メリークリスマス!
昨日、クリスマスを迎えたばかりですが、今年はもう少しだけクリスマスを楽しみたいと思っているのは私だけでしょうか。クリスマスの幸福感にもう少しだけ浸っていたいと思っている人はここにいませんか? さて、そんなあなたに朗報です。キリスト教の暦では、クリスマスは1日だけのイベントではなく、羊飼いと賢者が旅をして、神を礼拝し、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの誕生を祝ってプレゼントを贈った12日間の期間を指します。 クリスマス気分をもう少し味わいたいと思う理由は、さまざまなものがあるでしょう。今年は、クリスマス・イブの礼拝から日曜日の礼拝まで1日しかなかったことが原因かもしれません。個人的には、2年近くコロナ禍に見舞われていることも関係しているのではないかと思います。 多くの人にとって、コロナ禍の生活が厳しいものであったことは否めません。行く場所も、一緒にいられる人も限られていました。同居する家族以外の人の顔を見ることはほとんどなく、笑顔や握手など人間社会において大切な非言語的コミュニケーションを図る事は出来ません。愛する人にハグやキスをすることも、以前の様に行う事は出来ません。 KUCが対面式の礼拝を再開したのは、つい先月のことですが、お互いに顔を合わせず、教会の皆さんと一緒に礼拝堂で礼拝を持てなかった時期が長かったのは辛かったです。特にオンラインでの礼拝を続けている人たちにとっては、まだまだ辛いことでしょう。 また、長い間、家族に会えなかった人もいます。コロナによって職を失ったり、お給料が減少した方々もいらっしゃいます。また、コロナ禍に伴うライフスタイルの変化が原因で、病院で診断を受けて苦しんでいる方もいるかもしれません。 コロナ禍において、今まで以上に家族の世話をしなければならなかった人もいるでしょう。自分自身の安全を確保しながら、家計を支える仕事を続けながら、愛する人たちに思いやりを持って接するにはどうしたらいいのか、悩んだこともあったでしょう。家の中で過ごす時間が増え、外に出て人と付き合う時間が減ったことで、自分の人生の中でうまくいっていない部分、健康的でない部分、癒しが必要な部分と向き合わなければならなかった人もいるでしょう。 心理学者は、私たちが経験してきたこの時期を、長期的なトラウマの体験であると見ています。意識するしないにかかわらず、私たちの心と体が経験していることは、絶え間ない不安、軽い鬱状態、慢性的な疲労感など、長期的なトラウマの症状と一致しています。 このような状況、特に私たちが経験している感情的な重苦しさのために、私たちはポジティブな時間を持ち続けなければならないと思っています。 クリスマスの物語は、まさに今必要な福音なのです。 私たちは、主である救い主の到来は、慰めと希望を意味すると考えがちです。なぜなら、最終的にはすべてがうまくいくという保証を持って私たちのもとにやってくる救い主が与えられたからです。コロナからの悪いニュースが絶え間なく流れてくる時代に、私たちが必要としているのは、クリスマスの物語の喜びと、救い主が今ここで私たちと一緒にいると感じることだと思っています。 私たちは、羊飼いたちが草原で経験したように、天使が現れて言ったことを経験したいのです。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10-11)。 私たちは、このような神聖な出会いを必要としています。良い知らせのしるしを与えられたいのです(ルカ2:12)。私たちは、自分が見たこと、聞いたことすべてについて、神を讃え、賛美するようになりたいのです。(ルカ2:20)。このコロナ禍で私たちを励ましてくれる良いニュースを私たちは本当に必要としているのではないでしょうか? クリスマスの物語の中で羊飼いたちが経験したような奇跡的な方法で私たちが神に出会うことを心から望んでいますし、神が力と栄光と強さをもって私たちが直面する状況に踏み込んでくれることを切に望んでいますが、クリスマスの物語を通して、私たちが知っておくべきことがもう一つあります。それは良い知らせを受けた羊飼いの人生にすぐに奇跡的な変化がもたらされたということではないということです。 当時、羊飼いは、名誉や尊敬を受けるような人々ではありませんでした。本日の朗読箇所に出てくる羊飼いたちは、丘の上でのんびりと羊を見ているだけではなく、神殿の供え物となる子羊のいけにえの手助けをしていました。つまり、彼らは血や死んだ動物に触れなければならず、それに従する羊飼いは、ユダヤ教の伝統的な法律からすると汚れたものとみなされていました。 その結果、羊飼いは社会的に蔑まれ、のけ者にされてしまったのです。それどころか、皇帝アウグストが「全世界の人々を国勢調査に登録すべきだ」と宣言したにもかかわらず、羊飼いは、その対象にならないほど重要視されていなかったのです。彼らはその日、いつものように草原で働いていました。当時の人々から見ると、羊飼いは社会の一員として認識されず、街の外れで生活する不法滞在者のような生活を強いられていたのです。 そして、この羊飼いこそが、神が最初にその存在を知らせた人達なのです。神は、「この民全体のためのすばらしい喜び(ルカ2:10)」を、まず政府の命令に辛抱強く対応している普通の人々にではなく、社会の外に追いやられている人達に届けたのです。追放されている人、軽蔑された人、寂しく丘に座っている羊飼いたちに、神は神の素晴らしい知らせを最初に伝えたのです。 社会全体が、世俗的な王が、そして地域の全ての人々が、彼らを社会の一部として認識していなかったとしても、神の目には、羊飼いは世界の一員だったのです。 そして、この大きな喜びの福音を受け取った羊飼いたちは、ベツレヘムに降りて行き、自分たちが伝えられていたこの赤ん坊、布に包まれて飼い葉桶に寝かされている救い主に会いに行くことにしたのです(ルカ2:12)。神は、羊飼いが社会の中でどのような存在であるかを十分に認識した上で、彼らを任命し、平安の王子を身ごもり、ベツレヘムの片田舎の動物たちに囲まれ、寂しく臭い納屋で出産したマリアとヨセフに、この良い知らせを伝えました。 これは、神が物語を変えたもう一つの神的な例であり、社会的な規範を覆すような、神によって計画された神的な出会いだったのです。 社会の外側にいる羊飼いたちがイエスの家族を見つけた時、彼らが目にしたのは、清潔な場所で気持ちよさそうにくるまれている赤ちゃんではありませんでした。彼らが目にしたのは、大工のヨセフと彼の未婚の10代の婚約者が馬小屋で世界の救い主を抱っこしている姿だったのです。 この時まで、羊飼いたちはマリアとヨセフとは接点もなく、共通の話題もあるようには思えませんでした。ヨセフはダビデ王の家系であり、マリアは(少なくとも妊娠するまでは)ユダヤ人社会の良い地位で育っていました。神が彼らを繋いだこの夜まで、この若い2人が、社会の外側にいる羊飼いと出会うことはありえなかったのです。 出会った時に羊飼いたちも、マリアとヨセフも、ある共通点を見つけたのです。羊飼いはローマの国勢調査からも除外されるほど社会の外側で生活しており、マリアとヨセフはその国勢調査の対象ではあったけれど、彼ら自身も社会の外側に存在していました。2人はヨセフの家族の故郷に戻ってきても、泊まる場所もなく、歓迎してくれる親戚もなく、宿屋にも入れてもらえませんでした。