私たちの教会設立150周年記念を祝う今日、神様への感謝が祝いの中心にあります。感謝と共に、驚き、感嘆もあります。なぜなら150年というのはとても長い期間だからです。もちろん私たちの教会よりも前に設立された教会も存在します。私たちの教会より長い歴史を持つ教会もあります。しかし、だからと言って、私たちの感謝や感嘆が減るわけではありません。今日の礼拝は感謝と感嘆をキーワードにしています。
今日の礼拝を通し、神様を褒め称える歌や祈りを通し、私たちは感謝と信頼を言葉にします。私たちの教会が設立された時から、神様がここ神戸で働かれてきたということ、そして現在の今も神様が導いておられることに、私たちは感謝を覚えています。 60年前、私たちの教会は90周年記念を祝いました。その時にメッセージをした牧師は、教会が通った90年間を時代ごとに区切って話しました。教会誕生の1868年から1871年、教会を組織化し、成長へと繋がった1872年から1903年、成長に陰りが見え、戦争という困難が襲った1904年から1942年。この時期に、新しく教会の建物を生田町に建設し、1929年に生田町へと教会が移転しました。1942年から1956年には火災という試練に見舞われました。そして1956年から1961年にかけての時期に、当時の牧師は私たちの教会を、「今日という困難の中にある教会」と表現しました。そして最後に教会の未来は引き続き献身し続けることにかかっていると話しました。 私たちの前を歩んだ信仰の先輩たちは、困難な時期を通りながらも、常に献身を以って教会を支えました。そのお陰で私たちは、90周年記念の後さらに60年という時間を教会の歴史に刻むことができました。私たちの中には10年、20年、30年、もしくはそれ以上の間この教会に属し、私たちの教会の歴史の一部となっている方もおられるでしょう。そこには感謝と共に、お伝えした今日のもう一つのキーワード、感嘆があります。 ここにいる私たちは、150年前の神戸の生活がどのようなものだったか想像することはできません。その当時の写真を見てみると港に隣接した小さな街と、その街の様子が映し出されています。神戸外国人居留地に建てられた私たちの最初の教会の写真もあります。また、現代技術のお陰でこれらの写真のいくつかをカラーで見ることもできます。しかしながら、150年前の社会は今の私たちが生きる社会とは違います。150年前に暮らしていた神戸の人が、貿易やビジネスを始める際に抱いた希望や不安について私たちは多くのことは知りません。しかし、150年前さまざまな国から来た外国人達が共に集い、礼拝を捧げ、教会を築いたことを私たちは知っています。これらの外国人達は、神戸という外国の地で神様と神様の導きを証する者として、自分たちでこのことを決め、実行しました。主に向かって新しい歌を歌い、日々、御救いの良い知らせを告げたのです。 このことに私たちは驚きます。感嘆を覚えます。これらの外国人は、自分たちに与えられた時間をそのように使わなくてもよかったわけです。忙しい日常生活を過ごしながらも、私たちの教会を建てあげた人々は神様に感謝する時間を見つけていました。というよりは、神様に感謝し、神様の声に耳を傾ける時間を意識的に持っていたという方が正しいでしょう。そして言うまでもなく、私たちの教会の設立にあたり、アメリカの教会から送られた宣教師のダニエル・クロズビー・グリーン先生の貢献は計り知れないものがあります。 私たちが感嘆を覚えるのは他にも理由があります。教会を建てあげ、守ってきた人々は日曜日の礼拝にただ参加するだけではありませんでした。多くが牧師を、理事会の働きをサポートしていました。教会のために奉仕するということに重きを置いていたのです。このような教会員の献身なしには、活動的な教会生活は成し得なかったことでしょう。 今日、この教会に所属する(海外からの)駐在員の数はとても少ないです。日曜日に教会に行くことが当たり前の時代でもありません。また教会は山の上というロケーションにあります。すぐにアクセスできる場所にありません。他の事をして日曜日を過ごすこともできるでしょう。150年前の時でさえ、それぞれ違ったを興味を持った様々な人々が教会に集っていました。みんながみんなお互いを好いていたとも限らないでしょう。けれど、みんな神様への賛美という共通目的で一つとなっていました。これには、神様の言葉に耳を傾けようとする姿勢も含まれています。神の言葉とは、牧師による説教のことではなく、聞き手を待ち望み、教会により解釈、理解すべき聖書の言葉のことです。神様の声に、聖書の言葉に耳を傾けてみるというのは、どんなに困難になったとしても引き続き行っていかなければならないことです。聞きたいことだけを言ってくれるコミュニティに属することは簡単なことですが、教会はそうではなく神様の言葉に耳を傾けます。 今日という困難の中にある教会 -- これは先ほども言いましたように、1956年から1961年の教会の姿を表した表現ですが、この表現は今の時代にも通じるものがあります。