「見えない戦い」
神戸ユニオン教会– 2020年8月30日 エフェソの信徒への手紙 6章 12節、 コリントの信徒への手紙第二 10章 3-5節 ペトロの手紙第一 5章 8-9節 説教者: Pastor Chuck Grafft エフェソの信徒への手紙 6章 12節 「わたしたちの戦いは、血肉を相手(物に対する戦い)にするものではなく、支配と権威、(現存する)暗闇の世界の支配者、天(超自然)にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」 コリントの信徒への手紙 第二 10章 3-5節 「わたしたちは肉(死にゆく身として)において歩んでいますが、肉に従って(霊的に)戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の(真の)知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」 ペトロの手紙 第一 5章 8-9節 「身を慎んで目を覚ましていなさい(調和と自制心を持って)。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける(飢餓にくるった)獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい(悪魔の攻撃に対して、しっかりと立ち、不動で)。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです(あなた一人ではないのです)。」 ロングビーチからおはようございます。まだ暑いですが神戸ほどではありません。 今日の説教は私とケリー(妻)にとって核となるテーマです。この題材でかなり長いセミナーを開催する事もできます。皆さん、ご興味があればお知らせください、楽しいセミナーになるでしょう。しかし、今日はごく短く実践的な話にしますが、もう少しさらに聴講したいのであれば、お知らせください。 「私達の見えない戦い」が、本日の説教の題です。私達が生きていく上の霊的な部分で、それが私達にどのように影響するかということです。重要な点は、私達が更に及ぼす影響がいかなるものかということです。まず、霊的な領域が私達の命の中にある事を認める必要があります。私達は肉体的な事に目を向け易いですし、多くの者は感情の領域がある事も分かるでしょう。私達の文化圏、米国では霊的な領域のもつ影響力、関連性、重要性を見落としがちです。それは見たり、感じたり、認識する事は難しいからです。 前にもお話ししましたように、霊的な世界は、ラジオやテレビ番組のように考えてもいいでしょう。この空中に飛び交っているのです、ラジオのスイッチをひねり、周波数を合わせるとどこからか音楽やトークショウが聞こえます。それらはここにあったわけなんですが、私達には見えなかったのです。私達が周波数を合わせるまで、ここに実在していたのに気がつかないのです。別の例では、映画のマトリックス、それは仮想現実で、私達はある世界に生きているように思われるが、それには他の異次元がありそれが分からないのです。霊的な世界、それが意味するもの、そして私達にとっての意味とは何でしょう。 聖書から3つのチームがあることが分かります。 神と天使 サタンと悪魔 そして私達 エペソ人への手紙 6:11-12: 「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具(主の掟は立派な天の兵士がきた武具のようだ)を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手(物に対する戦い)にするものではなく、支配と権威、(現存する)暗闇の世界の支配者、天(超自然)にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」 今日の私のゴールは、見えない次元がある世界に、私達は生きていることを思い起こすことです。それは現実で、私達に影響を及ぼす多くのことは隠れた部分/要素で、それが霊的なことです。ケリーと私はこれに関する多くの出来事を経験し、それらは簡単にはお話し出来ません。私達が見たり、直面した真に霊的な経験を話すと、多くの方は居心地が悪くなります。一方、エペソ人への箇所で読んだようなもがきや戦いがあるのならば、この話を回避するのもよくないでしょう。ですから、霊的な世界があり、それを認識または受け入れるならば、その闘いが霊的に影響力を持ち、効力を持ち、霊的に強められるには、どのように、また何が実践できるかなのです。 エペソ人6章は、よく知られた神様の武具についてで、それを学ぶ必要があるでしょう。パウロはエペソの教会と信者宛に手紙を書いて、彼は6つの武器或いは要素を並べ立てて、それらを神のすべての武具としています。7つ目に祈りを追加して、エペソ6:13-18を読む事もできます。今日の10:30サンディースクールでこの話をします。 皆さんにこの聖句を簡潔に15分で話すなら、より「堅く立つ」そして引きずり下ろされないようにするために3つの主要な点をまとめました。3つの言葉は覚えやすいようにUN(不/否)で始まります。第一に、知られざる約束と聖句- つまり、聖書を知る必要があるという事です。主イエスが荒野でサタンに誘惑された時に使った刀であり武器です。覚えていますか。サタンが3つの挑戦或いは誘惑を主に仕掛けました。3つとも聖書を曲解した狡猾な手法です。ところが、主イエスは聖書で適切に対応したのです。2つ目でマタイ4章は言います。 「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。」 良い回答ですね。古き良き学校、単純で、知恵はないかもしれないが、これもまた一筋縄ではいかない回答です。私達は神の御言葉及び真実に敬意を払う必要があり、賢すぎて要点を見失ってはなりません。今日のコリント第II,10:5から何を読みましたか。「わたしたちは理屈を打ち破り、神の(真の)知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」 先週、私は霊的な権威について話しました。神が言われるあなたが何者かを知ったなら、キリストにおいて私達に与えられたものを見たならば、それは全てを一変させるのです。だから、あなたは見なくてはなりません、知らなくてはなりません。知らないことを知るのです。初めて ATM を使う時、どのようにして使うかや暗証番号を知る必要があります。間違った暗証番号を入力すると、お金が出て来ませんが、銀行にはあなたのお金はあるのです。ただ、あなたは正しい情報を持っていなかったと言うことです。 私とケリーが多くの人々と一緒に祈ったり、彼らのために祈ったりしていますが、聖書が彼らの状況や立場について何と言っているかが、まるで分かっていません。