「キリストの体の中の一致と多様性」 コリント人への手紙一 12章 4-7節、12-14節 27節 神戸ユニオン教会 --- 2022年1月30日 説教者: Rev. Claudia Genung1/30/2022 聖句:コリント人への手紙一 12章 4-7節
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 コリント人への手紙一 12章 12-14節 27節 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 27:あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 教会の展望を見据えるために先週末に行われる予定だったカウンシルの修養会に光を当てた説教をするつもりでしたが、兵庫県でのコロナ感染の増加により延期されました。カウンシルメンバーは、KUCを率いるチームとして懸命に取り組んでいます。私達は皆、異なる賜物といくつかの異なる見解を持っていますが、一つの体である教会の一部です。キリストの体と言う聖句は修養会のために選んだものですが、延期されてもこれについて説教をすることにしました。それはKUC私達にとって良い課題だからです。 先週の説教で、亜希子牧師は共同体を意味する「コイノニア」という言葉について言及しました。 私達は、KUCの共同体であり、しかも多様性を持つ共同体です。 彼女はまた、光の中を歩き、暗闇の中で光を照らすことについて話しました。 それで「歩く」という言葉を見てみましょう。 アフリカでの格言で、「早く行きたいのなら、一人で歩け。遠くまで歩きたいなら、みんなと一緒に歩け。」があります。これは私達の教会にも当てはまります。 前進して行くには一人では難しいですが、他の人と一緒なら前進することができます。私達は、一緒に歩いて、道に沿ってお互いをサポートするために信者の共同体である必要があるのです。 私達の隣人とのつながり及び共同体であることは重要です。何年も前にカリフォルニア州バークレーでトゥトゥ主教が話された時、私は彼の話を光栄にも聞く機会がありました。トゥトゥ主教は、私達が他の人々とつながりを持つこと及び地域社会の重要性についての思いを述べられました。あなたが共同体にいるなら、あなたはつながっており、つながっているならあなたは団結しています。 トゥトゥ主教はこの様に言いました。「私達は皆互いに結ばれて運命共同体なのです。それがたとえお互いを分断して個別に見ても、私達の共通の運命は私達を一つの家族として結ばれているからです。」しかしながら、トゥトゥ主教によれば、結束は各人がお互いを神の尊い子どもとして見なした上で、神から与えられた賜物を自由に表現することで達成されると言います。トゥトゥ大主教が書いた書籍「希望と苦しみ」に「私達は皆な同じ人間だから、私の人間性はあなたと結ばれています。」と記しています。そして、この感情は、使徒パウロのコリント教会への彼の言葉に共鳴するものがあります。コリント人への最初の手紙の中で,パウロは賜物の奉仕について次のように説明しています。 コリントの信徒への手紙一 12章 4-7節 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」 一人一人が違うとパウロは認めますが、各賜物、共同体の「全体の益」のために与えられていると言います。コリントの教会はいくつかの問題を抱えているようで、信者の間に明らかな仲間割れがありました。問題は、パウロを含む異なるライバル伝道者への忠誠心、明らかに緩い道徳心、偶像に奉献された食物を食べること、バプテスマと主の晩餐を含む祭儀、異言で話すことの価値、そして復活の教義と明らかになっていますが、紛争の本質は、現代の神学者達によって完全に説明されていません。「これらの多様な見解、文化的伝統、世界における様々な人間性、これで私達はどのように一つの体になるのでしょうか?」コリントの人々はパウロに尋ねました。「私達には異なる信仰や行動など違いがあり、それでも結束などあり得るのですか?」 この質問こそ、神戸ユニオン教会の中でも疑問に思うことです。どのように一つの体になるのでしょうか? 私達が大きく異なっていて結束などあり得るのですか? KUCは、神戸でキリストの共同体として集まる国際的で超教派の教会です。私達は様々な故郷から来て、様々な言語を話し、政治と価値観について異なる信念を持っていますが、私達はキリストの体の一部であると呼ばれています。 クロイスター・ウォークやダコタ、アメージング・グレースなどのベストセラーの著者キャサリン・ノリスは、彼女の本「アメージング・グレース」の中で教会について書いています。彼女は、私達が一致する尊いものがほとんどないという事実に基づくと、私達は「キリストの体として結束を維持する」ことに苦労するかもしれないと言いました。 これは、人々の間にほとんど一致するものがなかったコリント教会に当てはまりました。古代世界のコリント教会は、ユダヤ人とギリシャ人、奴隷、解放者、そして少数の高貴な家柄の者、権力者、弱者、賢明な、そしてそれほど賢明ではない者など、様々な副次文化(サブカルチャー)から構成されていました。彼らの言語、伝統、文化の違いは克服するのにはあまりにも大きな壁だったのです。しかし、私達には別の壁があります。世界のこの奇妙な時期に、私達はお互いに物理的に対面せず、そして私達の何人かの会衆は今、他の国の人々とZOOMで大きくつながっているのです。私達の共同体のメンバーは、この一つの家族の一員であるとされています。どうしてそんなことが可能なのでしょう? 恐らく、コリントの人々はこれと同じことを思ったのでしょう、「結束は可能なのか?」パウロはこの疑問に対して教訓で答えています。「私達はそれぞれ異なり、ユニークな個性を持ち、そして神から与えられた賜物を用いて共同体を築き上げ、育てているのです。それぞれに賜物が与えられ、それらの賜物は異なります。あなたは天使のように歌えるかもしれません、私は私達の先祖が残した旧い物語を教えることができるかもしれません。それぞれに賜物が与えられますが、すべての賜物は重要で尊く全体の善のために与えられたのです。すべて同じ神によって全体の益になる様に与えられています。」 新しいCOVIDの規則や制限に適応するに当たって、私達はどのように私達の賜物を共同体のために使えるのでしょうか? この2年間の肉体的、精神的なトラウマに耐えても、私達の賜物をどのように使って、共同体を築き上げるのでしょうか。パウロは26節でコリントの人々に助言します。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分がともに喜ぶのです。」 これに関連する素晴らしい物語があり、著者が書いたそのままをお話しします。 「私の父はミツバチを飼っています。今日、私は父の家に行き、彼は蜂の巣から集めた蜜を私に見せてくれました。彼が蜂蜜でいっぱいの5ガロンのバケツのふたを開けると、蜂蜜の表面で3匹の小さなミツバチがもがいていました。ミツバチは粘りある蜂蜜で覆われ、溺れかけていました。私はミツバチを助けようと父に尋ねたのですが、彼は、ミツバチはきっと生き残れないと言ったのです。蜂蜜を採取する際には犠牲が伴うんだなと思ったのです。 父は苦しんでいる動物(または虫)をその悲惨な状態を長引かせない様にすることを私に教えたのだから、私は父に、少なくともミツバチを取り出してすぐに殺すことができるかどうかともう一度尋ねました。彼はついに譲歩し、ミツバチをバケツからすくい取ったのです。彼はミツバチを空のチョバニヨーグルト容器に入れ、プラスチック容器を外に置いた。父は先ほど蜂蜜を採取する時に、蜂の巣を動かし取り出したので外にミツバチが飛んでいました。私達は3匹の小さなミツバチを容器に入れ、ベンチの上に置き、彼らの運命に任せたのです。父は少し後に私に何が起こっているのかを見せるために私を呼びました。これらの3匹の小さなミツバチは、すべての姉妹(ミツバチはすべて雌)に囲まれ、ネバネバした体でほとんど死にかけていたミツバチをきれいにし、体から蜂蜜の全部を取り除くのを助けていました。しばらくして戻って来ると、容器の中に小さな一匹のミツバチしか残っていなくて、ミツバチ姉妹達がまだ蜂蜜を取り除く作業にかかっていました。私が帰る頃が近づいたので、最後の1匹を見ようとすると、3匹の蜜蜂は十分体をきれいにしてもらい飛び立っており、容器はきれいに空っぽでした。これらの3匹の小さなミツバチは助かったのです。3匹のミツバチの家族や友人らは蜂蜜にまみれた3匹を死なせないよう、決して諦めずに自由に飛んでいけるまで蜂蜜を取り除き助けたのです。蜂の姉妹達、ハチの仲間達、ハチのチームメイト達です。 私達もこれらのミツバチから学ぶことがあります。 常に親切であれ、ビーカインド Bee kind always. チャック牧師がこれを聞いたなら言うでしょう。教会であれ。 私はそれに加えて、「キリストの体であれ」と言います。 「あなたはキリストの体です」と聖パウロはコリントの人々に手紙を書きました。それは素晴らしい比喩です。人間の体は、結束と多様性の原則のほぼ完璧な例となります。更に、誰もがそれを説明や解釈したりする必要もなくそれを理解することができます。誰もが体を持っているので、誰もが毎日その原則を経験しています。すべてが全体のために一緒に動作し、一つのことがうまく動作していない場合は、どこか具合が悪いと感じます。私達は皆、それが何を意味するか知っています。 カナダの改革派の神学者ダグラス・ジョン・ホールは、彼の著書「北米域での神学」という書籍の中で、彼は、「結束は偶発的ではなく、キリスト教の信仰にとって不可欠です。全キリスト教主義は贅沢や進歩的な話ではありません。私達が召命されたという事に対して、結束は福音が証明する力の一部なのです。 