創世記1章26~17節、31節
ヨハネの手紙第一 4章7~12節 すでに多くの方々が知っていらっしゃいますが、私はクリスチャンではない家で生まれ育ちました。思春期に入った時に、自分自身の価値というものに悩みました。それによって落ち込む事が増えました。でも当時はなぜそう感じるのか分かりませんでした。自分に自信がなく、自分の事を好きになれませんでした。明るく振舞わなければと思っていました。友達に本当の自分を見せたり、思いを共有するのがとても怖かったのです。なぜなら本当の私というのは、弱く、暗く、悲しんでいたからです。 だから明るく振舞っていました。 心の中とは裏腹にいつも明るく何の問題もないように振舞っていました。そうやって本当の自分ではない自分を見せるのはとても疲れました。疲れるので、学校に行かない、行けなくなる日がありました。 なぜ自分がこんなに落ち込むのかが分かりませんでした。でも心の奥深くでは自分が何を求めているか分かっていたのです。 私はそのままの私自身を全て包み込んでくれる愛を探していたのです。「そのままのあなたが大好きだよ」と誰かに言って欲しかったのです。それを望んでいたのに、間違った場所と人の中に愛を探していました。 私は基本的に常にとても良い学生でした。それは私が決して賢いという理由ではありません。とにかくよく勉強しました。家族から、特に両親から「よくやっているね!」という言葉が欲しかったのです。私を肯定してくれる、私のやっている事を認めてくれる、存在価値を認めてくれる言葉が欲しかったのです。両親からのそういった言葉が私が求めている愛だと思っていました。愛されるだけの価値がある人になりたかったのです。 でもそれは起こりませんでした。 両親が私を愛していなかったわけではありません。彼らは心優しく良い人達ですが、神様ではありません。私は間違った場所と人から愛を探していて、愛を探す終わりのない旅は私の心の虚無感をどんどん広げていました。 今日の話は、皆さんがよく知っているお話です。創世記の話です。神が天地を作られ、そこに住むもの全てを創造した。神は光、空、海、植物、果樹、種、星、全ての生き物を創られたのです。(創世記1章1~25節) そして、創世記1章で使われる動詞の「創造」(barah)とは特別なものです。この言葉は神が主語に来る際にしか使われません。神がこういった「創造」をする時にしか使われない動詞です。他の誰でもない、神のみがこういった世界を創造する事ができるのです。 そして、神の創造のクライマックスが次にやってきます。 神は人間を創造された。 神が天地を創造された時とは違い、何もないところや闇から人間が作られたわけではありません。26、27節には何度も記述されている部分があります。創世記を書いた筆者が強調する部分。それは 神は人をご自身のかたちとして創造されたということ。 先週チャック牧師が説教の中で神のかたちについて少し話していらっしゃいました。チャック牧師の中では神は黒人のおばあさんのようなイメージだと言っていました。人によっては神のかたちは実際の人間です。最近スタッフ会議やmid-week worship、WOWで私はこの部分を基にデボーションを何度か行いました。デボーションを行った時に、その場にいらっしゃる人に私は、「神によって創造されたものとして、みなさんは神のイメージについてどんな印象を持っていらっしゃいますか?」と聞きました。 色々な答えを頂きました。「神は慈悲深い」「神が主導している」「神は恵みである」「神は愛である」「神はあがないの主である」「救世主である」「必要を満たす方である」「赦してくれる人である」「先生である」「医師である」「預言者である」または「心の友である」。 「神は私たちを独りぼっちにさせない」「神はご臨在である」 クリスチャンとして、聖書がいつも手に届くところにあり、いつでも読め、そこに描かれている様々な神のイメージを掴む事ができるというのは祝福です。神のイメージは聖書に描かれており、全て本当の神のイメージなのです。 でも、もし聖書に創世記1章以外何も無かったとしても、創世記1章を読むだけで神の事を深く学ぶ事ができます。 創世記1章は特別な創造主である神の事のみが描かれています。何もないところから命を吹き込む事ができる、無形の闇の中から新しい命を息吹く事ができる神の事についてのみ描かれています。 神は1人で様々なものを創造していきます。そして1日の終わりには、創造されたものを見て、「良し」とされたのです。 神が創造した全てのものは「良し」とされました。 私たち人間が人間としての機能や役割を果たす前に、神が「良し」とされ、私たちを創造された事を思い出しましょう。神は私たちを使ったり、使われたりするために創造したわけではありません。私たち自身の一部を身売りして、存在価値を高めたり、十分がんばっていると認められるために創造されたわけではありません。 「良し」とされるために何かを頑張らないといけないわけではありません。私たちは創造された時にすでに「良し」とされているのです。 神と私たちの関係は時に親子の関係に置き換えられる事があります。赤ちゃんは生まれた時はほとんど何もできません。両親、お手伝いさん、兄弟または他の大人たちが赤ちゃんのお世話をします。食べさせたり、オムツを交換したり、寝かせたり、ゲップさせたり、座らせたり、お風呂に入れたり、歩く事を教えたり。。。本当に全てです。 しかし、赤ちゃんは愛らしく、可愛いので、「良し」とされるのです。何も出来なくても「良し」なんです。 赤ちゃんは可愛すぎるので、愛せないはずがないのです。 私たちの社会は効率化、生産性を高める事が良いとされているので、神との関係性も業務的になってしまう事があります。社会は私たちの生産性、効率化、効果を求めているので、その目で神との関係性を見てしまう事があります。 最近、コロナウィルスの自粛期間中にどれだけ生産効率を保持する事ができたかという事を訊ねるアンケートを見ました。50%以上の人が通常の生産性を保つ事が出来なかったと答えていました。十分時間がなかったから生産性を上げる事が出来なかったという人もいれば、家で十分時間があったけれども、時間管理が難しく、生産性を上げる事が出来なかったと答えていた人もいました 私も例に漏れません。3食毎日作り、一日に数回洗濯機を回し、子供たちの宿題を手伝い、さらに教会の仕事も行いました。もっと教会のために働きたいと思いつつ、思うように働けないと思う気持ちが自尊心を少し傷つけた事も本当です。 もっと働けるはずなのに、私自身十分出来ていないと思っていました。 こういった考えや思いはクリスチャンライフのつまずきにもなってしまいます。あれも、これもやっているから、私は神の良い創造物である。