全く持って現実なのです。皆さんに少なくとも1つの聖句を覚えて、それに堅く立ち、それを主張することを勧めています。 私達の次女が幼い頃、何にでも怖がるのです。彼女に与えた聖句は、テモテ第II,1:7 「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。(平静と調和した心と自制をもたらす能力です)」米国の学校へ行く、最初の1週目の毎朝、彼女は吐きだすのです。私達はこの聖句を何度も読んで、やがて彼女は克服していきました。 きっと、彼女はシャイだったのでしょう、でも霊的な要素もあり、私達はそれに戦ったのです。2番目のUN(不/否)に関することです。始めに、聖書の中にある知られざる約束を見つけ出さないとなりません、次なる挑戦は、不信仰です。 多くの方は聖書を読んで、聖句を引用したりしますが、自分の中で実行力を持つことを信じる事が大切です。リンゼイ(次女)は聖句を抱え込み、信じたのです、それで彼女は聖句を自分のものにしたのです。彼女は聖句を受け取り、それが彼女を変えたのです。神がその聖句を彼女に与え、彼女はそれを受け取る-神様の部分と、私達が、彼女がする部分があります。 不信仰は聖書において実は罪なのです。今日の教会や世界ではそのようには見ず、悪い事をする行動に焦点を置きがちです。モーセが神の民を荒野から連れ出した時の最大の罪は不信仰でした、ヘブル3:8にもそのことが書かれています。彼らは神を信頼しませんでした、私達もおおむねそのようです、それも分からないようにね。不信仰に打ち勝つには、それを認識することです。箴言3:5の実践を決意することです。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず。」 3番目のポイントは、赦さないことです。私達はこの霊的な戦いを、祈りの中に見てきました。癒しの祈り、打ち勝つための祈りの中に、ある種の赦しがたいことがある事に気がつきます。以前お話ししましたが、神戸で家庭集会を持つ牧師のお手伝いをしていて、私達がみた奇跡について聞いて来たご婦人が来られて、彼女の痛んでいる肩について祈るように頼まれました。私達が誰かのために祈る前に、大抵神様にガイダンスを祈ります。このケースについて、彼女は赦しがたいことがあるようでした。その事について彼女に尋ねると、彼女は何年も前に義理の母が彼女を突き落として、それが原因で流産したのです。つまり小さな命を殺したのです。義母は亡くなりましたが、彼女の恨みは消えません。そう、重大で、恐ろしい事です、しかし聖書は何箇において、どんなことでも赦しなさいと言っています。マルコ11:25「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば(問題を捨てて、解き放ちなさい)、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ち(主に対してと隣人に対する)を赦してくださる。」 これを持って、私達は彼女に説明し、遂に彼女は同意して赦しを叫びました。そう、ドラマチックですね、かなり驚きました。彼女は狂ったような声をあげ、この詳細は気分を害するかもしれませんが、皆さんに伝えます。私が言える事は、これが正に霊的な戦いだったように見えました。ついに彼女は鎮まり、言うまでもなく私達は呆気にとられ、彼女の肩は完全に癒されました。痛みがなくなったのです。 主イエスにも何度も起こったように、癒しは霊の問題と関わり、それを聖書の中の悪魔と呼びます。 この問題の幅の広さや深さは難しい課題です、私達は頻繁に出くわさないまでも、霊的な領域に私達は生きて、その中を通って行くこと事はご理解頂けたと思います。 また、多くの者、私も含めて落ち着きがない。エペソ6章にある霊的力と或いは、それに反しての戦いやあがきは、私達にとって無視できない重要な事で、私達自身を助けるだけでなく、周りの人々のためにそれを想起することが不可欠です。これが私達のミッションです。私達クリスチャンは光を持って、神の臨在を灯し、それが溢れ出て祝福を受け、隣人にも祝福を分け与えるのです。 もし、皆さんがこの内容に興味がおありなら、私にお知らせください。私達や隣人が霊的な権威と霊的な戦いを勝ち取るために。 祈りましょう。 神様、どうか霊的世界が見えるように助けてください。 私達や隣人に霊的な障害を与えている時を識別させてください。 私達のもつ権威を見せ、知らせ、信じさせ、使わせてください。 聖書の持つ力と主イエスの御名の力をわからせてください。 私達に力と権威を与えてくださり感謝いたします。 私達と共におられ、私達のためにおられ、私達の内におられることに感謝します。 主イエスキリストの御名を通してお祈りいたします。 アーメン
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おはようございます。いかがお過ごしですか、今日も。
いつも私は同じこの問いかけから説教を始めます。そしてもう一つ同じ質問を繰り返します。今日は何の日でしょうか、という。昨年7月7日もそうでした、今日は何の日? そう七夕ですね。古代中国起源の日本の習慣で、年に一度だけ若いカップルがお天気がよければ出会うことができる、というものです。では今日は何の日、と言っても本当のところ、今回は昨日は何の日だったでしょう、というtこをお訪ねします。いろいろあるでしょうけれど、私は「終戦記念日」だということをお話します。終戦というのは戦争が終わること。この場合は第二次大戦、あるいは太平洋戦争の終わりですね。記念日は、まさにその日を覚えること、ということで終戦記念日とは、太平洋戦争がおわったことを記念しましょうという日なのですね。1941年12月7日(日本時間では6日)、アメリカハワイ州ホノルルの真珠湾への攻撃によって戦争がはじまりました(画面にお見せしているのはその当日の新聞です、と言ってもこれはオリジナルではなく、私がホノルルでお土産として買った復刻版です)。それから4年後、1945年8月15日、ヒロヒト天皇が放送を通じて、無条件の全面降伏を宣言して、戦闘が終わりました(これも1945年8月15日の新聞ですが、やはり復刻版)。韓国ではこの日は「光復説」と言われて、日本の軍事政府の支配からの解放が祝われますし、インドネシアでは独立記念日、つまりどちらの国もこの日、日本からの独立を獲得したということを覚える日となっています。そして日本では終戦記念日ですが、その言い方でさて、戦争が終わったことはわかりますが日本か勝利したのでしょうか負けたのでしょうか、それはこの言い方でははっきりしません。むしろ「無条件降伏記念日」とか「敗戦記念日」というべきではないかと思うのです。 なぜ私が8月15日の呼び方にこだわるのかというと、私たちには事柄の本質を曖昧にして、この歴史的な日の本当の意味をしっかりと伝えないという傾向というか性格があるように思えるからです。