祈りましょう。神様、今週、私たちの教会には病気や怪我をした人がたくさんいます。良くなっている人もいれば、まだ回復していない人もいます。だから今朝は、まだ痛みや弱さを感じている人たちのために祈ります。またこれらのご家族のためにも祈ります。主よ、お一人お一人の上にあなたの癒しがありますように。あなたが癒しのために働かれておられるながらも、私たちのところに来てくださり、私たちに語りかけてくださることに感謝します。同じように、私たちもあなたのために時間を割くことができるように助けてください。私たちがあなたの忠実なしもべとなり、この世の考え、欲望、心配、計画を脇に置き、あなたが私たちの人生に携えてくださった御言葉を聞きながら、あなたの聖霊の導きを受け入れることができるように助けてください。
私たちの主キリスト・イエスの御名によって、アーメンと祈ります。 今週は本当に予想外の連続の一週間でした! 私は、今週は忙しい一週間になると思っていました。今日はキリスト教年度の最後の日曜日で、礼拝の後に年次総会があります。2024年度の予算やKUCの牧会計画について、カウンシルからの提案を聞き、投票することになっています。今日の総会の準備のために、カウンシルはミーティングを重ね、祈り、準備をしてきました。書類を印刷し、スライドを準備し、予算審議のため数字とにらめっこしたのです。準備は物事をより良く進める道標となるからです。 しかし、私たちの多くが知っているように、人生にはどんなに準備しても、どんなに備えても物事がスムーズに進まない時もあります。それは私たちが病気になったり、怪我をした時です。 今週KUCのコミュニティで、多くの人が病気や怪我に見舞われました。私の知る限り、この一週間で17人が病気になったり怪我をしたりしました。信じられますか?しかも、この17人という数字の中に、長い間、病気や怪我と闘っている人たちの数は含んでいません。 ところで、その数字の中に私たち家族も含まれています。今週、私たち家族も予期せぬ医 療事態に見舞われました。月曜日の朝、ドンと私が家を出たところで学校から電話がありました。玄関を出たばかりのことです。電話の内容は、子供たちの一人が急を要する医療事態に陥ったので、すぐに駆けつけるようにとのことでした。 心配しないでください。子どもたちは今はみんな元気です!でも、その瞬間、まだ全てを知らない私たちはとてもとても心配になり、恐怖に包まれたことを認めざるを得ません。私たちは学校まで走り、私は走りながらこう祈りました。「神様私の子供を助けてください!私の命と引き換えでもいいです。助けてください。」 幸いなことに、その時は知りませんでしたが、子供の命に別状はありませんでした。私たちが知っていたのは、愛する人が危険にさらされていると聞いたときに襲ってくる恐怖感、恐ろしい切迫感でした。起こりうるあらゆる悪いことを考え始め、次に起こるかもしれないあらゆることに対して祈りました。どうか最悪なことだけにはならないでくださいと。 私たちは走りました。そして祈りました。そして神様に感謝しました。私たちが学校に到着した時には、すでに状況は好転しており、私たちは全員で病院に向かいました。ほどなくして、私たちは全員家に戻り、事態は急速に元通りになりました。 しかし病院から帰宅してすぐに、私は気管支炎にかかってしまいました。そして、今週気管支炎になったのは私だけではありません。教会の中で他にも気管支炎になってしまった人たちがいました。 言ったでしょう。大変な一週間でした! 気管支炎は体力を消耗するし、回復するのにも時間がかかります。 子供のことで学校まで走っている間は、祈るのはとても簡単だった。祈ることしかできず、考えられなかったからです。しかし、いったん体調を崩してしまうと、常に祈っていることがとてもとても難しくなりました。体調はなかなか回復せず、日が経つにつれて、自分の病気だけでなく、教会の人たちから自分や家族が病気になった、怪我をしたという知らせが定期的に入ってきました。 咳、胸の重苦しさ、体調不良から来る疲労。そのような中祈るのは大変なことでした。祈る気持ちはありました。祈りたくないとは思いませんでした。たくさんの人が病気、怪我をしたのだから、絶え間なく祈る必要があるとわかっていました。しかしそれは簡単なことではありませんでした。自分の人間的な弱さを思わずにはいられませんでした。そんな一週間の出来事を振り返りながら、私はイエス様が逮捕された夜の弟子たちのことを思い出しました。 その夜、イエス様は弟子たちを連れて山に登られます。自分の身に何が起こるか、自分が 十字架にかかり、死ななければならないことを知っていたイエス様は、弱さを覚えていました。イエス様は自分が十字架の上ではなく、この場で死んでしまうかもと思うくらい弱っていたのです。イエス様は弟子たちに自分のために祈ってくれるように頼み、それから一人で、神様と一対一で祈るためにその場を離れました。しかし、この弟子たちはイエス様を先生として、弟子として何があっても従うと決めたにも関わらず、イエス様が戻ってくると、彼らは祈るどころか眠っていたのです。(マタイの福音書26:36-45)。 それを見た、イエス様が言われたことが私の胸に突き刺さります。 「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイの福音書26:41) 「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 今週はこのイエス様の言葉を実感せずにはいられませんでした。 しかし、自分自身の肉体の弱さの中にあっても、神様はやはり良い方です。神様は、自分も含め病気や怪我と闘っている人々のために私が祈れるよう力を与えてくださいました。どのように神様は力を与えてくれたのでしょう?それは一番大切なことに気づかせてくれたことを通してです。 愛する人が苦しんでいるとき、あなたが本当に願うことは何でしょうか?突然、余計なものが、不必要だということに気づくでしょう。余計なものはすべて消え去り、本当に大切なものだけが残る。救急車が来るのを待つほどの事態が起きる時、自分の子供の成績がいいかどうかなんて気にしません。配偶者が怪我をしているときに、頼まれた家事を配偶者が全て済ませたなんか気にしません。なぜなら、私たちが本当に望んでいるのは、自分達の大切な人がもう苦しまないこと、これ以上傷つかないことを1番にするからです。私たちが本当に望んでいるのは、愛する人が元気になることだけだからです。その他のことは、愛に比べれば、些細なことなのです。 緊急事態に明らかになることそれは、愛が最も大切だということです。 今週私は病気でベッドに横たわり、家族に病気をうつさないように隔離された部屋で多くの時間を過ごしましたが、計り知れない愛を経験する機会に恵まれました。Donは今週、毎日ほぼ一日中子供たちの面倒を見てくれました。子供たちは、たまにドアをノックして、頭をそっと出して、私をびっくりさせないように小さな声で私のために祈っていると言ってくれました。また子供たちのひとりが、折り紙で星(スター)作り、「ママはスーパースターだから星をあげる」と私にそれをくれました。 