常に祈りを捧げているので、良い神の子である。許しをしているので、私は良い神の子であす。献金をしているので、私は良い神の子である。オンライン礼拝、zoom(オンライン)ミーティングにいつも参加しているので、私は良い神の子である。もちろん、ここで挙げた事を止めさせるために私は例を上げているのではありません。重要な事は、なぜ私たちがこういった事をするのか?という事を時に立ち止まって考える必要があると思うのです。 本日の創世記の箇所を見てみると、先ほど言った事が私たちを「良し」とする内容ではない事が分かります。私たち自身または、神のために何かが出来るようになる以前から私たちは神によって「良し」とされているのです。これが私が初めて神様のことについて聞いた最初の良い知らせでした。初めて救い主の話を知った時の話しです。 牧師先生は私に、神は私を神ご自身のかたちとして創造された、私は「良し」とされていると言いました。この福音を聞いた時にどれほど安堵したかを今でも覚えています。私が探していた愛をやっと見つける事が出来たと思ったのです。この本当の愛を手に入れるために何もしなくてよい、私の価値を神に分かってもらう必要はないのだと、このままの私で良いのだと理解しました。 これはとても衝撃的で、これを機に神に愛される子として生きようと決めたのです。 ですから、神にとって自分自身は十分でないと感じられている方がいらっしゃったら、天地そして全てを創造された神によって「良し」とされてあなた自身が存在している事を覚えておいてください。壮大で全能の神があなたを創造し、内臓を造り、母の胎のうちであなたを組み立てられたのです。あなたに、そして私たちに奇(くす)しいことをなさって恐ろしいほどです(詩編139章14節)。そしてあなた(私たち)は「良し」とされています。 もちろん皆様お気づきのように、「良し」は「完璧」という意味ではありません。神は私たちを「良し」とされましたが、「完璧」とはされていません。創世記のこの章の後、罪が人の人生の中に現れます。それを機に人々は神との関係から離れていきます。 私と同じような考えを持っている人がいるならば、私たち自身が完璧でないと知る時、「神」のような事をして、完璧になろうとはしませんか?もっと祈り、もっと献金をして、もっと奉仕をして、もっと犠牲を払い、神のために、もっともっと何かをして、完璧になろうとした経験はありませんか? しかし、こういった行為というのは私たちを神の完璧な創造に近づける行為ではありません。そうではなく、神の愛が私たちを完璧な創造に近づけるのです。ヨハネの手紙第一4章を読んでみましょう。ここは神の愛についての有名な箇所です。創世記に記してある人間についての追記がある箇所でもあります。創世記では神は私たちを「良し」として創造されました。そこから話が始まります。 私たちは完璧になるために神に創造されたのではありません。人生を歩む中でお互いを傷つけたりする事があります。人間がお互いや他の生き物を傷つけているのを目にします。私たちが不完全であるが故にそれが社会のあらゆる制度にはびこっていることがあります。そのことにより、一定のグループが、他の人達よりも傷つけられる事があります。世の闇は世界のあらゆる所にあります。 でもそれにも関わらず、私たちは愛されているのです。 ヨハネの手紙第一4章を再度読んでみましょう。この章の中にいくつ愛という言葉を見つける事ができますか?沢山ありますよね!ここでは「愛された者たち」と私たちは呼ばれています。イエスが洗礼を受けた時と同じ言葉です。イエスが洗礼を受けた時、神は喜びイエスを「愛された者」と呼びました。 この章の内容をすでにご存じであれば、この書を書いたヨハネのコミュニティが抱える問題についての答えがわかると思います。このコミュニティは、イエスキリストが人間でもなく、神でもないと詠うグループと相反していました。このように考えるグループが存在することは、ヨハネのコミュニティにとってクリスチャンの信念の根底を揺るがす問題でした。 私たちが信じている事に対して対立してくる人々がいる時、その人達を嫌いになり、そのように行動するのは簡単です。しかしそのような状況に対するヨハネの答えは驚くべきものでした。 彼は、互いを愛し合いなさいと言いました。こういった愛情が元来私たちに備わっているからではありません。神が愛だからです。神は私たちを先に愛してくださいました。神は私たちを心から愛しています。だからこそ、そういった人達を私たちは愛せるのです。 そして、もっとすごい事にヨハネは他人の犯した罪を思い出すなといったのです。ヨハネは神の御子が私たちの罪のために犠牲を払ってくださったのだと言います(10節)。気が合わない敵の罪や人々の罪ではなく、ヨハネは私たち自身の罪を見なさいと語ります。 私たちは「良し」とされて創造されました。どこで生まれようとも、肌の色が何色だろうとも、どんな宗教観を持っていようとも、全ての人間は神がご自身のかたちとして創造されました。全ての人が神の良い創造なのです。 でもさらに良い知らせがあります。私達は洗礼によって神から生まれるものとなるのです。人生のはじまりから神の似姿に創造され、愛である神に私たちは属しているのです。そして「愛された者」と呼ばれる時に、神の愛が私たちの中で生き始めるのです。そして、神が望んだ形で私たちが互いに愛し合う事が出来るのです。 でも私たちの生きている世界は完璧ではありません。肌の色、民族、宗教観、能力、パフォーマンス、特権、また別の何かが違う事によって抑圧や暴力が起こっています。そういった違いをもとに、人から「あの人は良くない、良い人でない」と聞いたり、私たち自身が他人に対して「あの人は良くない」と言ったりしています。 しかし全ての人は神に似せて創造されたのです。そして私たちは愛である神に属しているのです。そのことにより、私たちは本当の意味で互いを愛し合う事ができ、隣人を愛すだけでなく、私たちの敵でさえも愛する事ができるのです。私たちが自身を愛す事ができるように。それは、私たちが神の「良い」創造だからです。そしてその「良し」とされた場所からキリストに似たものへと成長する事が出来るのです。 神によって私たちは「愛された者」となり、良い人になるためにとか責任感からではなく、神の愛が私たちが気付く前から、私たちが罪人であった時から私たちに注がれている事に気づいた時に、心から本当に愛する事ができるようになるのです。私たちが真の愛で互いを愛し合える時に神が創造し、心から愛した世界は天のように完璧になるのです。私たちが互いに愛し合い、神の愛が私たちに宿り、神の愛が私たちの中で完成する時、 それは私たちにとっての完全な福音となるのです!アーメン!
