今週の日曜日は11月1日です、それは諸聖人の日です。 「聖人」という用語は広く使われています。 人々はそれを教会の勤勉な働き手、亡くなった人、そして教会の歴史の中で特定の名誉ある死者を指すために使用します。 しかし定義によると、あなたが信じるクリスチャンであるなら、あなたは聖人です。 諸聖人の日は一部の教会や国にとって特別な日です。 EKKのミリアムは、ドイツ語で「諸聖人の日」と呼ばれていると言いました。 ドイツ人は亡くなった親戚を覚えて、その日に墓を訪れます。 この日はドイツのプロテスタント地域で祝日です。 メソジスト運動の創設者であるジョン・ウェスレーは、諸聖人の日を楽しみ祝いました。 1767年11月1日の日記で、ウェズリーはそれを「私が本当に愛しているお祭り」と呼んでいます。 1788年の同じ日に、彼は「私はいつもこの日が心地良い日だと思う」と書いています。 翌年、彼はそれを「私が特別に愛する日」と呼んでいます。 マルティン・ルターの時代の諸聖人の日は、帝国全体の聖なる日でした。 そのため、司祭であり学者でもあるマルティン・ルターがこの日にドイツのヴィッテンベルクにある城教会のドアに近づき、1517年10月31日にプロテスタント宗教改革を開始する95の革命的意見を含む一枚の紙を釘付けにしました。彼は1517年11月1日に多くの人々が教会にいることを知っていたので、メッセージを出したいと思ったのです。 マルティン・ルターは、1500年代初頭ドイツのヴィッテンベルク大学で道徳神学の司祭兼教授を務めました。 ところで私はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアについて話しているのではありません。 ご存知かもしれませんが、ルーテル教会はマルティン・ルターにちなんで名付けられています。 「95か条の論題」のメッセージが要約を与え、キリストの教えの堕落についてすでに彼の仲間の多くが持っていた感情を表現し、そして永遠の命は善行によって獲得することはできないとして彼は有名になりました(または教皇によると悪名高い)。 ルターは贖宥状(免罪符)売買の実践の乱用の背後にある精神的、物質的、心理的な真実を描写しました。 当時の人々はまた、天国への道を買うことができると考えていました。 彼の「95か条の論題」は聖書が中心的な宗教的権威であり、人間はその行為によってではなく信仰によってのみ救いに達することができるという2つの中心的な信念を提唱しました。 当時のカトリック教会は分裂し、すぐに現れたプロテスタントはルターの考えによって形作られました。 彼が書いたものは西洋の宗教的および文化的歴史の流れを変えました。 ルター自身は聖人に祈ることを信じていませんでしたが、聖人の模範から学ぶことがたくさんあると信じていました。聖人についての彼の会話を支配したのは彼らの信仰でした。 私たちは過去と現在の聖人に触発されます。 それがこの諸聖人の日曜日の目的です。毎年特別の日曜日を取り置き、時代を超えて存在するすべての聖人、あるいはまだ生きていて私たちの生活の一部を担っている聖人を神に感謝します。ちょっと考えてみてください。あなたの信仰に影響を与えたのは誰ですか、あるいは現在与えているのは誰ですか?私にはたくさんの人がいます。母ルビー・ジェノン、賀川豊彦、ジョン・ウェスレー、神学校の親友スーザン、息子の名付け親フィリス、そして3年生の日曜学校の先生だったデイ夫人。すべてが天国におられ、「多くの目撃者の雲」の一部であり、私たちのために道を開いた信仰の人々です。彼らは私の信仰の旅において形成的な影響を与えてきました。 「多くの証人の雲」(ヘブライ人への手紙12:1)の中の誰があなたの信仰の形成と育成に最も影響を与えましたか? 雲に囲まれているということは、何百万もの信者が私たちの前を歩き、それぞれが私たちが今生きている信仰の生活を証ししていることを示しています。 またあなたにインスピレーションを与え、祈り、励ましてくれた聖人たち、つまりあなたの人生の特別な人々を思い出していただければ幸いです。天国にいる人もいれば、まだ存命の人もいます。そしてその人々の何人かは今ここの教会の会衆席に座っているかもしれません! 周囲を見回して、聖人を見つけたり、罪人と見分けることができます。 許された罪人が誰であるかを識別することは(不可能ではないにしても)はるかに困難です! 私たちは皆、許された罪人です! 聖人に会い始めると、彼らは「聖人」ではないことがわかります。 彼らは奇妙または風変わりである可能性があり、彼らの持つ良さではなく、彼らを通して輝く神への愛によって区別されます。 あなたは聖人であるために完璧であったり、有名であったり、死んでいる必要はありません! ただ神を愛し、隣人を愛し、世界を愛する必要があるだけです。あなたはただ神があなたをそうあるように創造された人でなければなりません! 神の愛をあなたを通して輝かせましょう! 私たちは、イエス・キリストの苦しみ、死、そして復活を通してのみ、聖人であり、許された罪人です。 神の恵みによって、信仰によって、神は私たちを聖人にしてくださいました。 祈り、勉強、そして真剣な努力を通して、神が私たちをも聖人にしてくださることを祈りましょう! ナディア・ボルツ・ウェーバー牧師は、すべての罪人と聖人のための家と呼ばれるデンバーのルーテル派の創設牧師です。彼女はたくさんの本を書きました、そして彼女の本の中で私のお気に入りは、今日の私の説教のタイトルを手に入れた “Accidental Saints : Finding God in All the Wrong People” 「偶然の聖人:すべての誤った人々の中で神を見つける」です。 コロラドの彼女の風変わりな教会について共有し、彼女の恵みとの出会いについて描写しています。 そして神が最も可能性の低い人々にどのように現れるか。 彼女が避けたいと思うかもしれない人々でさえ、結局は恵みの担い手になるでしょう。 彼女は恵みとの出会いを、暖かい毛布に包まれているようではなく、鈍器で殴られているように感じる贈り物だと説明しています。 しかしこの恵みによって、人々は自分たちだけでは不可能だった方法で変えられていきます。 ナディア牧師はまた、「私たちが聖人の中に祝うのは、その人の敬虔さではなく、可能な限り最も壊れた手段、つまり欠陥のある人間を通して美しい贖いのことを成される神の能力です」と言います。 私たちの中には、聖人、おそらく予想外な聖人もいます。見回してみてください。 彼らを通して神様の愛が輝いている興味深い人々がいます。 過去に存在した教会員、大きな信仰を持つ人々、彼らは私たち全員の模範です。 例えばユーリ、マーテル、ドロシーは私がKUCで知っている聖人のほんの一部であり、その人生を通した奉仕によって私は祝福されKUCでの行いを助けてもらいました。 ちょうど、遺灰を置くことができる教会の納骨堂があることを共有する良い機会かもしれません。私たちの神戸ユニオン財産委員会KUPCによって費用がまかなわれました。田渕牧師はKUPCの会長です。 2週間前、私たちは納骨堂の祝詞と奉納礼拝を持ちました。 EKK- der Evangelische Kirchengemeinde Kobe-Osaka(ドイツ語を話す会衆)が出席しました。ちなみにミリアムはEKKの会長で、2021年に私たちの教会で150周年を迎えるドイツ語のビデオに取り組んでいます(納骨堂の奉納礼拝のスライドをご覧ください。詳しくは田淵先生にお尋ねください。) 今日の礼拝で一緒に述べた使徒信条、「…私は聖霊、聖カトリック教会、聖徒の交わりを信じています…」について共有したいと思います。 この交わりは、キリストがその頭であるからだに結びついている天国の聖徒たちと地にある私たちの霊的な連帯です。この信者の連帯は、生きている人も亡くなった人も、神の統治の前兆である聖体拝領を共有する祝福された人々の共同体です。 