KUCでの4年間を終え、京都に引っ越す
クリスチャンにとって大切な2つのこと
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祈りましょう。どうか、わたしの口の言葉が御旨にかないわたしたちの心の思いが御前に置かれますように。主よ、あなたは私たちの岩、購い主です。アーメン。
当初、今日の説教タイトルは “I Am With You.” 「わたしはあなたと共にいます。」でした。しかし、今日の聖書箇所を読んで、祈り求めているうちに、この説教タイトルに非常に重要な言葉が一つ抜けていることに気づきました!それだけでなく、その言葉を抜いたことで、私は誤って神様の言葉をである聖書を不完全に引用してしまったのです! ドムさん、南さん、今日の聖書箇所をもう一度画面に出していただけませんか?一番最後の詩篇139章18節の後半の部分です。「わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。」 「わたしはなおあなたと共にいます。」 (詩篇139章18節) さてこの言葉を言ったのは誰だと思いますか?神様でしょうか?それとも他の誰かなのでしょうか?そうだとしたら誰なのでしょう? これはダビデ王の言葉です。聖書を手元にお持ちの方は、詩篇139章の一番最初をよく見てみてください。1節の前に、こうあります。「指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。」(新共同訳) ダビデ王はおそらく聖書の中で最も有名な人物の一人で、今日の詩篇を実際に書いたのも彼です。皆さんの中にはダビデ王についてあまり多くを知らない方もおられるかもしれません。しかし、ダビデ王の最も有名なイメージとして知られるイタリアの芸術家、ミケランジェロによるダビデ王の彫刻は多くの方がご存じのはずです。 しかし、ダビデは王であり、よく知られる彫刻のインスピレーションになっただけではありません。彼は有名な音楽家でもありました。詩篇に書かれている多くの詩は彼によって書かれ、その多くは賛歌、つまりは賛美歌、神様についての歌となりました。 ダビデは神様がどのような方であるかについてたくさんの歌を書きました。彼が詩篇に連ねた歌を読んだことがある人なら、ダビデ王がとても正直な人だということがわかるでしょう。ダビデ王は神様に語りかけるとき、心の内を躊躇するなく神様に分かち合ったのです。 例えば、詩篇13章を見てみましょう。詩篇の中でダビデ王が神様に直接語った言葉です。 1 主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。2 いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。3 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。(詩篇13:1-3) なかなかすごいですよね!皆さんは神様にこのような事を言いますか?もし私がダビデだったら、少なくともお願い事の終わりに「どうぞよろしくお願いいたします。」と丁寧に敬語を付け加えたと思います。 「私に答えてください。」ダビデは自分を何様だと思っているのでしょう? このようにダビデは神様に迫ります。それがいいか、悪いかは別として、少なくともダビデは、困ったときに相談すべき方が誰なのかを知っています。少なくともダビデは、自分の家族、友人、しもべ、他国の王でさえも、自分を救うことはできないことを知っているのです。これらの人々がダビデの苦しみがいつまで続くのかという質問に答えることはできないことをダビデは知っているのです。 詩篇139章16節にこうあります。「あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139章16節) これは単に、すべての日が私たちのために造られたという意味だけではなく、神様が私たちのために造られた日々の一つひとつを知っておられるという意味です。そしてそれだけでなく、神様はそれらの日々を記録として残しておられるのです! 自叙伝はその人の人生を要約する書物ですが、神様の本はそれよりもはるかに詳細で正確な記録を記します。神様はすべての人の人生の毎日を自分の書物に詳細に記録しているのです。 神様は書物を貯蔵するために大きな図書館を持っているに違いありません。それは世界中のどんな大きな図書館や博物館よりも大きいはずです!しかし、私たちは今日の聖書箇所を注意深く読まなければなりません。神様は私たちの人生のすべての日々を記録しておられます。しかし、神様が私たちのために造られたこれらの日々について私たちに全て教えてくださるとは一言も書かれていません。神様は、私たちのために造られた日々に起こること、起こったこと、これから起こることをすべて知っておられますが、神様はその詳細を私たちに明らかにされないかもしれないのです。 今日の聖書箇所を読み返すと、ダビデが書いた詩、歌がどのようなものだったかがわかります。今日の聖書箇所は答えを神様に求める歌ではありません。またダビデが経験している苦しみの深さを神様に分かち合う歌でも、神様に助けを求める歌でもありません。 