マリアが身ごもっていても、馬小屋以外に彼らを受け入れてくれる人も場所もありませんでした。 今回のコロナ禍で、私たちはソーシャルディスタンスの重要性を学び、人と距離を置いて生活することがかなり上手になったと言わざるを得ません。本日、この礼拝堂でも、私たちは家族ごとに数席離れて座っています。 こんな状況を約2年経験しているので、あと2年もすれば、私たちはソーシャルディスタンスの学士号を取得することができるのではないでしょうか。 しかし、マリアとヨセフ、そして羊飼いたちの場合、ソーシャルディスタンスは必要ではありませんでした。むしろ、彼らに必要なのは、彼らを支え、彼らのために祈り、彼らを高め、彼らが直面していた様々な問題に愛情をもって接してくれる社会だったのです。しかし、彼らを取り巻く社会からはそのようなサポートは得られず、社会は彼らから距離を置いていったのです。 胸が張り裂けそうですよね。もしかしたら皆さんの中にも、彼らが経験したであろうことに共感できる人がいるかもしれません。置かれている国籍、職位、家族、社会、経済状況を通して、社会から疎外感を感じておられる方がいるかもしれません。マリア、ヨセフ、羊飼い達のように、自分が何者であるか、何を行ってきたのかによって、マリアやヨセフ、羊飼いたちのように、社会から切り離されていると感じている人もいらっしゃるかもしれません。 しかし、それこそが、この「大きな喜びの知らせ」なのです。草原にいた羊飼いたちに届けられた知らせは、キリストによって私たちにも与えられているのです。この世がどんな仕打ちをしようとも、神は決して私たちからソーシャルディスタンス(社会的に距離を置く)ことはありません。 私たちが最も孤独で絶望的なときでさえ、神は決して私たちを見捨てたりしません。家族から孤立していても、丘の上に追いやられていても、私たちが神のもとに来るための手段や方法を持っていないときも、神は私たちのもとに来ることを選びます。神は社会的な汚名の壁を突き破り、私たちの人生における辛く困難な葛藤や状況の中に飛び込み、介入し、神の愛を直接私たちに届け、神がいつも私たちと共にいることを知らせてくれます。 神は、完璧な人生を送っているように見える人に特別な好意を寄せたり、人間社会が喜んで歓迎し、名誉を与えることを選んだ人にさらに特別な好意を示すことはありません。神は、私たちの人生の混乱の中にいる私たちのところに来て、私たちの壊れた状態に寄り添うことを選びます。神は、私たちの人生や教会の中で、物事がとても厄介で解決されていないように見える場所、つまり、あまりにも困難で、あまりにも混乱していて、あまりにも崩壊して全てが不可能で、私たちがただ社会的に距離を置きたいと思っているような場所に来たいと思っています。神はこのような場所で私たちと出会い、神の愛を示したいのです。 だからこそ、神は神の子をこの世に送り、孤独で社会的に疎外された家族の一員として人間の形で現れたのです。このようにして、神は現実となり、人間となったのです。神の言葉はイエスの中で実現し、イエスの人生において、私たちは、私たちに対する神の愛が、私たちにわかる形で示されたことを知るのです。 イエスの誕生の瞬間から、イエスの地上での働きの全過程、そして死と復活に至るまで、私たちは同じ物語を聞かされています。神は、誰もが一人で丘の上に座っていることや、社会的に疎外されていることを望んでいません。神は、人々が家庭に居場所がなく、宿屋にも部屋がなく、馬小屋に導かれる事を望んではいません。 そしてそれが、私たちがクリスマスを祝う理由なのです。神の息子が人間として、私たちが神のもとに行けない時に私たちのもとに来て、私たちの崩壊した状態を見つけ、そこに関わりに来られます。神は私たちと距離を置く事を望んでいません。 だからこそ、今日の聖書朗読に出てくる羊飼いたちのように、私たちは神を讃え、賛美を捧げるのです。私たちが神を礼拝するのは、神を礼拝する事で奇跡的に物事が好転し、ソーシャルディスタンスがなくなり、今この瞬間に奇跡が降ってくるからでもありません。確かにそういった事が起こらないわけではありませんが、私たちの神への礼拝はそれに基づくものではありません。私たちは、どんなに悪い状況にあっても、私たちと一緒にいてくださる神、神様がどんな方であるかを褒め称え礼拝するのです。 イエス・キリストの誕生を祝っても、正直なところ、現状は何も変わりません。コロナはまだ存在していますし、社会的な距離感もまだまだです。しかし、別の意味で状況が変わりました。それは私たちがもう一人ぼっちではないからです。 私たちは、心が崩壊していようとも、神だけが提供できる恵みを切実に必要としていても、私たちは一人ではないことを伝えるために来てくださったイエスを歓迎します。私たちの神はエマニュエルであり、私たちと共にある神です。神の愛はいつも揺るぎなく、いつもここにあります。 イエス・キリストが来たからといって、羊飼いやマリア、ヨセフの社会的役割が劇的に好転したり、疎外された状態が解消されたわけでもありません。しかし、彼らが変わったのは、神を称え、賛美するようになったことです。イエス誕生を通しての彼らの神との出会いは、彼らを礼拝へと導き、何よりもまず主に賛美を捧げるようになりました。 これから2週間、冬休みでzoomの聖書研究や教会のクラス・プログラムがお休みになりますが、私たちは神様への絶え間ない賛美を休むことはありません。私たちの主への礼拝は続きます。歌、祈り、聖餐式の分かち合いを通して、私たちに与えられた福音を思い出し、大いなる喜びをもって良い知らせを受け取りましょう。 クリスマスが来て、主は来られました。しかし、まだ苦しみがあります。まだ痛みがあります。私たちの人生には、未だに問題や葛藤、挑戦があります。羊飼いのように、いつもの場所に戻っても、まだソーシャルディスタンスが存在します。しかし、神は私たちと一緒に私たちの壊れた心や痛みのある場所に入ってくれるために来られたのです。神は私たちと終わりのない、普遍的な愛を分かち合いたいと願っておられ、それに応えて私たちは神を賛美し、感謝し、大きな喜びと福音を全世界に広めます。私たちの神、エマニュエルは、私たちのためにいる神であるだけでなく、私たちが毎日直面するすべてのことにおいて私たちとともにいる神なのです。 アーメン
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メリークリスマス!