2021年の困難は、昔の時代の困難とは違うでしょう。しかし私たちの信仰の先輩がそうしたように、私たちもその困難に立ち向かい、賛美や感嘆を辞めないことが求められています。 今日私たちの教会にまつわる3つの感嘆についてお話ししました。人々が時間を作って礼拝に参加したこと、教会が困難な時期にあった時も人々は献身する事を忘れなかったこと、そして様々な状況や興味をもった人が集まり、このコミュニティを作り上げたこと。これら全てのことが感謝と感嘆に値することです。 私たちにとって礼拝するということはどういう意味を持つでしょうか?礼拝を持つ時間を意識的に作るということはどういうことでしょうか? どのようにして教会という共同体と関係を持ち、関わり、貢献することができるでしょうか? 日常において会うことのなかった人々と共に神様の言葉に耳を傾けるとはどういうことでしょうか? これら一つ一つの質問に対する答えはお一人お一人違うと思います。けれどその中心に立っておられるのは神様です。神様は今日も、明日も、これからの未来全ての時において、私たちが新しい歌を歌うように、私たちをここに集められました。 この事を忘れない限り、私たちは将来を心配する必要はありません。神様はすでに150年もの間この教会を導かれ、守られてきました。そしてこれからも引き続きそうなさるでしょう。 アーメン。.
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今月のテーマは、「与える」です。先週、田淵先生が献金について説教してくださいました。エリザベスさんと、ベン・タンさんの献金についての証もありましたね。
そして、先ほどルカの福音書17章に書かれている聖書の言葉を聞きました。 ルカの福音書には、主がエルサレムに向かう途中、ハンセン病にかかっている10人の男性を清めた記録が残っています。ヨハネの福音書4:19にあるように、この10名の中にはユダヤ人とサマリヤ人が混じっていました。通常、彼らは一緒に行動しませんが、同じような問題を抱えた人が一緒になることはよくあります。 話は、イエスがハンセン病の10名の男たちを見て、こう言うのです。「祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして清められなさい。」イエスが彼らに祭司に会いに行くよう言ったのは、清いか清くないかの診断を下すのが祭司の役割だったからです(レビ記3:45-46)。イエスはそれぞれの状況に応じて、様々な人を様々な方法で癒していたのです。そこで、この男たちは会堂に走って行き、祭司たちに自分たちが癒されているか確認してもらいました。実際には9人が祭司に会いに行き、1人はすぐには言われた通りにしませんでした。むしろ、その1人は自分が癒されていたことに気づくと、すぐに引き返してイエスに感謝をしていたのです。 興味深いことに、引き返したその1人はサマリヤ人だったのです。彼はハンセン病であることと、ユダヤ人ではない血を引いていることで、2重にアウトサイダー(外の人間)でした。彼はイエスの足元にひれ伏し、神に感謝しました。イエスはその戻ってきて、感謝を述べる彼を見て「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言いました。原語のギリシャ語では、「あなたの信仰があなたを救った」と書かれています。 10人はハンセン病の日に癒されましたが、救われたのは1人だけでした。その1人だけが感謝のために引き戻してきたのです。 10月31日の宗教改革の日曜日に、私が偉大な改革者であるマルティン・ルターについて説いた事を覚えていらっしゃいますか?ルター牧師は、かつて礼拝の定義を聞かれ、礼拝とは「10人目のハンセン病患者の時」であると言い、礼拝とは義務ではなく、「その癒しの源に戻り、感謝する心だ」と答えました。私たちはルターの言葉を思い出し、人生の全てが礼拝であることを忘れないようにすることです。また感謝の気持ちが私たちの心の鼓動になると考えることも出来ます。 真の祈り、私たちが神に捧げるべき真の贈り物は「感謝」です。神は与えてくださる方です。そして、私たちは感謝を捧げる者です。私たちは神によって、感謝する者として生きるように召されています。 作家のアリス・ウォーカーは「『ありがとう』は誰もが言える最高の祈りです」と言っています。彼女は「私は感謝言葉をよく口にします。『ありがとう』は多大な感謝の気持ち、謙虚さ、理解を表す事ができます。」と言いました。 もう1人、偉大な作家であるマヤ・アンジェロウはこの様な詩を書いています。 「続けて、感謝を枕にして、その上に膝まずき、毎晩の祈りを捧げ、信仰を橋にして、悪を克服し、善を迎える」(マヤ・アンジェロウ[Continue]2016年執筆) どうすれば感謝の気持ちを持ち続ける事ができるでしょうか?