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主イエスだけが潤す渇き

  • 10月5日
  • 読了時間: 12分
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「主イエスだけが潤す渇き

ヨハネによる福音書 7章1節-13節

説教者Mark Bartsch牧師

神戸ユニオン教会

2025年10月5日


ヨハネによる福音書7章に入る前に、主イエスの時代の文化について理解しておく必要があります。この章の出来事は仮庵の祭り(またはスコット)の期間中に起こりました。これは三大巡礼祭の一つであり、エルサレムから一定の距離内に住むユダヤ人は参加することが期待され(命じられ)ていました。どこからが「義務的」な距離になるか議論はあったかもしれませんが、レビ記23章で主によって定められたこの祭りの重要性について異を唱える人はいませんでした。

この祭りには二つの目的がありました。一つは秋の収穫を祝うこと(感謝祭を想像してください)。もう一つは回想の時でした。荒野の年月の苦難にこだわるのではなく、その旅路における神の真実な備えを喜ぶためです。

興味深いことに、神は、まだ荒野をさまよっている人々、つまり家も農場も、祝うべき収穫さえない人々に、レビ記の中でこの祭りを制定されました。しかし神は、彼らが土地と畑を持つ日が来ることを、すでに指し示しておられました。エレミヤ書29章11節が私達に思い出させるように、「わたしは、あなたたちのために立てている計画をよく知っている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与える、と主は言われる。」同時に、神は未来の世代にも振り返るよう呼びかけておられました。彼らがかつて幕屋や仮の住まいに住み、完全に神に依存していたことを思い出すようにと。

これは信仰の「すでに、しかし、まだ」という大きな緊張関係の一つを捉えています。神はすでに民に未来を約束していましたが、彼らはまだ待機の中で生きていました。それは、おなじみの詩『砂の足跡』思い出させます。その中で、一人の人が自分の人生を振り返り、最も困難な時期には足跡が一組しかなかったことに気づきます。彼は主に尋ねます。「なぜ、あの時、私を置いて行かれたのですか?」すると主は答えられます。「その時こそ、わたしがおまえを背負っていたのだ。

神は私達にこの約束を与えてくださいます。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(ヘブライ人への手紙13章5節)。良い時だけでなく、悪い時だけでなく、いつでもです。この約束が真実でないと感じるのは、私達が自由意志を持っているために、神を拒否してその関係から立ち去るときだけです。それは、神があなたの問題に異議を唱えないという意味ではありませんが、神はあなたと共にいてくださるでしょう。


すでに、しかし、まだ

スコット(仮庵の祭り)は8日間続きました。最初の日と最後の日が安息日であり、週を「聖なる集会」、つまり神のために設けられた黙想的な安息で締めくくりました。間の日々は、棕櫚の枝を振ったり、果物を食べたり、収穫の恵みを喜んだりする祝賀で満たされていました。

しかし、ここがです。彼らは恒久的な家の快適さの中から祝うのではなく、共同体として一緒に仮の住まいスカー)に住まなければなりませんでした。

スコットは、イスラエルが荒野にいた時代を記念するものでした。ここで質問です。神はイスラエルが荒野をどれくらいの期間さまようことを意図されていたでしょうか?

それは40年ではありませんでした。たった2年間の予定でした。残りの38年間は、彼らの不信仰のために加えられたものです。

このように考えてください。エジプトでの約400年後、神はご自分の民を一種の訓練所として荒野に導かれました。兵士は戦場に送られる前に、まず訓練を受けます。それは厳しさ、規律、そして一体感を築く時間です。誰も訓練所を楽しむ人はいませんが、それはアイデンティティと人格を築き上げます。それを神が人々に荒野で行っておられたことです。その2年間で、神はモーセにトーラー、すなわち律法の五書を与えられました。それは、ご自分の選ばれた、聖なる民であることの意味についての集中講座のようなものでした。

2年目に、イスラエルはカデシュ・バルネアと呼ばれる場所に来ました(民数記13章)。モーセは神が約束された土地に12人の偵察を送り込みました。彼らは40日後に戻ってきました。そのうちの10人が恐ろしい報告をしました。「人々は強すぎる、城壁は高すぎる。私達に望みはない。」

ヨシュアとカレブだけが、神がその土地を与えてくださると信じました。しかし、人々は二人の代わりに十人の声を聞きました。彼らは信仰ではなく恐れの中で生きました。彼らはモーセが前進を導くなら彼を傷つけるとさえ脅しました。この不信仰のために、神は彼らの荒野の旅を38年間延長されました。