でも感謝なことに私が受け取った愛は家族からだけではありませんでした。私が体調を崩したと聞いたある教会の人は、フルーツを袋に詰めて、島外から私の家にやってきてくれました。ある人々は私のために祈り、私が元気にしているかどうか何度も確認してくれました。ある人々は、弱さを覚えている私と一緒に祈り、教会のなかで病に倒れたり、怪我をした人々のために一緒に祈ってくれました。さらにある人々は、教会の仕事を手伝ってくれたり、今日のAGMや礼拝のために必要な準備をサポートをしてくれました。 たくさんの愛に支えられた1週間でした。 その愛こそが、私が力を取り戻し、祈る力を見つけた理由です。 家族と教会の家族を通して、私はパウロがコリント人への手紙第一で述べている神聖な愛を体験することができたからです。 愛は「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(コリント人への手紙第一13:7) 病気や怪我、そして回復までの長い道のりにおいては、信仰を持つ者として大きなチャレンジが立ちはだかります。病気や怪我をしているとき、肉体的にも精神的にも弱っているとき、 神様の愛を知っていたとしても、あらゆることに耐え、あらゆることを信じ、あらゆることに希望を持ち、あらゆることに耐えることは簡単なことではありません。 そのような弱さを感じている時は、「なぜこんなことになってしまったのだろう?」「この先どうなるのだろう?」「自分は治るのだろうか?」と、将来への不安にとらわれがちです。愛する人が病や怪我に苦しんでいるとき、その苦しみを見過ごすことは難しく、「もし良くならなかったらどうなるのだろう?」「この苦しみが続いたら人生はどう変わってしまうのだろう?」という恐れや不安にとらわれがちになる。最悪のシナリオを考えないようにするというのは人間的にとても難しいことです。 そのように弱さからくる恐れや不安を抱くたびに、私たちの思いは神様が約束してくださる愛からどんどん遠ざかっていきます。恐れに屈すれば屈するほど、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶことが難しくなリります。 すべてをがまんし、信じ、期待し、耐え忍ぶなんて不可能だと感じるのです。 神様の愛から自分を切り離すなら、すべてをがまんし、信じ、期待し、耐え忍ぶことは不可能です。そのような愛は私たち人間の中にはないからです。 病気や怪我、そして回復や成長、変化において前途多難な長い道のりを見つめていると き、私たちは立ち止まり、思い出し、自問しなければなりません。 私たちが耐えられないと思っているこれらのことは、私たちをキリストの愛から引き離すものだろうか? ローマ人への手紙8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 ローマ人への手紙8:37-39 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。 何者も、何事も、私たちの主キリスト・イエスにある神様の愛から私たちを引き離すことはできないのです。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ愛から、私たちを引き離すことはできないのです。 今日は年次総会があるので、私は今週、異なる聖書箇所を念頭に置き、説教の準備を進め ていました。教会とは何か、教会の目的は何か、教会は誰のためにあるのか、何をするところなのかを聖書がどのように定義しているのかについて話すつもりでした。教会としてのこれからの1年に何が待ち受けているのかを考えるにあたり、私たちが今受け取らなければならないメッセージが与えられることを祈っていました。私たちのコミュニティに方向性を与えてくれるような御言葉を届けて欲しいと願っていました。説教のタイトルも決まっていました。「神様は私たちの計画よりも大きい方」というタイトルです。 悪くないでしょう? ここのところ説教タイトル通りのことが、説教前に起こるということを頻繁に起こっています。今週もそのことを学びました。神様は私が今日のメッセージのために計画、準備していたことよりも大きな方でした!私の計画、私が準備したものよりも神様は大きく、神様の私たちに対するメッセージは私のそれよりもはるかに、はるかに大きい、偉大なものです。あなたの家族が病気になったとき、あなたが病気になったとき、あなたの愛する人が病気や怪我をしたとき、あなたやあなたの愛する人たちに次から次へと試練が訪れるとき、それらのどれよりも大きなものがあります。人間が力を尽くして思いつく最高の計画よりも、はるかに偉大なものがあることがはっきりとわかります。 それは全能の神、神様の愛です。 キリスト・イエスによる神の愛に勝るものはないからだ。 親愛なるKUCの皆さん、今日は複雑な神学を学ぶ日でも、それに基づいて深い議論をする 日でも、綿密な計画や準備をする日でもありません。今日は、私たちの中で、そして私たちの間で、今週私たちのコミュニティで起こった病気や怪我を通して神様が、聖霊を通して私たちに囁いておられることに耳を傾ける日なのです。 神の愛こそが最も大切なこと。 私たちは計画を立て、準備をし、選択した道に全力を注ぎます。それでも予期せぬことは起こるのです。物事は期待通りには進まず、私たちは今までと同じようには進めないことに気づくことがあります。聖霊が神様の偉大な愛について教えてくれているのに、教会の方向性や、教会の在り方についての説教を準備し続けることはできないのです。 私たち自身の人生、そして教会の中で何が起ころうとも、本当に大切なのは、イエス・キリストの死と復活において私たちに示された神様の愛です。他の何が私たちを分断し、隔てていようとも、そのように示された神様の愛こそが私たちを集めさせ、結びつけているのです。その神様の愛こそが私たちを強め、希望と夢、そしてキリストを通して神様の愛に結ばれた民としての新しい方向性、ビジョンを与えてくれるのです。 「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです—」 (エペソ人への手紙2:3-5) 神様の愛には力があります。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」力です。(コリント人への手紙第一13:7) 神様の愛に勝るものはないのです!何一つ! 今日その神様の愛に留まりましょう。「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ人への手紙8:38-39)という神様の約束をお互いに語り合いましょう。 私たちの教会を、人間的な計画やビジョン、人間の欲望に基づいた希望や夢、あるいはこ れから起こるかもしれないことへの恐れの上にではなく、偉大で力強い神様の愛の上に築きましょう。神様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うことを学びながら、神様の愛に根ざし、基礎をおく教会となりましょう。 神様のご計画は、私たちが計画できるどんなものよりもはるかに大きなものですが、神様の愛ほど大きなものは何もありません。そして、そのような神様の愛に基づいた教会は、何が起ころうとも揺らぐことはないのです。何が起ころうともです。 祈りましょう。 主よ、感謝します!感謝しかありません。何にも勝る愛を私たちに示してくださり、ありがとうございます。その偉大な愛を互いに分かち合うことができるように助けてください。神様の愛を通して、私たちが誰をも排除することなく、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ教会となるように助けてください。あなたの愛が私たちの言葉と行動の基盤となり、私たちが真の愛に満ちた神の家族となれるよう導いてください。 アーメン。