「証人の雲」(ヘブライ人への手紙12:1)や信仰の旅で私たちを助けてくれた人がそうであるように、生きている私たちは聖人です。 聖人として、私たちは苦労するかもしれません。 私たちは間違いを犯し、疲れ、手抜きをし、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても反抗します。 私たちは偶然の聖人です。 これが諸聖人の日が意味することでもあります。それは天と地を結びつける大きな抱擁のようなものです。それは、神の力と頼りにする愛以外をおいては行動することができないという信頼の多くの証です。それは、あなたが心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、理解を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛し、あなたの隣人をあなた自身として愛するときに続く関係のお祝いです。 それは、自身の人生を通して神の恵みをあなたに示す過去の人々と現在の人々を覚えるということです。 最後に聖人の話で締めくくります。 オスコラ・マッカーティという名前の女性は、生計を立てるために衣服の洗濯をしていたアフリカ系アメリカ人の女性で、家族の洗濯業を手伝うために6年生で学校を中退しました。 75年以上の間、彼女は日の出から日没まで働きました。 彼女が87歳になるまで誰も彼女が誰であるかを知りませんでした。 それは彼女がアフリカ系アメリカ人の奨学金のために南ミシシッピ大学に15万ドル(彼女が一生を通じて貯めたお金)を提供した年でした。その年は1999年でした。ニュース記者は彼女の話を共有し、企業は彼女の贈り物に合わせました。 最初のマッカーティ奨学金を授与された若い女性はとても興奮していました。 オスコラ・マッカーティがよく聞かれる質問の1つは、なぜ彼女が自分にお金を使わなかったのかということです。 彼女は「自分自身にお金をかけている」と笑顔で答えました。 私たちは、最もありそうもない人々の中に神を見つけます。 祈りましょう:全能の神様、その人々は一つの聖なる教会、私たちの主キリストの体で一緒に編まれています。信仰と献身の生活の中であなたの祝福された聖人に従うために、そしてあなたが準備された表現できない喜びを知るために私たちに恵みを与えてください。今も、そして永遠に生きておられ、あなたと共に統治されるあなたの息子、私たちの主イエス・キリストを通して。アーメン。
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先週、田淵先生が仰った「最近この世界は暗く、とても苦しいニュースが多い」という言葉に私はとても共感しました。コロナの感染拡大、海外では感染者数が増加している場所もあり、尊い命が失われ、多くの人の仕事、安心・安定した生活に悪影響が出ています。 自宅で過ごす時間が長くなると共に、家庭内暴力や子供の虐待の数が増えました。ホームレスの人達など、食べ物が十分にない人達にとっては、食事を与えられる機会が減り、生活がより困難になりました。お腹が空いている人達は、より空腹になり、寂しい人は、より孤独になり、落ち込んでいる人達は、より鬱になっています。皆さんがご存じの様に、鬱は自殺要因となる大きな問題です。 日本では自殺は大きな社会問題です。厚生労働省の統計によると、自殺は、下は10歳から上は64歳までの5位以内の死因になっています。20歳~39歳に至っては、自殺は死因の1位です。 日本最大の英字新聞であるJapan Timesによると、今年の8月の自殺者数は15%増加し、1854名となっています。その人数は日本のコロナ総死者数とほぼ同じです。コロナ感染拡大が始まってから今までに亡くなった人の数と同じ数だけ毎月自殺という形で命が失われているのです。 実は私もこれまでに自殺を考えたことがあるので、自殺や鬱病は個人的に深い思い入れがあるトピックです。 すでに多くの方にお話しさせて頂いていますが、私が21歳の時、母が亡くなりました。母は2003年10月24日に亡くなりました。それは私がアメリカの大学に留学して1年目の事でした。 早朝に兄から電話をもらいました。兄は話下手で電話をかけてくるような人ではないので、彼が電話をしてきた事が珍しく、瞬時に何かがおかしいと私は感じました。電話で私達は挨拶を済ませ、次に兄から出てきた言葉は私の人生を一変させることになりました。「落ち着いて聞いてね、お母さんが亡くなったんだ。」 家族の中でも私が一番近い関係にあったのが母でした。とても優しく、与えることが好きな人でした。私の人生の中で嬉しい時も悲しい時も、経験したことは何でも母に話していました。母はいつも私のそばにいてくれました。私が5歳の時、急性虫垂炎で入院をした事があります。夜、病室は暗くとても怖かったのを覚えています。 入院中母はずっと病室のソファに寝て、夜中は私の手を握ってくれました。アメリカの大学に行きたいと両親に相談した時に一番に私をサポートしてくれたのは母でした。今の世界を生きていくにあたり、女性はチャンスがあれば、留学をして、より広い視野や考え方を身に着ける必要があると言ってくれました。 だから、母が私の近くにいて、私を愛し、サポート出来なくなるという事実を受け入れる事が出来ませんでした。母を失ったという事を理解できず、受け入れる事が出来ませんでした。母は51歳の誕生日を迎えたばかりでした。子供たちがやっと成長して家を出た今、母はもっと人生を楽しめたはずです。 母の死による私の悲しみや痛みは深いものでした。眠る事、食べる事が出来なくなり、正しく物事を考える事が出来なくなりました。話をすれば感情をコントロールできずに泣いてしまう事が分かっていたので、誰とも喋りたくなかったのです。なりたくない誰か別の人に自分がなってしまうのではないかと感じていました。 ですから、私は人を避け、学校には行かず、1日のほとんどを寮のベッドで一人ぼっちで考え事をしながら過ごしていました。窓の外を見ると、空に鳥がいました。鳥になって飛んでいきたいと思いました。「鳥は世界の様々な事を気にせず、自由なんだ」と考えていました。 鳥の様になりたいと思っていました。 大学は私の精神状態を心配し、スクールカウンセラーと話をするようにと私に言いました。数回スクールカウンセラーとセッションを行った後、カウンセラーは私が母の死のトラウマから一時的な鬱状態にあると私を診断しました。カウンセラーと話す事が少しは手助けになりましたが、カウンセラーに会えない時間はより深く悲しみを感じていました。 一人でいると、絶望感が沸いて、何倍にも膨れ上がるのです。私は一人暗い世界にいて、誰も私を救い出す事が出来ない場所にいると感じていました。 そして、もうこれ以上は自分自身ではどうにも出来ないというところまで行ってしまいました。私の精神状態は悪くなる一方でした。カウンセラーは私に自殺願望が芽生えていないか?と聞いてきました。私の答えは「そうかもしれないし、分からない」というものでした。 実際には私は疲れ果て、どうしようもなくなっていたので、その質問に対する答えを考える事すらしたくなかったのです。母を亡くした心の痛みは私を完全にマヒさせ、考える能力、また感じる能力さえも奪いました。 それを聞いた時、カウンセラーは私の安全を保証する事が出来ないと察知し、私を精神病院に送る事を決めました。 精神病院では自分自身の命を信じてもらえないという不思議な体験をしました。私の所有物は全てチェックされ、没収されました。トイレにはドアがありませんし、爪切り、髪のゴム、フォークやナイフ、スプーンなどはありません。あらゆる角度から私を見ているカメラが設置されていて、四六時中監視されました。これがきっと囚人の生活なんだと想像する事ができました。 私は毎日ベッドに横になり、泣いて過ごしました。それはとても惨めで、絶望的でした。病院側は私にノートを渡してくれ、なんでも頭に浮かんだ事をノートに書いて良いと言われました。