ですから、ほとんどの祝日が大きな勝利を祝うのに対し、スコットは異なります。それはイスラエルの失敗、彼らの不信仰を思い起こす祭りです。しかし、その核心は、彼らの失敗を強調するだけでなく、神の真実さを強調しています。彼らが神を拒否した後、神は彼らに食べ物を与えるのを止められたでしょうか。いいえ。彼らを守るのを止められたでしょうか。いいえ。彼らを導くのを止められたでしょうか。いいえ。彼らを愛するのを止められたでしょうか。いいえ。旧約聖書は何度も同じ物語を伝えています。私達が真実でなくても、神は真実であられるのです(テモテへの手紙二2章13節)。放蕩息子のたとえ話(ルカによる福音書15章)の父親のように、神はなお見ておられ、待っておられ、ご自分の民が帰ってくるのを切望しておられました。スコットは、イスラエルが約束の地に入ったとしても、彼らは心の中ではなお旅人であり、神に依存することを学び続けていることを思い出させました。仮の幕屋に住むことについてのこの教訓は、私自身の家族の歴史も思い出させます…


仮の幕屋

私はこの祭りを考えると、祖父のことを思い出します。私の家族(両親とも)はロシアに住んでいたメノナイト教徒にルーツがあります。宗教的迫害のために、彼らはロシアから逃げなければなりませんでした。彼らは農場、家、生計手段、すべてを失いました。逃亡中に、多くの人がロシアの兵士、飢餓、そして病気で命を落としました。彼らは戸外で眠り、厳しいロシアの寒さの中でわずかな食料を食べていました。

彼らがついにカナダに到着したとき、私の祖父は一つの決断をしました。二度と外で食事はしないということです。彼にとって、外で食べることは、そのつらい旅と喪失を思い出すことを意味しました。それで、彼はピクニックを嫌がりました。「立派なキッチンがあるのに、なぜ外で食べるのか?」と。しかし、彼は苦難に焦点を当てることで、何かを見落としていました。私が神学校にいたとき、彼は私に言いました。ロシアからの逃亡で起こったことをすべて忘れたいと思う一方で、神はその当時、ご自分の民にとても近くおられたことも覚えている、と。神は彼らを導き、守り、新しい家に安全に連れて行ってくださったのです。そして、それこそがスコットが私達に教えていることです。幕屋は仮のものですが、神の臨在は永久です。この人生という幕屋は仮のものです。神の約束は永久です。

パウロはコリントの信徒への手紙第二5章1節で同じ描写を用いています。「たとえ私たちの地上での住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」

単にこの世界は私達の家ではないということです。私はパスポートを持っていますし、あなたもそうですが、これが私のアイデンティティではありませんこそが私のアイデンティティです。私は日本に住んでいるかもしれませんが、神の王国へ向かっている途中です。あなたの仕事、アパート、さらにはあなたの体も、これらは幕屋のようなものです。今は有用ですが、永遠ではありません。私は時々、ここ日本でよそ者のように感じます。また、北米に戻ったときもよそ者のように感じます。神が私を本当の家に呼ばれるまで、私はいつもそうだろうと分かっています。それは良いことなのかもしれません。

仮の世界に、永久の王国を築こうとしないでください。先週、私は変容について話しました。そのとき、イエスは肉体的に太陽のように輝き、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言われました。ペトロは言いました。「これは素晴らしい、ここにみんなが来られるように小屋を建てましょう!」主イエスはそれをあまりにもばかげていると感じられたので、彼に答えさえしませんでした。イエスは私達に旅路を受け入れるよう呼びかけておられます。軽やかに、感謝して生き、その建築家であり建設者である神を持つ都(ヘブライ人への手紙11章10節)に目を向け続けてください。


主人のタイミング(ヨハネによる福音書 7章1節-13節)

これが背景です。この箇所で、イエスは文字通り、獅子のねぐらに足を踏み入れています。ヨハネは1節で私達に伝えています。「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。」彼は、ご自分に対する暗殺計画があることを知っています。

彼の異母兄弟たちは、祭りに参加するよう彼に迫りました。5節に記されているように、「兄弟たちもイエスを信じていなかったからである。」とあり、彼らは主イエスを嘲笑っています。「祭りに行け、自分を世間に見せつけろ!本当に自分が言うような者なら、公の場に出ろ!」と。彼らがその陰謀に加わっていたかどうかは分かりませんが、旧約聖書でヨセフの兄弟たちが彼に対して陰謀を企てたのと非常によく似ています。

