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選ばれた者

  • 5月11日
  • 読了時間: 12分

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「選ばれた者」

ペテロの手紙第一 1:1–2 

説教者:Mark Bartsch牧師 神戸ユニオン教会 2025年5月11日


ペテロの手紙第一の説教シリーズを始めるにあたって、ページの文言を読むだけでなく、この手紙に名前を冠している人物、ペテロについて考える時間を取りたいと思います。

ペテロは、聖書の中でも最も親しみやすい人物の一人です。彼は情熱的で衝動的——時には勇敢で、時には恐れていました。信仰において輝かしい瞬間を持ちながらも、あきれるような失敗を犯します。正直に言って、だからこそ彼から学ぶことがとても力になるのです。だからこそ、私達は彼に共感できるのです。ペテロは、すべてを完璧に理解していた人ではありませんでした。洗練された指導者でも、神学の天才でもありませんでした。(彼は漁師であり、パウロのような学者ではなかったのです!)彼は「でしゃばり続けた人」「出鼻をくじかれた人」でした。主イエスはペテロが育つように何度も何度も寄り添い教え込んだのです。


昔、アルコール依存症の自助グループのリーダーをしていた友人がいました。別の友人がそのグループに参加していましたが、何度も大きな失敗をします。リーダーの友人は、その友人についてこう言いました。「彼は失敗するけど、必ず戻ってくる。」ペテロもそうでした。正直なところ、私はパウロにはあまり共感できません。彼はあまりにも賢く、完璧に見えるからです。パウロもコリント人への手紙第二で「肉体のとげ」について語っていますが、それが具体的に何だったのかは分かりません。(もちろん、パウロを軽んじるつもりは全くありません!)でもペテロなら、私は分かるのです。最近クリスチャンになった知り合いがこう言いました。「主イエスが大好きです。主イエスは私の主です。パウロも尊敬しています。彼は本当に賢いから。でも、私はペテロに親近感を持ちます。彼に冗談を言っても笑ってもらえそうな気がします。」よく考えてみてください。そんな彼を、主イエスは選び、そばに置かれたのです。もしペテロのような人が主イエスに受け入れられるなら、私達も受け入れられるのです。すべては、主イエスがペテロを漁の最中に見つけたところから始まりました。ペテロはごく普通の仕事をしていた普通の男でした。しかし、主イエスは彼を特別な使命に招かれました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」ペテロの最初の反応は、主イエスの足元にひれ伏して言うことでした。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)これは、預言者イザヤが「この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。…」と言ったことに似ています。(イザヤ6:5)それでも、イザヤもペテロも召し出されました。そして、あなたも召されています。


ペテロの歩みは、一直線ではありませんでした。彼は多くのことを正しく行いましたが、たくさんの間違いもしました。主イエスが弟子たちに「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と尋ねたとき、ペテロはこう答えました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)主イエスはペテロを褒め、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」とおっしゃいました。素晴らしい瞬間でしたね!しかし、その直後、ペテロは主イエスに十字架への道を思いとどまらせようとし、主イエスに「下がれ、サタン。」と叱責されます。(マタイ16:23)ペテロが悪だったからではありません。あの瞬間、彼は神の救いの計画を妨げようとしていたからです。彼はまだ、十字架が敗北ではなく、勝利であることを理解していませんでした。ペテロの物語には、そんな瞬間がたくさんあります——口を滑らせる発言、大胆な宣言、そして素早い失敗。最もつらい瞬間は、主イエスが捕らえられた夜でしょう。ペテロはこう誓っていました。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)しかしその夜、ペテロは三度主イエスを知らないと否定しました。鶏が鳴く前に。そのような失敗をすると、人は打ちひしがれます。しかし主イエスは再び、彼に恵みをもって出会われます。もしあなたも主イエスのもとに来て、自分の罪を悔い改めるなら、主イエスはあなたをも赦してくださいます。パウロはこう励ましています。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(コリント人への手紙第二 4:8–9)


