「具合が悪くなるから、それを食べないで!」 神戸ユニオン教会--- 2021年2月28日 説教者: Pastor Chuck / ピリピ人への手紙:4:6-8, ローマ人への手紙:12:22/27/2021 聖書朗読箇所
ピリピ人への手紙:4:6-8 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れのあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に価することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい [そのことにあなたの心を集中させ、心にそれらを植え込んでください]。 ローマ人への手紙:12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 KUCの皆様お元気ですか?カリフォルニアはロングビーチからです。すでにご存知の方もいらっしゃいますが、現在の状況をお話しさせて頂きます。 約4週間前、KUCメンバーの数名に酷い、悪魔のようなメールが送られてきている事をお伝えしました。悪魔というのは、メールの送信者を指しているのではなく、メール自体が悪魔のようなという意味です。 約1週間後に誰がメールを送ったのかは判明しました。送信者、そして今回メールを送られた受信者と私たちは共に心の傷を癒せるように動いています。 送信者は判明し、悔い改め、和解、復帰できるように現在、毎週牧師の1人と時間を持ち、壊れた心を癒せるように、そして、その行為によって傷ついた人達の心も回復できるように働きかけています。 今回のことについての詳細の説教を3月に行う予定ですが、壊れた心の告白というのは、私自身のものであり、誰かの事を言っているのではありません。 これが、わたしの夕飯です。 ケリーが数日不在にしているので、これが私の食べているものです。あまり体に良くないものです。私たち家族は通常、結構ヘルシーなものを口にするのですが。 ちょうど今、3番目の娘と電話で話していたのですが、彼女は、「パパ、こんな物食べないで!健康なものを食べるためのお金を送ってあげるわ!」とまで言われました。そこで、私は、こういった健康に良くない食べ物を食べてしまう癖があると伝えました。 これです。マカロニ&チーズ。ヘルシー版ではありません。でも、オーガニック牛乳をつかって、牧草を食べている牛の牛乳、通常の牛乳の3倍も値段を払って、バターも同じく良いものです。だから健康に良いはず。 ケリーと娘たち、特に娘たちは何を口にするか、どうやって加工されているのか、脂質はどれだけ体に良いか、そして砂糖は基本的には体に毒だという事を真剣に語るのです。 うちの娘たちだけでなく、アメリカはオーガニック、牧草を食べている、自然、放し飼い等がブームで、卵を買うだけでも色々な形容詞があるので、それを都度チェックするのに疲れるほどです。最近は、卵も放し飼いを買っています。放し飼いとは、太陽の下でニワトリが飼われていること、平飼い(土間の上で飼っているけど、ケージに入っている)とは違うらしいのです。 もし、もっと深くオーガニックや、自然農法などの事を知りたければ、うちの娘たちと話してみてください。現在、沢山の人々が、何を口にするかを気にしているのに、まだまだ私たちの食事やライフスタイルには問題があるように思えるのです。 ここで、今日お伝えしたいことです。 自分の精神(心)に何を食べさせるかを気にしていますか?あなたの心、感情そして精神そのものです。 実際、私は自分の精神に何を食べさせるか、何の栄養を入れるかという事にとても厳しいです。精神的にも、感情的にも。そして、子供たちを育てている間、彼女たちに、自身の心に何を与えるかが大切だといつも言ってきました。 例えば、互いに掛け合う言葉、自分自身に喋りかける時の言葉。自分に語り掛ける言葉は、自分が何を考えているかを直に表します。そして、言葉はとても大切です。 ご存知の方も多いかもしれませんが、日本人の著者で江本勝先生が2004年に書いたベストセラー本(注:日本での出版は1999年「水からの伝言」)では、水に話しかける内容によって水の結晶が変化するという事が言われています。彼が愛や優しい言葉を水に語り掛けると、結晶はキレイになる。 しかし、マイナスの言葉を語り掛けていると、結晶はそれに反応するという事です。 これが、本当に科学的根拠に基づいているかは分かりませんが、私の娘たちはこれが大好きです。人間の体の65%は水で出来ていますよね?娘たちは、これを学んでから、お互いに「そんなふうに私の水に話しかけないで!」や、「自分自身の水にそんなふうに話しかけないで」と、マイナスの言葉を話さない事を心がけています。 私たちの成長過程で人に悪口を言われるよりも、自分自身に何を語り掛けているかの方が、重要な気がします。潜在意識は「ふざけている」という事は理解できないのです。文字通り。 ですから、誰かが「バカ言わないでよ!」または、ふざけて良くない言葉であなたを呼ぶとします。すると、あなたの頭の一部では「これは本当ではない(ふざけているだけ)」と理解しているのですが、もう一方で、それを信じて傷ついてしまうのです。 聖書ではその真実を書いてあるのに、教会にいる多くの人達はそれを見逃してしまいます。そして、クリスチャンでない人達の方がそれに気づくのです。 数週間前に、まどかさんがライフコーチングを通して、今まで人生にあったけれども気づかなかった事に気づいたという事を話されていました。自身を向上させる、または自分のセルフイメージ、自尊心を改善、向上させる。。。ほとんどは彼女が見ることができる真実であり、それは私たちも聖書の中に見つける事ができるかもしれません。 1つ、教会の外にいる人には見えて、教会の中にいると見えないものがあります。 私たちが、どうやって、何を考えるかです。どうやって物事を信じるのか、そして何を考えているかは、あなたの信じている事の源であり、最終的に言葉になります。 思い、信じ、そして喋る言葉は私たちの心の食べ物となります。心や精神という言葉を使いますが、何を私が意味しているかは分かりますよね?あなたの心と感情、そして深い場所にある、あなた自身です。あなたの精神(心)は、感情を吸収します。 今日、共有させて頂いた2箇所の聖書朗読箇所は、私の好きな聖句です。というのも、とても実用的であり、真実であり、そして文字通り、人生を変えるからです。 では、見てみましょう。 ローマ人への手紙:12:2 この世と調子を合わせてはいけません(その表面的な価値観と習慣に)。