どうすれば、人生に必要な全ての良い贈り物を与えてくださる神にお返しできるでしょうか?容易にそれが出来ない場合もあります。 私たちは時に辛い時間を経験する事があります。悲しみ、寂しさ、死。神に感謝を伝える事や、人生に与えられている神の贈り物を見つける事がとても難しい時期があることも分かっています。しかし神の愛に勝る愛はないことも覚えておいてください。 誰もが神に呼びかけ、神の祝福を受けるには罪深く、病的で、困難な状態にあります。神は私たち全ての人を愛されています。ユダヤ人とサマリヤ人が敵対していましたが、ローマ人への手紙10:11-13には、「彼を信頼する者は、失望させられることがない。」と書いてあります。ユダヤ人と異邦人の間に違いはなく、同じ主が全ての人の主であり、主を必要とする全ての人を豊かに祝福し、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 私たちの罪は、体の外側の開いた傷や、内側の化膿した傷のようなものです。神が私たちを見放す事はありません。神は私たちを癒したいと願っており、心から愛してくださっています。そしてその愛に気づき、それを受け入れ、自分の中に取り込み、他の人に与える事を学ぶことは、人生を通して真の感謝を学ぶこと、感謝の言葉を伝える事です。 この聖句で「感謝」と訳されているギリシャ語の単語は「eucharisteo(ユーカリステオ)」で、「感謝する」「感謝を表す」という意味です。「Eucharist(ユーカリスト/聖餐)」はCommunion (コミュニオン)とも呼ばれます。コミュニオンは「大きな感謝」という意味です。聖餐式で、私たちはイエスを思い、イエスの至高の愛を思い出し、感謝するのです。感謝を捧げる時、私たちは心から感謝し、ユーカリステオとなるのです。 トラピスト会の修道士であり、作家、神秘主義者、神学者でもあったトーマス・マートンは「感謝することは全てのものに神の愛を認識することである」と言っています。(トーマス・マートン Thoughts in Solitude (1956)) 神の愛は私たちが感謝する事、そしてその愛を他の人に与える事を教えています。この1週間、神の愛をどの様に他人に与えましたか?神に感謝をしましたか?どんな親切な行為を行いましたか?ここ数日、誰に感謝を伝えましたか?特にこのパンデミックの間、あなたは教会にどの様に貢献しましたか?教会に来るのを何かを「得る」為だと思っている人がいますが、それ以外に、何を「与えれるか」と考える事もできるのではないでしょうか?言葉で感謝を伝える事や、行動で示す事もできます。 今から100年前、神学者であり1952年にノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァー博士は、ルーテル派の宣教師として、そして医師としてアフリカに滞在していました。彼はアフリカのガボン、ランバレネに病院を設立しました。その病院は現在も残っています。なぜ彼は病院を設立したのでしょうか?彼は白人のヨーロッパ人がアフリカの黒人に対して犯した罪を償いたかったのです。1913年から彼が亡くなる1965年までシュヴァイツァーはこの病院をフランス領赤道アフリカ(現在のガボン)で運営していました。現在はガボンのランバレネにある「アルベルト・シュヴァイツァー病院」として知られています。シュヴァイツァー博士は患者のために出来る限りのことを行うことに大きな喜びを感じていました。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(コリント人への手紙 第二9:7) シュヴァイツァー博士は「最も大切な事は全てのことに感謝するという事だ。これを学んだ者は生きることの意味を知っている、これを知っている者は生かされる意味を分かっている。全ての事に感謝をしよう」と言いました。 そしてシュヴァイツァー博士はテサロニケ人への手紙第一5:16-18にあるパウロの言葉を引用し、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがイエスにあって神があなたに望んでおられる事です」と伝えました。博士は正しかったのです。感謝を学ぶことが生きる意味を知る事です。 しかし、全ての事に感謝することができず、この聖句の意味を深く掘り下げたいと思う事もあるかもしれません。 実はこの聖句は「すべてのことに感謝しなさい」とは言っていません。感謝とは、悪や不正のあるものに対して感謝することではありません。暴力、嘘、病気、飢え、人種差別、抑圧、虐待、貧困、苦しみに対しては決して感謝することはできません。 聖句は「どんな状況でも感謝しなさい」と書いてあります。このギリシャ語のen は英語でin, with, within, through を意味します。これらは私たちを「今、ここ」に位置付ける言葉です。過去にも、未来にも、幸せの中にも、絶望の中にも、あらゆるものの中に、すべての時間の中で、すべての状況において。 