17信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 18また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 19人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
今日はキリスト教暦でいう一年の始まり、アドベントシーズンの第一日曜です。アドベントシーズンは、今日から始まり、クリスマスまでの4つの日曜日を含みます。アドベントのシーズンに教会では毎週日曜、ろうそくを一本ずつ灯します。それらはキリストにおける希望、愛、喜び、平和を表しています。 アドベントはラテン語のadventusからきており、その言葉は「到来」を意味します。 私たちは地上に赤子として来られ、また再び来られるイエス様の到来を待ち望んでいます。アドベントはイエスキリストの誕生を祝うための準備期間でもあると同時に、キリストの再臨のための準備期間でもあります。アドベントは、キリストの二度の来臨を思い起こさせる季節なのです。 したがって、アドベントは、神様から私たちにすでに贈られた贈り物と、未来の約束へ向けての準備という2つのことを思い起こさせます。私たちにすでに贈られた贈り物とは、神様が私たちと共にいたいと望まれ、神が私たちの間に住まわれるようになったという偉大な贈り物、インマヌエルご自身、イエスキリストです。アドベントの時期を過ごすことで私たちは、イエス様がすでに私たちと共にここにいること、つまり今日も私たちと共にいることをより意識することができます。 アドベントの意義はそれだけではありません。アドベントを通して、私たちはクリスマスを過去に起きた素晴らしい出来事の記憶として留めるだけでなく、より輝かしい未来、つまりイエス様の再臨に向けて今準備するということ、イエス様の到来の約束を待ち望むということも含まれているのです。 私の好きな作家の一人であるシスター Joan Chittisterは、アドベントの季節において私たちが熟考すべき質問を読者に投げかけます。 イエスの生涯は今、私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか? イエスの生涯は私たち自身にどのような影響を与えているのでしょうか? 私たち自身は、約束と可能性の両方を生きているでしょうか? 私たちはここ KUC(神戸ユニオン教会) に集う者として可能性に満ちた生き方をしているでしょうか?私たちがもっとできることはないでしょうか? 今日、礼拝の後年次総会が行われ、主に予算についての話し合い、報告を予定していますが、カウンシルそして神戸ユニオン教会の法人団体である神戸ユニオンプロテスタント教会(KUPC)の理事会における奉仕者を募っています。みなさんは神様から与えられた賜物や恵みを教会やコミュニティの為に使っているでしょうか? 私たちは皆、賜物を持っており、神様はそれを使うようにと私たちに呼びかけておられます。 今日の聖書箇所の中でパウロはエフェソの教会のために祈っています。パウロはエフェソの人々がキリストを 「心の内に住まわせる 」ことができるように祈っています。 (エフェソの信徒への手紙 3:17) パウロは教会がキリストの愛で完全に結ばれることを望んでいます。私たちはKUCがキリストの愛で完全に結ばれることを望んでいます。 私たちは互いを励まし合い、賜物を分かち合い、お互いに対しに愛を示すよう召されています。 パウロは、この愛は「知識をはるかに超える」ものであること、私たちの動機と欲望の核心に迫り、私たちを根づかせるものでなければならないと述べています。 パウロは、キリストの愛と私たちの関係を自然界の絵で表現しています。木の根が養分と安定を求めて大地に沈むように、キリストの愛はキリストに従う私たちを養い、安定させるのです。 さらに、根は私たちを互いに結びつけます。私たちクリスチャンは、「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」とされることよって互いにつながっているのです。(エフェソの信徒への手紙3:17) 上の写真は私の出身地であるカリフォルニアのレッドウッズという木の原生林の写真です。南アフリカの聖公会司祭であり、神学者であるデズモンド・ツツは根が土から、そして他の木の根から栄養を得て、つながっていて、森の中の他の木を支えているように、私たちは皆、互いにつながっていて、互いに支え合っていることを説いています。彼はこのように言っています。「私の人間性は、あなたの人間性と結びついているのです」と。 私たちは聖霊によって養われています。キリストの愛に根ざしたクリスチャンである私たちは、聖霊から限りなく栄養をもらっているのです。 