詩篇139章の今日の聖書箇所で、ダビデはいわゆる信仰告白をしています。「告白」と聞けば、罪、悔い改め、赦し・和解を求める告白を思い浮かべるかもしれません。しかし今日の聖書箇所はそうではなく、信仰の告白の詩・歌です。ダビデの信仰告白を一緒に見てみましょう。詩篇139:1-5を画面に映してくださいますか? 詩篇139:1 「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」 1節の解釈はこうです。「主は私たちを探り、知っておられる。」神様は、積極的に神様に近づく者、神様を求める者と共におられるだけでなく、私たちが神様を探し求めているかどうかにかかわらず、私たちを探し出してくださるお方なのです。単に知り合いとしてではなく、また道ですれ違ったときに「やあ、元気」と声を掛け合うだけの表面的な関係を求めているのではなく、私たちを知ろうとされるのです。 詩篇139:2 「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」 神様は私たちのことをどの程度ご存知なのでしょう?神様は、私たちの一日のスケジュールを知っておられます。私たちがいつ座り、いつ起きるかを知っています。神様は私たちの行動を知っておられるだけでなく、私たちの心の奥底にある考えも知っておられます。神様は私たちの歩みを見守られ、私たちがが安心して横になれる場所を知っておられます。 詩篇139:4 「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。5 あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。」 神様は、私たちが考え、行動し、選択するすべての事を知っているだけでなく、私たちが話そうとしている言葉の全てを知っています。私たちと共にいる神様の存在は、単なる比喩的なものでも、私たち自身の想像の中にあるものでもありません。神様は事実存在しています。神様は、私たちが感じ、聞き、理解できる方法で私たちに現れるのです。神様は私たちの近くにおられ、私たちの前と後ろを取り囲んでおられる大きい存在なのです。神様は力強い御手をもって私たちを導き守っておられます。 今お話したすべての事を心に深く染み込ませるために、今少し時間をとってみましょう。もう一度1節から5節まで味わってみても良いかもしれません。 なんて素晴らしいことでしょう!このように私たちとともにいてくださる方が神様以外におられるでしょうか?おられません! 私たちの家族、親しい友人、あるいは教会の家族でさえも、本当の意味であなたのことを完全に知ることはできないし、神様がしてくださるように深く親密に一緒にいることはできません。神様だけが、私たちと真に深い親密な唯一の関係を築くことができるのです。友人、知人、家族、教会の家族、親友や特別な友人など、私たちを愛し、気にかけてくれる人々でさえも、私たちを本当に理解し、私たちの疑問に答え、神様ができるような方法で私たちを救うことができる人は、神様以外一人もいないのです。 もしあなたが教会で育ったなら、あるいはクリスチャンになって長い年月が経っているなら、こう思うかもしれません。「神様はどこに行っても私たちとともにいてくださる、そんなこと知っている。私がまだ知らないことを教えてよ。」心の中でそう思っておられる方ももしかしたらいるかもしれません。 今日の詩篇に書かれていることは、あなたが神様についてすでに知っていることばかり。だからさっと読めばわかる。そう思った方もいるのではないでしょうか? しかし、私たちの教会の現在における霊的な状態を思うとき、教会の人々の生活の中で起きていることを見、人々と話し、人々の話に耳を傾け、人々と共に祈る時、私は神様が今日の聖書箇所から私たち教会に対し、とても重要なこと、私たちが信仰の旅で見逃してきたかもしれないことを、ダビデの神への応答を通して語られているのではないかと感じてなりません。 ダビデは、神様はいつも彼とともにおられると告白しています。そして、愛に満ちた神様の誠実さに対し、ダビデは自分も神様とともにいることを選ぶと告白します。 「わたしはなおあなたと共にいます。」(詩篇139:18)ダビデはそう告白するのです。 ダビデの人生、特に彼の人生の浮き沈みについて考えてみましょう。彼は8人兄弟の末っ子として生まれ、羊飼いの少年として育ち、羊の世話に専念していました(サムエル記第一17:12&14)。彼の役割はそれだけ。少なくとも、兄エリアブはそう考えていました(サムエル記第一17:28)。 ダビデはまだ若く、肉体的にも霊的にも成長しなければならないことがたくさんあったにもかかわらず、神様はその不完全なダビデを探し出し、彼を知られました。神様はダビデが、自分の心にかなう人間であることを知っておられたのです(サムエル記第一13:14)。そこで神様はダビデを選び、神の民イスラエルを治める新しい王に任命し、彼に偉大で恐ろしい任務を与えます。ダビデは羊を牧する代わりに、今度は人々を牧し、国を統一し、イスラエルの人々に平和と繁栄をもたらす使命を任されたのです。 