私たちはコロナや、政治的混乱、気候変動、経済的な苦しみに感謝すべきではありません。しかし、この様な状況の中で苦労していても、感謝する事は可能です。 私はコロナに感謝しているわけではありませんが、こういった日々を通して、当たり前だと思っていた日常を大切にし、命という尊い贈り物を再認識することができました。 KUCが多くの人と繋がり、横浜ユニオン教会や西東京ユニオン教会の人達、他の国に住んでいる人達と共に聖書勉強などのクラスにオンラインで参加でき、知り合えた事に感謝しています。グローバルなキリスト教のコミュニティを作ることが出来たのです。私たちが多くの人と繋がれたことに感謝しています。 「あらゆる状況に対して」ではなく、「あらゆる状況下でも」感謝しましょう。 去年気候変動から起きた破壊的な森林火災、暴風雨には感謝していませんが、それらを通して、今も神の素晴らしい力を認識し、私たちが地球に存在している事を確認させてくれます。そして、それは私の中で大きな気づきと行動を呼び起こしています。 経済的な苦境に感謝はしていませんが、その中でよりシンプルに、そして寛大な心で生きていく方法を思い出させてくれました。そして神と隣人への愛を深め、命の優しさと全ての尊厳、正義の必要性をより深く認識することができました。 私たちはこの1年半に渡る酷いパンデミックに感謝していないかもしれません。でも立ち止まって考えてみると、それを通して感謝することが出来ると思います。 感謝の気持ちは私たちの生活や、世界中の他の人々との間を支え、どんな困難な旅路だとしても、その道には贈り物や恵みがあることを常に思い出させてくれます。感謝の気持ちは感情です。 感謝とは実践であり、意識することであり、習慣です。しかし、究極を言うと、感謝の気持ちは私たちが本当の意味で最高の自分を見つける場所であり、真の場所なのです。人生の神秘を知る事は、すべての事に感謝することです。すべてのことに。すべてのものに。すべてのものを通して。 このような日々に感謝を行うには抵抗、復活、再生という流れが必要です。過去2回の日曜日まで長い間私たちは対面式で直接会って礼拝を行う事ができませんでした。今でも私たちは慎重に集まる事を見極めています。将来の事を心配もしているでしょう。これについては誰も感謝していません。しかし、こういった中でも私たちが今後この状況下で道を切り開いていく時に感謝ができるという事です。 先ほど賛美した「Now thank we all our God」を作詞した人の話を簡単にさせてください。ルーテル派の牧師である、マルティン・リンカートは、この偉大な讃美歌の菓子をテサロニケ人への手紙第一5:18の「すべての事について感謝しなさい。これがイエスにあって神があなたに望んでおられることです」 リンカート牧師は、ドイツのアイレンブルグに住み、三十年戦争(1618~1648年)の時代に忠実に信徒の為に尽くした人です。また、1937年には深刻な疫病が発生し、リンカートはアイレンブルグで唯一生き残った牧師であったために、その年は自身の妻を含めて4000件以上の葬儀を執り行った人です。 そんな経験をした彼が書いた歌詞が以下です。 「今、心と手と声を合わせ、神に感謝します。 神は不思議な事をなさり、世界を喜ばせてくださいます。 母の腕から私たちの道を祝福してくださいました。 数えきれないほどの愛の贈り物で、今日も私たちのものです」 私はこの讃美歌が大好きで、KUCではどの様にして「心、手、声」で神様に感謝を伝えれるかを想像しています。彼がこの讃美歌を作った経緯や、讃美歌の歌詞は、私が経験するかもしれない、また隣人が経験するかもしれない日々の試練を描いています。 私たちはどこに居ても隣人がいて、私たちはキリストに従う者として彼らが必要とする物と愛を与えることが出来ます。私たちは隣人に感謝します。隣人の定義を広げてみてください。隣人は近くにいます。私たちと同じように悩み、心配し、苦しみ、苦労している人達です。 また隣人は遠くにもいます。国の反対側、大陸の反対側に居る場合もあります。私たちの隣人とは誰なのか、私たちはどのように彼らに与え、彼らと繋がるように求められているのか。どうやって神の愛を行動で示す事ができるのか。繋がっていく。人と人、人と物、人と神。他者と分かち合う事によって与える事が出来ます。近くにも、遠くにも、現在も未来も隣人はどこにでもいます。 今月はKUC創立150周年を迎え、長年のミニストリーに感謝します。献身的に働くカウンシルメンバーに感謝します。グロースプラン(成長計画:現在はビジョン2021-2022と呼ばれています)とそれを定義し、発展させるために役割を果たした多くの人に感謝します。私たちが再び対面で合う事ができるようになったことに感謝します。また、KUCのミニストリーで奉仕してくれている全ての人、KUCのドアを開ける全ての人に感謝の心を持って、感謝を述べます。 