18節に「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」とあります。パウロはキリストの愛が、ユダヤ人、異邦人を問わず全世界に十分な広さがあることを教えています。キリストの愛には長さがあります。それは世界の基から確立された永遠のように長いのです。キリストの愛には高さがあります。キリストの愛は、信者をキリストとともに天の場所に着座させることができるほど高いものです。キリストの愛には深さがあります。私たちが罪の中に死んでいたとしても、イエス様のその愛の深さを通じて私たちは赦されています。パウロは、今日の聖書箇所を通してイエス・キリストの愛に完全に覆い尽くされた人々を思い描いています。このようなイエスキリストにおける愛により、KUCの私たち全員は共に成長し、賜物を分かち合い、地域の人々に手を差し伸べ、世界を変えていく助けとなることができるでしょう。 このアドベントの季節を、神様に近づく時、そして神様の 愛を分かち合う時として用いることができますように。 アドベントの季節は、インマヌエル(神様が私たちとともにおられること)と呼ばれるイエス様を迎え入れることを私たちに思い起こさせます。 神様は私たちを決して忘れてはいません。このアドベントの季節に、私たちは皆、落胆している人を招いて希望を取り戻させ、これまで目を向けなかったような人々や場所に神様の愛を見る準備をするのです。 最後に、エフェソの信徒への手紙4章2節から、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し」という言葉を引用して、締めくくります。 私たちがここKUCで、互いに、そしてイエス様のために「愛に根ざした」者となることができますように。 アーメン。 「キリストに根差し、キリストを通して王座に着く」 エフェソの信徒への手紙4:7-16 神戸ユニオン教会 --- 2022年11月27日 説教者: スタッグ・デヴィン 今日のクラウディア牧師の説教に加え、私も聖句を少し分かち合えればと思います。「愛に根ざす」ということは、私たちはキリストに根差し、キリストの元に座っているということです。それはつまり私たちは5重のミニストリーの働きを通して、キリストの恵みを受けられる位置にいるということです。 エフェソの信徒への手紙4:7-16 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。 8そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。9「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。 10この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。 11そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。 14こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 15むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。 16キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 イエス様は私たち人間に贈り物をされました。贈り物であるイエス様の恵みを5つの側面から確認してみましょう。それは使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師です。使徒はイエス様のミッションを受け継ぐことです。十字架上の御業によって私たちを贖うという壮大な使命を受け継ぐ働きをします。預言者は父なる神がなさることをします。イエス様は預言者としてもこの世に仕えました。例えば、井戸のそばにすわっていたサマリヤの女の話(ヨハネの福音書4章)では、イエス様は神様からの知識の言葉を用いて、彼女の状況に語りかけます。福音宣教者としてイエス様は人々にこのように語りかけました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」何千人もの人々が主の言葉を聞くために集まりました。イエス様は牧者でもありました。神である言は肉となり、私たちの間に宿られました。イエス様は私たちをご自分のもとに嫁がせ、その親密さと愛の中で私たちの心の奥底にある必要を満たしてくださいます。イエス様は教師でもありました。イエス様は聖書を開き、神様の言葉について教えました。私たちは生きる神様に仕えているので、神様の言葉も生きた言葉なのです。イエス様が携わったこれらのミニストリーから来る恵みの一つ一つは、私たちが成熟するために、イエス様が与えてくださったものです。