キリスト教徒の一体性と一致性は,イエス・キリストの福音の真理を証する方法の一部です。私達は皆、神の王国に歓迎されます。私達は皆仲間です。私達が違っていても、お互いに関係しています。私達は、あなたがZOOMを通じて参加しているか、対面礼拝に来ているかにかかわらず、KUCの信仰共同体です。すべて大歓迎です。神に似せられた被造物は、すべてが一つです。 さて、すべてのことの中で、科学者たちは今、結束、一体性が宇宙の原理組成であると私達に言っています。それは科学者や神学者が集まる最近の話であり、彼らはとみに頻繁に集まっているのです。アイザック・ニュートン卿以降、物理学は宇宙が予測可能で基礎となる数学的法則の原理に基づいて動作することを理解してきました。宇宙を分解し、分離された孤立した部品やシステム、法則を見て、再構成することで、宇宙を理解することができます。しかし、その後、電子を観察する行為が電子の動作を異なるようにするという驚くべき発見をした人がいました。突然、私達は全く新しい場所にいます! 私達はそこに存在することさえ知らなかった、目に見えない関係の網に捕らえられてしまいました。 あなたは、この効果が一般的となったバージョンについて聞いたり読んだりしています。それはバタフライ効果と呼ばれています。蝶が翼を打つたびに、明らかに猫があくびや赤ちゃんくしゃみをするたびに、網目全体はその小さな動きを調整する必要があります。これには奇抜な名称がつけられ、カオス理論と呼ばれています。そう、バーバラ・ブラウン・テイラーは、カオス理論は単に聖パウロが「キリストの体」によって意味したものだと言います。その偉大な謎! 私達がそれを感じるか、理解するか、あるいはそれを好きかどうか、私達を結びつけるのが神様の神秘なのです! テイラーは私が前に気づかなかった何かを見るのを助けました、私はそれを見るべきだったが、見たくなかったのだと私は思わざるを得ません。私は体として一体になりたいがそうでないメンバーのことを思い、心配してしすぎて忙しくなったのです。テイラーは、パウロは私にこの比喩に同意し、そのように行動を促していないと言います。私達は、この提案を評価し、話し合いに持ち込んで、投票するように追い立てられていません。しかし私達は何かを言われています。私達は、理解しているか、好むかどうかにかかわらず、男性と女性としてあなたは基本的に誰であるかについて話されているのです。 この真理は私達の同意や好みを超えています。これは私達の神学および信条の定型を超えた真理です。兄弟姉妹達、教会の将来に必要不可欠な教義や告白やビジョンステートメントを超えた真理なのです。それは、あなたはキリストの体なのです。イエス・キリストは彼の体を皆さんに作られました。イエス・キリストに生まれ変わった神は人類のビジョンを持っており、良くも悪くも、それはあなたです! 私達は分断された世界に対する神のビジョンです。あなたと私達は、神が団結と多様性によって意味するものなのです。私達はキリストの体です。パウロが21節で言っていることに注目してください。「目が手に向かって『あなたはいらない』ということはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うことも出来ません。同様に、パウロが15節で「私は手ではないから、体に属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。 要するに、キリストの体は、身体全体の健康のためだけでなく、個々のメンバーが最大限の可能性を持って動作できるようにするために、お互いを必要としています。それは人体にも当てはまります。そして、それは教会、キリストの体に当てはまります。私達はお互いを必要とします。そして、私達はお互いに属しています。 私達は、誰も次の事を正しいとは思っていません。「私は役に立たない。私は奉仕するものは何もありません。」そして、体の一部は、優越性や自給自足の態度で、身体の別の部分に次のように言うことはできません。「私はあなたを必要としません。」より強い、またはより霊的に成熟したメンバーは、弱いまたは成熟していない人に次のように言ってはならないのです。「私達はあなたを必要としません。私達はあなたを望んでもいません。さようなら」 身体にはすべてのメンバーが重要です。身体のあらゆる部分は、弱いかあまり尊重されていないように見える部分でさえ、重要な貢献をしています。私達が神の望む教会であり、私達が神の望むように機能するためには、お互いが必要です。私はあなたを必要とし、あなたはお互いを必要とします。私達は、しっかりと目を開き、隣人に助け手を差し伸べ、思いやりや愛を注がなければなりません。パウロがローマ人と話をしたとき、彼はまた、教会が体のようなものだと彼らに話しました。 ローマ人への手紙 12章 3-8節 わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。 パウロは,体の部分が組織的に動き働くように、私達も神に仕える方法を一緒になって見つけてほしいと言いました。彼は、私達が個人としてできることが、私達の体の他の部分ができることよりも重要または優れていると考えないことが大切であると言いました。教会になるためには、異なることが必要です。教会を立上げるためには、一人一人ができることを成す必要性を覚えておいてください。私達の中には教師になる人、思いやりのあるホストになる人もいれば、説教する人もいますし、私達の中には皆に分かち合うことを教えてくれる人もいます(そして、私達は皆、恐らくこれらをそれぞれ少しずつ行っているでしょう)。私達は本当に私達一人一人がもたらす全ての賜物に感謝する必要があります。私達はお互いを愛し合い、一緒に奉仕することに感動を覚え、誰かが苦しんでいるときに希望と共感を持ちより、一緒に祈る必要があります。それらの全ては、私達の体を強くします。 パウロが、私達全員が体として機能するために、どのようなことを教会で行えば良いかを言ったことを覚えていますか。彼は、私達はお互いに愛し合い、一緒に奉仕することで霊的に鼓舞され、誰かが苦しんでいるときに希望と共感を持ち、お互いのために祈る必要があると言いました。私が西東京ユニオン教会の牧師だったとき、1993年頃、私達は教会メンバーとして一緒にエイズを持っている人に仕えました。私達は彼の服を洗い、彼を訪問し、彼と一緒に祈り、そして彼が亡くなったとき、私は何人かのメンバーと一緒に病院の遺体安置所で彼のために簡単な奉仕を行いました。 エイズを持った人は教会員ではありませんでしたが、私達はキリストの愛を示しました。その人はエイズで死に、私達の一部は死ぬ。 赤ちゃんが生まれ、私達の一部が生まれます。私達は皆相互につながっています。キリストの体である教会は苦しみ、また私達の世界の他の人々と喜びを分かち合います。私達はその一部であるために、全体の体を強くします。 私達はキリストの体です。 祈りましょう。 親愛なる神よ、私達は個々として御前にきます。私達は異なる人々です。私達は異なる物語を持っています。そして、私達は今朝、近くの異なる場所から来て、私達のライブストリーミングを通じて世界中から参加します。私達の違いを超えて、あなたが与えた一体性が何かを知ることを教えてください。主イエス・キリストを通して全世界を和解させる継続的な御計画において、我々の最近の経験を用いてください。 アーメン。
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祈りましょう。主よ、私の口のことばと、私たちの心の思いを通してあなたの素晴らしさと、恵みの深さが証されますように。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
先週クラウディア先生が、神様は世の光でありながら、暗闇の中にもおられるとお話しされました。暗闇は神様の光に打ち勝つことがない。最終的にはそれが真実でありながら、私たちは皆人生のどこかで暗闇を経験することがあります。 多くの人がご存知かと思いますが、私の母は私が21歳の時に亡くなりました。彼女の死が本当に突然で、本当に予期していないことだったので、この出来事は私の人生を大きく変えました。母を失った私は、人生の目的と生きる意欲を失いました。この時が私の人生で一番暗い時期だったと言えるでしょう。私は深い暗闇の中を彷徨い、鬱病を患いました。私の頭を霧が覆い、私の世界は色を全て失いました。幸せや、喜びは私の人生から立ち去り、色のない空虚の中で、感情を感じることも、考えることも辞め、これからどうしてよいのか途方にくれていました。 私は毎日泣いて過ごしていました。それはまるで長く、真っ暗なトンネルの中にいるようでした。どんな人も、どんな物も私を慰めることはできませんでした。そんな状況がどのように変えられたかは多くの人が知っていると思います。私が精神病院に入院していた時、ある日看護婦が私のベッドの元にやって来てこう言いました。「亜希子、大丈夫。また幸せになれるよ。何故なら全てのことは理由があって起こっていて、神様はあなたに背負いきれない重荷は与えられない。」 その時、私はまだクリスチャンではありませんでした。私は神様がどのような方かを知りませんでしたが、それでも彼女の言葉が私を支えてくれました。今は神様が彼女を通してこの言葉を語ってくださったと信じています。彼女がその言葉を私にかけてくれた瞬間、私のいる暗闇に一筋の光が射した気がしました。長い、暗いトンネルの出口に光があるような気がしたのです。 そんな看護婦の言葉の出会いから一年と半年経った後、私はクリスチャンになりました。神様が愛であること、そのままの私を受け入れてくださると知りました。悲しみにうちひしがれる私をも神様は受け入れてくださる!もう悲しみや、鬱病を隠さなくてもよいんだと思いました。