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全である(あなたに向けられた神の計画と目的)のかをわきまえ知るために(自分自身で確認するため)、心の一新(敬虔な価値観と倫理に焦点を当てる)によって自分を変えなさい(あなたが霊的に成熟すると共に)。 大きな真実を話しましょう。先週、面白いディスカッションをしました。クリスチャンはなぜ未だに、クリスチャンとして生きる事にもがいているのでしょうか。1つカギとなることは、この聖句に含まれています。私たちは急に変わるのではない。工程を経て変わっていく。どうやって?心を一新させて…です。 例を挙げてみましょう。心を一新させる方法の1つは、心を聖書で埋めるのです。それは、ただ聖書の単語を読んでいくというよりも、とても神秘的な事に私は思えるのです。 ケリーと私はOne-year Bible(1年で聖書を読む)を毎日行っています。これは簡単で、楽しく心を神様の言葉で埋める方法です。私たちは現代英語訳の聖書を使って読むので、とても分かりやすいです。One-year Bible を行うにあたって、毎日の朗読箇所を指定してくれたりする便利なサイトは以下の通りです。 https://www.oneyearbibleonline.com/readingplan/oneyearbiblereadingplan.pdf または 1年で読む聖書をAmazonで購入する事もできます。 https://www.amazon.com/One-Year-Bible-NLT/dp/1414302045 または 毎日の聖句を説明と共に聞く事もできます。無料です(英語) https://audio.oneyearbibleonline.com これらの情報は、KUCのウェブサイトのEventsの中に掲示されています。これらの聖書が必要な方は、おっしゃってください。購入して送らせて頂きます。 以前にもお話したことがある事ですが、もう1つの方法は 2012年に初めて私がガンと診断を受けた時、受け止めきれず、医師が様々私の聞きたくない病状を診断してくれている時に力になってくれた方法です。 当初、私は神が私に「医師からの結果報告やインターネットで病状を調べるように、出来る限り私(神)と時間を過ごしてください。」と言っているように思えました。 ピリピ人への手紙:4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れのあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に価することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい[そのことにあなたの心を集中させ、心にそれらを植え込んでください]。 今までは夢で見た事の意味などを話している人達のことを面白いと思って聞いていました。例えば、神様のお告げのような。そして、ここ2年ほど、私もそんな夢をみるようになりました。そして、夢について皆様にこの事を共有する事が良いのかどうか、迷うところだったのですが、この様な内容でした。 夢の中で、私は子供で、何かのテストが返却されて、テスト結果は悪かったという内容でした。そして、別の子と話していると、その子に「で、テストはどうだった?」と聞かれるのです。そこで私は「あまり良くなかった」と答えると、その子が「OK,だけどお父さんは何と言っていた?」「お父さんは何と言っていた?」 夢から覚めて、笑っていたのを今でも思い出します。「お父さんは何と言っていた?」そう、お父さん、神様、お父様に聞きにいかないといけないんです。 「この状況に対してどう思いますか?私の状態については?人生の山場、問題についてはどう思いますか?」 神が言う事は、他の誰が発する言葉よりも重要で力があります。 これは癖、習慣であり訓練ですが、私たちが健康に良いものを食べて、運動をしなければいけないように、価値を置いて、実践しなければいけないことです。 神様が何を言っているかを知らなければいけません。そして、自分自身にそれには反対意見もあり、少しの努力と衝突があるかもしれないという事です。 まず始めには、誰かを許すという事です。不思議なことに、許しは癒しを得る突破口となるのです。癒しは許さない気持ちや、許す気持ちに繋がっているのです。要するに、許すことが必要なのです。 2つめは、何度も何度も見た事がありますが、人が何かを信じているけれども、私はそれは真実ではないと思うものです。ウソと言う言い方もいます。私たちの中では、聖霊がそれを嘘か真かを教えてくれると言います。誰かが誰かを欺いたとします、結果誰かの人生をめちゃくちゃにする。そんな時は、神の言葉、聖書を使います。そして聖霊に何が真実で、そのウソと置き換えるように願うのです。 ここでも私たちが何を考えているか、何を信じているか、何を言葉として発しているかが問題です。私たちは、これを真実のセラピーと呼んでいます。 コリント人への手紙 第二 10:5にはこう書いてあります。 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、 聖書が言う様に、そこに敵がいるのであれば彼らのひとつの戦略はウソをつくことです。イエスも荒野で誘惑されそうになりました。サタンも聖書を使って、私たちの言葉で言うと「一部真実」、そうです一部真実なのですが、その捉え方を間違えていたり、間違って適用させていたりするのです。 気を付けてください。サタン(敵)は真実をところどころに散りばめて、罠をかけてきます。あなたに仕掛けるために部分的に、多分、少しだけ本当の事を織り交ぜてきます。 そして、次にももう一度頭で考えるのです「彼女が〇〇〇と言った事は信じられない!」だから自分自身を傷つけてしまったんだ。ともう一度頭で繰り返す。 刺されて、怖い経験をしたのに、もう一度自分を刺して思い出す!おかしな話しに聞こえたり、作られた話だと思うでしょう、しかし、この様なことを皆様も目にした事があるでしょうし、周りで起こっているのです。 苦い経験は何度も怒りを思い出させることと言われています。 今日、私がお伝えしたい事は、何を心に食べさせるかという事が大事だとお伝えしたいです。あなたはその栄養によって出来上がっているからです。そう、聖書を信じる私たちに伝えられている言葉です。 箴言 4:23 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。 祈りましょう
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創世記50:15-21