しかし、神様の計画というのは、私たち人間の欲望にぶつかると、いつも神様の軌から外れてしまいます。人が他者の善よりも、神様の心よりも、自分自身を優先するとき、神様の正しい計画は脇に追いやられてしまうからです。先代の王サウルは、かつてはダビデを愛していました。ダビデはサウルのために戦い、サウルの王国を発展させ、さらにはサウルの世話係として彼のためにハープを奏で、その音楽で彼に大きな慰めを与えました。 しかし、ダビデが戦士・指導者として台頭するようになると、サウル王は嫉妬に支配されます(サムエル記上18:7-9)。嫉妬・猜疑心が彼を狂わせました。そこでサウルは、ダビデが殺されるようにと、さまざまな策を練り始めます。これらの策略がことごとく失敗に終わると、サウルはダビデの命を自ら絶つ決意を固めます。 命を追われたダビデは荒野に逃げ込み、イスラエルの地を洞窟から洞窟へと移動し、常に命の危険にさらされることになったのです。 自分がこのような状況に置かれていることを想像してみてください。清潔な衣服もなく、食べるものもない。そして、たとえ支援者を見つけたとしても、それは限られたサポートに過ぎません。24時間365日、サポートを受けることはできないし、誰かと一緒にいることはできません。サウルが追いかけてくるのを止めることもできません。ひたすら逃げ続けなければならず、寒く暗い洞窟で過ごす長く孤独な夜の日々を耐え続けなければならないのです。 私がダビデなら、いつまでこのような状況に耐えられるかわかりません。それはダビデもおそらく同じだったのでしょう。だからこそ、ダビデは詩篇を書くことで、心の内を全て神様にぶつけたのです。 このような背景を知った上で、ダビデが詩篇139章18節で、「わたしはなおあなたと共にいます。」と神様に告白することがどれほど大きな意味を持つかを考えてみてください。 ダビデは捕らえられないように、荒野の奥深くへと逃げ込みます。彼は日の光さえ見えないほど暗い洞窟に入り込んだのです(詩篇139:11)。常に恐怖にさらされ、命の危険を感じながら生きていたダビデは、まるで神様がおられないとされるよみの中にいるような気持ちをもったこともあるでしょう。彼は毎日暗闇の中におり、常に命の危険に晒されながら翌日を迎えなければいけなかったのです。 しかし、それでもダビデは告白します。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」(詩篇139章18節) 「私の人生はものすごい勢いで後転し、私は文字通り暗闇の中で生きています。主よ、あなたが私のように暗闇を見ていないことは知っていますが、それでも私をいますぐ助けに来てくださいませんか?"」ダビデはもしかしたら神様にそんなことを言ったかもしれません。 「それでも、助けが今日私が望むように来なかったとしても、私はなおも、あなたとともにいます、神よ。」 神様を信じるということは、苦しみから私たちがすぐに解放されることを期待するのでも、意味するのでもありません。神様への信仰が、必ずしもいつも私たちに癒しをもたらしてくれるわけでもありません。2年前、チャック牧師が亡くなり、主のもとに旅立ったとき、私たちは共同体としてこのことを身をもって体験しました。チャック先生が病に倒れこの世を発たれた中のどこに、神様の救いの約束があったのだろう?と思うかもしれません。もし神様が私たちを闇から救い出してくださらないなら、神様を信じる意味はあるのだろうか?私たちが必要とするときに、苦しみや病気から救い出してくださらない神様と、なぜ私たちは語り続けるのだろう?意味があるのだろうか?私たちが神様からの奇跡を受け取らないのであれば、神様が私たちとともにいる意味は何なのでしょう?私たちは神様が共におられることを通して何を得るのでしょうか? このような疑問に対しダビデならこう言うのでは、ないでしょうか? 「それはそういうことではない。神様が私たちの信仰と引き換えに何を与えてくださるかということだけを見ているのであれば、そこに成長はない。」ダビデの神様に対する応答は選択だったのです。ダビデは何があろうと、事態がどんなに困難で悪化しようとも、神様とともにいることを選びました。チャック牧師の健康状態が悪化し続け、苦しみが増し、死が近づいているのを目の当たりにした時のことを思い出してください。しかし、それでも私たちは、チャック先生がダビデと同じように、神様とともにいることを選んだことをしっかりと目に焼き付けました。 「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます。」(詩篇139:18)。 あなたは今日、自分の人生において、ダビデと同じような選択をしているでしょうか?神様がとても遠くにいると感じているとしても、あなたはそれでも今日も神様とともにいることを選んでいますか?自分の祈りが、期待したような形で、望んだような形で、あるいは自分が受けて当然と思うような形で答えられないと感じる時でも、それでも今日もあなたは神様とともにいることを選びますか?あなたやあなたの愛する人の上にのしかかる病や苦しみが取り除かれなくても、今日もあなたは神様とともにいることを選びますか?