全てを受け入れてくださる神様の前では、悲しみや暗い気持ちを打ち明けても良いのだ、そう思った私はついに暗闇から光の中に移ることができたように感じたのです! 暗闇と鬱病の霧から出て、光である神様の元に行くことができた。そう思っていましたが、実際はそうではありませんでした。鬱病は完治することはなく、私の傷や痛みはまだ残っていました。若くして母を失った痛みはまだ痛みを伴ったままでした。悲しみや痛みが大きすぎて、日常生活を送ることが困難なこともありました。ベットから起き上がれない日もあったし、人と会って話したくない日もありました。なぜならクリスチャンになったのに、まだ暗闇にいる自分を見せたくなかったのです。 クリスチャンになった私は神様の子供、光の子供。神様の光がいつも私の顔を照らし、神様の愛がいつも私の人生から滲み出てる。そうあらなければならないと思っていました。神様の前ではどんな姿をさらけ出せても、他の人の前では、特に神様の事を知らない人の前では、ハッピーでいなければならないそう思っていました。祝福に満ち溢れている姿を見せることで神様を証していると思ったのです。 けれど、そうでない時、つまり苦しみや痛みが私を襲い、暗闇の中にいる時の自分を他の人に見せたくはありませんでした。 私は神様によって変えられた、暗闇の中から、光、幸せ、愛の世界へと移行した。そのことを見せ続けることができれば、私の友人や家族も、私の人生に注がれた神様の光を見て、クリスチャンになりたいと思ってくれるだろうと思いました。キリストが光と、前向きさに満ちていると言うことを私を通して証することができたら、キリスト教が特別な素晴らしい信仰だと言うことが伝わると思っていました。 けれどそのような努力は全く実を結びませんでした。私の家族や、友人は私がいつも幸せで、祝福に満ち溢れている、光の中にいることを通してキリスト教に惹かれることはなかったのです。むしろ神様の光は、予期せぬものを私に明らかにされました。それは私の人生の中にある影でした。 神様はご自身の光を通して、私が光である神様の子供になった後も、私の中に引き続きあるやみ、罪というやみをお示しになったのです。 罪というのは私たちの信仰生活において重い言葉です。クリスチャンとして、私たちは救い主である主イエスキリストが私たちの罪のために死んでくださったことを信じています。罪の認識は私たちの信仰の核をなすと言って過言ではないでしょう。それにも関わらず、なぜ私たちは教会で罪についてあまり話をしないのでしょうか。何故私たちは罪について話さないだけではなく、避けたり、罪という深い暗闇に向き合わないのでしょうか。 もしかしたら、私たちは罪というものをあまり理解していないから、向き合うことができないのかもしれません。罪はどこか抽象的で、具体的に掴めたりするものではないから何か遠いものに感じてしまっているのかもしれません。 聖書を通して、私たちは人間が罪人であること、私たちは罪を犯すものだということを知っています。聖書の中には罪を犯す人の話が次々と出てきます。イスラエルの民は偶像を作り、唯一無二の神様以外の銅像を作り、他の神を拝みました。パリサイ人の中には、安息日に病人が癒されることに反対し、イエスの教えに反抗し、最終的にイエスを十字架にかける当事者となった人もいました。 罪を神様の物語から切り離して考えることはできません。 神様は預言者をイスラエルの民に送り、人々が犯す罪について伝え、警告しました。このまま罪を犯し続けたら、どのようなことが起こるのか預言者を通し、その事が伝えられました。 このような話を聞く時、これを物語として捉え、そこで終わってしまうことが多々あるのではないでしょうか。罪を犯した者の話は、自分が生きる時代とはかけ離れた大昔にイスラエルという遠い外国で起きたことで、私達が今生きている時間と場所には無関係のようなものに感じたりしていないでしょうか。 実際のところ、昔のイスラエルの人々と違って私たちは偶像礼拝はしていません。教会に来て、神様を礼拝しています。私たちはパリサイ人のように、自分達の権力を使って神様の癒し、恵みや慈しみに反対しているわけでもありません。 私たちは、私は罪とは無関係である、そういう風に思ってはいないでしょうか。 旧約聖書が書かれたヘブル語には、罪を示す様々な言葉があり、具体的な罪それぞれにふさわしい言葉があります。しかし、新約聖書が書かれたギリシャ語では罪については「Hamartia」という一つの言葉が罪全てを表すものとして、使われています。 この言葉は、具体的に罪がどのような罪かということを表してはおらず、むしろ「的を外す」ということを意味しています。 例えばアーチェリーをすることを想像してみてください。遠くに的があり、その的を狙い矢を放ちます。もし私たちがアーチェリーの選手であるならば、的の中心部に、矢が命中するか、中心部から離れたところに矢が命中するか、そこが大きい問題になります。しかし私たちはアーチェリーの競技選手ではありません。信仰を持つ私たちにとって、矢が的に命中するかどうかが問題なのです。もし矢が的に命中しないのであれは、それは的外れ、つまり罪という風にギリシャ語は罪を捉えます。この行動が罪であるという具体的な説明ではなく、神様の的に命中しないものは全て罪と捉えているのです。 罪というのは一字一句神様の戒めに従わなかった、いけにえという儀式に参加しなかったとかそういうことではありません。神様という的に当たらなかった、的外れな思いや、言動全てが罪と見なされるのです。今日の聖書箇所は、罪が遠い昔に存在したものではなく、神様の教えに従わなかったというわかりやすいものでもなく、むしろ私たちの日常生活に、教会生活において蔓延る、気づかないうちに的を外れているものだと警告しています。 第一ヨハネの中で書かれている罪は現実を見つめようとしない心です。第一ヨハネは紀元100年頃に書かれたとされています。キリスト教がエルサレム、ユダヤを超え、あらゆるところで宣べ伝えられるようになり、ギリシャの神話や哲学の影響が色濃い地域にも伝えられていくようになりました。 ギリシャ哲学は「知識」を重く捉えており、知識がより良い人生の鍵と考えていました。ですので、ギリシャ哲学の影響が色濃く残る、クリスチャンコミュニティにおいて、イエスを知識と捉え、イエスが神であり、人間であるということを真に理解し、イエスの知識を完全に捉えらている者と、そうでない者がいるという考えが広まり、イエスに対する「真の知識を持っていない者」を見下すような行動が取られていました。 そのような行動がもたらした結果は分裂でした。教会コミュニティに置いて、神、神の御子、聖霊が一つであるように、人々が一つの共同体となって交わる事は一体性のあるキリストを証する意味においてもとても大切なことです。しかし、ヨハネが手紙を書いた教会においては、交わりはなく、お互いの関係が深まることもなく、愛が成長していなかったのです。 交わりのないクリスチャンコミュニティなんて想像できますか。ちょっと待ってください、私たちはクリスチャンです!私たちは神様を愛し、お互いを愛するように教えられています。 ではなんでこのような事態になったのでしょうか。クリスチャンでありながら、基本中の基本である交わりを保つことが何故できないのでしょうか。(第一ヨハネ1:7) もし私たちが今心の奥底を、現実を見つめようとするのであれば、これが初期の教会における問題だけではないということがわかるでしょう。何故なら交わりのなさは、現代の教会生活においても存在しているからです。 例えば主流のプロテスタントの宗派においては、女性の按手、もしくはLGBTQという性的マイノリティに対する考えの違いで、宗派内で分裂が起こっています。アメリカでは家族間、教会内でどの政党を、どの候補者をサポートするかなど、政治を巡り分裂が起きています。 これがどのようなことを示しているかわかりますか。このように分裂していく姿を人々は見ているのです。 イエス様がどのような方かを知らない人たちは、私たちを見て、キリストを知ろうとします。そのような人々には意味がわかりません。神様は愛の神様と謳っているにも関わらず、なぜ争っているのか。なぜゴシップをしたり、悪口を言ったり、陰でコソコソ何かを計画しようとしたりするのか。そんな状況のどこに神様の愛が、どこに交わりがあるのか。正直なところ、そのような質問をされたことは1回だけには留まりません。 私たちはこのように浴びせられる質問を真摯に受け止めなければいけません。私たちは互いを愛し、その愛を人々に証していくように召されています。けれど何故教会外の人々はそれを見ていないのでしょうか。それとも見えないのでしょうか。 もしかしたら問題は人々が私たちのコミュニティの中にある愛を見れないことではなく、私たちが現実を見つめていないことなのかもしれません。 私が18年前クリスチャンになった時、私の人生は完全に変えられたと思いました。暗闇は過ぎ去り、私は永遠に光の中に入れられた。そのことに間違いはありません。しかし、もう二度と暗闇に向き合うことはないと思っていた私に神様は再び光を当てられました。それは私がまだおっていたやみで、ある特定の人を愛すること、赦すことをしようとしない心でした。 母を亡くして一年ほど経ったころ、私の父が再婚しました。正直なところ、再婚をサポートしたくはありませんでした。その当時私はアメリカに住んでいたので、父の再婚相手に会ったのも数回でした。まだ母が亡くなって一年しか経っていないので、父の再婚がとても急なことに思えました。私の心の中に色々な心の葛藤があったにせよ、ここで伝えなければいけないのは、私が彼女に対し、嫌な気持ちを持っていたことです。 彼女を憎んでいたとは言いません。まだその時はクリスチャンになったばっかりでしたが、それでも心のどこかで憎むという感情はクリスチャン的ではないと知っていました。だけれど、私のもやもやとする気持ち、彼女を良いふうに見れない気持ちは仕方のないことだと正当化していました。