私は何度も何度も「もうこれ以上、この状態でいる事は無理です。助けてください。苦し過ぎます」と書いていたのを覚えています。心の深いところからの叫びでした。これが私にとっての哀歌だったのです。 今日の聖書朗読箇所は哀歌です。私の叫びのように、「lament(嘆き悲しむ)」ことは、悲嘆の表現方法の一つです。哀歌とは、誰もが感じる悲しみや悲哀を表現したもので、哀歌の著者は5章全てを使って悲しみについて書き記しまた。 哀歌は神の人々が神の街を失った後の悲しみについて書いてあります。紀元前586年に神の街であるエルサレムがバビロニア帝国によって征服されます。預言者アモスや、イザヤ、エレミヤによって神は暗黒の時代がエルサレムに来ることを預言していました。もし人々が悔い改めることをしないと。しかし何世代にも渡って、沢山の預言者によってこの忠告があったにも関わらず、イスラエルの人々が主の道に戻る事はありませんでした。王も人々も主の目に悪とされることを続け、偶像崇拝を行い、弱い立場にある人々を搾取していました。 最終的にバビロンのネブカドネザル王が、バビロニア軍をイスラエルに向かわせ、力づくでエルサレムを征服し、多くを破壊した後、イスラエルの王、司祭、政府高官、全ての職人、鍛冶屋、戦士、そして上流階級の人々をバビロンに捕虜として連れて行きます。合計で1万人が捕虜になったとも言われています。(列王記第二 24章14節) また、バビロニア人たちは主の家から全ての財宝、王の家や神殿行事で使われていた品物を略奪し、金、銀、価値ある全ての物を街中から略奪していきました。 そして最終的に全てを略奪した後に、都市の完全破壊の行為として、イスラエル人にとって精神的な支えであり、信仰とアイデンティティの中心である神殿が全て破壊されました。 すでにエルサレムには何も、誰も、神の地上のしるしさえも残されていませんでした。残されたのは貧民だけでした(列王記第二25章12節)。そして、貧民の中でも一番貧しい人々は空腹でさらに貧しくなりました。乳飲み子が都の広場で衰え果てる街。(哀歌2章11節)哀歌の著者は、ふと立ち止まり、「これが、美のきわみと言われた町、全地の喜びの町であったのか」(哀歌2章15節)と問うのです。 バビロニア征服でエルサレムに残されたこの生存者は、哀歌の中でこのどうしようもない悲しみをどこに持っていくでしょう?誰を責めようとするでしょう?彼は神を非難し、神が全ての身体的、精神的な苦しみを経験させたと主張します。 彼は、「主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ」(哀歌3章2節)、「主は私の肉と皮をすり減らし、骨を砕き」(哀歌3章4節)、「主は青銅の足かせを重くした」(哀歌3章7節)と叫びます。 そして、出口は無いと。 しかし残念ながら、非難することが理にかなっているように見えるこの試みは、彼のたましいを平安から遠のかせるのです(哀歌3章17節)。「栄光と幸福は全て無くなってしまった」と彼は言います。主から受けた望みも全てが無くなり、闇だけが残りました。 しかし、その先にターニングポイントが現れます。 彼はとてもシンプルな神の真実を思い出すのです。 「主の揺るぎない愛は止むことはない。主の憐みは決して終わる事はない。その真実は毎朝新しく、あなたの真実は偉大だ。」 哀歌の作者はエルサレムの破壊を経験し、目の前で全てを失いました。彼が愛した神の街は、かつての様子を失い、王、国、礼拝できる場所さえもありません。彼が所有していた宝、お金ももうありません。家、家族、友人、コミュニティさえ全てバラバラにされました。主を除いて全てが無くなったのです。 彼は神の愛、あわれみ、真実が彼自身がこの世にくる前からずっと存在していたことを思い出します。イスラエルの人々がエルサレムに自分たちの居場所を見つけるずっと前から神の愛、あわれみ、真実は存在していたのです。 神の愛についての物語は何世代をも超え受け継がれてきていました。遠い昔神の人々はエジプトでの奴隷から逃れ、その逃亡の結果、新たな地を求めて放浪者となりました。 そしてその困難な放浪の時期にイスラエルの人々は他の神々を崇拝する事で神の愛を裏切り、全能の神の真実と摂理に不平を言い、疑いをかけていました。イスラエルの人々は神が彼らを約束の地に連れて行くどころか、生き残るのに十分な食べ物と飲み物を提供できるかどうかでさえも疑っていたのです。 しかし、神の人々が何度も不誠実や疑いをかけたとしても、神は常に憐みをもって応え、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでいました(出エジプト記34章6節)。 哀歌を歌うエルサレムに残された生存者は、主の愛が常に神の人々の為にあったことを思い出すのです。そして彼がその事を思い出すにあたり、彼の叫びが18節の希望から21節の希望の回復、24節の神への希望を待ち続ける決意に変化していくのです。 希望への変化が分かりますか?希望を失い、希望の回復、希望を持ち続ける決意。 哀歌にある希望の物語は、私自身の希望の物語でもあります。 精神病院にいた頃の私は毎日ベッドで泣いていました。悲しみ、落ち込みはひどくなるばかりで、一生ここから抜け出す事が出来ないのではないかと感じていました。 しかし、ある日看護師が私のベッドに来て言った言葉が忘れられないものになりました。 彼女は「あきこ、大丈夫よ。また幸せになれるから。起きる事全てに意味があって、神様は、あなたの許容範囲以上の事を与えないから。」 これが私のターニングポイントでした。彼女がくれた言葉は私の希望となりました。 彼女の言葉はトンネルの中にさした光の様でした。彼女が言った事が真実であれば、これも理由があって起きている。もしかしたら、私が生きる理由があるのかもしれない。これは、私が乗り越えられる、許容出来る範囲内で起きた事なのであれば、私は良くなるかもしれない。そしてこれを乗り越えて、同じように悲しみにある人達を助ける事ができるかもしれない。 その時の彼女の言葉は、私にとって、哀歌の作者が思い出す神の言葉と同じような役割を果たしました。 彼女の言葉は私に希望と力強さを与えてくれました。私がもう一度生きる事を決意するには十分な言葉でした。 この日を境に私は変わりました。自分が鬱を経験した事実を認識し、受け入れ、鬱やうつ病をコントロールする事を学べるクラスで学び始めました。私自身が体験した感情を学ぶために学びました。感情について、カウンセラーと話し、どの様にその感情に向かい合い、消化していくのかを学びました。 もちろん簡単な事ではなく、何年ものカウンセリングと、怒り、罪悪感、妬み、悲嘆、深い悲しみ、恐れ、疑い、復讐の感情に向かい合い、自分自身を決めつけてしまう考え方、自己肯定感の低さ、赦しなど様々なことに向かい合わなければいけませんでした。 しかし、こういった事、感情に向かい合う中で1つだけ常にそこにあるものがありました。 それは、私に対する神の愛でした。 様々な感情に向かい合うその時、神は私と共に居てくれました。私が自身の感情にもがき苦しんでいる時、その事を裁く事もなく、神は常に側に居てくれ、全ての私の感情を包みこんでくれました。 私が困難な感情に直面するずっと前から、神の揺るぎない愛がそこにあったので、私はそれに立ち向かう力を見つけました。私は、神が私が許容できる範囲内しか与えない事を知りました。神の愛が私に希望を与えてくれました。ローマ人への手紙5章5節にあるように、希望は失望に終わることがありませんでした。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私の心に注がれたからです。 悲嘆から来る哀歌のような心の叫びは私自身だけでなく、多くの人々が経験する事だと思います。 悲嘆の旅は長く、曲がりくねって、立ち止まってしまう場所も沢山あります。そしてそれ以上先に進めないと感じる事もあります。 