これらの恵みは、私たちが神様の完全な姿に成長できるように私たちに与えられたものです。 ソーダマシーンの例えを用いてもう少しこのことについて話してみたいと思います。 みなさんは、サンドイッチのファーストフード店「サブウェイ」をご存知でしょうか?私が一番最初に働いたのは、地元にあるサブウェイでした。ほとんどのファストフード店にはソーダマシーンがあり、私はその仕組みを学ばなければなりませんでした。 ソーダマシーンにはすでに出来上がった飲み物が入っているわけではありません。ソーダマシーンから出てくる飲み物は、ソーダ水とシロップを混ぜて作られているのです。そしてソーダーマシーンを通して、私たちはコカコーラの恵みをカップに受けます。同じように、牧者の下に座ると、牧者の恵みを受けるのです。あるいは、私たちはロイ兄弟のような福音宣教者からは、伝道的な恵みを受けるのです。 もし私たちが成熟した信者になりたいと願うなら、キリストのさまざまな恵みの下に身を置くことが私たちの課題です。キリストのような御姿になるために、キリストのさまざまな恵みを受けることが私たちに必要なことです。最後に、この御言葉を引用します。 エフェソの信徒への手紙2:19-22 19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、 20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、 21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 私たちは神様の家族の一員となり、神殿の一部となるのです。誰もが自分の居場所を見つけることができます。というのも、すべての人、すべての役割が、イエス・キリストご自身を指し示すからです。イエス・キリストは私たちの礎です。イエス・キリストは私たちのソーダのベースなのです。あなたは何の味のソーダになるでしょうか? あなたがソーダである以上、世界はあなたの味、フレーバーを必要としています。私たちは訓練され、用いられるために教会に来ます。その過程で私たちは移動式神殿に変えられるのです。私たち一人一人は世界を変えるために送り込まれた移動式神殿なのです。
0 Comments
2022年11月20日 「神の愛と力こそ、クリスチャン・アイデンティティー」 ビム・バハドウル・カリン・ライ師(ARIアジア学院トレーニングアシスタント) ガラテヤ人への手紙2:20、ヨハネの11/19/2022 私はネパールのビムです。私はネパールの21の教会の責任者として働いています。私はアジア学院を2015年に卒業し、今回が2回目の来日でトレーニングアシスタントとして働いています。今日、このような機会を与えてくださったことに感謝し、共に交わることができて幸せです。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)。 イエスは言われました、「あなた方は私を探している。しかし、私は一粒の麦が地に落ちて死ぬように、死ぬのです。三日目に私はよみがえる。私は栄光を受け、父のもとに昇るだろう。私を探しているあなたがたは、私を見ることができるようになる。あなたはまだ私の実の中にいる私を見ることができるだろう。" イエスは神の愛と力を示す 人々は教会の中で神の愛と力を見ることができます。神の愛はイエスによって多くの事例で示されました。そのひとつは、パリサイ人が姦淫で捕らえられた女性をイエスの前に連れてきたときです。 パリサイ人たちはイエスにこの女をどうするかと尋ねました。モーセの律法ではこの女は石打ちの刑に処せられるべきでしたが、イエスはすぐには答えられず、身をかがめ、地面に、彼らの秘密の罪を書き記されました。 彼らの秘密の罪のリストを地面に書かれたのです。そしてイエスは言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」(ヨハネ8:6-7) 彼らは良心によって有罪を宣告され、皆去って行きました。そして、イエスはその女に言われました。「わたしはあなたを罪に定めない、行って、もう罪を犯さないようにしなさい」(ヨハネ8:9、11)。 この例は神の愛を示しています。イエスは罪人を赦し、救うために来られたのであって、罪人を責めるために来られたのではありません。十字架上の苦しみと死は私たちに神様の愛を示しました。 御霊の実は、神の愛と集約されるイエスの性格を示しています。 このように、人々は日常生活の中で神の愛を見ることができるようになり、そして人々は教会で神の愛を経験したので、教会でイエスを見ることができると言うようになるのです。 教会はどのように神の力を示すか イエスは病人を癒すことによっても神の力を示されました。イエス・キリストは悪霊を追い出し、らい病人を清め、死者をよみがえらせました。