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グレッグ・アンダーソンは彼の著書である『Living Life on Purpose』の中で、妻に別れを告げられ、家を出ていかれた、ジョンという男の話をしている。一人残されたジョンは落ち込み、自分に対しても、他人に対しても、神に対しても、生きる喜びが見出せなくなっていました。ある雨の朝、ジョンは近所の小さなレストランに朝食を食べに行ったところ、レストランの中には、数人の人がいたが、誰も会話をしていなかった。ジョンはカウンターに腰掛け、スプーンでコーヒーをかき混ぜていました。
その時、窓際の小さなブースのひとつに、小さな女の子を連れた若い母親がいました。その女の子は、悲しげな表情で、「どママ?どうしてここでお祈りをしないの?」と言いました。2人に朝食を提供したばかりのウェイトレスが、その声を聞いて振り返り、こう言いました。「私たちのためにお祈りをしてくれる?」 そして、ウェイトレスは、店内にいた人たちに、「頭を下げて」とお願いすると、一人、また一人と店内にいた人たちが頭を下げていきました。そして少女自身も頭を下げ、手を組み、こう祈りました。「神様は偉大で、神様は良い人です。この食べ物が頂けることを神様に感謝します。アーメン」 その祈りが、店内の雰囲気を変えたのです。人々は互いに会話をし始め、それを見たウェイトレスは 、「毎朝お祈りをするべきね!」と言いました。 その時、「突然、私の心全体が解きほぐれたのです。あの少女の祈りの時から、私は自分が持っているすべてのものに感謝し、神に感謝し、人生に感謝することができるようになったのです。」とジョンは言いました。 今年の感謝祭の日曜日も例年行っているように、日々の中で感謝できることを見つめ直し、神様に感謝する時です。 本日皆さんの牧師として説教する最後の日曜日を迎えるにあたり、私は皆さんと過ごした日々に感謝しています。 多くのご家庭で、感謝際の食事を囲んで感謝の気持ちを伝えあう習慣があります。本日の聖句を見て、パウロは何に感謝していると思われますか?新約聖書のパウロの手紙に共通するのは、その手紙を受け取った人々への感謝の祈りです。パウロが手紙の中では物に対してよりも、人に対して感謝を伝えています。私もパウロに倣って、私の人生にかけがえのない人々に感謝を伝えたいと思います。 私は多くの方々に出会え、友情を築くことができたことに感謝します。そして、この特別な日に、新たに20名の方々が教会員になったことに感謝します!神様に感謝します!(来年の早い時期、多分、年明け1月には、さらに5名の新しい教会員が加わる予定です。 本日教会員になりたかったけれども、来れなかった方々です。 この新しい5名の方々に対しても、神様に感謝します。 このように、KUC に新しい教会員が加わり、教会に貢献してくださる方が増加している中で、私はKUCを後に、新天地へ向かえることを嬉しく思います。 本日の私の説教の題名は、今日の聖句 「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝する」から引用させてもらいました。それは、この聖句の中でパウロがピリピ人の信徒に宛てて語っていること、感じていることに私が共感できるからです。パウロはピリピ人の教会に特別な思いを抱いていました。私も同様に、神戸・KUCで過ごした日々に特別な思いを抱いています。 パウロがピリピで過ごした時間が限られていたように、私も神戸に来て12年余りと比較的短い時間でした。2011年8月に神戸に引っ越してきました。私の夫はすでに関西学院大学のキリスト教学科教授兼チャプレン(聖職者)として関西に住み始めていました(夫は、後にチャプレン学部長に就任)。 一家で次男がカナディアンアカデミーで7年生になったのを機に住吉山手に引っ越しました。長男はすでにカリフォルニアの大学に通っていました。神戸に来た当初、私は三宮の賀川センターにある日本基督教団(UCCJ)の教会に宣教師として赴任し、賀川センターの天国屋カフェのお手伝いをしていました。 賀川センターでの仕事に加え、可能な限りKUCにも足を運びました。賀川センターの神戸イエス団教会の礼拝は午前10時45分~、KUCの礼拝は午前9時30分~だったので、上手に計画を立て、KUCから賀川センターまで車で移動し、両方の礼拝に参加していました(教会のはしごですね!)。もちろん、どちらかの教会で説教をする場合は、その日は、説教をした教会に留まる。という方法をとっていました。 多くの場合は、賀川センターの礼拝に間に合うように、KUCの礼拝を少し早めに出ていました。この時期に、現在も教会員である沢山の方々と出会ったと記憶しています。リューさん、タカヨさん、メアリー・ザウさん、マーテル・ミキさん、ドロシー・ミウラさん、そして1999年当時ハワイに住んでいた森川マサミさん。マサミさんと私はYMCAの妊婦クラスで知り合い、私たちの息子は同時期に生まれています。もちろん、神戸に来てすぐにキクコさんとも会いました。様々な意味で、彼女はこの教会の柱となってくださっています。 神戸に来る前に、当時の牧師であったブルース・ブラッドバーン牧師(2010年~2017年)とは、電話で何度か連絡したことがある程度、少しだけですが面識がありました。神戸に私が引っ越してきてからは、より色々なことを話すことができ、ブルース牧師が不在の際には、KUCで私が説教をすることもありました。 KUCで私が提案し、定着した行事の中には、各国の民族衣装を来て礼拝を行う、世界聖餐式の日曜日や、聖霊の炎の色の服(赤、オレンジ、黄色、青)を着て礼拝を行うペンテコステなどがあります。 礼拝内での説教に加え、KUCのホームレス・ミニストリーをカトリック中央教会と共同開催できるようコーディネートしました。また、グローバル・ミッション・ミニストリーに参加して、歴代のグローバル・ミッション・ミニストリー・リーダーと奉仕する機会に恵まれました(最初は、シェーン・ターバーさん、その後、ヨウコ・サワダさん、そして、最近ではチサト・シングウさん)。 私は、ミッションとアウトリーチ(教会外に活動の輪を広げること)が大好きです。 私の家族全員がKUCに関わってきたこともご存知の方も多いと思います。