つまり意図的に誤解ささあえるのですね。日本は世界向かって戦いを挑み、敗れました。戦争があり、多くの国の数えきれない数の人々が犠牲となりました。広島や長崎、それにアジアの各地も破壊されました。町は荒廃し、人々は殺されていったのです。日本人だけではなく、多くの国の人たちがこの日を、歴史的に正しい呼び方で記念すべきなのですね。 みなさんもご存知のように、8月のKUCの礼拝説教は共通のテーマというか話題について語られますね。それは「平和」です。すでにクローディア先生やヒロコさんも語られましたし、今日の新約聖書は先週とまったく同じ個所になっています。その「平和」(シャローム)ということも、同じように、つまり本当の意味をかくしたり曖昧にして語られ、私たちの関心をちがったところに移してしまいがちなのです。特に日本語で語られるときには。 私たちは繰り返し、ヘブル語で平和を意味するシャロームということばについても聴きました。この平和/シャロームという言葉も時によって、人によってその意味はいろいろと変わります。例えば日本政府は自衛隊を国連軍と協力して「平和維持軍」として中近東に派遣しています。平和を守り、作り出すためには軍事力が必要ということですね。日本政府にとっても国連にとって、軍事力の裏付けなくして平和はない、ということですが、それは「平和」なのでしょうか? ただ口先だけで「平和」という言葉を語るだけでは意味はないのです。預言者エレミヤはこのことにについて語ります。エルサレム神殿の前に立ち、今朝の聖書朗読で読まれたように、「平和がないのに、『平和、平和』と言う。」その当時、ユダ王国はある程度の繁栄を見sていました、そして王から庶民まで平和を味わっていたのでしょう。ところがエレミヤの眼には、バビロニアの軍隊がエルサレムに迫ってくるのが見えたのです。しかし彼は政治評論家ではなく、敵について語るのではなかったのです。むしろ彼の考えによると、その軍隊は神がユダの人々の不忠実さを罰するための、神の手段としてやってくるという理由があったからです。 「見よ、主の言葉が彼らに臨んでも/それを侮り、受け入れようとしない。主の怒りでわたしは満たされ/それに耐えることに疲れ果てた。」(エレミヤ書6章10-11節) そのとき、まだバビロニア軍の姿は人々の視界にはなく、彼らがやってくることなど思いもしませんでした。しかし人々の行動、神に対する姿勢などが、徐々に危機を、恐ろしい敵の侵入とユダ王国の崩壊を招きつつあったのです。 「身分の低い者から高い者に至るまで/皆、利をむさぼり 預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療し」 (エレミヤ書6章13-14節) エレミヤにとって、平和とは主なる神との関わりの仕方をつうじて保たれるもので、もし主の言葉を聞かず、それによって生きることを失うなら、まったく気づかないうちに、彼ら自らが平和を捨て去るのです。 そのように、聖書的な平和/シャロームの意味は私たちの神様との関係に依存していますし、イエス自身も明確にこのことを、非常にショッキングな表現ではっきりと示しています。 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(マタイによる福音書10章34節) 平和ではなく剣を! これは私たちが不通に思っていることとは正反対のことです。でも彼は決して神様との関係を失って平和のために来られたのではないのです。 私たちの生活の中で平和を求め、それを実現させることは自然なことでしょう。でももしあなたが平和だと感じるとき、あなたの隣人も同じように平和を感じているでしょうか。あたの平和を共に喜んで分かち合っているでしょうか。「こころの平和(平安)」というのは、決して「私」だけのこころではなく「私たち」の心となっているでしょうか。私たちは、「私たちに毎日のパンを与えたまえ(われらに日用の糧を)を祈るのであって、「私だけに毎日のパン;を祈るのではないのです。 時に、自分自身にとっての平和がほかの人の平和を無視することになります。ある国が勝利することは、ほかの民族が敗北することです。日本軍の真珠湾攻撃の成功は、現地のアメリカ人の戦死、被害を意味します。連合軍が太平洋戦争に勝利したことには、広島、長崎のたくさんの人々の死と被ばくが伴っているのでしょうか。このような悲劇の結果生み出された状態を、私たちは平和と呼べるのでしょうか。決してそうではなく、それは平和ではな剣であって、イエスは決してそのような形の平和を私たちにもたらしたのではありません。でも私たちはなお、しぶとくそのような結果を平和だと呼び続けているのです。 先週広子さんから聞いたように聖パウロは、「キリストはわたしたちの平和」であると訴えます。そして「キ「リストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙 2章15-16節)。敵意を滅ぼす! どうやってそんなことが可能なのでしょう? どうやって私たちは、最後の決定的な瞬間に、双方の主張を妥協させ、調整すればいいのでしょうか。そんなとき、私たちはそれぞれの主張点を比較し、どちらが優れていて納得できるかを考えます。しかし、もしパウロに従うならば、その双方の和解を求めるのではなく、私たちは神様との和解のみを求めるべきなのです。私たちは神様の前にヘリ下る必要があります。イエス・キリストも「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙2章8節)。 平和は一方が他方に対して服従することによっては生まれませんし、勝者と敗者をはっきりさせることでもありません。もし私たちが何かを勝ち取るべきならば、神様の恵みを勝ち取るべきでしょう。そして私たちは、双方ともに、神様に服従すべきなのです。それがキリストにある平和なのです。キリストは、ご自身を父なる神に服従するという形で、十字架の上で神の平和の現実を示されました。これがキリスト教でいう平和なのです。 今日のお話の最後に、聖フランシスの祈りを祈りたいと思います。歴史的にいうと、この文章をフランシス自身が書いたかどうかははっきりしません。しかし彼に従った人々は、その祈りの内容が彼の生涯、物資的な形ある豊かさを放棄し、私たちの生活の中での貧しさ、心、体、思いのまずしさを求め続けた生き方にふさわしいとして、これが彼の言葉だと考えました。実際、彼は当時の教会の権威者たちからは無視されました。彼がヴァチカンの持つ富と権威を強く批判したからです。イエスの足跡をたどった聖フランシスは、貧しく、助けを求める人々に仕えるということで神に使えました。彼はキリスト中心、神中心のの人だったのです。もし彼から何かを学ぶとすれば、この祈りを口にすることから始めましょう。どうぞご一緒に聖フランシスの祈りを唱え、今日の礼拝の締めくくりの祈りとしましょう。 主よ、わたしを平和の器とならせてください。 憎しみがあるところに愛を、 争いがあるところに赦しを、 分裂があるところに一致を、 疑いのあるところに信仰を、 誤りがあるところに真理を、 絶望があるところに希望を、 闇あるところに光を、 悲しみあるところに喜びを。 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。 理解されるよりも理解する者に、 愛されるよりも愛する者に。 それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、 許すことによって赦され、 自分のからだをささげて死ぬことによって とこしえの命を得ることができるからです。 聖書朗読箇所