神様、一日一日が感謝と恵みのものであることを感謝します。毎日神様に感謝をしましょう。アーメン。 私の好きなクリスマスの讃美歌について今日お話しするのは少し気が早いかもしれませんが、もうアドベント(待降節)まで二週間、日本の街中ではクリスマスのBGMを耳にするようになってきました。そしてもう一つの理由は、クラウディア先生が11月の礼拝説教のテーマが”Giving(与える)“です、と伝えてくださった時に、この讃美歌のある節を思い出したのです。それは「貧しい私は何をお捧げすればいいでしょうか」というもので、”In the Bleak Midwinter”という讃美歌の第四節に出てきます(日本基督教団讃美歌468番「木枯らしの風」)。作詞はクリスティーナ・ロゼッティが1872年に、作曲はイギリスの作曲家グスタフ・ホルストが1906年に行っています。美しい讃美歌ですのでみなさんも歌ってみてください。しかしながら今日はこの讃美歌についての解説をするのではなく、この讃美歌の言葉で私が気づいたことをお話します。
この讃美歌の中で、イエス様の誕生にお祝いをしようと思った誰かが、自分はとても貧しくてプレゼントなど買えないと残念に思いました。そしてこの節はこのような言葉で締めくくられます: 「牧者なりせばこひつじを 知者は知恵をささぐべき まずしき我のイエス君に、 ささぐべきもの、こころのみ」(讃美歌468番) 美しい思いですね、でも私は今月のKUC説教のテーマ “Giving”を考えるとき、何か見過ごしている問題があるように思えるのです。私たちは貧しくても真心をイエス様にお捧げできます、というのはそのとおりです。しかしこの歌詞は、もし私たちがお金持ちだったら、なにか別の役に立つあるいは高価な贈り物ができ、それで主をお喜ばせできる、というようにも読めるのです。でもそうなのでしょうか。 創世記4章のカインとアベルの物語で(3~5節)、「カインは土の実りを主のもとに…持って来」、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来」ました。さて主が「アベルとその献げ物に目を留められた」のは二人の捧げものの違い、普通のものをもってきたか、あるいは「肥えた初子」であったのか、だったのでしょうか。私はそうは思いません。この物語の解釈についてお話しもできるのですが、ここでは詩編の一つの箇所を引用しましょう: 「もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:18-19 新共同訳) ですからベツレヘムの飼い葉おけの傍らでイエス様の誕生にお祝いをしようと思った方は、真心をお捧げしたのです。私たちの主も私たちの捧げものとして真心、あるいは砕かれた、へりくだった心を受け入れ祝福されることでしょう。それであっても、その心や魂は本当に私たちのもの、私たちがもっているものなのでしょうか、その点を私は考えるのです。前述したようにこの讃美歌、もし羊飼いなら、もし賢者だったら、と続きます。そうしたら他のお金持ちの人だったなら、自分の持っているものをイエスに捧げる事ができたでしょう。この点を分かっていただけますか? 有名なブドウ園の労働者のたとえでは、一日で違った時間に雇われた労働者たちのグループが登場します。最初のグループは夜明けに、二番目は9時に、そしてお昼、午後3時、最後は5時と順番に出てきます。最初のグループには一デナリの賃金が約束されたのですが、最後のグループも最初のグループと同じように扱われました。そこで最初のグループのメンバーは不満で、雇い主に文句を言ったのです。全く公平じゃない!と。でもなぜ最後のグループの人たちは、その日もっと早い時間に雇われなかったのでしょうか。その理由は「彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」(マタイ20:7)からでした。おそらく身体的に彼らは見るからに雇ってもらえそうに見えなかったのでしょう。でもこの人たちは、自分自身に何か特徴があったわけではないのですが、結局最後には同じ一デナリで雇われたのです。一デナリという金額は、一日の生活費を満たせるもので、豊かでも貧しくとも、健康でもそうでなくても、毎日一デナリが必要でした。そして神はその人達を養われるのです。この物語は「我らに日ごとの糧を与えたまえ」という私たちの祈りに応えるものなのです。その通り、私たちは養う立場にはなく、神さまに養われる立場にあるのです。たとえ働きや奉仕において満たされた立場にあったとしても、そうでなくとも。 私があの讃美歌によって気づかされたより深く考えるべき点は、私たちが豊かでも貧しくても、すべての良きものは神さまから与えられたもの、ということです。もし私たちが他の人に何かを与えることができると考えたとしても、それは私たちのものではなく、その人たちに与えられるようにと神さまが私たちに託されたものなのです。