2011年から、次男のコウはヤングライフに参加し、カンボジアやフィリピンのミッショントリップに参加しています。別の年には、ヤングライフはアジア学院(ARI)にも行っています。 ヤングライフの活動は、コウの信仰を作り上げる段階に大きく寄与し、コウが神学校に導かれるキッカケを与えてくれました。牧師になったコウはKUCで聖書朗読をしたり、ヤングアダルトのための日曜学校のクラスや、オンラインで聖書のクラスを担当させてもらっています。 夫のトシもKUCで彼がクリスチャンになったきっかけを礼拝内で説教したことを覚えていらっしゃる方もいると思います。 伝道者の書3:1-8 「人生に起こるすべての営みに時がある、天の下にあるすべての営みに正しい時がある。」 これから横浜ユニオン教会の牧師として、新たな未来とミニストリーへ導いてくださる聖霊に従うことは、私にとって今がその時であり、正しい時だと感じています。横浜ユニオン教会は5年ほど、牧師不在の状態が続いていました。多くの祈りによって、私とトシは新しい場所と、新しい社会への移行を行うように導かれています。私たちは横浜に居住しますが、同じユニオン教会として、またキリストの下、KUCとつながっていることに変わりはありません。 パウロは13通の手紙を書きましたが、そのすべてが教会に宛てたものではありませんでした。ガラテヤの教会を除くすべての教会への手紙において、パウロは冒頭で教会への感謝を述べています。 コリント人への手紙一1:4-9で、パウロはコリントの教会でのいくつもの困難や厄介な状況があったにも関わらず、コリントの信徒に感謝を述べています。ピリピの教会に対しても、ユウオデヤとスントケが教会に悪影響を及ぼすような対立(ピリピ人への手紙4:2)を抱えていたのにも関わらず、感謝の意を伝えています(ピリピ人への手紙1:3-11)。 パウロが滞在し、関わった教会(コリント、エペソ、ピリピ、テサロニケ)だけにとどまらず、訪れたこともないローマやコロサイのクリスチャンたちにも感謝をしています(ローマ人への手紙1:8、コロサイ人への手紙1:3-8)。私たちは、他の教会や他の場所にいる、会うこともない信者の方々に、キリスト教を通して繋がっているからと感謝していますか? パウロはピリピ人の信徒たちとの関係を振り返りながら、彼らに対して神にどれほど感謝しているかを表現することから書き始めています。ピリピ人への手紙1:3では、彼の心からの感謝の意に注目してください。「わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝する」とあります。 私は、皆さんに感謝を申し上げたいと思います。私がここで過ごした年月、皆さまと共に様々な感情を分かち合いました。喜び、悲しみ、喪失感(教会員の他界や引っ越しを通して)、葛藤と挑戦(特にパンデミックを通して)、深い友情、そして数え切れないほどの祝福。 KUCはいつも私の一部です。 残り数週間のミニストリーを共に歩むにあたり、私は KUC のミニストリーと教会員が増えていることに、ワクワクし、希望を抱いています。KUCのパストラル・リーダーシップ、カウンシル、スタッフ、そして教会員であり、私の友人である皆さんのために祈ります。 神戸・横浜にある両方の教会がユニオン教会ネットワークの一員でありますから、今後も引き続き繋がりをもち、互いに助け合うことを願っています。 パウロに関するもう一つの重要点は、誰に・何を感謝するべきかを示すだけでなく、どのように感謝すべきかを示していることです。感謝の心は感謝の祈りをささげることに繋がっています。この祈りは、私たちが通常、人のために祈るようなこと、つまり、誰かが健康でありますように、物事がうまくいきますように!といった祈りだけでなく、パウロは人々に感謝を伝えると共に、彼らがもっと神を知れるようにと祈るところです! パウロは次のように語っています「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって神の御旨を深知り、主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。」(コロサイ人への手紙1:9-10) 「深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり」(ピリピ人への手紙1:9-10)。「知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか」(エペソ人への手紙1:17-18) また、パウロが会ったことのないクリスチャンと出会い、互いに励まし合うことができるようにと祈っている姿を私たちはみています(ローマ人への手紙1:9-11)。横浜ユニオン教会の方々へ祈って頂けることを願っています。もちろん、世界中の方々への祈りもお願いします。感謝の心は、私たちが「ありがとう」と言って終わりではありません。相手のために何が最善であるかを願い続けるものです。感謝の気持ちを表すために、何かプレゼントを渡したりしますが、私たちができる最高の贈り物は、福音にある神の愛とイエスキリストという最高の贈り物があるということを知ってもらえるように、彼らのために祈ることなのです。 KUC のクリスチャンの皆さん、神様の御言葉と祈りの中で時を過ごして ください。私たちは、感謝を伝えるだけでなく、主イエスキリストの恵みと知識における人々の成長のために祈りを捧げます。信仰を共に分かち合う仲間として、KUC の教会員は共に礼拝し、交わり、奉仕します。 お互いに感謝の心を伝えあいましょう。それは、神様をより愛するようになるだけでなく、私たちに対する神様の大いなる愛をより意識するようになり、その意識が私たちを奮い立たせ、活力を与えてくれます。 私たちは互いに愛し合い、人生の中の神の臨在に感謝しましょう。使徒パウロの見本が、食卓を囲んで感謝を伝えあう私たちにも反映されますように。 兄弟姉妹の皆さん、最後に2つの聖句をお伝えしたいと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」(テサロニケ人への手紙第一5:16-18) 「全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」 (コリント人への手紙二 13:11, 14) 祈りましょう。 愛する神よ、神戸ユニオン教会のコミュニティに聖霊の祝福がありますように。お互いに感謝の心を伝えあい、勇気づけることができますように。神戸ユニオン教会が未来に向かって歩んでいけるようにお導きください。私たちの生活の中にある、小さな恵みにも日々感謝を捧げることができるように助けてください。神様が私たちのために行ってくださったことに感謝し、常に感謝の心をもって人生を歩むことができますように。 アーメン。 ARI(アジア学院)から皆さんへご挨拶申し上げます。