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エフェソの信徒の手紙3章17-19節
17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ(落ち着く、とどまる、主の永遠の住まい)あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18 また、あなたがたがすべての聖なる者たち(神の愛する人々、神の愛を経験する者)と共にキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 19 人の知識(経験を経ていない)をはるかに超えるこの愛を知るようになり(特に、あなた自身の経験を通して)、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって(あなた自身が)満たされるように。(神の豊かな臨在を持ち、あなたの身体に神ご自身が満ち、溢れ出さんばかりなります様に。) マルコによる福音書10章17-22節 21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 母の日のように、父の日も多くの人達にとって複雑な思いが渦巻くかもしれませんね。私達は父親または母親の完全な愛を理想化し、空想しますが、多くの人達の経験は、それとは違っています。 2005年に私達は最初の里子を偶然引き受けることになりました。彼女と出会ったのは教会のキャンプの時でした。彼女の元教師が里親探しをしましたが、誰も彼女を引き取らなかったためにキャンプに彼女を連れてくることになりました。よって、彼女を数週間、面倒を見ていました。彼女は当時11才で厄介なことに巻き込まれ、実際、誰も引き取りたがらず、この先生は渋々数週間だけ預かる事になったのです。その間、キャンプを既に予約していたので、彼女を連れてきたわけです。彼女との最初の出会いは奇妙でした。誰かがメッセージを説いている最中に、彼女はケリーの隣に座り、それからケリーに膝枕をしてもよいかと尋ね、それから直ぐに眠りに落ちました。まだ出会っていないのに!嫌な予感がしました! その夜とその次の夜、彼女は私達のキャビンに来て彼女の意地悪い母親と兄、父親のふりをした母親の定期的にやってくる悪いボーイフレンドについて話をしたのです。彼女の母親は彼女の父親はたった一夜限りの関係だから、父親に会う事はないよと、言うのです。彼女の話の中で、最も衝撃的な話は、一時的な父親もどき或いは、母親の悪いボーイフレンド達と私は呼ぶのですが、その一人が、彼女の悪ふざけに激怒したのです。彼女は強い性格を持ち、たちまち難儀なことに巻き込まれました。彼は彼女を罰するため、彼女が数週間前にもらっていた子犬と一緒に車で砂漠に連れていき、子犬だけを砂漠に置き去りにして見殺しにしたのです。彼女への見せしめです。このような話がたくさんありました。 長い話を短く纏めますと、その週末にキャンプで彼女が尋ねた、いや、私達に懇願したのです。彼女が願ったすべては、彼女をまるで野良猫のように引き取ることでした! 私は、それは無茶な話だと言いました。何故なら制度上難しく、私達は法を犯すような家族ではありません。また私達は彼女の出身地から500マイルも離れた所に住んでいました。しかし・・・、はい、私達は裁判所に取り次ぎ、いくつかのルールを曲げ、結局、その後にすぐに彼女を連れて返りました。 彼女との最初の数週間は野生動物と暮らしているかのようでした。彼女といた最初の日の出来事で、彼女は気分を害すると、なんと屋根に登ってしまったのです! 私達は実の娘達には作った事がないルールを彼女の為に作らなければなりませんでした。例えば、車が止まるまでは、車のドアを開けて降りてはいけないなどです。彼女は恐らく私に対して最も苦手意識があり、凶暴に振る舞いました。彼女は文字通り、頻繁に私に対して怒り狂いました。テレビでも全く見た事がない劇的な規模でした! ある時、お店にいた時、彼女が欲しがった物にダメと言ったのですが、私の2、3歳の子でさえしなかったのに、12歳の彼女が店の床に座り大声で激しく泣き始めたのです。私は只々どうすればよいのか途方に暮れてしまいました!ただ祈るしかありませんでした。 これら全ての渦中で、奇妙で凄いことが起こったのです。彼女に対して神を通した愛情を感じたのです。私が知らなかった愛であり、聞いたこともありません。私の人生で最も深遠な経験の一つです。神様は、私達への神の愛を私に感じさせ、それは、私の緊張を解し、平静になり、私がかつて経験しなかったことでした。 私の娘達は彼女に腹を立て、彼女の私に対する態度に激怒し始めました。ある日、彼女はパニックに陥り泣き叫びました。今は、何に対してだったかは覚えていませんが、私は突然彼女にこのように言いました。「ヘザー、僕は良い父親だよ。」「僕こそが良い父親なんだ。」その瞬間、私達は静まりお互いを見つめたのです。その後のことは私もよく覚えていませんが、言葉を超えたものがありました。私達は両方とも神様が良い父親の臨在を、私を通して彼女と私に表しているのだということを感じ取ったのです。彼女は落ち着きを取り戻し、それから12歳の彼女が、一見8~9歳にしか見えませんが、私の膝の上に座っていいかと聞いて、丸くなって眠りに陥りました。この瞬間はまた彼女にとって魂を癒す時でもあると感じました。彼女が眠っている間、私は大抵ラップトップを使って仕事をしていました!思い出すと可笑しいです。 もし更に私達の里子達の話しをお聞きになりたいならば、数知れずあります。それはまるで深い霊的な教訓と感じるような時をほぼ毎日のように過ごしました。愛が何であり、それがどのようなものかを多く学ばされました。子供達が愛されていると感じないと、どうなるかを間近で見てきました。それから時を経て多くの子供達だけではなく、大人、つまり成長した子供達を見てきました。その多くの者は、年齢に関わらず、父の愛に飢えて、それを喉から手が出るほど欲しているようです。この重要な点を常に目の当たりにしています。だからこそ、今日この噴出する飢えを明るみに出し、聖霊のご介入を求めたいのです。 私達の里子達の例は極端な話だとは思いますが、私達がカウンセルした人々やお話しした方々の半分、いやそれ以上の方々が、彼らの父に愛されたか、愛されているかに疑問を持ち、父の愛の理解にズレが生じています。地上と天国の両方の父、そして互いに影響しあい、関係性を持っています。 一般的な家庭、私達がよく口にする善き家庭でも、父が働きすぎたり、家に居なかったり、話さなかったり、距離を置いたり、愛情表現が下手だったりします。私の実の父親も幼少時期に遭遇した悲劇的な出来事により多くの問題を抱えアルコールや海兵隊へ入隊する事で問題を解決しようとしました。これらの事は彼自身を少し卑屈で無愛想にし、しかもあまり愛情ある父親ではありませんでした。