しかし、立ち止まる度に神は待っていてくれます。悲しみを表現する事は、自分の心の叫びを感じてあげることです。でもその悲嘆の中にある時、私達は独りではありません。神の深く、変わらぬ愛が私達と共にあります。悲しみを覚える事は、私達を待っている神のより深い愛に触れる事です。暗闇の中でも私達は神、エマニュエルと一緒にいるのです。 哀歌の中でエルサレムに取り残された者が心から叫んだように、私達は20節もの長さを費やして、絶望的な痛みの叫びを声にする事ができます。私達の神はそれをさせてくださるお方です。神は私達の痛みと傷に対する叫びをきちんと聞いてくださる方です。 しかし、どれほど長く深く泣いても、神の愛には力があります。神が誰であるかを思い出させる哀歌の数節は、私達を支え、守り、希望の場所に連れて行くには十分すぎるほどです。 神に希望があるからといって、私達の問題が全てなくなるわけではありません。エルサレムの街は50年以上征服され続けました。私自身、何年にも渡りカウンセリングを経ても、難しい問題に直面したときは、うつになる傾向がある事に気づきました。まだベッドに隠れ、そこから出たくないと思う憂鬱に思う日もあります。 しかし、エリヤが自身の人生と宣教に希望が無いと思った時に神が天使をエリヤに送っり、食べて、飲んで、休むように言われたように(列王記第一 19章4節~7節)、私も休んで、食べて、明日はまた新しい一日が来ると確認します。なぜなら神の愛は決して終わる事はないからです。 神の憐みは毎朝新しく、神は忠実です。神の愛は私達に希望を与え、困難な時や困難な日を生き抜く力を与えてくださいます。神は「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ人への手紙8章39節)と言います。 神は神の愛は常にここにあり、それが私たちに必要な全てだと。 私が抱いていた全ての悲しみと絶望感を神は揺るぎない愛で包んでくれました。私をよく知っている人達は、私がよく泣く事を知っています。しかし、私が流す涙すべてに神がいてくださる。神の揺るぎない愛は私に癒しと回復をもたらしてくれます。 母が亡くなってしまった事に対して、私が神に感謝する事はありません。しかし、その事を経て、私が経験できた事に感謝します。絶望が私をイエスに連れて行ってくれたからです。絶望はイエスキリストの希望を私にもたらしました。絶望は私を主の揺るぎない愛に導きました。絶望は、悲しみや精神病に苦しむ人々に敏感になる心を私に与えてくれました。絶望は、苦しんでいる人々に慰めとして福音のメッセージをもたらすという召しを私に与えてくれました。 悲しみやは私たちにとって大切な人の喪失だけでなく、家、収入、アイデンティティ、人間関係や生活など同等に重要な何かの喪失によって、どの人にももたらされるものです。私たちは人生においてどこかでいつか、悲嘆、哀歌を経験します。 私たちが哀歌、または自身の生活の中で遭遇する悲嘆を経験するとき、私たちが希望の人となれますように、神の揺るぎない愛の中で希望の人と定義される人々になれますように。 主の揺るぎない愛は止む事はありません。神の憐みは決して終わる事はありません。その真実は毎朝新しく、主の真実は偉大です。 皆さん、この神との約束を堅く握りましょう。神の愛と希望により、私たちが人生を歩む時、私たちには全ての事に立ち向かう力が与えられ、私たちがコミュニティとしてお互いにおける人生の全ての喜びと重荷を共に背負い合うこと事が出来ますように。 神は常に私たちと共にいらっしゃいます。 アーメン。 おはようございます。いかがお過ごしですか。特にこの10月、率直に申し上げて、私はテレビのニュースショーなどをみていると、辟易してきます。日本でもアメリカでも、特に政治のニュースですね。ほんとにいやになるのは、多くの人々がその対抗する人たちを右翼だ、左翼だと呼び、ただ自分たちを分けて、相手の意見を受け入れず、自分の意見のみを言い募り、決して相手の視点から自分を考え直そうとしないのです。 私は政治学を専攻したのではありませんが、でも右翼とか左翼という言葉は実際どんな意味なのでしょうか?それは18世紀、フランス革命当時のフランス議会で、右側に着席していた人々は、より伝統的で王党派政府よりだったのに対し、左側の人たちはより進歩的な、民主的な政治体制を支持したということに由来します。それ以来、右翼の人たちは保守的な生き方に従い、左翼は自由主義的でした。さらにそれが社会階層、人種集団、経済状態、そして教育や知的な状況のなかでの分裂をもたらしてしまいました。私たちは今や、分断された社会に生き、それぞれの利害の対立を日々経験しています。 そんな社会に生きているからこそ、イエスのメッセージに耳を傾けることは、興味深い以上に重要なことなのです。彼の伝道活動の初期に、イエスはそのメッセージを非常に短く語りましたし、その短い言葉のなかに、彼のその他のメッセージが濃縮されているように思えるのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音所1章15節)。これが彼の福音の核心で、一言でいえば、私たちは今までの日々とは違った全く異なった時代に、「神の国」に生きているということなのです。 「国」というのは実は決して正確な翻訳ではなく、その言葉には領域的な意味や政治権力のような意味合いはなく、支配という意味で、私たちは神様の支配の下に生きている、ということなのです。実は私たちは何世紀にもわたって、人間の支配のもとに生きてきました。皇帝、王、大統領、総理大臣、領主(知事)などです。しかし今私たちは全く異なった時代に神様の支配する時代に向かっています。 ここで「悔い改め」という言葉が使われていることにも注目させられます。この言葉はクリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、過去の過ちを後悔し、反省し、その罪を告白し、過去の自分を投げ出す、というような意味で受け止められています。でもその本来の言葉、これはヘブル語ですが「シューブ」は振り返る、戻る、今までの生活の生き方を変える、という意味です。では私たちはどこに帰るのでしょう。どこに向かって戻ってゆくのでしょう。それは神様が支配し、統治する神の国へです。それは創世記において神様が創造された場所ですし、神様はそれを「非常に良い」と言われました。神様の支配がいきわたり、人間は「神のかたち」として創造され、神の意志に従ってすべての自然を管理するように委託されたのです。 ところで、神の支配と人間の支配の違いとはなんでしょうか? 社会において、神の意志に基づくもの、あるいは人間的なものによる基準や基本などがあるのでしょうか。皆さんは、冨とたくさんの財産がある生活と、質素でつつましくどちらかというと貧しい暮らし」のどちらがいいですか? 日本は世界的にもっとも教育熱心な社会として知られていますし、15才以下のほぼ100%の子供達が学校に在籍し、多くが大学進学を希望し、できれば有名な大学、国立ならば東大、京大、あるいは早稲田、慶応,そして願わくば関西学院もそうあってほしいのですが、そんな大学に行きたいと願っています。日本の人たちは、そんな教育に熱心なのは、よい教育(学校)は、物質的に恵まれた未来の生活を約束してくれるからです。立身出世、社会における高い地位につくことは高収入と安定した生活を約束してくれるからです。物質的な豊かさは、人生の成功の証なのです。それは日本だけではなく世界中どこでもそうなのかも知れませんが、お金持ちになるということが、私たちにとって望ましい生き方とされるのです。ある日本の小学校、あるいは中学校で、あなたのお金をどう投資すればいいか、あるいはデイ・トレードでどうお株を買えばいいかというような授業が実際に行われているのも、面白いところです。 ドイツ出身の哲学者、精神分析学者で、ナチスの迫害を逃れて英語圏に移住したエーリッヒ・フロムは「TO HAVE OR TO BE」(邦訳題『生きるということ』)という本を著しました。