ヨセフの兄弟は父が亡くなったので、ヨセフが自分たちを恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに伝えた。「父は亡くなる前に、こう命じていました。『ヨセフにこう言いなさい。確かに兄弟はお前に悪いことをした。だがどうかその背きの罪を赦してやってほしい。』それでどうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。」この言葉を聞いてヨセフは泣いた。やがて、兄弟もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して言った。「このとおり、私たちはあなたの僕です。」ヨセフは言った。「心配することはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。ですからどうか心配しないでください。あなたがたと幼い子どもは私が養いましょう。」ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた。 神様、あなたの思いと道は私達のそれらより遥かに勝ることを認めて(イザヤ55:9)、御前に参ります。今日の御言葉を通してあなたの更に偉大な目的を私達に明らかにしてくださいませ。主と救い主の御名、イエス・キリストを通してお祈りいたします。アーメン 今月は「傷ついた心の癒し」と言うテーマでお話ししています。今月の初めに、クラウディア牧師が癒しに希望があること、チャック牧師が別の頬を差し出し、赦す中に私達の癒しがあることを話されました。 私達の多くは赦しが重要であることを知りまた理解しています。私達の主であり救い主は完全に人間として、神として私達に罪を赦すためにこの世に来られたのですから。 先週、主イエスの言葉を通し「あなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エペソ4:32)「そうすれば私達も赦されるであろう」(マルコ11:25)ということについて私達は学びました。癒しの過程で、皆さんはこれらの教えがどのように実際に働くのかと思われているかもしれません。神様が既に私たちを赦されているので、私達も赦すことができるのでしょうか?或いは、私達が赦した後で赦されるのでしょうか? どちらなのでしょう? 実は先週、このことを日本語バイブルスタディで話し合いました。 しかし、赦しがどのように働くか、赦しや癒しがどの手順を要するのかなどは、今日読んだ聖句の大切な点を見逃すことになってしまうと私は思います。赦しを段階的な手順として扱うと、聖書を自己啓発の書か、チェック項目を一つ一つ調べるものとして扱うことになります。しかし、聖書はそれ以上のものです。聖書は神の息であり、生きた言葉です。聖霊の導きによって、神の御心が私達に明らかにされるのです。 皆さんもお分かりのように、赦しは簡単ではありません、クリスチャンにとって赦すことの重要性を知るがゆえに、むしろ赦しが難しくなると私は感じます。私達の主、救い主は、命をかけて赦しを実践され、模範を示されました。しかし、私達の中に赦すこと、赦されることに関してイエス様の教えを実践しなければという自分の思いと絡み合った期待があるために、この件に関して、私達は自分達や他人にさらなるプレッシャーをかけているように思うのです。 ヨセフの物語は赦すことが本当に苦悩を伴う事を私達に見せています。新約聖書にみられる単刀直入の赦しの命令と言うより、ヨセフが兄弟達を赦す経路を見つけながら、この話は段階を経て、ヨセフにとっての赦しの旅路へと私達を誘うのです。しかもこの過程は歯切れの良いものではありません。啓発書のような段階を経る過程もありませんし、かなりダイナミックで、複雑で、厄介なことです。皆さんはヨセフの話をもうご存知だと思います。今朝読んだ箇所は話のクライマックスに当たる部分で、創世記の最後に出てきます。ヨセフの話は13章も前の37章から始まり、話はカナンの地から始まります。ヨセフは羊飼いで、17歳、ヤコブを父とする12人兄弟の一人でした。 話は多くの人間が陥る典型的なことから始まります。えこひいきです。 創世記の中には人間が特定の人間をえこひいきする多くの例を見ます:父が一人の子を他の子より好む、夫が一人の妻を他より愛する。このえこひいきは憎しみ、分断、分裂、罪を育てるのです。アダム、サラ、ハガル、カイン、アベル、エサウ、加えてヤコブ。ヤコブはヨセフを他のどの子達よりも愛していました(創世記37:3)。このえこひいきは兄弟間で沸き上がる憎しみと嫉妬を誘い、ヨセフの兄弟達は「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創世記37:4)と言う点に達していました。 ヨセフ自身の言葉や行動はこの緊張感の火消しとはなりませんでした。ヨセフは他の兄弟達のことを父に告げ口をしたのです(創世記37:2)。彼は兄弟達の悪口を言ったのです。ヨセフは彼らを支配し、王となり年長の兄弟達が彼に平伏す夢を話しました (創世記37:5-11)。 当時、最年長の息子が特別の祝福と生得権を受けるという環境において、ヨセフが最上の栄誉を受けるであろうという示唆は兄弟達には受け入れがたいものでした。この事は既に緊張感のある関係性を更に悪化させ、事態を素早く動かしました。ヨセフの兄弟達のヨセフに対する憎しみは悪化し、その憎しみはすぐに彼を殺害する企てとなりました (創世記 37:18)。話を短く要約すると、結局ヨセフ殺害計画は実行には移されませんでした、それは全ての兄弟達が弟を殺す考えに賛同しなかったからです。それでその代わりに、銀20枚で彼らは奴隷としてヨセフを売りました。ヨセフはエジプトに連れて行かれました。 エジプトについた後も、ヨセフの人生は山あり谷ありでした。彼はエジプトの侍従長の家の僕として仕えていました。彼は成功する者となったのですが、主人の妻と寝たという犯人に仕立て上げられ、監獄に入れられましたのです。しかし監獄でも彼は助けられ、全ての囚人を管理するようになり、また賜物として与えられた夢の解き明かしを活用したのです。だが彼の良き行いは忘れられ、彼の無罪も証明されませんでした。(創世記39-40) 2年が経ち、彼はエジプトの王であるファラオの夢の満足のいく知恵ある解き明かしをしました。それは全ての呪法師と知恵ある者達が説明できなかったことでした。彼の解き明かしや、やってくる飢饉に備えた国の収め方の指示に感心し、ファラオはヨセフを監獄から出し、彼を取り入れ、エジプト全土を支配する地位を与えたのです (創世記 41)。彼が被った全ての災難は今や祝福となって償われたようでした。