教会や教会にいる人々があなたを傷つけたり、失望させたり、怒らせたりしても、非難したりしてもそれでもあなたは今日神様とともにいることを選びますか? 自分の健康を害しても、神様とともにいることを選びますか? イエス様があなたの財産をすべて売り払い、そのお金を貧しい人々に与えなさいとあなたに言われるとき、それでもあなたは神様とともにいることを選びますか? 安住の地から呼び出され、霊的にも肉体的も敵の多い荒野に一人で送り出されるとき、それでもあなたは神様とともにいることを選びますか? 世の暗闇に目を向け、戦争、飢餓、虐待される女性や子供たち、自然災害、特定の人種や集団に対する憎しみや差別など、世の苦しみを見聞きし、その中に神様の沈黙しか聞こえないとき、それでもなおあなたは神様とともにいることを選びますか? ダビデは暗闇をよく知っていました。彼は、沈黙を守る神様とともにいることを選びました。ダビデは攻撃や危険にさらされる中で経験する苦しみや葛藤をよく知っていました。そのような中にあっても、自分の心が神様はそこにおられないのかと自分を苦しめた時も、ダビデは行く先々で、どんな時も神様とともにいることを選びました。あなたはどうでしょうか?KUCのみなさん、私たちの教会はそのような信仰を軸にして神様と歩いているでしょうか? どんなことがあっても、「神様、わたしたちはなおあなたと共にいます、」と言えますか?毎日そのように覚悟を決めているでしょうか? 祈りましょう。 イエス様、私たちがもっとあなたのようになれるように、私たちの人生に何が起ころうとも、あなたと共にいることを選ぶ者達となれるように私たちを助けてください。私たちの体と心は弱っていくかもしれません。私たちは、あなたの助けなしには、あなたとともにいることを選べないのです。私たちが、あなたが私たちと共にいることを選んでくださったことを思い出すことができますように。非難と裁きの代わりに、あなたは永遠に愛を持って、私たちと共にいるためにこの世に来てくださいました。ですから、私たちが信仰において成長し、共にこう言い続けることができるように助けてください、 「神様、私たちは今も、なおもあなたと共にいます。」 アーメン。 イエスは多くの人と会い、その人たちの人生を変えました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネといった弟子や、重い皮膚病などの病気の人、独善的なパリサイ人、盲目の人や足の不自由な人、麻痺のある人などです。また軽蔑され疎まれていた徴税人、売春婦、ローマ人にも会いました。中でもニコデモとのイエスの会話は、最も力強く神学的なものでした。
ニコデモは次のような人物でした。 ニコデモはパリサイ人 パリサイ人として律法に厳格に従っていました。旧約聖書にある律法だけでなく、その後追加された規則にも従っていました。心身ともに清らかな生活に身を捧げていましたが、何か物足りませんでした。律法を厳守しているのに、神とのつながりを感じていませんでした。 ニコデモは律法を教える教師 彼は聖書を熟知していました。教えることのできる教師のレベルでした。彼は律法について知識があるだけでなく、深い解釈もできました。神についてすべてを知っているのに、何かが足りませんでした。それは神とのつながりでした。 ニコデモはサンヘドリン(ユダヤの最高法院)の議員 彼が関係を密にしていたのは神ではなく、サンヘドリンでした。政治権力者とともに、一般の人々の実生活にかかわるさまざまな決定を下していました。イスラエルはローマの占領地であったため、ローマ人とも協力しなければなりませんでした。福音書にあるように、イエスが十字架にかけられたとき、彼は権限を行使してイエスの遺体を引き取りました(ヨハネ19:38)。しかしどんなに政治的な力があっても、神とのつながりは得られませんでした。 ところで以前アメリカで私の知り合いに、裕福で力にあふれ、道徳的にも正しい人なのに人生に虚しさを感じている人がいました。どんな成功にも喜びを感じていませんでした。彼には世俗を超えたもの、つまり神とのつながりが必要でした。そして神とのつながりは唯一聖霊を通して得られます。 イエスの教えを聞き、奇跡を見た後、ニコデモは夜の闇に隠れてイエスのもとにやって来ます。ニコデモがイエスのもとに行ったのが夜だったことについて、多くの説教師がいろいろなことをやかましく言います。ニコデモはイエスのもとに行くことを恥じていたのか。隠したかったのか。私たちにはわかりません。それでも私たちにわかるのは、イエスのもとに木の上から行っても(ザアカイのように)イエスは立ち止まって話をしてくださるということです。街で出会ったとしても(10人の重い皮膚病患者のように)、イエスは立ち止まって話をしてくださるでしょう。イエスに断りなく触れたとしても(出血が止まらない女性のように)、話しかけてくださるでしょう。 イエスはやって来たニコデモと話をしました。ニコデモは、イエスを神から地上に送られた若い説教師として尊敬していると言います。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません」。ニコデモは、イエスが行っている奇跡から、神がイエスとともにいることを認めています。