言い方を換えれば、もし私たちが自分の努力や働きで何かを得ていると考えるとき、それはどこか間違っているのです。最初のグループはその日、朝早く雇われました。その人たちは一日しっかりと働けるだけの健康と力があると思われたのでしょう。でもそれは、ただ神さまからその健康と能力を与えられていたからなのです。それを彼らは自分たちの特権、特質だと誤って訴えたのです。 人間が創造された物語(創世記2:7)において、神は土から私たちを造り、私たちは「土の器」(ニコリント4:7)でしかなく、それに神は「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」のでした。つまり、私たちのすべては神様から与えられ、私たちが必要とするものは神様が備えてくださったものなのです。だから与えるということは私たちの善意や好意によるものではなく、神様への感謝によって行われるものなのです。そしてそれは偶然なのか、季節的なものなのか、それとも非常に考えられた神様の導きなのか、アドベント/クリスマスの季節の前に、(アメリカの習慣に従った)感謝祭を祝うことは非常に意義深いものがあります。私たちは神様から与えられた多くのものに感謝し、そして神様への奉仕として、それを必要としている姉妹、兄弟たちとそれを分かち合うのです。そのために私たちは祝福を受け、多くのものを与えられているのです。 祈りましょう。恵み深い神様、この年のこのとき、私たちは自分自身がとても多くのものに満たされ、恵まれていることに気づきます。それらは私たちが自分の力で獲たものではなく、私たちが隣人とあなたの祝福を分かちあうべく、正しく用いるためにあなたが私たちに託されたものです。神様、私たちをより感謝に満ちたものとし、今年のクリスマスをより意義深く迎えることができますように、なぜならあなたはあなたの独り子を私たちの世界に贈り、与えてくださったからです。私たちは、ただへりくだって頭をたれ、あなたのもっとも貴い贈り物を受けるためにあなたの前に、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメ 今日は諸聖人の日の日曜日を祝います。この日にKUCで対面式の礼拝に戻り、神の聖徒たちと一緒にお祝いするのはとてもふさわしいことです。神を賛美します。
ここにいる皆さんが聖人です。使徒信条の中で「聖徒の交わり」という言葉は、キリスト教(または普遍的)教会の同義語として使われています。その意味で「聖徒」とはキリストを信じるすべての信者を指しています。 信仰あるキリスト教徒であれば、あなたは聖人です! 18世紀にメソジズムを創始したジョン・ウェスレーは、「諸聖人の日」が一番好きな教会祭だと言っています。今日の聖書朗読(ヘブル12:1)にあるように、この日は私たちが大きな「証人の雲」に囲まれる日だから好きだったのかもしれません。 ではその「証人の雲」とは誰のことで、どのように私たちを「囲む」のでしょうか?これを理解するためには12章の冒頭に「ですから」という言葉があるように、前の章を見る必要があります。アブラハム、サラ、イサク、ヤコブをはじめとする旧約聖書の信徒たちは、メシアの到来を信仰を持って待ち望んでいました。ヘブル人への手紙の著者は11章でこのことを説明した後、先人たちには彼らを導き、指示する信仰があったが、神にはもっと良い計画があったことを伝えて章を終えています。そして12章の冒頭では、私たちのために道を開いてくれたこれらの信仰深い男女について言及しています。旧約聖書の信徒たちが信仰を持って待ち望んでいたメシアを、私たちはメシアの初臨に関するすべての預言の成就を見て振り返っているのです。私たちは過去の聖人たちにユニークな形で囲まれています。それは先人の信仰者たちが私たちの走るレースの観客であるということではありません。むしろ、それは比喩的な表現であり、彼らが目の前にいて、彼らが得たのと同じ信仰生活の勝利を目指して私たちを応援しているかのように行動すべきだということです。私たちはこれらの聖人たちが生きている間に示した神のような模範に触発されるべきです。彼らの過去の信仰生活は、他の人たちにもそのように生きようと励ましてくれるのです。この雲が「偉大な」と呼ばれているのは、私たちの前に何百万人もの信者がいて、それぞれが私たちが今生きている信仰生活を証ししていることを示しています。 また、黙示録7章にはヘンデルが作曲した「メサイア」のように、思わず歌いたくなるような素晴らしい一節がありますが、これは、信仰の英雄的な証人たちを思い出すための一節です。 私たちの人生や教会に影響を与えた過去の人々を記憶することで、私たちは自分自身を形成します。私たちの記憶は希望につながります。私たちが読んでいるこの黙示録の一節ではそのようなことが起こっています。小アジアの7つの会衆に向けて書かれたこの文章は1世紀の終わりから2世紀の初めの頃に書かれたものです。