彼の人生で経験した全て、捨てられ、奴隷として売られ、監獄で忘れられたこれらの事は今や過去のこととなったのです。 実は、彼は今や結婚し、自分の子供達さえ持つようになりました。彼は自分の長子にマナセと名付け、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」という意味を込めました(創世記41:51)。捨てられ、売られ、彼がエジブトに連れ出されてから13年も既に経過していました (創世記 41:46)。 しかし神はヨセフに家族がカナンにいることを決して忘れてはいませんでした。ヨセフがファラオの夢の解き明かしで予告したように、7年間の豊作の後、飢饉がエジプトやその周辺諸国に訪れました。ヨセフの国家管理の指導のもと、エジプトは来るべき飢饉に十分な穀物を備蓄することができました。今や、エジプトの周辺の国々、町、村から人々がヨセフのもとに来て、飢餓で死なないように食物を求めて助けを伺いに来ました。 ヨセフのもとに来た人々の中に、ヨセフの兄弟もいたのです。彼らは会いに行った方が、異国の地で権力ある地位にまで上りつめたヨセフであることに全く気がつきませんでした。兄弟達はヨセフは死んだとものと思い込み、エジプト王宮の権力者が実は彼らの弟であることを知りませんでした。しかしヨセフは彼らを見たとき、彼らが自分の兄弟達であることを悟りました (創世記 42:8) 。しかしヨセフは彼らに自分が何者であるかを明かしませんでした。今ではない、すぐにではない。その代わり、ヨセフは彼らを観察して、何かを確認しようとしていました。 最初に、ヨセフは兄弟達をスパイ容疑で非難しました(創世記 42:9)。ヨセフは彼らの命を脅し、監禁しました。そして、兄のひとりを捕虜として監禁し、残りの兄弟達を家に帰し、一番年下のベンジャミンを連れてきてヨセフに会わせるように命じたのです (創世記 42:15-17) 。その会見の後、ヨセフは銀の杯をベンジャミンの袋にこっそり入れて、それを盗んだとベンジャミンに濡れ衣を着せたのです (創世記 44:1-12)。濡れ衣を着せられ、命を盗られる、もしくは奴隷にされるそんな状況に彼らを陥れる時、ヨセフはベンジャミンの命を救うために兄弟達が自らの命を引き換えにするかを確認したかったのです。自分に対してしなかったことを弟のベンジャミンにはすることができるのか? なぜヨセフはこのような行動を取ったのでしょう。彼の動機は何でしょう。聖書は時間をとってその説明はしていませんが、彼が兄弟達にしたことは、まさに兄弟達が彼にしたこと、冤罪、監獄にいた時間、奴隷にされたことと同じことのように思えます。ヨセフはこのようにして兄弟達に復讐をしたかったのでしょうか。あるいはヨセフは兄弟達自身犯した過ちについてどの程度自責の念をいだいているか、彼らに悔い改めの思いがあるのかを見極め、今や違う行動を取ることができるのかどうかを探っていたのかもしれません。ヨセフは彼らが後悔しているかどうか知りたかったのではないでしょうか。 ヨセフの話は人間が人を赦すことの苦しみとそれがいかに難儀なことかを包み隠していません。ヨセフはここでは聖人として描かれてはいません。ヨセフは簡単に兄弟達を赦してはいません、彼には時間が必要だったのです。ヨセフは兄弟達が苦しむのを見る必要があったのです。兄弟達が恐怖とヨセフにしたことに対する罰に苦しみ、彼らの命が滑落していくのを見る必要があったのです。 ヨセフが兄弟達を赦すために、これら一連のことを見る必要があったのです。だが、それは本当でしょうか。本当にヨセフは時間が必要だったのでしょうか。本当にヨセフは兄弟達が苦しみ、恐怖に陥れることを赦すために見る必要があったのでしょうか。ヨセフは権力ある地位に上りつめ、兄弟達を赦す前に、遠く及ばない距離に君臨する必要があったのでしょうか。今朝の聖書箇所にたどり着くまでの、20年いやそれ以上の歳月がヨセフにとって、彼の赦しの過程にとって必要だったのでしょうか。この時間がヨセフにとって「私はあなた達を赦します。」と言うのに真底助けとなったのでしょうか。 また、兄弟達も「すまなかった、どうか赦してください。」と言うのにこの20年以上の時間が手助けとなったのでしょうか。今朝の聖書箇所は、時間というものが赦しの過程を容易にするとは言ってないようです。兄弟達は彼らのしたことに対して謝罪する事はなく、ただ恐怖を抱いていました。謝罪するどころか、彼らの父ヤコブの名において話を捏造しました。彼らはヨセフに、彼らの父が死ぬ前に彼らの犯した罪、ヨセフを傷つけた罪を赦すようにとヨセフに指示したと告げました(創世記50:16-17)。時間というものが兄弟達に誠意ある悔い改めや謝罪へと導いたとは思われません。それどころか、彼らの潜在する未解決の恐れと怒りを時間は悪化させました。時間は悟りをもたらしませんでした。兄弟達が赦しを乞うもっと適した方法へと導きもしませんでした。それでは何がヨセフと兄弟達を一緒になるよう近づけたのでしょう。それはきちんとした謝罪でも赦しの行為でもありません。それは心と心の通い合い、それと彼らを一緒に連れ戻した神を見上げようとしたことです。 ヨセフと彼の兄弟達は、いわゆる正式な赦しを交わす行為を互いにやりとりしたわけではありません。ヨセフの兄弟達は謝罪を言うことはありませんでした。ヨセフも彼らを赦すとは言っていません。しかし彼らが顔と顔を合わせて話したとき、何かが起こったのです。ヨセフは声を上げて泣いたのです。兄弟達も泣いたのです。彼らが共に持っていた心の傷がつながり合わさったのです。 ヨセフの兄弟達はヨセフの大きな心の痛みを見て、ヨセフは兄弟達の大きな心の痛みを見たのです。 なんとも言いようのない、誰もが傷つきやすい状況下で、ヨセフが兄弟達に言ったのは、次の言葉でした。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)。時間ではなく、悔い改めでもなく、正式な謝罪でもない事が状況を赦しへと変えていったのです。それは他の人の痛みを見ようとする気持ちです。人のすべての悪意や傷心の下に神の善き御意志、計らいを見ようとする気持ちがヨセフにあったのです。神の善き御意志は人の悪意より遥かに大きく、力があるのです。神は更に多くの人々に大きな善をもたらすために、苦しむ人、罪を犯した人を通して我々に手を差し伸べられるのです。 ここでの神の御意志、計らいとは、無数の人々の命を助けることです。もし成熟したヨセフが兄弟達を赦さず、兄弟達と彼らの子供達の面倒を見なかったら、イスラエルの人々は飢餓で死に絶えていたはずです。彼らの人口は決して増えることはなく、出エジプト時代に脱出するような大いなる民族にはなっていなかったでしょう。彼らの宿命はここで終わっていたはずです。