その書名から内容がお分かりいただけと思いますが、人間の価値観あるいは生き方には基本的に二つの形があります。人生においてもっとも決定的なものは、一つはできるだけ多くのものを「所有する」べきだ、ということか、もう一つは あなたの状況がどうであっても、あなたはあなたで「ある」べきだ、というものだというのです。そしてこのTO HAVEという生き方は日本のような農耕文化に深く根差しており、TO BEは非農耕文化、もし、ドイツの思想家で社会学を確立したマックス・ウェーバーの考え方を借りると「ベドウィン」(日本語では「小家畜飼育者」と訳される)、つまり羊飼いの生き方によるものと言えます。農夫は地の実りに依存しており、もし収穫が大いに期待できるのなら、物質的に豊かな生活を送ることができます。しかし羊飼いの生活は不安定で、もし羊が辺りの草をみんな食べつくしてしまうと、荒野をさまよって羊たちのための次の場所を、あてもなく探さなければなりません。羊飼いたちは、その群れを導き守るための能力に大いに依っていますが、その才能は神様から与えられるもので、彼らは根本的に、いかなる状況にあっても神を信じ続ける存在なのです。そしてみなさんは、このベドウィンー羊飼いのイメージが、最も初期のイスラエルの人々、アブラハム、ヤコブ、イサクのそれと重なってくることに気づかれるでしょう。またイエスの「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」(マタイ福音書6章35節)、「人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカによる福音書12章15節)という言葉が思い出されます。 私たちにとって、安定した豊かな生活をもとめるのは自然なことのように思われます。しかしそれが行き過ぎると、私たちは自分中心となり、私たちの隣人が助けを求めていたり、苦しんでいたり、病気でいたりすることを見る視野を失ってしまいます。あるいは自分の権利や正しさのみを主張し、ほかの人を対立者として攻撃したりしてしまうのです。だからイエスが、今日の短い聖書個所の締めくくりに、「福音(Good News) を信じなさい」と言われるのです。この”Good News"は、みなさんもよくご存じのように、ギリシャ語原典では「エバンゲリオ(福音)」なのですね。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15章12節) 私は約40年近く関西学院大学で宗教主事として仕えてきました。その学校は1889(明治22)年の創立以来、メソジスト教会の伝統にしたがってキリスト教主義を守ってきました。メソジストって何でしょう? それはプロテスタントキリスト教の一つの教派で、クロウディア先生ならいろいろと説明して頂けるでしょう。先生もメソジスト教会の宣教師として日本に派遣された方ですから。そのメソジスト教会の創立者ジョン・ウェスレー牧師が、「できるかぎり稼ぎなさい。できるだけ貯めなさい。」と語りました。彼の考えはどうでしょうか。普通の社会では当たり前のことかもしれません。でも彼の言葉の最後に驚かされるので、「できるかぎり与えなさい!」そう、富や豊かさは、そのものは決して悪い考えではないのです。しかしそれをあなたのコミュニティにとって良いことのためにどう使うべきなのでしょうか。ウェスレー師は、イエスの福音に従い、神の前に賢明にかつ正しく生きるように私たちを励ましているのです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節) そうです、今私たちは神の支配のもとに生きるべき時なのです。私たちの思いと生き方を、イエスの福音、つまり互いに愛し合うことによって改めるべき時なのです。 祈りましょう、 恵み深い神、私たちがこの世界にあって、どこにどのように生きるべきかを示してくださることに感謝します。私たちがあなたの御腕に、御ふところに帰るとき、私たちをしっかりと受けとめ、魂を、思いを育み、私たちが、愛と理解をもって互いに仕えられるようにしてください。私たちはまさにあなたの身体、真に理想的な家族のメンバーなのです。あなたの祝福と平和をこの週も、さらに未来に向かってお与えくださいますように。 イエス・キリストというあなたの御名によってお祈りします。 アーメン 詩編103:2-5
私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒やし、命を墓から購い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる。 申命記4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。 ルカによる福音書22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。 カリフォルニア州ロングビーチからこんにちは。私たちはまだ新型コロナのために立ち往生していますが、ずっと人々とつながっていることを嬉しく思います。サンデースクールや毎週ある他のイベントにズームを通して参加しておられない場合は是非参加ください。 さて今日のメッセージには私の頭の中に大体5つのタイトルがあります。私はそれを「忘れないことを覚えている」と呼ぼうと思います。ものを覚える方法、メモリメカニズム(このブレスレットのように、今日のこのメッセージのためだけに購入しました! )これらのタイトルやフレーズはすべて、忙しい生活の中で特に重要なことをどのように覚えているかについてです。霊的な生活でどのように実践するかです。 ではこの漢字の原則についてはどうでしょうか。おそらく20~30年前に私が感じた「あ、なるほどの瞬間、ア!ハア」からのものです。その瞬間についてお話しします。まず、漢字は日本語と中国語で書く字であることは誰もが知っていると思います。かなり楽しく、また少し威圧的でもあり得ます。ある時誰かが私が知っている漢字の数を尋ねました、私は答えました。多分100くらい。なるほど。それで彼らは私に書いて見せてください、と言いました。そのとき私が正しく書くことができる漢字の数は100ではなく10に近いことに気づきました!そしてそれが私のなるほどの瞬間でした。 あなたがそれを見分けることができる、そのことイコールあなたがそれを知っているという意味ではありません。もう一度言います、意味深く聞こえるように。あなたがそれを認識しているだけで、あなたがそれを知っているという意味ではありません。 私は本当にこの真実を考えて、それが適用される多くの場面を見つけました。たとえば誰かが 「まあ大変でした、それは学習経験になった。」 と言った後の場面。そこで私は言わなければならないでしょう。「それを認識するのに十分なほど学びましたか、それとも習得しましたか?」それが再び起こるのを防ぐことができますか、その状況を打ち負かすことができますか? この忘却の問題は人生の課題です。ほとんどの皆さんと同じように、私たちは皆、物事を覚えたり、忘れたりしないようにする方法を持っています。 人と会うのが楽しみな私にとってこのことは常に挑戦でした。私はいつもデイタイマーやオーガナイザーを持ち、やるべき物事リストを作成しています。子供の頃からそうでした。何でもリストにする人たちがいますが、私はその一人です。 私たちは20年間神戸にフルタイムで住み、夏はアメリカに帰国していました。もちろん、多くの人が知っているように、それは楽しさとストレスの両方でした。私たちはスーツケースと住んでいて、4人の子供と一緒でした。私が早い段階でしたことの1つは、サマーホームのチェックリストとフォルダーを作成することでした。年に一度家に帰ったので、訪問の合間にはかなりの時間がありました。しかし、私は特定のことを再学習する必要がないことを知っていました。