その後、私の父は回復しクリスチャンになりましたが、彼は決して愛情深い父親ではありませんでした。彼なりのやり方で愛情表現をし、私や他の者を微笑ませました。彼が愛を示そうとした一つのやり方は、私が興味を持ちそうな記事に目を通し送ってくれたことです。後年、彼は電子メールやインターネット上にある記事を目にし、それらを印刷して私に送ってくれました。時折私は電子メールをただ転送してくれればいいのにと指摘しましたが、郵送することが彼にとって私への特別な愛だったのです。私が20歳になる頃から父が召天するまで、彼は毎日のように「かなり一貫して」一日一通手紙を送ってくれました。毎日ですよ、それが30年近く続きました。時に、人々が示す愛情表現は異なり、私達はそれを見逃す可能性があります。愛の表現というような本は、皆が理解しやすい愛情表現が書かれてあって、もしあなたが愛情を示したいのなら、一読に値します。 多分、私達も神の愛が何であるかを実感するのにもがいています。何故ならそれを識別するのは容易ではないか、或いは大きな愛を示してくれる父のイメージを持っていないからかもしれません。神様の私達への愛を気づくこと、その事を知ることが、結局のところ鍵となります。里子達を私達が確かに愛している事を、彼らがよく分かり感じとると、彼らは驚くほど変わっていきました。それらを私達は目撃しています。私達が何らかの形で、彼らの残りの人生の家族となること、私達が望んだ事です。彼らは実に変わりました。あなたが愛されて、それが分かると、その事はあなたを変えます。もしあなたがその事を見失っていると、それもまたあなたを形作るのです。 多くの、いいえ、私の知る大半の苦悩する大人達、苦しみもがくと言いましょうか、様々なもがき、その兆候があります。父の愛、神の愛をもし、もし知っていたなら、経験したなら、彼らの人生は変わったであろうと私は思うのです。この事が私達の主な使命の一つです。私とケリーにとって、私達を通して神の愛、或いは神の愛のチャンネルとなる方を通して、神の愛の御力を見てきました。もし、人々が聖書に証されているこの真実を見る手助けを私達ができるなら、実際に彼らの目と心で分かるなら、真実は彼らの霊性の中に入っていくのです。ここが鍵です。この真実とはあなたの魂で受け取るものです。それはハグ、聖句、賜、賛美、親切な言葉の中に宿るものかも知れません。しかし真実と愛の力は魔法を行う私達の霊性にまず届いていなければなりません。父の愛、神の愛という愛が、個人の内面で周知されると、それは人生を変えます。それをもたらし、明らかにし、その証をすることが、私たちの使命なのです。 マルコの福音書10章を読むと金持ちの若者についての箇所があります。彼はどのようにすれば永遠の命を得られるのかという事を知りたかったのです。主イエスは、他に例を見ない、意味ある挑戦を与えました。それは主がこの若者が聞かなければならないことをご存知だったのです。(私達にも良い教訓です!)しかし、主は若者を見つめ、挑戦や答えを返される前に、主は彼をいつくしんだのです。この箇所は私の心の琴線に触れる箇所です。主イエスは彼の事についてご存知で、彼を見つめたのです。この男が立ち去るという事を知っていても彼をいつくしんだと言います。 本日の朗読個所であるエフェソの信徒への手紙第3章は、人々に対するパウロの願いであり、本当に深く、当時と同じくらい今日にも当てはまります。パウロはこの箇所を人々が愛に根ざし、根付くようにという祈りとして書いています。もう一度読んでみましょう。皆さんがこの聖句を異なる訳で再度目を通されることを望みます。私も我々がそれを得ることが出来るようお祈りします。パウロが祈られたように! 17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ(落ち着く、とどまる、主の永遠の住まい)あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18 また、あなたがたがすべての聖なる者たち(神の愛する人々、神の愛を経験する者)と共にキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 19 人の知識(経験を経ていない)をはるかに超えるこの愛を知るようになり(特に、あなた自身の経験を通して)、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって(あなた自身が)満たされるように。(神の豊かな臨在を持ち、あなたの身体に神ご自身が満ち、溢れ出さんばかりなります様に。) これには、サラ「休止」の時が必要な気分になるではないですか! どういう訳か、神の愛を新しく捉えるために、創造的な許容が役に立つかもしれません。私達はかなり自信をもって神が聖霊であり、神秘的な三位一体の神であると言えます。以前、クラウディア牧師が私達の理解を促したように、つまり、神は単に父/男性の実態ではないのです。単に象徴です。神は私達の多くが想像するような、髭を生やした白人の老人ではありません! 実際、むしろ神は、私にとって年を重ねた黒人女性が何年もイメージとなっています。同様に正確ではありませんが、要は、イメージが私達自身にとって、この愛を理解する助けになるかという事です。そしてあなたにとってコーチ、叔母、牧師かあなたの話を聞いてくださった誰か、あなたを見つめ、たとえあなたをよく知っていたとしても、あなたを愛する人々かもしれません。これが神の愛であり、私達がこれをしっかり理解すると、自分が変わり、どのように隣人を愛するのかが解るのです。 先日ケリーと一緒に思い巡らし話をしていました。「我々は彼の説教を聞くのが好きで、彼は実に良い、懸命で、的確な言葉を持っているようで、大した説教者だよ彼は。」 私は彼女に尋ねました。「しかし、一体、誰が、何が私達の人生を変えた?」と。 つまり40年近く神と共に私達は夫婦として歩んできたのですが、誰で、何が最も私達に影響を与え、私達を変えたのか。そして何が愉快かというと、何人かの市井の人々だったのです。彼らは本当に聖書に精通し、愛に満たされた霊に生きた人達です。彼らが私達を変えたのです。会えて良かった、本当に出会えて良かったです。 真実は、頭文字がT(Truth)から始まる偉大な言葉です。真実とは私達の感覚や心で見たり聞いたりしますが、私の行動が起こるのは、私達の霊からである事に気づきました。 これまで真実のことを話す人達に出会いましたが、何かが欠けていると感じました。それは真実が彼らの霊性に浸透していないからでしょう。神の愛の真実が私達の霊性に触れる時、私達は変わります。 「イエス様が私を愛しておられることを知っています。なぜなら聖書がそのように教えているからです。」私達は時には余りにも賢すぎて努力し過ぎています。別の日、ある姉妹が私達と分かち合ってくださったのですが、あるバイブルスクールで知的な探求で聖書を学んでいるうちに、最初の救いの体験、つまり個人的な聖霊とのつながりを失ってしまったのだそうです。