今日は栃木から来ました。私を見て、本当に栃木から来たのかと思われるかもしれません 。それは栃木がどこにあるかご存じの人ですね。でも栃木出身というわけではなく、私は アメリカ生まれのアメリカ育ちです。ARIが栃木にあるので、栃木から来たと言ったわけで す。知っている方も多いと思いますが、ARI(アジア学院)は毎年4月から12月にかけて、 主にアフリカやアジアなどの農村で働く男女の研修生を対象に、9か月のリーダーシップ研 修を行っています。研修生の他に、ボランティア、宣教と仕事のチーム、教育・教会グル ープ、個人や家族の方々に、研修プログラム、ロジスティクス、プログラムの運営、それ に農園で働く各国のスタッフを支援してもらっています。農園と言いましたが、ARIでは自 給自足を目指しており、ARIの生活者のために提供する食料のうち、90%が私たちの農園 で作ったものです。 ARIでは収穫した食材を使って交代で食事を作り、食堂で一緒に食べます。食堂では研修開 始式と修了式の行事や、夜のカラオケ大会や、クリスマスパーティーなどの催しも行いま す。ARIは有機農業を学び、様々な国の人たちと英語で話し、共同生活をする場所というだ けではありません。ここは夢であり、実験であり、困難への挑戦の場でもあるのです。 私はここで、これまでにいろいろな問題を見てきました。ARIが50年続いてきたのは、神 が私たちに必要なものを与えてくださったからで、そのおかげで多くの困難を乗り越える ことができました。私自身、ARIに在籍して14年になりますが、解決できそうもないよう な難しい問題がいつもありました。災害、パンデミック、財政問題、人出不足、研修生と して最適な人材の確保、食料の不足と余剰、人間関係などです。しかしこういった問題に 直面しているのは、何もARIだけではないと思います。KUCでも職場でもあなた自身やあな たの家族も、そういった問題に直面しているかもしれません。 現実問題として、人生に困難はつきものです。最近、私は朝のデボーションにヨブ記を読 んでいますが、ヨブ記の冒頭で、サタンがヨブを苦しめるのを神は許しています。なぜ神 はヨブにこのような苦難を受けさせるのかといつも思います。みなさんもたぶんそう思わ れるでしょう。 神がいつも私たちを危険や困難から守ってくださるとしたら、何も問題ありません。とこ ろがサタンは、神が善良すぎると不満なのです。私だったらそんな不満を言いません。神 が善良であれば、私は嬉しいと思うだけです。しかし実際困難は存在するのです。神はそ のような困難の中に、偉大な計画を持っておられるのではないでしょうか。 今日の聖書箇所は、私が信念としているものです。しかしこの聖句は、非常に信仰の深い 人にとっても難しい課題であるかもしれません。 ヨハネの福音書5:12-13 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの 戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っ ていません。 さあ、どうですか。友人への愛を示す一番の方法は、友人のために死ぬことだと言ってい ます。これはイエスの最後の言葉のうちの一つで、その週のイエスの行動を予言していま す。 イエスは語るだけでなく、自らそれを実行しました。また愛については、ご自分だけが実 践するのではなく、イエスを信じるすべてのクリスチャンが同じようにするよう言われま した。自分をクリスチャンと考える人は、現在およそ25億人います。「敵を愛せ」「友の ために命を捨てよ」と言うのは簡単ですが、歴史を見ても現在の世界の紛争を見てもわか る通り、実践するのは、たやすいことではありません。 イエスに従おうとするなら、イエスの生き方が課題となります。 イエスは愛の象徴であり、ARIで言うサーバントリーダー(奉仕するリーダー)です。サー バントリーダーとは、ARIでイエスを模範とするリーダーのことですが、世間で実践するの は非常に難しそうです。逆に、私たちを取り巻く世界では、多くのリーダーが自分のこと だけを考え、自分や他人の時間を支配しています。そういったリーダーは私腹を肥やし、 他人を犠牲にします。政治、教育、ビジネス、コミュニティのリーダーが、さらに教会の リーダーまでもが権力を掌握していく過程で、腐敗していきます。 しかし、今日私たちはイエスの中にまったく違うタイプのリーダーを見ています。自分が 権力を得るためではなく、他の人が力を得られるよう自分が死ぬリーダーです。「周囲の 人が可能性を最大限に発揮して生きるのを助けるのがリーダーの仕事」と考えるリーダー です。愛とは、優しい言葉、肉体的な関係、チョコレートや贈り物で示すものではなく、 相手が前進し、最高の力を出せるように、自分の地位や居場所を捨てることで示すもので す。 今、私たちに問われているのは、それを学ぶ意志があるかどうかです。イエスから学ぶこ とができるでしょうか。それはできます。というのもイエスはその方法を私たちに示して くださり、また実践してくださったからです。イエスは、愛とは友のために死ぬことだと 言われただけでなく、友のために友の身代わりとなって死なれました。邪悪で利己的な友 、自分の夢、自分の出世、自分の将来しか考えず、人を傷つけてしまう友が赦されるため に、イエスは死なれたと聖書に書いてあります。イエスの友とは誰でしょうか。イエスと 同じ部屋で食事を共にした12人だけではありません。現代の私たちもそうです。イエスの 愛を受け入れさえすれば、イエスの友になることができます。 さて必要なのは愛だけでしょうか。 ARIでは、愛が世界を一つにできると信じています。これは肉体的な愛やお菓子や贈り物に 表される愛ではなく、自分自身のことより、コミュニティや教会を優先させる生き方とい う愛です。規則や文化で強制されるものではなく、自由に与えられる愛です。これは、世 界が変わるための唯一の方法だと私は信じています。 ARIのモットーは「共に生きるために」で、これは戦争体験から生まれました。戦争が過去 のものとなるような世界を願い、そのために働くという意味です。このことを私たちは今 、どれほど必要としているでしょう。 最後に、現在ARIの研修生で、このモットーを実践しようとしている人物についてお話しし ます。 現在、ニュースではウクライナとロシアの戦争、パレスチナとイスラエルの戦争が報道さ れていますが、その研修生の故郷では5年間も内戦状態が続いています。西アフリカのカメ ルーンという国で、西部の英語圏と東部のフランス語圏が戦争しています。内戦の原因と なった歴史について今日は触れませんが、時間があればカメルーンの歴史を調べてみてく ださい。 その研修生は英語とフランス語の両方を話すことができ、東西両方の地域に住んだことが あります。高学歴で、さまざまなことを成し遂げてきました。彼がこの一年間ARIで学んだ 目的は、裕福な生活を送りたいからではなく、農村の人々のために役に立ちたいからでし た。今、彼は生まれ育ったカメルーン西部に帰る準備をしています。彼が帰ろうとしてい る北西地域では、戦争が日常的で、誘拐があり、学校は閉鎖され、食料は不足しています 。しかし、彼はそこから逃げるためにARIに来たのではなく、新しい考えや、物の見方を身 に着けるために来たので、できるだけ早く故郷へ帰らなければならない、と私に話してく れました。