私はいつも訪問する店の地図と何を詰めるか、いつもの物リストを印刷して持っていましたが、私たちが滞在した家族の名前と彼らにとって重要なことを記載した特別な秘密のシートも持っていました。各家族にとって何が彼らを動揺させ、何を感謝するかを理解していました。ケリーの人たちは滞在するのが最も簡単でしたが、冷蔵庫を補充することを覚えている必要がありました。特に私たちが飲んだものです。また私たちは毎朝ベッドメーキングをする必要がありました。多分どういったことか感じをつかめていただけたかと思います。なので私が自然にやっていることはほとんどうまくいき、これらのいくつかのシートとシステムが自慢です。これは私の旅行チェックリストフォルダです。子供と一緒の場合、いない場合、夏、冬、国内、国際。旅行のためとても良くできたリストなので、良ければシェアします。 しかし、これが説教に値する理由です。神に関係することはどうですか?つまり、忘れることと記憶することの点で共有できますか?聖書では多くの方法で何度もどのように行われたかがわかります。旧約聖書の神の民には、すべき正しいこと、そうでないことを覚え、それをうまく行い、そのあと忘れるというパターンがあったと言えます。それも何回も。基本的に彼らはただ忘れてしまったのです。忘れるだけで大きな悪いことが起こる可能性があります! この問題については多くのすばらしい節があります。詩篇103:2-5は、神から与えられた多くのすばらしいことを忘れないように私たちに思い出させます。 私は申命記4章9節の箇所が大好きです。モーセは約束の地に入る前に皆に警告しています。 「あなたの目が見たものを忘れないように、そしてあなたの人生のすべての日を通してあなたの心から離れないように、注意を払い、注意深く見守りなさい。それらをあなたの子供とあなたの孫に知らせなさい [これらのことを彼らの心に印象づけ、これらの真実を心に浸透させて] — ではどうやってそれをしますか?霊的な生活の中で覚えていることを、そして忘れないことを? 私たちは何年にもわたって多くの緊急の瞬間を経験してきました。私たちが最も覚えている必要があるときに、奇妙なことに最も忘れっぽくなってしまう困難な挑戦! スパイが土地を調べに行ったときのイスラエル人のように。民数記13章で約束されていました。神が彼らに与えられた土地、彼らはその時点まであらゆる種類の常軌を逸した奇跡を生きてきました。神は目に見えて、目に見えて、彼らと一緒におられました。しかし12人が戻ってきたとき、彼らは突然誰が彼らの側にいるかを忘れたようです。彼らは神が彼らを導いておられることを忘れていました。彼らは神が彼らのためになさったことすべてを忘れました。そしてそれは彼らに多くの犠牲をもたらしました。よく覚えていなかった人、神が彼らにとって誰であるかを忘れた人、彼らはその約束された土地に入ることができませんでした。引き起こされた大きな結果!私たちが信じるものが重要であり、私たちが覚えることができるものが重要です! 私たちも忘れたり覚えたりすることの結果を見ていると思います。ではどうすればもっとよく覚えてお互いに思い出させることができるでしょうか? 旧約聖書では神がご自分の民のためになされてきた出来事を皆に思い出させるために、その場所に石の山を作るような慣習がありました。 人々が神のことを思い出させるためにタッセルで身に着けている決まった方法がありました。イエスは、自身が私たちのために何をなされるか、そしてそれが私たちにとってどれほど重要であったか、あるいは重要であるかを思い出す方法の例として私たちに聖体拝領を与えられました。 「思い出し、これを行いなさい…」 その意味はこのことを忘れないように! ということです。 ですからあなたが私のようであれば、私がより良くする必要性を感じる領域ですが、ケリーと私は覚えておく価値のあるすべての良いものを集める努力をしてきました。 私たち自身に起こった奇跡と私たちがその一部であった奇跡の数々。また漢字の原則のように、読んだときにうなずくだけでなく、記憶から引用できるように、状況に関連していると感じる重要な聖書の箇所を集めてきました。私たちはまた、挑戦を経験し、神が彼らを癒したり助けたりした人々のビデオ証言を掲載しているいくつかのウェブサイトが大好きです。私が本当に尊敬しているグループの1つは、12ステップのプログラムとそれらの1つを行う人たちです。参加者は、毎週ではなく毎日、会議に出席して、自分が何であったか、何をしたか、現在は誰であるかをお互いに思い出させます。特定の道を歩き、特定のことを避けることには価値があります。非常に感慨深いことです。 ペトロの手紙2で彼は12節と13節に次のように書いています。 「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。 私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」 自分自身に思い出させ、また他人に思い出させるためのシステムを作って持つ必要があると言えるでしょう。これを行うためのいくつかのアイデアと方法を共有できると思います。サンデースクールで話しましょう!私たちは同意できると思います。私たちが正直でオープンであること、そしてある一つの方向を行く代償と別の道を歩くことの良い結果が何であるかをお互いに思い出させる友人を持つことは大きな助けになる、ということに。 悪い選択のまずい影響をどれだけ早く忘れることができるか、馬鹿げています。 誰かが私に要約するように頼んだら、私はこう言うでしょう: 重要なもの、特に神に関連するものを忘れやすいのは怖いことです。それでも私たちは知っており、記憶していたいということに同意できます、そして神の約束と神の言葉、そして神が私たちのためにしてくださったことを覚えているときに私たちはより良く行動できるということを知っています。覚えておく必要があります。 良い日と悪い日の違いは、何を考えているか、何を選んで覚えているか、何を思い出させるかによる - その違いを知っている人がどれほど多くいるか、すごいことですね。 神は私たちと一緒におられるだけでなく、私たちのために、私たちの中におられることを思い出すとき、それは力強いです、そのことを覚えていることができれば! 挑戦に直面したとき、その挑戦が何であれ約束しますが、少なくとも1つの聖書の節、実際にはたくさんありますが、それを道具、武器として使うことができます。 あなたがそれを覚えていれば、少なくともすぐに取り出せるようにできれば (3 x 5のカードをいくつか見せます) 私はあなたにこれをするように挑戦します。これは私たちが神と最善の道を歩む必要があると知っていることを覚えるために始める、あるいは再開する、あるいはよりよくするための3つの非常に簡単な方法です。 1. あなたの一番の武器や道具である聖書を忘れないでください。あなた自身や友人を助けるための節を集めることができます。 「昔の学校」で使った3x 5カードを使用し、直面している問題が何であれ、少なくともひとつを記憶しましょう。 私たちの基本設定の箇所はピリピ人への手紙4:4-7です。 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 2. 神があなたに言われたこと、またはあなたのためにされたことを書き留めて、集めて、リストを作りましょう。 (私のフォルダーを見せます)先週、娘の1人が、私がこのメッセージを準備していることを知らずに、家族としてこれを行うことを提案しましたが、神が私たちに言われ、私たちのためになさったすべてのクールなことを私たち全員が思い出せるようにするためです。 3. まわりを見回して、愛のリマインダーが必要な誰かと、何を思い起す必要があるかを明らかにしてくださるように神に願いましょう。あなたが他の人を助けるとき、あなた自身を大いに助けることになります。