もしヨセフが兄弟達を赦さず、面倒を見なかったら、数千年後に小さな家族の飼い葉桶に寝かされた子の誕生は起こらなかったでしょう。イエス・キリストはユダ族から生まれ、ヨセフの兄の一人の血筋だからです。神の御意志は時が満ちた時に表されるのです。 先ほど言ったように、今日の聖書箇所ではヨセフは口に出して「赦す」とは誰にも言っていません。彼は「赦す」と言う言葉を使っていません。ヘブル語で「赦す」はnaså この言葉は私達の知る赦し、赦免、免罪と言う意味があります。しかし同時に英語で言う「上げる」と言う意味も含んでいます。同じ言葉が有名な詩篇121:1「私は山々に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主のもとから天と地を造られた方のもとから。」にあります。 私が思うに、ヨセフは彼を傷つけた兄弟達を超えた偉大な助け手である主に彼の目を上げたのでしょう。彼は人間ができる全てのやり方で赦そうとこころみた、時間をとり、忘れようとし、権力を使い、兄弟達が真に悔いているか確かめるために探ったりしました。 神はヨセフが通ってきた苦しみや心痛を認めています。この事はこの話の大切な要点となっています。もしヨセフが簡単に兄弟達を赦していたら、3節くらいの例え話で終わっていたでしょう。だがそうではないのです。13章もかけたこの話はヨセフの身の上に起こったことに大変な思いをしながら生きていく旅路を描いたお話なのです。この話の中で、神はヨセフと共におられます。これは繰り返し、繰り返し見られます (創世記 39:2, 3, 21,23) 。神はヨセフと共におり、しかしながら神はヨセフに赦しに至るための必要なスペースを与え、自由意志を与えました。神はヨセフを信頼し、育て、ヨセフが彼の痛み、傷心、赦しや復讐の気持ちを超えて神に目を上げるまで待っておられました。 苦しみは私達の視野を偏狭にします、その瞬間的にも、或いはその後何年にもおいても。ところが私達の表面上の経験の下にある神の厳粛な、大きな御意志と計らいに気がつくとき、私達自身の苦しみを超越する神の偉大な御力に気がつくとき、正しくしかも憐みを持って私達は動き出すことができるのです。預言者エレミヤ(29:11)が言ったことに到達するのです。「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。」 主イエスが赦しなさいと命じておられるので、私達が信仰共同体として赦しを真剣に受け止める必要があるのは私たち一人一人が分かっている事だと思います。しかし今朝のヨセフの話を通し、赦すと言うことに苦しんでいる人達、そしてそれほど簡単ではないと思う全ての人々にとって慰めになることを願います。 神は赦すということがどんなに難しいか分かっておられます。神は、あなたを傷つけた人々が正式な謝罪をあなたにしていないかもしれないこと、あなたが望むような悔い改めをしていないかもしれないことをご存知です。それでも神はあなたを信頼しています。あなたが、神がどのような方であるのかを知る限り、全ての事柄の表面下で善い方向に向かっている神の御心をあなたが知る限り、そこにあなたの道は見えてくるのです。なぜなら、あなたが目を上げて見ると、悪を超えた善いものが見えてくるからです。あなたは悪の中に神の善良が既に現れはじめているのが見えるでしょう。 ヨセフの話は私達と無関係ではありません。私達にとって傷つき、痛み、真の危害は他人事ではありません。教会内や外部での共同体において、私達は自ら体験し、私達、家族、友人や人々が受けた多くの傷を見てきました。しかし神の優しさと信頼を通して、私達は心を養った者として傷をつけた者に対して「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と言えるのです。 このことは、ひどい苦しみが起こったことを認めないと言うことではありません。私達は明確に危害はあったといい、突きつけることができます。悪事はなされたと。しかし私達はそれを超えた神の御意志、計らいを見ることができるのです。またどのように御意志が明らかになるのか、今この瞬間、今日見ることができます、私たちが神に対し目を見上げれば。 私の祈りは、私達が為された悪に対し、真正面に向きあい、それに伴う全ての困難に向かっていくができる本物の共同体になる事です。落胆したり、隠したり、諦めたりするのではなく、試行錯誤の混乱の中で心と心を相互に作用させて育て、神の方向性を一緒に求めながら、例え傷つき、悪の最中にあったとしても、私達全ての者が目を上げて神の良い御意志と計らいを見つめる共同体を形作る者となることができますように。 主と救い主の御名において、祈ります。 アーメン KUCのみなさん、こんにちは。カリフォルニア州ロングビーチにいるチャック牧師です。説教の前に少しお話ししたいことがあります。
まず、ヤスシさんに感謝します。「傷ついた心を癒す」という教会の2月のテーマのために、今日ご自分の心の内と経験を語ってくれました。 次に説教に入る前に、私の経験したことをみなさんにお話しします。 最初にケリーと私が信条としているお気に入りの言葉を紹介しましょう。 それは「腹を立てない」です。これは「私は傷ついたりしません。でも感情を傷つけるようなひどいことを言ったりしたりする人がいたら、その人のことを気にかけてその人のために何ができるか考えます」という意味です。なかなかよい言葉でしょう。ケリーと私はこの信条をかなりうまく実行しています。 もっと詳しく説明すると、もし自分が本当は何者で自分には何があるのかという真実を知っていたら、あなたの人生は変わることでしょう。 つまり、本当の自分というのは、神の目から見た自分であり、キリストにおける自分のことです。キリストにおける本当の自分と自分が持っているものを知れば、すべてが変わるでしょう。そして腹を立てることがなくなることでしょう。というのは、本当の自分についての神の真実は、それを知りそれを信じた時、ほかのすべてを打ち負かすからです。 この圧倒的な真実を知っていたら、もし誰かが自分を傷つけようとしても、それはたかだか3歳の幼子に侮辱されたくらいにしか思えません。3歳が相手でしたら何を言われようと、こちらは傷つかないし、まじめに受け取りません。 または例えば学校でいじめっ子が来て、こちらの反応を見たいがために、本当ではないことや馬鹿げたことを言ってからかってきても、感情的に腹を立てることはしないはずです。これは力強い真実で、私たちはそれを強めていけばいいのです。 ところがです。ここに大きな「しかしそれにもかかわらず」がありました。 