彼女はその事を悔い改めました。その証は私の心を動かしました。知識は真実とは同じではありません。第一コリント人への手紙8章1節の聖句はこのような警告が発せられています。「我々は皆、知識を持っているということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」ヨハネの手紙4章18節は、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出してします。」を気づかせます。 私の本日の祈りは次のとおりです。私達は、経験から知り、神の愛、父なる神(母なる神、又は祖母なる愛)を知り、それらを私達は受け取り、それを分かち合うのです。これが天の御国を地にもたらす根本的な道です。そして私は皆さんにこれが主イエスの教えた祈りであることを気づいていただきたい。「天にまします我等の父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ、御心の天になる如く、地にもなさせたまえ。」これが私達の使命であり、始まりは愛が基礎であると信じています。 ヨハネ第一の手紙4章19節は私達にこのように語りかけています。「私達が愛するのは、神がまず私達を愛してくださったからです。」 では私と一緒に祈ってください。あなたが同じ思いであれば、「はい、アーメン」と心の中でおっしゃってください。 神様、良いお父様でいてくださる事に感謝します。 今まで知らなかったかもしれませんが、私達が愛を心や霊で受け取るにつれ、私達を変えてくださる主の愛に感謝します。そして私達が愛を人へ与えるにつれ、更に私達を変えます! 私はこれを聞いている人達、この愛を知っているかの確信がない人々のために祈ります。お父様、今朝、新しいレベルで、愛する経験を通してあなたの愛を私達に注いで下さい。それにより私たちを新しくして下さい。 人々に愛を分かち合う道を示して下さい。そうすれば私達は新たに再び満たされ、泉、愛を通すホース、流れとなります。枯渇することを恐れるバケツやビン詰の愛ではなく、愛の蛇口となれますように。 主イエスの御名によって、アーメン。 「熱心に仕えるあまりに」
ヴァンアントワペン ドナルド牧師 第一列王記19:11−13 ローマ人への手紙5:1−8 17年前、まだ私がアメリカの大学生だった頃のことです。ある朝起きて、ベットから出ようとした時のことです。二段ベッドの高い部分から起き上がり、はしごをつたって下に降りようとしていました。その時はしごが二つに割れて、私は転落しました。 それは思った以上に大きい事故でした。はしごが折れ、全身のバランスを失い、着地しましたが、全体重が右手首にのしかかり、私の右手首は完全に骨折どころの話ではなく、全ての骨が砕かれ機能を失ってしまいました。 まさしく大惨事、大事故でした。 事故直後はまだピンと来ませんでしたが、私に起こったことは体の痛みだけではありませんでした。この事故の影響はより深く大きいところに存在したのです。当時私は大学で音楽の作曲を専攻していました。しかしこの事故により楽器を弾くことができなくなってしまいました。場合によっては一生弾けなくなってしまうことも考えられました。数週間を病院で過ごし、その後もリハビリは続きながらも書くこともできない、パソコンを使うこともできない大学生。それでもどうにかして学びの遅れを取り戻さなければならない。 そんな状況でした。 事故から数ヶ月経つにつれて、私は本当に事態の深刻さを理解するようになりました。ただ手首を壊しただけでなく、私の人生は完全にいるべき道から外れてしまったのです。今まで一生懸命積み重ねてきたことが水と泡となり、元の道に戻ることは決してできないと悟ったのです。 このようなことに直面し、私は自分の存在危機に直面する多くの20代の若者がするように、自分の殻に閉じこもりました。全てのことから逃げ、クラスに行くのをやめ、宿題をすることをやめ、全てのことを諦めました。 もう全てのことがうまく行かないのだから諦めた方が良いと思いました。もう気にかけることをやめようと思いました。そして学校から退学命令が下されるまで隠れたままでいようと思いました。もう人生の負け組に入ったのだから行く先は目に見えている。打ちのめされ、周りの人間やものに八つ当たりばかりしていました。 ある日、私の教授の一人が、私を捕まえてこう聞きました。「一体ここで何をしているのか?」と。どうせ全ては崩れ落ちるのだから自分が何をしているかなど関係ないと答えようとした時、彼は私を驚かせる発言をしました。 私の教授は「それは真実ではないよ。」と言いました。「君がしなければいけないのはクラスに行き、これらのプログラムに参加すること。そうすればまだ大丈夫。きっとやれる。頑張れば今の姿が最終地点でなくてよいはず」と。 それを聞き、なんておかしいことを言う教授なんだと思いました。こんな惨めな状態から復活できるなんて想像もできません。自分が直面する状況を耐えしのぶなんて道理にかなわないと思いました。 しかし、彼が言ったことはこの事だけでなく、その後起きた多くのことにも当てはまる正しいアドバイスでした。時間はかかりました。もちろん忍耐と努力が要りました。4年の代わりに7年かかりました。けれども大学を卒業することができ、人生が崩壊ではなく、上向きに変わりました。 驚くべきことかもしれませんが、私達の人生にはいつも希望があります。 今日読んだエリヤに関するお話しは、エリヤが苦難につまずく姿が描写されており私の好きな聖書箇所の一つです。理解するのには時間がかかりましたが、聖書の中にある多くの物語の中で、私が本当に興味を持って読んだ最初の物語の一つです。 初めてこの聖書箇所を読んだ時のことを今でも覚えています。確か11歳か12歳の頃でした。そんなにかわいくはない中学生だったあの頃聖書を毎日のように学校に持っていき、座る場所を見つけてはいつも読んでいました。このエリヤの聖書箇所が大のお気に入りでした。何故そこまでお気に入りだったのかというと、そこに深いメッセージがあると感じたからでした。とても力強い聖書箇所と感じたので気に入っていました。 エリヤは山の中のほら穴に一人座り、主を求めていました。するとまずは激しい大雨が彼を襲い、そして地震が起き、そしてそのあとは火が起き、次から次へとこれらの事が起こりました。初めてこの聖書箇所を読んだ時主の偉大な力に感嘆を覚えました。エリヤが忍耐強く大雨、地震、火を堪えている姿を想像しました。 そして読み進めると主は風の中にも、地震の中にも、そして火の中にもいなかったことを知りました。主は静けさの中にいたのです。 12歳の私には驚きでいっぱいのことでした。 主は本当に力強いため、地を揺り動かし、滅ぼすような天災を通して主の存在を証明する必要はなかったのです。主の力は本当に力強く、そのことを声を大にしたり、明らかな方法で証明する必要はなかったのです。