イエスご自身が死からよみがえられたのです。これらのことはすべて神の力を示しています。 教会が聖霊の賜物を行使し、奇跡が起こり始めると、人々は「神の力が教会に存在している」と叫び立てるでしょう。イエスの奇跡を見ることができるのですから、イエスは教会の中で生きておられるのです。 イエスがキリスト教会の中で生きておられることを世界に示すためには、神の愛と力の両方が必要なのです。私たちは一方を他方から切り離すことはできません。それは鳥の両翼のようなもので、鳥が飛ぶためには両方が必要なのです。 「キリストの愛が私たちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:14) 1970年、鳥羽博士夫妻がネパールを訪れ、カリン族の人々と生活を共にし、カリン族の言語と文化を研究し、辞書を作成しました。鳥羽夫妻はキリスト教徒でしたが、当時はキリスト教を布教することは法律違反でした。しかし夫妻は一般的な病気のための薬や健康管理を行うことで、村の人々の間に友人を作ることができました。 クリスマスには村人全員を招待し、クリスマスの物語を紹介しました。 2001年ウィクリフのもと、私はカリン語への聖書翻訳に参加する機会を得ました。それは簡単なことではなく、多くの課題やハードルに直面し、ストレスも多く、財政危機や政治的な激変の時期でもありました。それでも祈りに応えて2012年に翻訳を完成させることができました。 翻訳を始める前は、外国人向けの観光ガイドとして山に登っていました。収入的に良い仕事でしたし、山登りは好きでした。その中で鳥羽先生から何度も聖書の翻訳を依頼されましたが、4回断った後、ついに仕事を請けることにして翻訳を始めました。そして月末に4000ルピーの報酬をいただきました。 私はショックを受けました。「ああ、カトマンズの街でどうやって生きていけばいいのだろう、夜もよく眠れない、でもすでに翻訳の契約を結んでしまったのだから逃げられない」と思ったのです。 しかし、それは神の計画であり、神の愛が私に翻訳の仕事を完成させるように導かれたのです。母国語の聖書全巻が完成した日、喜びの涙が溢れました。その時、私は神の愛と力を実感したのです。 ネパールのヒマラヤ山脈の僻地の村々に、どのようにして神の福音が広まっていったのでしょうか? 私の叔父がインドでクリスチャンになり、ネパールに戻って福音を宣べ伝え、病人のために祈り始めました。当時、私の母は重い病気でしたが、叔父は母のために祈り、母は新しい命を得て、私たちはクリスチャンになりました。 信者の数が増えれば増えるほど迫害が激しくなり、クリスチャンは牢屋に入れられてしまいました。信者は夜な夜ないろいろな家で密会していました。 ネパールの教会の始まりは本当に困難で、クリスチャンは公の場に集まることができませんでした。初期の信者の多くは殴られ、反対する人々は石を投げ、血まみれの人々を殴りました。それでもクリスチャンは信仰を守り、神と愛とに感謝しました。 クリスチャンも信仰を守り、神様に感謝し、愛と許しを得て、迫害の時代にも信者が絶え間なく増え続けています。 ネパール憲法では、すべての宗教は自由であるとされていますが、過激派には不評で、反キリスト教の活動はいまだに続いています。私たちはまだ完全に自由に説教をすることができません。 迫害中の実話をひとつ。 1995年、68歳のアシマン・カリンさんが重い病気になり亡くなりました。彼の息子と多くの信者が葬儀の準備をし、死体を清め、白い埋葬服を着せると、死者は体を起こし、話し始めました。「ああ!私は天使と一緒に天に昇ろうとしたのですが、真っ白な男が私を引き戻して言ったのです。「今、あなたはまだ来ることが出来ない。」 そこに集まっていた人々は恐れおののき、驚き、そして神を讃えました。 「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。このことによって、あなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るのです」(ヨハネ13:34-35)。 愛を示さない信者は、神の変容を体験していないのです。"神を見た者は一人もいない "のです。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛は私たちのうちに完成されたのです。" 神の愛と力は、この世界において私たちを鼓舞し、動機づけます。神の愛と力は、私たちが愛する人たちに対して行動するよう動機づけます。神の愛と力は、積極的で模範的です。 神の愛と力によって、私たち教会はキリストの再臨までキリストの証人となり続けることができるのです。このアイデンティティについて、私たちには他の選択肢はありません - 信者はキリストと共に死に、キリストと共によみがえり、新しい人生を歩むのです:神の愛と力によって、アーメン。 