母を亡くしたばかりで傷ついている私が、彼女に対する苦い気持ちを持つことはしょうがないことだと、私も被害者なのだからと、そのように思っていました。再婚を通して、母と父の30年の結婚生活が、そして私の母がこれからも私の母であることを否定されたように感じていました。 このようにして私は、自分の中で湧き上がる苦い、嫌な、もやもやとした気持ちを正当化し、そのままにしていました。しかし、神様はそのことを良しとしたままにはされませんでした。神様は私の心に働きかけ、このような気持ちを持ち続けることは良くないと語り続けました。心の奥底で私も知っていました。私がしていたことは今日の聖書箇所で、ヨハネが言っていることと同じことだったのです。 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」(第一ヨハネ1:6) それから数年の間、神様は忍耐強く、この私のやみに光を当て続けてくださいました。神様はこのように慈しみ深いお方で、決してあきらめるお方ではありません。神様のお陰で、私は悔い改めに導かれ、父の再婚相手に今までの困難を伝え、謝る事ができました。 彼女に私の罪を告白した後、私は自由になりました。 私は彼女に対して嫌な気持ちを持ち続けることで、彼女を苦しめているのだと勘違いしていました。けれど、真に苦しんでいたのは、光の中にあると言いながら、罪というやみを歩いていた私だったのです。 私たちの中にある罪や、暗闇について話す時、覚えておかなければいけないことがあります。神様は私たちが罪人であり、罪を犯すということをすでに知っておられます。イエス様は私たちを罪から救うためにこの世に来られたのです。7節にあるように、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第一ヨハネ1:7)私たちは、罪の清めがイエス様において可能であることを知っています。ですから罪を犯すこと自体が見つめなければいけない問題ではないのです。 問題は、現実を見ることを拒む頑なな思いと心です。言い訳や正当化を重ねることで、イエス様を通して清めと再生が可能な罪を見つめようとしないそのことが問題なのです。ヨハネが語る言葉をもう一度言います。 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」(第一ヨハネ1:6) やみの中を歩んでいること自体が問題なのではありません。何故ならやみは光に打ち勝つことができないからです。神様にあり、私たちはやみから光の中に移ることができます。問題なのは私たちが神と交わりがあると「言っていながら」、まだやみの中を歩いていることなのです。もし私たちが神様と共にあるなら、やみの中にいることはあっても、そこに留まることはないでしょう。やみの中を歩き続けることはないでしょう。 神と交わりがあると言っていながら、やみの中を歩む、現実に向き合えていないのがわかりますか。 現実と向き合っていない、それは私にとっては父の再婚相手に対し嫌な思いを持ちながら、神様と親しい関係を持っているように振る舞っていたことでした。ヨハネが手紙を書いたコミュニティにとっては、分裂をそのままにし、交わりを持たないことでした。悔い改めを選択し、手放すことを覚えるのではなく、やみの中に留まり続けることは罪なのです。 日曜日に礼拝の中で罪を告白する時があります。これは私たちがこの世にいる限り、罪の一部になっていることに向き合う時です。私たちの中に欠ける神様の愛が、私たちのコミュニティを、世界を傷つけていることを告白するのです。私たちは殺人者や強盗など極悪人ではないかもしれません。完全に腐敗したりしていないかもしれません。それでも私たちが様々な理由をつけて、正当化したり、また自分には関係ないと現実を見つめようとしない時、私たちも腐敗の一部となり、光の子として歩むために、清めと赦しを請わなければいけません。 私たちの賛美を通して、神様の光が私たち、私たち教会の歩みや、生活に差し込む時、それと同時に神様の光とは対照的な私たちのやみも明らかにされます。そのことが示され、明らかにされる時、私たちはそのことに向き合い、「神様ごめんなさい。赦してください。」と告白する必要があります。 私たちは自分の罪を自分で解決することができないので、神様により頼み、私たちが罪というやみに隠れるのではなく、光の中で再び歩むことができるように力と知恵を与えてくれるように祈らなければいけません。 このように今日は罪の話をしましたが、それでもまだ自分が罪人であるという罪の意識をなかなか持てない方もおられるかもしれません。自分は教会に来て、礼拝に参加し、バイブルスタディに参加し、教会の奉仕にも参加し、祈っている。もしかしたらそのように思われているかもしれません。けれどもう一度立ち止まって自分の態度や行動を見直してみましょう。 何か人には言えない、隠したい、向き合えない現実ということがないでしょうか。 そのようにできないのにふさわしい、良い理由があるとしても。 ヨハネ3:19-20にはこのようにあります。 「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。 」 神様の光は時として私たちのやみ、罪を明るみにさらします。そして今日のヨハネの言葉は、私たちがそのことに向き合い、罪を告白する時に、清めと赦しが与えられることを私たちに語りかけています。 今日のメッセージが簡単な内容ではないことは私も承知しています。コロナが収束するどころか、オミクロン株の出現で、コロナ感染が爆発的に増加しています。休校にする学校もあり、子供をはじめ、親もその対応に追われています。また制約を仕入られる生活に戻ります。家族や友人がコロナに感染するケースも増えていますし、もしかしたらあなた自身がコロナに感染したかもしれません。 そして世界中で多くの人が命を落とし、回復したとしても後遺症に苦しんでいます。 世の中がコロナという暗いニュースに翻弄されているのに、なぜもっと暗くなるような罪の話をしなければいけないのか。もっと明るい、励まされる、慰め深いメッセージを聞けないものか。もしかしたらそう思われるかもしれません。 私もそう思います。私も罪人の一人ですから。 しかし、クリスチャンとして、教会コミュニティとして、自分達の中にあるやみに向き合うことは非常に大切なことです。何故なら自分達の中にある深いやみに向き合うことは、自分達に注がれている神様の深い恵みに気づくことでもあるからです。 今日説教の前に歌った讃美歌を覚えていますか。リフレインの部分にこうあります。「恵み、恵み、神の恵み、恵みは赦し、清める。恵み、恵み、神の恵み、私たちの罪全てより大きい神の恵み」 神様の恵みは私たち全ての罪が、どんなに深くてもそれを全て覆うことのできる非常に大きくて、深いものなのです。 私たちの中に親しい交わりがないとき、人々はそこに神様を見ません。私たちが過ちを認めず、世の中がするように罪を隠したり、罪に向き合わないとき、人々はそこに神様を見ません。もしそうだとしたら、私たちクリスチャンと世の中にどんな違いがあるでしょう。そこからどのように神様が証されるでしょう。 過ちを犯したことに私たちがコミュニティ全体で向き合い、悔い改める時、人々はそこに神様を見ます。私たちは互いを傷つけあい、そのことで神様も傷つけます。私たちは神様が真の購い主であることを証したいのであれば、自分達の痛み、傷、苦しみ、恐れ、怒り、悲しみを手放し、やみから神様が私たちを光に導いてくださるように祈らなければいけません。私たちはやみの中に留まり、歩くのではなく、光である神様の方に向かわなくてはいけません。 神様の光の中に留まるには、悔い改め、赦しを請い、和解という大変なタスクに向き合わなければいけません。そうすることによって、私たちは神様が購い主で、皆が見れる世の光だということを証することができます。 最後にヨハネの手紙からの言葉で今日のメッセージを締めくくろうと思います。 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」(ヨハネ第一1:5) 神は光です。光の中を歩むものとなりましょう。 アーメン。 . 「私は世の光です」神戸ユニオン教会--- 2022年1月16日説教者: クラウディア牧師イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むこと1/16/2022 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネの福音書8:12