マタイの福音書10章7~8節 行って、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 ルカの福音書 10章19節 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 今日の説教は、とてもシンプルなテーマであり、常に私の心の中にあるもの、そしてよく色々な形で皆さんに共有させて頂いているものです。 もしあなたが、自分自身が何者で(クリスチャンとして)、そして何を持っているのかを知っていれば、全てが変わります。本当にあなた自身が知っていたらという意味です。そうであれば、本当の心の平安を手に入れる事ができると言えると思います(これは、私自身の見解で、今月のテーマの「平安」に繋げています)。 私は、大学時代に6カ月間イスラエルのキブツ(集産主義的共同組合)に住んだ事があります。とても素晴らしい体験をさせて頂き、沢山の想い出があります。そこの多様性に感動しました。とにかく全ての人、本当に全ての人が様々なところから集まっていました。世界中の至るところから集まった移民たちがユダヤ教のもと、イスラエル人として共に生活をしています。 ですから、人々はそれぞれ自分たちのルーツを大切にしながらも、イスラエル人として生きているのです。1つだけ全ての人に課せられていた事は、男性は、3年間軍隊に従事すること、そして女性は2年間の従事と、毎年数週間の訓練を受け、必要時には軍隊として従事できる準備をしておく事でした。そうすれば、イスラエル人として全ての権利と責任を持つ事が出来るのです。 クリスチャンでいる事も似たようなものです。アメリカ人のクリスチャンだろうと、日本のクリスチャン(日系アメリカ人またはアフリカ系アメリカ人)だろうと、それぞれの人が違ったルーツを持っていますが、新しい国(キリスト教)の一員としての権利と責任を持っているのです。 また人によっては、ある国の出身だけれども、その国には現在住んでいないという場合もあるでしょう。イスラエル人になったけれど、現在は日本に住んでいるとか。伝えようとしている事が分かって頂けると有難いですが、私たちは、神の国である天国の国民であるけれども、今はこの世に生きている。 ですから、私たちは権利と責任を持っているけれども、現在住んでいるのは、価値や制度が違う国に住んでいる。だから2つの違った価値や制度の中で生きている。 本当はどこの国民であり、何の使命を持っているのかという事を常に自分自身に思い出させないといけません。外国に住んでいるだけでなく、神のご臨在(神の国)を作るために存在している。聖霊の力をかり、大使や領事として自分の国を背負っているのです。 「その国に染まった」と言うのは簡単ですが、本当の自分は何者かというのを忘れてはいけません! 大きな任務という言葉をご存じの方も多く、信仰の中心にあると思います。 マタイの福音書28章18~20節 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、一切の権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊のみなによってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも(永久に、どんな状況であっても、どんな事が起ころうとも)、あなたがたとともにいます。」 私たちは外国人として、ここに存在しますが、私たちは、私たちの神を代表して、ここに存在しているのです。私たちは任命を受け、全て必要なものは与えられているのです。これが鍵です。 ルカの福音書9章1~2節 イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。 先ほどルカの福音書10章19節を読みましたが、イエスは信者に「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」とあります。良い知らせです。 神は私たちに仕事と任務をお与えになったのです。自分たちの仕事を理解するには大きな任務と言った方が、分かりやすいかもしれません。そして大切なことは、それらを遂行するために、私たちもまた力と権威を与えられている!という事です。これが大切です。 ヨハネの福音書20章21節(詳訳聖書)にあるように、 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします(私の代理人として)。」 警察官と比べる事もできるでしょう。警官はオフの日は普通の人ですが、働いている最中は、車を止めたり、交通整理をしたり、人々を注意したりする権限が与えられます。でも、普通の人としてはそういった事は出来ません。しかし、警察または政府の代表として権限が与えられます。 警官は訓練を受け、バッジを与えられて人々が法に従うように注意できる権限を持ちます。しかし警官が法をつくったわけではありません。そして権限が無いと取り締まる事もできません。警官はその権限を与えられていて、他の人達のために取り締まりを行うのです。 私には電力会社で働く2人の義理の息子がいます。このロングビーチにあるSouthern California Edisonという会社で働いています。別の例を使って考えてみましょう。 神が電力(力)を与えてくださり、私たちに使用する権限を与えてくださっている。もし私が寝室の電気をつけたいと考えたなら、私の権限で付ける事ができる。暑ければ扇風機をコンセントに差し込んだら使える。電気が必要であれば、スイッチをオンにすれば、電気が付く。 考えてみてください。わたしが、電力会社に電話をして「電気が来ていません。誰かこちらに送って頂けませんか?」と言ったとします。すると電力会社は、「私たちとお取引がありますか?」と聞きます。クリスチャンも同じです。客になるための書類にサインをして、口座開設が出来てから電力を使用することが可能になります。