復活後、ガリラヤ湖畔の静かな朝、主イエスはペテロを呼びました。火が燃え、魚が焼かれています。主イエスが、漁のできなかった弟子たちのために朝食を作っておられたのです。(ここにも一つ説教できそうなテーマがありますね!)そして主イエスはペテロに尋ねます。「私を愛しますか。」三度も。ペテロの三度の否認に対して、三度聞かれました。これはペテロを恥じ入らせるためではありません。彼を回復し、癒し、思い出させるためでした。「お前はまだ私のものだ! まだ召されている! やるべき仕事がある! 私の羊を養いなさい。」

この手紙と彼の宣教活動は、その召しに応えるものなのです。その後のペテロは、使命に生きる男となりました。完璧ではありません。しかし、忠実な人でした。ペンテコステの日、初代教会の最初の説教をしたのはペテロでした。「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身が承知のことです。神の定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえなかったからです。」(使徒の働き2:22–24)信じられないかもしれませんが、そのわずか50日前、ペテロは恐れて鍵をかけた部屋に隠れていたのです。50日間で神が心に働きかけるなら、驚くべきことが起こり得ます。かつて若い女性の前で主イエスを知っていることすら恐れた男が、今や堂々と路上で福音を伝道しているのです。その日、何千人もの人が信仰に導かれました。それが贖いの力です。それが、神に「はい」と応答する壊れた人々を通して働く聖霊の力です。

教会の伝承によれば、このペテロは後にローマで十字架にかけられました。しかし、彼は「主と同じ方法で死ぬには値しない」として、逆さに十字架につけられることを願ったと言われています。ペテロの影響はそこで終わりませんでした。マルコの福音書は、実際にはペテロの証言をマルコが書き記したものだと考える学者が多いのです。(ちなみにマルコ自身もかつて失敗して、パウロとバルナバの宣教チームから外された過去があります。)ここにも、神が欠けだらけの人々を用いてご自分の完璧な計画を成し遂げるというパターンが見えます。これは私達全員にとっての「良い知らせ(グッドニュース)」です。


昔、ある賢い人が私にこう言いました。「聖書は不完全だから信じられない。」彼はギリシャ語の文体と文法の違いから、「ペテロ第一とペテロ第二は同じ人が書いたとは考えにくい」と言いました。私は言いました。「知ってるよ。」そして説明しました。「私はペテロがこの二つの手紙を自分の手で書いたとは思っていません。おそらく彼は両方とも口述し、筆記し、異なる書記たちがそれをギリシャ語に翻訳したのだと思います。でも、それでメッセージの真実性が損なわれるわけではありません。私が英語で説教して、二人の異なる人が日本語に訳したとします。少し文体が違っても、メッセージの内容は変わりません。むしろ、それはペテロの忠実さを示していると思います。彼は言語の壁によって自分の召命が妨げられることを許さなかったのです。

それでは、今日の本題に入りましょう。

「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビティニヤに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」ペテロは、この手紙を遠く離れた古い友人たちに宛てて書いているように始めています。しかし、これは単なる友人への便りではなく、彼らが本当は誰であるのかを思い出させるものです。そしておそらく、私達も今日それを必要としているのではないでしょうか。この世界の中で、私達はよく居場所のなさを感じます。私は日本に長く住んでいます。普段はとても普通に感じますが、時々誰かの言動や自分の問題の感じ方によって、「ああ、自分は本当に外国人なんだな」と感じることがあります。2年前にアメリカに帰ったとき、「やっと帰ってきた」と思うかと思いましたが、むしろ日本にいるときよりもよそ者のように感じました。もしかしたら、私はアブラハムのような旅人なのかもしれません。私の本当の家、あなたの本当の家は場所ではなく、キリストの中にあるのです。キリストの内にいるなら、私達はもはや「ガイジン」ではなく、いと高き神の子どもなのです。


ペテロは、手紙の受け手たちに、そして私達にも思い出させてくれます。「あなたがたは知られている。選ばれている。もっと大きなものの一部である。あなたがたは所属している。」

ペテロは彼らを「選ばれた寄留者たち」と呼んでいます。とても印象的な言葉の組み合わせです。「選ばれた」神によって選ばれた者。「寄留者」この世界に馴染まない者。どうしてその両方でありうるのでしょうか?ペテロが語っているのは、小アジア(今のトルコ)に散らばっていたクリスチャンたちです。彼らは文字通り散らされていましたが、ペテロは言います。彼らの本当のアイデンティティは霊的なものであり、この世は彼らの本当の故郷ではない、と。