懐中電灯が暗くなったり、使えなくなったら廃棄していますか?いえ、電池を変えますよね。人が大きな失敗をしたり、暗い顔をしている事に気づいたら、その人を放っておきますか?いえ、そんなことはしません。電池を交換するようにその人を助けます。電池のサイズは日本では、単一、単二、単三と表しますね。アメリカではアルファベットで表します。A、AA、AAA、CやDなど。アメリカ式のアルファベットを人助けに例えるとするなら、AAならAttention (目を向けてあげること)とAffection (愛情)、AAAの人であるなら、目を向けてあげ、愛情を注ぎ、その上でAcceptance (受容)が必要だったり。人によってはCが必要な場合もあります。Compassion (思いやり)とComfort(慰め)。Dが必要な人はDirection(方向性)。それでもまだ光が見いだせないのであれば、ただ静かに彼らと一緒にいて、あなたの光を共有してください。クリスチャンとして私たちはキリストの光の中を歩むだけでなく、他人の光となるように召されているのです。 1995年1月17日に阪神大震災が起こった時、私はまだ東京に住んでいて、その朝は西東京ユニオン教会(WTUC)で説教をしていました。祈りの際に教会員の1人が「神戸で大きな地震があったようだ」と教えてくれました。私たちはショックを受けましたが、その深刻さに気付いたのは後になってからでした。WTUCでは神戸の為に支援金を集め、オムツ、暖かい服、手袋、石鹸などの物資を送り、教会員の一部は神戸に出向き「炊き出し」のボランティアを行いました。彼ら自身が自身で被災された方々の光となれたのであれば幸いです。 KUCは1992年に、ここ長峰台に移ってきたので、1995年当時はまだ数年した経っていませんでした。長峰台界隈は震災で多くの家が被災しました。そこで、KUCの近くに住んでいた宣教師が、近隣住民がKUCを避難所として活用できるようにとKUCの扉を開きました。教会内では礼拝堂の長椅子で寝ていたそうです。そして、KUCで長年秘書を務めてくれたキクコさんは、当時京都を訪れていましたが、すぐに神戸に戻り、手伝ってくれたそうです。水不足も深刻だったので、布引の滝から水を運んでいる人もいました。坂の下にある山口組は独自の井戸を持っていたので、必要な人には水と米を配っていたと聞いています。 被害は広範囲に及び、深刻でした。死者は6,434人、負傷者4万1500人以上、被害総額9.6兆円と推定されています。 関西学院大学は大きな被害を受け、多くの学生や教員が命を落としました。田淵牧師も大切な友人を亡くされています。田淵先生がご自身の体験談を話してくださいます。(3~4分の田淵先生のお話) その後、人々が力を合わせて神戸を復興させたのです。日本全国からボランティアが神戸に集結し、被災者の支援を行った事は、日本のボランティア活動の歴史において試金石となりました。1995年は緊急時のボランティア元年と認識される事が多いです。1995年12月、政府は1月17日を「防災とボランティアの日」と定めました。そして、今でも神戸の多くの教会が1月17日を「あの日」を忘れない為の祈りの礼拝の日としています。 メリケンパーク内にある屋外の震災メモリアルに行くと、港に保存されている震災の残骸、写真やビデオを目にすることができます。阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センターは、この震災を伝え、地震や防災について学ぶために2002年に中央区に開設されました 光は人々に希望をもたらす。神戸ルミナリエは元町周辺で行われる冬の恒例行事です。1月17日に発生した阪神・淡路大震災の犠牲者と地域復興を祈願して1995年に実行委員会(市も含む)が始めたものです。1つ1つ手描きされた20万個の灯りはイタリア政府から寄付されたものです。毎年恒例で約1週間強の間、冬の夜空に灯りがともされます。2019年は347万人が訪れましたが、ここ2年間はコロナ禍により中止となっています。 希望は私たちの中にあり、私たちを輝かせてくれます。そして私たちが輝く時、他の人達は私たちの中にあるイエスを見るのです。故ツツ司祭は「希望とは暗闇の中に光を見つけることができることである」と言われました。 光は神の一部です。「わたしは光である」というヨハネの福音書にある7つの有名なI am (わたしは。。である)宣言の2番目に書かれています。全てのI am 宣言のように、イエスは自身の神性を宣言しています。彼は偉大なる神ヤハウエそのものなのです。そして「わたしは世の光である」と力強く語るのです。 イエス自身が光であると共に、その光を人々にも与えるのです。イエスは人々に命を与え、光をもたらすためにこの世に現れたのです。詩編27:1「主は、私の光、私の救い」。 光は神の働きを示す強烈なシンボルでもあります。天地創造の始めに「光があれ」すると光があった(創世記1:3)。ヨハネは福音書の中でイエスの中に「この方にいのちがあった、このいのちは人の光であった。光はやみの中で輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネの福音書1:4-5)。イエスは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネの福音書8:12) 聖書には光に関する記述がたくさなります。またイエスが成就した聖書の預言も多く、イザヤ書42:6-7には「国々の光とする」と書かれています。イエスは国々を変え、世界を変え、そして私たちを変える光なのです。 私はエピファニー後のこの季節の、特にこの光のイメージが好きです。(エピファニー後の季節は、イースターの7週間前に始まるレント(四旬節)の最初の日曜日まで続きます)。この季節にぴったりな「I am the Light of the World」を先ほど賛美歌として歌いましたね。 今日の礼拝では讃美歌にある「I Want to Walk as a Child of the Light (光の子として歩みたい)」という讃美歌を歌いたいと思います。「私は光の子として歩みたい、イエスについて行きたい」というフレーズで始まります。神は世界に光を与えるために星を送り、私の人生の星はイエスです。サビの部分では「In him there is no darkness at all. The night and day are both alike. The Lamb is the light of the city of God. Shine in my heart, Lord Jesus(この方には闇がない。昼も夜も同じです。子羊は神の街の光です。主よ私の心を輝かせてください)」 人によっては、困難に立ち向かう時、苦しみ、傷みや悲しみを感じている時にイエスが心の中で輝いてくれる手助けを必要とするでしょう。人によっては人生がどこに向かっているのか分からず迷っている人もいます。だからクリスチャンとして私たちは助けを必要としている人達に神は彼らを見捨てる事は決してないと伝える事が必要です。 神は深い闇に宿り、私たちが困難に立ち向かう時、側にいてくださります。先が見えない時も神は一緒にいてくださいます。神は闇の中の雲、闇の夜、闇の夢の中に現れるのです。 見えないと感じているなら、それは私たちが闇を常に否定的に捉えているからかもしれません。人々が闇や暗闇を日常的にどのように使っているか考えてみましょう。 「暗い映画だったね」「景気はまだ暗闇から抜け出せてない」「彼女は暗かった」「暗黒の日がやってくる」「彼は暗闇の方へ行ってしまった」(スターウォーズ映画の登場人物のように) イエスは世の光として現れましたが、暗い胎内からあのベツレヘムの星の下、暗い夜に馬小屋で生まれました。さらに、ローマ帝国の支配下にあり、制圧された時代の暗黒の時代に生まれているのです。先週アキコ牧師から話があったように、マリアと共に夜の闇の中をエジプトに逃れているのです。(エジプトへの逃避行はマタイの福音書2:13-23や新約聖書のアポクリファに語られている話です)。マギの訪問の直後、天使が夢の中でヨセフにヘロデ王が子供を殺そうとしているので、マリアと幼いイエスを連れてエジプトに逃げるように告げた。 出エジプト記の様な荒野の物語では闇と成長の時期とも言えるようなものがあります。また闇と光が一緒に語られる話もあります。神は雲の中に入っており、モーセのところに現れ(出エジプト記19:9)、雲の中から民に語られます。雲はシナイに何日も居座り、中に炎があるかのようにピカピカと光っている。神がモーセを雲の中に呼び込むと、モーセはその中に入り、40日滞在します。その後再び雲から出てくると、モーセの肌は輝き、人々は近づくのをためらうほどだった。そこでモーセは自分の顔を覆う雲のようなベールをまとい、神と一緒にいない時にはそれを使い、神の輝きとその反射する栄光から人々を守るようにしたのです。 ヨブは神が彼をつむじ風でさらう前に37章にわたって暗闇に叫び、彼にとっては有り余るほど素晴らしいものを神が示してくれた。(ヨブ記) ユダヤの統治評議会の一員であったニコデモという男は、ある夜、イエスのもとにやってきていくつか質問をした(ヨハネの福音書 3:1-21). ペテロ、ヤコブ、ヨハネは山の上で雲に入り、そこで神の栄光と恐ろしい暗闇に覆われた (ルカの福音書 9:28-36) サウロはキリスト教徒を迫害することに翻弄していたが、ダマスコへの道で天からの光に打たれ盲目になった。彼は3日間視力を失ったが、神は彼を変えた。ダマスコでアナニアに会い、手を置いてもらい、視力を回復したのです。弟子のアナニアはサウロ(後のパウロ)がキリストの光を見るのを助け、彼はバプテスマを受けた(使徒の働き9章) 神は深い暗闇の中と光の中に宿ります。 自分自身が行く先を見失っていたり、人生に迷っている人を近くに見つける事があるかもしれませんが、先人の証言によれば、暗闇の時こそ神が光と成長の機会を与えてくださる時なのです。その時は分からなくとも、後になって神様があなたと共にいてくださった事が分かるかもしれません。神様はあなたを助けるために誰かを遣わせているかもしれません。 暗闇は悟りのように誰にも訴えかける事はできません。でも、私たちは見えるものではなく、信仰によって歩んでいる時、信頼することを学ぶことができます。神は決して私たちを1人にはしません。 カナダ合同教会の信仰告白は以下の言葉で締めくくられています。 「いのちがある時も、この世を去る時も、この世を去った後も私たちは一人ではありません。神に感謝します。」 私たちが人生で直面する浮き沈み、闇の中でも光の中でも何があろうとも神はいつも私たちと共にいてくださるのです。 アーメン (以下の詩は説教には使いませんが、個人的なデボーションのための資料などに使ってください)。UMCの牧師であるジャン・リチャードソンによって書かれたもので、様々な形でやってくる光について語られています。この詩を読みながら「光はどの様に私自身を見つけてくれ、目覚めさせてくれたか?」「人生における光とは何か?」「どうやって光を見つけるのか?」「人生で光を必要としている分野は?」と考えてみてください。 