そして電気を家中で使う事ができるのです。でも使用するには、家電をコンセントに差し込み、スイッチをオンにする必要があるのです。意味が分かりますでしょうか? 「それはあなたの問題で、私の問題ではない」という神の言葉を多くの人は間違ってとらえているのと似ています。 多くの人々は神が私たちを使って何かをなさる時は、神が私たちのために何かをしてくれる事を祈ります。 イエスは病気の人のために祈りなさいとは一度も言っていません。考えてみてください。私たちの考え方を変えましょう。あなたは病気の人のために祈りますか?イエスは私たちに何をすべきと言っていますか?何が違いますか? 多数の箇所でイエスは「病気を癒しに行きなさい」と言っています。考えてください。「病気の友人トシを救ってください」と、「トシ、神の御名によってこの膝が良くなりますように」病気の人のために祈る時、どう違いますか? ある友人は「癌について神と話さない方が良い、神について癌と話しなさい」と言います。言い換えれば、神が「自分と他の人達のために電気をつけなさい」と言っている時に、私たちは電気をつけてもらう事を祈りながら待つのですか? 二―ルさんと彼の膝の話を覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。30年間この膝と付き合い、四六時中の痛みと3回の膝の手術を受けていらっしゃる方でした。私たちは、「神の御名によって膝が治りますように」と祈りました。それを2回程簡単に行いました。先日彼と話をしたのですが、膝が治ったというのです。驚きました。彼は泣いて喜んで、3年経ったいまでも神が彼の膝を治してくれたと喜んでいます。彼の人生は変わったのです。祈るのにかかった時間は1分足らずでした。 私たち全ての人がこのような事をするべきです。これが私たちの任務です!私たちの使命であり、私たちに課せられた課題です。光と愛と慈悲とイエスを自分たちの中にもって、この地で生きようではありませんか。私たちは光として生きるべきであり、私たちがスイッチを持っているのです。神は電力(力)を与えてくださっている。私たちはスイッチを持っている。 何人が許可を求めていますか?自分の任務なのに自分の神に何かしてもらうためにいつも懇願していませんか? 以前、私が困難に陥っていた時の話をしたことがありました。全て手を尽くしたけれども、自分自身でスイッチをオンにするような祈り方が出来ていなかった。そして何度も祈り、神の力がやってきて、解決に至りました。 私は面白いけれども心が温まる、簡単な感謝の祈りを捧げました 「あなたがいなければ、乗り越えることはできなかったです」と神に伝えました。本当に友達に話しかけるような感じで伝えました。 すると、即座に神の強い返答を心の中で感じました。とても明確に。神は「私も、あなたがいなければ出来なかったよ」と言ってくれたと感じました。 私は泣きそうになりました。心から感じる事ができ、私の心を温かくしてくれ、神の力に通じるようにゆだねれば、その距離の近さを感じれる。神は私たちを通して、私たちの中で働いてくださっている。でもそれを起こすにはお互いの協力が必要なのだと。 神は力を与えてくださり、私たちがそのスイッチを操作すると皆様が理解してくだった上での3つの実用的なポイントを説明します。 最初に、あなたが何を知っていて、何を考えているかが大切です。現在私たちが住んでいる近隣では様々な事が起こっていて、助けが必要なホームレスの人たちと関わっていると、沢山の人々が高すぎるからお医者さんに行けないと思い込んでいて、無料のヘルスケアがある事を知らなない人が多いです。 私たちは彼らが適格な医療を受けれるように、一緒に登録をしに行ったり、時には一緒にお医者さんまで出向いたり、彼ら自身ができないと思っていた事を手伝う事があります。彼らが出来ないと信じてしまっているところから歪がうまれ、それによって影響を受けてしまっている。それは知らなかったり、理解していなかったから起こっているのです。 ですから、最初に、私たちは聖書を読み、勉強する必要があります。ここが全ての始まりであり、何を考え、私たちの権限は何かを理解するところです。 次に、人に聞いたり、グーグルで検索する前に、聖霊に聞いてください。ぜひ試してみてください。ヨハネの福音書14章26節(詳訳聖書) しかし、助け主(慰める人、擁護者、仲裁者、カウンセラー、力を与えてくれる人、常に側にいてくれる人)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起させてくださいます。 この本の解説に反するわけではありませんが、まず著者に聞いてみてください。だってそれが私たちには出来るのですから! 3つ目、最後に祈ってください。祈りはスイッチに一番近いものだと思います。私の友人のニールさんは、神の力と私とケリーの祈りによって膝を癒す事ができました。私たちはそのスイッチを付けれますが、人を癒す事はできません。私たちは出来ませんが、神の代理人としては出来ます。イエスの御名によって様々な事が出来るのです。 では祈りましょう。私たちのために祈ります。目を閉じて、共感できる部分では頷いてくださるか、「アーメン」と言ってください。アーメンは「そうなりますように!」という意味です。 天にいらっしゃるお父様、私たちの任務に要なものを与えてくださり、ありがとうございます。そして私たちもまた、入れ替わった心で遂行します。 平安と愛、喜びをもたらす人となれますように。 暗闇の光となれますように。 力と権威を私たちに与えてくださりありがとうございます。どのようにスイッチを操作すべきかを教えてください。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。 もし、家庭や自分自身の心に神の力が繋がっていないと感じる人がいるのであれば、ぜひ私に連絡をください。神との口座を開くために助ける事はできます。 確か、昨年、田淵先生がこの時期に平和についてお説教をされましたが、今回、お説教を頼まれるまで、平和聖日があることを私は知りませんでした。その始まりは、日本基督教教団で、彼らは1962年に毎年8月の第1聖日を平和聖日と定め、平和を祈る日としたからだそうです。日本基督教団は、教会が第二次世界大戦に同調し、支持した罪を反省しました。心の深い痛みをもってこの罪を懺悔し、主に赦しを乞うとともに、世界、アジアの諸国,そこにある教会と兄弟姉妹達、またわが国の同胞に心からの赦しを乞うことを忘れてはならないとために、この日が設定されました。