この事は私の主に対する理解に大きい影響を与え、私はこの聖書箇所の意味を何週間にも渡って考えました。 明らかなところに主がいないという事があまりにも印象深かったので、数年経っても同じ箇所をもう一度読み返してみるまで最後の箇所の主の言葉を見逃していたことに気付きませんでした。 火のあとに、主はかすかな細い声でこのように言います。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」 そしてエリヤは答えます。エリヤはただ偶然山にいたのではありません。それに聖書に出てくる他の人物、例えばモーセがしたように山に登り、全能なる神とZoomチャットをしていたわけでもありません。 エリヤは失敗を犯したため、山にいたのです。 エリヤは大きい失敗を犯したため、命を狙われたので、自分の命を救うため山に来たのです。彼はイスラエル北王国の女王イゼベルの怒りを買い、彼女は彼の命を追っていました。彼は助けを、逃げ場所を求め山にやってきました。どうしようもない状況です。 これより少し前、エリヤはバアル(異教)の預言者たちと真の神が誰であるかを競ったばかりでした。エリヤの信じる神がアハブ王とイズベルの異教の神バアルと対決したのです。 もちろん私達とエリヤの信じる神がこの競争に勝利し、バアル(異教)の預言者たちは辱められました。エリヤは勝利しました。神様への熱心な思いが勝利に導いたのでしょう! しかしながら神様への熱心な思いに夢中になるあまり、エリヤは民に命じバアル(異教)の預言者を一人も逃さず捕らえるようにというと、捕らえられたもの達を川に連れて行き殺したのです。(1列王記18:40) 神様にそのようにしなさいとは言われてないにもかかわらずです。恐らく殺すべきではなかったでしょう。 クリスチャンとして私達は私達の主がひとりとして滅びることなく永遠の命を持つことを望んでいる主ということを知っています。けれどエリヤはバール(異教)の預言者に勝利したことで独善的になり、主の思いをいちばんに考えなくなったのです。 もちろんイスベル女王は自分の信仰する神の預言者達が皆殺しにされたので怒り狂っています。エリヤは彼女が信仰する神とその預言者達を公の場所で辱めたのです。これ以上ひどい事はありません。 そしてイズベル女王は彼の命を追い、彼を王国から追い出します。エリヤは恐怖に怯えます。主のためにと思った事がこのような結果をもたらすとは。。。一つの間違いが次の間違いを導き、このような事態になってしまいました。そして山に逃げると今度は大風、地震、火などの自然災害が彼を襲います。 このような状況でほら穴で耐え忍ぶエリヤを想像した事がありますか?恐怖に怯え、物事が、自分の人生が悪状況から最悪状況に変わっていく。火がおさまり、不気味な静けさが襲う中、エリヤが「これは主に違いない!」と思ったとは思えません。むしろ「ああ、次はどんな最悪な事が起こるんだ?」と思っていたのではないでしょうか? あなたがエリヤだったらそうは思いませんか?統計的に考えても、この流れでは良い事より、悪い事の方が起こるとは思いませんか?しかしエリヤはそこで素晴らしいことに出会うのです。イエス様が地上に現れる900年も前にイエス様を感じる体験をするのです。 エリヤは第一ヨハネの福音書にある真実を実感します。それは恐怖や、痛み、苦しみは横に置き、静けさや沈黙の中に身を寄せることの大切さを。何故なら恐れの中に神の全きの愛はないからです。 静けさの中で主はエリヤにチャレンジを与えます。主は「こんなに大変な事が起きてかわいそうに。全て良い方向に変えてあげる」とは言いません。 主はエリヤに言います。「ここで何をしているのか?何故逃げ出しのか?」と。 主は問題を瞬間的に解決する事はしませんでした。むしろ危険が迫るその道へ戻るようにとエリヤに言います。エリヤは再び荒野 の道へと戻されます。問題は残ったままですが今度は問題に対処するツールを与えられて戻るのです。 エリヤは間違いを犯しました。そして苦難が彼を襲いました。苦難が彼の間違いにより引き起こされたものであれ、そうでなかれ、答えは苦難から逃げることではありませんでした。むしろ現実に直面し、解決にむけて努力しなければいけなかったのです。主の導きに従いながら。 そして忍耐を行使していく中で、素晴らしい事が起こります。エリヤはエリシャに出会い、イスラエル北王国に良い変化をもたらす働きを始めます。アハブ王は主の前にへり下り(1列王記21:27−29)、そして後にエリヤは主により直接天に上げられる数少ない人物となります。 これらの結果は良いもので、希望にあふれるものですが、決して最初から全てが完璧だったわけではありません。むしろ苦難から道は始まり、自身の間違えから道はさらに険しくなりました。 私達の希望は物事がどんな風に始まろうとも、そしてその状況が自分たちのせいで作られたものであろうと、なかろうと、苦難は道のりの始めであり決して終わりではないということにあります。 何故なら主にはご計画がおありだからです。 今日のもう一つの聖書箇所であるローマ人への手紙の中にこのような事が記されています。「そればかりではなく患難も喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ人への手紙5章3−5) クリスチャンとして私達は単に希望に望みだけに喜びを置いているのではありません。それをするだけなら簡単です。私達は患難にも喜びをおいているのです。何故なら患難を通ることにより私達は主に近づけることを知っているからです。 もちろん主に近づくための道のりは一人一人違います。自分のコントロールを超えた状況の中にある時、忍耐の道を通らなければいけないことがあるでしょう。苦難が自分のコントロールを超え、他人もしくは状況からもたらされることもあるでしょう。そういう時に私がかつてしたようにあきらめるのではなく、苦難を耐え忍ぶことをローマ人への手紙の箇所は教えているのです。忍耐が強い品性を生み出し。それがキリストにある希望へとつながっていくのです。 時として苦難はそれ以上のことも教えてくれます。 私にとってはこのローマ人への箇所はそれ以上のことを教えてくれていると思います。私達が間違いを起こした時、苦難がやってくる時、そして自分だけでなくその苦難が周りの人々を苦しめる時、人間の本能は殻に閉じこもり、痛みや恥ずかしさから逃げることかもしれません。そうすることでこれ以上他の人を傷付けなくても良い。そういう風にエリヤは思っていたかもしれません。大学生のあの時私もそういう風に思っていました。 けれど私達がそのように逃げるとき、主は私たちに聞くでしょう。「ここで何をしているのか?」と。 何故なら苦難に直面する時、踏むべき次のステップは 殻に閉じこもることではないからです。むしろ耐え忍ぶことだからです。苦難から逃げるのではなく、苦難に耐え忍ぶことを私達は求められています。