今夜はある小さな子供のサンデースクールでのお話しから始めたいと思います。そのサンデースクールでは、毎年恒例のクリスマス・ページェントの準備をしていました。人数も少ないサンデースクールだったので、ある1人の女の子が賢者たちの役をすることになりました。この女の子は他の子供たちと同じように一生懸命セリフを練習して、クリスマスに向け準備をしました。そしてクリスマスイブ礼拝の一部として劇を演じる準備が出来ました。女の子はキレイな賢者のコスチュームを身に着け、ジュエリーを身にまとい、教会の通路を歩いて登場しました。そして、イエスが寝ている飼葉桶の前で立ち止まり「赤ちゃん、こんにちは。プレゼントをお持ちしました。金と、出来事と泥です」と言ったのです。 これって、私たちの人生にとって、真実ではないでしょうか?これこそが人生です。いくらかの「金」、お金という意味だけでなく、時に訪れる素晴らしい出会いや時間。そして、大抵は予測できない「出来事」、最後に「泥」。私たちが望む以上に、立ち往生してしまう酷い泥沼が人生には表れます。 もし神様が、眩い光と共にトランペットの音を響かせながら、金色の馬車に乗って、風を切って雲を突き抜けて人々の前に現れたら、みんな驚いたでしょうか?きっと驚かないと思います。というのも、天地の創造主である聖なる全能の神について語る時、イエスの時代の人々の頭の中にあったのは、ヘブライ語の聖書に書かれているイメージで、この様な素晴らしいイメージだったからです。 この赤ちゃんの誕生で、神は私たちの前に現れる時に眩い光や、強い風を起こさず、全く異なる方法で現れます。光や風の代わりに、女性が子供を出産する際の痛みの叫びと、夜に生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声を見せるのです。 これは、イスラエルの人々が待ち望んでいたダビデ王の子孫がやってくると考えていたものとは違ったものになります。彼らの期待は、預言者イザヤが語った事にありました。イザヤは新しい王が権力を握るたびに行われていた王の即位の儀式を引用したようです。 イザヤはこの未来の救世主を「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ書9:6)と表現しています。 しかし、このベツレヘムでの赤ちゃんの誕生は、こういった救世主を心待ちにしている人々の期待に沿うものではありませんでした。この誕生は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君にふさわしいものではないように思われました。あの馬小屋での誕生は確かに神の誕生にふさわしいものではなかったのです。 このような状況でこの世に来ると決めた神の心がどういった意味を持つのかを理解するのは簡単ではありません。 当時ベツレヘムは旅人で人が溢れていましたが、ほとんどの人が自分の意志ではなく、皇帝の命令によってベツレヘムを訪れていました。皇帝は人の数を把握し、税金を取る事を目的としていたので、人々がどこで寝泊まりしているかなど、気に留める事もありませんでした。それにしても、ヨセフの家族はどうして彼らを受け入れなかったのでしょうか?ベツレヘムがヨセフの故郷であれば実家があったはずですが。私には分かりませんが、実家にも行かず、宿屋にも部屋がないという事で、ヨセフとマリアは馬小屋を借ります。 神に対する理解が私たちにとって容易に出来ないのは、私たちが神は素敵な場所に現れるとイメージしているからかもしれません。実際には神は平凡でそこまでキレイではない場所を選ばれるのです。 聖書学者によっては、当時家畜は洞窟で飼われていたので、イエスは洞窟で生まれたと言う人もいます。また別の聖書学者は、当時の家には地面に藁を敷いたくぼみがあり、そこで家畜が飼われていて、そこが馬小屋だったという人もいます。ですから、イエスは独立した馬小屋ではなく、家畜を飼っていた農民の家の下の階で生まれたということになります。 どちらにせよ、動物たちは音も立てますし、散らかります。だから決して清潔な場所でなかったという事は確かです。 マリアはきっと母親がそばにいて出産を手伝ってくれることを願っていたでしょう。しかし、彼女の出産を手伝ったのは神のみでした。馬小屋で動物たちと共に寝る場所を確保しなければいけませんでした。 ヨセフは彼女を安心させようとしたと思いますが、二人とも疲れて、体も傷ついている中では簡単にできる事ではなかったでしょう。寒かったかもしれません。しかし、ご存知でしょうか?そんな状況でも神は2人のそばにいたのです。良い時だけでなく、悪い時にも平安があり、喜びと愛と希望がありました。「共にいてくれる神」=エマニュエルです。「天のどこかにいる神ではありません」。 人生が混乱している時も、どんな状況にあっても私たちのそばにいてくださる神様です。そんな神のための揺りかごだったのです。 イエスの誕生は特別な種のケノーシス(キリスト教神学では、ケノーシス(ギリシャ語で「空にする行為」という意味)とは、イエス自身の意志を「空」にして、神の神意を完全に受け入れる事を意味しています。そう考えると、神が私たちをどれほどまでに愛してくださっているか、神が臭く、汚い、汚れた世界に来るほどに謙虚になってくださっている事に驚かれ、困惑する方もいらっしゃるでしょう。 米国聖公会の司祭であり、作家でもあるバーバラ・ブラウン・テイラー牧師の言葉がしっくりくるかもしれません。彼女は、「人によってクリスマスは辛い時期の方もいらっしゃいます。それは去年のこの時期と比べて、傷みが和らいでいるかどうかを確認する時期だからです。人生を歩み進めるために確認が必要な方がいる一方で、特に気にしなくなったから、確認しない方もいます。そして、記憶はあなたを満たし、あなたを甘い憂鬱で包み、喉の奥で味わえるような感じで、その感情であなたを押し流します。」 私たちにはたくさんのクリスマスの思い出があります。去年のクリスマスはコロナで、辛い思いをした方も沢山いらっしゃいます。2年前も自分の力ではどうにもならない状況で辛いクリスマスを過ごした方もいらっしゃるでしょう。また、今年も大変な思いをされている方もいらっしゃるでしょう。 しかし、祝福を受けている事にも気づいてください。去年と違って、KUCの礼拝堂に戻ってきて、礼拝をすることが出来るようになりました。新しい友達を作った方もいらっしゃるでしょう。Zoom を通して、日本中、世界中の多くの方々と繋がりをもつことが出来ました。私たちの生活の中で神様の恵みを垣間見る事が出来ました。 こんなに泥だらけで汚い(大変な時期の)クリスマスだとしても、本当に素晴らしい知らせがあります。エマニュエル、神は私たちと共にいらっしゃるのです。ベツレヘムで生まれた神は、今でも私たちに会いに来てくださるのです。 冷たく泥だらけで夢のない世界が目の前に広がっていたとしても、今年の問題が解決に至らないまま、来年に引き続いていたとしても、ベツレヘムの汚い馬小屋での誕生を忘れないでください。 私たちのクリスマスに少し泥が付いていても良いではないですか。傷みを隠す必要はありません。本当の人生とは泥だらけで汚いものでもあります。でも誕生した際が泥だらけで、汚い場所での奇跡の誕生だったからこそ、祝う理由があるのです。エマニュエル=私たちと共にいてくださる神。神は泥だらけの中にいてくださいます。 ベツレヘムの臭い、汚い、泥だらけの馬小屋で赤ちゃんが生まれた事を思い出すことで、私たちの泥だらけの人生の中にある神の愛を邪魔することはできません。 エマニュエルとは、辛い時、大変な時(泥だらけの時)も「共にいてくださる神」という意味で、どんなに大変な人生の時を過ごしていたとしても、神の愛が途絶える事はありません。 今夜、神のご臨在と共に私たちはいます。天国にいる全ての人が、今夜、ここに、私たちのベツレヘムに来てくださいます。どんなに汚れた、泥だらけの私たちの人生だったとしても、神の御腕に私たちは包まれています。 神は私たちと共にいてくださっています。それが全ての人にとって良い知らせです。 メリークリスマス! メリー・クリスマス!