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、皆さんと共にありますように。(IIコリント13:13) 私達は聖徒の交わり 諸聖人の聖日(万聖節) ヘブライ人への手紙11章3-4節、ヘブライ人への手紙12章1-2節 神戸ユニオン教会 2022年11月6日 説教者:Rev. Claudia Genung11/5/2022 使徒信条から始めましょう。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。 主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、 ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、 十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、 三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、 全能の父なる神の右に坐したまへり、 かしこより来りて、 生ける者と死ねる者とを審きたまはん。 我は聖霊を信ず、聖なるキリスト教会、 聖徒の交はり、罪の赦し、 身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。 アーメン。 使徒信条における聖なる「カソリック」教会とは、聖なる「普遍的」教会を意味し、「聖徒の交わり」はキリスト教会の同義語として使われています。その意味で、「聖徒」とは、キリストを信じるすべての人を指しているのです。ですから、キリスト教徒のあなたたちは聖人なのです ヘブル12:1には、「多くの証人たちが、雲のように私達を取り巻いている」について書かれていますが、これは私達より先に亡くなった聖徒たちのことを示し、多くの人々の信仰と生き様で私達を励ましています。この雲が「多く」というのは、何百万人もの信者が先立たれ、各人の人生が今生きている私達の信仰の証人となったことを意味しています。この聖句で言及されているのが誰なのかを知るには、ヘブルの前章を見てみると、そこに多くの名前があり、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、モーセ、ラハブ、その他旧約聖書に登場する人物が、「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。」(ヘブル11:13)として言われています。 過去の聖人たちを見習うということは、彼らが目の前にいて、私達は勝利に向かって得た彼らの信仰生活に励まされて行動すると言うことです(ヘブル12:2)。私達は、彼らの物語に触発され、励まされるのです。主イエスの使徒たちのようなよく知られた聖人もいれば、聖アウグスティヌス、アシジの聖フランシス、トマス・アクイナス、アビラのテレサ、マーティン・ルーサー、ジョン・ウェスレーとその母スザンナ・ウェスレー(彼らに影響を与えた人々の母親たちのこともどうか忘れないでください!彼女たちも聖人です。)、賀川豊彦師と春子夫人のような人たちがいるのです。彼らは聖人です!)、賀川春子夫人(聖人たちが神に仕えるために全力を尽くすのを助けた人々の配偶者のことも忘れないでください!)。マクシミリアン・コルベ師(1941年、アウシュビッツの別の囚人のために命を捧げました)、マザー・テレサ(1981年に東京でお会いすることができました)です。これらの人々は皆、主を愛し、神からの召命を実行したのです。 聖人に会うと、まず最初に気づくのは、彼らが必ずしも「聖人」ではないということかもしれません。つまり、彼らには欠点があるということです。 彼らは完璧ではありません。私達のようにね。私達にも欠点があります。聖書に登場する人々にも欠点があります。使徒パウロは、ほとんどの手紙の中で、受取人のことを聖徒と呼んでいます。その中には、道徳的、神学的に大きな問題があったコリント教会のコリントの人々に対してもです。しかし彼らが聖徒であるのは、神が彼らを呼んだからであり、神が私達を呼ばれたからなのです。 彼らは、神様のおかげでその聖徒としての地位を得られたのです。神が彼らを「聖別」し(1コリント6.11)、「聖なる者とし」、あるいは「聖徒とし」(エペソ1.1、ピリピ4.21)たのは、主イエス・キリストにおいて、また主イエス・キリストを通してだけなのです。 有名で、本当に私達に感化を与えると考えられている聖人たちの中には、風変わりな性格的特徴や不完全なところもあります。いくつか例を挙げてみましょう。 賀川豊彦牧師(1880-1960)は、私がとても尊敬している方で、2011年に神戸に引っ越してきた当初は、三宮の賀川センターでミニストリーをしていました。 