イエス様が十字架にかけられてから50~60年の間に、イエス様が死からよみがえられたと信じる人々の新しい運動がローマ帝国全体、西はガリアや現在のフランス、スペインにまで大きく広がりました。キリスト教徒は人口のかなりの部分を占め、(少なくとも潜在的には)強力な政治勢力として認識されていました。これに危機感を抱いたドミティアヌス帝は、大きくて扱いにくい帝国を確実に維持するために忠誠の誓いを制定したのです。民衆はもちろん、ローマ市民も年に一度、国教の神殿の一つで皇帝に生贄を捧げることが義務付けられたのです。これを怠ると投獄や免職、あるいは死刑に処されました。皇帝の神格化は政治的な教義でした。皇帝が神の子孫であれば、その支配は正当なものであると考えられていたのです。第二次世界大戦前に日本の天皇が神だと思われていたのと同じです。グレコ・ローマ時代の世界では、キリスト教徒の多くは国際的な人々であり、ドミティアヌス皇帝は彼らの忠誠心を容易に確保できると考えていました。しかしそれは間違いでした。彼らの多くはユダヤ人と同じように自分たちの神への崇拝に熱心だったようです。しかし彼らが皇帝への忠誠の誓いを拒否したために、追放や死の危険にさらされたとき、彼らは驚くべき行動をとったのです。彼らは反乱を起こしたり、その数を利用して政情を不安定にするのではなく、神への賛美を歌いながら進んで火あぶりの刑場や、ライオンが食べようと待ち構えている闘技場に向かったのです。彼らは殉教者となったのです。殉教者という言葉は、文字通り「証人」を意味します。彼らはキリストへの信仰の証しが非常に強く、信仰を妥協するくらいなら死んだほうがましだと思ったのです。大きな試練の中で生きていたこのクリスチャンたちに、エーゲ海の流刑地に流されていた牧師の一人であるヨハネが、このような幻想的な手紙を書いたのです。彼は空想的な文学のスタイルを採用することで、彼らに想像力を働かせて異なる現実を垣間見るように誘っています。杭の上で炎が彼らの足をなめ始め、闘技場で飢えたライオンの咆哮を聞くとき、彼らはこの恐ろしい試練の上に、後ろに、そしてその中に、異なる現実があるという希望を持つことができるのです。また、神への信仰を証ししてきた信仰深い人々の例を思い起こすように呼びかけています。そして彼らの目を未来に向けさせ、あらゆる国、部族、言語から集まった人々が神の座の周りに立ち、"祝福と栄光と知恵と感謝と名誉と力が永遠に私たちの神にあるように "と歌う群衆の一員となるのです。過去の信仰者の記憶は彼らを信仰へと鼓舞し、過去、現在、未来の神の民全体を一つの広大でスリリングな礼拝の共同体へと結びつけます。そしてこの記憶は希望の中で彼らを新たにし、強化します。 私たちは、親戚、友人、同僚、教師、隣人など、人生の中で様々な人に出会い、思い出を持っています。その中でも特に印象に残っている人がいるのはなぜでしょうか。 私たちの教会が150周年を迎えた今、皆さんにお伝えしたいある人の思い出はアーサー・ガンブリン師についてです。 彼は1973年から1980年まで神戸ユニオン教会で奉仕しました。 私は東京に住んでいましたが、何年も前に知り合ったUMCの宣教師、モース斉藤氏が書いた短い記事の一部を紹介します。モースと私は同じミッションボードに所属していました。 モースは神戸に住んでいて、神戸ユニオン教会のメンバーであり、神戸の啓明女学院の校長であり、パルモア学院で教鞭をとり、毎日新聞に記事を書いていました。 モース斉藤氏はKUCの歴史を網羅した記事をまとめており、私はここでガンブリン氏の記事を見つけました。 私たちの元牧師の一人であるアーサー・ガンブリン牧師は、第二次世界大戦後の1928年に生まれました。18歳でアメリカ陸軍のチャプレン補佐としてアーサーは神戸にやってきました。 その後、ドリュー大学で学び、神戸出身の小野晴子さんと結婚、語学研修のために神戸に戻りました。その2年後、彼らはメソジスト派の宣教師として淡路島に伝道に行きました。約10年後、ガンブリン夫妻はニュージャージー州のメソジスト教会で働きました。 その後、ユナイテッド・メソジストの宣教師として再び日本、大阪に戻り、教育的な伝道活動を行いました。 6フィート5インチ(195cm強)のアーサーは、威圧感を与える人物でした。彼は神戸ユニオン教会に多くの新しいアイデアをもたらしました。 神戸ユニオン教会には、CHIC(Community House & Information Centre)と呼ばれる地域情報センターが設置されました。( Community House & Information Centreは関西の国際的なコミュニティのニーズを満たすことを目的とした、非営利のコミュニティ・サービス組織です)。 CHICは現在も六甲アイランドのFBC(Foreign Buyers Club)の近くで運営されています。 KUCでは断酒会を開催していましたが、アーサー牧師はすべての断酒会に出席し、困っている人の話をいつでも聞いていました。