もしあなたが、価値観や信仰、希望のゆえにこの世界に馴染めないと感じたことがあるなら、それは間違いではないとペテロは言います。それは、あなたの召命の一部です。壊れたこの世で、私達が完全に「居場所がある」と感じることはないのです。私達は「寄留者」であると同時に、「選ばれた寄留者」なのです。忘れられたのではありません。偶然ではありません。神に選ばれたのです。今、孤独に感じるような状況の中を歩んでいる人もいるでしょう。信仰のゆえに、何かを失っているように感じる人もいるかもしれません。ペテロの言葉は慰めになります。「あなたは、神が置かれたその場所にいるのです。あなたは神のものです。」そしてペテロは、私達のアイデンティティをさらに深く示します。「父なる神の予知によって選ばれた。」この「予知」とは、ただ先に知っていたという意味ではなく、神が私達を知っておられたという意味です。私達が生まれる前、物語が始まる前から、神は私達を知っておられ、愛しておられたのです。「あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。」詩篇139:13これは偶然の産物ではありません。個人的で、意図された愛です。神は私達の信仰に反応したのではなく、先に私達を招いてくださったのです。私達の弱さやさまよい、失敗をすべて知った上で、私達を「自分のもの」と呼んでくださいました。ペテロはさらに続けてこう言います。「御霊によって聖なるものとされている。」ここで言う「聖なるものとされる」とは、神の目的のために取り分けられ、キリストの似姿へと変えられていくことです。これは一度きりの出来事であると同時に、信者の生涯にわたって続くプロセスでもあります。


聖霊は、信じた瞬間に一度だけ経験する存在ではありません。聖霊は絶えず私達のうちに働いておられ、キリストに似た者となるよう私達を形作ってくださいます。聖なるものとされるというのは、私達がもっと努力することではなく、内におられる御霊が私達を整えてくださることなのです。気づきを与え、罪を示し、慰め、成長へと導いてくださいます。それはプロセスです。ある日は成長を感じ、またある日は後退しているように感じます。でもペテロは言います。たとえ見えなくても、御霊は働いておられるのです。そしてこれらすべて選ばれていること、聖められていることは、ある目的へとつながります。それは「主イエス・キリストへの従順と、その血を注がれること」です。「従順」という言葉は重く響くかもしれませんが、ペテロにとってそれは喜びです。私達を最初に愛してくださった方との関係の中で生きること。恵みに応える信頼です。「血を注がれること」という表現は、旧約聖書の契約において血が注がれて関係が確立された(出エジプト記24章)ことを思い出させます。ペテロは言っています。「主イエスの血は、あなたと神との関係を確かなものとする。あなたは清められた。あなたは神のもの。誰もその絆を断ち切ることはできない。」


パウロはローマ人への手紙8章38-39節でこう言いました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」従順は、神の愛を得るための手段ではありません。従順とは、神の愛の中に生きること。そして私達が失敗するとき(必ずあります)、主イエスの血はなおも私達を覆ってくださるのです。ペテロは挨拶の最後に祈りをもって締めくくります。「恵みと平安があなたがたにますます豊かにあるように。」少しの恵みや、わずかな平安ではありません。増し加えられる恵みと平安です。ペテロは「選ばれた寄留者」として生きることが大変であることを知っていました。それは人の心をすり減らすのです。だからこそ、彼は神の賜物があふれるように祈ります。それは私達を支えるのに十分であり、さらに余るほどなのです。


たった二節の中に、ペテロは私達のもアイデンティティを示します:

  • あなたは選ばれています。

  • あなたは知られています。

  • あなたは聖められています。

  • あなたは主イエスの血によって清められています。

  • あなたはあふれる恵みと平安で祝福されています。

今日どこにいても、世界の中で自分の居場所をどう感じていても、ペテロはあなたに思い出させてくれます。

あなたは神の愛によって置かれた、その場所にいるのです。勇気を出しなさい。あなたは神のものです。


祈りましょう。


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