賀川牧師は1910年から1924年まで、2年間を除いて神戸のスラム街で貧しい人たちと共に生活しました。 彼はキリスト教の平和主義者であり、牧師であり、社会の改革者でもありました。彼は教会を設立し、労働者の組合を作り、150冊以上の本を書き、生協を始め、多くの人の人生に影響を与え、彼は多くの良いことをしたのです。https://en.wikipedia.org/wiki/Toyohiko_Kagawa ところが、アメリカで長老派の牧師をしていた賀川さんの娘のモミさんは、「いつも他人の世話をしている素晴らしいお父さんが、自分たちをないがしろにしていると感じた」というのです。 いつも他人の世話をしていて、滅多に会えないお父さん。 彼は家庭を顧みなかったのです。また、勤勉で寛大、利他的、共感的であったことで知られるマザー・テレサは、慈善事業に携わる姉妹やボランティアに自分の厳格なライフスタイルを強いたため気難しい性格の聖人であったと言われます。また、反社会的な人からの寄付を受けることもありました。それでも彼女は、病院での治療を拒否された多くの人々が尊厳ある死を迎えられるよう手助けをしました。1200年代、フランシスコ会の創設者で清貧の生活を送ったアシジの聖フランチェスコは、悪い考えから身を守るため、裸で雪の中を転げまわっていたという伝説があります。彼のように、奇妙な習慣を持つ者もいました。 一般に、聖人はその善良さによって認められるのではなく、神への途方もない愛によって認知されるのです。つまり聖人は普通の人であり、神への愛によって、しばしば並外れたことをするのでしょう。ところが、非常に神聖で、特別な存在に見える聖人が何人かいるのも事実です。これらの聖人は私達が尊敬し、神に感謝する人たちです。長老派の牧師であり、小説家でもあるフレデリック・ビューナー氏は、「神はこの世と聖なる交わりをするとき、ときどきハンカチを落とされる」と書いています。このハンカチは聖人なのです。https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Buechner 諸聖人の聖日(万聖節)、私はこの日には複雑な思いがあります。亡くなった人たちの人生を祝うと同時に、私達が愛してきた人たちの喪失を悲しむことになるからです。 2022年4月27日に亡くなった一人の聖人は、私達KUCのメンバー、ビリー・バークさんです。彼は日本で宣教師として多くの素晴らしいことをされ、愛されていましたが、息子のジェイによると欠点もあるそうです。 また、KUC の元牧師で、今は 「多くの証人たちの雲」 の一人となった方のことも思い出すことができます。 その一人、アーサー・ガンブリン牧師は1973年から1980年までKUCで牧会し、牧師として、またメソジスト宣教師としてKUCで奉仕することが自分の使命であると感じておられました。ガンブリン牧師と春子夫人は、当時、旧三宮KUCにあったCHIC(Community House & Information Center)という国際交流のための情報センターを立ち上げました。 ガンブリン牧師はKUCの牧師として一生懸命働き、心臓発作で52歳の若さで亡くなりました。神戸ユニオン教会は、フェローシップホールを「ガンブリンホール」と名付け、そこで今日のフォーラムを開催します。ガンブリンホールのキッチン近くの壁には、彼を偲ぶプレートが掲げられています。 KUCには他にも長く共にいる聖徒がいます。先週はチャック牧師の未亡人ケリー・グラフさんから、チャック牧師との思い出や、彼の死後どんなに苦しみ葛藤したかを話され、今は神様から召命されたことに情熱を見出すことができたというお話をされました。 私達は、ヨハネが黙示録で「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座(神)の前と小羊(イエス・キリスト)の前に立っている」(黙示録 7:9)と描写した場所に、私達を離れ、神のもとに帰っている人たちがいることを信じます。KUCは、国際色豊かな人々で構成されています。私達は、あらゆる部族や文化の人々と共に、天上に約束された永遠の場所を目指して歩んでいます。 天国について考えるとき、私達は神様のもとに帰っていった人たちを思い起こすことができます。今、しばらくの間、沈黙を守り、ささやくように、あるいは心の中で静かに彼らの名前を声に出して言ってみましょう。(沈黙のひととき) 人によっては、もう一緒にいない人のことを思い出すことは、悲しみと許しについて考える時かもしれません。 誰かを失って悲しむということは、その人と十分な時間を過ごせなかった、あるいはその人のために十分なことをしてあげられなかったと後悔し、自分自身を許すことも含むでしょう。どうか自分を許してあげてください。神様はあなたを愛しています。