How the Light Comes By Jan Richardson I cannot tell you how the light comes. What I know is that it is more ancient than imagining. That it travels across an astounding expanse to reach us. That it loves searching out what is hidden, what is lost, what is forgotten or in peril or in pain. That it has a fondness for the body, for finding its way toward flesh, for tracing the edges of form, for shining forth through the eye, the hand, the heart. I cannot tell you how the light comes, but that it does. That it will. That it works its way into the deepest dark that enfolds you, though it may seem long ages in coming or arrive in a shape you did not foresee. And so may we this day turn ourselves toward it. May we lift our faces to let it find us. May we bend our bodies to follow the arc it makes. May we open and open more and open still to the blessed light that comes. © Jan Richardson from her website: http://adventdoor.com/2011/12/21/christmas-day-how-the-light-comes/ メリークリスマス、そして明けましておめでとうございます。
田淵先生が話したように、教会ではクリスマスは1日のお祝いではなく、クリスマスシーズンとして祝います。公現日を数日過ぎましたが、引き続き聖書にあるクリスマスの物語を一緒に見ていきましょう。 今日の聖書箇所を読み解くのは簡単ではありません。マタイ福音書2章の、前半(マタイ2:1−12)と後半(マタイ2:13−23)における対比には目を見張るものがあると思います。前半はいわゆる私たちが考えるクリスマスストーリーに近いものです。 東方の博士たちが、ユダヤ人の王の誕生を告げる星を見ます。そして探索を続ける後、ついに幼な子イエスを見つけます。喜びに包まれながら、博士たちは黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげます。このような理由で私たちはクリスマスを喜ばしい捧げ物、贈り物の時期として捉えます。私たちの主であり、救い主でおられる方が私たちの世界に来てくださったこと。私たちの神様が遠い天にいる離れた存在ではなく、人間として私たちに出会うために来てくださったこと。この素晴らしい知らせに対し、私たちは喜びと感謝を持って贈り物を捧げるのです。 しかしながら、喜びと感謝に包まれる主イエスキリストの誕生は、はじめから危険に晒されていました。聖書にはマリアが子を身ごもっていると知った時、ヨセフはマリアをさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めたとあります。(マタイの福音書1:18-19) ヨセフがこれを実行に移していたらどうなっていたでしょう?この時代、シングルマザーとして生きることはさまざまな支援やサポートが断ち切られることを意味していました。イエス様自身の誕生さえ危ぶまれたことでしょう。 しかし主の御使いが夢に現れ、ヨセフにこのように言います。「あなたの妻マリヤを迎えなさい。」(マタイの福音書1:20) 「その名をイエスとつけなさい」(マタイの福音書1:21)イエスという名前は「主は救う、解放する」という意味だと先週田淵先生より学びました。ヨセフは正しい人だったので、自分の思いではなく、神様に従うことを選び、主の使いに命じられた通りにして、マリアを迎え入れ、生まれた子供をイエスと名付けました。(マタイの福音書1:24-25) このようにしてヨセフの従順から、この特別な幼な子の命がこの世に誕生したのです。 しかしルカの福音書を見てみると、その後も苦難がヨセフとマリアを襲っていることがわかります。住民登録のため、身重の体でありながらマリア、そしてヨセフはヨセフの故郷であるベツレヘムに向かいます。(ルカの福音書2:5) そこで月が満ち、マリアは男子の初子つまりイエスを産みます。(ルカの福音書2:6) しかし、世界を変える救い主の誕生の重要さをこの世はまだ理解していませんでした。 まだ誰もその重みを理解していなかったのです。 ヨセフの故郷にいながら、神の子を抱えているにもかかわらず、ヨセフとマリアには滞在する場所がなく、マリアは馬小屋でイエスを産み、幼な子イエスを飼い葉おけに寝かせます。 聖書にはマリアは羊飼いの話したことをすべて心に納めて、思いを巡らしていたとありますが(ルカの福音書2:19)、そうしなければやっていけなかったはずです。羊飼いに与えられた主の使いの言葉「救い主がお生まれになりました。この方こそキリストです。あながたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。」(ルカの福音書2:12)を聞いた時のマリアはどのような気持ちだったでしょう。主の使いの言葉が自分の目の前で成就したわけです。 しかしこのような素晴らしい神様の預言通りの救い主イエスの誕生にもかかわらず、ヨセフとマリアが直面していた状況は喜ばしい、祝杯に満ちたものではありませんでした。 今日の聖書箇所は、このような状況下の中でさらに悲劇がイエスの家族を襲うというお話しです。イエスの家族が故郷であるベツレヘムを追われ、エジプトに逃げるという話です。 そうです、幼な子イエスの人生は王様としてでなく、難民としてスタートしたのです。 主の使いが夢でヨセフに現れ、次のように言います。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」(マタイの福音書2:13)ヨセフは主の使いの言葉に従い、立ち、幼子イエスと母マリアを連れて、エジプトに移るのです。自分たちが住んでいた場所に舞い戻り、荷物をまとめる暇もなく。 私も含めここにいる多くの人が引っ越しを経験したことがあると思います。自分の生まれ育った国からここ日本、もしくは日本から海外、もしくは日本以外の国から国へと、引っ越した経験を持つ方もおられると思います。そのような経験をしたことがある方はおわかりかと思いますが、国を跨いでの引っ越しの準備は時間がいくらあっても足りないものです。 しかしヨセフとマリアにそのような時間は与えられませんでした。聖書には「夜のうちに、幼子とその母を連れて、エジプトに立ちのき」とあります。(マタイの福音書2:14) 幼い子供を抱えながら外国で難民として暮らす。その労苦は簡単に想像できるのではないでしょうか。聖書にはありませんが、ヘロデ王から逃げるようにエジプトに来たイエス一家はエジプト国内の街から街、シェルターとして逃げ込んだ洞窟から洞窟を転々としたという風に言われています。エジプトはヘロデ王の統治にはありませんでしたが、ヘロデ王がエジプトにスパイを送り、イエスを探し出そうとしていたという説もあります。 このように引き続き危機的な状況が続く一家はどのように生き延びていくことができたのでしょう。ヘロデ王、そしてスパイから逃れ続けなければいけなかった彼らに誰が食べ物を、シェルターを、着物を、必要なサポートを提供していたのでしょう。 イエス一家が、エジプトで飢えることなく生活するには、支援に頼らなければいけなかったはずです。神様を愛し、申命記10章18節ににある「在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」という神様の言葉に従う誰かが、どこかのコミュニティがイエス一家をサポートしていたはずです。 エジプトに逃げよという主の使いの呼びかけに従順を持ってヨセフとマリアが応答できたのは、外国に逃げてきた難民、在留異国人を愛せよという神様の言葉に従い、難民を向かい入れ、支援してきた人たちがいたからです。私たちが神様に従順を持って応答できるようになるには、コミュニティサポートが不可欠で、それは周りの人が神様に従順を持って応答することで可能になります。 聖書をゆっくりと読み進めることは非常に大切なことです。聖霊により頼みながら、神様の御言葉に耳を傾けてみましょう。節と節の間に、行間から「従順」というテーマが何度も聞こえてくるのではないでしょうか。もう一度マタイ福音書2:13-15を読んでみましょう。 2:13彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 2:14そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、 2:15ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。 今日話した背景やポイントを考えながら、もう一度ゆっくりこの箇所を読んでみる時、この箇所がヨセフの従順以上のものを話していることがわかるのではないでしょうか?ヨセフの従順に加え、神様の介入によりヨセフの従順を可能にした彼の家族を囲む周りの者のサポートについても思いを馳せることができるのではないでしょうか。