これらの奇跡を目撃したすべての人々が、このことを理解し信じたわけではありませんが、ニコデモは信じました。 そしてイエスは会話の核心に切り込みます。神の国を見るためには、新しく生まれなければならない、とニコデモに告げます。 ところでみなさんがイエスの所に行って話をするとしたら、気をつけてください。イエスは天気やスポーツジムや今流行のファッションの話はしないからです。イエスはあなたの心の奥深くにあるものについて話します。それはちょっと怖いですね。 さて私を知っている人でも、私の内面的な葛藤を知っている人はほとんどいません。私は自尊心が低く、自分に自信がないことで悩んできました。子どもの時からそうでした。そのため人生にいろいろ影響しました。数年前、頭痛が治るよう神に祈ったことがありました。祈っている間、イエスが何度も私に言うのを聞きました。「私の子よ、あなたを愛している。あなたは私の似姿で造られた」と。頭痛については何も言われませんでした。頭痛は二次的な問題で、本当の問題は私の自尊心でした。その後一年間自尊心の問題に取り組んで、やっと「自分は完璧な人間ではない。でも愛されている」ということを受け入れました。みなさんも同じです。完璧ではない、でも愛されているのです。 不思議なことに、神の愛を受け入れた後、私の頭痛は消えました。私は自分自身が作り上げた自己像をごみ箱に捨てる必要がありました。神は私をご自分の似姿に新しく造り変えてくださいました。私自身やまわりの人が作り上げた私の姿ではありません。 Ⅱコリント2:17には、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書かれています。 イエスはニコデモに真実の爆弾を投げました。ニコデモが固く守ってきた聖なる信念に立ち向かいました。それはニコデモの家柄ゆえに、またユダヤ人としてアブラハムの子孫であるがゆえに、神は自分と共にいてくださるというものでした。神が結ばれたアブラハムとその子孫との契約により、ニコデモは自分が守られていると安心していました。 イエスは「再び生まれなければならない」と言われましたが、再生誕生は非難されてきましたので、私は「新たに生まれかわる」と言っています。それはトランスフォーメーション(変化)と呼ばれます。 世の中では家や体型やファッションのビフォーアフターのテレビ番組が流行っています。番組では、出演者の体重を減らしたり、髪を切ったり、新しい服を買ったりすると、その人たちの外見は劇的に変わります。でも内面は何も変わらないのです。The Biggest Loser(最大の失敗者)というアメリカのリアリティ番組では、番組が終了した後に参加者の90%以上の人の体重が元に戻ったという記事を読んだことがあります。 イエスはニコデモに次のように言っています。律法の教師であること、パリサイ人であること、そしてサンヘドリンで働くことはよいが、それらはすべて外側のことだ。内面で新しく生まれなければならない。この新しく生まれる、とは昔から言われています。神は千年前にエゼキエルに言われました。「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」(エゼキエル36:26)。 もし異邦人(ユダヤ人でない人)も、新しく生まれなければならないとイエスが言ったとしたら、ニコデモは「アーメン」と言ったでしょう。しかし、普通のユダヤ人にとっては、新しすぎる考えでした。洗礼とは、異邦人がユダヤ人になろうとする場合に行うのが普通でした。しかし洗礼者ヨハネは、すべての人が洗礼を受けなければならないと言いました。これはアブラハムの約束の民であるユダヤ人にとって、急進的な考えでした。イエスはこれと同じ考えを持っています。 イエスはニコデモに二つの例を示しました。聖書の学者であるニコデモは、二つともすぐに理解しました。最初に挙げた例は風です(8節)。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」。風のヘブライ語は「Ruach」הרוח (ルアハ)であり、神の霊、聖霊と同じ言葉です。 イエスはルアハについて次の三点を述べています:
イエスが挙げた二つ目の例は、民数記21章にある悔い改めについてです。エジプトから出て、約束の地に入る前の放浪の期間中、イスラエル人の不従順をイエスは語ります。民は主に向かって不平を言いました。神は民を守るのをやめ、蛇が現れて人々を噛み、多くの者が死にました。民はモーセのところに来て「私たちは罪を犯しました」と言いました。モーセは神に、蛇を取り去ってくれるよう祈りましたが、神はそうしませんでした。代わりに、「燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば(つまり悔い改めれば)生きる」と神はモーセに言われました。 この話からイエスは新しく生まれるとはどういうことか私たちに理解させようとしています。