マタイによる福音書のクリスマス物語では、これら三人の賢者が、私たちをベツレヘムに生まれた幼子イエスのもとに導くという大切な役割を果たしてくれます。ルカによる福音書の羊飼いと同じですね。でも厳密に言うと、私たちはこの人たちが誰なのか、何をしている人なのか、そして何人だったのか、よく「三人」と言われますが、ということは、実際はマタイの物語には、その詳細については何も触れられていません。そこでは彼らを「マギ」として紹介するだけです。ギリシャ語でマギとは、マゴイということばの複数形で、彼らは輝く星に導かれてきたので、ある日本語の聖書ではマギを「占星術の学者」と訳しています。伝統的には彼らは「賢者」とか、後に「王」とも呼ばれます。彼らは社会的地位が高く学識に富んだ人だったのでしょう。だからこそ彼らはヘロデ王になんの困難もなく面会し、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(マタイ2:2)という重要な質問をすることもできたのです。そして彼には国の重要機密ともいえる、新しい王についての情報も与えられたのです。 でも、この人たちがヘロデ王にあったときに、どんな気持ちだったと皆さんは思いますか。私は、彼らは何か失望し恥ずかしい思いを持っていたように思わざるを得ません。もし彼らが天文学のマスターならば、なぜ彼らは、あの、彼らの旅にとってもっとも重要なあの導く星を見失い、それに従うことができなくなってしまったのでしょう。それは、彼らは面目を失って「私たちはどこに行けばいいのでしょうか」というような、決定的な質問をしたのです。むしろ、彼らの方が、その的確な答えをヘロデに伝えるべきだったはずです。彼らにとってヘロデ王に面会するかどうかはむつかしい決定だったと私は思います。自分たちの学識を貶めるか、それとも最後まできてその旅をあきらめるか、ということです。それでも彼らにとっては、知恵ある人、学識ある人という信頼を失ったとしても、イエスと出会うことはとても重要だったのです。この時、この三人のマギは、彼らの人生に対する姿勢を改めたと信じるのです。それまで彼らは自分たちのやっていることに強い自信をもってきました。学習し、学び、研究を通じて、できる限りすべてのことをマスターしたと彼らは確信していたのでしょう。しかし星を見失うということで、彼らの自信は粉々にされたのです。彼らの目標達成直前に、ほかの人からのアドヴァイスを受けなければならなかったのです。彼らは完全な知識の持ち主ではなく、ヘロデの助けを喜んだのです。 使徒パウロはこの世の知恵と、神の知恵とを区別すべきことを警告し、イザヤ書29章14節のことばをここで引用します。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」(一コリント1:15)と。この世の知恵ある人びとは決して神の知恵を受け入れず、神の真理を軽蔑します。パウロは、自分自身の知識や知恵を押し出すのではなく、神の導きを見上げ、へりくだってそれを受け入れ、それに従うことを訴えるのです。もし私たちが自分自身にだけとらわれてしまうと、同じように導きの星を見失ってしまうのです。 興味深いことに、この三人がヘロデの宮殿を離れると、星が再び現れたのです。彼らは自分たちの知識でその星を保てなかったのですが、ほかの人の助けを得て、つまりへりくだってそれを受け入れるということによって、その星を見つけ、マリアとともにいるイエスのもとへ導かれたのです。そしてこの永く学識を誇ってきた学者たちが、生まれたばかりのイエスを「ひれ伏して拝み」(マタイ2:11)、永い人生の努力によって得た宝物を捧げました。それは、彼らは自分たちの知恵と知識をささげながら、小さな者、弱い者に仕えるという新しい人生への出発のしるしだったのでしょう。私たちは先週、クローディア先生から、マリアが、ヨセフ、エリサベツ、ザカリアたちと共に、神の意志を受けれるというチャレンジを受け、その人生の方向を転換しなければならなったことを聞きました。クリスマスとは、チャレンジとチェンジの時なのです 毎年、アドヴェントやクリスマスのシーズンになると、私は自分自身のクリスマス伝統行事として、お気に入りのクリスマスの音楽を聞き、映画を見、本を読む、などをします。絶対にやりたい一つのことは、チャールズ・ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」、クリスマスの古典ですね、を読むことです。時にはこの小説に基づく映画「スクルージ」(邦題 「クリスマスキャロル」 1970年作品)を観たりもします。多くの皆さんはよくご存知で、何度も読まれたことでしょうが、スクルージは物語の主人公です。彼は厳しく、荒っぽく、情け容赦のない金貸しでした。彼にとってクリスマスは「ばかげたこと」、ナンセンスで、稼げる日が一日減る、程度のものでした。 彼がより一生懸命に働けば、彼は嫌われ、煙たがられ、人びとや社会、家族からも孤立してゆきます。 クリスマスの前夜、彼は三人のゴーストの訪問を受けます。過去のクリスマスのゴースト、現在のクリスマスのゴースト、そしてこれから来るクリスマスのゴーストです。この三人のゴーストとの出会いの後、スクルージの人びとや社会への姿勢は、劇的に変化します。その夜、第二のゴーストがやってきたとき、彼はそのゴーストとこんな会話を交わします。引用しますと。 「お前は、私のような者と今までまったく会ったことがないのか!」とその精霊は叫びました。 「全然!」とスクルージは答えます。 君は私の家族の若い奴ら(といっても私もとても若いけれど)、ここ数年のうちに生まれた私の兄たちと一緒にいたことはないのか。霊は迫ります。 「ないと思うよ」とスクルージ。「失礼だがなかった、君には何人の兄弟がいるのかね、精霊君」 「1800人以上か」とゴースト。 「そんなに子どもたちのいる家族なのか」とスクルージはつぶやきました。 この現在のクリスマスのゴーストが、彼の兄弟たちが毎年、クリスマスの時期にスクルージをたずねていたと説明すると、スクルージはそのことにまったく気づかずにいた、というところが興味深いのです。そして彼はこの年まで、クリスマスの時期を何回も過ごしながら。彼にはそれは無意味で、「ばかげたこと」でしかなかったのです。彼はクリスマスによってなんの挑戦も受けず、何も変わらなかったのです。さて、これはともすれば、私たちにも似ているとは思いませんか? 私もこれまで何度もクリスマスを過ごしてきましたし、今年71回目です。そのうちどれだけの私の過去のクリスマスが、意味あるものだったでしょうか。正直に自分自身に問いたいと思います。そして私の人生への姿勢とその方向性を変えるものとしては一回だけのクリスマスで十分なのです。その一回があったのでしょうか。私たちの人生において、この本物で意味のある一回のクリスマスを迎えることがなぜそんなに難しいのでしょうか。私はキリスト教について、教会についてたくさんのことを知っています。でもそのような知識はクリスマスの精霊が、繰り返し私たちのところを訪ねてくれているのに、それに出会うためにはあまり役立ちそうにないのです。きっと私たちは、クリスマスを自分自身がよくなじんでいるやり方で、祝い、理解し、迎えているのです。あの賢者たちが、自分たちだけの知識や教養に自信満々でいるときに導きの星を見失ったように。彼らはほんとうに目的地のすぐそばまで来たのですが、肝心の点を見逃しかけたのです。そして私たちも、私自身も、肝心の点を見逃してきています。神様の導きを見上げず、ほかの人のアドヴァイスに耳をかたむけずに。 