言い訳をするのでもなく、逃げるのでもなく、熱心に仕えようという思いが逆に悪や状況を悪化させてしまったことを認める必要があるのです。 このようなことに直面し耐え忍ぶ時、自分の間違いを認め、そこから学ぶ時、悔い改め、再建に尽くす時、状況は改善します。そして私たちも失敗を見つめることから逃げるのではなく、忍耐が生み出した品性をまとう良い人間へと作り変えられるのです。 そこに望みがあります。キリストは私達が弱かったとき、不敬虔だった時に死んでくださいました。私達が状況下の被害者で罪のないものだったから死んだのではありません。私達がまだ罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださいました。時として苦難は私達の元にただやってくることがあります。または自身がひどい、取り返しのつかない間違いを起こすこともあります。神様の愛はいつも私たちと共にあるのです。 何度も言うように時として自分の間違いであろうが、なかろうがただ苦難が自分たちを襲うことがあります。 けれど私達の人生の中には一見取り返しのつかないと思われる間違いを犯したことが一度や二度はあるのではないでしょうか?個人的には、もしくは自分が属する人種のグループ、もしくは自分が生まれ住む国としての過ち。私達はどこかに属している限り、そこに属するものとして時に大きな、一見取り返しのつかない過ちを犯す生き物です。 そして今アメリカは国として犯した過ちに直面しています。私達の国は何世紀にも渡り抑圧を続けてきました。皮膚の色を理由に、白い色が他の色より良いと考え、抑圧を続けてきた結果、必要のない苦難、痛み、そして死をもたらし続けてきました。 熱心に仕えたいと言うその思いが、何百年にわたる抑圧を生み出し、それを放置、広がらせていたのです。 白人至上主義を自分たちの心の中に許し、抑圧と差別から利益をえることで、苦しむ必要のなかった人たちが世代から世代に渡るまで苦しみ続けたのです。 こんなことが起き続けていながらも、痛みが続く中、アメリカの黒人社会には神様の霊が働かれていました。黒人社会は大いに苦しみながらも、考えられないほどの忍耐を示したのです。黒人社会は、私達がただ座り何もせずにいる間、何世紀にもわたり正義が成されることを目標に忍耐を持ち耐え忍んできたのです。これこそが神が持つ忍耐です。この神的な忍耐はただ一人の人により耐え忍ばれただけでなく、世代から世代へ、父親から息子、母親から娘、日々受け継がれていったのです。素晴らしいことですが、なんて悲劇的なことでもあるのでしょう。 そしてその忍耐を通して、神様が生み出し、育てられた品性を黒人社会は私たちに示してくれました。長い間、暴力的に抑圧されてきた人々が持つ品性、それは復讐ではなく正義を引き続き求める姿でした。父の死を悲しみながらも、父の死が抗議活動の発端を担ったことを知る小さい女の子は、「私のパパは世界を変えた!」と言いました。 こういうことが言える、できるということはただ神的なことではありません。神様とはこういうお方です。 私達の希望はイエスキリストにあります。イエスキリストにありいつか私たちも黒人社会が見せてくれたように恵みに溢れた人間になれるように変えられる と希望を持つことができます。 どのような苦難があろうとも、どのようなことが原因でその苦難が起きていようとも、苦難という荒地から、山で神様と出会い、 忍耐と品性を築くことが示され、それを行う時そこにはいつも希望があります。私達が直面する苦難の戦いは短いかもしれませんし、長いかもしれません。他人により苦難がもたらされたのかもしれませんし、自分が引き金となった苦難かもしれません。けれど苦難はずっと続くものではありません。一時的なものです。そして神様に仕えるために耐え忍ぶ時、私達は私達の想像を超えたところで、キリストにある慈しみと赦しにある希望にあずかることができるのです。 ですから大風が吹き、地面が揺れ、火が起こる時、主はそこにはいないということを覚えていましょう。私達が経験する大惨事や大事故の中に主はいません。風が弱まり、地の揺れがおさまり、火が弱まる時に聞く主の声に耳を傾けましょう。主は山に留まるのではなく、山に逃げこむ原因となった場所へ戻るよう言われます。 私達の希望はキリストにあります。私達の希望は私達が完璧ではないということを主が知っておられること、私達が苦難に直面することを主が知っておられること、そして時に私達が熱心に仕えすぎ、足元を見失ってしまうこと主は全て知っておられます。それでも主は私たちを変わらず愛しておられます。 私達は創造主である神に迎えられ、神の子主イエスにより恵みと赦しをいただき、そして聖霊により決して失望することのない希望にあずかることができます。 それは私たちにとってかけがえのない良い知らせです。 2020年6月7日 祝福されたトリニティの日曜日 クローディア牧師 ヨハネ書16章12-15節
先週はペンテコステでした。素晴らしいお祝いをしました!この日曜日は教会のカレンダーではトリニティ、三位一体の日曜日として知られています。三位一体の日曜日は、父、子、聖霊の名のもとにある教義に焦点を当てた教会年の唯一の日曜日です。私たちは弟子として神に応答し、聖霊の力によりイエスの弟子としてこの世界で生きています。 三位一体 – 父、子、聖霊 - 三つの人格の神。 -これは簡単に説明できません。それは私たちの信仰の謎の一つです。 「三位一体」という言葉は聖書にも出てきません。聖書には、互いに独立している、あるいはそれぞれの中に3つのものがあるように聞こえるため、理解がさらに難しくなっています。 「私を遣わされた方のもとに行く」とヨハネ書16章でイエスは言います。また、こうも言われています。 「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 ヨハネ書14章:9、11節はこう述べています。「わたしを見た者は、父を見たのだ」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」 ヨハネ14章:25-26節「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」 それらがすべてひとつなのであれば、どのようにして異なる時間に行き来することができるのでしょうか? それらのひとつが別のひとつをどのように送ることができるのでしょうか? 何世紀にもわたって信者が試みてきましたが、私たち人間が神を説明することは容易ではありません。 西暦354年から430年に生存した、私たちのいわゆる初期の教会の父の1人である聖アウグスティヌスを例にとってみましょう。彼は初期のキリスト教神学者であり、西洋キリスト教と西洋哲学の発展に影響を与えた哲学者でした。ある日聖アウグスティヌスは、三位一体の教義 - 父、子、聖霊について熟考しながら海岸沿いを歩いていました。聖アウグスティヌスは聖霊から「海岸近くにある大きな貝殻の一つを拾いなさい」と言う声を聞いたようです。