では核心に入りましょう。最初の原則は神のご性質についてです。ヨハネ3:16には神の愛が示されており、神は「そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれています。神ご自身が愛です。ないものを与えることはできません。神は愛そのものです。また、Ⅰヨハネ4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです」とあります。 ヨハネ3:16が教えている二番目は、神の愛を受け取る側についてです。神の言葉を伝える、ブルース・ブラザーズを引用しましょう。「それはあなた、あなた、あなた。朝のあなた、あなた、あなた」。あなたはダンスパーティーで、最初に踊ってほしいと頼まれる人ではないかもしれない。ドッジボールをするとき、一番にチームに入ってほしいと言われる人でないかもしれない。しかしあなたは神に愛されています。そのことを知っていますか。頭の中ではなく、心で本当にわかっていますか。もし新しく生まれたいのであれば、この神の愛の真実を受け入れなければなりません。そうしなければ、神の霊はあなたに降りてこないでしょう。 ヨハネ3:16から学ぶ三番目は、愛は行動であるということです。神は言葉の裏付けとして犠牲を払いました。結婚の誓い(約束)で、死が私たちを分かつまでステファニーを愛し、敬い、大切にすると私は誓いました。皆さんの中で結婚の誓いをした人は手を挙げてください。これは人生がうまくいっているときだけ守る誓いではありません。良い時も悪い時も、健康な時も病気の時も守らなければならない約束です。愛は感じるものです(本当です)。でも行動で裏付けなければ、パウロがⅠコリントで書いているように、愛も「騒がしいどら」になります。私たちに対する愛を、イエスはを話すだけでなく、十字架にかけられることによって私たちに示しました。 今日の学びの最後は、神との関係から得られるものについてです。私たちは報いを約束されています。それは私たちがよい人間だからではなく、神の恵みによるものです。イエスは十字架の上の強盗にも同じ報いを約束しました。信じる者は誰でもこの報いをうけられます。報いとはイエスと共に天国にいることです。ローマ人への手紙10:9には、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです」と書かれています。新しく生まれるとは、神との関係を作ることです。決断するのはあなた自身です。 祈りましょう。 はじめに
私はブレント・ワーウィックと申します。2001年から2005年まで神戸ユニオン教会(KUC)のスタッフとして、青年グループと宣教活動を中心に奉仕していました。スージー(妻)と私はまだ20代で、3年間の契約で神戸に引っ越しましたが、その時期の生活がどれほど私達を変えることになるのか、全く予想していませんでした。驚くほど困難な時期もありましたが、神様は私達に多くのことを教えてくださいました。 クラウディア牧師から、私達がKUCを訪れている間、説教をしていただけないかと尋ねられ、私は快く承諾しました。なぜなら、私達がKUCに住んでいた間、スージーと私はKUCメンバーから多くの愛と恵を受けていたからです。多くのメンバーが私達を家に迎え入れてくださり、知恵や時間、翻訳の助けを惜しみなく与えてくれました。本当に感謝の言葉しかありません。 そしてその感謝の気持ちが、私を導き本日の説教に至ったのです。ここ数年、心に感謝の姿勢を持つように聖霊は私を訓練していました。私は学ぶべきことがたくさんあったのです。神様は私を独創的な独立心を持つ者として創造され、それがアメリカ人(個性的で意志的に自立する文化)であることと結びついていました。自立心が強すぎると、感謝の気持ちを表現するのが難しくなります。私の場合、自分で人生をコントロールできるとみなして、自分の将来や行動の成り行きを自分で支配しようとしていました。 しかしながら、神様は愛をもって高慢な私の自立心をいさめてくださいました。例えば、始めに日本に住むようになって他人に深く依存するようなりました。次に股関節を骨折して多くのことが今でもできなくなったのです。それからアメリカに帰国した時、ハリケーン・カトリーナに襲われて避難する羽目になったこと。大不況を乗り越えたこと。最近では、がんと戦う弟とその家族を助けていることです。私は人生を自分で支配することを推し進めると、苛立ちと怒りにしかつながらないことを知ったのです。そうではなく、感謝する方を選ぶことが真の理解へとつながるのです。文句を言ったり、安楽な状況を切望すると、私や私の周りの人々を悲嘆にくれさせるだけだと、神様は私に深く教えたのです。そうではなく、喜ぶ方を選ぶと、それは平安につながるのです。そして私は、将来を心配するあまり、今の現在が惨めに感じるだけだと、神様から教えられました。そうではなく、希望を持つ方を選ぶことが平安と充足につながるのです。 要点 感謝しなさい、喜びなさい、希望を持ちなさい。ここ数年、私はほとんどすべての祈りをこのシンプルな願いで締めくくっています。神様、どうか私達が感謝できるように、喜べるように、希望をもてるように助けてください。私達の心に聖霊が働いてくださらなければ、これらのことを十分に経験することはできません。だからこの祈りは、私自身の心、そして私の祈りを聞いてくださる方々へ、私達が神様に寄り頼むことを思い起こさせるものです。 