メリークリスマス! そして2021年のクリスマス、ようこそ。クリスマスからの挑戦に向かい合うことで、私たちは新たに生まれたイエス、私たちの救い主への本物の礼拝者となることができるように。私たちは、もう決して導きの星を見失うことがないように。 祈りましょう、愛する主よ、私たちが今年、本当のクリスマスを迎えさせてください。それが、私たち自身のため中心に置くのではなく、あなたの道を受け入れ、それによって生きることができますように。どうぞ幼子イエスとの出会いのなかで、私たちを新しくしてください。クリスマスのときに生まれられた、私たちの救い主、イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン 今はアドベント(待降節)の期間です。アドベントは、キリストの降誕を待ち望む教会歴の四週間です。キリストの誕生により、神は人間としてこの世界に到来して歴史を変えました。 現在のコロナ禍で、ますます多くの人が孤独、悲しみ、不安、経済的困難、そして先の見えない将来への不安に耐え、苦しんでいます。今年、私たちはアドベントをより必要としています。今日の待降節第三主日礼拝のろうそくが思い出させるように、私たちは希望と愛と喜びを必要としています。今日火を灯したろうそくのバラ色のピンクは、喜びを意味しています。私たちはインマヌエル(「神我らと共に」の意)、キリストと共にアドベント・アドベンチャー(待降節の出来事)の中にいます。 今日、私たちは聖書朗読の中で、マリアがイエスの母になるという預言を聞きました。今日の聖書箇所では、まだ赤ん坊は生まれていません。先週、亜希子牧師の説教で学んだようにマリアのいとこがエリサベトで、その夫がザカリアです。みなさん覚えているでしょうか。 ザカリアはアビヤの位の祭司でした(歴代誌上24:10)。祭司は24の組に分けられ、その職務を交代で行っていました。ザカリアは洗礼者ヨハネの父であり(ルカ1:67–79)、マリアのいとこエリサベトの夫です(ルカ1:36)。ザカリアとエリサベトは年老いた夫婦でした(ルカ1:7)。それでも神は彼らを祝福し、祈りに答えて子どもを授けました(ルカ1:18-25)。しかし天使ガブリエルから、ヨハネと名付けられる子どもが生まれるという知らせを聞いた時、ザカリアは疑いをもって質問したために、口がきけないようにされてしまいました(ルカ1:13)。 マリアへの受胎告知は、ザカリアへの告知のときよりずっとうまくいきました。マリアは質問した後、天使ガブリエルから声を奪われることはありませんでしたから。 天使ガブリエルが、ルカ1章で神のご計画をマリアに告げるとき、マリアは34節で「どうして、そのようなことがありえましょうか」とガブリエルに尋ねます。マリアは、未婚で身ごもる不思議さを考えて質問をしたのです。この会話で目を引くのは、ガブリエルがマリアに神のご計画を説明したときのことです。実際マリアの妊娠は奇跡で、物議を醸すものでしょう。それでもマリアはたった一人で世間の批判に直面するのではなく、親戚のエリサベトが味方になってくれます。エリサベトもまた奇跡的に妊娠していました(36節)。マリアが妊娠で心身ともに弱くなっている時であっても、マリアを信じ、支えてくれる信頼できる人がいることを、神はガブリエルを通じてマリアに知らせ、マリアの不安を和らげようとします。 天使ガブリエルが「あなたは神から恵みをいただいた」と告げるとき、その言葉が世間の規範を超えたものであることを理解するのが重要です。というのもマリアは女性、少数民族、貧しい人という社会的弱者の立場のため、社会から疎外されていたからです。 ガブリエルが神のご計画を説明した後、聖なる沈黙が訪れます。大天使ガブリエルと神はマリアの答を待っています。38節でマリアは言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。 マリアは受け入れましたが、神の言葉を受け入れるよう誰からも強要されたわけではありません。このことから、正義と解放は自分の意志で決断することができる人間にあるということを、神はマリアを通して私たちに示しています。 天使が訪れてからマリア自身の計画は変わりました。この若い女性は、おそらくティーンエージャーで、ヨセフと結婚することになっていました。将来は数人の子どもを持ち、地元の礼拝堂の女性の集まりに参加し、大工の妻として静かな生活を送るはずでした。しかし神には別のご計画があり、マリアの人生は大きな転機を迎えることとなります。 あなたには、計画を変更して自分の人生を大転換しなければならなかったことが今までにありましたか。人生の計画を持っていたのに、病気、死、健康、転居、または良くも悪くも突発的な出来事などによって、最高によいと思われた計画が崩れたことがあったかもしれません。人生の転換を迫られたのです。 しかし、神はあなたと共におられます。インマヌエル、私たちの計画が何らかの理由で変わったとしても、あらゆる状況と転換期において神は私たちと共におられます。たとえ計画を台無しにする張本人であったとしても、神は私たちを放っておきません。 神は私たちのために計画を立てられていたかもしれません。しかし自由な選択ができる人間として、私たちは神が最初に望んでおられたことと違うことをするかもしれません。すると神は代替策として、あなたのために次の計画を立てるでしょう。 あなたは今、変えようとしていることがありますか。結末を予測できないことが進行中ですか。 今日の聖書箇所、それにマリアとエリサベトに起こった出来事をよく考えてみてください。何が起こっても、聖霊があなたを導いてくれるように祈り続けてください。 ラテン語の「Adventus」(アドベントゥス)は「到来」を意味します。したがって、アドベントの意味するところも「到来」です。この時季、クリスチャンはイエスの到来の準備をします。イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスに先立つ四週間の日曜日は、四つの美徳で表されます。アドベント・リースの四本のろうそくは、希望、愛、喜び、平和を象徴しています。 アドベントは、クリスマスに至るまでの期間を説明するのに最もふさわしい言葉です。私たちが祝うのは、完全に人間であり、完全に神である王の到来です。 アドベントの「到来」の意味について私が考えるもう一つは、マリアは自分の計画が変わったとき、将来どんな出来事が到来するのか知らなかっただろうということです。つまり、神の御子をもうけることは知っていましたが、その後、将来に起こるすべてについては知らなかったはずです。『Mary,Did You Know?(マリア、知っていましたか?)』という歌もあります。さて、マリアはその後に起こる出来事について知っていたのでしょうか。 将来のことを知っていたかどうかはわかりませんが、マリアは天使ガブリエルからの知らせを聞いて、はるかに年上のいとこエリサベトを訪問するべきだと思いました。エリサベトとザカリアは、マリアの受胎の知らせを最初に聞いた人たちでしたが、ザカリアは、息子のヨハネが生まれるまで、天使によって口がきけないようにされていたので、マリアにお祝いの言葉を述べることはかなわず、おそらく手で示したのでしょう。 一方エリサベトは話せたので、興奮して声高らかに言いました。