神様に従うこととして、難民であるヨセフ一家を歓迎し、生活を支えるそのような人々の敬虔を通して、ヨセフは主の使いの言葉を守ることができたのです。 神様への従順、敬虔を守るというのは個人的な努力で成し遂げられることではありません。個人レベルで留まるのではなく、教会全体で意識的に行わなければいけないことで、それを通して人々が神様の呼びかけに応答し、従順を守ることをサポートすることができるのです。 今日の聖書箇所に戻りましょう。ヨセフとヨセフを囲むコミュニティがこのようにして神様への従順を守る中、ヘロデ王は自己欲と自己保身に身を投じます。王としての自分の力が減退することを恐れたヘロデ王は、その可能性から自分を守るために、ベツレヘムとその近辺にいる2歳以下の男の子を一人残らず殺させたのです。(マタイの福音書2:16) そうです。メシア、救世主、ユダヤの王が生まれたと聞いたヘロデ王は、自分の王としての立場があやうくなることに不安を覚えます。探索を続けながらも、この新たに生まれた王がどのような者で、どこにいるかがわからないヘロデ王は怒りとフラストレーションに燃え、ベツレヘムとその近辺にいる全ての男子を殺したのです。そうすることによってイエスキリストが確実に死ぬように。 これは人災です。自分の力と権力を失うことを恐れた一人の男が、怒りに駆られ、このような虐殺を引き起こしたのです。一人の王、一人のリーダーの自己欲、自己保身から、多くの罪のない命が犠牲になったのです。 そして更に悲劇なのは、この人災である悲劇が聖書ではたった1節でしか取り扱われていないことです。 たった1節でしか触れられていないのです。 そしてその1節にある表記も事実を淡々と書いているだけです。 「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。」(マタイの福音書2:16) これだけです。 ここを読む時に私が思うことそれは。。。神様はこの事についてどう思われているのだろう?神様はこの虐殺された子供たちのことを愛してはおられないだろうか?神様は神様の独り子イエスが生き延びて、神の御心を成すために、このように他の幼い命を奪うというような犠牲も払うつもりなのだろうか? さらに次の説も理解するのが難しい箇所です。「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。」(マタイの福音書2:17) ということは神様はこのような人災が起こることを予測しながら、何もしなかったということでしょうか?神様はこのような人災、虐殺をお許しになられたのか?愛、慈しみ、優しさにあふれた神様がそうされたのか? このような難しい疑問を満足させる回答があればよいのにと思います。そんな回答が次の聖書箇所に明瞭に書かれていたら良いのにと思います。けれど明瞭な回答はそこにはありません。 このような状況に陥る時、聖書箇所に書かれていることに困難を覚える時、私たちは忍耐を持ち、聖霊を通しての神様の語りかけに意識的に耳を傾けなければいけません。聖書はこう語っているという確信を手放し、神様の言葉が私たちの心の奥深いところに話しかけるよう鍛錬しなければいけません。それは時として聖書の言葉を通して抱く不快感、恐れ、混乱を向き合うことを意味します。 なのでそうしてみました。幼子の虐殺という聖書箇所の部分を、マタイの福音書2:16-18をもう一度ゆっくりと、何度か読んでみました。その中で18節にある「ラケルは慰められることを拒んだ。」とい箇所に心を動かされました。 マタイ2:18はエレミヤ書からの引用です。エレミヤは紀元前6世紀に神の民イスラエル人に遣わされた預言者です。その当時バビロンという国が力を持ち、地域を治めており、後にイスラエルを領地として捉え支配します。イスラエルに住む強くて若い者達は、子供も含め、バビロンに捕囚として捕らわれ、国の繁栄に貢献させるために強制移動を強いられます。 だからここでは、イスラエルの母を象徴するラケルは泣いているのです。泣き叫び、嘆き叫んでいるのです。なぜなら、子らがもうおらず、イスラエルの明るい未来を象徴する子供たちが連れ去られたからです。 そのことに対し、ラケルは慰められることを拒んでいるのです。 神様に従うことを思う時、多くの場合、今起きていることを受動的に受け入れるという風に考えることが多いのではないかとおもいます。神様がこのような事が起きていることを許されているに違いない。。。だから神様に従って、今起きていることを静かに受け入れる。そしてそのようにして神様に対し従順を示すということは今日のヨセフの従順から見てもわかる通り、聖書にも描かれています。けれど聖書が描く従順は必ずしもいつもそうだとは限りません。 神様に従うということは時として、非暴力的抵抗、非暴力的不服従を意味します。M. L.キング牧師が導いた黒人差別に対する抵抗、セクシャルハラスメントや性的暴行の被害撲滅を訴える#MeToo運動、つい昨年末亡くなったデズモンドツツ司祭が力を注いだ南アフリカにおけるアパルトヘイト政策廃止運動などをはじめとする様々な非暴力抵抗、抗議運動は神様からの慰めを通して、状況を受け入れるということを拒むことで、世の中に存在する不当、不正を受け入れることを拒むという強いメッセージを送っているのです。 時として神様からの慰めを受け入れ、何もしないということは、世の中に存在する不当、不正を受け入れることを意味しています。 助けられる命が取られ、虐げられ、差別されている時、神様への従順は起きていることを受け入れ、神様から慰めをいただくことを意味しません。神様への従順は慰められることを拒み、今の現状が現状のままであることを拒み、神様の正義と公正が取り戻されるよう動くことを意味します。 マタイで引用されているこのエレミヤ書からの言葉を読む時に、神様が幼子の虐殺に対し、抵抗のメッセージを発しているのがわかるでしょうか。神様は一人のエゴが引き起こした人災であるこの虐殺に対し、慰められることを拒んでいるのです。エレミヤ書31:16にはこのようにあります。「主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」 わたしはエレミヤ書のこの言葉をこういう風に捉えます。それは正義と公正の働きへの召し、呼びかけです。不平、不当に対し声を上げ、泣き叫ぶことに問題はない。けれど、私たちの行動はそこで止まるべきではない。どこかで私たちは泣くのをやめ、正義と公正が取り戻されるように、働かなければならない。 ここで私の愛する兄弟ハリーについてお話ししたいと思います。ハリーと私は、私がKUCに来る前に仕えていた教会で会いました。ハリーはインドネシアで激化するクリスチャンに対する迫害を逃れ、アメリカに30年前にやってきました。しかし、イエスの一家が危機一髪でエジプトに逃れたように、命の危険が迫るハリーと、共に逃れた仲間に、時間はありませんでした。ハリーと仲間たちは生きるために、不法で国境を渡りアメリカに入国することを選んだのです。辿り着いた先の教会はハリーを歓迎し、受け入れ、彼に教会建物管理人という仕事を与えました。彼はその他食料を求める人へのフードパントリーや、教会が管理し経営するホームレスの人々への住居の管理やメインテナンスなどを通し奉仕活動に励みました。 彼は税金をきちんと払い、教会のコミュニティの中で尊敬され、教会内外で一目置かれる存在となっていきました。しかし、不法滞在という移民上のステータスが理由で、彼はICEというアメリカの移民税関捜査局により捕らわれ、家族と引き離され、拘置所にもいられました。拘置所から出ても、彼の移民ステータスが変わらない限り、彼はいつ捕らえられるかわからない状況の中にいました。 またしばらくしてICEがやってきて、ハリーを捕らえようとした時、ハリーは教会に逃げ込み、教会は彼を守りました。彼と同じように逃げてきた仲間たちは教会に住むと、教会員、彼が住むコミュニティの人々は教会の前に立ち、教会を人で囲み、ICEが教会内に入ることに阻止し、彼らを守衛という立場で守り抜きました。教会の牧師はニュージャージー州知事に掛け合い、交渉を重ね、ICEがハリーに危害を加えないこと、州がハリーを守ることを約束させました。 けれで戦いはそこでは終わりませんでした。教会は移民専門の弁護士を雇い、ついにハリーは去年アメリカの市民権を獲得することができました。 これこそが忍耐、神様への従順です。ハリーはどのような状況にありながらも神様への従順を、神様への、人々への奉仕を決して忘れることがありませんでした。彼がそのように従順を貫けたのは、同じように彼の教会コミュニティーが神さへの従順を貫いたからです。彼の教会コミュニティーは慰められることを拒み、現状を受け入れることを拒み、ハリーとハリーの家族が安心して暮らせるように、人権が取り戻されるように働きかけることを止めなかったのです。 クリスマスのストーリは予期せぬハプニングが連続して起こります。若い結婚前のマリアに子供が宿り、救世主は馬小屋で生まれ、飼い葉おけに寝かされ、救世主の誕生のニュースが、住民登録にも加えられなかったアウトキャストとみなされていた羊飼いの元にもたらされる。 そしてこの神の御子とその家族は、暴君の殺害計画により国を終われ、外国に難民として逃れる。 このようにイエスの命が危険に晒され続ける中で、御使いを通して、神様は何度も従順を人々に求めます。 しかし、従順は私たちが描く従順とは違います。神様は私たちをロボットのようには扱っておられません。私たちが言われたまま、自分の意思がないまま動くことを望みません。神様は私たちが自分たち自身で考え、自分たちの周りで何が起きているか状況に目を配ることを望んでいます。神様は私たちに、私たちのコミュニティの中にいる旅人、異国在留人、その他コミュニティを持たずに困っている人をサポートすることを望んでいます。