何かを本当に上手に学ぶための最良の方法は、それを教えることだとよく言われます。漢字の原則のように、認識することから鍵となる真実を習得することへ。 今週、多分今日、あなたの神聖な記憶を改善するためにいくつかのステップを踏むことを心から願って祈ります。実際に私たち全員のために祈りましょう。 神様、私たちはヤコブの手紙の一節のようにならないことを祈ります。あなたがそれをご存知なことは知っていますが、私たち全員に思い出させるために大声で言います: 御言葉を聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。 自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。 私たちがあなたにあって誰であるかを思い出すのを助けてください。私たち自身と私たちのまわりの人々を前向きに変えるためにあなたが私たちに与えてくださった力を覚えているということです。What a friend we have in Jesus、真実に、こどもの歌が語るように。 お互いに勇気を持って分かち合い、正直で透明性を保つのを手伝ってください。そうすれば、何があっても私たちがいかに愛されているか、そして私たちは一人ではなく家族であることを思い起こし、また思い出させることができます。 イエスの名によってアーメン のちほどサンデースクールでお会いしましょう。クラスは3つあるので1つ選んでください。 エフェソの信徒への手紙 4:3-5
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ ヨハネの手紙1 4:11-12 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。 アジア地域以外の出身の人は、箸を使うのに困った経験をしたことはありませんか?あるアメリカ人は賀川記念館の天国屋カフェを訪れて「こんな棒を使って食べなくちゃいけないのなら餓死してしまうよ!」と言っていました。では次にこんな話を紹介しましょう。みなさんの中にはこのたとえ話を聞いたことがある人がいるかもしれません。 ある日、男が神様に言いました。「神様、天国と地獄はどのような所でしょうか。」 神様は男に二つのドアを見せました。一つ目のドアを開けると、部屋の真ん中に大きな丸テーブルがあって野菜スープの大鍋がのっていました。おいしそうな匂いに男はよだれが出そうでした。しかしテーブルの周りに座っている人たちは痩せ細って元気がなく、飢えにあえいでいるようでした。その人たちは皆非常に長いお箸を持っていて、お箸はスープの大鍋に届いて中の具を取ることができました。しかし実はお箸の長さが腕よりも長いために、お箸の先を自分の口に持ってくることができなかったのです。男は悲惨で不幸な光景を見て恐ろしさに身震いしました。神様は、「今見たのが地獄です」と言いました。 二つ目のドアの向こうは、一つ目とまったく同じような光景でした。大きな丸テーブルがあり、よだれが出そうなすばらしい野菜スープの大鍋がのっていました。そこの人たちもまた同じように非常に長いお箸をめいめい持っていましたが血色がよく、丸々と太って笑いながらおしゃべりをしていました。「一体どういうことなのだろう」男は言いました。 神様はにっこり笑って言いました。「単純なことですよ。愛が必要とするのはただ一つのスキルです。この人たちは食べ物をお互いに分かち合い、協力しあうことを早くから学んだのです。いっぽうの欲深い人たちは自分のことしか考えませんでした。」その通り、よく見るとここの人たちは自分のお箸で鍋から食べ物を取り、テーブルの向かい側にいる人の口に運んでいました。同時に自分も向かい側の人から食べさせてもらっていました。 時々私達は自分を満足させるために懸命になりすぎて、自分を取り巻くあらゆる人や物と相互依存をしていることを忘れがちです。そのため自分以外の周囲の人や物に関心を向け思いやることを怠ってしまいます。このたとえ話からも明らかなように、神は、私達がお互いに愛を持って相互依存するというつながりに祝福されて共に生きるよう創造されました。 今日は世界聖餐日(World Communion Sunday)で、世界中のキリスト教徒がつながる日です。聖餐式を分かち合うとき、私達はイエスの言った「力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。…隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ 12:30-31)という教えをまた分かち合うのです。 私達は同じ聖霊を分かち合いますが、これはイエスによって約束されたことだからです。イエスが私達皆に教えたこと、つまり困っている人を助けること、イエスが私達を愛するように私達がお互いを愛すること、を分かち合います。私達はいろいろな言語で主の祈りを分かち合います。みなさんがお気づきのように、KUCのオンライン礼拝では、様々な国のメンバーがそれぞれの言語で主の祈りを唱えています。これはKUCの多様性を表していますが、世界各国で唱えられている祈りを唱えることは、キリストにおける一致を示しています。信仰における現在のグローバルなコミュニティの中で、10月1週目の日曜日はあらゆる文化圏のクリスチャンがパンを割き、カップに飲み物を注いで教会の長であるキリストを覚え、受け入れる日となりました。この日キリスト教徒は信仰を持つ者の体の一部だということを思い出すのです。大聖堂、泥で固めた小屋、山の頂、集会所、店舗の正面といったいろいろな場所で、その場所の数と同じだけいろいろな方法で聖餐式が行われます。聖餐式ではイエスを賛美しますが、誰であろうと他人からどう思われている人であろうとも、イエスはあらゆる人々をテーブルに招き入れました。パンを共に食べるとき、個人の生活の断片を披露します。今まで離れていたものが一つになるのです。イエスが行ったことを賛美し、聖霊の力によってイエスが今でも行っていることを賛美します。イエスが私達のために死に、よみがえり、再来することを賛美します。 世界数十億人のキリスト教徒があずかる世界中で行われている聖餐式のテーブルをつなげると、4万キロメートルに及ぶと概算されています。聖餐式は日付変更線に沿ってトンガの教会から始まり、フィジー、それから前主任牧師のブルース・ブラッドバーンが妻のジョーと住んでいるニュージーランド、オーストラリア、パプアニューギニア、フィリピン、香港、台湾、そして日本が来て、その後も世界中を巡ります。多くの地域で多くの人々が聖餐式をした、現在進行している、これからするのだろうと考えると感動しますね。これはキリスト教徒同士が世界的につながっているということです。 私は聖餐式が好きです。神戸ユニオン教会で毎月1週目の日曜日に行う聖餐式をいつも心待ちにしています。神戸ユニオン教会は、多様性を持ち、エキュメニカル、教派を超えた教会です。様々な出身国、伝統、文化、経歴を持つ人々から成る英語の教会ですが、私達はキリストにおいて一つです。パウロはコリントの信徒への手紙1の中で私達のためにこう書いています。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」今日この世界聖餐日の日に、聖餐式を通してすべてのキリスト教徒が特別にひとつのものと感じるでしょう。ヨハネによる福音書 17:21の中にあるように、イエスは、弟子たちを「一つにしてください」と天の父に祈りました。教会は時に分裂するときがあります。いくら教会において家族だとしても意見の相違はあるからです。教会の人々はキリストにおいて家族だとしても、相手を尊重せずお互いに傷つけあうことがありますが、こういうことは実際どの家族にも起こることです。 聖餐式は私達の人生の内側の奥深くしまった破れた夢、砕け散った望みだけでなく、壊れた人間関係をも告白することを求めます。