私が一通のメールを受け取ったのは、年末12月30日、アメリカで破産を申告したまさにその日でした。ゼロから出発して33年間事業をしてきた中で最悪ともいえる日でした。神と共にいたすばらしい話や証しは終わりました。私は少しどころか完全な敗北者のような気がしていました。 幸運なことにアメリカの親友が、日本とアメリカにおける個人のまた事業の4件の倒産について、数名の弁護士を雇ってくれました。非常に優秀な弁護士でしたが、報酬は衝撃的なほど高額でした。 そしてここからが私の経験を語る部分できわめて不愉快な箇所なのですが、私が倒産を申告した日にメールを送ってきたのは、アメリカにいる主任弁護士でした。 ここでそのメールを読もうと思ったのですが、あまりにも不愉快ですし、一瞬で私の心を切り刻み、打ちのめしたメールの内容を読むことが意味のあることでもないのでやめます。このメールで、私はみじめな気持ちになり、敗北者以下になったような気がしました。その弁護士は私がまるで犯罪者か何かで、倒産の手段を使って不法行為を行おうとしたかのように言い、牧師だなどと言っているが実際は…というような内容でした。 このようなひどいことが言えるでしょうか。その弁護士に報酬を払うのが私ではないにせよ、彼は専門家として私を助けるために働いていたのです。一体どうなっているのでしょうか。あまりにもむごい仕打ちではありませんか。 そのメールを受け取ったとき、心を駆け巡ったのは、彼の誤解、悪い方への話の飛躍、それに厚かましさ、非礼、冷酷、つまり彼が卑劣だということです。人が倒産を申請した同じ日に、そんなひどいメールを送ることができますか。それに私の体調が悪くなり深刻な状態になっていたのも彼は知っていたのです。 その日、弁護士をやっと捕まえて電話で話した内容の一部を紹介します。 「あなたの言うことは真実ではなく、私に対する非難であり、いいがかりです。このようなことを言われて、私はがんで死んでしまえばいいとさえ思い、がんとの闘いを放棄したくなりました。私は怒りの気持ちでいっぱいで、傷つきもしました」 すると弁護士は謝罪し、私たちは間にあった妙な誤解を解き、真実ではない事柄について解決しました。こんなふうに事実が間違って解釈され、疑惑に満ちてゆがめて伝えられることがあり得るなんて驚きです。 そして電話を切って車の中で考えました。これは本当に許しがたい屈辱だ。私は一種の放心状態になりました。怒りの感情と、傷ついた思いとどちらが強いのかわかりませんでした。そしてその時、自分が腹を立てているのかもしれないと気がつきました。実際、私は腹を立てていました。その瞬間、突然聖霊が私にささやいたのです。 知り合って間もないころ、その弁護士は「身体に不自由があるあなたのつらい気持ちはわかる」と私のがんのことを言っていましたが、また彼は「私も腰に問題があり、近々大きな手術をしなければならないだろう」と言いました。弁護士は私と同じ年齢で、毎日事務所まで片道10キロ以上を自転車で通勤した後は、歩くこともできないと言っていました。その時、「主よ、彼のために祈るべきでしょうか」と思ったのですが、そう思った瞬間はすぐ去りました。今また現れましたが、あのメールの言葉が…。 そこで私は現実的に考えてみました。この人はなぜこのような残酷で恐ろしいことを実際に言ったのでしょうか。そして、私はここに邪悪なもの(この言葉と考えを嫌う人がたくさんいるのを知っていますが)を感じました。彼自身が邪悪なのではなく、彼は利用され、または、たぶらかされたのです。それが邪悪なものなのか何なのか、何であれ私もやはり陥れられたのでした。 私は車の中に座ったまま、この卑劣で意地の悪い男のために祈らなければならないとはっきりと悟りました。そして彼のために祈ろうと思った瞬間に、彼は本当は卑劣で意地の悪い人ではないのだとわかりました。そして私はにんまりして、私の勝ちだと思いました。邪悪なものが勝ったのではなく、また邪悪と呼ぶのでなければ何かわかりませんがその何かが勝ったのではなく、この私が勝ったのです。 私は勝ち、またその弁護士もおそらく腰が回復して打ち勝ったのではないでしょうか。とにかく私は彼のために祈り、私たちは不思議なほど前に進むことができたのです。それはメールが不思議なほど不愉快なものだったのと同じような不思議さでした。 最近その弁護士と連絡を取っていないので、彼が何か得たのか、また回復したかどうかわかりませんが、これが私の「陥れられた」経験の告白です。腹を立て、自分のことに集中しすぎて、神の癒しが必要な人をあやうく見過ごしてしまうところでした。 以上は私が経験した話でしたが、ここからが私のメッセージです。 今日の説教のタイトル「燭台をお忘れでしたよ」は「レ・ミゼラブル」から取りました。私の大好きな小説でミュージカルもあります。まだ見ていない人はすぐに見てみてください。1862年に書かれた当時と同じく、時代を超えた力強いメッセージを今でも持っています。この物語の中の強烈な神の真実は、頭の中だけでなく心の中にも響きます。6週間前、KUCの全員にとって今月は癒しの月になるだろうと感じました。神の方法で、また聖書的な方法でどのように心を癒せばよいのかを神が示してくださる時だと感じました。 レ・ミゼラブルの話の筋をお忘れの人のために言いますと、主人公はジャン・バルジャンで、家族を養うためにパンを盗んだ罪で投獄されていました。彼は罪を犯しましたが、その罰は余りにも長く重すぎるものでした。19年後に釈放されましたが、犯罪者としての身分証明書のおかげで職もなく泊まるところも見つからず、教会にたどり着きます。司教は彼を迎え入れ、食事と宿泊を提供します。世の中に絶望していたジャン・バルジャンは、あろうことか司教の銀製品を盗みます。翌日警察に逮捕され、司教のところに連れて来られます。「司教様の銀製品を盗んだ泥棒を連れて来ましたよ」。 ここで少し考えてみてください。司教は彼が犯罪者だったと知っていながら、危険を承知で彼を家に入れ、宿泊させたのです。それなのにここで盗みを働くなど、なんて恩知らずな人間なのでしょうか。ところが司教は教会の司教というだけではなく、真に神の人でした。「いやいや、この人は盗んだんじゃありませんよ。この銀製品は全部私が差し上げたものです。でもここに…」司教はそう言いながら2本の銀の燭台を取って、ジャン・バルジャンに渡しながら言いました。「あなたが急いで行ってしまうものだから、この燭台をお忘れでしたよ」。 「燭台をお忘れでしたよ」 このことはただ単に赦すという行為だけではなく、それ以上の信じられないような驚くべきことであり、私には神のように感じられます。実際に、これはイエスの死と復活を受け入れたときに神から授かる恵みを象徴しており、私たちは受けるに値しないのにもかかわらず恵みを与えられます。