彼はARIで学び、経験したことのすべてが、故郷の農村の人々を助けると信じて いるからです。 彼が持って帰る有機農業の方法だけが村の助けとなるわけではありません。問題を解決す る唯一の方法が、戦争や殺人、強姦、略奪、自分が奪われたものを他の人からまた奪うこ とだと信じている若者を助けることもできると彼は考えています。 帰国するのが怖くないのか、こうすることが最善の方法なのかと聞くと、彼は、「これし かできることはない」と答えました。また、「私は村の人々を愛している。戦争がなくな り、私たちが皆共に生きる未来のために働きたい」と言いました。 イエスは友に、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 と言われました。これは私たちに対するメッセージでもあります。戦争、紛争、圧力、ス トレスのない世界にしたいと思うなら、イエスが始められたこのような生き方を学ばなけ ればなりません。 最後にARIについてもっと知りたい方、また訪問したい方は、礼拝後にQRコードを撮影する か、パンフレットをお取りください。ありがとうございました。 祈りましょう。 「ストレスと私たち:私たちはストレスに打ち勝てるのか?」使徒の働き17:1-21 (新改訳)神戸ユニオン教会 --- 2023年11月5日説教者: ヴァンアントワペン 亜希子副牧師11/5/2023 祈ろう。主よ、この一週間、私たちと共にいてくださったことを感謝します。今朝
、主よ、私たちの心の中に、スペースを作ってください。御言葉について考え、御 言葉が生きている御言葉であることを信頼することができるようにしてください。 私の口から出る言葉が、もはや私の言葉ではなく、あなたの言葉だけとなりますよ うに。私たちの心を導いてください。主よ、あなたの御言葉に対する、私たちの振 り返りがあなたの御目にかなうものでありますように。あなたは私たちの岩、購い 主です。アーメン。 今日は、「ストレス 」についてお話ししたいと思います。正直に告白すると、「ス トレス 」という言葉を聞いたり、話したりだけで、私はストレスを感じます。同じ ように感じている人はいるでしょうか?私だけではないといいのですが。 現代社会はストレス社会。ストレスがたまる!このような言葉を私たちはよく耳に します。しかし、そもそもストレスとは何なのでしょうか? WHO(世界保健機関)は、ストレスを以下のように定義しています。「困難な状況 によって引き起こされる心配や精神的緊張の状態」。(2023年11月4日 https://www.who.int/news-room/questions-and- answers/item/stress#:~:text=Stress%20can%20be%20defined%20as,ex periences%20stress%20to%20s%20degreeより引用) つまりストレスは、私た ちにストレスを与えるものによって引き起こされます。そのことにより私たちは反 応します。痛み、怒り、憂いなどがその反応の一部です。 では、どのような状況が私たちにストレスを引き起こし、そのような反応を生み出 すのでしょうか? 1960年代、とある二人の精神科医は人生の主要な出来事から生じるストレスの量を 測る査定のツールを開発しました。この尺度では、人生に起こる43の主要なライフ イベントがそれぞれ異なる点数でリストアップされています。例えばリストの一番 上にあるストレスの一番大きいライフイベントは、配偶者の死でその点数は100点 です。(スクリーンに映る情報をご覧ください) 家族の死、離婚、失業、ローンを組むこと、家族が病気になること、これらはすべ て間違いなくストレスの原因となる出来事です。しかし、このリストにあるその他 の出来事の中には、それがストレスの原因になるのかと思うようなことも記載され ています。退職、バケーション、大型連休、新しい家族を迎えること、これらは一 見ストレス反応を引き起こす出来事というより、ストレスを減らす喜ばしいことに 聞こえるのではないでしょうか? ストレス量を測定したこの査定ツールをさっと読んで、もっとも衝撃的だったのは 、ストレスの原因となる出来事の一つとして「教会活動の変化 」が挙げられていた ことです。この査定ツールによれば「教会活動の変化」を経験する時、私たちには 100点満点中19点のストレスがかかるらしいのです。でも、よく考えてみると、そ うですよね。例えば、COVIDの期間中、私たちは教会活動に関する計画をすべて変 更せざるを得ませんでした。正直言って、それは私にとってストレスのかかる出来 事でしたし、その結果痛み、悲しみ、苦しさを感じました。皆さんにとってもそう だったのではないでしょうか。 この査定ツールから学べることそれは、私たちはこの世に生きる限りストレスがか かる出来事を経験し、その結果それが原因で痛み、悲しみ、怒りを経験するという ことです。時には予想もしなかったような形で、一見ポジティブに思えるような状 況に遭遇したとしても、変化は常に私たちに何らかのストレスとそれに対してスト レス反応をもたらします。この地上に生きている限り、私たち人間はいつかは死に 直面しなければいけません。人生において、結婚、仕事、病気、怪我などを通じて 私たちは変化というストレスを経験します。もちろん、すべての人が結婚している わけではありません。しかし誰も真に一人の人はおらず、私たちは常に周囲の人々 と関係を構築しています。 自分の周りにいる人々のストレスを目の当たりにすることで、自分自身もストレス を感じ、ストレス反応が引き起こされることもあります。私たちは家族が病気にな るのを見たり、友人や恋人が離婚したり、人生の転機を迎えるのを見たりします。 生きている限り、ストレスを省くことは不可能です。ストレスをコントロールする こともできないし、ストレスが原因で起こる反応もなくすことはできません。 だから、ストレスの原因となるライフイベントを減らそう、なくそうとしても意味 はありません。生と死をコントロールすることはできないし、変化を止めることも 私たちにはできないからです。私たちがしなければいけないことはそうではなく、 人生で起こるストレスに対処する健全な方法を見つけることです。 そしてイエス様を救い主として信じる、クリスチャンは世の中が良い、効果的だと 思う方法ではなく、神様が良いとされる方法でストレスに対処することを求められ ています。ではストレスについて神様が何を語っておられるのか、ストレス反応に どう対処すべきかについて神様の言葉、すなわち聖書が何を語っているのか考えて いきましょう。 聖書の中でストレスにさらされている人物は誰かと自問するとき、誰を思い浮か日 ますか?聖書には、ストレスのかかる状況やストレスを抱え、ストレス反応に苦し む人々の話が出てきます。 では、聖書の始めから見てみましょう。アブラハムは75歳で慣れ親しんだ地を離れ るよう神様から言われます。ストレスのかかる出来事ですね。