感謝する力は、神様の被造物としての私達の歴史に根拠があります。私達は自分のものではない。私達は、すべての生命、すべての存在に愛をもって生命を吹き込んでくださった父なる神様に負っているのです。 感謝せよ 全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。 喜びをもって主に仕えよ。 喜び歌いつつ御前に来たれ。 知れ。主こそ神。 主が私達を造られた。 私達は主のもの、主の民 その牧場の羊。 感謝しつつ 主の門に賛美しつつ その大庭に入れ。 主に感謝し、御名をほめたたえよ。 主はいつくしみ深く その恵みはとこしえまで その真実は代々に至る。- 詩篇100:1-5 感謝するということは、過去を振り返り、良いこと、真に価値のあること、私達に対する父なる神の恵み、神様が最終的にすべてを支配していることを振り返ることです。神様は結末を支配していますが、私達はそうはできません。これに気づくとき、私達は自由という意味をあらたに認識することになります。つまり私達は結末から解放されるのです。日常の些細なことを采配できる私達の力は、神様からの私達への贈り物に過ぎません。神様の愛に私達が自由に応答し、その結果として隣人を愛するために私達の采配力は用いられるのです。これを考えると、私達の支配欲を置き換えられるのです。支配欲を心から単純に排除することはできませんが、もっと満足できるものに置き換えることができます。真の自由は更なる充足をもたらします。そして、支配への欲望を手放して得られる自由を大切にするとき、私達の心はより感謝ができるようになるのです。 私はどのように感謝するかを学び続けています。そして、もしあなたがもっと感謝して生きたいと少しでも思っているなら、聖霊に感謝をあなたの心に教えてくださるようお願いすることをお勧めします。 そして、私が役に立つと思ったことの一つは、感謝の気持ちを思い出す機会を見つけることです。例を挙げると、7年ほど前、スージーと私は子供たちとの夕食時に小さな習慣を始めました。これから食事を神様に感謝する前に、テーブルに着く一人一人がその日に感謝したことを一つずつ述べることです。簡単なことなので、私達はそれを継続しています。常に一貫しているとは限りませんが、何年も続けてきたことで、伝統のように感じられるようになりました。そしてその伝統は、私達が神様に感謝する根拠があることを毎回思い知らされます。そして、感謝している事を振り返ることで、私達はより感謝できるようになります。 喜びに溢れる 感謝することが内省(振り返り)だとすれば、喜ぶことは今この瞬間を思い出すことでしょう。詩篇の著者は言います。 多くの者は言っています。 「だれがわれわれに 良い目を見させてくれるのか」と。 主よ、どうか あなたの御顔の光を私達の上に照らしてください。 あなたは喜びを私の心にくださいます。 それは 彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。 平安のうちに私は身を横たえ すぐに眠りにつきます。 主よ、ただあなただけが 安らかに私を住まわせてくださいます。- 詩篇4:6-8 緒者は、私達の心がより良い時を求めて落ち着かないことを指摘します。人生は困難、苦しいことも多い、悲惨や悲しみもあります。そして少なくとももがきます。成長することの苦しみ。年を取ることのあらがい。健康への取り組み。人間関係への努力。信仰を持つことへの葛藤。希望を感じるための困難。愛を示すことへの葛藤。しかし喜びはこれらの状況のすべてに見出だせます。そして、私達は結局のところ、これらの状況を何も制御できないのです。私達の人生経験の中で、私達が経験したいと望むと望まないにかかわらず、困難な状況にもかかわらず、喜びに満ちた方を選択すると、クリスチャン人生は極めて単純により良いのです。 この喜びに溢れる力(喜びを選ぶ力)は、神様の聖霊が私達に内在することに依存します。聖霊は私達の心を目覚めさせてくださる方です。聖霊は、苦しみ、痛み、悲しみの時に私達の心を慰めてくださいます。そして聖霊は、神様のいつくしみ、神様の王国、万物を再生する神様のご計画を見る力を与えてくださる(これについては、もう少し詳しく説明します)。私もまた、喜びに満ちた生き方を学び続けています。そして、もしあなたがもっと喜びに満ちた生き方をしたいと少しでも思っているのなら、聖霊にこのことをあなたの心に教えてくださるようお願いすることをお勧めします。 私はここ数年、特に弟のブロック(私の唯一の兄弟)が大腸がんの治療に耐える中で、喜びについて非常に難しい教訓を学んでいます。彼は時々信じられないほど具合が悪くなります。実験的治療を受け、つい最近も激しい痛みを伴う手術を受けたばかりです。今はとても痩せていて、回復するためにベストを尽くしています。スージーの姉のメアリーも、別の種類のがん治療に耐えています。どちらの状況も、私達はコントロール不可能です。彼らががんで苦しむことがないようにと真剣に願っているのです。詩篇4:6の別の訳では、「よい目を見せてくれないものか」とあります。それは私達が心の中で感じていることです!愛する人たちが苦しむのを見るこの時よりも、もっと良い時を来たらせたまえと願います。 