて学びました。 先週のヨハネの福音書20:19-23を再度見てみましょう。 その日はイースターですが、当時は、今のように喜びの日ではなく、イエスの家族や弟子にとってはイエスの死に対してのショックがまだ続いていました。 彼らはその数日前の金曜日に、何がイエスに死をもたらしたのか、まだ全てを理解するのに時間がかかっていました。その前の週にはイエスとその弟子たちがイスラエル最大の都市、エルサレムに凱旋し入場していたのですから。 その時、彼らはイエスが語る神の国がどのようなもので、自分たちがどのような役割を果たせるのか、心を躍らせていたのです。 イエスの時代がやっとやってきて、この世の悪事が正されると確信していたのです。 その後、木曜日、金曜日がやってきて、彼らが期待した王になるはずだったリーダーが悪い犯罪者のように死んでしまい、彼らは大きなショックを受けていたのです。 彼らの夢と計画は無意味なものになっていたのです。 そして、19節によると、弟子たちは恐れて部屋に閉じこもってしまっていたのです。これは理解できます。イエスを捉え、ローマ総監ピラトにイエスを殺すように迫ったのは宗教指導者たちだったからです。 弟子たちが考えていたのは、そんなに簡単にイエスを殺す事ができたのであれば、イエスに従う自分たち、イエスの親しい友人たちも同じように殺すはずだと思っていたのです。 イエスよりも、もっと残虐に自分たちは殺されてしまうのではないかと弟子たちは考えていたのです。 安息日が終わり、当局者が彼らを探していたからドアにカギをかけて身を潜めていたのです。 その様な恐怖と混乱の中、誰も入って来れない密室の中で、どこからともなく復活したイエスが現れたのです! コリント人の手紙に書かれているように、多くの人々がイエスが生きているのを見たので、私たちはイエスが現れたと聞いてもあまり驚かないかもしれませんが、当時の人達は本当に驚いたと思います。 現代となっては、イエスが十字架の上で死に、そして蘇ったというのは美しい話に聞こえるでしょうが、当時、その部屋の中に自分がいたら、死ぬほど驚いたでしょうし、イエスが見えたとしても、イエスのために立ち上がらなかっ自分に、イエスの亡霊が自分に取り着いたと思ったことでしょう。 看守がイエスを捕まえに来た時、兵士がイエスを十字架にかけた時に自分が身を隠していたことを思い出していたでしょう。 ルカの福音書24章を見ると、弟子たちがただショックを受けていただけでなく、本当に恐怖に怯えていたということが分かります。しかし、本日の朗読箇所のヨハネの福音書で、イエスが弟子たちに会った事が書かれています。 イエスは弟子たちに挨拶をし、十字架に張りつけられた時の傷跡を見せて、イエスが亡霊ではなく、生きている事を証明し、弟子たちの反応を見ます。 ヨハネの福音書では弟子たちは喜びに満ち溢れたと書かれています。ルカの福音書には弟子たちの心が燃えたと表現され、マタイの福音書ではイエスの足元に人々が倒れこんだと書かれています。 言い方を変えれば、恐怖、ショック、悲しみを受けていた弟子たちがイエスが蘇ったと理解した瞬間、全ての恐怖、ショック、悲しみが消え去ったようになったのです。イエスは死に、葬られ、そして蘇ったのです。ハレルヤ! 皆さん、イースターは復活これが全てなのです。神からの途切れることのない愛、全てを包み込む、神の真の無限の愛なのです。イエスの存在は、私たちが抱くあらゆる恐れやショックを打ち消してくれるのです。 ここにいる皆さんは恐怖やショックを人生のどこかで体験してきていると思います。ここ2年間は世界中の人々が得体の知れない、見えないウィルスに脅かされてきました。なぜウィルスが今現れたのか、ウィルスが何をしようとしているのか理解できていません。 そしてそのウィルスのためにショックを受けている部分もあります。誰か近くの人が咳をしたら、熱が出たら、鼻水が出たら自分たちもウィルスに感染するのではないかと思ったりしています。 去年末にWHOが世界はコロナ禍においてうつ病や精神疾患が25%増加したと発表しました。1年半でそこまで数値が上がるなんて普段ではありえないことです。 ウクライナのようにロシアとの戦争に苦しみ続けている場所ではもっと早くそういった数値の変化が見られるのかもしれませんが、平和な場所ではそういった事があってはいけません。うつ病が増えるような世の中であってはいけないのです。 ですから、イエスの死に対しての恐怖、ショックを感じたという事は現代の私たちも理解できる共感できる感情だと思います。 しかし、彼らが感じたような「喜び」を私たちも経験しているでしょうか? ヨハネの福音書を先ほど見て頂きましたが、もう一度、ヨハネの福音書22節を見てみましょう。「イエスは彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」」と言います。 イエスが彼らのもとにやってきた時、イエスは挨拶や死ぬ時にどう感じたかを伝えに来たのではありません。イエスが地上にやって来た最初の目的を果たし続けたのです。 その目的・使命とは神が天地創造をした時と変わらない使命です。その使命とは神の決めた事がすべてであるということです。 私自身は復活の重要な部分はここだと思っています。イエスは死に、蘇り、弟子たちの前に現れ、今までの世界の在り方、恐怖と死が支配する考え方が変わるという事を伝えに来たのだと思っています。 神の国は到来し、イエスとその復活の名によって世界は変わるという事です。 神はこの地が創造される時に、人間に御霊を吹き込み、人間を創造しましたが、サタンとこの世の王国は、私たちを創造主から引き離そうとしてきました。 しかし今、聖霊の力、つまりイエスを死から蘇らせたものと同じ力によって、弟子たちは神の王国を広め、イエスの宣教の奇跡を継続させているのです。そして、それは2000年もの間続いているのです。 そして今日、私たちが存在していることは、イエスが確かに生きており、聖霊がこの世を変えた事を証明しているのです。恐怖と死が私たちを支配しているのではありません。 弟子たちは使命に忠実に働き、聖霊の力によってイエスと、その力についての言葉を地の果てまで伝え続けているのです。 アジア圏内では日本より東に行く事はできませんが、神は奇跡を起こし、今では誰もが聖霊を受け、同じ使命を受け入れています。 私たちがイエス・キリストへの信仰を告白し、キリストに従うのであれば、聖霊を受け入れ、神の国について伝え、彼らも赦されるという事を伝えることが出来ます。 どんな家族も、だれでもイエス・キリストの愛を知る事ができ、罪を赦され、何にも恐れずに生きる事ができるのです。なぜなら、死でさえも私たちを倒す事ができないのです。 ハレルヤ!イエスは蘇った!ハレルヤ! |
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May 2024
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