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。エリサベトの胎内の子は喜んでおどりました。エリサベトと胎内の子ヨハネは、貴重な贈り物、神の御子をマリアの胎内に与えられたことをとても喜びました。 マリアはエリサベトの居間で賛歌を言います。この歌は、マニフィカト(ラテン語で「ほめたたえる、賛歌」の意)として知られ、新約聖書中の女性による最も長い歌です。 マリアのマニフィカトは、サムエル記上2章1-10節のハンナの祈りを思わせます。それは息子サムエルの誕生を感謝する祈りでした。マニフィカトはまた、詩篇113篇との類似点もいくつかあり、どちらも高潔さと謙虚さについて語っています。 ドイツの神学者、*ディートリヒ・ボンヘッファーはマニフィカトについて次のように述べています。「マリアの歌は最も古いアドベントの讃美歌である。またそれ以前のアドベントの歌の中で、最も情熱的で、最も激しく、最も画期的なものと言ってよいかもしれない。これはよく絵画に描かれている優しく柔和で夢見がちなマリアではない。この歌を口にするのは、情熱的で誇り高く毅然としたマリアである」。 ボンヘッファーは続けます。「この歌は甘い郷愁を誘うものではなく、クリスマス・キャロルにあるような陽気な調子でもない。王位から引き降ろされる者、低い者が高く引き上げられること、神の力と人間の無力さについての、厳しく強く過酷な歌である。これは旧約聖書の女性預言者の語調であり、この語調はマリアの歌によって、今よみがえるのだ」。 マニフィカトは次の言葉で始まります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」。 この歌を最初に聞いたのはエリサベトとザカリアでしょうが、マリアは彼らのために歌ったのではありません。マリア自身に向けて、またマリアにすばらしいことを行なった偉大なお方に向けてです。この歌はよい知らせを持ってきた天使ガブリエルに向けたものであり、歌から恩恵を受けるすべての人に向けたものです。王位を追われる尊大で強大な支配者に向けて、よい物で満たされる飢えた人に向けて、何も持たないで追い返される富む者に向けています。 マリアの歌はアブラハム、イサク、ヤコブに向けてであり、サラ、リベカ、レア、ラケルに向けてです。また神が共におられ、自分たちを永遠に愛し、新しい永遠の命を与えるくださるという約束を、神が忘れてしまったと考えていたイスラエルのすべての息子たち娘たちに向けられた歌です。 ところでマリアは、ローマの占領下で圧迫を受けている土地の、ユダヤ人女性として暮らしていました。マリアの歌の内容は、過激なものでした。マリア自身は当時の社会システムの中では無力でしたが、権力者に戦いを挑むような歌でした。マリアは、神が人間として到来するという知らせを受け取るために、神に選ばれた人でした。もの静かというより、強い勇気を持つ女性でした。 神は、私たちが成長するのをそばで待ち、常に私たちと共におられますが、神は今ここでアドベントの出来事の中に、私たちと共におられます。そしてアドベントの時期に再び到来する神の中にも私たちと共におられます。 次に補足として、マニフィカトの歴史をお話ししましょう。 イギリス統治時代のインドでは、マニフィカトは教会で歌うことを禁じられていました。 また1980年代のグアテマラ政府は、貧しい人々が優先される神の愛を歌うマリアの言葉が、自国の貧しい人々を奮起させると知ると、危険で革命的だとしてマリアの言葉を公の場で歌うのを禁止しました。 同様に、アルゼンチンでも禁止されましたが、それは「五月広場の母親たち」として知られる母親のグループが、首都の五月広場の至る所に貼った抗議のポスターに、マニフィカトの言葉が書かれていたからでした。母親らの成人した子どもたちは行方不明になっていたのですが、それは軍事政権下で拷問を受けたり殺されたりしたことを意味していました。 そのような政府や、人民を支配しようとする人がマリアの言葉を恐れる理由は、マリアと旧約聖書の預言者らに勇気づけられて、変化を起こすことは可能だと人々が信じるようになるからです。 私たちには未来のことはわかりませんし、今後何が起こるのか予測不可能です。しかし、我々クリスチャンは希望を持っています。神の統治される義、不変の愛、平和、正義は、未来に待っているだけの約束ではありません。苦しみと悲しみの多い現実世界にあっても天国の片鱗を垣間見ることができます。ベツレヘムでのキリストの誕生によって、私たちは神と協力して天国のかけらを取り、地上に持ってくることができるのです。主の祈りにあるように、「願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」の通りです。 おそらく主の祈りにあるような御国の到来は、キリストの再臨まで実現されないでしょうが、キリストの誕生は、御国の到来が約束されていることを私たちに思い出させてくれます。 アドベント・アドベンチャーを、神と共に経験できますように。インマヌエル、神は私たちと共におられます。 アーメン (脚注:*ディートリヒ・ボンヘッファーは、ドイツのルーテル教会の牧師、神学者、ナチス反対者、エキュメニズムの支持者。ドイツ福音教会のナチズムと戦を行った告白教会の主要な創設メンバー。1943年に逮捕され、1945年にナチスの強制収容所で処刑される。著書「The Cost of Discipleship」は、現代の古典である) 祈りましょう。私の口のことばと、私たちの心の思いがあなたの前に喜ばれますように、私たちの岩、購い主なる主の名前によって祈ります。(詩篇19:14)アーメン。
何かを尋ねた時、相手が「うーん.... それは難しいですね」と、手で額を触りながら返答する。そのような経験をしたことがありますか?日本に長く住んでいる人ならその意味がわかると思います。これは「いいえ」という意味です。 神学校の異文化コミュニケーションの授業で、日本人の「ノー」(いいえ)の表現方法が少なくとも20種類あり、そのほとんどが暗黙の了解によるものだと学びました。つまり、日本では通常、「いいえ」という言葉は使わず、「いいえ」であることを示すために様々なことをするのです。 日本のさまざまな間接的な "No "の言い方や表現方法に慣れていない人にとっては、これはとても混乱することでしょう。特に、"Yes "は「はい」、"No "は「いいえ」と、言ったことをそのまま意味する文化や環境で育った人にとっては、非常に混乱することでしょう。 しかし、これは現代の日本人とのコミュニケーションに限った問題なのでしょうか?そうではありません。マタイの福音書にはこう書かれています。 "単純に、イエスはイエス、ノーはノーとしなさい。" ”「はい、そうします」か、「いいえ、そうしません」とだけ言いなさい。”(マタイ5:37) つまり、「はい」を「はい」とする、「いいえ」を「いいえ」とするこの問題は聖書の時代においても人々が直面していた問題なのです。 今日は、聖書の中で「ノー、いいえ」と言った人、つまり、バプテスマのヨハネの母、エリザベトについてお話したいと思います。 バプテスマのヨハネの誕生は、イエスの受胎と誕生の物語と対比されて、アドベント(待降節)の時期によく触れられるクリスマス物語の一部です。バプテスマのヨハネは、ゼカリヤとエリザベトという両親のもとに生まれました。