この戦争の結末はご存知の様に、1945年8月6日に広島にウラン原爆が落とされ、3日後の今日、8月9日に長崎にプルトニウム原爆が落とされ終結しました。広島あるいは長崎に行かれた方はいますか? 原爆の悲惨さは、今の我々には想像を超えるため、私たちは距離を置きあまり話したくない事柄の一つかもしれません。でも少し、原爆の威力がどのようか話します。原爆の爆発の瞬間、落下中心地付近では約4000度から6000度の高温となります。太陽の表面温度が約 6000度、鉄が溶ける温度が約1500度であることを考えると、異常なほど高温の熱線が放出されました。爆心地付近にいた人々は、あまりの高熱に一瞬のうちに蒸発するか、身体が炭になります。そして、もう一つの特徴は、爆発時に大量の放射線を浴びることで、その後長期に渡る人体への影響が後遺症として残るのです。死者数は増えています。広島と長崎の2発の原爆による死亡者数は、現時点で、合計50万人以上となり、全世界のコロナ感染死者数とほぼ同じくらいです。 私たち人間の生命のみならず、人間の尊厳を破壊する究極の暴力が、核兵器です。しかし一方、現在世界9カ国で約1万4525基の核兵器が所有されていると言われています。なぜこれほどまでの核兵器が未だに世界に抑止力として国際的に地位を得ているか考えたことはありますか? どうしてでしょう。主の助けと導きを祈り求めつつ、今日、平和聖日において平和について考えていきたいと思います。 旧約聖書の平和:旧約聖書は戦争ばかりで、神の愛や平和の概念があまり感じられないと、よく耳にします。平和を考えると、多くの方は2つのことを思い浮かべると思います。戦争のない状態を思うかもしれません、或いは内なる静寂に目を向ける心の平安かもしれません。もちろんこれらも平和の基本的概念ですが、聖書的平和の概念はそれより更に広く、深いものです。旧約聖書では、何を持って平和としたのでしょう?旧約聖書で「平和」を意味するシャロームは、単に戦争のない状態ではなく、神との正しい 関係にある真に望ましい状態を意味する言葉です。シャロームは人生の健康、繁栄、調和、全体、全ての局面に関係します。聖書的平和の概念は、内なる静寂や戦争がない状態よりも深い意味を持ち、生活面での経済、民族、感情、霊的、無事、平安、健康、繁栄、安心な関係性が完全無傷状態のことです。 預言者イザヤは、平和を熱望した預言者でした。イザヤの時代は、戦争が絶えず、彼の「平和(シャローム)」は、神との正しい関係が根本であることを言いました。イザヤ書 48 章 18 節「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる。」は、神の言葉に従うことによって、大河のような平和がもたらされるということでした。 そこで彼は常に、神により頼むということを主張したのです。その平和を 実現してくれる『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』の誕生を預言しました(イザヤ9:6)。預言者たちの待望したメシアは、神との正しい関係をもち、「公正」と「正義」をもって、 平和シャロームを実現する指導者でした。 シャロームの理解を深めるために、聖書のシャロームの描写を見てみましょう。 イザヤ11: 6-9 狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように大地は主を知る知識で満たされる。 ホ セア 2 : 18-20 「 その日には、わたしは彼らのために、野の獣、 空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。弓も剣も戦いもこの地から絶ち、彼らを安らかに憩わせ る。わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平 を与え、慈しみ憐れむ。真実を持って、あなたとの契を結ぶ。この時あなたは主を知る。」 イザヤ2:4「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。」 信じられますか「狼は小羊と共に宿る」ことを。想像を絶しますが、これがシャロームです!旧約時代のイザヤは聖なる神に心から信頼すれば、神は本当に自然界にも争いのない平和をもたらすと信じたのです。そこには何の垣根も敵意もありません。シャロームは神御自身からの神聖な約束されたギフトです。 さて、今朝、朗読した新約聖書のエペソ2章14~17節」を見てみましょう。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」ユダヤ人の平和シャロームに反して、二つのグループの間に隔ての壁や敵意が生じていたようです。一体それらは何を意味しているのでしょう。主イエスがこの壁を壊され、敵意を廃棄されたとはどういうことでしょう。 二つのものの少し前の聖句11節に遠く離れていた者、他国人であり無割礼のもの、異邦人で契約の民でなかった者と記されています。一方、ユダヤ人である約束の民があります。先の異邦人とユダヤ人が二つのグループです。隔ての壁とは、ユダヤ人は異邦人と自分たちが違う存在、自分たちが特別な存在だと思い込み、他の民は犬、人間とはほど遠い存在だと考えるようになっていました。これは偏見です、物事を正しく見ることができなくなります。「犬」呼ばわりされた異邦人は、ユダヤ人を憎むようになってしまいました。両者間にあらゆる分裂や敵意をもたらす「隔ての壁」を作ったのです。偏見が敵意感情(恐怖心や警戒心、怒りや憎悪、恨みや恥、復讐心)を生み出します。もともと神の平安、シャローム、戒めの律法は賜物として与えられたものです。当時のパリサイ人、宗教指導者は神の御言葉を無にして、偽善的な戒めを律法としていたのです。律法で重要な、正義、哀れみと誠実をおろそかにしていたのです。神の救い、恵みを証するものとして与えられたものであった戒めが、ユダヤ人の独善性、自己防衛的感情によって、異邦人たちと自分たちとの間に「隔ての壁」ができ、そこに敵意を作ってしまったのです。戒めの律法は、ユダヤ人と異邦人との間に存在する「敵意」の象徴となったのです。 こうした敵意を廃棄された方がイエス・キリストです。どのように廃棄されたのでしょうか。それは、戒めの律法を廃棄することによってでした。ユダヤ人のアイデンティティーを支えていた礼拝の様々な仕方を規定した戒めの律法に、神様の救いや恵みがあるのではなく、キリストを信じることだけ十分であることです。隔ての壁は必要ではなく、キリストを信じるだけで、ユダヤ人の自己防衛を保障すると言う事です。それによって、ユダヤ人と異邦人との間にある隔ての壁が崩れてしまったのです。その壁がくずれることによって、敵意の入り込む隙がなくなってしまいました。16節「二つのものを一つの体として、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」シャローム平和そして福音の実現がここになされました。従って、神聖なギフトであるシャローム「キリストこそ私たちの平和です」イザヤが予言した「平和の君」が成就するのです。