ヤコブとエサウは兄 弟間のトラブルに見舞われ、ヨセフは家族に見捨てられ、モーセは覚悟も準備もで きていない中で、指導者の立場に立たされます。ダビデはサウルの嫉妬によって命 の危険に直面し、エステルは王と対立したくなかったが、民を救うためには自分の 安全と安定を手放し、王に迫らなければいけなくなりました。タマルは何人もの夫 を失い、ハガルは息子を救うために全てを捨て荒野に逃げなければなりませんでし た。アダムとエバでさえ、エデンの園を出るという突然の予期せぬ状況に対処しな ければなリませんでした。聖書には、人々がストレスにさらされる話がたくさん出 てくるのです。 聖書の中にはストレス、ストレス反応に関する話がたくさんあります。私が今この ことを持ち出した理由のひとつは、聖書がストレスについて当たり前のように話し ていることに私たちが気づいていないかもしれないからです。私は以前とある人が 、教会にいる時、教会の人にストレスが溜まっていることを打ち明けることできな い、難しいと言っているのを聞いたことがあります。なぜならストレスがあり、ス トレス反応を抱えていることは、信仰者として信仰が未熟であるとか、罪を悔い改 めていないからと言われたことがあるからだというのです。 なんということでしょう。それは聖書に基づいた下された結論ではありません!今 申し上げたように、神に召された人々は、人生においてあらゆる種類のストレスの かかる出来事を経験するのです。イエス様も、「あなた方はこの世にあっては、患 難があります。」(ヨハネの福音書16:33)と言っているのです。しかし、キリスト にあって、私たちはストレスをストレスのままに、ストレス反応をそのままにする ことはないのです。なぜなら聖書は、神様は私たちが悩み、憂い、怒り、ストレス から引き起こされる苦しみを感じる時に神様を呼び求めることができることを思い 起こさせてくれるからです。(ストレス反応から引き起こされる反応を聖書の日本 語訳(新改訳)では「苦しみ」、「苦難」英語の訳では「Distress」と表現して います) ストレスから来る苦しみの時に神様を呼ぶことは、神の民が最初から行ってきたこ とです。創世記35章では、兄エサウから父の祝福を奪ったヤコブが、兄と和解しよ うとします。その和解の時が近づくにつれ、兄が自分を赦してくれるかどうか不安 に思ったヤコブは、ストレスを覚えます。そのような中、彼はこう言うのです。「 ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、 いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(創世記35:3) ヤコブは、苦難の時に神様が答えてくださったという個人的な体験をしていました 。そして苦難の時に神様が出会ったのはヤコブだけではもちろんありません!現代 のテクノロジーを駆使して聖書の単語検索してみてください。(やり方を知りたか ったら声をかけてください)「苦しみ」「苦難」を経験した神に召された者の言葉 がどこにあるか調べることができます。そのようなリファレンスは特に詩篇の中に 多く、例えば「私は苦しみの中に、主を呼び求め、助けを求めて我が神に叫んだ。 主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」 詩篇18:6)、その他にも詩篇81:7、詩篇106:44、詩篇107:6、詩篇118:5では苦難の 時に神様を呼び求め、答えを見出す様子が書かれています。 苦しい時、神様を呼び求めると、神様は私に答えてくださった。そうです!みなさ んそういう経験がありますよね。だから信仰を持ったのではないでしょうか? さて、亜希子は今日の聖書箇所について、一体いつ話し始めるのだろう、みなさん 案じているかもしれません。また長い説教をするのかと、少しストレスを感じてい ませんか?ご心配なく!今からお話しします!そしてご安心ください。今まで話し てきたことと、これから話すことには関連性があります。 今日の聖書箇所は、福音を宣べ伝え続けているパウロが、現在の南東ヨーロッパに 宣教の旅を続けている時の話です。前の章で、パウロはマケドニア人のある男の幻 を見ます。彼が幻の中で、パウロにマケドニアに助けを施しに行くように言われた ので、パウロはその幻に従ってマケドニアに行くことにします。 この旅は、パウロにとってすでにかなり険しいものでした。彼と仲間のシラスは福 音を伝えたことで牢獄に入れられました(使徒の働き16:16-39)。ちなみに今日 の初めに話したストレス査定のツールによれば、牢獄に入れられることは、人生の 中で4番目に大きいストレスのかかる出来事だそうです。しかしそんな苦難の時も、 祈りと賛美を続けた彼らを神様は覚えられ、彼らを牢獄から救い出し、二人はマケ ドニアへの旅を続け、福音を宣べ伝えます。 その過程において、福音を受け入れ、イエス・キリストを信じる者もいれば、信じ ない者もいました。しかし、更に降りかかった苦難は、彼らの宣教が地域の平和を 乱していると感じたユダヤ人、しばしば彼らを町から追い出したことでした。結局 のところ、彼らは新しいイエスキリストの福音で群衆をかき乱し、地域の平和を掻 き乱すと、責め立てられたのです。そのような行為は当時は重大な犯罪とされたか らです。 それが理由で、彼らはテサロニケを去らざるを得なくなり、そして次に向かったベ レヤを離れざるおえなくなります。その後、パウロはアテネに来ます。この時点で 、パウロはさまざまな苦難を通っていました。牢獄に入れられ、各地を転々とさせ られ、命の危険にさらされ、福音が一部の人々に拒絶されます。これだけでも十分 にストレスのかかる出来事が起こっていると思いませんか? しかし、パウロにはこのようなストレスにもめげず、まったく臆する様子もありま せん。たとえば、牢獄から釈放されそうになったとき、彼は、自分たちの無実が公 にわかるように、自分と仲間のシラスを公然と外に連れ出し釈放するよう要求しま す。(使徒の働き16:35-39)彼に恐れ、ストレス反応はありません。パウロは神 様によって真に整えられた使徒なのです! しかし、そんなパウロでさえ、やはり人間です。他の人と同じように、ストレスの かかる出来事に対し落胆したり、痛み、悲しみ、怒りを覚えるのです。使徒の働き 17:16を見てみましょう。 「アテネでふたり(テモテとシラス)を待っているパウロは、心に憤りを感じた 。」 パウロもストレスがかかって、爆発することがあるのだ!私たちと同じです! しかし、彼は何に対して憤ったのでしょう? 「パウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」(使徒の働き 17:16)、そうあります。 パウロにストレス反応を与えたのは、彼自身の命が脅かされることでなく、アテネ の人々の霊性でした。パウロがストレスを感じたのは、人々が神様以外の偶像を礼 拝していたことでした。 ここでパウロがストレスを感じていると思うと、私は励まされると同時にほっと安 心します。