聖餐のパンを食べ、杯から飲むとき、自分が経験する苦悩をキリストは全部ご存知であると思うことで私達は救われるでしょう。 エフェソの信徒への手紙 4:3-5 では、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」と言っています。パウロはこれを霊による一致と呼んでいます。私達の心を解放し私達を助けてくれるのは聖霊です(コリント信徒への手紙1 2:14-16)。私達がキリストを信じて、神の子どもとして安心して神に助けを求めることができるのも聖霊によるものです(ローマ信徒への手紙 8:15-16)。私達の生活の中で聖霊の結ぶ実は愛であり、聖霊によってお互いを慈しむのです(ガラテヤの信徒への手紙 5:22)。私達の共有の信仰、確信、慈しみはすべて聖霊から来ています。 エフェソの信徒への手紙 4:4-5 「体は一つ、霊は一つです。それはあなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」 私達はキリストにおいて一つになるというまさにこのビジョンをもっていると、私は信じています。神戸ユニオン教会は日本キリスト教協議会(NCCJ)の准加盟教会ですが、ここで夫と私はおよそ20年間ミニストリーで働きました。NCCJは日本にあり、33の教会教派とキリスト教団体が加盟しています。私の夫はそこで総幹事をしており、私は日本の社会問題を取り上げるクリスチャン・ニュースレターの編集を手伝っていました。NCCJは世界中にあるNCC(教会協議会)と共に世界教会協議会(WCC)のメンバーです。WCCは聖書に従って主イエス・キリストを神そして救い主と認めている世界349の教会が加盟しており、一つの神(父、子、聖霊)の栄光のため共通の使命を実現することを希求しています。NCCJは複数の教会のコミュニティで、礼拝において、またキリストにおける生活において表される一つの信仰と一つの分かち合いの交わりを一致させる途上にあります。イエスが「そうすれば、世は、…信じるようになります。」(ヨハネ 17:21)と弟子たちのために祈ったように、この一致を目標としています。 WCCの総会は7~8年ごとに開催され、WCCの加盟教会の生活とエキュメニカル運動の中心となっています。私は2013年韓国の釜山でのWCC第10回総会に夫のトシと出席しました(2013年10月30日~11月8日。)テーマは「生活の神、私達を正義と平和へ導く」で、世界各国のキリスト教徒と共に主を賛美するのは感動に値するものでした。 それより前にバンクーバーで開催された別のWCC会議(1983年)で話し合われたのは、「最も深いエキュメニカルな二つの問題を統合する:すなわち教会の一致と再生、人間社会の癒しと運命」でした。教会の一致は、教会が健全でいることと人間家族の未来に不可欠です。キリストが世の生命であり、天と地、神とこの世、霊的な世界と世俗世界を一致させています。パンとワインとなって私達に与えられたキリストの体と血は、癒しの行為と統合します。聖餐式のビジョンはキリスト教の礼拝、生活、信仰表明を含んでいます。 このビジョンでは私達は聖霊と共にいます。しかし今は、コロナと共にいるという厳しい時代です。このようなパンデミックが起こると一体誰が想像したでしょうか。 2020年2月ガーナ大学の講義で、元カンタベリー大主教のローワン・ウイリアムズがコロナウイルスの危機について話しました。継続している環境問題の危機と関連させて、ウイルスには地理は関係なく国境も関係ないと言うのです。ウイルスは気候変動も起こさないし、何百万人の命にかかわる大破壊を起こすこともありません。政治的な境界線も関係ありません。重症になるなど症状の違いはあるにせよ、すべての人間がウイルスの影響を受けます。このウイルスの危機は私達がお互いにつながっているという現実を再認識させます。最も受け入れがたい方法で、現実世界は私達に神学的な真理、神についての真理、人間についての真理を教えています。私達は耳を傾けることができるでしょうか? 神の御心は、地球と私達が持っている愛情深い相互依存の回復です。お互いにつながり合うことが、お互いを維持するために私達にできることです。 私の出身地のカリフォルニア州レッドウッドシティには、かつて大きなセコイアの木(レッドウッド)があったと言われています。セコイアの木は今ではカリフォルニアの他の地域で育っています。セコイアは地球上で一番背の高い木で、2000年も生きることができます。高さ300フィート(91.44メートル)以上にも成長して、根は広がりながら伸びて他の木の根と絡まり合い、そうすることでこの雄大な木を支えているのです。ほかの木の根と絡み合い混ざり合うことで力強く立ち、高い木に成長する。この木の例は、特に今のコロナ危機の時に、お互いにつながり合い、支え合うことの大切さを私達に教えています。この危機のさなかにあっても、私達はイエスキリストにおいて神の愛に祝福され、そして世の中に対して祝福を与えることができます。それは愛を持って相互に頼り合うこと、尊重しあうこと、奉仕をすることを世の中に示す手本になることを意味し、このことは神が私達のために望んでおられることです。 KUCでこれほど長い間対面で会えないのはつらいことです。しかしいつまでもお互いが距離を置いて離れていなければならないことはないでしょう。私達は嘆き悲しんでいる人と共に嘆き悲しみ、泣いている人と共に泣くでしょう。それでも喜びは必ずやってきて対面の礼拝を再開し、魂と体が喜ぶことになるでしょう。では今の困難な時期に私達は何をすべきでしょうか?イエスの最も偉大な教えに従いましょう。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そして「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ 22:36-40) 最初にお話ししたたとえ話のように、私達はお互いに助け合い、自分の持っているものを分かち合わなければなりません。たとえばKUCのケア・ミニストリーは人を助けています。このパンデミックの時期に、援助が必要な人に手を差し伸べています。私達はどうすれば世界中の隣人、とりわけ社会的弱者に自分の物を分け与え、助けることができるようになるでしょうか。どうしたら世界中で愛を持ってつながる一員になることができるのでしょうか。 マーチン・ルーサー・キング牧師はかつてこの世界についてこう言いました。「私達は立派な『世界の家』という大きな家を受け継ぎました。そこでは皆が一緒に住まなければなりませんが、この家族は思想、文化、興味の点で一致しません。しかし、もはや離れて暮らすことはできないのですから、どうにかして平和に一緒に暮らす解決策を見つけなければならないのです。今や地球上のすべての住人が隣人です。ヨハネの手紙1、4:11-12 では「わたしたちも互いに愛し合うべきです」と言っています。私達が与える愛は神から出ています。これが世界中の隣人や教会の隣人と自分をつなぐ愛です。 もうすぐこの礼拝の終わりに聖餐式を行います。聖餐式を取り行うのはチャック牧師、彼の娘、娘婿と孫娘です。彼らは私達から遠くカリフォルニア州ロングビーチにいますが、キリストの家族として祈りを通して私達の近くにいます。みなさんはこのままオンラインでの聖餐式にご参加ください。 神戸ユニオン教会は150年近く国際的な教会として存在してきました。2021年には教会150周年を祝うことになります。世界中の人がこの教会をホームとして神を賛美し相互につながり合ってきました。世界聖餐日に神を賛美し、教会の一致を賛美します。アーメン |
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May 2024
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