それで彼はそれを拾いました。すると、声が「さあ、海を殻に注ぎなさい」と言いました。 彼は言いました、「主よ、私はそれを行うことができません。」そして、声は答えました、「もちろん、できないでしょう。同じようにあなたの小さな有限の心が、永遠に無限の三位一体の神の奥義をどのようにして受け止め、理解することができるでしょうか?」 三位一体 - 父、子、聖霊 - すべて同じですが、すべて、父、子、聖霊を区別します。覚えやすい、しかし理解しにくい。 私たちは賛美歌を歌いました。 「聖なる、聖なる、聖なる」そして最初の節の最後の行は「三人格 の神、祝福された三位一体」でした。 三位一体にはトライアングルが使用されることがあります。 1つの三角形ですが、3つの辺があります。三位一体の象徴です。 聖三位一体の謎を説明しようとするもう1つの有名な象徴は、聖パトリックです。聖パトリックは400年頃にアイルランドへ渡った宣教師であり、伝説によると彼は5世紀頃に異教のアイルランド人に三位一体は三葉のシャムロック(アイルランド周辺で育つクローバー)のようなものだと説明しました。父、子、聖霊を表す3つの葉を持つ1つのシャムロック。 そして、教会のメンバーの1人が子供たちにメッセージを伝えるために使用した三位一体の神の別の例は、三位一体は水、氷、蒸気の3つの状態の水のようなものだというものです。 先週ペンテコステのお祝いで、私たちは聖霊と、弟子たちを満たして外に出て説教に導いた聖霊の力について話しました。 三位一体の日曜日に、私は聖霊がこの世界での私たちの導きの源であることを述べたいと思います。 ヨハネの福音書からのレッスンでは、イエスは弟子たちに教えています。 イエスは彼らに言います。 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」 イエスは弟子たちが敵対的な世界に出かけることを知っていました。 彼らは力と指導の両方を必要とするでしょう。 イエスご自身はもはや肉体では彼らと共におられませんでした。 しかしイエスは聖霊の力を通して彼らと共におられたでしょう。 今日私たちは敵対的な世界に生きています。私はCNNのニュースを見て、略奪から1ブロック離れたカリフォルニア州ロングビーチにいるチャック牧師と話しました。チャック牧師とケリー牧師は彼らのアパートから銃声を聞いていました。彼らはお気に入りの1ドル店が燃えたと言いました。彼らはアパートの窓のバルコニーから路上での略奪を目にしました。彼らは1ブロックしか離れていないところから銃声を聞き、ヘリコプターが頭上を飛んでいるのを見ました。私たちは人種差別、暴力、憎しみのある世界に住んでいます。しかし、私たちは愛、思いやり、優しさのある世界にも住んでいます。聖霊は私たちに力を与えます。聖霊は私たちに導きを与えます。私たちの生活の中には、頼りになるガイドが必要なときがあります。今はこれまで以上にそのようなときです。 私たちが父、子、聖霊について話すとき、私たちは本質的に、創造主である神を信じ、キリストを信じ、人間の肉体を介したこの世での神の独特の存在を信じており、そして世界と私たちの個人的な生活の中で今日働いておられるキリストの霊を信じています。 KUC(ミスラン一家とエリック)の何人かがおにぎりをホームレスの人たちに持って行ったときに、最後に見つけたホームレスの人が宮谷さん(メグのお母さん)が定期的に夕食を作ってあげているホーム男性であることがわかりました。 それは偶然なのか、それとも神が発生されたのでしょうか。 長い間会ったことのない人に出くわしたり、先週のアダルトサンデースクールで聞いたように、お金を寄付した後に食料品の贈り物を受け取ったりするなど、私たちの生活の中で説明できないことも時々起こります。 偶然ですか、それとも神が起こされるものですか? 聖霊に語らせてください。 聖霊の導きに身を委ねる人々に、神の小さな出来事がいくつも起こることは興味深いです。 これらは私たちの生活に飛び入る神の出来事です。この大流行の間、聖霊の合図により一時停止して何かをしたり、しばらく話したことのない人に連絡したりしましょう。 発生する可能性のあるすべての神々の出来事に心を開いてください。 私は聖霊を信じています。 御霊が私の注意を引いて、何かが起こるときがあります。 直感ではありません。 私はこれらのそっとしたサインを無視したり読み違えたりすることがあります。しかし私たちが霊的生活に注意を向けることができれば、これらの「そっとやさしいサイン」がますます頻繁になり、聖霊が私たちを導かれる時と場所を知ることができます。 人と出会う、必要なリソースを手に入れる人、神につながる人々 - これらは私たちの生活の中で聖霊が働き、動いている方法の一部です。イエスは弟子たちに彼らは一人ではないと語られました。 イエスは彼らと共にいるために始めに聖霊を送られました。 御霊の火が彼らの心を燃やし、彼らを世に出て行くように導きました。三位一体のこの質問は、年のただ一つの日曜日だけで対応することはできません。 代わりにそれは神の命への旅です。慈悲深く思いやりのある共同体に住むよう私たちに求めている三位一体の神に応える進行中のプロセスです。 私たちはそれをすべて理解するのに苦労するかもしれませんが、それが私たちが教会への信仰について洗礼を受けた理由です。私たちは信仰を飛躍させます。神は私たちの前に横におられます。聖霊が私たちを導かれます。KUCで多くのバプテスマを行いました。牧師として私はこれらの言葉「父、子、聖霊の名によってあなたにバプテスマを授けます」を口にする特権と祝福があります。それが私たちの信仰の核心です。 ですので三位一体の日曜日は、私たちが信仰の中で集まり再形成され、父、そして御子と聖霊にあって変えられるチャンスです。 最後にストーリーを共有します。息子のコーは子供のころに凧を持っていました。西東京の野川公園に行って走りました。飛ぶことを期待して飛ぶように走りましたが、風がなければ飛ばなかったのです。地面に落ちました。それは私たちのようです。そこに立っているだけでは何も起こりません。 動くには風と聖霊が必要です。また私たちの教会は動くために聖霊を必要としています。 ヘブライ語の「風」または「呼吸」を表す言葉「ルアク」は、霊を表す言葉と同じです。 クリスチャンと教会の生活において、御霊の風がなければ重要なことは何も起こりません。風が必要です! ルアクが必要です! 神の息吹。 私たちを新しい方向に吹かせる神の命を与える風! 私たちは、神が喜んで与えてくださる霊の強大な風に可能な限り広くオープンでいましょう。 人生の中で動いている神の聖霊に心を開いてください。 アーメン。 |
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May 2024
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