なぜなら、キリストへの信仰が私たちのストレスとストレスからくる反 応にどれほどのヘルプを施しているかを、パウロが示してくれているからです。神 様の働きに加わることに集中し、神様がいつも私たちとともにいてくださると信じ るとき、私たちはストレスから引き起こされる恐れ、つまり、安全や名声、特権、 あるいは命さえも失うのではないかという恐れを取り除くことができます。 パウロはピリピ4章12節から13節でこう語っています。 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。 また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇 に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんな ことでもできるのです。」 どのような状況においても満足する。ストレスがあろうが、なかろうが、満ち足り ている。何があっても満ち足りている。そして、最も困難な状況にあっても、自分 の力や忍耐力を誇るのではなく、力を与えてくださるキリストにすべてをゆだね、 キリストを誇る。 イエスキリストにあって、私たちはこのように強くなります。ストレスに対する耐 性を築き、神様が求めておられるすべてのことを忍耐強く行っていくことができま す。まだ完璧にはできないかもしれません、パウロのような域には達していないか もしれません。しかしキリストにあっては、そこにどんなことがあってもストレス に打ち勝ち、どんなことがあっても満ち足りるという境地に到達する可能性がある のです。 パウロはイエスではなく、あなたや私と同じ人間にすぎません。全ての人間に力を 与えてくださるキリストによって、どんなこともことができると確信していても、 目先が暗かったり、良い結果が期待できそうもないときには、怒ったり、悲しんだ り、痛みを覚えたりするのです。 しかし、そんな状況にもかかわらず、パウロは前進し続けます。彼はアテネの人々 と論じあい、人間の手によって造られたのではない神、そしてご自身の必要を満た すために人間を必要としない神様について大胆に語ります。パウロは、神様が万物 の創造者であり、必要とするすべてのものに命を与えることのできる方であり、「 私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」と語るのです。(使徒の働き 17:24-28) 創造主である神様をよく知るパウロは、コリント、エペソ、ギリシヤの人々にイエ ス・キリストの福音を伝え続けようとするモチベーションを高く保っていました。 パウロの人生と宣教は苦難とストレスに満ちていました。しかし私たちはパウロが 自分の苦悩について怒りや痛みをあらわすのを、この一度しか聞きません。苦難と 困難が連続の人生と宣教活動において、なぜ彼はあれほど忍耐強く走り続けること ができたのでしょうか? 私はそれは、パウロがそのような状況にあっても、私たちの信仰の創始者であり完 成者であるイエス様を見つめ続けていたからだと思います。ヘブル12章にこうあり ます。私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようイエス様は十字架を耐 え忍ばれたと。(ヘブル12:3) イエス様は決して「自分のストレスは自分で解決しなさい」とは言われませんでし た。「自分のストレスに対処し、ストレスを取り除いてから、信仰者として整えら れてから、私のところに来て、ついて来なさい」とは言われませんでした。そうで はなく、こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人、私のとこ ろに来なさい。」(マタイの福音書11:28) イエス様はストレスを無視したり、スト レスを抱えた人を見捨てるのではなく、ストレスを抱えた人々全員をご自身の側に 招かれたのです。 イエス様が裏切られた夜を思い出してください。イエス様は弟子たちに何も隠され ませんでした。イエス様は弟子たちの一人が自身を裏切ることを告げられました。 そのことを弟子達が聞いた時、彼らは動揺し、ストレスを感じ、非常に悲しみまし た。弟子たちは「主よ。まさか私のことではないでしょう」かわるがわる尋ねたの です。(マタイの福音書26:22) 考えてみてください。その夜、イエス様が味わったであろう苦しみやストレスを考 えたことがありますか?イエス様は、心から愛していたユダが自分を裏切ることを 知っていました。自分がしたことではなく、全世界の罪のために自分が死ぬ必要が あることを知っていました。 しかし、そのことを伝えた瞬間、弟子たちは自分たちのことだけを心配していまし た。「きっと自分ではない」、「この中でだれが一番偉いだろうか」そのようなこ とを議論さえし始めます。(ルカの福音書22:24-27)しかし、その瞬間、誰もイエス 様の苦悩を気にしてはいなかったのです。しかし、イエス様はその苦悩からくる悲 しみに浸るのではなく、弟子たちを聖餐の食卓に招かれました。 彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子 たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」 また 杯を取り、感謝をささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯 から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のため に流されるものです。(マタイの福音書26:26-28) イエス様は人々をストレスから、苦難から救う方法を持っていました。ですがイエ ス様についていく人々はイエス様をストレスから救うことに関心はありませんでし た。人間とはそういう者なのです。ストレスがかかると、自分の苦難、痛み、怒り に集中する。そういう生き物なのです。しかしイエス様は人間でありながら、神様 でした。イエス様には愛、慈しみが、赦しがありました。これが私たちが信じる我 が主、救い主のイエスキリストなのです。 イエス様は疲れたすべての人に言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負ってい る人、私のところに来なさい。わたしは心優しく、へりくだっているから。」(マ タイの福音書11:28-29一部抜粋) だから、私は皆さんに、というより、イエス様はあなたのストレスやストレスから くる重荷をイエス様ご自身のもとに持ってくるよう招いておられます。イエス様に とって、小さすぎる、愚かすぎる、罪深すぎるストレス、ストレス反応はないので す。私たちの先祖がそうであったように、苦難とストレスの時に神様を呼び求めま しょう。 |
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May 2024
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