また、愛する人と最後のハグをし、最後に話し、最後の食事を一緒にしたい、と思った人もいるかもしれません。イザヤは、神が「すべての顔から涙を拭い去られる」と約束しました(イザヤ 25:8)。黙示録の著者であるヨハネは、この大群衆のためにその約束を再び述べています(黙示録7:17)。あなたが嘆いているとき、神はあなたのそばにおられます。生きているときも、死んでいくときも、そして死を超えた人生においても、私達は一人ではなく、神に感謝することができるのです。 10月29日、午前11時から土曜特別クラスを担当し、諸聖人の祝日について話し合いました。参加者は、牧師、兄、祖母など、自分の信仰の旅に影響を与えた人たちを紹介し、私達がどのように聖人になるのか、また日々の生活の中で聖人に出会うことができるのかを話し合いました。聖人は完璧な人間ではありませんが、神の愛を内に秘めているのです。主イエス・キリストの信者は皆、聖人です。もしあなたが自分の罪から離れ、主イエスと彼が十字架の上でなさったことを信じているなら、あなたは聖人、「聖なる者 」なのです。私達の小さな愛と他者への奉仕の行為でさえ、聖人を通して光は輝きを放つのです。主イエスの義が私達を聖人にするのです。神の聖徒として、私達は常に霊的に成長し、主イエス・キリストが私達に示された模範を熱心に見習うことによって、より高いレベルの完全性を獲得すべきなのです。参加者の一人(ロイ・ミスラング)は、「私達は自分では何もできず、主イエスが与えてくださったものによってできるのです。神の聖さが私達の中にあるのです。神は私達を聖なるものとし、聖霊の働きによって完全なものにしようと努めておられるのです。」と言われました。私は彼の言葉から、メソジスト教会の「創始者」ジョン・ウェスレー牧師が言われた、「私達は皆、完全に向かって進んでいる」という言葉を思い出しました。ウェスレー牧師は、『だから、天におられるあなたの父も完全であるように、あなた方も完全になりなさい』(マタイ5:48)という主イエスの招きを真剣に受け止めていた方です。(https://en.wikipedia.org/wiki/John_Wesley)ウェスレー牧師が言う「完全」とは、キリスト信者の成熟と愛の意味での「完全」です。もし主イエスが私達に完全を求めるように招いているなら、完全な愛は可能なのです。私達が間違いや誘惑、失敗から解放されるという意味ではありません。私達は皆、未完成であり神はまだ私達を完成させてはいないのです。神の恵みによって、「私達は完全に向かって進んでいるのです!」 私達は聖化の過程にあるのです。「聖化」と訳された言葉は、「聖人」と同じ語に属し、「サンクトゥス」という言葉から、私達は「聖なる」という言葉に訳しています。 すべてのクリスチャンは、私達の中にいる主イエスのおかげで聖なる者となることができるのです。聖人とは、「聖なる者」であり、神の特別な目的のために分けられた者で、神が聖霊を遣わしてあなたの内に住まわれた者です。 聖霊は、究極の聖なる者である主イエス・キリストを反映するように、あなたの人生を変えるために、あなたの中で働いておられるのです。 私達は神様につながっています。私達は聖人の共同体です。私達の信仰の旅を助けてくれ、私達の前を走り抜いた聖人たちから刺激を受けましょう。私達の周りには、生きていて、私達と共にいて、私達を鼓舞してくれる人々がいます。 私達は皆、「聖徒の交わり 」の中で結ばれているのです。神の聖徒として、主に従って精一杯生きようではありませんか。聖徒として、主は私達を他の人々に手を差し伸べ、奉仕するために用いられ、神の恵み、愛、思いやり、寛大さが私達を通して輝き、私達から周りの人々へと流れ出るようにされます。 今日、私達はフォーラムを開き、私達の教会のビジョンと、神の聖徒としてどのように KUC の未来のために働くことができるかを分かち合うことができます。 私達は、過去と現在の聖人たちから鼓舞されています。いつか私達も「偉大な証人たちの雲」の一員となりますが、それまでは、私達が行うすべてのことにおいて神をたたえ、互いに愛し合い、神の愛を他の人々と分かち合いましょう。(礼拝、交わり、弟子訓練、アウトリーチ、奉仕、伝道、つながり、聖書の学び、日曜学校、ズームクラス、そしてもちろん、祈りによって成長することができます!)。神様は、神を愛し、召された者のために働かれます。(ローマ 8:28) 祈りましょう。永遠の神様、私達よりも先に逝った聖徒たち、そして今もこの世に生きている聖徒たちに心からの感謝を捧げます。私達の主イエス・キリストを通して、KUCと今日のフォーラムで、あなたの新しい創造への道についてのビジョンを、あなたの聖霊が与えてくださいますように。 アーメン。 |
日本語の説教日本語の説教原稿はこちらにあります. Archives
May 2024
Categories |