自分の痛みから解放されたい、愛する人たちが痛みから解放されるようにと願っても、痛みを取り除くことはできません。しかし、その痛みや苦しみの中で、神様がすべてを支配しておられることに頭をよぎらせると、そのことも神様はすべてを把握しておられるのです。そして、神様が万物の再生(復活)を計画しておられることを思えば、私の心に喜びが湧いてきて、苦しい状況にもかかわらず平安を感じることができるのです。クリスチャンである私達から苦しみや心痛、悲しみが魔法のように消えるわけではありません。むしろ、私達は他者や神様の創造物、本当に大切なものに対して深く心を砕いているためにそのような経験をより多く味わうかもしれません。喜びに溢れるということは、神様の聖霊からの慰めに心を開くということです。他の人々が直面している重荷を分かち合うことに心を開き、そして、悲しいことがいつか悲しくなくなるという希望に心を開くことです。 希望を持つ そして、これが最後のポイントです。感謝することが今までのことへの内省であり、喜ぶことが今あることへの励ましであるとすれば、希望を持つことはこれから起こることへの展望でしょう。 使徒ヨハネは、彼が経験した未来についての幻の中でこう書いています。 「御座に座っておられた方が言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」- 黙示録21:5 ヨハネは、罪の影響下にある全ての被造物、被造物の腐敗、私達の世界の崩壊から贖ってくださるキリスト(御子なる神)の言葉を引用しています。キリストはすべてのものを新しくしてくださる。キリストは悲しいものすべてを、悲しみのないものにしてくださる。キリストは、私達が感謝したり、喜んだり、希望を持つのに苦労することのない、新しい創造をもたらしてくださるのです。このことに関する詳細はあまり明らかではありません。この新たな創造がどのように見えるのか、どのように感じるのか、どのような香りがするのか、どのような味わいなのか、正確にはわかりません。しかし、私達が現在の世界で経験してきたことの最良のことは、これから起こることのほんの味見にしか過ぎないのです。美しいすべてものは、はるかに美しくなるのではなかろうか。私達の驚きと称賛に値する素晴らしいすべてのものは、更に価値のあるものとなり、平和なものはすべて、どこにでも存在するようになるだろう。この万物の再生(復活)は、楽しみに値するのです。 この視点の実践を考えることは、毎日の困難にどのように対応していくかにかかわってきます。神様は長い間、私の心に働きかけてくださいました。若い頃、私はポジティブな面よりもネガティブな面ばかりを見ていました。物事が自分の計画や希望通りに進まないと不平を言ったものです。人を励ます前に批判しました。しかし、制御できない人生をコントロールしようとしたとき、居場所がなくなり、経済的な困難、慢性的な痛み、他者の苦しみを目撃し、命が絶たれる悲劇を経験したとき、自分の努力が限界に達したことが分るのです。そして、この世界は私達自身のものではなく、私達が解決できるものでないという深い真実を考え始めます。この世界は創造主のものであり、創造主は時が来れば完全な再生をもたらすのです。私はそこに慰めを見出すことができるのです。そこに安らぎを見出すことができます。私はそこに希望を見出すことがでます。 結論 ここには三位一体に似たパターンがあるのをお気づきでしょうか。創世記の冒頭の言葉から、そして聖書全体を通して、私達は父なる神様が万物の創造者として仕えられたことを学びます。神様は常に 「あった」。神様はまた、聖霊なる神様が今私達と共におられ、私達を導き、慰め、力づけてくださるという意味で「おられる」のです。そして、御子なる神様、主イエス・キリストが天地創造の王座に着き、万物の再生をもたらすという意味で、神様は「来られる」のです。 私達は、過去、現在、未来を思い起こす必要があります。父なる神-創造主、聖霊なる神-慰め主、そして御子なる神-贖い主。感謝、喜び、希望は三位一体であり、神様に依存し、神様の備えと計画に信頼し、天の向こう側では他に見出すことのできない自由を経験する人生へと、人間の人生の3つの側面が絡み合い、築き上げるのです。 KUCで過ごした時間に感謝しています。皆さんとご一緒できるこの時間を嬉しく思います。そして、こちら側の天国であれ、被造物が復活する、やがて来る向こう側の天国であれ、私達皆がまた再会できることを望んでいます。 祝福 これが私の祈りです: 神様があなたを祝福し、守ってくださいますように。神様の御顔があなたがたの上に輝き、あなたがたの心が感謝と喜びと希望に満ちたものとなりますように。神様が神戸ユニオン教会を、街の高い避難所として祝福してくださいますように。そして、主イエス・キリストの福音が、ここに来るすべての人の心を新たにしますように。皆さんに恵みと平安がありますように。 |
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May 2024
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