そして慈悲と恵みを示すこと、私たちは赦されて来たのだから赦しなさい、ということも聖書は教えています。 エフェソの信徒への手紙4章32節(詳訳聖書)にこうあります。 「互いに親切にし、憐れみ(と思いやりと寛容)の心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、(進んで、喜びながら)赦し合いなさい」 聖書の教えはこの点で非常に明確であり、あなたの罪は今まで赦されてきたのだから、今後も赦してもらえるようあなたも赦しなさい、と多くの箇所で繰り返し言っています。 マタイによる福音書6章14節にはこう書いてあります。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」 強烈で恐ろしいたとえは「仲間を赦さない家来のたとえ」と呼ばれています。 私たちは赦され恵みを受けてきたのだから、私たちもまた赦し恵みを与えるべきだとイエスは明らかに言われ、もしそうしなければ恐ろしい結末が待っていると教えています。 マタイ18章の終わりにそのことが書いてあります。 「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 ああ、恐ろしいことです。でも私が言いたいのは、地獄の恐ろしさより天国の美しさです。あの司教のしたことです。 何年もの後悔と何年もの与えることの喜び、つまり燭台を渡す行為から言えることは、。赦すことだけでは得られない途方もない祝福と喜びがもたらされるということです。 もう片方の頬を差し出すたとえを引き合いに出す人もいますが、それは非常に深い話であり教えであり、本当に理解している人はごくわずかです。 私が望んでいるのは、燭台を渡した司教の話によって、イエスが教えていることを私たちが思い出すことです。私たちはただ赦されているだけではなく、受け取るに値しないにもかかわらず与えられています。これは神からの贈り物です。 燭台を渡しながら司教は、なぜこういうことが起こるのか理解できずに驚いているジャン・バルジャンを見て言いました。「バルジャン、あなたの人生は神のために救われたのです。銀の燭台のお金を使って、これから正直な人間として生きていきなさい」 今話しているだけでも感動しますが、本を読まない人も、ユーチューブでこの場面を見るか、できたらミュージカルで全部通して見てください。 ところで今日お話したメッセージは、何週間も前から心の中にありました。困難な状況に直面したときにKUCではどうするべきかをずっと前から考えていました。 神は、私たちKUCの教会のすべての人がいったん立ち止まり、どのように自分が赦されているかを感じ取り、赦すというイエスの教えを心で受け止め、赦すこと以上のことができるよう願っていると私は信じています。すばらしいのは聖霊が導いてくれることです。すべての人間関係、すべての場面で、神はあなたがどのように「燭台を渡す」のかを導いてくださるでしょう。神に従い神をあがめたいという思い、あなた自身が赦されていることに感謝を示したいという思いがあれば、罰を受けるべき人、銀の燭台を受け取るのに値しない人に、あなた自身が燭台をわたすことができるように神はあなたを導き、必要なものを与えてくださるでしょう。 では祈りましょう。 イエスはベトザタの池のそばにいた障害を持つ男に特に興味深い質問をしました。 「よくなりたいか?」 ある翻訳では「治りたいか?」 別の翻訳では 「癒されたいか?」 となっています。 この男は身体が不自由で、38年間ベトザタの池のそばに横たわっていました。彼は誰かが彼を池に連れて行ってくれるのを待っていました。そこで彼は池に入ることができれば彼は癒されると信じていました。 「ベトザダ」という名前が「優しさ、優雅さ、そして好意」を意味するのは興味深いことでした。彼はこの池で恵みを求めていたかもしれませんが、彼に恵みを与えるのは池ではなくイエスです。年に一度、天使がこの特別な池にやって来て水をかき混ぜると、最初にそこに入った幸運な人が癒されるというのです。
イエスは通りかかって、その人を見て、立ち止まり、よくなる意志があるかどうか尋ねました。ある翻訳では、「元気になりたいか」と書かれています。 元々のギリシャ語では「癒されたい」という言葉は使われていませんが、「なりたい」のではなく、「よくなる意志がある」のであれば、そこには違いがあります。男はよくなりたいと思っていたと思いますが、その意志があるとでは違います。彼はまた、他の人が彼を池に連れて行かないので水のところに行くことができなかったと言っていたので、おそらく彼は他の人に責任を負わせたり、他人のせいにしていました。私の友人はこの種のメンタルを「被害者の精神」と呼んでいます。おそらく彼は自分の状況について消極的でした。彼の心や頭の中で何が起こっていたのか、私たちは本当に知りません。しかし、「意欲」と「望む」の違いは、望むことは希望であり、受動的であるのに対し、意欲は決心が固いということです。 「したい」が機能するためには、「する意志」が必要です。 私たちが完全であるようにという神の意志と願望には、癒しと健康が含まれます。しかし、癒しと治されるの間にも違いがあります。イエスは私たちを完全にすることができますが、私たちが持っているどのような病気や障害も治らないかもしれません。治癒することと完全とされることは同じではありません。夫のトシの前に神学校でルームメイトだった友人のスーザンは、盲目で若年性関節リウマチを患っていたため、精神的には完全ではありませんでしたが、霊的にはほぼ完全な人でした。昏睡状態にある人々は、霊的に完全になり得ますが、昏睡状態から抜け出すことは決してありません。人々は心を癒されるかもしれませんが、彼らの病気や状況は同じままかもしれません。ベトザダのこの男は、特に彼が長い間苦しんでいたのであれば、心が癒され、同時に精神的な癒しが必要であったかもしれません。先ほど言ったように、彼は何年にもわたって自分の状況について人々や神を非難していた可能性があります。イエスが彼を癒されたとき、イエスはおそらく彼の心の痛みも癒されました。それがイエスがなさることです– 一つ以上の方法で人々を癒されます。 今月の説教者のテーマは、傷ついた心の癒しです。人生に痛みと不幸を感じた人々の心、癒しが必要な心です。時々、私たちの心には何年も前の傷や傷跡があり、私たちはそれを今でも持ち歩いています。教会でさえ、集合体として過去の痛みを持ち続け、癒しを必要とすることがあります。 どこにでも、ある種の癒しを必要とする人々がいます。東京の山谷は日雇い労働者が集まる場所です。実際、東京ではスラム街とされています。山谷はおそらく大阪の釜ヶ崎に例えられるでしょう。