隔ての壁である、自己防衛本能、敵意は、主イエスによって贖われ、保障されたと確信を持つことが、平和の始まりなのです。シャロームの状態になれないと、人の心に敵意は存在し続けるのです。 国と国がさまざまな利権をめぐって戦いがなされています。多くの市民がその犠牲となっているのは明らかです。自国の防衛が、神及び多国間でシャロームの関係にない場合、他国に対して敵意を生み、平和の実現は難しくなります。現代の我々は、国家の安全を核兵器や戦略的兵器の保有の上に自国防衛の保障を置いているのです。クリスチャンはこの現状をいかに神の御心及びシャロームと異なるかを気づいていなければなりません。 私たちの心が神とのシャロームの穏やかな関係にあると確信が持てないと、自己防衛ゆえの差別、緊張関係の感情が過剰に働くかもしれません。すると相手を敵視しやすくなります。また、皆さんの身の回りを振り返りあなたの生活の場、あなたの周りで、敵意や不和がどれほど見えますか。私達の周りにある、敵対、不一致、衝突、怒りを見回してください。家族同士の中に不一致、夫と妻の不和、学校でのいじめ、近所の人間関係、仕事場の上司と部下の間の対立など、不和や対立は至る所にあります。 もっと身近な例で、家族内に「隔ての壁」や敵意が生まれることもあります。夫婦間がうまく行っている時はいいのですが、一旦、口喧嘩をしたり、関係が険悪になると、突如、壁を感じませんか。シャロームを知るクリスチャンといえども、どの様な夫婦であるべきかの理想が異なります。家族の者が何に怒りを感じるのかを上手く感情表現をしないで、ふてくされたり、無視したり、暴力をふるったりすると家族の関係性は更に悪くなっていきます。米国の心理学者トマス・ゴードン氏は親業で、相手或いは自分の不満や怒りの感情の原因となる元の感情が何か、例えば、恐れ、痛み、心配、嫉妬、孤独感、経済的負担、侮辱、などが底辺にないかを見つける努力も大切であるといいます。夫婦間、家族の平和は、自然発生しません。努力が必要なのです。 神様は、私達に平和の思いを、聖霊を通して与えます。平和の思いは、私達が周りの人々、家族との間に平和を作り出そうとそうとする姿勢なしでは、平和は生まれないのです。 大切なことは、キリストとの関係をシャロームの関係にし、神との隔ての壁はなくなったことを信じ、自己防衛は主の御手にある事を信じることです。言葉をかえると、私達は主イエスがなさった神様と私たちの和解を喜んで受け入れることです。自分たちの拠って立つところをキリストに置く時にはじめて、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のように なる平和の道が開かれていくと信じます。 最後に、マザー・テレサは、ノーベル平和賞を受賞しました。その授賞式で、新聞記者たちが、「世界平和に貢献するためには具体的にはどうすればいいのですか?」とマザー・テレサに質問した時、彼女は、こう答えたそうです。「どうぞ今日は、うちに帰って、家族を大事にしてあげてください。」これは、シャローム・バイトという言葉です。英語では"peace at home"と訳され、「この世、この地上での平和の実現は、社会において最も小さな単位である家庭での平和の実現にかかっている」と言う事です。私たち一人ひとりが置かれている具体的な状態・現実での平和がより大きな平和の実現に関係しているというわけです。 皆さん、平和に貢献するとは、決して何か大きなことをすることではないのです。家に帰って家族との和解、平和を実践する、それが家族を愛することなのです。身近なところで、教会、知人、職場の同僚、学校の友だちといった人との平和が何かを考え、努力することが愛することだと思うのです。そういう小さな人間関係がいくつも積み重なって、主が望まれる平和が生み出されるのでしょう。 祈りましょう。 主よ、あなたの御心である平和と私たちの現場と全くかけ離れたものです。 主に私達の平安を見出さないで、他のものに頼っています。 ここに、私たちの深い罪を認めて、告白します。 主よ、私達の心の中にある壁を溶かしてください、そしてあなたとの平安が保てますよう助けてください。 主よ、また私達の周りに多くの対立、憎しみが、自惚れ、高慢、独善があります。 どうか、私達を平和の器とならせてください。 日常の小さな営みから一歩でも、シャロームに近づけますように、どうか聖霊の助けによって私たちを強めてください。 この祈りを主の御名を通してお祈りいたします。 アーメン マタイによる福音書 5章9節
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。 ヨハネによる福音書 14章27節 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 --------------------- シャローム。 皆さんの多くはヘブライ語のシャロームまたは「平和」を良くご存じですね。 23年以上前にイスラエルにいたときシャロームという言葉を、またパレスチナの州にいるとき、「サラーム」(アラビア語)という言葉を誰かが他の人に挨拶するたびに聞きました。 言葉は単なる平和以上のものを意味します。 「シャローム」は、「心、体、または財産で安全であること」を意味するシャラムの語根から取られました。 それは完了性、全体性、または何らかの形で寛大に恩返しするように促す一種の完全性について語ります。 シャロームについての聖書のヘブライ語の理解では、あなたのシャロームがとても多くなると、それがあなたからこぼれ出て他の人に与えられると考えられています。 なので、あなたが他の人を平和的かつ内面的に完成させると、そのことがあなたを平和主義者にするわけです。 家庭で、また世界中で平和を求めることは、聖なる努力です。 イエスは平和を追求する人々を神の子どもと呼びます。 このあとすぐ私の親愛なる友人であり、東京のルター派宣教師であるキャロル・サックが話します。 私たちは27年以上に渡っての知り合いであり、彼女は私が牧師であった西東京ユニオン教会に来ていました。 私たちは一緒に女性のリトリート、日曜学校、確信クラスに参加し、癒やしのミニストリー、祈りのミニストリーを始めました。私は彼女の教えと音楽の才能に感心しました。 彼女は祈りのハープを使ってホームレスのホスピスや病院で奉仕し、また刑務所での奉仕もしています。 キャロルは過去9年間、ほぼ毎年神戸に来ていて、何度もKUCで話してくれました。 最近彼女はWOWと水曜日オンライン礼拝でZOOMを使ってデボーションをリードしてくれました。 私は今日彼女に8月の今月の牧師たちのテーマである平和について話してくれるように誘いました。 私たちは今、平和が最も必要とされる特別な時期にいます。 この後キャロルは平和についての彼女の考えを私たちと共有してくれます。 聖書の中で平和を作る者とはどういう意味でしょうか?