ゼカリヤとエリザベトは、神の民のために神殿や聖所で奉仕する祭司の家系に生まれ育ちました。現代風に言えば、代々の牧師の家系と言えるでしょう。聖書によると、彼らは「二人とも神の前に正しく、主のすべての戒めと規則に従って罪のない生活をしていた」(ルカ1:6)とあります。 ゼカリヤとエリザベトは、正しいことを行い、神の規則に従い、祭司の家族からの期待に応える、神のような人々として知られていました。しかし、子供がいなかったために、彼らの信仰共同体の中では、本当の意味で彼らは祝福されていないと考えられていました。当時、子供を持てないことは、完全なる恵みが与えられていない、恥ずべきことと考えられていました。 彼らは年老いていたので、親になることをあきらめていたかもしれません。しかしある日、ゼカリヤが聖所で奉仕して香をささげていると、主の御使いが彼に現れ、エリザベトが男の子を産み、その子をヨハネと名付けることを告げました。天使は、息子のヨハネが神と神の民のために何をするか説明しました。天使はゼカリヤに、ヨハネが神のために重要な任務を与えられること、ヨハネが"親の心を子に、従わない者を正しい人の知恵に変えて、主のために用意された民を整える "ことを告げました。(ルカ1:16-17) ゼカリヤに息子が生まれ、その息子には目的が与えられ、神に仕えるための召命が与えられる。 これは、多くの人にとって驚くべき、素晴らしい知らせかもしれません。奇跡的な命についての神からの知らせです。しかしゼカリヤは老齢のため、天使のこの言葉を信じることができませんでした。「私は年老いた者であり、このようなことが起こることをどうやって知ることができましょう。私は年老いていますし、妻も年老いていますから。」と答えています。(ルカ1:18) ゼカリヤが信じなかったため、天使はゼカリヤを黙らせ、我が子の誕生を自分の目で見るまで話すことができないようにしました。(ルカ1:20) 天使が告げたとおりにエリザベトは妊娠しました。彼女は大喜びし、その喜びを当時イエスを身ごもっていた従姉のマリアと分かち合いました。二人は一緒に過ごし、神を賛美しました。主の天使が告げた予期せぬ妊娠によって祝福されるというユニークな体験をしたのです。そしてエリザベトが出産する時が来ました。 エリザベトが不妊であったこと、そしてその不妊から来る苦しみを知っていた、彼女の友人や家族・親戚、コミュニティの人々は子供の誕生を一緒に喜びました。ここには彼女が属していた共同体の本当の良さが現れています。当時、彼女の不妊は彼女に対する神の不名誉のしるしであり、何か深い未知の罪のしるしであると思われていたにもかかわらず、共同体は彼女を見捨てませんでした。むしろ、彼女とゼカリヤに寄り添い、共に悲しみ、その苦しみを分かち合ったのです。その誤解が解けた今、彼らはゼカリヤとエリザベトの息子の誕生を一緒に喜んだのです。 しかし、このような共同体としての大きな祝いの時にも、エリザベトとゼカリヤには直面する問題がありました。子供が生まれて8日目に、エリザベトの近所の人や親戚が集まって、赤ん坊の割礼の儀式が行われたのです。現代の私たちにとっての洗礼のように、この儀式は生まれたばかりの子供が信仰共同体の一員として受け入れられたことを共同体全体が喜びをもって祝う場でした。 もちろん、伝統的には長男に父ゼカリヤの名を付けることになります。(ルカ1:59)このようにして神を敬い、父を敬うということは、期待されていたことであり、当たり前と理解されていたことでした。そして彼らを取り巻く人々、つまり不妊のエリザベトを見て、ずっと彼らに寄り添い、神がその悲しい状況を180度変えてくださったことを共に喜んできた共同体の人々は、エリザベトとゼカリヤが自分たちの子供を、ゼカリヤと名付けることを期待していました。 エリザベトは、自分が属する共同体の人々の優しさや善意をよく知っていたので、自分が次に何をしなければならないかについて恐れや不安、「申し訳ない」という気持ちになったかもしれません。 しかし、エリザベトは神様から語られるべき真実を握っていました。 エリザベトは、"いいえ、名はヨハネとしなければなりません "と言いました。(ルカ1:60) エリザベトがどのようにして神様から自分の子供をヨハネと呼ばなければならないということを聞いたのかはわかりません。ゼカリヤはこのことについて天使から口頭で指示を受けましたが(ルカ1:13)、そのときエリザベトはその場にいませんでした。ゼカリヤが彼女のために聞いたことを書き留めたのかもしれません。あるいは、聖霊が彼女に語りかけ、ゼカリヤに言われたことを伝えたのかもしれません。 しかし肝心なことは、いざというときに彼女が声を上げたということです。周りの期待や提案、プレッシャーにもかかわらず、彼女は毅然とした態度で「この子はヨハネと呼ばれるべきだ、呼ばれなければならない」と言ったのです。 エリザベトにとって、これはどのようなことを意味していたでしょう。夫は口を閉ざしていたので、夫からの言葉によるサポートを受けることはできないとわかっていたでしょう。また、夫がその子をヨハネと名付けるつもりであったことをエリザベトは知っていたのでしょうか。 また彼らは彼らの兄弟である友人や家族・親戚が意地悪で利己的な動機や個人的な目的から、子供をゼカリヤと名付けるよう押し付けていたわけでないことを知っていたでしょう。ただ、子供、特に長男には割礼の日に父親の名前を付けるということが普通であり、伝統であったのです。それは彼らのコミュニティで代々行われてきたことでした。それが当たり前のことだったのです。地域の人々はエリザベスにこの伝統を優しく思い出させ、"あなたの親戚にはこの名前の人はいない "と言いました。(ルカ1:61)もちろん、この言葉は、彼女がゼカリヤのような名を選ぶべきだということを示唆しているわけなのです。 ところでこの部分、最初にお話しした日本的で間接的な「いいえ」と表現方法だと思いませんか。 現代の日本社会と同じように、エリザベトにとって声高な多数派の意見に従う方が楽だったに違いありません。ただ同意する方が簡単だし、筋が通っている、争いを起こす必要もありません。みんなが望んでいることをすれば物事は簡単に進むはずでした。 しかし、それはエリザベトが決めたことではなかったのです。彼女は、神様に言われたことを守ったのです。 集まった家族や友人たちは、彼女が伝統を無視し、このように言っていることを受け入れられず、心配になりゼカリヤに意見を求めました。ゼカリヤはまだ言葉を発することができなかったので、石板を持ってきてもらうと、そこにはっきりと「この子の名はヨハネ」と書きました。(ルカ1:63) この言葉はエリザベトが言ったことよりもさらに断定的な表現でした。子供の名前はすでに決まっていて、昔から天におられる神様がが決めておられたことだと宣言したのです。この名前、ヨハネは、ギリシャ語で "神は恵み深い "という意味です。 この瞬間、すべての人が驚きました(ルカ1:63)。しかし何に驚いたのかは聖書には書かれていません。もしかしたら家族の中にヨハネという名前の人がいないにもかかわらず、ヨハネという名前が与えられたということに驚いたのかもしれません。あるいはエリザベトとゼカリヤが、言葉が通じないにもかかわらず、全く同じ名前を確信していたことに驚いたのかもしれません。 そしてさらに驚くべきことが起こりました。ゼカリヤの口が開き、舌がほどけのです。