主イエスは、についての区別をもって彼らに答えられます。「わたしの時はまだ来ていません」(6節)。

ギリシャ語には「時」を表す二つの主要な単語があります。

  • クロノス(Chronos): 通常の、刻々と過ぎる時間。瞬間の連続。これは主イエスの兄弟たちが生きる時間です。彼らの時はいつでもここにあります。

  • カイロス(Kairos): 神が定められた、完璧な時。決定的な行動の瞬間。これは主イエスが生きる時間です。

主イエスはカイロスによって生きられました。彼の奉仕、彼の苦しみ、彼の十字架、彼の復活、そのすべてが父の時計の上で起こりました。だからこそ、彼は何度も「わたしの時はまだ来ていません」と言うことができたのです。

今、あなたは癒やし、方向性、突破口を待っているかもしれません。神があなたの人生において、公然と大きな方法で行動するのを、あなたは焦っているかもしれません。覚えておいてください。神の遅れは、神の拒否ではありません。神は遅すぎることも、早すぎることもなく、常に時間通りです。私達は主人のタイミングを信頼する必要があります。

主イエスは結局、祭りに上られましたが、兄弟たちが要求したような公的な方法ではありませんでした。彼は静かに、彼らのタイミングではなく、神のタイミングで上られました(10節)。彼は祭りの真ん中、最初の群衆が去った後まで待ってから、神殿で教え始めました(14節)。

さて、祭りのクライマックスに飛び移りましょう。それはスコットの最後で最も偉大な日です。これは儀式の中で最も重要な部分です。祭司はシロアムの池から水を運び、それを祭壇に注ぎます。これは、神が荒野(同じくカデシュ・バルネア)で岩から水を与えられたことを思い起こし、雨のための祈りを捧げる劇的な行為でした。雨は祝福を意味しました。

そして、その瞬間に、主イエスは立ち上がって大声で叫ばれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになります。」(37節-38節)。

なんと大胆なことでしょう!彼はまさに水注ぎの儀式が行われている場所に立って、「あの水はわたしを指し示している。わたしこそが真の源だ!わたしこそが渇いている人々への祝福だ!」と本質的に宣言しておられたのです。


私達の真の糧を見つける

主イエスの宣言は、奥深い招きです。彼は私達の深い、霊的な渇きを見ておられます。この仮の世界では決して満たされない、あの満たされない憧れです。祭司によって注がれた水は象徴であり、一瞬の回想と希望でした。主イエスは、その瞬間に踏み込み、ご自分がその象徴が指し示していた実体であることを宣言されました。彼は、ただ渇きを潤すだけでなく、私達の中から流れ出る命の川へとそれを変える、究極の生ける水なのです。

私達は皆、仮の幕屋の中に生きており、私達自身のものよりも遥かに偉大な真実さに頼っています。私達は永遠の命の約束、神が近くにおられ、常に存在し、私達が失敗しても決して見捨てない関係への招きを与えられています。その関係は、すべての霊的な必要を満たす方、イエス・キリストを通して私達に提供されています。

今、パンと杯を受けるために心を整えるにあたり、この力強い瞬間を思い起こしましょう。主イエスの体は裂かれ、その血は注がれました。それは、私達が単に神の真実さを思い出させられるためだけでなく、文字通り生ける水を私達自身の中に取り入れるためです。渇いた状態で、満たされる準備をして、そしてその命の川を世界に運び出す準備をして、この食卓に来ましょう。お祈りしましょう。



話し合ってみましょう。


  • 「すでに、しかし、まだ」の緊張関係: あなた自身の生活や今日の教会の生活の中で、この緊張関係を最も強く感じるのはどこですか。 仮庵の祭り(仮の幕屋に住むこと)は、その緊張関係を乗り切るのにどのように役立つと思いますか。


  • 失敗と神の真実さ: スコットは、イスラエルの失敗(不信仰による荒野での38年間の追加の年月)を思い出しますが、究極的にはその間の神の持続的な真実さを強調します。あなた自身の失敗や信仰の欠如が困難な道をもたらしたけれども、神の支える真実さがなお明らかだった時を分かち合えますか。 このことから、神の愛についてのあなたの理解は新鮮になりましたでしょうか。


  • 真の渇きと真の源: 主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と宣言されます。あなたやあなたの周りの人々が、一時的なもの(仕事、地位、所有物など)で満たそうとしている。「渇き」とはどのようなものですか。 その一時的な源から離れ、今週、「生ける水」である主イエスのもとに来るということは、実際にはどのようなことのように見えますか。




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