東京にいる私の友人であるキャロル・サックは、私たちのオンライン礼拝でも時々ハープを演奏してくれました。神戸ユニオン教会に何度か来たことがあるのですが、「希望の家」という場所に行きます。ホームレスのためのホスピスです。 (釜ヶ崎にも「希望の家」があり、私たちの教会がグローバルミッションを通じて支援しています。ホームレスのリハビリを行っていますが、東京のこの希望の家とは関係ありません。)以前、私は東京に住んでいました。たまにキャロルとそこに一緒に行きました。彼女はしばしば死に近づいている、あるいは破綻した人生を送ってきたホームレスの男性のために牧歌的なハープを演奏しています。多くは恥の痛みを持った人々です。失業、経済的困難、アルコール依存症などのために家族のもとを去った人たちかもしれません。キャロルの牧歌的な音楽は彼らの魂に癒しをもたらします。神が許すことのできないものは何もなく、キャロルのハープの音楽は彼らに平和をもたらします。 東北では、3月11日の地震の後、家族、友人、家、そして生活の手段を失ったために多くの人々が心を砕かれました。 私は当時東京に住んでいて、地震、津波、放射能の影響に苦しむ人々に奉仕する全世界的な機関である「東北ヘルプ」を支援するために東北に頻繁に行きました。 東北ヘルプは、多くの人が傷つき、痛み持っていたので、彼らが言うところの「心のケア」をしました。 彼らが立ち上げた多くのプロジェクトの1つは、女性がコミュニティに集まってストーリーを共有し、一緒に編むことで女性を支援する「心ニット」という組織を立ち上げたことでした。 彼らは深い心の痛みを抱えていたので、心のケアは本当に必要でした。 日本政府の対応に不満を持っていた人たちも、怒りの痛みを胸に抱いていました。 それが「モンクカフェ」がスタートした理由のひとつです。 モンクカフェは、キリスト教のmonk(モンク)(牧師)と仏教のmonk(モンク)(僧侶)の両方がバンでカウンセリングをし、場所を移動してコーヒーを提供したことに由来するかわいい名前でした。写真があります。人々は安全な場所に行き、好きなだけ「もんく」(文句)を言うことができました。彼らは牧師や神に不平を言うことができ、悲しみや欲求不満を分かち合うことができました。そうすることで、東北の三重被災者の中にはこのカフェで心を癒すことができた人もいましたが、時間がかかりました。悲しみは心の中で癒すのが最も難しい痛みの1つです。多くの場合、それは消えることはありません。痛みや悲しみを抱える人々のために、私たちのコミュニティのために、神戸ユニオン教会に「モンクカフェ」が必要かもしれません。 もう一つの話は、ハワイの友達のロビーです。彼女の精神に障害を持つ娘はバスを待っている間に殺害され、ロビーは娘を殺した人を許すことができませんでした。彼女は何年もの間痛みを心に抱いていましたが、最終的に殺人者を許しました。けれども、彼女は怒りを手放さなければなりませんでした。彼女は加害者のためではなく、自分自身のために許すことをしました。彼女は癒しが必要でした。自分のために彼女は怒りを手放さなければなりませんでした。癒しのプロセスを始めるために、そのときが正しい時期でした。それは決して急がされることはできず、痛みを手放すためのタイムラインは人によって異なります。それは誰にとっても同じではありません。ある人々は一生を必要とします。ロビーは15年を要しました。彼女は後にハワイで牧師になり、人生で困難な時期と苦痛を経験した他の人々を助けることを専門としました。彼女は神学者のアンリ・ヌーウェンが「負傷した治療者」と呼ぶところの人となりました。 私が最後に共有したいのは、壊れた陶器を金を使って修復する金継ぎについてです。それは欠陥や不完全を受け入れることで、さらに強く、より美しい陶器を作ることができるという考えに基づいています。すべての割れはユニークであり、修理して新品のようにする代わりに、400年前の技術は実際にデザインの一部として「傷跡」を強調します。 金継ぎの話を聞いて私は、私たちの心を修復し、私たちの生活に光と愛をもたらすイエス・キリストの愛の象徴として、私たちの生活の亀裂を修復する金について考えました。ひびは残っていますが、陶器は使えますし、再び一体となりました。ただ異なったやり方によって。イエスは私たちのためにこれをしてくださいます、つまり、私たちのひび、傷、痛み、そして壊れた心でさえ私たちを完全にされます。 「私たちはこれらの宝を土の器(土の鍋)に入れています」とパウロはコリント人への第2の手紙4:7で述べています。これらの「土器」あるいは「土の鍋」は人体であり、土器・土鍋と同様に劣化したり壊れたりします。 「宝」とは主イエスの霊によって変えられつつある人間の心です(コリント人への第二の手紙3:18、4:6)。 この宝物?それは光のようなものです。コリント人への第二の手紙4章6節は、「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らして下さったのである。」とあります。それがイエス・キリストの光です。 土の鍋あるいは「ひびの入った鍋」として、私たちは完全とされる可能性を持っているのです。 私たちがひびの入った鍋であることを認識することは、弱さ、間違いやすさ、そして脆さを抱えて生きることを意味し、それで構わないのです。それは私たちが不完全であることを知っていることを意味し、それも大丈夫なのです。 「主は心の傷ついた人の近くにいて、霊に打ち砕かれた人々を救われます。」 詩篇34:18 神は私たちを愛しておられます。神は私たちを完全にする方法を見つけられます。私たちは自分の亀裂を持ったままであっても、恵みと信仰によって生きることができます。 協力的な愛情あるコミュニティは、癒しを助けます。神の御霊は癒しを助けます。私たちの信仰と祈りは癒しを助けます。マヘリア・ジャクソンは言いました、「信仰と祈りは魂のビタミンです。 [私たちは]彼らなしでは健康に生きることはできません。」 神の光は、私たちが神に任せさえすれば、亀裂や傷跡を通してさえ私たちの心の中で輝きます。神の光と愛は私たちを修復し、私たちの中に流れることができます。 今日、前に進んで、イエス・キリストを中心とした生き方をしましょう。 祈りましょう。神様、私たちのすべての病の癒し手、あなたの聖霊が私たちの内に動き、私たちを完全にされるよう祈ります。アーメン。 |
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May 2024
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