ついに彼は話し始めました(ルカ1:64)。 そして、彼の口から出てきた最初の言葉は、自分たちの子供をヨハネと名付けることの正しさを彼らに納得させようとするものではありませんでした。ゼカリヤが一番最初に発した言葉、それは神への賛美でした。 このようにして、子供の名前をヨハネとすることに皆が同意したのです。 神様が人々の考えや行動を一つにまとめる方法は、私たちが期待、想像するような形で起こることは限りません。神様における共同体において、人々の思いや行動を一つにする方法は、必ずしも過去にそうであったからそうする、また、自分が強く信じていることを相手に納得させるために大奮闘するというやり方ではありません。 今日読んだこの物語を通して私たちは、人々が神に耳を傾けるとき(ルカ1:13)、どのようにして神における共同体が一つになれるかを知ることができます。そして、単に神に耳を傾けるだけでなく、神が語ったことを互いに分かち合うときにも(ルカ1:60)、さらに、他の人が言うことに耳を傾けるとき(ルカ1:66)、人々がどのように一つになれるかを知ることができます。しかし、おそらく最も重要なことは、聞いたことについて熟考し、見極め、考える時間をとったときに何が起こるかを今日の聖書箇所が私たちに教えてくれていれているということでしょう(ルカ1:66)。 神はゼカリヤの疑い深い心に働きかけ、彼が信仰を保つのを助けました。神はエリザベトの心に働かれ、圧力のかかる男性優位の社会の中で、"この子をヨハネと呼ぶ "と確信を持って言う大胆さと勇気を与えられました。神は、エリザベトの友人、隣人、親戚の心に働かれました。彼らは伝統のためにこの子供に父親の名前を付けなければならないと確信していましたが、代わりに神が彼らの心に働きかけ、子供をヨハネという風に名付けることに心を開くようになりました。 これらは私たちの心に神が働いてくださるときに起こることです。私たちは自分の心の中にある思いに固執するのではなく、神に近づくのを妨げている何かを手放すことができるようになります。疑いであれ、恐れであれ、伝統であれ、何が正しいのか、何が良いのかという自分のなかにある確信、コミュニティの中で次に何をすべきかについての個人的な信念、神が私たちの中で働かれる時、私たちはこれらのことを手放し、神が私たちの中で、また私たちの間で働かれるための余地(スペース)を作ることができます。 私たちがそうするとき、私たちはさらに大きな可能性、より大きな夢、ビジョンへの扉を叩くことができるでしょう。 今日の物語の最後の方で、隣人や親戚の人たちは、驚き、耳を傾け、考え込んだ後、「では、この子は何になるのでしょうか?」と言っています。(ルカ1:66)。 もし、彼らが今まで通りの考えに縛られた人たちで、自分たちのやり方や伝統に固執していたら、この質問はできなかったでしょう。ヨハネは祭司の家系に生まれ、祭司職はつまり「家業」でしたから、過去や伝統に囚われていたらこのような質問をしようとは思わなかったでしょう。なぜなら自分たちが知っているように考えるのであれば、ヨハネは父ゼカリヤと同じ祭司になるに決まっているからです。 しかし、神が自分たちの中で、自分たちの間でなさっていることを受け入れ、自分たちが持つ期待や深い信念を手放したとき、彼らはもっと大きなビジョンに向かって、それまで考えたこともなかったような質問やアイデアに心を開いたのです。 今日の聖書箇所を通して、神は今日の私たちにどのように語りかけているのでしょうか。共に考えてみましょう。 私たちの生活の中で、自分の確固たる信念や伝統を強く持ちすぎていることにより、神を完全に招き入れていない部分はありませんか? もしかしたら、私たちは経済面において、神を招き入れることを躊躇しているのかもしれません。神の慣習にとらわれない方法に従えば、経済的なリスクが生じることを恐れているのかもしれません。人間関係の中に神を入れることを恐れているかもしれません。私たちは、神を完全に招き入れ、神に完全に従うのであれば、今自分がしているよりも、もっと徹底的に愛し、もっと完全に赦すことを求められると知っているからです。将来のことはどうでしょうか。もし、神にもっと完全に心を開くのであれば、神はあなたの将来について何と言うでしょうか?恐れ、不安、あるいは自分が何をすべきかについて強く持ち続けている信念が、耳を傾け、熟考し、神が私たちの人生に何をしてくださるのかを考えることを妨げているのではないでしょうか? 私たちは、私たちの中にある人間的で、伝統的なものや考え、計画に過ぎないものを受け入れ、それらに対し「イエス」と言い、そうすることで神のもの、神の考え、神の計画に対し知らず知らずに「ノー」と言っていないでしょうか? 私たちは神様に耳を傾けているでしょうか?それとも、私たちの多くの要求を神に差し出しているだけでしょうか? 周りの人々の多くの要求に屈し、それが良いことであるか、神に適うことであるかを考えることなく、ただ周りの者が望むものを与えているでしょうか?それとも、一歩立ち止まって熟考し、目の前で神がどのように働いておられるかを考え、自分を導くのは神の神意ではなく、自分自身の個人的な意図や他人の意図かもしれないという可能性を考えてみる時間を持っています?。 これらの質問を私たちの教会生活においても、じっくりと考える必要があるでしょう。 私たちは、恐れや疑問、自分たちが抱く強い信念によって、過去の伝統に囚われ、心を支配され、未来の可能性を見失っていないでしょうか? エリザベトの親戚や隣人たちが、生きた神の霊によって、「この子はどんな人になるのだろうか」と考えることのできる人々に変えられたように、神に対し心を開いているでしょうか。 私たちは、「私たちの教会に何が起こるのだろう」と考えるのではなく、「この教会はどのような教会になるのだろうか」と考えたことはありますか? 私たちが「どのようになるか」を考えるとき、私たちは成長と継続的な変化を受け入れられるようになります。私たちが「手放し、神に委ねる」とき、神には私たちの心や思いを一つにする力があることに気づきます。私たちが世の中にある思いや考えに対し「ノー」と言い、神からの思いや考え、ご計画に「イエス」と応対する時、私たちは変革された人々となり、その先にある、より大きな神の御業、以前には想像もできなかったようなより大きなアイデアや可能性に目を向けることができるようになるのです。 今日の物語をもう一度自分で読んでみてください。神からの語りかけに耳を傾けてみてください。神様がどのように私たちに語りかけてくださるのか、それを通して、”私は、私たちは(神において)どのようになるのか?”と問いかけることができる人々になりましょう。 そうすれば聖霊を通して、縛られていた、かき消されていた声が語られ、神の恵みがすでに私たち全員にもたらされていることを教えてくれるでしょう。 祈りましょう。 愛する神様、私たちはあなたのもとに来て、疑念、恐れ、プライド、所有物、自分の期待、計画、意見を持ち続けたいという強い願望を告白し、悔い改めます。主よ、私たちを憐んでください。どうか、私たちがあなたの導きに耳を傾け、私たちの人生と教会共同体としての歩みの両方に従順であるように助けてください。あなたの御心がなされますように。アーメン。 |
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