自分たちが神様と出会う前にどれほど孤独だったか、どれほど困っていたか今一度思い出してみましょう。だからこそ困っている人に私たちは着物を着せ、食物を与えるのです。スピリチュアル的なサポートも含めてです。 神様は私たちが自分たち自身で考え、自分たちの周りで何が起きているか状況に目を配ることを望んでいます。私たちのコミュニティにおいて神様の良さが反映されていない部分がないでしょうか?神様は私たちが共存するだけでなく、それぞれに与えられる機会や賜物を生かし、全ての人が神様への従順を全うすることができるようになることを望んでいます。もし一人や一つのグループが、他人や他の人のグループの犠牲の中で繁栄、成長しているのであればそれは真の成長ではありません。ラケルのように私たちはそのことを拒み、抵抗しなければいけません。 もし誰かが最低賃金以下で雇われ、生活が成り立たないのであれば、それは神様のご計画ではありません。神様への従順に従い、正当、公正を求める声が上げられ、改善を求める働きに参加しなければなりません。 もし誰かが肉体的、精神的に虐待されているのであれば、それを神様のご計画として受け入れることは神様への従順ではありません。私たちは神様との和解を通してのお互いの和解を目指し、状況が神様の良い、慈しみ深い性質を反映するように改善されるよう、働かなくてはいけません。 神様は全ての人に与えられた人生、機会、召しを従順を持って全うすること、お互いが愛と尊敬を持ってお互いを支え合う共同体の形成と存続を望んでいます。そしてそのような共同体の形成と存続には、良い隣人であること、不正、不当を目にした時に公正と正義を求める声を上げ、その実現の働きに加わることが不可欠であり、そのことを通して私たちは神様への従順を示すことができます。 クリスマスストーリーのように、今年思ってもみなかったような形で神様への従順が求められるかもしれません。神様の恵みと慈しみによって、従順を全うすることができますように。アーメン。 クリスマスおめでとうございます。また新年のお慶びを申し上げまます。 新年になりましたが、キリスト教のカレンダーでは、まだクリスマスは始まったばかり、そしてクリスマスは2月まで続きますよ、ということを今日とくに強調しておきたいと思います。キリスト教でのクリスマスのカレンダーを以下にお見せします: 12月24日 クリスマスですが、マリアとヨセフに新しく赤ちゃんが生まれ、飼い馬おけに寝かされます。天使が羊飼いたちに現れ、彼らはやがて聖家族を訪れます。 25日 クリスマスの当日です。 26日、聖ステパノの祝日、直接にクリスマスには関係しませんが、最初のキリスト教の殉教者がこの日石で撃ち殺された(使徒言行録6~7章)ということです。イングランドではボクシング・デーと呼ばれます。 1月1日 イエスの命名日 1月6日 公現日 賢者たちがイエスを礼拝します 2月2日 クリスマスシーズンの最後のしめくくり イエスの誕生から40日後を記念し、イエスが神殿に連れられます。教会のカレンダーではこの日が幼子イエスをお祝いする最後の祝日となります。 ということでクリスマスシーズンはまだ始まったばかり、今日はイエスの命名の意味にフォーカスしたいと思います。昨日はイエスと名付けられた日でしたから。 みなさんも既にご存じのように、その名前は天使によって告げられました。アドヴェントの礼拝でクラウディア先生、またアキコ先生から語っていただいたように、ちなみに先週の月曜日はアキコ先生が按手を受けられ、牧師としての全ての働きがおできになるようになられました。おめでとうございます。その二人の先生から、ルカによる福音書1章によると、マリアが幼子の名前がイエスであることを天使ガブリエルから告げられたことを聞きました。でもマタイ福音書ではその名前は、最初無名の天使からヨセフに告げられたのです。私はそのマタイの物語がとても意味深く思われるのです。そのとき、ヨセフは、婚約者が妊娠しているということでとても苦しんでいました。その恥さらしのなかで彼女とは別れようと考えていました。そのとき彼の夢に天使が現れ彼女を妻として迎えるようにと励まします。その子どもはイザヤの預言、つまりインマヌエル、神私たちと共に、という神の約束の成就のしるしだったからです。 ヨセフはそこで、神の言葉に従うか自分の思いを追い求めるかという二つの可能な答えのうちのひとつを選ぶよう挑戦を受け、答えを迫られます。その後の彼の人生のみならず、マリアとの生活、さらにそれ以上に世界の歴史の方向性を決めるという決定的な地点に立っているヨセフにとって、このとき天使が告げたイエスという名前はとても多くのことを意味していました。なぜ天使は他の名前ではなく、イエスという名前を告げたのでしょう。ヨセフの時代、イエスという名前はユダヤ人のなかではポピュラーなもので、それはヘブル語由来の旧約聖書のヨシュアと同じ、「ヤハゥエ、主は救う/解放する」という意味の名前でした。 先にお話ししましたように、ヨセフが鋭く天使から挑戦を受けたのは、神の意志を受け入れるか、彼自身の意志や思いを貫き通すのかということでした。そしてマリアから生まれる子どもの名前が、ヨセフに対する神様の計画を確信させたのです。彼がそう決断したのには、いくつかの理由が考えられます。最初の理由はその名前が、彼が民族の歴史のなかでどんな位地に立っているかを考えさせたのでしょう。幼子は、民族の英雄とも言うべきヨシュアの名前を受け継ぐのです。ヨシュア記によると、ヨシュアは敵からパレスチナの地を征服し、イスラエルの十二部族にそれを分け与えました。それが今日まで深刻なパレスチナ問題、その土地の人々の対立を生む原因となるのです。でもヨシュアの物語によると、彼の主な目的はイスラエル民族のために新しい土地を得ること以上に、主(ヤハウェ)の意志に服従することでした。その点を彼はヨシュア記の最後の部分はっきりと示しています。ヨシュアは彼に導かれてきた民に対して、それぞれの家族にとっての神を選ぶように問いかけますが、彼と彼の家族はイスラエルの神、にのみ従うことを宣言します:「ただし、わたしと私の家は主に仕えます」(ヨシュア 24:18) 「イエス」という名前によってヨセフは、彼の個人的な自分の問題以上に、民族のひとりとしてのあり方を思わされたのです。彼は自分の幸せのためだけに生きるべきか、彼の思いを超えて、人々に対する彼自身の使命を実現するために主に仕えるべきなのか。ヨシュアはモーセの後継者として、主の命令にのみ従うことにより、彼の民を導くという生涯の使命を全うしたのです。理論的に考えると、神はパレスチナの地を征服することをヨシュアに命じ、彼はそれを実行しました。そしてもし、神が彼の達成したものを放棄することを求めるならば、彼は以前と同じようにそれに従うべきなのです。私はその点が現代のパレスチナ問題を解決する点だとおもいますし、それは決して政治的議論ではなく、人々の信仰の問題だと思っています。いずれにしても、イエスという名前を聞かされて、ヨセフは神の意志を受け入れるかどうかという大きな問いの前に立たされたのでした。 彼は自分の状況を、自分でなんとかできたのでしょうか。マリアを傷つけずに、貶めずに。彼は「正しい人であった」(マタイ1:19)と言われており、マリアに対しても社会に対しても、自分の義しさを損なうことなしに、そんなことができると思えたのでしょうか。そして、彼は新しく生まれる子どもの名前「主は救われる」だと告げられたのです。そうなのです、神様だけが状況への助けを、彼とマリアに何をすべきという導きを与えることができたのです。その決定的な状況のなかで、もしヨセフが彼自身の思いだけでことを進めていたら、それからどんなことになっていたでしょう。 「イエス」の名前はヨセフに、その挑戦に向き合い、克服できる新しい希望を与えました。同時、より意味深いことに、彼は、神様の導きに従うことによってマリアを受け入れる、つまりガブリエルによってマリアにも与えられた挑戦をともにすることによって、マリアをすべての思いと心をもって愛することができたのです。 私たちは使徒信条で告白しているように、イエスを信じます。その名前は普通によくある名前ではなく、ヨセフと神を信じるすべての人にとって深いメッセージを持つ名前です。イエスを信じるということは、神様の救いを信じ、その御意志に従うということを表明することです。そのひとつの生き方は「あたなの敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:34,44)という言葉で私たちに伝えられているものなのです。それが私たちが真の平和を実現する唯一の道なのです。そのむつかしさに直面するときに、そこで神様の助けを信じ求めることができる、それによって私たちは本当に「インマヌエル」「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)を実感するのです。 祈りましょう:憐れみ深い神様、私たちにクリスマスを通じてあなたの愛を示してくださることを感謝します。そして私たちの新しい一年を始めるそのときに、私たちは、インマヌエル、神ともにいますことを思いこさせる、イエスの名前を呼び求めます。私たちはイエスがその十字架までの生涯を通じて示された神の意志に従うのかを問いかけられます。2022年の私たちの日々、あなたが共にいてくださることによって、安心して自身を持って歩み続けることができますように。「あなたの御心がなりますように」と祈ります。私たちの救い主としてまた解放者であるイエスの名前を呼び求める全ての人々、KUCのメンバーを祝福してくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン、 |
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May 2024
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