断酒会のメンバーの中には、アーサー牧師に "Passt are you one?"(あなたもアル中ですか?)と尋ねる人もいました。 アーサー牧師は笑顔でこう答えました。“わからない、そうかもね”と。そして静かに、"If I drank." (もし飲んだとしたら)と自分自身に言いました。 彼は独特のユーモアのセンスを持っていました。 アーサー・ガンブリンにとってエキュメニズム(教派を超えた結束を目指す主義)は重要でした。 神戸ユニオン教会では、しばしばカトリックの神父が何かを修理したり、日曜朝の礼拝を手伝ったりしているのを見かけることがありました。アーサーは他のキリスト教団体にも積極的に参加していました。アーサーは頑張りすぎました。神戸ユニオン教会のすべてを愛していました。2回の短い休暇の後、8月中旬に神戸に戻ってきました。その2日後にアーサーは重大な心臓発作で亡くなりました。享年52歳でした。1980年8月のことです。神戸ユニオン教会はフェローシップホールをガンブリンホールと名付けました。もしアーサーがまだここにいたら、その名前に余分な "g "が入っていないことを確認しろ、と言っていたでしょう。 アーサー・ガンブリンはKUCに影響を与えました。私たちの多くは、人生の旅路において励ましてくれたり助けてくれたりした人から影響を受けたり、影響を与えたりしたことがあるかもしれません。また、聖書や歴史の中で誰かのことを読んで影響を受けたこともあるかもしれません。 あなたが覚えている人は誰ですか?今日のあなたをもたらした人生の聖人は誰ですか? 私たちは今日、これらの聖人を思い出すことができ、記憶はしばしば希望をもたらします。 よく知られている聖人としては、アウグスティヌス、アビラのテレサ、マルティン・ルター、ジョン・ウェスレーとその母スザンナ、ハリエット・タブマン、オスカー・ロメロ、賀川豊彦とその妻ハルコ、そして1981年に東京でお会いすることができたマザー・テレサなどがいます。これらの人々は皆、主を愛し、神に召されたと感じたことを実行しました。 また、個人的に触れた人や希望をもたらした人以外には知られていない聖人もいます。あなたはその中の何人かを覚えていますか? 静かな聖人たちがいます。私たちの教会やコミュニティの舞台裏で奉仕する謙虚な聖人たちです。 もしかしたら、今、そのような人たちのことを思い出すことができるかもしれません。 私たちは、親戚、友人、同僚、先生、隣人など、人生の中でたくさんの人に出会います。 その中で、記憶に残る人がいるのはなぜでしょうか。 私は、もうこの世にいない聖人たちのことを考えます。 母、父、2人の兄、妹の夫、親しい友人、息子たちのゴッドマザー、チャック牧師などです。 これらの聖人たちは私の人生に様々な形で影響を与えてくれたので寂しい限りです。 諸聖人の日曜日は彼らを思い出す時です。 ある人にとっては、亡くなった人を思い出すことは悲しみと許しについて考えるときかもしれません。 誰かを失った悲しみの一部には、その人と十分な時間を過ごせなかったかもしれない、人によっては期待を裏切ってしまったかもしれないと感じるすべてにおいて自分自身を許すことが含まれています。 電話に出なかったこと、自分の最も良い姿ではなかったこと、もっと優しく、もっと我慢できたはずなのにと思うこともあるでしょう。 また、愛する人と最後にハグをしたり、おしゃべりをしたり、一緒に最後の食事をしたりしたかったと思う人もいるでしょう。このような経験をされた方はいらっしゃるでしょうか? もしそうであれば、今日は思い出を振り返る日になるかもしれませんが、嘆き悲しむあなたのそばに神がおられることを実感し、また、あなた自身を許す日になるかもしれません。生においても、死においても、そして死後の人生においても、私たちは一人ではありません。神に感謝します。 私たちは神の聖人となり、主に従って人生を精一杯生きようではありませんか。神の恵み、愛、思いやり、寛大さが私たちを通して輝き、私たちから周りの人々に流れ出るように、主が私たちを使って他の人々に手を差し伸べ、奉仕してください。 私たちは、過去の人々や今私たちを鼓舞し、励ましてくれる人々に刺激を受けながら進んでいきましょう。いつの日か、私たち自身が、偉大な証人の雲である聖人たちに加わることを知っています。 祈りましょう。 全能の神よ、その民は私たちの主キリストのからだである一つの聖なる教会の中で結び合わされています。あなたの御子、私たちの主イエス・キリストによって、私たちがあなたの祝福された聖人たちの信仰と献身の生活に従うことができ、あなたを愛する者のために用意された言葉に表せない喜びを知ることができるよう、恵みをお与えください。アーメン |
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May 2024
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