世界には平和が必要であり、私たちは平和を必要としています。 栃木県にあるKUCのグローバルミッションパートナー組織の1つであるAsian Rural Instituteなどの場所は、世界中の人々へのトレーニング、リソースの共有、僕のリーダーシップの発揮、持続的な有機農業を通じて平和のために働いています。 彼らのミッションステートメントから引用します: 「Asian Rural Instituteの使命は、一人一人が最大限の可能性を享受できる、環境に配慮した公正で平和な世界を構築することです。 この使命はイエス・キリストの愛に根ざしています。」 イエス・キリストの愛に根差したとき、私たちは世界に平和をもたらす別の方法として隣人を愛するように求められます。 シャロームを行う別の方法。 あなたはイエス・キリストの愛に根ざしていると感じますか? おそらく、私たちの世界をより良い場所にする方法を模索しているとき、私たちの世界で困っている人々を助けることを通して神の愛を分かち合うとき、私たちは根を下ろしていると感じます。 おそらく、祈り、信仰の共同体とのつながりを保つために時間を過ごすときにあなたはルーツを感じるでしょう。 あなたの人生のどこでイエスの平和が必要ですか? おそらく、人間関係の中で、あるいは私たちの仕事の中で、あるいは私たちの心の中で、私たち自身の内なる平和を見つけることです。 心の平安は、私たちだけでなく、他の人々に働きかける力にもなります。 良い知らせは、私たちがイエスへの信仰から経験する平和は、世界が与えることのできる一時的な平和を上回るということです。 それはあなたの深い恐怖を和らげ、あなたの悩まされている心を落ち着かせることができます。
私たちの絶え間ない仲間である平和の神が私たちを平和の道に沿って導き、神の愛の中で団結する喜びを与えてくださいますように。 みなさん、こんにちは。 私はキャロル・サックです。親愛なる友人であるクラウディア牧師から、今日の平和についてのメッセージで彼女と組むように頼まれて嬉しく思います。 毎年8月の初めに日本にいる私たち全員が、平和について、国家間の平和、互いの平和、自分自身の中での平和、そして最終的には神との平和について考えることを強いられてきました。 ミネアポリスの警官の手と膝でジョージ・フロイド氏が殺害されて以来、過去2か月間私の国、アメリカの平和と和解というテーマを見てきました。 ご存知のように、彼の死はこれまで見たことのない方法で、グローバルなBlack Lives Matter運動を引き起こしました。 実際、私はそれらの出来事に強い関心を持っていました。 私の母は103歳で、ジョージ・フロイドが5月25日にミネアポリスで殺された近所に住んでいます。 二晩が経過するとミネアポリスは抗議者たちが長年抱き続けてきた怒りと欲求不満を表明した戦争地帯のようになりました。 抗議のニュースを東京のテレビで見たとき、私の知っている店、朝の散歩をしている通りや橋を見ることができました。 私はここ東京のニュースで母のアパートすらも目にしました。 その近所のお店の一つについてお話ししましょう。 ミネソタ州の自宅に戻るたびに、魅力的なスカンジナビアのインポートストアであるIngebretson'sで買い物をします。ここには、スウェーデンとノルウェーの本格的なアイテム、衣料品、食品が一杯あります。5月27日の夜、暴動と抗議行動が発生しました。 店は破壊され、略奪され、時には焼かれました。 私の意見では、この流行はある意味で自然な人間の反応だと思いました。何十年にも、何世代にも、あるいは何世紀にもわたって、色を持つ人々が、同時に生きておられる神様の愛される子供たちでもある人々が経験してきた体系的な不正行為に対する反応です。 これらの抗議の過程で、私のお気に入りの店であるインゲブレットソンズも損傷を受け、侵入され、物が盗まれました。 翌日、店主は店先の大きな傷に合板をバンドエイドのように窓に取り付けました。私は店主は損害を加えた抗議者にとても腹を立てていると思いました。 しかしながら窓を覆ったボードの上には次の言葉が書かれていました: 「一つの人間の家族。 私たちはあなたの気高さを目にしました。あなたの悲しみを分かち合います。」 本当の和平が何であるかの一例だと思いました。 一人一人の存在の中で、気高さ、尊厳を一対一で見ること。 行動の原因となった痛みを見ること。 そして思いやりを持って応じること。 暴力に暴力で対応するのではなく、尊厳と愛の目を通して見ること、私たち一人一人を貴重な存在として見ている神の目を通して。 私たちはクリスチャンとして、「平和の王子」であるキリストを信じています。イエスご自身は、「仲裁を行う人々は祝福される、なぜならその人々は神の子供であるから」と言われました。 パウロはフィリピの信徒への手紙4:7で、「そうすればあらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と述べました。 聖フランシスの精神に帰せられる祈りは、「主よ、私をあなたの平和の道具にしてください」と言っています。 通常、私の仕事は東京のスラム街である三亜のホームレスのために、ホスピスでハープと声による祈りを捧げることです。 しかし今日は別の話を共有します。 私は毎月、東京の大きな刑務所で「アクティブリスナー」としてボランティア活動をしています。刑務所での生活はとても暗くて困難です。ありがたいことに、囚人は彼らの身体的な安全についてそれほど恐れていませんが、警備員の一部による厳しい扱いは、特に警備員が彼らに向かって何を叫んでいるのか理解していない外国人にとってはひどい心理的苦痛です。 数年前、外国人囚人の一人が私と話しに来ました。 初めに「お元気ですか?」と尋ねました。 彼は「私はとても元気です」と答えました。私はそのような反応を聞いて、そして彼の顔にそのような平和な表情を見て驚いたので尋ねました、「どうしてそう言うことができるのですか?」 彼は説明を続けました。 「心の中に庭があり、いつでもそこに戻ることができます。 それは美しい庭なので、私はとても元気です。」 刑務所の厳しい現実のなかで、彼は心の平和を手に入れました! 私たちは愛の種を心に植えることができます。 希望と平和の神様の庭~いつでも行ける美しい庭! イエスはヨハネの福音書14:27で述べています。「私は平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」 これから平穏で落ち着ける音楽をお聴きください。 「恐れることはありません、恐れることはありません。私はあなたと一緒です、私はいつもあなたと一緒です。 恐れてはいけません、恐れてはいけません、私がいるから。」 恐れるな、恐れるな、私は共にいます。恐れるな、恐れるな、共にいます。 |
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May 2024
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